「千秋楽の君が代」の不自然さ
大相撲春場所は本日千秋楽、大関鶴竜の初優勝で幕を閉じた。これで、場所後の鶴竜の横綱昇進が確定。角界の頂点に立つ横綱3名が、いずれもモンゴル出身者となる。
67代横綱が武蔵丸(ハワイ)、68代朝青龍、69代白鵬、70代日馬富士、そして鶴竜が71代目。ここ5代、外国人横綱が続く。最近4代はモンゴル出身者だ。2003年1月に貴乃花が引退して以来11年、日本人横綱は不在のままである。
朝青龍が突然に引退したのが2010年2月のこと。あの不祥事さえなければ、彼は33歳の今も綱を張っていたのではないだろうか。琴欧洲も把瑠都も怪我さえなければとっくに横綱になれた素質だった。
東京の両国国技館には、幕内最高優勝者の全身像を描いた顕彰額が飾られる。その数は32枚。順次掛け替えられて最近32場所の優勝者の額が観客を見下ろしている。この優勝額に日本人力士の姿が消えて久しい。
2004年夏場所以来の最近10年60場所を見てみよう。2011年春場所は八百長問題で中止となっているから、実際は59場所。このうち日本人力士の優勝は2度のみ。2004年秋場所の魁皇と、2006年初場所の栃東。栃東を最後に、この8年間日本人力士の優勝はない。2002年に各部屋1名の外国人力士枠制限を設けて、この事態なのである。
「ウインブルドン現象」という経済用語がある。市場開放によって優れた外国資本に国内企業が席巻されてしまうことをいうが、イギリスの権威を示すウインブルドン・テニス大会で地元選手が優勝できないことを皮肉っての命名。今、テニス界ではイギリス選手は強くなっている。同じ概念を「大相撲現象」と言葉を換えねばならない。
しかし、日本の大相撲ファンは外国人力士の活躍に寛容である。決して差別的な感情で彼らを見ていない。この暖かさ、懐の寛さに救われる思いがする。
とはいえ、おそらくは外国人力士の日本への同化の努力を認めてのことではないだろうか。日本語を喋り、日本文化に敬意を表し、日本人以上に日本的な外国人力士に、その限りで寛容ということではないか。外国人力士が自らの国の文化を強く押し出してなお、日本人は彼らに寛容でいられるだろうか。
ところで、大相撲のプレーヤーとしての外国人力士への差別は見えて来ない。実力の世界と言ってよいだろう。しかし、大相撲ビジネスは「ジャパニーズ・オンリー」の世界である。相撲協会は、公益財団法人となってはいるが、その実態がビジネスであることは常識。日本国籍をもつものでなければ親方にはなれない。親方になれなければ大相撲ビジネスに参加はできない。これは、いかがなものか。非合理な非関税障壁と見なされかねない。
さて、本題である。各場所千秋楽の表彰式の冒頭に行われる、「国歌・君が代へのご唱和のお願い」はなぜ行われるのだろう。長くその理由を不可解と思ってきたが、今や明らかに不自然な事態となっているのではないか。大相撲は、尺貫法をメートル法に切り替え、土俵を拡げ、伝統の四本柱も取り払った。外国人力士の受け入れにも寛容だった。時代にあった諸改革の結果として今日がある。今や、君が代唱和の時代ではない。不自然なことは、すみやかに廃止するに越したことはない。
国際交流の場に参加国の国旗が並ぶことは理解可能である。国際対抗試合で、エールの交歓として両者の国歌演奏はあり得る。国際的競技会の勝者を讃える意味で、国旗を掲揚し国歌を演奏することも、賛否はともかく、意図は諒解可能である。これらは、いずれも自国だけでなく相手国の存在を前提としてのこと。相手国との関係において国旗国歌が機能する。国家の象徴としての国旗国歌が本来的にもつ識別機能に格別の不自然さはなく、他国の国旗国歌への敬意の表明も、強制の要素がない限りマナーとして認められるものであろう。
ところが、大相撲は、相手国の存在を前提としていない。日本人ばかりが集まる場で、日本の国歌を歌うことにいかなる意味があるのだろうか。日本人力士を激励しようというわけではない。これから力士が国際試合に出掛けて行こうというわけでもない。大相撲での国旗国歌は識別機能とは無縁で、象徴がもつ統合機能だけが働くものと想定されている。
つまり、「われらは相撲という文化を核として日本国民であることを自覚する」、あるいは「相撲という民族的文化を核としてわれら日本国民は団結する」というナショナリズムの宣言なのである。
さらには、「かたじけなくも天皇は、日本の国技である相撲の最強力士に賜杯を賜る。その天皇の御代がいつまでも続くことを、国民こぞって祈念申し上げる」という意味もあろう。つまりは、単なる国民統合ではなく、「天皇を中心とした国民統合」が意図されている。「ご唱和をお願い」は、甚だしく押し付けがましいのだ。
大相撲に国旗国歌の識別機能が働く余地はない。強いて識別機能を働かせようとするなら、優勝力士の出身地の国歌を演奏してはどうか。毎回、ここしばらくはモンゴル国歌を聞くことになろうが、それは勝者の権利である以上は甘受せざるをえない。
国旗国歌の統合機能は、自衛隊や官庁に任せておけばよい。客を呼ぶ場所に、ナショナリズムの鼓吹や強制は場違いである。なによりも、これだけ圧倒的な存在感のある外国人力士を抱えながら、「君が代・オンリー」はもはや不自然極まりない。優勝した武蔵丸に「君が代を歌って欲しい」と言った不見識なNHKアナウンサーがいた。武蔵丸は、「そちらこそ、優勝した私を表彰しようというのなら、君が代ではなく星条旗よ永遠なれを」と言い返せない。非対称性明らかなあの発言は、民族的なバッシングであり、ハラスメントである。このところ優勝を独占しているモンゴル勢の諸力士は、けなげに君が代に合わせて口を動かしているようだが、痛々しいことこの上ない。
私には、日本人の他国民への寛容の度合いが試されている問題と見えてならない。
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金魚はトウギョのごとく死闘しないか?
