(2022年6月15日)
今朝の毎日新聞朝刊2面「水説」(古賀攻・専門編集委員)を一読して驚いた。「『ロシアの日』を巡る話」という表題のコラム。鳩山由紀夫という人物に対する評価を変えざるをえない。
6月12日は、「ロシアの日」であった。ロシアにとっての建国の日である。ロシアは侵略戦争のさなかに、「ロシアの日」を迎え、世界の各地で「ロシアの日」を祝う催しを行った。
東京では、当日が日曜なので平日の9日(木)、麻布台のロシア大使館での開催となった。例年だと各国の外交官ら1000人以上でにぎわうレセプションだそうだが、今年は200人程度だったという。さもありなん。
そこで「元日本国内閣総理大臣」の肩書で紹介された、主賓・鳩山由紀夫がこう挨拶したという。
「大事なことは、物事の本質を見極める目を持たなければならないということでございます」「プーチン大統領はウクライナがNATO(北大西洋条約機構)に入らないよう、東部への軍事活動をやめるよう協定を結ぼうとしましたが、アメリカは一顧だにせずに拒否し、たまりかねてついに戦争になってしまいました」
鳩山由紀夫の目にだけは、物事の本質が見極められているそうだ。その本質とは、ロシア対ウクライナの戦争の原因は、もっぱらウクライナとアメリカに帰せられるべきもので、戦車を連ねて国境を越えて軍事侵略し、他国の国民に対する殺戮を重ねたロシアの側にはないごとくなのだ。「たまりかねてついに」「やむにやまれぬ」開戦だとされている。
この鳩山コメントをどう評価すべきだろうか。まさか、「日本社会がロシア糾弾一色に染まっているときの、勇気ある少数意見の吐露」ではあるまい。ロシアに対する、みっともない阿諛追従と言わざるを得ない。侵略戦争を開始したという一点において、ロシアの有責は明白である。いささかも、これを免責してはならない。
古賀は、鳩山の言を「日米開戦時の旧日本軍とそっくりだ」と評している。なるほど、対米(英蘭)開戦を事実上決めた1941年9月6日の「御前会議」での天皇(裕仁)が口にしたという「四方の海みな同朋と思う世に など波風の立ちさわぐらん」を思い出させる。この歌、祖父・睦仁の作。その引用である。
波風の張本人が、「など波風の立ちさわぐらん」と言ってみせているのだ。まるで、オレが悪いんじゃないみたいに。オレは、「四方の海みな同朋」と思っているのに、オレの真意を汲もうとしない相手が悪い、というみっともない弁解である。鳩山は、プーチンも裕仁と同じ想いと察したのだろう。
古賀の文章は厳しい。「どんな背景事情があるにせよ、ロシアの行為は絵に描いたような国連憲章違反だ。しかも『我々の報復攻撃は稲妻のように素早い』と露骨に核兵器で脅す国などロシアと北朝鮮以外にない」「過去のいきさつをことさら強調し、ロシアの過剰で独りよがりな国防観を『個性』であるかのように扱うことは、ロシアなりの大義をおびき寄せる。それは、何の落ち度もなく殺された人びとへの追い打ちにほかならない」という。まったくそのとおりだ。
だが、古賀の筆はそこで終わらない。「戦争を終わらせるには、高度に政治的な『妥協』が必要になる」という。明言はないが、もしかしたら鳩山には、ロシアを持ち上げておいて、プーチン説得に動く思惑があるのではないか、と示唆しているようにも読めるのだ。
もし、それに成功すれば、あらためて鳩山由紀夫という人物を評価し直そう。それなくしては、単なるプーチン迎合の「ゴマすり」としか言いようがない。
(2022年6月14日)
途中で小雨がぱらつきましたが、きょうは国民救援会中央本部の方も参加していただき、総勢17名の賑やかな街宣になりました。このくらいの人数になると、道行く人の注目度も上がるような気がします。参院選間近で、弁士も、プラスターを持つ人も、署名板を持つ人も、それぞれ元気いっぱいの声が本郷三丁目の交差点に響き渡りました。
マイクはロシアによるウクライナへの軍事侵略を糾弾し、火事場泥棒の如く軍事力強化を叫ぶ国内の翼賛勢力を弾劾しました。
ウクライナ侵略に乗じて「敵基地攻撃」「軍事費2倍化」「憲法9条に自衛隊を書き込め」「核共有の議論を」という大合唱を痛烈に批判し、”軍事対軍事”の悪循環は結局日本を戦争に巻き込むことになる。あくまで9条を基軸に、政治・外交の力で平和を築こうと訴えました。
さらに、これまでも「異次元の金融緩和」により異常円安をつくり出し、物価高騰を招いたアベノミクスの責任を追及しました。国民生活を守ることと戦争を阻止することが深く結びついた課題であることも訴えました。消費税を下げ、年金の切り下げを止め、高齢者医療負担2倍を止めさせ、戦争のための国債発行を止めることが岸田政権に戦争を止めさせることにもなります。
間近に迫った参院選は日本の行方を決める選挙です。投票に行きましょう。ぜひ、行ってください。このことを強く訴えました。(以上、世話人・石井彰氏)
[プラスター]★プーチンは人殺しをやめろ。女・子ども・老人を殺すな。★プーチンは核をつかうな、日本は核を持ち込むな。★破壊も人殺しもイヤ、憲法9条で平和を。★戦争できる国9条改悪ストップ。★軍事費増強NO、軍拡は戦争を招く。軍備で平和は生まれない。★まず分配、財源は法人税、株配当税。
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近所の弁護士です。私が最後の弁士となります。もう少しお耳を貸してください。明日6月15日に通常国会は閉会します。そして、6月22日来週の水曜日に参議院議員選挙の公示となり、7月10日・日曜日の投開票となります。いつにもまして大切な選挙です。
もしかしたら、その後の3年間、国政選挙はないかも知れません。この参院選に勝てば、政権にとって選挙による制約のない「黄金の3年間」が始まる、という声が聞こえて来ます。政権がなんでもできるという「黄金の3年間」にしてはなりません。
