(2022年6月2日)
日本民主法律家協会の機関誌『法と民主主義』(略称「法民」)か好調である。
「法民」は、日民協の活動の基幹となる月刊の法律雑誌。(2/3月号と8/9月号は合併号なので発行は年10回)。
毎月、編集委員会を開き、全て会員の手で作っている。憲法、司法、原発、天皇制など、情勢に即応したテーマで、法理論と法律家運動の実践を結合した内容を発信し、法律家だけでなく、広くジャーナリストや市民の方々からもご好評をいただいている。
定期購読も、1冊からのご購入も可能である。お申し込みは、下記からお願いしたい。(1冊1000円)。
お申し込みは、下記URLから。
https://www.jdla.jp/houmin/form.html
とりわけ、本年2月ロシアのウライ侵攻以来の改憲世論に抗しての護憲の論調の堅持は、貴重な役割を担うものとなっている。最近の特集記事は、以下のとおり。
「法と民主主義2022年2・3月号」【566号】
●特集『最高裁裁判官国民審査』
「法と民主主義2022年4月号」【567号】
●特集『公害弁連発足50周年記念集会 「被害者とともに50年」』
― 公害弁連の闘いの継承と未来への展望 ―
法と民主主義2022年5月号【568号】
特集●ロシアのウクライナ侵略に抗議する ― 9条徹底の立場から
そして、このほど発売の「法と民主主義2022年6月号【569号】の特集記事が、特集●「全国で広がる憲法運動」である。目次は以下のとおり。
◆特集にあたって … 編集委員会・飯島滋明
◆5月3日にみんなで日本国憲法を読む会/
十勝平和市民の会
◆医療9条の会・北海道
◆道南地域平和運動フォーラム
◆宮古・下閉伊地域の戦争を記録する会
◆マスコミ・文化 九条の会 所沢
◆安保法制に反対するママの会@ちば
◆さつきが丘9条の会
◆調布九条の会「憲法ひろば」
◆市民連合 めぐろ・せたがや
◆新宿平和のための戦争展実行委員会
◆本郷湯島九条の会
◆宗教者九条の和/
平和をつくり出す宗教者ネット
◆明日の自由を守る若手弁護士の会(あすわか)
◆戦争させない・9条壊すな!
総がかり行動実行委員会 青年PT
◆本牧・山手九条の会
◆おだわら・九条の会
◆戦争しない・させない・
平和がいい市民の会(ピースアクションうえだ)
◆不戦へのネットワーク
◆西農憲法集会/9条の会・おおがき
◆みえ市民連合連絡会
◆岡山での憲法運動
◆ピースリンク広島・呉・岩国
◆山口での憲法運動
◆平和といのちをみつめる会
◆長崎県平和運動センター
◆平和憲法を守る会・大分
◆佐賀県平和運動センター
◆鹿児島県護憲平和フォーラム
◆宮古島での憲法運動
◆石垣島での憲法運動
◆特別掲載
インタビュー・参院選で平和を守る勢力の前進を 困難乗り越え「統一」を … 中野晃一
◆連続企画・学術会議問題を考える〈6〉
書評『学問と政治 ── 学術会議任命拒否問題とは何か』 … 藤谷道夫
◆連続企画・憲法9条実現のために(38)
「9条改憲の流れを絶て! 自民党改憲を許さないキックオフ院内集会」より
講演・改憲論議の作法と9条擁護の理由 … 愛敬浩二
◆司法をめぐる動き〈74〉
・「女たちの安保法制違憲訴訟」 ── 東京地裁が見せた異常な訴訟指揮と判決 … 中野麻美
・4月の動き … 司法制度委員会
◆判決ホットレポート
表現の自由をまもる歴史的な札幌地裁判決 ── 道警ヤジ排除訴訟 … 神保大地
◆メディアウオッチ2022●《「憲法」をどうするのか》
ここで世論を作り直そう メディアは「第三者」ではない … 丸山重威
◆改憲動向レポート〈№41〉
5月3日憲法記念日にむけての各党の談話・アピール等を中心に … 飯島滋明
◆インフォメーション
『日本国憲法の改正手続に関する法律の一部を改正する法律案』(公選法並び3項目改正案)の
拙速な審議採決に反対する法律家団体の声明
◆時評●平和的生存権と予防外交 … 大脇雅子
◆ひろば●改憲問題対策法律家6団体連絡会の近時の活動 … 辻田 航
今だからこその特集であ。ぜひ、ご購読をお願いしたい。
(2022年6月1日)
私の古巣である東京南部法律事務所から電話があった。「よい報せではありませんが…」という前置き。これは訃報だ、と覚悟した。案の定、坂井興一さんが亡くなったという報せだった。
亡くなったのは5月21日だったが、ご家族の意向が「皆様へのお知らせは身内だけの葬儀を済ませたあとに」とのことだったという。コロナ禍の所為というよりは、いかにも坂井さんらしい。
坂井さんとは半世紀以上の付き合い。6年間同僚として机を並べた間柄。私より2期上の身近な先輩。新人弁護士として指導も受け、大きく感化も受けてきた。あるとき、真顔で「君には思想があるか。命を掛けても貫こうという思想が…」と言われて戸惑った覚えがある。「そんなものはない」とだけ答えたが、「思想よりも命の方がずっと大切ではないか」と言えばよかった。それだって立派な思想ではないか。
私とは同郷と言ってもよい。岩手県南の陸前高田出身で県立盛岡一高から現役で東大法学部に進学。在学中に司法試験に合格している。おそらく、生涯を通じて試験に落ちた経験のない人。囲碁の達者でもあった。
その経歴は、官僚か裁判官、あるいは企業法務をやってもよかろう人だったが、すんなりと労働弁護士としておさまり、その立場を生涯貫いた。そして、あの〈奇跡の一本松の〉【陸前高田市・ふるさと大使】を務めてもいた。
坂井さんについて思い出深いのは、東弁講堂「日の丸」掲額撤去事件である。
かつて、東弁旧庁舎の大講堂正面には、額に納まった大きな日の丸が掲げられて参集者を睥睨していた。古色蒼然というよりは、アナクロこれに過ぎたるはなしと評するにふさわしい。私は、東弁に登録して弁護士になったとき、その講堂で宣誓式に臨んだが、この大きな「日の丸」が目に入らなかった。目に入らぬはずはないが、大して目障りとは思わなかったのだ。
