憲法フェスティバル、略称「憲フェス」に足を運んだ。40回目の憲法記念日となった1987年に、青年法律家協会が企画して第1回を開催。以来連綿と続いて、今年は28回目となっている。実行委員会は、年に1度のイベントを開催するだけでなく、通年の憲法運動の担い手となっている。これが立派なところ。
今年のテーマは、子どもの日にちなんで「この子らに託すもの」。大林宣彦監督作品「この空の花ー長岡花火物語」の上映と、同監督のトークがメインの企画だが、私のお目当ては、松元ヒロさん。「今年の憲フェスに、あの『憲法くん』が帰ってくる!」という惹句に惹かれて、「憲法くん」に会いに行った。
素晴らしいステージだった。45分間の熱演を堪能した。…という程度では言葉が足りない。脱帽した。ショックさえ感じた。そして、その姿勢に学びたいと思った。こんな風に、楽しく、分かりやすく、大切なことを上手に語れるようになりたいものと思う。
私は、ヒロさんの「憲法くん」の初演を観ている。あのときもすごいと思ったが、あれから遙かに芸が磨かれ、洗練されている。同じ古典落語をくり返し聞いていると、簡潔だが実に的確な言葉の組み立てになっていることに気づかされる。言葉の贅肉を殺ぎ落として成り立つ芸。そういう芸を聞かせてもらった。
ヒロさんは、「テレビには出演することのない」芸人として定着している。政権への批判や皇室への物言いにも遠慮がない。そこが、観客にウケる所以だが、決して言葉にどぎつさを感じさせない。政権の要人や天皇を揶揄して笑い飛ばしても、その人格を貶めてはいない。だから、会場全体で安心して笑える。
いくつかのセリフに感心した。憲法の本質を語り、自民党改憲草案の危険性の本質をよく語っている。以下は、私の記憶の限りでのトークの一部の再現。
「私たち国民が国の主人公なんですよ。戦前とはそこが違う。だから本当は私たち国民自身が、どのように国を動かしていくか話し合って決めなければならない。だけど、私たち、みんな忙しいですよね。仕事もしなければならない。だから、私たちの代わりに話し合いをする人を選んで、その人たちにきちんと国を動かすように頼むんです。その頼む相手が代議士・国会議員。その中から、国を動かす責任者も出てくる。別にエラクもなければ、先生と呼ぶ必要もない。」
「私たちはこういう人たちに、しっかりと国を動かしてくれよ、と頼むんです。だけど丸投げで頼むわけじゃない。頼まれたから何でもできると思って戦争なんか始めちゃダメだよ。そのために、憲法にしっかりと9条を書いてこれをわたす。この憲法に書いてあることをしっかり守って、頼まれごとをやってくれ、と」
「この世の中の歪みの犠牲者として、貧しい人が出てきますよね。不幸な境遇の方もいる。そういう人を、社会全体で支えてあげたいと思いますよね。お互いさまですから。私たちは、国の主人公として、そういう風に国民のお金を使いたい。だけど、私たち一人一人はみんな忙しいですよね。仕事をしなくちゃならない。だから、みんなからお金を集めて、困っている人に配分する仕事を頼むんです。そのときに、『ハイ、これが25条。これに基づいてみんなのお金を使ってくれ』と渡す。これが憲法というものなんです」
私も、ヒロさんに学んで分かりやすく語ることの修行を積み重ねよう。分かりにくいのは、語る側がよく分かっていないからだ。あるいは、分かってもらおうという情熱に欠けるから。聞き手に、あるいは読み手に分かってもらうため工夫を重ねよう。そして、話しも文章も、長すぎないように心掛けよう。原則として…、だけど。
(2014年5月5日)
憲法記念日の読売社説は、「集団的自衛権で抑止力高めよ」と標題したもの。憲法を記念するでもなく、その意義を確認するのでもなく、現行憲法に敵意を燃やす内容。「集団的自衛権行使容認は、米国との防衛関係を強化して抑止力を高めることになり、領土の保全と国民の生命財産を守ることにつながる」として、安倍政権の解釈改憲路線を擁護する見解を披瀝している。
もちろん、荒唐無稽の論旨ではない。しかし、大新聞の社説としてはまことに出来が悪い。格調などは望むべくもないが、論理の展開に滑らかさを欠き、説得力がない。多くの人に賛意を得ようという熱意の感じられない文章となっている。
小見出しは次の4本。
◆解釈変更は立憲主義に反しない
◆日米同盟に資する
◆限定容認で合意形成を
◆緊急事態への対処も
以上の4本の小見出しをつなげれば、次のような論旨となろうか。
「集団的自衛権行使を容認する憲法解釈変更は、立憲主義に反するものではない」。だから解釈変更に遠慮は不要で、「集団的自衛権の行使容認という日米同盟の強化に資する」手段を選ぶべき。もっとも、国会内の意見はさまざまだから「限定容認で合意形成を」することが望ましい。なお、集団的自衛権の問題だけではなく、「緊急事態への対処も」お忘れなく。
この社説、一読しての論旨の把握は容易ではない。以上の小見出しと、各小見出しに続く文章とが整合していないので、読みにくいことこの上ない。一般に、記者の書く文章は、要領よく読みやすいものなのだが…。
以下、小見出しを付された文章を、第1?4節として、順次反論してみたい。
第1節は、以下のとおりである。
『◆解釈変更は立憲主義に反しない
きょうは憲法記念日。憲法が施行されてから67周年となる。
この間、日本を巡る状況は様変わりした。とくに近年、安全保障環境は悪化するばかりだ。米国の力が相対的に低下する中、北朝鮮は核兵器や弾道ミサイルの開発を継続し、中国が急速に軍備を増強して海洋進出を図っている。
領土・領海・領空と国民の生命、財産を守るため、防衛力を整備し、米国との同盟関係を強化することが急務である。』
この節には、「解釈変更は立憲主義に反しない」という見出しに対応する主張は述べられていない。述べられているものは、防衛力依存至上主義ともいうべき抜きがたい基本姿勢である。「領土・領海・領空と国民の生命、財産を守るためには、防衛力を整備し、米国との同盟関係を強化すること」が必要であり急務であるという。これは「危険思想」というべきではないか。ここには、あからさまに中国と北朝鮮を仮想敵と名指しされている。危険な敵の侵犯から、領土・領海・領空と国民の生命、財産を守るためには、自国の防衛力を整備し増強することとならんで、アメリカとの軍事同盟関係を強化すべきだとされているのである。
ある一国が隣国に対してこのような姿勢を有していれば、隣国も同じ対応をせざるを得ない。不信が不信を生み、恐怖が恐怖を再生産して、愚かな軍拡競争を引きおこすことになる。これまで、改憲勢力が「安全保障環境の悪化」を言わなかったことがあっただろうか。安全保障環境の悪化を口実とした9条改憲の主張は、「特に近年」において始まったことではない。いつもいつも、隣国の不信や危機を煽るのが、改憲勢力の常套手段である。中国も北朝鮮も、あるいは韓国の国防も、「日本の好戦的姿勢」「いつかきた道を繰りかえしかねない恐怖」を口実にしている。その口実を封じることこそが「急務」ではないか。お互いに、軍備増強の口実を与え合う愚を犯してはならない。
第2節は以下のとおり。
『◆日米同盟強化に資する
安倍政権が集団的自衛権の憲法解釈見直しに取り組んでいるのもこうした目的意識からであり、高く評価したい。憲法改正には時間を要する以上、政府の解釈変更と国会による自衛隊法などの改正で対応するのは現実的な判断だ。
集団的自衛権とは、自国と密接な関係にある国が攻撃を受けた際に、自国が攻撃されていなくても実力で反撃する権利だ。国連憲章に明記され、すべての国に認められている。
集団的自衛権は「国際法上、保有するが、憲法上、行使できない」とする内閣法制局の従来の憲法解釈は、国際的には全く通用しない。
この見解は1981年に政府答弁の決まり文句になった。保革対立が激しい国会論戦を乗り切ろうと、抑制的にした面もあろう。
憲法解釈の変更については、「国民の権利を守るために国家権力を縛る『立憲主義』を否定するものだ」という反論がある。
だが、立憲主義とは、国民の権利保障とともに、三権分立など憲法の原理に従って政治を進めるという意味を含む幅広い概念だ。
内閣には憲法の公権的解釈権がある。手順を踏んで解釈変更を問うことが、なぜ立憲主義の否定になるのか。理解に苦しむ。』
読売が、「安倍政権が集団的自衛権の憲法解釈見直しに取り組んでいるのもこうした目的意識からであり、高く評価したい」というのは、結局のところ憲法遵守よりは防衛力増強を優先する軍事力至上主義の表れというほかない。「憲法改正には時間を要する以上、政府の解釈変更と国会による自衛隊法などの改正で対応するのは現実的な判断」というに至っては、軍事力至上主義からの明文改憲を是としたうえで、ここしばらくは9条改憲の国民意識の成熟はないことを認めて、解釈改憲と立法改憲に右派の世論を誘導しようというもの。読売の発行部数を考慮すると、罪が深いというほかはない。
また読売は、集団的自衛権について、「国際法上保有するが、憲法上行使できない、とする内閣法制局の従来の憲法解釈を国際的には全く通用しない」という。しかし、国際的に通用しないというのは間違っている。現に、この解釈でこれまでアメリカに対応してきた。アメリカとの関係で、またNATOとの関係でも通用したからこそ、これまで数々の海外派兵の要請を断り続けて来られたのだ。安保条約5条1項にも、「各締約国は、…自国の憲法上の規定及び手続に従つて共通の危険に対処する」と、憲法遵守が明記されている。
「内閣には内閣としての憲法解釈がある」ことは、一般論としては当然である。問題は、解釈にも限界があることであり、これまで積み重ねてきた解釈の継続性・安定性を放擲して突然に変更することの不自然さにある。集団的自衛権の行使容認は、文言解釈の限界を超えているのだから、憲法をないがしろにすること明らかで、立憲主義に反する。これまで、長く緻密に積み重ねられてきた解釈を強引に替えようとしているから、立憲主義に反するのだ。「納得しうる手順を踏んでの解釈変更」ではなく、法制局長官の首のすげ替えをしての乱暴な手口であり、安保法制懇という手の内にある安全パイの人物を使っての答申を使うという姑息なやり方が立憲主義の否定となるというのだ。理解に苦しむことはない。
第3節「◆限定容認で合意形成を」はやや長い。3個のパラグラフに分けて論じる。
第1パラグラフは以下のとおり。
『集団的自衛権の行使容認は自国への「急迫不正」の侵害を要件としないため、「米国に追随し、地球の裏側まで戦争に参加する道を開く」との批判がある。だが、これも根拠のない扇動である。集団的自衛権の解釈変更は、戦争に加担するのではなく、戦争を未然に防ぐ抑止力を高めることにこそ主眼がある。
年末に予定される日米防衛協力の指針(ガイドライン)の見直しに解釈変更を反映すれば、同盟関係は一層強固になる。抑止力の向上によって、むしろ日本が関わる武力衝突は起きにくくなろう。』
