澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

プーチン・ロシアの蛮行は、大量殺戮であり、大規模強盗であり、都市と建造物の破壊犯罪であり放火でもある

(2022年4月22日)
 ロシアの軍事侵攻によるウクライナの悲惨な事態に胸が痛む。これまで、その名さえ知らなかったマリウポリという都市の存在が、ここ数日特別の意味をもって脳裏を離れない。その市民の深刻な苦悩や恐怖を思わずにはいられない。
 
 4月17日以来、マリウポリのアゾフスターリ製鉄所に立て籠もる守備軍と市民にに対する時間を切った降伏勧告が繰り返され、その都度胸が締めつけられる思いを余儀なくされてきた。いまもなお、その巨大な製鉄所の地下に、砲撃の恐怖と飢餓とに苛まれている多くの人々が身をひそめているという。

 ところが、昨21日突然に様相が変わった。プーチンが、唐突に作戦変更を指示したようなのだ。報道では、プーチンはショイグ国防相にこう述べたという。

 「工業地帯への強襲は、得策とは思えない。中止を命じる。兵士と将校の命と健康を守ることを考えなければならない。地下墓地のようなところをはいずり回る必要はない。ハエ1匹通れないよう、工業地帯を封鎖せよ」「“マリウポリ解放作戦”の完了を祝福する。感謝の意を隊員に伝えてほしい。南部の重要な拠点を制圧したことは成功だ。おめでとう」

 なんというプーチンの言いぐさだろう。「マリウポリ全体では、約10万人が地下シェルターに隠れており、製鉄所地下には2000人が救出不可能な状況」と報じられている。息をひそめて「地下墓地のようなところをはいずり回る」10万の人々を、プーチンは「ハエ」にたとえたのだ。生死の境をさまよっている人々に対して、「ハエ1匹通れないよう封鎖せよ」と言った。それが、プーチンなのだ。

 戦争だから仕方がない、とは言わせない。戦争を起こしたのもプーチンではないか。やむにやまれず起こした戦争だとも、言わせない。プーチンには、自らが起こした戦争での死者や戦争に苦しむ人に対する畏敬の念も、遺憾の気持ちも、憐憫も呵責も何もない。侵略戦争を起こし戦争犯罪を犯す人物とは、このような神経の持ち主なのだ。

 確認しておこう。プーチン・ロシアの侵略行為は、国連憲章に違反の違法行為である以前に、明らかな大量殺戮であり、大規模強盗である。都市と建造物の破壊犯罪であり、放火犯でもある。さらに、おびただしい死体損壊、死体遺棄でもある。これに関しての、いかなる口実も言い訳も許してはならない。

 また、改めて思う。プーチン・ロシアと同様に、これまでのあらゆる侵略も違法である。皇軍の侵略も、ベトナム戦争も、アフガン戦争も、イラク戦争も、イスラエルも…も。「どっちもどっち」で許すのではなく、「どっちも、けっして許してはならない」。アメリカもロシアも、ヒトラーもヒロヒトも、侵略戦争を起こし、戦争犯罪を重ねた国とその指導者は、徹底して断罪されなければならない。

 私に分かることは、侵略者の違法とその悪辣さであって、しかるべき制裁が必要だということである。私に分からないのは、悪辣な侵略行為にどう対処すればよいのかということ。英雄的な徹底抗戦が正義なのか、交渉に妥協してでも停戦して人命を尊重すべきが正義なのか。あるいは、そのような問題の設定自体が間違っているのか。果たして、このような問に正しい解があるのだろうか。

 分からぬままに、ひたすらに胸が痛む。これもプーチンの仕業である。

NHK文書開示請求訴訟次回法廷で、パワーポイントを使って興味津々の解説。

(2022年4月21日)
 NHKと森下俊三(NHK経営委員長)の両名を被告として、NHKの姿勢を問う《NHK文書開示請求訴訟》。その第3回口頭弁論期日が、4月27日(水)14時から東京地裁103号法廷で開かれる。

 この訴訟は、興味津々の進行となっている。これまで意図的に公表を避けられていた問題の経営委員会議事録だが、もしかしたら、この法廷の進行次第で、てNHKのホームページへの公表が実現することになるかも知れない。それが実現すれば、大きな提訴の成果である。この法廷にご注目いただきたい。

 それだけでなく、放送法で義務付けられている経営委員会議事録の公表がなぜ実現しないのか。その責任は、NHK執行部にあるのではなく、もっぱら被告森下俊三ら経営委員会側にある。経営委員会が、禁じられている番組編成に対する露骨な介入の違法を隠蔽しようとしていたことが、ほぼ明らかになっていると言ってよい。

 法廷では、この点をパワーポイントを使って、原告代理人が説明する。ぜひ傍聴をお願いしたい。傍聴券の配布は1時20分からとされている。

 「クローズアップ現代+」の「かんぽ保険違法勧誘問題」報道に端を発した「会長厳重注意の議事録」隠蔽は、放送法違反の違法行為を重ねた本件被告森下俊三の責任だけでなく、これを選任した政権の責任問題を浮かび上がらせている。

 なお、報告集会を参議院議員会館102会議室にて15時30分ごろより開催する。こちらにもぜひご参加をお願いしたい。

 簡単に、これまでの経緯を確認しておきたい。

 本件原告らNHKの報道姿勢を正す市民運動に参加してきた者として、「かんぽ保険違法勧誘問題」報道に対する日本郵政グループ幹部からの介入とこれに呼応した経営委員会の動きにを重大視し、先行する経営委員会議事録開示請求に対するNHKの不開示決定を許せないと考えた。

