澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

朝日デジタル記事《あの日の「国葬事件」と僕ら?北野高生の回想?》紹介

(2022年9月25日)
 安倍国葬が明後日に迫っている。国家とは何か、政治とは何か、政治家とはいかにあるべきか、そして日本の保守政治の実態とはいかなるものであるのか。多くのものを見せつけ、多くのことを考えさせる、醜悪なイベント。

 その安倍国葬をどう考え、どう対応すべきかを考える素材として、朝日新聞デジタルの《あの日の「国葬事件」と僕ら?北野高生の回想?第1回》が、実に面白い。「国葬で休校 反対して座りこんだ高校生たち 待っていた意外な結末」というタイトル。

 あの日とは、1967年11月1日のこと。「吉田茂国葬」の翌日である。当時北野高校に在籍していた約20人が、集団で議論の末授業を無断で欠席、大阪府教育委員会に赴き「吉田茂国葬」に抗議したのだという。なんという、素晴らしい若者の自主性、そして褒むべき行動力。

 彼らが手にした抗議文には、それぞれが調べた吉田茂に対する評価が盛り込まれていたという。「米英との戦争には反対したが、中国への侵略には積極派だった」「日米安保条約を結んだ一方、沖縄を米軍統治下にして犠牲にした」等々。

 相反する評価が交錯する首相経験者に対し、国を挙げて功績をしのび、喪に服する。政治的に中立であるはずの学校が休みになる。そんな「国葬」に疑問を持たざるを得なかったのだ。 

 その抗議文をすぐには受け取ってもらえず、庁舎の玄関先で1時間ほど座り込んだ。このとき、異様さに気づいたマスコミが続々と集まってきて、期せずして彼らの行動は、報道されることとなった。

 ようやく府教委の職員が現れ、抗議文を受け取ると、「係に渡します」とだけ言い残し、去っていった。あまりにあっさりとした対応に張り合いなく、生徒たちは学校に戻る道すがら、次第に心細くなったという。

 朝日が、そのうちの一人を取材している。「みんな怖くなっていました。退学処分を心配して、仕事を探すとまで言う生徒もいました」 校則に違反する初めての抗議行動。無届けの集会、授業ボイコット、そして府教委への抗議…。はたして、どんな処分が待っているのか。

 「学校に帰り着くと、ちょうど昼休みの時間帯だった。生徒たちがうつむき加減で校門を通ると、意外な光景が待ちうけていた。建物まで50メートルほど。在校の生徒たちがずらりと並び、拍手をして迎えてくれたのだ。列の中には、先生たちの姿もあった。「やりましたねー」と興奮気味に声をかけてくれる人もいた。みな、お昼のニュースで抗議の様子を知ったようだ。」

 数日後、処分が言い渡された。保護者が学校に呼び出され、口頭での「注意」を受けるだけで済んだ。生徒たちから恐れられていた生活指導の先生の対応は穏やかだったという。「お越しいただき、ごくろうさまです」「生徒はいろんな体験をすることが大切ですね」と述べ、「注意」のたぐいは一切なかったという。学校にも、余裕があったのだ。

 学校の歴史をつづった「北野百年史」によると、このときのことは「吉田茂国葬事件」として記述されているそうだ。そこには、生徒たちが許可なく集団欠席したことなどを重くみる一方、「当時の社会情勢としてこのような行動をする生徒の心理を単純な事件として取扱うことなく、学校全体として新しく考えていく出発点として受止めている」と、職員会議録の内容が紹介されているという。

 今は、沖縄で印刷業を営むという、当時の高校3年生(74)は、当時の大人たちの寛容さを「若いときに望まない戦争に駆り出され、戦地で思い出したくないようなつらい体験をしていた」「彼らの世代にとって、国が特定の政治家をたたえ、国民に弔意を強制することに違和感があったんじゃないでしょうか」と述べている。

 そして今、「様々な評価がある元首相を国を挙げて顕彰することへの違和感はぬぐえない」と言う。そのうえで、「高校3年のときの自分が、9月27日の安倍氏の国葬を迎えたら…」、と思いをめぐらせる。「やっぱり授業を休んで、何らかのかたちで反対の意思表示をしたと思います」と、記事は締めくくられている。爽やかな読後感。

 あれから55年である。日本の民主主義はあのときよりも進歩しているのだろうか。退歩してしまったのだろうか。願わくは、今の若者もこうであって欲しいと思う。そして、学校も家庭も、このような若者の自主性や行動力に寛容であって欲しいとも思う。なによりも大切なのは、一人ひとり、ものを考え、行動する個人なのだから。

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