澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

中国では、彭帥に関する件は一切報道されていない。

(2021年12月3日)
 本日の東京新聞朝刊に、「女子テニス中国大会中止 WTA発表 彭帥選手の安否懸念」の記事。中沢穣記者が北京から送稿しているものだ。現地特派員の存在は重要だと思わせる。

 【北京=中沢穣】中国の女子プロテニスの彭帥(ほうすい)選手(35)が張高麗(ちょうこうれい)前副首相(75)に性的関係を強要されたと告白した問題で、ツアーを統括する女子テニス協会(WTA)は1日、香港を含む中国で開かれる全ての大会を中止すると発表した。女性の権利侵害に対して厳しく臨むべきだとの声が国際的に高まっており、来年2月の北京冬季五輪に政府高官などを派遣しない外交ボイコットの議論が各国で加速する可能性もある。

中国外務省「スポーツ政治化に断固反対」
 WTAのスティーブ・サイモン最高経営責任者(CEO)は声明で「中国は極めて深刻な問題に、まともな方法で対応していない。彭さんが自由で安全かどうか、検閲や強制、脅迫を受けてないかについて、重大な疑念を抱いている」と非難した上で、「検閲なしで、透明性のある完全な調査の実施」を要求した。
 中国では2019年に女子ツアー9大会が開催されており、中止がWTAの財政に打撃となるのは必至だ。しかしサイモン氏は「中国で大会を開いた時に選手やスタッフが負うリスクを憂慮している」と訴えた。

 これに対し、中国外務省の汪文斌(おうぶんひん)副報道局長は2日、「中国はスポーツを政治化する行為に断固反対する」と述べた。冬季五輪の外交ボイコットへの飛び火を警戒しているが、中国は香港や少数民族問題などに加え、女性の権利侵害という新たな問題の火種も抱えた形だ。

 なんとも胸のすくようなWTAの清々しい姿勢ではないか。そして、これと鮮やかな対照をなす中国当局の反吐の出るような薄汚い反応。

 事態に複雑さはない。副首相の地位にあった権力者が、女子テニスプレーヤーに性的な暴行を加えた。被害者がネットに、そのように告発したのだ。もちろん、その真実性が確認されたわけではない。しかし、その内容は冗談で言えることではない。弱い立場にある者が、渾身の覚悟で社会に世界に訴えたものであることは、容易に理解可能である。

 普通の社会なら、まずは性的被害を告発した被害者の言い分に耳を傾け、次いでその真偽を加害者とされた者に確認することになろう。社会的な糾弾も、刑事訴追も迅速におこなわれねばならない。当然のことながら党の体質に対する厳しい批判も徹底されることになろう。

 ところが、そのような真っ当なプロセスは、断ち切られたままなのだ。中国のメディアは党幹部の違法を追求できないのだろうか。中国の刑事法は、権力者を処罰するようにはできていないのか。

 むしろ、被害を訴えた者の消息が不明となり安否が気遣われるという恐るべき事態となっている。中国に人権はないのか。人権擁護のシステムはないのか。WTAの、「選手の人権を擁護するため」とする対抗措置は、道理のあるものと受けとめられねばならない。

 中国外務当局の「中国はスポーツを政治化する行為に断固反対する」という声明は噴飯物である。要するに、中国にとって面白くないということを表白しているだけで、何も述べてはいないのだ。「政治化」をマイナスイメージのレッテル用語に使うと、自らに跳ね返って来ることにもなろう。

 「スポーツを政治化する行為」とは、冬季オリンピック開催を中国の国威発揚の手段とし、あるいは共産党権力の強大さを誇示する機会として利用することである。女性プレーヤーの人権擁護のためのWTAの措置を「スポーツを政治化する行為」という発想が理解できない。そもそも、この局面でなぜ外務当局が出てくるのだろうか。それこそ、「スポーツを政治化する行為」ではないか。要するに、党のため・国家のために不都合な行為は、どんなレッテルを貼ってでも糾弾しようというだけのことでしかない。

 そこまでの中国当局の反応には、さして驚かない。驚くべきは、次の中沢穣記者の報告である。

一方、この問題は中国では一切報道されていない。元最高指導部メンバーである張氏の性的スキャンダルは共産党の権威を傷つけかねず、習近平(しゅうきんぺい)指導部がサイモン氏の求める調査(「検閲なしで、透明性のある完全な調査の実施」)に応じる可能性は乏しい。

 北京の現地で、下記URLのような現場写真や記事を送ってきている中沢穣記者が、「この問題は中国では一切報道されていない」というのだから、間違いなかろう。香港では難しかった報道統制、中国本土でなら徹底できるのだ。

https://www.tokyo-np.co.jp/article/144438

 共同通信も、「彭帥さんの放送中断 中国 NHK海外ニュース」という、次の記事を配信している。

 【北京共同】中国で2日夜、NHK海外放送のニュース番組が中国の元副首相に性的関係を強要されたと告白した同国の女子テニス選手、彭帥さんの問題を伝えた際、放送が中断された。中国当局は国内で彭さんに関する騒動に注目が集まらないよう、徹底した情報統制を敷いている。

 中国は「民主主義の形は一つではなく、各国それぞれの民主主義のスタイルがある」という。自国民の性犯罪被害を、加害者が党幹部だからという理由で秘匿し、徹底して報道を統制する。これが「中国流の民主主義」であり、中国流の「人権」状況なのだ。

皇族の人権を語ることの危うさ

(2021年12月2日)
 秋篠宮(文仁)の誕生日が一昨日(11月30日)、天皇の長女(愛子)の誕生日が昨日(12月1日)だった。それぞれに、メディアへの露出を強制された。メディア側の対応は、これまでになくとげとげしい。国民の目が皇室や皇族に対するイジメの目つきになっている。

 秋篠宮に対する記者会見では、無遠慮に「複雑性PTSD(心的外傷後ストレス障害)と診断された眞子さんの体調に影響を与えたと考えられる週刊誌報道やインターネット上の書き込みについて、どのように受け止めておられますか」と質問が出ている。

 天皇の長女(愛子)の記者会見は来春までないが、この人を見る国民多くの目は、秋篠宮の長女の例に学んで皇室からの脱出を望んでいるのだろうというもの。が、一部には、将来の女性天皇への就位を望む人々もいる。どちらにせよ、なんとも重苦しい檻の中同然の20歳の誕生日。

 このような皇室・皇族をめぐる状況を踏まえて、「皇族の人権」についての議論を耳にするようになった。私が憲法を学んだ頃、天皇に関して考えねばならないことは、他の統治機構における原理とどう整合するのかということだけで、天皇や皇族の人権などは視野になかった。

 それが今や、天皇や皇族も社会の多数から、公私にわたる行為に対して好奇の目で見られるようになり、適正な批判だけでなく誹謗や中傷の類いも避けることができない。主観的には不当なイジメ被害に遭遇して、その防御のために「皇族の人権」援用が必要な時代となっているのだ。「開かれた皇室」標榜の必然の結果ともいうべきだろう。

