澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

中国共産党の民主主義論は、神権天皇を寿ぐ無内容な美文によく似ている。

(2021年12月13日)
 アメリカのバイデン政権が、「価値観を共有する」友好国を招いて「民主主義サミット」を開催し、これに中・露など「価値観を共有せざる」諸国が反発している。連合国対枢軸諸国の対立を再現するようなことがあってはならないが、人権や民主主義の蹂躙に対する必要な批判を遠慮してはならない。

 色をなした体で中国が反論を試みていることが興味深い。さすがに、批判は身にこたえるのだ。「民主主義なんぞ何の価値があるものか」と開き直ることはできない。「偉大な習近平の指導に従うことこそが、人民の利益に適うのだ」と言いたいところだが、そのような言葉は呑み込まざるを得ない。そして、おっしゃることは、「結党以来100年、中国共産党は民主を貫いてきた」である。へ?え、そうだったんですか。ちっとも知りませんでした。

 思い起こせば、孫文「三民主義」に「民権主義」があり、毛沢東に「新民主主義論」(1940年)がある。民主主義をないがしろにするとは言えないのだ。とは言え、革命中国においても、党の支配を制約する「民権」「民主」を貫いてきたとは、意外も意外。

 中国に民主主義があるのか、固唾を飲んで見守ったのは1989年6月天安門事件のときだった。その後、中国に民主主義の片鱗でも残されていないか、固唾を飲んで見守ったのは2020年香港の事態である。1989年に絶望し、2020年には、その絶望を確認するしかなかった。

 にもかかわらず、中国はこう言っている。「中国にも民主主義はある。但し、それは英米流のものではない」「中国の近代化では、西洋の民主主義モデルをそのまま模倣するのではなく中国式民主主義を創造した」「中国は独自に質の高い民主主義を実践してきた」。

 要するにに、「民主主義」に「中国式の」という修飾を付加すると、別物になってしまうのだ。

 昨年(2020年)6月、国連の人権理事会でカナダなど40か国余が共同して、「中国に対して、国連高等弁務官の新疆入りの容認を求める共同声明」を発表した。その共同声明は新疆での人権弾圧問題でけでなく、「国家安全維持法(国安法)下での香港の基本的自由悪化とチベットでの人権状況を引き続き深く懸念している」とも指摘していた。
 これに対して、ジュネーブの中国国連代表部の上級外交官Jiang Yingfengは、共同声明が指摘した問題の存在を否定して「政治的な動機」に基づいた干渉だと非難し、香港問題については、「国安法制定以降、香港では混乱から法の支配への変化が見られている」と述べた。(ロイター)
 https://jp.reuters.com/article/china-rights-un-idJPKCN2DY137

 香港では、権力が市民の言論の自由を奪い、出版の自由を妨害し、権力を批判する新聞を廃刊に追い込み、中国共産党の統制に服さない結社を解散させ、デモさえ許さず、恣に活動家を逮捕し起訴し有罪判決を言い渡している。この事態を中国共産党は、「混乱から法の支配への変化」というのだ。

 中国共産党にとっては、民主主義とは「望ましからざる混乱」に過ぎない。民主主義が必然とする市民の自由な諸活動を徹底して弾圧し、押さえ込むことこそが「あるべき法の支配」だというのだ。中国共産党の恐るべき本心、そして恐るべき詭弁である。

 最近中国の民主主義に関する論説を読んでいると、なんとなく既視感を禁じえない。戦前の神権天皇制政府を持ち上げた、あの恐るべき無内容ながらも、延々たる美文によく似ているのだ。

 あのバカげた神権天皇制の権威主義的政治体制についてさえ、「五箇条のご誓文を淵源とする民主主義の精神で貫かれている」と持ち上げる倒錯した論説もある。また、万世一系の天皇は「臣民を赤子としてこの上なくお慈しみあそばされた」という愚論もある。これが、中国共産党の民主主義論によく似ているのだ。

 万世一系を中国共産党の無謬性に置き換え、天皇を習近平に、臣民を人民に読み替えれば、実はたいして変わらない。両体制とも、これこそが臣民(人民)の利益を擁護するための最高の政治体制であることを疑っていない。民主主義なんぞは非効率であるばかりでなく間違ってばかり。そう言えば、八紘一宇の思想は一帯一路に似ているではないか。

 民主主義が、画一化され定型化された政治理念でないことは当然である。しかし、「文化は多様」「文明は多様」「それぞれの国や民族の歴史や伝統は多様」というレベルで「民主主義も多様」と言えば、明らかに民主主義否定の詭弁でしかない。重要なことは、民主主義を支えている具体的な諸制度や自由の検証である。「中国的民主主義」は、とうていそのような検証に耐え得る代物ではない。

献金も 平たく言えば 賄賂なり

(2021年12月12日)
 一昨日の維新の政治資金規正法違反告発について、足りないところを補いたい。
 政治資金規正法の理念は、大きくは二つある。
 一つは、《(1) 政治資金の動きを透明化し、国民の目に見えるようにすること》であり、もう一つは、《(2) 政治資金の流れに一定の縛りを儲けて、カネの力で政治を動かすことに歯止めをかけること》である。
 
 (1)の目的は、各政治団体の収支や資産状況を明らかにすることによって、その政治団体を経済的に支えている人や団体を明確にすることにある。そのことを明らかにすることによって、それぞれの政党や政治団体の性格の把握が可能となる。それが、国民の次の投票行動に結びつくことが期待されている。

 たとえば、DHC・吉田嘉明やフジ住宅から献金を受けている政党や政治家は、ヘイト体質だと考えてよい。アパホテルからの寄附を受けていれば、歴史修正主義と親和性が高いと判断されるだろう。

 今回話題となった維新の政治資金収支報告では、金融市場でのマネーゲームで大儲けをしていた人物から、年に2150万円もの政治献金を受けていることが明らかとなった。維新とはそういう性格の政党なのだ。そういう勢力から、献金を受けて恥じない政党なのだ。しかも、村上世彰といえば、インサイダー取引で有罪確定した人物ではないか。

 (2)の目的は、極端な不公正が生じることのないように、政治献金の量的・質的取締りを行おうというというものである。村上世彰の維新への政治献金は法が取り締まらざるを得ない巨額なのだ。

 貧者の一灯が集まって支えている政党であるか、マネーゲームの上がりを原資とする献金を集めて運営されている政党であるか、国民は目を凝らして注視し、そして判断しなければならない。自分にとって、誰が味方で、誰が敵なのかを。

 しばらく前に、私のブログに「そのカネが無償の愛のはずはない」という表題の記事を書いた。DHC・吉田嘉明の渡辺喜美(当時・みんなの党)に対する8億円貸付に関してのものだが、村上世彰の維新への政治献金についても当てはまる。

 毎日新聞「仲畑流万能川柳」(略称「万柳」)欄、2015年2月10日掲載の末尾18句目に、
  民意なら万柳(ここ)の投句でよくわかる(大阪 ださい治)
とある。まったくそのとおりだ。

