澤藤統一郎の憲法日記

改憲への危機感から毎日書き続けています

閣僚も国会議員も、任期中は靖国神社参拝をしてはならない

★秋季例大祭の靖国神社参拝を見送った安倍晋三首相は、19日視察先の福島県南相馬市で記者団の質問に答え、自身の靖国神社参拝について「第1次安倍政権で参拝できなかったことを『痛恨の極み』と言った気持ちは今も変わらない」と述べ、改めて参拝に意欲を示した。また、「国のために戦い、倒れた方々に手を合わせて尊崇の念を表し、ご冥福をお祈りする気持ちは今も同じだ。リーダーとしてそういう気持ちを表すのは当然のことだ」とも語った、と報じられている。

☆安倍さん、あなたは間違っている。
「国のために戦い、倒れた方々に手を合わせて尊崇の念を表し、ご冥福をお祈りする気持ち」をもつことは、あなた個人の内心の問題としては自由だ。しかし、あなたが記者会見の席で、国民に広く聞こえるようにスピーチをするとなると、敢えて、私にも批判の自由がある、と言わざるを得ない。

戦争犠牲者を悼む気持はおそらく誰しも同じものだろう。誰しもが、人の死を厳粛に悼む気持をもっている。戦争の犠牲者に向かいあうとなれば、夥しい数の老若男女の洋々の未来を突然に断ち切られた無念の思いを受けとめなければならない。その重さ深さに胸の痛みを禁じ得ない。

しかし安倍さん、あなたはどうして「国のために戦い倒れた方々」を特に選んでの追悼にこだわっているのか。あなたの気持ちの中には「死者を斉しく悼む」よりは、「国のために闘った」ことへの顕彰、ないしは讃仰あるいは鼓舞の意図が隠されてはいないか。私は、戦争で亡くなったすべての人を戦争を引きおこした国家の行為による被害者と考える。国家の加害とは、具体的には国家の中枢にあって戦争を唱導した指導者の行為のことだ。もちろん天皇が加害者集団の中心に位置し、その近くにあなたの祖父もその一員としていた。あなたが、「国のために戦い倒れた方々」への格別の思い入れを表明することは、その加害被害の構造を糊塗する意図を感じざるを得ない。あなたは、闘い倒れた人の勇敢さを称える気持はあっても、実はその死を悼む気持は持ち合わせてはいないのではないか。

安倍さん、あなたはどうして、「国のために戦い倒れた方々」を「尊崇」すると言うのか。東京でも、広島でも、長崎でも、沖縄でも、また旧満州でも、南方諸島でも、多くの民間人が戦争の犠牲となった。あなたは、民間の戦死者にはけっして「尊崇」などとは言わない、「英霊」とも言わない。あなたの頭の中には、軍人が他と区別された特別な存在となっているのではないか。「敗戦はしたが、よくぞ雄々しく闘った」とでも言いたいのではないか。

おそらく、あなたは、戦没者を間違った国家政策の犠牲者だと考えてはいない。戦争犠牲者の中で、生前軍人軍属だった者の死を、その余の一般市民の死と区別して、これを「英霊」と顕彰し、「尊崇の念」を表するとき、戦争への批判や、戦争を企図した天皇をはじめとする国家指導者への批判は封じられる。あなたの意図はそこにあるのではないか。あなたには、戦争を絶対悪として戦争を起こした者への責任を追及しようという姿勢はない。戦争の悲惨さを稀薄化し、あわよくば戦争を美化し、戦争を起こしたものを免罪し、次の戦争の準備さえ考えているのではないか。

「英霊」こそは、次の戦争を準備するために利用可能な恰好の世論操作手段である。靖国神社参拝に執念を燃やすあなたには、「英霊」とともに敗戦を無念としリベンジの戦力を整える国家を建設しようとのメンタリティを感じざるを得ない。

「リーダーとしてそういう気持ちを表すのは当然のこと」ではない。人の死は、誰の死であろうとも、斉しく厳粛に悼まねばならない。軍人の死だけではなく民間人の死をも、自国民だけではなく戦争の相手国の国民の死も、とりわけ日本が侵略をし植民地支配した国や地域の国民の死を悼まねばならない。戦争の勝敗にかかわらず戦争による死を悲劇として悼み、真摯に不再戦を誓わねばならない。そして、苦しくても、あなたは近隣諸国の民衆の死に謝罪の気持を表さなければならない。「それがリーダーとして当然のこと」なのだ。

★菅義偉官房長官は18日の記者会見で、閣僚の靖国神社参拝について「国のために戦って貴い命を犠牲にされた方に尊崇の念を表明するのは当然のことだ」と述べた。同神社にA級戦犯が合祀(ごうし)されていることに関しても「亡くなった方というのは皆、一緒にとらえるのが日本の歴史ではないか」と語った、と報じられている。

☆菅さん、あなたは間違っている。
「貴い命を犠牲にされた方」というのはそのとおりだ。しかし、「貴い命を犠牲にした」のは「国のために戦った」軍人ばかりではない。夥しい数の、民間戦争被害者もいるのだ。特に、軍人の死者についてだけ、「尊崇の念を表明する」のは当然のことではない。

菅さん、あなたが「亡くなった方というのは皆、一緒にとらえるのが日本の歴史ではないか」とおっしゃったのには驚いた。あなたの言ったことは、確かに日本人の伝統観念で「怨親平等」という言葉に表現されている。蒙古襲来の際の犠牲者を敵味方の区別なく円覚寺に供養したなどの歴史が知られる。ところが、靖国神社はこのような日本人の歴史的伝統とはまったく無縁なのだ。皇軍の死者は「英霊」である反面、賊軍の死者は未来永劫に敵とされて峻別される。けっして混同されることはない。これは、死者の霊前で忠誠と復讐とを誓う軍事的装置として創建された招魂社・靖国神社の宿命なのだ。

菅さんあなたは、「開戦を決め戦争を指導した加害者側のA級戦犯」と、「徴兵され死地に追いやられた被害者側」とを「亡くなった方は皆一緒」とした。その考え方だと、戦争責任の観念は生じようがない。天皇や軍部、官僚、財閥等々の戦争の責任を意図的に全て免責することになってしまうではないか。

戦争責任の追及は、今まさに必要である。再びの軍国主義が勃興しかねない風潮なのだから。

★古屋圭司国家公安委員長は20日朝、秋の例大祭にあわせ、靖国神社を参拝した。古屋氏は午前8時半ごろ、靖国神社を訪れ、参拝後、記者団に「国のために命をささげた英霊に対して、哀悼の誠をささげて、そして、平和への誓いをあらためて表することは、国会議員として当然の責務だと思っております。日本人として、私が参拝することは、当然のことと思っております」と述べ、「国のために命をささげた英霊に対し、どのような形で哀悼の誠を示すかは、その国の人間が考える国内問題だ」「近隣諸国を刺激する意図は全くない」と強調した、と報じられている。

☆古屋さん、あなたは間違っている。
我が日本国憲法は政教分離の規定をおいた。「政」とは国家権力のこと政権のこと、「教」とは宗教のことだが神道を念頭においている。就中、靖国神社と伊勢神宮をさすと言って大きく間違がわない。なぜ、憲法はこのような規定を置いたか。過ぐる大戦の惨禍の中から生まれた新生日本は、再び戦争を繰り返すことのないよう深く反省して、その反省の結果を憲法に盛り込んだからだ。