ここで展開されている「思想」は、「自国は正義、隣国は敵」「自国の軍備は常に防衛的で、隣国の軍備は常に攻撃的で危険」「自国の平和は軍備の増強によってのみ保たれる」というものである。
ここで言われている「集団的自衛権の解釈変更は、戦争に加担するのではなく、戦争を未然に防ぐ抑止力を高めることにこそ主眼がある」は、まことに歯切れが悪い。「抑止力としての効果」は、いざというときには集団的自衛権の行使をなし得るからである。現実の集団的自衛権行使が予定されているのである。「主眼がある」とは、「戦争に加担」を排除していない言葉使いである。
要するに、武器を研ぎ澄まし、防衛力を増強すること、他国の戦争に加担することもためらわないとすることこそが、邪悪な隣国に対する抑止力となり、戦争を回避できるのだとする思考回路から抜け出せないのだ。
第2パラグラフは以下のとおりである。
『政府・自民党は、集団的自衛権を行使できるケースを限定的にする方向で検討している。
憲法9条の解釈が問われた砂川事件の最高裁判決を一つの根拠に「日本の存立のための必要最小限」の集団的自衛権の行使に限って認める高村自民党副総裁の「限定容認論」には説得力がある。
内閣が解釈変更を閣議決定しても、直ちに集団的自衛権を行使できるわけではない。国会による法改正手続きが欠かせない。法律面では、国会承認や攻撃を受けた国からの要請などが行使の条件として考慮されている。
自民党の石破幹事長は集団的自衛権の行使を容認する場合、自衛隊法や周辺事態法などを改正し、法的に厳格な縛りをかけると言明した。立法府に加え、司法も憲法違反ではないか、チェックする。濫用は防止できよう。』
砂川事件最高裁判決を集団的自衛権行使容認の論拠とすることについて、「説得力がある」などと言うべきではなかろう。およそ、なんの検討もせずに、ひたすら自民党におもねっているだけの姿勢を暴露することになるからである。しかも、読売社説の文脈は、「日本の存立のための必要最小限」への「限定容認論」の論拠として説得力があるというのだ。これまでは、自衛のための最小限度の実力であれば、9条2項の「戦力」には当たらないとされてきた。これもかなり苦しい「論理」。読売は、それを超えて「日本の存立のための必要最小限」の範囲なら集団的自衛権行使も容認される、という。こんな無限の拡大解釈の許容は言語による規範設定という法そのものの機能を奪うものとしか評しようがない。これを「説得力がある」とは、よくも言えたもの。
第3パラグラフは以下のとおり。
『集団的自衛権の憲法解釈変更については、日本維新の会、みんなの党も賛意を示している。
公明党は、依然として慎重な構えだ。日本近海で米軍艦船が攻撃された際は日本に対する武力攻撃だとみなし、個別的自衛権で対応すればいい、と主張する。
だが、有事の際、どこまで個別的自衛権を適用できるか、線引きは難しい。あらゆる事態を想定しながら、同盟国や友好国と連携した行動をとらねばならない。』
読売は、自民党安倍政権の解釈変更に賛意を表し、維新とみんなを、自民に同意見として評価している。「自・維・み」3党の改憲トリオは、読売のお気に入りというわけなのだ。
その上で、「慎重姿勢」の公明党に不快感を表明している。つまり、公明が「なにも集団的自衛権行使を容認せずとも、個別的自衛権で対処可能なことがほとんどではないか」と主張していることに異議を唱えて、「有事となれば、必ずしも個別的自衛権だけでは十分ではない事態も想定できるのではないか。そのときのために集団的自衛権行使ができるようにしておくべき」と言うのだ。同盟国や友好国と連携した軍事行動を可能にしておくことを最優先して、そのような方針の大転換が近隣諸国を刺激し日本の平和主義国家としてのブランド力を損なうことは考えていない。仮想敵を作り、軍備を増強することが、近隣諸国との緊張を高め、戦争の危険を増大することを考慮しないのだ。
第4節は以下のとおり。
『◆緊急事態への対処も
武力攻撃には至らないような緊急事態もあり得る。いわゆる「マイナー自衛権」で対処するための法整備も、検討すべきである。
先月、与野党7党が憲法改正の手続きを定めた国民投票法の改正案を国会に共同提出した。今国会中に成立する見通しだ。
憲法改正の発議が現実味を帯びてくるだろう。与野党は共同提出を通じて形成された幅広い合意を大切にして、具体的な条項の改正論議を始める必要がある。
安倍政権には、憲法改正の必要性を積極的に国民に訴え、理解を広げていくことも求めたい。』
改憲勢力の国民投票法(改憲手続法)整備への期待と、その整備の手続きを通じての憲法改正案の成文化の期待が語られている。右派勢力大同団結だけでは突破できない。「幅広い合意を大切に」という言葉がものがたっているとおり、中道勢力を取り込んでの3分の2をどう作るか、彼らも悩んでいる。
以上の読売社説には、「今が好機」という高揚感と、「今のうちになんとかせねば」という焦躁感とが同居しているように見える。「議会内における自民党の圧倒的多数からは、解釈改憲など直ぐにでもできるではないか」としながらも、しかし、「それだけで終わらせてはならない。千載一遇の今のうちに、憲法改正を実現しなければ」という焦りも見える。鷹揚に、解釈改憲だけでよいとしていたのでは、明文改憲の機会を永遠に失いかねない、そう思っているのではないだろうか。
平和や人権、民主主義を大切に思い、そのために憲法を実効あらしめたいと考える者にとっては、ここはじっくりと腰を据えて、解釈改憲にも立法改憲にもそして明文改憲にも、さらには改憲手続き法の改正にも、一つ一つ反対の声を挙げ、運動を積み上げて行くしかなかろう。護憲派が焦る必要はない。最近の世論調査の動向を見れば、成算は十分と思われるのだ。
(2014年5月4日)
憲法記念日である。政府は記念行事を行わないが、国民はこの日憲法について思いを巡らし、その存在意義を再確認する。各紙が総力をあげて、それぞれの使命や方針を読者に伝える日でもある。
手の届く範囲で各紙の憲法記事に目を通した。各紙それぞれに工夫を凝らして、憲法問題に取り組んでいる。ほぼ全紙が憲法問題についての社説を載せている。昨年同様、読売・産経の2紙を除いて圧倒的に明文改憲にも解釈改憲にも反対の論調となっている。とりわけ、立憲主義から説き起こして、軽率な明文改憲や時の政権の思惑による憲法解釈の変更を戒めているものが主流を形成している。総じて、列島全域に安倍政権への警戒感が強く滲み出ている。読売や産経は、相変わらずの安倍政権寄りの論調を掲げているが、論理において劣勢であるだけでなく、完全に少数派に転落している印象が強い。
琉球新報社説の冒頭の一節がこうなっている。
「憲法記念日が巡ってきた。今年ほど、憲法改正論議が交わされることも、憲法の意義や価値が説かれることも、かつてなかった。安倍政権は今、集団的自衛権行使に向けた解釈改憲への意欲を隠さない。だがその論理は、平和構築の上でも、民主制・法治という国の体制の面でも、不当かつ非論理的なものと言わざるを得ない。沖縄にも戦争の影が急速に兆す今、戦争放棄と交戦権否定をうたう憲法9条の価値はむしろ高まっている。その資産を守り、今こそ積極的に活用したい。」
また、北海道新聞の「きょう憲法記念日 平和主義の破壊許さない」という社説の冒頭。
「戦後日本の柱である平和憲法が危機に直面している。安倍晋三首相は歴代政権が継承してきた憲法解釈を覆し、集団的自衛権の行使を容認する「政府方針」を、今月中旬にも発表する。自衛隊の海外での武力行使に道を開くもので、専守防衛を基本とする平和主義とは相いれない。9条を実質的に放棄する政策転換と言っても過言ではない。
首相はさらに、憲法が権力を縛る「立憲主義」を否定する。一国のリーダーが、国の最高法規をないがしろにする異常事態だ。」
以上2紙の社説が、全社説の大勢を反映しているといって良いのではないか。
今年の各紙社説の共通テーマは、「立憲主義に照らして、解釈改憲は許容しがたい」「集団的自衛権行使を容認する行政府の憲法解釈は禁じ手」「砂川判決は論拠にならない」「集団的自衛権の限定行使も容認してはならない」というもの。そして、少なからぬメディアが憲法意識の世論調査の結果を引用している。その世論調査のいずれもが、昨年と比較して、明文改憲阻止、集団的自衛権行使容認拒否の方向に劇的に動いている。安倍政権の改憲論は、世論に見はなされ孤立を深めている、と言ってよい情勢。たいへん心強い。
翻って、昨年の憲法記念日は、96条先行改正論をめぐる論議が白熱した時期であった。憲法記念日を前後する論争の盛り上がりのなかで、立憲主義の何たるかが社会に浸透し、これを大切にしなければならないとする世論が定着した。96条先行改憲論を標的として、「姑息」「裏口入学」「禁じ手」「96条先行改憲の本丸は9条改憲」と難じられ、安倍政権も96条先行改憲論をあきらめざるを得なくなった。これが第2次安倍政権改憲論争における護憲勢力の緒戦の勝利であった。
96条先行改憲の困難なことを知った安倍政権は、解釈改憲に主力を移した。内閣法制局長官の首をすげ替える露骨で強引な人事を強行し、安保法制懇答申を待って一気呵成の閣議決定を目論んだが、世論の批判は厳しく、遅滞と後退を余儀なくされている。いまは、「集団的自衛権の限定的行使容認論」。それさえも、本当にできるのか困難な情勢。加えて、2013年12月、無理に無理を重ねて成立させた特定秘密保護法強行時に幅の広い統一戦線的反対論の勢力結集を見た。ここで、保守派も含めて、安倍政権の危うさを共通認識とすることになった。加えて、行かずもがなの靖国参拝である。NHKの人事強行問題もある。
そのような事態を経ての今年憲法の日。その主要テーマである集団的自衛権論争はまさしく、昨年の96条先行改憲是非の論争の延長線上にある。96条先行改憲論に対する批判の核心は、「各議院の総議員の三分の二以上の賛成」という国会の発議要件を「各議院の総議員の過半数の賛成」に変更することが立憲主義に悖るということであった。解釈改憲は、国会内の論議を尽くすこともなく、国民に意見を求めることもなく、時の政権が恣に憲法の解釈を枉げて、実質的に憲法を改正してしまおうというのだ。立憲主義に反すること、これ以上のものはない。
以上の趣旨を反映した社説はたくさんある。典型例は、「揺らぐ憲法ー立憲主義の本旨再確認を」という河北新報社説。以下のとおり、立憲主義の本旨に触れての本格的な論説となっている。
「集団的自衛権をめぐる問題は、容認の是非もさることながら、立憲主義の本旨と衝突する側面も軽視できない。事実上、政府の一存で「実質的な改憲」を行うならば、憲法自体への信頼性を深く傷付けよう。憲法は強大な「国家権力」を縛り、国民一人一人の「権利」「自由」を守る最高法規だ。閣議で都合良く解釈を変更し、自衛隊の運用などは別途、法改正で対応するというのであれば、権力の暴走を招きかねない。」