今度の参院選は、おそらくはロシアのウクライナ侵攻中の選挙です。日本の平和主義、国民の憲法意識が試される選挙になります。そして、とんでもない物価高が押し寄せ、国民の暮らしが押し潰されそうになる状況下での国政選挙でもあります。争点になるテーマは大きくは二つ。一つは何よりも平和をどう作るべきかという課題であり、もう一つは国民生活防衛の課題です。そして、この二つのテーマは深く結びついています。
ロシアによるウクライナ侵攻は、明らかなプーチン・ロシアの国連憲章違反の武力行使です。私たちは、全力を上げてロシアの違法を糾弾し、戦争を開始したロシアに対して、即時停戦・軍事侵攻の撤退を求める大きな声を上げ続けなければなりません。そして、侵略戦争の被害に苦しんでいるウクライナの人々への人道支援にも力を尽くしたいと思います。
さらに、私たちの国の、平和主義・国際協調主義を謳う憲法と、その中核にある憲法9条の理念を再確認しなければなりません。今こそ、今だからこそ、日本の平和を願う立場から、しっかりと憲法9条擁護の姿勢を確認しなければなりません。
憲法9条の理解は、これを擁護する人々の間で、必ずしも一義的なものになっていませんが、少なくとも「専守防衛」に徹するべきで、「攻撃的な武器は持たない」「軍事大国とはならない」ことは、長く保守の政権も含めての国民的な合意であったはずです。
ところが、予てから軍事大国化を狙っていた右派勢力が、今を好機と大きな声で「軍事費増やせ」「防衛費を5年以内にGDP比2%以上にせよ」「年間10兆円に」「いや12兆円に」と言い出す始末。
それだけではありません。「敵基地攻撃能力が必要だ」、「それでは足りない。敵の中枢を攻撃する能力がなければならない」「先制攻撃もためらってならない」「非核三原則も見直し」「核共有の議論を」と暴論が繰り返されています。そして、そのような軍事力の増強に邪魔となる「憲法を変えてしまえ」というのです。
これまで歴史が教えてきたことは、「安全保障のジレンマ」ではありませんか。仮想敵国に対抗しての我が国の軍備増強は、必ず仮想敵国を刺激し軍備増強の口実を与えます。結局は、両国に際限のない軍拡競争の負のスパイラルをもたらすだけではありませんか。このような愚行を断ち切ろうというのが、戦争を違法化してきた国際法の流れであり、その到達点の9条であったことを再確認いたしましょう。
平和を守り、その礎としての平和憲法を守ることが参院選の争点の一つとならねばなりません。
もう一つが、今進行を始めている恐るべき物価高です。6月の統計が発表されれば、前例のないインフレが明らかとなることでしょう。物価が上がりますが、賃金は上がりません。物価は確実に上がりますが、年金のカットは既に決められています。医療費も値上がりします。
いろんな要因が考えられますが、基本は政権与党の経済政策の失敗です。アベノミクスは、新自由主義的なイデオロギーに基づいて、大企業の活動を自由化し儲けを保障しました。庶民からむしりとった消費税を財源に法人税の大減税までして、優遇したのです。
まずは大企業を太らせれば、その利益はやがて中小企業や労働者のところにまで、したたり落ちてくるという「トリクルダウン」理論がまことしやかにささやかれました。しかし、結果は惨憺たるものです。大企業の利益は内部留保としてため込まれ、労働者に滴る利益はありません。賃金はまったく上がりません。
アベノミクスで潤ったのは大企業とその株主の金持ち連中ばかりで、結局庶民には生活苦をもたらしただけ。とりわけ、異次元の金融緩和策が、市場に金余りと円の価値切り下げをもたらしてインフレの原因となってしまいました。インフレは、年金生活者と低所得層に深刻な打撃を与えます。何とかしなければなりません。
私たちの投票の選択肢は三つあります。一つは政権を構成している自公の与党勢力です。これへの投票は、軍拡と9条破壊そして生活苦の道です。二つ目が、立憲野党です。9条を守り、軍拡を回避して9条を守り、専守防衛からはみ出さない立場。そして、三つ目が、「与党」ではないが「野党」でも「ゆ党」でもない、「悪・党」というべき維新の勢力。そして、労働組合でありながら資本の手先になり下がっている連合と結託した政治家たち。連合の推薦を受けた政治家に投票せぬようお気をつけください。
ぜひ皆様、大切な選挙にまいりましょう。そして、平和と憲法と暮らしを守るために、立憲野党に投票をしていただくようお願いをして、本郷湯島九条の会からの訴えを終了いたします。
(2022年6月13日)
いまや流行り言葉になってしまった「貯蓄から投資へ」。岸田内閣の大真面目な経済政策なのだが、これは、一昔前からの悪徳業者のセールストークなのだ。「リスクを取らねば損をする」「何もしないのも実はリスク」というのも、昔からの「欺しのテクニック」。それを今や、金融庁も文科省も、そして政権本体まで加わっての大合唱である。なけなしの庶民の資産までがむしりとられようとしている。
まずは、国民全体を投資家にしようという壮大なたくらみが進行している。リスク金融商品のセールスマンは、ネット世界だけでなく、学校教育の現場を占拠しつつある。
「学生時代に投資になじむ機会があれば、社会に出た後の資産形成の大きな力となることでしょう」「学生時代から金融教育を行う背景には、人生100年時代に備えた資産形成の知識を身につけておくべきという時代の流れもあります」「それは、新学習指導要領のテーマである「生きる力」の一部でもあると言えそうです」「教育の過程で学び始めれば、投資はもっと身近なものとなることでしょう」「学生でも銀行や証券に口座を持って、投資信託の積立をすることは可能です」「数百円のおこづかいで投資信託の積立を行う学生も増えるかもしれません」「口座の開設?税金の還付を受けるための確定申告を行えば、より詳しく金融について学ぶことができます」「親世代も子どもたちの見本となるべく、投資になじんでおきたいもの「今まで二の足を踏んでいた人も、積立投資を始めてみてはいかがでしょう」
既に、2022年4月より、新しい指導要領に基づく高校家庭科の「投資教育」授業がスタートしている。事態は深刻と言わねばならない。