その後私は、岩手県弁護士会に登録を移し、11年を経た1988年夏に東弁に再登録した。そのとき同じ東弁講堂で2度目の宣誓をした際に見上げた「日の丸」が、この上ない異物として目に突き刺さった。これは何とかしなくてはならない。そう考えたのは、岩手靖国違憲訴訟を担当しての意識変革があったからである。
私は、東京弁護士会運営の議会に当たる「常議員会」の委員に立候補して、その最初の会議の席で「日の丸の掲額は、弁護士会の理念に関わる問題と捉えねばならない」「東弁はこの講堂の『日の丸』を外すべきだ」と訴えた。
そもそも「日の丸」は、国家のシンボルであって在野を標榜する弁護士会にふさわしいものではない。「日の丸」は日本国憲法とは相容れない軍国主義や侵略戦争とあまりに深く結びついた歴史を背負っている。憲法の理念に忠実であるべき弁護士会が掲げるに値しない。「日の丸」という価値的な評価の分かれるシンボルをあたかも、全東弁会員の意向を代表するごとくに掲額してはならない。
一弁講堂には、「日の丸」ではなく、「正義・自由」との額が掲げられている。それに比較して東弁は恥ずかしいと思わねばならない、とも言った記憶がある。
もちろん、これに異論が出た。当時、家永訴訟の被告側代理人だった弁護士から、このままでよいという発言があった。「日の丸」は国民全体のシンボルと考えて少しもおかしくない。何よりも、先輩弁護士たちが長く大切にしてきたものをわざわざ降ろす必要はない、というようなものだった。
幾ばくかの議論の応酬のあと、いったん執行部がこの議論を預かり、「日の丸」掲額の経緯や趣旨について調査をし、その報告に基づいて再検討ということになった。
このときの東弁副会長で、この問題を担当したのが坂井さんだった。けっして私と示し合わせたわけではない。本当に偶然の成り行き。まずは、この額を外して、実況見分したところ、太平洋戦争直前の時期に、弁護士会から戦意高揚のためにどこかに奉納した幾品かのうちの一つで、額からは「武運長久」「皇国弥栄」などの添え書きもあったという。
結局、どうしたか。「調査のために一度外した額ですが、とても重い。建物の劣化もあって壁面に再度取り付けることは危険で事実上不可能と判断せざるを得ません。もうすぐ新庁舎に移転することでもありますし、壁面の補修の予算は取れません」「やむを得ない事情として、ご了解ください」
これが、坂井さんらしい収め方だった。この期の理事会は、取り外した「日の丸額」を再取り付けはしないこととした。新庁舎に日の丸がふさわしいわけがない。右派も、「日の丸を掲げよ」などと提案できるはずもない。こうして、今東京弁護士会は「日の丸」とは無縁なのだが、これは坂井興一さんのお蔭でもある。
(2022年5月29日)
注目の毎日新聞「新疆公安ファイル」報道。連載好調である。流出されたファイルの紹介だけでなく充実した関連取材にも期待したい。
連日の報道に目を離せないが、私が最も興味深く読んだのは、「習氏の命令に忠実」「『全面的な安定』実現に発破」と表題された以下の記事。抜粋して、引用する。
「(敵対勢力やテロ分子には)断固として対応し、壊滅的な打撃を与えよ。情け容赦は無用だ」
2017年5月28日。ラマダンの3日目だった。新疆ウイグル自治区トップの陳全国党書記(当時)は、自治区の「安定維持司令部」の会議でイスラム教徒の信仰心が高まるラマダン中の国内外の動静に警戒を求めた。
習近平指導部はテロ対策の名目で、ウイグル族らへの抑圧を強めてきた。特に14年に区都ウルムチの鉄道駅で発生した爆発事件を切っ掛けに、強力な抑え込みにかじを切り、新疆を中心に暴力テロ活動を取り締まり、特別行動を始めた。
「捕らえるべきものを全て捕らえるのだ」。演説で陳氏は当局が疑わしいと見る全員を拘束するよう要求。特に外国からの帰国者は手錠や覆面などをかけて「片っ端から捕らえるのだ」と指示している。
国営新華社通信によると、共産党は同年末、党委書記を陳氏から元広東省長徴の馬興瑞氏に交代させた。馬氏が陳氏の路線を引き継ぐかは不明だ。ただ、陳氏は18年の演説でこう話している。「(分裂勢力は締め付けがしばらくすれば弛むと考えているが)『?梁の夢』(はかない夢)だ。5年で基本的な安定を達成したとしても、次の5年も厳しい取り締まりを続ける」。そして演説をこう締めくくっていた。「(習)総書記を安心させろ」
この最後の「総書記を安心させろ」という言葉が、私の心の中に異物として突き刺さるのだ。どうして、「人民の安全のために」ではなく、「総書記を安心させろ」なのだろうか。どうして、こんな言葉で人が動くのだろうか。そして、この言葉はどこかで聞いたことがある、暗い記憶を呼び起こす。
この記事、戦前の内務大臣の暴支膺懲訓示に大差ない。「敵対勢力」や「テロ分子」は、「不逞鮮人」「支那人」そして「非国民」に置き換えて読むことができる。むろん、「総書記を安心させろ」は、もったいぶった「陛下の大御心を安んじ奉れ」ということになる。
近代以後の日本の権威主義は、天皇の権威を源泉とする。天皇の権威は、天皇を頂点とするヒエラルヒーを下位に向かって順次降下する。上位は天皇の権威を背負うことで下位に絶対の服従を求めた。かくして、この社会には小さな権力を振るう小天皇が乱立した。だからこそ、「上官の命令は天皇の命令と心得よ」が成立し得たのだ。
だから、為政者にとっての天皇の権威というものは、この上なく使い勝手のよい便利な統治の道具なのだ。この権威主義は、自立した個人が権力を形成し監視する民主主義とは相容れない。日本の民主主義の成熟は、我が国にはびこる「天皇制=権威主義」の残滓を払拭せずにはあり得ない。
今、中国は天皇制の代わりに共産党を、天皇に換えて習近平を据えたという感を否めない。ウイグルトップの陳全国は、習近平の権威を笠に着て、その部下に「習総書記を安心させろ」と言ったのだ。かつて、天皇制権力が臣民の徹底統治に成功したように、習近平中国も14億人民を、その権威をもって統治しようとしている如くである。社会主義とはまったく無縁で、野蛮な権威主義統治体制というほかはない。
(2022年5月14日)
