澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

ミャンマーの憂うべき情勢と、自衛隊トップの国軍非難声明

(2021年3月29日)
 ミャンマーからの報道に胸が痛む。これは、軍による無辜の人民の大量虐殺以外のなにものでもない。報道では、昨日(3月28日)までの弾圧犠牲者数は423人を数えるという。

 首都ネピドーで行われた3月27日の国軍記念日の式典で、ミン・アウン・フライン総司令官なる、この大量虐殺を指示した人物は、国民民主連盟(NLD)が大勝した昨年11月の総選挙で「不正があった」と主張し、クーデターは「避けられなかった」と述べたという。とうてい理解できない。総選挙で「不正があった」ことは所定の司法手続で糺せばよいだけのことで、クーデター正当化の理由になろうはずもない。

 それだけではない。国内で拡大する抗議デモを念頭に「安定と安全を害する暴力的行為は適切ではない」と述べてもいる。式典に先立ち、軍は国営テレビを通じて「若者が暴動に参加しようとしているが、頭や背中を銃弾などが貫通する危険がある」と警告した(NHK)という。要するに、デモ参加者には頭を狙って狙撃するぞ、という殺人予告をしているのだ。

 この27日の「殺人者集団創立記念式典」には8か国から出席があったという。その筆頭がロシア。ミン・アウン・フライン司令官は、演説の中で「ロシアは真の友人だ」と述べたそうだ。なるほど、なるほど、類は友を呼ぶとか。奥が深い。次いで、中国も参加している。こちらも、呼ばれた友であろう。

 軍隊とは、基本的に殺人組織である。これが、勝手に動き出したら、これほど危険なものはない。必要悪としての存在を認めざるを得ない場合にも、厳重なシビリアンコントロールが不可欠であって、けっして独り歩きさせてはならない。ミャンマー軍がその危険、その恐ろしさを遺憾なく曝け出している。

 このような折も折。日本を含む12カ国の軍のトップがミャンマー軍を非難する声明を出した。自衛隊の最高機関である、統合幕僚監部のホームページに以下の「お知らせ」が掲載されている。

令和3年3月28日
統 合 幕 僚 監 部

各国参謀長等による共同声明について

統合幕僚長山崎幸二陸将は、令和3年3月28日(日)(日本時間)、ミャンマーで生起している事態に対する平和的な解決を求めて、以下の共同声明を発出することと致しました。

(声明仮訳)
ミャンマーにおける同国軍による暴力行為を非難する
各国参謀長等による共同声明

 以下は、オーストラリア連邦、カナダ、ドイツ連邦共和国、ギリシャ共和国、イタリア共和国、日本国、デンマーク王国、オランダ王国、ニュージーランド、大韓民国、イギリス及びアメリカ合衆国の参謀長等による共同声明である。

 参謀長等として、我々はミャンマー国軍と関連する治安機関による非武装の民間人に対する軍事力の行使を非難する。およそプロフェッショナルな軍隊は、行動の国際基準に従うべきであり、自らの国民を害するのではなく保護する責任を有する。我々はミャンマー国軍が暴力を止め、その行動によって失ったミャンマーの人々に対する敬意と信頼を回復するために努力することを強く求める。

 ノーテンキに、これを立派なこととか称賛に値することと、持ち上げてはならない。「非武装の民間人に対する軍事力の行使」が非難さるべきは当然であるが、そのような意思表明は官邸か外務省が行うべきであって、自衛隊のなすべきことではない。

 政治や外交に関わることを軍のトップが口出ししてはならない。シビリアンコントロールはどこに行ってしまったのか。考えても見よ。自衛隊幹部が、独自の判断で中国やロシアの軍のありかたを批判する発言をはじめたら収拾のつかないことになる。容認する発言ならなおさらのことである。自衛隊を軍隊と定義するか否かはともかく、危険な実力組織には、独り歩きをせぬように厳重な統制が必要なのだ。

日本国憲法は軍隊の存在を想定していない。にもかかわらず、現実に存在する実力組織には、幾重にも、シビリアンコントロールの厳重な網をかぶせておかなければならない。それが、日本国憲法の平和主義、国民主権原理の求めるところである。

是非、野党は、この問題を看過せず、国会で追及していただきたい。 

「安定的な皇位継承策の議論」は、重大でも喫緊の課題でもない。

(2021年3月28日)
 愛読する毎日新聞、最近はその社説に違和感を覚えることが滅多にない。ときどきは大いに肯いて、肯いた自分を保守化したのだと感じたりもする。

 しかし、3月24日社説「皇位継承の有識者会議 国民的議論が欠かせない」だけは別。どうしても納得できない。民主主義理解と表裏一体の天皇制に関しての毎日新聞の姿勢は明らかにおかしい。もっとも、毎日新聞だけではないのだが。

不正確にならないように抜粋・引用する。
 「安定的な皇位継承策などを議論する政府の有識者会議が初会合を開いた。オープンで、国民が納得できる議論が求められる。
 2017年に成立した退位特例法の国会付帯決議は、皇位継承の議論を退位後速やかに行うよう政府に求めている。
 天皇陛下より若い皇位継承資格者は皇嗣(こうし)の秋篠宮さま(55)と長男悠仁(ひさひと)さま(14)の2人だけだ。
 しかし、安倍前政権は19年4月30日の上皇さまの退位以降も議論を先延ばしにしてきた。喫緊の課題を避けてきた政治の責任は極めて重い。
 先送りの背景には、安倍前政権の支持基盤である保守派が、皇族の女性が皇位を継承する「女性天皇」や、父方に天皇がいない「女系天皇」に強く反対していることがある。
 各種世論調査では、女性・女系天皇を容認する意見が7割前後に上っている。有識者会議はこうした世論も踏まえつつ、女性・女系天皇について議論を深めるべきだろう。
 皇族の減少も深刻だ。皇族が減れば、それぞれの負担が重くなり、皇室活動の維持も難しくなる。
 菅義偉首相は責任の重大さを認識し、国民的議論を経て広く理解を得られる結論を示すべきだ。」

