69年前の今日、国民すべての運命を翻弄した戦争が終わった。法的にはポツダム宣言受諾の14日が無条件降伏による戦争終結の日だが、国民の意識においては8月15日正午の天皇のラジオ放送による敗戦の発表の記憶が生々しい。
神風吹かぬままに天皇が唱導した聖戦が終わった日。負けることはないとされた神国日本のマインドコントロールが破綻した日。そして、主権者たる国民の覚醒第1日目でもあった。
69年を経た今日。当時の天皇の長男が現天皇として、政府主催の全国戦没者追悼式で次のように述べている。
「ここに歴史を顧み、戦争の惨禍が再び繰り返されないことを切に願い、全国民と共に、戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対し、心から追悼の意を表し、世界の平和と我が国の一層の発展を祈ります。」
どうしても違和感を禁じ得ない。
「戦争の惨禍が再び繰り返されないことを切に願い」はいただけない。戦争は自然現象ではない。洪水や飢饉であれば「再び繰り返されないことを切に願い」でよいが、戦争は人が起こすもので必ず責任者がいる。憲法前文のとおりに、「ふたたび政府の行為によって戦争の惨禍が繰り返されないことを切に願い」というべきだった。「心から追悼の意を表し」は、まったくの他人事としての言葉。天皇制や天皇家の責任が少しは滲み出る表現でなくては不自然ではないか。
また、なによりも、どのように「ここに歴史を顧み」ているのか、忌憚のないところを聞いてみたいものだ。
たまたま本日、憲法会議から、「憲法運動」通巻432号が届いた。私の論稿が掲載されたもの。《憲法運動・憲法会議50年》シリーズの第4号。時事ものではなく、今の目線でこれまでの憲法運動を振り返るコンセプトの論稿である。昨年暮れの首相靖国参拝(12月26日)の直後に書いた原稿だが、わけありで掲載が遅れた。そのための加筆もでき、はからずも終戦記念日の今日の配送となったのは、結果として良いタイミングに落ちついたと思う。
その拙稿から「歴史を顧みる」に関連する一節を引用したい。
「日本国憲法は、一面普遍的な人類の叡智の体系であるが、他面我が国に固有の歴史認識の所産でもある。日本国憲法に固有の歴史認識とは、「大日本帝国」による侵略戦争と植民地支配の歴史を国家の罪悪とする評価的認識をさす。
アジア・太平洋戦争の惨禍についての痛恨の反省から日本国憲法は誕生した。このことを、憲法自身が前文で「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する」と表現している。憲法前文がいう「戦争の惨禍」とは、戦争がもたらした我が国民衆の被災のみを意味するものではない。むしろ、旧体制の罪科についての責任を読み込む視点からは、近隣被侵略諸国や被植民地における大規模で多面的な民衆の被害を主とするものと考えなければならない。
このような歴史認識は、必然的に、加害・被害の戦争責任の構造を検証し、その原因を特定して、再び同様の誤りを繰り返さぬための新たな国家構造の再構築を要求する。日本国憲法は、そのような問題意識からの作業過程をへて結実したものと理解しなければならない。現行日本国憲法が、「戦争の惨禍」の原因として把握したものは、究極において「天皇制」と「軍国主義」の両者であったと考えられる。日本国憲法は、この両者に最大の関心をもち、旧天皇制を解体するとともに、軍国主義の土台としての陸海軍を崩壊せしめた。国民主権原理の宣言(前文・第1条)と、平和主義・戦力不保持(9条1・2項)である。」
ところで、本日の戦没者追悼式には、「天皇制の残滓」のほかにもう一人の主役がいる。「新たな軍国主義」を象徴する安倍晋三首相。7月1日集団的自衛権行使容認の閣議決定後初めての終戦記念日にふさわしく、彼は過去の戦争の加害責任にも将来の不戦にも触れなかった。「自虐史観」には立たないことを公言したに等しい。
その彼の式辞の一節である。
「歴史に謙虚に向き合い、その教訓を深く胸に刻みながら、今を生きる世代、そして、明日を生きる世代のために、国の未来を切り拓いてまいります。世界の恒久平和に、能うる限り貢献し、万人が、心豊かに暮らせる世の中の実現に、全力を尽くしてまいります。」
私にはこう聞こえる。
「歴史に謙虚に向き合えば、強い軍事力を持たない国は滅びます。その教訓を深く胸に刻みながら、ひたすら精強な軍隊を育て同盟軍との絆を堅持することによって、今を生きる世代、そして、明日を生きる世代のために、北朝鮮にも中国にも負けない強い国の未来を切り拓いてまいります。そうしてこそ世界の恒久平和に能うる限り貢献することができ、日本の国民が他国から侮られることなく、億兆心一つに豊かに暮らせる日本となるのです。その実現に、全力を尽くしてまいります。」「それこそが、戦後レジームから脱却して本来あるべき日本を取りもどすということなのです。」
来年は終戦70周年。こんな危険な首相を取り替えての終戦記念日としなくてはならない。
(2014年8月15日)
戦争の惨禍を思い起こすべき8月も、天候不順のまま半ばに至っている。明日は終戦記念の日。
戦争が総力戦として遂行された以上、戦争を考えることは国家・社会の総体を考えることでもある。政治・軍事・経済・思想・文化・教育・メディア・地域社会・社会意識・宗教・政治運動・労働運動…。社会の総体を「富国・強兵」に動員する強力な装置として天皇制があった。8月は、戦争の惨禍とともに、天皇の責任を考えなければならないときでもある。
本日、「靖国・天皇制問題情報センター」から月刊の「センター通信」(通算496号)が届いた。「ミニコミ」というにふさわしい小規模の通信物だが、一般メディアでは取りあげられない貴重な情報や意見であふれている。
巻頭言として横田耕一さんの「偏見録」が載る。毎号、心してこの辛口の論評を読み続けている。今号で、その42となった。そのほかにも、今日の天皇制の役割を考えさせる記事が多い。
今号のいくつかの論稿に、天皇と皇后の対馬丸祈念館訪問が取りあげられている。初めて知ることが多い。たとえば、次のような。
「戦時遭難船舶遺族会は、『小桜の塔』と同じ公園内にある『海鳴りの像』への(夫妻の)訪問をあらかじめ要請していたが、断られた。海上で攻撃を受けた船舶は、対馬丸以外に25隻あり、犠牲音数は約2千人といわれている。なぜこのような違いが生じるのだろうか。」
『小桜の塔』は対馬丸の「学童慰霊塔」として知られる。しかし、疎開船犠牲は対馬丸(1482名)に限らない。琉球新報は、「25隻の船舶に乗船した1900人余が犠牲となった。遺族会は1987年、那覇市の旭ケ丘公園に海鳴りの像を建てた。対馬丸の学童慰霊塔『小桜の塔』も同公園にある」「太平洋戦争中に船舶が攻撃を受け、家族を失った遺族でつくる『戦時遭難船舶遺族会』は、(6月)26、27両日に天皇と皇后両陛下が対馬丸犠牲者の慰霊のため来県されるのに合わせ、犠牲者が祭られた『海鳴りの像』への訪問を要請する」「対馬丸記念会の高良政勝理事長は『海鳴りの像へも訪問してほしい。犠牲になったのは対馬丸だけじゃない』と話した」と報じている。
しかし、天皇と皇后は、地元の要請にもかかわらず、対馬丸関係だけを訪問して、『海鳴りの像』への訪問はしなかった。その差別はどこから出て来るのか。こう問いかけて、村椿嘉信牧師は次のようにいう。