 人権とは、あらゆる自然人の誰にも、生まれながらに等しく備わったものである。だから、当然のこととして天皇や皇族個人にも人権は備わっている。

 もちろん一定の人権は、憲法が世襲の天皇という制度を認めたことから、天皇や皇族に制約があることはやむを得ない。が、今問題はそのことではない。天皇や皇族に認められている人権は、天皇や皇族以外の一般人民と同等のものであって、それ以上に特に手厚く擁護されるべきものではないということである。

 かつて我が国の刑法には、大逆罪という犯罪があり、不敬罪という罪もあった。天皇や三后、皇族の生命・身体や名誉は、臣民とは異なる特別に貴重なものとして厚い法的保護の対象とされたということである。もちろん、いま、そのような立法に許容の余地はない。

 このことに関して、秋篠宮の誕生日会見で気になるところがある。当該個所の全文を引用する。

【記者】 複雑性PTSDと診断された眞子さんの体調に影響を与えられたと考えられる週刊誌報道やインターネット上の書き込みについてどのように思われますでしょうか。

【秋篠宮】そうですね、週刊誌これは文字数の制限というのはあります。一方で、そのネット上のものというのはそういう制限がほとんどないわけですね。それなので、その二つは分けて考える方が良いのかと思います。
 娘の複雑性PTSDになったのが、恐らくその週刊誌、それからネット両方の記事にあるのだろうとは思いますけれども、私自身それほどたくさん週刊誌を読むわけでもありませんけれども、週刊誌を読んでみると、非常に何と言いましょうか、創作というか作り話が掲載されていることもあります。一方で、非常に傾聴すべき意見も載っています。
 そういうものが、一つの記事の中に混ざっていることが多々あります。
 ですので、私は、確かに自分でも驚くことが書かれていることがあるんですけれども、それでもって全てを否定するという気にはなれません。
 一方、ネットの書き込みなど、これも私はそれほど多く見ることはありません。
 何と言っても、一つの記事に対してものすごい数のコメントが書かれるわけですので、それはとても読んでいたら時間も足りませんし、目も疲れますし、読みませんけれども、中には確かに相当ひどいことを書いているのもあるわけですね。
 それは、どういう意図を持って書いているのかは、それは書く人それぞれにあると思いますけれども、ただ、今そのネットによる誹謗中傷で深く傷ついている人もいますし、そして、またそれによって命を落としたという人もいるわけですね。
 やはりそういうものについて、これは何と言いましょうか、今ネットの話をしましたけども、誹謗中傷、つまり深く人を傷つけるような言葉というのは、これは雑誌であれネットであれ私としてはそういう言葉は許容できるものではありません。
 以上です。

 これは危険な発言である。厳正な批判がなくてはならない。
 読みようによっては、「皇族であった娘の複雑性PTSDをもたらした誹謗中傷の言論を取り締まるべきだ」と解することが可能ではないか。加えて、こういう発言もある。

 「何かやはり一定のきちんとした基準を設けてその基準は考えなければいけないわけですけれども、それを超えたときにはたとえば反論をする、出すとかですね。何かそういう基準作りをしていく必要があると思います」

 一般人がネットの中傷記事を取り締まるべしとするのは表現の自由に属することだ。しかし、これは皇嗣が口にすべきことではない。もちろん、そのような意図は毛頭ない、と釈明はできるだろう。「ネットによる誹謗中傷の被害者は皇族であった娘だけではなく、広く一般人が被害を受けているではないか」「娘だけを特別視した発言はしていない」「深く人を傷つける言葉は許容できるない、とは言論の取り締まりを求めたものではない」とこの人が言えばそのとおりだろう。が、恐ろしいのは、この皇嗣の言葉を忖度して、動こうという連中がいることなのだ。その意味で、皇族の人権を語ることには慎重でなくてはならない。しかも、皇嗣が皇族の人権を語ることはなおのこと危うい。

 前天皇(明仁)が、生前退位の希望をビデオメッセージとして述べることで、皇室典範の特例法制定に漕ぎつけ、生前退位を実現した前例が苦い記憶として新しい。皇嗣に限らず、皇族の発言は、慎重の上にも慎重でなくてはならない。こんな発言が、万々が一にも不敬罪復活につながようなことがあってはならない。

あらためて中国の人権状況を嘆く

(2021年12月1日)
 半世紀も前のこと。長く共産中国を敵視していたアメリカや日本が中国との国交を回復し、「一つの中国」を認めた。そのとき、私はわがことのように嬉しかった。「一つの中国」論は、当然に台湾を切り捨てるものであったが、そのことに何の心の痛みも感じなかった。高慢にも、これが歴史の必然と思っただけ。

 中国共産党は、中国人民の中から生まれ、中国人民の利益に徹した政権運営を行う。それは、とりもなおさず世界の人民の共通の利益に通じるものに違いない。当時、私はそう思い込んでいた。今となっては、不明を恥じいるばかりである。

 BBC News がこう報じている。「中国、台湾人600人超を海外で逮捕 中国へ強制送還=人権団体報告書」

 「中国が2016?2019年の間に台湾人600人以上を海外で逮捕し、中国に強制送還していたとする報告書を、人権団体が11月30日に発表した。スペインを拠点とする人権団体「セーフガード・ディフェンダーズ」は報告書で、こうした活動が「台湾の主権を弱めるための道具として利用されている」と指摘している。」

 海外で逮捕された台湾人が中国に強制送還されれば、その人権が危うくなることは目に見えている。被送還者は家族からも知人からも切り離され、仕組みも分からぬ見知らぬ世界で、満足な弁護も受けられなくなるだろう。この人権団体は、「迫害や深刻な人権侵害のリスクがある」と警告しているというが、この600人にとって事態はこの上なく深刻である。

 中国といえば、あっちでもこっちでも「深刻な人権侵害」の話ばかり。台湾の方が遙かに人権と民主主義の国ではないか。「一つの中国」という原則は、人権侵害の拡大を容認するスローガンに変質している。

 その中国での女子テニス選手による性的被害告発事件は深刻な様相である。中国でなければ、被害者や加害者とされた党幹部に、メディアの取材が集中するだろう。被害を告発した者の安否が知れない状態が一か月も続いているのだ。暗黒社会の出来事と言わざるをえない。

 朝日新聞北京特派員の記事によると、

 「中国共産党の元高官から性被害を受けたと告発したプロテニス選手の彭帥さんが、女子テニス協会(WTA)のスティーブ・サイモン最高経営責任者(CEO)らに送ったとされるメールが26日、彭さんの知人のツイッター上で公開された。彭さんは「私のことで騒がないで」「私はいま、邪魔されたくない。特に私の個人的なことで騒がないでほしい。私は静かに暮らしたい。あなたのお気遣いには感謝します」などと伝えたという。

 このメールは事態の沈静化を図りたい党指導部の意向にも沿う内容だが、11月2日にSNSで性被害を告発して以降、この問題に対する彭さん自身の発言機会はなく、真意は分からない。中国国内では一切報道されない状況が続いており、ツイッター上では「なぜ彭さんのメールを他人が公開するのか」「信用できない」などと批判が出ているという。

