(2021年4月25日)
昨日の「司法はこれでいいのか」の集会。テーマの一つが「希望への道筋」であった。司法の現状を「これでいいはずはない」との認識を前提に、いったいいかにすれば司法を真っ当な存在に糺すことが可能なのか。
今さら言うまでもなく、日本国憲法は人権保障の体系である。この憲法が妥当する域内において人権が侵害されるとき、被害者は司法に救済を求めることができる。司法は、侵害された人権を救済する実効性をもたなければならない。
とりわけ、人権侵害の被害が強大な国家権力によるものであった場合にも、民主主義的基礎をもつ議会によるものであった場合にも、司法は躊躇することなく、人権を回復してその使命をまっとうしなければならない。しかし、50年前石田和外(5代目長官)の時代から、あるいは田中耕太郎(3代目長官)の時代から、司法は憲法が想定する存在ではない。
大日本帝国憲法57条は、「司法権ハ天皇ノ名ニ於テ法律ニ依リ裁判所之ヲ行フ」と定めていた。戦前の司法は、天皇制の秩序を擁護することがその基本的任務であったと言ってよい。戦後の司法は、この体質を引き継ぎ、清算し切れていない。司法官僚制がこの体質を再生産して今日に至っているのだ。
そのような現状においても、個別の訴訟における原告や代理人弁護士、あるいは支援団体の工夫や努力によって担当裁判官の共感を得て、勝訴を勝ち取る。その積み重ねによって「希望への道筋」を見出すことができるのではないか。これが、一つの立場である。
この立場においては、人権擁護を目指す弁護士たる者、石にかじりついても個別事件に勝訴する工夫と努力をしなければならない。他の訴訟からそのノウハウを学ばねばならない。そのことによって、裁判官の心情を変え、その積み重ねで司法全体を変えていく展望も開ける、と考える。
昨日の集会のディスカッションの中で、ある弁護士からこんな意見が出た。
「裁判官を説得するとは、裁判官の共感を得ること。その共感とは、原告の立場を理解するとか、同情するとか、たいへんだなと思ってもらう程度では足りない。裁判官としての自分がこの境遇から原告を救済しなければならない、と決意させることでなくてはならない。」
このように発言できる弁護士は立派だと思う。心からの敬意を表せざるを得ない。できれば自分もそのような熱意と力量を身につけたいものとは思う。しかし、この意見には、賛否があってしかるべきだろう。弁護士の多くに、このような水準の法廷活動を求めることは非現実的ではないか。むしろ、平均的な能力の弁護士による平均的な時間と労力を使っての法廷活動で、なぜ裁判官の説得ができないのかが問われねばならない。
また、工夫と努力次第で本当に裁判所を説得できるものだろうか。厚いバリヤーがあるのではないか。天井のガラスは堅固なのではないだろうか。
また、弁護士が、専門家としての職業倫理として、個別訴訟において人権擁護の努力を傾注すべきことは当然としても、そのことによって「希望への道筋」が開けると短絡してはならないのではないか。個別の訴訟の努力と成果が、そのまま司法制度の改善につながるとすることは楽観に過ぎるというべきで、司法の制度やその運用における問題点を改善する課題を忘れてはならないと思う。
法教育、学部教育、法律家養成制度、裁判官の人事や処遇、裁判官統制の撤廃等々の課題が山積している。中でも、政権与党や、行政権から、真に独立した司法を作らねばならない。
人事権をもつ司法官僚に睨まれる判決を書くには覚悟が必要だという。その司法官僚の背後には、政権や保守陣営や財界などの現行秩序を形作っている諸勢力が控えている。この現在の司法の在り方を強く批判することも、人権を擁護しようという市民や法律家の責務にほかならない。
(2021年4月24日)
本日は、下記のとおりの「司法はこれでいいのか」(現代書館)出版記念集会。望外の多くの人々にご参加いただいた。改めて50年前のことを思い出し、あのときの怒りを抱きつつ過ごした50年であったと思う。司法を憲法が想定するものに糺す課題は以前と変わらない。改めて、「司法はこれでいいのか」と問い続けなければならない。
「司法はこれでいいのか ― 裁判官任官拒否・修習生罷免から50年」出版記念集会
日時 2020年4月24日(土) 13時30分?17時
会場 アルカディア市ヶ谷(私学会館)・6階「霧島」
主催:23期弁護士ネットワーク
共催:青年法律家協会 弁護士学者合同部会
協賛:日本民主法律家協会
プログラムと担当
☆総合司会・開会挨拶 ・澤藤統一郎
☆出版と集会の趣旨説明・村山 晃
☆挨拶 ・阪口徳雄
☆メッセージ(代読) ・宮本康昭氏(13期再任拒否当事者)
第1部 パネルディスカッション(司法の現状把握と希望への道筋)
☆司会 梓澤和幸
☆パネラー冒頭発言
・西川伸一氏 司法の現状:制度と運用の実態をどう把握するか
・岡田正則氏 司法の現状:司法はあるべき職責を果たしているか
・伊藤 真氏 司法の希望への道筋をどう見い出すか。
☆各パネラーへの質疑と意見交換
第2部 具体的事件を通じて司法の希望を語る
☆司会 北村栄 豊川義明
1 東海第二原発運転差止訴訟弁護団 丸山幸司弁護士
2 生活保護基準引下げ違憲大阪訴訟 小久保哲郎弁護士
3 同性婚人権救済弁護団・札幌訴訟 皆川洋美弁護士
4 建設アスベスト京都1陣訴訟弁護団 谷文彰弁護士
5 東京大空襲訴訟弁護団 杉浦ひとみ弁護士
☆フリーディスカッション
※冒頭発言 森野俊彦(23期・元裁判官)
※23期オンライン発言者 山田万里子
※どうすれば、裁判官の共感を獲得できるか。
※個別事件での獲得課題と司法を変えていく課題とはどう結びつくか。
※司法の独立・民主化に向けて今何が課題なのか など。
☆議論のまとめ 「司法の希望を切り開くために」 豊川義明
☆青法協弁学合同部会議長 挨拶 上野 格
☆閉会あいさつ 梓澤和幸
集会のコンセプトは以下のとおり。
※飽くまでも「司法はこれでいいのか」を問う集会。
※「司法」を語り、「これでいいのか」という批判の視点が基調となる。
※もちろん、批判を批判のまま終わらせず、司法の希望を見い出したい。
※結論はともかく、そのような問題意識を次の世代に伝える集会としたい。
開会のご挨拶 澤 藤 統一郎
今から50年前、1971年の4月5日。その日は司法修習23期生の修習修了式でした。修習を終えた500人が全国に散って、弁護士・裁判官・検察官としてそれぞれの職業生活を始める希望の門出の日。
ところが、この500人の中に、どうしても納得できない無念の思いを胸に秘めた7人がいたのです。彼らは、裁判官を希望しながら、採用を拒否されました。
その直前には13期の宮本康昭裁判官に対する再任拒否もあり、私たちはこの任官拒否は不当な思想差別であり、裁判官全体に対する思想統制が狙いだと考えました。
憲法の砦たるべき最高裁が、自ら思想差別を行い、裁判官の独立をないがしろにしている。法律家になろうとする私たちが、身近に起こっているこの違憲違法な事態を看過してよいはずはない。せめて、終了式の場で任官を拒否された彼らに、一言でもその思いの一端を発言する機会を与えてもらおうではないか。これが同期の総意でした。誰かが式の冒頭で、研修所長に同期の総意を伝えなければならない。その役割を担ったのが、クラス連絡会の委員長だった阪口徳雄君でした。
