澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

ぞろぞろ出て来る問題発言議員 安倍と一蓮托生で一掃せよ

次世代の党とは、安倍政権の右側からの応援団。その存在自体で、「安倍よりもまだ右がいる」と相対化する役割を担っている。しかし、皮肉なもので、安倍の極右ぶりが次世代の存在理由を否定してしまった。

その結党が2014年8月1日、1年前のことだ。結党後初めて昨年暮れの総選挙で国民の審判を受け、選挙前には19あった衆議院の議席のうち、17議席を失って平沼赳夫と園田博之の2議席のみとなった。石原慎太郎も落選組の一人。ご同慶の至りである。

一度も選挙の洗礼を受けていない参議院には「6人も!」の議席が「まだ」ある。その内の一人が、来年改選期を迎える江口克彦である。同党の「両院議員総会長」という肩書。松下電器産業でどっぷりと企業の論理に浸かって生きてきた人物。

その江口が、「国会で『女性、扱いにくい』発言 次世代の党議員」と物議を醸している。

東京新聞の記事は以下のとおり。
「女性活躍推進法案を審議するために開かれた6日の参院内閣委員会で、次世代の党の江口克彦参院議員(比例)が参考人への質問の際に『女性は相手によってセクハラだとか、セクハラじゃないとか言ってくる』『女性社員は管理職になっても扱いにくいところがあると思う』などと述べた。女性への配慮を欠いた発言で、今後批判を浴びそうだ。
 江口氏は終了後の取材に『自分の会社経営者としての経験を基に、男女差別やセクハラはいけないと言いたかったが、誤解される表現があったならば不徳の致すところだ』と釈明した。」
「『気が合わない男性からハグされるとセクハラだと。もっとひどいのは握手するだけでセクハラだと』などと発言した」

「誤解される表現」という表現ぶりが、彼の「不徳」をよく表している。報道にも読者にもなんの誤解があるものか。ホンネを語って不徳の至りをさらけ出しただけのこと。おそらく、松下の社内では、「セクハラ」「パワハラ」の訴えがあっても、「たいしたことのないことを、特定の相手に対して大袈裟に言っているんだろう」と聞き流して、真剣に耳を傾けることはなかったのだろう。これが、前世代経営者の時代錯誤感覚。こんな感覚の政治家は、次世代の到来を俟たずに、速やかに淘汰されなければならない。

保守政治家の感覚の奇妙さ鈍感さの露呈には事欠かない。またまた、自民党の二人が今日の紙面を賑わしている。

「自民党の中川雅治参院議員(68)=東京=が、自身の公式ウェブサイトに載せた中学時代の体験に「いじめを正当化している」などとネット上で批判が広がり、当該記事を削除していたことが分かった。さらに同党の熊田裕通衆院議員(50)=愛知1区=も自身のサイトに載せた学校時代の思い出の記事を批判され、削除した。「炎上」の背景には、自民党の武藤貴也衆院議員が安保法制に抗議する学生を「利己的」などとツイッターで非難し、同党議員の発言への関心が高まっていたことがあるとみられる。

中川氏は自身のサイトで、義家弘介衆院議員、橋本聖子参院議員(ともに自民)との対談記事を5年ほど前から載せていた。この中で中川氏はいじめの問題を話題にし、中学時代にクラスで同級生が裸にされたことなどを紹介。記事は今月4日ごろからネット上で拡散し、「弱者を思う気持ちがない」などと批判が広がり、5日に記事が削除された。

中川氏は取材に「自分はやっていない。そういうことがあったのを見たということ。あっけらかんとしたもので、いじめとは思っていなかった」と説明。削除した理由は「誤解が広がったため」としている。

一方、熊田氏は公式サイトで、学校時代に仲間と女性教師をトイレに閉じ込めたという体験をつづり、批判が相次いだ。熊田氏は記事を削除し、サイト上に謝罪文を掲載。秘書は「議員は取材に応じられない」としている。」(毎日)

毎日が要約した、中川のウェブサイト記事は以下のとおりである。
「中学時代、クラスの悪ガキを中心に皆いつもふざけていて、小さくて可愛い同級生を全部脱がして、着ていた服を教室の窓から投げるようなことをよくやっていました。脱がされた子は素っ裸で走って服を取りに行く。皆でおなかやおちんちんにマジックで落書きしたりしました。やられた方は怒っていましたが、周りはこれをいじめだと思っていませんでしたね。今なら完全ないじめになり、ノイローゼになったりするケースもあるのかなあと思います。」

ここでも弁明は、「誤解が広がった」である。何をどう誤解したというのか、「イジメでないものをイジメと誤解された」とでも言いたいのか。イジメをイジメではないと誤解したのがオマエだろうに。

あらためて考えざるをえない。加害者と被害者とでとらえ方の違いである。足を踏まれた側の痛みが、踏んだ方にはわからないのだ。イジメの加害者は、被害者の心情を分かろうとしない。この中川という男は、「あっけらかんとしたもので、いじめとは思っていなかった」と平気で言ってのける。まったく被害者の心情を理解する感性を持たずに政治家となってしまったのだ。自分の感性を、あるいは感性の欠如を恥ずべきことと思っていない。人の痛みを理解できない者は政治家になってはならない。おそらく安倍晋三も同じ欠陥をもっている。このような感性が、侵略戦争や植民地支配における被害者の心情の理解を妨げており、反省も謝罪も拒否することになっているのだ。

私の関心は、鼎談の相手方だったという義家弘介と橋本聖子の反応にもある。義家・橋下ともに、自民党の文教族である。教育には一家言をもっていなければならない立場。このようなイジメ不感症男の問題発言には、ただちに叱責してしかるべきであった。少なくも、注意してたしなめるくらいはしなければならない。何もせずに、相槌を打っていたのだろうか。こんな連中が、道徳教育を論じたり、「日の丸・君が代」の強制政策を担っているのだ。

このところ、問題発言が目白押しである。話題となったのは、「マスコミ弾圧集会」で盛りあがった自民党37人衆。それに礒崎陽輔、武藤拓也、麻生太郎。そして、江口克彦、中川雅治、熊田裕通等々である。これに、義家弘介と橋本聖子を加えてもよい。

発言を批判されれば、「誤解」と弁明しながら、いとも簡単に撤回し黙り込む。その発言の軽さと無責任ぶりに呆れるしかない。常識も信念もなくその場限りの口先だけで世渡りをしているこんな連中が、多数決で政治を動かしている。違憲の法案成立の一票の頭数に数えられるのだ。

これら時代錯誤政治家の感性の貧しさは、目を覆わんばかりではないか。「安倍を倒せ」のスローガンは、このような安倍を支えている政治家についても、「もろともに倒せ」のことでなくてはならない。
(2015年8月8日)

