(2022年12月6日)
岸田文雄改造内閣は、今年8月10日に発足している。7月8日安倍晋三銃撃事件直後の統一教会との癒着批判の嵐のさなかのこと。統一教会との公然たる接触者を避けての人選。枯渇した人材の割当に苦労しての組閣が、適材適所であろうはずもない。既に3大臣の首がすげ替えられて、4人目も風前の灯だが、国会閉幕に逃げ込めるかどうか。
4大臣だけではない。これ以上はない非適材の不適格者と指摘すべきは、杉田水脈の総務政務官任命である。杉田こそは、女性でありながらの性差別・ヘイト発言の第一人者である。その杉田が、総務省の政務官に起用された。
予想されたとおり、その杉田が過去の厖大な差別発言を問題にされ、攻撃にさらされているが、これもまだ罷免に至っていない。岸田政権、いったい何を考えているのやら。
11月26日以来、杉田は過去の差別言動をめぐり、連日、野党の追及を受けている。12月2日の参議院予算委員会では、「過去の配慮を欠いた表現、そういったことを反省するとともに、松本総務大臣から、そうした表現を取り消すよう指示がありました。内閣の一員としてそれ(方針)に従い、傷つかれた方々に謝罪し、そうした表現を取り消します」と答弁するに至っている。飽くまで、「大臣からの指示による、差別表現の取消しと謝罪」である。自分の考えは別なのだ。
社民党・福島みずほ議員から「杉田さん、謝罪と撤回ですが、どこの部分の発言を撤回・謝罪する?」と聞かれて、「私自身、表現が拙かったことを重く受け止め反省しております。今後はこうしたことがないように誠心誠意努めてまいりたい」としか答えられない。撤回と謝罪は「表現が拙かった」だけのことだというのだ。
そして、杉田政務官を更迭するよう求められた岸田首相は、「職責を果たすだけの能力を持った人物だということで判断した。内閣の方針に従って言動してもらわなければならない」と、杉田擁護を重ねている。
杉田は過去の月刊誌の論文で性的少数者(LGBTなど)について「生産性がない」と記した。同日の予算委では自身のブログで国連女性差別撤廃委員会の会合の出席者をやゆしたことも指摘された。「チマ・チョゴリやアイヌの民族衣装のコスプレおばさんまで登場。完全に品格に問題があります」と記載してもいた。2018年6?7月、ツイッター上で「枕営業の失敗」「ハニートラップ」「売名行為」などと伊藤氏を中傷した第三者の投稿計25件に「いいね」を押して、損害賠償書を命じられてもいる。誰が見ても、「人権感覚が疑わしい」と批判せざるを得ない。
その杉田が、インターネット上の誹謗中傷対策の担当政務官だという。この人物の登用はなにかの冗談ではないかと思わせる。何しろ、舛添要一が「インターネット上の誹謗中傷対策を担当する総務相の政務官に、ヘイトスピーチ・オンパレードの杉田水脈議員を任命するというのは、ブラックジョークである。副大臣や政務官の人事は、政策や適材適所ということではなく、派閥間の帳尻合わせの道具である。しかも、大臣に比べて「身体検査」も緩い。」と投稿しているのだから。
その上に、杉田は2016年8月5日、ツイッターに「幸福の科学や統一教会の信者の方にご支援、ご協力いただくのは何の問題もない」と投稿している。19年4月28日、旧統一協会の別動隊「国際勝共連合」と関係が深い団体主催の会合で講演し、「会場はお客様で満杯。懇親会までじっくりとお話しさせていただき、本当にありがとうございました」と投稿。
「男女平等は絶対に実現しえない、反道徳の妄想だ」「女性差別というのは存在していない」等々の発言もある。昨年は、政治家の性差別発言ネット投票で、ダントツのワースト賞に輝いている。例の「女性はいくらでもウソをつける」発言である。党本部の会合で性暴力被害者支援に関して述べたもので、「やっとの思いで性被害を申告した人に対して、あまりにも心無い言葉だ」などの批判の声が多く集まった。
この杉田水脈という女性、酷い差別主義者ではあるが、ウソつきではないようだ。「女性はいくらでもウソをつける」と自分のことを言っているのだから。
(2022年11月21日)
統一教会問題を契機に、ことあるごとに宗教が話題となる。が、宗教問題は難しい。そもそも、宗教とはなんぞやが皆目分からない。分かっているのは、宗教とは論理で説明できる領域にはなく、論理での説明を越えた世界に宗教があり信仰があるということ。だから、言語や論理での説明ができようはずもない。従って、「我が教えこそ正しい」と人に説得することは原理的にできることではない。
人がなぜ、それぞれの信仰をもつのか、おそらくは自身も分からず、他人に分かるはずもない。他人の信仰への理解も共感も難しい。尊重や敬意はさらに困難である。
しかし、確実に信仰は深く強く人を捉える。場合によっては熱狂的にである。歴史的に、多くの権力が民衆の宗教的情熱を一面では恐れ、また一面ではその利用を画策した。宗教は、権力によって弾圧もされ、権力と一体となって権力者を支えもした。いまなお、そのような現実がある。
さて、民主主義の時代の、社会のマナーやルールとして、宗教をどう取り扱うか。間違うと危険な、重要課題となっている。結論は、人は相互に他人の信仰への不介入を心得るしかない。他人の信仰を邪魔してはならない、自分の信仰を他人から邪魔されることがあってはならない、という社会合意を作るしかない。信仰をもつ人も、もたざる人も。