 その民意反映句として、第4句に目が留まった。
  出すほうは賄賂のつもりだよ献金(富里 石橋勤)
 思わず膝を打つ。まったくそのとおり。

 過去の句を少し調べてみたら、次のようなものが見つかった。
  献金も 平たく言えば 賄賂なり(日立 峰松清高)
  献金が無償の愛のはずがない(久喜 宮本佳則)
  超ケチな社長が献金する理由(白石 よねづ徹夜)

 選に洩れた「没句供養」欄の
  献金と賄賂の違い霧と靄(別府 吉四六)
という句も実に面白い。庶民感覚からは、疑いもなく「献金=賄賂」である。譲歩しても「献金≒賄賂」。

 国語としての賄賂の語釈に優れたものが見あたらない。とりあえずは、面白くもおかしくもない広辞苑から、「不正な目的で贈る金品」としておこう。「アンダーテーブル」、「袖の下」、「にぎにぎ」という裏に隠れた語感が出ていないのが不満だが。
 
 村上ファンド・村上世彰から維新・馬場伸幸への政治献金として渡ったカネは、これが健全な庶民感覚に照らして「不正な目的で贈る金品」の範疇に含まれることは理の当然というべきだろう。

 前述の各川柳子の言い回しを借りれば、この2150万円は、「出すほうは賄賂のつもりだよ」であり、「平たく言えば 賄賂なり」である。なぜならば、「出すカネが無償の愛のはずがない」のであって、「超ケチな社長が金を出す理由」は別のところにちゃんとある。結局は、「無償の政治献金」と、「私益を求めての賄賂」の違いは、その実態や当事者間の思惑において「霧と靄」の程度の差のものでしかない。これが社会の常識なのだ。

維新の政治資金規正法違反告発と、被告発人馬場伸幸の弁明

(2021年12月11日)
 昨日(12月10日)上脇博之さんら学者グループ11名が告発人となって、大阪地検に維新の政治献金収支における違法を告発した。告発代理人弁護士は阪口徳雄君以下21名。私もその一人である。

本日の赤旗は、この告発を次のように報じている。

「維新共同代表らを告発」「投資家から上限超す献金の疑い」「教授ら大阪地検に」
 日本維新の会とその党支部が2020年、旧「村上ファンド」で知られた投資家の村上世彰(よしあき)氏から政治資金規正法が定める年間の上限額を上回る計2150万円の寄付を受けたと届け出ていた問題で、神戸学院大学の上脇博之教授ら11人が10日、規正法違反の疑いがあるとして村上氏や維新の会の馬場伸幸共同代表らを大阪地検特捜部に告発しました。

 告発状によると、党本部である日本維新の会は、20年10月26日に村上氏から2000万円の寄付を受けました。翌27日には馬場幹事長(当時)が代表者の「日本維新の会衆議院大阪府第17選挙区支部」が、村上氏からの寄付150万円を受け取ったため、上限を超える寄付を受けた疑いがあるとしています。

 規正法は、一個人から政党への年間の寄付が2000万円を「超えることができない」としています。党本部と支部の額は合算され、違反した場合は寄付と受領の双方に「1年以下の禁錮または50万円以下の罰金」を規定しています。

 本紙はこの問題を1日に維新の会に質問し、3日付で特報していました。馬場氏は8日に自身のツイッターで、支部が政治資金収支報告書で届け出た150万円の寄付について、別団体である馬場氏の後援会への寄付を支部への寄付として誤記したと説明。今月1日に収支報告書を訂正したとしています。

NHKは、被告発人馬場の弁明を次のように報道している。

【馬場氏“ケアレスミス”】
 告発状を提出されたことについて、馬場氏は「事務所が記載する団体を間違えたケアレスミスだった。今後は、このようなことがないよう複数人態勢でチェックするように事務所に指示した」とコメントしています。

 政治家の責任逃れは、自民党だけの専売特許ではない。「秘書のせい、部下のせいで、オレの責任じゃない」という醜悪なセリフがここでも聞かれる。決して自らの身を切ろうとはせず、秘書や部下に責任を転嫁してすまそうというみっともなさ。

 被告発人馬場はこう言っている。「村上から維新本部への寄附のうち2000万円は維新の本部に、150万円は馬場個人の後援会口座に振り込まれた。ところが、それを後援会事務所職員のケアレスミスで 大阪府第17選挙区支部の入金として届けてしまった。今は訂正されているのだから問題はない」
 それはない。常識的に考えられない不自然な弁明としか言いようがない。

本件告発状の冒頭、「告発の趣旨」は下記のとおりである。
1.告発事実
(1) 被告発人村上世彰は、
 「日本維新の会」本部に対し2020年10月26日に金2000万円を、
 「日本維新の会衆議院大阪府第17選挙区支部」に対し同年同月27日に金2000万円を超える金150万円の寄附を供与した。

(2) 被告発人「日本維新の会衆議院大阪府第17選挙区支部」は、2020年10月27日、被告発人村上世彰から金2000万円を超える金150万円を受領した。
  また被告発人同支部代表馬場伸幸、被告発人同支部会計責任者米田晃之らは、互いに共謀して、同日上記金員を受領した。

2.罪名及び罰条
(1)被告発人村上世彰は、政治資金規正法第26条第1号(第21条の3第1項1号)違反。
(2)ア 被告発人「日本維新の会衆議院大阪府第17選挙区支部」は政治資金規正法第26条第3号(22条の2違反)同第28条の3第1項違反(両罰規定)。
   イ 被告発人馬場伸幸及び被告発人米田晃之は、刑法第60条、政治資金規正法第26条第3号(第22条の2)違反。

 政治資金収支報告書の作成・届出に関する違反行為が発覚して後に「訂正」しても、遡及して犯罪の成立を消滅させることはできない。「盗んだが盗品は返還済み」「詐欺はしたが金は戻し」ても、情状として考慮はされても、犯罪成立を否定する弁明にはならない。本件の事後訂正も同様である。

 それだけではなく、本件での馬場の「ケアレスミス」弁明も常識的には成り立ち得ない。こういう姑息な弁明が見苦しい。

 本件の告発人らは、この点について12月10日付け「告発補充書」を提出している。その要点は、以下のとおりである。

1.馬場議員の弁明
 私たち告発人・告発代理人は、2日前の8日正午過ぎに、被告発人村上世彰氏及び被告発人馬場伸幸衆議院議員(当時日本維新の会幹事長、現在共同代表)らを10日10時に政治資金規正法違反で御庁(大阪地検)に刑事告発し、その後記者会見する旨、大阪地裁司法記者クラブに連絡したところ、
馬場議員は、同日午後5時49分自らのツイッター上に「【ご報告】令和2年分政治資金収支報告書の訂正について」を公表し
(https://mobile.twitter.com/baba_ishin/status/1468502968005984260)、その内容の一部が報道された。
その内容を箇条書きすると、以下の通りである。
? 昨年10月、村上世彰氏が党(日本維新の会本部)及び馬場幹事長に対し個人献金を申し出た。
? その際、村上氏は、党(日本維新の会本部)に対しすでに上限額(2,000万円)の献金をする意思を示していたので、馬場幹事長への献金は政党支部(日本維新の会衆議院大阪府第17選挙区支部)ではなく個人後援会(馬場伸幸後援会)に行い、実際馬場伸幸後援会の銀行口座に振り込んだ。
? その経過については、事務方同士で行ったメールのやり取り等もすべて残っている。
? 村上氏は、上限額を超える寄附をする意図がなかったことは確実である。
? しかし、馬場事務所のミスにより、村上氏が振り込んだ献金を政党支部への寄附として誤って計上し、収支報告書にも誤記した。
? (1年1か月経過の後)今年の12月1 日に政党支部と馬場伸幸後援会の両政治団体の収支報告書の訂正を届け出た。