 そのため、「もしまた、NHKが議事録を不開示とするときには文書開示請求の訴訟を提起する」ことを広言して、「文書開示の求め」の手続に及び、所定の期間内に開示に至らなかったため、21年6月14日に本件文書開示請求訴訟を提起した。その結果、ようやく同年7月9日に至って「議事録と思しき文書」(被告NHKはこれを「議事録草案」と呼ぶ)が開示されたのだ。

 おそらくは、これだけで大きな成果である。この「議事録草案」では、森下らが、日本郵政の上級副社長鈴木康雄と意を通じて、「クローズアップ現代+」の《かんぽ生命保険不正販売問題報道》を妨害しようとたくらんだことが明確になったからだ。この局面では明らかに、経営委員会の無法にNHK執行部と番組作成現場が蹂躙されている構図である。結局は安倍政権以来、政権が関わる人事の全てがおかしいのだ。

 もっとも、この「議事録と思しき文書」は、所定の手続を経て作成されるべき「議事録」ではない。放送法41条で、「経営委員会委員長は、経営委員会の終了後、遅滞なく、経営委員会の定めるところにより、その議事録を作成し、これを公表しなければならない」とされている、適式の「議事録」については、いまだに不開示ということになる。真実、放送法の規定に反して、いまだに適式の議事録が作成されておらず、公表もされていないとすれば、森下の責任は重大である。その理由はどこにあるのか。森下主導の経営委員会が、放送法(32条)に違反して、番組(「クローズアップ現代+」)制作に介入していることが明らかになることを恐れたからである。

 責任は、経営委員会、なかんづく委員長・森下俊三にある。無法・横暴な経営委員会とその委員長によって、NHK執行部と番組制作現場の報道の自由が蹂躙されている構図である。NHKは、乙1号証として「放送法逐条解説・29条部分」を提出して、文中の「経営委員会は、協会(NHK)の最高意思決定機関として設置したものである」という記述にマーカーを付けている。「NHK執行部が、経営委員会にもの申すなどできようもない」という内心の溜息が聞こえる。

 NHKが暴走することのないよう、放送法は、NHKの最高意思決定機関として経営委員会を置き、その重責を担う経営委員12名を「国民の代表である衆・参両議院の同意を得て、内閣総理大臣が任命する」という制度設計をした。当然に良識を備えた経営委員の選任を想定してのことである。ところが、この経営委員会が、とりわけその委員長が、政権の思惑で送り込まれ、明らかな違法をして恥じない。この事態に、内閣と国会とはどう責任をとろうというのだ。

 この訴訟は、その問題に切り込んでいる。ご注目いただきたい。

この産経論調は軍国主義復活に途を開きかねず、危険極まりない。

(2022年4月20日)
 いつからだろうか、何を切っ掛けにしてのことかの覚えはない。私のメールボックスに「産経ニュースメールマガジン」が送信されてくる。ときにその論説に目を通すが、愉快な気分になることはなく、なるほどと感心させられることも一切ない。とは言え、怪しからんと思うことも、黙らせたいと思うことも通常はない。そもそも思想信条も言論も自由なのだから。

 しかし、昨日送信を受けた「榊原 智コラム・一筆多論」には、看過し得ない危険を感じる。一言なりとも批判をしておかねばならない。ことは、自衛隊という軍事力=組織的暴力装置の取り扱いに関わるもの。この危険物の取り扱いに失敗すると、軍国主義復活につながりかねない。維新と産経がその先導役を買って出ているような臭いがするのだ。なお、榊原智とは産経の論説副委員長だという。

 論説の内容は、共産党委員長志位和夫の「新・綱領教室」出版発表会見での言説に対する批判である。「ロシアのウクライナ侵略があっても目が覚めないのか―」「日本の政党の防衛政策は合格点にあるとはいえないが、共産党と立憲民主党という左派政党の姿勢はとりわけ嘆かわしい」という調子。こういう批判・非難はいつものことで、とるに足りない。

 産経が問題にしたのは、志位委員長が言ったという「急迫不正の主権侵害には、自衛隊を含めてあらゆる手段を行使して、国民の命と日本の主権を守り抜く」という発言。

 産経は非難がましく、《共産は綱領で、「憲法9条の完全実施(自衛隊の解消)」「日米安保条約の廃棄」を目指している。一方、2000(平成12)年の党大会で、自衛隊の段階的解消を掲げつつ、侵略があれば自衛隊を「活用」すると打ち出した》と解説している。誰が見ても、共産党の綱領は憲法に忠実な姿勢であろう。産経の批判は、「共産党は憲法遵守の姿勢を貫いて怪しからん」と聞こえる。

 また産経は《日本維新の会の馬場伸幸共同代表が14日、「国防という崇高な任務に就く自衛隊を綱領で『違憲だ』と虐げつつ、都合のいい時だけ頼るとはあきれる」と批判したのはもっともだ」と言う。フーン、維新と産経、話が合うんだ。ここまでは、聞き流してもよい。問題は次の一文である。

 《自衛隊は政治の命に服すべき組織だが、政治家も含め国民は、諸外国の人々が軍人に対するのと同様に、自衛隊員に敬意を払い、支えるべきだろう。命がけで日本を守る決意をしてくれた人たちだ。「事に臨んでは危険を顧みず、身をもって責務の完遂に務め」ると宣誓している。》《共産は自衛隊攻撃を自衛隊と隊員に謝罪し、敬意を払うのが先だ。それなしに自衛隊「活用」を唱えても真剣に防衛を考えているとは思えない。参院選対策の戦術的擬態だと国民に見透かされるのがオチだろう。》