 「安定的な皇位継承」とは、「万世一系の皇統」というに等しい。社会の木鐸を任じるジャーナリズムが、保守多数の国会に追随し、アプリオリに「安定的な皇位継承」を肯定してはならない。少なくも、根強く天皇制廃止の意見もあることを両論併記して意見を言うべきだろう。

 「喫緊の課題を避けてきた政治の責任は極めて重い」は、毎日新聞の論説陣が本気で言っていることなのだろうか。薄汚い安倍前政権攻撃の材料の一つとして、言って見せているだけなのだろうか。

 コロナ対策が喫緊の課題、被災地復興は喫緊の課題、地球環境保存のための排出ガス規制は喫緊の課題、絶滅危惧種保護のための生態系保存は喫緊の課題等々なら分かる。しかし、皇位継承なんぞ、「喫緊の課題」であろうはずはない。ましてや、コロナ禍さなかでのこと。私は、「課題」ですらないと思う。

 「女性・女系天皇について議論を深める」とは何を意味しているのだろうか。「女性・女系天皇を認めて、天皇制を護持することが大切」と、世論を誘導したいのだろうか。むしろ、「民主主義と天皇制との矛盾について議論を深める」ことが今、最も重要なことではないか。ついでに言えば、「天皇制と表現の自由」「天皇制と報道の自由」「天皇制と教育の自由」「天皇制と大学の自治」「天皇制と古代歴史研究の自由」の葛藤などにも、本当の意味での「議論を深める」努力をしていただきたい。

 「皇族の減少も深刻だ。皇族が減れば、それぞれの負担が重くなり、皇室活動の維持も難しくなる。」には、のけぞるばかり。これが、日本を代表する大新聞のリベラル度の水準なのか。皇族の減少は歓迎すべきことである。国民の主権者としての自立意識に資することになろうだけでなく、「皇族が減ればその分だけ経費負担が減り、社会福祉にまわすことができる」ではないか。

 「菅義偉首相は責任の重大さを認識し、国民的議論を経て広く理解を得られる結論を示すべきだ。」を、どう読むべきだろうか。

 天皇制やその支持勢力への欺瞞的な妥協だろうか、あるいは、販売促進政策上の保守的読者層へのへつらいと見るべきか。毎日新聞もつらいのかも知れないが、矜持を捨てないでいただきたい。

 なお、この有識者会議のメンバーは、下記の6人。
 上智大学の大橋真由美教授、慶應義塾の清家篤前塾長、JR東日本の冨田哲郎会長、俳優で作家の中江有里氏、慶應義塾大学の細谷雄一教授、千葉商科大学の宮崎緑国際教養学部長。

 これは明らかに偏った人選。天皇制に迎合することなく象徴天皇制を全面的に語ってきた実績のある横田耕一や原武史などの一群の人々を意識的に外しているとしか思えない。

 総理大臣官邸で開かれた有識者会議の初会合で菅首相は、こう語っている。

 「高い識見を有する皆様にご議論をお願いする」「議論していただくのは、国家の基本に関わる極めて重要な事柄だ。十分に議論を行い、さまざまな考え方を分かりやすい形で整理していただきたい」

 菅政権にとっては、象徴天皇制の持続は《国家の基本に関わる極めて重要な事柄》なのだ。毎日新聞が、「社の方針も同様」では、戦前と変わるところがない。本当にそう考えているのか。

「社会主義核心価値観」とは、現代中国版「教育勅語」である。

(2021年3月27日)
 金曜日には「週刊金曜日」を読もうとして、なかなか時間がとれない。今日、土曜日に3月26日号に目を通している。今号は、いつにもまして充実の趣。弱者目線にブレがないところがよい。

 対照的な、広島高裁伊方原発異議審決定と水戸地裁東海第二運転差し止め判決の紹介。札幌地裁同性婚違憲判決レポート。ソウル中央地裁「慰安婦」判決の関連記事。石橋学記者の差別断罪論。矢崎泰久の「左京」…。あれもこれも頷けるなかで、「『社会主義核心価値観』を読み解く」(麻生晴一郎)という中国情勢紹介記事に目が留まった。簡潔で分かり易い。が、やや違和感も禁じえない。

 世界情勢の中で俄然、存在感を増す中国。その政治思想を支えるのが、たった24文字の「社会主義核心価値観」だ。その内容とは? というリード。

 中国はスローガンのお国柄。至るところに、党や国家の政治スローガンが氾濫している。早川タダノリさんが紹介する戦前の日本も、空虚なスローガンに溢れた鬱陶しい社会だったようだ。何か、共通するものがあるのだろう。

 今、その多様な政治スローガンの頂点に君臨しているのが、12語(24文字)の「社会主義核心価値観」なのだ。この12語は、次のとおり3分類されるのだという。

 国家が目標とすべき価値:富強、民主、文明、和諧
 社会が重んじるべき価値:自由、平等、公正、法治
 個人の道徳規範の価値 :愛国、敬業、誠信、友善

 漢字2字の熟語だから、なんとなく分かるような気もする。おそらく、「富強」「愛国」などは、われわれのイメージと大きくは変わらないのだろう。「富国強兵」「忠君愛国」を連想させる。

 しかし、「民主」「自由」「平等」「公正」「法治」などは、われわれのイメージとはまったく違う。「はっきりしているのは、社会主義核心価値観が、中国で『普世価値(人類の普遍的価値)』と呼ばれることもある欧米中心の基準とは一線を画していることである」という。