2.上記弁明はとうてい真実とは言い難くおよそ信用できない
 被告発人村上氏が本当に「馬場伸幸後援会の銀行口座」に金150万円を振り込んでいたら、当該後援会が村上氏には領収書を発行し、それらに基づき会計帳簿にその旨を記載して、それに基づいて収支報告書も記載したはずである。にもかかわらず、入金されていない政党支部の会計帳簿に金150万円の寄附収入を計上して収支報告書に記載するミスを犯すことなどありえない。たとえ、そのようなミスをしたとしても、後援会と政党支部の各収支も各残高も合わないことになるはずだから、必ずミスに気付いていたはずであり、支部の収支報告書の作成段階で気が付き、訂正するはずである。
 また、馬場議員側は、2015年分以降の政治資金収支報告書を見ると、個人からの寄附は全て政党支部で受けており、後援会では一切受けていない。昨2020年も同様である。したがって、被告発人村上氏には政党支部の口座情報を伝え、村上氏は、伝えられた政党支部の口座に金150万円を振り込んだというのが真実であると思われる。そして、寄附を受けた政党支部は、村上氏に領収書を発行しているはずである。もしも村上氏が後援会に寄付するつもりだったら、領収書の発行者が政党支部になっていることに驚き、その領収書を突き返して後援会の領収書を発行するよう求めていたはずである。しかし、それもしていない。村上氏は政党支部に寄附する故意を有し、馬場議員側は政党支部で寄附を受領する認識を有していたことを間違いではないと思われる。

3.領収書、会計帳簿、金融機関口座等の捜査を!
 被告発人馬場議員の政党支部と後援会の両政治団体の収支報告書の訂正は、以上の通り虚偽であると思われる。被告発人馬場議員は、被告発人村上が党本部に2000万円の寄附をしたことを知らなかったとは弁明せず、被告発人村上氏が党本部に2000万円の寄附をしたことを知っており、それが政治資金規正法の定める個人寄附の上限額だと知っていたと認めた(上記1?)。
 告発人らは、御庁に対し、被告発人村上が受け取った領収書、被告発人馬場議員の政党支部と後援会の会計帳簿、送金銀行口座、事務方同士の間で送信・受信された電子メールがあるというなら強制捜査で確認して、本件政治資金規正法違反事件の真相を解明していただき、刑事事件として立件していただきたい。国会議員側の収支報告書訂正で犯罪を不問にする「不当な特権」を許してはならないとの思いで告発補充書を提出する。

政教分離は、政府と靖国との厳格な分離を求めている。靖国公式参拝は、明らかな憲法違反である。

(2021年12月10日)
 戦争を反省すべき12月8日に、静岡新聞『論壇』は、屋山太郎の記事を掲載した。「靖国参拝を外交問題にすべきではない」というタイトル。典型的な右翼靖国派の語り口であるだけでなく、高市早苗の持ち上げ記事でもある。これが総選挙後のメディア状況の断片であろうか。
 つまらない文章だが、その冒頭だけを引用させていただく。

 自民党総裁選にあたって、高市早苗氏(現政務調査会長)が「当選したら、靖国神社に参拝する」と宣言した。
 戦いで亡くなられた方を国家が追悼するというのは、国事で最大の行事だ。それが1985年中曽根康弘首相の靖国参拝を最後に途絶えている。86年に後藤田正治官房長官の中止説明が発表され、公式参拝が終わった。
 85年の中曽根参拝に先立ち、首相は識者を集めた「靖国懇談会」をつくり「公式参拝は合憲」とする答申を得た。にもかかわらず翌年に中止というからには裏がある。裏の事情とは、中国の胡耀邦主席筋から中曽根氏に「胡主席が困った立場になる」との情報がもたらされたからだという。…公式参拝中止の真因は、突き詰めれば中国問題なのだ。高市氏の「外交問題にしない」というのは問題の神髄を突いている。(以下略)

 こんな論調に反論も大人げないが、「公式参拝中止の真因は、突き詰めずとも憲法違反」なのだ。この点を真正面から判断した最高最判例はない。明確に違憲と述べているのは、?1991年1月10日仙台高等裁判所判決(昭和62(行コ)第4号?損害賠償代位請求控訴事件)である。最高裁が、同判決の判示を以下のとおりに要約している。

「天皇及び内閣総理大臣の靖国神社公式参拝は,その目的が宗教的意義をもち,その行為の態様からみて国又はその機関として特定の宗教への関心を呼び起こす行為というべきであり,しかも,公的資格においてされる公式参拝がもたらす直接的,顕在的な影響及び将来予想される間接的,潜在的な動向を総合考慮すれば,前記公式参拝における国と宗教法人靖国神社との宗教上のかかわり合いは,憲法の政教分離原則に照らし,相当とされる限度を超えるものであり,憲法20条3項が禁止する宗教的活動に該当する違憲な行為であるとして,前記公式参拝が実現されるよう要望する旨の県議会の議決は違法であるとした」
https://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail5?id=16653

 なお、屋山の「85年の中曽根参拝に先立ち、首相は識者を集めた『靖国懇談会』をつくり『公式参拝は合憲』とする答申を得た」という記述は、明らかに間違っている。意識的な嘘と言っても差し支えないレベル。靖国懇は、政府が最初から「公式参拝は合憲」とする結論を得ようと作ったものである。そして、事務局が強引に議論を誘導した。が、どうしても政府の思うとおりの結論をとりまとめることはできなかった。
 「閣僚の靖国神社参拝問題に関する懇談会報告書」(1985年8月9日)の関連部分は以下のとおりである。(読み易いように段落の変更などを行っている)

【公式参拝の憲法適合性に関する考え方】
 靖国神社公式参拝が憲法第20条第3項で禁止される「宗教的活動」に該当するか否かについては、討議の過程において、多様な意見が主張された。これらの意見の対立は、おおよそ次のように集約することができる。