 国民に《自衛隊員に対する敬意》を要求し、共産党には《自衛隊と隊員に謝罪せよ》と言うのが産経の態度なのだ。

 ことさら確認するまでもなく、《平和を望むのなら、さらなる防衛力の増強と軍事同盟の強化に邁進せよ》というのが、自民・維新・産経の立場である。このことについては、論争あってしかるべきである。しかし、《自衛隊員に敬意を持て》《自衛隊と隊員に非礼を謝罪せよ》と言い募る産経の論調は、それ自体厳しく批判されなければならない。これは、危険な言説である。

 軍事力とは厄介なもの、日本国憲法はこれを保持しないと定めたが、現実には自衛隊という「軍事力」がある。暴走すれば、国民の人権も民主主義も破壊する。このような組織的暴力装置は、徹底した文民(主権者国民)の管理下に置かねばならない。だから、自衛隊について、「存在自体が危険」とも、「違憲であるが故に存在してはならない」とも、「直ちに廃止すべき」とも、「段階的に縮小すべき」とも、意見を言うことにいささかの遠慮もあってはならない。この点についての国民の批判の言論は、その自由が徹底して保障されなければならない。

 「国防という崇高な任務にまず敬意を」「命がけで国を守る人に批判とは何ごとぞ」という論説は、けっしてあってはならない言論封殺である。権力者にも、権威にも、そして危険物である自衛隊についての論議においても、国民の意見表明の権利は徹底して保障されなくてはならない。

 自衛隊のあり方に対する批判に躊躇せざるを得ない空気が社会に蔓延したときには、軍国主義という病が相当に進行していると考えざるを得ない。その病は、国民にこの上ない不幸をもたらす業病である。軽症のうちに適切な診察と治療とが必要なのだ。産経のように、これを煽ってはならない。   

沖縄が問う「日の丸」とはなんだ。「本当の意味での復帰」とは。

(2022年4月19日)
 来月15日で、沖縄の本土復帰から50年となる。その企画記事が目に付くようになったが、毎日の「沖縄の人々は日の丸の向こうに何を見ていたのか」という連載に注目したい。「沖縄の人々が日の丸を通して見ていたもの」は、時代によって違うのだ。そのことのレポートとなっている。

 昨日の記事のタイトルは、「基地の街に並んだ日の丸 あれから半世紀『沖縄の真の復帰まだ』」という、複雑なニュアンス。

 「その数日間は戦後の沖縄で日の丸が最も盛んに振られた日々だったのかもしれない。1964年9月、日本本土に先駆けて沖縄に到着した東京オリンピックの聖火は、日の丸の小旗で熱烈に迎えられた。そこは当時、米国が統治する島だったのに、だ。」

 取材対象となったのは、当時大学2年生だった岸本義弘さん(77)。「沖縄本島中部のコザ市(現・沖縄市)のセンター通りで聖火を引き継いだ。沿道に詰めかけた観衆から拍手と「頑張れー」の声援が湧いた。米兵相手の飲食店が建ち並ぶコザ。そんな基地の街にも日の丸が等間隔で並び、小学生たちも竹ざおに日の丸の旗を付けて振った。

 岸本さんは太平洋戦争の末期、米軍が沖縄に上陸する直前の45年2月に生まれた。生後まもなく、父は戦場で、母は空襲で亡くなった。戦後、島を占領統治したのは両親の命を奪った米軍だった。「ほとんど植民地扱いでしょ。米軍が憎たらしかった」。だからこそ、聖火を囲む無数の日の丸に感激した。「これで日本国民になったと思った。復帰はもう間近だと」

 その岸本さんが今はこう呟く。「沖縄の人がいくら反対しても基地は県内に押しつけられる。沖縄は日本になりきれていない。本土の人ももう少し一緒になって考えてほしい。それが本当の意味での復帰ではないか」

 そして、本日は、もう少し遡った時代についての記事。「日の丸、御真影がよりどころ 士気高揚、皇民化…結末は沖縄戦」というおどろおどろしいタイトル。

 「戦後27年間の米国統治下の一時期、沖縄で「祖国復帰」への願いを込めて盛んに振られた日の丸。だが、時代をさかのぼると、その旗は県民を巻き込んだ太平洋戦争末期の沖縄戦に至る経過の中で、重要な役割を担ったものでもあった。」

 1879年のいわゆる「琉球処分」で、約450年にわたる琉球王国が廃止され、県が設置された沖縄。約20年後には沖縄でも徴兵制が始まり、日中戦争(1937年開戦)では沖縄からも兵士が前線に派遣された。集落の人々は日の丸の小旗を振って兵士たちを見送った。

 1941年12月、日本軍による米ハワイの真珠湾攻撃で始まった太平洋戦争。當真嗣長(とうましちょう)さん(91)が通っていた国民学校の教室には世界地図が貼られ、日本軍が南方の地域を占領する度に、子供たちが紙に描いた日の丸を貼り付けていった。當真さんの心は高揚した。

 子供たちの心を震わせたのは日の丸だけではなかった。1887年以降、沖縄の学校には順次、天皇の写真「御真影」が配られ、奉安殿と呼ばれた建物などに納められた。現在の那覇市にあった沖縄師範学校女子部の生徒だった黒島奈江子さん(98)は「絶対的なものだった。恐れ多くて、奉安殿の前ではせきさえできなかった」と証言する。祝日は奉安殿に日の丸が掲げられ、生徒たちは敬礼を求められた。

