昼休みの時間をお借りして、地元市民の集まりである「本郷・湯島九条の会」が、平和を守るための街頭宣伝活動を行います。みなさま、是非、耳をお貸しください。配布のビラをお読みください。
私たちは、日本国憲法を、わけてもその第9条を、この上なく大切なものと考えて「9条の会」を結成し、これを守り抜こうと社会に訴えています。
9条を守り抜くということは、9条が持っている平和の理念を輝く現実にし、近隣諸国との平和な友好関係を打ち立て、さらに世界の全体から戦争の原因を取り除いて恒久の平和を実現しようというロマンにあふれた壮大な試みです。ぜひ、みなさまにも、ご参加いただくようお願いいたします。
私たちの立ち場とは正反対に、9条を邪魔な存在と考え攻撃している人たちがいます。その先頭に立っているのが、憲法を守るべき立ち場にあるはずの安倍晋三という総理大臣。彼は、憲法9条に象徴される「戦後レジーム」からの脱却を呼号し、憲法9条のない時代の軍国の「日本を取り戻す」と言っています。彼のいう「積極的平和主義」とは、自国の軍備を増強し、戦争も辞せずと他国を威嚇して作り出される「平和」にほかなりません。最大限の軍備と威嚇が抑止力となって「平和」を築くのだという、9条の精神とは正反対の考え方なのです。
彼の執念は憲法9条を「改正」して、日本が世界の大国に伍する堂々たる本物の軍隊をもちたいということなのです。頭の中に思い描く近未来の日本の姿は、軍事大国としての威風堂々たる日本。そのことは、2012年4月に発表された「自民党・日本国憲法改正草案」に露骨に表現されています。
9条改憲を最終目標として、安倍内閣が最初に目論んだのは、憲法改正手続を定めた96条の改憲でした。改憲手続要件のハードルを下げておいて、改憲を実行しようという手口です。誰が見ても、堀を埋めて城を攻めようというもので、9条改憲のための96条先行改憲。96条改憲の先に9条改憲が見え見えなのです。
安倍内閣は、野党の一部を捲き込んでの96条先行改憲に自信満々でした。しかし、世論はこれにレッドカードを突きつけました。「自分に不利だからといってプレーヤーがルールを変えてはならない」「汲々たるやり口が姑息この上ない」「正門から入らずに、裏口から入学しようというごときもの」。悪評芬々。あらゆる世論調査の結果が反対多数で、安倍政権は96条先行改憲の策動をあきらめて撤回しました。彼は緒戦に敗北したのです。
しかし、彼らはあきらめませんでした。「明文改憲が無理なら、解釈改憲があるさ」というのです。憲法の条文には手を付けることなく、内閣だけで条文の解釈を変更して、実質的に96条の手続を省いた改憲をやってしまえ、と動き始めました。
96条先行改憲も、明文改憲である限りは、国民の意思を問う手続を経なければなりません。しかし、解釈改憲ならその手続きは不要です。国会での議論も、野党の意見を聞く必要すらない。強引にできることなのです。
こうして、自・公両党に支えられた安倍政権は、7月1日集団的自衛権行使の容認を認める閣議決定に踏み切りました。これは、憲法9条を深く傷つける暴挙です。私たちは、満身の怒りをもって抗議せざるを得ません。
集団的自衛権とは何であるか。日本が攻撃されていなくても、どこか他国が攻撃されたら、そのケンカを買って出る権利です。他国の紛争に割り込んで、戦争をしかける権利というしかありません。そんなことは、憲法が許しているはずはない。
憲法9条2項には、「陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない」と明記されています。日本は「戦力」をもつことはできないのです。1954年にできた自衛隊は、「戦力」ではない、とされてきました。だから、憲法違反ではないというのです。
これまでの政府の解釈は、「憲法は国の自衛権を認めているはずだ。自衛に徹する実力は『戦力』に当たらず、違憲の問題は生じない」というものです。専守防衛に徹することによって、自衛隊の合憲性を説明してきたのです。それは、「絶対に、自衛以外の武力の行使はしない」から合憲という論理であって、当然に「自衛以外の武力の行使はあり得ない」「他国のために戦うことはできない」とされてきたのです。
これを180度変えて、集団的自衛権の行使容認となれば、日本を攻撃する意図のない国に対して、こちら側から先に武力を行使することがありうることになってしまいます。安倍首相は、記者会見で「外地から帰国する日本人が乗せてもらっている米軍の艦艇が攻撃を受けた場合に、日本が一緒に応戦しなくてよいのか」と述べました。これは驚くべき発言ではないでしょうか。
「米軍の艦艇が攻撃を受けた場合に、日本が一緒に応戦したら」いったいどうなるというのでしょうか。日本は戦争に中立国としての地位を失って戦争当事国となります。米国の艦艇に武力を行使した側の軍と戦争状態となるわけですから、日本の全土が攻撃されるおそれを覚悟しなければなりません。全国54基の原発も標的とされることを覚悟で集団的自衛権の行使に踏み切りますか。これまでは、殺し殺される自衛隊ではなかった。これからは殺し、殺される自衛隊となります。本当にそれでよいのか、国民に信を問わずして、そんなことをやって良いのか。
憲法とは、本来が権力者にとって邪魔なものなのです。憲法を縛る存在であり、為政者はこれに縛られなければならない。ところが、その縛りを不都合として取っ払ってしまえというのが、解釈改憲なのです。憲法をないがしろにするにもほどかある。立憲主義の否定であり、法の支配の否定でもある。
安倍内閣の7・1閣議決定は、まさしく掟破りの立憲主義の否定以外の何ものでもありません。安倍内閣はかつてない危険な政権と言うほかはありません。安倍首相は、即時に退場させなければなりません。
自民党と公明党に支えられた安倍内閣は今焦っています。彼らの議席は、小選挙区制のマジックによって水増しされた「上げ底」の議席であることを自覚しているからです。しばらく国政選挙のない今のうちに、やれるだけのことをやっておけ。あわよくば、憲法9条を壊してしまえ。これが安倍内閣の基本戦略というべきでありましょう。
今、あらゆる世論調査が、集団的自衛権行使容認の閣議決定についての国民の大きな不安を示しています。安倍内閣の支持率は急速に低下しています。それでも、安倍内閣は7・1閣議決定に沿って、集団的自衛権を行使して海外で戦争のできる自衛隊とするための法案つくりを進めようとしています。
みなさま、ぜひ、私たちとご一緒に、9条を守れ、平和を守れ、集団的自衛権反対、閣議決定を撤回せよ、集団的自衛権行使を現実化する全ての法案に反対、という声を上げてください。
今なら、まだ声を上げられます。このまま、事態が進行すれば、だんだんと声を上げることすらできなくなります。あらゆる戦争へのたくらみに反対する声を、ご一緒に上げていこうではありませんか。
本日の街宣中に、本郷4丁目にお住まいのご婦人が、9条の会への入会を申し出られた。もしかしたら、次回も‥。その次ぎも‥。毎回ひとりづつ‥、いや2人、3人もあり得るかも‥。
(2014年7月8日)
お招きいただきありがとうございます。
憲法の視点から、「自主的団体の役割と課題」を語れという、滅多にないテーマでお話しする機会をいただいたことを感謝いたします。
私が物心ついたころには既に日本国憲法の世でありました。親の世代から平和のありがたさをくり返し教えられて、憲法を糧に育ってきました。中学校で初めて憲法を学びましたが、民主主義(国民主権)・平和・基本的人権という3者の理念を相互に「幸福な調和」をなすものとイメージしました。
戦前は、この3者ともなかったのです。民主主義の欠如が戦争を招いた。人権を抑圧することが戦争を可能とした。天皇のために死ぬことを尊しとする無人権国家に、民主主義が育つはずはない。という時代だったと言えましょう。