また、安保法制懇という私的な諮問機関を使う手法についても、手厳しい批判がある。たとえば沖縄タイムスの「岐路に立つ憲法ー戦争の足音が聞こえる」という深刻な標題を掲げた社説の次の一節。
「首相は、解釈の変更によって集団的自衛権の行使容認を実現しようとしている。その理論的支柱となっているのが安保法制懇である。長年にわたり積み重ねてきた政府答弁を、何の法的根拠もない私的懇談会の報告書を基に内閣の解釈変更で覆すことができるなら立憲主義、民主主義の否定につながり、9条の法規範としての意味が失われる。」
そのとおり。安保法制懇は、何の権限ももたず、何の権威もない。時の政権の意を体する人物たちが国会のなすべきことを掠めとろうとしているだけの話しではないか。
砂川事件大法廷判決が、解釈改憲の論拠にはならないとする社説も多い。中国新聞は標題に「憲法の解釈変更 砂川判決 論拠にならぬ」とする社説を掲げて、自民党高村正彦氏の論旨を批判し、さらに、この判決がアメリカの圧力によるものである疑惑濃厚であることから、論拠として引用するにふさわしいものでない趣旨を述べている。
また、限定的にせよ、集団的自衛権行使容認と原則を替えることの危険性を説く社説も多い。原則を放棄すれば、限定の歯止めがなくなるのは必定という指摘と、以下のとおり海外出兵の要請を断れなくなるとするものがある。
「ベトナム戦争の際、集団的自衛権の行使で韓国軍が派遣され多数の死者が出た。イラク戦争に英国は集団的自衛権を行使して兵士を送り込み、米国に次ぐ死者を出した。日本は、戦争終結後に人道復興支援で陸自を派遣したが、一人の犠牲者もなく民間人を傷つけることもなかった。9条が歯止めとして機能したからだ。あの時日本が集団的自衛権の行使が可能だったら、米国からの戦闘派遣要請を断れなかっただろう。」(沖縄タイムス)
また、毎日、朝日、日経、NHK、北海道新聞、沖縄タイムス、琉球新報などが、世論調査を発表し、あるいは直近の調査を引用している。
特筆すべきは、毎日の調査結果。「9条改正反対51%ー前年比14ポイント増」というもの。
「毎日新聞が3日の憲法記念日を前に行った全国世論調査によると、憲法9条を「改正すべきだと思わない」との回答は51%と半数を超え、「思う」の36%を15ポイント上回った。昨年4月の調査では、同じ質問に対し「思う」46%、「思わない」37%だった。安倍晋三首相が改憲ではなく憲法解釈変更によって集団的自衛権の行使を認めようとしていることも影響したとみられる。
9条の改正反対はすべての年代で賛成を上回った。安倍内閣支持層では改正賛成51%、反対36%だったのに対し、不支持層では反対が75%に達し、賛成は18%にとどまった。集団的自衛権の行使を認めるべきではないと考える層では、改正反対が79%と圧倒的。認めるべきだと考える層(全面的と限定的の合計)は賛成が54%だったが、反対も36%を占めた。」
つまり、「9条改正賛成派」対「9条改正反対派」の比率は、
昨年の調査では、46%対37%で、改正賛成派が多数だった。その差9ポイント。
今年の調査では、36%対51%で、反対派が逆転した。しかも、その差は15ポイントである。
9条改正反対派は、1年で実に14%増えたのである。賛成派は10%も減らした。こと、憲法問題に関する限り、「安倍ノー」の世論が圧倒しているといって良い。ものを書き、口にし、語りかけることは無意味ではない。確実に世論を動かし得る。自信を持とう。
(2014年5月3日)
一昨日、ある会合で「教科書ネット21」の俵義文さんと同席の機会を得た。教育問題を最重要課題のひとつと位置づけた安倍政権の「教育再生」政策は、地教行法、教科書無償化措置法、学校教育法の改正、教科書採択基準の変更、道徳の教科化等々、目まぐるしい。俵さんは、その対応に忙殺されているが、さすがに豊富な資料で、的確に要点を指摘している。
「下村博文文科相や義家弘介氏(自民党教育再生実行本部)らによる地教行法の改正も教科書無償化措置法の改正も、つくる会系(育鵬社)教科書採択を最大化をはかる内容となっている」「つくる会系勢力は、前回の採択時に総力をあげて運動したが、失敗したという総括をしている。自分たちの教科書の採択が伸びない原因を、『教育委員会の抵抗』と位置づけ、政治の言うことを聞く教委に変えてしまおうというのが、今回改案の主たる動機だ」「教科書無償化措置法改正による採択地区細分化も同様の思惑。われわれは、『教科書採択は本来教員の意見が十分に反映される制度でなければならない。だから広域採択には反対』と言ってきた。今、彼らは『市郡単位から、市町村単位に採択地区を変更すれば、つくる会系教科書の採択が増える』と見込んでいる。そのため、その政策に関する限りわれわれと奇妙な一致を見ている」ということが大要。そう整理されると、なるほどよく分かる。
ところで、俵さんの話が教科書・教育から離れて、改憲問題に及んだ。
「安倍政権やこれに連なる保守勢力は、明文改憲に失敗して解釈改憲路線を走っているとされているが、決して明文改憲をあきらめたわけではない。地道に草の根の改憲運動が続けられている。その中で、最も警戒すべきが日本会議の地方議連による地方議会決議運動だ。既に、8県議会が3月議会で『憲法改正の早期実現を求める意見書』を採択している。今後警戒して、この動きを封じる工夫をしなければならない」
8県議会とは、石川、千葉、富山、兵庫、愛媛、香川、熊本、鹿児島。
採択されたのは、典型的には次のような内容。
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国会に憲法改正の早期実現を求める意見書
現憲法が昭和22年5月3日に施行されて以来、今日に至るまでの約70年間に我が国をめぐる内外の諸情勢は劇的に変化を遂げている。すなわち、我が国を取り巻く東アジア情勢は、一刻の猶予も許されない事態に直面しており、さらには、家庭、教育、環境などの諸問題や大規模災害等への対応が求められている。
国民が現憲法と現実との乖離の解消を望んでいることは、各種世論調査において、憲法改正の支持が常に過半数に達していることにより明らかであり、各政党、各報道機関、民間団体からも具体的な改憲案が提唱されている。
しかし、平成19年に日本国憲法の改正手続に関する法律が制定されたことに伴い、両院に設置された憲法審査会の活動開始が平成23年にずれ込むなど、憲法改正発議に向けた審議は進展していない。成文憲法を持っている世界各国では現実に合わせるための憲法改正を行っており、日本国民が憲法規定の是非をみずからが判断する国民投票を一度も体験しないままの現状を解消することは、国権の最高機関として国民から国政を負託されている国会の責務である。
よって、国会におかれては、下記の項目を実行されるよう強く要望する。
記
憲法改正案に対して国民が判断できる機会を早急に設けるため、両院の憲法審査会において憲法改正案を早期に作成し、次期国政選挙までに国民投票を実現すること。
以上、地方自治法第99条の規定により意見書を提出する。
平成26年3月17日
熊 本 県 議 会 議 長 藤 川 ? 夫
衆議院議長 伊 吹 文 明 様
参議院議長 山 崎 正 昭 様
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日本会議とは右翼勢力の元締めとなる組織、その会長は三好達・元最高裁長官。自由民主党を中心に280名の日本会議国会議員懇談会を擁しているだけでなく、日本会議地方議員連盟を抱えている。その数1700人と豪語している。
その地方議員連盟の〈基本方針〉は以下のとおり。
1、皇室を尊び、伝統文化を尊重し「誇りある日本」の国づくりをめざす。
2、わが国の国柄に基づいた「新憲法」「新教育基本法」を提唱し、この制定をめざす。
3、独立国家の主権と名誉を守る外交と安全保障を実現する。
4、祖国への誇りと愛情をもった青少年の健全育成へ向け、教育改革に取り組む。
〈運動方針〉は以下のとおり。
「誇りある国づくり」を掲げ、皇室・憲法・防衛・教育等の課題に取り組む日本会議と連携し、地方議会を拠点に、次のような運動を推進します。
?改正された教育基本法に基づき、国旗国歌、日教組、偏向教科書問題など、教育改革に取り組みます。
?青少年の健全育成や、ジェンダーフリー思想から家族の絆を守る運動を推進します。
?議会制度を破壊しかねない自治基本条例への反対など保守の良識を地方行政に働きかけます。
キーワードは、皇室、憲法、教育、防衛、そして家族である。いま、その地方議員連盟が課題としているのが、地方議会における「憲法改正の早期実現を求める意見書」の採択なのだ。自民党が県連に指示し、自民と日本会議とが一体となって運動を推進している。維新も賛成にまわっている。
日本会議はもともとが元号法制化促進運動の中から立ち上がっている。元号法制定促進決議や、靖国神社公式参拝要請決議の運動をやってきた。公式参拝要請決議は37の県議会、1548の市長村議会で成立している。そして今、憲法改正促進決議への取り組みである。
なお、今年も日本会議を中心とする右派勢力は5月3日に公開憲法フォーラムを開催の予定。テーマは、「国家のあり方を問う―憲法改正の早期実現をー」。中央の集会では、櫻井よしこ、船田元、西修、百田尚樹が発言するという。各地方での集会では、長谷川三千子の名も見える。
改憲問題も教育問題も、そしてNHK問題も元号法も靖国も、根は一つの問題なのだ。小選挙区制のマジックで底上げされた安倍極右政権が、今がチャンスと跳梁している。一つ一つの課題において、抵抗し続けていかねばならないと思う。
(2014年4月27日)
私は、1963年4月に大学の教養学部に入学した。半世紀も前のことになる。文系のクラス編成は、第2外国語取得者ごとになされた。ドイツ語既修者がA、未修者がB、フランス語既修者がC、未修者がD、そして中国語は未既修を分けずにEの記号を付されたクラスとされた。スペイン語クラスも、ロシア語クラスもなかった。私は、「Eクラス」で中国語を学んだ。クラス全員で27人。圧倒的な西高東低の時代の絶対少数派。
東西冷戦のさなかで、西側諸国の人民中国へのアレルギーは強かった。中国を承認する国は少なかったのだから無理もない。もちろん、日中間の国交もなかった。イギリスだけが早くから中国を承認していたのが不思議なくらい。1964年1月に、ドゴールのフランスが突然に中国を承認して、歴史は大きく変わった。64年以後Eクラスの人数も大幅に増えることになる。
63年入学までの絶対少数派Eクラスの内部結束は固かった。革命をなし遂げた中国共産党に共鳴する向きが主流であったが、必ずしもみんながそうではなかった。反権力・反権威・叛骨・在野精神などを共通に育んだのでなかったか。思想傾向などを超えて親密な交流が今も続いている。20歳前後の生き方の方向を決めようという時期をともにした友人はかけがえがない。みんな、さしてエラクはなっていない。久しぶりに会えば、肩書などはまったく無視して昔に帰る。