 沖縄では、日本との同化を図るため、学校を拠点に皇民化が強力に推し進められた。日本は天皇を中心とする国家体制を造り上げ、大陸へと進出していった。その結末が沖縄戦だった。

 沖縄では、時代によって「日の丸」のもつ意味が変わってきたのだ。かつては、新興天皇制政府の専制のシンボルであり、皇国にまつろわぬ人々への弾圧のシンボルであった。やがては県民がこれに服属を表明するシンボルとなり、本土から捨て石とされた沖縄戦では皇国に対する忠誠心のシンボルとなった。

 新憲法制定後に、まだ主権者気取りだった天皇(裕仁)から捨てられた沖縄は日本が独立したあとも、米軍の統治下におかれた。このような事態において、「日の丸」はその意味を変えた。横暴な占領者アメリカに対する抵抗のシンボルとなり、当時の沖縄における本土復帰運動のシンボルともなった。

 私は、66年暮れの1か月余復帰前の沖縄に滞在する機会を得てそのことを実感している。64年東京オリンピックの「日の丸」を打ち振った沖縄の人々の思いが痛いほど分かる。が、琉球処分やその後の沖縄の歴史を思えば、「日の丸」を打ち振った人々の胸の底にある切なさも思わずにはおられない。

 「本当の意味での復帰」は、まだない。そもそも、沖縄が「復帰」を求めた日本とはどんな国あるいは社会だったのだろうか。そして、これから沖縄にとって、「日の丸」とはどんな意味をもつことになるのだろうか。復帰50年、答は見えてこない。

英雄的な徹底抗戦か、人命尊重の降伏勧告受諾か。余儀なくされた深刻な選択。

(2022年4月18日)
 ロシア国防省は、17日包囲攻撃を続けるウクライナ南東部の要衝マリウポリで、製鉄所構内に立てこもったウクライナ部隊に降伏を勧告し、ゼレンスキーはこれを拒否した。局地的には絶望的な戦況での、部隊の殲滅を覚悟しての降伏拒絶である。本日夕刊の報道では「マリウポリ抵抗続く」とされてはいるが、希望は見えない。胸が痛む。

 全軍の士気高揚のために、また国民の戦意を持続するためにも、徹底抗戦あるべきだろうか。あるいは人命尊重の見地からは降伏を受容すべきか。どちらが正しい選択なのだろうか。

 旧帝国には大元帥である天皇が兵に与えた心得である『軍人勅諭』が、「死は鴻毛より軽しと心得よ」と教えた。さらに、陸軍大臣東條英機が示達した『戦陣訓』は、「生きて虜囚の辱を受けず、死して罪過の汚名を残すこと勿れ」として、「降伏よりは死を」強要した。

 盛岡で親しくした柳館与吉さんを思いだす。私の父と同世代で、私が盛岡で法律事務所を開設したとき、「あんたが盛祐さんの長男か」と手を握ってくれた人。戦後最初の統一地方選挙で、柳館さんも私の父・澤藤盛祐も、盛岡市議に立候補した間柄。二人とも落選はしたが善戦だったと聞かされている。もっとも、柳館さんは共産党公認で、私の父は社会党だった。

 柳館さんは、旧制盛岡中学在学の時代にマルクス主義に触れて、盛岡市職員の時代に治安維持法で検束を受けた経験がある。要注意人物とマークされ、招集されてフィリピンの激戦地ネグロス島に送られた。絶望的な戦況と過酷な隊内規律との中で、犬死にをしてはならないとの思いから、兵営を脱走して敵陣に投降している。

 戦友を語らって、味方に見つからないように、ジャングルと崖地とを乗り越える決死行だったという。友人とは離れて彼一人が投降に成功した。将校でも士官でもない彼には、戦陣訓や日本人としての倫理の束縛はなかったようだ。デモクラシーの国である米国が投降した捕虜を虐待するはずはないと信じていたという。なによりも、日本の敗戦のあと、新しい時代が来ることを見通していた。だから、こんな戦争で死んでたまるか、という強い思いが脱走と投降を決断させた。

 戦争とは、ルールのない暴力と暴力の衝突のようではあるが、やはり文化的な規範から完全に自由ではあり得ない。ヨーロッパの精神文化においては、捕虜になることは恥ではなく、自尊心を保ちながらの投降は可能であった。19世紀には、俘虜の取扱いに関する国際法上のルールも確立していた。しかし、日本軍はきわめて特殊な「生きて虜囚の辱めを受けず」という戦陣訓のローカルなルールに縛られていた。

 しかも、軍の規律は法的な制裁を伴っていた。1947年5月3日、新憲法施行の日に正式に廃止となった陸・海軍刑法第7章「逃亡罪」は、敵前逃亡を死刑としていた。「出て来い。ニミッツ、マッカーサー」と叫んでいた時代に、当時20代の若者が、迷いなく国家よりも個人が大切と確信し、自ら投降して生き延びた。見つかれば、確実に銃殺となることを覚悟しての、文字通り決死行だった。「予想のとおり、米軍の捕虜の取扱いは十分に人道的なものでしたよ」「おかげで生きて帰ることができました」と言った柳館さんの温和な微笑が忘れられない。

 ロシア軍の占領地での蛮行がなければ、ウクライナ軍司令部も降伏勧告受容の選択が可能であったかもしれない。投降しても、捕虜に対するロシア軍の苛酷な扱いは避けられないという判断もあるのだろう。暴力に対する憎悪と不信のエスカレートが、ウクライナ軍兵士の投降を阻んで、戦争をさらに凄惨なものにしている。

 戦争になれば、戦闘も降伏も、敵も味方も、兵も民間も、勝利も敗北も、何もかもが悲惨極まりない。戦争を避けるあらゆる努力を惜しんではならない。

東電労組とはなんだ? 連合とはなんだ? そして、国民民主党とは?