平和の問題を論じるときに、「外国の軍隊から攻め込まれたらどうする」と言い募る向きがある。「攻め込まれたときには、防衛の軍事力が必要だろう」という含みを持つ質問。かつては、ソ連が「攻め込む外国」として想定され、次いで北朝鮮、そして中国に移り、いままたウクライナに侵攻したロシアも加えられている。
この問に端的に答えれば、「攻め込まれたら、時既に遅しだ。どうしようもない」と答えざるを得ない。もしかしたら、侵略者に抵抗の方法はあるのかも知れないが、想定するに値しない。当然のことながら、「どうすれば、攻め込むことも、攻め込まれることもない、国際平和を築くことができるか」「戦争の原因を取り除く外交努力はいかにあるべきか」と問うべきで、問の建て方がまちがっているのだ。
しかし、そう言われても納得せずに、「それでも、攻め込まれたら」「外交が失敗して攻め込まれたら」「さあ、どうする、どうする」と繰り返して言い募る人もいるだろう。そういう人には、「ミサイルが飛んできてそれを防げる原発はない。世界に1基もない」という言葉を噛みしめてもらいたい。
山口壮原子力防災相(兼環境相)の昨日の閣議後会見での発言である。この問題での国政の最高責任者が、ミサイルからの原発の防衛は「これからもできない」と言明しているのだ。
日本には、54基の原発がある。攻め込んだ外国軍隊からの攻撃を防ぐ手立ては今もできないし、これからも無理なのだ。この一つでも攻撃されればいったいどうなるか。これについては、同じ山口壮原子力防災相の3月11日閣議後会見での下記の発言がある。
「日本の原発の安全規制は他国からの武力攻撃などを想定していない」「(ミサイルなどの攻撃を受けた場合の被害想定について)チェルノブイリの時よりも、もっとすさまじい。町が消えていくような話だ」(朝日)
ロシア軍がウクライナの原発を攻撃した事態を受け、自民党や自治体などから原発の防衛力強化を求める意見が出ている。全国知事会は3月、ミサイル攻撃に対し自衛隊の迎撃態勢に万全を期すよう要請をした。が、担当相として甘い見通しを語ることはできないのだ。
また、同日の会見で、山口防災相は、「原子力規制委員会による安全審査では、原発への他国からの武力攻撃を想定していない。(仮に原発が武力攻撃を受けた場合には)そういうこと(武力攻撃)を認めるようなことで、やりだしたら話はもう大変だ」とした上で、「今ある枠組みで、どう対応するのかを検討する」と語っている(朝日)。要するに、原発に対する武力攻撃への対応など、しようもないということなのだ。
原発への武力攻撃については、原子力規制委の更田豊志委員長が3月9日、衆院経済産業委員会で「審査等において想定していないので、対策として要求していない」と答弁。武力攻撃を受けた場合には、「放射性物質が攻撃自体によってまき散らされてしまう。現在の設備で避けられるものとは考えていない。(中央制御室が)占拠された場合は、どのような事態も避けられるものではない」などと語っていた。更田氏の発言について、山口氏は「同じ意見だ」と述べている。(朝日)
原発だけではない。太平洋沿岸に連なるコンビナートへの攻撃も、防ぎようはない。戦争が始まってしまえば、国土や国民の防衛など絵空事とならざるをえない。では、仮想敵国の軍事侵攻を事前に防止する軍備を整えるか。あるいは、先制攻撃を敢行するか。いずれも、とうていリアリティあることではない。
「ミサイル攻撃を避けるために敵基地攻撃も先制攻撃も必要」といえば、相手国に日本に対する侵攻の口実を与えることにもなろう。平和を大切にする諸国民や国際世論とともに、常に敵を作らず、戦争を起こすことのない外交努力を重ねること、それ以外に国民の生活を守る術はない。敵基地攻撃能力の整備やら、軍備増強やら、核武装などもってのほかというしかない。
(2022年5月12日)
憂鬱である。まさかと思っていた戦争が勃発した。核兵器廃絶どころか、戦術核の使用がチラつかされる恐ろしさ。中国には強権政治が横行し、その改善の萌しも見えない。ウィグルや香港の情勢に胸が痛む。ミャンマーのクーデターは結局成功してしまうのか。そして、なんということだろう、フィリピンに「マルコス政権」の悪夢。日本の国内では、右翼・歴史修正主義者やポピュリストたちが我がもの顔ではないか。
私は、生来が楽観主義者である。だから、歴史を見る姿勢は「進歩史観」の立場であった。私がいう「歴史の進歩」とは、全ての人に自由と平等と豊かさを実現する方向への「進歩」である。行きつ戻りつのジグザグはあるにせよ、他者との共生の知恵ある人類である。その人類の社会が進歩し発展する方向に向かわないはずはない。全ての人にとって生きるに値する社会を形成する方向に「進歩」していくだろう。そういう楽観である。
私がイメージする進歩の指標軸は3本、人権・民主主義・平和である。この3本は、関連しながらも独立している。
「人権」擁護の進歩とは、公権力や社会的・経済的強者に対峙した個人の尊厳が花開いていくだろうということ。
「民主主義」の進歩とは、独裁や専制から、民主制・共和制への移行である。
そして「平和」の進歩。戦争の原因を排除し、戦争を違法化し、軍縮を進め、やがては武器をなくする。
ところがこの頃、本当に歴史は進歩するのだろうか、人類は進歩する知恵を持っているのだろうか。もしかしたら、退歩して亡びてしまうのではないか。そう、考え込まざるを得ない。
本日の朝日の社説が、「フィリピン 強権を引き継ぐ危うさ」と表題したもので、その中に、「勝ち取ったはずの民主主義が後退し、権威主義的な体制に変質する。東南アジアで憂慮すべき動きが広がっている。」という一節がある。憂慮すべき事態は、東南アジアにとどまらない。
歴史の進歩に抗しているのは、プーチンだけではない。天安門事件以後の中国こそ本家というべきであろう。もちろん、これまでのアメリカの諸悪の積み重ねも見逃してはならない。軍事クーデターを経たタイやミャンマー、そして一党支配のベトナム・カンボジア・ラオス。さらにそれらに加えてのフィリピンの新事態なのだ。
