来年(2014年)3月1日は、アメリカのビキニ核実験で、「ブラボー」と名付けられた水素爆弾が爆発してから60年となる。われわれにとっては、第五福竜丸被曝60年の「負の記念日」。その日に向けて、公益財団法人第五福竜丸平和協会は、「被ばく60年記念事業」を準備中である。記念の集い、連続市民講座、各地での第五福竜丸展の開催や出版の諸企画‥。多くの人にご賛同いただき寄付も募らなければならない。
木造のマグロ漁船「第五福竜丸」は、1947年に和歌山県古座町(現在串本町)で建造され、初めはカツオ漁船として活躍し、後にマグロ漁船に改造され遠洋漁業に就航。1954年3月1日に、太平洋のマーシャル諸島にあるビキニ環礁でアメリカが行った水爆実験によって被曝した。その後、練習船に改造されて東京水産大学で使われていたが、1967年に廃船になった。この廃船が夢の島に廃棄されていることが一青年の新聞投書によって社会に知られ、その後の市民運動によって、美濃部都政の時代、夢の島に第五福竜丸展示館が建設された。第五福竜丸は原水爆禁止運動の象徴として、多くの来館者に被災の事実を訴え続けている。
来年3月1日(土)に日本青年館で行われる「記念の集い」では、池内了さんの記念講演と、三宅榛名さんのピアノ記念演奏が予定されている。これは、豪華な顔ぶれではないか。
60年記念のメインの出版企画が、図録『第五福竜丸は航海中』。このタイトルは、第五福竜丸は今なお航海を続けてるというイメージのもの。物理的には展示館に据えつけられ固定されてはいるが、世界の原水爆禁止運動に携わる多くの人とともに、核のない平和な世界を目指して航海を続けているのだ、という思い入れ。良い題名ではないか。
本日、平和協会の役員らの懇談会があって、記念事業の進め方について協議した。その中で、「図録」における福島第一原発事故被災の取扱い方について、若干の議論があった。
「被曝50年の時とは異なって、60年の今回は福島の原発事故後の放射能被害問題を抱えている。核兵器による被爆・被曝と、原発による放射能被害との関連性を訴えるためにも、フクシマの被災についても図録に掲載すべきだ」
「ヒロシマ・ナガサキ、そしてビキニ被災、続いてフクシマという人類の核被害・放射能被曝の歴史を一連のものとして把握しなければならない。ビキニ事件の『3・1』とフクシマ事故の『3・11』とは、実は緊密に繋がっているのだということを確認したい」
「私は、人類対核、人類対放射線被害というように、過剰に抽象化した捉え方ではない方が良いと思う。ヒロシマ・ナガサキは大日本帝国の行き詰まりにおける事件だった。ビキニ被災は東西冷戦の産物だった。そしてフクシマは、戦後日本の経済や政治の在り方がもたらした悲劇。そのように異なる位相を具体的に把握すべきだ」
「一点注意を要すると思うので、ご留意いただきたい。福島の地元の一部には、福島をヒロシマ・ナガサキと同列に置いた議論を強く嫌う傾向がある。福島に対する差別意識につながるおそれを感じておられることに十分な配慮をしなければならない」
「ヒロシマ・ナガサキの被ばく者も、事件後すぐに立ち上がったわけではない。いろんな葛藤を克服して立ち上がるまでには10年余を要した。地元の世論が成熟して力になるまでにはそれなりに時間がかかることに理解を示すべきであって、福島への言及は慎重を要する」
「とはいえ、何もしないで無為に時を待ちさすえば、自ずから『3・1』と『3・11』の距離を縮める結果になるとは限らない。むしろ、ヒロシマ・ナガサキの被ばく者運動の経験から今の時期にどう福島に言及すべきかをアドバイス願ったうえで、図録には福島についても書くべきだと思う」
「なによりも、被害内容の正確な把握が大切だと思う。いま、現地の子どもたちの日常の被曝量の調査を進めているが、新しい知見がまとまりつつある。けっして、過小評価してはならないが、また被害を誇張してもいけない。そのような正確な事態把握のうえであれば、過不足のない言及ができるのではないか」
なるほど、なるほど。すべての発言がもっともだ。今、国民の中には福島原発事故によって直面せざるを得なくなった放射線への強い恐怖がある。そして、そのような被害をもたらした原発が、実は日米の核政策の中から生まれたことも知られようになってきている。
3・1ビキニ事件は、核爆発の威力の凄まじさと核実験による放射線被曝の恐怖とを世界に示した。3・11福島第一原発事故も、核の恐怖と放射線被曝の恐怖とを世界に示した。とりわけ日本人には深刻な恐怖である。「3・1」と、「3・11」と。その両者の距離は、実はそんなに離れたものではない。そして、実は、「8・6」「8・9」と「3・11」とも。核による甚大な被害を受けてきた我が国の国民は、「8・6」「8・9」「3・1」「3・11」を、つながる被害として把握すべきであろう。その根源を同じくし、それぞれの事件の被害者の連帯した運動によって共通に克服すべき課題を抱えていることを確認すべきだろう。そうあって欲しいと願っている。
(2013年10月27日)
10月18日付で、共産党が「国民の知る権利を奪う『秘密保護法案』に断固反対する―『海外で戦争する国』づくりを許さない」という声明を発表している。さすがに、その全体像をしっかりと把握し、問題点を明らかにしている。なによりも、よく練られた文章で読みやすい。この声明が、当面法案反対運動全体の論拠としてスタンダードなものとなるだろう。
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik13/2013-10-19/2013101903_01_0.html
翌19日付の赤旗一面トップが、「『秘密保護法案』阻止へ共同を 共産党、断固反対の声明」と報じている。併せて、志位委員長と小池副委員長が揃って会見しており、「わが党は、立場の違いを超えて民主主義破壊の悪法に反対する一点で力を合わせ、たたかいぬく」と決意を表明。「秘密保護法案の恐ろしさをわかりやすく国民に伝え、急いで、たたかいの火の手を全国であげていきたい」と述べたという。
ところで、この声明の中に、次の一節がある。この悪法によって、国民の行動が犯罪として処罰される危険を指摘したもの。
「法案は、『特定秘密』を漏らした者だけでなく、ジャーナリストの取材活動や一般市民による情報公開要求など『特定秘密』にアクセスしようとする行為まで処罰対象としています。さらには『共謀、教唆、煽動(せんどう)』も処罰するとしており、処罰の対象は、市民のあらゆる行為におよび、家族・友人などにもひろがる危険があります。」
委員長記者会見でも、次のとおり述べられている。
「たとえば、『日米密約の内容を明かせ』『TPP(環太平洋連携協定)の秘密交渉の内容を明かせ』『原発資料を明らかにしろ』と集会や街頭演説で訴えた場合も『教唆、煽動(せんどう)』を行ったとして、処罰の対象とされる危険がある」
この点は、けっして虚偽でも誇張でもない。これこそ、どこに埋め込まれているか分からない地雷である。この地雷に近づくことを任務としているのが、ジャーナリスト。平和運動や労働運動に携わる者、市民運動の活動家にとっても危険極まりない。もちろん、一般市民もいつどこで、この地雷を踏むことになるのか分からない。なにしろ、どこに地雷が仕掛けられているかが秘密なのだから。この地雷がどこにどれだけあるかが分からないことが、情報提供の萎縮効果を生む。そして、国民の知る権利を侵害する。民主々義がやせ細ることになる。
行政の担当者に接触して、「日米密約の内容を明かせ」「TPP(環太平洋連携協定)の秘密交渉の内容を明かせ」「原発資料を明らかにしろ」と要求することは、ジャーナリストの取材の基本活動である。しかし、権力の側では、できるだけ不都合な情報は、国民に知られたくない。これを封じ込めることができれば、国民の批判をかわして政権運営にこの上なく便利と考える。そのために、取材活動自体を犯罪と構成できれば、こんなに素晴らしいことはない。取材活動自体を犯罪とするには、いくつかの方法が考えられる。
一つは取材活動それ自体を新たな犯罪として構成する手法。これはさすがに、あからさまに全ての取材活動を犯罪にはしにくい。「違法な手段による取材活動を禁止する」という手法をとらざるを得ない。そうしておいて、「違法な手段」の範囲をうんと広げる工夫に悪知恵をはたらかすことになる。そして、もうひとつが、教唆犯の活用だ。こちらは「違法な手段による」という限定を付ける必要がない。だから、こちらの方が遙かに広く、ジャーナリストや市民に余計な行動をせぬよう網をかぶせることが可能となる。
特定秘密を保有する公務員が秘密を漏らすことが犯罪とされる。最高刑は懲役10年・罰金1000万円という重罪(同法22条)。この犯罪を犯すよう唆すことが教唆だ。教唆とは「人に特定の犯罪を実行する決意を生じさせるものであれば足り、その態様は多様である。命令、指揮、嘱託、依頼、甘言、誘導・・などによることが可能である。教唆行為は明示的でなく黙示的・暗示的なものでもあり得る」と説かれる。
「記者が、特定秘密を保有する公務員を取材して、情報を引き出すこと」。これが、典型的な特定秘密漏洩の教唆にあたる。もっとも、普通の犯罪の場合、教唆犯(記者)は正犯(教唆されて犯罪を犯す側、この場合秘密を保有する公務員等)の犯罪が成立して初めて処罰対象となる。「取材攻勢をかけたが、公務員側は頑として口を割らなかった」場合には、犯罪にはならないというのが大原則。ところが、この特定秘密保護法は普通の法律ではない。権力の欲するとおりに、「取材の働きかけをした」だけで、教唆犯が成立する仕組みとなっている。これを「独立教唆犯」という。おそらく、ジャーナリズムにとっても一般国民にとっても、この法律のここが一番恐いところ。萎縮効果が甚だしいものになる。
