今日、「14名の曲学阿世の徒」から、「コントロールとブロック男」に、阿諛追従の報告書が手渡された。この両者の見え透いた出来レース、茶番に過ぎないと笑って見過ごすわけにはいかない。ことは一国の憲法の命運に関わる。日本国憲法の平和主義が規範としての実効性を保つのか、失うのか。憲法の命運は一国の命運でもある。一国の命運は、一国の国民の命運を決する。一国が大事なのではない。この国の国民一人一人の生命や自由が危うい。いや、この国の国民の命運を超えて、国際的な悲劇や惨禍を生じかねない。
「コントロールとブロック男」は、またまたペテンの発言を繰り返している。こんな男の、こんな軽薄発言に欺されてはならない。オリンピック誘致程度の詐欺行為はさしたる実害を伴わない。しかし、集団的自衛権行使容認ともなれば、そのペテンの影響の重大性は比較にならない。この地とこの世に、憎悪と殺戮を招きかねないのだ。
今日、この男がこう言ったと報道されている。
集団的自衛権見直しをめぐり、「『日本が再び戦争をする国になる』といった誤解がある。しかし、そのようなことは断じてありえない。憲法が掲げる平和主義はこれからも守り抜いていく」と強調した。「あらゆる事態に対処できる法整備によってこそ抑止力が高まり、我が国が戦争に巻き込まれなくなる」と訴えた。(読売)
この男は、「平和は、限りなく武力を増強することによってコントロールされます」「集団的自衛権行使容認によって戦争は完璧にブロックされています」というのだ。「仮想敵国を上回る武力を装備することによって平和が保たれる」。「好戦的国家と同盟を強めることが、日本国憲法の平和主義を守り抜くことになる」というのである。なんたるペテン師。でなければ愚か者。
自国は限りない善、自国の武力は何をやっても自衛の武力。相手国は限りない悪、相手国の武力は危険極まりない侵略のためのもの。一国のトップが、そのような発想から抜け出せない。日本国憲法が、15年戦争の惨禍の反省から生まれたことについて自覚がない。歴史的には我が方こそが危険な国家であった客観的事実を「自虐史観」として認めようとしない。これでは、近隣諸国に、軍備増強の口実を与えようとしているに異ならない。
さらに、この男、「自衛隊が武力行使を目的として湾岸戦争やイラク戦争に参加するようなことはこれからも決してないと明言した」(読売)そうだ。これこそ、見え透いたウソ。
見え透いてはいても、ウソを言わざるを得ない事態であることは重要である。この男、開き直って、「これからは湾岸戦争やイラク戦争のようなチャンスがあれば、自衛隊が武力行使を目的としてじゃんじゃん参加していきます」「それこそが積極的平和主義」「それこそが我が国の平和を守る行動なのですから」と言いたいところなのだが、そうは言えない。本音を隠し爪を隠して、精いっぱいの笑顔をつくらざるを得ないのだ。
結局のところは、「集団的自衛権行使容認は違憲」という大原則に穴をこじ開けることがこの男の今の狙いなのだ。どんなに小さい穴でも開けてしまえば、あとはどうにでもなる。蟻の一穴から洪水に至るまでは、一瀉千里だ。ワーワー騒がず、小さく産んで大きく育てる。そのための、作り笑いでお為ごかしの「平和のための集団的自衛権」。そう、これが例のナチスの手口。
またこの男、こんなことも言ったという。
「武力攻撃に至らない侵害」として、漁民を装った武装集団が離島に上陸してくる「グレーゾーン事態」を挙げ、早急に立法措置を講じる考えを強調した。(読売)
相接する両国が、ともにこんな想定をし合い実行していれば、相互の不信と軍備の増強を必然化し、いずれは衝突せざるを得ない。憲法が想定する隣国間ではあり得ない。
憲法がないがしろにされること、平和主義が傷つけられることを、恐ろしいと思う。日本の国民は、本当にこんな男に、こんな政権に、権力を託したのだろうか。背筋が寒くなる不安を感じざるを得ない。
日本ペンクラブが、真っ先に反応した。
「安倍晋三首相が憲法9条が禁じてきた集団的自衛権の行使を検討する考えを表明したことについて、日本ペンクラブ(浅田次郎会長)は15日、『民主的な手順をまったく踏まない首相の政治手法は非常識』との声明を出した。声明では、『国会の議論も閣議決定もしないまま個人的に集めた「諮問機関」なるものの報告を受けて、憲法の解釈とこの国のあり方の根本を一方的に変更しようとしている』と批判。浅田会長は記者会見で、『このような手法でなにもかもできあがることになったら民主主義の危機であり、法治国家の危機』と話した」(朝日)。
この迅速な姿勢に学ぼう。腹を据えてこの問題に向かいあわねばならない。よし、明日の昼休みの時間には、街頭に立とう。
あす、16日(金)お昼の12時15分、ビラやプラカードの用意はないが、ハンドマイクだけはある。地元の「本郷湯島九条の会」として、本郷3丁目交差点「かねやす」前で街宣活動をする。どなたでも、ご参加を。
(2014年5月15日)
本日、私と憲法会議との間に「和解」が成立した。私と憲法会議との間に紛争が継続していることを心配してくださる方もいらっしゃるので、経過をご報告しておきたい。
午後4時半、憲法会議の平井正事務局長と対席した。同氏から「一連の対応でご迷惑をお掛けしました。申し訳ありませんでした」との発言があり、私はこれを受けて陳謝の意の表明を評価して「了解しました」と応答した。
同じ席で、平井さんから私に、憲法会議の機関誌である「月刊憲法運動」7月号への靖国問題についての寄稿の依頼があり、私がこれを受諾した。これで、私と憲法会議との間のトラブルに関して「和解」の運びとなった。
なお、「和解」を斡旋した仲介役の弁護士が立ち会い、場の雰囲気がとげとげしくならぬよう巧みに配慮していただいた。
私にとっては、「宇都宮君おやめなさい」問題から派生した異なる次元での看過し得ない問題。看過し得ないとはいえ、「憲法改悪阻止・憲法理念を社会に生かす」ことにおいては、共通する立ち場。できることなら、関係を修復したいのは当然のこと。今日、それが実現したことを素直に喜びたい。そして、お骨折りいただいた方、心配しながらも励ましていただいた方に感謝申し上げたい。
「和解」を必要とした紛争の経過についての詳細は繰り返さないが、私から憲法会議への最後の通知となった下記の部分だけを再掲しておきたい。
「貴信には、貴会が憲法の理念を擁護することを使命とする運動体でありながら、自らが憲法理念を蹂躙したことへの心の痛みや反省を感じ取ることができません。
また、私の憲法上の権利を侵害したことへの謝罪の言葉もありません。むしろ、『8000円の送付で問題解決』と言いたげな文面を残念に思います。私は、国家権力だけではなく、私的な企業や団体における憲法理念の遵守が大切だと思ってまいりました。本件は、その問題の象徴的な事例だと捉えています。
繰り返しますが、貴誌への掲載論稿は岩手靖国訴訟に関わるものであって、宇都宮君批判の論稿ではなかったのです。貴会は周囲を説得して、私の表現の自由を擁護すべきだったのです。私は、貴会に反省していただきたいという気持を持ち続けます。この問題はけっして終わっていないことをご確認ください。」
私の問題意識が一貫して以上のとおりなのだから、今回の陳謝の内容についての私の理解は「憲法の理念を擁護することを使命とする運動体自らが、個人の憲法上の権利を侵害したことに対する陳謝」というものである。
もっとも、和解に際しての陳謝文言は予め合意ができていた。「一連の対応でご迷惑をお掛けしました」という内容を、具体的にギリギリ詰めたりはしていない。それでも、陳謝することの痛みは察することができた。痛みを伴うことではあっても、陳謝のうえ和解に至ったのは、憲法会議が自浄能力を備えた真っ当な組織であったからだ。「過ちては即ち改むるにはばかることなかれ」とは誰もが知る言葉だが、陳謝を伴うともなれば、「行うは難い」こと。それをしたことは評価に値する。
3月上旬に開催された憲法会議総会の席で、「澤藤問題」が話題になり、その議論にかなりの時間を費やしたという。そのとき、「憲法会議の発展を願う立ち場から」「憲法会議は問題解決のために誠意をもって澤藤と話し合うべきだ」「それこそが、憲法の理念を守ろうという憲法会議のあるべき姿ではないか」という、強い意見が述べられたという。発言は一人だけでなく、何人もの意見になったとも聞いている。その結果、事務局長が「事態の収拾をはかる」と誓約したとのことだ。