「対馬丸の学童の疎開は当時の日本政府の決定に基づくものであるとして、沖縄県遺族連合会は、対馬丸の疎開学童に対し授護法(「傷病者戦没者遺族等授護法」)の適用を要請し続けてきたが、実現しなかった。しかし1962年に遺族への見舞金が支給され、1966年に対馬丸学童死没者全員が靖国神社に合祀された。1972年には勲八等勲記勲章が授与された。つまり天皇と皇后は、戦争で亡くなったすべての学童を追悼しようとしたのではなく、天皇制国家のために戦場に送り出され、犠牲となり、靖国神社に祀られている戦没者のためにだけ、慰霊行為を行ったのである。」
また、次のような。
「天皇の来沖を前にして、18日に、浦添市のベッテルハイムホールで、『「天皇制と対馬丸」シンポジウム』が開催されたが、その声明文の中で、「私たちは慰霊よりも沖縄戦を強要した昭和(裕仁)天皇の戦争責任を明仁天皇が謝罪することを要求する。さらに『天皇メッセージ』を米国に伝えて沖縄人民の土地を米軍基地に提供した責任をも代わって謝罪することを要求する。明仁天皇は皇位を継承しており、裕仁天皇の戦争責任を担っている存在にあるからである。そうでなければ、天皇と日本国家は、これらの責任を棚上げして、帳消しにすることになるからである」と表明している。このような声が出てくるのは、当然のことであろう。」
また、村椿は、キリスト者らしい言葉でこう述べている。
「多くの人たちを戦場に送り出し、その人たちの生命を奪った人物が、みずからの責任を明らかにせず、謝罪をせず、処罰を受けることなしに、その人たちの「霊」を「慰める」ことができるのだろうか。そのようなことを許してよいのだろうか」
沖縄の戦争犠牲者遺族の中に、天皇・皇后の訪問を拒絶する人だけでなく、歓迎する人もいる現実に関して、村椿はこう感想を述べている。
「奴隷を抑圧し、過酷な労働を課した主人が奴隷にご褒美を与えることによって、奴隷を満足させようとしている。奴隷がそのご褒美を手に入れて満足するなら、奴隷はいつまでたっても奴隷のままであり、主人はいつまでも奴隷を支配し続けるだろう。」
同感する。天皇制とは、天皇と臣民がつくる関係。これは、奴隷と奴隷主の関係と同じだ。奴隷主は、奴隷をこき使うだけではない。ときには慰撫し、ご褒美も与える。奪ったもののほんの一部を。これをありがたがっているのが、奴隷であり、臣民なのだ。
いま、われわれは主権者だ。奴隷でも、臣民でもない。だが、天皇制はご褒美をくれてやる姿勢を続け、これをありがたがる人も少なくない。慰撫やご褒美をありがたがる臣民根性を払拭しよう。戦後69年目の夏、あらためてそのことを確認する必要がありそうだ。
(2014年8月14日)
8月9日、「祈りの長崎」に、国民すべてが、いや世界の人々が、ともに頭を垂れ心を寄せるべき日。
その「長崎原爆の日」の今日、平和祈念式典が行われ、田上富久市長の平和宣言が集団的自衛権に触れた。つぎのとおりである。
「いまわが国では、集団的自衛権の議論を機に、「平和国家」としての安全保障のあり方についてさまざまな意見が交わされています。
長崎は「ノーモア・ナガサキ」とともに、「ノーモア・ウォー」と叫び続けてきました。日本国憲法に込められた「戦争をしない」という誓いは、被爆国日本の原点であるとともに、被爆地長崎の原点でもあります。
被爆者たちが自らの体験を語ることで伝え続けてきた、その平和の原点がいま揺らいでいるのではないか、という不安と懸念が、急ぐ議論の中で生まれています。日本政府にはこの不安と懸念の声に、真摯に向き合い、耳を傾けることを強く求めます。」
市長の発言である。安倍首相の面前でこれだけのことを言ったと評価すべきだろう。また、安倍首相を前にしてこれを言わなければ、何のための平和祈念式典か、と問われることにもなろう。
圧巻は、被爆者代表の城臺美彌子さんの発言。ネットで複数の「全文文字化」が読める。ありがたいことと感謝しつつ、その一部を転載させていただく。
「山の防空壕からちょうど家に戻った時でした。おとなりの同級生、トミちゃんが、『みやちゃーん、遊ぼう』と外から呼びました。その瞬間、キラッ!と光りました。
その後、何が起こったのか、自分がどうなったのか、何も覚えておりません。暫く経って、私は家の床下から助け出されました。外から私を呼んでいたトミちゃんは、その時何の怪我もしていなかったのに、お母さんになってから、突然亡くなりました。
たった一発の爆弾で、人間が人間でなくなる。たとえその時を生き延びたとしても、突然に現れる原爆症で、多くの被爆者が命を落としていきました。
原爆がもたらした目に見えない放射線の恐ろしさは、人間の力ではどうすることもできません。今強く思うことは、この恐ろしい、非人道的な核兵器を、世界から一刻も早く、なくすことです。
そのためには核兵器禁止条約の早期実現が必要です。被爆国である日本は世界のリーダーとなって、先頭に立つ義務があります。しかし、現在の日本政府はその役割を果たしているのでしょうか。今進められている集団的自衛権の行使容認は、日本国憲法を踏みにじった暴挙です。
日本が戦争ができる国になり、日本の平和を武力で守ろうと言うのですか。武器製造、武器輸出は戦争への道です。一旦戦争が始まると、戦争が戦争を呼びます。歴史が証明しているではありませんか。
日本の未来を担う若者や、子どもたちを脅かさないで下さい。平和の保障をしてください。被爆者の苦しみを忘れ、なかったことにしないで下さい。
福島には、原発事故の放射能汚染で、未だ故郷に戻れず、仮設住宅暮らしや、よそへ避難を余儀なくされている方々が大勢おられます。小児甲状腺がんの宣告を受けて、怯え苦しんでいる親子もいます。
このような状況の中で、原発再稼働、原発輸出、行っていいのでしょうか。使用済み核燃料の処分法もまだ未解決です。早急に廃炉を検討して下さい。
被爆者は、サバイバーとして残された時間を命がけで語り継ごうとしています。小学1年生も、保育園生さえも、私たちの言葉をじっと聞いてくれます。このこと、子どもたちを、戦場へ送ったり、戦火に巻き込ませてはならないという思い、いっぱいで語っています。
長崎市民の皆さん、いいえ、世界中のみなさん。再び、愚かな行為を繰り返さないために、被爆者の心に寄り添い、被曝の実相を語り継いで下さい。
日本の真の平和を求めて、共に歩きましょう。私も被爆者の一人として、力の続く限り、被爆体験を伝え残していく決意を、皆様にお伝えして、私の平和への誓と致します。」
この凄まじい迫力。安倍晋三の耳にはどう響いたか。
この日の式典でも安倍は挨拶文を読み上げた。それが、中ごろを除いて、昨年と同じ。今はやりのコピペだと指摘されている。
さすがに、昨年の「せみしぐれが今もしじまを破る」は、今年はなかったという。「式典は昨年は炎天下だったが、今年は雨の中だった。」から(朝日コム)。
6日の広島市での平和記念式典の安倍首相の挨拶文を「昨年のコピペ」と指摘したメーリングリストでの投稿にその日の内に接した。そういうことに気づく人もいるのだと感心していたら、各紙の社会面ネタになって拡散した。これでは、長崎は書き下ろしで行くのだろうと思ったが、さすが安倍晋三、すごい心臓。長崎でもコピペを繰り返した。今年の流行語大賞は「コピペ」で決まりではないか。安倍には、「コントロール」と「ブロック」に加えて、「コピペ」も、イメージフレーズとして定着した。