独立教唆犯をこしらえて、広く市民に網をかぶせようという権力の側からの発想は、この悪法の生みの親となった「秘密保全のための法制の在り方に関する有識者会議」が明言しているところ。2011年8月8日付の「秘密保全のための法制の在り方について」と題する報告書には、次のとおりに明記されている。
「独立教唆行為及び煽動行為
特定秘密取扱業務者(秘密を取り扱う公務員)等に対し、特定秘密を漏えいするよう働きかける行為(教唆)は、その漏えいの危険を著しく高める行為であって悪質性が高い。他の立法例も考慮すると、正犯者の実行行為を待つことなく、特別秘密の漏えいの独立教唆及び煽動を処罰対象とすることが適当である。また、特定取得行為(取材記者などの違法または著しく不当な手段による秘密取得行為)は漏えい行為と同様に秘密を漏えいさせる高い危険性を有することから、同行為の独立教唆及び煽動を処罰することが適当である。」
このような報告書を作成した「有識者」の名前は、よく記憶に留めておくべきであろう。縣公一郎(早稲田)、櫻井敬子(学習院)、長谷部恭男(東大)、藤原静雄(筑波)、安富潔(慶應)の諸氏である。
この報告書の提言が、法案に取り入れられて条文化され、「ジャーナリストの取材活動や一般市民による情報公開要求など『特定秘密』にアクセスしようとする行為まで処罰対象としています。」と危惧せざるを得ない事態となっている。
特定秘密の保有者(秘密を取り扱う公務員)等に対し、ジャーナリストや市民が秘密を漏えいするよう働きかける行為の処罰2類型は下記のとおりに条文化されている。
その一つが「特定取得行為」、つまり、違法または著しく不当な手段による秘密取得行為を独立した犯罪としたもの。法案の条文は次のとおり。
「23条1項 人を欺き、人に暴行を加え、若しくは人を脅迫する行為により、又は財物の窃取若しくは損壊、施設への侵入、有線電気通信の傍受、不正アクセス行為その他の
『特定秘密を保有する者の管理を害する行為により、特定秘密を取得』
した者は、10年以下の懲役に処し、又は情状により10年以下の懲役及び1000万円以下の罰金に処する。
23条2項 前項の罪の未遂は、罰する」
もう一つの類型が、独立教唆である。
「24条1項 第22条第1項又は前条第1項に規定する行為の遂行を共謀し、教唆し、又は煽動した者は、5年以下の懲役に処する。
24条2項 第22条第2項に規定する行為の遂行を共謀し、教唆し、又は煽動した者は、3年以下の懲役に処する。
行為は、「共謀、教唆、煽動」と極めて広い。教唆は被教唆者が特定されている場合、不特定多数が相手だと煽動となる。
「特定秘密の取扱いの業務に従事する者」(典型的には公務員)が正犯である場合が1項。
「特定秘密の取扱いの業務に従事する者から当該特定秘密を知得した者」(たとえば、政府と契約をした民間業者)が正犯である場合が2項と分けている。
これが、独立教唆罪としての構成要件。判例・通説とされている刑法理論(共犯従属性説)からは、本来正犯が犯罪として成立しなければ、共犯は不可罰なのだが、このように、教唆行為を独立した構成要件とすれば、「教唆として十分な行為が行なわれた以上は、被教唆者が犯罪の実行を決意したか否か、あるいは現実に犯罪を実行したか否かとは無関係に、独立した犯罪として成立」することになる。未遂処罰規定がなくても、本犯の行為をまたずに行為が完結するから処罰可能となる。独立教唆犯は、教唆の未遂を独立罪としたものなのだ。
だから、「日米密約の内容を明かせ」「TPP(環太平洋連携協定)の秘密交渉の内容を明かせ」「原発資料を明らかにしろ」と取材で要請した場合にも、集会や街頭演説で訴えた場合も、「教唆、煽動(せんどう)」を行ったとして、処罰の対象とされる危険があることになる。秘密を保有するものがその教唆・煽動行為によって、秘密を漏示することなく、教唆・煽動が未遂に終わっても犯罪が成立する。ここが、独立教唆犯の恐いところ。
余りに、処罰範囲が広がるから、法は「配慮」規定を置いた。
21条1項 この法律の適用に当たっては、これを拡張して解釈して、国民の基本的人権を不当に侵害するようなことがあってはならず、国民の知る権利の保障に資する報道又は取材の自由に十分に配慮しなければならない。
21条2項 出版又は報道の業務に従事する者の取材行為については、専ら公益を図る目的を有し、かつ、法令違反又は著しく不当な方法によるものと認められない限りは、これを正当な業務による行為とするものとする。
1項は、格別の実効性はなく、この法律の危険性を自白するものに過ぎない。2項ははたらく余地があればお飾りでないが、さていったいはたらく余地があるだろうか。
「日米密約の内容を明かせ」「TPP(環太平洋連携協定)の秘密交渉の内容を明かせ」「原発資料を明らかにしろ」と取材で質問した場合、集会や街頭演説で訴えた場合、あるいは情報公開請求をしたところ墨塗りの資料しか公開されないので原本を見せてくれと要求した場合、24条違反の独立教唆となる。仮に、21条2項の正当業務との推定規定がはたらいたとしても、ジャーナリストだけが処罰を免れる。集会や街頭演説で訴えた市民運動の活動家は完全にアウトだ。
もちろん、ジャーナリストなら安全ということではない。また、23条の特定秘密取得罪(最高刑懲役10年)については、正当業務行為推定規定がはたらく余地がない。
特定秘密保護法はことほどさように、国民生活に危険な存在であり、民主々義への敵対物でもある。
(2013年10月26日)
いよいよ正念場。政府は本日(10月25日)「特定秘密保護法」案の上程を閣議決定した。また、既に上程されて継続審議となっている「国家安全保障会議(日本版NSC)設置法」案が、本日衆院本会議で審議入りした。政府・与党は、両法案をセットとして今臨時国会で成立を目指している。
公明党の修正提案がどう反映しているかが気になるところ。
第7章の「罰則」の前に、第6章「雑則」(18?21条の4か条)を置いて、ここにはめ込んでいる。が、これではダメだ。「焼け石に水」程度の効果もなく、却って「法案成立のための呼び水」の役割でしかない。
18条が、「(特定秘密の指定等の運用基準)」で、調整役を置いて各省庁で秘密指定のバラツキが出ないよう「統一的な運用を図るための基準を定める」とするもの。19条が(関係行政機関の協力)と題して、「関係行政機関の長に秘密の漏えいを防止するため、相互に協力する」義務を課すもの。20条が、「(政令への委任)」条項。そして、21条が問題の「国民の知る権利・メディアの取材活動の自由」への配慮規定である。
第21条(この法律の解釈適用)
第1項 この法律の適用に当たっては、これを拡張して解釈して、国民の基本的人権を不当に侵害するようなことがあってはならず、国民の知る権利の保障に資する報道又は取材の自由に十分に配慮しなければならない。
第2項 出版又は報道の業務に従事する者の取材行為については、専ら公益を図る目的を有し、かつ、法令違反又は著しく不当な方法によるものと認められない限りは、これを正当な業務による行為とするものとする。
これで安心という言論人がいたら、オメデタイ限り。むしろ、「自分は、政府ベッタリの立場なのだから、どんな条文になっていようとも関心がない」との表白であろう。
まず、このような文言を条文の中に入れざるを得ないこと自体がこの法案のもつ危険性の証しである。この条文の真意は以下のとおり。
「この法律は、適用に当たって拡張して解釈される虞が極めて高いことは覚悟してください。なにしろ、誰にも検証のしようがないのですから。行政をチェックする国会ですら基本的にアンタッチャブルになるのですから、議員の皆様はそれを覚悟で賛否を決してください」「国民の基本的人権を不当に侵害するようなことがあってはならないのですが、そうなる可能性は際限なく高いのですよ。いや、きっとなりますよ。なにしろ、この法案の基本思想が、人権よりは国家の安全を優越価値とするのですから当然といえば当然なのです」「そして、この法律で地雷を踏むことになるのは記者なのだということを、『報道又は取材の自由に十分に配慮しなければならない』という形で警告をしておきますよ。この法律ができたら、よくよく考えて、賢く身を処すことですね」
なお、配慮の対象は、「国民の知る権利の保障」とはなっていない。これに資する限りでの「報道又は取材の自由」だけが配慮の対象となっている。どうも違和感を拭えない。
実践的には、第2項の、違法性阻却(犯罪構成要件に該当する行為があっても、実質的に処罰に値しないとして犯罪不成立とする)事由存在の推定規定の解釈・運用が問題となる。
まず、「出版又は報道の業務に従事する者」以外には適用がない。そして、「出版又は報道の業務」の定義規定はない。私は、日民協の機関誌「法と民主主義」の編集委員だが、はたして「出版又は報道の業務に従事する者」として、私も保護されるのか。おそらくはダメだろう。問題は、境界が限りなく不透明で、萎縮効果が大きいということだ。