 さらに、読売は「彭帥さん告発を情報発信した人権派、北京当局が弁護士資格取り消し通知」と報じている。

 「中国・北京市の司法局は、著名な人権派弁護士、 梁小軍氏に対して弁護士資格を取り消す方針を通知した。梁氏のインターネット上での主張が「社会に悪影響をもたらした」としている。梁氏が27日、ツイッター上で明らかにした。
 梁氏は、人権問題について積極的に情報発信してきた数少ない弁護士の一人だ。今月18日には、元政府高官から同意のない性的関係を迫られたと告発した女子テニス選手、彭帥さんや、獄中から無実を訴える女性人権活動家、張展さんの写真をツイッターで投稿し、「彼女たちは世界に勇気を示した」とたたえていた。」

 中国では、「愛国無罪」であり、「人権有罪」なのだ。もう少し正確には、「愛国とは愛党と同義であるが故に無罪」であり、「人権擁護とは反党であるが故に有罪」なのだ。誰もが台湾を応援したくなるのが理の当然ではないか。

最高裁裁判官国民審査の結果をどう見るべきか

(2021年11月30日)
 先月(10月)の末日が総選挙だった。期待を大きく裏切った無念な結果。にわかに勢いづいた有象無象が改憲論議の推進を喚き始めている。

 そして、11月末日の今日、立憲民主党の代表選だった。西村候補か逢坂候補に期待したが、結果は最悪の泉賢太当選だった。野党第一党も、重心が右に動いたと言わざるを得ない。国内で初めての、コロナウイルス・オミクロン株感染発症というニュースもあった。憂鬱なこの頃である。

 総選挙と同時に行われた最高裁裁判官の国民審査の結果はどうだったか。評価は難しい。11月27日、ZOOMで日民協プロジェクトチームの「まとめの会議」を開催した。大山勇一事務局長の議事録で、その内容をご紹介しておきたい。

 冒頭に西川伸一さんから、「今回の最高裁裁判官国民審査」と題してパワポを使っての報告があった。見事な分かりやすい下記の分析。

*今回の国民審査においては、夫婦別姓訴訟という国民に知られた事件の判決(しかもわずか半年前の判決)が争点化された。こうした基準を示すことで注目を集めることができる。

*「×」の数(罷免率)の順位は、
  きれいに夫婦別姓訴訟での判決姿勢で分かれた。
 (A)夫婦同姓強制は「合憲」 4人 罷免率順位1?4位
 (B)夫婦同姓強制は「違憲」 3人 罷免率順位5?7位
 (C)別姓訴訟判決に関与せず 4人 罷免率順位8?11位

*(A)(B)の各群がいずれも(C)群よりも罷免率が高い。これは、意識的な国民の選択の結果。リベラル派は「(A)に×を」、保守派は「(B)に×を」とお互いに呼びかけ結局リベラル派が数を制し、「×を付けよう」という呼びかけの対象にならなかった(C)群が最も罷免率が少ない結果となった。

*罷免率は最大と最小で、「1.9ポイント」という大きな差が出た(過去2番目)。

*NHKなど、多くのメディアで精力的に国民審査について報道した。
(産経新聞記者からすると、「民業圧迫」!?とのこと)

*「夫婦別姓合憲派4人」「違憲派3名」「新任4名」のそれぞれ3つのグループ内では、順序効果(番号の若い人ほどバツが多く付く)があらわれている。

*「審査対象の人数」と「バツの数」は反比例する。これを言い出した政治学者の名をとって、「ダネルスキー効果」という。つまり、審査対象が多いと、バツを書くのを途中で止めてしまう。したがって、審査対象が少ないと、一人当たりのバツの数は多い。

*今回は、有権者が、十分に吟味をして意識的「×」を付ける裁判官を選んだ。

*分かりやすい争点が明示できれば、国民審査は有効に機能する。

★わかりやすい「争点」があれば国民審査は機能する例は、第21回(2009/8/30)国民審査の際の「1票の格差」をめぐる判断で「×」票に差がついたことがある。
 このとき、那須弘平裁判官が、「『あの大法廷判決は、それほどまでに非常識な判決だったのか』と心の中でぼやいたこともある」「不安感が心中を横切らなかったかといえば嘘になる」と述懐している。(「国民審査体験記」『法曹』2017年2月号、6-7頁。)⇒国民審査を経た別の1票の格差訴訟の最高裁判決で違憲に転じる。

この報告の後に、活発な下記の意見が交換があった。

●任命後すぐの国民審査は無意味ではないか。
 しかし、これは憲法改正をしなければ改善されないのかもしれない。

●順序効果をなくすために、回答用紙の判事の記載順序を固定せずに、一枚一枚、ランダムにすれば良い。記載順序を別々にすることは今の印刷技術だったら容易にできるはず。

●選挙に比べて、いつもマスコミは報道しない。マスコミの注目度があがれば、さらにバツの数も増えるのではないか。

●最高裁判事が国民審査の結果を気にしているということは噂には聞いていたが、那須公平氏が文書で公表していることは知らなかった。
(なお、このことが影響しているかどうかわからないが、後日の「一票の格差」訴訟では、那須氏は「合憲」から「違憲」に転じているとのこと)

●総数としては、バツの数が少なかったのは残念。しかし、これも良く吟味した結果なのだろう。

●今回の取り組みは、スタートが遅かった。争点とするテーマを早めに決めて進めることが大切。メディアへの働きかけが重要であることを学んだ。

●恒常的なPTがあれば、さらに良いのではないか。

●サイボウズ社長は夫婦別姓訴訟の当事者だが、国民審査について、「シングルイッシュー」で訴えた。さて、私たちは、トータルでどのように働きかけるべきか。

●夫婦別姓について弁護士や市民が運動をしているということをあらかじめ知っていたら共闘も運動の糾合もできたのではないか。

●今後は、国民審査制度の問題点について検討していくべきではないか。

●国民審査は取り組めばその分だけ最高裁についての関心が広がったという実感がある。

●かつては大阪でも「司独」(司法の独立と民主主義を守る国民連絡会議)の活動を行ってきた。投票日当日も車を回して投票を呼び掛けた。

●選挙管理委員会への申し入れを復活したほうが良い。かつては、「用紙になにも書かなければ信任したことになる。そうしたくない人は用紙を受け取らず返すことができます」という注意書きを貼りだせと要請した。多くの選管が告知してくれた。

●国民審査法を改正することはできないのか。まずは審査をする意思があるか否かで区分けをして、意思がある人についてのみ投票に参加してもらうとか。

●夫婦別姓に反対する勢力がいる。その勢力は、「違憲」判決を出した判事にこそバツをつけるように運動をしたそうだ。

●この活動を通じて、日民協の認知度がアップしたと思う。夫婦別姓について意見が寄せられたのも、それだけこのリーフが注目を受けたからではないか。

●今後は、重要な最高裁判決が出て、個別の判事の意見が出されるたびごとに、「法民」で、その意見を紹介・批判しておくと、集積になる。

●憲法を変えるのはなかなか大変。国民審査法を変えるだけでも大きな改善を図ることができる。記載順番のランダム化などは法改正でできるはず。

●次の国民審査まで少し時間がある。その間にどのようなことに取り組むのか。
最高裁判事の任命方法についてか、審査方法の改善なのか。また、裁判例について学習していくということもある。