コピペは、借り物、使い回しの文章。抜け殻で、装いだけの文章。かたちだけを整えたもので、魂のないスピーチ。安倍晋三は、広島も長崎でも、そんなコピペの文字の羅列を読みあげればよいと考えたわけだ。
かたや、自らの体験と情念が吹き出した言葉の迫力。こなた、コピペのごまかし。それでも、支配しているのは迫力に欠けた薄っぺらのコピペ側なのだ。複雑な思いとならざるを得ない。
(2014年8月9日)
お招きいただき、発言の場を与えていただたことに感謝いたします。本日は、学生・生徒に接する立場の方に、私なりの憲法の構造や憲法をめぐる状況について、お話しをさせていただきます。
ご依頼のテーマが、「自民党の改憲草案を読み解く」ということです。この改憲草案は、安倍自民党の目指すところを忌憚なくあけすけに語っているという、その意味でたいへん貴重な資料だと思います。そして、同時に恐ろしい政治的目標であるとも思います。
この草案の発表は、2012年4月27日でした。4月27日は、日本が敗戦処理の占領から解放されたその日。この日を特に選んで公表された草案は、「自主憲法制定」を党是とする自民党による「現行日本国憲法は占領軍の押し付け憲法として原理的に正当性を認めない」というメッセージであると、読み取ることができます。
押し付けられた結果、現行憲法は内容にどのような欠陥があるのか。彼らは、「日本に固有の歴史・伝統・文化を反映したものとなっていない」と言います。これは、一面において、人類の叡智が到達した普遍的原理を認めないという宣言であり、他面、「固有の歴史・伝統・文化」という内実として天皇制の強化をねらうものです。
天皇という神聖な権威の存在は、これを利用する為政者にとって便利この上ない政治的な道具です。国家や社会の固定的な秩序の形成にも、現状を固定的に受容する国民の保守的心情の涵養にも有用です。民主主義社会の主権者としての成熟の度合いは、国王や皇帝や天皇などの権威からどれほど自由であるかではかられます。自民党案は、天皇利用の意図であふれています。
この草案は、なによりも日本国憲法への攻撃の全面性を特徴としています。「全面性」とは、現行憲法の理念や原則など大切とされるすべての面を押し潰そうとしていることです。
日本国憲法の構造は次のように理解されます。日本国憲法の3大原則は、3本の柱にたとえられます。国民主権、基本的人権の尊重、そして恒久平和主義。この3本の柱が、立憲主義という基礎の上にしっかりと立てられています。
堅固な基礎と3本の柱の骨組みで建てられた家には、国民の福利という快適さが保障されます。いわば、国民のしあわせが花開く家。それが現行日本国憲法の基本設計図です。今、自民党の改憲草案は、そのすべてを攻撃しています。
まず、基礎となっている立憲主義を堀り崩して、これを壊そうとしています。つまりは、憲法を憲法でなくそうとしているということです。国家権力と個人の尊厳とが厳しい対抗関係に立つことを前提として、個人の尊厳を守るために国家権力の恣意的な発動を制御するシステムとして憲法を作る。これが近代立憲主義。草案は、このような立ち場を放棄しようとしています。
現行憲法の前文は、こう書き出されています。
「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。」
主権者である国民が憲法を作り、憲法に基づく国をつくるのですから、当然のこととして国民が主語になっています。
ところが草案の前文の冒頭は次の一節です。
「日本国は、長い歴史と固有の文化を持ち、国民統合の象徴である天皇を戴く国家であって、国民主権の下、立法、行政及び司法の三権分立に基づいて統治される。」
国民ではなく、いきなり日本国が主語になっている。国民に先行して国家というものの存在があるという思考パターンの文章です。
国民が書いた、「権力を担う者に対する命令の文書」というのが憲法の基本的性格です。ですから命令の主体である国民に憲法遵守義務というものはありえない。憲法遵守義務は「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ」(99条)と定められています。
これを立憲主義の神髄と言ってよいでしょう。
草案ではどうなるか。
第102条(憲法尊重擁護義務)「全て国民は、この憲法を尊重しなければならない」となります。主権者である国民から権力者に対する命令書という憲法の性格が没却されてしまっています。
同条2項は公務員にも憲法擁護義務を課します。しかし、「国会議員、国務大臣、裁判官その他の公務員は、この憲法を擁護する義務を負う。」と、わざわざ天皇を除外しています。
立憲主義の理念は没却され、国民に憲法尊重の義務を課し、国民にお説教をする憲法草案になりさがっています。
そして、3本の柱のどれもが細く削られようとしています。腐らせようとされているのかも知れません。
まずは、「国権栄えて民権亡ぶ」のが改正草案。公益・公序によって基本的人権を制約できるのですから、権力をもつ側にとってこんな便利なことはありません。国民の側からは、危険極まる改正案です。
もっとも人権は無制限ではありません。一定の制約を受けざるを得ない。その制約概念を現行憲法は「公共の福祉」と表現しています。しかし、最高の憲法価値は人権です。人権を制約できるものがあるとすれば、それは他の人権以外にはあり得ません。人権と人権が衝突して調整が必要となる局面において、一方人権が制約されることを「公共の福祉による制約」というに過ぎないと理解されています。
そのような理解を明示的に否定して、「公益」・「公序」によって基本的人権の制約が可能とするのだというのが、改正草案です。
9条改憲を実現して、自衛隊を一人前の軍隊である国防軍にしようというのが改正案。現行法の下では、自衛のための最低限の実力を超える装備は持てないし、行動もできません。この制約を取り払って、海外でも軍事行動ができるようにしようというのが、改正草案の危険な内容。
これは、7月1日の閣議決定による解釈改憲というかたちで、実質的に実現され兼ねない危険な事態となっています。
国民主権ないしは民主主義は、天皇の権能と対抗関係にあります。国民と主権者の座を争う唯一のライバルが、天皇という存在です。その天皇の権能が拡大することは、民主主義が縮小すること。
「日本国は天皇を戴く国家」とするのが改正草案前文の冒頭の一文。第1条では、「天皇は日本国の元首」とされています。現行憲法に明記されている天皇の憲法尊重・擁護義務もはずされています。恐るべきアナクロニズム。
その結果として大多数の国民には住み心地の悪い家ができあがります。とはいえ、経済的な強者には快適そのものなのです。自分たちの利潤追求の自由はこれまで以上に保障してくれそうだからです。日本国憲法は、経済的な強者の地位を制約し弱者には保護を与えて、資本主義社会の矛盾を緩和する福祉国家を目標としました。今、政権のトレンドは新自由主義。強者の自由を認め、弱肉強食を当然とする競争至上主義です。自助努力が強調されて、労働者の労働基本権も、生活困窮者の生存権も、切り詰められる方向に。
臆面もなくこのような改正案を提案しているのが、安倍自民党です。かつての自民党内の保守本流とは大きな違い。おそらくは、提案者自身も本気でこの改正案が現実化するとは思っていないでしょう。言わば、彼らの本音における最大限要求としてこの改憲草案があります。