(2022年4月17日)
 本日の赤旗社会面に、要旨以下の記事が掲載されている。
https://www.jcp.or.jp/akahata/aik22/2022-04-17/2022041713_01_0.html

《元社員向け広報に「国民」参院候補チラシ同封》
 東電が元社員に定期的に郵送している社内報(『TEPCOmmunity(テプコミュ)』)に、7月の参院選に国民民主党から比例代表で立候補する竹詰ひとし・東京電力労働組合委員長への支援を求めるチラシが同封されていた。

 チラシには、「先輩の皆さまへ」として、「東京電力労働組合は『竹詰ひとし』を電力の代表として国政へ送り出すため、組織の総力を挙げて取り組んでまいります」と書かれている。

 竹詰は自身のツイッターで原発について、「日本もより安全性や信頼性等に優れる革新的な炉へのリプレース・新増設や研究開発等の必要性をエネルギー政策に明確に位置づけるなど、原子力の将来ビジョンを国の意思として打ち出すべき」だと述べ、原発推進を訴えている。国民民主党も原発の早期再稼働を主張。2022年度政府予算に賛成し、事実上の与党となっている。

 赤旗は、「東電は福島第1原発事故後、実質国有化されている。公的性格がきわめて強い企業が、事実上の与党となった政党の候補を支援する」ことへの批判を紹介している。が、それだけが問題なのではない。

 東電労組の「『竹詰ひとし』を電力の代表として国政へ送り出す」という一文が衝撃である。「電力の代表」とは、電力業界の代表の謂いである。労働者・労働組合の代表でも、労働界・労働運動の代表でもなく、電力業界の代表だというのだ。

 労働組合が臆面もなく企業・業界代表の姿勢を公言し、だからこそ企業が選挙に協力する。いや、実のところは、企業の代表者が労組の仮面を被って選挙に出馬しているとみるべきだろう。

 この竹詰という候補者のホームページには、こんな政策の訴えがある。

??「環境と経済の両立」に向けた現実的な政策を政治へ?
 「S+3E」を基本とした現実的なエネルギー・環境政策の実現
 資源に恵まれない日本の「エネルギー安全保障」を確保するため「S+3E」の考えのもと、再エネや原子力・火力等、既存の人材や技術を最大限活用した現実的なエネルギー・環境政策の実現に取り組みます。

 「S+3E」とは、2021年10月に閣議決定された第6次エネルギー基本計画での基本コンセプト。安全性(Safety)を前提としつつ、安定供給(Energy Security)を確保し、経済性向上(Economic Efficiency)と、環境への配慮(Environment)を図るとする。要するに、「S+3E」は原発再稼働容認とセットになって使われ、原発推進OKというお札となっている。

 福島第1原発事故の責任者である東電自身が言いにくい原発再稼働推進を、東電労組と、候補者竹詰に言わせている図である。東電は労使協調を旗印とする典型的な御用組合である。だから、東電労組委員長が立候補する選挙は、企業ぐるみ選挙であり、業界ぐるみ選挙であり、労使渾然一体ベッタリ選挙とならざるをえない。

 この予定候補者の最近のツィッターにも、「法令に基づく安全基準を満たした原子力の早期再稼働が必要! (午前8:58?2022年4月15日)」と露骨である。

 ところで、この人の肩書は、「東電労組・中央執行委員長、関東電力総連・会長、全国電力総連・副会長」であるという。言うまでもなく、電力総連は連合の有力単産である。この電力総連の姿勢は、連合の姿勢でもある。

 こうして、企業に支配された労使協調の労働運動は連合に束ねられ、さらに国民民主党をパイプとして保守政権につながり、飲み込まれている。

 資本主義社会においては、使用者と労働者の対峙という基本構造がある。真に労働者の利益を守ろうという労組・労働運動は、使用者から独立していなければならない。これが、労働運動の大前提であり、労働法のキホンのキである。ところが、連合・電力総連の「労働運動」は、資本や使用者と対峙する姿勢をもたなない。むしろ企業や財界の意を忖度して、その代弁者として活動する。

 東電労組委員長で「電力代表」という、国民民主の予定候補者・竹詰よ。君はいったい、誰のために、誰と闘おうというのか。本来は、労働者のために、東電や財界や、財界の意を政策としている政権と闘わねばならない。しかし、現実にはそうなっていない。

 君は、東電と電力業界の利益のために、連合や国民民主の一部隊として闘おうというのだ。君が闘う相手は、立憲民主党であり、日本共産党である。そして、その政党を支えている、資本から独立した自覚的労運動であり、中小零細の未組織労働者であり、厖大な非正規労働者である。君の当選は財界には歓迎されるが、今の世に苦しんでいる弱い立場の人々をさらに不幸にするだけだ。君の落選を願ってやまない。

プーチンはウクライナに侵攻し、習近平は香港の民主主義を蹂躙した。

(2022年4月16日)
 一般には、「現状」の墨守は革新への妨げである。とりわけ、「不合理な現状」であれば変更して悪かろうはずはない。だが、どんな方法を用いてでも「現状」を変えてよいことにはならない。むしろ、実力による現状の変更は、通常は違法となる。また、現状が変更を合理化するほど不合理であるか否かの判断は難しい。間違いのないことは、力の強い者が一方的に決めてよいことではないということ。