政教分離はその主要なものの一つである。戦前、天皇は神の子孫であり、自らも現人神とされた。この神なる天皇が唱導する戦争こそ正義の聖戦であり、神風も吹いて敗戦はあり得ないとされた。国家神道は軍国主義と深く結びつき、国民精神を侵略戦争に動員するための主柱となった。この危険な国家宗教を再現せぬよう歯止めをかけたのが現行憲法の政教分離原則である。政教分離の眼目は、国家神道の軍国主義的側面を象徴する靖国神社と、戦前の軍事大国日本に郷愁を隠さない保守政権との、徹底した関係切断にある。だから、政権を担う地位にある閣僚が靖国神社に参拝してはならない。

「国のために命をささげた英霊」という言葉の使い方において、軍人の死を特別の意義あるものとし、皇軍に対する批判を許さない靖国イデオロギーが表れている。軍国神社靖国は、けっして「平和への誓いをあらためて表する」にふさわしいところではない。

「日本人として私が参拝することは当然」という考え方は自由であるが、「参拝が国会議員として当然の責務」ではあり得ない。政教分離の本旨からも、最高裁判例の目的効果基準からも、国会議員も、閣僚も、少なくとも在任中は靖国神社と距離を置くべきである。

「国のために命をささげた英霊に対し、どのような形で哀悼の誠を示すかは、その国の人間が考える国内問題だ」「近隣諸国を刺激する意図は全くない」とは、政治家の発言としては未熟としか言いようがない。人の足を踏んだ方が忘れても、足を踏まれた方は痛みを忘れない。かつて軍国神社であったというだけでなく、現在なお大東亜戦争聖戦論を鼓吹している靖国神社への閣僚の参拝が、かつて皇軍の軍事侵略を受けた国からの反発を招かないはずはない。

★新藤義孝総務相は18日午前、東京・九段北の靖国神社を参拝した。17日からの秋季例大祭に合わせたもので、参拝後、記者団に「個人の立場で私的参拝を行った。(玉串料は)私費で納めた」と説明。「個人の心の自由の問題だ。(参拝が)外交上の問題になるとは全く考えていない」と強調した。また、中国や韓国からの批判が予想されることについては「個人の心の自由の問題なので、論評されることではない。外交上の問題になるとはまったく考えていない」と語った、と報道されている。

☆新藤さん、あなたは間違っている。
あなたは、個人の立ち場を強調するが、閣僚ともなれば純粋に個人の立場とは言えない。「玉串料を私費で納めた」だけで、私的な参拝とは言えない。もし、個人の立ち場を貫こうというのであれば、人知れずひっそり参拝すればよい。記者会見などしないことだ。もちろん、肩書の記帳もしてはならないし、公用車の使用、随行者の随伴もあってはならない。

閣僚の参拝は、「外交上の問題になる」ことは明らかではないか。憲法9条は、政治的には、日本のアジア諸国に対する不再戦の宣言であり、それあるがゆえに積み重ねられてきたアジア外交であったはず。閣僚の靖国神社参拝で、アジア諸国に対する日本の平和国家としての信頼失墜を招くのは愚かなことではないか。

☆国会議員も閣僚も、在任中は靖国神社にも、伊勢神宮にも参拝すべきではない。議員や閣僚の参拝によって、靖国神社や伊勢神宮が、国と特別の関係にある宗教団体だという外観をつくりだしてはならないのだ。とりわけ、戦争賛美に繋がりやすい、靖国神社への参拝は禁物である。
(2013年10月21日)

罪が深いよ 公明党さん

今国会最大の対決法案となる秘密保護法。憲法改悪への一里塚でもあるこの法案の提案内容について、与党内の調整が完了したと報じられている。公明党は、自党の修正提案が受け容れられたとして、法案の成立に積極的姿勢に転じている。

もとより、つくる必要のない法律。つくる必要があるとすれば、世界の憲兵を気取る好戦国アメリカとの共同謀議により深く関与する必要からでしかない。小手先の「修正」は、メディアの取材の権利を制約して国民の知る権利を蹂躙する、この法案の本質をいささかも変えるものではない。むしろ、このような「修正」での弥縫の必要が、法案の本質において、メディアの取材の権利を制約するものであること、国民の知る権利を侵害するものであることを露呈している。

それでも、公明の「修正」は、右派ジャーナリズムと感度の鈍い国民層には、一定の影響をもつだろう。「自民暴走のブレーキ役」などと見得を切っていた公明党だが何のことはない。自民党補完装置としての面目躍如である。一見リベラルを装っての寝返りは、罪が深いと指摘せざるを得ない。

まだ、閣議決定の対象となる法案の作成には至っていないが、与党合意となった「修正」箇所は、次の3点と報じられている。
(1)「国民の知る権利の保障に資する報道又は取材の自由に十分に配慮しなければならない」と、知る権利への配慮を明記する。
(2)「出版又は報道の業務に従事する者の取材行為については、専ら公益を図る目的を有し、かつ、法律違反又は著しく不当な方法によるものと認められない限りは、これを正当な業務による行為とする」と、取材行為の正当性に配慮する。
(3)「各行政機関の特定秘密指定の統一基準に意見を述べる有識者会議を設置する」ことで、各機関におけるばらつきをなくする配慮をする。

まず、第1点。何たる傲慢な法案であろうか。国民の知る権利は、民主政治のサイクルの始動点に位置づけられる国民固有の不可欠の権利である。国家や行政機関に、「配慮してもらう」筋合いのものではない。しかも、「国民の知る権利の保障に資する」ものだけを選別して特別に配慮してやろうという大きな態度。行政が「国民の知る権利の保障に資する報道又は取材ではない」と判断すれば、「配慮」の埒外に放逐される。その選別は、政府の匙加減次第ではないか。こんな「配慮」規定は、国民への目眩まし以外になんの役にも立たない。

第2点。巨大マスコミ抱き込みの意図が見え透いている反面、「出版又は報道の業務に従事する者」以外を切り捨てることの明言規定である。

それだけではない。マスコミへのリップサービスと、取材の違法性阻却の範囲限定のホンネとの狭間で論理矛盾に陥っている。まず、「法律違反の方法による取材活動」が処罰対象となることが明言されている。しかし、刑法35条の正当業務行為とは、法律違反があった場合を前提として、構成要件に該当する行為についてその違法性を阻却するという効果をもつものである。仮に修正案が、「本法の構成要件に該当する行為も、ジャーナリストの取材としてなされたものについては、これを正当な業務による行為と見なして処罰しない」というのなら意味がある。修正案は、「法律違反と認められない場合は処罰対象としない」と、当たり前のことを言っているだけで、何の意味もない。真剣にものを考えようとせず、格好を付けることだけを考えているから、こんな奇妙な表現となる。

また、「著しく不当な方法によるものと認められない限りは、正当な業務による行為として取材行為を処罰対象としない」という文言も馬鹿げたものである。「修正案」は、原案よりも取材の自由の範囲を限定してしまっていることになるのだから。本来、違法でない行為を行うことは自由なのだ。「著しく」と限定しようとも、「不当な」取材行為を公権力が禁止することはできない。原案は、「人を欺き、人に暴行を加え、‥脅迫し、窃取、施設への侵入」などの手段を伴う取材行為を犯罪としている。実はこれが大問題なのだが、「修正」案では、「そのような手段を伴わない犯罪に至らない不当のレベルの取材方法」でも処罰するぞと脅かしているのだ。