彼、阪口徳雄君は、この修習修了式の冒頭、式辞を述べようとした所長に対して発言しました。このときの彼の態度は、けっして無作法なものではありません。所長は明らかに黙認しており、制止をしていません。この点は、「司法はこれでいいのか―裁判官任官拒否・修習生罷免から50年」の第1章に手際よくまとめられています。また、巻末の資料「阪口司法修習生罷免処分実態調査報告書」(東京弁護士会)にも詳細に記述されています。是非お読みください。
所長からの許しを得たと思った阪口君が、マイクを取って「任官不採用者の話を聞いていただきたい」と話し始めた途端に、「終了式は終了いたしまーす」と宣告されました。開会から式の終了まで、わずか1分15秒でした。
けっして、式場が混乱したわけではありません。阪口君が制止を振り切って発言したわけでもありません。何よりも、この事態を招いたことには、最高裁にこそ大きな責任があるではありませんか。
それでも、最高裁はその日の内に阪口君を罷免処分としました。私たちは、権力というものの本質に触れ、怒りで震えました。
それから50年です。あの怒りを原体験として私たちは法律家として人生を送ってきました。そして「司法はこれでいいのか」と思い続けてきました。
阪口君は、2年後に法曹資格を回復します。最高裁を批判する市民運動の高揚があればこその成果でした。阪口君を中心に、あらためて50年前を思い起こし、この50年を振り返って、私たちは一冊の書物を作りました。本日はその出版記念集会です。飽くまでも、「司法はこれでよいのか」との問いかけで貫かれた集会になるはずです。ぜひ、ご一緒に、司法の在り方をお考えください。
出版と集会、その目的と思い(抜粋) 弁護士 村 山 晃
問答無用で罷免された阪口氏だが、2年後には法曹資格を回復し、弁護士としてめざましい活躍をすることとなった。罷免処分は、未来永劫資格を奪う究極の処分である。最高裁が取った資格回復の措置は、事実上の処分撤回であり、それをわずか2年間でやりとげた力とは一体何だったのか。
そのことについて、きちんとした整理がされていなかった。
阪口氏が罷免処分のあと、全国で巻き起こった司法反動を許さないとする大きな運動は、前にも後にも例をみないものとなった。その力が2年間で資格を回復させた最大のものだったと思われる。
そして運動は、2年で終わらない。弁護士や市民は、こうした運動のなかから行動力を強め、反動化を進める裁判所と対峙して、これを食い止め、権利を守る判決を出させることを通して、自由と人権、平和と民主主義を守るために戦線を拡大していくこととなった。司法反動を許さず、司法の民主的変革をめざして闘い続けてきた50年であった。
先ごろ検察庁法の改正問題をめぐって、多くの市民が批判の声をあげ、ついには廃案に追い込んだ。信頼できる司法であって欲しいという市民の願いは強い。
その力について、私たちは確信を深めるとともに、今こそ、司法を変えるためのより大きな運動を作り上げていくために、私たちが何をなすべきかをともに考えたい。
弁護士・裁判官として歩んだ50年
法曹人生50年を超えた23期の弁護士たちが、阪口罷免や大量任官拒否と闘いつつ、この50年間、どんな活動を積み重ねてきたか、そこにも光をあてたいと考え多くの弁護士が執筆し、インタビューを受けた。本書に登場した人たちの名前は、表紙を飾っている。
それぞれが、多様な分野で様々な取り組みを積み重ねてきている。まさにそれこそが司法を変え、民主主義を実現する力である。
裁判官として最後まで頑張り、弁護士となったあとは、23期の弁護士ネットワークにも参加してきた森野元裁判官も執筆し、インタビューを受けている。裁判所の中で、裁判官はどんな苦闘を続けたか、その大変さは、容易に推し量れない
集会をへて新たな闘いへ
書籍では、50年前の出来事やこの50年を振り返りつつ、若い人たちへのメッセージも意識した記述になっている。今日の集会では、このメッセージを受け止めてもらい、司法の現状を明らかにしながら、困難な状況をどのように切り拓いていくのかを明らかにしていってほしいと思っている。
困難と思われた裁判で勝利できた要因はどこにあったのか、司法を変えていく力はどこにあり、どのように闘っていけばよいのか。もとより正解がすぐそこにあるわけではない。しかし、希望を見いだし、エネルギーが出る集会になれば、それに勝る喜びはない。そして、語りつくせなければ、改めて機会を作ることも難しくはない。むしろ今後につながる集会であってほしいと強く願っている
50年前に何があったか、当事者としての感想と挨拶(抜粋)
弁護士 阪 口 徳 雄
1 50年前の4月に法律家の常識では想定できない事態が発生した。
10年目の再任期を迎えた宮本康昭さんが再任拒否され、23期の7名の裁判官の採用が拒否された。卒業式で発言した私は弁明の機会も与えられることなく法曹界からの「永久追放」というべき罷免処分となった。露骨な権力むき出しの処分は法律家の常識では想定外であった。なお、23期の任官拒否については「裁判所はこれで良いのか」の18頁以下に、私の罷免当日の行動などは25頁以下に詳細に記載しているのでお読み下さい。
当時の事件について佐藤栄作総理は4月6日の日記で「1名を再採用しない事と、もう一つは青法協の為に資格を与えぬこととした例の研修終了を認めない事」としたことが記載されていると西川先生の論文(338頁)で指摘されている。この日記の文言から見て石田和外か、その意向を受けた再任、罷免処分の権限者が佐藤栄作に報告したのであろう。当時の石田長官一派らが政権とここまで癒着していたかの事実を証明する日記である。
2 当時の裁判所を巡る状況と司法への期待
当時の司法状況は、戦前の司法官僚達は戦争責任が追及されないまま戦後の司法に
無反省のままで居座った。他方では戦後の民主化運動の中で啓発された年輩の裁判官達や、憲法下の教育を受けた若き裁判官たちとの間で、双方のせめぎ合いの状態が続いていた。戦後の民主主義教育の中で育った者は司法に期待をもって司法試験を受験した者が多かった。私などは、戦後、政権交代がなく、立法の改正などは簡単ではないが、公務員の政治活動を認めた都教組事件、公務員のスト権を認めた全逓中郵事件などにおいて判例を通じて立法の改正をなすことが出来るという淡い期待を抱いた。
法律家の役割が大きく、それへの期待を抱いた時期であった。
裁判官になった私の先輩は鳥取地裁に初任地を命じられたが、鳥取に最高裁鳥取支部を作るという気概もって赴任して行ったと聞いた。ある意味、法律家はどこにいても憲法を守ることで「生きがい」を見出そうとしていた時期であったと言える。
3 自民党政権の危機感と青法協への攻撃
自民党政権はこのような司法の方向に「危機感」を抱き、右翼雑誌を通じて、この背景には青法協=アカというレッテルを貼り、攻撃を開始した。石田和外をトップとする最高裁事務総局の官僚達はこれに反対、抗議するのではなく、これに屈服し、迎合し、同じように青法協攻撃を開始した。
西川先生の論文の334頁に、1970年1月に最高裁事務総局の局付判事補に対する脱会勧告を行なった。この延長戦上に同年4月に22期の3名の任官拒否が強行され、翌年4月の宮本再任拒否があり、任官拒否があり、罷免へと続いた。西川先生の寄稿論文を読ませて貰うと石田こそ、自民党以上に司法に危機感をもっていたのかも知れないと教えられた。彼こそ極端な「超国家主義者」であったので、彼から見れば殆どの裁判官たちは「アカ」であり「共産主義者」と映ったのであろう。石田の攻撃の「異常」な思想的背景がここにあった。