●任命手続きの透明化はかならず検討していかなければならないだろう。

●私たち法律家にとってよい判断材料と思われる判決でも、国民にとってはよいとは言えない場合もあるのでは。争点が見つからないときはどうするか。行政法の困難な問題については国民に分かりやすく提示するために工夫が必要。

●任命プロセスが不透明である。例えば、学術会議による推薦枠があっても良いのではないか。しかし、学術会議は、影響力はあるはずなのにあまり関心はないようだが。

●弁護士からの選出についても透明性がない。最高裁(事務総長)への意見を出すべき。

●今回の法律家の運動を市民に知らせていく必要がある。これまで悪い最高裁判決によって労働運動は押されてきた。国民審査の運動を市民に知らせれば、かならず参加してくれる。

●このリーフを地域で配布したら、とても好評だった。

●司法の民主化について、議論のきっかけになった。

●地元の市民連合などに対して、司法の問題を政策協定に入れるように要望した。

●野党共闘がさらに発展して、最高裁改革に結び付けばよいのだが。

●23期の書籍「司法はこれでいいのか、裁判官任官拒否・修習生罷免から50年」を紹介したら、みんな「わくわくしてきた」と元気になる。

●ぜひ、この成果をアピールにして対外的に発表するべき。

●リベラルで知られていた三井裁判官は、「裁判官に対しては厳しく接しないとすぐに堕落していく」と言っていた。時には忌避をするくらい。

●安保違憲訴訟でも悪い判決が続いている。最高裁を変えていくという目標を持つことが大切。

●かつての司独は、公明・総評・日民協が一体となって運動をしていた。その中で、日民協は事務局を担った。

●鷲野さんはこういった運動をしていたにもかかわらず、中央選管の委員になった。鷲野さんの退任直後に、選管への申し入れをしたことがある。丁寧な対応だった。

●もっとも、中央選管は方針を決定するところではない。各地方の選管に、方針を伝達するのみ。最終的な判断は都道府県の選管ごとになされる。

●市民に宣伝する中で、「最高裁と言えども批判していいんだ」という意識を初めてもったとのこと。主権者が意見を言うのは大切。ふだん裁判官は批判されないから、なおさら批判すべき。

●法曹一元の問題も取り組むべき課題。まずは弁護士任官者に話を聞いてみるというのはどうか。適任者は多くいるはず。

●法曹一元については、韓国では実現している。その経験に学ぶということで、先日京都弁護士会でシンポが行われた。

●国民審査法の改正について、かつては改正案が出されて議論がなされた。70年代には社会党が改正案を出したはず。また大阪弁護士会も書籍を出している。東京弁護士会も出しているはず。

●裁判官任命手続きについて、行政手続きなのだから、情報公開請求をしてみるという方法もありうる。

●最高裁裁判官任命諮問委員会という制度がかつてあって、一度だけ実施された。しかし、有効に機能しなかったようだ。これは一度きりの運用でその後に廃止された。

●司法改革の議論がなされたときも、最高裁判事任命についてはほとんど議論がなされていない。

●このPTを発展させて、司法問題を検討するPTにしてはどうか。その成果を、来年、「司法制度研究集会」で発表してみてはどうだろう。

役割分担を決め、次回を設定して散会した。

人権か、それとも「独裁&カネ」か ― 北京オリンピックをめぐって

(2021年11月29日)
 北京冬季オリンピックが近づいている。来年(2022年)2月4日開会予定というからあと2か月余、正確には67日である。東京オリンピックについても誘致から開催強行まで不愉快極まりないものだったが、北京冬季オリンピックはさらにおぞましい。いったい誰のために、何を目指しての、このイベントなのか。

 オリンピック憲章の中には、こんな条項がある。
 「オリンピズムの目的は、人間の尊厳の保持に重きを置く平和な社会の推進を目指すために、人類の調和のとれた発展にスポーツを役立てることである。」

 誰もが、この美しいまでに崇高な理念に共感せざるを得ない。目指すものは、「人間の尊厳」「平和な社会」である。オリンピックこそは平和の祭典であって、万難を排してでも開催することに意義がある。アスリートファーストに徹して政治を介入させるべきではない。私(たち)は、長くそう思いこまされてきた。

 しかし、この思い込みの誤りが次第に明らかになってきた。世界はこれまで、崇高なオリンピックの理念とオリンピック運営の現実との極端な乖離に敢えて目をつぶり、あるいは混同してきたのだ。が、もうオリンピックの理想は絵空事の世界の話。実は、オリンピックの現実は商業主義と権力の汚辱にまみれているのだ。

 我々は、昨年から今夏にかけて、IOCの胡散臭さを身に沁みて思い知らされた。そのトップに君臨するボッタクリ男爵の醜さ愚かさ、そしてその独善性も。「バッカみたい」という言葉に、もの欲しさのいやなニュアンスが付け加えられると、「バッハみたい」となる。北京オリンピック直前の今、またボッタクリがあの顔を出してきた。北京からの要請で北京の顔を立てようとしてのこと。逆効果になるに決まっているのに。

 中国の著名な女子テニス選手である彭帥が、共産党の元最高指導部メンバーで副首相だった張高麗からの性的暴行被害をネットで告白した。これが11月2日のこと。短文投稿サイト微博への投稿は、相手が相手であるだけに相当の覚悟をもってのこと。この投稿は、わずか20分後に削除されたという。驚くべきことである。司法が介入する時間的余裕はない。誰かの一存で、被害者の声が瞬時に掻き消されるのだ。

 この20分間に、彭帥の投稿をキャッチして拡散した人々がいた。こうしてこの投稿は世界中に大きな話題となったが、再びの彭帥の投稿はなく、その安否が気遣われる事態となった。中国社会の暗部と人権状況が露呈したと言うべきだろう。

 当然のことながら、人権を重んじる国際社会からの批判や懸念の声は高く、北京オリンピックボイコットの声が大きく聞こえるようになった。中国当局は国際世論に糾弾されて窮地に陥った。そこに、つまらぬ顔である。例のボッタクリ・バッハ。唐突に、誰に頼まれて、なんのためのつまらぬ顔。

 バッハやIOCが、幾重にも重なった彭帥の人権侵害を憂慮し、中国政府や中国共産党に対する抗議や要請を行った形跡はない。もっぱら、中国当局の窮状を救済する目的の行動に徹したとしか見えない。

 バッハは、11月21日にテレビ電話に登場して彭帥の無事をアピールしたが、世界が納得したわけはない。さあ、69日後の北京冬季五輪はどうなるだろうか。

 その中国は、相当に焦っている。日本にも声をかけてきた。「中国外務省の趙立堅報道官は25日の記者会見で、北京冬季五輪に関連し、『中国は既に、日本の東京五輪開催を全力で支持した。日本は基本的な信義を持つべきだ』と述べた」という。日本側で、中国の人権問題を理由に北京五輪に首脳や政府使節団を送らない「外交的ボイコット」を求める声が出ていることを牽制し、開催への支持を求めてものと理解されている。

 私は知らなかった。『中国は東京五輪開催を全力で支持した』んだ。そんな怪しからんことをしていたのか。習近平政権と菅政権、悪党どもにも語るべき『信義』というものはあるんだ。

 また趙は、林芳正外相の訪中に反対する自民党内の声に触れて、「北京冬季五輪と二国間の政治問題を関連付け、スポーツを政治問題化し、五輪精神を汚すものだ。中国は断固として反対する」と反発したという。あれっ、中国は「いかなる国も他国の内政に干渉してはならない」と言ってたんじゃなかったっけ? そもそも「五輪を政治問題化している」のはだあれだ? 「選手の人権を軽んじて、五輪精神を汚している」のはどこの国?