(その一) 憲法第20条第3項の政教分離原則は、国家と宗教との完全な分離を求めるものではなく、靖国神社公式参拝は同項で禁止される宗教的活動には当たらないとする意見
(その二) 最高裁判決の目的効果論に従えば、靖国神社公式参拝は神道に特別の利益や地位を与えたり、他の宗教・宗派に圧迫、干渉を加えたりすることにはならないので、違憲ではないとする意見
(その三) 最高裁判決の目的効果論に従えば、我が国には複数の宗教信仰の基盤があることもあり、靖国神社公式参拝は現在の正式参拝の形であれば問題があるとしても、他の適当な形での参拝であれば違憲とまでは言えないとする意見
(その四) 公的地位にある人の行為を公的、私的に二分して考えることに問題があり、
  ?私的行為、
  ?公人としての行為(総理大臣たる人が内外の公葬その他の宗教行事に出席するごとき行為)、
  ?国家制度の実施としての公的行為、
 の三種に分けて考えるべきであるが、閣僚の参拝は?としてのみ許され、その故に、私的信仰を理由とする不参加も許されるとする意見
(その五) 憲法第20条第3項の政教分離原則は、国家と宗教との完全な分離を求めるものであり、宗教法人である靖国神社に公式参拝することは、どのような形にせよ憲法第20条第3項の禁止する宗教的活動に当たり、違憲と言わざるを得ないとする意見
(その六) 本来は(その五)の意見が正当であるが、最高裁判決の目的効果論に従ったとしても、宗教団体である靖国神社に公式参拝することは、たとえ、目的は世俗的であっても、その効果において国家と宗教団体との深いかかわり合いをもたらす象徴的な意味を持つので、国家と宗教とのかかわり合いの相当とされる限度を超え、違憲と言わざるを得ないとする意見

 しかし、憲法との関係をどう考えるかについては、最高裁判決を基本として考えることとし、その結果として、最高裁判決に言う目的及び効果の面で種々配意することにより、政教分離原則に抵触しない何らかの方式による公式参拝の途があり得ると考えるものである。
 この点については、最高裁判決の解釈として、靖国神社に参拝する問題を地鎮祭と同一に論ずることはできないとの意見もあったが、一般に、戦没者に対する追悼それ自体は、必ずしも宗教的意義を持つものとは言えないであろうし、また、例えば、国家、社会のために功績のあった者について、その者の遺族、関係者が行う特定の宗教上の方式による葬儀・法要等に、内閣総理大臣等閣僚が公的な資格において参列しても、社会通念上別段問題とされていないという事実があることも考慮されるべきである。
 以上の次第により、政府は、この際、大方の国民感情や遺族の心情をくみ、政教分離原則に関する憲法の規定の趣旨に反することなく、また、国民の多数により支持され、受け入れられる何らかの形で、内閣総理大臣その他の国務大臣の靖国神社への公式参拝を実施する方途を検討すべきであると考える。

 ただし、この点については、前記(その五)、(その六)記載のとおり異論があり、特に(その六)の立場から、靖国神社がかつて国家神道の一つの象徴的存在であり、戦争を推進する精神的支柱としての役割を果たしたことは否定できないために、多くの宗教団体をはじめとして、公式参拝に疑念を寄せる世論の声も相当あり、公式参拝が政治的・社会的な対立ないし混乱を引き起こす可能性は少なくない、これらを考え合せると、靖国神社公式参拝は、政教分離原則の根幹にかかわるものであって、地鎮祭や葬儀・法要等と同一に論ずることのできないものがあり、国家と宗教との「過度のかかわり合い」に当たる、したがって、国の行う追悼行事としては、現在行われているものにとどめるべきであるとの主張があったことを付記する。

 この答申を、「靖国懇は『公式参拝は合憲』と答申した」と言うのは、牽強付会も甚だしい。答申の「両論併記」は珍しくない。しかし、「6論併記」は前代未聞ではないか。まとめた人物の見解も加えると「7論併記」にもなる。しかも、この答申の後に、前記仙台高裁の公式参拝違憲判決が出ている。

 靖国神社とは、天皇の神社であり軍国神社であった。天皇のための戦争を美化し、天皇のために闘って戦没した兵士を、天皇への忠誠故に英霊と呼称し、護国の神として祀ったものである。その合祀の目的は国民的な戦意高揚を目指してのこと。皇軍の兵士は、死してなおその霊を国家の管理のもとに置かれたのだ。
 戦没者は、天皇制政府の誤った国策による犠牲者である。その犠牲者が死して後まで、国策に利用されたのだ。それは過去のことではない。それが、屋山や高市の立場が今なお、靖国を利用しようとしている。

 国家神道の軍国主義的側面を象徴するものが、靖国神社であり靖国の思想である。日本国憲法の政教分離とは、靖国を意識して制定された。ふたたび、天皇にも、閣僚にも、靖国神社を公式参拝させてはならない。屋山や高市の立場は徹底して批判されなければならない。
 

批判されない権力は間違う。批判を許さない権力は間違いを修正できない。

(2021年12月9日)
 昨日の当ブログの記事「1941年12月8日、このときの過ちを繰り返さないために」を読み直すと不満足と言うしかない。本日はその補訂である。

 不満足は、なによりも「繰り返してはならない12月8日の過ち」のなんたるかが十分に語られていないことにある。いったい、あの時点において、どんな過ちがあっただろうか。

 天皇(裕仁)や東條らも、開戦後間もなく戦況が悪化した後は「取り返しのつかない過ち」を反省したに違いない。その反省は、「負ける戦を仕掛けた過ち」以上のものではない。「もっと慎重に時期を選び、もっと十分に準備をして、勝てる戦争をすべきだった」という反省なのだ。天皇(裕仁)は御前会議で、くりかえし「勝てるか」「本当に勝てるか」と軍部に念を押してゴーサインを出している。最高指導者の「過ち」と「反省」は、負けたことに尽きるのだ。決して、「戦争を仕掛けたことの過ち」でも、「平和を維持できなかった過ち」でもない。

 責任の所在と軽重は、常に権限の所在と軽重に対応している。厖大な内外の死者を出した悲惨な戦争の責任は、まず開戦の権限をもつ天皇(裕仁)にあり、次いでこれを補弼する任にあった内閣や軍部にも分有されていた。天皇(裕仁)を除く補弼の責任者は、戦後文明の名において裁かれその責任を生命をもって償った。ひとり、最高責任者である天皇(裕仁)のみが、まったく責任をとらなかった。

 いかなる戦争も、おびただしい無辜の人々にこの上ない不幸をもたらす。我々は戦後、戦争そのものを悪とする非戦の思想をわがものにし、これを日本国憲法に刻んだ。この視点から、太平洋戦争を開始した指導者たちの責任を厳しく追及しなければならない。日清・日露も韓国併合も日中戦争も、決して繰り返してはならないのだ。

 戦争責任の所在とは別に、12月8日の開戦に対する国民の意識や意見にどのような教訓があるだろうか。

 人の意見は、基本的にはその人のもつ思想の表れだが、その人のもつ情報によって大きく左右される。12月8日の国民の意見は、開戦後の戦況見通しの基礎となる情報をもっているかいないかで決定的に異なることになった。