水に落ちそうな安倍を打て

安倍晋三とは、日本国憲法に限りない憎悪をもつ人物である。憲法改正こそが彼の終生の悲願にほかならない。日本国の首相としてこの上なくふさわしからぬこの人物が首相の任についている。憲法擁護義務を負う首相であるにかかわらず、憲法の平和主義に敵意を露わにし、戦後レジームからの脱却を呼号している。9条の改憲が無理なら、議席の多数を恃んでの解釈改憲・立法改憲のたくらみに余念が無い。こうして安倍は特定秘密保護法を成立させ、今戦争法を成立させようと躍起になっている。

私たち国民の側の課題は、戦争法案を廃案に追い込むことと安倍内閣を打倒することの2点となっている。この2点は分かちがたく一体となった課題なのだ。澤地久枝の依頼によって金子兜太が筆をとったという「安倍政治を許さない」が時代のスローガンととして定着しつつある。許されざる安倍政治とは、あらゆる分野に及んでいるが、何よりも憲法を破壊し平和を蹂躙する「戦争法案」の成立を許してはならない。

安倍政権の危険性と、戦争法の危険性。その両者がともに国民の間に広く深く浸透しつつある。安倍政権にかつての勢いはない。相当のダメージを受けてふらふらの状態となっている。が、いまだにダウンするまでには至っていない。「水に落ちた犬は打て」というが、まずは水に落とさねばならない。ようやく水辺にまでは押してきた。もう一歩で水に落とすことができそうではないか。大きな世論の批判で、安倍を水に落とそう。

世論調査で、「戦争法案に反対」は圧倒的多数だ。しかし、これだけでは安倍政権に廃案やむなしと決断させるには十分でない。むしろ強行突破の決意をさせることになりかねない。政権の側に、「反対運動の高揚は法案の成立までのこと。法案が成立してしまえば、みんな諦めるさ」という国民への見くびりがあるからだ。

今は何よりも、安倍内閣の支持率を低下させることが重要だ。30%の危険水域以下となれば、水に落ちた犬状態といってよいだろう。

さらに、重要な指標が与党である自民・公明両党の支持率だ。安倍政権の支持率低下の顕著さに比較すると、自民党支持率低下の傾向はさほどではない。これに火がつけば、事態は大きく変わることになるだろう。今でも腰の引けている自民党参議院議員が、安倍を見捨てることになるからだ。法案を批判し、内閣を批判し、与党を批判する。このことによって法案を廃案に追い込む展望が開けつつあると思う。議席の数がすべてを決めることにはならないのだ。

安倍政権のヨタヨタぶりは、国立競技場建設計画の白紙撤回となって表れた。次いで、辺野古新基地計画の凍結である。仙台市議選での「自民党後退、共産党前進(3人トップ当選)」の結果も手痛い。8月6日広島平和記念式典での非核三原則言及せず問題もあり、70年談話も安倍カラーは押さえこまれそうな雲行き。TPPも思惑のとおりには行かない。埼玉知事選も、川内原発再稼働への風当たりも強い。そこに、礒崎や武藤のオウンゴールが重なる。安倍晋三、こころなし精気に欠ける。疲れ切った表情ではないか。相当にこたえているのだろう。

さらに今日になってのできごとだ。今月20日に告示9月6日投開票予定の岩手県知事選挙に立候補を表明していた、元復興大臣の平野達男参議院議員が立候補を取り消した。相当にみっともない戦線離脱なのだ。そして、政権への痛手である。

平野達男は、民主党政権の復興大臣との印象が強いが、今は民主党を離脱して無所属の参議院議員。今回は自民・公明の推薦で立候補表明をして、現職達増拓也との保革一騎打ちの構図が描かれていた。100万を超す県内有権者を対象に、自民・公明の与党連合と、民主・生活に共産までくっついた野党連合との票の取り合い。戦争法案の賛否を問うミニ国民投票の様相であった。

ところが、このところ自・公の評判がすこぶる悪い。自民党独自の最新世論調査シミュレーションでは、ダブルスコアの水が開いたという。戦争法案参院審議のヤマ場に、与党がダブルスコアで野党連合に敗北ではなんとも惨めなことになり、法案成立の大きな支障になる。「だから平野達男君、立候補はおやめなさい」と声がかかったのだ。結局は現職達増の無投票当選という白けた結果となる。

本日の平野の立候補記者会見では、平野はあけすけに「国の安全保障の在り方が最重要課題へと浮上し、県政の在り方が論点になりづらい状況が生じてきた」と述べたという。翻訳すれば、「知事選でありながら、戦争法案の賛否を問うワンイシュー選挙になりそうで、そうなれば自公に推された立場で勝てるわけがない」ということなのだ。

加えて、参議院議員である平野が知事選に立候補すれば、参院選の補選をしなければならない。これが10月になるが、この選挙も自公の衰退を天下にさらけ出すことになるというのが、「立候補はおやめなさい」のもう一つの理由だったという。ダブルの敗戦を避けて、不戦敗を選んだというわけだ。

これまでは、こう報道されていた。
「衆院での安保法案の強行採決に対する世論の反発が広がり、法案を推進する与党側にとって逆風となっている。県内各地であいさつ回りを重ねる平野氏も『法案に対する反応は厳しい。自民の支援をなぜもらったのかと聞かれることもある。国政と県政は別のことと説明すれば理解はしていただいている』と話す。参院で審議入りした安保法案について平野氏は『慎重な審議が必要』との考えだ。
一方、達増陣営は『法案は違憲』との立場を前面に出し、強行採決した与党陣営が推す平野氏と、反対の野党勢力の対立構図を強調する。達増氏は後援会の集会などで『県民が正しい選択をすることで国政も変えられる』と訴え、安保法案の是非を問う主張を繰り広げている。」(
朝日・岩手版)

明らかに、安倍と距離を置いた戦争法案反対がプラスイメージ、安倍にベッタリはマイナスイメージとなって、立候補すら見送らざるを得ないのだ。

9月6日投開票の岩手県知事選はなくなった。しかし、岩手県議選は同日投開票される。戦争法案推進勢力と反対勢力の票の奪い合いがどうなるか。100万有権者の審判を待ちたい。

岩手だけではない。アチラもコチラも、安倍に冷たく、憲法に暖かい風が吹いている。
(2015年8月7日)

安倍晋三 ヒロシマの憂鬱

1945年8月6日午前8時15分。広島に投下された原子爆弾が炸裂したそのとき。その時刻こそが人類史を二つに分ける瞬間である。これこそが人類史上最大の衝撃の事件。悲惨きわまりない大量殺戮。人類は、核エネルギーという、自らを滅ぼすに足りる手段を獲得したことを自らに証明したのだ。

その大事件から、今日がちょうど70年。広島の平和記念式典には55000人が参列した。海外からの参加も、過去最多の100か国を超えるものだった。

松井市長が核兵器を「絶対悪」と呼んでその廃絶を訴えた。
「人間は、国籍や民族、宗教、言語などの違いを乗り越え、同じ地球に暮らし一度きりの人生を懸命に生きるのです。私たちは『共に生きる』ために、『非人道性の極み』、『絶対悪』である核兵器の廃絶を目指さなければなりません。」

