(2022年8月20日)
キシダだよ。「聞くだけ」が得意技の日本国首相さ。私の耳は、生まれつき指向性が強いんだ。党内派閥から漏れ来るささやき声はよく聞こえるが、庶民の叫びは聞くフリしてるだけ。聞こえてはいるんだが、得意の「聞くだけ」。それでも、安倍晋三よりはずっとマシだろう。
それにしても問題山積だ。溜息が出るね。世は安倍国葬反対一色じゃないか。それに、統一教会と自民党との癒着糾弾だ。本音を言えば、これ魔女狩りじゃないのか。それを自民党政治本質の表れとされていて反論できないから、困るんだ。加えて、物価高。おさまらないコロナ禍。東京五輪汚職。原水禁問題も、戦没者追悼の式辞も悪評この上ない。全てが裏目だ。
選挙で勝ったことと、夏季休暇のゴルフは楽しかったな。いつまでも気楽に過ごせたらいいのに、どうしてこんなことになっちゃったんだ。国葬決めたときはうまくやったと思ったが、あれがケチの付き始めだった。統一教会問題が出てきたから、先手を打って「疑惑一掃内閣」への改造人事をやった。ところが、これが却って失敗、火に油を注ぐ結果となってしまった。あ?あ、もっと野党や庶民の声も聞いておけばよかったんだ。
こういうときは何もかもうまく行かない。野党は、「安倍国葬反対」集会で勢いづき、「臨時国会を開いて審議をすべきだ」なんて鼻息が荒い。山添議員は調子に乗って「(岸田首相の)聞く力はどこにいったのでしょうか。みんなで声を上げて国会を開かせましょう」なんて言ったそうだが、いま国会開いていいことないだろう。ここは慎重に構えなければならない。
野党議員が、憲法53条に基づいての臨時国会の召集要求があったのは、一昨日(8月18日)だ。立憲・共産・国民・れいわ・有志の会・社民の6党・会派によるもの。衆院議員では126人の連名。参議院では77名。「臨時国会召集は、憲法53条に基づくもので非常に重い」「山積する諸問題に、総理の説明が必要だ」と言われると、その通りなのだから頭が痛い。
ともかく問題を先送りして、なんとか国葬を終えてしまえば、世の中の空気も変わるだろうと思うのだが、これがうまく行かない。国葬実施の責任者・首相補佐官の森昌文にスキャンダル発覚だ。彼は、各省庁の担当官僚を束ねる「葬儀実行幹事会の主席幹事」というトップの立場。昨日(8月19日)の『NEWSポストセブン』は、この国葬責任者である森が、過去に乱交パーティへ参加していたと報じた。
かつて、「ノーパンしゃぶしゃぶ」事件が世を騒がせた。大蔵省の監督下にある金融機関が大蔵官僚の接待に、歌舞伎町のいかがわしい店を使っていたのだ。これが1998年のこと。森昌文(当時国交省官僚)の事件は2007年6月のことだという。15年前のこの事件が、今になって大きく報じられることとなった。当時も報道はあったようだが、彼の名前は出なかったという。それが、地中に埋まった地雷のように、今爆発というわけだ。安倍国葬呪われているとしか言いようがない。
この記事のとおりなら確かにひどい。「森氏は、当時参院議員だった大仁田厚氏主催の乱倫パーティに参加していた。会には複数のAV女優とキャバクラ嬢、コンパニオンなどの女性7人と、森氏、大仁田氏を含む男性3人が参加。大仁田氏がAV女優の一人に『2人を遊ばせてやって』と伝えると、森氏は女性と個室に消えていったと報じられている。その後も、女性陣の服を脱がせようと男性陣で『脱げ! 脱げ! 脱げ!』と煽り立てるなど、乱痴気騒ぎを繰り広げていたという」「森氏は、同誌の直撃に対し、『参加はしましたけど、乱痴気な会合ではない』『なぜ女性が脱いだのか、私が解釈することじゃない』などと話しているとも伝えられた。」
こんな反響も報じられているのか。
《こういう人物が日本の総理大臣を補佐してるんだな…。そして国葬の責任者としてふさわしいと、考えられているんだな…》《国の恥でしょ》
《あ?あ今度は破廉恥か 官邸や大臣やまともなのがいない》
《安倍国葬と破廉恥国葬担当者、お似合いの取り合わせでは》
山積した問題の第一が、安倍晋三の国葬問題に逆風が吹いていることだ。この風、しばらく吹きやみそうにない。もっと強くなれば、私の政権を吹き飛ばしかねない。これは、安倍晋三の不徳の至すところなのか、それとも国葬を決めた私の不徳なのだろうか。
愚痴を言ってもおられない。頼みは、世論の風向きを変えることだ。だれか、その役を引き受けてくれないだろうか。こんなときに役立つだろうと普段引き立てている御用学者諸君よ、なんとかならないか。常々、寿司を食わせ、会食を共にしてニュースのネタをくれてやっている御用ジャーナリストの諸君、今こそ恩返しのときではないかね。そして、いつも反共と親権力をウリにしている御用評論家の諸兄姉よ、よろしくよろしくお願いしたい。
(2022年8月17日)
風の動きが目まぐるしく変わる。あのとき、今日の風は読めなかった。明日の風はどうなることやら。
7月8日、安倍晋三が銃撃を受けたとの報は衝撃だった。一瞬のことではあったが、政治的テロの時代到来かという暗澹たる思いを拭えなかった。何よりも、模倣犯や報復テロが続くことを危惧した。ややあって、「悲劇の政治家安倍晋三」という偶像化と参院選への影響を心配した。そのような風が吹いてきたのだ。
右から左への強い風が吹くなかでの参院選の投票日を迎えた。自民党とりわけ右派にとっての追い風、野党には逆風の厳しい選挙。案の定、与党が圧勝し野党は大きく議席を減らした。余勢を駆って、岸田内閣は安倍国葬を決めた。この風向きに乗じて、さらにこの風を確固たるものにしようとの思惑からである。
この風は、安倍と安倍政治を美化する方向に吹いていた。安倍の政治路線に国政を引き込み、憲法改正も実現させかねない風となっていた。
ところが、この風は長く続かなかった。安倍晋三を銃撃した犯人の動機や背景が明らかになるに連れて、風はおさまり吹きやんだ。のみならず、やがて風向きが変わった。今度は、左から右へ。まったく逆方向への返し風。
安倍銃撃の衝撃に震撼した世論は、容疑者の安倍銃撃の動機報道に再び驚愕することになる。そして、あらためて統一教会というカルトの所業の悪辣さを思い起こし、その統一教会と安倍晋三との癒着の深さを知ることになった。こうして被害者であった安倍を悼む世人の心情は急激に冷めた。むしろ、安倍は、統一教会という反社会的団体と癒着する《反共右翼で権謀の政治家》というイメージを深く刻印されることになる。当然のことながら安倍国葬反対の世論が台頭し、過半を制した。