 近衛文麿、松岡洋右らが「えらいことになった」「僕は悲惨な敗北を予感する」「僕は死んでも死にきれない」などと語ったというのは、しかるべき情報をもち、戦争の結果を予想し得たからであろう。南原繁の「人間の常識を超え学識を超えておこれり 日本世界と戦ふ」という下手な歌のごときものは嘆息とも感激とも読めなくはないが、いずれにせよこの開戦は「常識ではあり得ぬもの」と認識していたのだ。ある程度の情報はあったのだろう。そして、将来を見る能力も。

 他の多くの国民や作家たちは、判断の基礎となる情報をもたない。日本と米国との国力差、工業力差、兵力差、総合的な軍事力の格差、そして教育水準や、国民の戦意等々についての基礎情報を持たぬまま、日本型ナショナリズムの高揚に流されていた。

 小林秀雄が日本型ナショナリズムの高揚に流された典型だろう。開戦の詔勅を聞いて<眼頭は熱し、畏多い事ながら、比類のない美しさを感じた><海軍の戦果を「名人の至藝」とたたえた>という。知性あるように見える人も、ここまで洗脳されるのだ。

 市井の人々の中に、「英米を敵にまわして勝てるわけがない」と言った多くの人がいたことも記録されている。十分な情報はなくとも、真実を見ようという思想を持っていた人の真っ直ぐな目と意見である。

 そして最後が、十分な情報を持ちながら、間違った選択をした、最も愚かで責任の大きな一群。当然にその筆頭に天皇(裕仁)がいる。しかし、当時天皇(裕仁)とその官僚への批判は許されなかった。それが負け続け、被害を拡大しつつなお、戦争をやめることができない原因となった。

 権力は間違う。批判を許さぬ権力は大きく間違う。国民からの権力批判だけが間違いを修正しうるが、権力批判は封じられていた。12月8日に噛みしめるべき教訓である。

1941年12月8日、このときの過ちを繰り返さないために。

(2021年12月8日)
 他の日ならぬ12月8日である。80年前のこの日に、我が国は後戻りのできない亡国への急傾斜を滑り始めた。行き着く先のどん底が1945年8月15日、この日に日本は一度亡びたのだ。市街地に繰り返された大空襲、沖縄の悲惨な地上戦、2度にわたる原爆の投下…。完膚なきまでの敗戦に、国民生活は惨状を極めた。この亡国をもたらした責任者の筆頭は天皇・裕仁であり、これに東京裁判で裁かれた東條英機以下のA級戦犯が続く。

 もしかすると、亡国へ滑り始めた日はもう少し前の37年7月7日(盧溝橋事件)か、31年9月18日(柳条湖事件)であったかも知れない。あるいは1910年8月29日(日韓併合)。しかし、12月8日の国民的衝撃はこれまでに経験したことのないものだった。明らかに、全国民の運命に直接関わる総力戦の覚悟が求められた日である。この日の日本人は、いったい何を考え、これからどうなる、これから何をなすべきと考えたのだろうか。

 10年前の2011年11月30日付「毎日新聞」に「太平洋戦争:日米開戦から70年 運命の12・8 作家らはどう記したか」という、記事がある。棚部秀行、栗原俊雄両記者の労作。「当時の小説やエッセーをひもとくと、開戦賛美一辺倒の世間のムードが伝わってくる」というトーン。内容の一部を引用させていただく。

伊藤整 「いよいよ始まった」と高揚感吐露

 作家の伊藤整(05〜69)は真珠湾攻撃のニュースを聞き、夕刊を買うため新宿へ出かけた。混雑したバスの中で<「いよいよ始まりましたね」と言いたくてむずむずするが、自分だけ興奮しているような気がして黙っている>と、高揚感を吐露している。そして<我々は白人の第一級者と戦う外、世界一流人の自覚に立てない宿命を持っている>と記した(『太平洋戦争日記(一)』)。

高村光太郎 「時代は区切られた」

 また詩人の高村光太郎(1883〜1956)はこの日、大政翼賛会中央協力会議に出席していた。エッセー「十二月八日の記」に<世界は一新せられた。時代はたった今大きく区切られた>と、開戦の感激を書き留めている。

太宰治 「けさから、ちがう日本」

 太宰治(09〜48)には、「十二月八日」という短編小説(『婦人公論』42年2月号)がある。「作家の妻」という女性の一人称で、開戦の日の興奮と感動を描いた。早朝、主人公は布団の中で女児に授乳しながら、ラジオから流れる開戦のニュースを聞く。<しめ切った雨戸のすきまから、まっくらな私の部屋に、光のさし込むように強くあざやかに聞えた。(中略)日本も、けさから、ちがう日本になったのだ>

竹内好 「うしろめたさ払拭された」

 37年に始まった日中戦争は、国民の間で不人気だった。戦争目的がよく分からないまま100万人に及ぶ兵士が動員され、死傷者と遺族が増えていったからだ。中国文学者・評論家の竹内好(10〜77)は真珠湾攻撃直後の日記で<支那事変に何か気まずい、うしろめたい気持ちがあったのも今度は払拭された>とし、新たに始まった戦争を<民族解放の戦争に導くのが我々の責務である>と記した(12月11日)。日本人は12月8日の開戦によって、アジアを欧米の植民地支配から解放するという大義名分を得たのだ。

小林秀雄 「晴れ晴れとした爽快さ」

 評論家の小林秀雄(02〜83)は開戦の日、文芸春秋社で「宣戦詔勅」奉読放送を直立して聞いた。<眼頭は熱し、心は静かであった。畏(おそれ)多い事ながら、僕は拝聴していて、比類のない美しさを感じた>。さらに海軍の戦果を「名人の至藝」とたたえた(『現地報告』42年1月)。

 多くの文筆家が開戦に快哉を叫んだ。作家の坂口安吾(06〜55)も、報道に感激している。また、民衆も開戦を支持。日本は、中国との戦争やアメリカによる経済制裁などによる重圧感にあえいでいた。当時11歳だった作家の半藤一利さんは、開戦によって<晴れ晴れとした爽快さのなかに、ほとんどの日本人はあった>(『〔真珠湾〕の日』)と振り返る。

 もちろん、開戦を歓迎した人ばかりではない。本日(12月8日)の毎日新聞・余録には、次の記事がある。

当時、米映画の配給会社にいた淀川長治は号外を見て、「『しまった』という直感が頭のなかを走り、日本は負けると思った」と回想している▲名高いのは後に東大学長となる南原繁が開戦の報に詠んだ歌、「人間の常識を超え学識を超えておこれり 日本世界と戦ふ」である。
 では「えらいことになった、僕は悲惨な敗北を予感する」と沈痛な表情を浮かべたのは誰だろうか▲2カ月前に日米交渉を打開できぬまま辞任した前首相、近衛文麿だった。それより前に南部仏印進駐で米国を対日石油禁輸に踏み切らせて対米戦争への扉を開き、前年に米国に敵視と受けとられた日独伊三国同盟を締結した人である▲開戦日には、その三国同盟を「一生の不覚」と嘆いた人もいた。同盟の立役者で締結当時の外相、松岡洋右である。米国の参戦を防ぐつもりが「事ことごとく志とちがい、僕は死んでも死にきれない」。腹心に語り、落涙したという。