「法令違反又は著しく不当な方法によるものと認められない限りは、これを正当な業務による行為とするものとする」が最大の疑問点。まず、法令違反があった場合には、違法性を阻却しないという。そもそもこれがおかしな話し。形式的な法令違反があったとしても、正当な業務行為としてなされたものなら、違法性を阻却して犯罪不成立」としなければならない。ところが、この条文は「形式的に法令違反あれば、正当業務としては認めない」という宣言と読まざるを得ない。しかも、「法令違反」の「法令」のうちには、特定秘密保護法もはいるのだから、「この秘密保護法に違反した取材があれば、法令違反だから正当業務としては認めない」ということになる。最悪の解釈としては積極的違法性阻却排除条項であり、最善の解釈としてもトートロジーとして無意味な条項である。
「著しく不当な方法によるものと認められない限りは、これを正当な業務による行為とするものとする。」も同様。たとえ「著しく」が付こうとも、「違法ではなく、不当に過ぎない方法」での取材活動が、権力的に規制されてはならない。この条文は、本来犯罪とはならない「不当な取材まで」許さないとしているのだ。
こんな法案を成立させてはならない。法案成立に固執すれば、与党は民意に見放される、そんな雰囲気が作れるかの問題だが、昨日・今日の報道での脈絡のない下記3題の話題が、「この法案の成立は無理だろう」と思わせる。
その1 「原発情報も『秘密』指定」
昨日(24日)国会内で開かれた超党派議員と市民による政府交渉の場で、法案担当の内閣情報調査室の橋場健参事官が、「原発関係施設の警備等に関する情報や、テロ活動防止に関する事項として特定秘密に指定されるものもありうる」と説明したと報じられている。核物質貯蔵施設などの警備実施状況についても同様だという。これは一大事。世論を動かし得る重大問題だと思う。
つまりは、原発の危険性に関わる情報を国民に漏らしてしまえば、テロリストの活動に利することになり、「我が国及び国民の安全」に支障を来すことになる、という論法。原発の内部構造や事故の実態も、警備に支障になるとして特定秘密に指定される危険が明確にされたのだ。
原発の内部構造はテロリストの侵入計画立案に利する。メルトダウンした核燃料の状態、汚染水の現状やアルプスの配管構造や脆弱性等々、国民が知りたいことは全て「テロリストに最も有効な攻撃目標を教示すること」になってしまう。これは、この法案がもつ、本質的な問題点なのだ。
福島県議会の全会一致の決議「特定秘密保護法に対し慎重な対応を求める意見書」(10月9日)を思い起こそう。「当県が直面している原子力発電所事故に関しても、原発の安全性に関わる問題や住民の安全に関する情報が、核施設に対するテ口活動防止の観点から『特定秘密』に指定される可能性がある」ことが指摘されている。単なる危惧ではない。担当者がこのことを認めたのだ。特定秘密保護法が成立したら、原発に関する報道も、国会での追及も、まったく様変わりしてしまうことになるだろう。「テロ」と「スパイ」を口実に、国民の原発事故についての詳細を知る権利は奪われる。政府にしてみれば、便利この上ない、喉から手が出るほど欲しい法律だと言えるだろう。
また、1989年のこと。海上自衛隊那覇基地内にASWOC(アズウォック・対潜水艦戦作戦センター)の庁舎が建築された。その際、建築基準法に基づきこの庁舎の建築工事計画通知書が、那覇市に提出された。この資料を市民が情報公開請求し、那覇市が市条例に基づいてこれを公開した。ところが国(那覇防衛施設局長)が公開に「待った」をかけた。「防衛秘密に属するから公開はまかりならぬ」というのである。国は、那覇市を被告として公開取り消しの裁判を起こした。公開情報から防衛力の内容が「敵国のスパイに漏れる」「設計図面は、テロリストの攻撃に利用される」という理由。最高裁まで争われて、幸いこの件では那覇市側が勝訴したが、現行法下でもこのような争いが起こる。特定秘密保護法が成立したら、この程度では済まないことになるだろう。情報の公開ではなく、秘密の保護が優先する社会になる。
その2 「メルケル首相携帯電話盗聴」事件
スノーデンの身を挺しての行動は民主々義に大きなインパクトをもたらした。彼の勇気ある公益通報で、「国家秘密」「特定秘密」とは具体的にどんなものかのイメージがつかめる。その最たるものが、米諜報機関によるメルケル首相の携帯電話盗聴である。スノーデンが入手していた国家安全保障局(NSA)の機密文書にメルケル氏の当時の携帯電話番号が記載されていた。これを発端としたドイツ政府の調査は米情報機関による盗聴があったとの結論に至って、米に強く抗議をした。米側は表向き疑惑を否定したとされているが、微妙な言いまわしで実は盗聴の事実を認めている。
アメリカ国民も大いに驚いたことだろう、自国の政府は同盟国の首相を対象とした盗聴までしていた。問題は、CIAやNSAが何をしているかが一切秘密になっていることだ。秘密保護法が成立し日本版NSC(行政機構としてのNSAも)ができれば、日本も同じようになるだろう。たとえ、オバマの寝室に盗聴器を仕掛けても、「何が秘密かは一切秘密」で押し通すことができるのだ。
その3 「首相の趣味」身内も批判報道
自民党衆院議員の村上誠一郎元行革担当相が毎日新聞の取材に「財政、外交、エネルギー政策など先にやるべきことがあるのに、なぜ安倍晋三首相の趣味をやるのか」と述べ、特定秘密保護法案にこだわる安倍内閣の姿勢を痛烈に批判した、という。「法案に身内から強い反発が出た」と報じられている(毎日10月24日夕刊)。
「村上氏は特定秘密保護法案と国家安全保障会議(日本版NSC)設置法案について「戦争のために準備をするのか。もっと平和を考えなければいけない」と懸念を表明。さらに「(特定秘密保護法案には)報道・取材の自由への配慮を明記したが、努力規定止まりだ。本当に国民の知るべき情報が隠されないか、私も自信がない。報道は萎縮する。基本的人権の根幹に関わる問題だ」と、国民の「知る権利」が侵害を受ける危険性に言及した。」と立派な発言をしている。
村上氏は衆院政治倫理審査会長。愛媛2区選出で当選9回。新人時代の1986年11月、谷垣禎一氏(現法相)、大島理森氏(元党幹事長)ら自民党中堅・若手国会議員12人の一員として、中曽根康弘内閣の国家秘密法案への懸念を示す意見書を出した、とのこと。自由民主党の国民政党という看板がそれほどおかしくはなかった時代の良識派なのだ。
「おーい、谷垣さん、大島さん。そして、かつての『12人組』の皆さん、村上さんを孤立させたままで良いのかい」
この三題噺。「国民の知りたいことこそ、秘密にされる」(その1)、「何が秘密が分からぬ以上、秘密は際限なくひろがる」(その2)、だからこそ「まともな保守派も、内心は反対している」(その3)という関係。
誰がどう考えても、特定秘密保護法はおかしい。おかしいだけでなく危険極まりない。多くの人に内容を理解してもらうことができれさえすれば、世論はこぞって反対することになる。きっと与党幹部の面々に、「無理して法案の成立にこだわると、政権の命取りになりかねない」と思わせることが可能となる。
(2013年10月25日)
弁護士とは、法を駆使して国民の人権を擁護するための専門職である。人権擁護の職務は必然的に国家権力と切り結ぶことになるのだから、在野に徹しなければならない。在野の職務ではあるが、法的に弁護士法に基づく存在である。その法が弁護士会に自治を保障していることによって、国家権力と切り結んでも身分が剥奪されることはない。
戦前はそうではなかった。もっとも良心的にもっとも果敢に人権のために闘った優れた弁護士の多くが、法廷で権力と切り結んだ弁護活動を理由に起訴され有罪になり、弁護士資格を剥奪された。3・15事件、4・16事件などの弾圧で逮捕された多くの共産党員活動家が治安維持法で起訴され、その弁護を担当した良心的な弁護士が熱意をもって弁護活動を行った。この法廷での弁護活動が治安維持法違反の犯罪とされて起訴されたのだ。悪名高い、「目的遂行罪」である。「外見上は弁護活動に見えるが、実は共産党の『国体を変革し私有財制度を否定する』結社の目的遂行のために法廷闘争を行ったもの」と認定されて有罪となった。有罪となった弁護士が司法省(検事局)から資格を剥奪されたとき、弁護士会が不当な資格剥奪として闘うことはなかった。
戦後、1949年に制定された弁護士法は、戦前における痛恨の反省から、高度の弁護士自治を認めた。珠玉のごとくに大切なこの弁護士自治は、国民の貴重な財産である。弁護士の不祥事などはもってのほか。多くの国民に、弁護士自治の積極的な意義を理解してもらい、支えてもらわなくてはならない。
弁護士法第1条に「弁護士の使命」が記されている。第1条1項「弁護士は、基本的人権を擁護し、社会正義を実現することを使命とする」は、よく知られている。しかし、同条2項の「弁護士は、前項の使命に基き、誠実にその職務を行い、社会秩序の維持及び法律制度の改善に努力しなければならない」は余り知られていない。注目すべきは、「(弁護士は)法律制度の改善に努力しなければならない」ということである。「法律制度の改善」は、当然に「改悪の阻止」を含む。その最たるものが、「改憲の阻止」であり、諸悪法反対闘争への寄与である。悪法を制定しようという権力に臆するところがあっては、遠慮のない批判ができない。つまりは弁護士の使命を全うすることができない。