4 最高裁判事がタカ派に牛耳られ判決統制への道を開いた。
石田は1969年1月最高裁長官に就任したが、その4月に都教組大法廷判決で9対5の多数意見で原審の判決が取り消され逆転無罪になった。1966年10月全逓中郵最高裁大法廷判決に続き公務員のスト権解放への道が司法上定着するかに見えた。
石田はこの反対意見の4名に入っていたが,これらのスト権容認判決の流れに危機感を抱き、露骨に最高裁判事をリベラル判事の退任の都度、保守派に入れ変えた。石田長官は在任中11名の入れ替えがあったが、当初はリベラル7名、保守派4名であったが最後は2対9に逆転させたという。(西川338頁)この結果、1973年4月全農林警職法事件で8対7でスト権を認めない大法廷判決で自民党の認める方向に舵を切った。(以下略)
23期へのメッセージ(抜粋) 宮 本 康 昭
ちょうど50年前、13期の再任拒否、23期の大量新任拒否と阪口さんの罷免、青法協会員裁判官をおよそ半分にまで激減させた脱会工作、と一連の出来事は、わが国戦後司法の転換点でした。
その転換点を23期の皆さんと共有した、という気持が私にはあり、23期に生じたできごとを自分のことと一体のものとして感じて来ました。
あれから数年にわたる、さらに現在に至る、23期の同期の連帯を維持した活動に今日まで変わらぬ敬意を抱いています。
いま、50年の節目に、私たちはどういう場面に際会しているのでしょうか。「司法の危機」の再来はあり得る、と私はあちこちで言っております。政治権力の強さは、50年前の比ではなくなっており、それに比して司法の分野の強権的体質は顕著でなくなっているのですが、それ故にむしろ政治権力のいうままに流れる危うさを抱えこんでしまっています。最高裁の、政治的事件での判決姿勢や、最高裁判事選任過程での政治従属ぶりにもそれを見て取れます。
司法の危機再来のときに局面を左右するのは国民の力です。「50年経ってこれだけのものなのか」という思いはたしかにありますが、もう一度力を振りしぼって国民の運動の下支えになっていくことを決意しようと思います、23期のみなさんと共に。
(2021年4月23日)
今東京は、新型コロナ蔓延の第4波。非常にきつい最中なんですよ。あなたが来ると、確実にこの波は高く大きくなるばかり。重症者も死者も増える。あなたは、東京のコロナ対策に邪魔なんです。言わば疫病神。ですから東京にだけは来ないで。あなただけは来ないで。
東京ではね、連日前週の同じ曜日を上回る新規感染者を出しているんです。知らないフリをしないで。変異株「N501Y」が蔓延しているし、若年層の感染拡大も重症化も深刻な状態。遊んでいる暇はないってこと、お分かりでしょう。
オリンピックって所詮は運動会。今の東京には運動会の準備に手間暇かけている余裕なんてまったくないの。それどころではない、都民の命を守ることに精一杯。それくらいのことは、いくらあなただってお分かりですよね。
えっ? オリンピックは運動会とは違う、ですって? それはそうかもね。めちゃくちゃにお金がかかるし、税金も注ぎ込んでいる。なんてったって金儲けのチャンスだものね。だから、運動会とは違って汚いカネが動くんだ。賄賂やら接待やら、汚いカネカネカネ…。それが、つましく明るく楽しい運動会とは、大違い。
えっ? そうではない? 運動会では国威発揚もできないし、政治家の顔や名前を売る舞台にはならないだろうって。それはそうかもね。うまく行けば…ね。失敗したら目も当てられない。無理に東京五輪を強行して、巨大なクラスターを発生させて、世界中に変異株のコロナ再感染をばらまけば、東京は世界の恥晒し。政権ももたないし、都知事の座も吹っ飛ぶ。
外国からの観客は来ないことになった。無観客のオリンピックならできそうだという感染症学者もいる。それでも、「無競技者五輪」というわけには行かないでしょ。世界中から選手が来る。大会関係者や役員も来る。報道機関も政治家だって来るでしょう。その多くの人たちの感染症対策に、医療従事者を割かねばならないけど、今の東京にそんな余裕があるはずもない。ワクチン接種にさえ人手が足りないのが現実なの。
東京には、明後日(4月25日)から、3度目の緊急事態宣言。一応、5月の11日までとなっているけど、そこで宣言解除となる保証はない。むしろ、何種類かの変異株の不気味な跳梁をみんな気にしている。必死になって、感染拡大を防ぐ努力をしなけりゃならないこのときに、バッハさん、あんた何しに東京まで来ようとというの。東京にだけは来ないで。あなただけは来ないで。
知事も首相も、東京五輪はやりたくってしょうがない。みんな目立ちたがり屋で、目立てば次の選挙にも有利だと思い込んでいるんだ。でも、ちゃんとした都民や国民なら、あんな人たちを信用できるわけがない。知事や首相が揉み手で、「お越しください」と言っても、もう一度言いますよ。「東京に来ないで」「バッハさん、あんたは来ちゃいけない」
いつもは不人気の二階俊博幹事長だって、珍しく「これ以上とても無理だということだったらこれはもうスパッとやめなきゃいけない」と述べたじゃない。聖火リレーだってまともにやれていないし、被災地をダシにした「復興五輪」の悪評は深刻。もう、「これ以上とても無理」だとみんなが考えている。
こういう事態での、あんたの傲慢な発言が東京都民を怒らせている。あんた、緊急事態宣言について、「日本のゴールデンウィークに感染拡大を防ぐための措置と認識している。五輪とは関係ない」と言ったそうじゃない。なんでわざわざ、「五輪とは関係ない」なんて言ったんだ。
3か月先に迫った東京五輪と、コロナ禍の東京緊急事態。誰が考えても密接な関係があるだろう。あんたが、「関係ない」と言うと、「いかにコロナが蔓延しようと、緊急事態が宣言されようと、東京五輪開催は既定の方針なのだから関係がない」「東京の人々がコロナ感染の危険に晒されようと患者が増えようと、五輪は断乎やる方針なのだから五輪開催には関係ない」と聞こえる。
なんにも問題が見えないうちは、オリンピックの理念は素晴らしく、IOCの会長と言えば立派なもんだとも思われていたが、今はもうそんな時代じゃない。誰もあんたを尊敬も信頼もしていない。だから、バッハさん。日本のコロナ対策の邪魔だけはやめていただきたい。だから、あなただけは東京に来ないでください。絶対に来ないでね。
(2021年4月22日)
注目されていた東京地裁「夫婦別姓確認訴訟」。想田和弘さんと柏木規与子さんの夫妻が原告になって、被告国に対して、「両原告が夫婦であることの確認」を求めた訴えに、昨日(4月21日)判決が出た。報道の限りでのことだが、形式的には敗訴でも、その理由中の判断では「実質勝訴」と評価してよいだろう。「実質」における判決勝敗の基準は、夫婦同姓強制の不都合をあぶり出し、制度改正のインパクトを持つかどうかという点にある。
判決報道は難しい。速報は「敗訴」というだけのものであった。一夜明けて今朝の毎日新聞朝刊社会面(第22面)の片隅に、「別姓、戸籍認めず 東京地裁判決 米婚姻の夫婦に」という見出しでの小さな記事。この位置、この字数、この見出しでは、読む気にもならないという体の扱い。