特定秘密保護法を成立させ、集団的自衛権行使容認の閣議決定まで漕ぎつけた安倍自民。最大限要求の実現に向けて危険な道を走っていることは、否定のしようもありません。安倍自民が、今後この路線で、つまりは自民党改憲草案の描く青写真の実現を目指すことは間違いないところです。これを阻止することができるかどうか。すべては私たち国民の力量にかかっています。
老・壮・青の各世代の決意と運動が必要ですが、長期的には次世代の主権者である学生・生徒に接する皆様の役割か大きいと言わざるを得ません。是非とも、平和教育・憲法教育における充実した成果を上げることができますよう、期待しております。
(2014年7月30日)
「国旗・国歌に対する国民としての正しい認識」というものがあるという。いったいどういうものか、想像がつくだろうか。国旗国歌への敬意表明を強制し、懲戒処分を濫発して止まないことで話題の都教委は、堂々と次のとおり述べている(東京『君が代』裁判・第四次訴訟答弁書)。
「国旗及び国歌に対する正しい認識とは、
?国旗と国歌は、いずれの国ももっていること、
?国旗と国歌は、いずれの国もその国の象徴として大切にされており、相互に尊重し合うことが必要であること、
?我が国の国旗と国歌は、永年の慣行により「日章旗」が国旗であり、「君が代」が国歌であることが広く国民の認識として定着していることを踏まえて、法律により定められていること、
?国歌である「君が代」は、日本国憲法の下においては、日本国民総意に基づき天皇を日本国及び日本国統合の象徴とする我が国の末永い繁栄と平和を祈念した歌であること、
を理解することである。」
私には、そのような理解は到底できないが、上記???は国旗国歌についての考え方の、無限のバリエーションの一つとして存在しておかしくはない。馬鹿げた考え方とも思わない。しかし、これを「国旗国歌に対する正しい認識」と言ってのける無神経さには、愕然とせざるを得ない。こういう無神経な輩に権力を担わせておくことは危険だ。
「公権力は特定のイデオロギーを持ってはならない」。これは民主主義国家における権力の在り方についての原点であり公理である。現実には、完全に実現するには困難なこの課題について、権力を担う者には可及的にこの公理に忠実であろうとする真摯な姿勢が求められる。しかし、都教委にはそのカケラもない。
憲法とは、国民と国家との関係をめぐる基本ルールである。国民と国家との関係とは、国民が国家という権力機構を作り、国家が権力作用を国民に及ぼすことになる。常に暴走の危険を孕む国家権力を、国民がどうコントロールするか、そのルールを形づくるものが憲法にほかならない。
だから、憲法の最大関心テーマは、国家と国民との関係なのだ。国家は目に見えない抽象的存在だが、これを目に見えるものとして具象化したものが、国旗国歌である。国家と国民の目には見えない関係が、国旗国歌と国民との目に見える関係として置き換えられる。
だから、「国民において国旗国歌をどう認識するか」は、「国民において国家をどう認識するか」と同義なのだ。「国家をどう認識するか」は、これ以上ないイデオロギー的テーマである。「正しい認識」などあるはずがない。公権力において「これが正しい認識である」などと公定することがあってはならない。
国家一般であっても、現実の具体的国家でも、あるいは歴史の所産としての今ある国家像としても、公権力が「これが正しい国家認識」などとおこがましいことを言ってはならない。それこそ、「教育勅語」「国定教科書」の復活という大問題となる。
ところが、都教委の無神経さは、臆面もなく「国旗国歌の正しい認識」を言ってのけるところにある。もし、正しい「国旗国歌に対する認識」があるとすれば、次のような、徹底した相対主義の立場以外にはあり得ないだろう。
「国家に対する人々の考え方が無数に分かれているように、国旗国歌に対しても人々がいろんな考え方をしています。民主主義社会においては、このような問題に関して、どの考え方が正しいかということに関心を持ちません。そもそも、「正しい」あるいは「間違っている」などという判断も解答もありえないのです。多数決で決めてよいことでもありません。それぞれの考え方をお互いに尊重するしかなく、決して誰かの意見を他の人に押し付け、強制・強要するようなことがあってはなりません」
上記???を「正しい認識」とするのが、話題の都教委である。悪名高い「10・23通達」を発して懲戒処分を濫発したのは、このようなイデオロギーを持っているからなのだ。
?「国旗と国歌は、いずれの国ももっている」という叙述には、国家や国民についての矛盾や葛藤を、ことさらに捨象しようとする姿勢が透けて見える。いずれの国の成立にも、民族や宗教や階級間の軋轢や闘争の歴史がまつわる。その闘争の勝者が国家を名乗り、国旗・国歌を制定している。「いずれの国も国旗国歌をもっている」では、1910年から1945年までの朝鮮を語ることができない。現在各地で無数にある民族独立運動を語ることもできない。
?国旗と国歌は、「いずれの国もその国の象徴として大切にされており」は、各国の多数派、強者のグループについてはそのとおりだろうが、少数派・敗者側グループにおいては、必ずしもそうではない。「相互に尊重し合うことが必要であること」は微妙な問題である。価値観を同じくしない国は多くある。独裁・国民弾圧・他国への収奪・好戦国家・極端な女性蔑視・権力の世襲・腐敗‥。正当な批判と国旗国歌の尊重とは、どのように整合性が付けられるのだろうか。
?「我が国の国旗と国歌は、永年の慣行により「日章旗」が国旗であり、「君が代」が国歌であることが広く国民の認識として定着している」ですと? 国旗国歌法制定時には、「日の丸・君が代」が国旗国歌としてふさわしいか否かが国論を二分する大きな議論を巻き起こしたではないか。政府は「国民に強制することはあり得ない」としてようやく法の制定に漕ぎつけたではないか。
わが日本国は、「再び政府の行為によって、戦争の惨禍が繰り返されることのないようにすることを決意して…この憲法を確定する」と宣言して建国された。したがって、「戦争の記憶と結びつく、旗や歌は日本を象徴するものとしてふさわしくない」とする意見には、肯定せざるを得ない説得力がある。ことさらに、このことを無視することを「正しい認識」とは言わない。むしろ、「一方的な見解の押し付け」と言わねばならないのではないか。
?「君が代」とは、「かつて国民を膝下に置き、国家主義・軍国主義・侵略主義の暴政の主体だった天皇を言祝ぎ、その御代の永続を願う歌詞ではないか。国民主権国家にふさわしくない」。これは自明の理と言ってよい。これを「日本国民総意に基づき天皇を日本国及び日本国統合の象徴とする我が国の末永い繁栄と平和を祈念した歌」という訳の分からぬ「ロジック」は、詭弁も甚だしいと切り捨ててよい。
以上の???のテーゼの真実性についての論争は実は不毛である。国民の一人が、そのような意見を持つことで咎められることはない。しかし、公権力の担い手が、これを「正しい」、文脈では「唯一正しい」とすることは噴飯ものと言うだけではなく、許されざることなのだ。
都教委は権力の主体として謙虚にならねばならない。民主主義社会の基本ルールに従わなければならない。自分の主張のイデオロギー性、偏頗なことを知らねばならい。
教育委員の諸君。都教委がこんな「正しい認識」についての主張をしていることをご存じだったろうか。すべては、あなた方の合議体の責任となる。それでよいとお思いだろうか。あらためて伺いたい。