「家計管理については, 収支バランスの重要性とともに,リスク管理も踏まえた家計管理の基本について理解できるようにする。その際,生涯を見通した経済計画を立てるには,教育資金,住宅取得,老後の備えの他にも,事故や病気,失業などリスクへの対応が必要であることを取り上げ,預貯金,民間保険,株式,債券,投資信託等の基本的な金融商品の特徴(メリット,デメリット),資産形成の視点にも触れるようにする。」(※高等学校学習指導要領(平成30年告示)「家庭基礎」より抜粋)
今年の新一年生から、高校生は家庭科の授業内で株式や債券、投資信託など基本的な金融商品の特徴を学ぶことになるという。金融庁も『国民一人一人が安定的な資産形成を実現し、自立した生活を営む上では、金融リテラシーを高めることが重要である一方で、そのための機会が必ずしも十分とは言えない』(金融庁「金融経済教育について」)としている。
「さあ、子どもたちに十分リスクは教えたぞ。あとは自己責任だ。どれもこれもカモだ」という政権と財界のホンネが聞こえる。
狙われているのは、家計の貯蓄である。庶民は老後や教育や住宅や不時の備えに貯蓄せざるを得ない。その貯蓄を金融市場に吐き出してもらわなければ資本の利益にはならない。そのため、貯蓄に対する利息は限りなくゼロとし、あるいは実質マイナスにして、投資に誘導しようとする。まずは投資や金融商品のリスクに対する恐怖心を取り除こうというのだ。そのための甘い誘いが始められている。ご用心、ご用心。岸田と政府に騙されてはならない。
政治や行政が本来やるべきことは、老後や教育や事故や病気に心配不要の社会政策の充実である。そうすれば、庶民は「宵越しの銭」をもたなくても済む。貯蓄にこだわる必要はなくなるのだ。
金融商品のリスクについて教育するのなら、悪徳商法と闘ってきた消費者弁護士の意見を十分に取り入れなければならない。投資や投機勧誘がどれほどの不幸を招いてきたかのリアルな語りに耳を傾けなければならない。
そして、きちんと原則を踏まえなければならない。投機にも投資にも、必ずリスクがある。リスクは一定の確率で必ず顕在化する。投機も投資も、働かずして利益に与ろうという非倫理性を本質にする。投機とは、他人の不幸を自分の利益に変えようという反社会的存在である。投資も証券市場での他人との売買で利益を上げるのは、証券市場の規模が一定している現在、やはり他人の損を自分の利益としていると考えねばならない。
投資も投機も賭博と変わらない。国民全部がギャンブラーになれば、この社会の生産活動は成り立たない。
今政府がやろうとしていることは、「カジノで経済活性化」「国民階投資家社会へ」である。不健全で危うい。合い言葉は、「キシダニダマサレルナ」でなくてはなない。
(2022年6月12日)
今朝、浪本勝年さんからメールをいただいた。
「本日(6.12)は歴史学者・家永三郎さん(当時・東京教育大学教授)が1965年6月12日、教科書訴訟を提起した記念すべき日です(もっとも、人それぞれに感慨は異なるでしょうが…)。
小生は当時、大学4年生。宗像誠也先生から、事実上の「予告」を受けていましたので、この日の記憶は鮮明で強いものがあります。
当日入手した夕刊2紙(朝日・毎日)及び家永さんの「声明」の3点をお届けします(添付ファイル参照)。」
念のため、吉川弘文館の「日本史総合年表」を検索してみたら、1965年6月12日欄に、次の記載がある。
「家永三郎、自著の高等学校教科書『新日本史』の検定不合格をめぐり教科書検定制度を違憲とし、国に対する損害賠償請求を東京地裁に提訴。(9月18日「歴史学関係者の会」、10月10日「教科書検定訴訟を支援する全国連絡会」それぞれ結成)」
そして、家永さんの「声明」は、以下のとおり。
声 明
私はここ十年余りの間、社会科日本史教科書の著者として、教科書検定がいかに不法なものであるか、いくたびも身をもって味わってまいりましたが、昭和三十八、九両年度の検定にいたっては、もはやがまんできないほどの極端な段階に達したと考えざるをえなくなりましたので、法律に訴えて正義の回復をはかるために、あえてこの訴訟を起こすことを決意いたしました。
憲法・教育基本法をふみにじり、国民の意識から平和主義・民主主義の精神を摘みとろうとする現在の検定の実態に対し、あの悲惨な体験を経てきた日本人の一人としても、だまってこれをみのがすわけにはいきません。裁判所の公正なる判断によって、現行検定が教育行政の正当なわくを超えた違法の権力行使であることの明らかにされること、この訴訟において原告としての私の求めるところは、ただこの一点に尽きます。
昭和四十年六月十二日
家永三郎
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当時私は、浪本さんより一学年下の文学部社会学科3年生。もっぱらアルバイトに忙しく、授業への出席率は極めて低かった。残念ながら家永教科書訴訟提訴の日の記憶はない。この声明文も初めて見た。へ?、家永さん、当時は西暦でなく、元号使っていたんだ。
この声明の中の、「法律に訴えて正義の回復をはかるために、あえてこの訴訟を起こすことを決意いたしました」という、家永さんの決意がまぶしい。当時の司法は、比較的真っ当だった。田中耕太郎・反共長官(2代目)と石田和外・反動長官(5代目)の最悪時代の谷間にあって、裁判所が「正義の回復をはかる場」としての信頼を勝ち得ていた時代なのだ。
周知のとおり、家永教科書訴訟は大裁判となった。表現の自由・教育の自由・学問の自由をテーマに、憲法原則を支持する勢力と保守政権とがわたりあった。訴訟は、1次から3次にまで至り、最終確定まで32年を要した。
《教育裁判》と《教育の自由を求める市民運動》とが理想的に結びついた典型例が作られ、多くの市民が教育本来のあり方に関心を寄せ、教科書の内容を監視するようになった。教科書訴訟支援運動が、多くのリベラルな活動家を育てた。
第二次訴訟(1967年6月提訴)は、検定不合格を不当として、その取消しを求めた行政訴訟(処分取消訴訟)である。その第一審判決が《杉本判決》として知られるものとなっている。