 ならば、紛らわしい言葉遣いはきっぱりとやめて、正確に別の言葉を使うべきだろう。「民主」とは「専制」のこと。「自由」とは「一党独裁に従うべきこと」。「平等」とは「あらゆる格差を忍ぶべきこと」。「公正」とは党が全てを把握すべきこと。「法治」とは「党が恣に作る法による統治」である。

私の印象では、これは、「中国版・教育勅語」である。偉大なる党中央から、無知蒙昧な人民にたまわりし、ありがたくも、温情溢れたスローガン。こんなものは、自由とも民主主義とも、法の支配ともまったく無縁である。

というだけでなく、驚くべきは、「社会主義核心価値観」と言いながらも、「社会主義」の周辺にも当たるスローガンがない。

むしろ、党のホンネは、「七不講(チーブジャン)」にあるという。習近平体制になってから「党中央が各学校に対して通知した、七つの話してはならないこと」というが、「七つの禁句」と言った方が分かり易いだろう。(もっとも、いま、党は公式には否定しているという。)

禁句とされる「七不講」とは次のとおり。
(1) 人類の普遍的価値
(2) 報道の自由
(3) 市民社会
(4) 公民の権利
(5) 党の歴史的錯誤
(6) 特権資産階級
(7) 司法の独立

これにも、多少のコメントをしておきたい。
(1) 「人類の普遍的価値」と言えば、人権のことである。中国では人権は禁句なのだ。それはそうだろう。
(2) 「核心価値観」の中に「自由」はある。しかし、「報道の自由」という、党に不都合な自由は含まないのだ。
(3) 「市民社会」は、専制を倒した後の自由を基調とする社会。党の専制に抵触するのだろう。
(4) 「公民の権利」の最たるものは普通選挙である。人民の意を反映する選挙権を与えたら、全中国が香港化することになる。
(5) 「党の歴史的錯誤」が禁句なのは、文革も天安門事件もフランクに語る自信がないということなのだ。
(6) 「特権資産階級」が禁句なのは、「深刻な経済格差のなかで、特権的な資産階級が存在している」現実があるからにほかならない。
(7) 「司法の独立」は、選挙とともに法の支配の要である。司法が立法府や行政府、そして党の支配から独立していなければ、自由も民主主義も画餅に帰すことになる。「三権分立」も「司法の独立」もない社会は、市民社会成立以前の、非文明の専制社会と言わざるを得ない。

このような中国と、どのようにしたら共通の言葉で話ができるのか。麻生晴一郎論稿は、最後をこう結んでいる。
 「日本も含めて、さまざまな問題で中国政府に意見を述べ、働きかける際も、社会主義核心価値観など中国スタンダードの文脈の中で語らなくてはならない時代になっていくのではないか。そうしなければ、香港問題同様、中国政府は外からの声に聞く耳を持たない可能性が大きいのである。」

これに違和感がある。これは、対中国敗北の論理ではないか。人類史が積み重ねてきた叡智と知性の敗北でもある。中国とは、大いに対話をすべきであるが、卑屈で姑息な態度をとるべきではない。

聖火リレーの行き着く先は?

(2021年3月26日)
 ここ上野不忍池はかつての東叡山寛永寺境内の一隅。四季の移りの中で二度ばかりは、この地が極楽浄土となる。一度は盂蘭盆会を間近の蓮の華が咲き誇る頃。そして、もう一度が、花が咲きそろい鳥の鳴く頃。まさしく、本日のこの景色が極楽浄土さながらと言うよりほかはない。

 本日の早朝、空は飽くまで青く晴れわたり、風はそよやか。池の畔のソメイヨシノが今を盛りと咲き誇り、ちらほらと散り始め。これにベニユタカやシロタエが彩りを添えている。花は紅、柳は緑。弁天堂近くではウグイスの鳴き声。行き交う人はまばらで、甲高い外つ国の言葉は聞こえない。

 とは言え、この極楽、行き交う人々はまばらだが、皆マスクを着用している。一人の例外もなく。この世の現実から逃れられない極楽なのだ。

 東京オリンピックも、希望や理念を語りはするものの、コロナ蔓延の現実から逃れることができない。

 昨日から、聖火リレーが始まった。コロナ再感染第4波を押してのことである。初日から、火が消えて再点火するというアクシデントが2度。台風並みの風雨でも「絶対に消えない聖火」との触れ込みだったトーチの火が消えたのだ。本日(3月26日)には、火の消えたトーチのまま一区間が走られた。消えてはならない聖火が消えた。将来を暗示するものではないか。いや東京五輪の現実を語っているというべきか。

 聖火リレーは、フクシマから始まった。10年前地獄と化した原発事故の地。アンダーコントロールという、あの男のウソを改めて思い出す。そして、復興五輪というゴマカシも。東京五輪は、東北復興に水を差したではないか。それを糊塗するための見え透いた演出。

 政府は、「コロナに打ち勝った証しとしての東京五輪開催」と、まだ言っている。太平洋戦争も、原発依存の国策も、決定的な破綻に行き着くまで方向転換できなかった。東京五輪も同様なのだ。このままでは玉砕五輪とならざるを得ない。

 聖火リレーの出発式典で、大会組織委員会会長の橋本聖子は、「東京大会の聖火は、神聖で力強く、温かい光となって日本全国に一つひとつ希望を灯していってほしい」「日本と世界の皆さんの希望が詰まった大きな光となり、国立競技場に到着することを祈念する」「東北の人々の不屈の精神に心から敬意を表します」などと述べたという。

 はたしてこの火は、神聖だろうか。力強いだろうか。温かい光となるだろうか。全国に希望を灯せるだろうか。日本と世界の希望が詰まった大きな光だろうか。そもそも、無事に国立競技場に到着することができるだろうか。

 「東北の人々の不屈の精神に心から敬意を表します」は、意味不明である。私は、東北の出身者として、「打たれても、叩かれても、虐げられても、中央には文句の一つも言わない」と、蔑まれた思いを抱かざるを得ない。