思いがけぬ事態に慌てた岸田内閣は、統一教会対策を主眼に内閣改造を前倒した。8月10日注目の中で発足した「統一教会関係者隠し」人事は失敗し政権への逆風は却って強くなった。
8月12日には、岸田改造内閣の副大臣と政務官計54人の顔ぶれが決まった。統一教会と接点をもっていた者は登用しないという触れ込みだったが、これも完全に期待を裏切り、教団と自民党全体との深刻な癒着関係があらためて国民に印象づけられた。杉田水脈の政務官採用など、今の時期にあり得ない「安倍人脈」への配慮優先が不信感を増幅させた。
現在、統一教会と自民党議員との関係に向けて、厳しい風が吹いている。これは外堀を埋めている段階。衆院議長細田博之も、国家公安委員長を務めた山谷えり子も、文科大臣を務めた下村博文も、そして萩生田光一も、井上義行も、杉田水脈も、外堀に位置する。その風が、いま本丸に近づきつつある。統一教会と安倍晋三との癒着こそが本丸であり天守閣である。ここに切り込まねばならない。
ジャーナリズムの諸賢にお願いしたい。これから、本丸を攻めなければならない時期に来ている。そうして初めて、政権が安倍晋三を通じて統一教会をどのように擁護していたのかも、明確にすることができるだろう。既に、安倍晋三は世にない。安倍晋三に近い位置にあった人々も、安倍に対する忖度は不要となつている。徹底して、真相を明らかにしていただきたい。そのことによって、安倍国葬は撤回を余儀なくされ、日本の民主主義は再生することになる。
なお、統一教会と安倍晋三を結ぶものは、反共という黒い糸である。反共という大義を共通にする統一教会と安倍晋三、この両者のイデオロギーの交流も明るみに出していただきたい。
是非とも今、この風向きが変わらぬうちに。
(2022年8月14日)
統一教会をめぐる一連の議論の中で、「この団体は本当に宗教団体なのか、実は反共を掲げる政治団体に過ぎないのではないか」という疑問が散見される。もちろん、このような団体に「信教の自由」を口にする資格があるのか、という問題意識を伏在させての疑問である。
しかし、結論から言えば、統一教会(ダミーやフロントも含めて)とは、「宗教団体でもあり、政治団体でもある」と言わざるをえない。もっとも、宗教団体性を認めたところで、刑事的民事的な違法行為が免責されることにはならない。この点での宗教団体の特権はあり得ない。
問題は別のところにある。宗教団体でもあり同時に政治団体でもある統一教会の、宗教性と政治性の結びつき方がきわめて危険なものと指摘されなければならない。
宗教的な熱狂は、時として信仰者の理性を麻痺させる。場合によっては圧殺もする。理性を喪失した信者が宗教指導者に心身を捧げ、宗教指導者がその信者を政治的な行動に動員する。場合によっては犯罪行為や軍事行動にまで駆りたてる。このような宗教の俗世への影響は、古今東西を通じて人類が経験してきたことであって、統一教会もその一事例である。
宗教的熱狂が信者を支配して反社会的行為に駆りたてるその小さな規模の典型を最近はオウム真理教事件で見たところであり、大きな規模としては天皇教という宗教が大日本帝国を支配した成功例から目を背けてはならない。
明治政府が作りあげた天皇教(=国家神道)は、天皇とその祖先を神とする宗教であり、同時に天皇主権を基礎付ける政治思想でもあった。現人神であり教祖でもあった天皇は、同時に政治的な統治者ともされた。大日本帝国は、日本国民を包括する狂信的宗教団体であり、その狂信に支えられた統治機構でもあり、さらに排外的な軍事的侵略組織でもあった。
恐るべきは、国民の精神を支配した天皇教の残滓がいまだに十分には払拭されぬまま、今日にも生き残っていることである。その典型を小堀桂一郎という人物の言説に見ることができる。この人、常に「保守の論客」として紹介される、東京大学名誉教授である。
真面目に読むほどの文章ではないが、一昨日(8月12日)の産経・正論欄の「この夏に思う 終戦詔書の叡慮に応へた安倍氏」という記事を紹介したい。
この表題における「安倍氏」とは、国葬を予定されている安倍晋三のこと。「叡慮」とは、敗戦の責任をスルーした天皇裕仁の「考え」あるいは「気持」、ないしは「望み」であろうか。その、ばかばかしい敬語表現である。「応へた」は、誤字ではない。これもばかばかしい、旧仮名遣いへのこだわり。結局、「安倍晋三とは、裕仁の期待に応えたアッパレなやつ」というのがタイトル。
少しだけ抜粋して引用する。洗脳された人間の精神構造の理解に参考となろうからである。なお、このような、もったいぶった虚仮威しの文体は、内容の空虚を繕うためのもの。このようにしか書けない人を哀れと思わねばならない。
「昭和20年8月14日付で昭和天皇の「終戦の詔書」を奉戴(ほうたい)した事により辛うじて大東亜戦争の停戦を成就し得てから本年で77年を経た。
この日が近づくと自然に思ひ浮ぶのは、言々句々血を吐く如き悲痛なみことのりを朗読されたあの玉音放送である。承詔必謹の覚悟の下に拝聴した詔書の結びの節をなす<…総力ヲ将来ノ建設ニ傾ケ道義ヲ篤(あつ)クシ志操ヲ鞏(かた)クシ誓テ国体ノ精華ヲ発揚シ世界ノ進運ニ遅レサランコトヲ期スヘシ>のお訓(さと)しに対し、我々は胸を張つてお答へできるだらうか、と自問してみる事から戦後史の再検証は始まる」
「あの詔勅の核心をなす叡慮(えいりょ)に背く事の多い、恥づべき歴史を国民は辿(たど)つて来たのではないか、と慙愧(ざんき)の思ひばかり先立つ一方で、ふと思ひ返すと去る7月8日に何とも次元の低い私怨から発せられた凶弾を受け、不条理極まる死を遂げられた安倍晋三元首相の存在が俄(にわ)かに思念の裡(うち)に甦(よみがえ)つて来た。
安倍氏は疑ひもなく戦後の我が国に現れた政治家の中で最大の器量と志を有する人だつた。詔書に謂(い)ふ「世界の進運」に大きく寄与する事を通じて国体の精華を発揚する偉業を成し遂げた人である。氏にはまだ自主憲法の制定、皇位継承の制度的安定化といふ必須の大事業が未完のままに残されてをり、この二つを成就するための再登場が期待されてゐたのであるから、その早過ぎた逝去は如何(いか)に惜しんでも惜しみ足りない我が国の運命に関はる悲劇である。」