(2014年7月28日)
本日は、神保町の東京堂で、現代書館発行「前夜」の販売促進キャンペーン。著者である私と梓澤和幸君と岩上安身さんのトークセッション。そして、お客様へのサインセール。
私にとっては慣れないことばかり。普段とは別の世界にあるごとくで、調子の出ないこと、この上ない。冒頭に20分の発言の機会を与えられたが、舌がうまく回らない。だいたい、こんな趣旨のことを喋ったはずなのだが‥。以下はうろ覚えの内容。
この本は、自民党改憲草案の全条文を読み解こうという企画として、12回(あるいは13回?)もトークを重ねたもの。その結果、自民党の本音としての全面的な改憲構想をお伝えできたのではないだろうか。2012年4月に当時は野党だった自民党がつくった草案の実現性は考えられなかった。露骨に本音をさらけだしたものだと思っていたが、同年12月の総選挙で安倍自民が政権を奪取するや、その後今日までの進展は、この改憲構想が現実のものになりつつあるとの感を否めない。悪夢が、正夢であったかという印象。
現在進行している「安倍改憲策動」(あるいは、「『壊憲』策動」)とはいったい何なのか、そしてこれをどう阻止できるかについて考えている。
安倍改憲策動の基本性格は、「戦後レジームからの脱却」「日本を取り戻す」というスローガンによく表れている。その主たる側面は、戦前のレジームである軍事大国化ということであり、復古的なナショナリズムの昂揚にある。しかし、それだけではない。グローバル企業に自由な市場を開放し、福祉において自助努力を強調し、格差拡大・貧困蔓延を厭わない新自由主義に適合する国家のかたちを目指すものとなっている。新旧ないまぜの「富国強兵」路線というべきではないか。
注目すべきは、安倍改憲策動の全面性である。9条改憲をメインとしつつも、それに限られていない。文字通り、「レジーム」の全構造と全分野を変えてしまいたいということなのだ。
教育分野における「教育再生」政策、メディアの規制としての特定秘密保護法の制定そして人事を通じてのNHKの改変問題。さらに、政教分離・靖国問題、福祉、介護、労働、地方自治、農漁業等々の諸分野で、安倍改憲策動が進行しつつある。
最も重要な分野における情報独占と取材報道の萎縮を狙った特定秘密保護法が強引に成立してしまった。教育の自由と独立は徹底して貶められようとしている。歴史修正主義が幅を利かせている。労働法制も税制も、限りなく企業にやさしいものとなりつつある。農漁業はTPPで壊滅的打撃を受けようとしている。福祉も介護も、経済原理に呑み込まれようとしている。
このような安倍改憲策動の手法は、解釈改憲の極みとしての集団的自衛権行使容認閣議決定に表れている。しかし、閣議決定だけで戦争はできない。これから自衛隊が海外で戦争することに根拠を与えるいくつもの個別立法が必要になってくる。そのときに、国会の論戦に呼応して、院外の世論が大きく立ち現れなければならない。
安倍改憲策動の目論見は、解釈と立法による事実上の改憲のみとは考えがたい。当然のこととして、あわよくば96条先行改憲を突破口とする明文改憲も、なのである。改憲手続法の整備はそのことをよくものがたっている。
安倍改憲の担い手となる改憲諸勢力の中心には、安倍自民党がいる。これは、かつての保守勢力ではない。保守本流と一線を画した自民党右派ないしは右翼の政党と言わねばならない。そして、「下駄の雪」とも、「下駄の鼻緒」とも自らに言い続けて来た与党公明党。そして維新やみんななどの改憲派野党。
これらの院内改憲勢力は見かけの議席は極めて大きい。しかし、院外の国民世論の分布とは大きく異なった「水増し・底上げ」の議席数である。これを支えている小選挙区制にメスを入れなければならない。
さらに、院外では右派ジャーナリズム、街頭右翼、ネット右翼などがひしめいている。
改憲に反対する勢力は、重層構造をなしている。旧来の「護憲勢力」といえば、議会内では共・社の少数。しかし、国民世論の中では議席数をはるかに上回る影響力を持っている。これに、旧来の「保守本流」を、非旧来型の護憲勢力に加えてよいだろう。それなくして国民の過半数はとれない。この人たちは、防衛問題では「専守防衛路線」を取ってきた。集団的自衛権行使の容認を認めない保守の良識派は、重要な護憲勢力のとして遇すべきである。
これに、立憲主義擁護重視派も仲間に加えなければならない。この立ち場は、けっして手続さえ全うすれば改憲内容は問わないという人々のものではない。安倍内閣の改憲手法批判にとどまらず、内容においても憲法原則からの安倍改憲批判をすることになる。
安倍改憲策動が全面的であることから、これに対する反撃も全面的にならざるを得ない。脱原発・反TPP・教育・秘密法廃止・NHK問題・反格差反貧困などの諸分野の運動を糾合して、改憲阻止の運動に結実させる意識的な努力が必要となっている。
いま、いくつもの世論調査が、安倍内閣の支持率急落を示している。各分野での運動の成果がようやく表れつつあるのではないか。私自身も、できるだけの工夫と努力をして、大きな運動のささやかな一端を担いたいと思っている。
(2014年7月10日)
昼休みの時間をお借りして、地元市民の集まりである「本郷・湯島九条の会」が、平和を守るための街頭宣伝活動を行います。みなさま、是非、耳をお貸しください。配布のビラをお読みください。
私たちは、日本国憲法を、わけてもその第9条を、この上なく大切なものと考えて「9条の会」を結成し、これを守り抜こうと社会に訴えています。
9条を守り抜くということは、9条が持っている平和の理念を輝く現実にし、近隣諸国との平和な友好関係を打ち立て、さらに世界の全体から戦争の原因を取り除いて恒久の平和を実現しようというロマンにあふれた壮大な試みです。ぜひ、みなさまにも、ご参加いただくようお願いいたします。
私たちの立ち場とは正反対に、9条を邪魔な存在と考え攻撃している人たちがいます。その先頭に立っているのが、憲法を守るべき立ち場にあるはずの安倍晋三という総理大臣。彼は、憲法9条に象徴される「戦後レジーム」からの脱却を呼号し、憲法9条のない時代の軍国の「日本を取り戻す」と言っています。彼のいう「積極的平和主義」とは、自国の軍備を増強し、戦争も辞せずと他国を威嚇して作り出される「平和」にほかなりません。最大限の軍備と威嚇が抑止力となって「平和」を築くのだという、9条の精神とは正反対の考え方なのです。
彼の執念は憲法9条を「改正」して、日本が世界の大国に伍する堂々たる本物の軍隊をもちたいということなのです。頭の中に思い描く近未来の日本の姿は、軍事大国としての威風堂々たる日本。そのことは、2012年4月に発表された「自民党・日本国憲法改正草案」に露骨に表現されています。
9条改憲を最終目標として、安倍内閣が最初に目論んだのは、憲法改正手続を定めた96条の改憲でした。改憲手続要件のハードルを下げておいて、改憲を実行しようという手口です。誰が見ても、堀を埋めて城を攻めようというもので、9条改憲のための96条先行改憲。96条改憲の先に9条改憲が見え見えなのです。