 よく知られてるとおり、聖火リレーはヒトラー政権下の1936年ベルリン五輪から始まった。ファシズムの心理的演出手法として位置づけられたものである。

 極楽の風景もコロナの現実から逃れることはできない。聖火リレーのまがい物の希望も同様である。まずは、コロナ拡大のリスクを冒してまで、聖火リレーなどやる意味があるかを考えよう。聖火リレーも東京五輪も、腐敗した政権や政治家の野心が民衆を統制する演出に過ぎないというべきであろう。確かなのは、東京五輪が大企業の金儲けの手段となっていること。

 火は必ずしも聖なるものとは限らない。人家を焼く火災の火ともなり、おぞましい戦火とも、原発の核の火とも、煉獄の炎ともなる。コロナ禍のさなかに、Jビレッジを出た火は、途切れながらも、人から人へのリレーを重ねて行き着くところで、極楽の聖なる火となるだろうか、あるいは地獄の劫火となるのだろうか。

甲子園に流れた韓国語校歌の感動

(2021年3月25日)
 自分でも現金なものと呆れるが、かつては「春はセンバツから」が身体に染みついていた。母校が甲子園の常連校で常勝校でもあった頃のこと。今は、高校野球になんの興味もない。母校の野球部は廃部になってしまっている。だから、どこの高校が勝とうが負けようがどうでもよいことで、随分と紙幅をとっている毎日新聞のスポーツ欄は目障りなのだ。

 ところが、昨日の一戦だけは別。京都国際高校対柴田高校(宮城)の初出場対決。延長戦の末、5―4で京都国際が勝利した。その試合後に流れた校歌が「韓国語」だったという。同校は、現在はいわゆる「1条学校」だが、その前身は在日韓国人の学校。校歌は、昔のとおりのハングルの歌詞。球場の大型スクリーンには、ハングルの歌詞と日本語訳の両方が映し出されたと報道されている。これは、すてきなニュースではないか。

 私は、ナショナリズム一般の価値を認めない。ナショナリズムとは全体主義的統合機能をもつものとして危険であり、反価値でしかないと思う。しかし、特定の状況において、虐げられている人たちを鼓舞する抵抗のエネルギーの源泉としてであれば、その限りで評価を惜しまない。

 在日の人々が置かれている立場では、そのナショナリズムは尊重に値すると思うし、敬意を禁じえない。その在日のナショナリズムに寛容な日本社会であって欲しい。今、京都国際の野球部員は全員が日本人であるというが、彼らが抵抗なく韓国語の校歌を唱う図には、日本社会の寛容度を見直させるものがある。

 この校歌の歌詞を直訳すれば、「東海を渡りし大和の地は 偉大なわが祖先の昔の夢の場所」で始まるものという。「東海(トンへ)」とは、韓国でいう日本海のこと。韓民族が日本海を渡ってやって来た「ここ大和の地は、偉大なわが祖先の昔の夢の場所」という。「夢の場所」とまで言われた「大和」側の一人としては、気恥ずかしいほどの親日の歌詞。

 この校歌についての報道は概ね好意的である。「校歌が韓国語で何の問題があるのか」という主調。主催者も、メディアも、学校も、そして選手も、大らかに韓国語校歌を容認したのだ。その寛容さに拍手を送りたい。

朝日が、同校野球部のOBを取材してこんな記事を書いている。
「OBの李良剛(イヤンガン)さん(35)=東京都品川区=は手拍子をし、マスクを着けたまま小さく口を動かした。「韓国とか日本とかではなく、グローバルの時代。野球を通じて国境を超えて感動を与えてほしい」

 18年前の夏、京都大会の開会式で日本語と韓国語の両方で選手宣誓した。「魂(オル)・感謝(カムサ)・感動(カムドン)」。拍手が送られた。「高校野球に民族や国籍は関係ないと感じた。高校野球はいいなと思った」と振り返る。

 とは言え、まったく問題がなかったわけではない。非寛容な右派勢力が、「東海(トンへ)」に噛みついたのだ。地名は国際的に「日本海」が正しい。これを「東海(トンへ)」とはなにごとか。学校も怪しからんが、こんな歌を唱わせた主催者もおかしい、というわけだ。

 もっとも、このような事態は予想されたところで、球場の大型スクリーンに映された日本語訳は、「東海」ではなく「東の海」となっていた。「建国記念日」ではなく、「建国記念の日」とした妥協を思い出させる。

 おそらくは、学校は一定の譲歩をしたのだろうが、状況をよく見ての知恵と言ってよいだろう。無理なく、甲子園に、そして中継を通じて全国に、たくさんの祝福の笑顔に包まれて韓国語の校歌が流れたことの意味は大きい。こんなときだけは、日本人もなかなかのものだと思う。

 その折も折、米インド太平洋軍は24日、北朝鮮による弾道ミサイル発射に関する声明の中で、日本海を韓国式名称である「東海」と表記した。米政府はこれまで、日本海の表記を使用してきた。
 インド太平洋軍報道官のマイク・カフカ大佐は声明で「米国は北朝鮮による今朝の東海へのミサイル発射を認識している」と説明した。
 米地名委員会は、日本海を「通常」表記、東海などを「変異」表記と区別している。【時事】

 日・韓・朝、そして米。各国のナショナリズムの交錯が複雑で緊張感も高まっているる。日韓のナショナリズムの対峙は深刻にもなっている。しかし、在日の人々のナショナリズムを象徴する韓国語の校歌を、甲子園は笑顔で包んだ。私の母校とは無縁となった甲子園だが、たまにはよい風景も見せてくれるのだ。