敗戦を機に世の中は変わりました。民主主義が徹底すれば、人権と平和を尊重する政治が行われる。人権の尊重は自ずと平和と豊かな民主々義をもたらす。不戦の誓いが、人権と民主主義の担保となる。そのように、漠然としたものではありましたが未来をとても明るいものとイメージした記憶です。
しかし、弁護士として仕事をするようになって、なかなかそうではないことの悩みを抱え続けて来ました。とりわけ、「人権vs.民主主義」の対立構造が重要です。この2者について、どのようにして調和をはかるべきか。その現実的・実践的課題に現在も直面しています。
私は、究極の憲法価値は「個人の尊厳」だと思っています。それ以外の民主主義・平和・法の支配・権力分立・司法の独立・教育の自由・地方自治‥等々は、それぞれ重要ではありますが、人権を実現するための手段的価値でしかない。そう考えています。
今日のお話しのテーマは、その尊厳の主体である「個人の人権」と「参加団体の民主主義」との関係の問題です。
この社会において、個人が無数の砂粒としての存在である限りは無力な存在と言わざるを得ません。支配に対する抵抗の術を持たず、個人の尊厳を実現する力がありません。任意に設計した集団や組織を形成し参加することによって初めて、自己の尊厳を実現すべき力量を獲得することになります。
一面、無力な個人が集団や組織を形成することによって自らの人権を擁護し伸長する実力を獲得するのですが、他面、集団や組織をかたちづくった途端に、できあがった集団や組織とその構成員との間における対立を背負い込むことになります。この宿命的な課題をどう捉えるべきでしょうか。
究極に「個人」と「国家」の対立構造があります。「人権の尊重」と「社会秩序維持の要請」の対立と言い換えてもよいと思います。いうまでもなく、日本国憲法は自由主義・個人主義の立場でできています。ですから、個人の尊重を究極の価値とし、国家の価値に優越するものとしています。とはいうものの、秩序の無視はできません。重んずべき秩序の内実を十分に見極めることが必要で、おそらくは「秩序」自体は憲法価値ではないけれど、秩序の維持を通して守ろうとしている人権の実体があるはずで、結局は人権対人権の価値の調整をしているのだと思います。
国家と個人の間に、無数の、多様な「中間団体」があります。個人の自立と並んで、中間団体の公権力からの自立が社会の民主的秩序形成に死活的に重要だと思います。自立した個人がつくる自立した自主団体が、「公権力の支配」からも「全体主義的な社会的同調圧力」からも自由であることの重要性はどんなに強調しても過ぎることはないと思うのです。
その反面、あらゆる中間団体が、構成員の自立や権利と対峙する側面をもつことになります。「民主的に形成された団体意思が、成員の思想・良心を制約する」ことです。つまり、民主主義が人権を制約するという問題です。私たちが、日常生活で常に経験する葛藤と言ってよいと思います。
その葛藤の中で、時に抜き差しならない具体的な問題が出てきて、大きな話題となることがあります。そのようなときに、問題の本質を考える手がかりを得ることになります。たとえば、著名な判決となっている次のような実例があります。
*八幡製鐵政治献金株主代表訴訟・最高裁大法廷判決(1970/6/24)
企業の特定政党への政治献金問題が許されるかという問題です。八幡製鐵の株主が、同社から自民党への350万円の政治献金を違法としての提訴でした。一審は、株主の主張を認めたのですが、高裁で逆転。最高裁は大法廷判決で上告を棄却しました。その理由として、「社会的実在たる法人は性質上許す限り自然人の行為をなしうる」という側面をのみ強調し、「会社が特定政党への政治献金をすることによって株主の思想信条を害することにならないか」という側面の吟味がないがしろにされています。「企業献金奨励判決だ」と、評判の悪い判決の代表格です。
*国労広島地本事件訴訟最高裁判決(1975/11/28)
「労働組合が特定の公職選挙立候補者の選挙運動の支援資金として徴収する臨時組合費について組合員は納付義務を負うか」という問題で、最高裁は否定の結論をくだしました。もとより、労働組合には、民主的な手続による組合の決定事項に関しては組合員に対する強制の権限があります。そのような統制なくして、企業と闘うことはできません。自分たちの要求を貫徹するために必要であれば政治的な決定もできます。民主的な手続を経て選挙の支援決議も可能です。しかし、その統制権限も、組合員の政治的思想を蹂躙することはできない、というのです。組合員の政党支持の自由こそが尊重されるべきで、労働組合が政党支持を決議することはできても、これを組合員に強制することはできない、という結論です。
*南九州税理士会政治献金事件・第3小法廷判決(1996/3/19)
南九州税理士会に所属していた税理士が、政治献金に充てられる「特別会費」を納入しなかったことを理由として、会員としての権利を停止されました。これを不服として、会の処置を違法と提訴した事件です。最高裁判所は、税理士会が参加を強制される組織であることを重視し、税理士会による政治献金を会の目的の範囲外としました。
次の理由の説示が注目されます。「特に、政党など(政治資金)規正法上の政治団体に対して金員の寄付をするかどうかは、選挙における投票の自由と表裏を成すものとして、会員各人が市民としての個人的な政治的思想、見解、判断等に基づいて自主的に決定すべき事柄であるというべきである。なぜなら、政党など規正法上の政治団体は、政治上の主義若しくは施策の推進、特定の公職の候補者の推薦等のため、金員の寄付を含む広範囲な政治活動をすることが当然に予定された政治団体であり、これらの団体に寄付することは、選挙においてどの政党又はどの候補者を支持するかに密接につながる問題だからである」
立派な画期的判決と言ってよいと思います。
私の問題整理の視点は、「団体の意思形成が可能か」「形成された団体意思が構成員を拘束できるか」と意識的に局面を2層に分けて考えることです。前者が団体意思形成における手続上の「民主主義」の問題で、後者が不可侵の「人権」の問題です。「民主的な手続を経た決議だから全構成員を拘束する」とは必ずしも言えないことが重要です。いかに民主的に決議が行われたとしても、そのような団体意思が構成員個人の思想・信条・良心・信仰などを制約することは許されない、ということです。
どんな団体も、その団体が結成された目的(厳密に定款や規約に書いてあることに限られませんが)の範囲では広く決議や行為をなしえます。が、成員の思想・信条・良心・信仰を制約することはできません。
私は、このことを「人権が民主主義に優越する」と結論して話しを終わらせたくありません。構成員の人権を顧みない乱暴な決議をするような団体運営があってはならないと思うのです。民主主義とは、決して多数決と同義ではありません。ましてや少数の意見を切り捨てることでもありません。徹底した意見交換の積み重ねによって、可能な限りメンバーの意見が反映されるような運営ができなければなりません。時間はかかり、面倒ではあっても、そのような組織運営の在り方が、その団体の連帯や団結を保障することになると考えます。
あらゆる自主的組織における「人権原理と民主主義との調和」は、組織の意思形成過程において徹底した組織内言論の自由、とりわけ幹部批判の自由を保障して論議を尽くすこと。その過程で、成員の思想・良心・信仰の自由に関わる問題については、十分な配慮がなされるはずではありませんか。