これを受けて、弁護士法第33条は、「弁護士会は、日本弁護士連合会の承認を受けて、会則を定めなければならない」「弁護士会の会則には、次に掲げる事項を記載しなければならない」として、弁護士会に「建議及び答申に関する規定」を措くことを義務づけている。全国51の単位弁護士会の全部、そして日本弁護士連合会(日弁連)のいずれもが、「建議及び答申に関する規定」を有して、「決議・声明・要望書・会長談話・申し入れ」などの形式で、旺盛に官公署等への建議を行っている。
日弁連の会長人事は複雑で不透明ではある。特に識見豊かで、仲間内で尊敬されている弁護士が会長になるわけでもない。しかし、誰が会長になっても日弁連の方針にブレはない。人権擁護、被疑者・被告人の権利伸長、司法の独立、使いやすい司法の実現などというテーマは、一貫したものになっている。その日弁連の姿勢は評価に足るものと思う。
最近の日弁連の動きを紹介したい。10月3日?4日に、広島市において、第56回人権擁護大会・シンポジウムが開催された。シンポジウムには2490名、人権擁護大会には1235名の参加があり、次の4本の決議が採択された。
☆立憲主義の見地から憲法改正発議要件の緩和に反対する決議
http://www.nichibenren.or.jp/activity/document/civil_liberties/year/2013/2013_1.html
☆福島第一原子力発電所事故被害の完全救済及び脱原発を求める決議
http://www.nichibenren.or.jp/activity/document/civil_liberties/year/2013/2013_2.html
☆恒久平和主義、基本的人権の意義を確認し、「国防軍」の創設に反対する決議
http://www.nichibenren.or.jp/activity/document/civil_liberties/year/2013/2013_3.html
☆貧困と格差が拡大する不平等社会の克服を目指す決議
http://www.nichibenren.or.jp/activity/document/civil_liberties/year/2013/2013_4.html
いずれも、時宜を得た、なかなかの内容である。
なお、昨年のテーマの一つに、「日の丸・君が代」強制問題に触れた決議があった。これも紹介しておこう。
☆子どもの尊厳を尊重し、学習権を保障するため、教育統制と競争主義的な教育の見直しを求める決議
http://www.nichibenren.or.jp/activity/document/civil_liberties/year/2012/2012_1.html
ところで、喫緊の課題である「特定秘密保護法案」についての日弁連の姿勢である。1985年当時の国家秘密法を全力をあげて阻止した、その伝統に陰りは見えない。この法案の成立を阻止しようという本気度は十分である。
日弁連ホームページをご覧いただきたい。以下のとおり、たいへんな努力が重ねられている。
2013年10月23日 秘密保護法制定に反対し、情報管理システムの適正化及び更なる情報公開に向けた法改正を求める意見書作成
2013年10月21日 チラシ「いま、『秘密保護法』案が国会で審議されようとしています!」を作成してホームページに掲載
2013年10月03日 特定秘密保護法案に反対する会長声明
2013年09月12日 「特定秘密の保護に関する法律案の概要」に対する意見書
2013年09月05日 憲法と秘密保全法制?私たちの「表現の自由」を守れるか
そして、昨日には「日弁連会長先頭に緊急宣伝」活動が行われた。山岸憲司会長を先頭に、「秘密保護法案」反対を訴える、有楽町マリオン前の弁護士たちの写真が報道された。会長以下がマイクを握って、「国民の知る権利を侵害する同法案を廃案に追い込みましょう」「情報は国民のものです。必要な情報は公開されなければならない。政府にとって都合の悪い情報を隠そうとするのは民主主義にとってきわめて危険です」「法案が成立することのないよう、反対の声を上げていきましょう」と呼び掛け、通行人にビラを配った。
そして、本日の記者会見で、新たな秘密保護法反対の意見書がマスコミに公表された。重要な秘密を漏らした公務員らへの罰則を強化する特定秘密保護法案に反対して「漏えい防止は厳罰化でなく、情報管理システムの適正化で実現すべきだ」と訴えるもの。むしろ、国民への情報開示を充実させるため、公文書管理法や情報公開法の改正を求めている。そして、情報管理システムの充実によって必要な秘密の漏えいを防ぐことができ、秘密保護法の制定は必要ないとしている。
日弁連は、全弁護士の強制加盟団体である。決議や声明は、会内合意形成の結果として出てくる。そのため、自由法曹団や日民協などの任意団体の決議内容と同じようには行かない。それでも、人権擁護の立ち場の徹底が、あるいはオーソドックスな現行日本国憲法の解釈が、安倍自民の悪法量産に対する強い批判とならざるを得ないのだ。
臆するところなく、在野に徹し、人権擁護を貫く日弁連の本気の姿勢を、私も弁護士の一員として誇りに思い、改めての支持を表明したい。
(2013年10月24日)
本日は、2003年に「10・23通達」が発出されてからちょうど10年。その「負の記念日」に、教育庁交渉をした。
またまた、東京都教育庁の情報課長に苦言を呈しなければならない。
10・23通達関連での前回のわれわれの請願は、教育委員会の場に届けられていないというではないか。教育委員会は、最高裁で敗訴が確定し、自らの行為が司法によって断罪されたことに関して何の反省もしていないばかりか、検討もしていない、議論もしていない、関連書類が委員の目に触れてさえいない。
教育委員諸氏は裸の王様だ。一番大切な問題について、周りの人間が真実を知らせていない。だから、自分がピエロの存在に貶められていることをご存じないようだ。当たり障りのない問題に限って、決まった結論に到達するよう、議論をしたような振りをさせられているだけの哀れな存在。事務局から提供された資料だけに基づいて、お膳立てされた筋書きに沿って、「異議なし」というだけの役割。本当にこれでよいのか。
教育委員会の諸氏が「裸の王様」でないのなら、私の言うことに耳を傾けていただきたい。まずは、10・23通達に基づく「日の丸・君が代」強制訴訟で、25人についての30件の懲戒処分が違法とされ、取り消されていることの重みを受けとめていただきたい。1行政機関のこれだけの数の行政処分が、最高裁によって、違法と指摘され取り消しが確定したのだ。国家の基本構造としての三権分立の運用には、各国それぞれの流儀がある。我が国の司法が、就中最高裁が、行政の行為を敢えて違法というのは、よくよくのことだ。しかも、ことは憲法や教育基本法の大原則に関わる問題。本件で、懲戒処分が違法と判断されて取り消されたことは、都教委の姿勢に根本的な誤りがあったことの指摘なのだ。最高裁の処分違法の判決を深刻に受けとめていただきたい。何とも、みっともなくも恥ずべき事態だということを認識していただきたい。
当然のことながら、まずは誤った処分によって深く傷つけられた教員に対して、深甚の陳謝の意を表しなければならない。それは、現在の教育委員のメンバーの仕事になる。それだけでは済まない。このような不祥事がなぜ生じたかを真摯に反省しなくてはならない。そして、責任の所在を明確にし、責任者を処分しなければならない。そして、再発を防止するためにはどうするか、実効性のある方策を考えねばならない。おそらくは、教育委員や教育庁の幹部職員の、教育の本質や、憲法・人権・教育法規の神髄などについての徹底した講習が必要だろう。そのときには、是非私を講師の一人として加えていただきたい。
「最高裁で敗訴したのは、450件の処分のうちの一部でしかない」という考えがあるとしたら、大きな間違いだ。たった1件でも行政に違法があるのは大問題だというだけではない。最高裁によって違法と断罪されたのは、一連の「日の丸・君が代」強制に表れた都教委の思想の根幹であり、本質部分なのだ。このことを銘記していただきたい。
なぜ、最高裁は減給以上の懲戒処分を違法としたか。それが、憲法解釈と深く結びついていることの理解が必要である。最高裁は、「国旗に向かって起立し、国歌を斉唱せよ」、あるいは、「ピアノ伴奏をせよ」という職務命令に対して、自らの思想や良心、あるいは信仰から、これに応じ難いとした人の動機が真摯なものであったことを認めている。精神的自由の根底にある「思想・良心の自由」(憲法19条)が最大限尊重されなければならないことが、懲戒権の逸脱濫用論に反映しているのだ。
さらに、もっと分かりやすい理由がある。懲戒処分は、軽い方から戒告・減給・停職、そして極刑としての免職まで4段階がある。当初都教委が企図していた処分量定は、初回処分が戒告。2回目は減給(10分の1)1か月、3回目は減給6か月。4回目となると停職1か月、5回目停職3か月、6回目停職6か月。そして、おそらく7回目は免職を予定していたはず。われわれは、都教委が発明したこの累積加重の処分方式を、「思想転向強要システム」と名付けた。不起立・不斉唱・不伴奏は思想・良心に基づく行為である。思想や良心を都教委の望む方向に変えない限り、処分は際限なく重くなり最後には教壇から追われることになる。この、「踏み絵」と同様の、思想・信仰への弾圧手段が違法と断罪されたのだ。