安倍内閣は、野党の一部を捲き込んでの96条先行改憲に自信満々でした。しかし、世論はこれにレッドカードを突きつけました。「自分に不利だからといってプレーヤーがルールを変えてはならない」「汲々たるやり口が姑息この上ない」「正門から入らずに、裏口から入学しようというごときもの」。悪評芬々。あらゆる世論調査の結果が反対多数で、安倍政権は96条先行改憲の策動をあきらめて撤回しました。彼は緒戦に敗北したのです。
しかし、彼らはあきらめませんでした。「明文改憲が無理なら、解釈改憲があるさ」というのです。憲法の条文には手を付けることなく、内閣だけで条文の解釈を変更して、実質的に96条の手続を省いた改憲をやってしまえ、と動き始めました。
96条先行改憲も、明文改憲である限りは、国民の意思を問う手続を経なければなりません。しかし、解釈改憲ならその手続きは不要です。国会での議論も、野党の意見を聞く必要すらない。強引にできることなのです。
こうして、自・公両党に支えられた安倍政権は、7月1日集団的自衛権行使の容認を認める閣議決定に踏み切りました。これは、憲法9条を深く傷つける暴挙です。私たちは、満身の怒りをもって抗議せざるを得ません。
集団的自衛権とは何であるか。日本が攻撃されていなくても、どこか他国が攻撃されたら、そのケンカを買って出る権利です。他国の紛争に割り込んで、戦争をしかける権利というしかありません。そんなことは、憲法が許しているはずはない。
憲法9条2項には、「陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない」と明記されています。日本は「戦力」をもつことはできないのです。1954年にできた自衛隊は、「戦力」ではない、とされてきました。だから、憲法違反ではないというのです。
これまでの政府の解釈は、「憲法は国の自衛権を認めているはずだ。自衛に徹する実力は『戦力』に当たらず、違憲の問題は生じない」というものです。専守防衛に徹することによって、自衛隊の合憲性を説明してきたのです。それは、「絶対に、自衛以外の武力の行使はしない」から合憲という論理であって、当然に「自衛以外の武力の行使はあり得ない」「他国のために戦うことはできない」とされてきたのです。
これを180度変えて、集団的自衛権の行使容認となれば、日本を攻撃する意図のない国に対して、こちら側から先に武力を行使することがありうることになってしまいます。安倍首相は、記者会見で「外地から帰国する日本人が乗せてもらっている米軍の艦艇が攻撃を受けた場合に、日本が一緒に応戦しなくてよいのか」と述べました。これは驚くべき発言ではないでしょうか。
「米軍の艦艇が攻撃を受けた場合に、日本が一緒に応戦したら」いったいどうなるというのでしょうか。日本は戦争に中立国としての地位を失って戦争当事国となります。米国の艦艇に武力を行使した側の軍と戦争状態となるわけですから、日本の全土が攻撃されるおそれを覚悟しなければなりません。全国54基の原発も標的とされることを覚悟で集団的自衛権の行使に踏み切りますか。これまでは、殺し殺される自衛隊ではなかった。これからは殺し、殺される自衛隊となります。本当にそれでよいのか、国民に信を問わずして、そんなことをやって良いのか。
憲法とは、本来が権力者にとって邪魔なものなのです。憲法を縛る存在であり、為政者はこれに縛られなければならない。ところが、その縛りを不都合として取っ払ってしまえというのが、解釈改憲なのです。憲法をないがしろにするにもほどかある。立憲主義の否定であり、法の支配の否定でもある。
安倍内閣の7・1閣議決定は、まさしく掟破りの立憲主義の否定以外の何ものでもありません。安倍内閣はかつてない危険な政権と言うほかはありません。安倍首相は、即時に退場させなければなりません。
自民党と公明党に支えられた安倍内閣は今焦っています。彼らの議席は、小選挙区制のマジックによって水増しされた「上げ底」の議席であることを自覚しているからです。しばらく国政選挙のない今のうちに、やれるだけのことをやっておけ。あわよくば、憲法9条を壊してしまえ。これが安倍内閣の基本戦略というべきでありましょう。
今、あらゆる世論調査が、集団的自衛権行使容認の閣議決定についての国民の大きな不安を示しています。安倍内閣の支持率は急速に低下しています。それでも、安倍内閣は7・1閣議決定に沿って、集団的自衛権を行使して海外で戦争のできる自衛隊とするための法案つくりを進めようとしています。
みなさま、ぜひ、私たちとご一緒に、9条を守れ、平和を守れ、集団的自衛権反対、閣議決定を撤回せよ、集団的自衛権行使を現実化する全ての法案に反対、という声を上げてください。
今なら、まだ声を上げられます。このまま、事態が進行すれば、だんだんと声を上げることすらできなくなります。あらゆる戦争へのたくらみに反対する声を、ご一緒に上げていこうではありませんか。
本日の街宣中に、本郷4丁目にお住まいのご婦人が、9条の会への入会を申し出られた。もしかしたら、次回も‥。その次ぎも‥。毎回ひとりづつ‥、いや2人、3人もあり得るかも‥。
(2014年7月8日)
お招きいただきありがとうございます。
憲法の視点から、「自主的団体の役割と課題」を語れという、滅多にないテーマでお話しする機会をいただいたことを感謝いたします。
私が物心ついたころには既に日本国憲法の世でありました。親の世代から平和のありがたさをくり返し教えられて、憲法を糧に育ってきました。中学校で初めて憲法を学びましたが、民主主義(国民主権)・平和・基本的人権という3者の理念を相互に「幸福な調和」をなすものとイメージしました。
戦前は、この3者ともなかったのです。民主主義の欠如が戦争を招いた。人権を抑圧することが戦争を可能とした。天皇のために死ぬことを尊しとする無人権国家に、民主主義が育つはずはない。という時代だったと言えましょう。
敗戦を機に世の中は変わりました。民主主義が徹底すれば、人権と平和を尊重する政治が行われる。人権の尊重は自ずと平和と豊かな民主々義をもたらす。不戦の誓いが、人権と民主主義の担保となる。そのように、漠然としたものではありましたが未来をとても明るいものとイメージした記憶です。
しかし、弁護士として仕事をするようになって、なかなかそうではないことの悩みを抱え続けて来ました。とりわけ、「人権vs.民主主義」の対立構造が重要です。この2者について、どのようにして調和をはかるべきか。その現実的・実践的課題に現在も直面しています。
私は、究極の憲法価値は「個人の尊厳」だと思っています。それ以外の民主主義・平和・法の支配・権力分立・司法の独立・教育の自由・地方自治‥等々は、それぞれ重要ではありますが、人権を実現するための手段的価値でしかない。そう考えています。
今日のお話しのテーマは、その尊厳の主体である「個人の人権」と「参加団体の民主主義」との関係の問題です。
この社会において、個人が無数の砂粒としての存在である限りは無力な存在と言わざるを得ません。支配に対する抵抗の術を持たず、個人の尊厳を実現する力がありません。任意に設計した集団や組織を形成し参加することによって初めて、自己の尊厳を実現すべき力量を獲得することになります。
一面、無力な個人が集団や組織を形成することによって自らの人権を擁護し伸長する実力を獲得するのですが、他面、集団や組織をかたちづくった途端に、できあがった集団や組織とその構成員との間における対立を背負い込むことになります。この宿命的な課題をどう捉えるべきでしょうか。