とは言え、宗教の多くは自己増殖の衝動をもっている。それ自体を非難することはできないが、布教活動名目のマインドコントロールによって対象者の自己決定権を侵害してはならない。この点に警戒を要するのだが、憲法で保障されている信教の自由と、唾棄すべきマインドコントロールの本質的な違いがよく分からない。信教の自由の一分枝である「宗教教義の教化伝道の自由」とマインドコントロールの差異はどこにあるのか。
本日の「毎日デジタル・政治プレミア」に、釈徹宗の「宗教者が問う 旧統一教会問題の本質」という論稿。この人、本願寺派の僧侶だという。「旧統一教会問題の本質」という表題に惹かれて、読んではみたものの、やはり、門外漢には分かりにくい話。「旧統一教会問題の本質」を解明し得ていない。混沌は深まるばかり、という印象。
文中に、「信仰とマインドコントロールは違う」という小見出しがある。どう違うんだろう。この違いを宗教者がどう説明しているのだろう。興味津々で注意深く読んではみたが、どう違うかはやっぱり分からない。分かるようには語られていないということか、あるいは分かりようもないテーマということなのだろうか。
この小見出しでの解説の最後が次の文章で締めくくられている。
「信仰心とマインドコントロールは、一見よく似ている。ただし、一方は個人が自らの生きる道筋を定めてゆく歩みで、他方は個人を支配する手段だ。」
「一見よく似ている。」は分かり易い。どちらも、人の精神に働きかけて、特定の価値観を植え付け、あるいは精神構造を形作ろうという営為である。一方、両者の違いは分かりにくい。本当に、「信仰とは、個人が自らの生きる道筋を定めてゆく歩み」なのだろうか。個人の自立を求めず、「自らの生きる道筋を宗教指導者に委ねよ」と説く宗教は巷に溢れているのではないだろうか。宗教ないし信仰に、支配・被支配の関係はないだろうか。マインドコントロールに、限りなく近似しているのではないか。
この僧侶はこうも言っている。
「カルトには、「熱狂的に信じる」という意味がある。熱狂的な反社会集団を規制するのは、社会の維持にとって当然だと思う。ただし、宗教一般にも熱狂はつきものだ。つまり、カルト性をハナから欠く宗教もない。」
カルトと宗教、マインドコントロールと布教活動、截然と分離することは難しかろう。論者は、こう言う。
「問題を根本から解くには、社会を構成する個々人が、宗教についてしっかりと考察すべきなのである」
また、こうも言う。
「宗教は人を救う力をもつが、あっさりと日常を破壊する力にもなる。今回を機にしっかり宗教について取り組むことが肝要だ。スキャンダラスなトピックだけに目を奪われていては、単に消費されていく話題のひとつになってしまう。問われているのは、この社会の宗教観なのである。」
この頃、はやりの「しっかり」だが、どうしっかり考えて、どのような結論に至らねばならないというのか、さっぱり分からない。
おぼろげながら分かることは、巨大宗教団体の信者や民衆に対する精神的支配力には警戒を要するということである。個人の自立と宗教的帰依とは両立しがたいのではないか。ましてや、意識的に人の精神を支配しようとたくらむ『宗教』や『擬似宗教』に対する批判を躊躇してはならない。
(2022年10月31日)
本日、東京新聞が「『君が代』強制 処分避け対話で解決を」という社説を掲載した。人権・民主主義を大切に思う者として何ともありがたい。この問題での訴訟を担当している立場からはなおさらである。東京新聞には、深甚の敬意を表したい。
https://www.tokyo-np.co.jp/article/211116?rct=editorial
この社説の趣旨は、冒頭に述べられている。『学校現場で教職員に「君が代」の起立斉唱を強制している問題を巡り、国際機関が日本政府に強制を避けるよう勧告を重ねている。政府は勧告を放置しているが、強制は教員らの内心の自由を侵す。政府は勧告を受け入れ、処分ではなく教員団体との対話によって問題解決を図るべきだ』という簡潔で力強い宣言。
「君が代・強制」には、重層的にいくつもの問題が伏在している。思想・良心・信教の自由の侵害、公権力によるナショナリズム煽動の罪、君が代に象徴される戦前的価値観の押し付け、国家の存立が個人の尊厳に優越するという全体主義の肯定、教育の自由に対する無理解、教育行政の名による教育への積極的権力介入の放任…。憲法論上の最重要問題として、《国家が個人に対して、「国家に敬意を表明せよ」との強制をなしうるか》が問われている。
そして、新たな状況の中で東京新聞社説は、「《我が国が締結した条約》や《確立された国際法規》の順守義務」履行の問題として、君が代強制に疑問を呈した。
社説の言う「(日本政府に強制を避けるよう勧告した)国際機関」とは、国連にほかならない。国連のしかるべき専門機関が、日本が締約した条約に基づいて、「愛国的式典の規則は、国旗掲揚や国歌斉唱に参加したくない教員にも対応できる内容であるべきだ」と勧告したのだ。「学校現場での「君が代」強制は好ましくない」「強制を避けて対話で解決せよ」とも明言している。これが、国際的なスタンダードなのだ。
我が国は、憲法において国際協調主義を宣言した。国際条約を遵守すべきことも、国連勧告を尊重すべきも、自らに課した当然の責務である。その姿勢を堅持してこそ国際社会の一員として胸を張ることができる。国連からのこの勧告を、「勧告に過ぎないから」と無視することは許されない。