大統領選挙で圧勝したのが、フェルディナンド・マルコス。かつて独裁体制を恣にした悪名高い故フェルディナンド・エドラリン・マルコスと、その妻で3000足の靴を残したことで有名になったイメルダの長男である。
同国の大統領府を「マラカニアン宮殿」と呼ぶ。まだ生存しているイメルダは、同宮殿に『凱旋』することになると報じられている。そして、36年前に残していった自分の靴を取り戻すことになるのだろう。
独裁者マルコスは、1965年から20年余り政権を維持した。戒厳令を布告し、民主化を求める活動家らを容赦なく弾圧した。戒厳令のもとで1万人以上の市民が殺害・拷問などの被害を受けたとされる。アムネスティ・インターナショナルは、3200人以上が殺害されたと発表している。
この独裁者夫妻の不正蓄財は凄まじい。後に最高裁判所は「推計50億?100億ドル(約6600億?1兆3100億円)」と認定しているという。この、絵に描いたような独裁政権が、圧政に耐えかねた民衆によるデモによって倒された。歴史が進歩を見せた一コマである。ところが、再び「マルコス大統領」が誕生する。しかも、副大統領が、あの野蛮なドゥテルテ前大統領の長女なのだ。これは、悪夢以外のなにものでもない。
これがクーデターによる軍事独裁政権の誕生であれば、問題は分かり易い。しかし、新大統領は選挙という民主主義の手続によってその正統性を獲得しているのだ。この問題はより複雑で深刻である。いったい民主主義とはなんだろうか。
今回選挙では、マルコスの選挙運動手法に大きな問題がある。自分に批判的なメディアの取材には一切応じず、候補者討論会にも参加しなかった。もっぱら一方通行のSNSでの発信による選挙運動であったという。そのような候補者を国民は選任したのだ。
国民の主権者としての意識が成熟しなければ、民主主義は形骸化するばかり。歴史の進歩とは、実は、人の意識の進歩なのだ。人が進歩することに、楽観的でいられるか。平和も民主主義も自由も平等も、百年河清を待たねばならないのだろうか。憂鬱は続きそうだ。
(2022年4月26日)
NHKと森下俊三経営委員長の両名を被告として、NHKの報道と経営の姿勢を問う《NHK文書開示請求訴訟》。その第3回口頭弁論が、明日・4月27日(水)14時から東京地裁103号法廷で開かれます。
法廷では、原告主張の要約をパワーポイントを使って、原告代理人が説明いたします。ぜひ傍聴をお願いいたします。
なお、傍聴券の配布は1時20分からとされています。1時20分までに地裁庁舎入り口での抽選に参加すれば、おそらく全員が傍聴可能です。万が一、満席で入廷できなかった方は、参議院議員会館102会議室で、15時30分開会の報告集会にご参加下さい。こちらでは、詳しい資料を配付し、法廷よりも時間をたっぷりとって、パワポの解説を繰り返します。
この訴訟は、興味津々の進行となっています。これまで意図的に隠蔽されていた問題の経営委員会議事録(「NHK会長を厳重注意した会議の議事録」)が、明日の法廷の進行次第では、NHKのホームページへの公表が実現することになりそうなのです。そうなれば、この提訴の大きな成果です。ぜひ、この法廷の進行にご注目ください。
放送法第41条は、経営委員会委員長(被告森下俊三)に経営委員会議事録の作成と公表を義務付けています。この「公表」の実行は、NHKがそのインターネットホームページ(NHKの公式サイト)に掲載して、視聴者の誰もが閲覧できるようにすることになっています。NHKは、4月22日提出の準備書面において、経営委員長(被告森下)の指示さえあれば、ホームページへの掲載に何の差し支えもないことを明言しています。
放送法で義務付けられている経営委員会議事録の公表がなぜ実現しないのか。その責任は、NHK執行部にではなく、もっぱら被告森下俊三の側にあることが明白になりつつあります。放送法32条2項によって禁じられている番組編成に対する露骨な介入の違法を隠蔽しようとしていたことが明らかになっていると言って差し支えないからです。法廷では、この点をパワーポイントを使って、原告代理人が説明いたします。
「クローズアップ現代+」の「かんぽ生命保険違法勧誘問題」報道に端を発した「会長厳重注意の議事録」隠蔽は、放送法違反の違法行為を重ねた被告森下俊三の責任だけでなく、これを選任した政権の責任問題が浮かび上がっています。
なお、簡単に、これまでの経緯を確認しておきます。
本件の原告となった110名は、NHKの報道姿勢を正す市民運動に参加してきた者として、「かんぽ保険違法勧誘問題」報道に対する日本郵政グループ幹部からの介入とこれに呼応した経営委員会の動きにを重大視し、先行する経営委員会議事録開示請求に対するNHKの不開示決定を許せないと考えました。
そのため、「もしまた、NHKが議事録を不開示とするときには文書開示請求の訴訟を提起する」ことを広言して、「文書開示の求め」の手続に及び、所定の期間内に開示に至らなかったため、昨年6月14日に本件文書開示請求訴訟を提起した。その結果、ようやく7月9日に至って「議事録と思しき文書」(被告NHKはこれを「議事録草案」と呼んでいます)が開示されました。
おそらくは、これだけで大きな成果です。この「議事録草案」では、森下らが、日本郵政の上級副社長鈴木康雄と意を通じて、「クローズアップ現代+」の《かんぽ生命保険不正販売問題報道》を妨害しようとたくらんだことが浮かび上がっているからです。経営委員会の無法に、NHK執行部と番組作成現場が蹂躙されている構図なのです。結局は安倍政権以来、政権が関わる人事の全てがムチャクチャなのです。
もっとも、この「議事録草案」は、所定の手続を経て作成されるべき「議事録」ではありません。放送法41条では、「経営委員会委員長は、経営委員会の終了後、遅滞なく、経営委員会の定めるところにより、その議事録を作成し、これを公表しなければならない」とされていますが、そのようにして作成され、公表されなければならない議事録の開示はまだないことになります。