「河井克行は離党させたのだから、もう自民党に責任はない」「アベ・スガ・ニカイに火の粉はごめんだ」

(2021年3月24日)
 河井克行という大規模公職選挙法違反事件の被告人は、元法務大臣である。まったく法務大臣として不適格なこの人物を特に選んで法務大臣に据えたのは、当時の腐敗政権を支えた安倍晋三と菅義偉だった。時の政権の腐敗を象徴する人事として、これ以上の「適材適所」はない。

 そして、この法無大臣に、巨額の河井案里選挙資金をつかませたのが自民党幹事長二階俊博である。河井克行の犯罪には、この黒幕3人組が深く関わっている。

 その河井克行が、昨日(3月23日)の公判廷で、これまでの無罪主張を翻して犯行を認め、議員辞職の意向を明らかにした。注目さるべきは、河井の今後よりは、河井の犯罪に深く関わっている黒幕3人組(ブラック・トライアングル)の責任の取り方である。

 そのブラックトライアングルの一角・二階俊博は、頭を捻って高等戦術に打って出た。23日の党会合で、幹事長として「党としても、他山の石として、しっかり対応していかなければ」と語ったのだ。

 河井事件を「他山の石」と言ってのけた狡猾さ。さすがに智恵者。さりげなく「河井事件は、自分の問題でも、自分たち自民党の問題でもない」と印象をふりまき、その上で、しかし「『他山の石』として教訓にしよう」と神妙なフリをして見せたのだ。

 うっかり聞いていると、「ああ、『他山の石』なのか、二階さんのことでも自民党のことでもない、他人・他党のことなんだ」と思わせる高等戦術。「たくさんの人に引っかかってほしい」という期待を込めた詐欺的言葉遣い。詐言・詐術と言ってもよかろう。

 だが、どうも評判は散々のようだ。これで国民を欺けると思うたは国民を甘く見るにもほどがある、という雰囲気。

 野党側は真面目に怒っている。二階批判は厳しい。「日本語を理解されていないのか、ちょっと意味不明の発言であり、まさに自民党のど真ん中で起きた事件だ」「自民党として、しっかり事件に対応しなかった」(立民・枝野幸男代表)、「他人と自分の区別もつかなくなったのか。他山ではなく、紛れもない『自山』だ」(共産・小池晃書記局長)

 一方、自民党の森山国対委員長は、「決して人ごとというふうには思っておられないんだと思います。今、自民党員ではないという意味でおっしゃりたかったのでは」と述べたという。これはなおさら悪い。

 不祥事を起こした政治家は離党させる。そうすれば全てが他人事になるというのだ。自民党時代の党が絡んだ不祥事も、離党させればもう他人事。自分のこととしての反省材料にはならないというのだ。森山説は、随分とはっきりそう言ったのだ。

 この二階・森山流の責任回避姿勢の姑息さは、二階の、いやトライアングルの傷口を広げる。不祥事あれば、率直に認めて真摯に反省の上、謝罪しなければならない。その上で、しかるべき具体的な措置に及ばなければならない。そ失せずに、姑息な策を弄しようとすれば、それこそ傷口はさらに深く大きくなる。このことを他山の石としなければならない。

権力の発動に異議を唱えた市民の訴えには、まずは共感の姿勢で耳を傾けよう。

(2021年3月23日)
 ややこしい話だが、新型コロナの蔓延に対応している法律の名称は、「新型インフルエンザ等対策特別措置法」である。昨年(2020年)3月、この特措法に新型コロナ対応を盛り込んだ改正を行って以来、この改正法を指して「新型コロナ特措法」などと呼ばれることもある。

 今年(2021年)2月3日に、その「新型コロナ特措法」が再改正されて、同月13日に施行となった。その改正部分に、知事の強制権限が盛り込まれている。知事は非常事態宣言の有無にかかわらず、「(コロナ蔓延の)予防的措置」として、飲食店等に対して時短や休業などを「要請」するだけでなく、「命令」を出せるようになった(同法45条3項)。命令に対する違反には、行政罰として30万円以下の過料という制裁が科されることにもなる(同法79条)。

 小池百合子都知事が、さっそくこれに飛びついた。3月18日、時短「要請」に応じなかった27店舗に午後8時以降の営業停止を「命令」したのだ。全国で初めてのことである。ところが、これを不服とする訴訟が提起された。知事としては、思いもかけないことであったろう。

 営業停止を「命令」された27店舗のうちの26店舗は、飲食チェーン「グローバルダイニング」が経営するもの。同社が東京都を相手に、処分取消の訴訟ではなく、国家賠償請求の訴訟を提起した。請求金額は、象徴的な意味合いの損害としてわずかに104円であるという。

 さて、この提訴。まだ訴状の構成の詳細は分からない段階でのことだが、基本的にどう評価すべきだろうか。いろんな考え方があるに違いない。「この非常時ではないか。時短要請に応じるべきが当然だろう」「要請に応じた店舗がほとんどなのだから、平等原則上原告は身勝手極まる」「行政裁量の壁を乗り越えられないだろう」「こういう訴訟は敗訴した場合のデメリットが大きい。こんな提訴をしてホントに大丈夫だろうか」「この店や弁護士のパフォーマンスが鼻について好感が持てない」…

 私は、この提訴を積極的に評価して、まずは歓迎したい。力の弱い者と強い者との軋轢があれば、取りあえずは弱い方に肩入れすべきが「正しい」態度であると私は思っている。労働者と資本、消費者と事業者、市民と警察、被疑者と検察官、女性と男性、野党と与党、患者と医師、そして国民と公権力、である。

 東京都の公権力発動に対して、権利の制約を受ける立場となる店舗が異議を唱えて司法の場で争おうというのだ。その意気やよし、とまずは歓迎すべきであろう。少なくも、その言い分に耳を傾けてしかるべきである。