第3点。これは、権力機関相互の調整の規定に過ぎず、秘密指定の限定を画するものではない。国民の権利侵害を制約する観点とは何の関連性ももたない。

以上のとおり、「修正案」は、国民の知る権利擁護の立場からも、メディアの取材活動の自由確認の視点からも何の意味をもつものでもない。「修正」案の文言は、外務省秘密漏洩事件最高裁判決からの引用だが、体系的な位置づけの理解を欠いていることから「つまみ食い的引用」に陥っている。また、なによりも同事件全体の流れや、結局は国民の知る権利を蹂躙した最高裁判決への批判の視点を欠いていることを指摘せざるを得ない。こんなまやかしで、秘密保護法批判の筆を鈍らせるメディアがあるとすれば、ジャーナリズムの風上にも置けない。

本質的な問題の構造は、国民の知る権利を拡大することによって国家権力の横暴を監視すべしとするか、国民の知る権利を抑制しても国家の秘密を重視すべしとするか、どちらのベクトルを支持するかである。前者は、国家権力に対する猜疑を基礎とし、後者は国家権力への国民の信頼を基礎とする。私たちは、後者の選択の苦い経験を後悔して間がない。その苦さ、悲惨さを忘れてはならない。
(2013年10月20日)

「10・23通達」から10年 関連訴訟の概要

「10・23通達から10年 『日の丸・君が代』強制反対」集会にお集まりの皆様。この10年の訴訟の経過の概要をお話しいたします。最初に、私たちは何を目指してどんな取り組みをしたのか。次いで、何を獲得したのか。また、獲得したものをどう活かすべきか。そして最後に、獲得し得ていないものを確認しその獲得のためにどうすべきか。その順に進めたいと思います。

私たちは、「10・23通達」を憲法の理念を蹂躙し教育を破壊するものとして、その撤回を求めてともに闘ってきました。その闘いの場は、大きくは四つあったと思います。なによりもまず、学校現場でのシビアな闘いがありました。胃の痛くなるような現場の最前線で信念を貫き通した方、現場で運動を支えてきた方に心からの敬意を表します。そして、学校を取り巻く社会という場での運動が続けられてきました。どれだけ、この問題の不当性と重要性を世論に訴えることができるか。メディアを味方に付け、運動の輪にどれだけの人の参加を得ることができるか。ここが勝敗を決める重要な闘いの場だと思います。そして、三つ目の闘いの場として訴訟があります。法廷での闘いです。さらに、四つ目として、個別の法廷闘争とは別に、裁判所・裁判官を、人権擁護の府にふさわしい存在に変えていくという闘いの場があります。裁判所を、真に憲法が想定している、人権や民主々義や平和という憲法価値を実現する機関とする、司法の改革が必要なことを是非ご認識ください。

そのような闘いの場の一つとしての裁判という場で、私たちは運動としての訴訟に取り組んできました。訴訟は、必然的に憲法の理念を現実化するための憲法訴訟となり、教育の理念を活かすための教育訴訟となりました。訴訟は単独の原告でも起こせるわけですが、憲法訴訟や教育訴訟は集団訴訟であることが望ましい。法廷の中では、多くの原告の集団の力が裁判所を動かします。多数の原告の訴えは、けっして例外的な特異な教員が問題を起こしているのではなく、教育行政の側にこそ問題があることを明らかにします。集団訴訟は、社会的アピールの力量としても有利にはたらきます。また、私たちは、訴訟を言いたいことを言う場としてでなく、裁判所を説得するために有効な法廷活動をする場と位置づけてきました。このような訴訟の過程を通じて、多くのことを学びあい、励ましあい、私たち自身の正しさに確信を得たのだと思います。

そのような位置づけで、予防訴訟や、処分取消訴訟、再雇用関係訴訟、再発防止研修関係訴訟等、多くの訴訟を闘ってきました。その訴訟における主張の主要な根拠の一つが、精神的自由の根底的な規定としての「思想良心の自由」であり、もうひとつが「教育の自由」です。前者が、教員自身の憲法上の権利侵害の問題で、後者が生徒の教育を受ける権利を全うすることと対をなす教育行政への教育への不当な支配の禁止違反という問題となります。これまでこの二つの憲法論を「車の両輪」と位置づけてきましたが、間違いではなかったものと思います。この憲法論としての両輪の外に、処分取消訴訟においては、懲戒権の濫用の成否が大きな法律的な争点となりました。

その一連の訴訟が、今、一通り最高裁の判決言い渡しを受けた段階となり、ほぼ最高裁の判断の模様が見えてきています。一定の成果とともに、勝ち取れていないものも明らかになってきました。これを整理して、勝ち取ったもの、勝ち取れていないものを確認して、今後の闘いを再構築しなければならないと思います。

最高裁判断の全体象は次のように描くことができます。
(1) 憲法19条論における間接制約論の枠組みでの合憲判断
(2) 懲戒権の逸脱濫用論において減給以上の処分は原則違法の判断
(3) 裁判官多数が補足意見として都教委の強権的姿勢を批判
(4) その余の論点には触れようとしない頑なな姿勢

10・23通達にもとづく一連の「日の丸・君が代」強制を、思想良心の自由を保障した憲法19条に違反しないとした最高裁判決の「論理」は次のようなものです。
(1)起立・斉唱・伴奏という「強制された外部行為」と、そのような行為はできないとする「内心における思想良心」との両者の関係は、行為者の主観においては関連しているものと認められても、一般的・客観的に両者が密接不可分とは言えない。従って、起立・斉唱・伴奏の強制が直ちに思想良心を侵害するとは言えない。
(2)もっとも、外部行為の強制が間接的には被強制者の思想良心を制約するものであることは認められる。しかし、間接制約の場合には厳格な合違憲審査の基準を適用する必要はなく、「公権力によるその規制が必要かつ合理的であるか否か」という緩い基準による判断でよい。本件職務命令は「必要かつ合理的」という緩い基準には適合しており合憲である。

以上のとおり、(1)では「直接制約」を否定し、(2) では制約はあるが「間接制約に過ぎない」として、本来厳格であるべき審査基準を緩い(ハードルの低い)ものとして違憲とは言えないという枠組みです。予め合憲とした結論を引き出すために論理操作のフリをしているだけで、ピアノ判決との辻褄合わせの不自然な論理構成となったものにほかなりません。

懲戒処分の逸脱・濫用論については、懲戒処分対象行為が内心の思想良心の表明という動機から行われたこと、行為態様が消極的で式の進行の妨害となっていないことなどが重視されています。この点は、憲法論において間接的にもせよ思想良心の制約の存在を認めさせるところまで押し込んだことが、憲法論の土俵では勝てなかったものの懲戒権の濫用の場面で効果を発揮したものと考えています。

さて、これまでに獲得したものを整理してみれば、私たちは下級審段階で、「予防訴訟」一審の難波孝一判決(「日の丸・君が代強制は違憲」という全面勝訴)を獲得し、さらに「1次訴訟」の控訴審大橋寛明判決(戒告を含む全原告の懲戒は処分権濫用として違法)を獲得しました。最高裁法廷意見では維持されなかったものの、これらの判決の存在の意義はけっして小さいものではありません。

最高裁は、昨年の「東京君が代裁判」一次訴訟における「1・16判決」以来、減給以上の懲戒処分は過酷として原則違法としています。既に、25人(30件)の処分が現実に違法と宣告され取り消され、確定しています。国家賠償責任を認めた判決さえあります。

このことによって、私どもが「思想転向強要システム」と呼んだ、機械的な累積加重の処分基準が維持できなくなっていることの実践的な意義は極めて大きいというべきです。なお、この基準は当然に大阪その他全国の処分にも適用されることになります。