この組織では、メンバーに自由な発言の権利が保障されている。民主的な討論の結果が組織の意思となって実行に移されている。執行部批判の発言が無視されることなく、執行部に陳謝までしての行動の是正をさせている。さすがというべきではないか。事務局長は、そのような会員の声を受けて、憲法会議に参加している弁護士を仲介役に私と接触して、今日の和解に漕ぎつけたのだ。
総会での発言をリードされたのは、私とはまったく面識のない方。「澤藤を擁護する」のではなく、憲法運動団体としての在り方に鑑みて筋を通さねばならないとの思いからの発言であったのだろう。世の中には、稀にこのような方がいる。私だけではなく、憲法会議も、そのような方がいたことを幸運とした。お骨折りいただいた仲介役の弁護士の人柄にも恵まれた。
組織の中にきちんと「筋を通す」人たちがいることの大切さを思う。そして、組織の執行部に、会員の声に耳を傾ける姿勢があることも。私もこのような人の姿勢に学んで、どこにいてもきちんと筋を通す人にならねばと思う。そして、人の意見には謙虚に耳を傾けようとも思う。とりわけ、何らかの権限をもつ立ち場になった場合には。
なお、紛争の経過や内容を知りたい方は、下記3件のブログをご覧ください。
http://article9.jp/wordpress/?p=1926
宇都宮健児君、立候補はおやめなさいーその26(2014年1月15日)
http://article9.jp/wordpress/?p=1936
宇都宮健児君、立候補はおやめなさいーその28(2014年1月17日)
http://article9.jp/wordpress/?p=1987
「憲法を暮らしに生かす」ことの意味(2014年1月24日)
(2014年5月12日)
本日の東京新聞は、集団的自衛権問題に関する記事が満載。論旨明快で読み応え十分。この新聞にこそ講読部数の伸びを期待したい。
一面トップが、「安保法制懇 空白3ヵ月」「報告時期 政権の意のまま」という大見出し。来週火曜日(5月13日)に提出とされている同懇談会の集団的自衛権容認提言について、「政治情勢に配慮し、安倍政権の都合に合わせて提出時期をずらしてきた」「諮問会議がもつべき客観性や第三者の視点は見えない」「議論は初めから容認ありきだった」「政権の意向を実現するための『舞台装置』としての役割が大きい」と、遠慮なく真実をついて手厳しい。
関連記事として、3面「核心」欄に、国民投票法改正案の衆院通過について「改憲手続きのみ先行」の記事。「『18歳成人・選挙権』棚上げ」だけでなく、他の課題についても先送りされている事情が手際よく解説されている。
24・25面が看板の「こちら特報部」、今日は集団的自衛権についての「『密接国』の見方」。米・韓は、日本の集団的自衛権行使容認論をどう見ているか、に迫っている。米での歓迎勢力は武器商人だけだ、オバマ政権はリップサービスで「歓迎」とまでは言ったが決して「必要」とは言っていないことに注意せよ、という論調。また、韓国は、朝鮮半島有事で日本とともに集団的自衛権行使を望むどころか、自衛隊の軍事活動の拡大には拒否感・警戒感が強い、という当然の指摘。
特報部の「デスクメモ」が、次のように呟いている。本質を衝く鋭さをもっている。
「憲法9条により、集団的自衛権は行使できない。どんなに解釈を変更してもできないものはできない、というのが歴代政権の姿勢だ。安倍政権は『変更』というが、『逸脱』にほかならない。改憲できないからといってあまりにひどいごまかし。本当に必要なら堂々と改憲を議論したらいい」
さらに、27面(社会面)に、砂川事件の元弁護団員が、「砂川判決 政府援用に抗議」「集団的自衛権と無関係」と、声明発表の報道記事。
この件は、他紙も報道している。
赤旗は、次の記事。
「旧米軍立川基地(東京都)の拡張に反対するデモ隊の一部が基地内に立ち入ったとして起訴された砂川事件(1957年)にかかわった弁護士らが9日、都内で記者会見し、自民党の高村正彦副総裁らが唱える砂川事件最高裁判決を援用した集団的自衛権の行使容認論について「牽強付会の強弁に過ぎない」と厳しく批判した声明を発表しました。
会見したのは砂川事件弁護団の内藤功氏、新井章氏、山本博氏、神谷咸吉郎氏ら。声明は首相の諮問機関「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」が、集団的自衛権の行使を容認する報告書を提出する前に取りまとめたものです。
このなかでは、裁判の「主要な争点」は日米安保条約に基づく米軍駐留の憲法9条適否であって、わが国固有の自衛権問題ではなかったことなど、砂川事件最高裁判決のとらえ方を説き、集団的自衛権行使の可否について判断も示唆も示していないと指摘しています。
会見で弁護士らは「国民世論を惑わそうとしているとしか評価できない言説」(新井氏)などと厳しく批判しました。弁護士らは声明を各政党に届け、自民党の高村副総裁にも面会を求めたいとしています。」
朝日は、
「安倍政権が集団的自衛権の行使を容認する根拠として、1959年の砂川事件の最高裁判決を引用していることについて、当時の弁護団が9日、都内で記者会見し、『砂川判決は集団的自衛権について判断を示しておらず、断固として抗議する』との声明を出した。
砂川判決は「自衛権」について、「自国の平和と安全を維持し、その存立を全うするために必要な自衛のための措置」と定義。この部分について、自民党の高村正彦副総裁は「判決は必要最小限の集団的自衛権を排除していない」として、行使容認の根拠になるとの見方を示している。
この日の声明には、当時の弁護団276人のうち21人が賛同。裁判の争点について「日米安全保障条約に基づく米軍駐留の合憲性であり、わが国固有の自衛権の問題ではなかった」と指摘した。判決が定義した「自衛権」についても、「わが国をめぐる『個別的自衛権』の問題であり、集団的自衛権の問題では全くない」と訴えている。
声明文を起案した新井章弁護士(83)は「事件の当事者として、裁判で何が判断されたのか多くの人に知ってほしい」と訴えた。弁護団は今後、各政党に声明文を送り、高村副総裁に面会を求めるという。」
東京も同内容だが、自民・高村副総裁の「反論不必要という『反論』」が記事になっている。タイトルは「否定された主張 反論の必要ない」。記事の核心は、高村氏の「弁護団の主張は全面的に砂川判決で否定された。そういう人たちがなんと言っているかあまり興味がない」という発言。
そりゃおかしいよ。高村さん。
自分に都合のよいようにつまみ食いの発言をしておいて、批判されたら論戦は避けて、「あまり興味がない」ですか。元弁護団の皆さんの抗議の声明は、当時の法廷での弁護団主張を展開しているわけじゃない。この刑事裁判において、何が問題となって、最高裁がどんな文脈で何を語ったのかだけを問題にしていることが明らかではありませんか。弁護団が最高裁判決に異論あることは当然として、今問題になっているのは、「判決で否定された弁護団の主張の当否」ではない。砂川事件最高裁判決が、何を言ったのかを正確に読み解こうと言っているのではありませんか。
高村さん、論戦を仕掛けたのはあなただ。反論されて、尻尾を巻いて逃げてはいけない。面会を求められたら、あなたには、これに応じる義務がある。堂々と公開の場で論争しなければならない。「興味ない」なんて、言い訳は卑怯千万。あなたが言い出したことが、本当で正しいのか、それともごまかしのインチキに過ぎないのか、ことは憲法の解釈に関わる重大問題。たとえ、あなたに興味が無くとも、既に国民は大きな興味を抱いているのですよ。
(2014年5月10日)
親しくなった村岡到さんは、「NPO日本針路研究会」という団体を主宰して、ほぼ毎月「討論集会」を企画している。今月18日には、「法律・弁護士・市民運動」というタイトルでの集会。レポーターは私。村岡さんから、「貴ブログでも告知してください」との要請があった。以下に、まず集会の概要を告知した上で、何をレポートしたらよいか、レジメを綴ってみよう。
ちなみに、6月15日(日)が、「討論会:都知事選挙の教訓を探る」。場所は同じ。報告・発言は、西川伸一さん、河合弘之さんら。こちらの方が面白そう。
*********************************************
日時 2014年5月18日(日) 午後1時30分?