以下、小堀の「皇国史観」「排外ナショナリズム」「軍事大国化願望」「反中論」が臆面もなく綴られる。「平成4年には宮沢喜一内閣が、我が天皇・皇后(現上皇・上皇后)両陛下に御訪中を強ひ奉るといふ不敬まで敢(あ)へてした。」などというアナクロニズムまで語られている。
何しろ、「天皇のお訓(さと)しに対し、我々は胸を張つてお答へできるだらうか、と自問してみる事から戦後史の再検証は始まる」という、嗜虐史観。この人にとっての天皇は、オウム信者にとっての麻原彰晃、統一教会信者にとっての文鮮明と基本的に変わるところのない、聖なる存在であり、絶対者なのだ。
このような偏狭な天皇教信者の精神構造は、日本国憲法の理念を受容し得ない。そんな人が、統一教会とのズブズブを批判されて窮地に立つ安倍や岸田を援護のつもりの論稿なのだろうが、逆効果が必至。何とも虚しい。
確認しておこう。宗教的な熱狂は、時として信仰者の理性を麻痺させ、反社会的な行為に走らせる。この危険に敏感でなくてはならない。天皇教においても、オウムにおいても、そして統一教会においても。
(2022年8月13日)
産経新聞の「主張」(社説)には、その芬々たる産経らしさが鼻について違和感を覚えることが常である。が、昨日(12日)の「主張」(以下に抜粋)には、産経色が希薄で何とも常識的な内容。読むのに違和感がない。産経さん、いったいどうなっちゃったの?
【主張】政治と旧統一教会 疑惑の教団と一線を画せ – 産経ニュース (sankei.com)
表題は、「政治と旧統一教会 疑惑の教団と一線を画せ」というもの。「一線を画せ」と注意をうながされているのは、文脈からは政権であり与党である。ふ?ん、産経までそう言うんだ。
「政府や政治家は、疑念を払拭できない教団とは明確に一線を画すべきである。まっとうな政治活動や政策まで白眼視される状況を深刻に受け止めなければならない。国民の信用、信頼を失えば、政治は前に進めない。
第2次岸田改造内閣が発足した。岸田文雄首相が旧統一教会との関係の有無を点検するよう指示し、『結果を踏まえて厳正に見直すよう厳命し、了解した者のみを任命した』と述べた陣容である。
同じ日、都内で会見した旧統一教会はこうした任命基準について『誠に遺憾』と述べた。だが、過去に霊感商法や洗脳による合同結婚式、高額の寄付などで多くの被害者を出した教団と明確に一線を画すべきは当然である。
複数の新閣僚からも旧統一教会との関係が報告された。国際勝共連合が旧統一教会の関連団体とは知らなかった―との弁明には耳を疑った。事実なら、政治家として不勉強、無知も甚だしい。
勝共連合は当初、反共を旗印に自民党右派や右翼団体と接触を図った。これは歴史的事実である。目的が近い団体との接近は自然なことだったろうが、表裏一体の教団による霊感商法などの反社会的活動が明らかになった時点で関係を断つべきだった。(以下略)」
産経らしさといえば、統一教会と自民党との癒着を「反共という目的が近い団体との接近は自然なことだったろう」と、過去のことのようにサラリと軽く流した表現をしている程度のこと。さすがに、下記のようには言わない。あるいは言えない。
「反共という大義を共通にする統一教会と自民党である。ともに手を携えて当然ではないか。とりわけ自主憲法制定を党是とする自民党の政策を統一教会が積極的に支援していることは、大局的見地から評価を惜しんではならない。統一教会側も会見で『当法人が霊感商法を行ったことは過去も現在もない』と述べていることでもあり、性急に両者の断絶を求めるのは禍根を残すことにならないか」
産経も、「疑惑の教団と一線を画せ」といわざるを得ない統一教会である。その教団の疑惑を十分に知り尽くしていながら、なお一線を越えて醜悪な癒着の関係を築いた政治家の筆頭が安倍晋三である。いま、何よりも問題にすべきは、そのような醜悪な政治家・安倍晋三の国葬が強行されようとしていることである。
岸田内閣は、新閣僚人事について、「旧統一教会との関係の有無を点検するよう指示し厳正に見直すよう厳命し」たという。それなら同様に、統一教会と安倍晋三との癒着の関係を徹底調査して、国葬の閣議決定を早急に「見直す」べきがスジではないか。
なお国葬の強行に固執しようということでは、政権の命運は危うい。産経主張の冒頭の一文を噛みしめるべきである。
「政府は、疑念を払拭できない統一教会とは明確に一線を画すべきである。安倍国葬に固執するあまり、まっとうな政治活動や政策まで白眼視される状況を深刻に受け止めなければならない。国民の信用、信頼を失えば、岸田政権の前途はない」
(2022年8月12日)
以下は官邸ホームページからの抜粋。組閣を終えての首相記者会見の一部。岸田はこう述べている。あるいは、こうとしか述べていない。このことを記憶しておかねばならない。
令和4年8月10日 岸田内閣総理大臣記者会見 | 総理の演説・記者会見など | 首相官邸ホームページ (kantei.go.jp)
いわゆる旧統一教会に関連する問題について申し上げます。
…信教の自由については憲法上保障がなされているものでもあります。しかし、社会的に問題が指摘されている団体との関係については、国民に疑念を持たれるようなことがないよう十分に注意しなければなりません。
国民の皆さんの疑念を払拭するため、今回の内閣改造に当たり、私から閣僚に対しては、政治家としての責任において、それぞれ当該団体との関係を点検し、その結果を踏まえて厳正に見直すことを言明し、それを了解した者のみを任命いたしました。
その上で、2点の指示をいたしました。
第1に、憲法上の信教の自由は尊重しなければなりませんが、宗教団体も社会の一員として関係法令を遵守しなければならないのは当然のことであり、仮に法令から逸脱する行為があれば、厳正に対処すること。
第2に、法務大臣始め関係大臣においては、悪質商法などの不法行為の相談、被害者の救済に連携して、万全を尽くすこと。これらを岸田政権として徹底し、国民の皆さんから信頼される行政運営を行ってまいります。