また、これまで2人の最高裁裁判官の反対意見があります。ほぼ全面的に、私たちの見解を支持する最高裁裁判官の存在は、これからの展望を見据える上での希望としての大きな意味があります。さらに、都教委批判の強権的姿勢をたしなめる多くの裁判官の補足意見もあります。けっして、最高裁は都教委の立ち場を支持するものではありません。

いま、以上の獲得成果を徹底して活用する運動が必要だと思います。「都教委の『日の丸・君が代』強制は大いに問題だ。少なくとも減給以上の処分については、最高裁も違法として断罪した」「最も軽い戒告については違法とまではしなかったが、多数の裁判官が『望ましいことではない』と意見を述べている」のです。都教委に、自らの過ちを認めさせ、謝罪と責任者の処分と、再発防止策とを求めなければなりません。

もっとも、違憲判断は獲得できていません。後続訴訟で違憲判決を勝ち取るまで、運動も訴訟も続くことになります。では、違憲判決を勝ち取るための挑戦は、いかに行われることになるでしょうか。

ひとつには正面突破作戦があります。最高裁の「論理」の構造そのものを徹底して弾劾し、真正面から判例の変更を求めるという方法です。裁判所の説得方法は、「これまでの大法廷判例に違反しているではないか」「憲法学界の通説に照らして間違っている」「日本国憲法の母法である米憲法を解釈している連邦最高裁の判例と著しい齟齬がある」などとなるでしょう。

正面突破ではない迂回作戦も考えられます。そのひとつが、最高裁の判断枠組みをそのままに、実質的に換骨奪胎する試みです。政教分離訴訟において、最高裁は厳格な分離説を排斥して、緩やかな分離でよいとする論理的道具として津地鎮祭訴訟で日本型目的効果基準を発明しました(1977年)。しかし、この目的効果基準を厳格に使うべきとするいくつもの訴訟の弁護団の試みが、愛媛玉串料訴訟大法廷判決(1997年)に結実して、歴史的な違憲判決に至っています。この間20年。本件でも、間接制約論の枠組みをそのままにしながら、「間接と言えども思想良心の侵害は軽視しえない」「本件の場合、処分の必要性も合理性もない」との論理と立証を追求しなければなりません。

また、もう一つの迂回作戦が考えられます。最高裁がまだ判断していない論点に新たな判断を求めることで結論を覆すことです。具体的なテーマとしては、「主権者である国民に対して、国家象徴である国旗・国歌への敬意を表明せよと強制することは、立憲主義の大原則に違反して許容されない」「憲法20条違反(信仰の自由侵害)の主張」「憲法26・13条・23条を根拠とする『教育の自由』侵害の主張」「子どもの権利条約や国際人権規約(自由権規約)違反の主張」などがあります。

法廷内の主張、教育現場の運動、社会への世論喚起、そして憲法に忠実な裁判所を実現するという意味での司法改革。そのいずれもが、私たちの課題となっていると思います。現場での闘いが継続する限り、弁護団もこれを支えて闘い続ける覚悟です。
(2013年10月19日)

「核抑止力」の虚妄を衝く

本日(10月18日)の「毎日」夕刊トップは、「核不使用声明:『いかなる状況でも』明記 日本署名へ」というもの。

国連総会第1委員会(軍縮)で、日本が初めて署名する意向を表明した「核兵器の非人道性と不使用を訴える共同声明」の最終案を毎日新聞が入手したという。そこには、「いかなる状況下でも核兵器が二度と使われないことが、人類存続の利益になる」と明言されているという。

これまで日本は、この文言を、米国の核抑止力を損なうという理由で、受け容れがたいとしてきた。日本は、この「最終案」に署名することを表明している。一瞬、この見出を読んで日本の立場が変わったのかと喜んだのだが、どうもそうではないらしい。

声明案には、これまでになかった新たなフレーズが盛り込まれた。「核軍縮に向けたすべてのアプローチと取り組みを支持する」というものだそうだ。この「修正の結果、全体的に核抑止力を否定しない内容になったとして、日本も署名する方針に転換したとみられる」という、分かりにくい記事。記者の書きぶりの所為ではなく、交渉経過と日本の姿勢自体が分かりにくいのだ。

「核軍縮に向けたすべてのアプローチと取り組みを支持する」との文言が、核抑止力依存の原則を留保したことになるという文脈は分かりにくいが、日本がそれほどに「核抑止力」にこだわっていることだけはよく理解できた。

そもそも抑止力とは何か。核抑止力とは何だろうか。

抑止力の原型は次のようなものだろう。
A国とB国が対峙して、お互いに「自国は平和国家なのだが、相手国が平和国家であることは信用できない」「自国に侵略の意図はないが、相手国の侵略の意図は不明である」と考えている。この想定はかなり普遍性があるだろう。

他の要素を捨象して軍事力だけを考えた場合、相手国に侵略の意図あったとしても、この意図を挫いて侵略を防止するために最も有効な手段は、相手方を上回る軍事力を装備することである。武器と兵員の量と質において、相手国を圧倒できればなお安心となる。つまり、「相手国を凌駕する軍事力が、相手方の侵略の意図を挫く抑止力になる」という考え方である。

ところが、これはお互いさまなのだ。こちらが不信感を持つ相手先が当方を信頼するはずはない。両国が、ともに相手国を凌駕する軍事力を望めば、当然のことながら、際限のない軍拡競争のスパイラルに陥る。この負のスパイラルは、過去無数の現実であり、これからも生じうる。愚かな国際関係としか形容しようがない。自国の軍事力の拡大が、相手方の軍事力の拡大を招くのだから、「相手国を凌駕する軍事力」は、結局のところ相手国の軍拡を招くものとなり、相手国からの侵略の意図を挫いたとして安心できることにはならない。その意味で、抑止力になるとは言えない。

では、軍拡競争に陥らない態様の軍事力であれば抑止力になるのではないだろうか。「相手国を上回る軍事力」を望めば必然的に軍拡競争に陥る。それなら、「攻撃力においては相手国を上回らない、防御力に関してだけ万全の軍事力」というものを想定してはどうか。絶対に対外侵略はできないが、相手国が侵略してきたときにだけは滅法強い防御力を発揮するタイプの軍事力。これは、「専守防衛」の思想である。戦後の保守政権が、憲法9条の縛りの中でやむを得ず採用してきた、軍事力の形の基本と言ってよいだろうと思う。これはこれで、一つの見識であり賢明な姿勢であろう。普通の国の軍は専守防衛など宣言しない。9条あればこその「専守防衛論」である。

これについて、2点を述べたい。
まずは、核兵器が抑止力になるかという問題である。核は、侵略した敵軍隊と自国で闘って自国民を防衛するという種類の兵器ではない。その破壊力と事後の放射線被曝を考慮すれば、お互い、核兵器は自国では使えない。その意味ではもっとも非防衛的であり、もっとも攻撃的な兵器というべきだろう。「いざというときには、相手国の領域で使用して甚大な被害を及ぼすぞ」という威嚇は、専守防衛の思想とは無縁である。

核による報復のボタンを押すべきか否かは、恰好のSF的テーマである。押してしまえば、抑止力にはならない。押さずにいれば、核は無用の長物である。このようなジレンマに陥る以前に、核は抑止力として機能するだろうか。一国が核のボタンを押すときには、相手国も同様と考えれば、核の使用は両国が壊滅するときである。もしかしたら、当事国だけでなく人類が滅びるときであるかも知れない。核の使用をほのめかして相手国を威嚇するとき、実は自国に対しても滅亡を予告し、人類全体を威嚇しているのだ。そのような兵器は、現実的には使用不可能である。使用できない武器に抑止力はない。