この問題に関わる当事者も、労働組合も市民も真剣である。けっして、問題をうやむやのうちに葬ることはしない。政府が、そして文科省と東京都教育委員会・大阪府教育委員会が、この問題を解決するまではけっして引き下がることはない。政府が真摯な対応をしない限り、セアートの勧告は引き続きおこなわれることになる。
この社説が言うとおり、「強制の排除に踏み出すべき」なのだ。
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学校現場で教職員に「君が代」の起立斉唱を強制している問題を巡り、国際機関が日本政府に強制を避けるよう勧告を重ねている。政府は勧告を放置しているが、強制は教員らの内心の自由を侵す。政府は勧告を受け入れ、処分ではなく教員団体との対話によって問題解決を図るべきだ。
勧告したのは国際労働機関(ILO)と国連教育科学文化機関(ユネスコ)の合同専門委員会「CEART(セアート)」。
東京都や大阪府などの学校現場では、入学式や卒業式の際に「国旗に向かって起立し国歌を斉唱する」ことが求められ、従わない教員らが懲戒処分を受けている。
2014年、日本の教職員組合が「公権力によって敬愛行為を強制され、思想良心の自由を侵害されている」と訴えたことを受け、セアートが審査を実施。一九年と今年6月の二度、日本政府に勧告が行われた。
根拠は1966年、日本も参加したユネスコの会議が採択した「教員の地位に関する勧告」。教員の責任や地位などの原則を定めた国際基準で、日本の「君が代」強制は基準に反すると判断した。
君が代は、日本の侵略戦争の象徴だと忌避し、不起立によって抵抗を示す人はいる。
政府は99年の国旗国歌法制定時に「国民に新たな義務を課すものではない」と説明し、強制を否定した。しかし東京では、石原慎太郎都政時代の2003年に出た通達に基づき不起立の教員を懲戒処分にし、大阪でも11年に設けた条例で起立斉唱を義務化した。
処分を受けた教員は再発防止研修が課され、定年退職後の再雇用希望も拒まれた。勧告はこれら懲罰的行政を戒め、起立しないことは「混乱を生まない市民的自由の範囲」との見解を示している。
勧告は、公務員の教員には職務命令に従う義務があるとする文部科学省の主張も退け「愛国的式典の規則は、国旗掲揚や国歌斉唱に参加したくない教員にも対応できる内容であるべきだ」と組合との合議による規則作成も求めた。
日本国憲法は締結した条約や確立された国際法規の順守義務を定める。2度目の勧告は、政府が放置している英文勧告文の和訳を組合と協力して行うよう求めている。言葉の意味を確認する共同作業を通じて見解の相違を埋め、強制の排除に踏み出すべきだ。
(2022年10月25日)
昨日、宗教研究者有志25氏による「旧統一教会に対する宗務行政の適切な対応を要望する声明」(代表 島薗進東京大学名誉教授・櫻井義秀北海道大学教授)が発表された。穏やかな内容ながら、良識の指し示すものとして影響は大きい。
http://shimazono.spinavi.net/
「旧統一教会が行ってきた霊感商法や過度の献金要請、旧統一教会と政治家との関係、および宗教二世の問題」を指摘し、「現在、必要なことは、新たな被害を生み出さないために、現代宗教のあり方、宗教と政治の関係について認識を深めると同時に、透明なプロセスにそって所轄官庁が適切かつ迅速な宗務行政の対応を行うことだと考えます」と行政への要望を述べている。
注目すべきは、統一教会の組織的活動を違法とする、以下の一節。
「私たちはこの問題に対してかねてより懸念をもってきました。正体を隠した勧誘は『信教の自由』を侵害しますし、一般市民や信者の家計を逼迫させ破産に追いこむほどの献金要請は公共の福祉に反します。そして、こうした人権侵害に対して教団としての責任を認めてこなかったことは許容できることではありません。…」
錚々たる研究者らが「正体を隠した勧誘は『信教の自由』を侵害」する故に違法とする見解で一致した。つまり、統一教会側は、「自分たちこそが憲法が保障する『信教の自由』という輝かしい理念の担い手である」と信じ込んでいたに違いない。ところが実はその逆で、信者獲得の勧誘行為が、勧誘される側の『信教の自由』を侵害しているという指摘なのだ。このことの意味は、大きい。
信者獲得のための勧誘は、諸々の被害の入り口である。この入り口での違法行為を防止できれば、その後の「霊感商法」や「過度の献金要請」「政治家との関係」「宗教二世の問題」などを阻止することが可能となる。
問題とされたのは、「正体を隠した勧誘」という統一教会の常套手段。この手口の伝道・強化活動は違法で、勧誘対象者の『信教の自由』(=自らの意思に基づいて信仰すべき対象を選択する自由)を侵害することになる。
以前からこのことを説いていたのは札幌の郷路征記弁護士、私の同期の友人である。近著、「統一教会の何が問題かー人を隷属させる伝道手法の実態」(花伝社)の中でこう述べている(同書58頁)。
「統一教会の伝道・教化活動の違法性を考える場合、保護されるべき法益を特定することが重要である。最重要の法益は、伝道される側である国民の信教の自由である。それが統一協会の伝道・教化活動によって侵害されていないかどうかという視点が必要である。国民が信教の自由、すなわち宗教上の自己決定権をその最も基本的で重要な内心の権利として保障されていることは明らかであって、それを侵害する伝道・教化活動が認められるはずはない。以下の判決のとおりである。」