1970年7月17日東京地方裁判所は、国家の教育権を否定して、家永教科書に対する検定を憲法・教育基本法に違反する、との画期的な判決を言い渡した。この判決は、杉本良吉裁判長の名をとって《杉本判決》と呼ばれている。《杉本判決》を象徴として、家永教科書裁判は、国民各層に教育政策への関心を喚起するとともに、教育権理論を深化させる役割を果たしたと評価されている。また、いくつもの制度の改正も実現している。その、教育権論争を中心とする理論的成果と、教育民主化の運動は、「日の丸・君が代」訴訟とその支援運動に引き継がれている。
(2022年6月11日)
え?、キシダフミオです。自分では、ごくごく普通の日本人としてのレベルの知性と教養をもっているつもりです。前任者と前々任者の知性と教養のレベルが、そりゃひどいものでしかないから、それと比べれば私は穏やかでまともに見えるでしょう。その分、確かに私は得しています。
しかも、前任者と前々任者の経済政策の失敗ぶりがひどいもの。何しろ、この10年国民の賃金がまったく上がらない。こんなことは、他国に例がなく、意識的にやろうとしてもなかなかできることではない。「アべノミクス」は見事にこれをやってのけた。そして、野放図に大量の不安定な非正規労働者群を輩出して、格差と貧困が蔓延する社会を作りあげてしまった。ですから、コロナがなくてもアベ退陣は必然だったのです。
そんな時勢で、私は意識的にアンチ・アベノミクスの立場を鮮明に、「成長よりは分配の重視」「富裕層に厳しい金融所得課税の強化」を掲げて総裁選に打って出て、念願の総理の座をつかんだのです。ところがね、政治は難しい。私の思うようにはならないのですよ。私の耳は、もっぱらアベ陣営の大声を聞かざるを得ない羽目となり、「新しい資本主義」の看板を「骨太の方針」にまとめる辺りで、私の独自色はすっかりなくなってしまった。元の木阿弥、昔ながらの失敗したアベノミクスに先祖返りなのですよ。なんたることだ。
昔から言うでしょ。「国民はそのレベルにあった政治しかもてない」って。多分、今の国民のレベルには、「アべノミクス」「アべノマスク」「…デンデン」の政治がお似合いなのかなって、私がそう思うのですよ。
でも、グチっていてもしょうがないから、私も小技で勝負せざるを得ません。
「『貯蓄から投資』へのシフトを大胆かつ抜本的に進めて、『資産所得倍増プラン』を推進する」ナンチャッテね。個人投資家向けの優遇税制「NISA」の抜本的拡充や、国民の預貯金を資産運用に誘導する仕組みの創設など、政策を総動員して努力はしているのですよ。ね、健気でしょう。
けれど私にはある程度の知性がある。多少は、廉恥の心も倫理感もある。国民の預貯金をリスクある資産運用に誘導するなどという国策を掲げることは、悪徳商法のセールスマンになってしまったような後ろめたさを禁じ得ないのです。
この点の感覚は、安倍・菅の前任者にまったく持ち合わせのないところ。無知の強み、面の皮の厚さのメリットというべきでしょうね。彼ら、政策に失敗しても、違法行為が明るみに出ても、平気な顔ですよね。私にはなかなか真似ができない。
私の政権の看板政策「新しい資本主義」の実行計画を、行動計画原案として発表したのが5月31日。これについて各紙とも、悪評さくさく。まあ、さもありなんというところでしょうな。
社説の表題だけ拾ってみると以下のとおりですよ。6月1日の朝日が「分配重視の理念消えた」、同日毎日が「アベノミクスに逆戻りだ」、同日産経「看板倒れにならぬ政策に」。2日付日経が「成長と安定を将来世代へ着実に届けよ」、3日付東京「『分配』は掛け声倒れか」、4日付読売「方向性が一層不明確になった」。もう少し忖度あってしかるべきとも思うのだがね。
総じて、私が当初掲げた「分配重視」のトーンダウンを批判する論調。朝日は「出てきた計画は、まったくの期待外れだった」「本来、優先的に取り組むべきは、働き手への利益還元である。賃上げに消極的な企業行動を改めさせる手立てこそが、計画の柱になるべきだった」という。毎日も「政策の力点が、立場の弱い人の不安解消から、成長戦略の推進にずれていったように見える」「分配重視はどこに行ってしまったのか」と嘆く。産経までもが、「抜本的に格差是正を図るには、高所得者への富の偏在を抑制できるよう、税制などを通じた所得の再分配を併せて講じる必要があろう。岸田政権はそこまで踏み込もうとはしない」と手厳しい。
ほんとのことを言うとね、「新しい資本主義」ってなんだか私にもよくわからない。もちろん、アベさんよりは私の方が、格段に経済学の基礎には詳しいはず。実はそれが仇になっている。アベさんの無知の強みはここでも発揮されていて、オウムのように「3本の矢」を繰り返していられるんですね。幸せな性分。失政が明らかになっても、同じことを言い続けることが苦痛にならない。とうてい私にはできない芸当。
アベノミクスは、規制緩和とセットの新自由主義的経済政策。目指すところは、成長至上主義。いずれは成長のおこぼれが庶民にもやって来るというんだが、待てど暮らせどおこぼれはやって来ない。替わりにやって来たのは、不安定雇用と格差拡大と貧困。さらには成長すら阻害した。誰が見てもアベノミクスは失敗で、もうダメだ。3本の矢のどれもが折れてしまった。だから、新規まきなおさなくてはならない。私は、アンチの政策をイメージして「新しい資本主義」と言ってみたわけね。
ひとことで言えば、私の言う「新しい資本主義」とは、「奪アベノミクス」ということ。その目玉のキャッチが「分配重視」。そうしなければ、既に失速しているこの国の経済の再生はないし、そうすれば分厚い中間層の底上げで格差の是正もできるし、成長へとつなげることも期待できると考えたのですよ。
ところが、私は甘かった。これからの政策転換で潤うはずの多くの国民の支持よりは、既得権を失う大企業や富裕層の反発が強かった。庶民減税も、金持ち増税も無理。金融所得課税の強化など引っ込めざるを得ない。「成長と分配の好循環」なんて、いったい何を言っているのか、私にも分からなくなった。