古典的名著「ソロモンの指輪」(コンラート・ローレンツ 早川書房)の一節である。
「ことわざには嘘やあやまりがつきものであるが、それにしても、なんと奇妙な盲信がふくまれていることだろう? キツネはずるいというけれど、けっしてほかの肉食獣以上にずるいわけではない。オオカミやイヌよりも、むしろはるかに愚鈍である。ハトはまるきりやさしくない。そして魚についての話はほとんどが嘘だ。退屈で冷淡な人のことをまるで魚の血のようだというけれども、魚はそれほど「冷血」ではないし、「水の中の魚」といわれるほど健康そのものでもない」
「トウギョはいつでもこのようなみごとな色彩をしているわけではない。鰭(ヒレ)をすぼめてアクアリウムのすみにうずくまっている小さな灰褐色のこの魚は、そんな美しい色どりの片鱗すらしめさない。だがみすぼらしさでは劣らないもう一匹のトウギョが彼に近づき、両者が互いに相手をチラリとみると、彼らは信じがたいほど美しい色どりに輝きだす。その速さといったら電流を通じられたニクロム線が真っ赤になるときとかわらない。鰭は急に傘を開くようにさっと広げられ、素晴らしい飾りに変化する。広げる音が聞こえるような気さえする。それから輝くような情熱のダンスが始まる。それは遊びではない。真剣なダンス、生か死か、未来か滅亡かをかけた激しいダンスだ。それが恋の輪舞となって交尾にいたるものか、それとも血みどろの闘いに移行していくものか、最初は全然わからない。これは奇妙な話だが、じつはトウギョは相手を見ただけでは仲間の性別が見分けられない。」
「その美しさのために、彼らは実際ほど悪者にはみえない。彼らが、死をも恐れぬ勇気と残忍な大胆さの持ち主であろうとは、ほとんど信じられぬくらいだ。にもかかわらず、彼らは血を流して戦うことを知っている。事実、トウギョの闘いは、片方の死に終わることがきわめて多い。ひとたび興奮がたかまって、短刀の第一撃が加えられたならば、わずか数分のうちに鰭がザックリと切りこまれる。・・・ひとたび実力行使にはいったら、多くはわずか数分でかたがついてしまう。闘いあう一方が瀕死の重傷を負い、水底に横たわってしまうのだ。」
我が家のスイレン鉢には、一匹の和金がいる。はじめ5匹いたなかで生き残った強者ゆえ、ラッキーと名付けて可愛がっている。身長10センチぐらいで、たぶん5歳にはなっている。一人暮らしに何の痛痒も感じていない様子にはみえるけれど、時には無聊をかこっているようにもみえる。しかし、「ソロモンの指輪」のなかの血も凍るような魚の闘いを読んでいたので、軽々には新入りの金魚を入れることなどできないと思っていた。ラッキーと新入りの死闘などみたくない。
ところで、近所に「金魚坂」という場所があり、そこには江戸時代創業の金魚屋がある。ラッキーは5年前そこから1匹50円で買ってきた由緒正しい和金である。通りがかれば、その金魚屋をちょいと覗くことにしている。和金のほかに出目金、らんちゅう、りゅうきん、獅子頭など色とりどり、形さまざま、値段ピンキリの金魚が悠然と泳いでいて、いくら眺めていても飽きない。気のいい店員さんが「だいじょうぶ。喧嘩しないですよ」と言うので、なんとなく、うかうかと、1匹100円の和金を2匹買ってきてしまった。
やはり、金魚屋さんは正しかったようだ。どうも金魚はトウギョのように猛々しくないらしい。平和主義者だ。餌をまいたときは、一回り大きいラッキーは他の2匹を寄せ付けまいと、脇腹をつついて追い回すのだが、1匹を追い払っているうちにもう1匹が餌を食べるので、無駄だということを学びつつある。新入りの2匹も、集団的自衛権行使の意図はない。食事時間のほかは、3匹して何事もなかったように平穏に泳ぎ回っている。でもまだまだ油断はできないと思う。
しかし、金魚の雌雄はわからない。繁殖期に、武力による威嚇、または武力行使の事態が起こらないか、その不安は残ったままだ。
(2014年3月23日)