場所 文京区民センター3C(地下鉄「後楽園」「春日」下車直ぐ)
集会名 「討論会:法律・弁護士・市民運動」
報告 澤藤統一郎(弁護士)
資料代 700円
主催 「NPO日本針路研究会」(電 話 03?5840?8525)
集会の趣旨
この法治主義の社会では、どんな課題にせよ要求を実現するためには、法律問題に関わらざるをえません。市民運動の展開においてもさまざまな法律と直面します。法律と直面するときに、出会うのが弁護士。その弁護士、実はこの社会が真っ当であるために、さまざまな役割を果たしています。現役のベテラン弁護士に、弁護士の役割についての話しを聞いたうえで、この社会の在り方や、市民運動における法や弁護士との関わり方を考えて見ませんか。
*********************************************
レ ジ メ
※法とはなんだろう。なんのために法はあるのか。
*法の二面性 A面「弱者の権利擁護」と、
B面「体制的秩序の維持」と。
この世の弱者(労働者・市民)は、法のA面を最大限に使おうとする。
この世の強者である権力と企業とは、法のB面をもって応戦する。
*法は、弱者と強者のせめぎ合いにおける暫定的休戦協定
進歩の勢力が法の改革を望み、
保守の勢力が改革に抵抗する。
*法体系の頂点に日本国憲法が存在する戦後日本の特殊事情
今の時代、「憲法の理想」が「現実」をリードする意義は大きい。
憲法は、単なる「理想」ではない。実定法として裁判規範でもある。
※弁護士(=実務法律家)とはなんだろう。なんのために弁護士はいるのか。
*法は、法の担い手としての弁護士をつくった。
*弁護士法1条の使命(社会正義と人権の擁護)をどう読むか
*弁護士の在野性の必然性 人権擁護は反権力に徹してこそ
*弁護士の自由業としての特性 社会的支配からの自由
※弁護士の活動領域
*法廷(民事・刑事・家事)
*企業や団体個人のコンプライアンス
*弁護団活動(弁護士個人の業務の枠を超えて)
*弁護士会 会はどう運営され、何をしているか。
*共同法律事務所
*弁護士の任意団体 人権派弁護士の再生産組織
*弁護士の収入 人権派弁護士の収入に関するテーゼ
※市民運動と法・弁護士
*法に支えられた運動
*訴訟を利用する運動
*立法運動
*市民運動の中で弁護士の役割
ここまで書いて読み直して、「これではダメだ」と思う。四角四面、ちっとも面白みがない。話しを聞いてもらおうという姿勢に乏しい。そのためのサービス精神に欠ける。全面的に書き直そう。
*********************************************
レ ジ メ(第2案)
※法とはケンカの武器である。
*実力で劣る弱者が、強者と対等に渡り合うための武器が法である。
*法体系の頂点に「日本国憲法」がある心強さ。
*法は新しく生まれ改廃される。解釈も一義的には決まらない。
*既存の法を使いこなすことだけでなく、鋭利な法をつくることも視野に。
※弁護士とは、ケンカの助っ人である。
*弁護士は、法という武器の使い手であるが、
*金で雇われる者もあり、心意気で働く者もある。
※弁護士の自由は社会から与えられたもの
*弁護士の自由は権力や金力に縛られずにケンカができるためにある。
*弁護士の自由は「反権力」「反資本」の立場で弱者のために行使すべき。
※弁護士の諸相
*アンビュランスチェイサー、悪しき隣人としての弁護士たち
*目立ちたがり屋の弁護士たち
*資本の側にあっても、弁護士は弁護士
※弁護士と市民運動(私の体験から)
*労働運動と弁護士 ジャンボを止めた争議の現場での弁護士
*政教分離運動と弁護士 岩手靖国訴訟10年を闘って
*平和運動と弁護士 平和的生存権を武器とした市民平和訴訟
*消費者運動と弁護士 冷凍庫が火を吹いたーPL訴訟と立法運動
先物取引被害・証券被害・悪徳商法と弁護士
*漁協民主化と弁護士 「浜の一揆」訴訟の成果
*医療・薬害と弁護士 スモン・未熟児網膜症、専門家責任
*「日の丸・君が代」強制反対運動の中の弁護士
※弁護士会の権力からの独立・この貴重なるもの
「レジメ第2案」でやってみよう。できるだけ具体的に、リアリティあふれる報告をしてみたい。乞うご期待。
(2014年5月8日)
物心ついたころから、毎日新聞を読みつづけてきたような気がする。その昔、毎日小学生新聞も読んでいた。その毎日が最近元気がよい。ライバル紙に勢いがなくなったことからの印象であれば、少しさびしいが。
本日(5月6日付)の紙面も、気骨にあふれた記事が多い。
社説は、「憲法と秘密保護法」。「国民主権なお置き去り」とのタイトルで、特定秘密保護法を「いったん廃止すべき」と結論している。国民主権原理から説き起こし、「国の持つ重要情報が幅広い行政の裁量で『秘密』とされ、国民の目に届かない仕組みができれば国民主権の基盤は大きく崩れる」と原則論を述べた上、政権にはこの法律の運用において行政の恣意をチェックする手立てを講じようとする熱意が見えないことを具体的に指摘している。そういえば、今日でこの悪法が成立してちょうど5か月。あきらめずに、異議申し立てを続けようというジャーナリストの心意気に共感する。
毎月第1火曜日の「社説を読み解く」が、「竹富町VS文科省」として、教科書採択問題を取りあげている。「毎日新聞はこの間、4度にわたってこの問題を社説に取りあげてきた。論説委員たちの議論で共通したのは、この問題を教科書選びの在り方を見直す機会にすべきだという提案と、是正要求にまで及んだ文科省の姿勢を厳しく批判する視点である」という。私も当ブログで何度か取りあげたが、毎日の立ち場は、確かに「竹富町の自主性を尊重すべき」ものと一貫している。
この解説記事のとおり、我田引水でなく毎日社説が各紙をリードしていたと思う。東京の社説がこれに続き、朝日はまことにヌルかった。読売・産経の2紙は、政権の機関紙かと見まごうばかり。本日の「読み解く」は、中央5紙と琉球新報・沖縄タイムスの地元2紙の各社説の内容を客観的に紹介して、その意見の違いの拠って来たるところを解説している。姿勢がしっかりしているから、読み応え十分。
毎日に勢いがあるのは、おそらくは第一線の記者に、とりわけ若い記者に、制約なく書かせているからなのだろう。その象徴が「記者の目」。本日は、静岡支局の平塚雄太記者が「第五福竜丸・ビキニ事件60年」という記事を書いている。これも読み応えがある。
第五福竜丸やビキニ水爆実験は、核兵器の恐怖の象徴として語られた。その目指すところは原水爆の廃絶となる。しかし、3・11以後は放射線被曝に焦点が当てられることが多くなっている。本日の「記者の目」も、専ら福島原発事故に重ねての被曝問題を論じている。焼津というローカルな地域を見つめる確かな「目」が、歴史的にも地理的にも、大きく拡がった世界の大きな問題を捉えることができるということを教えている。
平塚記者の記事の大意は、以下のとおり。
「60年前のビキニ事件での放射線被害は、第五福竜丸だけではなかった。日本の貨物船や漁船1000隻近く(厚生省調査では漁船856隻)が被ばくした可能性がありながら、日米両国は当時、被害を第五福竜丸だけに矮小化した」「米国は、ビキニ事件をきっかけに日本で反米、反核感情に火が付くのを恐れ、日本はこれに追随して、被ばく者を切り捨てた」「本来なら国の責任で、被ばくが疑われる関係者をきちんと調べるべきで、今からでもビキニ事件の被ばく実態を調査し、放射線被害の教訓とすべきだ」
記者は、「事件翌年の55年日米原子力協定が結ばれ、原子力基本法が成立。日本の原発開発はビキニ事件にふたをする格好で国策として走り出した」ことを指摘して、「都合の悪いものを消し去ろうとした核大国・米国の身勝手さ」と「それに追従した日本政府の情けない姿勢」に憤っている。まったく、そのとおりだ。
しかも、ことは過去の問題ではない。「東京電力福島第1原発事故に見舞われても住民被ばくを過小評価し、原発再稼働を急ぐ日本政府の姿勢を見ると、『国策優先』という歴史が繰り返されているように見える」と、福島原発事故に重なる国の姿勢を批判している。