そのクラスメートの中から研究者の道に進んだ者が3名ある。そのうちの一人が粟屋憲太郎君。定年まで立教大学の教授だった。現代史の研究家として、とりわけ東京裁判の研究者として高名である。しばらく体調を崩していたが、先日のクラス会では元気な様子だった。
その席で、近々中国に出掛ける予定と言っていた。上海交通大学が、東京裁判の研究部門をもっており、そこでの講座を担当するとのこと。同大学名誉教授になっているとも言っていた。Eクラス出身者らしい活躍ぶり。
その彼が、いま、北京のようだ。たまたま一昨日(4月23日)のCRI(中国国際放送局)ネット配信記事に、粟屋君の談話が紹介されている。「歴史学者の粟屋氏、『靖国参拝は政教分離に相反する』」という標題。
「日本の新藤義孝総務大臣をはじめ、政治家約150人が靖国神社を参拝したことについて、北京を訪問している日本の歴史学者、粟屋憲太郎さんはCRIの記者に対し、靖国神社の歴史観を批判し、参拝は『政教分離の原則に相反するもの』だと訴えています。
粟屋さんは『日本は、政治が右向きの中で、これだけ多くの国会議員が靖国神社を参拝したということは、たいへん残念なことだ。参拝する行為は、日本国憲法で規定している政教分離の政策に相反している』と話しています。
日本現代史の専門家で、東京裁判の研究で知られる粟屋さんは『日本がサンフランシスコ講和条約で、東京裁判の判決を受諾している以上、A級戦犯を神として祀ることはまったくおかしいことだ』と指摘しています。
また、『靖国神社にある遊就館を見れば、大東亜戦争肯定論であることがわかる。参拝により、戦争に含まれている国家犯罪などの問題を隠し、その正当化を図ろうとしているのが、靖国神社の歴史観である。そのような場所に現職の大臣までが参拝しているとは、全くどうかしていると思う』と憤慨しました。
さらに粟屋さんは、1945年6月にフィリピンのルソン島で戦死した父親を例に挙げ、『家族に何も相談なく、靖国神社が父を祭神にした。それを撤回してくれと言っても、取り下げようとしない。そういう形で祀られた戦死者も多い』と話し、政教分離の原則からも『戦争犠牲者の哀悼は無宗教の千鳥ヶ淵戦没者墓苑で行うべきで、長い目から見れば、国は新しい追悼施設を作るべきだ』と主張しています」
第2次大戦で反ファシズム連合国に敗れた日本が、国際社会に復帰することが許容された条件が、サンフランシスコ講和条約第11条「極東国際軍事裁判所並びに国内外の他の連合国戦争犯罪法廷の裁判の受諾」であった。憲法前文に謳われた「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることの決意」の具体化でもある。靖国に東京裁判で有罪となったA級戦犯を合祀すること、それに現職の大臣までが参拝することは、東京裁判受諾の国際誓約を反故にすることではないか。靖国と、靖国派政治家への彼の怒りが伝わってくる。
それにしても、粟屋君が「靖国の遺児」だとは知らなかった。インタビューに応じた言葉にも、理屈だけのものではない、情念のほとばしりが見て取れる。日本の良心を代表しての中国での発言に、賛意と敬意を惜しまない。
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「ダイオウグソクムシ」(大王具足虫)の死の謎
今日は水族館の話。各地の水族館で「ダイオウグソクムシ」が人気を呼んでいる。ダイオウグソクムシは節足動物門等脚目スナホリムシ科の甲殻類で、ダンゴムシやワラジムシの仲間で最大のもの。ダイオウの名前がついているとおり、成長すれば体長50センチ、体重1キロ余になるという。メキシコ湾や西太平洋の深海に住み、沈んできた死骸の掃除をして生きている。
数年前、江ノ島水族館で、ピクリとも動かないダイオウグソクムシを、こちらもじっと動かず辛抱強く観たことがある。海水のなかに落ちてふやけた巨大なダンゴムシのようだった。いったい生きているのか、死んでいるのか、最後までわからなかった。
鳥羽水族館のダイオウグソクムシが、5年と43日絶食したまま、本年2月14日午後5時半頃死亡したと報じられた。「NO.1」と名付けられた、このダイオウグソクムシは死亡時、「水族館での飼育日数は2350日(6年と158日)、2009年1月2日に50グラムのアジを食べて以降、絶食日数は1869日(5年と43日)に達していた」(産経新聞3月14日)。2007年メキシコ湾から送られてきた時の体長29センチ、体重1キロのまま、死亡時までほぼ変化がなかったという。
生態については、鳥羽水族館の飼育員の森滝丈也さんが克明な飼育日記をつけており、正確な記録があるという。森滝さんは、水槽の水質、水温はもとより、餌は新鮮なイカ、ホッケ、サンマ、ニシン、シシャモ、ブリ、それでだめなら腐ったニシンと手を変え品を変えて、工夫を凝らして飼育に励んだ。NO.1は水族館に来て9カ月目と1年4カ月目に新鮮なシマアジを食べたその後は、何も口にしなくなってしまったらしい。絶食が報道されると、動画サイトには1年間に300万ものアクセスがあったという。その祈りも届かず、NO.1は絶命した。
NO.1の死後、森滝さんは「食べなくても生きることができる秘密」を解明するために解剖を行った。とうぜん「餓死」が疑われたが、甲羅の裏側など肉も痩せておらず、どうもそうではなさそうだ。不思議なことに、胃の内部は淡褐色の液体で満たされており、酵母様真菌が増殖していた。
もともと、ダイオウグソクムシは食が細く、1年間ぐらいの絶食は珍しくないらしい。新江ノ島水族館でも、3カ月に1度しか餌は与えていない。結局NO.1の生と死の謎は解明されなかつた。胃の中の酵母様真菌と長期間の絶食の関連性は、今後の研究にゆだねられた。
1日3度の食事作りに追われて家庭の主婦やスリムな体型維持に苦労している人にとって、NO.1の生き方ほど魅力的なものはない。iPS細胞やSTAP現象に勝るとも劣らない研究テーマとなるはずだ。1日も早くNO.1の生の秘密を解明してもらいたい。
もし、ヨーグルト状の酵母様真菌を3カ月に1回食べれば生きてゆけるとなったら…、人類は食糧獲得の競争から解放される。食事のための労働からも解放される。地上は、ダンゴムシ様人間の天国となるだろう…か。
(2014年4月25日)
以下は、本日のCNN日本語版ネット配信記事。アメリカの銃「規制」問題についての最新事情をものがたっている。
「米ジョージア州で学校や教会などへの銃携行を条件付きで認める条項を盛り込んだ州法が23日、ネイサン・ディール知事の署名で成立した。
同法は銃の携行を認める場所について規定する内容で、許可証を持つ人物が銃を隠して一部のバーや教会、学校、行政庁舎、空港の駐車場やショッピング街など一部区域に持ち込むことも認めている。同法は7月1日から施行される。
署名式は同州北部エリジェイの屋外ピクニック場で行われ、出席者の多くは拳銃を携行していた。全米ライフル協会の帽子をかぶったり、「銃規制をやめろ」「銃は命を救う」などの横断幕を掲げる出席者もいた。
ディール知事は署名に当たり、「我々の自由を再確認する素晴らしい日」が来たと述べ、同法によって住民は家族を守ることができ、銃を携行できる場所が増えると強調。銃の持ち込みを認めるかどうかは教会やバーなどの所有者が決められるとした。
一方、反対派は同法を「銃どこでも法案」と呼んで批判していた。銃の持ち込みを認める範囲は当初の法案よりは狭められたものの、『これで米国一利用者の多い空港に銃が持ち込めることになり、学校では教室への銃持ち込みを認めるかどうかを巡って激しい論争が持ち上がる』(法案反対組織の幹部)と批判している。」
南部ジョージア州といえば、州都がアトランタ。かの「風と共に去りぬ」の舞台である。コカ・コーラ、CNNなどの企業本社所在地としても、犯罪多発地帯としても知られる。デルタ航空本社もここにあり、アトランタ空港は「世界で最も忙しい空港」という異名をとる。全米で最も銃規制が緩やかというフロリダに隣接してもいる。そのジョージア州での「銃どこでも法」の成立。
オバマ来日中だが、「アメリカのようにはなりたくない」と昔から思ってきた。私のイメージに沈潜しているアメリカの一面は、「差別の国」「格差の国」そして「暴力の国」である。「暴力の国アメリカ」を象徴するものが、「銃の社会」「銃の国」としての実態である。至るところに銃がある。いつ発砲されるかの不安から逃れられない。全米での銃所持率は57.7%に上るという。毎年1万人以上が射殺されている。いやしくも文明国、当然に銃規制の進展があるだろうと思っていたが、実はそうなっていない。ジョージアでの「銃どこでも法」の成立は、銃規制に逆行する全米の傾向をものがたっている。
銃規制に反対する思想は、「自衛のための武力は必要」、「自衛手段を備えることは権利」というもの。「『凶器としての銃』に対抗する手段としての護身の銃」を手放すことはできない、との信念である。
敷衍すれば、こうではないか。殺人や傷害、強盗・恐喝・脅迫の手段となる銃(悪い銃)と、身を守る手段としての銃(良い銃)とがある。「銃は命を救う」「住民は家族を守ることができる」「我々の自由を再確認する素晴らしい日」という発言は、良い銃が必要だし、良い銃が社会に充ちることこそが望ましい、という発想である。あるいは、銃が世に満ちれば、悪い銃は使えなくなるに違いない、というあまりに近視眼的な発想。
もちろん、銃に良いも悪いもない。どの銃にも殺傷力があるだけ。銃は本来的に危険な凶器である。使い手次第で、その危険性が現実化して、悪い銃になる。「良い銃こそ、世に満ちよ」という願いで、規制を解かれて世に出される大量の銃のうち、その一部は確実に「悪い銃」として使われる。
また、はたして銃が世に満ちれば悪い銃が使えなくなるだろうか。昨年9月、「銃の所持と殺人の間には、確実な統計的関連性がある」とする研究報告が、米国医師会雑誌に発表されている。「研究は30年間、全米50州を対象に行われたもので、銃の所持率が1%上がるごとに、殺人率が0.9%上がるとされている」という(AFPの記事http://www.afpbb.com/articles/-/2968025?pid=11340935)。
この結論は常識的なものだが、統計数値に支えられて説得力は大きい。この度のジョージアの立法も、確実に殺人率を上げることに貢献するだろう。