 余録は、こう結んでいる。「緒戦の大勝に熱狂する世論、米映画通が予感した敗戦、知や合理性を超えた政府決定にあぜんとする学者、そして戦争への道を開いた当事者らの暗鬱な予言…。学ぶべき教訓は尽きない開戦80年である。」

 今振り返って、後知恵で当時の人の考えを評価するのは僭越に過ぎるとの批判はもっともなこと。しかし、教訓とすべきは、人は案外賢くないのだということ。天皇(裕仁)や東條などの戦犯ばかりではなく、日本の知性と言われた人もである。小林秀雄などはその典型だろう。国を滅ぼす出来事の前で、やたらに高揚するばかりで、冷静さを欠いている。

 80年前、天皇制政府は大きく国策を誤って国を滅ぼした。その過ちを繰り返さないためには、可能な限りに情報を共有し、可能な限りの衆知を集約することである。つまりは、民主主義を徹底することだ。それでも、過ちをなくすることはできないかも知れない。しかし、広範な国民に批判の自由が保障されていれば、常に過ちを修正することが可能となる。民主主義こそは、大きな過ちを防止するための知恵と言うべきだろう。国家にとっても、政党やその他の諸組織にとっても。

国家は、戦死を美化する。国民の戦意を高揚するために。

(2021年12月7日)
 明日が12月8日。旧日本軍の真珠湾奇襲から80周年となる。「奇襲」とは、要するに「不意打ち」であり、「だまし討ち」ということである。現地時間では1941年12月7日、日曜日の朝を狙った卑怯千万の宣戦布告なき違法な殺傷と破壊。その「奇襲」成功の報に野蛮な日本が沸いた。このとき殺戮された米国人は2400人に及ぶが、その報復は310万の日本人の死をもたらした。

 「奇襲」は、常に隠密裡に行われる。臣民たちは政府の対米英蘭開戦の意図を知らなかった。天皇の軍と政府は、国民に秘匿して大規模なテロ行為を準備していたのだ。国民に情報主権なき時代の恐るべき悲劇であった。

 毎日新聞が、昨日(12月6日)から「あの日真珠湾で」と題して関係者に取材した大型特集の連載を始めた。6日と7日の記事は、真珠湾攻撃で犠牲になった特殊潜航艇(「甲標的」と呼ばれる)乗組員の遺族を取材したもの。

 「甲標的」は5隻、乗員は10名だった。戦死が確認された搭乗員9名は「九軍神」と称揚された。大本営は、潜航艇が戦艦アリゾナを撃沈する大戦果をあげたと発表。実際にはアリゾナの轟沈は飛行隊によるものだったが、飛行隊には戦死した特殊潜航艇乗員を軍神として宣伝するため手柄を譲るように求められたという。

 戦死とは、国家が国民に強いた死である。国家はその犠牲を美化しなければならない。美化の最高の形式が神として祀ることであった。その美化は、戦意高揚のプロパガンダにもつながる。そのためには、戦死者の「功績」が必要である。雄々しく闘い「不滅の偉勲」あっての死として飾られなければならない。そのように盛りつけることで、死者は「軍神」となり「護国の神」ともなる。

 昨日(6日)の毎日新聞記事は、開戦早々に捕虜第1号となり生存した酒巻和男を取りあげている。言わば、「軍神になり損ねた男」のその後である。本日(7日)は、「軍神とされた男」の話。同じ艇の同乗者として戦死し「九軍神」の一人となった稲垣清の遺族に取材した記事。「むなしい『軍神』の名」「母『なんで片方だけ』何度も」という見出しが付いている。

 「村を挙げて大変な葬儀を開いてもらったようです」。稲垣清さんのおいの清一さん(72)が、新聞記事が出た42年に営まれた葬儀の様子を収めた写真を手に話した。写真には僧侶を先頭に、20代でこの世を去った清さんの遺影を持った男性らが列をなして歩き、道端の人が深々と頭を下げる様子が写る。清さんの生家前の通りは「稲垣通り」と呼ばれるようになり、生家を知らせる立て札もできた。葬儀後も、「軍神参り」に訪れる人の姿は絶えなかったという。
 遠方からも清さんを賛美する手紙が届き、清さんの生家があった場所で暮らす清一さんが今も保管している。ある手紙には、色鮮やかな軍艦や戦闘機の絵とともに「大東亜戦争勃発のあの日の感激、ラジオの声に一心に聞き入った僕等一億国民の胸は高なるばかり」などとつづられていた。」

 しかし、遺族がどんな気持ちで戦死の知らせを受けたのか、今語ることのできる人はいない。ただ、清一さんは次のように話している。

 終戦から10年ほどたったある日、清さんと同じ潜航艇に乗り込み米軍の捕虜になった酒巻和男さん(99年に81歳で死去)が墓参りに訪ねてきたことがあった。ほとんど会話もなく酒巻さんが家を去った後、清さんの母は「なんで片方だけ」と漏らした。「生きて帰った酒巻さんを見て、息子を兵隊にしたのを後悔したのではないか。その言葉は、その後も何度となく聞きました」という。

 息子の死を悲しみ兵隊にしたのを後悔したのが、「軍神の母」の本心であったろう。「戦死した軍神の母」よりは、「生きて帰った捕虜の母」でありたいと願うのが、母の心情というものではないか。

 「『軍神の家』にされて、いいことなんてなかった」「当時を思い出すとつらい、苦しい」「戦時中、戦死や特攻が名誉とされた。でも、結局は戦争の駒とされたのも事実」などと、他の軍神遺族の言葉が紹介されている。

 戦死の美化は、80年経過した今に続く。昨日(12月6日)、「みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会」が、集団参拝した。コロナ禍に妨げられて、2年2か月ぶりだという。参拝したのは衆院議員68人、参院議員31人の計99人。参拝後、尾辻会長は「国難に殉じていかれたご英霊に、コロナという国難に見舞われております日本をしっかりと守ってくださいとお願いをしながらご参拝をさせていただいた」と述べた旨報じられている。

 この「靖国派議員99人」の頭の中は、9人の戦死者を「軍神」に祀り上げたあの時代の軍部や政府とまったく同じなのだ。まず戦死を美化しなければならないとの思いが先行する。「軍神」の替わりに用いられる言葉は「英霊」である。戦死者を「英霊(すぐれたみたま)」とするのは、侵略戦争を聖戦とする立場からのみ可能となる。のみならず、首相や議員の参拝は、国威発揚、戦意高揚の手段とされている。