貴団体が、意識的にそのような組織運営をすることで世の模範となるならば、人権と民主主義との幸福な調和をもたらす社会の実現に大きな寄与をすることになるものと思います。ぜひ、そのような成果を上げていただきたいと切望する次第です。
(2014年6月28日)
本日、日民協の機関誌「法と民主主義」が届いた。特集は『「ブラック化」する労働法制』安倍政権が主唱する労働法制激変の凄まじさがよく分かる。ご注文は下記URLまで。
http://www.jdla.jp/
たまたま、同時に国際法律家協会の「Inter Jurist」(タイトルは横文字だが、本文は邦語)の最新号も届いた。この中に国連人権理事会が取り組んでいる「平和への権利」の小特集がある。平和を人権と構成する試みは、わが国の平和的生存権思想に端を発して、世界の潮流になろうとしている。今年末には、国連総会で「一人ひとりが平和のうちに生きることを、国家や国際社会に要求できる権利」を国際人権法とする決議が採択される見通しだという。例によって、日本はアメリカとともに、この決議に反対を表明しているとのことではあるが。
関心を惹かれたのは、一人ひとりに求める権利があるとされる「平和」の内実である。1969年以来世界の平和学が提唱している「積極的平和(Positive peace)」が目指されているという。
ノルウェーの平和研究者であるヨハン・ガルトゥング教授の名とともに語られる、「積極的平和」について、大田昌秀の要を得た解説がある。
『一般に平和とは何かと聞かれた場合に、すぐに思い浮かぶ答えは「戦争のない状態」と言えます。しかし、ガルトゥング教授は、戦争を「直接的な暴力」と規定した上で、戦争がないからと言ってわれわれの社会はけっして平和とは言えないとして、直接的な暴力に対し「構造的な暴力」ということばを対置しています。教授の言う構造的な暴力とは、偏見とか差別の存在、社会的公正を欠く状態、あるいは正義が行き届いていない状態、経済的収奪が行われている状態さらには、平均寿命の短さ、不平等などを意味します。ですから、今日の社会は至る所に平和でない状態、つまり構造的な暴力がはびこっていると言っても過言ではありません。したがって、ガルトゥング教授は、この構造的な暴力を改善していくのでなければ、本当の意味での平和は達成されないと述べているのです。
このように平和問題というのは、単に戦争の問題に限定されるのではなく、社会的偏見や差別の問題、政治的不公平の問題から男女間の不平等、経済的貧富の問題に至るまで広範、かつ多岐にわたるのです。したがって、それらの問題を解決して初めて言葉の真の意味での平和の創造が可能となるわけであります。
ちなみにガルトゥング教授は平和を実現するため、三つのPが必要だと述べています。第一にPeacemovement(平和運勤)、第二にPeaceresearch(平和研究)、第三にPoliticalparty(政党)の三つであります。これらが三位一体となって平和の創造に取り組むのでなければ、人々が期待するような平和は成り立だないと説いているのです。」(「沖縄 平和の礎」岩波新書)
「平和運動」に関する次の部分も紹介しておきたい。
「戦争を廃絶すると言えば、そんなことは、この人間世界ではありえないことだとつい考えてしまいます。そのため、実際にはユートピア的とか、気違い沙汰だと馬鹿にされがちです。しかし人類の歴史を振りかえってみると、奴隷制度の廃止とか、植民地の廃棄などということは、ある時代においてはそれこそユートピア的思想であったにもかかわらず、今日ではすでに実現しているのも少なくないのです。」
同じ言葉を使いながら、安倍晋三流「積極的平和主義」はまったく異なる思想の産物である。武装を強化し、軍事同盟を強固なものとすることによって「平和」を達成しようという考え。平和主義といえば、少なくとも軍縮と結びつく。しかし、安倍流では「積極的」と冠することによって、軍事力強化をもたらす「平和」に意味内容が変えられているのだ。軍事力によって維持される平和の危うさに思いをいたさざるを得ない。
迂遠なようでも、この世から「構造的な暴力」を廃絶することによって、真の意味の「積極的平和」の達成を求めるしか選択の道はないのだと思う。それは決して、ユートピア思想ではない。
(2014年6月26日)
「いじめ」という現象は、社会の縮図だ。個別の「いじめ」は、社会がもっている病理の表れである。
いじめの構造は、「加害者」と「被害者」だけで成り立っているのではない。周囲の「傍観者」の存在が不可欠な構成要素となっている。加害の実行者は、多数傍観者の暗黙の支持を得ることによって加害行為に踏み切る。明示黙示の支援を得つつエスカレートする。傍観者グループと加害者との距離は、わずかに一歩、あるいは半歩のものでしかない。加害者は傍観者からリクルートされて膨張する。傍観者は実行犯予備軍でもある。
もとより、傍観者の色合いは一様ではない。自らは実行犯にならないが背後から積極的にけしかける者もあれば、消極的に「笑みを浮かべる」程度で加担する者もあり、無関心を装う者もある。内心ではいじめを止めたいと望みながらも力及ばずとして何も出来ない者も多くいることだろう。しかし、それぞれの濃淡のレベルはありながらも、客観的にはいじめへの加担をしていることを自覚しなければならない。声を上げるべきときには黙っていること自体が罪となることもあるのだ。
さて、東京都議会でのセクハラ野次の事件である。問題なのは、この卑劣な野次に議場が凍りつかなかったことだ。むしろ「周りで一緒に笑った」者がいたと報道されている。いじめの構造と同じく、社会がもっている病理が端的に表れている。
世論の批判に耐えられず、遅まきながら自民党の鈴木章浩都議が「加害者」として名乗り出て謝罪した。しかし、これで問題が解決したわけではない。分けても、自民党都議団は、いじめの傍観者と同質の責任を問われている。暗黙の支持のレベルの責任ではない。加害実行者を生みだした集団としての責任であり、卑劣な野次を許す議場の雰囲気を積極的に作りだした集団としての責任である。自民党自身がその責任のとりかたを考えなければならない。そのことが、自らの体質を深く抉る作業となるだろう。
納得しかねるのは、鈴木都議が責任のとり方として議員辞職ではなく、会派からの離脱を表明していることだ。彼は、都民に対して責任をとろうというのではなく、自民党都議団に責任をとろうと言っているのだ。「組にご迷惑をお掛けしました。盃をお返しいたします」という博徒のノリではないか。
自民党都議団は、被害者の対極にある。その体質からセクハラ議員を生みだした責任母体であり、セクハラ野次に「周りで一緒に笑った」セクハラ助長責任集団でもある。その自民党という責任集団に謝罪し会派離脱することは、そちらの世界の掟なのかも知れないが、都民に対しては責任をとったことになっていない。
この鈴木議員の責任のとりかた表明も、社会の縮図。民主主義の未成熟を反映している。
なお、この鈴木議員は、「2012年8月19日には、尖閣諸島の魚釣島沖に戦没者の慰霊名目で洋上から接近した日本人団のうち10人が、船から泳いで魚釣島に上陸し、灯台付近で日の丸を掲げたり、灯台の骨組みに日の丸を貼り付けたりした。この10人のうち1人が鈴木氏だった。鈴木氏はYouTubeで、『支那』という言葉を使い、『ここで上陸できなければ日本人としての誇りが保てない』などと説明し、石原慎太郎・東京都知事(当時)の尖閣諸島購入方針などへの支持を表明していた」(ハフイントンポスト)と解説されている人。なるほど、そういう人なのか。日本の保守派・民族派には、両性の平等についての理解なく、保守固有の伝統的性別役割分担論にもとづく女性観がある。セクハラ発言もむべなるかな。
彼のウエブサイトを覗いてみて、憲法の欠陥を論じる一文を読んだ。再び、なるほど。彼には、人権の重みについての理解がない。国家権力後生大事の人なのだ、