だが、記事の末尾には、想田さんの「実質的な勝訴だと思っている」というコメント。そのコメントを読み直して判決の印象を変えた。
ネットで検索すると、この毎日の記事がヒットする。ところが、その見出しが、「想田和弘さん『実質勝訴』 別姓婚訴訟棄却 判決文で『婚姻成立』」となっている。記事の内容は、まったく変わらないのに、である。
「別姓、戸籍認めず」と、「実質勝訴 判決文で婚姻成立」とでは、天と地ほどの印象の差ではないか。当初は記者が主文だけの印象で「戸籍認めず」と見出しを打ち、その後の取材で、「実質勝訴」に書き換えたのだろうと思ったのだが、あに図らんやその反対。「実質勝訴」が 2021/4/21 21:24の送稿と先で、「戸籍認めず」が2021/4/22 02:06とあとの記事なのだ。記事を書く記者と見出しを付ける編集者とで判決内容の理解に齟齬があったのではないか。この判決の評価はそれほど単純ではなさそうなのだ。以下は、その毎日記事。
米ニューヨーク州法に基づき別姓で婚姻し、同州で暮らしていた映画監督の想田(そうだ)和弘さん(50)と妻の柏木規与子さんが、日本でも別姓のまま婚姻関係にあることの確認などを国に求めた訴訟の判決で、東京地裁(市原義孝裁判長)は21日、別姓で戸籍に婚姻関係を記載することは認めず、請求を棄却した。
2人は1997年、別姓婚が認められるニューヨーク州で婚姻し、2018年6月に東京都千代田区に別姓のまま婚姻届を出したが、夫婦同姓を定めた民法の規定に従い受理されなかった。海外で別姓で婚姻した日本人夫婦について、婚姻関係を戸籍に記載できる規定のない戸籍法には不備があるなどと訴えていた。
判決は、海外では別姓での婚姻が認められていることから、日本で同姓の婚姻届が受理される前の状態でも「2人の婚姻自体は有効に成立している」と述べた。一方で、別姓での婚姻が戸籍上認められないことで各種手続きで不利益が生じるとした原告側の主張は「抽象的な危険にとどまる」と退けた。戸籍法の不備に関する主張も「規定を設けないことが不合理とは言えない」と棄却した。
判決後にオンラインで記者会見した想田さんは「請求は退けられたが、判決文の中で夫婦だと明確に述べてくれている。実質的な勝訴だと思っている」と述べた。柏木さんは「選択的夫婦別姓に向けた大きな一歩だと思う」と評価した。
「週刊金曜日」編集委員の一人である想田さんは自らの「夫婦別姓確認訴訟」を同誌4月2日号の冒頭「風速計」欄の記事にしている。その記事で、私は、初めて「法の適用に関する通則法24条2項」という規定の存在を知った。外国で現地の法律に基づいて結婚した夫婦は、国内で改めて婚姻届を提出しなくても、婚姻が成立しているとみなされるという内容。
相田さんはこう訴えた。「海外で結婚する場合、現地の法律に基づいて婚姻が行われれば、国内でも適法に婚姻が成立する」のだから、「別姓で現地の法律に基づいて婚姻が行われれば、国内でも適法に別姓のまま婚姻が成立する」。従って、国は別姓のまま夫婦として認めよ。別姓のまま婚姻届を受理せよ。この想田さんの要求は、至極もっともなものではないか。
国はどう争ったか。「海外で結婚する場合、現地の法律に基づいて婚姻が行われれば、国内でも婚姻が成立する」ことはそのとおりだが、別姓婚の場合は別だ。国内で別姓婚が認められていない以上は、外国で受理された別姓婚は、国内では認められない。「原告らが『夫婦が称する氏』を定めていない以上は、日本国内においては婚姻が成立していない」と主張したのだ。
これに対して、判決は前述のとおり、「日本で同姓の婚姻届が受理される前の状態でも、2人の婚姻自体は有効に成立している」と認めた。別姓の婚姻届が受理されるべきだとは言わない。しかし、「婚姻届けなくとも婚姻自体は有効に成立している」ことを認めた。これを、当事者は「形式敗訴・実質勝訴」と評価した。
法律婚は、婚姻届によって成立する。この常識が覆された。「婚姻届けがなくとも婚姻自体は有効に成立している」ことが確認されたインパクトは限りなく大きい。
判決は、外国が別姓婚を採用している場合も「当然に想定される」として、通則法24条2項により婚姻自体は成立していると原告側の訴えを認めた、と報じられている。であれば、外国が同性婚を採用している場合も「当然に想定される」のではないか。
本件判決の「形式敗訴・実質勝訴」のネジレは、立法によって解決されなければなない。ネジレ解消の方向は形式論理としては2方向ある。しかし、原告から見ての「形式敗訴・実質敗訴」の方向は、世界の趨勢からも日本の社会意識の動向からもおよそ考えられるところではない。ネジレ解消の立法解決は、「形式勝訴・実質勝訴」の方向でしかあり得ない。本判決は、そのことを意識させたことにおいて、意義あるものと言えよう。
(2021年4月21日)
香港の公務員が、中華人民共和国への忠誠宣誓を強制されているというニュースに胸が痛む。深刻な葛藤を経て、やむなく従う人もあろうし、どうしても拒否せざるを得ないという人もあろう。どちらの結論も、この上ない悲劇なのだ。
江戸幕府は、16世紀初頭の宗教弾圧に踏み絵という偉大な手法を発明した。聖なる絵を踏むよう強制されたクリスチャンは、保身のために自らの信仰を裏切るか、あるいは信仰に殉じて生命をも投げ打つかの選択を迫られた。どちらも悲劇の極みである。
中国共産党は、香港の公務員に中華人民共和国への忠誠を求めて、その旨の宣誓を強制した。保身のために自らの信念を裏切るか、あるいは信念に殉じて職をも投げ打つかの選択が迫られたのだ。この点、中国共産党のやり口は、江戸幕府の宗教弾圧と構図を同じくする。宣誓を強制される者には悲劇の極みである
民主主義では、治者と被治者の自同性が擬制される。なぜか「自同性」という、日本語としてはこなれない言葉が使われるが、一体性といっても、同一性と言っても差し支えない。「治者」と「被治者」とが、別なものではなく重なり合うものとして存在するのが民主主義である。「治者」と「被治者」とは、「国家」と「国民」に置き換えてよい。
タテマエにせよ、日本は民主主義国家である。その公務員は、全国民への奉仕者であって、政権や一部の権力者への奉仕者ではない。日本国の公務員の憲法尊重擁護義務遵守の宣誓は、次のようなものである。
私は、ここに主権が国民に存することを認める日本国憲法を尊重し、且つ、擁護することを固く誓います。
日本国憲法が、公務員を含む国民に精神の自由を認めているのだから、この宣誓文言に違和感はない。
しかし、非民主主義国家においては、国民と国家との自同性がない。国家は、国民に他者として対峙し、国民に不寛容となる。まさしく、専制国家中国の、自律権を奪われた香港市民に対する関係が、その典型である。
《香港で公務員の「忠誠宣誓式」 拒否者には解雇の可能性も》という報道は、昨年(2020年)暮れころから目につくようになった。強制される「忠誠」の対象は、香港の民主主義を蹂躙し、民主主義を擁護しようという人々を弾圧した、中華人民共和国という権力機構である。
香港の市民社会への忠誠、香港の法秩序擁護の宣誓ではなく、香港の民衆に敵対し香港の自由や人権を蹂躙した弾圧者に対する忠誠の強制である。屈辱以外の何ものでもなかろう。