 彼らはこういう信仰をもっている。「靖国神社には国難に殉じたご英霊」が祀られており、「ご英霊には、国難に見舞われている日本をしっかりと守る」神としての霊力が備わっている。今、目の前にある国難はコロナである。しかし、国難はさまざまといわねばならない。かつて、鬼畜とされた米英も、膺懲すべき暴支も不逞な鮮人も、すべて国難の元兇とされた。

 そして、軍国神社靖国の240万柱の神々は、「次に戦争する相手国」に打ち勝つ加護をもたらす霊力をもっており、靖国神社参拝はその神の力の確認と祈願の機会なのだ。

 12月8日、あらためて平和を誓わねばならない。

地球化学者・猿橋勝子と第五福竜丸

(2021年12月6日)
 作日(12月5日)、第五福竜丸平和協会理事会の席上でNHK番組の予告編を観せていただいた。12月16日放送予定のコズミックフロント「地球科学者の先駆け 猿橋勝子」(NHK/BSプレミアム午後10:00?10:59、再放送12月22日午後11:45?午前0:44)というタイトル。女優でモデルの水原希子が、女性科学者「猿橋勝子」を演じるという。

 猿橋勝子(1920―2007)は、女性科学者のパイオニアとして知られる人。女性初の日本学術会議会員でもある。専門は地球化学で、中央気象台(現・気象庁)に勤務し、1954年に行われたビキニ環礁での水爆実験で被曝した第五福竜丸の汚染調査や大気・海洋汚染を研究し、国際的な評価を得た。57年には理学博士(東京大学)の学位を得ている。

 NHKの番組宣伝文句では、「地球温暖化や核実験による放射能汚染など、深刻な環境問題に取り組んだ女性科学者・猿橋を特集。再現ドラマでは、数々の困難に直面しながらも研究に突き進む猿橋を水原が熱演。」となっている。

 女性が、自らの進路を選ぶことが困難であった時代に、猿橋は科学者を志し、初志を貫徹して研究者として身を立てる。そして分析化学者として米の水爆実験に関わることになる。

 1954年3月1日、米国が太平洋マーシャル諸島のビキニ環礁で行った水爆実験は、160?離れた海域で操業中のマグロ漁船・第五福竜丸に白い灰を降らせた。乗組員の多くが体調不良に襲われ、帰国後急性放射線障害と診断される。

 このとき国は白い灰の分析を試みるが、白羽の矢を立てたのが気象研究所の研究官・猿橋勝子。当時34歳であった。猿橋は、地球化学者三宅泰雄のもとで大気や海水の化学分析に携わり、自ら極微量拡散分析装置まで開発して「微量分析の達人」と評されていたという。

 猿橋は期待に応え、白い灰の正体がサンゴの粉末で、炭酸カルシウムの変性を定性的にも定量的にも特定する。さらに、日本近海における放射性物質の測定や、水産庁が派遣した調査船・俊鶻丸によるビキニ海域の汚染データも踏まえ、海流によって日本近海が米国沿岸より数十倍も汚染されていることを明らかにした。水爆によって環境に排出された核種の析出にまで成功したという。

 ところが米国はこれを否定した。「分析技術が未熟。日本のデータは誤り」との批判。このことがきっかけとなって、日米化学者がその分析能力の優劣を競争することになる。1962年4月、猿橋は自ら開発した分析機器や試薬を携えて単身渡米し、カリフォルニア大学の海洋研究所で、アメリカの化学者チームと対決した。

 日米それぞれの測定法で海水中の放射性物質セシウム134を濃縮・回収し、ガンマ線の線量を測定して含有量を測定する競争が行われた結果、圧倒的に猿橋の精度の高さが確認されたという。

 これを機に、猿橋は被爆国の女性科学者として、核廃絶と国際平和の重要性を訴える活動にも取り組むことになる。

 猿橋は、1980年に退官するが、自身の退職金や、退官記念パーティーに集まった人たちからの拠金を基に、自然科学分野の研究に従事する女性科学者の奨励と、その地位向上を目指して「女性科学者に明るい未来をの会」を創設した。後に同会を母体として「女性自然科学者研究支援基金」が設立され、猿橋賞受賞者に賞金を贈呈している。「猿橋賞」は50歳未満の優れた女性科学者を顕彰するもので、様々な分野の女性科学者を勇気づけ、受賞者の多くが自然科学の第一線で活躍している。

 また、猿橋は1981年1月、日本学術会議第12期会員(?1984年)となっている。当時、学術会議会員は有権者登録をした22万人科学者の郵便投票によって選出する仕組みであった。設立から30年余の間、女性が立候補したことは一度もなかった。猿橋が女性第1号、1025票を得て第6位で当選し、初の女性会員となった。

 猿橋さんは、第五福竜丸平和協会設立以来、協会の運営に深く関わった。私が監事として役員に加わった頃は、既に高齢ではあったがとても元気だった。遠慮なく、ものをいう人という印象で、ちょっと恐かった。妥協なく、厳しい人生を生き抜いてこられた人だからであろうか。

 そんな人をNHKの科学番組が再現ドラマで紹介することになる。願わくは、この放映を機に核廃絶運動への理解者が拡がり、3・1ビキニ水爆実験と第五福竜丸被爆事件の恐怖を国民が思い起こして、第五福竜丸展示館の来館者が増えんことを。

「千の風」になった人の追憶

(2021年12月5日)
 一昨日(12月3日)作家であり作曲家でもある新井満さんが亡くなられた。この人が作詞作曲されたという「千の風になって」という作品に、強い思い入れがある。この歌を捧げられた川上耕さんが、私の親しい友人だからだ。

 「千の風になって」は、作者不詳の英語の詩を、新井満さんが訳詞し作曲したものとされている。そのきっかけは、新井さんと同郷で幼なじみの川上耕さんの妻・桂子さんが亡くなったことだった。桂子さんが亡くなったのは1998年、48歳の若さでのこと。夫と3人の子を残しての逝去。さぞ本人も心残りであり、周囲の方々も心を痛めたに違いない。

 耕さんと桂子さんには、多くの仲間があって桂子さんの死を惜しむ追悼文集が編まれた。この追悼文集に収められた一編に、「千の風になって」の訳詞が紹介されていたという。新井さんは、この間の事情を文藝春秋に「千の風になって・誕生秘話」として、大要次のような一文を寄せている。

 私の幼なじみだった川上耕さんは、妻の桂子さんを48歳という若さでなくしてしまった。最愛の妻である桂子さんとの別れは、あまりにも切ないものだった。翌年、彼女を慕う70名以上の人々による追悼文集が作られたが、その中に「1000の風」なる作者不詳の西洋の詩が紹介されていた。

 12行ほどの長さしかないこの詩を一読して、私は心の底から驚いた。この詩の作者が“死者”だったからである。生者が死者の気持ちを慮って書いた詩は、いくらでも見たことあるが、これほど明確に死者が生者に向かって発したメッセージを目にしたのは初めてのことだった。

