敢えて山本太郎を擁護する
天皇に文書を手渡した山本太郎議員に対するバッシングは、はからずも現代における天皇制の実像を可視化するものとなった。天皇の神聖性を傷つける山本の行為をタブーに触れたとする攻撃は凄まじく、法とは乖離した象徴天皇制の体制維持圧力の危険を露わにしている。改めて、象徴天皇制のもつ本質的な危険性を指摘せざるを得ない。その文脈で、私は敢えて山本太郎を擁護する。
本日(11月1日)自民党の脇雅史参院幹事長は党役員連絡会で「憲法違反は明確だ。二度とこういう事が起こらないように本人が責任をとるべきだ」と要求したと報道されている。ほかにも、下村博文文部科学相は「議員辞職ものだ。これを認めれば、いろんな行事で天皇陛下に手紙を渡すことを認めることになる。政治利用そのもので、田中正造に匹敵する」と批判。公明党の井上義久幹事長は「極めて配慮にかけた行為ではないかと思う」、同党の太田昭宏国土交通相も「国会議員が踏まえるべき良識、常識がある。不適切な行動だ」。古屋圭司国家公安委員長は「国会議員として常軌を逸した行動だ。国民の多くが怒りを込めて思っているのではないか」。新藤義孝総務相は「皇室へのマナーとして極めて違和感を覚える。国会議員ならば、新人とはいえ自覚を持って振る舞ってほしい」。田村憲久厚生労働相は「適切かどうかは常識に照らせばわかる」、稲田朋美行政改革相は「陛下に対しては、常識的な態度で臨むべきだ」と不快感を示した。民主党の松原仁・国会対策委員長までが、「政治利用を意図したもので、許されない」と批判。興味深いのは、日本維新の橋下徹大阪市長。他人のこととなれば、「日本国民であれば、法律に書いていなくても、やってはいけないことは分かる。陛下に対してそういう態度振る舞いはあってはならない。しかも政治家なんだから。信じられない」と遠慮がない。安倍晋三首相も周囲に「あれはないよな」と不快感を示したという。自民党の石破茂幹事長は記者会見で「見過ごしてはならないことだ」と言明。谷垣法相も「天皇陛下を国政に引きずり込むようなことにもなりかねない」と懸念を示した。不快、批判、懸念のオンパレードだ。
各政治家の口から出ているのは、良識・常識・マナー・配慮、不適切などの曖昧模糊とした感情的語彙のみ。論理を語る者がいない。比較的正直なコメントが、「陛下に対してそういう態度振る舞いはあってはならない」という、「天皇ハ神聖ニシテ侵スベカラズ」感覚のホンネ。そして、「天皇の政治利用」あるいは、「天皇を国政に引きずり込むようなことにもなりかねない」とさすがに断定を避けた歯切れの悪い物言い。これも、なぜそうなるのかに切り込んでいない。
ハッキリしておこう。マナーとルールとは、まったくの別物だ。山本の行動をマナー違反と誹るのは、表現の自由に属する。山本も国会議員である以上、批判の言論に曝されることは覚悟しなければならない。しかし、山本の行為をルール違反として制裁を科することには慎重でなくてはならない。「憲法違反は明確だ」という批判には、批判者の責任が生じることを覚悟しなければならない。
山本の行為は、明仁という個人に話しかけ文書を手渡した私的行為であるか、天皇という官署に請願をしたかのどちらかである。どちらであるかは、園遊会という行事の憲法上の位置づけと関わる。
園遊会が私的な行事だとすれば、客として呼ばれた山本が、ホストと会話を交わし私的な文書を手渡したというだけのことに過ぎない。ルール違反の問題は起きようもない。
園遊会が公的な行事だとすれば、山本が会話し文書を手渡した相手は官署としての天皇だったことになる。天皇宛に手渡した文書の内容に、「損害の救済、公務員の罷免、法律、命令又は規則の制定、廃止又は改正その他の事項」に関する要請が含まれているとすれば、天皇に対する請願権の行使となる。憲法16条は、「何人も平穏に請願する権利を有し、何人も、かかる請願をしたためにいかなる差別待遇も受けない。」と明記する。ちなみに、大日本帝国憲法ですら、こう定めていた。「第30条 日本臣民ハ相当ノ敬礼ヲ守リ別ニ定ムル所ノ規程ニ従ヒ請願ヲ為スコトヲ得」。
請願権の行使先に天皇が含まれることは自明であって、請願法はこの旨を明記している。また、山本が平穏に請願権を行使したことに疑問の余地はない。ならば、「何人も、かかる請願をしたためにいかなる差別待遇も受けない」というのがルールである。まさしく、憲法は請願権の行使に対するバッシングがあり得ることを危惧し、請願を封殺することがないよう配慮して差別待遇を禁じているのである。
もっとも、現行請願法3条は、「天皇に対する請願書は、内閣にこれを提出しなければならない」とする。本来は内閣に提出することが筋ではある。しかし、同法第4条は、「請願書が誤つて前条に規定する官公署以外の官公署に提出されたときは、その官公署は、請願者に正当な官公署を指示し、又は正当な官公署にその請願書を送付しなければならない。」と救済規定を置く。あくまで、請願を実効あらしめようという配慮なのだ。
そして、同法第5条は「この法律に適合する請願は、官公署において、これを受理し誠実に処理しなければならない。」と定める。天皇は、請願書を内閣に送付し、内閣においてこれを受理し誠実に処理しなければならない」のである。
要約して言えば、園遊会が私的行事なら私人間における言論の授受に何のルール違反もなく、園遊会が公的行事なら山本の天皇宛の請願権の行使は内閣において誠実に受理し処理しなければならない。請願は平穏になされなければならないが、「畏れ多い」だの、「陛下にたいしてやってはいけない」などと言う情緒的理由による制約は憲法上あり得ない。請願法は、憲法と重複する規定として「第六条 何人も、請願をしたためにいかなる差別待遇も受けない。」と定めている。これに反して、参議院が、憲法と請願法を無視して、山本議員に対する制裁を科すようなことがあってはならない。
再度確認しておきたい。マナーは曖昧なものである。批判者が勝手に「これがマナーだ」と決めつけて、その基準でマナー違反を批判することが可能である。しかし、当然のことながらマナー違反に違反者の権利や資格を剥奪する効果はない。たいして、ルール違反には、何らかの実効的な制裁がともなう。したがって、ルールは一義的に明確なものでなくてはならない。
今のところ、山本に対するルール違反の明確な指摘はない。ただただ、曖昧な感情的批判が積み上げられているだけ。その非理性的な情緒的批判の集積が巨大な社会的圧力となり、マナーとルールの壁をも突き破りかねない。ここに危険な天皇制の本質を見る思いである。山本に対するバッシングの付和雷同を看過してはならない。
(2013年11月1日)