被告森下が、この「議事録草案」を適式な「議事録」であって、遅ればせながらも文書開示義務は履行済みだというのであれば、その議事録は「公表」されなければなりません。NHKの公式サイトに公表する決断が求められています。今さらこれを躊躇する理由は、天下に違法を知られたくないからという以外は考えられません。いまだに適式の議事録が作成されておらず、公表もされていないとすれば、森下の責任は重大です。
NHKが暴走することのないよう、放送法は、NHKの最高意思決定機関として経営委員会を置き、その重責を担う経営委員12名を「国民の代表である衆・参両議院の同意を得て、内閣総理大臣が任命する」という制度設計をしました。当然に良識を備えた経営委員の選任を想定してのことなのです。
ところが、この経営委員の選任が、安倍政権以来ムチャクチャというしかないのです。政権の思惑で送り込まれた、明らかな違法をして恥じない経営委員たちが、今回の事件を起こしているのです。この訴訟は、その問題に切り込んでいます。
ぜひとも、ご注目ください。
(2022年4月10日)
このところ鳴りを潜めているDHCと吉田嘉明だが、久しぶりにそのヘイト体質でメディアに話題を提供している。人権救済申立事件を受けた日弁連が、DHCに人権侵害ありと断定して、警告書を発したのだ。昨日(4月9日)の毎日新聞朝刊が、「DHC会長の差別文章掲載は『人権侵害』 日弁連が警告書」という記事を掲載している。大要以下のとおり。
「化粧品会社「ディーエイチシー(DHC)」(東京都港区)がホームページに在日コリアンを差別する文章を掲載した問題で、日本弁護士連合会は人権侵害に当たるとして、文章を出した創業者の吉田嘉明会長と同社に警告書と調査報告書を送り、差別的な言動を繰り返さないよう求めた。16年2月にも在日コリアンを差別する内容の文章を掲載していたという。
日弁連は警告書で、一連の文章は人格権を保障した憲法13条や法の下の平等を定めた14条にも反すると指摘。「出自を理由に差別され社会から排除されることのない権利、平穏に生活する権利を侵害した」と非難した。」
毎日は、日弁連に人権救済を申し立てていたNPO法人「多民族共生人権教育センター」(大阪市)の記者会見を切っ掛けに記事を書いているが、朝日は3月30日に記事にしている。「DHCと会長に警告書 日弁連、在日コリアンへの人権侵害と指摘」という見出し。なかに、次の言及がある。
「問題になったのは、同社が公式サイトで2016年以降に会長メッセージとして載せた文章。「帰化しているのに日本の悪口ばっかり言っていたり、徒党を組んで在日集団を作ろうとしている輩(やから)です」などと記した。20年11月にも吉田会長名で、「日本の中枢を担っている人たちの大半が今やコリアン系で占められているのは、日本国にとって非常に危険なことではなかろうか」などとする文章を載せた。
日弁連は今回、在日コリアンの排除を扇動していると説明したうえで、「蔑称を用いて在日コリアンを著しく侮辱し、悪質性の程度は強い」と指摘。1500万人以上の通信販売会員を抱える点も踏まえ、「私企業の代表者が私的領域で見解を述べたのではなく、公的領域での表現行為」と判断。一連の内容は在日コリアンへの人権侵害として、差別的言動をサイトなどに載せないよう警告した」
日弁連の警告書と、その理由の「調査・報告書」の全文は相当に長文だが、下記のURLを参照されたい。
https://www.nichibenren.or.jp/library/pdf/document/complaint/2022/220328.pdf
その結論部分が、下記のとおりである。
https://www.nichibenren.or.jp/document/complaint/year/2022/220328.html
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株式会社DHC・株式会社DHC代表取締役吉田嘉明氏宛て警告
2022年3月28日
株式会社ディーエイチシーが運営する同社のウェブサイトに、「株式会社ディーエイチシー代表取締役会長・CEO 吉田嘉明」名義にて、在日コリアン等について「チョントリー」「似非日本人はいりません。母国に帰っていただきましょう。」 「日本の中枢を担っている人たちの大半が今やコリアン系で占められているのは、日本国にとって非常に危険なことではなかろうか」などと「会長メッセージ」及び「ヤケクソくじメッセージ」を掲載したことは、憲法13条に基づく人格権として保障される在日コリアン等の出自を理由に差別され社会から排除されることのない権利、平穏に生活する権利を侵害し、また憲法14条の平等権保障の趣旨にも反し人権侵害にあたるものであるとして、株式会社ディーエイチシー及び同社代表取締役吉田嘉明氏へ警告した。
1 株式会社ディーエイチシーに対する警告の措置
在日コリアン等に対する差別的言動を、同社のウェブサイトを含む同社が製作・運営する各種媒体に掲載しないよう警告する。
2 株式会社ディーエイチシー代表取締役吉田嘉明氏に対する警告の措置
在日コリアン等に対する差別的言動を繰り返さないことを警告する。
なお、この人権救済申立て制度について、日弁連ホームページからの引用を中心に、若干の説明を付加しておきたい。
人権救済申立てとは(制度の概要)
日弁連は、弁護士法第1条(「弁護士は、基本的人権を擁護し、社会正義を実現することを使命とする。」)に基づき、さまざまな人権問題についての調査・研究活動を行っている。その中でも、人権擁護委員会では、人権侵害の被害者や関係者の方々からの人権救済申立てを受け付け、申立事実および侵害事実を調査し、人権侵害又はそのおそれがあると認めるときは、人権侵害の除去、改善を目指し、人権侵犯者又はその監督機関等に対して、以下のような措置等を行っている。
〔主な措置等〕
警告(意見を通告し、適切な対応を強く求める)
勧告(意見を伝え、適切な対応を求める)
要望(意見を伝え、適切な対応を要望する)
つまり、「警告」は、「勧告」や「要望」とは異なる「悪質性の程度が最も強く」 看過し得ない行為に対する厳重な措置ということなのだ。DHC・吉田嘉明は、深く肝に銘じなければならない。