さらに注目すべきは次の一節である。
「今、各国の為政者に求められているのは、『人類愛』と『寛容』を基にした国民の幸福の追求ではないでしょうか。為政者が顔を合わせ、対話を重ねることが核兵器廃絶への第一歩となります。そうして得られる信頼を基礎にした、武力に依存しない幅広い安全保障の仕組みを創り出していかなければなりません。その実現に忍耐強く取り組むことが重要であり、日本国憲法の平和主義が示す真の平和への道筋を世界へ広めることが求められます。」

最前列に位置していた、安倍晋三の耳にはこう聞こえたのではないだろうか。
「今、日本の首相に求められているのは、『人類愛』と『寛容』を基にした国民の幸福の追求ではないでしょうか。けっしてナショナリズムの鼓舞でも近隣諸国の危険をあげつらう煽動でもありません。近隣諸国の為政者と顔を合わせ、対話を重ねることが核兵器廃絶への第一歩となります。そうして得られる信頼を基礎にした、武力に依存しない幅広い安全保障の仕組みを創り出していかなければなりません。けっして、武力に基づく積極的平和主義の鼓吹や、切れ目のない防衛体制の構築の宣伝ではないはずです。日本国憲法の平和主義が示す真の平和への道筋を世界へ広めることが切実に求められています。憲法の平和主義を蹂躙して集団的自衛権の行使を可能とする戦争法案を制定するなどは、戦争で亡くなった多くの人たちやそのご遺族の平和への願いを踏みにじる暴挙ではありませんか」

安倍晋三という人物、とてつもなく心臓が強い人なのだろう。それにしても居心地が悪かったに違いない。6月23日の沖縄全戦没者慰霊祭と同様、多くの参列者からの敵意を感じたことだろう。あのときには「何しに来たか」「戦争屋」「帰れ、帰れ」という罵声が浴びせられたことが話題となった。おそらく今日も同様の罵声を覚悟での式典参列だったろう。どのくらいの野次や罵声があったかはよく分からない。「戦争法案反対」「安倍内閣打倒」のスローガンを叫んだデモの洗礼は受けたようだ。

被爆者らが式典後の安倍晋三と面談した。被爆者側が、戦争法案について、「憲法違反であることが明白」「長年の被爆者の願いに反する最たるもの」として撤回を要望した。これに対して、首相は「不戦の誓いを守り抜き、紛争を未然に防ぐものであり、国民の平和を守り抜くためには必要である」と述べたと報道されている。また、首相はここでも「国民の皆さんの意見に真摯に耳を傾けながら、分かりやすい説明をしていく」と応えたという。

問題点が明確になってきた。松井市長が平和宣言の中で述べた「武力に依存しない安全保障」の考え方と、安倍首相のいう「専守防衛を越えた切れ目のない防衛力の整備こそが抑止力となって平和をもたらす」という倒錯した思考とのコントラストである。安倍流抑止論は、自国の軍事力は強ければ強いほど抑止力になって平和をもたらす。この考え方は、核こそが最大の抑止力であり、最大の平和の担保だとなりかねない。

あ?あ、ホントはボク、ちやほやされるのが大好きなんだ。無視されたり、罵声を浴びせられたり、「カエレ、カエレ」とやられるのは、相当にこたえる。そりゃボク戦争は好きだよ、だけど「戦争屋」って言われるのは明らかに悪口だから面白くはない。何しに来たかって? 職務上来ないわけには行かないんだ。部下の書いた原稿を読みに来ただけさ。あの原稿の中でボクの意見が反映されているのは非核三原則の言葉をはぶいたことくらい。核こそ究極の抑止力だもの。日本人の核アレルギーを少しずつ正常化しておかなきゃならない。少しずつ国民をならしていかなとね。でも、職務を離れたら二度とこんなところには来たくない。ホントは右翼の集会に行きたいんだ。そこなら、みんな仲間として温かく迎えてくれる。ちやほやしてくれるもんね。

東京に帰ってきたら、もひとつ、イヤなことが待っていた。ボクが見つくろって人選した「戦後70年談話・有識者懇談会」の報告書だ。ボクが本心大嫌いなことは知っているくせに、「侵略」や「植民地支配」なんて言葉が並んでいる。なんのための諮問なのか、あの連中わからんのかね。以心伝心とか、アウンの呼吸とか。分かりそうに思ったんだけど。もしかしたら、沈みそうな船に見切りをつけて、みんなボクの船から逃げだそうとしているのかな。なんだか、トモダチがだんだん減っていきて、淋しいし心細い。

ようやく広島の6日が終わったら、次は9日の長崎が待っている。少し前までは、「怒りのヒロシマ」「祈りのナガサキ」といわれたものだが、最近の長崎は遠慮がない。また何か言われるんだろうから、ホントは行きたくない。でも、行かないともっともっと叩かれる。ほんに、総理も楽じゃない。
(2015年8月6日)

これはもう、安倍政権の末期症状だ

「法的安定性は問題ない」と放言した礒崎陽輔はいったいなんのために参院特別委員会に参考人として招致されたのか。彼は、謝罪のために招かれたと心得ていたのではないか。謝罪の言葉を準備し、準備していた謝罪の言葉を述べて、これで一件落着とでも思っているのではなかろうか。ひととき頭を下げていれば、そのうち風はおさまるだろう。思い違いも甚だしい。

もちろん、加害者の真摯な謝罪が被害者の感情を癒すのに有効で有益なことはありうる。加害者の真摯な謝罪が、事態の混乱を収めて再発防止の出発点になることもしばしば経験するところではある。しかし、礒崎の確信犯的放言と口先だけの謝罪は、そんな類のものではない。

礒崎が参考人として招致されたことの目的は2点を明らかにするためであったろう。
第1点は、彼が首相補佐官として憲法法案の審議を担当する適性を欠いていることについての確認である。
2点目は、適性を欠いた補佐官を選任して用い続けてきた内閣の責任の確認である。

本日の委員会で、礒崎は「私の軽率な発言により審議に多大な迷惑をかけた。発言を取り消すとともに心よりおわび申し上げる」と陳謝したという。また、「法的安定性は確保されている。安全保障環境の変化を述べる際に、大きな誤解を与えた」と説明したともいう。発言を撤回して陳謝することによって彼の適性欠如が治癒されただろうか。そんな馬鹿げたことはけっしてあり得ない。

「軽率」とは、うっかりホンネを漏らしてしまったということ、適性の欠如を隠し通せなかったというだけのこと。その「軽率」によって審議を急いでいる内閣に「多大な迷惑」をかけてしまったというのである。「おわび」は審議を遅らせたことについてのものに過ぎない。彼は、「今後人前でホンネはもらさじ」との教訓を噛みしめているに違いない。

「法的安定性など無関係。重視すべきでない」というのは、この上ない非立憲の姿勢。違憲と問題視されている法案の審議を担当する資格はない。国民の側からは、礒崎の口先だけの謝罪など不要だ。必要なことは補佐官の辞任である。適性欠如が明らかになったのだから、即刻辞任すべきが当然だなのだ。