「国家権力に武力の独占をさせてはならない」として、人民からの武器剥奪に抵抗する思想に魅力を感じないではない。しかし、その思想の妥当性は役割を終えた過去のものとなった。歴史的には国民が銃を持つ権利が意味をもっていたが、今や国民が武器をもたないで安全に暮らせる社会の実現こそが具体的な目標となるべきだ。治安の攪乱が、身を守るべき銃を必要とする。治安の確立が銃を必要ないものとする。真に身を守る手段は、銃ではなく、いま人に銃を持たせることになる要因としての、格差・貧困・偏見・憎悪の克服をこそ目指すべきであろう。
この議論は、一国における武装自衛主義と非武装平和主義との論争に通じる。歴史は、国民が武器をもたない社会の形成をめざして、ほぼ実現しつつある。次は、各国が武器を持つ必要のない国際社会を目指すべきが当然だろう。国防軍の増強ではなく、各国間の格差・貧困・偏見・憎悪・収奪を克服して、国家間、国民間の平和的な交流の促進が課題となる。
その先頭に日本か立つことによって「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。」
なお、アメリカの銃規制反対派の拠りどころは、合衆国憲法である。その修正第2条は、「規律ある民兵は、自由な国家の安全にとって必要であるから、人民が武器を保有しまた携帯する権利は、これを侵してはならない」というもの。「人民が武器を保有しまた携帯する権利」とは、「良い銃」の保持が憲法価値にまで高められているのだ。とはいえ、この武器保有の権利も、国民の生命の保全や生活の安全などの他の憲法価値と衝突することとなれば、衡量しなければならない。既に、銃保有の自由が「殺人率」を高めて、国民の生命や社会生活の安全に桎梏となっていることが明らかとなっている以上は、銃規制の合憲性は当然と言うべきではないか。
(2014年4月24日)
本日(4月23日)、東京高裁第23民事部(鈴木健太裁判長)は、いわゆる「たちかぜ裁判」での控訴審判決を言い渡し、国に対して7350万円の損害賠償を命じた。
よく知られているとおり、事案の内容は、海上自衛隊の護衛艦「たちかぜ」に勤務していた1等海士(当時21歳)が2004年10月に自殺したことについて、上職隊員のいじめが原因として、遺族が国といじめの元凶であった隊員に、その責任を問うたものである。
いじめがあったことは一審以来明らかにされていた。一審判決(水野邦夫裁判長)も、いじめの事実は認定して、いじめによって被害者が受けた精神的被害については賠償請求を認容した。が、その額は弁護士費用を含めて440万円に過ぎなかった。いじめと自殺との因果関係を認めなかったからである。
不法行為制度では、違法(故意・過失)行為に起因する全損害の賠償が認容されるわけではなく、相当因果関係が認められる範囲に限定される。相当因果関係を画するのが予見可能性である。本件の場合には、死亡という結果についての損害賠償請求が認容されるためには、いじめと自殺との間に、相当因果関係あることが要求され、いじめの被害者の自殺が「予見可能」であったことの証明が求められる。一審では、予見可能性の認定に至らなかったが、本日の控訴審判決では一転してこれを認めた。そのため、被害者の死亡による財産的・精神的損害の一切について賠償が命じられた。原告側は誇らしげに「完全勝訴」の垂れ幕を掲げた。
横浜地裁の一審判決が、2011年1月26日。控訴審係属期間3年余は最近では珍しい長期審理。統計によれば、東京高裁では民事控訴審事件の80%近くが一回だけの口頭弁論で結審になっている。本件が長引いたのは、特殊な事情による。予見可能性を立証する証拠の存在についての内部告発があったからだ。その内部告発に裁判所が耳を傾けたことが、慎重な審理となり、認容額も一審の440万円から、7350万円に大幅増額された。なによりも、事実が明らかにされ、被害者を自殺に追い込んだ自衛隊の責任が明瞭となったことが遺族にとっては何ものにも代えがたい提訴の成果であったろう。予期せぬこととして、自衛隊の常習的ないじめ体質だけでなく、不祥事の隠蔽体質まで明らかとされた。控訴審判決は、「重要な文書を海自側が違法に隠匿したと認定、このことについて独立して20万円の賠償を認めた」ことが報道されている。
もし、内部告発がなかったとしたら…。おそらくは、早期結審によって控訴棄却判決となり、一審判決が確定していたであろう。勇気ある内部告発が、司法の正義に貢献したのだ。
問題の内部告発情報は、乗組員190人分のアンケートや事情聴取メモである。その中には、生々しいいじめの報告だけでなく、「自殺前夜に、被害者から自殺を示唆された」という聴き取りメモもあった。一審では国側は、そのすべてが破棄されて存在しないとしていたが、実は保管されていたことが内部告発で判明した。この内部告発者は、法務に携わり本件を担当した現役の三等海佐。
朝日の生々しい報道がある。この三佐が直接上司に発言したのは、2011年1月26日。一審判決の日の言い渡し時刻の直前だったという。懐には、ICレコーダーを忍ばせて、海自の幹部の一人である首席法務官の部屋を訪ねた。「説得に失敗したら、人生が破滅する――。覚悟のうえでの『直訴』だった」という。しかし、この説得が聞き入れられることはなかった。
三佐は情報公開を請求するが、海自は「アンケートは破棄」と回答。三佐は、その後の2012年2月遺族側弁護士に事情を打ち明ける。そして同年4月、「海自はアンケートを隠している」と告発する内容の陳述書を東京高裁に提出した。すると、同年6月海自は一転して「アンケートが見つかった」と発表。以後、審理の方向は大きく転換することとなった。
ところが、思いがけないことが起こる。2013年6月、海自から三佐に、懲戒処分手続きの開始を通知する文書が届くのである。三佐は、調査の関連文書のコピーを証拠として自宅に保管していた。海自はこれを規律違反だと主張し、三佐は「正当な目的であり、違反にあたらない」と争っている。今後、海自がこの件をどうするか、予断を許さない。
「公益通報者保護法」の制定が2004年6月、施行は06年4月1日からである。この法律の制定過程の議論では、過剰な期待を抱いたものだ。この法律は、我が国の文化史の画期となるものではないか。組織に埋没した個人の主体性を救い出すきっかけとなるのではないか。圧倒的な存在としての「組織」、その最たるものとしての「国家権力」に対して、個人に闘う武器を与えるものとなるのではないか…。期待したほどの法律はできなかったが、それでもこれは第一歩。これからは内部告発者が、「公益通報者」として保護される時代なのだと期待させるものはあった。あれから10年、個人と組織との力関係の変化は生じていない。
そのような社会において、本件の三佐には、無条件に敬意を表するしかない。ときどき現れるこの三佐のような「正義の人」が、社会の鑑である。一人一人を励ます貴重な存在でもある。私も、ささやかな組織への抵抗を経験して、この人の覚悟のほどがよく分かる。言うは易く行うは難いのだ。社会はこの人に感謝すべきである。表彰すべきが当然で、懲戒処分にするなどとはもってのほか。海自には、よくお考えいただかねばならない。
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散歩をしよう。サクラが終わっても、いたるところ緑。
庭でタケノコを見つけた。丁寧に掘りあげて、茹でて、ありがたく頂戴することにしよう。長さ20センチ、直径5センチほどの小さなもので、汁の実ぐらいにしかならないが。
実はこのタケノコの親は、15年ほど前に、ブロック塀の下をかいくぐって隣から家宅侵入してきた不届き者だ。その都度、これを手打ちにしてきた。その隣にはアパートが建って、元の竹林は消滅したのだが、我が家の日当たりの悪い庭に侵入した分だけが生き残って、細々と命脈を保っている。ひょろりとした3本の「孟宗竹」が、毎年1、2本ほどのタケノコをやっとのことで顔を出す。それを情け容赦なく掘りあげるのである。気がつかない年には、細くスラリとした青竹が立ち上がって、そのまま命を全うすることもある。そんな年は、古竹を切って物干し竿にするのだ。猫の額ほどの庭だが、豪壮な話のタネにはなるので、この竹林は絶やすことなく大切にしようと思う。
さて、こちらは本当の庭園の話。東大本郷の三四郎池では、まわりの木に這い上ったヤマフジが今を盛りと、見事に咲き誇っている。花に絡まれた木が池の上に傾いて、池に映った藤色の美しいこと。きっと、ヤマザクラが終わった関東の里山をヤマフジの薄紫が飾っているのだろうと想像するだけでうっとりする。
東大の構内はいたるところで、大木のイチョウに可愛らしい小さな葉が出てきて賑やかだ。木の下には役目を終えた雄花が、歩道がみえないほどたくさん散り敷いている。トチノキも天狗の団扇のような大きな葉をゆったりと開いている。モミジもヤナギもマンサクもコブシもサンシュユも柔らかな葉を開いている。薄紫の花を枝の先にいっぱいつけた桐の木も空に向かって堂々と華やかだ。ハナミズキも白やピンクの花に飾られて、アピール満点だ。上だけではない。下を見れば、色とりどりのツツジが咲き始めている。郊外や山には行けなくとも、公園や街路の緑を眺めるだけで、気分が爽快になる。時間を見つけて散歩をしよう。
(2014年4月23日)
最近、各地の自治体による、護憲運動や市民運動への冷たい仕打ちが目につく。安倍政権発足以来の時代の空気を反映するものとして不気味なことこの上ない。その口実が、「行政の政治的中立」である。これには警戒を要する。
このことを最初に意識したのは、神戸市が今年の憲法記念日集会への後援申請を拒否したという報道。この件については、「『政治的中立』という名目での政治的偏向」との標題を付して、3月13日の当ブログで取りあげた。その集会は内田樹氏の講演をメインとするもの。講演のテーマは、「憲法施行67周年、今あらためて憲法を考える」というだけの党派性の片鱗もないもの。しかも、同氏は地元・神戸女学院大学で長く教鞭を執った人ではないか。前例に鑑みて、主催の実行委員会は当然に後援の決定あるものと想定していた。不承認には驚いたようだ。断った市教委は、その理由を「『憲法』自体が政治的な要素を含むテーマである昨今の社会情勢に鑑み」と堂々と明示したそうだ。「憲法を考える」「憲法を守ろう」というごく当然の言動が政治的だと攻撃される時代なのだ。
長野県千曲市でも、東大の小森陽一さんの3月30日講演会(実行委員会主催)の後援要請を市長が「不承認」としている。同市では、07年3月の「九条の会」呼びかけ人の澤地久枝さん、同11月の経済同友会終身幹事の品川正治さん、08年3月の経済アナリストの森永卓郎さんの各講演会(いずれも千曲市9条の会主催)は、市も市教育委員会も後援していたのにかかわらず、である。ここでも、不承認の理由が「講演内容に政治的主張を含むと認められるため」「講演テーマは国論を二分する問題であり、政治的意見の分かれる典型的なもの…行政の中立性が保てない恐れがある」とされているという(3月7日付赤旗による)。