 もともと、北京オリンピックをボイコットしようという動きは、人権問題での中国への抗議をきっかけとする各国人権団体の運動から始まった。新疆ウイグル自治区でのイスラム系ウイグル人への弾圧をジェノサイドだとする人権団体グループも多く、中国当局による少数民族への人権抑圧への抗議の声は高い。ウイグル、チベット、香港、内モンゴル、および中国の民主主義運動家の代表からなる広範な連合は、選手派遣の中止といった断固たるボイコットからいわゆる外交ボイコットまで、あらゆる対応を求めている。今、その動きは、現実に主要国の外交を動かし、「外交ボイコット」の動きとして現実化しつつある。

 今北京オリンピックのあり方をめぐっては、世界が人権擁護派と非人権擁護派の二つに分裂してせめぎあっている。人権擁護派の先頭に立つのが、これまでは各国の人権擁護団体だったが、いま偶然の事情から毅然としたWTA(女子テニス協会)となった。そして、これに与するビリー・ジーン・キング、セリーナ・ウィリアムズ、大坂なおみであり、男子選手ではジョコビッチ等々である。

 そして、非人権擁護派の陣営は、中国共産党とIOCの連合体である。はからずもその先頭の位置に立たされたのが、ボッタクリ男爵その人。中国共産党は一党独裁の威信にかけて北京オリンピックの成功が課題であり、IOCとバッハは、カネ・カネ・カネである。独裁政権と商業主義のこれ以上ない醜悪なハイブリッドというほかはない。

 習近平とIOCのために、独裁政権の確立とカネ・カネ・カネを目指しての北京オリンピック。その正体が明らかになるにつけて、白けるばかりである。

オリンピックは実に汚い。こんなものへの公費のつぎ込みは一切やめようではないか。

(2021年11月28日)
 ロイターの報道がメインのようだが、11月25日ブラジル・リオデジャネイロの連邦裁判所(一審)は、2016年のリオ五輪組織委員会会長だった被告人カルロス・ヌズマン(79)に対して禁錮30年11月の判決を下した。

 ヌズマンは、ブラジル・オリンピック委員会の会長を20年以上も務め、リオ五輪招致の中心的な存在だった人物。16年の五輪開催地を決める09年10月の国際オリンピック委員会(IOC)総会を前に、投票権を持つ有力なIOC委員だった国際陸連(現世界陸連)前会長のラミン・ディアク(セネガル)らに200万ドル(約2億2600万円)の賄賂を渡したとして有罪になった。被告罪名は、贈賄・マネーロンダリング(資金洗浄)などだという。弁護人は控訴の方針だとか。

 日本では、民間団体であるIOCやJOC関係者の贈収賄は処罰対象とはならない。ブラジルには処罰規程があるのだろう。ブラジル連邦警察は17年10月にヌズマンを逮捕した。彼の地の警察も検察も、裁判所も、よく機能している。ここではオリンピックが聖域化されてはいないのだ。

 このニュース、この被告人が東京五輪誘致の中心人物とよく似た立場であることを連想させる。何より注目すべきは、被告人の贈賄先であるラミン・ディアク(セネガル)という人物名だ。そして、贈賄額の200万ドル(約2億2600万円)。あの人の疑惑と瓜二つではないか。

 ラミン・ディアクは元国際オリンピック委員会(IOC)委員、16年のリオ五輪だけでなく、21年開催の東京五輪を巡る招致活動でも収賄の疑いがかけられている。その賄賂を贈賄した疑惑が持たれているのは、日本オリンピック委員会(JOC)の竹田恒和前会長。ブラジルのヌズマンとまことによく似た立場。フランス当局が、竹田を贈賄容疑で正式捜査の対象としたとの報道のあと、コロナのお蔭か捜査の進展の報道が不透明となっている。

 それでも、今年(2021年)の夏には「JOCが弁護費用2億円負担 五輪招致で疑惑の元会長に」という記事が各紙に掲載されている。「元会長」とは、竹田恒和のこと。被疑者としての弁護費用に既に2億円を要しているところ、その全額をJOCが負担しているというのだ。もちろん、JOCには税金を原資とする巨額の補助金が注入されている、今年度(21年度)予算では、受取補助金として76億円が計上されている。文春オンラインには、「2019年度の決算資料には、補助金などの収益が161億円超あり」と報道されている。そこから、竹田個人の弁護費用の支出には大いに違和感を感じでざるを得ない。潔さに欠ける、と言っても通じないだろうが。

 本年8月8日の朝日の報道は以下のとおり。

 「東京オリンピック(五輪)・パラリンピック招致をめぐる贈賄疑惑でフランス司法当局の捜査を受けている竹田恒和・元招致委員会理事長の弁護費用が2020年度までの3年間で約2億円に上り、その全額を竹田氏が19年6月まで会長を務めていた日本オリンピック委員会(JOC)が負担していることがわかった。JOCは19年3月の理事会で費用負担を決議しており、今年度以降も、捜査終結まで負担するという。

 JOC関係者によると、竹田氏には日仏の合同弁護士チームがついており、翻訳料金なども含むと、JOCの負担額は仏当局の捜査が本格化した18年度が約6千万円、19年度は約1億円、20年度は約4千万円だった。

 竹田氏は朝日新聞の取材に対し、弁護士を通じて「私は、JOC会長職にあったことから、規約により招致委員会の理事長となりました。本件は、理事長の職務として行った行為であり、私的な利益や動機は全くありません。山下(泰裕)会長を始めとするJOC理事会のご理解には深く感謝しており、私の身の潔白を証明することでその信頼にこたえたい」とコメントした。」

 私は、なんでも刑事事件化して、徹底して捜査を尽くすべきだとは思わない。ブラジルやフランスのように、日本ももっと幅の広い増収賄処罰規定が必要だとも思わない。

 しかし、わけの分からぬところで、わけの分からぬ輩がうごめき、わけの分からぬカネが動いての東京五輪誘致実現はなんとしても、納得しかねる。

 東京五輪誘致のために電通や竹田がどのように動いたのか、誘致のための費用はどう捻出され、どう使われたのか、徹底して明るみに出していただきたい。

 我々はオリンピックの現実をボッタクリ男爵の薄汚さによって学んだばかりである。IOCもJOCも商業主義に汚染され、カネを目当ての連中によって運営されているのだ。もう、こんなものには見切りを付けよう。納税者の名において、国費も都費も一切の公費のつぎ込みをやめようではないか。

「新しい資本主義」とは徹底したアベノミクス批判の所産である。

(2021年11月27日)
 「週刊金曜日」(11月19日号)に「浜矩子の経済私考」というコラムが掲載されている。その表題が、《『新しい資本主義実現会議』のとっても緊急提言らしい緊急提言》という、ちょっと不思議な長い文章になっている。