次の彼自身の文章の「主権」は、国家権力という意味である。
「法治主義に則った通常の社会秩序の維持が不可能になった状態、国民の生命、財産の安全が脅かされる事態、また著しく国民に不利益を与える状況において、『主権』の役割が決定的になるのであります。このことから、非常事態の法的秩序が欠落した日本国憲法は、社会生活が一定の秩序を保って営まれている時のみ有効な憲法であり、政治権力の正統性のすべてを規定する『憲法』として、重大な欠陥があるのです。
『主権』を欠いた国家はあり得ず、『憲法』は国民の名のもとに付託を受けた、国家の『主権』(に)おいて作り出されるものでなければならないのです。言い換えれば、『主権』が『憲法』を生み出し、『主権』が『憲法』を停止することもできるのです。それは『主権』という絶対的な権力が、人々の生命や財産を守るものだからであり、これが西洋近代国家の理論になっているのです」
法学部で憲法を学ぶ学生諸君。彼のこの文章を採点してみてはいかがかな。
(2014年6月24日)
一昨日(6月18日)都議会本会議での「セクハラ野次」が大きな話題となっている。野次の議員を指弾する世論の盛り上がりには救われる思いがするものの、都議会議場の情けなさと事後処理のお粗末さには目を覆わんばかり。
「妊娠や出産に悩む女性への支援策について都側に質問していた女性都議に対し、『自分が早く結婚したらいいじゃないか』『産めないのか』などのやじが飛び、議会内外に波紋を広げている。女性を蔑視し議会の品位をおとしめる内容の発言に、業を煮やした超党派の女性都議25人全員が19日、再発防止を徹底するよう議長に異例の申し入れをした」(東京新聞)と報じられている。
同議員のツイッターに「リツイート」の数は2万件を超え、都の議会局には19日だけで、1000件を超える意見が電話や電子メールで寄せられ、ほとんどが「女性に対して失礼な内容だ」などの苦情や批判だったという。
議場の不規則発言をすべて封じ込めよという主張には与しがたい。議事を活性化させる野次はありうる。寸鉄人を刺す気の利いた野次もあろうし、議場を和ませるユーモアの発言もある。しかし、問題の野次は、議場の発言であろうとなかろうと許される類のものではない。複数の発言者だけでなく、「やじに同調する人がいたのが悲しい」と言った塩村都議にまったくの同感であり、都民の一人として恥ずかしい限り。都議会というところは、そのレベルでしかない品位に欠ける多数が巣くう場所なのだ。国会の野次も似たりよったり。おそらくは、これが日本の社会全体の縮図と受けとめなければならない。
朝日の報道では、「ヤジの議場 知事も笑み」との見出しで次のように報道されている。
「問題のヤジがあったのは18日の都議会。晩産化について質問した塩村氏に『お前が早く結婚すればいいじゃないか』『産めないのか』とヤジが相次いだ。議場に笑い声が広がるなか、働く女性の支援を掲げる舛添要一知事も笑みを浮かべ、塩村氏は議席に戻ってハンカチで涙をぬぐった。」
「やじは男性の声だったが、発言者は特定されておらず、名乗り出てもいない。『自民党議員席から聞こえた』との証言が複数会派からあり、塩村氏が所属するみんなの党は、幹部が抗議したが、自民幹部は『確認できていない』と取り合わなかった。」
自民党議員団と舛添知事とは、恥を知らねばならない。実は、このところの舛添知事の堅実な姿勢に、それなりの評価をしていたのだが、この「笑みを浮かべ」報道でご破算だ。これでは、石原慎太郎都知事と変わるところがない。
なにより問題なのは、「自民の吉原修幹事長は『自民の議員が述べた確証はない。会派で不規則発言は慎むように話す』と述べるにとどまり、発言者を特定しない意向を明らかにした」という自民党の姿勢だ。発言者の責任もさることながら、発言者の特定をしようとしない都議会自民党の姿勢が糾弾されなければならない。
表現の自由は最大限の保障を受けなければならない。「表現の自由が保障される」ということの意味は、当該の表現によって、誰かのあるいは何らかの価値を損なうことが許容されるということにほかならない。無意味なつぶやきや、誰かへの讃辞だけの言論について「表現の自由を保障する」意味はない。「表現の自由」とは、お上品に誰かを褒める自由ではなく、言論によって誰かを傷つける自由のことなのだ。そうでなくては、法がわざわざ自由を保障するとした意味が無くなる。
だから、言論には責任が伴う。責任の所在が明らかでない「無責任言論」「言いっぱなし言論」は、それだけで「表現の自由の保障」を受ける資格を欠くことになる。この原則を確認しておきたい。責任の所在を不明確にしたままの匿名言論は、無責任の極み、卑怯卑劣。無責任なヤジを飛ばしておいて名乗り出ることなく逃げ切ろうとは、選挙で選出された議員としてあるまじき態度。
仮にも有権者の信任を得ての都議たる者、自分の言論に無責任であってはならない。「お前が早く結婚すればいいじゃないか」「産めないのか」とヤジを飛ばした輩よ。まずは名乗り出よ。名乗り出でることによって責任の所在を明らかにせよ。その上で、堂々と所信を釈明し開陳せよ。そして、都民のあるいは国民の再批判に耳を傾けよ。選挙区の有権者は、あらためてヤジ議員の議員としての適格性を判断せよ。都議会自民党よ、調査して発言者を特定せよ。誠実に対応しなければ、卑劣な匿名ヤジを容認するものと指弾されざるを得ない。世論から同罪と見なされることを覚悟しなければならない。
付言しておきたい。「言論には責任が伴う」「匿名の言論は無責任」の原則は例外を伴う。その典型が、公益通報(内部告発)である。圧倒的な強者を指弾する言論においては、匿名言論を許容しなければならない。強者とは、権力者や経済的強者のこと。権力や企業に腐敗があり、あるいは経済的な強者に不正不当の言動があるときに、意を決してこれを社会に告発しようとする者に対して、「まずは告発者の氏名を明示して責任の所在を明らかにせよ」などと言うことは馬鹿げている。社会は、このような告発によって恩恵を被る。社会全体で告発者に不利を被らせることなく擁護し通さねば、次に続く有益な告発を期待することができなくなる。言論の場や内容によって、顕名言論の原則には例外が伴うことを確認しておかねばならない。
なお、今日(20日)の朝日朝刊の報道で意外な記事にぶつかった。
「ツイッターで『うやむやにするつもりか』と批判した都教育委員で作家の乙武洋匡さんは『今回のヤジはおもてなしと正反対。本当にこの街で五輪を開催できるのか』と述べた。」というのだ。驚かざるをえない。
乙武教育委員よ。あなたにも良識の持ち合わせがあるのだ。あなたも、自民党都議の卑劣な言論を指弾する意欲をお持ちなのだ。しかし、あなたご自身が、『うやむやにするつもりか』と批判されていることを自覚しておられるだろうか。
多くの都民、都立校の教員、被処分者、そして教育庁勤務経験者らが、「都教委の日の丸・君が代の強制は、思想や信仰の転向を求めるもの」「教育が国家主義のイデオロギーを教師と生徒に注入している」「信仰や民族・国籍が多様化している生徒の思想・良心を掣肘している」「10・23通達以来、都立高は教育の場としての活力を失っている」「国家ではなく生徒を主人公とした教育を取り戻すために、教育委員諸賢には現場の訴えに耳を傾けていただきたい」とくり返し要請している。しかし、これを一顧だにせず、無視し続けている都教委の在り方に大きな批判の声があがっている。このことをどうお考えか。