栃木県那須塩原市は、新潟県巻町での脱原発運動の実話をドラマ化した「渡されたバトン さよなら原発」上映会への後援を断った。同市は以前、同じ団体が催した憲法などに関する上映会や、原発関連でも内部被ばく対策など別の団体が催した5件は後援した、にもかかわらずである。従前の例に照らせば、明らかに方針が変わっているのだ。
「渡されたバトン さよなら原発」は、住民投票で原発建設計画を撤回させた新潟県巻町(現新潟市)のドラマで、映画制作会社インディーズ(東京都中央区)が社会的なテーマを扱ったシリーズの3作目。市民でつくる実行委員会は昨年11月、市に後援申請したが却下され、今年1月に後援なく開催した。実行委によると、市の取り扱い要領が「目的や内容に公共性があること」を名義後援の条件としており、「公共性があると明確に判断できない」と説明されたという(東京新聞)。原発問題や原発反対運動にかかわる問題を、「公共性がない」と切って捨てる神経は理解しがたい。当然のことながら、主催者も「那須塩原市は福島県に接しており、原発への関心は高い」と反発している。
そして、「千葉市も自主規制 平和集会 後援断る」という報道である。一作日(4月17日)の東京朝刊。記者の問題意識がよく反映した記事になっている。
「憲法や原発をテーマにした市民団体のイベントなどの後援申請を拒否する自治体が相次いでいる問題で、千葉市も4月から、平和に関する行事の後援などの申請要件を厳格化し、実質的に拒否していることが分かった。市ではこれに先立ち、1月の平和集会の後援を拒否していた。
市は、行事の共催や後援に関する基準を4月から変更した。従来は、共催や後援を見送るのは政治的・宗教的中立性を侵したり、営利目的のケースだったが、新たに平和関連行事を念頭に『一般的に論点が分かれているとされる思想、事実等について主観的考えを主張すると認められるとき』や『そのおそれのあるとき』を加えた。
市男女共同参画課によると、平和行事の定義は、戦争の悲惨さや平和の大切さを伝える行事。担当者は『東日本大震災以降、脱原発や憲法をテーマにした行事の後援申請が増えた。政治的中立性という従来の基準はあいまいで、判断に困る場合が出てきた』と説明している。」
千葉市は、「政治的中立性という従来の基準はあいまい」と言いつつ、もっと極端に、政治的中立性という口実での偏向姿勢を露わにしているのだ。
昨日(4月18日)赤旗は、『「平和憲法電車」中止ひどい」と報道している。こちらは自治体ではないが、地方の鉄道会社の方針変更による平和憲法への冷たい仕打ち。
「高知県の市民団体などがカンパを募り、土佐電気鉄道(本社・高知市)の路面電車に、『守ろう平和憲法』や『9条は世界の宝』と書いた車両を走らせていましたが、同社は今年から中止することを決めました。市民から批判の声が出ています。
平和憲法ネットワークなどが2006年から(途中2回中断)『平和憲法号』を、高知憲法会議などが昨年から『憲法9条号』をそれぞれ運行。憲法記念日の5月3日前後から終戦記念日の8月中旬まで高知市を中心に25・3キロの区間を走らせていました。80万円ほどの費用は市民カンパで賄ってきました。
土佐電鉄では、昨年の運行に対し市民から電話やメールで賛同の意見とともに、『意見広告ではないか』との指摘があったとして論議。国会でも憲法論議が高まっている時に『政治的と受け取られかねない』と判断し『走らさない』と団体に通告してきました」
「平和憲法電車」中止の理由が、国会での改憲論議と絡んでいることに注目せざるを得ない。
そして、昨日(4月18日)の毎日夕刊の報道である。「強制連行追悼碑:群馬県が『政治利用』と許可更新に応じず」という記事。「記憶 反省 そして友好」と刻まれている朝鮮人強制連行追悼碑の設置許可更新に県が応じていないという記事。全文を転記しておきたい。
「第二次世界大戦中の強制連行で犠牲になった韓国・朝鮮人を追悼しようと、群馬県高崎市の県立公園『群馬の森』に建てられた石碑を巡り、県が『政治利用されている可能性がある』として設置許可の更新に応じていないことが分かった。碑を管理する市民団体『追悼碑を守る会』は『平和と友好を誓った碑を撤去せざるを得なくなる』と懸念している。
市民団体が県の設置許可を得て、2004年4月に追悼碑を建立。高さ1.8メートルで、『わが国が朝鮮人に対し、多大の損害と苦痛を与えた歴史の事実を深く記憶にとどめ、二度と過ちを繰り返さない決意を表明する』などと刻まれている。
県や守る会によると、12年から『碑文が反日的なので撤去して』との苦情が計約100件あった。その後、県は、12年の追悼集会で参加者が高校授業料無償化の対象から朝鮮学校を除外する政府方針を批判したことなどについて、『政治的行事を行わないと定めた設置許可条件に抵触する可能性がある』と問題視するようになった。
県は今年1月に『政治的発言と考えるか』などとの質問を出したが、守る会は『集会が丸ごと政治喧伝の場であったかのように決めつけている』として回答を拒否。碑の設置許可は10年間だが、県は更新申請を保留し、1月に期限が切れた。
守る会の猪上輝雄事務局長(84)は『韓国や中国との関係がぎくしゃくしているこの時代にこそ、碑の意味がある』と訴える。県都市計画課は『再度の回答要請も含めて対応を検討中』としている。」
問題の発端が「碑文が反日的なので撤去して」との「約100件の苦情」であったというのだ。県当局が、このような排外的な、歴史修正主義者たちの「意見」に振り回されている様子が情けない。しかし、群馬県は、設置許可更新の申請に回答を保留し、まだ拒否したということではなさそうだ。是非良識を発揮して着地点を見つけてもらいたい。
仮に、設置挙許可更新拒否、碑の撤去要求という事態に至るようなことがあれば、日韓、日朝間の大きな問題となるだけではない。国際世論から、「いまだに日本は、侵略戦争や植民地支配への反省をしていない」として指弾されざるを得ない。また、10年前には碑の設置を許可し、今設置許可の更新を拒否する、その姿勢の豹変ぶりが、軍国主義化、大国主義への路線変更と各国に印象づけられることにもなるだろう。
それにしても、「政治的中立」あるいは、「意見が別れている問題への支持支援拒否」という名目での、その実は「著しい政治的偏向」の動きには、その都度的確に抗議しなければならない。自治体にとって、「護憲」も「改憲」も、どっちもどっちの「政治的」イシューなのではない。自治体が支持・支援すべきは、「憲法擁護」「改憲阻止」「憲法の理念の実現」というテーマである。つまりは、平和・人権・民主主義に与する方向であって、「改憲」「排外主義」「差別」「反人権」ではない。基準はあくまで日本国憲法なのだ。憲法を遵守すること、憲法理念の実現に努力することは、自治体の責務と認識されなければならない。
(2014年4月19日)
孟子は、人の性を善なるものと説いた。孟子公孫丑編の四端説の章に、次の有名な一節がある。高校時代に漢文の授業で習った。
「人みな人に忍びざるの心有り。…人みな人に忍びざるの心有りと謂ふ所以は、いま、人たちまち孺子の将に井に入らんとするを見れば、みな怵惕惻隠の心有り。交わりを孺子の父母に内るる所以にあらず、誉れを郷党朋友に要むる所以にあらず、其の声を悪みて然るにもあらざるなり。これに由りてこれを観れば、惻隠の心なきは、人にあらざるなり。羞悪の心なきは、人にあらざるなり。辞譲の心なきは、人にあらざるなり。是非の心なきは、人にあらざるなり。惻隠の心は仁の端なり。羞悪の心は義の端なり。辞譲の心は礼の端なり。是非の心は智の端なり」(今里禎の読み下し)
次のような大意であろう。
「誰にだって、思いやりの心がある。だってね、ちっちゃい子が井戸に落ちそうになっているのを見たら、誰だって、『あっ危ない、何とかしてあげなくちゃ』って思うだろう。その子の親に取り入ろうとか、周りの人たちに褒めてもらおうとか、なにもしなけりゃ悪口を言われるからってわけじゃない。だからね、思いやりの心というのは誰にでもあるんだ。これなくちゃ人間じゃない。悪を恥じる心も、譲り合う心も、善悪を判断する心もおんなじだ。」
その上で「四端」が説かれる。惻隠・羞悪・辞譲・是非の心が、それぞれ仁・義・礼・智の各「端」(今里訳では、端を「芽生え」としている。「糸口」などという洒落た訳もある。)であるというもの。高校時代、よくは分からないながら、「惻隠の心なきは、人に非ざるなり」「惻隠の心は仁の端なり」のフレーズが印象に残った。
「孟子」には、人が生来もっているはずの善として、惻隠・羞悪・辞譲・是非の心が語られている。中でも、「惻隠の心」である。どう理解すればよいのだろう。
藤堂明保の「漢字源」によれば、惻とは「いつも心について離れない。ひしひしと心に迫る」の意という。「惻隠」は、「ひしひしといたわしく思う」とされている。広辞苑もこれによったか、「いたわしく思うこと。あわれみ」とある。「同情する心」、「痛ましく思うこと」、「慈しむこと」などとも解されているようだ。私には、「思いやり」の語が一番しっくりする。
今にして思う。孟子の説いている善とは、人の痛みへの共感のことではないのだろうか。子どもが井戸に落ちそうになれば、とっさに助けたいと思う。もし、落ちてしまえば、その子の苦しみは自分の苦痛となる。その子の母の嘆きは、自分の悲嘆でもある。人間の尊厳を尊重し、人間の尊厳の侵害に対して、侵害された人に寄り添い、共感をもってともに痛む心、それが「惻隠の心」ではないか。「惻隠の心なきは、人に非ざるなり」は今に通じる名言だと思う。
韓国の旅客船セウォル号が一昨日(4月16日)珍島付近で沈没し、多数の死者と行方不明者を出している。リアルタイムの報道に胸が締めつけられる。狂わんばかりに、わが子の安否を案じる母親の姿に心の痛まない者はない。
「船内にいる子どもからメッセージが届いた」という報道があった。沈没した船内に取り残されたという男子生徒から、兄に携帯電話の文字メッセージが届いた。生存者がおり、救出を求める内容で、「今ここは船の中、何も見えない。男子数人と女の子が泣いている。まだ私は死んでいない」と記されたものだったという。涙がこぼれそうになる。いま、韓国民だけでなく、日本国民も「惻隠の心」を感じている。ヘイトスピーチの連中も、人として同様であろう。
ところが、残念なことに、「惻隠の心」を持ち合わせていない人もいる。性善説が揺らぎかねない。
今月13日、米カンザス州オーバーランドパークのユダヤ教系施設で、銃撃によって3人が殺害された。犯人として逮捕されたのはフレージャー・グレン・クロス(73歳)。コミュニティーセンターの駐車場で14歳の少年と祖父を射殺し、さらに近くの高齢者介護施設の駐車場で女性1人を殺害した。白人至上主義者集団クー・クラックス・クラン(KKK)に関連する団体の元幹部で、極端な反ユダヤ主義活動家であり、黒人への嫌がらせを繰り返してもいたという。事件が起きた13日は、ユダヤ教の行事「過越の祭り」開始日の前日だった。地元テレビ局の映像には、逮捕された容疑者がパトカーの後部座席から「ヒトラー万歳」と叫ぶ姿が映っていた(CNNの報道)。