 岸田のいう『新しい資本主義』とはいったい何なのだろう。浜矩子はどうとらえているのだろうか。そういう関心から読み始めると肩透かしを食らう。《この岸田の緊急提言は、いかにも泥縄に拵え上げられた『緊急』提言らしい緊急提言で、読んでも何が言いたいのか分からない》《むしろ、悪文の見本としての教材として有用である》という趣旨。さすが浜さん、歯に衣着せずに本当のことをおっしゃる。

 浜さんの文章を全文引用したいところだが、やや長い。抜粋して引用させていただく。

 岸田文雄首相の肝いりで立ち上げられた「新しい資本主義実現会議」が、11月8日に緊急提言を発表した。副題に「未来を切り拓く『新しい資本主議』とその起動に向けて」とある。
 Iから?の三部構成で、Iが総論、?が成長戦略編、?が分配戦略編となっている。Iを熟読してみた。ここを読めば、岸田氏が自民党総裁選以来、一貫して前面に打ち出してきた「新しい資本主義」の何たるかがいよいよわかる。そう考えたからである。
 結論的に言えば、岸田氏が考える「新しい資本主義」が何物であるかは、皆目、わからなかった。わからなかったから、論評のしようがない。

 だが、一つ、とてもよくわかったことがある。この緊急提言は、実に緊急提言らしい。大急ぎで、疾風怒濤のごとく取りまとめた観が実に濃厚だ。
 取りまとめたというよりは、寄せ集めたという印象だ。思いつく言葉を、手当たり次第、放り込んだ。そんな文章運びになってる。いや、文章運びにはなっていない。文章散らばしだ。そして、多くの文章が長すぎる。一つの文章でたくさんのことを言おうとしすぎている。

 ……文章が長くなりすぎると、必ず文法が破綻する。文頭と文末の関係が不整合になる。それだけならまだいい。長すぎる文章は、途中で話題が変わってしまうことがある。こうなると、目もあてられない。
 長すぎる文章は、声に出して読み上げると、途中で息が切れて苦しくなる。息継ぎが必要な文章は、長すぎると断定していい。文章が長すぎると、読み終えた頃には、冒頭がどうなっていたかを忘れている。読み直しが必要となる。だが、いくら読み直しても、最後にたどり着いた時には最初を忘れている。無限ループの地獄に陥る。

 「新しい資本主義実現会議」の緊急提言に、以上の全てが面白いようにあてはまる。この「緊急提言」は、「良き論文の書き方」の反面教師として教材に使える。

 この岸田政権の文章は「良き論文の書き方」の反面教師としての教材なのだ。端的に言えば、「悪しき論文の典型」にほかならない。こう紹介されると、読者は「そんなつまらないものは見たくもない」派と、「そんなヘンなものならぜひ目を通しておかなくては」派に分かれるだろう。私は後者なので、官邸の下記URLを開いてみた。「?.新しい資本主義の起動に向けた考え方」の部分だけなら、1500字ほどの文章。

https://www.cas.go.jp/jp/seisaku/atarashii_sihonsyugi/kaigi/dai2/shiryou2.pdf

 なるほど、浜さんがこうまで悪文と言ったわけを納得する。浜さんに、こう言ってもらわないと、論旨を把握できない自分の読解力に問題があるのかと焦ることになってしまったかもしれない。

 それとともに、別の感想ももった。このわかりにくい文章は、実は、「新しい資本主義」を論じたものではなく、徹底したアベノミクス批判なのではないのだろうか。その暗喩だからこそ、ことさらに分かりにくくなっているのではないだろうか。岸田は、本当のところは下記のように言いたかったに違いない…と思うのだが。

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新自由主義を脱却した「新しい資本主義」の起動に向けて


 政府は、資本の横暴を野放しにして成長一辺倒をコンセプトとした新自由主義経済を克服するため、内閣に「新しい資本主義」実現本部を設置した。

 現在、世界各国において、地球環境の持続可能性や「人の尊厳」を重視し、資本の利潤追求を抑制する「新しい資本主義」の構築を目指す動きが進んでおり、我が国がこの動きを先導することを目指す。

 具体的には、1980年代以降、世界を席巻した新自由主義の傾向が強まり、大資本の活動の自由が過度に強調され、市場原理主義や規制緩和政策跋扈の結果、一方に富の集中が加速し、他方に労働者や中間層の所得は伸び悩み、今や耐えがたい格差と環境破壊が、資本主義の行き詰まりを露呈している。

 小泉政権時代から始まり安倍政権に至る、新自由主義的経済政策は悉く失敗に帰した。とりわけ、アベノミクスが今日の顕著な、日本経済の停滞、格差の拡大、下請け企業へのしわ寄せ、自然環境破壊、正規非正規の差別、男女賃金格差等々の矛盾を拡大してきたことを率直に認めるところからしか、日本経済再生の途はない。

 全てを市場原理に任せて、大資本・グローバル資本の横暴を恣にしたこれまでの経済政策の失敗を深刻に反省して、今こそ、民主主義の政治をもって、所得と資産の再分配を実行しなければならない。

 江戸時代の商人でさえ「三方良し」を理念とし、企業活動は「消費者に良し」「社会に良し」というかたちで企業の利潤獲得以上の理念や価値の存在を認めていた。

 今まさしく、《社会・自然環境・人権・多様性・格差の是正等々の諸正義と並立する、新しい時代の経済》を創る必要がある。

 また、何よりも合理的な再分配の実現が、最初の一歩である。企業の利益を従業員に賃金増額の形で分配してはじめて消費の拡大につながり、消費拡大によって需要が拡大すれば、企業収益が更に向上して、成長につながる。分配戦略こそが、成長を支える重要な基盤である。

 さらに、経済は社会に生きる人々の幸福追求に奉仕するものでなくてはならない。経済成長や資本のための制度設計、あるいは人の幸福を阻害しない経済という消極的な位置づけから脱却し、積極的に人の自由と生き甲斐と豊かさに奉仕する経済を目指さなければならない。
 そのための教育制度を改革し、多様性(ダイバーシティ)と包摂性(インクルージョン)を尊重し、女性や若者、非正規の方、地方を含めて、国民全員が参加・活躍できる社会を創り、一人一人が付加価値を生み出す環境を整備する必要がある。また、リカレント教育やセーフティーネットの整備を通じて、やり直しのできる社会、誰一人として取り残さない社会を実現する必要がある。また、人たるに値する生活水準の保証の上に、適正な評価にもとづく配分の積み重ねが必要である。

このような視点を含めて、我が国においても、まずは分配戦略を確実にして、これを基盤とする生産性向上を目指す。その果実を働く人々に賃金や応能主義税制を採用しての手厚い社会保障の形で再分配することで、広く国民の所得水準を向上させて、次の成長を実現する。そのような「分配と成長との好循環」の実現に向けて、政府、民間企業、労働者、労働組合、大学等、地域社会、国民・生活者がそれぞれの役割を果たしながら、あらゆる政策を総動員していく必要がある。