礒崎は「職務に専念することで責任を果たしたい」とも言ったそうだが、とんでもない。「今後は、憲法問題を取り扱う適性を欠いていることを上手に隠し通して、再びボロを出すようなヘマはしないから、職務を続けさせてくれ」と言っているのだ。こんなことが通じるはずはない。本人が自ら辞任するのでなければ、首相の責任が前面に出て来ざるを得ない。

参議院の礒崎に続いて、衆議院にもトンデモナイ議員が現れた。武藤貴也という若手が、礒崎に負けじとばかりに俄然話題の人になってきた。選挙区は滋賀4区。1979年の生まれだそうだが、この度初めてこの人物の発言を知ることになって驚愕した。そして考え込まざるをえない。単なる「滋賀の恥」というレベルの問題ではない。戦後教育の衰退が、こんな人物を育ててしまったのだ。こんな小さなモンスターの卵みたいなものが議会に巣くっていたのだ。背筋が寒くなる。

きっかけは、今や著名この上ない彼の「炎上ツィッター」だ。
「SEALDsという学生集団が自由と民主主義のために行動すると言って、国会前でマイクを持ち演説をしてるが、彼ら彼女らの主張は『だって戦争に行きたくないじゃん』という自分中心、極端な利己的考えに基づく。利己的個人主義がここまで蔓延したのは戦後教育のせいだろうと思うが、非常に残念だ。」

「戦争に行きたくない」という当然で切実な若者の声を、「自分中心、極端な利己的考え」とし、「利己的個人主義がここまで蔓延したのは戦後教育のせい」と憂いてみせる。

この男の頭の構造は、国民の権利の要求は、すべて「戦後教育がもたらした自分中心、極端な利己的考え」として斥けられることになるのだろう。労働組合活動を通じて労働条件の向上を求める労働者の要求も、生存権を保障せよという主張も、男女の実質的平等を求める運動も、思想良心や表現の自由に関わる要求も…、である。

これだけで驚くに十分だが、実は彼の普段の発言はこんな程度ではない。
彼は、「わが国は自主核武装するしかない」と公言する、核武装論者なのだ。
「いざとなったら、アメリカは日本を守らないと思っています。たとえ小規模な局地戦争でも一度戦端が開かれれば、戦争はエスカレートしていく可能性があります。大規模な戦争になれば、最後は核の使用にまで発展してしまうかもしれません。だから核武装国家同士は、戦争できないのです。」

だから、「戦争を回避し平和を維持するために核武装をせよ」というのだ。「積極的平和主義=武力による平和論」の行き着く先が核武装であることをなんとも軽くさらりと言っちゃうのだ。

それだけではない。日本国憲法全面否定論者である。安倍晋三のホンネを語る立場にあると言って良かろう。たとえば、次の如し。

そもそも「民主主義とは、人間に理性を使わせないシステム」である。民主主義が具体化された選挙の「投票行動」そのものが「教養」「理性」「配慮」「熟慮」などといったものに全く支えられていないからである。第一次世界大戦前は、民主主義はすぐに衆愚政治に陥る可能性のある「いかがわしいもの」であり、フランス革命時には「恐怖政治」を意味した。民衆が「パンとサーカス」を求めて国王・王妃を処刑してしまったからである。戦前の日本では「元老院制度」や「御前会議」などが衆愚政治に陥らない為のシステムとして存在していた。しかし戦後の日本は、ただただ「民意」を「至高の法」としてしまった。

私は「基本的人権の尊重」が日本精神を破壊した「主犯」だと考えているが、この「基本的人権」は、戦前は制限されて当たり前だと考えられていた。全ての国民は、国家があり、地域があり、家族があり、その中で生きている。国家が滅ぼされてしまったら、当然その国の国民も滅びてしまう。従って、国家や地域を守るためには基本的人権は、例え「生存権」であっても制限されるものだというのがいわば「常識」であった。もちろんその根底には「滅私奉公」という「日本精神」があったことは言うまでも無い。しかし、戦後憲法によってもたらされたこの「基本的人権の尊重」という思想によって「滅私奉公」の概念は破壊されてしまった。

この武藤貴也とは、百田尚樹を呼んで沖縄2紙を潰そうと盛りあがった「文化芸術懇話会」の中心人物のひとりである。類は友を呼ぶというのだろうか。礒崎といい、武藤といい、安倍のお友だちとしてピッタリである。このようなアベトモたちのホンネさらけ出しは、もはや安倍政権の末期症状といって差し支えなかろう。
(2015年8月3日)

大波かぶる礒の崎、しぶきはもろに安倍政権

7月27日(月)参院審議入りの初日。この日表には出て来なかったが、影の主役は安倍の側近礒崎陽輔だった。あるいは、礒崎がクローズアップさせた「法的安定性」というテクニカルタームであったというべきか。

この日本会議での民主党北澤俊美の質問はなかなかのものだった。この人がかつては防衛大臣だったのだ。民主党政権を壊してしまったことを惜しいと思わせる内容。北澤は「法的安定性」に言及してこう言っている。

「総理、あなたは政治家として本当に責任を果たすつもりがあるなら、集団的自衛権の行使を可能にする憲法改正を正々堂々と掲げ、国民の信を問えばよい。それが王道であります。それなら憲法も立憲主義も傷つくことはありません。ところが、総理は、憲法解釈の変更という言わば抜け道を選び、国会での数に頼るという覇道を邁進しています。抜け道と覇道の行き着くところ、憲法の法的安定性は大きく損なわれます。」

維新の小野次郎も聞かせた。法的安定性に関しては、次のような質問。
「政府が根拠の一つとしている砂川判決から集団的自衛権の合憲性を導き出すことが困難であることについては、これまでに法律家である与党公明党山口代表を含めてほとんどの法律専門家が指摘しているところであります。専門家に受け入れられていないこのような憲法及び法律の解釈で押し通して将来にわたって法的安定性は確保できるのか、どうお考えなのか、御認識をお伺いしたい」

これに対する首相答弁は、従来と変わりばえのない紋切り。まったく迫力に欠ける。この人に丁寧な説明を期待するのは、木によりて魚を求むるの感。
「法案の憲法適合性、政府における検討及び法的安定性についてお尋ねがありました。まず、新3要件については、砂川判決と軌を一にするこれまでの政府の憲法解釈の基本的な論理の範囲内のものであるため、法的安定性は確保されており、将来にわたっても憲法第九条の法的安定性は確保できると考えています。」
これは要約ではない。速記録がこうなっているのだ。

砂川最高裁判決は1959年のこと。1972年の自衛権に関する政府見解は、当然にこれをも踏まえて、「わが憲法の下で武力行使を行うことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られるのであって、したがって、他国に加えられた武力攻撃を阻止することをその内容とするいわゆる集団的自衛権の行使は、憲法上許されないといわざるを得ない。」と結論づけたものである。

この72年政府解釈から数えても40年余、54年自衛隊発足時から数えれば60年余。歴代政権は一貫して「集団的自衛権行使は違憲」と言い続けてきた。いわゆる専守防衛路線である。安倍政権は、乱暴にこれを覆して「集団的自衛権行使合憲」としたうえで、集団的自衛権行使を可能とする法案を提出しているのだ。