これに対する記者からの質問時間が限られまことに歯がゆかったが、以下の2記者の質問(抜粋)は、国民の疑問を代表するものであった。
(記者)東京新聞・中日新聞の金杉です。旧統一教会の問題についてお聞きします。首相は、この社会的に問題が指摘されるような団体との関係については十分注意しなければならないと発言されました。(しかし、)自民党は党として組織的関係はないとして各議員任せの対応で、党としての全体調査を行わないようですが、世論調査では政界との関わりについて実態解明の必要があるとの答えが8割に上っています。党総裁として、党として調査し検証し実態を解明する考えはありますか。
そして、選択的夫婦別姓やLGBTへの対応、改憲の内容など、旧統一教会と自民党の考えが重なるとの指摘もあります。旧統一教会が自民党の政策に与えた影響についてどう考えますか。
また、安倍晋三元首相は、旧統一教会の友好団体の会合にビデオで出演し、韓(ハン)総裁に敬意を表していました。この行動は問題があったと思いますか。
(記者)京都新聞の国貞と申します。安倍元総理の国葬についてお伺いします。各報道機関の世論調査などを見ていますと、反対の声というのが比較的多く、半数を超える人が反対というような世論調査もあります。全額公費負担することへの疑問の声も聞かれるわけです。
なぜ反対の声が一定程度あるのかということについて、総理はどのようにお考えなのかということを一つ聞きたい。
そして、もう一つ。近年の首相経験者のように内閣と自民党の合同葬にするとか、別の形での葬儀実施について、もう総理には検討の余地はないのでしょうか。
ここから先は、官邸ホームページに記載されたものではない。岸田も口にしていない。飽くまで、これが岸田のホンネだろうという私の憶測である。が、決して荒唐無稽なものではない。
(岸田総理)
まず、自民党と旧統一教会との関係については、御指摘のとおり、組織的関係はないという認識を従来から示させていただいています。組織的関係とは、内実の関係と必ずしも一致するものではありませんから、国民の皆様の目には、ズブズブの癒着とみられてもやむを得ないところです。このままでは、内閣支持率は下がるばかり。何とかしなければなりません。とは言え、諸々の事情があって、これまでお世話になりながら、突然失礼なこともできかねますし、それなりの配慮も欠かせないところです。
そのような観点から、党所属国会議員に対し、政治家としての責任において、当該団体との関係をそれぞれ点検し、その結果も踏まえて適正に見直す、こういった指示を行ったところであります。つまり、「統一教会との関係を断て」ということではなく、飽くまで「適正に見直す」ようにということです。「適正」とは、党や政権に迷惑がかからぬように工夫せよ、用心せよということ。多分それで、今後も統一教会には選挙の折などに貴重な手助けを得ながら、国民の批判をうまく切り抜けられると考えています。
そして、統一教会の考え方が自民党の政策に影響を及ぼしたのではないか、こういった指摘でありますが、旧統一教会の政策が不当に自民党の政策に影響を与えたとは認識はしておりません。飽くまで、両者が同じ政治的見解を共有していたということなのです。とりわけ、統一教会は「反共」を掲げる点で、岸信介氏や安倍晋三氏と深い同志的関係にあったのですから、統一教会が一方的に自民党に影響を与えたのではなく、相互に思想も政策も深く共鳴し合ってきたものです。選択的夫婦別姓やLGBTへの対応、改憲内容の一致などは、そのような共鳴関係の所産の一部だとご理解ください。
そして、安倍元総理がビデオメッセージを送ったということにつきましては、公式なコメントはスルーせざるを得ません。そりゃあ、安倍さんまずいことやったに決まっていますよ。でも、その人の国葬をやろうというのですから、まずいことやったなんて言えるはずはない。その点はご了解を。
敢えていうなら、このメッセージは、当時の安倍元総理が常々考えておられるところを吐露されたものと理解しております。とうてい、統一教会との関係を断ち切れなどということは無理。でも、今後は国民にの皆様にはできるだけ早く忘れていただくよう、手立てを尽くしたい。それが「見直し」の目的であると認識しております。
(岸田総理)
安倍元総理の国葬儀については、御指摘のようにいろいろな意見があるということ、これは承知をしております。国費からの支出についても御指摘がありましたが、国葬儀の具体的な規模、あるいは内容については、今、正に検討中であります。こうしたものもしっかりと明らかにしながら、今後様々な機会を通じて丁寧に説明を続けていきたい。これが政府の基本的な方針であります。
ご質問の第一点は、「国民の中の国葬反対の声が大きくなっている理由をどのようにお考えなのか」ということですが、この質問はスルーです。私は都合の悪い質問は聞こえない振りをしてお答えしないことにしています。これもその一つ。
だってね、答えようがない。「そりゃ、安倍さんの生前の政治姿勢を冷静に国民が思い出してきたからでしょ」なんて言えますか。「安倍さんが銃撃されて亡くなるというその衝撃に乗じての国葬決定」「安倍さんへの批判はしにくい雰囲気の醒めないうちに国葬をやってしまおう」「国民意識の誘導に成功したはずが、思いもかけぬ統一教会問題が批判材料となっての安倍批判」「その安倍批判が、自民党批判や岸田内閣への批判へのとばっちり」なんて口にできるはずがない。だからスルー。
そして、「国葬ではない別の形での葬儀の実施は検討の余地がないのか」というご質問。
「国際社会が様々な形で安倍元総理に対する弔意や敬意を示している、こうした状況を踏まえまして、我が国としても故人に対する敬意と弔意を国全体として表す儀式を催し、これを国の公式行事として開催し、その場に各国代表をお招きする、こうした形式で葬儀を行うことが適切であると判断をしたところであります。」
えっ? 記者さん、これじゃダメですかね。回答になっていないというお顔ですね。でも、時間がありません。今日はこれまで。
いつか、またの日の、この次の機会に、きっと、できるだけ、丁寧に、しっかりと、ご納得のいくよう、ご説明をさせていただきます。本当に、かならず、この次の機会かまたはその次の機会に、今日ではなく。