生徒・子どもに最善の利益を保障すべき都教委が、その正反対なことをしているのだ。そのことをくり返し指摘されながら、「うやむやにして、逃げ通すつもりつもりなのか」と批判されているのだ。あなたご自身が、高給を食んでいる教育委員の一人として批判されていることを自覚し、責任を明確にして応えなければならない。当然のことながら、地位ある者には、相応の責任が伴う。他人を批判するだけでなく、自らを省みて、批判に耳を傾けて欲しい。せめては、あなたの肉声で要請や請願に対するご回答をいただきたい。
(2014年6月20日)
本日の東京新聞朝刊。目次に当たる「きょうの紙面」に、「解釈改憲 地方が異議」とある。
まずは2面に、「解釈改憲反対『立憲ネット』地方議員215人で発足」との記事。
「憲法解釈変更による集団的自衛権の行使容認に反対しようと、超党派の地方議員でつくる『自治体議員立憲ネットワーク』の設立総会が15日、東京都内で開かれた。安倍晋三政権に対抗し、市民と連携して地方から立憲主義と平和を守る方針を確認した。
北海道から九州までの民主や社民、生活者ネット、緑の党、無所属の都道県議や区市町村議ら215人で発足。共同代表に西崎光子東京都議(生活者ネット)や角倉邦良群馬県議(民主)ら5人が就いた。
各自治体で解釈改憲に反対する決議を目指すほか、来春の統一地方選で連携する議員を増やすための政策提言をまとめる。安倍首相が進める憲法解釈変更の閣議決定に向け、東京で抗議集会も予定する。
角倉県議は『地方議員が平和を守る運動の先頭に立ち、閣議決定や法改正に歯止めをかけたい』と訴えた。」
このネットワークに共産党議員ははいっていない。呼び掛けられてもいないようだ。同党の地方議員総数は約2700名。現時点でのネットの215人は決して多い数ではないが、大きな可能性を感じさせる。
そして、3面。「首長『解釈改憲ノー』続々」「地方政治 強まる危機感」「戦争に直結」「9条守れ」の見出し。こちらは、「集団的自衛権の行使容認のための憲法解釈変更に、各地の知事や市長らが次々と反対の声を上げている」「解釈改憲を急ぐ首相を黙認できないとの思いは静かに広がっている」という、首長の声を拾っている。
批判の声を挙げている首長として名を挙げられたのは13名。上田札幌市長や、松井広島市長、田上長崎市長、末松鈴鹿市長などだけでなく、舛添東京都知事、阿部長野県知事、湯崎広島県知事、広瀬大分県知事、大村愛知県知事など。
「発言が目立ち始めたのは、首相が5月15日の記者会見で憲法解釈変更を検討する考えを表明してから。‥行使容認反対などを求めた意見書を国会に提出した市町村議会も約60あることと合わせ、地方でも危機感が強まっている」という内容。
注目すべきは、長崎市の田上富久市長。記者会見で、安倍政権の動きについて「原爆被爆者には、日本の在り方の大きな方針転換になるのではないかという不安に結び付いている」と指摘。8月9日の原爆犠牲者慰霊平和祈念式典で読み上げる平和宣言文で、この問題に触れる方針だという。三重県鈴鹿市の末松則子市長は、解釈改憲での行使容認を「戦争に直結すると捉えられかねない」と批判。「母親の立場からみても素晴らしい憲法。9条は変えてほしくない」と訴えた。札幌市の上田文雄市長は消費者問題の弁護士出身。首相は会見で、乳児や母親を描いたパネルを用いて行使容認が必要とする事例を説明したが、「危機感だけをあおる手法は、国民に冷静な判断をさせない催眠商法のやり方に酷似している」と厳しく批判したという。 また、長野県中川村の名物村長曽我逸郎氏のインタビューが紹介されている。このインタビューの内容もおもしろいが、同村のホームページの「村長の部屋」も一見の価値がある。
信濃毎日新聞から村長へのアンケート依頼に対する丁寧な回答があり、その中に「集団的自衛権の行使容認に関する質問」への村長の見解が示されている。
(2)集団的自衛権行使を憲法解釈の変更で容認することについてどう思うか。
・反対
▽その理由は
憲法とは、時代を超えた普遍的な規範である。移り変わる時代の中における個々の政権によるその場その場の政治的判断は、憲法を基準として検討され、下されなければならない。最高法規とはそういう意味である。
従って、もし憲法を変更しようとするなら、人類にとっての時代を超越した普遍的な価値について、踏み込んだ十分な議論がなされ、合意が形成された上でなければならない。
にもかかわらず、解釈によって憲法の内実をお手軽に実質的に変更できるとする考えは、自分の個人的かつその時の判断・解釈を憲法より上位に置くものであり、不遜である。このような考え方のできる人は、時代を超えた人類普遍の価値が存在することを理解しておらず、その場の都合や利害しか判断基準として持っていない。」
東京新聞は、これを「村長は、村のホームページで首相を戒めている」と解説している。
「地方の異議」は、自民党内部からも生じている。本日の朝日に、「自民岐阜県連『性急すぎる』 集団的自衛権で異例の要請」との記事。
「安倍政権が今国会中にも閣議決定を目指す集団的自衛権の行使容認について、自民党岐阜県連が「性急すぎる」として、県内全42市町村議会議長に、慎重な議論を求める意見書を議会で採択するよう要請したことがわかった。県議会でも同様の意見書を採択し、政府に提出する方針。
要請文は10日付。農協改革とあわせて、各議長に『国民生活に重大な影響を及ぼす案件であるのに、関係者と十分な議論を経ることなく、性急なスケジュールで検討が進められている。国民の理解を得る形で結論を出すべきだ』と呼びかけ、意見書案を添えた。
意見書案は集団的自衛権について、『議論を否定するものではないが、国防、安全保障の根幹に関わり、国民生活に影響を及ぼす重要な問題』と指摘。『全国で公聴会を開くなどの方法で、結論を出すべきだ」としている。異例の意見書案の背景には、来春の統一地方選へ向け、公明党への配慮もあるとみられる」
自民党県議の「党本部や官邸がやっていることがすべて正しいわけではない。あまりにも性急というか、慎重さに欠ける」「公明党との関係もぎくしゃくし、統一地方選にも影響する。選挙で公明党の票がなかったら危ない議員もいる」と安倍政権を批判する発言も紹介されている。
「全国有数の自民王国」でこの事態。安倍政権の性急さ強引さを、快く思わない自民党地方組織が岐阜だけであるはずはない。このようなやり方では、民意を蹴散らすことになりはすまいかと心配しているにちがいない。議員も、首長も、自民党地方組織も、だんだんとものをいうようになってきた。
東京新聞のインタビューで曽我村長が語っている。
「住民が地元の議会や首長に、行使容認に反対する意見書や声明を出すよう働き掛けてほしい。ゲームのオセロは、黒ばかりの盤面でも、少しずつ白のこまが増えれば、局面は大きく変わる。政治も同じだ」
少しずつ、白のこまが増え始めているという手応えがある。
(2014年6月16日)
ワールドカップ・ブラジル大会のCグループ。その初戦で、日本とコートジボワールが対戦した。私はスポーツとしてのサッカーそのものにはほとんど興味がない。しかし、サッカーという競技がもつ社会への影響力には関心をもたざるを得ず、観客の熱狂ぶりや、巨額の金の動き、そしてナショナリズムのあり方などには興味津々である。
なお、私は常に弱者の側に味方したいとする立場。日本チームのFIFAランキングが46位と初めて知って、23位だという格上のコートジボアールに対しての善戦を期待した。結果は、ほぼランキングが示す実力差のとおりの試合となったようだ。
ところで、コートジボアールという国に、ほとんどイメージがない。象牙海岸・宗主国フランスからの独立・政情不安・カカオの産地。その程度が、私の同国に対する知識のすべてといってよい。せっかくのこの機会に、かの国の内情を少しは知りたいと思った。