この安倍政権の姿勢を、野党も国民世論も法律家も、口を揃えて「立憲主義に反する」と言い、同時に「法的安定性をないがしろにするもの」と指摘した。このことを北澤は、「抜け道と覇道」と言い、「行き着くところ、憲法の法的安定性は大きく損なわれます。」と手厳しい。

無論、政権は懸命に防戦している。安倍の答弁に見るとおり、「立憲主義に反しない」「法的安定性は確保されている」と弁明に大わらわだ。

ところが、首相の側近中の側近である礒崎陽輔が、ホンネを言ってしまった。思いがけない世論の反発への焦りもあったろうし、地元の席での気安さからでもあるのだろう。「法的安定性」なんてどうだってよいのだ。憲法解釈の一貫性よりも、中国や北朝鮮の危険に対処することの方が大切だろう。そう言っちゃったのだ。みごとなオウンゴールである。

「法的安定性」とは、分かりきったことのようで、漠然とした概念。有斐閣「法律学小辞典」では、「どのような行動がどのような法的効果と結びつくかが安定していて、予見可能な状態をいう」とある。なるほど、苦心の語釈。

「法の支配」は、権力の恣意を許さないための大原則だ。形だけの法体系があっても、その法の要件と効果が確定せず、曖昧で、ぶれて、改廃きわまりない、あるいは解釈次第で伸び縮み自由では、権力規制の実効性を持ち得ない。法的安定性は、法の支配に伴う必須の要請なのだ。

「法的安定性などはどうでもよい」とは法に縛られない独裁者の言である。こういう為政者のいるところ、法の支配が貫徹する国ではない。「価値観を同じくする国」ともいえない。中枢にこのようなホンネを持ち、このような発言をする者を抱える政権は恐ろしい。憲法の枠も、法律の枠も、目先の政策の必要次第でいとも容易く破られるからだ。

礒崎を切り捨てて「政権は礒崎とは違う」と大見得を切るか、礒崎を抱えたままで「政権の体質は礒崎と同質」と見られても良しとするか、安倍政権のあり方が鋭く問われている。国民は目を見開いて注視している。
(2015年7月29日)

安倍クン見苦しい。孟子の引用はやめたまえー老漢文教師の嘆き

アベ君。私は恥ずかしい。キミに漢文を教えたのは私だ。「昔々ある学校で」のことだ。キミの漢文理解の素養が貧弱なことには、教師である私にも大いに責任がある。なんとも悲しく、お恥ずかしい限りだ。

キミは、強行採決で幕を閉じた7月15日衆議院平和安全法制特別委員会の質疑において、長妻昭議員の質問に答える中でこう言っている。

「当然批判もあります。しかしその批判に耳を傾けつつ、みずから省みてなおくんばという信念と確信があればしっかりとその政策を前に進めていく必要があるんだろう、こう思うわけであります。」

有名な、「孟子」公孫丑編の一節「自反而縮 雖千萬人 吾往矣」(自ら反(かえり)みて縮(なお)くんば、千万人と雖も吾往かん)を引用しての信念の披瀝なのだろう。この孟子の一節は、キミの座右の銘と聞いている。これまでも、何度も答弁で引用されたとのことだ。キミの公式ホームページには、キミの政治信条として、この言葉が次のように掲げられている。

「自らかえりみてなおくんば、一千万人といえどもわれゆかん」
村田清風もまた吉田松陰も孟子の言葉をよく引用されたわけでありますが、自らかえりみてなおくんば、一千万人といえどもわれゆかんと、この自分がやっていることは間違いないだろうかと、このように何回も自省しながら、間違いないという確信を得たら、これはもう断固として信念を持って前に進んでいく、そのことが今こそ私は求められているのではないかと、このように考えております。

だが、この引用は私には理解できない。むしろ、不適切極まるものと言ってよい。ホームページから削除し、今後は一切この名句の引用は辞めたがよい。強くそう願う。キミ自身のためにも、孟子の名誉のためにもだ。そして私の教員人生の汚点を消していただきたいのだ。

私がキミに孟子を講義したときには、真っ先に孟子の革命思想をお話ししたはずだ。貝塚茂樹説を引用して、「孟子」という書物は永く異端思想を含むものとしてとり扱われてきたことをよく教えた覚えがある。

孟子は、周の武王が殷の紂王に反旗をひるがえして討滅し、ついに天下をとったことを正面から是認している。暴虐な君主は民意を失い、そのことによって天命を失い、天子としての統治の正統性を喪失してしまったのだ。これに対して、周の武王は人民の与望をにない、したがって天の命を受けて、天子としての統治の資格を得たのだ。人民の意志にもとづいて武王が紂王を殺しても弑逆の罪を構成しない。そう唱えたのだ。これは、万世一系の国体思想に敵対する危険思想ではないか。

要するに孟子にあっては、天子の天子たる所以は、民意に基づくところにある。天命とは、実は人民の意志にほかならない。政権は民意に背いてはならない。政権が民意に背けば、天がこれを見放し、人民は専制政府に対して抵抗し革命を起こす権利をもっている。「孟子」はそう宣言したのだ。「孟子」には、このようなラジカルな民主主義的政治思想が含まれている。

キミは、このことを理解しようとしていない。
「孟子」が「自反而縮 雖千萬人 吾往矣」というとき、これが為政者の言と想定されているはずはない。為政者の言とすれば、「民がなんと言おうとも、為政者の信念を貫いて、民意を踏みつぶす」という意味になってしまうではないか。まさしく、それが今の君の立場だ。だから、私は、悲しくもあり、恥ずかしくもある、というのだ。

キミは、民意から離脱しているというだけでなく、真っ向から批判されていることを自覚している。孟子なら、厳しくキミを叱責して、為政者としての資格喪失のレッドカードを突きつけるところだ。ところがキミは、孟子の言葉を引いて「自らかえりみてなおくんば、一千万人といえどもわれゆかん」と開き直っている。キミが闘おうと言っている一千万人とは、キミに為政者としての資格を授けた民そのものではないか。キミのいうことは筋が通らない。キミの論理はすっかり混乱している。キミは武王でなく、既に紂王の立場なのだ。だからもう、天はキミの側にない。無理してその地位に留まろうとする悪あがきはやめた方がよい。紂王のごとき悲惨な最期を遂げる前にだ。

私は政治家の座右の銘とすべき名句についても、キミに教えたことがあるが、こちらはキミにはお気に召さなかったようだ。もし、キミがもう一度、政治家として再出発する機会があれば、座右の銘を次の一節に換えたまえ。

子貢、政を問う。子の曰わく、「食を足し兵を足し、民をしてこれを信ぜしむ」。子貢が曰わく、「必らず已むを得ずして去らば、斯の三者に於いて何れをか先きにせん」。曰わく、「兵を去らん」。曰わく、「必ず已むを得ずして去らば、斯の二者に於いて何れをか先きにせん」。曰わく、「食を去らん。古えより皆な死あり、民は信なくんば立たず」。