はっきり言って、日本経済には展望がない。「脱アベノミクス」「アンチ・アベノミクス」の政策は、自民党政権ではできないからです。大企業と富裕層に支えられた現政権を打破する以外に、分厚い中間層の底上げで格差を是正することはできない。ロンドンのシティーで「インベスト・イン・キシダ」なんてしゃれてみたけど、リターンはない。今度の選挙、大企業幹部と富裕層以外に与党に投票する有権者がいるとは信じられないね。経済再生は、与党惨敗からしかないと思っていますよ。もちろん、これ、オフレコの話しね。
(2022年6月10日)
金曜日には、「週刊金曜日」に目を通す。毎号の巻頭に「風速計」というコラムがあって、まずはここから読むことになる。編集委員7名が持ち回りで書いているが、崔善愛さんの文章からは、知らないこと、気が付かないことを教えられることが多い。
崔さん執筆の同誌4月8日号同コラムの冒頭に次の一文があって、ギョッとさせられる。「引き裂かれる想い」と題されたもの。
「郊外は破壊され焼き尽くされた。ヤシュとヴィシルはおそらく塹壕で戦死しただろう。マルセルは捕虜になったのが見える。おお神よ、あなたはおいでになるのですか。おいでになるのならどうして復讐してくださらないのですか! それともさらなるロシア人の罪を望んでいるのですか! それとも、まさか神よ、あなたもロシア人なのですか!」
これは、ポーランドの作曲家フレデリックショパンが1831年ドイツ・シュツットガルトで書いた日記の一部だという。崔さんは、「『侵略への怒り』それはショパンのどんなに美しい旋律にも宿っている。なぜ歴史はこうも繰り返されるのか」と綴っている。
200年後の今、プチャで、マリウポリで、そしてさらにセヴェロドネツクで、「まさか神よ、あなたもロシア人なのですか!」という怨嗟の声が聞こえる。しかし、崔さんは、ロシア糾弾一色の「正義の声」にも不安を隠さない。このコラムの最後は、こう結ばれている。
「朝鮮半島が再び戦火に見舞われたとき、この国全体が『正義は我にあり』という熱狂に覆われるかもしれない」「ゼレンスキー大統領が日本へ向けて行った演説後、国会議員らが総立ちで拍手するのをテレビで見ながら、こわくなった。」
表題の「引き裂かれる想い」とは、自分の中にある「侵略者ロシアを強く糾弾する想い」と、「『正義は我にあり』という熱狂を危険で警戒すべきものとする想い」との葛藤ということなのだろう。
そして、同誌5月27日号の「風速計」が崔善愛さんの執筆である。「国家に左右されないもの」という表題。そのなかに、次の一文がある。
「2カ月前、劇団制作者らが集う会合の席でこんな意見が出された。
『公演のために準備していた作品の中でロシア民話の部分を割愛することにした』
まるで戦時中の『敵性音楽』扱いだ」
「子供達は絵本の物語を聞くとき、それがどこの国の話なのかなど気にしない。絵本の中の世界に無心に引き込まれていくだけだ」「罪深いのは民話ではない。大人たちが覇権を争い、戦争を仕掛けたこと。そして忘れてならないのはロシアの人々の中にも、平和を愛し、戦争を憎み、戸惑い、嘆く人が少なからずいることだ。
国家に左右されない民の歌、民の震える声に耳をすまそう」
ここにも、ロシア糾弾一色という全体状況へのプロテストがある。私も、崔さんに倣って、国家の大声にかき消されそうになる「民の歌、民の震える声」に耳をすまそうと思う。
(2022年6月9日)
本日の衆院本会議で、立憲民主党提出の岸田内閣不信任案が賛成少数で否決された。現状での否決という結果自体は予想されたところ。むろん、大切なのはプロセスである。この不信任案への対応で各党の姿勢がよく見えてきた。
自民・公明の与党が、反対に回ったのは謂わば当然である。
ところが、国民民主と維新の両党も反対にまわった。これは、あるまじき対応というべきか、「ゆ・党」と「悪・党」にふさわしいありかたというべきか。いずれにしても、その立ち位置を明確にすることとなった。
さらに、れいわ新選組は採決を棄権した。おやおや、この党は国民生活擁護、反権力をウリにしていたはずではなかったか。
結局、賛成は,立憲民主・共産党・社民党となった。
なお、細田博之衆院議長の不信任決議案も同様に、自民・公明に加え、維新・国民民主の反対で否決された。
立憲民主の泉健太は、岸田内閣下での、円安・物価高を「岸田インフレ」と批判した。「補正予算においても経済無策を続け、国民生活の苦境を放置しているのは許されない」と訴えた。
さらに、消費税率の時限的な5%への引き下げや、安倍政権から続く異次元の金融緩和を含む「アベノミクス」の見直しを主張。岸田内閣の看板政策「新しい資本主義」を「分配政策が乏しく、格差を広げるアベノミクスが継続されている」と指摘。「分配を軽視し、格差が拡大させ、国民が分断される」と強調した。
誰もが納得せざるを得ない常識的な主張ではないか。反対派は、これに反論し得たのか。
自民の上川陽子は反対討論で、「ウクライナ情勢などによって、不確実性を増す情勢変化に的確に対応し続けてきた。唐突な不信任決議案の提出は不誠実だ」と反論。公明の浜地雅一は内閣支持率が政権発足時から上がっていることを理由に「国政を安定的に着実に運営する岸田内閣はまったく不信任に値しない」と討論したと報じられている。
いずれも噛み合った反論になっていない。とりわけ、岸田内閣の看板政策「新しい資本主義」について、「分配政策が乏しく、格差を広げるアベノミクスが継続されている」「分配を軽視し、格差が拡大させ、国民が分断される」との指摘に対する噛み合った議論を期待したいところだが、ない物ねだりとなってしまった。
反対討論に立った維新の足立康史氏は「内閣を積極的に信任するわけではない」としつつも、「少数派の野党が内閣不信任を提出し、多数派の与党が粛々と否決する一連の茶番に異議を申し立てると言う意味で、反対を投じる」と述べたという。
この人のいうことは、常によく分からない。意味が伝わらない。それでも分かることは、この党のあまりの不真面目さである。それだけでも、不信任案提出の意味はあったというべきであろう。
一方、共産の笠井亮氏は不信任案に賛成の立場から岸田政権が検討する「敵基地攻撃能力」の保有を「専守防衛の大原則を投げ捨てるものだ」と批判した。これはこれで、あまりに真っ当な対応のコントラスト。