こんな時、一昔前なら、まずは百科事典を開くことになろう。その上で、図書館か本屋さんに足を運ぶことになったはず。今は、ネットの検索で結構な量の情報が手に入る。手軽でもあり、金もかからない。ウィキペディアの充実ぶりにも感心させられる。以下は、すべて本日ネットの検索で初めて知ったことの受け売り(出典は省略させていただく)。俄然、コートジボアール・チームの勝利に祝意を表明したくなった。
西アフリカに位置するコートジボワールは大西洋に面し、人口は約2500万人。首都はヤムスクロ。日本とほぼ同じ面積の国土に63の民族が暮らしているという。1960年の独立までフランスの植民地だった。かつては、象牙の輸出が盛んで、国名はフランス語で「象牙の海岸」を意味する。当然のことというべきか、公用語はフランス語。世界一のカカオの生産と輸出で知られている。
独立直後は、カカオとコーヒーの輸出や外国企業の誘致で「イボワールの奇跡」と呼ばれる年成長率8%の高度経済成長を達成したという。ところが、80年代には経済が失速した。90年と2002年に内戦があり、2010年末の大統領選の結果をめぐっても内乱が起きた。
政情不安には、多民族間の非融和だけでなく、宗教や貧困の問題が複雑に絡んでいるという。これを統合するものとして、サッカーがあるということだ。コートジボワール代表がW杯に初出場を決めたのは05年。06年のドイツ大会に出場している。このとき、「サッカーは分断された国民を一つにまとめる希望の光」となったとされる。
コートジボワール代表がワールドカップ出場を決めた瞬間、選手たちはピッチ上に座り、内戦のさなかにあった母国に平和を呼びかけた。そのマイクを握ったのが同国のスター選手、ディディエ・ドログバ。今日の試合にも出場した選手。「北も南も、西も中央もない。コートジボワールはひとつです。この豊かな国を、戦争の犠牲にしてはいけない。武器を置いて、心をひとつにしよう!」と語りかけた。彼は、内戦を終えたコートジボワール政府が創設した「対話・真実・和解委員会」のメンバーの一人でもある。
コートジボアールのナショナルチームの愛称を、“エレファンツ”という。いまや国民的ヒーローであるディディエ・ドログバがエレファンツ(代表の愛称)のオレンジ色のシャツに初めて袖を通したのは、奇しくも第一次内乱が始まる数日前の2002年9月だった。つまり彼の代表キャリアは、この国の内乱の歴史とともにあったと解説されている。
内乱は、大別するなら南北に分かれての争いだが、北部を占めるイスラム教徒と、南部に多いキリスト教徒間の争いでもあった。しかしサッカーの代表チームには、イスラム教徒もいればキリスト教徒もいる。トゥーレ兄弟は北部の出身、ドログバやカルーは南部の出だ。彼らが一致団結して戦う姿を国民一人ひとりが自分たちになぞらえて「結束」を思い起こしてほしい、というのが“エレファンツ”の願いだった。
ワールドカップ初出場を決めた2005年の対スーダン戦のスタジアムには、内線で敵対する両陣営も居並び、エレファンツの勝利によって、「この夜国がひとつにまとまった」とされる。エレファンツは5対0で快勝し、翌日の新聞は「5ゴールが、5年間の戦争の悪夢を消し去った」という見出しを打ったという。
エレファンツは、サッカーというスポーツの代表チームという枠を超え、敵対する政権を調和させてしまえるほど、コートジボワールにとっては平和のシンボルであり、国民の夢なのだ、という。
エレファンツがいかに力持ちでも、背負っているものがとてつもなく重い。本日の貴重な1勝によって、少しは肩の荷が軽くなったことであろう。祝意を表するにやぶさかではない。
(2014年6月15日)
集団的自衛権に関する与党協議の展開は目まぐるしいが、実は結論は既に決まっていて、形づくりだけを見せられているのかもしれない。そう思わせる成り行きとなってきた。
飯島勲内閣官房参与がワシントンで講演し、公明党と創価学会の関係について、これまでの政府見解は政教分離原則に反しないとしてきたが、「もし内閣が法制局の答弁を一気に変えた場合、『政教一致』が出てきてもおかしくない」と述べたのが6月10日。政府が解釈変更に至った場合には、「(公明党が)おたおたする可能性も見える」とまで語ったという。これが、集団的自衛権をめぐる与党協議に関し、「来週までには片が付くだろう」との表明に関連しての言及である(時事)。なんという、えげつなさ。なりふり構わぬ露骨な牽制。
これで「公明党がおたおたした」ということなのだろうか。12日には、一斉に「集団的自衛権 公明行使一部容認へ」「公明に限定容認論」「公明、苦渋の歩み寄り」などという見出しの記事が出る事態となった。「公明党は、集団的自衛権を使える範囲を日本周辺の有事に限定したうえで認めるかどうかの検討を始めた」「1972年の政府見解を根拠に政府・自民党に歩み寄った」と報じられている。
公明党が、「限定容認論」の根拠として持ち出したのが、72年政府解釈である。そのさわりは、以下のとおり。
「政府は、従来から一貫して、わが国は国際法上集団的自衛権を有しているとしても、これを行使することは憲法の容認する自衛の措置の限界をこえるものであって許されない、との立場にたっている。
憲法は、第9条において、戦争を放棄し戦力の保持を禁止しているが、前文において『全世界の国民が‥平和のうちに生存する権利を有する』ことを確認し、第13条において『生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利』を定めていることからも、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛の措置をとることを禁じているとは解されない。
右にいう自衛のための措置は、あくまで外国の武力攻撃によって国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るための止むを得ない措置としてはじめて容認されるものであるから、その措置は、右の事態を排除するためとられるべき必要最小限度の範囲にとどまるべきものである。したがって、わが憲法の下で武力行使を行うことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られるのであって、他国に加えられた武力攻撃を阻止することをその内容とする集団的自衛権の行使は、憲法上許されない」
9条の解釈に、前文の平和的生存権と、13条の幸福追求権とが動員されている。その上での結論は、「わが憲法の下で武力行使を行うことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」、つまり個別的自衛権の行使は容認される。しかし、「他国に加えられた武力攻撃を阻止することをその内容とする集団的自衛権の行使は、憲法上許されない」、つまりは集団的自衛権の行使は憲法上容認し得ない、というものである。
以上のとおり、72年政府見解とは、集団的自衛権を否定する根拠の説明である。個別的自衛権がかろうじて合憲であることの反面、集団的自衛権の行使は憲法上許されないとしたのだ。その見解の、その理由をそのままに、集団的自衛権行使容認の根拠に転換しようというのである。だから、「苦汁の歩み寄り」「平和の党の岐路」「支持者への説明がたいへん」などと評されているのだ。
公明党がここまで譲歩すると、自民党はさらに追撃しての譲歩を迫ることになる。本日(13日)の、第6回与党協議において、新たな「叩き台」としての高村私案が示された。「他国に対する武力攻撃が発生し、(日本の)国民の生命、自由などが根底から覆されるおそれがある」場合には、集団的自衛権行使が認められるとするもの。