 国家が力づくで不満とする現状を変えようとすれば侵略戦争になる。かつて、旧日本帝国は朝鮮を侵略し、続いて満州を占領して中国に攻め入り、遂には真珠湾を攻撃して太平洋戦争の引き金を引いた。そして今、現状を不満とするプーチンのロシアが、隣国ウクライナの主権を侵している。

 どの戦争についても言えることだが、開戦を合理化する理屈はどうにでも拵え上げることができる。戦争を起こした側の国民の大多数はその理屈を受け入れて、圧倒的に戦争を支持する。自国に正義があると思い込みたいのだ。その基礎をなす愛国心だの祖国の栄光を讃える心情などほど危険なものはない。

 さて、香港である。「一国二制度」とは、中国自身が受容した「現状」であったはず。これが、一方では中国の独裁体制が深刻化し、もう一方では香港の民主化の進展が著しく、「二制度」の乖離が大きくなった。この「現状」を容認しがたいとする中国共産党が実力で「変更」に乗りだした。相手が独立国ではないから、戦争にはならない。野蛮な弾圧となっている。

 権力とは人民から委託され、人民に奉仕すべきものという文明世界の共通原理はここでは通用しない。剥き出しの暴力と、暴力による威嚇が、文明社会では大切にされる言論の自由、政治活動の自由を遠慮なく蹂躙する。蛮族の支配さながらに、全ては実力を掌握した一党の幹部の思いのままである。

 香港には人民の意思を政治に反映するシステムとしての三権分立の制度が整備されており、近年まで立派に機能していた。その文明が、無惨にも野蛮の暴力に屈せざるを得ない。中国共産党は、香港議会の選挙に介入し、司法に圧力をかけ、民主主義を支える言論の自由を古典的な手口で弾圧した。そして今、総仕上げとして、行政のトップを意のままになる人物に変更しようとしている。

 香港政府トップの行政長官選挙は5年に1度行われる。新型コロナの感染拡大の影響で延期されたが、5月8日予定となり、立候補の受け付け期間は4月3日から2週間とされ、14日夕に締め切られた。立候補は、党の眼鏡にかなった李家超ただ一人。既に「当選確実」である。その去就が注目された現職の林鄭月娥も立候補しなかった。

 この選挙の投票権は、一般の市民にはなく、親中派が99・9%を占める1500人の選挙委員が投票して選ぶ仕組みだという。しかも、立候補には188人以上の選挙委員の推薦を受けることが必要とされ、李は13日に届け出をした際、半数を超える786人の推薦者名簿を提出している。

 李家超(ジョン・リー、64)とは、警察出身で現政府ナンバー2だった人物。民主派に対する「弾圧の急先鋒」「強硬派」として知られ、「選挙の形骸化も決定的」と報じられている。

 香港メディアによると、「中国政府は、李氏が唯一の候補者だと選挙委員に伝えて結束を求めており、投票前から当選者が事実上、決まったも同然」だという。

 さらに朝日が伝えるところでは、李は、「香港の治安機関トップとして、2019年の逃亡犯条例改正案をめぐる反政府デモの後、民主活動家らに催涙弾を使って取り締まりを指揮。中国共産党に批判的だった香港紙「リンゴ日報」を廃刊に追い込んだ強硬派として知られる。こうした中国政府の方針に忠実な態度が評価され、昨年6月に政府ナンバー2の政務長官に抜擢されていた」とのこと。なるほど、さもありなん。

 プーチンはウクライナに侵攻し、習近平は香港の民主主義を蹂躙した。ともに、文明社会のルールを無視して、現状を実力で変更した。いつの日か、歴史の審判を受けるであろうか。

錯綜する情報に接する際の基本姿勢のあり方

(2022年4月15日)
 ウクライナ戦争のさなか、情報戦も熾烈である。何が真実か、真実をどう見極めるべきか、そもそも真実とはいったい何だろうか。錯綜する情報にどう向き合うべきか。多くの人の悩みを反映して、アンヌ・モレリ著「戦争プロパガンダ 10の法則」(草思社・永田千奈訳、初版2002年3月刊)が話題となっている。この「10の法則」を岩月浩二さんが、メーリングリストに次のとおり紹介してくれた。

 1 われわれは戦争をしたくはない
 2 しかし敵側が一方的に戦争を望んだ
 3 敵の指導者は悪魔のような人間だ
 4 われわれは領土や覇権のためにではなく、偉大な使命のために戦う
 5 われわれも意図せざる犠牲を出すことがある。だが敵はわざと残虐行為に及んでいる
 6 敵は卑劣な兵器や戦略を用いている
 7 われわれの受けた被害は小さく、敵に与えた被害は甚大
 8 芸術家や知識人も正義の戦いを支持している
 9 われわれの大義は神聖なものである
10 この正義に疑問を投げかける者は裏切り者である

 この法則は、イギリスの軍人でもあり政治家でもあったアーサー・ポンソンビー著の「Falsehood in Wartime(戦時の嘘)・1928」に出てくる、第一次世界大戦当時のプロパガンダを分析したもの。アンヌ・モレリは、その後に起こった第二次世界大戦やさまざまな戦争の情報を盛り込んで、1法則1章の章立で解説している。なお、モレリの肩書は、ブリュッセル自由大学歴史批評学教授となっている。