究極に「個人」と「国家」の対立構造があります。「人権の尊重」と「社会秩序維持の要請」の対立と言い換えてもよいと思います。いうまでもなく、日本国憲法は自由主義・個人主義の立場でできています。ですから、個人の尊重を究極の価値とし、国家の価値に優越するものとしています。とはいうものの、秩序の無視はできません。重んずべき秩序の内実を十分に見極めることが必要で、おそらくは「秩序」自体は憲法価値ではないけれど、秩序の維持を通して守ろうとしている人権の実体があるはずで、結局は人権対人権の価値の調整をしているのだと思います。
国家と個人の間に、無数の、多様な「中間団体」があります。個人の自立と並んで、中間団体の公権力からの自立が社会の民主的秩序形成に死活的に重要だと思います。自立した個人がつくる自立した自主団体が、「公権力の支配」からも「全体主義的な社会的同調圧力」からも自由であることの重要性はどんなに強調しても過ぎることはないと思うのです。
その反面、あらゆる中間団体が、構成員の自立や権利と対峙する側面をもつことになります。「民主的に形成された団体意思が、成員の思想・良心を制約する」ことです。つまり、民主主義が人権を制約するという問題です。私たちが、日常生活で常に経験する葛藤と言ってよいと思います。
その葛藤の中で、時に抜き差しならない具体的な問題が出てきて、大きな話題となることがあります。そのようなときに、問題の本質を考える手がかりを得ることになります。たとえば、著名な判決となっている次のような実例があります。
*八幡製鐵政治献金株主代表訴訟・最高裁大法廷判決(1970/6/24)
企業の特定政党への政治献金問題が許されるかという問題です。八幡製鐵の株主が、同社から自民党への350万円の政治献金を違法としての提訴でした。一審は、株主の主張を認めたのですが、高裁で逆転。最高裁は大法廷判決で上告を棄却しました。その理由として、「社会的実在たる法人は性質上許す限り自然人の行為をなしうる」という側面をのみ強調し、「会社が特定政党への政治献金をすることによって株主の思想信条を害することにならないか」という側面の吟味がないがしろにされています。「企業献金奨励判決だ」と、評判の悪い判決の代表格です。
*国労広島地本事件訴訟最高裁判決(1975/11/28)
「労働組合が特定の公職選挙立候補者の選挙運動の支援資金として徴収する臨時組合費について組合員は納付義務を負うか」という問題で、最高裁は否定の結論をくだしました。もとより、労働組合には、民主的な手続による組合の決定事項に関しては組合員に対する強制の権限があります。そのような統制なくして、企業と闘うことはできません。自分たちの要求を貫徹するために必要であれば政治的な決定もできます。民主的な手続を経て選挙の支援決議も可能です。しかし、その統制権限も、組合員の政治的思想を蹂躙することはできない、というのです。組合員の政党支持の自由こそが尊重されるべきで、労働組合が政党支持を決議することはできても、これを組合員に強制することはできない、という結論です。
*南九州税理士会政治献金事件・第3小法廷判決(1996/3/19)
南九州税理士会に所属していた税理士が、政治献金に充てられる「特別会費」を納入しなかったことを理由として、会員としての権利を停止されました。これを不服として、会の処置を違法と提訴した事件です。最高裁判所は、税理士会が参加を強制される組織であることを重視し、税理士会による政治献金を会の目的の範囲外としました。
次の理由の説示が注目されます。「特に、政党など(政治資金)規正法上の政治団体に対して金員の寄付をするかどうかは、選挙における投票の自由と表裏を成すものとして、会員各人が市民としての個人的な政治的思想、見解、判断等に基づいて自主的に決定すべき事柄であるというべきである。なぜなら、政党など規正法上の政治団体は、政治上の主義若しくは施策の推進、特定の公職の候補者の推薦等のため、金員の寄付を含む広範囲な政治活動をすることが当然に予定された政治団体であり、これらの団体に寄付することは、選挙においてどの政党又はどの候補者を支持するかに密接につながる問題だからである」
立派な画期的判決と言ってよいと思います。
私の問題整理の視点は、「団体の意思形成が可能か」「形成された団体意思が構成員を拘束できるか」と意識的に局面を2層に分けて考えることです。前者が団体意思形成における手続上の「民主主義」の問題で、後者が不可侵の「人権」の問題です。「民主的な手続を経た決議だから全構成員を拘束する」とは必ずしも言えないことが重要です。いかに民主的に決議が行われたとしても、そのような団体意思が構成員個人の思想・信条・良心・信仰などを制約することは許されない、ということです。
どんな団体も、その団体が結成された目的(厳密に定款や規約に書いてあることに限られませんが)の範囲では広く決議や行為をなしえます。が、成員の思想・信条・良心・信仰を制約することはできません。
私は、このことを「人権が民主主義に優越する」と結論して話しを終わらせたくありません。構成員の人権を顧みない乱暴な決議をするような団体運営があってはならないと思うのです。民主主義とは、決して多数決と同義ではありません。ましてや少数の意見を切り捨てることでもありません。徹底した意見交換の積み重ねによって、可能な限りメンバーの意見が反映されるような運営ができなければなりません。時間はかかり、面倒ではあっても、そのような組織運営の在り方が、その団体の連帯や団結を保障することになると考えます。
あらゆる自主的組織における「人権原理と民主主義との調和」は、組織の意思形成過程において徹底した組織内言論の自由、とりわけ幹部批判の自由を保障して論議を尽くすこと。その過程で、成員の思想・良心・信仰の自由に関わる問題については、十分な配慮がなされるはずではありませんか。
貴団体が、意識的にそのような組織運営をすることで世の模範となるならば、人権と民主主義との幸福な調和をもたらす社会の実現に大きな寄与をすることになるものと思います。ぜひ、そのような成果を上げていただきたいと切望する次第です。
(2014年6月28日)
本日、日民協の機関誌「法と民主主義」が届いた。特集は『「ブラック化」する労働法制』安倍政権が主唱する労働法制激変の凄まじさがよく分かる。ご注文は下記URLまで。
http://www.jdla.jp/
たまたま、同時に国際法律家協会の「Inter Jurist」(タイトルは横文字だが、本文は邦語)の最新号も届いた。この中に国連人権理事会が取り組んでいる「平和への権利」の小特集がある。平和を人権と構成する試みは、わが国の平和的生存権思想に端を発して、世界の潮流になろうとしている。今年末には、国連総会で「一人ひとりが平和のうちに生きることを、国家や国際社会に要求できる権利」を国際人権法とする決議が採択される見通しだという。例によって、日本はアメリカとともに、この決議に反対を表明しているとのことではあるが。
関心を惹かれたのは、一人ひとりに求める権利があるとされる「平和」の内実である。1969年以来世界の平和学が提唱している「積極的平和(Positive peace)」が目指されているという。
ノルウェーの平和研究者であるヨハン・ガルトゥング教授の名とともに語られる、「積極的平和」について、大田昌秀の要を得た解説がある。