(2022年8月11日)
昨日、岸田改造内閣発足。「逆風下の組閣」「ぱっとしない顔ぶれ」「統一教会癒着隠し失敗」「派閥均衡優先人事」…等々、評判は芳しくない。内閣支持率はさらに低迷することになろう。
この新内閣を象徴する人物は…やっぱり、山際大志郎。あなたが一番だ。岸田改造内閣というよりは、山際大志郎内閣が実は分かり易い。内閣全体の性格や雰囲気を山際がたった一人でよく語っているのだ。
この人、統一教会との関係を指摘されながらの留任である。統一教会との腐れ縁を批判されて、降ろされた有力閣僚が何人もいるにかかわらず、なぜ。厳重な身体検査がなかったからだ。いかにも、岸田内閣のいい加減さをよく表している。
「やや日刊カルト」の報道によると、この人、2011年11月に東京都大田区の区民ホールアプリコで、国際勝共連合、世界平和連合、平和大使協議会らによる『アジアと日本の平和と安全を守る全国大会』なる集会に出席した。2018年10月には神奈川労働プラザ多目的ホールで教団フロント組織が主催・後援した『アフリカビジョンセミナー』に山本朋広・前防衛副大臣と来賓出席した。2017年10月の幕張メッセでの1万人信者集会『Peace Loving Festival KANAGAWA』にも出席していた。その事務所スタッフが統一教会から派遣されているとも指摘されている。
この人、昨日までも、昨日からも、「新型コロナ対策担当」である。彼の記念すべき閣僚再任の日、新型コロナの猖獗は過去最高となった。この日の新規感染者は全国で新たに25万403人が確認された。1日当たりの新規感染者が25万人を上回るのは初めてである。死者は251人。重症者は前日から16人増えて597人となった。このコロナ対策の無為無策も、岸田内閣の性格をよく表している。
恐るべきは、この山際大志郎が、経済再生担当大臣として「新しい資本主義」実現に向けての政策実行を担当するのだという。これまで何をしてきたのかよく分からず、これから何をしようというのは、さらに分からない。もとより、「新しい資本主義」がなんであるかがさっぱり分からぬものである以上、「新しい資本主義」実現に向けての政策実行がなんであるかはだれにも分からない。何かをやってる振りを続ける以外にこの人のやることはない。思えば、安倍もそうだった。
さて、無名だったこの山際大志郎が一躍有名政治家の仲間入りをしたのは、今年7月のことである。昔のことではない。7月3日、青森県八戸市で街頭演説した際、こう言ったのだ。
「野党の人から来る話はわれわれ政府は何一つ聞かない。本当に生活を良くしたいと思うなら、自民党、与党の政治家を議員にしなくてはいけない」
これは凄い。山際の「われわれ政府」代表としての発言。あの安倍晋三の「こんな人たちに負けるわけにはいかない」発言と兄たりがたく弟たりがたし。岸田内閣の「聞く力」とは、こういうバイアスをもったものだったのだ。山際の政府を代表しての「野党の話は政府は何一つ聞かない」宣言を岸田内閣が追認するのか、否定するのか。山際を切らない限り、「岸田内閣の耳は片耳」なのだと理解せざるを得ない。そのような事態での山際留任なのだ。岸田内閣の正体を見極めるに十分ではないか。
それだけではない。山際大志郎には、「選挙費用の残金2962万円 全額の行方が不明」という名誉ある報道もなされている。
https://nordot.app/823399786595991552?c=776486672410263552
資料で調査が可能な2009年以降から直近2017年までの4回の衆院選における選挙運動費用収支報告書(要旨)によると、まず、2009年選挙の際420万5177円の資金を余らせた。ところが、自らが代表を務める政治団体「自由民主党神奈川県第十八選挙区支部」などにはこの余剰金が戻された記載がなく、約420万円の使途は不明のままになっている。
同様に2012年選挙では451万9034円、2014年選挙では308万8837円、2017年選挙では1781万5294円の選挙費用をそれぞれ余らせ、いずれもその全額の行方がふめいのままであるという。過去4回の選挙で行方不明の余剰金の総額は2962万8342円に達している。
さらに山際は、政治資金規正法違反疑惑でも、政治資金パーティーを巡っての収支報告書に虚偽記載があったとして、同区民ら156人が2022年6月8日、政治資金規正法違反の疑いで、山際らを横浜地検に告発している。
大した経済再生大臣である。まさしく、「われわれ政府」「われわれ岸田内閣」を代表するに、最もふさわしい政治家。しかも、よくこの人の所業を見つめ直すと、あの安倍晋三と、何とよく似ていることに驚かざるを得ない。もしかしたら山際大志郎こそ、安倍直系の政治家というべきなのかもしれない。
(2022年8月10日)
同期の弁護士から興味深い書類(PDF)を送信してもらった。メールは便利だ。そして役に立つ。
文科大臣下村博文(当時)による2015年8月26日付「宗教法人世界基督教統一神霊協会」の規則変更認証に関わる決裁文書と添付書類の写。総枚数26ページの相当のボリューム。こういうものがあると、俄然血が騒ぐ。その表紙が以下のとおり。
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衆議院議員 宮本徹議員事務所 御中
平素より文化行政への多大なる御支援を賜り、深く御礼申し上げます。御依頼のありました以下の資料を提出いたしますので、御査収ください。
〈提出資料〉
2015年8月に、「世界基督教統一神霊協会」から「世界平和統一家庭連合」への名称変更を認証した決裁文書
なお、御依頼の「新管理簿:世界平和統―家庭連合、作成・取得年度:2015年、文化庁、大分類:宗教法人、中分類:認証・届出(平成27年度)」の文書ファイルは保存期間中であり、現に保有しているため、文書管理廃棄簿は作成しておりません。
また、応接録につきましては、現在確認中であるため、おって御連絡させていただければと存じます。(以下略)
文化庁宗務長長
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○法人について