政府はこれまで自衛権発動の要件を、「(現実に)日本に対する急迫、不正の侵害があった場合」に限定していた。これは個別的自衛権だけを容認してその発動の要件を限定するものとなっていた。高村私案は、集団的自衛権行使を容認するだけでなく、「国民の生命、自由などが根底から覆される『おそれがある場合』」とすることで、個別的自衛権の行使の要件についてまでも緩和するものとなっている。どさくさに紛れて、あわよくばそこまで、という底意が見えている。
本日の会合で、高村氏は私案を「閣議決定案の核心部分に当たる」と説明したという。さすがに、公明側は即答を避けたようだが、押し切られそうな雰囲気。既に、集団的自衛権の「限定承認」は既定事実化し、今国会の会期内にできるか否か、時期だけの問題となったように報道されている。
衆目の一致するところ、公明は自民から「政権離脱の選択肢はない」と足下を見られての結果なのであろう。結局は、「できるだけの抵抗はしてみましたが、相手が強引でやむをえません」という風情。「これくらいの形づくりで、ご勘弁いただきたい」という姿勢に見える。それでは、自党の支持者だけではなく国民を納得させることができない。結局は、公明は憲法の平和主義蹂躙に手を貸したことになってしまう。それでよいのか、公明党。
(2014年6月13日)
サッカーのワールドカップ(W杯)ブラジル大会の開幕戦は6月12日、つまり本日。もっとも時差があって、日本時間では13日午前5時が初戦のキックオフになるという。
オリンピックとワールドカップ。国境を越えた人と人との交流の場として意味のないものだとは思わない。しかし、商業主義とナショナリズムの横行には白けてしまう。自分の近くには来て欲しくない。「日本人なら日本チームを応援するのが当然」という同調圧力にも辟易だ。
幸いにして、今回の会場は遠い。開幕式・開幕戦が行われるメインスタジアムは巨大都市サンパウロにある。そのサンパウロでの公共交通機関のストライキやワールドカップへの抗議行動が話題になっている。「開催に反対するデモは、今後も国内各地で計画されている。賛成派と反対派がせめぎ合う中で、4年に1度の祭典は開幕を迎える」と報道されている。ワールドカップに興味はないが、ストとデモには大いに興味をそそられる。
まずはストである。5月下旬からサンパウロ州営バスの運転手がストライキに突入し、市営の地下鉄がこれに続いた。市内の交通は大混乱の事態となった。ストライキを決行するからには、最小限の犠牲で最大限の効果を狙うのが戦術上の常道。ワールドカップ直前、あるいは盛りあがった真っ最中の時期を狙ってのストライキは、戦術としては上策となる。5路線ある同市地下鉄は一部運行しているが、開幕戦スタジアムの駅に向かう電車は全て運行を中止している状態が続いたという。
もちろん、争議は戦争ではない。いずれ復帰すべき職場を潰してしまっては元も子もなくなる。勤務先企業に決定的ダメージを与えるような争議戦術は当然に回避される。また、極端に世論を敵にまわす戦術もとりにくい。しかし、「ワールドカップ開催のこの時期にこそ効果的な戦術を」「いまは大々的にストを打っても大丈夫」という、労組の側の読みを支える状況があるのだ。
このようなさなかに、労働裁判所の命令が下された。
「5月28日、裁判所が混雑時間帯の完全稼動と通勤量が少ない時間帯に70%を維持するよう命令し、これに違反すれば毎日4万4000ドル(約450万円)の罰金を賦課すると警告したが、労働組合員のストライキの意志は折れなかった」と報じられた。サンパウロ地下鉄労組がストライキを強行する理由は、物価上昇率の高さのためだという。今年の上半期のブラジル物価上昇率は約6%だが、地下鉄労働者の初任給は停滞したまま。労組側の言い分は、「ワールドカップのための金はあるのに、なぜ大衆交通のための金はないのか」というもの。
6月8日には、「罰金」額の増額が命じられた。「ブラジルの労働裁判所は8日、サッカーW杯ブラジル大会の開幕戦を目前に控えたサンパウロの地下鉄職員らが賃上げを求め続けるストライキは違法だとして、職員らに対しスト続行1日当たり50万レアル(約2300万円)の罰金支払いを命じた。一方の職員らは投票で、この裁判所命令を無視し、ストを続行することを決めた」【AFP=時事】との事態になっている。ロイター通信などによると、「労組側は裁判所の命令を受けて実施した組合員投票で、スト続行を決定。W杯開催に反対する市民らとともに、デモを行う構えをみせている」という。
週明けの9日には地下鉄職員のストライキが続き市内中心部をデモ行進、街頭で治安部隊と衝突して催涙ガスなどが使われ、多くの駅が閉鎖されて道路は200キロもの渋滞となったという。興味深いことには、交通警察の一部が賃上げを要求してストライキに加勢したことが渋滞をさらに悪化させたという。そして、ストは一時中断しているが、大会開幕日の現地時間で12日にも実施される恐れがある(毎日)と報道されている。
次いでもう一つの関心がワールドカップへ抗議のデモである。
今回のワールドカップの施設は、多くの貧民地域において強制的に立退かされた住民の犠牲の上で行われているという。また、ワールドカップの費用は天文学的に増加し国民に重くのしかかっているともいう。
毎日新聞の昨日(6月11日)夕刊の「特集ワイド:W杯開幕直前、盛り上がるのはデモやスト どうしたブラジル」の掲載写真は、「『必要なのは競技場でなく、学校だ』と書いたプラカードを掲げ抗議する教師たち」である。
興味深い内容の記事となっている。たとえば、「W杯開幕が近づくにつれ、再びデモが頻発。参加者の多くは『パンを』と訴えているわけではない。1兆円を超えるW杯開催費用を『税金の無駄遣い』と批判し、『その金を医療と教育の充実に回せ』と主張する。一方、賃上げを求めるストも絶えず、バスや地下鉄がしばしば止まる。鈴木さん(地元紙編集局長)は『インフレで国民の生活は苦しくなるばかり。デモが続く背景には、医療と教育に投資するというルセフ大統領の約束が1年たっても実行されないことへの不満がある』と解説する」
さらに興味深いのは、次の指摘。
「それでも食べることにきゅうきゅうとしていた頃なら、人々はサッカーで憂さを晴らした。しかし、そこから脱した膨大な中間層は『医療や教育の改善という、より高度化した要求』を持つようになっていた」「多くのブラジル人はスタジアムなどの施設整備に使われた金の何割かは、政治家の懐に入ったと信じている。彼らの目には、W杯も『政治家の政治家による政治家のためのイベント』としか映っていません」というのだ。
真っ当な人は、パンとサーカスのみにて生きるものに非ず。「ワールドカップよりは、医療と教育を」という要求は、真っ当で健全なものではないか。また、賃金カット覚悟でストライキを決行する労働者の自覚も真っ当ですがすがしい。ワールドカップ自国開催のの機会に、ブラジルの真っ当さを世界に示したストとデモ。「どうした ブラジル」どころではない。「たいしたものだ ブラジル国民」と見出しを打つべきだろう。
(2014年6月12日)
本日の毎日川柳欄に「倍にして半額にするいい加減」(田介)という句。
高い値札を付けておいて「半額セール」とする悪徳商法の典型手口。実は、政権与党の常套手段でもある。
5月15日、鳴り物入りで安保法制懇の報告書が公表された。首相の私的諮問機関の報告とは、自作自演と言うことだ。その自作報告書が、「憲法9条の解釈において、集団的自衛権行使を容認することに不都合はない」と報告した。その部分を抜粋すれば、以下のとおり。
『政府のこれまでの見解である、「(自衛のための)措置は、必要最小限度の範囲にとどまるべき」という解釈に立ったとしても、その「必要最小限度」の中に個別的自衛権は含まれるが集団的自衛権は含まれないとしてきた政府の憲法解釈は、「必要最小限度」について抽象的な法理だけで形式的に線を引こうとした点で適当ではない。事実として、今日の日本の安全が個別的自衛権の行使だけで確保されるとは考え難い。したがって、「必要最小限度」の中に集団的自衛権の行使も含まれると解釈して、集団的自衛権の行使を認めるべきである。』