なお、NHKは、立民と自民との討論を、こう整理している。
立憲民主党の泉代表は「国民が物価高で苦しむなか、政府が物価対策を届けていないことで、消費が低迷し、日本経済に打撃となる可能性がある。その事実を国民に伝え、国民の意思によって政治を動かせる限られた機会がこの不信任決議案だ」と述べ、賛同を呼びかけました。
これに対し、自民党の上川幹事長代理は、「情勢の変化に対応し続けてきた岸田総理大臣の決断力や実行力への期待が高まっている。その歩みを止める不信任案の提出は極めて不誠実だ」と反論しました。
立民の問題提起に自民が応え得ているか。議論は内容であって、有権者一人ひとりの判断が大切なのだ。結果としての賛否の票数だけを問題とするのは、民主主義の形骸化であり堕落である。この討論を茶番という輩が、民主主義の何たるかを知ろうとしない者なのだ。
(2022年6月8日)
来週の水曜日、6月15日に通常国会が閉幕する。そして、参院選公示となり、7月10日投開票となる。
有権者の関心事は、けっして憲法改正にはない。そしてコロナでもなくなった。主要な論争点の一つは、日本と世界の平和の構築をどうするかであり、もう一つは今急激に国民生活を襲いつつある物価高である。
再選の投開票まであと1か月、この間に高物価は全ての国民に厳しい生活苦を強いることになる。とりわけ、非正規労働者、フリーランス、年金生活者には深刻である。言うまでもなく、これは天変地異ではない。国民はあらためて、この10年におけるアベノミクスと名付けられた自公政権による経済政策の失敗を学ばざるを得ない。賃金は上がらず、家計は冷え込み、生産も分配も滞って、ひたすらに大企業と金持ちを優遇した減税に励み、その減税を原資とした庶民増税に邁進してきた今日の脆弱な日本経済ではないか。今日の格差と貧困の実態ではないか。
アベ政権も、その後継スガ政権も、アベノミクスの失敗を国民に批判され、目先を変えて岸田現政権となった。「分配重視」「金融所得課税」への言及はそれゆえである。ところが、今岸田は、完全に岸田色を失った。失敗したアベノミクス路線を何の成算も希望もなく、走り続けざるを得ない立場に追い込まれている。このアベ・スガ・キシダ、3代の経済政策の失敗故の生活苦が選挙の争点とならざるを得ない。
本日夕刻、立憲民主党が衆議院に内閣不信任案を提出した。「一貫して無為無策」な政府を追及するものだという。多くの国民の気持ちを代弁するものではないか。もとより、「ゆ党」や「悪党」といわれる連中の賛同は難しいと報道されており、「同調の動きは限定的で、否決される見通し」とされているが、この不信任案は、有権者の支持を得ることができると考えてよい。
毎日新聞によれば、同不信任案の理由は以下のとおりである。
「岸田内閣の『何もしない』ことを安全運転と呼んではばからない厚顔無恥な政権がこれ以上続くのは、日本のためにならない」「『岸田インフレ』は亡国の道である。首相が『令和版所得倍増』の代わりに『資産所得倍増プラン』を掲げたことを『投資信託のコマーシャル』のようで、今この日本で、どれだけの人が乏しい生活費の中から投資にまわす余力があるだろうか」
なお同時に、立憲は細田博之衆院議長に対する不信任決議案も衆院に提出した。
細田氏の不信任理由は、細田氏が衆院議長として「最も不適切な人物」であり、衆院小選挙区定数の「10増10減」に否定的な見解を繰り返し示したことなどを問題視。さらに週刊文春が5月19日発売号以降、女性記者らにセクハラ行為を繰り返していると報じたことについて「あってはならない疑惑」だとし、細田氏が報道を「事実無根」だと全面的に否定していることに関し、「説明責任を果たさない」と問題視したもの。
衆院は明日9日の本会議で不信任2案を審議・採決するが、有権者は各議院の賛否をよく見極めよう。
提出後、立憲の西村智奈美幹事長は記者団に「政治は国民の命と暮らしを守るためにある。岸田内閣はその責任を全く果たしていない」と語ったという。「平和」と「暮らし」、その両者が目前の参院選の争点となってきた。俄然、政権には大きな逆風である。
(2022年6月7日)
ロシアのウクライナ侵攻が始まったのが、2月24日。早くも3月上旬には各地の地方議会でロシア批判の決議が採択されている。多くは全会一致である。3月7日、神奈川県議会には「ロシアによるウクライナへの侵略に断固抗議する決議(案)」が自民党議員から上程され、同日全会一致で成立している。
3月24日には、横浜市議会が、これも自民党提案で「ロシアによるウクライナへの侵略を非難するとともに、国際紛争における武力行使の根絶を求める決議」が成立している。全会一致である。
そして同じ3月24日、横須賀市議会も、自民党提案による「ロシアによるウクライナ侵攻を非難する決議」を賛成多数で採択した。但し、全会一致ではない。
採択された同決議の全文が以下の通りである。
ロシアによるウクライナ侵攻を非難する決議
国際社会の懸命の努力にもかかわらず、2 月2 4 日にロシア軍はウクライナへの軍事侵攻を開始した。
これらは、ウクライナの主権及び領土の一体性を侵害するとともに国際法に違反する行為であり、断じて容認できるものではない。また、その影響はヨーロッパにとどまるものではなく、アジアを含む国際秩序を揺るがす重大な事態であり、横須賀市議会としても看過できるものではない。
政府においては、在留邦人の安全確保と避難民への支援に努めるとともに、国際社会と連携し、あらゆる外交手段を駆使して、ロシア軍の即時撤退と速やかな平和の実現に全力を尽くすことが求められる。
よって、横須賀市議会は、ロシアによるウクライナ侵攻に対し厳重に抗議し強く非難するとともに、ロシア軍が即時に完全かつ無条件で撤退するよう強く求める。
以上、決議する。
この決議に二人の議員が反対にまわった。二人とも右翼でも右派でもない。無所属の市民運動派である。平和運動へのこだわり故の反対ということのようだ。この間の事情が、先頃届いた《非核市民宣言運動・ヨコスカ/ヨコスカ平和船団》からの「たより 330」(発行5月13日)に窺える。