ところが、日弁連の調査に際した問い合わせに対し、DHCは一切回答を拒んだという。また、この「警告」が発せられて以来のメディアからの対応の問い合わせにも、DHC広報部は「コメントは差し控える」としている。
DHC・吉田嘉明の体質は変わっていない。批判のないところでは本音を曝してヘイトを振りまいて恥じない。批判が強まると、こっそり撤回する。そして、けっして反省も謝罪もしようとはしない。ノーコメントで押し通す。およそ、腹の据わらない卑怯千万の振る舞い。
DHC・吉田嘉明が私を訴えた、6000万円請求の「DHCスラップ訴訟」でも、一貫して、自分の言に自ら責任をとろうという潔さのない行為。この点の詳細は、もうすぐ書物にまとめて刊行の予定。
ところで、DHC・吉田嘉明は、いつものように無反省・ダンマリ・ノーコメントではすまされないと言うことを知っているだろうか。
日弁連の人権救済申立事件に対する「警告・勧告・要望等」には、《執行後照会》という制度が附随してある。
「日弁連は人権擁護委員会による措置の内容を実現させるため、人権救済申立事件で警告・勧告・要望等の措置を執行した事例について、一定期間経過後(現在は6ヶ月経過後)に、各執行先(DHCと吉田嘉明)に対して、日弁連の警告・勧告・要望等を受け、どのような対応をしたかを照会(確認)しています。回答内容が不十分な場合、再度の照会を行うこともあります」ということなのだ。
DHCよ吉田嘉明よ。ヘイトやスラップやデマの姿勢を誠実に反省し謝罪せよ、二度と繰り返さないと誓約せよ。
そして、日本に居住する皆さんに訴える。こんな悪質な企業や経営者を、無反省のままにのさばらせいおいてはならない。消費者としての日常の商品選択で、DHC・吉田嘉明に反省を迫っていただきたい。
(2022年4月7日)
国立市で開催された「表現の不自由展東京2022」が、4日間の日程を無事に終えた。何ごともなくてよかったという安堵の思いとともに、この国の「表現の不自由」の現実を改めて思い知らされてもいる。
「表現の不自由展東京」は、当初は21年6月に予定されていた。しかし、右翼の街宣車による妨害によって会場側が貸し出しを拒否する事態となり、10か月も遅れての開催を余儀なくされた。今回も、「街宣抗議の中、警察官100人以上が警備態勢に」と報道された厳重な警戒の下、ようやく無事に終えることができたのだ。
この国には、天皇にヨイショする恥ずべき言論や、隣国に対する露骨なヘイトの言論、従軍慰安婦の存在を否定する歴史修正主義の言論の自由は保障されている。しかし、天皇を批判し天皇の神聖を否定する言論や、歴史修正主義を論難して隣国の平和運動との連帯を求める表現は、大きな制約を受けざるを得ない。この国では、表現の「自由」はあるべきところにはなく、あってはならない「不自由」がいたるところに立ちはだかっている。
我が国には日本国憲法があり、その21条は「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」と定める。保障されているのは、「一切の表現の自由」である。しかし現実には、「一切の表現の自由」が保障されてはいない。国民は、権力者や社会的強者、政治的社会的権威を、思うとおりに批判し得ない。この国は、けっして生き生きと表現の自由を謳歌している状態にはない。
「表現の自由」とは、言いにくいことを、言いにくい人に向かって、遠慮なくものが言えるということでなくてはならない。政権を批判する言論の自由を保障することには大きな意味があるが、政権におべんちゃらを言う自由の保障は意味をなさない。天皇や皇族を批判する表現の自由の保障は極めて重要であるが、天皇や皇族を敬語で語る表現の自由を保障する意味はない。
「表現の不自由展」・東京実行委員会は、そのホームページで「はじめに・ご挨拶」として、こう述べている。
https://camp-fire.jp/projects/view/556785#main
「芸術作品の展覧会を開催できない。表現を発表する場、鑑賞する場が保障されていない。今の日本社会は、私たちが生きていく上で必要不可欠な表現の自由が守られていない、そんな社会です。
日本社会に存在する、排外主義、性差別、植民地支配責任・戦争責任について改めて考えるきっかけを与えてくれるような作品をみなさんにぜひ観ていただきたいと考えています。2022年春、表現の不自由展・東京を実現させるために、ご支援・ご協力を募ります!」
下記の実行委員会の呼びかけにも耳を傾けたい。
「国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」における表現の不自由展展示中止事件は記憶に新しいかと思います。しかし、最初の表現の不自由展は2015年に遡ります。2012年5月に起きた新宿ニコンサロン「慰安婦」写真展中止事件、同年8月に起きた「慰安婦」をテーマにした2作品の東京都美術館による撤去事件を発端に、表現の自由が侵害されている現状を伝えたいという思いから、各地の美術館・公共施設などから撤去や規制を受けた作品を集め、「消されたものたち」の権利と尊厳の回復をめざして2015年1月、最初の表現の不自由展を開催しました。
それから約7年が経ちましたが、表現の自由が保障された社会になったといえるのでしょうか? 2019年のあいトリでの展示中止事件、2021年の東京・名古屋・大阪の表現の不自由展に対する妨害、会場の使用拒否、中断など、表現の自由が侵害される事件が相次いでいます。
しかし、暴力的な攻撃や妨害に屈しているだけでは表現の自由を守ることはできません。私たち実行委員会は平穏に展覧会を開催し、ご来場の皆さんに心おきなく作品を鑑賞していただきたく、2022年春、東京で開催するため現在準備をしています。開催するためには、警備、弁護団、会場確保などさまざまな経費がかかるため、今回クラウドファンディングで支援金を募ることにしました。」