法 人 名 :宗教法人「世界基督教統一神霊協会」(キリスト教系・単立)
主たる事務所所在地:東京都渋谷区松濤(以下略)
代表役員:徳野英治
設立認証:昭和39年7月15日
○規則変更理由
黒塗り(マスキング)
○主な変更内容
宗教法人の名称の変更。
○参照条文:宗教法人法(昭和26年法律第126号)(抄)
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本年7月26日に文化庁宗務課長から日本共産党宮本徹議員に開示された「決裁文書」と添付資料。今、世の関心を集めている統一教会の名称変更認証手続についてのもの。おそらくは、8月5日の野党合同ヒアリングでの前川喜平に対する質疑の準備として入手したものだろう。
8月6日付赤旗報道での前川発言は以下のとおり。
「私は、文部科学大臣だった下村博文さんの意思が働いたことは100%間違いないと思っているが、誰が圧力をかけたのかということは分からない」「統一協会の名称変更の手続きについての(決裁文書に関連する)議事録や応接録は残っているだろうと思う」「(名称変更について)大臣のところまで説明したら、記録は普通残っている。廃棄しない限り、存在していたと思う」
また、認証申請を受理後、名称変更を断ることはできるのかと問われて、前川は「断れる」と答えている。
霊感商法で悪名を馳せた統一教会は、前歴隠しに宗教法人名の変更をはかった。多くの人がそう思い、私もそう確信している。正式名称の変更は、「世界基督教統一神霊協会」から「世界平和統一家庭連合」へ、というもの。変更前の「世界基督教統一神霊協会」の名称の中に、「基督教」があり「神霊」がある。だれが聞いても、これは宗教団体の名前である。しかし、変更後の「世界平和統一家庭連合」には、宗教色を感じさせる用語が一切ない。ことさらに、宗教団体ではないというイメージを狙っての改称と考えるよりほかはない。安倍晋三流の言葉づかいでは、印象操作を狙っての名称変更の申請だったと考えられて当然なのだ。
しかし、この名称変更の実現は容易ではなかった。行政現場での抵抗に遭遇したからである。まだ安倍晋三政権ができる以前、官僚が健全だった時代のこと。忖度という政治文化は育っていない。悪名あまりにも高い統一教会の名称変更申請である。問題がないはずはない。霊感商法の悪名の高まりの対抗策として、前歴隠しを企んだのだろうと考えて理の当然。
1997年、旧統一教会側から名称変更の相談が寄せられた際、担当の文化庁宗務課長だったのが前川喜平。これも神のお導きだったのかも知れない。前川は「宗務課の中で議論した結果、実態が変わっていないのに名前だけ変えることはできないとして、認証できないと伝え、『申請は出さないでください』という対応をした。相手も納得していたと記憶している」と述べている。これは、行政指導の手法。統一教会側もこれを受け容れた。
だが、安倍政権の時代に事態は変わる。18年後の2015年6月に、教会側は名称変更申請の手続をし、行政はこれを受理した。当時、前川喜平は文部科学審議官、大臣、次官の次に位置する、省内ナンバー3という立場。当時の宗務課長から意見を聞かれて、認証すべきでないという考えを伝えた。にもかかわらず、下村博文は名称変更の認証をした。下村博文と言えば、安倍の側近として知られる、同じ穴の右翼政治家。前川がこの経緯を「『認証できないから申請を受理しない』という方針を一転し、受理して認証したので、前例を踏襲する役所の仕事からすると、何らか外部からの力が働いたとしか考えられない」「下村博文の意思が働いたことは100%間違いない」と言うことには説得力がある。
宗教法人の名称の変更は、宗教法人法28条1項の「規則」(会社の定款に相当)の変更として、文科大臣の認証を必要とする。認証には審査があり、可否両様の決定がありうる。
結論が正しかったか否かもさることながら、一連の経緯を明らかにしなければならない。安倍なきあとまで、安倍政治の負の遺産をまかり通らせてはならない。
まずは、不可解極まる「名称変更理由の全部マスキング」である。当面は、このマスンキングを外せという要求が重要である。本日の統一教会幹部の説明を聞いてもさっぱり分からないのだから。そして、議事録や応接録を全て公開していただきたい。
岸田改造内閣の、新文科大臣は永岡桂子だとか。馴染みのない方だが、是非、国民の政治への信頼をつなぐために、積極的な情報開示をお願いしたい。
(2022年8月9日)
皆さま、私が最後にお話しをさせていただきます。炎天下の真昼間ですが、もう少しの時間、耳をお貸しください。
政府は安倍晋三の国葬を行うことを決めました。閣議決定で日程は9月27日とされています。えっ? あの安倍晋三を国葬? 冗談も休み休みにしてもらいたい。これが、冗談ではなく本気というなら、「絶対反対」「国葬決定を取り消せ」と怒りの声を上げるしかありません。
そもそも葬儀とは、死者を悼む人たちが営む敬虔な儀式です。国葬とは、国が死者に弔意を捧げる儀式。とは言え、国には人の死を悼む心はありません。人の死を悲しむ感情も、死者に惜別を告げる言葉も、流す涙の一粒ももちあわせてはいません。それでもなお、なぜ国に葬儀をさせようとするのでしょうか。
それは、国を支配する者に魂胆があるからです。国が死者を悼むわけはなく、実は国民みんながこぞって、ある特定の死者を悼むという形を作ろうというのが国葬です。少なくとも国民の大部分が、この死者を悼む気持ちがあるというかたちづくり。そのような優れた人の生前の行いを讃え、国民こぞってその人の遺志を継ぎ、その優れた人が望んでいた国を作る決意を国民的な規模で再確認しよう。為政者がそんなことを企んだときに、ある人の死が、政治的に利用されます。それが国葬です。
とは言え、よりによって安倍晋三の国葬だとは。ばかばかしいにもほどある。こんな人が国葬にふさわしいはずはない。皆さん、安倍晋三とは何者であったか、安倍政治とはいったい何であったか、本当に、国葬に値する人物であったか、国葬に値する業績を残したのか。冷静に考えてみようではありませんか。
内政外交に安倍晋三が遺した業績は皆無と言ってよいでしょう。アベノミクスで格差と貧困を拡げ、アベノマスクで無能無策をさらけ出し、ウラディーミルのお友達としてどこまでも駆けて駆けて駆け抜けた人。