報道では、昨年12月16日に、「公務員が政府への忠誠を改めて宣誓する式典が初めて開かれた」という。非公開で行われたこの式典では、上級公務員らが香港およびその政府に対する「忠誠心を守る」ことを、林鄭長官の前で宣誓したという。公務員事務局長は、忠誠宣誓や類似の宣言への署名を拒否した者は、解雇の可能性もあると警告しているとも報じられた。
そして本日(4月21日)各紙に、「香港で公務員129人『忠誠』拒む 辞職や停職」と報道されている。
【香港時事】4月20日付の香港各紙によると、昨年施行された国家安全維持法(国安法)にのっとり、香港政府が約18万人の公務員に義務付けた「中華人民共和国香港特別行政区に忠誠を尽くす」との宣誓をめぐり、129人が署名を拒んだ。このうち25人は辞職、大部分は停職となった。停職中の公務員は今後、辞職を勧告される可能性がある。
この中華人民共和国への忠誠強制の被害者は、踏み絵を拒否した《18万分の129》だけではない。自分の自尊心を宥めて面従腹背に甘んじ、敢えて踏み絵を踏んだ、その余の全てにとっても、この上ない悲劇なのだ。
(2021年4月20日)
いま、国家・国民の総力を上げて新型コロナの蔓延を防止すべきときである。いたずらに不要不急の課題に注力すべきではない。ましてやこの時期に、火事場泥棒さながらに、疑問点だらけの「改憲手続き法」の審議を急いではならない。
これだけの問題点があることを知っていただきたい。
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改憲問題対策法律家6団体連絡会
社会文化法律センター 共同代表理事 宮里邦雄
自由法曹団 団長 吉田健一
青年法律家協会弁護士学者合同部会 議長 上野格
日本国際法律家協会 会長 大熊政一
日本反核法律家協会 会長 大久保賢一
日本民主法律家協会 理事長 新倉修
はじめに
4月15日、衆議院憲法審査会において、「日本国憲法の改正手続きに関する法律の一部を改正する法律案」(いわゆる公選法並びの7項目改正案)(以下「7項目改正案」という。)の審議が行われた。7項目改正案は、2016年に累次にわたり改正された公職選挙法(名簿の閲覧、在外名簿の登録、共通投票所、期日前投票、洋上投票、繰延投票、投票所への同伴)の7項目にそろえて改憲手続法を改正するという法案である。
与党議員らは、審議は尽くされたなどとして、速やかな採決を求めている。これに対し、立憲民主党、共産党の委員からは、7項目改正案は、期日前投票時間の短縮や、繰延投票期日の告示期限が5日前から2日前までに短縮されているなど投票環境を後退させるものが含まれていること、憲法改正国民投票は、国民が国の根本規範を決める憲法制定権力の行使であり、本当に公選法並びでいいのかという基本的な問題があること、7項目改正案は、たとえば、洋上投票、在外投票、共通投票所、郵便投票の問題など、国民に投票の機会を十分に保障するという点で問題があり、また、CM規制、資金の上限規制、最低投票率の問題など、憲法改正国民投票の公正を保障する議論がなされていないのであるから、審議は不十分であり、採決には程遠いという意見が相次いだ。
改憲問題対策法律家6団体連絡会は、以下の理由により、7項目改正案の採決には強く反対する。
1. 憲法改正国民投票(憲法96条)は、国民の憲法改正権の具体的行使であり、最高法規としての憲法の正当性を確保する重要な手段である。参政権(憲法15条1項)の行使である選挙の投票と同列に扱えば済む、公選法「並び」でよいとするような乱暴な議論は憲法上許されない。
2016年の公職選挙法の改正は、選挙を専門とする委員会で審議され、「憲法改正国民投票の投票環境はどうあるべきか」との観点での議論は全くなされていない。
そもそも、憲法96条の憲法改正国民投票は、国民の憲法改正権の具体的行使であり、最高法規としての憲法の正当性を確保する重要な手段である。狭義の参政権である選挙の投票(憲法15条1項)とすべて同列に扱えば足りるとする議論は性質上許されない。ことは国の根本規範である憲法改正にかかわる問題であり、「公選法並び」などという本質を見誤った議論で法案採決を急ぐことは、国民から付託された憲法審査会の任務を懈怠し、その権威を自ら汚すものというべきである。
2. 7項目改正案には、国民投票環境の後退を招き、また、そのままでは国民投票ができない国民が出るなどの欠陥がある
法案提出者によれば、7項目改正案の目的は、2016年の公選法の改正法と並べることで「投票環境向上のための法整備」を行うこととされる。しかし、7項目改正案の審議は始まったばかりであり、7項目の内容には以下に例をあげるとおり、投票環境の後退を招き、あるいは国民投票の機会が保障されない国民が出てくるなどの重大な問題がある。
憲法改正国民投票は、上記の性質上、できる限り多くの国民に投票の機会が保障されなければならないし、投票環境の後退を招くことは許されない。
(1) 法案自体が、投票環境を後退させる
繰延投票の告示期日の短縮や、期日前投票の弾力的運用は、それ自体、投票環境を後退させるものである。「投票環境向上のための法整備」という立法目的にも明確に違反する。
(2) 投票できない国民が出てくる
洋上投票制度や在外投票制度は、並びの改正によって投票機会の一部については向上 が図られるものの、結局、このままでは国民投票ができない国民が出てくるため、国民 投票は実施できない。一定の国民について国民投票の機会を保障しないままの法案は、 憲法違反の疑いすらある。この不備を修正しないままで 7 項目改正案を急ぎ成立させる 必要性も合理性もないことは明らかである。
(3) 公選法の改正時には、予期できなかった事情や、公選法改選時の附則や附帯決議で必要な措置の検討などが課されている事項で投票環境の後退のおそれがある。例えば「共通投票所」の設置は、「投票所の集約合理化」=削減をもたらしているという実態がある。「共通投票所」を設けたことによって本当に「投票環境が向上」したのか、「利便性が向上」したのか、総括が必要である。また、在外投票についても、在 外投票人名簿の登録率は減少している(2009年は9.54%に対して2019年は7.14%)ことを踏まえれば、その原因を解明した上で、その対策を施した改正が必要である。
また、2016年改正後、「投票環境研究会」は郵便投票の対象者を現行の要介護5から要介護3の者に拡大することを提起している。「利便性の向上」というのであれば、主権者である国民の意思が広く適切に国民投票に反映されることが必要であり、とりわけ新型コロナの感染が拡大する中「郵便投票制度」の拡充は投票機会を保障するうえで喫緊の課題の一つである。
以上の事項については、事情変更により新たな改正や見直しの検討が必要であり、2016年の公選法改正並びの改正を行うだけでは、「投票環境の向上」にはならないか、むしろ後退させる危険性がある。これらの問題を無視して7項目改正案を成立させることは、国会議員としての怠慢以外の何ものでもない。
3. 憲法改正国民投票の結果の公正を担保する議論がなされていない