3月・月例デモ出発前集会
ロシアのウクライナ軍事侵攻抗議
私たちの反戦も問われている
という見出し。「ロシアのウクライナ軍事侵攻抗議」は分かり易いが、「私たちの反戦も問われている」は、「何がどう問われている」というのか、けっして分かり易いものではない。それでも、みんな真剣に考えている大きな問題点なのだ。
新倉裕史(月例デモ・リーダー) コロナ感染対策で、1月、2月、月例デモを休みました。口シアによるウクライナヘの軍事侵攻は今も続いていて、反戦の声を上げようと、今月は月例デモの実施に踏み切りました。感染は収まっていないので、総監部前とゲート前での兵士への放送はありますが、商店街はサイレントです。
ロシアの軍事侵攻には抗議の声を上げますが、ウクライナ頑張れが、自分の国は自分で守る、そのためには軍事力も必要だという声も生まれています。私たちの反戦が問われています。ぜひご意見を。
◆ ◆ ◆
市川平(平和船団) ロシアは、ウクライナヘの軍事侵攻以前にも、1990年から 2000年にかけては、チェチェンの独立を弾圧しています。2008年にグルジア、今はジョージアと呼ばれていますが、ここに軍事侵攻し、2014年にはケリミア地域への攻撃とロシアヘの編入。その後も、2015年にはシリアヘの軍事介入と、アメリカと同様に、周辺の国々への軍事侵攻をしてきました。
今、バイデン大統領はプーチン大統領を戦争犯罪人と言いますが、アメリカも同じようなことを繰り返してきている。だから、そんなふうに言う資格はありません。
私たちはこうした大国による軍事侵攻を、どう食い止め ることができるのか。昔、ペンは武器より強し、といいましたが、今はSSNの活用で、個人が世界に向けて情報を発信できる時代です。この「ペン」を大いにに活用して、反戦の発信をしていきましょう。
◆ ◆ ◆
新倉 ロシアの武力による現状変更は、今に始まったことではないという指摘ですが、そのことはしっかりと認識したいと思います。その上で「ロシア許すな!」がナショナリズムを刺激し、反戦が翼賛化したり、軍事化したりする傾向も無視できません。
横須賀市議会で、ロシア抗議の意見書が賛成多数で採決されました。本会議で二人の議員が、この意見書に反対しました。そのお一人、小室たかえ市議がいらしていますので、経過の報告をお願いします。
◆ ◆ ◆
小室たかえ(市議会議員) 先日木曜日が、横須賀市議 会定例会の最終日でした。《口シアによるウクライナ侵攻に抗議する》という決議案が、当日の午前中の議運に自民党から提出されました。私は会派に入っておりませんので議運に席がありません。オンラインで傍聴していましたが、そのときには内容までは確認できませんでした。
ロシアがウクライナに軍事侵攻したこと自体は、本当に許されないことだと思いますが、今朝提出された決議文を、その日の午後に、賛成か反対かというのは、内容が内容だけに、とまどいました。
決議文のなかに、あらゆる外交手段をという文言がありました。あらゆるのなかに武力が含まれるのか、含まれないのか。武力も外交手段という言い方もありますし、そんなことを考えると、私はこれにはそう簡単には賛成できないなと、迷いました。
多くの人が、抗議決議当然でしょという中にあって、賛成できないというのは、正直怖いなという思いもありました。
そんなふうに思っていたところ、小林(伸行)議員が反対討論をしました。その内容は、私が悶々としていた内容といっしょでしたので、小林議員が反対討論を終えて議席に戻ってきたところで、わたしも同感ですと伝え、採決のときには40人中38名が起立をして賛成。私たち二人だけが着席したまま、反対の意思を表明した、ということです。
私の今日の話はつたないものですが、近くホームページに自分の考えをちゃんと載せるつもりです。ありがとうございます。
◆ ◆ ◆
新倉 小林議員の反対討論をネットの中継録画で聞きました。小林さんも、ロシアがしているとはとんでもなくひどいことで、一刻も早い停戦を求めるのは当然のごととしたうえで、問答無用の「正義」が振りかざされていることへの、抵抗としての反対討論だったと思います。お二人の反対票は、重要な視点を私たちに与えてくれていると思います。
市民派議員二人から投じられた《ロシアによるウクライナ侵攻を非難する決議》への反対票は、もちろんロシアによるウクライナ侵攻を免罪しようというものではない。反対票を投じた議員の1人は、「決議文のなかの《あらゆる外交手段を》という文言が武力を含のか含まれないのか。この点が曖昧では簡単には賛成できない」という。
そして、運動体の側は、この反対票を《問答無用の「正義」が振りかざされていることへの抵抗》であり、《「ロシア許すな!」がナショナリズムを刺激し、反戦が翼賛化したり、軍事化したりする傾向への警戒》と評価する。
まだ十分に咀嚼されていないが、重要な問題提起をしているように思う。
(2022年6月6日)
本日、関東甲信地方に梅雨入りの宣言。陰鬱で肌寒い日である。雨風ともに強い。ウクライナの戦況は膠着して停戦の希望は見えてこない。被害の報がいたましい。国内では戦争便乗派の平和憲法攻撃と、防衛費倍増論に敵基地攻撃能力論まで台頭している。私の体調もよくない。憂鬱この上ない本日。ものを考えるのも億劫だし、煩瑣な文章を書く気力もない。昔読んだ小川未明の童話を引用して、本日の責めを塞ぎたい。
たしか、小学校の図書室で小川未明の幾つかの作品を読んだ。そのうちの「野ばら」が鮮明に記憶に残っている。読後感は深刻だった。どうして、人と人とは仲良くできるのに、国と国とは戦争をするのだろうか。国なんかなくなければ人と人とは仲良くできるのか、とも考えた。誰が考えても、戦争はおろかなことではないか。もう、こんなことをやってはいけない。
野ばら 小川未明
大きな国と、それよりはすこし小さな国とが隣となり合っていました。当座、その二つの国の間には、なにごとも起らず平和でありました。
ここは都から遠い、国境であります。そこには両方の国から、ただ一人ずつの兵隊が派遣されて、国境を定めた石碑を守っていました。大きな国の兵士は老人でありました。そうして、小さな国の兵士は青年でありました。