その視点から、記者は広島市立大広島平和研究所の高橋博子講師の次の言を紹介している。
「日本政府は安全保障や経済的な理由で米国の原子力政策に追随し、自国民の被ばくから目を背けた。福島の原発事故でも住民の被ばく線量などを積極的に公表しておらず、その姿勢はビキニ事件から変わっていない」
記事は、「久保山さんは『原水爆の被害者は私を最後にしてほしい』と言い残して絶命した。その遺志をかなえるためにも、ビキニ事件の真相を解明しなければならない」と結ばれている。その言や良し。
不幸にも、第五福竜丸の存在が福島原発事故によって脚光を浴びている。平塚記者には、核を操る人間の傲慢さと、核の被害に蓋をしようという国策とに、憤りを持ち続けて、第五福竜丸にまつわる記事を地元から発信していただきたい。その記者の正義感からする憤りの記事を制約なしに掲載する毎日であって欲しい。一人の毎日ファンからの要望である。
なお、以上の3本の記事は、以下のURLで読める(と思う)。
http://mainichi.jp/opinion/news/20140506k0000m070086000c.html
http://mainichi.jp/shimen/news/20140506ddm004070017000c.html
http://mainichi.jp/shimen/news/20140506ddm005070014000c.html
(2014年5月6日)
憲法フェスティバル、略称「憲フェス」に足を運んだ。40回目の憲法記念日となった1987年に、青年法律家協会が企画して第1回を開催。以来連綿と続いて、今年は28回目となっている。実行委員会は、年に1度のイベントを開催するだけでなく、通年の憲法運動の担い手となっている。これが立派なところ。
今年のテーマは、子どもの日にちなんで「この子らに託すもの」。大林宣彦監督作品「この空の花ー長岡花火物語」の上映と、同監督のトークがメインの企画だが、私のお目当ては、松元ヒロさん。「今年の憲フェスに、あの『憲法くん』が帰ってくる!」という惹句に惹かれて、「憲法くん」に会いに行った。
素晴らしいステージだった。45分間の熱演を堪能した。…という程度では言葉が足りない。脱帽した。ショックさえ感じた。そして、その姿勢に学びたいと思った。こんな風に、楽しく、分かりやすく、大切なことを上手に語れるようになりたいものと思う。
私は、ヒロさんの「憲法くん」の初演を観ている。あのときもすごいと思ったが、あれから遙かに芸が磨かれ、洗練されている。同じ古典落語をくり返し聞いていると、簡潔だが実に的確な言葉の組み立てになっていることに気づかされる。言葉の贅肉を殺ぎ落として成り立つ芸。そういう芸を聞かせてもらった。
ヒロさんは、「テレビには出演することのない」芸人として定着している。政権への批判や皇室への物言いにも遠慮がない。そこが、観客にウケる所以だが、決して言葉にどぎつさを感じさせない。政権の要人や天皇を揶揄して笑い飛ばしても、その人格を貶めてはいない。だから、会場全体で安心して笑える。
いくつかのセリフに感心した。憲法の本質を語り、自民党改憲草案の危険性の本質をよく語っている。以下は、私の記憶の限りでのトークの一部の再現。
「私たち国民が国の主人公なんですよ。戦前とはそこが違う。だから本当は私たち国民自身が、どのように国を動かしていくか話し合って決めなければならない。だけど、私たち、みんな忙しいですよね。仕事もしなければならない。だから、私たちの代わりに話し合いをする人を選んで、その人たちにきちんと国を動かすように頼むんです。その頼む相手が代議士・国会議員。その中から、国を動かす責任者も出てくる。別にエラクもなければ、先生と呼ぶ必要もない。」
「私たちはこういう人たちに、しっかりと国を動かしてくれよ、と頼むんです。だけど丸投げで頼むわけじゃない。頼まれたから何でもできると思って戦争なんか始めちゃダメだよ。そのために、憲法にしっかりと9条を書いてこれをわたす。この憲法に書いてあることをしっかり守って、頼まれごとをやってくれ、と」
「この世の中の歪みの犠牲者として、貧しい人が出てきますよね。不幸な境遇の方もいる。そういう人を、社会全体で支えてあげたいと思いますよね。お互いさまですから。私たちは、国の主人公として、そういう風に国民のお金を使いたい。だけど、私たち一人一人はみんな忙しいですよね。仕事をしなくちゃならない。だから、みんなからお金を集めて、困っている人に配分する仕事を頼むんです。そのときに、『ハイ、これが25条。これに基づいてみんなのお金を使ってくれ』と渡す。これが憲法というものなんです」
私も、ヒロさんに学んで分かりやすく語ることの修行を積み重ねよう。分かりにくいのは、語る側がよく分かっていないからだ。あるいは、分かってもらおうという情熱に欠けるから。聞き手に、あるいは読み手に分かってもらうため工夫を重ねよう。そして、話しも文章も、長すぎないように心掛けよう。原則として…、だけど。
(2014年5月5日)
憲法記念日の読売社説は、「集団的自衛権で抑止力高めよ」と標題したもの。憲法を記念するでもなく、その意義を確認するのでもなく、現行憲法に敵意を燃やす内容。「集団的自衛権行使容認は、米国との防衛関係を強化して抑止力を高めることになり、領土の保全と国民の生命財産を守ることにつながる」として、安倍政権の解釈改憲路線を擁護する見解を披瀝している。
もちろん、荒唐無稽の論旨ではない。しかし、大新聞の社説としてはまことに出来が悪い。格調などは望むべくもないが、論理の展開に滑らかさを欠き、説得力がない。多くの人に賛意を得ようという熱意の感じられない文章となっている。
小見出しは次の4本。
◆解釈変更は立憲主義に反しない
◆日米同盟に資する
◆限定容認で合意形成を
◆緊急事態への対処も
以上の4本の小見出しをつなげれば、次のような論旨となろうか。
「集団的自衛権行使を容認する憲法解釈変更は、立憲主義に反するものではない」。だから解釈変更に遠慮は不要で、「集団的自衛権の行使容認という日米同盟の強化に資する」手段を選ぶべき。もっとも、国会内の意見はさまざまだから「限定容認で合意形成を」することが望ましい。なお、集団的自衛権の問題だけではなく、「緊急事態への対処も」お忘れなく。
この社説、一読しての論旨の把握は容易ではない。以上の小見出しと、各小見出しに続く文章とが整合していないので、読みにくいことこの上ない。一般に、記者の書く文章は、要領よく読みやすいものなのだが…。
以下、小見出しを付された文章を、第1?4節として、順次反論してみたい。
第1節は、以下のとおりである。
『◆解釈変更は立憲主義に反しない
きょうは憲法記念日。憲法が施行されてから67周年となる。
この間、日本を巡る状況は様変わりした。とくに近年、安全保障環境は悪化するばかりだ。米国の力が相対的に低下する中、北朝鮮は核兵器や弾道ミサイルの開発を継続し、中国が急速に軍備を増強して海洋進出を図っている。
領土・領海・領空と国民の生命、財産を守るため、防衛力を整備し、米国との同盟関係を強化することが急務である。』
この節には、「解釈変更は立憲主義に反しない」という見出しに対応する主張は述べられていない。述べられているものは、防衛力依存至上主義ともいうべき抜きがたい基本姿勢である。「領土・領海・領空と国民の生命、財産を守るためには、防衛力を整備し、米国との同盟関係を強化すること」が必要であり急務であるという。これは「危険思想」というべきではないか。ここには、あからさまに中国と北朝鮮を仮想敵と名指しされている。危険な敵の侵犯から、領土・領海・領空と国民の生命、財産を守るためには、自国の防衛力を整備し増強することとならんで、アメリカとの軍事同盟関係を強化すべきだとされているのである。