さらに、理解していただきたい。最高裁は、30件・25人以外の戒告処分については問題ないと言ったのではない。「10・23通達⇒職務命令⇒懲戒処分」による国旗・国歌強制は、少なくとも教員の思想・良心を間接的には強制していることを認めた。そして、違憲・違法とまでは判断しなかったが、けっして問題なしとはしていないのだ。多数の裁判官の、補足意見がそのことを物語っている。何とも、教育の場で、見識を欠いたことをやっていることか、というのが最高裁のホンネなのだ。
いま、都教委に、10・23通達関連問題以上の喫緊の課題があろうはずはない。最高裁からのシグナルを適切に受けとめるにはどうすればよいか。真剣に議論していただきたい。またまた、本日の請願が握りつぶされるようなことがあれば、請願権の侵害についての国家賠償請求も本気になって考えなければならない。
改めて、教育庁の情報課長に申し上げる。あなた方は、壁になり、防波堤になって、教育委員会への申立を事務レベルで処理しようとしているが、そのような姑息な態度を根本的に改めていただきたい。あなた方は、この問題では防波堤になり得ない。勝手に作った内部規則を盾にとって、都民の請願権をないがしろにすることはできない。これだけ大勢の教員や元教員が、真摯にあるべき教育を考え、憂えて、訴えているのだ。是非とも、われわれの請願が関係資料とともに、教育委員諸氏に読んでもらえるように、あなたにも真摯な努力を期待したい。
(2013年10月23日)
子育ては難しい。褒めるか叱るか、その兼ね合いが悩ましい。手に余る悪さを重ねてきた子どもがいるとせよ。これまで幾ら言いきかせても聞く耳をもたなかった。ところが、周りの非難に耐えかねてであろうか、この度、ちょっぴりいい子ぶりを見せた。こんなときに、親として、あるいは教師として、この子にどう声をかけるべきだろうか。
国連総会第一委員会(軍縮)で、核兵器の非人道性と不使用について訴える、ニュージーランドなど125か国参加の共同声明が発表された。10月21日午後(日本時間22日午前)のことである。同様の声明はこれまで3回出されたが「唯一の戦争被爆国」である日本の参加は初めて。日本が従来、この声明に賛同しなかったのは、「米国の核抑止力に依存する安全保障政策と合致しない」ことが理由とされた。
日本が「唯一の被爆国」として、国内世論を背景として、国際舞台で主導的に核軍縮世論の喚起に熱意をもっていたと誤解していた向きも多かったのではないか。これまで、「核兵器の非人道性と不使用について訴える共同声明」を主導的に呼び掛けていたのではない。呼び掛けられて消極的に賛同していたのでもない。熱心に呼びかけを受けて、明示的に拒否をしていたのだ。当然に、被爆地や被爆者らから批判の声が上がっていた。
それが今回、批判にいたたまれず、声明の文言が修正されたとして方針転換した。核軍縮熱意度において、日本は世界で、およそ100番目というところなのだ。これが、国内に、広島、長崎、そして第五福竜丸を有する日本の政府の寒々しい現状なのだ。
菅義偉官房長官は22日の記者会見で「段階的に核軍縮を進める日本の取り組みと整合性が取れていることが確認できた」と説明。また、同日岸田外相は、「我が国の安全保障政策や核軍縮アプローチとも整合的な内容に修正されたことを踏まえ、同ステートメントに参加することにしました」と述べたという。なによりも大事なのは、「安全保障政策」つまりは「核の傘」であるという。そして、我が国のとるべき核政策は、「段階的な核軍縮」であって、「核廃絶」でも、「核軍縮」でも、「核の不使用」でもない、というわけだ。
同日、125か国声明に対抗する形で、オーストラリアなど18カ国声明が発表されている。こちらは、「核の傘・命」連盟。明らかに125か国声明の効果の減殺を狙ってのもの。日本は、世界で唯一の両声明参加国となった。日本の国際的な立ち位置を象徴する出来事と言えよう。
こんな「悪さをし続けてきた子ども」。その子が、これまでよりは少しはマシと言える「良い子ぶり」を見せたことに、どう接するか。これまでのダメぶりと、まだまだ不十分なところを強く指摘して叱責するか。それとも、よいところを褒めて育てることとするか。
広島市長は「歓迎したい」と評価の談話。
広島市の松井一実市長は「核兵器の非人道性を踏まえ、核兵器廃絶を訴える国々とともに行動する決意の表明と受け止め歓迎したい。日本政府には声明に参加した国々をリードして、被爆地の思いを世界に発信し核兵器廃絶に向けてより一層積極的に取り組んでもらいたい」という談話を発表している。
長崎市長は「ようやく先行集団に合流」という評価の談話。
長崎市の田上富久市長は「被爆地としてこれまで核兵器の非人道性を訴えてきたので、今回の声明の参加については被爆者の皆さんとともに喜びたい。これでようやく日本が、核兵器廃絶に向けて取り組んできた集団に合流できたことになり、今後は被爆国の政府として、北東アジア地域の核兵器廃絶に向けてリーダーシップをとることを強く期待したい」と述べました。
被団協は「核の傘からの離脱」「核保有国に核兵器廃絶を迫るべき」の談話
日本被団協は「共同声明に参加した日本政府に求められるのは、いかなる状況下でも核兵器が使われないため、速やかにアメリカの核の傘から離脱し、核保有国に核兵器廃絶を迫る責務を果たすことだ」との声明を発表。
坪井直氏は「前進」の評価
被団協の代表委員である坪井直氏は「平和に向かって一歩も二歩も前進したと思っていて、日本の参加を大いに評価している。被爆者としては国とも協力して今後の運動を進めたい」との談話。
山田拓氏は「取り繕っただけの可能性」の指摘
長崎原爆被災者協議会の山田拓民事務局長は、一定の評価をしつつ、岸田外相が「(共同声明の修正で)我が国の立場からも支持しうる内容に至った」と述べていることに「政府を批判する世論に押されるような形で取り繕っただけの可能性もあり、声明の中身を慎重に見ないといけない」と話したという。
志位和夫氏は、「核の傘に頼る政策からの脱却」を強調。
共産党の志位和夫委員長は22日、核不使用共同声明に日本が賛同したことを受けて談話を発表し、「ヒロシマ・ナガサキの悲劇を経験した国の政府として、遅すぎたとはいえ当然のことだ」と評価した。その上で「核兵器使用を前提とした核抑止力論にしがみつく立場は矛盾している。米国の『核の傘』に頼る政策から脱却することが不可欠だ」と主張している。
総じて、これまでのこの子の悪さ加減に呆れながらも、今回は少しはマシな良いことをしたとして褒めてやり、同時にこの子のこれからをきちんと戒めておこうというものだ。
さて、これまではどれだけ悪い子だったのか。今回どれだけマシなことをしたのか。これから良い子になれるのか。そもそも、この子が悪い子に育ったのはなにゆえなのか。褒めるだけで性根を変えることができるのか。これを機会に、しっかりと見極めたい。
(2013年10月22日)
★秋季例大祭の靖国神社参拝を見送った安倍晋三首相は、19日視察先の福島県南相馬市で記者団の質問に答え、自身の靖国神社参拝について「第1次安倍政権で参拝できなかったことを『痛恨の極み』と言った気持ちは今も変わらない」と述べ、改めて参拝に意欲を示した。また、「国のために戦い、倒れた方々に手を合わせて尊崇の念を表し、ご冥福をお祈りする気持ちは今も同じだ。リーダーとしてそういう気持ちを表すのは当然のことだ」とも語った、と報じられている。
☆安倍さん、あなたは間違っている。
「国のために戦い、倒れた方々に手を合わせて尊崇の念を表し、ご冥福をお祈りする気持ち」をもつことは、あなた個人の内心の問題としては自由だ。しかし、あなたが記者会見の席で、国民に広く聞こえるようにスピーチをするとなると、敢えて、私にも批判の自由がある、と言わざるを得ない。
戦争犠牲者を悼む気持はおそらく誰しも同じものだろう。誰しもが、人の死を厳粛に悼む気持をもっている。戦争の犠牲者に向かいあうとなれば、夥しい数の老若男女の洋々の未来を突然に断ち切られた無念の思いを受けとめなければならない。その重さ深さに胸の痛みを禁じ得ない。
しかし安倍さん、あなたはどうして「国のために戦い倒れた方々」を特に選んでの追悼にこだわっているのか。あなたの気持ちの中には「死者を斉しく悼む」よりは、「国のために闘った」ことへの顕彰、ないしは讃仰あるいは鼓舞の意図が隠されてはいないか。私は、戦争で亡くなったすべての人を戦争を引きおこした国家の行為による被害者と考える。国家の加害とは、具体的には国家の中枢にあって戦争を唱導した指導者の行為のことだ。もちろん天皇が加害者集団の中心に位置し、その近くにあなたの祖父もその一員としていた。あなたが、「国のために戦い倒れた方々」への格別の思い入れを表明することは、その加害被害の構造を糊塗する意図を感じざるを得ない。あなたは、闘い倒れた人の勇敢さを称える気持はあっても、実はその死を悼む気持は持ち合わせてはいないのではないか。
安倍さん、あなたはどうして、「国のために戦い倒れた方々」を「尊崇」すると言うのか。東京でも、広島でも、長崎でも、沖縄でも、また旧満州でも、南方諸島でも、多くの民間人が戦争の犠牲となった。あなたは、民間の戦死者にはけっして「尊崇」などとは言わない、「英霊」とも言わない。あなたの頭の中には、軍人が他と区別された特別な存在となっているのではないか。「敗戦はしたが、よくぞ雄々しく闘った」とでも言いたいのではないか。