この実行委員会の努力は、「連日満員、四日間で約1600人にお越しいただきました。」という成功につながり、「開催にご協力いただいた作家、地元市民、ボランティア、弁護士の皆さんに感謝します。表現の自由を保障するということの意味を、皆さんに考えてもらう機会になれば幸いです」という弁となった。
なお、今回の「不自由展」成功には、国立市の協力が大きく貢献している。その国立市は、ホームページに次の一文を掲載した。
くにたち市民芸術小ホールで開催される展示会
に関する市の考え方について
このたび、4月2日から開催される展示会(主催:表現の不自由展・東京実行委員会)について、市民の皆様から様々なご意見が市役所に寄せられておりますので、市としての考え方を、市民の皆様にお知らせいたします。
公の施設であるくにたち市民芸術小ホールの利用につきましては、指定管理者である「くにたち文化・スポーツ振興財団」が、条例・規則等のルールに基づいて承認決定したものです。施設利用については、内容によりその適否を判断したり、不当な差別的取り扱いがあってはなりません。これは、アームズ・レングス・ルール(誰に対しても同じ腕の長さの距離を置く)と、同じ考え方です。
市としましては、多様な考え方を持ったそれぞれの市民・団体が、法令に従い実施する様々なイベント・活動の場として、公の施設の利用は原則として保障されるべきものと考えています。
なお、他の地域で実施された同展示会の実績から、会期中混乱を生じる事が予想されますので、市民の皆様に安心していただけるよう、関係機関と連携し必要な対応をとってまいります。
ご理解のほど、よろしくお願いいたします。
表現の自由を実現することも、容易ではない。努力を重ねて、実績を積み上げなければならない。そのような努力をされた実行委員会と国立市に、敬意を表したい。
(2022年3月27日・連続更新9年まであと4日)
誰がなんと言っても言わなくても、もう春ですな。
世の中は三日見ぬ間の桜かな
銭湯で上野の花のうわさかな
今日が満開の、のどやかな上野の桜でございますが、あの上野戦争のときは、のどかどころではなかったそうですな。長州藩のアームストロング砲が、本郷台から不忍池を飛び越して寛永寺に籠もった彰義隊を吹き飛ばしましてな。上野は火だるま、そりゃあ江戸中エライ騒ぎだった。戦争は勘弁ですな。
太平洋戦争末期の東京大空襲でも、上野のまわりは焼け野原になりましてな。上野のお山には、たくさんの亡骸が埋っているんでございます。もう、戦争は絶対にやっちゃいけません。ありゃあ、人殺しで、火付けで、強盗なんですから。誰だって、殺されるのも、殺すのもまっぴらご免でしょ。
ところが、戦争やりたい人って、実はいるんですな。だから、戦争がなくならない。たとえばプーチンというお人。人殺しをなんとも思わない。戦争に勝てば歴史に名を残せるとでも思ってるんでしょうか。今年の桜はこの人のお蔭で、十分に楽しむことができない。
そして、プーチンと大の仲良しという安倍晋三というお人。戦争大好きという点でプーチンと同類で気が合うようですな。いつでも戦争ができるように、準備を進めておこう。そのためには、憲法を変えて、戦争できるように法律を整備して、軍事予算を増やして…、ナショナリズムを吹聴し他国民を差別して…、というたいへんな食わせ物。
こんな人に、日本の国民は9年近くも総理大臣をやらせていたんですから、情けない。このお人に面と向かって、「アベ、やめろ」と叫んだ立派な人もいた。そしたらどうなったか。警察に取り押さえられ、現場から排除されちゃったんですよ。勇気をふるって、立派なことを言ったばっかりに。3年前のことですが、日本って、所詮そんな国なんですな。
一昨日(3月25日)、札幌地裁で、この事件についての国家賠償請求訴訟の判決が出て、話題となっていますな。裁判所も捨てたものじゃない。たまにはですが、立派な判決も出す。
長い名前の「ヤジ排除訴訟札幌地裁判決に対する原告・弁護団声明」をご紹介しましょう。
「ヤジ排除訴訟」というのが、この裁判の名前。届出の制度があるわけではないから、訴訟の名前は自由に付けていいんですな。途中で変えたってよい。「安倍やめろ訴訟」でも、「安倍やめろと叫ぶ自由を求める裁判」でも、「安倍やめろと叫ぶ自由を圧殺した警察を糾弾する訴訟」でも、あるいは「安倍晋三に忖度して、『安倍やめろ』『増税反対』と叫ぶ表現の自由を蹂躙した警察を、安倍の代わりに道警を管轄する北海道を被告とする国家賠償訴訟」でもよかったんですが、寿限無のような長い名前は不便ですから、スッキリと「道警ヤジ排除訴訟」。総理大臣のヤジはみっともないが、庶民のヤジは有益で大切、排除なんてとんでもないというわけ。
「原告」はお二人。「安倍やめろ」「安倍かえれ」発言の30代の男性(原告1)と、「増税反対」と叫んだ20代の女性(原告2)。性別も年齢も、なんの意味もありません。意味があるのは、お二人とも憲法に保障された「表現の自由」を行使したということ。それも、最高権力者に面と向かって。最初は、男性一人の裁判だった。あとから、女性も裁判を起こして、併合されています。そして、「弁護団」は、正式には「道警ヤジ排除訴訟弁護団」。道内の弁護士8名での構成。いや、お見事。
声明は、冒頭でこう言っています。
「本日(3月25日)、札幌地方裁判所民事5部(廣瀬孝裁判長)は、2019年7月15日にJR札幌駅及び札幌三越前で参議院議員選挙の応援演説を行う安倍晋三元内閣総理大臣(以下「安倍元首相」という)に対して、「安倍やめろ」「増税反対」などと発言したことによって警察官らに排除された原告2名が北海道(警察)を訴えた国家賠償請求事件について、合計金88万円の支払いを認める判決を言い渡した。
この判決は、北海道警察による表現の自由への侵害を正面から認めた歴史的な判決である。」
3年前何が起こったのか。どんな裁判を提起したのか、そしてどんな判決が言い渡されたのか。これで、だいたい分かりますな。「声明」は、これに続けて「歴史的な判決」と評価する3点の理由をこう説明しています。
「本日の判決については次の3点を高く評価したい。