『一般に平和とは何かと聞かれた場合に、すぐに思い浮かぶ答えは「戦争のない状態」と言えます。しかし、ガルトゥング教授は、戦争を「直接的な暴力」と規定した上で、戦争がないからと言ってわれわれの社会はけっして平和とは言えないとして、直接的な暴力に対し「構造的な暴力」ということばを対置しています。教授の言う構造的な暴力とは、偏見とか差別の存在、社会的公正を欠く状態、あるいは正義が行き届いていない状態、経済的収奪が行われている状態さらには、平均寿命の短さ、不平等などを意味します。ですから、今日の社会は至る所に平和でない状態、つまり構造的な暴力がはびこっていると言っても過言ではありません。したがって、ガルトゥング教授は、この構造的な暴力を改善していくのでなければ、本当の意味での平和は達成されないと述べているのです。
このように平和問題というのは、単に戦争の問題に限定されるのではなく、社会的偏見や差別の問題、政治的不公平の問題から男女間の不平等、経済的貧富の問題に至るまで広範、かつ多岐にわたるのです。したがって、それらの問題を解決して初めて言葉の真の意味での平和の創造が可能となるわけであります。
ちなみにガルトゥング教授は平和を実現するため、三つのPが必要だと述べています。第一にPeacemovement(平和運勤)、第二にPeaceresearch(平和研究)、第三にPoliticalparty(政党)の三つであります。これらが三位一体となって平和の創造に取り組むのでなければ、人々が期待するような平和は成り立だないと説いているのです。」(「沖縄 平和の礎」岩波新書)
「平和運動」に関する次の部分も紹介しておきたい。
「戦争を廃絶すると言えば、そんなことは、この人間世界ではありえないことだとつい考えてしまいます。そのため、実際にはユートピア的とか、気違い沙汰だと馬鹿にされがちです。しかし人類の歴史を振りかえってみると、奴隷制度の廃止とか、植民地の廃棄などということは、ある時代においてはそれこそユートピア的思想であったにもかかわらず、今日ではすでに実現しているのも少なくないのです。」
同じ言葉を使いながら、安倍晋三流「積極的平和主義」はまったく異なる思想の産物である。武装を強化し、軍事同盟を強固なものとすることによって「平和」を達成しようという考え。平和主義といえば、少なくとも軍縮と結びつく。しかし、安倍流では「積極的」と冠することによって、軍事力強化をもたらす「平和」に意味内容が変えられているのだ。軍事力によって維持される平和の危うさに思いをいたさざるを得ない。
迂遠なようでも、この世から「構造的な暴力」を廃絶することによって、真の意味の「積極的平和」の達成を求めるしか選択の道はないのだと思う。それは決して、ユートピア思想ではない。
(2014年6月26日)
「いじめ」という現象は、社会の縮図だ。個別の「いじめ」は、社会がもっている病理の表れである。
いじめの構造は、「加害者」と「被害者」だけで成り立っているのではない。周囲の「傍観者」の存在が不可欠な構成要素となっている。加害の実行者は、多数傍観者の暗黙の支持を得ることによって加害行為に踏み切る。明示黙示の支援を得つつエスカレートする。傍観者グループと加害者との距離は、わずかに一歩、あるいは半歩のものでしかない。加害者は傍観者からリクルートされて膨張する。傍観者は実行犯予備軍でもある。
もとより、傍観者の色合いは一様ではない。自らは実行犯にならないが背後から積極的にけしかける者もあれば、消極的に「笑みを浮かべる」程度で加担する者もあり、無関心を装う者もある。内心ではいじめを止めたいと望みながらも力及ばずとして何も出来ない者も多くいることだろう。しかし、それぞれの濃淡のレベルはありながらも、客観的にはいじめへの加担をしていることを自覚しなければならない。声を上げるべきときには黙っていること自体が罪となることもあるのだ。
さて、東京都議会でのセクハラ野次の事件である。問題なのは、この卑劣な野次に議場が凍りつかなかったことだ。むしろ「周りで一緒に笑った」者がいたと報道されている。いじめの構造と同じく、社会がもっている病理が端的に表れている。
世論の批判に耐えられず、遅まきながら自民党の鈴木章浩都議が「加害者」として名乗り出て謝罪した。しかし、これで問題が解決したわけではない。分けても、自民党都議団は、いじめの傍観者と同質の責任を問われている。暗黙の支持のレベルの責任ではない。加害実行者を生みだした集団としての責任であり、卑劣な野次を許す議場の雰囲気を積極的に作りだした集団としての責任である。自民党自身がその責任のとりかたを考えなければならない。そのことが、自らの体質を深く抉る作業となるだろう。
納得しかねるのは、鈴木都議が責任のとり方として議員辞職ではなく、会派からの離脱を表明していることだ。彼は、都民に対して責任をとろうというのではなく、自民党都議団に責任をとろうと言っているのだ。「組にご迷惑をお掛けしました。盃をお返しいたします」という博徒のノリではないか。
自民党都議団は、被害者の対極にある。その体質からセクハラ議員を生みだした責任母体であり、セクハラ野次に「周りで一緒に笑った」セクハラ助長責任集団でもある。その自民党という責任集団に謝罪し会派離脱することは、そちらの世界の掟なのかも知れないが、都民に対しては責任をとったことになっていない。
この鈴木議員の責任のとりかた表明も、社会の縮図。民主主義の未成熟を反映している。
なお、この鈴木議員は、「2012年8月19日には、尖閣諸島の魚釣島沖に戦没者の慰霊名目で洋上から接近した日本人団のうち10人が、船から泳いで魚釣島に上陸し、灯台付近で日の丸を掲げたり、灯台の骨組みに日の丸を貼り付けたりした。この10人のうち1人が鈴木氏だった。鈴木氏はYouTubeで、『支那』という言葉を使い、『ここで上陸できなければ日本人としての誇りが保てない』などと説明し、石原慎太郎・東京都知事(当時)の尖閣諸島購入方針などへの支持を表明していた」(ハフイントンポスト)と解説されている人。なるほど、そういう人なのか。日本の保守派・民族派には、両性の平等についての理解なく、保守固有の伝統的性別役割分担論にもとづく女性観がある。セクハラ発言もむべなるかな。
彼のウエブサイトを覗いてみて、憲法の欠陥を論じる一文を読んだ。再び、なるほど。彼には、人権の重みについての理解がない。国家権力後生大事の人なのだ、
次の彼自身の文章の「主権」は、国家権力という意味である。
「法治主義に則った通常の社会秩序の維持が不可能になった状態、国民の生命、財産の安全が脅かされる事態、また著しく国民に不利益を与える状況において、『主権』の役割が決定的になるのであります。このことから、非常事態の法的秩序が欠落した日本国憲法は、社会生活が一定の秩序を保って営まれている時のみ有効な憲法であり、政治権力の正統性のすべてを規定する『憲法』として、重大な欠陥があるのです。
『主権』を欠いた国家はあり得ず、『憲法』は国民の名のもとに付託を受けた、国家の『主権』(に)おいて作り出されるものでなければならないのです。言い換えれば、『主権』が『憲法』を生み出し、『主権』が『憲法』を停止することもできるのです。それは『主権』という絶対的な権力が、人々の生命や財産を守るものだからであり、これが西洋近代国家の理論になっているのです」
法学部で憲法を学ぶ学生諸君。彼のこの文章を採点してみてはいかがかな。
(2014年6月24日)