専守防衛の軍隊が想定可能として、そのような軍隊を保持することは、本当に合理的な選択であろうか。国民の安全を実現する上で、最善の方策であろうか。国家は、自国の軍隊が自国民を擁護するものであることを当然とする。しかし、国民はそのことを信用してよいだろうか。自国の軍隊が、自国の人民に牙をむく事態を想像することは困難なことではない。また、侵略の武力と防衛の武力との厳密な懸隔はない。軍隊があれば、自衛の名による戦争の危険はつきまとう。なにしろ、専守防衛を言いながら、「敵基地攻撃能力」も自衛の範囲というのだから。

さらに、専守防衛にせよ、軍隊を保有するデメリットとコストを勘案しなければならない。近隣諸国からの信頼を得てこその経済的、文化的国際交流である。軍隊をなくすことでの信頼関係の醸成と経済的なメリットは計り知れない。戦争や侵略の動機は、主として経済的利害の対立である。厖大な軍事力を維持することは、経済的な損失を被っているのだから、「各国とも既に半ば敗戦」ではないか。それよりは、軍事に頼らない経済や文化の相互交流を目指すのが、得策であるはず。

国家間の戦争ではなく、「テロとの戦い」においても同じこと。世界的な希望の格差や貧困の存在がテロや紛争の原因となっている。軍事力は、その解決の能力をもたない。むしろ、憎悪と貧困の再生産をもたらすだけ。軍事的なリソースを格差や貧困の絶滅に向けたキャンペーンを行えば、「テロとの戦いに勝つ」のではなく、「テロとの戦いをなくす」ことができるだろう。

日本政府は、後生大事に「核抑止力」に寄りかかっていてはならない。「核」も、「軍事的抑止力」も廃棄する政策をもたねばならない。それが、憲法の平和主義である。
(2013年10月18日)

安倍首相よ 真榊料の奉納も憲法違反の疑義濃厚だ

本日(10月17日)から4日間が、靖国神社秋季例大祭。本来一宗教法人の宗教行事なのだから粛々と信者だけで内輪の儀式を執り行えばよいのだが、この神社の行事には、どうしても国が絡む。政治が絡む。歴史観が絡むし、軍国主義が絡んでくる。創建以来の東京招魂社・靖国神社の歴史がそうさせるだけではない。この神社が、いまだに「大東亜戦争聖戦論」を積極的に喧伝していること、このことに関連して、戦没者ではないA級戦犯を昭和殉難者として特別に祭神として祀っていることによるところが大きい。つまりは過去のことではなく、現在の靖国神社の在り方が、きな臭くも生臭くもある独特の臭いと、騒々しさを作り出しているのだ。

その今年の秋季例大祭に安倍晋三さんは参拝しないこととし、昨日(16日)参拝に代えて真榊料5万円を奉納したという。

安倍さんが神道の信者であり、熱心な靖国神社信仰者として、私的に参拝の思いが深いとしても、首相という地位にある(さして長くはない)期間、参拝を控えるのが賢明な態度である。大学は法学部の出身とのことだから、宮沢・芦部の名は知らなくとも、憲法の政教分離規定は学んでおられるだろうし、外交上の配慮も必要だろう。さらには「右翼の軍国主義者」と言われる材料提供を重ねることも得策ではあるまい。

もっとも、安倍晋三という人、本当に「私的参拝」の意欲や動機をもった人なのだろうか。靖国神社の信仰者なのだろうか。サラリーマン時代、彼は例大祭の度に靖国神社に参拝していたのだろうか。政治家になった途端に、靖国神社参拝を意識したのなら、「私的参拝」と言っても信じてもらうのは無理な話。

ところで、参拝はしなかったことは良しとして、真榊料奉納なら問題がないというのは間違いだ。「首相の参拝は不可、真榊料なら可」という定式があるわけではない。著名な参考判例として、愛媛県知事の靖国神社玉串料奉納を憲法の政教分離原則に違反するとした歴史的な最高裁大法廷の違憲判決(1997年4月2日)がある。

ちなみに、その判決の15人の最高裁裁判官の意見分布は13対2だった。反対にまわった守旧派裁判官の名は覚えておくに値する。三好達と可部恒雄。とりわけ、当時最高裁長官だった三好達。いまは、右翼団体の総帥、「日本会議」の議長である。「最高裁長官」だからといって、超俗の公平無私な人格をイメージしたら大間違い。所詮は、俗の俗、偏頗の極み、右翼の使い勝手のよい人物でしかない。

愛媛玉串料訴訟の事案と、安倍真榊料奉納とを比較してみよう。
寄付者は、愛媛県知事と首相。
寄付を受ける者は、両者とも宗教法人靖国神社。
寄付の名目は、玉串料と真榊料。
寄付金額は、愛媛県知事が9回で合計4万5000円、安倍首相が1回5万円。

玉串料には宗教的意味合いが深く、真榊料にはそのような意味がない、などという妄言は聞かない。「玉串」とは何で、「真榊」とは何なのか。その穿鑿は意味が無い。「賽銭」「献金」「布施」「供物料」「初穂料」「神饌料」「幣帛料」‥、何と名付けようとも異なるところはない。宗教的な意義付けをした金銭の授受があれば、愛媛玉串料訴訟の法理が妥当する。

残る問題は、愛媛の事件では、玉串料は露骨に公費からの支出であった。これに対して、安倍さん側は、「真榊料はポケットマネーからの支出」と言っているそうだ。しかし、「私費で出したのだから、問題はなかろう」とはならない。

公的参拝と私的参拝の区別について、当ブログで以前に論じたことがある。再び、公人性排除のメルクマールとされた、三木武夫内閣の靖国神社私的参拝4要件を思い起こそう。「公用車不使用」、「玉串料を私費で支出」、「肩書きを付けない」、「公職者を随行させない」というものである。

参拝に代わる靖国神社への「寄金」についても、その寄金が本当に私的なものなのかどうか、可能な限りあてはめて吟味しなければならない。誰が、5万円を靖国神社まではこんだのか。公職者が使われていないか。その際に公用車の使用はないか。真榊料とされた寄金の奉納者名に、「内閣総理大臣」の肩書は付けられていないのか。

以上は形式的な問題だが、政教分離の精神が求めているのは、政権と神社との象徴的紐帯の切断である。靖国神社という特定の宗教団体が国から特別の支援を受けているという外観を作出してはならないのだ。靖国は国を利用してはならないし、政権も靖国神社信仰を利用してはならない。相寄る衝動をもつ両者だが、真榊料を仲介とした結合を許してはならない。
(2013年10月17日)

このごろ巷にはやるもの

このごろ巷にはやるもの
汚染原発
再稼働
薄めて捨てる放射能

シャットアウトと
ブロックと
コントロールで
オモテナシ

原発は
国内売れなきゃ外がある
トイレないまま売り込むぞ
安全偽装の安倍マンション

死の灰も、
売れれば経済万歳で
儲けりゃ文句を言わせない
あとは野となれ山となれ

オレは強いぞ 安倍政権
ねじれは解消 選挙は遠い
一党独裁 なんでもできる
やばいことなら 今のうち
げに恐ろしの世なりけり

国家安全保障法
実は国民不安法
戦争招く危険法

尖閣紛争ありがたや
北のミサイルこれ幸い
口実いくつも拵えて
憲法9条ないがしろ

放棄したはず軍事力
いつの間にやらアメリカと
徒党を組んでの狼藉は
過去の罪業忘れたか

秘密保護法 暗闇法
すべては真っ暗 目隠し法
何が秘密かそりゃヒミツ
知らぬは仏か主権者か

庶民に増税消費税
貧乏人から取り上げて
財源つくって さあどうぞ
企業に減税オモテナシ

大企業 内部留保は山のよう
ブラック企業はやり放題
老若男女を使い捨て
強欲経営一族は
ケイマン諸島に貯金して
金持ちますます肥え太る

物価上昇目標で
年金切り下げ
賃上げお手上げ
弱者切り捨て
政府が率先

今に見ていろ
オレだって
五分の魂もってるぞ
そのうち返すぞ 倍返し
因果はめぐるぞ 覚悟せよ
げに恐ろしの世なりけり
(2013年10月16日)