これが「高い値札」。国民にこの値札を見せておいて、安倍首相はこれを値切ってみせる。「半額商法」の手口。その口上は、以下のとおり。
「今回の報告書では、2つの、異なる考え方を示していただきました。
ひとつは、個別的か、集団的かを問わず、自衛のための武力の行使は、禁じられていない。また、国連の集団安全保障措置への参加といった、国際法上合法な活動には、憲法上の制約はないとするものです。
しかしこれは、これまでの政府の憲法解釈とは、論理的に整合しない。私は、憲法がこうした活動のすべてを許しているとは考えません。
したがって、この考え方―いわゆる、芦田修正論は、政府として採用できません。自衛隊が武力行使を目的として湾岸戦争やイラク戦争での戦闘に参加するようなことは、これからも決してありません。」
以上が値切って見せた部分。そして、半値で売りつけようというのが、以下の商品。
「もう一つの考え方は、我が国の安全に重大な影響を及ぼす可能性があるとき、限定的に集団的自衛権を行使することは許されるとの考え方です。
憲法前文、そして、憲法13条の趣旨を踏まえれば、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために、必要な自衛の措置を取ることは禁じられていない。そのための、必要最小限度の武力の行使は許容される。こうした従来の政府の基本的な立場を踏まえた考え方です。政府としては、この考え方について、今後さらに研究を進めていきたいと思います。…政府としての検討を進めるとともに、与党協議に入りたいと思います」
こうして、「安全保障法制整備に関する与党協議」が進行している。その第2回会合(5月27日)で、政府が対応の必要があると考える「3分野・15事例」が示された。その内容は以下のとおり。(朝日などから)
《グレーゾーン事態》【武力攻撃に至らない侵害への対処(3事例)】
事例1:離島等における不法行為への対処
事例2:公海上での民間船舶への不法行為への対応
事例3:弾道ミサイル発射警戒時の米艦防護
《集団安全保障》【国連PKOを含む国際協力等(4事例)】
事例4:侵略行為に対抗するための国際協力としての支援
事例5:駆けつけ警護
事例6:任務遂行のための武器使用
事例7:領域国の同意に基づく邦人救出
《集団的自衛権》【「武力の行使」に当たり得る活動(8事例)】
事例8:邦人輸送中の米輸送艦の防護
事例9:武力攻撃を受けている米艦の防護
事例10:強制的な停船検査
事例11:米国に向け我が国上空を横切る弾道ミサイル迎撃
事例12:弾道ミサイル発射警戒時の米艦防護
事例13:米本土が武力攻撃を受け、我が国近隣で作戦を行う時の米艦防護
事例14:国際的な機雷掃海活動への参加
事例15:民間船舶の国際共同護衛
「倍にして半額にするいい加減」は、与党協議でも繰り返されている。
第3回協議(6月3日)に、「事例4:侵略行為に対抗するための国際協力としての支援」の具体的解釈内容を政府が提示した。
これまで他国の戦闘と一体化となる支援活動はできないとする解釈が確立しており、その歯止めとして、自衛隊は「戦闘地域」には行かないという原則があった。テロ特措法でも、イラク特措法でも、この原則あればこそかろうじて違憲ではないと解釈されてきたのだ。
ところが、政府提案は「戦闘地域」には行かないという歯止めをなくそうとした。持ち出されたのは以下の「4条件」。なんと、この4条件の全部がそろっている場合にだけ、自衛隊派兵は違憲となる。そのうちの一つでも欠けていれば、自衛隊を戦地に派兵して他国部隊の支援を認める、というもの。
(1)支援部隊が戦闘中
(2)提供物品を直接戦闘に使用
(3)支援場所が「戦闘現場」
(4)支援が戦闘と密接に関係
つまり、戦闘中のA国の部隊に対して、その戦闘現場に、戦闘と密接に関係する仕方で、A国が直接戦闘に使用する物品を提供するような支援は、さすがにいけない。しかし、このうち一つでも欠けていれば、ゴーサインというわけだ。支援先部隊が現に戦闘中でさえなければよし。支援物資が、直接戦闘に使用されるものでなければ結構。支援場所が「戦闘現場」でさえなければ何でもあり、というわけだ。
かりに、戦闘中のA国部隊の戦闘現場に、直接戦闘に使用する武器・弾薬を補給することも、「この支援は戦闘と密接に関係していない」と強弁すれば「支援OK」ということにもなる。
これは評判が悪かった。マスコミにも野党にも、一斉に叩かれた。さすがに公明党も拒絶せざるを得ないという姿勢を見せた。そしたらどうだ。たった3日で撤回されたのだ。6月6日の第4回協議での席のこと。「4条件」は撤回され、新たな「三つの基準」が提示された。
(1)戦闘が行われている現場では支援しない
(2)後に戦闘が行われている現場になったときは撤退する
(3)ただし、人道的な捜索救助活動は例外とする
これだけでは分かりにくいが、「戦闘現場」とは「現に戦闘が行われている場所」を指し、「戦闘地域」は「現に戦闘が行われてはいないが、将来行われるおそれがある場所」を広く指す。「非戦闘地域」と区別されてこれまでは支援活動が禁じられてきた。「非戦闘地域」とは「現に戦闘が行われていない」ことに加え、「将来にわたって戦闘が行われない」場所であるとされてきたから、現に戦闘が行われていなくても、将来にわたって戦闘がおこなれないとは言えない場所は「戦闘地域」として自衛隊を派遣しての支援活動は禁じられている。
だから、「戦闘現場」での支援行為はしないという意味は、従来禁じられてきた「戦闘地域」への自衛隊派遣は認めるということ。そして、人道的活動なら戦闘中の現場でも可能にするということも、これまでは禁じられてきた内容。
つまり、6月3日の「4条件」が「倍にした値札」。6日の「三つの基準」の再提示が「半額セール」。悪徳商法を駆使しているのが安倍政権で、面食らっている消費者が公明党。
新基準も、政権から見れば、従来解釈よりも数歩の前進となっている。ということは、支援活動中の自衛隊が戦闘に巻き込まれる危険が、従来よりも格段に大きくなるということ。
自衛隊の物資輸送や医療支援は、銃弾が飛び交う戦闘の現場でさえなければ、戦闘地域内でもOKとなる。政府側からの説明で、「基準に反しなければ、武器・弾薬の提供も可能」との見解が示されたという。戦闘中の現場での民間人や負傷兵の救出を想定した「人道的な捜索救助活動」は、自衛隊員が犠牲となる危険性が大きい。
「公明党がんばれ」と言いたくなる場面だが、すでにグレーゾーン分野の2事例((1)武装集団による離島占拠、(2)公海上での民間船舶への不法行為)において、与党合意が成立し、法改正をせず「事前の閣議決定で自衛隊出動の可否を首相に一任する運用見直し」で対処する方針が了承されたと報じられている。
公明党は、今は政権から強引に商品を売り付けられている消費者の立ち場だが、与党合意が成立すれば、今度は野党にこれを押し売りする立場に回ることになる。
当然のことながら、公明党も必死になって世論を見ている。自民に恩を売って政権与党の中に居続けることのメリットと世論批判に晒されるデメリット、その両者を比較している。公明党の態度を決めるのも、安倍政権のゴリ押しの成否を決めるのも、実は国民の声の内容次第、大きさ次第。この間の目まぐるしい動きに、よく目を凝らそう。安倍政権の悪徳商法的手口に欺されてはならない。何が危険なのかをよく見極め、臆せず意見を発信しよう。手遅れにならぬ内に。
(2014年6月7日)