「統一教会が信教の自由を有しており、その伝道・教化活動もその信教の自由の一環であるとしても、対象者も信教の自由、すなわち当該宗教に帰依するか否かを選択する自由を有しているのであり、対象者のこの信教の自由を侵害する方法による伝道・教化活動は許されないのは当然である。(札幌地方裁判所2014年3月24日判決)」
「信教の自由」は、勧誘する側にのみ保障されているのではない。勧誘される対象者の側にも信教の自由はある。具体的には、勧誘する側が有する「宗教教義を伝道して信者を獲得すべく勧誘活動を自由に行う権利」と、勧誘される側が有する「正確で十分な情報に基づいて、自己の信仰すべき宗教を選択する権利(もちろん、宗教を信じない自由を含む)」とが、憲法価値として並立していて調整が必要となっている。
判決もここまでは認めて、「対象者のこの信教の自由を侵害する方法による伝道・教化活動は許されないのは当然である」とは認めめた。だが、「この信教の自由を侵害する方法による伝道・教化活動」のなんたるかまでを具体的に特定したわけではない。
郷路弁護士は、勧誘される側が有する宗教的な自己決定権を侵害しないためには、伝道活動を行う宗教団体の側には、以下の要件が必要であるという。
(1) 伝道目的の活動であることを明示すべきであること
(2) 他の宗教の宗教教義を伝道活動の主要な手段(概念)として用いるべきではないこと
(3) 事実である・真理であるとしてではなく、宗教教義であることを明示して伝えること
(4) 宗教的回心を発生させる前に、信仰した結果行わなければならなくなる、宗教的実践課題について開示しなければならないこと
(5) 違法な行為や社会的に相当性を欠いた行為をさせるために、信者を組織に隷従させてはならないこと
以上のうちの(1)については、宗教研究者が受け容れるところとなった。今や、通説化しつつあると言って良いのではないか。(2)以下の要件も、今後具体的に整理されたかたちで、判決に定着することになることが期待される。
大きな被害はあったが、ようやくにしてその被害を世に知らせる人があり、被害回復や防止に努力するさまざまな人々がいて、着実に問題解決に道筋が見えてきているという手応えを感じている。
(2022年10月21日)
昨日言い渡しの、下記東京高裁民事判決報道が大きな話題となっている。昨日の東京はこの上ない晴天。その天候同様の晴れやかな判決だった。
「杉田水脈議員に一転、賠償命令 『いいね』で伊藤詩織氏への侮辱」(朝日)
「伊藤詩織さん逆転勝訴、杉田水脈氏に賠償命令 中傷投稿に『いいね』」(毎日)
「伊藤詩織さん中傷ツイートに繰り返し『いいね』…自民・杉田水脈氏に2審は55万円の賠償命令」(読売)
この愚行を繰り返した杉田水脈なる人物、信じがたいことだが政治家である。現在なお衆院議員、そして総務政務官。政治・政治家の劣化を嘆く声は高いが、政治家としての劣度においてこの人の右に出る者は少ない。日本の主権者が、このような政治家に貴重な議席を与えているのだ。我が国の民主主義の水準が嘆かわしい。
杉田は2018年6?7月、ツイッター上で「枕営業の失敗」「ハニートラップ」「売名行為」などと伊藤を中傷した第三者の投稿計25件に「いいね」を押した。なにゆえの愚行だったか。その動機は、単に暇だったからではあり得ない。おそらくは、安倍晋三を中心とする政治グループへの帰属意識と忠誠心の証しであったろう。
安倍晋三あればこその政治家杉田水脈である。その杉田の伊藤詩織攻撃は安倍陣営へのエールではあろうが、この上なくみっともないことになった。安倍晋三亡き後の寄る辺なき杉田水脈、果たしてこれまでのようにはしゃぎ続けることができるだろうか。
私は、この判決に目を通していない。報道された限りでの理解だが、本件は名誉毀損訴訟ではなく、侮辱を請求原因とする訴訟である。名誉毀損の請求原因が「公然事実を摘示する表現で、原告の社会的評価を低下させた」という構成になるのに対して、侮辱では「公然と原告の人格を毀損する表現をした」となる。
一般に、名誉毀損では「事実の摘示が必要」だが侮辱では不要、名誉毀損の侵害法益は「社会的評価」だが侮辱では「名誉感情」だと説かれる。しかし、厳密には、名誉毀損と侮辱とを分けるものは微妙である。その意味では、伊藤・杉田事件は貴重な侮辱事案の判決となった。
この事件、本年3月の一審・東京地裁判決では請求棄却判決となっている。ツイッター上の「いいね」は、「必ずしも内容への好意的・肯定的な感情を示すものではない」「ブックマークなどの目的で使われることもあり、」「感情の対象や程度は特定できず、非常に抽象的、多義的な表現行為にとどまる」と、名誉感情を毀損する人格攻撃としての侮辱表現があったと認めなかったようだ。
控訴審では一転、名誉感情の毀損を認めて原判決を変更し、杉田に55万円の支払いを命じた。決め手となったのは、「いいね」を押した行為だけに着目するのではなく、杉田が以前からインターネット番組などで伊藤の批判を繰り返していたことなどを勘案して、「名誉感情を害する意図があった」「国会議員の『いいね』は一般人とは比較しえない影響力がある」と、目的(主観)・効果(客観)両面での侮辱の成立を認め、賠償請求を認容した。欣快の至りである。
昨夕の毎日(デジタル版)が、「杉田水脈氏の差別発言の数々」の解説記事を掲載している。その一部を抜粋しておきたい。杉田水脈とは何者であるかがよく分かる。
「性暴力被害に『女性はいくらでもウソをつけますから』」