秘密保護法の危険性を語るポイント

本日、第185臨時国会開会。今国会最大の対決法案は、「特定秘密保護法」。なんとしても、この法案の上程を阻止したい。提案されても、成立させてはならない。

この秘密保護法の問題点を訴えるには、三つのポイントがある。これを意識しながらTPOで細部を詰めていく。そのような語りかけや議論ができるようにしたいと思う。

第1点は、この法案の出自である。「法案提出の動機」「提案の背景事情」と言ってもよい。今回の法案は「アメリカからの度重なる要請」を出自としている。「要請」とは実質的に「押し付け」にほかならない。アメリカが押しつけているものは、独りこの法案に限らない。実は、この法案は孤立したものではなく、改憲、集団的自衛権、国家安全保障法、日本版NSC法、防衛大綱見直し‥等々とセットになった、危険な企図の一端であること。

第2点は、この法案がもっている独自の本質的危険性である。国民主権や民主々義が機能するためには、国民が政治的テーマについての情報を把握していることが大前提である。法案は、「時の政権が許容する範囲において国民に情報が与えられる」という仕組みをつくるものとして、国民主権・民主々義を蹂躙するものであること。

第3点は、この法案がもっている危険性の具体的イメージである。もし、この法案が成立したとすれば、日常生活はどうなる、国会はどうなる、記者の取材はどうなる、国民の知る権利は具体的にどうなってしまうのか。戦前の軍機保護法、国防保安法、軍刑法がどう使われたか。戦後も、沖縄返還密約問題など、秘密保護法制の危険性を生々しく具体的に語らねばならない。

以上の各点について、敷衍したい。まず、第1点。
この法案の出自がアメリカの要請にあることは、よく知られている。最初が2000年のアーミテージ・レポートだった。アメリカとの軍事的共同作戦を実行するためには秘密情報を共有しなければならない。だから日本にも「アメリカ並みの秘密保護法制が必要」というのだ。改憲をなし遂げ国防軍を作ることができればアメリカとの共同作戦を遂行することになる。改憲に至らずとも解釈改憲によって集団的自衛権行使が容認されれば海外での共同作戦遂行が可能となる。そのとき、アメリカとしては、同盟国日本との軍事作戦情報が秘匿されなければならない。ここに、この法案の出自がある。
安倍政権がたくらむのは、特定秘密保護法ばかりではない。戦争のできる国日本を目指すには、改憲、集団的自衛権、日米ガイドライン見直し、国家安全保障法、日本版NSC法、防衛大綱‥等々とセットになった総合法制が必要である。特定秘密保護法はその突破口であり、要の地位にもある。この動機や背景を見定めることは、そのままこの法案の危険性や、成立した場合の影響を語ることにもなる。

第2点。
憲法の国民主権原理は、国民一人ひとりが国政に関する重要な情報を把握することを大前提としている。国政に関して正確な知識を持った主権者が、自ら考え、意見を述べ、討議を重ねることによって、政策決定がなされることを想定している。民主々義は、国民の情報へのアクセスの権利、すなわち「知る権利」があって初めて成立する。情報を遮断された国民による、「民意の形成」も、「討議の政治」もなりたち得ない。民主々義のサイクルの始まりに、国民の知る権利がある。秘密保護法は、これを侵害する。国民主権と民主々義を根底から突き崩すものと言わざるを得ない。
国民は、報道機関の自由な取材と報道の活動によって国政に関する情報を知る権利をもっている。権力はいかに自分に不都合なものであっても、報道の自由を侵害してはならない。また国民は、行政が把握した国政に関する情報についてもこれを知る権利がある。民主々義が行政に要請するものは、行政の透明性を確保するための国民に対する情報の開示と説明責任の全うである。断じて、秘密の保持の範囲の拡大と厳格化ではない。

第3点。この点については、常に新鮮な情報か新しい切り口の提供が必要である。
本日、院内集会に参加して印象深かった情報2点。

一つは、毎日新聞の臺宏士記者からの報告の中でのこと。福島県議会の「特定秘密保護法に対し慎重な対応を求める意見書」が10月9日全会一致で採択され、本日開会の両院には届けられているという。
その内容は、「当県が直面している原子力発電所事故に関しても、原発の安全性に関わる問題や住民の安全に関する情報が、核施設に対するテ口活動防止の観点から『特定秘密』に指定される可能性がある」ことを指摘し、「今、重要なのは徹底した情報公開を推進することであり、刑罰による秘密保護と情報統制ではない。『特定秘密』の対象が広がることによって、主権者たる国民の知る権利を担保する内部告発や取材活動を委縮させる可能性を内包している本法案は、情報掩蔽を助長し、ファシズムにつながるおそれがある。もし制定されれば、民主主義を根底から覆す瑕疵ある議決となることは明白である。」という強い怒りの表現となっているというのだ。

もう1点は、赤嶺政賢議員の指摘。
「1989年のこと。海上自衛隊那覇基地内にASWOC(アズウォック・対潜水艦戦作戦センター)の庁舎建築に際して、建築基準法に基づき那覇市に建築工事計画通知書が提出された。この資料を市民が情報公開請求し、那覇市が市条例に基づいてこれを公開した。ところが国(那覇防衛施設局長)が公開に『待った』をかけた。『防衛秘密に属するから公開はまかりならぬ』というのである。国は、那覇市を被告として公開取り消しの裁判を起こした。最高裁までいって、この件では那覇市が勝訴したが、特定秘密保護法が成立したらこうはならないだろう。情報の公開ではなく、秘密の保持が優先することを恐れる」

秘密保護法について、構成をきちんとして縦横に語れるようになりたいものである。
(2013年10月15日)

民衆の反共意識 その根拠と克服のために

昨日(10月14日)付の「赤旗・日曜版」に、日本共産党にとってなんとも景気の良い記事が掲載されている。「参院選後 地方議員選49連勝」という見出し。

「参院選後の定例地方議員選挙。日本共産党は党候補81人が立候補した24市25町村で全員当選、11週にわたって49連勝中です。当選者数は4年前の前回と同数ですが、定数を減らされる中、議席占有率は8.6%から9.2%へ0.6ポイント前進しました。」
「これらの議員選挙全体でみると、7月の参院選比例票の113.8%を獲得。他党は、自民91.1%、公明84.0%、民主49.9%、維新の会59.2%と、いずれも参院選比例票より得票を減らしています。」
「補欠選挙では定数1の茨城県議補選筑西市区(9月8日投票)で自民党推薦候補との一騎打ちを制して、日本共産党公認の鈴木聡さんが当選しました。」

この記事に表れた数字がどのような意味をもつものなのかよくは分からないが、「11週にわたって49連勝中」とはまことに結構なこと。

共産党の他党とは異なる組織上の特色は、全国各地に拠点となる党組織を持ち、地方議会に献身的な議員をもっていることだ。要するに、「政党らしい政党」となり得ている。文字通り、「身を粉にして」「地を這うような」地道な活動をしている地方議員が党を支え、日本の民主々義をも支えている。その地方議員の選挙が「連戦連勝」であることは、喜ばしい。