ある一国が隣国に対してこのような姿勢を有していれば、隣国も同じ対応をせざるを得ない。不信が不信を生み、恐怖が恐怖を再生産して、愚かな軍拡競争を引きおこすことになる。これまで、改憲勢力が「安全保障環境の悪化」を言わなかったことがあっただろうか。安全保障環境の悪化を口実とした9条改憲の主張は、「特に近年」において始まったことではない。いつもいつも、隣国の不信や危機を煽るのが、改憲勢力の常套手段である。中国も北朝鮮も、あるいは韓国の国防も、「日本の好戦的姿勢」「いつかきた道を繰りかえしかねない恐怖」を口実にしている。その口実を封じることこそが「急務」ではないか。お互いに、軍備増強の口実を与え合う愚を犯してはならない。
第2節は以下のとおり。
『◆日米同盟強化に資する
安倍政権が集団的自衛権の憲法解釈見直しに取り組んでいるのもこうした目的意識からであり、高く評価したい。憲法改正には時間を要する以上、政府の解釈変更と国会による自衛隊法などの改正で対応するのは現実的な判断だ。
集団的自衛権とは、自国と密接な関係にある国が攻撃を受けた際に、自国が攻撃されていなくても実力で反撃する権利だ。国連憲章に明記され、すべての国に認められている。
集団的自衛権は「国際法上、保有するが、憲法上、行使できない」とする内閣法制局の従来の憲法解釈は、国際的には全く通用しない。
この見解は1981年に政府答弁の決まり文句になった。保革対立が激しい国会論戦を乗り切ろうと、抑制的にした面もあろう。
憲法解釈の変更については、「国民の権利を守るために国家権力を縛る『立憲主義』を否定するものだ」という反論がある。
だが、立憲主義とは、国民の権利保障とともに、三権分立など憲法の原理に従って政治を進めるという意味を含む幅広い概念だ。
内閣には憲法の公権的解釈権がある。手順を踏んで解釈変更を問うことが、なぜ立憲主義の否定になるのか。理解に苦しむ。』
読売が、「安倍政権が集団的自衛権の憲法解釈見直しに取り組んでいるのもこうした目的意識からであり、高く評価したい」というのは、結局のところ憲法遵守よりは防衛力増強を優先する軍事力至上主義の表れというほかない。「憲法改正には時間を要する以上、政府の解釈変更と国会による自衛隊法などの改正で対応するのは現実的な判断」というに至っては、軍事力至上主義からの明文改憲を是としたうえで、ここしばらくは9条改憲の国民意識の成熟はないことを認めて、解釈改憲と立法改憲に右派の世論を誘導しようというもの。読売の発行部数を考慮すると、罪が深いというほかはない。
また読売は、集団的自衛権について、「国際法上保有するが、憲法上行使できない、とする内閣法制局の従来の憲法解釈を国際的には全く通用しない」という。しかし、国際的に通用しないというのは間違っている。現に、この解釈でこれまでアメリカに対応してきた。アメリカとの関係で、またNATOとの関係でも通用したからこそ、これまで数々の海外派兵の要請を断り続けて来られたのだ。安保条約5条1項にも、「各締約国は、…自国の憲法上の規定及び手続に従つて共通の危険に対処する」と、憲法遵守が明記されている。
「内閣には内閣としての憲法解釈がある」ことは、一般論としては当然である。問題は、解釈にも限界があることであり、これまで積み重ねてきた解釈の継続性・安定性を放擲して突然に変更することの不自然さにある。集団的自衛権の行使容認は、文言解釈の限界を超えているのだから、憲法をないがしろにすること明らかで、立憲主義に反する。これまで、長く緻密に積み重ねられてきた解釈を強引に替えようとしているから、立憲主義に反するのだ。「納得しうる手順を踏んでの解釈変更」ではなく、法制局長官の首のすげ替えをしての乱暴な手口であり、安保法制懇という手の内にある安全パイの人物を使っての答申を使うという姑息なやり方が立憲主義の否定となるというのだ。理解に苦しむことはない。
第3節「◆限定容認で合意形成を」はやや長い。3個のパラグラフに分けて論じる。
第1パラグラフは以下のとおり。
『集団的自衛権の行使容認は自国への「急迫不正」の侵害を要件としないため、「米国に追随し、地球の裏側まで戦争に参加する道を開く」との批判がある。だが、これも根拠のない扇動である。集団的自衛権の解釈変更は、戦争に加担するのではなく、戦争を未然に防ぐ抑止力を高めることにこそ主眼がある。
年末に予定される日米防衛協力の指針(ガイドライン)の見直しに解釈変更を反映すれば、同盟関係は一層強固になる。抑止力の向上によって、むしろ日本が関わる武力衝突は起きにくくなろう。』
ここで展開されている「思想」は、「自国は正義、隣国は敵」「自国の軍備は常に防衛的で、隣国の軍備は常に攻撃的で危険」「自国の平和は軍備の増強によってのみ保たれる」というものである。
ここで言われている「集団的自衛権の解釈変更は、戦争に加担するのではなく、戦争を未然に防ぐ抑止力を高めることにこそ主眼がある」は、まことに歯切れが悪い。「抑止力としての効果」は、いざというときには集団的自衛権の行使をなし得るからである。現実の集団的自衛権行使が予定されているのである。「主眼がある」とは、「戦争に加担」を排除していない言葉使いである。
要するに、武器を研ぎ澄まし、防衛力を増強すること、他国の戦争に加担することもためらわないとすることこそが、邪悪な隣国に対する抑止力となり、戦争を回避できるのだとする思考回路から抜け出せないのだ。
第2パラグラフは以下のとおりである。
『政府・自民党は、集団的自衛権を行使できるケースを限定的にする方向で検討している。
憲法9条の解釈が問われた砂川事件の最高裁判決を一つの根拠に「日本の存立のための必要最小限」の集団的自衛権の行使に限って認める高村自民党副総裁の「限定容認論」には説得力がある。
内閣が解釈変更を閣議決定しても、直ちに集団的自衛権を行使できるわけではない。国会による法改正手続きが欠かせない。法律面では、国会承認や攻撃を受けた国からの要請などが行使の条件として考慮されている。
自民党の石破幹事長は集団的自衛権の行使を容認する場合、自衛隊法や周辺事態法などを改正し、法的に厳格な縛りをかけると言明した。立法府に加え、司法も憲法違反ではないか、チェックする。濫用は防止できよう。』
砂川事件最高裁判決を集団的自衛権行使容認の論拠とすることについて、「説得力がある」などと言うべきではなかろう。およそ、なんの検討もせずに、ひたすら自民党におもねっているだけの姿勢を暴露することになるからである。しかも、読売社説の文脈は、「日本の存立のための必要最小限」への「限定容認論」の論拠として説得力があるというのだ。これまでは、自衛のための最小限度の実力であれば、9条2項の「戦力」には当たらないとされてきた。これもかなり苦しい「論理」。読売は、それを超えて「日本の存立のための必要最小限」の範囲なら集団的自衛権行使も容認される、という。こんな無限の拡大解釈の許容は言語による規範設定という法そのものの機能を奪うものとしか評しようがない。これを「説得力がある」とは、よくも言えたもの。
第3パラグラフは以下のとおり。
『集団的自衛権の憲法解釈変更については、日本維新の会、みんなの党も賛意を示している。
公明党は、依然として慎重な構えだ。日本近海で米軍艦船が攻撃された際は日本に対する武力攻撃だとみなし、個別的自衛権で対応すればいい、と主張する。
だが、有事の際、どこまで個別的自衛権を適用できるか、線引きは難しい。あらゆる事態を想定しながら、同盟国や友好国と連携した行動をとらねばならない。』
読売は、自民党安倍政権の解釈変更に賛意を表し、維新とみんなを、自民に同意見として評価している。「自・維・み」3党の改憲トリオは、読売のお気に入りというわけなのだ。
その上で、「慎重姿勢」の公明党に不快感を表明している。つまり、公明が「なにも集団的自衛権行使を容認せずとも、個別的自衛権で対処可能なことがほとんどではないか」と主張していることに異議を唱えて、「有事となれば、必ずしも個別的自衛権だけでは十分ではない事態も想定できるのではないか。そのときのために集団的自衛権行使ができるようにしておくべき」と言うのだ。同盟国や友好国と連携した軍事行動を可能にしておくことを最優先して、そのような方針の大転換が近隣諸国を刺激し日本の平和主義国家としてのブランド力を損なうことは考えていない。仮想敵を作り、軍備を増強することが、近隣諸国との緊張を高め、戦争の危険を増大することを考慮しないのだ。