おそらく、あなたは、戦没者を間違った国家政策の犠牲者だと考えてはいない。戦争犠牲者の中で、生前軍人軍属だった者の死を、その余の一般市民の死と区別して、これを「英霊」と顕彰し、「尊崇の念」を表するとき、戦争への批判や、戦争を企図した天皇をはじめとする国家指導者への批判は封じられる。あなたの意図はそこにあるのではないか。あなたには、戦争を絶対悪として戦争を起こした者への責任を追及しようという姿勢はない。戦争の悲惨さを稀薄化し、あわよくば戦争を美化し、戦争を起こしたものを免罪し、次の戦争の準備さえ考えているのではないか。
「英霊」こそは、次の戦争を準備するために利用可能な恰好の世論操作手段である。靖国神社参拝に執念を燃やすあなたには、「英霊」とともに敗戦を無念としリベンジの戦力を整える国家を建設しようとのメンタリティを感じざるを得ない。
「リーダーとしてそういう気持ちを表すのは当然のこと」ではない。人の死は、誰の死であろうとも、斉しく厳粛に悼まねばならない。軍人の死だけではなく民間人の死をも、自国民だけではなく戦争の相手国の国民の死も、とりわけ日本が侵略をし植民地支配した国や地域の国民の死を悼まねばならない。戦争の勝敗にかかわらず戦争による死を悲劇として悼み、真摯に不再戦を誓わねばならない。そして、苦しくても、あなたは近隣諸国の民衆の死に謝罪の気持を表さなければならない。「それがリーダーとして当然のこと」なのだ。
★菅義偉官房長官は18日の記者会見で、閣僚の靖国神社参拝について「国のために戦って貴い命を犠牲にされた方に尊崇の念を表明するのは当然のことだ」と述べた。同神社にA級戦犯が合祀(ごうし)されていることに関しても「亡くなった方というのは皆、一緒にとらえるのが日本の歴史ではないか」と語った、と報じられている。
☆菅さん、あなたは間違っている。
「貴い命を犠牲にされた方」というのはそのとおりだ。しかし、「貴い命を犠牲にした」のは「国のために戦った」軍人ばかりではない。夥しい数の、民間戦争被害者もいるのだ。特に、軍人の死者についてだけ、「尊崇の念を表明する」のは当然のことではない。
菅さん、あなたが「亡くなった方というのは皆、一緒にとらえるのが日本の歴史ではないか」とおっしゃったのには驚いた。あなたの言ったことは、確かに日本人の伝統観念で「怨親平等」という言葉に表現されている。蒙古襲来の際の犠牲者を敵味方の区別なく円覚寺に供養したなどの歴史が知られる。ところが、靖国神社はこのような日本人の歴史的伝統とはまったく無縁なのだ。皇軍の死者は「英霊」である反面、賊軍の死者は未来永劫に敵とされて峻別される。けっして混同されることはない。これは、死者の霊前で忠誠と復讐とを誓う軍事的装置として創建された招魂社・靖国神社の宿命なのだ。
菅さんあなたは、「開戦を決め戦争を指導した加害者側のA級戦犯」と、「徴兵され死地に追いやられた被害者側」とを「亡くなった方は皆一緒」とした。その考え方だと、戦争責任の観念は生じようがない。天皇や軍部、官僚、財閥等々の戦争の責任を意図的に全て免責することになってしまうではないか。
戦争責任の追及は、今まさに必要である。再びの軍国主義が勃興しかねない風潮なのだから。
★古屋圭司国家公安委員長は20日朝、秋の例大祭にあわせ、靖国神社を参拝した。古屋氏は午前8時半ごろ、靖国神社を訪れ、参拝後、記者団に「国のために命をささげた英霊に対して、哀悼の誠をささげて、そして、平和への誓いをあらためて表することは、国会議員として当然の責務だと思っております。日本人として、私が参拝することは、当然のことと思っております」と述べ、「国のために命をささげた英霊に対し、どのような形で哀悼の誠を示すかは、その国の人間が考える国内問題だ」「近隣諸国を刺激する意図は全くない」と強調した、と報じられている。
☆古屋さん、あなたは間違っている。
我が日本国憲法は政教分離の規定をおいた。「政」とは国家権力のこと政権のこと、「教」とは宗教のことだが神道を念頭においている。就中、靖国神社と伊勢神宮をさすと言って大きく間違がわない。なぜ、憲法はこのような規定を置いたか。過ぐる大戦の惨禍の中から生まれた新生日本は、再び戦争を繰り返すことのないよう深く反省して、その反省の結果を憲法に盛り込んだからだ。
政教分離はその主要なものの一つである。戦前、天皇は神の子孫であり、自らも現人神とされた。この神なる天皇が唱導する戦争こそ正義の聖戦であり、神風も吹いて敗戦はあり得ないとされた。国家神道は軍国主義と深く結びつき、国民精神を侵略戦争に動員するための主柱となった。この危険な国家宗教を再現せぬよう歯止めをかけたのが現行憲法の政教分離原則である。政教分離の眼目は、国家神道の軍国主義的側面を象徴する靖国神社と、戦前の軍事大国日本に郷愁を隠さない保守政権との、徹底した関係切断にある。だから、政権を担う地位にある閣僚が靖国神社に参拝してはならない。
「国のために命をささげた英霊」という言葉の使い方において、軍人の死を特別の意義あるものとし、皇軍に対する批判を許さない靖国イデオロギーが表れている。軍国神社靖国は、けっして「平和への誓いをあらためて表する」にふさわしいところではない。
「日本人として私が参拝することは当然」という考え方は自由であるが、「参拝が国会議員として当然の責務」ではあり得ない。政教分離の本旨からも、最高裁判例の目的効果基準からも、国会議員も、閣僚も、少なくとも在任中は靖国神社と距離を置くべきである。
「国のために命をささげた英霊に対し、どのような形で哀悼の誠を示すかは、その国の人間が考える国内問題だ」「近隣諸国を刺激する意図は全くない」とは、政治家の発言としては未熟としか言いようがない。人の足を踏んだ方が忘れても、足を踏まれた方は痛みを忘れない。かつて軍国神社であったというだけでなく、現在なお大東亜戦争聖戦論を鼓吹している靖国神社への閣僚の参拝が、かつて皇軍の軍事侵略を受けた国からの反発を招かないはずはない。
★新藤義孝総務相は18日午前、東京・九段北の靖国神社を参拝した。17日からの秋季例大祭に合わせたもので、参拝後、記者団に「個人の立場で私的参拝を行った。(玉串料は)私費で納めた」と説明。「個人の心の自由の問題だ。(参拝が)外交上の問題になるとは全く考えていない」と強調した。また、中国や韓国からの批判が予想されることについては「個人の心の自由の問題なので、論評されることではない。外交上の問題になるとはまったく考えていない」と語った、と報道されている。
☆新藤さん、あなたは間違っている。
あなたは、個人の立ち場を強調するが、閣僚ともなれば純粋に個人の立場とは言えない。「玉串料を私費で納めた」だけで、私的な参拝とは言えない。もし、個人の立ち場を貫こうというのであれば、人知れずひっそり参拝すればよい。記者会見などしないことだ。もちろん、肩書の記帳もしてはならないし、公用車の使用、随行者の随伴もあってはならない。
閣僚の参拝は、「外交上の問題になる」ことは明らかではないか。憲法9条は、政治的には、日本のアジア諸国に対する不再戦の宣言であり、それあるがゆえに積み重ねられてきたアジア外交であったはず。閣僚の靖国神社参拝で、アジア諸国に対する日本の平和国家としての信頼失墜を招くのは愚かなことではないか。
☆国会議員も閣僚も、在任中は靖国神社にも、伊勢神宮にも参拝すべきではない。議員や閣僚の参拝によって、靖国神社や伊勢神宮が、国と特別の関係にある宗教団体だという外観をつくりだしてはならないのだ。とりわけ、戦争賛美に繋がりやすい、靖国神社への参拝は禁物である。
(2013年10月21日)
今国会最大の対決法案となる秘密保護法。憲法改悪への一里塚でもあるこの法案の提案内容について、与党内の調整が完了したと報じられている。公明党は、自党の修正提案が受け容れられたとして、法案の成立に積極的姿勢に転じている。
もとより、つくる必要のない法律。つくる必要があるとすれば、世界の憲兵を気取る好戦国アメリカとの共同謀議により深く関与する必要からでしかない。小手先の「修正」は、メディアの取材の権利を制約して国民の知る権利を蹂躙する、この法案の本質をいささかも変えるものではない。むしろ、このような「修正」での弥縫の必要が、法案の本質において、メディアの取材の権利を制約するものであること、国民の知る権利を侵害するものであることを露呈している。
それでも、公明の「修正」は、右派ジャーナリズムと感度の鈍い国民層には、一定の影響をもつだろう。「自民暴走のブレーキ役」などと見得を切っていた公明党だが何のことはない。自民党補完装置としての面目躍如である。一見リベラルを装っての寝返りは、罪が深いと指摘せざるを得ない。
まだ、閣議決定の対象となる法案の作成には至っていないが、与党合意となった「修正」箇所は、次の3点と報じられている。
(1)「国民の知る権利の保障に資する報道又は取材の自由に十分に配慮しなければならない」と、知る権利への配慮を明記する。
(2)「出版又は報道の業務に従事する者の取材行為については、専ら公益を図る目的を有し、かつ、法律違反又は著しく不当な方法によるものと認められない限りは、これを正当な業務による行為とする」と、取材行為の正当性に配慮する。
(3)「各行政機関の特定秘密指定の統一基準に意見を述べる有識者会議を設置する」ことで、各機関におけるばらつきをなくする配慮をする。
まず、第1点。何たる傲慢な法案であろうか。国民の知る権利は、民主政治のサイクルの始動点に位置づけられる国民固有の不可欠の権利である。国家や行政機関に、「配慮してもらう」筋合いのものではない。しかも、「国民の知る権利の保障に資する」ものだけを選別して特別に配慮してやろうという大きな態度。行政が「国民の知る権利の保障に資する報道又は取材ではない」と判断すれば、「配慮」の埒外に放逐される。その選別は、政府の匙加減次第ではないか。こんな「配慮」規定は、国民への目眩まし以外になんの役にも立たない。