「20年9月の自民党内の会議では、行政や民間が運営する性暴力被害者のための「ワンストップ支援センター」を全国で増設する方針などを内閣府が説明した際、「女性はいくらでもウソをつけますから」と、被害の虚偽申告があるように受け取れる発言をした。 この発言を巡っては、大学教授らでつくる「公的発言におけるジェンダー差別を許さない会」が21年2?3月に実施したネット投票で、ジェンダーに関する問題発言のワースト1位に選ばれた。」
待機児童問題でも持論
「保育園への入所選考に落ちた母親がブログにつづった「保育園落ちた日本死ね!!!」という言葉が話題になった16年には、保育所の増設などを求める動きに対し、産経新聞のニュースサイトでの自身の連載で「子供を家庭から引き離し、保育所などの施設で洗脳教育する。旧ソ連が共産主義体制の中で取り組み、失敗したモデルを21世紀の日本で実践しようとしているわけです」「コミンテルン(共産主義政党の国際組織)が日本の一番コアな部分である『家族』を崩壊させようと仕掛けてきました」などとつづり、物議を醸したこともある。」
「生産性がない」発言で雑誌が休刊に
「18年、月刊誌「新潮45」8月号に「『LGBT』支援の度が過ぎる」とのタイトルで「LGBTのカップルのために税金を使うことに賛同が得られるものでしょうか。彼ら彼女らは子供を作らない、つまり『生産性』がないのです」と寄稿。
『多様性を受け入れて、さまざまな性的指向も認めよということになると、同性婚の容認だけにとどまらず、例えば兄弟婚を認めろ、親子婚を認めろ、それどころかペット婚や、機械と結婚させろという声も出てくるかもしれません』と性的少数者を差別する主張を展開した。 この寄稿に対して当事者や支援者から批判が殺到し、自民党本部前などで抗議集会が開かれる事態となり、「新潮45」は18年10月号で休刊となった」
杉田氏「多様性否定したことない」
「一方、今年8月15日の総務政務官の就任記者会見で「新潮45」への寄稿について問われた杉田氏は「私は過去に多様性を否定したこともなく、性的マイノリティーの方々を差別したこともございません」と説明した。」
この「多様性否定したことない」という杉田発言について、「なるほど、『女性はいくらでもウソをつけますから』というとおりだ」などと言ってはならない。「いくらでもウソをつける」のは、『女性』ではなく『杉田水脈』という政治家なのだから。
(2022年10月19日)
東京五輪の汚職事件摘発は止まるところを知らない。またまた本日、「ミスター電通」が収賄容疑で4度目の逮捕となり、併せて広告業大手ADKホールディングス社長らが贈賄の容疑で逮捕された。が、もっと大物の立件はないのだろうか。あの政治家や、このJOC元会長など、疑惑の報じられている人は多い。是非とも徹底的に、五輪の膿をしぼり出してほしいもの。
石原慎太郎の思いつきに猪瀬や小池がはしゃぎ、安倍晋三が悪乗りした東京五輪である。その背後には、巨額の利権がうごめいている。その汚さは底なしに見えるが、さて、どこまで疑惑の解明が進んでいるのだろうか。庶民のモヤモヤ感が、新聞の川柳投句欄に溢れている。毎日新聞の「仲畑万能川柳」欄から最近のものを拾ってみた。実に見事なもの。
今頃になって五輪が盛り上がり 高槻 かうぞう
より速くより高くより金儲け 甲府 千徳紘美
豪邸で高齢なのに汚職する 取手 はにわゆう
じいちゃんが五輪の件で留置場 北九州 はっちゃん
おもてなしなんだ賄賂のことなのか 別府 タッポンZ
「おもてなし」東京五輪は裏多し 大牟田 西のニシ
開幕の前に汚れていた五輪 射水 江守正
五輪理事ドンというよりガンですな 北九州 はっちゃん
結局はカネで決まったスポンサー 相模原 アンリ
やっぱりね復興五輪じゃなかったな 日立 小雪
五輪ほど汚れてないぞ野良着だが 兵庫 新ポスト
オリパラを巡るお金はまだ巡る 下関 タケロー7
五輪色全て疑惑のグレーだな 西東京 矢ケ崎耕一
五輪後に残ってました金の輪が 下松 暇人
電通は越後屋なのか代官か 横浜 おっぺす
五輪とは利権者達の宴なり 北九州 まんまる
終っても東京五輪まだ汚点 奈良 一本杉
五輪後に赤字と汚職だけ残る 千葉 東孝案
東京は汚職五輪と総括し 和歌山 屁の河童
甘い汁又吸えそうだ札幌で 横浜 樫原雅良
角川の辞書にも載ってる贈収賄 川崎 ゆさこ
AOKIから着服をした?五輪理事 神奈川 荒川淳
五輪史のスーツのしみを見てしまい 会津若松 やぶ空坊
(2022年10月5日)
「法と民主主義」10月号【572号】が、9月30日に発刊になった。特集は2本。特集?が「2022年参院選と改憲発議阻止の展望」、そして特集?「緊急特集・国葬と統一教会問題」である。両特集とも、読み応えは十分である。とりわけ、特集2が、時宜に適したもの。石村修(憲法学)・宮間純一(政治学)・郷路征記(弁護団)・有田芳生(ジャーナリスト)とならんだ執筆陣は圧巻。なお、この特集は来月号も続くことになる。
特集?●2022年参院選と改憲発議阻止の展望
◆特集にあたって … 編集委員会・南 典男
◆参院選後の改憲をめぐる状況と市民と野党の共同の展望 … 中野晃一
◆参院選結果が投げかけるもの … 田中 隆
◆実質改憲としての安保3文書改訂 … 永山茂樹
◆核戦争の危険性と私たちの任務 ── 核兵器廃絶と9条の世界化を … 大久保賢一
◆安全保障の名のもとに監視と治安強化がすすむ
戦争のできる国づくりの最終段階を画す土地規制法と経済安保法 … 海渡雄一
◆市民運動・野党共闘と法律家の役割について … 平井哲史