第4節は以下のとおり。
『◆緊急事態への対処も
武力攻撃には至らないような緊急事態もあり得る。いわゆる「マイナー自衛権」で対処するための法整備も、検討すべきである。
先月、与野党7党が憲法改正の手続きを定めた国民投票法の改正案を国会に共同提出した。今国会中に成立する見通しだ。
憲法改正の発議が現実味を帯びてくるだろう。与野党は共同提出を通じて形成された幅広い合意を大切にして、具体的な条項の改正論議を始める必要がある。
安倍政権には、憲法改正の必要性を積極的に国民に訴え、理解を広げていくことも求めたい。』
改憲勢力の国民投票法(改憲手続法)整備への期待と、その整備の手続きを通じての憲法改正案の成文化の期待が語られている。右派勢力大同団結だけでは突破できない。「幅広い合意を大切に」という言葉がものがたっているとおり、中道勢力を取り込んでの3分の2をどう作るか、彼らも悩んでいる。
以上の読売社説には、「今が好機」という高揚感と、「今のうちになんとかせねば」という焦躁感とが同居しているように見える。「議会内における自民党の圧倒的多数からは、解釈改憲など直ぐにでもできるではないか」としながらも、しかし、「それだけで終わらせてはならない。千載一遇の今のうちに、憲法改正を実現しなければ」という焦りも見える。鷹揚に、解釈改憲だけでよいとしていたのでは、明文改憲の機会を永遠に失いかねない、そう思っているのではないだろうか。
平和や人権、民主主義を大切に思い、そのために憲法を実効あらしめたいと考える者にとっては、ここはじっくりと腰を据えて、解釈改憲にも立法改憲にもそして明文改憲にも、さらには改憲手続き法の改正にも、一つ一つ反対の声を挙げ、運動を積み上げて行くしかなかろう。護憲派が焦る必要はない。最近の世論調査の動向を見れば、成算は十分と思われるのだ。
(2014年5月4日)
憲法記念日である。政府は記念行事を行わないが、国民はこの日憲法について思いを巡らし、その存在意義を再確認する。各紙が総力をあげて、それぞれの使命や方針を読者に伝える日でもある。
手の届く範囲で各紙の憲法記事に目を通した。各紙それぞれに工夫を凝らして、憲法問題に取り組んでいる。ほぼ全紙が憲法問題についての社説を載せている。昨年同様、読売・産経の2紙を除いて圧倒的に明文改憲にも解釈改憲にも反対の論調となっている。とりわけ、立憲主義から説き起こして、軽率な明文改憲や時の政権の思惑による憲法解釈の変更を戒めているものが主流を形成している。総じて、列島全域に安倍政権への警戒感が強く滲み出ている。読売や産経は、相変わらずの安倍政権寄りの論調を掲げているが、論理において劣勢であるだけでなく、完全に少数派に転落している印象が強い。
琉球新報社説の冒頭の一節がこうなっている。
「憲法記念日が巡ってきた。今年ほど、憲法改正論議が交わされることも、憲法の意義や価値が説かれることも、かつてなかった。安倍政権は今、集団的自衛権行使に向けた解釈改憲への意欲を隠さない。だがその論理は、平和構築の上でも、民主制・法治という国の体制の面でも、不当かつ非論理的なものと言わざるを得ない。沖縄にも戦争の影が急速に兆す今、戦争放棄と交戦権否定をうたう憲法9条の価値はむしろ高まっている。その資産を守り、今こそ積極的に活用したい。」
また、北海道新聞の「きょう憲法記念日 平和主義の破壊許さない」という社説の冒頭。
「戦後日本の柱である平和憲法が危機に直面している。安倍晋三首相は歴代政権が継承してきた憲法解釈を覆し、集団的自衛権の行使を容認する「政府方針」を、今月中旬にも発表する。自衛隊の海外での武力行使に道を開くもので、専守防衛を基本とする平和主義とは相いれない。9条を実質的に放棄する政策転換と言っても過言ではない。
首相はさらに、憲法が権力を縛る「立憲主義」を否定する。一国のリーダーが、国の最高法規をないがしろにする異常事態だ。」
以上2紙の社説が、全社説の大勢を反映しているといって良いのではないか。
今年の各紙社説の共通テーマは、「立憲主義に照らして、解釈改憲は許容しがたい」「集団的自衛権行使を容認する行政府の憲法解釈は禁じ手」「砂川判決は論拠にならない」「集団的自衛権の限定行使も容認してはならない」というもの。そして、少なからぬメディアが憲法意識の世論調査の結果を引用している。その世論調査のいずれもが、昨年と比較して、明文改憲阻止、集団的自衛権行使容認拒否の方向に劇的に動いている。安倍政権の改憲論は、世論に見はなされ孤立を深めている、と言ってよい情勢。たいへん心強い。
翻って、昨年の憲法記念日は、96条先行改正論をめぐる論議が白熱した時期であった。憲法記念日を前後する論争の盛り上がりのなかで、立憲主義の何たるかが社会に浸透し、これを大切にしなければならないとする世論が定着した。96条先行改憲論を標的として、「姑息」「裏口入学」「禁じ手」「96条先行改憲の本丸は9条改憲」と難じられ、安倍政権も96条先行改憲論をあきらめざるを得なくなった。これが第2次安倍政権改憲論争における護憲勢力の緒戦の勝利であった。
96条先行改憲の困難なことを知った安倍政権は、解釈改憲に主力を移した。内閣法制局長官の首をすげ替える露骨で強引な人事を強行し、安保法制懇答申を待って一気呵成の閣議決定を目論んだが、世論の批判は厳しく、遅滞と後退を余儀なくされている。いまは、「集団的自衛権の限定的行使容認論」。それさえも、本当にできるのか困難な情勢。加えて、2013年12月、無理に無理を重ねて成立させた特定秘密保護法強行時に幅の広い統一戦線的反対論の勢力結集を見た。ここで、保守派も含めて、安倍政権の危うさを共通認識とすることになった。加えて、行かずもがなの靖国参拝である。NHKの人事強行問題もある。
そのような事態を経ての今年憲法の日。その主要テーマである集団的自衛権論争はまさしく、昨年の96条先行改憲是非の論争の延長線上にある。96条先行改憲論に対する批判の核心は、「各議院の総議員の三分の二以上の賛成」という国会の発議要件を「各議院の総議員の過半数の賛成」に変更することが立憲主義に悖るということであった。解釈改憲は、国会内の論議を尽くすこともなく、国民に意見を求めることもなく、時の政権が恣に憲法の解釈を枉げて、実質的に憲法を改正してしまおうというのだ。立憲主義に反すること、これ以上のものはない。
以上の趣旨を反映した社説はたくさんある。典型例は、「揺らぐ憲法ー立憲主義の本旨再確認を」という河北新報社説。以下のとおり、立憲主義の本旨に触れての本格的な論説となっている。
「集団的自衛権をめぐる問題は、容認の是非もさることながら、立憲主義の本旨と衝突する側面も軽視できない。事実上、政府の一存で「実質的な改憲」を行うならば、憲法自体への信頼性を深く傷付けよう。憲法は強大な「国家権力」を縛り、国民一人一人の「権利」「自由」を守る最高法規だ。閣議で都合良く解釈を変更し、自衛隊の運用などは別途、法改正で対応するというのであれば、権力の暴走を招きかねない。」
また、安保法制懇という私的な諮問機関を使う手法についても、手厳しい批判がある。たとえば沖縄タイムスの「岐路に立つ憲法ー戦争の足音が聞こえる」という深刻な標題を掲げた社説の次の一節。
「首相は、解釈の変更によって集団的自衛権の行使容認を実現しようとしている。その理論的支柱となっているのが安保法制懇である。長年にわたり積み重ねてきた政府答弁を、何の法的根拠もない私的懇談会の報告書を基に内閣の解釈変更で覆すことができるなら立憲主義、民主主義の否定につながり、9条の法規範としての意味が失われる。」
そのとおり。安保法制懇は、何の権限ももたず、何の権威もない。時の政権の意を体する人物たちが国会のなすべきことを掠めとろうとしているだけの話しではないか。
砂川事件大法廷判決が、解釈改憲の論拠にはならないとする社説も多い。中国新聞は標題に「憲法の解釈変更 砂川判決 論拠にならぬ」とする社説を掲げて、自民党高村正彦氏の論旨を批判し、さらに、この判決がアメリカの圧力によるものである疑惑濃厚であることから、論拠として引用するにふさわしいものでない趣旨を述べている。