 そして、モレリは11番目の法則を付け加えている。
 「新たにもうひとつ法則を追加しよう。
 『たしかに一度は騙された。だが、今度こそ、心に誓って、本当に重要な大義があって、本当に悪魔のような敵が攻めてきて、われわれはまったくの潔白なのだし、相手が先に始めたことなのだ。今度こそ本当だ』」

 この本については、NHKラジオ「高橋源一郎の飛ぶ教室」4月8日の「ヒミツの本棚」でも取りあげられている。その最後の部分の高橋の解説が興味深い。

 モレリさんは書いています。「戦争プロパガンダの法則について考えてゆくと、最後には次のような根本的な疑問にたどりつく」「真実は重要だろうか。」
 本当のことって分かんないんだから、もうどうでもいいみたいになるのか、それでも本当の事を探すべきなのか。

 何が本当かわからなくなってくるっていうときに、我々はどうしたらいいのか。「なにもかも疑うのもまた危険なことではないだろうか」

 これメディアリテラシーの話なんですよね。いま皆さんもいろんなメディアの情報にさらされてて、そういう時にどうしたらいいのかと。「これまでの歴史のなかで、戦況を左右した「情報」が、その後あっさりと否定され、しかもその否認が何の反響も引き起こさないとなると、真実には何の価値もないのだろうかという疑問がうかぶ」

 モレリさんはこういうふうに言ってます。
 「行き過ぎた懐疑主義が危険であるとしても」、「盲目的な信頼に比べれば、悲劇的な結果につながる可能性は低いと私は考える。メディアは日常的にわれわれを取り囲み、ひとたび国際紛争や、イデオロギーの対立、社会的な対立が起こると、戦いに賛同させようと家庭のなかまで迫ってくる。こうした毒に対しては、とりあえず何もかも疑ってみるのが一番だろう。」
 モレリさんの最後の結論は最後の1行に出てきます。
「疑うのがわれわれの役目だ。武力戦のときも、冷戦のときも、漠とした対立が続くときも。」
 今の目の前の戦争もそうだけれども、こういったことは戦争だけじゃないよね。だから本当にいま困難な中で、明せきでいられるにはどうするか。絶えず自分で注意して、でも自分が取っている情報が本当かどうかもわからない中で、どうしたらいいのか、っていうときに、こういうプロパガンダの法則があるというのを知っていると、ちょっと我に返るためには、僕はすごくいいことだと思いました。

 戦争目的の聖化や敵の悪魔化は、皇軍やナチスの専売特許ではない。そして、過去のことでもなく、戦争遂行に限られたことでもない。リテラシーを研ぎ澄まして、プロバガンダに対する強い免疫を獲得せねばならない。

酒井啓子千葉大教授《「侵攻」をめぐる二重基準》の紹介

(2022年4月14日)
 今朝の毎日の第11面「激動の世界を読む」シリーズに、酒井啓子・千葉大教授の骨太の論説。ネットでは有料記事のようだが、読むに値する内容。こんな論説を読めるのだから、新聞というものは実に廉い。

https://mainichi.jp/articles/20220414/ddm/004/070/017000c

 《「侵攻」をめぐる二重基準》《ゆがめられる国際規範》という二つの大きな主見出しに、『難民対応でも違い』『「現状」とは何か』そして、『論理酷似する米露』という小見出しが付いている。

 キーワードの第1は、「二重基準」である。
 アフガニスタン戦争、イラク戦争など米国の軍事介入と、今回のロシアのウクライナ侵攻。同じ「大国による現状変更の軍事介入」でありながら、国際社会は「よい介入」と「絶対悪としての介入」と極端なダブルスタンダードの評価をした。
 そのことが難民対応の違いともなる。ウクライナ難民に対して、日本などはもろ手を挙げて受け入れを表明した。一方、シリアやイラク、イエメンなど、同じく外国の介入が原因で難民化し、受け入れを何十年も待ち続けている人々が、ウクライナ難民優先で放置される。

 キーワードの第2は、「現状変更」
 「武力による現状変更」というときの「現状」とは何か、という問題。欧米の言う「現状」がソ連崩壊後の国際秩序であるのに対して、ロシアにとっては、帝国期からソ連時代に至るロシア文明圏の維持が、あるべき「現状」なのだろう。
 何が「維持されるべき現状」なのかを決めるのは、戦争の勝利者である。勝利者のルールに阻まれて失地が回復できないなら、自らが勝利者となるしかないと考える力の論理が横行する。

 キーワードの第3は、「米露の論理酷似」
 20年間の「対テロ戦争」で多大な負担と損害を被って、米国は介入先から撤退した。だが、米国が多用した正当化の論理は、そのままロシアに引き継がれている。自派勢力に武器と義勇兵を投入し、それを正当化するために人道と正義をかざすなど、そうした軍事介入での手法が常とう化され、米国からロシアに継承されている。

 そして結論が《ゆがめられる国際規範》を正さねばならないということ。
 国際規範が大国によって徹底的にゆがめられ、恣意的に利用されてきたために、規範としての信頼性が失われている。今、国際規範が無力なのは、大国の武力による利益追求を正当化する口実でしかないと、矮小化されているからである。
 ロシアのウクライナ侵攻と、アメリカの「対テロ戦争」の反省は、私たちに、欺まんにまみれた国際規範を正し、その汎用性を高める努力の必要性を訴えている。