それだけではなく、彼は政治を私物化したとして悪名高い人物です。彼は、忖度という政治文化を蔓延させました。安倍政治とは、公文書の偽造・隠匿・改竄、ウソとゴマカシで特徴付けられ、彼はその民主主義後進国の小さな独裁者でした。国会答弁では明らかなウソを繰り返してきました。ウソつき晋三が国葬にふさわしいはずはありません。そして何よりも、彼は改憲論者でした。日本国憲法を敵視し、とりわけその平和主義をせせら笑って攻撃し、核共有論さえ語っていた人物です。とうてい、国民こぞってその死を悼むことのできる人物ではありません。
極端な保守や右翼と言われる人々の中には、心から安倍晋三の死を悼む気持ちをお持ちの方もいるでしょう。安倍晋三のお友達として本来あり得ない優遇を受けた人々の中には、安倍晋三の死を心底惜しむ人がいても不思議はありません。同志的な連帯意識をもって、日本の軍事大国化に邁進していた人たちや、安倍晋三いればこそ予算も取れたという防衛産業の幹部らなど、安倍晋三の死を悼み、惜しむ人々が集うて、心のこもった葬儀を行えばよいことではありませんか。国葬として、全国民に安倍晋三の死への弔意を強制することが許されてはなりません。
私は民主主義者ですから、社会の変革は国民の意識改革と選挙を通じて行われるべきと確信しています。暴力でてっとり早く政治を変えようという立場を決してとりません。政治的テロを厳しく拒否します。しかし、安倍晋三の死を政治的に利用しようというたくらみを許容することはできません。どのような死に方をしようとも、安倍晋三の生前の所業をごまかしてはならない。ウソつき晋三を国葬という化粧で塗り込め、その罪を覆い隠すことは、決して許されません。
安倍国葬は、安倍晋三の政治路線を美化しようというたくらみです。国民こぞって、非業の死を遂げた安倍晋三の遺志を継いで日本国憲法の改正を実現しよう、などという見透いた策動に乗せられぬよう街頭から「安倍国葬反対」と呼びかけて、ここ本郷三丁目交差点での本郷湯島九条の会の訴えを終わります。
(2022年8月8日)
安倍晋三銃撃という衝撃から1か月である。この事件、当初は政権政党に有利な風を起こすかに見えた。安倍晋三に「テロの犠牲者となった悲劇の政治家」「遊説中に凶弾に倒れた民主主義の犠牲者」などの虚像・虚名を冠して、その死が政治的に利用し尽くされることになるだろう、だれもがそう考えた。
国民が悲劇の安倍晋三を悼み、その死の政治的利用を可能とする風が一瞬だが確かに吹いた。その一瞬の間に参院選の投票が行われ、自民党が勝ち、野党が大敗した。さらに政権はこの風を頼みに安倍国葬を決めた。この風を大きく煽ろうという魂胆が見え見えである。この風を利しての改憲さえ可能と思ったのではないか。
しかし、その風は一瞬にして止んだ。本件の犯行は典型的な政治的テロではなく、安倍を撃った銃弾は、特定の政治思想を狙ったものでも、民主主義を撃ち抜くものでもなかった。銃撃犯と安倍晋三との関係は、政治的な確執でも思想的な対立でもなかった。
そもそもこの事件、犯人と被害者とを直接に結ぶ関係はない。銃撃犯と安倍晋三との間には、統一教会という反社会性顕著な反共団体が介在していた。これまで明らかにされている限りでのことだが、犯人は統一教会を徹底して怨み、統一教会と関連密接な存在としての安倍を銃撃したのだ。常識的にはわかりにくい構図だが、やや時を経て、世論はこの構図を理解した。そのことによって、保守勢力への順風が止んだのだ。世論のこの構図の理解の深まりは、風向きを変えつつある。国葬反対の世論の高揚が、岸田内閣支持率の低迷を招いている。
銃撃犯と統一教会と安倍晋三。この3者の関係図のうち、まず犯人と統一教会との関係が、分かりやすいものとして世論の理解を得た。統一教会とは、人をマインドコントロールして精神を支配し徹底した経済的収奪に躊躇しない憎むべき組織。犯人は、統一教会によって家庭を破壊され不幸に陥らしめられた哀れな被害者。そのように世論が理解するに難しいところはない。
問題は、統一教会と安倍との関係である。岸信介以来の自民党右派が反共という共通項で、統一教会・勝共連合と深い癒着関係を築いてきたことが、明らかにされつつある。そして、今参院選の候補者調整においてなお、安倍は統一教会の組織票と動員力を自分の手駒にして、党内政治における支配力を行使しているのだ。
統一教会と安倍との関係というピースがピタリと嵌まらないと、安倍銃撃の必然性は見えてこない。その全容はまだ十分に明らかとは言えない。しかし、安倍と安倍派が、永年にわたって、あの反社会的な教団と、こんなにもズブズブに癒着していたのかという衝撃は世論を大きく動かしている。「勝共連合」と自民、改憲草案に多くの一致点との指摘もある。
世論は既に安倍を「悲劇の政治家」と見ていない。山上徹也も「憎むべき民主主義の敵」ではなくなっている。安倍国葬は、却って現政権の安倍政治美化の思惑を炙り出し、安倍の数々の悪行を思い起こさせる動機となっている。「安倍晋三とは、本当に国葬に値する政治家だったのか。安倍政治とは、国葬に値するものなのか」と、立ち止まって考えざるを得ないからだ。
反論できない死者を批判することは、死者を鞭打つに等しく社会常識を弁えた大人のすべきことではないとされる。だからこそ、安倍の死は現政権にとって政治的利用が可能だと思われた。しかし、生死の如何にかかわらず、批判すべきはきちんと批判しなければならない。今は、そのような真っ当な雰囲気が世に戻っている。
たとえば、一昨日(8月6日)の毎日朝刊政治面の大型コラム「時の在りか」。 論説委員伊藤智永の「家業としての安倍政治批判」などはその典型であろう。
安倍政治を「家業」として捉える視点からのまことに辛口の批判である。さすがに筆を抑えての書きぶりではあるが、読みようによっては、安倍晋三とはこんなに軽薄で政治的には無能で嫌な人物と言わんばかり。事件の直後では、とてもこうは書けなかっただろう。
https://mainichi.jp/articles/20220806/ddm/005/070/006000c
その最後は、こう結ばれている。