また、限定的にせよ、集団的自衛権行使容認と原則を替えることの危険性を説く社説も多い。原則を放棄すれば、限定の歯止めがなくなるのは必定という指摘と、以下のとおり海外出兵の要請を断れなくなるとするものがある。
「ベトナム戦争の際、集団的自衛権の行使で韓国軍が派遣され多数の死者が出た。イラク戦争に英国は集団的自衛権を行使して兵士を送り込み、米国に次ぐ死者を出した。日本は、戦争終結後に人道復興支援で陸自を派遣したが、一人の犠牲者もなく民間人を傷つけることもなかった。9条が歯止めとして機能したからだ。あの時日本が集団的自衛権の行使が可能だったら、米国からの戦闘派遣要請を断れなかっただろう。」(沖縄タイムス)
また、毎日、朝日、日経、NHK、北海道新聞、沖縄タイムス、琉球新報などが、世論調査を発表し、あるいは直近の調査を引用している。
特筆すべきは、毎日の調査結果。「9条改正反対51%ー前年比14ポイント増」というもの。
「毎日新聞が3日の憲法記念日を前に行った全国世論調査によると、憲法9条を「改正すべきだと思わない」との回答は51%と半数を超え、「思う」の36%を15ポイント上回った。昨年4月の調査では、同じ質問に対し「思う」46%、「思わない」37%だった。安倍晋三首相が改憲ではなく憲法解釈変更によって集団的自衛権の行使を認めようとしていることも影響したとみられる。
9条の改正反対はすべての年代で賛成を上回った。安倍内閣支持層では改正賛成51%、反対36%だったのに対し、不支持層では反対が75%に達し、賛成は18%にとどまった。集団的自衛権の行使を認めるべきではないと考える層では、改正反対が79%と圧倒的。認めるべきだと考える層(全面的と限定的の合計)は賛成が54%だったが、反対も36%を占めた。」
つまり、「9条改正賛成派」対「9条改正反対派」の比率は、
昨年の調査では、46%対37%で、改正賛成派が多数だった。その差9ポイント。
今年の調査では、36%対51%で、反対派が逆転した。しかも、その差は15ポイントである。
9条改正反対派は、1年で実に14%増えたのである。賛成派は10%も減らした。こと、憲法問題に関する限り、「安倍ノー」の世論が圧倒しているといって良い。ものを書き、口にし、語りかけることは無意味ではない。確実に世論を動かし得る。自信を持とう。
(2014年5月3日)
一昨日、ある会合で「教科書ネット21」の俵義文さんと同席の機会を得た。教育問題を最重要課題のひとつと位置づけた安倍政権の「教育再生」政策は、地教行法、教科書無償化措置法、学校教育法の改正、教科書採択基準の変更、道徳の教科化等々、目まぐるしい。俵さんは、その対応に忙殺されているが、さすがに豊富な資料で、的確に要点を指摘している。
「下村博文文科相や義家弘介氏(自民党教育再生実行本部)らによる地教行法の改正も教科書無償化措置法の改正も、つくる会系(育鵬社)教科書採択を最大化をはかる内容となっている」「つくる会系勢力は、前回の採択時に総力をあげて運動したが、失敗したという総括をしている。自分たちの教科書の採択が伸びない原因を、『教育委員会の抵抗』と位置づけ、政治の言うことを聞く教委に変えてしまおうというのが、今回改案の主たる動機だ」「教科書無償化措置法改正による採択地区細分化も同様の思惑。われわれは、『教科書採択は本来教員の意見が十分に反映される制度でなければならない。だから広域採択には反対』と言ってきた。今、彼らは『市郡単位から、市町村単位に採択地区を変更すれば、つくる会系教科書の採択が増える』と見込んでいる。そのため、その政策に関する限りわれわれと奇妙な一致を見ている」ということが大要。そう整理されると、なるほどよく分かる。
ところで、俵さんの話が教科書・教育から離れて、改憲問題に及んだ。
「安倍政権やこれに連なる保守勢力は、明文改憲に失敗して解釈改憲路線を走っているとされているが、決して明文改憲をあきらめたわけではない。地道に草の根の改憲運動が続けられている。その中で、最も警戒すべきが日本会議の地方議連による地方議会決議運動だ。既に、8県議会が3月議会で『憲法改正の早期実現を求める意見書』を採択している。今後警戒して、この動きを封じる工夫をしなければならない」
8県議会とは、石川、千葉、富山、兵庫、愛媛、香川、熊本、鹿児島。
採択されたのは、典型的には次のような内容。
*************************************************
国会に憲法改正の早期実現を求める意見書
現憲法が昭和22年5月3日に施行されて以来、今日に至るまでの約70年間に我が国をめぐる内外の諸情勢は劇的に変化を遂げている。すなわち、我が国を取り巻く東アジア情勢は、一刻の猶予も許されない事態に直面しており、さらには、家庭、教育、環境などの諸問題や大規模災害等への対応が求められている。
国民が現憲法と現実との乖離の解消を望んでいることは、各種世論調査において、憲法改正の支持が常に過半数に達していることにより明らかであり、各政党、各報道機関、民間団体からも具体的な改憲案が提唱されている。
しかし、平成19年に日本国憲法の改正手続に関する法律が制定されたことに伴い、両院に設置された憲法審査会の活動開始が平成23年にずれ込むなど、憲法改正発議に向けた審議は進展していない。成文憲法を持っている世界各国では現実に合わせるための憲法改正を行っており、日本国民が憲法規定の是非をみずからが判断する国民投票を一度も体験しないままの現状を解消することは、国権の最高機関として国民から国政を負託されている国会の責務である。
よって、国会におかれては、下記の項目を実行されるよう強く要望する。
記
憲法改正案に対して国民が判断できる機会を早急に設けるため、両院の憲法審査会において憲法改正案を早期に作成し、次期国政選挙までに国民投票を実現すること。
以上、地方自治法第99条の規定により意見書を提出する。
平成26年3月17日
熊 本 県 議 会 議 長 藤 川 ? 夫
衆議院議長 伊 吹 文 明 様
参議院議長 山 崎 正 昭 様
*************************************************
日本会議とは右翼勢力の元締めとなる組織、その会長は三好達・元最高裁長官。自由民主党を中心に280名の日本会議国会議員懇談会を擁しているだけでなく、日本会議地方議員連盟を抱えている。その数1700人と豪語している。
その地方議員連盟の〈基本方針〉は以下のとおり。
1、皇室を尊び、伝統文化を尊重し「誇りある日本」の国づくりをめざす。
2、わが国の国柄に基づいた「新憲法」「新教育基本法」を提唱し、この制定をめざす。
3、独立国家の主権と名誉を守る外交と安全保障を実現する。
4、祖国への誇りと愛情をもった青少年の健全育成へ向け、教育改革に取り組む。
〈運動方針〉は以下のとおり。
「誇りある国づくり」を掲げ、皇室・憲法・防衛・教育等の課題に取り組む日本会議と連携し、地方議会を拠点に、次のような運動を推進します。
?改正された教育基本法に基づき、国旗国歌、日教組、偏向教科書問題など、教育改革に取り組みます。
?青少年の健全育成や、ジェンダーフリー思想から家族の絆を守る運動を推進します。
?議会制度を破壊しかねない自治基本条例への反対など保守の良識を地方行政に働きかけます。
キーワードは、皇室、憲法、教育、防衛、そして家族である。いま、その地方議員連盟が課題としているのが、地方議会における「憲法改正の早期実現を求める意見書」の採択なのだ。自民党が県連に指示し、自民と日本会議とが一体となって運動を推進している。維新も賛成にまわっている。
日本会議はもともとが元号法制化促進運動の中から立ち上がっている。元号法制定促進決議や、靖国神社公式参拝要請決議の運動をやってきた。公式参拝要請決議は37の県議会、1548の市長村議会で成立している。そして今、憲法改正促進決議への取り組みである。
なお、今年も日本会議を中心とする右派勢力は5月3日に公開憲法フォーラムを開催の予定。テーマは、「国家のあり方を問う―憲法改正の早期実現をー」。中央の集会では、櫻井よしこ、船田元、西修、百田尚樹が発言するという。各地方での集会では、長谷川三千子の名も見える。