愛弟子である子貢の問に答えて、孔子が政治の要諦を語っている、よく知られた一節。ここには、「食・兵・信」という政治の3価値が並べられて、その価値の序列が話題となっている。いろんな解釈が乱立しているが、私は君にこう教えたはずだ。

「『食』とは経済のこと、あるいは国民の福祉を意味している。『兵』とはいうまでもなく軍備である。そして、『信』とは為政者と人民との信頼関係、すなわち民主主義にほかならない。為政者は、戦争も軍備も撤廃して差し支えない。国民の福利さえも場合によっては削減せざるを得ない。しかし、民主主義だけはけっして捨てる去ることができない」
それが、今の世にまで通ずる孔子の教えなのだ。

アベ君、キミはいま、「『兵』をとって、『信』を捨てた」。民主主義を捨てて、戦争と軍備を選択した。孔子の教えを投げ捨てたのだ。さぞや孔子も嘆いていることだろう。孔子だけではなく、私もだ。そして、日本国憲法も、なのだ。
(2015年7月22日)

安倍クン正確な国語を使うようにー老国語教師の述懐

アベ君。私は恥ずかしい。キミに国語を教えたのは私だ。いつ、どこでと特定すれば物議を醸すことにもなりかねない。「昔々あるところで」のことだ。その昔々以来、キミの言語能力の進歩はない。キミのコミュニケーション能力の欠落には私にも責任がある。なんともお恥ずかしい限りだ。

私は口を酸っぱくしてキミに教えたはずだ。国語とは、コミュニケーションの手段であることを。最も大切なのは国語の技術ではなく、相手に自分の意見や心情を伝えようという熱意であり、相手の意見や心情を正確に汲もうという真摯な意思なのだと。キミにはその両者がともに欠落しているのだ。

国語が社会的存在であることもよく教えたはずだ。自分勝手な言葉の使い方は傲慢な性格の表れであって、言葉の受け手を困惑させるだけでなく、言葉の使い手の信用を落とすことになると。

その典型が「積極的平和主義」だ。「平和主義」という多くの人が好感を持つ被修飾語に「積極的」という修飾語をかぶせれば、常識的な意味での「平和主義」を強調する好ましい言葉だと思うはずではないか。ところが、キミが「積極的」という言葉を「平和」にかぶせた途端に、平和が戦争に変身してしまうのだ。こんな手品のような、自分勝手な言葉の使い方を、私はキミに教えた覚えはない。

さらにアベ君。最近気になるのは、キミの「理解」という言葉の意味の理解についてだ。キミは、「理解」という言葉を十分理解しているのだろうか。どうもあやしい。理解という言葉についてのキミの無理解が、国民に大きな混乱をもたらしていることを理解したまえ。

言葉には、重層的な意味がある。けっして単純に1語が、1概念と結びついているわけではない。キョトンとしていてはいけない。大事なことだ。よく分かってもらいたい。

キミは、戦争法案について、「国民の理解が十分ではない」と言った。このキミの言葉は、国民が法案の内容について認識を深めていないというのか、国民が認識した法案に了解を与えていないというのか、そのあたりが曖昧でよく分からない。キミに十分な国語能力があれば、もう少し明晰な語り口になるのだが…。

理解という言葉には、「ものごとを正確に認識する」という意味Aと、「あるものごとについての相手の立場や考え方に賛同や好意の心情を持つ」という意味Bが併存している。

Aが、「原発事故の経過はよく理解している」「総理の憲法21条についての理解はおかしい」という使い方における理解。Bは、「総理には沖縄県民の辺野古基地建設反対住民の心情についてご理解いただきたい」「再び戦争を起こしてはならないという国民感情に理解がない」という用例における理解。

BはAから派生したものではあろうが、明らかに違うもの。Aは理性的な認識だけを意味し、Bはこれに好意・賛同・シンパシーの心理が付加されている。

ところでアベ君。キミが、Aの意味で「国民の理解が十分ではない」といえば、国民が法案の中身について正確な認識を欠いている、という意味だ。立法事実や、それぞれの事態の要件の決め方や効果としての自衛隊の活動可能範囲などについて、国民はよく分かっていないということになる。だから、認識不十分な国民によく説明をして認識を深めてもらえば、法案に賛成してもらえるようになる。そういう文脈で、語っていることになる。

ところが、Bの意味で「国民の理解が十分ではない」といえば、国民は「このような法案には賛成できない」と言っていることになる。法案の中身をよく分かった人も、あるいは必ずしもよくは分らないない人も、「ともかく、法案が抱える危険がよく分かった」「もうこれ以上安倍のやり口を許さない」ということだ。もう態度は決まっているのだから、さらに説明を重ねることは意味のないことになる。

アベ君、おそらくキミの当初の思惑は、Aの意味で理解が不十分な国民が、丁寧な説明を受けて、次第に法案賛成に回っていくだろうと楽観していたのではなかろうか。ところが、あらゆる世論調査の結果は、国会の審議が進み、メディアが詳細な報道をするにしたがって、法案賛成派は減り、反対派が増加した。そして「首相の説明は不十分」という国民の割合も増加するばかり。

これは、Aの意味で理解が不十分な国民が、だんだんと認識を深めよく分かってきて、Bの意味で理解が不十分な国民に変身していったのだ。

最初は、本当に「よく分からない。もっと説明を」と要求していた国民が、安倍クン、キミの説明で、「これは危険だ」「安倍や自公のいうがままにしておいたらたいへんなことになる」と変わっていった。その意味で、A型からB型への大量の変異が生じたのだ。いまや、安倍クン、キミの言うことは信用できないという意味で国民のキミに対する理解がなくなっているのだ。

だから、いつまでも同じ「丁寧な説明」を続けても無意味なのだ。どうもキミにはその辺の意識が希薄なようだ。悪いことは言わない。潔くあきらめて、法案を撤回すべきではないだろうか。

その上であらためて、もう一度国語の勉強をしなおすことをお勧めする。私も責任上、付き合うことにしたい。
(2015年7月21日)

安倍晋三医師の「丁寧な説明」

もしかしたら、「丁寧な説明」は今年の流行語大賞に輝くかも知れない。これと争うのは、「どろっとした生牡蠣」あるいは「たった2520億円」だろうか。

「丁寧な説明」は、この国の為政者が何とも奇妙な使いかたをしたことによって、人々に印象深く記憶されることになった。この言葉の使い方が今の時代の政治のあり方をよく表している。国民があらためて認識したのは、為政者の言葉の軽さ虚しさであり、また、「政権の二枚舌」「政権の傲り」「政権の無責任」でもあったろう。

「説明」には、相手の意思や立場を尊重すべき状況が前提とされている。決定権限がある相手に対して、その決定が適切になされるよう、知識や情報を提供することが説明の基本である。馴染みのない複雑なことがらについて理解してもらわねばならないという状況があって、説明が必要となる。より複雑な問題について真に理解しを得ようというには、時間をかけ工夫を凝らして、「丁寧に説明をする」ことが求められる。