 報道の限りでのことだが、グローバルダイニングの主張のキーワードは、二重の意味での「狙い撃ち」にあるようだ。一つは、都内で2000店舗以上が時短要請に応じてないにも拘わらず、命令の対象となったのはグローバルダイニングの店舗であつたこと。もう一つは、グローバルダイニングが行政指導に応じない考えなどをネット上で発信したことを理由に同命令を出したこと、だという。これを、「営業の自由(憲法22条)と表現の自由(21条)の保障、それに法の下の平等(14条)に違反している」と構成しているようである。

 グローバルダイニングは、東証2部への上場企業である。22日の終値248円が、23日には9時31分に、328円(+80円、+32%)のストップ高となった。これは興味深い。もしかしたら、このストップ高は、小池都知事への不快感の反映とも読めるのではないか。この先、注目せざるを得ない。

大石又七さんありがとうございました。

(2021年3月22日)
貴重な歴史の証人が失われた。第五福竜丸乗組員として「死の灰」の被曝を体験され、その体験を語り続けてこられた大石又七さんが亡くなった。享年87。

大石さんは第五福竜丸展示館を運営している公益財団法人第五福竜丸平和協会の評議員でもあった。昨日(3月21日)、協会の理事会で初めて訃報に接した。亡くなられたのは3月7日だという。

昨日、第五福竜丸展示館ホームページは、以下の「お知らせ」を掲載した。

第五福竜丸の乗組員として、ビキニ水爆実験に被ばくした大石又七さんが、去る3月7日に亡くなられました。
大石さんは、第五福竜丸の保存が実現し、夢の島公園に展示館が開館した数年後の1980年ごろから時折展示館を訪れていました。1983年に中学生に請われ自らの体験を語ったことを契機に、証言者として歩みはじめました。展示館への来館校が増える中で、クリーニング業を営みながら、断ることなく証言・講和に臨みました。また各地からも声にもこたえ、講演の数は700回を超えます。第五福竜丸を前にしては500回以上お話されてきました。

大石さんは、子どもたちに自らの体験を告げるだけでなく、核がもたらす身体的な被害や精神的苦しみ、差別や社会的な問題、そして核の現状などについて勉強を重ねていきました。1991年には公開された福竜丸被災に関する日米間の外交文書を読みこみ、水面下での政府間のやりとりも著作の中で紹介しています。ここにも「子どもたちに話すからには間違ったことは言えない」との大石さんの真摯な姿勢が感じられます。…

大石さんは、被ばくによる闘病から退院後、東京に出て辛苦を味わいながらも社会の理不尽さや不正を許さない実直な人柄とその行動が、多くの人から慕われました。
第五福竜丸平和協会は、大石さんの意思と行動を心として、核兵器も被ばく被害もない世界にむけて、第五福竜丸の航海を続けます。大石又七さんありがとうございました。

 「大石又七さんありがとうございました。」には、特別の実感がこもっている。23人の被曝乗組員の中で、大石さん以外に積極的な語り部はいない。その大石さんも、被災直後から体験を語りはじめたわけではない。30年ほどは、口をつぐんでいた。実は、被曝の体験を語るのは容易なことではない。大きな社会的圧力を乗り越えなければできないことのだ。

大石さんの著書、『ビキニ事件の真実 : いのちの岐路で』(みすず書房 2003年)の中に、次の一節がある。

 ここでまた運動とは逆行することも起こる。他船の被爆者たちの動きだ。俺たちもそうだったが、自分から被爆の事実を隠しはじめたのだ。
 当時、乗組員たちには最低補償も労働組合もなく、貧しいその日暮らしだった。補償金が出ないとなれば働かなければならない。うっかり話でもしたら足止めされ、出漁もできなくなる。出漁できなければ、明日から生活に困る。そのとき、体が動けば、自分から「被爆しました」などと言うばかはいない。
福竜丸のように騒ぎに巻き込まれれば、白い目で見られたうえに、差別もされるーそれは船元も同じだった。多くの船子を抱え、船をあそばせておくわけにはいかない。事件の波紋が大きくなるにつれ、みんな恐れをなして自分から隠しはじめたのだ。漁船の生活は船元・船頭を中心とした典型的なタテ社会である。特に焼津は、昔から身内で要職を固める一船一家主義の土地柄、上下関係にもきびしい世界だった。その下で働く漁師たちはたとえ意見を持っていても、従う以外に道はない。そして船という小さな枠で仕切られて、広い海にちらばっているのだ。

 やがて、乗組員の中からも事件を忘れさせようとする働きかけが始まる。気がつくと、福竜会という会報が一方的に送られて来るようになった。それは意外なもので、乗組員の発病や苦悩に対して助け合うものならともかく、「俺たちに近づいてくる者はみな共産系の者だ」「気をつけろ」などと口をふさぐものだった。そして、仲間が発病しても死んでも、「被爆とはもう関係ない、一般の病気だ」「第五福竜丸であるとか、元乗組員であるとか、そんなことはみんな忘れろ」「ずい分長生きさせてもらった、放医研の検査には協力しよう」『己のわがままで、どこかに不信の念ありとすれば、人間失格だ』とまで書いて、乗組員から不満が出ないようにした。元乗組員たちは元気な者ほど、今も口をつぐんだままでいる。

 被災体験の証言は、口を封じようとする圧力に抗してなされるのだ。屈することなく、その使命感から証言を続けてこられた大石さんに感謝せずにはおられない。亡くなられた今、大石さんが果たした役割の大きさを感じる。

なお、大石さんの著作は、『ビキニ事件の真実』以外に、下記のものがある。

大石又七著、工藤敏樹編『死の灰を背負って : 私の人生を変えた第五福竜丸』 新潮社 1991年
大石又七お話、川崎昭一郎監修『第五福竜丸とともに : 被爆者から21世紀の君たちへ』新科学出版社 2001年
大石又七『これだけは伝えておきたいビキニ事件の表と裏 第五福竜丸・乗組員が語る』かもがわ出版、2007年
大石又七『矛盾 : ビキニ事件、平和運動の原点』武蔵野書房 2011年