「晋三氏の死は理不尽な遭難に違いない。だが、父祖伝来の縁ある宗教組織に自分の元秘書官の選挙応援を頼み、就職氷河期世代に逆恨みされた因果は、理解不能な不合理というだけでは済まされないわだかまりを私たちに残した。」
もちろん論者の本意ではないが、この結論はこうも読めるのだ。「晋三氏の死は本当に理不尽な遭難なのだろうか。父祖伝来の縁ある宗教組織に自分の元秘書官の選挙応援を頼んで就職氷河期世代に逆恨みされたという因果は、十分に理解可能というべきではないか」
あらためて思う。安倍晋三が遺した巨大な負のレガシーを徹底して見つめ直し、その清算をするところから、民主主義の再生をはからなければならない。今、それを可能とする風が吹き始めている。
(2022年8月7日)
昨日(8月6日)の東京新聞朝刊トップ記事が、「都教委も半旗掲揚依頼 安倍元首相葬儀 都立255校に文書送信」の大見出し。のみならず、22面と23面の「こちら特報部」に詳細な関連記事。その見出しを連ねてみる。
《安倍氏葬儀に都教委が半旗依頼 「政治的中立に反する行為」背景は?》
《弔意の「強制」 日の丸・君が代問題と同根》
《「教員、生徒たちへの刷り込み心配」》
《「特定の政党を支持してはならない」 教育基本法に明記しているのに》
《教育行政への侵食 安倍政権下で進行》
ネット記事では、もう少し見出しが増える。
《複数校が掲げる》
《都の担当者「強制したつもりはない」》
《政治的中立求める教育基本法に反する恐れ》
《東京以外にも相次ぎ判明》
《国の関与を疑う声も》
《「不当な支配」国が都合よく解釈し、介入》
https://www.tokyo-np.co.jp/article/194182
https://www.tokyo-np.co.jp/article/194189
一面トップの記事のリードは以下のとおり
「東京都教育委員会が先月12日の安倍晋三元首相の葬儀に合わせ、半旗を掲揚するよう求める文書を都立学校全255校に送り、現実に複数校がこれに応じて半旗を掲揚して学校として安倍氏に対する弔意を表明していた掲揚していたことが分かった。専門家は「政治的中立を求める教育基本法に反する恐れがある」と指摘。同様の依頼は川崎、福岡市などでも判明している。」
「特報部」のリードは以下のとおり。
「首都・東京の教育委員会が、安倍晋三元首相の葬儀の日に半旗掲揚を求めていたことが判明した。教育基本法の「政治的中立」に反する恐れを専門家は指摘するが、少なくとも全国7自治体の教委も同様の要請を行っていた。「弔意は強制していない」と口をそろえる様子から浮かぶのは、子どもや教師の権利に無頓着な教育行政の姿だ。こんな状態で、世論を二分する「国葬」を行って大丈夫なのか。」
以上の見出しとリードで、この記事の言わんとするところは十分に通じる。教育の本質に切り込んだ報道として高く評価しなければならない。東京新聞に敬意を表したい。蛇足ながら、東京新聞の見出しをつなげてみるとこんなところだ。
安倍晋三の葬儀というまったくの私的な行事に合わせて、東京都教育委員会が全都立学校に半旗を掲揚するよう依頼の通知を発し、現実にこれに従って複数の学校が半旗を掲げて安倍に対する弔意を表明したことが分かった。
安倍晋三と言えば、特定政党の特定政治主張に旗幟鮮明な復古主義政治家である。このような毀誉褒貶激しい政治家の私的な葬儀に学校が公的に弔意を表するのは、本来的に教育に要請されている政治的中立性に明らかに反する違法な行為である。教育基本法14条2項が「学校は特定の政党を支持してはならない」と明記しているのにどうしてこんなことになってしまっているのだろうか。
この都教委による学校現場に対する要請は、当局は否定しているが、事実上の「弔意の強制」にほかならない。生徒・教員の思想・良心の自由をないがしろにしている点で、同じ都教委が生徒・教員に、国家への敬意表明を強制し続けている「日の丸・君が代」問題と、同根と言わねばならない。
このような「教育行政が教育を侵食する本来あってはならない現象」は、安倍政権下で進行してきたもので、現場の教員は、あたかも安倍氏やその政治路線が正しいものであるような、学校という教育装置を違法に使っての生徒たちへの刷り込みの効果を心配している。
もとより教育は特定政治勢力によって支配されてはならず政治一般から独立しなければならない。また、教育が特定の政党や政治家を支持したり支援するようなことは絶対にしてはならない。そのことは、教育基本法に明記されているのに、教育は本来のあり方から、大きくねじ曲げらた現状にある。これは、政治が教育行政に大きく侵食してきた結果であって、このことは安倍政権下で進行してきた憂うべき現象である。同様のことが、都教委にとどまらず全国で生じているということから、国の関与を疑う声もある。教育基本法によって禁じられている「不当な支配」を、国が都合よく解釈して、「政治が行政に介入し、行政が教育に介入する」ということが常態化してしまっているのではないか。
何が最大の問題か。
通夜があった7月11日に都総務局が作った「事務連絡」は、半旗掲揚について「特段の配慮をお願いしたい」とし、11、12日の掲揚を依頼したものだという。これが、教育庁を含む各部署にメールで送られ、教育庁(都教委事務局)が都立高校や特別支援学校に転送した。
このことについて、都教委の担当者は「事務連絡を転送しただけで、掲揚するかは各校の校長に任せた。弔意を強制したつもりはない」と言う。この都教委の弁解に最大の問題点が表れている。いったい何が問題なのか、都教委はまったく分かっていないようなのだ。
教育委員会は自らが教育に介入することは厳に慎まなければならないというだけではない。その重要な任務として、教育を支配し介入しようという外部勢力からの防波堤となって教育を擁護しなければならない。
都の総務局が安倍の葬儀に半旗をという発想も批判されなければならないが、教育庁の特殊性を考慮せずに他と同様のメールを送信したことは不見識甚だしい。そして、これを各学校に転送した都教委は、明らかに任務違反である。これに従った校長の責任も厳しく問われなければならない。なんとまあ、この世には、忖度がはびこったものか。その元兇は、安倍晋三なのだが。