 私はこの「1000の風」― のちに南風椎(はえしい)さんという方が翻訳したものだと知った ― にメロディーをつけて川上さんに贈ろうと思い、ギターを持ち出した。しかし何度やってもうまく行かなかった。数年後、ふと思いたって今度は英文からの翻訳を試みた。英文を朗読したあと、まぶたを閉じて、この詩のイメージだけを感じようとした。すると、改めて詩の一節にある「a thousand winds」の「winds」という言葉が大きく浮かび上がってきた。

  風 ― 。そう、このとき私は、大沼(北海道駒ヶ岳周辺)の森の中を自由自在に吹きわたる風を想い出していたのである。風、鳥、草木はそれぞれに命を宿し、ざわめいている。そのざわめきは命の音。私はすでに大沼の森の中で、この詩と同じ世界観、“再生されたさまざまな命”に触れていたのではなかったか。

 名も知らぬ作者の心と私の心が何かつながったように感じた。呻吟していたのがウソのように訳語が頭に浮かび、作曲も仕上がった。(30枚ほど作った)CDの一枚は桂子さんの五周忌の会で流され、会場にいた人々はみな一様に涙したという。この詩の力を借り、また大沼の自然の力を借りて、妻を亡くした友人をなんとか慰めることができた。

 私もいずれ死んで風になる。私のお葬式には、この歌をかけてもらえばいい ― 。そんなことも考えていた。

 私が新人弁護士として東京南部法律事務所に参加したのが1971年春のこと。その2年後に、川上耕さんは同じ法律事務所の同僚となった。以来4年余の間、机を並べて法律事務に携わった。もちろん、それだけでなく地域の人権諸活動をともにした。

 事務所の宴会では、彼が十八番の佐渡おけさを唱って上手に踊った。その振り付けを真似た所員一同が列をなして彼の後に続いて輪を作った。そのような場には、桂子さんもたびたび参加していた。

 記憶に鮮やかなのは、桂子さんが国会で意見陳述をしたこと。確か、公職選挙法の文書頒布規制を緩めるべきか否か、という問題。彼女は応募してビラの受け手となる一般人の立場からの意見を述べた。

 南部事務所の何人かの弁護士と事務局員が、耕さんと一緒に傍聴に駆けつけた。私もその一人。応援のつもりだったが、その必要はなかったようだ。桂子さんは、堂々と「選挙ビラの自由な配布を歓迎する」旨を述べた。限られた公式情報では投票に必要な判断材料は得にくい。ビラ配布の自由は「デメリットに較べて、はるかにメリットが大きい」「とりわけ、社会参加が限定されている女性層にとっては」というものだったと記憶している。

 私の子が生まれたときには、夫妻から鳩時計をお祝いに頂戴した。その後、私は盛岡に耕さんは新潟に帰郷して、顔を合わせる機会は減ったが、私のDHCスラップ訴訟弁護団には直ちに参加して知恵を貸してくれた。私が関弁連新聞でのアパホテル記事を問題にしたときにも、精力的に動いてくれた。

 大きなヒットとなった「千の風になって」の、あの歌詞の「私」は桂子さんで、「泣かないでください」と呼びかけられているのが、耕さんなのだ。このことを知ったときには驚いたが、二人のために嬉しくもあった。二人を知る者としては、この歌詞はまことに二人にふさわしいのだ。

 そして今度は、新井満さんが、千の風になって、あの大きな空を吹きわたっていくことになる。こう唱いながら…。

私のお墓の前で 泣かないでください
そこに私はいません 眠ってなんかいません
 千の風に 千の風になって
 あの大きな空を 吹きわたっています

中学生に語る「弁護士って何?」

(2021年12月4日)
 コロナの蔓延は今一休みの体。このまま終熄してくれればあり難いと思いつつ、オミクロン株感染者の出現に戦々恐々たる思い。街行く人はみなマスクを離さないが、それでも明らかに人出は多くなった。妹から連絡があって、久しぶりに係累が集まって昼食をともにしようということで集まった。総勢11人、私が最年長。

 その席に中学生が一人。私の姪の次男で、2年生だという。この中学生に「弁護士とは何か」を説明してあげてと、声がかかった。弁護士とはいったい何だ。突然の依頼に私自身が戸惑い、上手な説明ができなかった。

 この中学生に、学校で憲法のこと学んだ?と聞くと、「3年生になると公民で勉強する」という。そうか。人権も民主主義も、三権分立もまだ頭にない。その中学生に、弁護士とは何かをどう語ったらよいだろうか。

 私は、弁護士の「反権力・在野性」を知ってもらいたいと思った。しかし、その前提として、「権力」というもののイメージがなくてはならない。併せて、「法の支配」や裁判制度の説明が必要だ。さらには刑事や民事や行政訴訟の違い、法曹養成制度についてもしやべらなければ。さあ、たいへんだ。うまくしゃべれるはずはない。

 今回はうまく行かなかったが、次に備えよう。もし再び、中学生から「弁護士ってなんですか」と聞かれたときの回答の準備をしておこう。たとえば、次のように。

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 この社会は大勢の人々が集まってできています。大勢の人々の間には、さまざまな紛争が生じます。どの社会にも紛争を解決するための決めごと(ルール)とそのルールに基づいて紛争を解決する手続が必要です。

 この紛争解決のためのルールが「法」です。法がなければ、この社会は力の強い者の横暴がまかりとおるだけの、暗く住みにくい社会になってしまいます。法があればこそ、みんなが安心して暮らせる社会になります。

 もちろん、誰が、どのような法をつくるかで、人々の生活は大きく変わってきます。昔は、一握りの権力者が自分たちに都合のよい法をつくりました。社会が進歩するにつれて、国民の代表が法をつくるようになっています。

 それでも、もちろん紛争は絶えません。法にもとづいて、その紛争を解決する手続が裁判です。法を実現する手続が裁判であると言うこともできます。

 社会が複雑になるにしたがって、法も厖大で複雑なものとなり、裁判に関わる専門家が必要になってきました。これを法律家と言いますが、法律家には3種類あります。裁判官・検察官・弁護士です。

 このうち、裁判官と検察官は公務員です。それぞれ、国家から独立して職務を行わなければなりませんが、その給与は国家から支給されます。これに対して、弁護士は国家から独立した立場にあります。国家から給与の支給を受けることはありません。国民一人ひとりの権利を守るために、法を武器として、国家とも闘うことを使命とする職業なのです。

 弁護士は、弁護士法という法律で定められた資格で、その使命を「基本的人権を擁護し、社会正義を実現すること」とされています。国民の基本的人権は、往々にして国家と対立し、国家によって踏みにじられます。弁護士は、相手が国家であろうとも総理大臣であろうとも、一歩も退かずに、法律専門家として、人々の人権を守らねばなりません。

 社会には、強い立場の人もいますし、弱い立場の人もいます。法の理想は、弱い立場の人が安心して生きていけるように保障することなのですから、弁護士本来の仕事は、弱い立場の人のために、法を活用することにあります。

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