日本弁護士連合会は、2009年11月18日付け「憲法改正手続法の見直しを求める意見書」において、?投票方式及び発議方式、?公務員・教育者に対する運動規制、?組織的多数人買収・利害誘導罪の設置、?国民に対する情報提供(広報協議会・公費によるテレビ、ラジオ、新聞の利用・有料意見広告放送のあり方)、?発議後国民投票までの期間、?最低投票率と「過半数」、?国民投票無効訴訟、?国会法の改正部分という8項目の見直しを求めている。とりわけ、(?)ラジオ・テレビと並びインターネットの有料広告の問題は、国民投票の公正を担保するうえで議論を避けては通れない本質的な問題である。また、(?)運動の主体についても、企業(外国企業を含む)や外国政府などが、費用の規制もなく完全に自由に国民投票運動ができるとする法制に問題がないか、金で改憲を買う問題がないかについての議論が必須である。
7項目改正案は、以上のような国民投票の公正を担保し、投票結果に正しく国民の意思が反映されるための措置については全く考慮されていない欠陥改正法案である。結果の公正が保障されない国民投票法のもとで、国民投票は実施できない以上、7項目改正案を急いで成立させる必要性も合理性も全くないことは明らかである。
4. 憲法審査会における審査の在り方
憲法審査会(前身の調査会も含めて)の審議は、政局を離れ、与野党の立場を越えて合意(コンセンサス)に基づき進めるというのがこれまでの慣例である。憲法審査会では、多数派による強行採決は許されない。また、国民の意思とかけ離れて議論することも、もとより許されないはずである。
2017年5月に、当時の安倍首相が2020年までに改憲を成し遂げると宣言し、2018年3月に、自民党4項目の改憲案(素案)を取りまとめ、その後2018年6月に、公選法並びの7項目改正案与党らが提出している。同法案が、安倍改憲のために急ぎ間に合わせで作られたものであることは、経過から明らかである。7項目改正案を成立させることは、自民党改憲案が憲法審査会に提示される道を開く環境を整えるだけである。
今、国民は憲法改正議論を必要と考えていない。7項目改正案を急ぎ成立させることは、国民の意思ではない。
以上
(2021年4月19日)
「苛政は虎よりも猛し」という。無能無策な政治も「苛政」と言わざるを得ない。アベ・スガ政権の無為無策ぶりもさることながら、今や東京都と大阪府、東西両都の為政者の無策の責任が誰の目にも明らかになってきた。両知事の無能ぶり、兄たり難く弟たり難いのだ。無能な政治家を首長に選んだ民主主義の劣化が、「虎よりも猛々しい」コロナ猖獗の事態を招いている。
まずは、東京都知事小池百合子である。この人の『東京に来ないでください』発言には驚いた。驚きながらも、いかにもこの人らしいとも思った。「排除します」というあの発言を思い出したからだ。
この人、相変わらずの上から目線。その姿勢が言葉に表れる。『東京に来ないでください』は、コロナは東京の外から持ち込まれるもので、東京から外へコロナが伝播しているという発想はない。これまでの都民に対する「都県境を越える外出自粛」要請も、『来ないで』と同様に、聖なる内側と邪悪な外側の二元論。「排除します」と思わず口に出た思想と通底する。「今はお互いに我慢して、往き来を控えましょう」という言葉にはならないのだ。
「無信不立(信なくば立たず)」である。為政者に対する民衆の信頼がなければ、政治は成り立たない。同じ言葉も、発する人が信頼に足りなければ効果はない。「排除します」とのたもうた小池百合子の『東京に来ないでください』である。これで、コロナの終熄に向かうとはとうてい思えない。もっと真剣で切実な説明と訴えが必要なのだが、この人にはもう無理だろう。
次いで、大阪府知事の吉村洋文。昨日(4月18日(日))発表された、大阪府の新型コロナウイルスの新たな感染者は1220人。全国に例を見ない突出した深刻な事態。感染者数だけでなく、医療体制はもはや逼迫の段階ではなく崩壊に至っているとの報道もある。公式発表でも、府内の重症患者専用の病床248床に対して、4月18日現在の重症患者数が286人と、100%を大きく上回っている。
以下は、維新府政と厳しく切り結んでいる徳岡宏一朗弁護士の4月16日付ブログからの抜粋引用である。私も、まったくこのとおりだと思う。
イソジンいや維新の会の吉村大阪府知事は2021年4月16日、大阪府内で新たに1209人が新型コロナウイルスに感染したことが確認されたと発表しました。
これは1日の感染者数としては、昨日15日の1208人を上回ってこれまでで最も多く、4日連続で1000人を超えました。これで、大阪府内の感染者はあわせて6万5591人になりました。
大阪ではすでに重症者用ベッドがあふれて完全に医療崩壊にまたなっているのですが、感染者増の2週間後に増加する死者数もとうとう増え始め、今日は二けた、16人の死亡が確認され、これで大阪府内で亡くなった人は1254人になりました。
日本で一番遅く緊急事態宣言を要請し、一番早くに解除した維新の吉村大阪府知事。また日本で一番感染者が多くなって(600人)、日本一早く「まん防」要請という日本一の無能政治家。
という記事を書いたのですが、それから半月経過して、感染者の数が倍になり事態は悪化する一方です。
政治は結果がすべてで、それは吉村氏自身が何度も明言してきたところでもあるのですが、この知事はこれだけひどい結果を出し続けているのに、いったいいつ辞めてくれるんでしょうか。
どれだけ危ない目に遭ったら、大阪市民とマスメディアは吉村維新批判を始めるのでしょうか。それにしても、全く、大阪ワクチンとかイソジンでうがいとか、この人が記者会見して何度もアピールしてきた話はどこに行ったんだか。
さらに、小池・吉村の両者に対する批判の事実を摘示する毎日新聞記事を引用しておきたい。
11都府県で1月から再発令された新型コロナウイルスに関する緊急事態宣言に合わせ、営業時間の短縮要請に応じた飲食店への協力金の支給が一部で大幅に遅れている。毎日新聞が対象自治体にアンケートしたところ、3月末までの支給率は京都府、大阪府、東京都が2割台で、飲食店からは悲鳴が上がっている。
アンケートは11都府県を対象に実施。最初の約1カ月分について各都府県が集計した時短協力金の申請件数と支給状況を聞いたところ、3月末までの支給率は京都府が20%、大阪府が26%、東京都が29%。一方、福岡県は100%、埼玉県は8割台、神奈川県と千葉県は6割台で、首都圏でも支給状況に格差がみられた。
大阪府26%、東京都29%が、堂々のワーストスリー入りである。やる気がないのか、能力に欠けるのか、住民の気持ちが分からないのか。いずれにしても、虎を野に放置してはおけない。さらに猛々しいという苛政はなおさらのことである。早急に何とかしないと、都民も府民もコロナ禍の猖獗に呑み込まれかねない。
(2021年4月18日)
「白い土地」を読んだ。集英社からの出版だが、朝日新聞(南相馬支局)の現役記者・三浦英之の著書である。「ルポ 福島『帰還困難区域』とその周辺」という副題がついている。
タイトルの『白い土地』とは、「白地」(「東京電力福島第一原発が立地する福島県大熊町などで使われている隠語」)に由来し、「放射線量が極めて高く住民の立ち入りが厳しく制限されている帰還困難区域の中でも将来的に居住の見通しが立たないエリア」を指すという。その言葉どおり、原発事故10年後の『帰還困難区域』のあまりにも厳しい現実の報告である。
朝日にも、この著者のような、行動的で、権力や権威に屈しない、そして体制が作った行儀を弁えない記者のいることがまことに頼もしい。