死亡した少年は、歌唱コンテストのオーディションに出場するため祖父の車でセンターを訪れていた。祖父は現役の医師。皮肉なことに、2人ともキリスト教徒だった。被害者の女性は、介護施設に入居中の母親を毎週末見舞っており、その施設の駐車場で撃たれた。視覚障害児の施設で作業療法士を務め、この人もカトリック教会に所属していた。
この犯人には、惻隠の情がない。彼がユダヤ人と思い込んだ3人に、それぞれの人生があり、家族があり、交流する人々がいることを考えられない。死への恐怖や、心の痛み、周りの人の悲哀に共感すべき心が失われている。井戸に落ちそうな子どもを救うはずの人間が、子どもを井戸に突き落としたのだ。「惻隠の心なきは、人に非ざるなり」というほかはない。
しかし、孟子の性善説も、次のように解釈されている。
「人間の本性が善である、という命題は、けっして現実の人間が善であることを意味しない。『性』を全面的に開花させるためには、人格完成のための努力が必要である。ここに実践倫理としての孟子独自の修養論が内省を中心として展開されるのである」(松枝茂夫・竹内好監修「中国の思想・孟子」)
国籍・言語・宗教・人種・性別・門地・職業・障がいの有無等の一切を捨象して、誰もが等しく人間としての尊厳を尊重されなければならない。「等しく」とは、「弱い立場にある者ほど手厚く」という意味でもある。自己と他者をともに人間としての尊厳あるものとする姿勢は、「性善」だからといって当然に現実化しているわけではない。その本来の善を開花させるために、人権尊重の教育が必要なのだ。徹底して差別を戒める教育が重要なのだ。惻隠の情の獲得は、具体的に心身の痛みを背負う人々と接触し、その人たちの痛みや嘆き苦しみ悲哀を身近に感じることが糸口であろう。そのことから、人間としての尊厳を傷つけられた者に対しての、共感能力が育つ。私は、現代の教養とは、人権侵害の被害に対する共感能力のことだと思っている。人権侵害に、敏感でありたい。
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八重の「御室桜(オムロザクラ)」が世代交代で一重の桜に
昨日、恒例の根津神社のツツジ祭りへ行ってきた。まだ2分咲き程度で、入場券にプリントされた写真とはだいぶ様子が違っていたが、緑に混じった色とりどりのツツジは初々しく美しかった。見物客が少なくてゆっくり見られたこともなによりだった。
ツツジ山を下りたところによしず張りの植木屋の店が出ている。今年はもう絶対、植木は買わないと強い決意で、「見るだけ、見るだけ」と覗いてみると、シロ花のハナズオウと八重桜が私をがっちりとらえて、「つれてって、つれてって」と放してくれない。どうしたって運命的出会いには抗えるものではない。紫色のハナズオウはよくあるけれど、白は珍しい。八重桜は「キクシダレ(菊枝垂)」。これもなかなかお目にかかれるものじゃない。花は濃いめのピンクの八重咲き。小さな花弁がギッシリ集まってボール状になって、それが3から5花ぐらいづつかたまってぶら下がっている。何とも可憐である。置いて帰るわけにはいかない。
さて、帰宅して、花弁の数を数えてみたら、一花につき91枚、116枚、124枚と花を3つまで分解して数えたが、それ以上は根気が続かずやめてしまった。径3センチメートルの小花に大体100枚以上の花弁がついている。雌しべは1本、雄しべはかすかに3,4本。雄しべは花弁に変化してしまったのだ。真ん中の花弁は糸くずのように細くて小さい。こんな花弁数が極端に多い八重咲きをキク咲きという。
枝垂れない普通の「キクザクラ(菊桜)」は花弁が、100枚から180枚。「ケンロクエンキクザクラ(兼六園菊桜)」は100枚から300枚。「ライゴウジキクザクラ(来迎寺菊桜)」は2段咲きで90枚から270枚。「フジキクザクラ(富士菊桜)」は2段咲きで300枚から400枚。トップクラスは「ヒヨドリザクラ(鵯桜)」で、2段咲きで280枚から450枚。以上は「日本の桜」(木原浩ほか著 山と渓谷社)からピックアップしたもの。ヤマザクラのような5弁花に飽き足らない人たちは、400枚もの花弁をもつようなサトザクラをつくりあげたのだ。おかげで春になると、ソメイヨシノやヤマザクラのシンプルな美しさとサトザクラの豪華さの前で、どちらがいいか心が引き裂かれる思いがする。
京都仁和寺の「御室桜(オムロザクラ)」は京都の春の最後を飾る遅咲きの八重桜。種類は「オムロアリアケ」。ヤマザクラの影響の見られるサトザクラで花弁が5から10枚のふっくりとした八重の白い花を咲かせる。
その御室桜について4月15日付け京都新聞は次のように報じている。
江戸時代に貝原益軒の「京城勝覧」(1718年)は「境内の奥に八重桜多し、洛中洛外にて第一とす」と記している。また、昭和初期の研究者香山益彦の「御室の桜」には「八重が多数を占める」と書いてある。ところが、今回調査したところ、212本のうち八重はわずか18本しかなかった。樹齢360年のサクラが枯れて植え変えられたわけではなく、大枝が枯れて、根もとからでてきた「ひこばえ」で世代交代を繰り返しているうちに、そこに咲いた花は一重になってしまったのだ。品種改良された八重のオムロアリアケが先祖返りしてしまったということらしい。
仁和寺の立部佑道門跡は「御室桜は枝が大きくなると枯れてゆく特性があるが、それもまた花の姿の一つ。桜から学んでいこうという気持ちがあるので、御室桜を新しい苗に植え替えるということはしない」と述べている。もっとも、2010年に芽の組織から苗木を作る研究が行われ、今年の4月11日143センチに成長したクローン桜の蕾が一輪開花した。それを報じた朝日新聞の写真を見ると、白いふっくりとした八重桜が映っている。
この話を聞けば、理研の小保方さんのスタップ現象もありうることかもしれない気分がしてくる。組織細胞にお酢をかけて、初期化すれば八重も一重も思いのままなんて、楽しいようでもあり、恐いようでもある。
(2014年4月17日)
4月12日の当ブログで、「竹富町の八重山採択地区協からの独立の意向を尊重せよ」と書いた。「尊重せよ」の宛名は、安倍政権であり、文科省であり、下村博文文科相であり、石垣・与那国の教育長らのつもりだった。
竹富町教委を支持して政権の不当を論じているのは私ばかりではない。多くの良識の一致するところといってよい。これに対して、産経・読売がタッグを組んだがごとく、瓜二つの社説を書いている。13日産経「竹富町の教科書 法の無視は認められない」、本日(15日)読売「竹富町の教科書 法改正の趣旨踏まえた対応に」というもの。安倍政権が攻撃されれば、産経・読売が反撃する。さながら、集団的自衛権の行使を彷彿とさせる。
中央紙には産経・読売に対抗する社説の掲載はない。4月11日付の沖縄タイムスが政府批判の立ち場から「八重山教科書問題ー政治介入に終止符打て」という渾身の社説を書いている。また、文科省から竹富町への是正要求に関して、3月15日付の琉球新報の「文科相是正要求 道理ゆがめる『恫喝』だ」というこれも気合いのはいった社説がある。両社説とも、客観的に見て格調高く、自説の根拠を具体的に展開して説得力に富む。両社説とも感動的ですらある。産経・読売のお粗末さとはまったく比較にならない。比べて読めば、一目瞭然である。
下記がこの4社説のURLである。是非、読み比べていただきたい。もうひとつ、併せて「沖縄の教科書―両方を使ってみては」という朝日のふやけた社説もどうぞ。沖縄地方二紙の格調が理解されよう。
産経http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/140413/trl14041303060002-n1.htm
読売http://www.yomiuri.co.jp/editorial/20140414-OYT1T50106.html
沖タイhttp://www.okinawatimes.co.jp/article.php?id=66620
新報http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-221379-storytopic-11.html
朝日http://www.asahi.com/articles/ASG3G4J94G3GUSPT006.html
産経と読売とでは、多少の差がないわけではない。読売の方がほんの少しだけ反対論に目くばりをしている。独善的な断定調にも多少のぼかしが入っている。産経社説のこの独善の論調は、読者の要求に応えたものなのか、社説執筆陣が読者を先導しているのか。卵と鶏の関係はわからない。拠って来たるところはわからないながらも、産経だけを読んでいる人の精神構造はいったいどうなるのだろうと、他人事ながら心配せざるを得ない。心配のあまり、逐語的に反論を書かねばならないという意欲が湧いてきた。なお、産経批判はそのまま読売批判でもある。産経とほんの少しの差でしかない。五十歩百歩の差にも至らず、せいぜいが「五十歩六十歩」の程度、歩の進む方向はまったく同じである。
産経の社説は「主張」と称されている。4月13日の「主張」は、「竹富町の教科書 法の無視は認められない」との標題。以下、産経社説の部分々々を引用しながら全文を批判する。
「国の是正要求に従わず法改正の趣旨も歪(ゆが)めるのか。教科書採択で沖縄県竹富町教育委員会が、石垣市などとの共同採択から離脱を検討している。これを認めるべきではない。是正要求に従い、勝手な教科書使用をやめることが先だ。」
この出だし。なんと大上段で、なんと大袈裟なことか。滑稽極まる。国家権力から理不尽に人権を蹂躙された側に立って憤るのなら、どんな大声を発してもよい。地方の小さな町が、国の意向に従わないとして、権力の尻馬に乗る姿勢が恥ずかしくはないか。いじめに加担する卑怯な振る舞いというしかない。
しかも臆面なく、典型的な「お上は正しい」「お上のいうことには従え」論。さすがに産経の社説というべきか。本来、ジャーナリズムとは、まず「お上のいうことに本当に理があるのだろうか」「権力への抵抗には一理あるのではないか」を吟味しなければならない。「国の是正要求」は「国の要求」であるから従わねばならないものではない。国とて間違う、いや国も大いに間違うのだ。間違っているか否かの基準は日本国憲法である。憲法大嫌いな安倍政権であれば、大切な問題について間違う公算は極めて高い。是正要求の根拠とされているものには様々な疑義が提示されている。論点は具体的に明確化されているのだ。「法改正の趣旨」についても同様だ。これらの具体的な問題点に触れることがないままの、勝手な結論押し付けをやめることが先だ。