「新しい資本主義」実現会議では、こういった基本的な考え方を踏まえて、ビジョンとその具体化の方策を取りまとめ、世界に向けて率先して発信していく必要がある。策定にあたっては、車座対話を随時開催し、特に経済的な弱者・困窮者層やその代弁者からの関係者の方々の声を丁寧に聞きながら、検討を進めていく。

 以上のとおりアベノミクスに対する徹底批判こそが、「新しい資本主義」の真意であり、岸田内閣が最優先で取り組むべき施策なのである。

ドイツ新政権、核禁条約会議に参加へ。日本は何もしない起承転結。

(2021年11月26日)
 ドイツが変わる。アンゲラ・メルケルからオラフ・ショルツへ。首相の所属政党は、キリスト教民主同盟(CDU)から民主社会党(SPD)へ、である。

 9月のドイツ総選挙で第1党となったのが中道左派の社会民主党(SPD)。同党はこれまでメルケルを首班とする大連立政権に参加していたのだが、今回、緑の党、自由民主党(FDP)との3党連立内閣を作ることとなった。その3党連立の合意が24日に成立した。12月上旬に、民主社会党(SPD)党首であるショルツを首班とする新連立政権が誕生する。

 新政権での幾つかの変化が報じられているが、最も注目されるのが《核兵器禁止条約締約国会議へのオブザーバー参加》である。3党連立の合意文書は、「国際的な核軍縮において主導的な役割を果たしたい」と表明。「核兵器のない世界、ドイツを目指す」としている。「メンバーではなくオブザーバーとして参加し、条約の意図に建設的に寄り添っていく」という姿勢。もっとも、同時にロシアなどの脅威を念頭に、米国と核兵器の運用を「共有」する仕組みを維持する姿勢も明確にされているという。

 核禁条約は全ての核兵器を違法とし、核の使用だけでなく、製造・保有も禁止している。今年1月に正式に発効。これまでに50以上の国・地域が批准の手続きを終え、来年3月にウィーンで第1回締約国会議を開催する。ドイツは、同会議でのオブザーバー参加国となる。その参加表明は、主要7カ国(G7)で初めてのことであり、NATO加盟国としてはノルウェーに次いで2番目だという。

 国際NGO「核兵器廃絶国際キャンペーン」(ICAN)のフィン事務局長は「何十年もの間、核兵器に反対してきたドイツ国民にとって、重要な一歩を踏み出したことを意味する」と歓迎する声明を出した。日本国内の被爆地や被爆者団体はこのニュースに湧いている。日本も、ドイツに続くべきだし、一歩前進が現実的に可能だという期待の確信が高まっている。

 米国の「核の傘」に依存し国内に米軍基地を置くドイツのオブザーバー参加表明である。唯一の戦争被爆国・日本がドイツに続くべきは当然で、ここで動かなければ、ドイツに比較しての岸田政権の後ろ向きの姿勢への批判が高まることは目に見えている。

しかし、日本政府が動く気配はない。松野博一官房長官は25日の記者会見で、まずは、「条約に核兵器国は一国も参加していない」と強調した。その上で、核兵器禁止条約締約国会議について、「オブザーバー参加といった対応よりも、我が国としては唯一の戦争被爆国として、核兵器国を実質的な核軍縮に一層関与させるよう努力しなければならない」と述べている。要するに、何もしませんという宣言である。

 日本政府は、一貫して核禁条約に背を向けてきた。本当は一顧だにする気もないのだ。しかし、核廃絶を願う世論を無碍にもできない。そこで、こういう起承転結の論法を編み出した。

(起) 「日本は唯一の戦争被爆国として、世界の核廃絶を目指す」
(承) 「そのためには核保有国に核廃絶を決意させることが必要だ」
(転) 「非核国による核保有国批判は、核保有国刺激の逆効果だけ」
(結) 「日本は両者間の橋渡しをして核保有国に核廃絶を決意させる」

 まずは、目標をはるか遠くに設定する(起)。次いで、そのはるかな目標に密接した困難な条件を提示する(承)。その困難な条件をクリヤーするためには目前の実現可能な課題の効果を否定する(転)。そして、何もしないことを合理化する(結)。

亡父が残した軍隊生活メモ(続き)

(2021年11月25日)
 私の父は、兵営から長男の私宛に、軍事郵便のハガキを一通だけ書いている。昭和20(1945)年3月7日の日付のもの。

葉書の文面は
「毎日お父さんの写真の前に行っておじぎをしてゐるとは愛い奴じゃ 余は満足に思ふぞ」
この文面について、父が戦後に書いたメモがある。
「統一郎はこの頃一歳半。その後赤羽の祖父(私から見ての母方の祖父)や光子(私の母)と毎日のように八幡さんや護国神社にお参りしたとも聞いた。」


同じ頃の「光子様」宛の葉書
本文「3月1日現在の軍人軍属臨時届をしたであろうか? これから送る繪は何かに貼って大切に保存して呉れ みんなに宛てたのもそうしてくれればなほいゝ」
メモ「そうは書いたが、まもなく青森県三本木町(現十和田市)に近い相坂村字小坂に駐留(奥入瀬川畔)あまり絵を書かないようになったと思う。


士官適任証をもらっていたところから仙台の予備士官学校に行くことになったが間ぎわになって急性肺炎を患う。自動車で八戸陸運病院の玄関へ入ったところで人事不省。熱40度を超し、大声を発し刀を抜いて振り回すので、軍医は熱が下がったら弘前の精神病院に回すと言った由。当番兵七戸上等兵には随分お世話になった。退院の日仙台市が爆撃されたと聞いた。


あまり繪は描かず、もっぱら絵芝居で各中隊や村民への慰問に回ったりした。相坂へ来る前、弘前の部隊へ音丸(歌手)一行が慰問に来、その中に腹話術があった。私も行ってみたいと思い、独学の工夫を始めた。前歯の空いているのがいけないと三本木の歯科医へ通って(片道6 kmぐらいか)冠をかぶせてもらう。


前の召集の時には一日とて召集解除を願わぬ日はなかったが、この度はーこの戦いとても勝てそうにない。と言って負けるとも思えない。とすれば長期戦になるのであろうーと腹を決め召集解除のことはあまり考えなかった。

                  ―― ―― ―― ―― ――

8月15日敗戦ヘ。兵具を納め部隊解散までには少々間があり村人の作ってくれた濁り酒を飲み9月末に貨車に乗って盛岡へ帰った


第1回招集 3年7ヶ月
帰郷     10ヶ月
第2回招集 1年3ヶ月

 軍隊生活は私にとって何であったろうか
 全く聖戦と思っていたし、実弾の下をくぐったことも白刃を振ったこともなく、演習に次ぐ演習。
辛くはあったが軍隊を地獄と思ったことはない。
体を鍛えてもらっただけでも私は恵まれた星の下において頂たのだと思う。