とりわけ、浪江町長だった馬場有への3度のインタビューを内容とする「ある町長の死」の章は出色で、ここから読み始めることをお薦めする。
事実上の最終章が、「聖火ランナー」である。
聖火リレーのルートが発表されたのは、2019年12月17日だったという。まだ、コロナの感染者のなかったころのことだ。「復興五輪」の聖火リレーは福島から始まる。著者は、その翌日、原発事故で避難区域が設定された11市町村のルートを自分の足で歩いてみたという。
歩くたびに違和感が募るった。そこからは何も「見えない」。事故を起こした福島第一原発も、仮置き場に積み上げられている汚染土を詰め込んだフレコンバッグの山々も、人の手が入らずに朽ち果てそうな帰還困難区域の古い民家も、原発や東電に抗議する立て看板も、原発被災地で暮らしていれば当然目にする日常的な「風景」がそこからは一切視界に入らないようになっているのだ。
著者はこれを「復興の光」だけを発信して、「復興の影」を隠蔽したい為政者や大会主催者の意思を雄弁に物語るものという。
そして、この著書の最終版で、記者は現地を訪れた安倍晋三に質問をする。本来、ぶら下がりの記者会見に参加できるのは、東京から随行してくる官邸記者クラブの総理番記者だけで、地元の記者は質問はおろか、参加すらできないという。それでも、彼は敢えて、「ルール違反」の一問を発する。その場面だけは、引用しておきたい。
私は咄嗟に自分が一番聞きたい質問を脳内に探し、最高責任者へとぶつけた。
「ここ福島でオリンピックが開かれます。安倍総理はオリンピックを招致する際、第1原発は『アンダーコントロールだ』と言いました。今でも『アンダーコントロール』だとお考えでしょうか」
それは私だけでなく、福島県沿岸部で暮らす人であればきっと誰もが疑問に感じている質問だった。安倍は2013年9月、アルゼンチン・ブェノスアイレスで聞かれたIOC総会で、東京電力福島第一原発を「アンダーコントロール」と表現し、東京オリンピックを誘致していた。
その会場で彼はこう言い放った。
「福島については私から保証いたします。状況は『アンダーコントロール』です。東京には、いかなる悪影響にしろ、これまで及ぼしたことはなく、今後とも、及ぼすことはありません」
それが明確な「嘘」であることを福島の沿岸部に暮らす人々は完全に見抜いていた。原発事故からどれだけ年月が過ぎ去っても、人々の心配事は常に廃炉作業が続けられている福島第一原発の安全性であり続けてきたからである。頻繁にニュースで取り上げられる汚染水の問題だけではない。原発建屋はすでに津波で大きな被害を受けている。その「壊れた原発」が次なる地震や津波に耐えられるのか…
私はいつからかこの「アンダーコントロール」という言葉こそが今の福島を苦しめ続けている元凶ではないか ー もっと踏み込んで言えば、今の福島の現状は「アンダーコントロール」という言葉によってコントロールされているのではないか ー と考えるようになった。先の戦争でも「全滅」を「玉砕」、「敗戦」を「終戦」と言い換え、為政者たちの責任を曖昧にしてやり過ごしてきたように、今まさに壊れた原発を「アンダーコントロール」と呼び、東京オリンピックを「復興五輪」と言い換えることによって、政府は被災地の不平を相互批判の目で封じ、福島を国民の団結の象徴として東京オリンピックの開催に利用しようとしている。聖火リレーのスタート直前に内閣総理大臣がこの原発近接地を訪問することは、その象徴と呼べる出来事ではなかったか ー。
「まさにそうした発信をさせていただきました」
事前通告のない記者からの質問は随分と久しぶりだったのだろう、安倍は私の質問に一瞬怪訝そうな顔を見せたが、すぐさま表情を元に戻し、「台本」にはないたどたどしい口調でテレビカメラに向かって「アンダーコントロール発言」についての持論を訥々と話し始めた。
「いろいろな報道がございました。間違った報道(傍点は著者)もあった。その中で正確な発信を致しました。そしてその上においてオリンピックの誘致が決まったものと思います」
間違った報道……? 私は一瞬、自分の耳を疑った。
彼の発言はつまりはこういうことらしかった。福島第一原発の現状を伝える一部の報道は「間違い」である。その中で自らが発信した「アンダーコントロール」という表現が正しいのであり、それによって東京オリンピックを誘致できたー彼は本当にそう信じているらしいのだ。
その事実に私は驚き、混乱と困惑ですぐには正しい思考ができなくなった。それはあまりも稚拙で、独善的で、同時に危険な認識であるように私には思えた。
彼自身が第一原発をアンダーコントロールだと思い込んでしまえば、この地に暮らす人々の日常や不安はその思い込みに覆い隠されて見えなくなる。本来為政者が真っ先に取り組むべき廃炉や帰還などの政策が大幅に遅滞する悪夢へとつながっていく…
情報の不足と浅薄な思慮がもたらす、最高権力者の思い込みは恐ろしい。原発問題だけではない。新型コロナ対策についても、歴史認識についても、安全保障政策についても、国際関係についても、経済政策についても、そして憲法改正問題についても。
(2021年4月17日)
菅義偉がバイデンに呼びつけられて、いそいそとワシントンに出向いている。歴代こういう行事が繰り返され、日本の政権と国民は、その都度あらためて主従関係の存在を再認識させられる。さながら、これは参勤交代である。
幕藩体制においては、諸藩の大名も将軍には忠誠を見せなくてはならない。そのための制度として、参勤交代があった。正確には「参覲交代」と表記するのだという。「参」は「まいる」、「覲」は「まみえる」と訓で読む。どちらも身分上位者への謙譲の語である。菅のバイデン詣では、まさしく「参覲」である。でなければ、「朝貢」。あるいは、上司へのご挨拶。
呼びつけたバイデンと、呼びつけられた菅は、ワシントンで16日午後(日本時間17日朝)会談し、共同声明を発表した。共同声明の項目は実に多岐にわたっている。基本は、アメリカ側の要請に日本が従ったというものだが、日本側の要望をアメリカが容れたものもあるようだ。
概要は、次のように報道されている。
両首脳は中国の軍事的行動により緊張が高まる台湾情勢について意見交換し、会談後、「台湾海峡の平和と安定の重要性」を明記した共同声明を発表した。中国の東シナ海や南シナ海での海洋進出について「力による現状変更の試み、他者に対する威圧に反対する」との認識で一致。声明で香港と新疆ウイグル自治区の人権問題への「深刻な懸念」も盛り込んだ。
会談では気候変動問題で日米の協力強化を図る「日米気候パートナーシップ」を立ち上げることで一致。脱炭素化に向け、日米で世界をリードしていく方針を確認した。
首相は今夏の東京オリンピック・パラリンピックを「世界の団結の象徴」として開催する意向を示し、バイデン氏は支持を表明。
首相は会見で、共同声明を「今後の日米同盟の羅針盤になる」と述べた。声明では両首脳が「台湾海峡の平和と安定の重要性を強調するとともに両岸問題の平和的解決を促す」と明記した。(毎日)
米中両大国の狭間に位置する日本が、より強力にアメリカ側に組み込まれた印象である。集団的自衛権の行使が現実味を帯びる事態となりかねない。これまでも、日本国憲法体系は、安保法体系の膝下に封じ込められていると評されてきた。今後はさらに事態の深刻化が予想される。