「水商売」という言葉は言い得て妙である。一見調子が良さそうでも、金融機関が「水商売」に信用を措くことはない。明日の流れは「水もの」なのだから。維新や民主を「水商売」にたとえることが失礼であれば、「風政党」でもよかろう。風の吹き方、風向き次第。風が収まれば、また離合集散を繰り返すしかない。一時は勢いのよかった維新や民主の風も、いまやぱったりである。なお、本日は社民党の党首選開票日だったが、その話題性の凋落は覆うべくもない。いまやひっそり、というしかない。

これに比較して共産党の活動は、「水もの」でも「風頼み」でもない。確かな党の勢いを実感できる。支持者は着実に増えている。もちろん、その支持は日本共産党の理念や政策への積極的支持ばかりではあるまい。当然のことながら、安倍政権の悪政批判の消極的支持も多いことだろう。共産党が、政権批判の唯一の受け皿としての重みをもちつつあるのだから。他に「受け皿」としての政治勢力はなく、この傾向はしばらく続くことにならざるを得ない。

私は、共産党の党勢がなかなか大きくはならないことについて、いくつかの原因があろうかと思っている。
(1)まずは、戦前の記憶の残滓がある。
戦前において、共産党は、明らかに権力からの弾圧の対象であり、非国民として社会的からも排斥された。なにしろ、天皇陛下に弓を引こうというのだ。しかも、労働者の搾取は不正義などとも言う。地主様にもたてつこうという不逞の輩である。3・15事件、4・16事件ばかりではない。共産党員は、検挙され、拷問され、有罪とされ、命さえ奪われた。善良な小市民の目からは、共産党も共産党員も恐るべき存在である。
いじめられっ子に味方すると、自分までいじめられる。共産党の同類と疑われたのではたまらない。うっかり共産党の言うことに耳を傾けたり、目を向けたりしたらたいへんなことになる。治安維持法がなくなった戦後も、民衆の記憶の底に染みついた残滓はいまだに容易に消し去られてはいない。
(2)戦後の保守勢力は、民衆の反共意識を煽り助長して、最大限に利用した。
下山・三鷹・松川の各事件とも、事件直後から、政府が「労働組合と共産党の犯行」と宣伝した。有無を言わさない大規模なレッドパージは、戦前の記憶の再現となった。善良な市民に、「やっぱり、共産党の側にいるだけで火傷する」と思わせる状況が意識的につくられたのだ。
(3)体制の変革者としての共産党は、体制そのものからもっとも疎まれる存在である。
共産党は現在なお、資本がもっとも警戒する存在である。企業への就職に際しても、就職してからも、共産党に関わりを持っていることは、不利になるものと考えざるを得ない。企業だけではなく、官庁においても同様である。職業人として生きていくのに、共産党支持を表明して有利になることはほとんど考えられない。
(4)世渡りには共産党と関わりを持たないことが大切と信じられている。
上手に世渡りするには、「共産党を支持しています」などと毛ほどのそぶりも見せてはいけない。共産党の言うことに耳を傾けてはならない。赤旗講読などもってのほか。共産主義は、時代遅れだという思想を身につけよう。体制に疎まれることのない、今はやりの思想で共産党の言っていることに反論しよう。こうすることが、世に受け容れられる賢い生き方。そう広く信じられている。

にもかかわらず、いま、共産党への支持が拡大しつつあるのは、安倍右翼政権への対峙の姿勢に揺るぎがないからだ。私は、積極的な共産党支持者が増えることもさることながら、民衆の反共意識の克服が重要な課題だと思っている。そうでなくては、共産党を中心とする共闘が成立し得ない。改憲を阻止して民主々義を実現するための実践的課題である。

どんな動機であれ、民衆が共産党の政策に耳を傾け、選挙で投票する経験をもつことには、極めて大きな意義がある。共産党と関わりを持ちたくない、共産党支持者だと思われたくない、共産党と関わりを持たないことが賢い生き方だという反共意識を払拭する第一歩として。そして、改憲阻止の民主的共闘体制の構築を実現するために。
(2013年10月14日)

スノーデンと朱建栄氏

西にスノーデンあれば、東に朱建栄あり。国家秘密に関わることとなると、まことに陰湿で嫌な事件が起こる。おそらくは、われわれの耳目をかすめることのない無数の類似事件があるのだろう。

「サンデー毎日」2013年10月20日号によると、東洋学園大学(文京区)朱建栄教授は、今年7月に上海で消息を絶った。その後、2か月近くたった9月11日に、中国外務省の洪磊副報道局長が定例記者会見で「朱建栄は中国(籍)の公民だ。中国は法治国家であり、公民は国の法規を遵守しなければならない」と述べ、国家安全省が情報漏洩の疑いで身柄を拘束している事実を認めた、という。

公安関係者の解説として、「国家安全省は、防諜と呼ばれるスパイ活動の監視や摘発を主任務とする情報機関です。朱氏は中国の情報を日本側に提供したと見られたのでしょう‥」。とは言うものの、記事は「諸説紛々だが、今も真相は藪の中だ」としている。

たまたま本日、久しぶりにスノーデンのコメントが報道されている。内部告発サイト「ウィキリークス」が、10月11日にネット上に掲載し公開されたものだとか。「時事」の報道は、「スノーデン容疑者は、『必要ないときまで、底引き網のように情報をあさり、全人類を監視下に置こうとする。社会を安全にするどころか、意見を表明し、考え、生きることを規制している』と、米国家安全保障局(NSA)の監視活動を批判した」と言っている。

朱氏の身に何が起こったかはよく分からない。分からないながらも、国家秘密漏洩に関わって同氏の身柄が当局に拘束されていることが高い確度で推察される。ことがらの性質上、公的に拘束の理由が明示されることはない。「何が逮捕勾留の理由か、それはヒミツ」だからだ。中国の秘密保護法制については詳らかにしないが、日本がお手本にすべきものでないことだけは確かである。

中国外務省報道官の「朱建栄は中国(籍)の公民だ。中国は法治国家であり、公民は国の法規を遵守しなければならない」とは、恐るべき宣言である。ここでは、「法治主義」という言葉は、疑いもなく「国家が国民に向かって、規範の遵守を要求する」スローガンとされている。言葉の本来の意味である「権力の行使は法の制約に服さなければならない」という観念はまったくないようなのだ。「法によって縛られるものはなによりも国家である」ことが法治主義。「法によって国民を縛る」のは、秦・漢の法家以来の伝統で、近代の思想ではない。

もし、特定秘密保護法が成立したら‥、我が国にも無数の朱建栄氏やスノーデンの事件が起こるだろう。意図せぬのに秘密を漏洩したと弾圧され、しかもその弾圧の内容すら秘密にされる事件。そして、正義感から、政府の違法行為の実態を広く社会に通報しようとして徹底的に弾圧される事件。

いずれの類型の事件においても国民の知る権利が侵される。その結果は民主々義の衰退をもたらす。教訓とすべきではないか。

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  「声を出し続けるマララさん」
ノーベル平和賞は、シリアの化学兵器廃棄で注目された「化学兵器禁止機構」が受賞した。化学兵器問題に光が当てられ、シリアと世界の平和の前進が図られる一歩となることを喜びたい。

その平和賞の有力候補者であったマララ・ユスフザイさんは、受賞を逸したが、ますます元気なようだ。この小さな16歳の少女マララさんには、心引かれるものがあり、後援したいという気持ちを起こさせる魅力がある。