国旗・国歌(日の丸・君が代)への敬意表明強制とはいかなる意味をもっているのか

(2021年3月21日)
都教委の悪名高い「10・23通達」(2003年)以来、都内の全公立校に卒業式・入学式のたびに、君が代斉唱時の「起立」の職務命令が発せられている。違反者には懲戒処分である。

もうすぐ懲戒処分取消の第5次訴訟の提起となる。原告は14名となる予定。3月31日と提訴日を決めて、いま訴状の作成準備を重ねている。

その準備の中であらためて思う。憲法を守るしっかりした司法があれば、国旗・国歌(日の丸・君が代)の強制などはあり得ないものを。嘆かわしきは、憲法に忠実ならざる司法の姿。

その訴状の冒頭の一部(未確定版)を引用しておきたい。裁判所にこの訴訟の概要を説明する一文、新聞ならリードに当たる部分の一部である。

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本件訴訟の概要と意義(抜粋)

☆ 本件は毀損された「個人の尊厳」の回復を求める訴えである
(1) 精神的自由の否定が個人の尊厳を毀損している
本件は原告らに科せられた懲戒処分の取消を求める訴えであるところ、本件各懲戒処分の特質は、各原告の思想・良心・信仰の発露を制裁対象としていることにある。原告らに対する公権力の行使は、原告らの精神的自由を根底的に侵害し、そのこと故に原告らの「個人の尊厳」を毀損している。
原告らは、いずれも、公権力によって国旗・国歌(日の丸・君が代)に対する敬意表明を強制され、その強制に服しなかったとして懲戒処分という制裁を受けた。しかし、原告らは、日本国憲法下の主権者の一人として、その精神の中核に、「国旗・国歌」ないしは「日の丸・君が代」に対して敬意を表することはできない、あるいは、敬意を表してはならないという確固たる信念を有している。
国旗・国歌(日の丸・君が代)をめぐっての原告らの国家観、歴史観、憲法観、人権観、宗教観等々は、各原告個人の精神の中核を形成しており、国旗・国歌(日の丸・君が代)に対する敬意表明の強制は、原告らの精神の中核をなす信念に抵触するものとして受け容れがたい。職務命令と、懲戒処分という制裁をもっての強制は、原告らの「個人の尊厳」を毀損するものである。

(2)国旗・国歌(日の丸・君が代)強制の意味
国旗・国歌が、国家の象徴である以上、原告らに対する国旗・国歌への敬意表明の強制は、国家と個人とを直接対峙させて、その憲法価値を衡量する場の設定とならざるを得ない。
国家象徴と意味付けられた旗と歌とは、被強制者の前には国家として立ち現れる。原告らはいずれも、個人の人権が、価値序列において国家に劣後してはならないとの信念を有しており、国旗・国歌への敬意表明の強制には従うことができない。
また、国旗・国歌とされている「日の丸・君が代」は、歴史的な旧体制の象徴である以上、原告らに対する「日の丸・君が代」への敬意表明の強制は、戦前の軍国主義、侵略主義、専制支配、人権否定、思想統制、宗教統制への、容認や妥協を求める側面を否定し得ない。
「日の丸・君が代」は、原告らの前には、日本国憲法が否定した反価値として立ち現れる。原告らはいずれも、日本国憲法の理念をこよなく大切と考える信念に照らして、日の丸・君が代への敬意表明の強制には従うことができない。
国旗・国歌(日の丸・君が代)に敬意を表明することはできないという、原告らの思想・良心・信仰にもとづく信念と、その発露たる儀式での不起立・不斉唱の行為とは真摯性を介して分かちがたく結びついており、公権力による起立・斉唱の強制も、その強制手段としての懲戒権の行使も各教員の思想・良心・信仰を非情に鞭打ち、その個人の尊厳を毀損するものである。司法が、このような個人の内面への鞭打ちを容認し、これに手を貸すようなことがあってはならない。

(3) 教育者の良心を鞭打ってはならない
また、本件は教育という営みの本質を問う訴訟でもある。
原告らは、次代の主権者を育成する教育者としての良心に基づいて、真摯に教育に携わっている。その教育者が教え子に対して自らの思想や良心を語ることなくして、教育という営みは成立し得ない。また、教育者が語る思想や良心を身をもって実践しない限り教育の成果は期待しがたい。『面従腹背』こそが教育者の最も忌むべき背徳である。本件において各原告が、「国旗不起立・国歌不斉唱」というかたちで、その身をもって語った思想・良心は、教員としての矜持において譲ることのできない、「やむにやまれぬ」思想・良心の発露なのである。これを、不行跡や怠慢に基づく懲戒事例と同列に扱うことはけっして許されない。
国旗・国歌(日の丸・君が代)への敬意表明の強制によって、教育現場の教員としての良心を鞭打ち、その良心の放棄を強制するようなことがあってはならない。

(4) 原告らに、踏み絵を迫ってはならない
原告らは、公権力の制裁を覚悟して不起立を貫き内なる良心に従うべきか、あるいは心ならずも保身のために良心を捨て去る痛みを甘受するか、その二律背反の苦汁の選択を迫られることとなった。原告らの人格の尊厳は、この苦汁の選択を迫られる中で傷つけられている。
原告らの苦悩は、江戸時代初期に幕府の官僚が発明した踏み絵を余儀なくされたキリスト教徒の苦悩と同質のものである。今の世に踏み絵を正当化する理由はあり得ない。キリスト教徒が少数だから、権力の権威を認めず危険だから、という正当化理由は成り立たない。
思想・良心・信仰の自由の保障とは、まさしく踏み絵を禁止すること、原告らの陥ったジレンマに人を陥れてはならないということにほかならない。個人の尊厳を掛けて、自ら信ずるところにしたがう真摯な選択は許容されなければならない。