第2点。巨大マスコミ抱き込みの意図が見え透いている反面、「出版又は報道の業務に従事する者」以外を切り捨てることの明言規定である。
それだけではない。マスコミへのリップサービスと、取材の違法性阻却の範囲限定のホンネとの狭間で論理矛盾に陥っている。まず、「法律違反の方法による取材活動」が処罰対象となることが明言されている。しかし、刑法35条の正当業務行為とは、法律違反があった場合を前提として、構成要件に該当する行為についてその違法性を阻却するという効果をもつものである。仮に修正案が、「本法の構成要件に該当する行為も、ジャーナリストの取材としてなされたものについては、これを正当な業務による行為と見なして処罰しない」というのなら意味がある。修正案は、「法律違反と認められない場合は処罰対象としない」と、当たり前のことを言っているだけで、何の意味もない。真剣にものを考えようとせず、格好を付けることだけを考えているから、こんな奇妙な表現となる。
また、「著しく不当な方法によるものと認められない限りは、正当な業務による行為として取材行為を処罰対象としない」という文言も馬鹿げたものである。「修正案」は、原案よりも取材の自由の範囲を限定してしまっていることになるのだから。本来、違法でない行為を行うことは自由なのだ。「著しく」と限定しようとも、「不当な」取材行為を公権力が禁止することはできない。原案は、「人を欺き、人に暴行を加え、‥脅迫し、窃取、施設への侵入」などの手段を伴う取材行為を犯罪としている。実はこれが大問題なのだが、「修正」案では、「そのような手段を伴わない犯罪に至らない不当のレベルの取材方法」でも処罰するぞと脅かしているのだ。
第3点。これは、権力機関相互の調整の規定に過ぎず、秘密指定の限定を画するものではない。国民の権利侵害を制約する観点とは何の関連性ももたない。
以上のとおり、「修正案」は、国民の知る権利擁護の立場からも、メディアの取材活動の自由確認の視点からも何の意味をもつものでもない。「修正」案の文言は、外務省秘密漏洩事件最高裁判決からの引用だが、体系的な位置づけの理解を欠いていることから「つまみ食い的引用」に陥っている。また、なによりも同事件全体の流れや、結局は国民の知る権利を蹂躙した最高裁判決への批判の視点を欠いていることを指摘せざるを得ない。こんなまやかしで、秘密保護法批判の筆を鈍らせるメディアがあるとすれば、ジャーナリズムの風上にも置けない。
本質的な問題の構造は、国民の知る権利を拡大することによって国家権力の横暴を監視すべしとするか、国民の知る権利を抑制しても国家の秘密を重視すべしとするか、どちらのベクトルを支持するかである。前者は、国家権力に対する猜疑を基礎とし、後者は国家権力への国民の信頼を基礎とする。私たちは、後者の選択の苦い経験を後悔して間がない。その苦さ、悲惨さを忘れてはならない。
(2013年10月20日)
「10・23通達から10年 『日の丸・君が代』強制反対」集会にお集まりの皆様。この10年の訴訟の経過の概要をお話しいたします。最初に、私たちは何を目指してどんな取り組みをしたのか。次いで、何を獲得したのか。また、獲得したものをどう活かすべきか。そして最後に、獲得し得ていないものを確認しその獲得のためにどうすべきか。その順に進めたいと思います。
私たちは、「10・23通達」を憲法の理念を蹂躙し教育を破壊するものとして、その撤回を求めてともに闘ってきました。その闘いの場は、大きくは四つあったと思います。なによりもまず、学校現場でのシビアな闘いがありました。胃の痛くなるような現場の最前線で信念を貫き通した方、現場で運動を支えてきた方に心からの敬意を表します。そして、学校を取り巻く社会という場での運動が続けられてきました。どれだけ、この問題の不当性と重要性を世論に訴えることができるか。メディアを味方に付け、運動の輪にどれだけの人の参加を得ることができるか。ここが勝敗を決める重要な闘いの場だと思います。そして、三つ目の闘いの場として訴訟があります。法廷での闘いです。さらに、四つ目として、個別の法廷闘争とは別に、裁判所・裁判官を、人権擁護の府にふさわしい存在に変えていくという闘いの場があります。裁判所を、真に憲法が想定している、人権や民主々義や平和という憲法価値を実現する機関とする、司法の改革が必要なことを是非ご認識ください。
そのような闘いの場の一つとしての裁判という場で、私たちは運動としての訴訟に取り組んできました。訴訟は、必然的に憲法の理念を現実化するための憲法訴訟となり、教育の理念を活かすための教育訴訟となりました。訴訟は単独の原告でも起こせるわけですが、憲法訴訟や教育訴訟は集団訴訟であることが望ましい。法廷の中では、多くの原告の集団の力が裁判所を動かします。多数の原告の訴えは、けっして例外的な特異な教員が問題を起こしているのではなく、教育行政の側にこそ問題があることを明らかにします。集団訴訟は、社会的アピールの力量としても有利にはたらきます。また、私たちは、訴訟を言いたいことを言う場としてでなく、裁判所を説得するために有効な法廷活動をする場と位置づけてきました。このような訴訟の過程を通じて、多くのことを学びあい、励ましあい、私たち自身の正しさに確信を得たのだと思います。
そのような位置づけで、予防訴訟や、処分取消訴訟、再雇用関係訴訟、再発防止研修関係訴訟等、多くの訴訟を闘ってきました。その訴訟における主張の主要な根拠の一つが、精神的自由の根底的な規定としての「思想良心の自由」であり、もうひとつが「教育の自由」です。前者が、教員自身の憲法上の権利侵害の問題で、後者が生徒の教育を受ける権利を全うすることと対をなす教育行政への教育への不当な支配の禁止違反という問題となります。これまでこの二つの憲法論を「車の両輪」と位置づけてきましたが、間違いではなかったものと思います。この憲法論としての両輪の外に、処分取消訴訟においては、懲戒権の濫用の成否が大きな法律的な争点となりました。
その一連の訴訟が、今、一通り最高裁の判決言い渡しを受けた段階となり、ほぼ最高裁の判断の模様が見えてきています。一定の成果とともに、勝ち取れていないものも明らかになってきました。これを整理して、勝ち取ったもの、勝ち取れていないものを確認して、今後の闘いを再構築しなければならないと思います。
最高裁判断の全体象は次のように描くことができます。
(1) 憲法19条論における間接制約論の枠組みでの合憲判断
(2) 懲戒権の逸脱濫用論において減給以上の処分は原則違法の判断
(3) 裁判官多数が補足意見として都教委の強権的姿勢を批判
(4) その余の論点には触れようとしない頑なな姿勢
10・23通達にもとづく一連の「日の丸・君が代」強制を、思想良心の自由を保障した憲法19条に違反しないとした最高裁判決の「論理」は次のようなものです。
(1)起立・斉唱・伴奏という「強制された外部行為」と、そのような行為はできないとする「内心における思想良心」との両者の関係は、行為者の主観においては関連しているものと認められても、一般的・客観的に両者が密接不可分とは言えない。従って、起立・斉唱・伴奏の強制が直ちに思想良心を侵害するとは言えない。
(2)もっとも、外部行為の強制が間接的には被強制者の思想良心を制約するものであることは認められる。しかし、間接制約の場合には厳格な合違憲審査の基準を適用する必要はなく、「公権力によるその規制が必要かつ合理的であるか否か」という緩い基準による判断でよい。本件職務命令は「必要かつ合理的」という緩い基準には適合しており合憲である。
以上のとおり、(1)では「直接制約」を否定し、(2) では制約はあるが「間接制約に過ぎない」として、本来厳格であるべき審査基準を緩い(ハードルの低い)ものとして違憲とは言えないという枠組みです。予め合憲とした結論を引き出すために論理操作のフリをしているだけで、ピアノ判決との辻褄合わせの不自然な論理構成となったものにほかなりません。
懲戒処分の逸脱・濫用論については、懲戒処分対象行為が内心の思想良心の表明という動機から行われたこと、行為態様が消極的で式の進行の妨害となっていないことなどが重視されています。この点は、憲法論において間接的にもせよ思想良心の制約の存在を認めさせるところまで押し込んだことが、憲法論の土俵では勝てなかったものの懲戒権の濫用の場面で効果を発揮したものと考えています。
さて、これまでに獲得したものを整理してみれば、私たちは下級審段階で、「予防訴訟」一審の難波孝一判決(「日の丸・君が代強制は違憲」という全面勝訴)を獲得し、さらに「1次訴訟」の控訴審大橋寛明判決(戒告を含む全原告の懲戒は処分権濫用として違法)を獲得しました。最高裁法廷意見では維持されなかったものの、これらの判決の存在の意義はけっして小さいものではありません。
最高裁は、昨年の「東京君が代裁判」一次訴訟における「1・16判決」以来、減給以上の懲戒処分は過酷として原則違法としています。既に、25人(30件)の処分が現実に違法と宣告され取り消され、確定しています。国家賠償責任を認めた判決さえあります。