以下は、満州での兵隊生活メモである。すべて、スケッチが付いている。

1月30日か31日が歩兵第31聯隊の黒溝台記念日(日露戦争での激戦)で毎年耐寒行軍があった。
昭和17年1月の行軍は行程10キロほど。朝5時に兵営を出て、遅くも8時には帰営して朝食の予定。ところが、歩けど歩けど、兵営に帰り着かない。前の大隊副官の馬もパカパカ歩を進めているし、私たちも普通に歩いているつもりだが、時たつばかり。防寒靴の裏には雪のコブがつく、凍傷で倒れるものがでる。帰着したのは13時だった。零下42度の不思議な出来事だった。
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10分間の小休止でも、兵は叉銃(さじゅう)するとゴロリと横になってすぐいびきをかいた。起床!の声に目を覚ますと、外套の上には厚い霜柱が立っていたものだ。
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水の欠乏に耐える訓練をするとて、一か月間ほど奥地へ入って天幕生活をしたことがある。コップ一杯の水で洗顔と口濯ぎ。行軍の際1日で水筒一つ入浴なし。でも時々小川へ入って水を浴びた。この絵(ランプ)はその時のもの。
どこで手に入れたか定かでないが、真鍮製の矢立を持っていた。この絵はそれで描いたもののように記憶している。
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演習地でよくノロを見た。雄には立派な角がある。日本の鹿より少し小さかったように思う。はやすと、どこまでもまっすぐに逃げ、曲がることをしなかった。
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演習は厳しかった。
炎熱下、水筒の水がきれ、路上の溜まり水を飲んだこともある。
夜行軍では、眠りながら歩いた。前の兵が道を曲がったのに気付かず、まっすぐ歩いて沼の中へズブズブ。後に続く兵もズブズブ、腰まで浸かったところで気が付いたということもある。
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兵が「班長殿、鱈を取ってきました」ー 大きな魚をぶら下げてきた。「鱈は海の魚だぞ」とよくよく見ればヒゲがある。それは大鯰だった。
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休憩時の話といえば、召集解除と美味しかった食べ物の事。
慰問袋のスルメを細く切って2、3日水に浸し、――これは、とろろ。
生大根を輪切りにして――これは、かまぼこ。
人参を角に薄く切って――これは刺身にしよう。
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四方八方見渡しても、山も見えず、一本の木も見えぬ曠野で演習していた時、伏せ!の号令で伏せると、蝉の声が聞こえる。進め!で立つと<何も聞こえない。はてメンヨウな。次に伏せた時よく見ると、菫ほどの大きさのアヤメの葉に深山蝉が止まって鳴いていた。これがその実物大である。(小さな蝉の絵に下記の一句)

 志ん志んと 草むらに鳴く 深山蝉  具運莊

渡辺治が語る ー 「激動の10年の政治史と日本民主法律家協会の役割」

(2021年11月24日)
 作日(11月23日)は、日民協創立60周年記念集会だった。60年安保を闘った超党派の法律家運動が、安保後も憲法の理念を擁護し平和を守るための組織をつくった。それが、法律家の統一戦線組織としての日本民主法律家協会である。

 当時、「安保反対」「安保違憲」は国民の常識であった。今も、真っ当な市民の良識ととらえねばならない。

 60周年記念集会のメインの企画は、渡辺治さんの記念講演。演題は「激動の10年の政治史と日本民主法律家協会の役割」というもの。全国町村会館会議室での会場参加とオンライン(Zoom)、ユーチューブ配信でのハイブリッド企画。

 渡辺講演は、たっぷり2時間半。さすがに、緻密な説得力のあるものだった。その講演内容は、「法と民主主義」12月号に掲載されることになるので、詳細はそちらに譲るとして、私の印象に残ったことを少しだけ記録しておきたい。

 渡辺さんによると、2015年を転機として「共闘の時代」が幕を開けたという。共闘とは、「安倍政権の悪政にストップをかけようという市民と野党の共闘」である。このとき、集団的自衛権の行使は許されないとしてきたこれまでの政府解釈を突如強引に変更して「戦争法」を成立させた安倍政権に、未曾有の反対運動が盛り上がった。この運動の中で、市民運動の共闘がまず出来、その呼びかけで民主党・共産党・社民党などの野党による55年ぶりの共闘が実現した。こうして、市民運動と国会内での闘争の連携が前進した。

 この市民運動の高揚の土台には、自衛隊イラク派兵反対や有事法制反対の平和運動、9条の会運動の発展、超党派の反原発運動、そして幅広い法律家運動などの各分野の高揚と共闘への参加があった。

 共闘の一致点は、安保反対でも自衛隊違憲でもない。これまで政府が墨守してきた専守防衛路線の放擲、集団的自衛権の容認への怒りである。自衛隊を認める人も安保を容認する人も、その多くが《安保条約の攻撃的軍事同盟化・自衛隊の海外での武力行使・アメリカの戦争への日本の加担》には反対なのだ。

 こうして始まった「共闘の時代」だが、今回の衆議院選挙は、本格的な「野党共闘路線と自公政権との対立」の初戦であった、という。

 ようやく共通政策ができたのが選挙直前の9月8日。その共通政策の各地への浸透は不十分なままの選挙戦突入であった。それでも共闘の成果を確認することができる。この共通政策を各地域で具体化する努力が必要であり、それが出来たところでは小選挙区での勝利を勝ち取っている

 この立憲各党の初めての本格的な選挙共闘に対しては、初めて本格的な自公政権側からの攻撃がなされた。今回は、その攻撃への対応が不十分だったというほかはないが、次からの戦いにこの経験を活かさなければならない。

 この辺りはよく整理された分かり易い選挙総括と言うべきであろうが、興味深かったのは会場からの質問に対する回答としてなされた幾つかの解説。

 まずは連合をどう見るかということについて

 渡辺説では、連合を実体以上に過大視してはならないという。そもそも連合は一枚岩ではない。確かに民間大企業労組は共闘路線に反対ではあるが、官公労は決して反共闘派ではない。むしろ「平和フォーラム」を結成して積極的に野党共闘の一翼を担っている。

 連合中央は紛れもなく反共・反共闘の立場だが、全国に組織を持っている官公労の意見を無視することはできない。またトヨタに代表されるような大企業の労働組合は地域ではともかく、決して全国的な影響力を持つものではない。何よりもトヨタなど大企業正社員の支持政党は野党ではなく自民党である。自民党の新自由主義路線の徹底で大企業が儲かれば自分たちも潤う、という意識が今の民間大企業正社員労働者の意識であって、決して立憲民主党や国民民主を支持する立場ではない。

 維新については、言われる通り自民党に愛想をつかした保守票の受け皿となって、今回選挙では票と議席を伸ばしたということは基本的に当たっている。しかし、それだけでは説明のつかないことが多くある

 維新は徹底した新自由主義理念の政党と考えてよい。大阪で地方権力を握った維新は、保健所を減らし公立病院を減らし、公務員の人員を削減して人気を博した。さらに、こうして予算を浮かせたその金で高校教育無償化などというポイントの政策に金をつぎ込んでおおきな人気を勝ち得た。この路線は、財政に余裕のある大阪だからできたことで、余裕のない関西の他の府県でできることではない。

 また東京でも、維新は票を伸ばしたがこれは関西の維新票とは性格が違う。東京で維新を支持したのは富裕層、ないしは大企業正社員層とみて良い。自民党以上の徹底した新自由主義路線にもとづく政治改革に期待し歓迎した層である。
 

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