 要約すれば以上のとおりだが、若干の感想を付け加えたい。
 私は、ベトナム戦争以来、軍事超大国アメリカこそが不合理な世界秩序における不正義の元兇と考え続けてきた。湾岸戦争ではその立場で、「ピースナウ・市民平和訴訟」に取り組んだ。不正義なアメリカの戦争に加担してはならない、との基本姿勢である。その後のアフガン戦争、イラク戦争と、私の信念は強化された。

 酒井教授の言う、「二重基準」はそのとおりである。が、今批判を集中すべきはプーチンのロシアであって、アメリカではない。ウクライナやNATOの不手際でもない。

 プーチン・ロシアの手口は、アメリカの軍事介入にも、皇軍の侵略にも酷似していることを忘れない。徹底してプーチン・ロシアを批判し、その侵略批判の国際世論の高揚をもって、アメリカも旧日本軍も、あらゆる国の侵略と人権侵害を許さない平和をつくるよう努めたい。国内の動きにも、「そりゃ、まるでプーチンの論理や手口とおんなじだ」と批判できるようにしたいのだ。

 そして、少なくともウクライナ難民の受け入れの程度には、我が国の難民対策を改善しなければならない。「二重基準」の解消は、平和と人権を尊重する方向で行われなければならない 

河瀬直美が東大入学式で口にした曖昧模糊

(2022年4月13日)
 昨日が東大の入学式。なんと東大は、あの河瀬直美に祝辞を述べさせたと聞いて驚愕した。いや、驚愕したという自分の感性が愚かなのだと思い直す。オリンピックとNHKと東大と河瀬直美。みんなお似合い、俗世のシンボル。

 その河瀬の祝辞の内容が、物議を呼んでいる。朝日が「ロシアを悪者にすることは簡単」と紹介した内容。東大のホームページに、「令和4年度東京大学学部入学式 祝辞(映画作家 河? 直美 様)」として、全文が掲載されている。相当に長い。こんなもの聞かされる新入生は、さぞかし退屈で辛かろう。が、東大とは、こんな俗世の匂い芬々のところなのだと学ぶ意味はあったかも知れない。

 朝日は河瀬の祝辞の内容をこう記事にしている。((A)と(B)は、私(澤藤)が付けた符号で記事にはない)

 (A)「ロシアを悪者にすることは簡単」としたうえで「なぜこのようなことが起こっているか。一方的な側からの意見に左右されてものの本質を見誤ってはいないか。誤解を恐れずに言うと『悪』を存在させることで私は安心していないか」と述べた。
 (B)そのうえで「自分たちの国がどこかの国に侵攻する可能性があるということを自覚しておく必要がある。そうすることで自らの中に自制心を持って、それを拒否することを選択したい」と語りかけた。

 (A)は、典型的な「プーチンにも3分の理」という論。「『どっちもどっち』という姿勢に過剰にこだわった結果、結局はものの本質を見誤ってしまっていないか。誤解を恐れずに言えば、『悪』を断罪することを恐れて自分の立場の確立を捨て去ってはいないだろうか」

 (B)は、朝日の記者の上手な筆のさばきで、河瀬がそれなりに真っ当なことを言った印象を読者に与えている。その部分を抜き書きすると下記のとおり。この部分だけを掬い取って評価する向きもあるようだ。

 「人間は弱い生き物です。だからこそ、つながりあって、とある国家に属してその中で生かされているともいえます。そうして自分たちの国がどこかの国を侵攻する可能性があるということを自覚しておく必要があるのです。そうすることで、自らの中に自制心を持って、それを拒否することを選択したいと想います。」

 彼女なりの人間一般と国家一般との関係について意見を述べ、脈絡なく唐突に「自分たちの国がどこかの国を侵攻する可能性があるということを自覚しておく必要がある」と言う。歴史性や、国際環境をまったく捨象して、どの国も侵略国へ転化の可能性があるとして、その自覚を求めている。悪いことを言っているわけではないが、人を集めて聞かせるほどのことではない。

 よく分からないのは、(A)と(B)とのつながりである。(A)が「どっちもどっち」だから、(B)の「日本を侵略国としてはいけない」という自制論に結びつかない。

 むしろ、(A)で「どう弁解しようとロシアは悪である」と結論し、(B)で「我が国もどのような理由あろうとも他国の侵略をしてはならない」「君たち、一人ひとりが日本をそんな国にしてはならない」とすれば論理は整合する。が、これが彼女の言いたかったことであろうか。定かではない。

 私には、彼女がこう言っているように聞こえる。
 「人間は弱い生き物です。当然映像作家という人間も。だからこそ、とある国家や社会に上手につながって、その中で生かされているともいえます。ですから、東京オリンピックの映画を作れと言われれば、注文者の意図を汲み忖度もして、望まれた映画を作るのです。たとえ、それが「国威発揚プロパガンダ」と揶揄されても。また、NHKから依頼があれば協力を惜しまず、「五輪を招致し喜んだのは私たち」と述べるのです。もっとも、「五輪反対デモは金で動員」のテロップがデマだと批判の声が上がれば、私は関係ないと逃げますがね。だって、人間は弱い生き物なんですから。
 そうして「自分たちの国がどこかの国を侵攻する可能性があるということを自覚しておく必要がある。自制心を持ってそれを拒否する選択をしたい」は、私の判断として、まだ安全な範囲にある言論なのです。せめてこれくらいのことは言っておかないと、作家としての値打ちはない。でも、この言葉に責任をもつかどうかは別問題。繰り返しますが、だって、所詮人間は弱い生き物なんですから」

澤藤統一郎の憲法日記 © 2022. Theme Squared created by Rodrigo Ghedin.