第1に、警職法4条及び5条を理由に警察官らの行為は正当化されるとの被告(警察側)の主張を明快に排斥し、警察官らの排除行為を違法であると判断した点は、当然のこととはいえ、正当な事実認定及び法適用を行ったものであり、高く評価する。
第2に、原告らのヤジをいずれも、「公共的・政治的事項に関する表現行為であることは論をまたない」と断じ、かかる表現の自由を警察官らが排除行為によって侵害したと認めた。これは、民主主義社会における表現の自由の重要性を明示した点において、本件の社会的意義について正面から向き合った判断を行ったものであり、この点も高く評価したい。
第3に、原告2(20代女性・当時学生)に対する警察官らの執拗な付きまとい行為について、原告2の移動・行動の自由、名誉権、プライバシー権の侵害であることを明確に認めた点も、警察官らの同様の行為を抑止する効果を有するものであり、この点もまた、高く評価したい。」
警察という実力組織が勝手なことを始めたら、官営の暴力団になってしまいます。その大親分が内閣総理大臣の安倍晋三。これは、洒落にもユーモアにもならない怪談噺。実際、その寸前だったわけですな。恐ろしいことではありませんか。警察は安倍晋三に十分喋らせるために、ヤジを即刻取り締まったんですぞ。
警察を国営暴力団にしない歯止めとして、警察官職務執行法がある。警察官は、この法律で決められたことしかやってはいけない。この裁判でも、警察側は「警職法4条及び5条に基づく権限を行使したもので、違法ではない」と言ったわけですが、何しろ白昼、衆人環視の中での出来事。たくさんのカメラが見つめていた。天網恢々動画が残されていたと言うわけ。判決は、警察側の言い分を詳細に動画に照らし合わせて検証して、全て否定しました。北海道新聞はこの点を「道警完敗」と見出しを打っています。
声明は、最後にこう言っていますな。
「市民が街頭において抗議の声をあげることは表現の自由として保障されている。特に、市民が政治家とのコミュニケーションをとる機会が限られている中、政治家の演説に対して直接抗議や疑問の声を届けることは、民主主義社会において重要な権利行使の局面である。民主主義社会において賛否両論があることは当然であり、一方の主張を警察権力を用いて封じ込めることは断じてあってはならない。
本日の判決は、北海道警察による排除行為が、警察権力による表現の自由の侵害であるとして、その手法を厳しく断じた。北海道警察はもとより全ての警察機関には、本日の判決を重く受け止め、違憲・違法な警察活動を繰り返さないことを求める。」
教訓とすべきは、不当なことには声を上げなきゃいけないということ。その権利が保障されていることは、この判決が明らかにしています。声を上げることなく自制を続けていると、声が出なくなる、権利が弱まる、権力者をのさばらせる、そして、戦争準備を加速させる。
この札幌地裁判決。本当の被告は、安倍晋三とこれに忖度した幹部警察官僚というもの。痛烈な安倍と安倍におもねる警察権力への批判。憲法が正常に機能した場面を見ることはまことに心強いものですし、多少は溜飲が下がる思いもいたします。今年の桜、美しく見直すこともできようというものでございますな。
(2022年3月22日)
最近落ち着かない。なんとなくウロウロ、という心もちなのだ。3・11のときもこんな感じだったが、あれ以来のこと。いま、戦争の惨禍が現実のものとなって人々を苦しめている。恐怖、飢餓、家族の離散、そして生命の危機。
ウクライナの市民の多くの命が奪われている。もちろん、兵士の命なら失われてもよいとはならない。ロシア兵の命も同じように大切だ。1000万人という難民一人ひとりの心細さを思う。胸が痛む。落ち着かない。
先月まで、マリウポリという都市の名さえ知らなかった。いまその街が、ロシア軍に包囲され、孤立無援の状態にあるという。住宅の8割は破壊され、35万を超える市民が電気や水の入手も困難な状況で息をひそめていると報じられている。ロシア国防省は20日、ウクライナに対し「マリウポリから軍を撤退させ、市を明け渡せ」と要求したが、ウクライナの副首相は21日、この降伏要求を拒否したという。落ち着かない。これからどうなるのだろう。降伏要求拒否でよいのだろうか。
私は生来臆病なタチで、「命がけで」「英雄的に闘う」とか、「愛国心」やら「民族の団結」などという勇ましい議論には馴染めない。そして、「戦争だから犠牲はやむを得ない」とか、「国家の立場から」「民族としては」「歴史を俯瞰すれば」という大所高所からの語り口にも、ざらつくものを感じてしまう。「国益を重視する立場からは…」という物言いには心底腹が立つ。
国家よりも、民族よりも、栄光の歴史よりも、一人ひとりの今が大切なのだ。何よりも命、自分と家族の命、そして安心、暮らしに必要な水・灯り・家・パンとケーキ・庭に咲く花・学校・病院・畑・山林…、その全てが一体となった平和、平和な暮らし。
しかし、言われるだろう。「個人の尊厳が最重要だとしても、国や民族が団結して英雄的に立ち上がらねば、今は個人の尊厳も守れない切迫した事態になっている」と。それはそうなのかも知れない。だから、そのことに腹を立てているのかも知れない。そんな事態に追い込んだのは誰だ。誰の責任なのだ。
ベルリンの壁が崩壊し東西冷戦が終わったとき、平和の世紀が幕を開けると思った。しかし、そうはならなかった。あれ以来、地域紛争、民族紛争、宗教戦争が絶えることなく頻発してきた。湾岸戦争、イラク戦争、アフガン戦争…。多くはアメリカの責任が大きかった。今や、世界の秩序が変わり、一強のアメリカに代わって、幾つかの大国が悪役を演じる時代となった。
どうすればよいのやら。平和への道筋は見えてこない。だから、落ち着かない。胸が痛んで、ウロウロするばかりなのだ。一つだけ、心に留めておこう。平和を願う声を発信し続けよう。そして、この機に乗じて、非核3原則を揺るがせにしたり、9条の理念を攻撃する動きに、断乎として抵抗しよう。せめて、そのくらいの決意を固めよう。うろうろしながらも。