このことによって、私どもが「思想転向強要システム」と呼んだ、機械的な累積加重の処分基準が維持できなくなっていることの実践的な意義は極めて大きいというべきです。なお、この基準は当然に大阪その他全国の処分にも適用されることになります。
また、これまで2人の最高裁裁判官の反対意見があります。ほぼ全面的に、私たちの見解を支持する最高裁裁判官の存在は、これからの展望を見据える上での希望としての大きな意味があります。さらに、都教委批判の強権的姿勢をたしなめる多くの裁判官の補足意見もあります。けっして、最高裁は都教委の立ち場を支持するものではありません。
いま、以上の獲得成果を徹底して活用する運動が必要だと思います。「都教委の『日の丸・君が代』強制は大いに問題だ。少なくとも減給以上の処分については、最高裁も違法として断罪した」「最も軽い戒告については違法とまではしなかったが、多数の裁判官が『望ましいことではない』と意見を述べている」のです。都教委に、自らの過ちを認めさせ、謝罪と責任者の処分と、再発防止策とを求めなければなりません。
もっとも、違憲判断は獲得できていません。後続訴訟で違憲判決を勝ち取るまで、運動も訴訟も続くことになります。では、違憲判決を勝ち取るための挑戦は、いかに行われることになるでしょうか。
ひとつには正面突破作戦があります。最高裁の「論理」の構造そのものを徹底して弾劾し、真正面から判例の変更を求めるという方法です。裁判所の説得方法は、「これまでの大法廷判例に違反しているではないか」「憲法学界の通説に照らして間違っている」「日本国憲法の母法である米憲法を解釈している連邦最高裁の判例と著しい齟齬がある」などとなるでしょう。
正面突破ではない迂回作戦も考えられます。そのひとつが、最高裁の判断枠組みをそのままに、実質的に換骨奪胎する試みです。政教分離訴訟において、最高裁は厳格な分離説を排斥して、緩やかな分離でよいとする論理的道具として津地鎮祭訴訟で日本型目的効果基準を発明しました(1977年)。しかし、この目的効果基準を厳格に使うべきとするいくつもの訴訟の弁護団の試みが、愛媛玉串料訴訟大法廷判決(1997年)に結実して、歴史的な違憲判決に至っています。この間20年。本件でも、間接制約論の枠組みをそのままにしながら、「間接と言えども思想良心の侵害は軽視しえない」「本件の場合、処分の必要性も合理性もない」との論理と立証を追求しなければなりません。
また、もう一つの迂回作戦が考えられます。最高裁がまだ判断していない論点に新たな判断を求めることで結論を覆すことです。具体的なテーマとしては、「主権者である国民に対して、国家象徴である国旗・国歌への敬意を表明せよと強制することは、立憲主義の大原則に違反して許容されない」「憲法20条違反(信仰の自由侵害)の主張」「憲法26・13条・23条を根拠とする『教育の自由』侵害の主張」「子どもの権利条約や国際人権規約(自由権規約)違反の主張」などがあります。
法廷内の主張、教育現場の運動、社会への世論喚起、そして憲法に忠実な裁判所を実現するという意味での司法改革。そのいずれもが、私たちの課題となっていると思います。現場での闘いが継続する限り、弁護団もこれを支えて闘い続ける覚悟です。
(2013年10月19日)
本日(10月18日)の「毎日」夕刊トップは、「核不使用声明:『いかなる状況でも』明記 日本署名へ」というもの。
国連総会第1委員会(軍縮)で、日本が初めて署名する意向を表明した「核兵器の非人道性と不使用を訴える共同声明」の最終案を毎日新聞が入手したという。そこには、「いかなる状況下でも核兵器が二度と使われないことが、人類存続の利益になる」と明言されているという。
これまで日本は、この文言を、米国の核抑止力を損なうという理由で、受け容れがたいとしてきた。日本は、この「最終案」に署名することを表明している。一瞬、この見出を読んで日本の立場が変わったのかと喜んだのだが、どうもそうではないらしい。
声明案には、これまでになかった新たなフレーズが盛り込まれた。「核軍縮に向けたすべてのアプローチと取り組みを支持する」というものだそうだ。この「修正の結果、全体的に核抑止力を否定しない内容になったとして、日本も署名する方針に転換したとみられる」という、分かりにくい記事。記者の書きぶりの所為ではなく、交渉経過と日本の姿勢自体が分かりにくいのだ。
「核軍縮に向けたすべてのアプローチと取り組みを支持する」との文言が、核抑止力依存の原則を留保したことになるという文脈は分かりにくいが、日本がそれほどに「核抑止力」にこだわっていることだけはよく理解できた。
そもそも抑止力とは何か。核抑止力とは何だろうか。
抑止力の原型は次のようなものだろう。
A国とB国が対峙して、お互いに「自国は平和国家なのだが、相手国が平和国家であることは信用できない」「自国に侵略の意図はないが、相手国の侵略の意図は不明である」と考えている。この想定はかなり普遍性があるだろう。
他の要素を捨象して軍事力だけを考えた場合、相手国に侵略の意図あったとしても、この意図を挫いて侵略を防止するために最も有効な手段は、相手方を上回る軍事力を装備することである。武器と兵員の量と質において、相手国を圧倒できればなお安心となる。つまり、「相手国を凌駕する軍事力が、相手方の侵略の意図を挫く抑止力になる」という考え方である。
ところが、これはお互いさまなのだ。こちらが不信感を持つ相手先が当方を信頼するはずはない。両国が、ともに相手国を凌駕する軍事力を望めば、当然のことながら、際限のない軍拡競争のスパイラルに陥る。この負のスパイラルは、過去無数の現実であり、これからも生じうる。愚かな国際関係としか形容しようがない。自国の軍事力の拡大が、相手方の軍事力の拡大を招くのだから、「相手国を凌駕する軍事力」は、結局のところ相手国の軍拡を招くものとなり、相手国からの侵略の意図を挫いたとして安心できることにはならない。その意味で、抑止力になるとは言えない。
では、軍拡競争に陥らない態様の軍事力であれば抑止力になるのではないだろうか。「相手国を上回る軍事力」を望めば必然的に軍拡競争に陥る。それなら、「攻撃力においては相手国を上回らない、防御力に関してだけ万全の軍事力」というものを想定してはどうか。絶対に対外侵略はできないが、相手国が侵略してきたときにだけは滅法強い防御力を発揮するタイプの軍事力。これは、「専守防衛」の思想である。戦後の保守政権が、憲法9条の縛りの中でやむを得ず採用してきた、軍事力の形の基本と言ってよいだろうと思う。これはこれで、一つの見識であり賢明な姿勢であろう。普通の国の軍は専守防衛など宣言しない。9条あればこその「専守防衛論」である。
これについて、2点を述べたい。
まずは、核兵器が抑止力になるかという問題である。核は、侵略した敵軍隊と自国で闘って自国民を防衛するという種類の兵器ではない。その破壊力と事後の放射線被曝を考慮すれば、お互い、核兵器は自国では使えない。その意味ではもっとも非防衛的であり、もっとも攻撃的な兵器というべきだろう。「いざというときには、相手国の領域で使用して甚大な被害を及ぼすぞ」という威嚇は、専守防衛の思想とは無縁である。
核による報復のボタンを押すべきか否かは、恰好のSF的テーマである。押してしまえば、抑止力にはならない。押さずにいれば、核は無用の長物である。このようなジレンマに陥る以前に、核は抑止力として機能するだろうか。一国が核のボタンを押すときには、相手国も同様と考えれば、核の使用は両国が壊滅するときである。もしかしたら、当事国だけでなく人類が滅びるときであるかも知れない。核の使用をほのめかして相手国を威嚇するとき、実は自国に対しても滅亡を予告し、人類全体を威嚇しているのだ。そのような兵器は、現実的には使用不可能である。使用できない武器に抑止力はない。
専守防衛の軍隊が想定可能として、そのような軍隊を保持することは、本当に合理的な選択であろうか。国民の安全を実現する上で、最善の方策であろうか。国家は、自国の軍隊が自国民を擁護するものであることを当然とする。しかし、国民はそのことを信用してよいだろうか。自国の軍隊が、自国の人民に牙をむく事態を想像することは困難なことではない。また、侵略の武力と防衛の武力との厳密な懸隔はない。軍隊があれば、自衛の名による戦争の危険はつきまとう。なにしろ、専守防衛を言いながら、「敵基地攻撃能力」も自衛の範囲というのだから。
さらに、専守防衛にせよ、軍隊を保有するデメリットとコストを勘案しなければならない。近隣諸国からの信頼を得てこその経済的、文化的国際交流である。軍隊をなくすことでの信頼関係の醸成と経済的なメリットは計り知れない。戦争や侵略の動機は、主として経済的利害の対立である。厖大な軍事力を維持することは、経済的な損失を被っているのだから、「各国とも既に半ば敗戦」ではないか。それよりは、軍事に頼らない経済や文化の相互交流を目指すのが、得策であるはず。
国家間の戦争ではなく、「テロとの戦い」においても同じこと。世界的な希望の格差や貧困の存在がテロや紛争の原因となっている。軍事力は、その解決の能力をもたない。むしろ、憎悪と貧困の再生産をもたらすだけ。軍事的なリソースを格差や貧困の絶滅に向けたキャンペーンを行えば、「テロとの戦いに勝つ」のではなく、「テロとの戦いをなくす」ことができるだろう。
日本政府は、後生大事に「核抑止力」に寄りかかっていてはならない。「核」も、「軍事的抑止力」も廃棄する政策をもたねばならない。それが、憲法の平和主義である。
(2013年10月18日)