「小規模な市町村は、近隣市町村と共同で教科書を選ぶルールが、義務教育の教科書を配布するための教科書無償措置法で定められている。生活、文化など一体性のある広域で同じ教科書を使えば効率的な配布のほか、教師の共同研究や転校した場合に学習の連携などメリットが大きいからだ。」
複雑な法体系を一面化しあるいは過度に単純化して把握することが間違いの第一歩である。場合によっては、誤導の論法ともなる。産経社説には教科書無償措置法しか言及されていないが、文科省の有権解釈によれば、地教行法上教科書採択の権限は各市町村の教育委員会にある。各市町村教育委員会の独立性が大前提で、小規模な市町村の便宜のために広域採択の制度ができたと理解すべきであろう。便宜のためであるべき制度が、メリットの享受よりもデメリットの桎梏が優るとなれば、制度利用に縛られるいわれはない。
広域採択のメリットはもちろんある。しかし、同時にデメリットも大きいのだ。広域化のメリットだけを語って、各市町村教育委員会の独立性喪失というデメリットを語らないのは不都合である。産経のいうようなメリットばかりであれば、強制の問題は生じない。事実、今回の法改正以前には、採択地区での教科書採択に強制は予定されていなかった。協議を尽くすべきことことが求められていただけ。
また、本来は、教科書を使う専門家としての現場教師の意見の集約や集団討議による意見反映がもっとも重要視されるべきなのだ。現場の発言の重視は、採択単位が小さいほど現実性を帯びる。現場の教師の影響力をできるだけ排除したいという政策的要求が広域採択の制度になった。「効率的な配布、教師の共同研究や転校した場合に学習の連携」などのメリットは、当然に現場が考える。押し付けが正当化されることにはならない。
「竹富町の場合、石垣市、与那国町の3市町で八重山採択地区協議会をつくり採択してきた。平成23年夏の採択で協議会は、中学公民教科書に育鵬社版を決めた。だが竹富町は従わず東京書籍版の使用を24年度から始めた。地方自治法で最も強い措置の是正要求が出されたが、今年度も違法状態の教科書使用を強行している。」
これを過度の単純化という。むしろ、単純化を装った意図的な事実の曲解というべきであろう。この単純化への反駁として、少し長いが、「不審な経過」と小見出しを付された、3月15日付琉球新報社説の一節を引用する。
『そもそも竹富町教委の行為は正当な教育行政だ。それをあたかも違法であるかのように政府は印象操作している。
経過を振り返る。石垣・竹富・与那国3市町の教科書を話し合う八重山採択地区協議会会長の玉津博克石垣市教育長は2011年6月、教科書調査員を独断で選任できるよう規約を改正しようとして反対された。役員会で選任することになったが、玉津氏は役員会を開くことなく独断で委嘱した。
その調査員も、報告書では、保守色の極めて強い育鵬社版の中学・公民の教科書について「文中に沖縄の米軍基地に関する記述がない」などと難点を指摘。複数を推薦した中に育鵬社版は入れていなかった。
だが同年8月23日の採択地区協議会は、玉津氏の主導で育鵬社版を選ぶよう答申した。しかし竹富町教委は8月27日、選考過程における前述の不審な点を挙げ、育鵬社版でなく東京書籍版を選んだ。
一方、石垣・与那国2市町教委は育鵬社版を選定。3市町教委は8月31日に採択地区協議会を開き、再協議したが、決裂した。
9月8日、今度は3市町教育委員全員で協議し、多数決で東京書籍版を選んだ。だが文科省は「全員協議はどこにも規約がない」と、この選定を無効とした。
規約の有無を言うなら、玉津氏の調査員選任も規約にない手法だった。その点は問わないのか。
政府は同年11月、「自ら教科書を購入して生徒に無償で給与することは、無償措置法でも禁止されるものではない」との答弁書を閣議決定している。竹富町教委の行為は合法だと閣議で決めたのだ。それが自民党に政権交代した途端、違法になるというのか。』
迫力十分な叙述である。経過の説明は以上に尽きる。これへの反論は聞いたことがない。
「竹富町の共同採択離脱の方針は、9日に成立した教科書無償措置法改正に伴うものだ。採択地区の構成単位を「市郡」から「市町村」に変えたことを捉え町単独で採択できるとしている。沖縄県教委は要望を受け認める方向だ。
この改正は市町村合併に伴い、飛び地の自治体が共同採択するケースなどができ、不都合を解消しやすいよう見直したものだ。竹富町にはあてはまらない。」
この法改正の趣旨が最大の問題なのに、産経社説は、何とも迫力に欠ける。結論は明瞭だが、根拠の薄弱なことこの上ない。読者を説得する意思も能力もないことを露呈するのみ。
文科省が、ホームページに「義務教育諸学校の教科用図書の無償措置に関する法律の一部を改正する法律案」について、下記URLに、概要、要綱、案文・理由、新旧対照表を掲載している。ここには産経の言い分に与するものはひと言もない。
http://www.mext.go.jp/b_menu/houan/an/detail/1344707.htm
産経の社説は、下村文科相の言い分を口移しにしただけのものだが、これについては、4月11日付沖縄タイムス社説が次のとおり反駁している。
『下村博文文科相は3月の会見で「(採択地区は)市町村教委の意見を尊重しながら、県教委が最終的に決定する」と明言。県教委が竹富町を分離しても「法の違反には当たらない」と述べた。
政府見解は腰の定まらない印象をぬぐえない。国の恣意(しい)的な法律運用がまかり通れば不当のそしりは免れない。』
法の解釈は、文理解釈が基本である。法の文言が明晰性を欠き、文理解釈が困難なときにはじめて、立法者意思などが忖度されて目的論的解釈などに頼らざるを得なくなる。本件では、そのような事情なく、法文は極めて明晰である。ややくどいが、産経の読者にもわかるように噛み砕いて、解説しておきたい。
改正前の教科書無償措置法12条1項は、「市若しくは郡の区域又はこれらの区域をあわせた地域に」教科書用図書採択地区を設定しなければならないと定めていた。だから、採択地区は、論理的に、「市」「郡」という区域単独の場合と、「市および郡」をあわせた地域から構成される場合があり得たことになり、それ以外はなかった。つまり、市は単独で採択地区を構成することはできたが、郡内の町村は単独では採択地区を構成することはできなかったのである。
改正法は、当該箇所を「市町村の区域又はこれらの区域を併せた地域に」と変更した。これによって、採択地区は、論理的に、「市」「町」「村」という各区域単独の場合と、「市および町」「町および村」「村および市」「市および町および市」を併せた地域から構成される場合があり得ることとなった。つまり、これまで、郡内の町村は単独では採択地区を構成することはできなかったが、郡という区域単位を捨象することによって、町・村ともに、単独での採択地区となる資格を取得したのである。「飛び地の自治体が共同採択する不都合を解消しやすいよう見直す」こともあり得ようが、それにとどまるなどとは条文の読みようがない。「竹富町にはあてはまらない」などということに何の根拠もない。
「同法改正では、共同採択地区で同一教科書を使う規定が明確化された。竹富町の役場自体、石垣市の港近くにある。地域性から同市と共同採択するのが自然だ。」
改正法が13条5項が、「共同採択地区で同一教科書を使う規定が明確化された」ことは、指摘のとおりである。そのための法改正であった。反対解釈からは、改正前には、「共同採択地区で同一教科書を使う義務は存在しなかった」と言える。これまでの竹富町教委の行動に違法があったとは到底考えられない。今後は、県教委の承認があれば、竹富町の独立した教科書採択は可能となる。「竹富町の役場自体、石垣市の港近くにある。地域性から同市と共同採択するのが自然だ」などの言は児戯に等しい。役場の存在場所が自治体の独立性を蹂躙する理由にはならない。「共同採択が自然だ」などというふやけたことが何の根拠とも理由ともなり得ない。
「下村博文文部科学相は、採択の際に教科書の内容を吟味する調査研究が、小規模の教委では難しいことも挙げ、法の趣旨を竹富町教委に「しっかり伝える」としている。沖縄県教委も法を曲げないでもらいたい。協議会が育鵬社版を選んだのは、尖閣諸島を抱える地域性から、領土などの記述が詳しい内容を重視した結果だ。」
ここにいたって、本性露顕である。恐るべき「論理」といわねばならない。教育の本旨の何たるか、教育が行政から、なかんずく国家から独立していなければならないとする大原則に無理解も甚だしい。「小規模教委は大規模教委に付け」とするのは、教育の地方分権に対する露骨な敵対感情である。教育は国家統制から距離を置かねばならない。国より広域自治体の教育委員会、広域自治体よりは基礎自治体の教育委員会、さらには学校、そして教師一人一人の独立と、分権が理想である。産経社説の「論理」はその真逆なのだ。
「同社版の歴史や公民教科書に対しては「戦争を美化する保守系教科書」などと批判が繰り返されていた。いわれのない教科書批判にとらわれ、採択を歪めたのは竹富町や沖縄県教委の方である。法に従わぬ教育委員会に安心して教育は任せられない。国の責任で是正を果たしてもらいたい。」
まさしく、国家による教育統制が安倍政権の狙いであり、右往左往しながらも、下村文科省の狙いでもある。そして、産経・読売がその応援団となっている。
本日の読売社説の一節に、「竹富町教委だけが独自に異なる教科書を採択したのは、明らかに違法行為である。文科省が地方自治法に基づき、是正要求を発動したのは当然のことだった。是正要求に従おうとしない竹富町教委の姿勢は、教育行政を担う機関として、順法精神に欠け、許されるものではない」とある。沖縄タイムスや琉球新報社説を読めば、読売の異常さは明らかとなる。しかし、何百万もの読者に、「竹富町教委・違法」と垂れ流す読売の影響力に背筋が寒くなる。
最後に3月15日琉球新報社説の末尾を引用しておきたい。
『竹富町の教育現場では(教科書採択問題が生じて以来の)過去2年、問題は起きていない。仲村守和元県教育長によると、問題行動は皆無で学力は県内トップ級、科目によっては全国一の県をも凌駕(りょうが)する。静穏に教育が行える環境ができているのだ。子どもたちに無用な混乱をもたらしているのはむしろ文科省の方ではないか』
産経よ、読売よ。竹富町への無用な混乱の助長は余計なお世話なのだ。
琉球新報は、文科省から竹富町に対する違法確認訴訟をスラップ訴訟と警戒している。しかし、竹富町は、このスラップ訴訟の提起を恐れることはない。恫喝目的の提訴自体が不法行為を構成する可能性は高い。その場合には、応訴費用を反訴請求することも可能となる。
がんばれ竹富。叛骨の島。
(2014年4月15日)