◆改憲問題対策法律家6団体連絡会の活動総括と今後の方針 … 大江京子
特集?●緊急特集・「国葬」と「統一教会問題」
◆特集にあたって … 編集委員会・南 典男
◆「安倍国葬」は日本国憲法上で許されない … 石村 修
◆日本史のなかの「国葬」問題 … 宮間純一
◆統一協会の伝道手法とその破壊力 … 郷路征記
◆インタビュー●統一教会とは何か ─ 自民党との極まった癒着を問う … 有田芳生
https://www.jdla.jp/houmin/index.html
お申し込みは下記URLから。
https://www.jdla.jp/houmin/form.html
なお、「法と民主主義」(略称「法民」)は、日民協の活動の基幹となる月刊の法律雑誌です(2/3月号と8/9月号は合併号なので発行は年10回)。毎月、編集委員会を開き、全て会員の手で作っています。憲法、司法、教育、原発、国際情勢、天皇制、地方自治、沖縄問題、ジャーナリズムなど、情勢に即応したテーマで、法理論と法律家運動の実践を結合した内容を発信し、法律家だけでなく、広くジャーナリストや市民の方々からもご好評をいただいています。定期購読も、1冊からのご購入も可能です(1冊1000円)。よろしくお願いします。
(2022年9月17日)
本日の赤旗、トップ記事の見出しが「法に基づく解散命令を」「統一協会 霊感商法対策弁連が声明」となっている。要旨次のとおり。
「統一協会(赤旗はこう表記する)による被害救済に取り組んできた全国霊感商法対策弁護士連絡会が(9月)16日全国集会を開き、オンラインと合わせて約200人が参加した。被害の実態や協会と政治との関係、被害撲滅に向けた規制の在り方などについて意見を交わし、教団に被害信者への謝罪と損害賠償を求めた上で、宗教法人法に基づく解散命令の請求を行政に求める声明を採択した。」
「冒頭で代表世話人の山口広弁護士は『統一協会は単なる宗教団体ではない。資金づくりを担う事業部門や、各国の政権に何が何でも食い込もうとアプローチする政治部門、新聞などで主張を発信する部門などを添えた複合体だ』と指摘。」
「同じく代表世話人の郷路征記弁護士がオンラインで、協会が続けてきた伝道・勧誘の問題点を解説。『宗教団体の伝道であることを隠したまま「先祖の因縁」などで恐怖感・不安感をあおる。身近な人に相談もさせず、「やめる自由」を事実上なくして信仰させてしまう。信仰の自由を侵害している』と指摘した。」
この弁連の活動には、深い敬意を表したい。
同じ赤旗1面に、「『安倍元首相忘れない』 韓国の統一協会が声明」という記事がある。韓国の統一協会が、安倍晋三の死去に関し、「平和運動を推進しながら、不意の死をとげた安倍晋三元首相に対して深い哀悼の意を表します。朝鮮半島の統一と世界平和のビジョンを提示し、前・現職首脳と共にその意志を表明した安倍元首相の崇高なる犠牲を家庭連合は絶対に忘れません」と、韓国の主要日刊紙に全面広告したのだという。
その統一教会の声明のなかで、「全国霊感商法対策弁護士連絡会を特定の政治的意図をもった団体だと事実無根の攻撃をしました」と赤旗が紹介している。統一教会、大いに弁連憎しなのだ。それにしても、「特定の政治的意図」とはいったい何のことだろうか。自民党に不利になる活動を、すべからく「特定の政治的意図」によるものと攻撃したいのであろう。
弁連には、最大限に司法を活用して被害を救済し、さらに被害の根絶に向けた活動を期待したい。
統一教会による被害を根絶するための最大の手段が、宗教法人法81条の「解散命令」である。これが本日の赤旗記事の見出しになっている。「解散命令」とは宗教法人法上の法人格を剥奪すること。そのことによって宗教団体としての統一教会が消滅するわけでも宗教活動ができなくなるわけでもない。しかし、統一教会は所有権主体とも取引主体ともなれなくなる。「解散命令」には、財産関係の清算手続が続くことになる。そして、宗教法人に与えられている税法上の優遇措置を失うことにもなる。影響は死活的に大きい。
宗教法人法81条1項(解散命令)を確認しておこう。
「裁判所は、宗教法人について左の各号の一(ひとつ、の意味)に該当する事由があると認めたときは、所轄庁、利害関係人若しくは検察官の請求により又は職権で、その解散を命ずることができる。
一 法令に違反して、著しく公共の福祉を害すると明らかに認められる行為をしたこと。
二 第二条に規定する宗教団体の目的(注・宗教の教義をひろめ、儀式行事を行い、及び信者を教化育成すること)を著しく逸脱した行為をしたこと(以下略)
条文に明らかなとおり、解散命令は裁判所が出す。行政機関は出せない。裁判所が自ら職権でも出せるが現実には考え難い。常識的には、所轄庁の請求があって裁判所が動くことになる。所轄庁は、都道府県知事あるいは文科大臣である。利害関係人(たとえば、債権者)も請求の資格をもっているが、証拠を揃えるのは容易ではない。
解散命令のハードルは高い。同条1項1号は、単なる法令違反では足りず、「著しく」公共の福祉を害すると「明らかに」認められる行為あることを要件としている。法令違反は必ずしも刑事罰を意味しないが、明らかにその主体は宗教法人でなければならない。
これまで、解散命令が発せられたのは2件とされている。宗教法人オウム真理教に対するものと、霊視商法で詐欺被害輩出を重ねた宗教法人明覚寺に対するもの。いずれも、最高裁まで争われて、解散命令が確定している。オウムの最高裁決定が1996年、明覚寺は2002年である。以下に、両事件を概観して、統一教会への適用を考えて見たい。