改憲問題も教育問題も、そしてNHK問題も元号法も靖国も、根は一つの問題なのだ。小選挙区制のマジックで底上げされた安倍極右政権が、今がチャンスと跳梁している。一つ一つの課題において、抵抗し続けていかねばならないと思う。
(2014年4月27日)
私は、1963年4月に大学の教養学部に入学した。半世紀も前のことになる。文系のクラス編成は、第2外国語取得者ごとになされた。ドイツ語既修者がA、未修者がB、フランス語既修者がC、未修者がD、そして中国語は未既修を分けずにEの記号を付されたクラスとされた。スペイン語クラスも、ロシア語クラスもなかった。私は、「Eクラス」で中国語を学んだ。クラス全員で27人。圧倒的な西高東低の時代の絶対少数派。
東西冷戦のさなかで、西側諸国の人民中国へのアレルギーは強かった。中国を承認する国は少なかったのだから無理もない。もちろん、日中間の国交もなかった。イギリスだけが早くから中国を承認していたのが不思議なくらい。1964年1月に、ドゴールのフランスが突然に中国を承認して、歴史は大きく変わった。64年以後Eクラスの人数も大幅に増えることになる。
63年入学までの絶対少数派Eクラスの内部結束は固かった。革命をなし遂げた中国共産党に共鳴する向きが主流であったが、必ずしもみんながそうではなかった。反権力・反権威・叛骨・在野精神などを共通に育んだのでなかったか。思想傾向などを超えて親密な交流が今も続いている。20歳前後の生き方の方向を決めようという時期をともにした友人はかけがえがない。みんな、さしてエラクはなっていない。久しぶりに会えば、肩書などはまったく無視して昔に帰る。
そのクラスメートの中から研究者の道に進んだ者が3名ある。そのうちの一人が粟屋憲太郎君。定年まで立教大学の教授だった。現代史の研究家として、とりわけ東京裁判の研究者として高名である。しばらく体調を崩していたが、先日のクラス会では元気な様子だった。
その席で、近々中国に出掛ける予定と言っていた。上海交通大学が、東京裁判の研究部門をもっており、そこでの講座を担当するとのこと。同大学名誉教授になっているとも言っていた。Eクラス出身者らしい活躍ぶり。
その彼が、いま、北京のようだ。たまたま一昨日(4月23日)のCRI(中国国際放送局)ネット配信記事に、粟屋君の談話が紹介されている。「歴史学者の粟屋氏、『靖国参拝は政教分離に相反する』」という標題。
「日本の新藤義孝総務大臣をはじめ、政治家約150人が靖国神社を参拝したことについて、北京を訪問している日本の歴史学者、粟屋憲太郎さんはCRIの記者に対し、靖国神社の歴史観を批判し、参拝は『政教分離の原則に相反するもの』だと訴えています。
粟屋さんは『日本は、政治が右向きの中で、これだけ多くの国会議員が靖国神社を参拝したということは、たいへん残念なことだ。参拝する行為は、日本国憲法で規定している政教分離の政策に相反している』と話しています。
日本現代史の専門家で、東京裁判の研究で知られる粟屋さんは『日本がサンフランシスコ講和条約で、東京裁判の判決を受諾している以上、A級戦犯を神として祀ることはまったくおかしいことだ』と指摘しています。
また、『靖国神社にある遊就館を見れば、大東亜戦争肯定論であることがわかる。参拝により、戦争に含まれている国家犯罪などの問題を隠し、その正当化を図ろうとしているのが、靖国神社の歴史観である。そのような場所に現職の大臣までが参拝しているとは、全くどうかしていると思う』と憤慨しました。
さらに粟屋さんは、1945年6月にフィリピンのルソン島で戦死した父親を例に挙げ、『家族に何も相談なく、靖国神社が父を祭神にした。それを撤回してくれと言っても、取り下げようとしない。そういう形で祀られた戦死者も多い』と話し、政教分離の原則からも『戦争犠牲者の哀悼は無宗教の千鳥ヶ淵戦没者墓苑で行うべきで、長い目から見れば、国は新しい追悼施設を作るべきだ』と主張しています」
第2次大戦で反ファシズム連合国に敗れた日本が、国際社会に復帰することが許容された条件が、サンフランシスコ講和条約第11条「極東国際軍事裁判所並びに国内外の他の連合国戦争犯罪法廷の裁判の受諾」であった。憲法前文に謳われた「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることの決意」の具体化でもある。靖国に東京裁判で有罪となったA級戦犯を合祀すること、それに現職の大臣までが参拝することは、東京裁判受諾の国際誓約を反故にすることではないか。靖国と、靖国派政治家への彼の怒りが伝わってくる。
それにしても、粟屋君が「靖国の遺児」だとは知らなかった。インタビューに応じた言葉にも、理屈だけのものではない、情念のほとばしりが見て取れる。日本の良心を代表しての中国での発言に、賛意と敬意を惜しまない。
***********************************************************************
「ダイオウグソクムシ」(大王具足虫)の死の謎
今日は水族館の話。各地の水族館で「ダイオウグソクムシ」が人気を呼んでいる。ダイオウグソクムシは節足動物門等脚目スナホリムシ科の甲殻類で、ダンゴムシやワラジムシの仲間で最大のもの。ダイオウの名前がついているとおり、成長すれば体長50センチ、体重1キロ余になるという。メキシコ湾や西太平洋の深海に住み、沈んできた死骸の掃除をして生きている。
数年前、江ノ島水族館で、ピクリとも動かないダイオウグソクムシを、こちらもじっと動かず辛抱強く観たことがある。海水のなかに落ちてふやけた巨大なダンゴムシのようだった。いったい生きているのか、死んでいるのか、最後までわからなかった。
鳥羽水族館のダイオウグソクムシが、5年と43日絶食したまま、本年2月14日午後5時半頃死亡したと報じられた。「NO.1」と名付けられた、このダイオウグソクムシは死亡時、「水族館での飼育日数は2350日(6年と158日)、2009年1月2日に50グラムのアジを食べて以降、絶食日数は1869日(5年と43日)に達していた」(産経新聞3月14日)。2007年メキシコ湾から送られてきた時の体長29センチ、体重1キロのまま、死亡時までほぼ変化がなかったという。
生態については、鳥羽水族館の飼育員の森滝丈也さんが克明な飼育日記をつけており、正確な記録があるという。森滝さんは、水槽の水質、水温はもとより、餌は新鮮なイカ、ホッケ、サンマ、ニシン、シシャモ、ブリ、それでだめなら腐ったニシンと手を変え品を変えて、工夫を凝らして飼育に励んだ。NO.1は水族館に来て9カ月目と1年4カ月目に新鮮なシマアジを食べたその後は、何も口にしなくなってしまったらしい。絶食が報道されると、動画サイトには1年間に300万ものアクセスがあったという。その祈りも届かず、NO.1は絶命した。
NO.1の死後、森滝さんは「食べなくても生きることができる秘密」を解明するために解剖を行った。とうぜん「餓死」が疑われたが、甲羅の裏側など肉も痩せておらず、どうもそうではなさそうだ。不思議なことに、胃の内部は淡褐色の液体で満たされており、酵母様真菌が増殖していた。
もともと、ダイオウグソクムシは食が細く、1年間ぐらいの絶食は珍しくないらしい。新江ノ島水族館でも、3カ月に1度しか餌は与えていない。結局NO.1の生と死の謎は解明されなかつた。胃の中の酵母様真菌と長期間の絶食の関連性は、今後の研究にゆだねられた。
1日3度の食事作りに追われて家庭の主婦やスリムな体型維持に苦労している人にとって、NO.1の生き方ほど魅力的なものはない。iPS細胞やSTAP現象に勝るとも劣らない研究テーマとなるはずだ。1日も早くNO.1の生の秘密を解明してもらいたい。
もし、ヨーグルト状の酵母様真菌を3カ月に1回食べれば生きてゆけるとなったら…、人類は食糧獲得の競争から解放される。食事のための労働からも解放される。地上は、ダンゴムシ様人間の天国となるだろう…か。
(2014年4月25日)