行政の国民に対する説明責任、医師の患者に対するインフォームドコンセント、投資勧誘におけるインフォームドチョイス、事業者の消費者に対する説明責任、すべて同じ発想である。決定権限は、国民に、患者に、消費者にある。その決定権限の行使を誤らしめることがないように、十分な情報を提供し、可能な選択肢を示し各選択肢のメリットとデメリットを正確に教示する。これが専門家責任における説明の基本である。

だから、安倍晋三が、「この法案については、国民に丁寧な説明をいたします」といえば、誰しも「おっ、安倍クンも国民が主権者として有する権限を尊重するつもりなんだね」と思う。そして、「説明が尽くされて国民が納得するまで、ゴリ押しはしないんだ」とも思うではないか。「安倍クンといえども、あながち民主主義無視というばかりでもないんだ」と、うっかり誤解もしてしまいそう。

7月15日、あの強行採決で幕を閉じた衆院安保特のその日の委員会審議において、民主党大串委員の質問に安倍はこう答弁している。
「残念ながらまだ国民の理解は進んでいる状況ではないということは申し上げているとおりでございます。これからさらに国民の理解が進むように努力をしていきたい、こう申し上げているわけでございます。」

えっ? 国民の理解は進んでいる状況ではない? では、強行採決などやらないのだな、と一瞬誤解ささせておいて、これからも「説明を続けます」というのだ。強行採決してからの「丁寧な説明」。いったいなんだ、それは。

安倍晋三流の「丁寧な説明」は、「インフォームド」の形だけがあって、「コンセント」が抜け落ちている。形だけ、予定された審議時間の説明さえすれば、国民が理解しようがいまいが、「これからさらに国民の理解が進むように努力をしていきたい」といって、採決の強行をしてしまう。国民に決定権限があるとは思っていないのだ。国民をなめているとしか言いようがない。

本来ものごとの決定権は主権者国民にある。憲法に関わることであればなおさらだ。しかし、安倍には、国民の合意を得ながら政治を進めようという姿勢はさらさらない。国民がどう反対しても、「自ら反(かえり)みて縮(なお)くんば、千万人と雖も、吾往かん」とまでいうのだ。およそ、民主主義社会の為政者が口にすべき言葉ではない。

安倍晋三医師は、患者である国民に向かってこう言ったわけだ。
「特に緊急事態というわけではありませんが、早いに越したことはありませんので、これまでの常識的治療法とはまったく異なる大手術を行います。これまでの担当医師たちは、これから私が行おうという治療方法は許されないと言ってきましたが、私は断固やる方針です。患者さんは、ちょっとご心配の様子ですから、できるだけ丁寧に説明をしてまいりました。残念ながらまだ患者ご自身やご家族の理解も進んでいる状況ではないということは申し上げているとおりでございます。しかし、ずいぶん説明に時間をかけましたから、もう機は熟しました。「自らを省みてなおくんば一千万人といえども我行かん」が私の信条ですので、誰がなんと言おうと手術はやります。しかし、これからさらに患者の理解が進むように努力をしていきたい、こう申し上げているわけでございます。」

しかも、この安倍医師。うまくいった場合の治療のメリットはよく説明するが、リスクはない、デメリットはない。たいした手術ではない、と繰り返すばかり。
説明を聞いている患者の方は、聞けば聞くほどアブナイ思い。医師の方は、逃げられたら困るとばかりに、麻酔注射を手に迫ってくる。

「感じ悪いよね」を遙かに通り越して「こわ?い」、安倍医院。これだけで医療過誤訴訟では、違法として慰謝料請求が可能であろう。消費者事件なら悪徳商法の手口。そう批判されて当然なのだ。セカンドオピニオンも、医師を選ぶのも患者の権利だ。早く、この藪医者を取り替えないとたいへんだ。患者は殺される。
(2015年7月20日)

安倍政権にイエローカード。これなら戦争法案を廃案に追い込める

今朝の毎日新聞に目をやって感動を覚えた。1面トップに「内閣支持急落35% 不支持51% 安保強行採決『問題』68%」の大見出し。安倍自民と公明には、衝撃的な調査結果。「やはりこうなったか」とは思いつつも、「それにしても恐るべき変化」である。平和憲法を擁護せよという国民意識の底力に励まされる。これなら、現実に戦争法案を廃案に追い込める。あらためての勇気と自信が湧いてくる。

この調査は月例調査ではない。7月4・5両日の調査からわずか2週間で、安倍内閣支持率は7ポイント減、不支持率は8ポイント増となった。1か月前からの変化を見てみよう。
 安倍内閣 「支持」   45%⇒42%⇒35%
         「不支持」 36%⇒43%⇒51% 
         その差    +9⇒ ?1⇒?14
  戦争法案に「賛成」  34%⇒29%⇒27%
          「反対」  53%⇒58%⇒62%
  今国会成立に「賛成」      28%⇒25%
           「反対」      61%⇒63%
  政府の説明は「十分だ」    10%⇒10%
           「不十分だ」   81%⇒82%
なお、新しい質問事項に対する回答として次のものが目を引く。
  与党の強行採決は 「問題ではない」     24%
               「問題だ」         68%
  法案成立した場合には、
      「抑止力が高まる」             28%
      「戦争に巻き込まれるおそれが強まる」 64%

安倍首相は、アメリカとの軍事的な連携を深めることによって抑止力を高めることができる。抑止力を高めることによって我が国の平和を守ることがこの法案のねらいだ。そのように「丁寧に」説明を繰り返してきた。その説明は、国会で、記者会見で、マスメディアで、テレビ放送で、インターネットで、これ以上はないと思えるほどの情報量として、国民に提供された。むろん、その論旨は荒唐無稽なものではない。しかし、国民は、首相がメリットとして強調する「平和への期待」に納得していないのだ。むしろ、首相がけっして触れようとしない「戦争への危険」の側面に説得力を感じている。これは重要なアンケート結果だ。

毎日は、「安保法案への世論の批判は強まっており、政府・与党の一連の対応が内閣支持率を押し下げたとみられる。」「法案成立によって日本に対する武力攻撃への『抑止力が高まる』は28%にとどまり、自衛隊の海外での活動拡大で『戦争に巻き込まれる恐れが強まる』が64%に上った。『戦争に巻き込まれる』と答えた層では9割近くが法案に反対した。抑止力と考えるか、戦争に巻き込まれると考えるかは、法案の賛否に密接に関連している。」と解説している。

共同通信も17・18両日に実施した世論調査結果を発表している。「内閣支持率は37・7%で、前回6月の47・4%から9・7ポイント急落した。不支持率は51・6%(前回43・0%)と過半数に達し、第2次安倍政権以降で初めて支持と不支持が逆転した。」と、毎日とほぼ同じ数字。1か月で10%の下落は、毎日同様の劇的な変化というべきだろう。