問題は大きく2点ある。第1点は法81条1項(解散命令)の要件であり、第2点が、この条文あるいは解散命令の憲法20条適合性の有無である。
この第2点は、日本国憲法の柱の一つともいうべき信教の自由という重要理念の理解に関わる。その基準の定立如何は、国民の信教の自由保障と、既成宗教のあり方に大きな影響を与える。慎重の上にも慎重な判断が求められて当然である。
その重要な問いに対する最高裁の結論は、今のところは以下のとおりである。
「大量殺人を目的として計画的、組織的にサリンを生成した宗教法人について、宗教法人法81条1項1号及び2号前段に規定する事由があるとしてされた解散命令は、専ら宗教法人の世俗的側面を対象とし、宗教団体や信者の精神的・宗教的側面に容喙する意図によるものではない。右宗教法人の行為に対処するには、その法人格を失わせることが必要かつ適切であり、他方、解散命令によって宗教団体やその信者らが行う宗教上の行為に何らかの支障を生ずることが避けられないとしても、その支障は解散命令に伴う間接的で事実上のものにとどまるなど判示の事情の下においては、必要でやむを得ない法的規制であり、日本国憲法第20条1項に違反しない。」(宗教法人オウム真理教解散命令事件)
第1点(法81条1項(解散命令)の要件)については、まずオウム事件ではこう判断されている。
「宗教法人の代表役員及びその指示を受けた多数の幹部が、大量殺人を目的として、多数の信徒を動員し、宗教法人所有の土地建物等の物的施設と多額の資金を使い、大規模な化学プラントを建設して、サリンを計画的・組織的に生成したことは、当該宗教法人の行為として、宗教法人法81条1項1号及び2号前段所定の解散事由に該当する。」(第1審・東京地裁決定、第2審東京高裁も、最高裁も是認)
なお、オウムの解散請求は、検察官及びオウム真理教の所轄官庁たる東京都知事鈴木俊一両名からのものである。
一方、宗教法人明覚寺の解散命令事件は、1999年12月所轄官庁(文化庁)が、詐欺刑事事件判決を根拠に「組織ぐるみの違法性が認められる」として和歌山地裁に解散命令を請求したもの。和歌山地裁は解散命令を発し、明覚寺はこれを不服として最高裁まで争ったが棄却されて確定している。
解散命令の要件具備判断の要点を抜き書きしてみる。
「前記認定の各詐欺はいずれも相手方(宗教法人明覚寺)に属する満願寺もしくは龍智院という末寺を舞台として行われたものであるところ、その実行行為者及び件数が多数に及んでいることだけからみても、上記各詐欺が組織的に行われていたことが強く窺える」「さらに、前記各詐欺行為は、被害者が満願寺のチラシを見るなどして相談に訪れたことがその端緒になっているところ、そのチラシは、満願寺が独自に作成したものではなく、相手方代表者たる西川義俊の指示ないし決裁を経て、相手方の本部において関連会社に発注して作成したものである」「相手方では、教師特別錬成命令書が作成され、教師の目標数値が(騙取)金額をもって設定されていた」「相手方代表者西川義俊が自ら、金員騙取に向けた欺罔文言を羅列したトーク集なるものを作成した上、これを全体会議に集まった教師や住職らに配付していた」「騙取にかかる金員の振込送金を受ける場合には、相手方が管理する口座宛とされ、予定されていた金員の送金がない場合には、担当僧侶らに問い合わせるなどしていた」「各詐欺の実行行為者は、いずれも明覚寺の系列寺院において話術訓練等を受けていること」が認められる。
「これらの事実を総合すれば、各詐欺行為は、もはや相手方に属する僧侶等による個人的犯罪ということは到底できず、宗教法人たる相手方が主体となって行ったものというべきである。
そして、その被害件数及び被害額が極めて多数・多額に及んでいることからして、著しく公共の福祉を害するものであることは明らかであるし、組織的に詐欺行為を行うことが宗教団体の目的を著しく逸脱したと認められる行為であることは多言を要しない。」
以上の判断が判例の水準である。統一教会に解散命令を請求するに関しても類似の事実を積み重ねが必要であろう。是非とも、組織的な違法を炙り出す努力を期待したい。
(2022年8月25日)
日弁連は、「消費者法講義」(日本評論社刊)を発刊している。2004年10月に第1版を出し、現在は第5版(2018年10月)となっている。消費者委員会の然るべき執筆者が担当するもので、ロースクールの教科書にもなっていると聞く。
その第4版までには「宗教トラブルと消費者問題」の章が設けられていた。山口広弁護士が執筆し、これに私のコラムが付けられていた。コラムのタイトルは、「消費者事件の間口と奥行き」というもの。霊視商法弁護団を代表しての執筆であるが、今、あらためて統一教会の霊感商法に世の注目が集まっている。引用して紹介させていただく。
1989年10月31日、オウム真理教の幹部が横浜法律事務所を訪れた。「われわれには信教の自由がある」との言に対して、坂本堤弁護士は「人を不幸にする自由はあり得ない」と切り返している。その3日後、坂本弁護士は家族とともに非業の最期を遂げ、この言葉が彼の遺言となった。人を不幸にする「宗教」はオウムだけではない。「宗教」を金儲けの手段として、善男善女から金品を巻き上げ利をむさぼる輩はあとを絶たない。犯罪性を指摘されると、彼らが呪文のごとく唱えるのが「信教の自由」である。