以上のとおり、本件は毀損された原告らの「個人の尊厳」の回復を求める訴えである。その切実な声に、耳を傾けていただきたい。

DHC製品不買運動は、案外効いているのではないか。

(2021年3月20日)
前川喜平が、実名に(右傾化を深く憂慮する一市民)という自己紹介文を付したハンドルネームで、ツィッターを発信している。なるほどと、頷けることばかり。

https://twitter.com/brahmslover
前川喜平(右傾化を深く憂慮する一市民)
@brahmslover

一昨日(3月18日)発信の前川ツィートが、「DHC」に触れている。

「この前泊まったホテルの浴室にはDHC製品が置かれていた。もうあのホテルは使わない。」

「DHC製品、私は買わない」というだけでなく、アメニティとしてDHC製品を使っているホテルへの宿泊もやめようというメッセージ。DHCへの批判を、積極的に具体的な行動で表そうという呼びかけでもある。

このツィートは、沖縄タイムス阿部岳記者の以下の発信にリツィートしたもの。

「デマとヘイトの責任を問う法廷で、DHC「ニュース女子」側はなおもデマとヘイトを垂れ流し続けた。制作会社プロデューサーの一色啓人氏は(証人として)「高江に住んでいる半数以上が基地建設が決定してから住んだ」と述べた。すぐ高江区長に電話して確かめたが、事実ではなかった。」

阿部記者の言う「デマとヘイトの責任を問う法廷」とは、辛淑玉さんが原告となって、DHCテレビジョン(DHCの100%子会社、代表取締役会長:吉田嘉明)と長谷川幸洋を訴えた訴訟での証人調べ法廷のこと。

沖縄・高江の米軍ヘリパッド建設への抗議行動を取り上げたDHCテレビ番組「ニュース女子」で名誉を毀損されたとする辛淑玉さんが、制作会社DHCテレビジョンと司会を務めていた長谷川幸洋に計1100万円の慰謝料などを求めて東京地裁に提訴し、併せて番組の差し止めと削除、謝罪広告の掲載も求めている。

3月17日東京地裁法廷での証人尋問の模様を阿部記者は、沖縄タイムスにこう書いている。

「涙」「能弁に」「笑いながら」 証言台の3人、語る姿の違いに現れた差別の構造

 証言台に立った3人は、ともに恐怖や被害を語った。だが、語る姿は全く違った。テレビ番組「ニュース女子」に名指しされた辛淑玉(シンスゴ)氏は涙で言葉に詰まりながら。司会だった長谷川幸洋氏は能弁に。制作会社の一色啓人氏は時に笑いながら。
 この差は、個性だけによるものではない。社会における力の差、差別の構造が表れている。仮に同じ出来事が降りかかったとしても、少数派には差別の重さが加わり傷はより深くなる。

前川ツィートは、この阿部記者の姿勢に共感するとともに、DHCやそれに与する人々への批判を形にすべきことを訴えているのだ。ヘイト容認派対ヘイト批判派、デマ容認派対デマ撲滅派。そのせめぎ合いの最前線で、DHCへの向き合い方が問われている。デマやヘイトを許さないとする者は、DHC製品をボイコットして、DHCの姿勢を正さなければならない。

前川は、2020年12月20日にも、
「DHCが提供するTV番組は見ない。」
とツィートしている。「DHCがスポンサーになっているTV番組」をみんなが見ないとなれば、DHCの売り上げは確実に激減するだろう。

 「DHCの製品、私は買いません」
 「DHCの製品、私の親類縁者には買わせません」
 「DHCの製品を使っているホテルには泊まりません」
 「DHC提供の番組は見ません」
 「DHCのコマーシャルが流れたら、スイッチを切ります」
 
前川喜平に倣って、DHCに対する批判を具体的な行動に表わそう。積極的に表現しよう。あるいは、下記の米山隆一のごとくに。

 差別を見過ごす人はその人も一定程度差別に加担しています。今般のDHCのキャンペーンの広報は、私には耐えがたいものに思えます。私は以前DHCの製品を使っており、その後止めた後現在時折買っていたのですが、もう金輪際買いません。差別に加担する積りはありません。(2020年12月16日)

DHC製品ボイコットに対する経済制裁は案外効いているのではないだろうか。

最近までのDHCは、業界ナンバー1を豪語し、1000億円(年間売上)企業と誇ってきた。しかし、今やDHCは確実に売り上げを減らして業績を悪化させている。既に、業界ナンバー1でも、1000億円企業でもなくなっている。

2019年までは、何とか1000億円の売り上げをキープしていたDHCだったが、2020年(7月決算)の売り上げは、973億円と大台を割り込んだ。とりわけ当期純利益は、49億(18年)⇒41億(19年)⇒13億円(20年)と、激減と言ってよい。

この間、ライバル会社ファンケルの業績が好調で、18年に初めて売上げ1000億円を超えてDHCを凌駕した。2020年(3月)の決算では、売上高1270億円と大きく水を開け、当期純利益がちょうど100億円となっている。

また、「通販健康食品」という分類で、DHCは長く業界のトップに位置していたが、2019年の販売金額でのトップはサントリーウエルネスで923億円。次いでDHCが399億円と、大きく引き離されている。

DHCの業績悪化の本当の原因は分からない。しかし、ニュース女子の番組で、DHCのヘイト体質が世に知られるようになったのが、2017年1月のことである。この辺りから世論の指弾とともに業績の悪化が始まっている。案外DHC製品不買運動が、効果を上げているようにも思える。

前川喜平や米山隆一に倣って、DHCの製品不買を呼びかけよう。「DHC製品、私は買わない」、たったそれだけのことが、デマやヘイトのない社会の実現につながる。

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