また、「与党が16日の衆院本会議で、多くの野党が退席や欠席する中、安全保障関連法案を採決し、可決したことには『よくなかった』との回答が73・3%を占めた。『よかった』は21・4%だった。」。なお、共同調査では、「安保法案の今国会成立に反対が68・2%で前回から5・1ポイント増えた。賛成は24・6%だった。」という結果。「採決強行よくなかった73・3%」「今国会成立に反対68・2%」は、圧倒的世論と言ってよかろう。「安倍政権は強行採決を反省し、今国会での法案成立は断念せよ」というのが、圧倒的民意なのだ。

明らかに、「安倍政権・自公・底上げ議会」と「民意」とが大きくずれている。安倍と心中せざるを得ない少数のA級戦犯幹部はともかく、風向きを読むに敏なる自民・公明の議員諸君、なかんずく来夏に選挙を控えている参議院議員諸君、ぜひとも考え直していただきたい。これは理を分けての説得ではない。実利を指摘してのアドバイスである。

永田町事情に通じている人の話の受け売りだが、「内閣支持率が40%を切れば黄信号が点滅を始める」のだそうだ。「35%まで下がれば黄信号」。「30%で赤信号が点滅」で、「25%がレッドカード=即退陣」とのこと。60年安保条約が自然成立して岸退陣となったときの支持率が28%、第1次安倍内閣が突然に辞任したときは29%だったという。29%で、安倍さんは突然に体調を崩して政権を投げ出したのだ。

こういうときには、往々にして思いがけないことが起こる。往々にして、デジャビュー現象が起こったりもするものだ。支持率低下は、安倍さんの体に悪いのだから、ここは療養に専念していただいた方が、天下国家のためでもあり安倍さん自身のためでもある。

目標は定まった。安倍政権の退陣と、戦争法案の廃案とは不即不離、同義なのだ。あと、10%の安倍内閣支持率低下が、安倍内閣を退陣に追い込み、同時に戦争法を葬って、憲法と平和を守ることになる。澤地久枝のセンスと先見性が俄然光ってきた。「アベ政治を許さない」がここしばらくのスローガンとして重みをもってきた。あの金子兜太の筆になるポスターとともにだ。

あと10%。そう難しいことではない。材料は盛りだくさんなのだから。
(2015年7月19日)

「戦争法案」も白紙に戻せ?国立競技場建築見直しだけでなく

臨時ニュースを申し上げます。
安倍総理大臣は、本日午後総理大臣官邸で記者団に対し、安全保障関連二法案について、「本日臨時閣議を開催して法案を撤回することを決め、議院に所定の手続をとりました。また、これに伴い日本の安全保障についての計画を見直すことを決断しました」と述べるとともに、既にアメリカ政府には了承の内意を得ていること、連立与党である公明党も了解済みであることを明らかにしました。

また首相は、本年4月27日の日米ガイドライン見直しに関して、防衛・外務両大臣が急遽渡米の予定であること、日米首脳会談の日程も調整中であると述べました。

安全保障に関連する10本の法律を一括して改正する「平和安全法制整備法案」及び「国際平和支援法案」の二法案は、これに反対する野党や市民団体からは「戦争法案」と呼ばれていたものです。

自衛隊を設置した1954年以来、政府は「我が国は専守防衛に徹し、集団的自衛権行使は容認しない。だからけっして戦争をすることのない自衛のための実力組織である自衛隊の存在は憲法に違反するものではない」と説明してきました。しかし、今回の二法案は、従前の憲法解釈を大きく転換して、我が国が他国から攻撃された場合に限らず戦争をすることを可能とするものであり、また、外国で外国軍隊の軍事行動の兵站を担う活動も可能とするものです。したがって、圧倒的多数の憲法学者や法律家によって、一内閣が事実上の改憲を行うという立憲主義に反するものであり、憲法九条にも違反すると厳しい指摘を受けてきたものです。

同法案は去る7月16日に与党のほぼ単独採決によって衆議院は通過しましたが、このときの審議打ち切り採決強行が、民主主義の危機という国民世論が沸騰し、安倍政権の土台を揺るがす事態となって、法案撤回に至ったものと思われます。

安倍総理大臣は次のようにも述べました。
「平和は国民の皆さまの大切なもの。その平和をどう守るべきかという政策を決するには、国民一人一人の皆さまが主役となって論議に参加していただく民主主義的手続を経なければなりません。もちろん、自衛隊員の皆さまのご意見もよく聞かなければなりません。法案審議から衆院通過直後に寄せられた各界各分野の国民の皆さまの声に真摯に耳を傾けた結果、法案を白紙に戻し、ゼロベースから見直さざるを得ないと判断しその環境整備を進めてまいったところです」

「法案に反対の声は、実は野党の皆さまだけではなく、公明党からも、そして我が党の内部にもくすぶっていました。これまではけっして大きな声としては聞こえてきませんでしたが、法案が衆院を通過した以後の世論の沸騰の中で、『このままでは、到底次の選挙の大敗北を避けることができない』『政権の維持は困難だ』との悲鳴が上がるようになりました。検討の結果、もともと法案の成立に喫緊の要請があるということではなく、アメリカ政府の了解も得られる見通しであると確信したので、私の責任においてこのような決断をした次第です」

なお、この政府の措置に、もっとも難色を示した一人とされる高村正彦副総裁は、総理大臣官邸で安倍総理大臣と会談したあと、記者団に対し、「政府がやることだ。こういうこともある」と憮然たる面持ちで言葉少なに語りました。

今回、安倍政権が突然に安保関連法案を撤回した背景には、この法案が国民世論にきわめて評判が悪く、「違憲の法案だ」「近隣諸国を刺激する愚策だ」「立憲主義に反する」という従前の批判に加えて、衆議院の強行採決では「民主主義の危機だ」「自民党感じ悪いよね」という圧倒的な国民の声を浴びて、このままでは政権自体が持ちこたえられない「存立危機事態」になっていたことが基本にあります。

安倍政権は強行採決の翌日に、同じく反対世論の盛りあがっていた新国立競技場問題について計画の白紙撤回を発表しました。こうした安倍内閣の方針転換を目のあたりにした国民世論が、批判の世論は確実に政権を追い詰め政策を変えることができると自信を強めて抗議運動の規模を拡大させた成果が、本日の安保関連法案の白紙撤回の成果と考えられています。

なお、本日、安保関連法案の白紙撤回の報を受けた直後に、NHKの籾井勝人会長が突然の辞意を表明しました。その理由はまだ公表されていませんが、「政府が右と言えば、左というわけにはいかない」と公言して、陰に陽に安保法案成立のために政権に協力していた立ち場から、自分への国民の大きな批判に耐え得ないと考えたのであろうと推察されています。

また、街の声を拾いますと歓迎一色で、「国立競技場の見直しについてもできないと言っていたけど、国民の声が高まれば簡単にできちゃった。戦争法案もおんなじなんだとよく分かった」「戦争法案撤回によって、平和と民主主義が擁護された」「主権者として民主主義を守ることができた」「何よりも、憲法と立憲主義とを守り抜いた」「国民の行動の力に自信をもった。次の選挙では、自民党と公明党を追い落とすことができるだろうと思う」などという意見を聞くことができました。
(2015年7月17日)

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