「新たな時代における日米グローバル・パートナーシップ」と名付けられた、長文の日米首脳共同声明の中の気になる個所を抜粋してみる。
日本は同盟及び地域の安全保障を一層強化するために自らの防衛力を強化することを決意した。
米国は、核を含むあらゆる種類の米国の能力を用いた日米安全保障条約の下での日本の防衛に対する揺るぎない支持を改めて表明した。
米国はまた、日米安全保障条約第5条が尖閣諸島に適用されることを再確認した。
日米両国は共に、尖閣諸島に対する日本の施政を損おうとするいかなる一方的な行動にも反対する。
日米両国は、困難を増す安全保障環境に即して、抑止力及び対処力を強化すること、サイバー及び宇宙を含む全ての領域を横断する防衛協力を深化させること、そして、拡大抑止を強化することにコミットした。
日米両国は、普天間飛行場の継続的な使用を回避するための唯一の解決策である、辺野古における普天間飛行場代替施設の建設、馬毛島における空母艦載機着陸訓練施設、米海兵隊部隊の沖縄からグアムへの移転を含む、在日米軍再編に関する現行の取決めを実施することに引き続きコミットしている。
日米両国は、在日米軍の安定的及び持続可能な駐留を確保するため、時宜を得た形で、在日米軍駐留経費負担に関する有意義な多年度の合意を妥結することを決意した。
菅総理とバイデン大統領は、インド太平洋地域及び世界の平和と繁栄に対する中国の行動の影響について意見交換するとともに、経済的なもの及び他の方法による威圧の行使を含む、ルールに基づく国際秩序に合致しない中国の行動について懸念を共有した。
日米両国は、東シナ海におけるあらゆる一方的な現状変更の試みに反対する。
日米両国は、南シナ海における、中国の不法な海洋権益に関する主張及び活動への反対を改めて表明するとともに、国際法により律せられ、国連海洋法条約に合致した形で航行及び上空飛行の自由が保証される、自由で開かれた南シナ海における強固な共通の利益を再確認した。
日米両国は、台湾海峡の平和と安定の重要性を強調するとともに、両岸問題の平和的解決を促す。
日米両国は、香港及び新疆ウイグル自治区における人権状況への深刻な懸念を共有する。
予想のとおり、中国はこの共同声明に直ちに反発した。
【北京・共同】在米中国大使館の報道官は17日、日米首脳会談後に発表した共同声明で台湾や香港、新疆ウイグル自治区に関する問題などを盛り込んだことについて「強烈な不満と断固反対を表明する」との談話を出した。
また、これも当然のことながら台湾は歓迎している。
台湾、日米共同声明を歓迎 中国に情勢安定への貢献期待
【ワシントン・ロイター】台湾は、日米首脳が共同声明で「台湾海峡の平和と安 定の重要性」明記したことを歓迎し、中国に責任ある行動を呼び掛けた。台湾総統府の報道官は声明で「われわれは、台湾海峡および地域の一員として中国当局が自らの責任を果たし、安定と幸福に共に前向きな貢献をすることを期待する」と述べた。
日本の周囲の国際関係は、さらに緊張度を高めることになろう。今以上に、憲法9条のリアリティが問われることになる。
(2021年4月16日)
漁民のみならず福島県民の反対を押し切って、東京電力福島第1原発の敷地内に貯蔵されている「汚染水」が海洋放出されることになった。海洋の汚染は、国際問題でもある。けっして、どこの国の原発もやっていると安易な問題にしてはならない。
全漁連の会長が、「絶対に反対」「この立場にいささかの揺るぎもない」と言っている。一昔前は、農村も漁村も保守の地盤だった。今や、農民も漁民もバカバカしくって自民党の支持などやってはおられない。こういう事件を通して、政権与党が誰の味方なのか、あぶり出されてくるのだ。
東京電力は2015年に福島県漁業協同組合連合会(県漁連)に対し、「関係者の理解なしには、いかなる処分も行わない」と「約束」していた。が、この約束は、あっさりと破られ水に流された。流され失われたものは、汚染水と約束だけではなく、国家への信頼であり、自民党への支持でもある。
国もメディアも、問題は「風評被害」だと言う。漁民や沿岸地域の被害は、実態のない「風評」に過ぎないと決めてかかっているのだ。
つまり、排出される汚染水とは、トリチウム以外の核種を含まない。そのトリチウムの毒性は弱い。しかも、安全基準の40分の1の濃度に希釈して、30年?40年かけて徐々に排出するのだから騒ぐ方がおかしい、と言わんばかり。麻生などは「飲んでもなんてことはないそうだ」と調子に乗っているが、放射性物質に汚染された水を海洋に捨てて本当に大丈夫なはずはない。
実は、排出される汚染水には、トリチウム以外の核種も含まれている。そして、どうしても除去しきれないトリチウムの人体への影響は未知というべきなのだ。
現在、貯留されている汚染水量は約120万?。この中に、約860兆ベクレルのトリチウムだけでなく、セシウム137、セシウム134、ストロンチウム90、ヨウ素129などの放射性物質が残留し、7割以上のタンクの水が安全基準を超えている(原子力市民委員会)。
政府・東電はこれを認めた上で、ALPSで再処理をしてトリチゥム以外の核種を除去して海洋放出を実行するという。えっ? なんですと。一度ALPSを通して除去できず、汚染水に残った核種が、再処理すればなくなるというのか。本当だろうか。
「東京電力が2020年12月24日に公表した資料によると、処理水を2次処理してもトリチウム以外に12の核種を除去できないことがわかっています。2次処理後も残る核種には、半減期が長いものも多く、ヨウ素129は約1570万年、セシウム135は約230万年、炭素14は約5700年です」
「ALPS処理水と、通常の原発排水は、まったく違うものです。ALPSでも処理できない核種のうち、11核種は通常の原発排水には含まれない核種です。通常の原発は、燃料棒は被膜に覆われ、冷却水が直接、燃料棒に触れることはありません。でも、福島第1原発は、むき出しの燃料棒に直接触れた水が発生している。処理水に含まれるのは、“事故由来の核種”です」(自民党処理水等政策勉強会・山本拓議員)
第1原発敷地内のタンクに貯蔵されている汚染水の7割には、ALPSで除去できないトリチウム以外にも、規制基準以上の放射性物質が残っている。この事実が18年に発覚するまで、政府と東電は「トリチウム以外は除去できている」と言って、国民を欺いてきた。透明性は希薄である。信頼性は著しく低い。
ここで頼みの綱となるALPS(汚染水を浄化処理する多核種除去設備=ALPS)だが、実は2013年に東電が導入後、現在まで8年間も「試験運転」のままなのだという。いったいどういうことだ。
4月14日の参院資源エネルギー調査会で、共産党の山添拓議員が問題を取り上げた。「トリチウム以外は除去できているのか」と追及。新川達也経産省審議官は「タンクにためた水の約7割には、トリチウム以外にも規制基準値以上の汚染物質が残っている」と認めた。
また山添は、アルプス処理施設が2013年の稼働開始後、法律で求められる検査がされていないのではと質問。原子力規制委員会の更田豊志委員長は「使用前検査の手続きを飛ばしているところがある」と答えている。政府は海洋放出を「安全」と喧伝するが、それはALPSが願望のとおりの除去作用あってのこと。その“頼みの綱”の性能はまだ「確認中」。ハッキリしてはいない。これが、アンダーコントロールの正体なのだ。