二人は、石碑の建たっている右と左に番をしていました。いたってさびしい山でありました。そして、まれにしかその辺を旅する人影は見られなかったのです。
初め、たがいに顔を知り合わない間は、二人は敵か味方かというような感じがして、ろくろくものもいいませんでしたけれど、いつしか二人は仲よしになってしまいました。二人は、ほかに話をする相手もなく退屈であったからであります。そして、春の日は長く、うららかに、頭の上に照り輝やいているからでありました。
ちょうど、国境のところには、だれが植えたということもなく、一株の野ばらがしげっていました。その花には、朝早くからみつばちが飛んできて集まっていました。その快い羽音が、まだ二人の眠っているうちから、夢心地に耳に聞こえました。
「どれ、もう起きるか。あんなにみつばちがきている。」と、二人は申し合わせたように起きました。そして外へ出でると、はたして、太陽は木のこずえの上に元気よく輝やいていました。
二人は、岩間からわき出でる清水で口をすすぎ、顔を洗いにまいりますと、顔を合わせました。
「やあ、おはよう。いい天気でございますな。」
「ほんとうにいい天気です。天気がいいと、気持がせいせいします。」
二人は、そこでこんな立ち話しをしました。たがいに、頭を上あげて、あたりの景色をながめました。毎日見ている景色でも、新しい感を見る度に心に与えるものです。
青年は最初将棋の歩み方を知りませんでした。けれど老人について、それを教わりましてから、このごろはのどかな昼ごろには、二人は毎日向い合って将棋を差していました。
初めのうちは、老人のほうがずっと強くて、駒を落として差していましたが、しまいにはあたりまえに差して、老人が負かされることもありました。
この青年も、老人も、いたっていい人々でありました。二人とも正直で、しんせつでありました。二人はいっしょうけんめいで、将棋盤の上で争っても、心は打ち解けていました。
やあ、これは俺の負けかいな。こう逃げつづけでは苦しくてかなわない。ほんとうの戦争だったら、どんなだかしれん。」と、老人はいって、大きな口を開けて笑いました。
青年は、また勝みがあるのでうれしそうな顔つきをして、いっしょうけんめいに目を輝やかしながら、相手の王さまを追っていました。
小鳥はこずえの上で、おもしろそうに唄っていました。白いばらの花からは、よい香りを送っていました。
冬は、やはりその国にもあったのです。寒くなると老人は、南の方ほうを恋しがりました。
その方には、せがれや、孫が住すんでいました。
「早く、暇をもらって帰りたいものだ。」と、老人はいいました。
「あなたがお帰りになれば、知らぬ人がかわりにくるでしょう。やはりしんせつな、やさしい人ならいいが、敵、味方というような考えをもった人だと困ります。どうか、もうしばらくいてください。そのうちには、春がきます。」と、青年はいいました。
やがて冬が去って、また春となりました。ちょうどそのころ、この二つの国は、なにかの利益問題から、戦争を始めました。そうしますと、これまで毎日、仲むつまじく、暮していた二人は、敵、味方の間柄になったのです。それがいかにも、不思議なことに思われました。
「さあ、おまえさんと私は今日から敵どうしになったのだ。私はこんなに老いぼれていても少佐だから、私の首を持ってゆけば、あなたは出世ができる。だから殺してください。」と、老人はいいました。
これを聞くと、青年は、あきれた顔をして、
「なにをいわれますか。どうして私とあなたとが敵どうしでしょう。私の敵は、ほかになければなりません。戦争はずっと北の方ほうで開かれています。私は、そこへいって戦います。」と、青年はいい残して、去ってしまいました。
国境には、ただ一人老人だけが残されました。青年のいなくなった日から、老人は、茫然として日を送りました。野ばらの花が咲さいて、みつばちは、日が上がると、暮れるころまで群っています。いま戦争は、ずっと遠くでしているので、たとえ耳を澄ましても、空をながめても、鉄砲の音も聞こえなければ、黒い煙の影すら見られなかったのであります。老人はその日から、青年の身の上を案じていました。日はこうしてたちました。
ある日のこと、そこを旅人が通りました。老人は戦争について、どうなったかとたずねました。すると、旅人は、小さな国が負けて、その国の兵士はみなごろしになって、戦争は終ったということを告げました。
老人は、そんなら青年も死んだのではないかと思いました。そんなことを気にかけながら石碑の礎に腰をかけて、うつむいていますと、いつか知らず、うとうとと居眠をしました。かなたから、おおぜいの人のくるけはいがしました。見ると、一列の軍隊でありました。そして馬に乗ってそれを指揮するのは、かの青年でありました。その軍隊いはきわめて静粛で声ひとつたてません。やがて老人の前を通るときに、青年は黙礼をして、ばらの花をかいだのでありました。
老人は、なにかものをいおうとすると目がさめました。それはまったく夢であったのです。それから一月ばかりしますと、野ばらが枯かれてしまいました。その年の秋、老人は南の方へ暇をもらって帰りました。
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小川未明の作品は、既に著作権の保護期間が終了している。転載自由である。青空文庫本を多くの人に読んでいただきたい。
https://www.aozora.gr.jp/cards/001475/files/51034_47932.html
パロディはいくつもある。下記は、公開されている才能溢れたマンガの一作。
https://rookie.shonenjump.com/series/pGBIkZk5Ffc/pGBIkZk5Ffk
今、この国境をはさんだ二人の兵士の話は、ロシアとウクライナ両国兵士の関係として連想せざるを得ない。両国の国民と国民とが、兵と兵とが、殺し合うほど憎しみ合っているはずはない。プーチンに読ませたいと思うが、無理だろうか。