その典型が霊視商法。真言宗の一派を名乗る宗教法人が大量にチラシを撒き、「3000円で特別の能力を持った霊能師が霊視鑑定をする」と集客する。霊視鑑定の結果、例外なく「水子の霊が憑いている」「種々の霊の崇りがある」ことになり、「この霊を供養しない限り不幸は去らない。さらに大きな不幸が来る」と除霊供養料250万円からの被害が始まる。東京都の消費生活センターが調査に乗り出したが、「信教の自由」の壁に阻まれた。「行政が宗教に介入するのか」「宗教弾圧だ」とまで言われたという。
「信仰の自由」「宗教活動の自由」は憲法上の崇高な理念である。しかし、宗教団体が国家権力と対峙する局面と、宗教団体が私人(消費者)と向かい合う局面とを明確に区別して論じないと、同種悪徳商法を野放しにすることとなる。
信教の自由はいささかも悪徳商法を許容するものではない。宗教の名による悪徳商法を糾弾し、消費者被害を救済するに際していささかの妥協も怯みもあってはならない。「人を不幸にする自由はない」は、信教の自由の限界を端的に表現した名言として記憶されねばならない。
組織的な加害に対しては、個別的な被害救済だけではとうてい対応し得ない。とりわけ、この種の大規模事件においては、被害の拡大阻止ないし根絶も受任弁護士の責務となる。弁護団を結成し、集団で多面的な対応が必要である。世論へのアピールも欠かせない。1992年に結成された霊視商法対策弁護団は、憲法問題にも踏み込みつつ、刑事告訴、損害賠償訴訟、破産申立て、宗教法人法上の解散命令申立てなど考えられる限りの法的手続きを行い、被害救済と被害拡大阻止の両面で成功を収めた。「消費者事件」の間口の広さと奥行きの深さを象徴する事件であった。
[澤藤統一郎(弁護士)]
(2022年8月5日)
突然に、沖縄タイムスからのメールが入ってきた。「安倍元首相の国葬に関するアンケ―ト」への協力依頼だという。下記の説明文が付されている。
政府は、街頭演説中に銃撃され死去した安倍晋三元首相の国葬を9月に実施すると閣議決定しました。国葬に関する賛否と今回の銃撃事件について、みなさまのご意見をお聞かせください。締め切りは8月7日(日)とさせていただきます。なお、寄せられたご意見は、沖縄タイムスの紙面とウェブで掲載いたします。ご協力よろしくお願いいたします。
慎重にバイアスを避けた文章である。そして、設問は下記のとおり。
? 安倍元首相の国葬を実施することについて、賛否をお聞かせください。
□賛成
□どちらかと言えば賛成
□反対
□どちらかと言えば反対
□どちらとも言えない
? ?の理由を教えてください。
? 今回の銃撃事件について、あなたの率直な意見をお聞かせください。
? 安倍元首相の評価について、お聞かせください。
□評価する
□どちらかと言えば評価する
□評価しない
□どちらかと言えば評価しない
□どちらとも言えない
? ?の理由を教えてください。
?以下の設問は、回答者の属性を問うもので省略する。回答者の個人名も職業も聞いていない。個人の特定につながるような設問は一切ない。
ものを考えさせてくれるせっかくの機会。しかも産経からではなく沖縄タイムスからの「協力依頼」。私は、真面目に回答した。そのうちの記述部分についての回答を再現してみたい。送信したものより、少しふくらましたところもあるかも知れないが。
《問? あなたが国葬に反対する理由を教えてください》
国葬とは、国家が特定の死者への弔意を表明する儀式です。もとより、国家が弔意をもつはずはありませんから、国家は国民の総意に基づくとして弔意を表明することになります。しかし、この国民の総意はフィクションです。端的に言えば、ウソなのです。本来、葬儀は死者の近親者や知人が敬虔な弔意を献じる儀式ですが、それを超えて、一人の国民の死を国民全体が悼むなどということはあり得ません。
それを承知で、国葬とは国民の総意を騙ることといわざるを得ません。必ず国民の総意の僭称を不本意とする国民に対しては、弔意の強制を伴います。これは国民一人ひとりの精神の自由を保障した日本国憲法に違反するものと考えざるを得ません。ましてや、毀誉褒貶激しい安倍晋三元首相の国葬ではありませんか。過半の国民の思想・良心を踏みにじるもの。
また、安倍晋三元首相は、極端な右翼的政治思想の持ち主で、性急に改憲を事としてきた人物。政治を私物化してきた人物でもあります。言わば、最も国葬にふさわしからぬ人。そんな人の国葬は、安倍晋三の政治路線や姿勢を美化しようという思惑での、あからさまな政治家の死の政治利用というべきで、岸田首相の罪は重く、こんな前例をつくってはならないと考えます。
《問? 今回の銃撃事件について、あなたの率直な意見をお聞かせください》
いま巷には、「安倍晋三の死は自業自得」「岸信介以来安倍家三代にわたる統一教会との癒着・腐れ縁こそが、安倍を死に追いやった主原因」「銃撃犯は格差貧困の自己責任社会に反撃した。安倍晋三こそ、そのような社会を作った象徴的人物ではないか」という危うい言論が溢れています。ややもすると、安倍晋三がつくった矛盾に満ちた社会を変革するのに、面倒な民主主義的手続の尊重よりは、直接行動が効果的と言わんばかり。安倍晋三に対する否定的評価は当然としても、その銃撃を許容する社会の雰囲気を危険で警戒しなければならないと思います。
《問? あなたが安倍元首相を評価しない理由を教えてください》
安倍晋三こそは、無為無策無能の政治家。内政外交、政治姿勢において評価できるものは皆無。遺したものは、醜悪な忖度の政治文化と未解決不祥事オンパレードの負のレガシーのみ。