11日にはアメリカのオバマ大統領夫妻に面会した。オバマ大統領は、パキスタンの女子教育推進のマララさんの活動に「感謝」の気持ちを伝えたという。その会談のなかで、マララさんは「アメリカ軍がパキスタンで行っている無人機の攻撃で、民間人が傷ついて、かえってテロを助長している」と話したと伝えられる。

2004年以来の無人機攻撃で、3000人以上の人が殺された。そのうち1000人近くが民間人である。さらに痛ましいことに、民間人の死者のうち200人弱はパキスタンの子どもなのだ(概数。正確な数は把握できていない)。

報道写真によると、オバマ大統領との会談には、マララさんと同じ年頃のオバマ大統領の長女も同席し和やかな雰囲気ですすめられたようだ。マララさんが帰ったあと、オバマの家族は何を語り合っただろうか。長女は何を感じ、大統領は自分が命じた「戦闘と殺戮」について、長女と妻にどう釈明しただろうか。「ともかく、先日のシリアの爆撃を回避できてよかったよ」とでも語ったのだろうか。

以前、マララさんはアメリカのABC放送のインタビューで、「銃撃を予想していたので、そのときがきたら、何と言ってやろうかといつも考えていました。タリバンの子どもや娘たちにも教育を受けさせてくださいと言おうと思っていました」と目をクリクリさせて答えていた。きっと、マララさんは今回も、「オバマ大統領に会ったら何と言ってやろうかしら」と考えていたに違いない。

タリバンは今も、マララさんの命を狙うと脅迫し続けている。しかし、「無人機の攻撃をやめてください」と要求するということは、「タリバンの命も助けてください」と言っていることでもある。マララさんは国連での演説のなかでも、「私を銃撃したタリバンの人たちを憎みません」と述べている。タリバンは、たった独りのマララさんに、道義的にも負けてはいないか。

地元パキスタンでは「マララさんが撃たれて注目を浴びるようになってから、ここはよりいっそう危険になった」「マララは欧米かぶれだ」「自分は安全なところにいて」と批判の声の方が圧倒しているらしい。しかし、声を出せるところにいる人までが声を出さなくなったら、敗北を認めたことになる。とにかく、声を出し続けるマララさんはやっぱり立派だ。
(2013年10月13日)

人類はいかなる状況においても核兵器を使うべきではない

安倍政権は、奇妙な言葉の使い方をする。眉に唾をしないと真意が分からない。消費者の目を眩ます悪徳商法家としての天賦の才能に恵まれているのだろう。国民は「賢い消費者」となって、悪徳セールスを見破らねばならない。でないと、被害は甚大、財産だけではなく生命まで根こそぎ奪われかねない。

「事故後の原発は完全にコントロール」「0.3平方キロでブロック」「水俣病を克服した」の類はまだ罪が軽い。戦争と平和の問題での誤導についての罪が深い。

「積極的平和主義」とは、「徹底した反戦の立ち場を貫いて、戦争のない平和な社会をつよく求める姿勢」かと一瞬誤解しかねない。実は、まったく逆で「戦力を増強し戦費を増やして、専守防衛に限定することなく、世界のどこででも戦争が出来るような国防軍をもつこと」なのだ。

核廃絶についても同様、口先と腹の中はまったく異なっているのだ。
今年の8月6日、安倍晋三は、「広島市原爆死没者慰霊式・平和祈念式」において、口先では何と言ったか。

「私たち日本人は、唯一の、戦争被爆国民であります。そのような者として、我々には、確実に、核兵器のない世界を実現していく責務があります。その非道を、後の世に、また世界に、伝え続ける務めがあります。‥核兵器の惨禍が再現されることのないよう、非核三原則を堅持しつつ、核兵器廃絶に、また、恒久平和の実現に、力を惜しまぬことをお誓いし、私のご挨拶といたします。」

ところが、この言葉はホンネではない。口先だけのタテマエに過ぎない。8月9日、長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典の「平和宣言」において、田上富久長崎市長は、参列した安倍晋三の面前で、政権のホンネを次のとおり批判した。

「日本政府に、被爆国としての原点に返ることを求めます。
今年4月、ジュネーブで開催された核不拡散条約(NPT)再検討会議準備委員会で提出された核兵器の非人道性を訴える共同声明に、80か国が賛同しました。南アフリカなどの提案国は、わが国にも賛同の署名を求めました。
しかし、日本政府は署名せず、世界の期待を裏切りました。人類はいかなる状況においても核兵器を使うべきではない、という文言が受け入れられないとすれば、核兵器の使用を状況によっては認めるという姿勢を日本政府は示したことになります。これは二度と、世界の誰にも被爆の経験をさせないという、被爆国としての原点に反します。」

鋭く突きつけられた問題は、「人類はいかなる状況においても核兵器を使うべきではない」という命題を受け容れるのか拒否するのか。曖昧な回答は許されない。中間の答はない。

共同声明署名の80か国は、「人類はいかなる状況においても核兵器を使うべきではない」を肯定した。しかし、安倍政権は否定した。「いかなる状況でも核兵器が二度と使われないことが人類存続の利益になる」との表現を問題視したというのだ。「核兵器の使用を完全排除した場合は米国の核抑止力に頼る政策と合わないと判断し、署名を見送った」と報じられた。これが、「唯一の被爆国」の政府の態度であり、「二度と、世界の誰にも被爆の経験をさせないという、被爆国としての原点に反します。」と言った人物の、2枚目の舌によるホンネである。

このことが、現在問題として再燃している。国連の有志国が準備している「核の不使用」共同声明に、日本も署名することについて、菅義偉官房長官と岸田外務大臣は、昨日(11日)相次いで記者会見に応じている。実はまだ、事態はよく分からない。「いかなる状況でも核兵器が二度と使われないことが人類存続の利益になる」との原案にあった表現が日本の意見を容れて削除されたのかどうか。削除の有無に関わらず、日本がこれに賛成を決めたのか、削除なければ前回同様賛成しないのか。

ハッキリしていることは、日本が提案有志国に対して、「いかなる状況でも核兵器が二度と使われないことが人類存続の利益になる」との原案を削除するよう求めていること、声明の内容が「日本の立場を縛ることはないことを確認した上でなら署名ができる」と明言していることである。

このことは、片言隻句の問題ではない。原則の問題であり、思想の問題だ。核の悲劇をもっともよく知る立ち場の日本国民とその政府に突きつけられた問題として、余りに大きい。

日本国民は、日本政府に問い質さなくてはならない。安倍政権は、「いかなる状況でも核兵器が二度と使われないことが人類存続の利益になる」という命題に、いかなる意味で賛同できないというのか。曖昧さを残さずに明確に回答を求めねばならない。

「いかなる状況でも核兵器が二度と使われないことが人類存続の利益になる」は、広島・長崎において被爆の惨禍に遭遇し、ビキニで水爆による放射線被曝の体験をした日本国民の一致した見解である。このことが核保有国を含む全世界人民の常識となるよう、働きかけることが日本国政府の務めではないか。

日本政府こそ、他国に率先して核廃絶を訴えなければならない。「いかなる状況でも核兵器が二度と使われないことが人類存続の利益になる」という文言のレベルは核廃絶より数段低い。その程度の文書について、他国から呼び掛けられて、「その文言を消してくれたらすんなり署名できるんだけど‥」と言っているのは、余りに情けない。

日本国民は、どうしてこんな人物や政党に政権を与えたのか。こんな政権の支持率がどうして限りなく低下しないのだ。国民は、いつの間にか、そんなに核兵器が好きになってしまったのだろうか。
(2013年10月12日)

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