私たちは、「本郷・湯島九条の会」の者です。9条の会は、2004年に井上ひさしさんや大江健三郎さん、澤地久枝さんなど9人の方の呼びかけに応じて全国に立ち上げられました。いま、各地の地域や職域、学園、あらゆる分野に7500もの、単位9条の会が結成されて、それぞれのやり方で「9条を擁護する」「9条の精神を実現する」活動を行っています。私たちの会は、町内会の会長さんが代表者となっている、地域9条の会の一つです。
毎月第2火曜日のお昼の時間に、ここ本郷三丁目交差点「かねやす」前を借りて、「日本国憲法を守れ」「9条と平和を守れ」「あらゆる戦争への動きを根絶しよう」という街頭での訴えを続けています。今日も、しばらくお耳をお貸しください。
今年は、戦後70周年に当たります。1945年8月の敗戦から70年目の節目の年。70年前の東京には空襲が繰り返されました。東京の空襲被害は3月10日の大空襲だけではありません。サイパン・テニアンから飛来したB29の編隊による焼夷弾攻撃は100回にもわたって、東京を焼き払いました。文字どおり、東京を廃墟にしました。ここ、本郷も湯島も例外ではありませんでした。
70年前の今頃、日本と同盟を結んでいたムッソリーニのファシズム・イタリアも、ヒトラーのナチズム・ドイツも降伏し、日本だけが絶望的な戦いを続けていました。沖縄は凄惨な地上戦のさなかにあり、日本の主要都市のほぼすべてが、空襲の対象となっていました。
敗戦は明らかでしたが、戦争はなかなか終わりませんでした。天皇やこれを支える上層部が、「もう一度戦果を挙げてからの有利な講和」にこだわったからです。「有利な講和」とは国体の護持、つまりは天皇制の維持にほかなりません。しかし、最後の最後まで、「もう一度の戦果」はなく、沖縄は徹底して蹂躙され、広島・長崎に原爆が投下され、さらにソ連の対日参戦という事態を迎えて、無条件降伏に至りました。国体の護持、つまりは天皇制の維持にこだわることさえなければ、100万を超す命が助かったはずなのです。
国民は、正確な情報を知らされなかったばかりか、「神国日本が負けるはずはない」「いまに必ず神風が吹いて最後には戦局が好転する」そのように信じ込んでいました。一億総マインドコントロールの状態だったのです。もちろん、神風は吹かず日本は敗けました。70年前の8月のことです。
これ以上はない惨禍の末に戦争は終わり、国民は悲惨な思いの中からたくさんの教訓を学びました。よく考えてみれば、この戦争は侵略戦争であり植民地拡大戦争だったではないか。日本は、被害国ではなく、加害国としての責任を免れないと知りました。再び、戦争の加害者にも、被害者にもなりたくはない。どのような戦争も悲惨この上ないのだから、勝ち負けに拘わらず戦争をしてはならない。これが多くの国民の共通の思いでした。
この平和を願う国民の思いが、新憲法を平和憲法として誕生させます。日本の国民が、憲法の制定を通じて、再びの戦争をしないことを誓約したのです。戦争の被害者にも加害者にもならない。この考えが日本国憲法前文に平和的生存権として書き込まれ、憲法9条の条文にも結実しました。
憲法9条1項が、「国権の発動たる戦争」の放棄を宣言し、さらに念のために「武力による威嚇または武力の行使」をも、永久にこれを放棄しました。戦争の放棄です。
それだけではありません。戦争の放棄を担保する手段として、9条2項で「陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない」と、戦力の不保持を宣言したのです。
9条1項と2項、戦争の放棄と戦力の不保持。この二つを併せて読めば、日本が、自衛の戦争をも含む、いかなる戦争もしないと誓約したことに疑いはありません。
旧憲法下での最後の議会となった第90帝国議会で、新憲法をめぐる改憲論議が行われました。そこでの野坂参三共産党議員と吉田茂首相との有名な「自衛権」論争があります。
野坂は、「古来独立国家として自衛権をもたない例はない。9条も自衛戦争は否定していないはず」と糺しましたが、吉田は「歴史上、侵略を標榜した戦争はない。すべての戦争が自衛の名のもとに行われた。憲法9条はけっして、自衛の戦争を認めるものではない」と、徹底した平和主義を語っています。
こうして制定された日本国憲法ですが、戦後しばらくすると政府の解釈が変わります。自衛隊が創設された1954年、政府は「自衛隊は憲法にいう戦力に当たらないから違憲の問題は生じない」と辻褄を合わせる説明を始めました。「憲法は国に固有の自衛権を否定していない。自衛隊は、敵国が日本の領土に進攻してきた際に自衛権を行使する実力組織に過ぎない。自衛隊は、自衛を超えて海外で武力を行使することはない。自衛の必要を超えた装備や編成をもつこともない。だから9条に違反しない」というのです。いわゆる専守防衛路線です。
この政府解釈は批判されつつも、定着して60年続きました。明らかに憲法の条文に違反はしてはいるものの、自衛隊の装備や編成、あるいは行動を、専守防衛にとどめて、逸脱を防止し、暴走することのないよう自衛隊への歯止めの役割を果たしてきたという側面を見落としてはならないと思います。
安倍政権はこの専守防衛路線を乗り越えようというのです。自衛隊暴走への歯止めを外してしまおうというのです。これは完全に憲法9条の戒めを破ろうということにほかなりません。
集団的自衛権の行使を容認することによって、自国の自衛のために限定されていた実力の行使が歯止めを失うことになります。戦争をする組織ではない、飽くまで敵が国土を蹂躙したときに自衛する実力部隊であったはずの自衛隊が、集団的自衛権行使の名のもとに、同盟国とともに海外で闘う組織になるというのです。
国土を離れた海外での武力の行使を「自衛」とは絶対に言いません。それは憲法が禁じる「戦争」にほかなりません。昨日、自公が合意して、これから閣議決定を経て国会に提出される法案は、自衛隊に海外での武力行使を認める法律案ですから、「戦争法案」と呼ぶのが適切で相応しいのです。
今年1月に亡くなられた9条の会呼びかけ人のお一人、奥平康弘さんの言葉を借りて、私なりの言葉で表現し直せば、「憲法9条は、1954年自衛隊ができたときに『半壊』した。そして、2014年7月1日の集団的自衛権行使容認を認める閣議決定で『全壊』しようとしている」
他国との軋轢は外交で解決すべきとするのが、日本国憲法の立場です。相手国を軍艦で脅し、近くで軍事演習をして、軍事力で威嚇し、ことあれば武力の行使に及ぶという選択肢を完全に捨てたのが日本国憲法の立場です。70年前に、戦争の惨禍を繰り返すまいという国民の願いがそのような憲法を作ったのです。
しかし、安倍政権が目指している国のかたちは明らかに違います。強い国、強い外交を行うためには、いざというときには戦争という選択肢をもたねばならない、というのです。これは危険なことです。何よりも、近隣諸国からの信頼を失う愚行といわざるを得ません。戦後70年間築いてきた、平和ブランドとしての日本をなげうつことでもあります。
今朝の各紙の報道によれば、「戦争法」関連法案は、既存の有事法制10本をまとめて改定する一括法「平和安全法制整備法」と、自衛隊をいつでもどこでも他国軍の戦闘支援に派兵する新法「国際平和支援法」(派兵恒久法)の2本建てだということです。解釈改憲・立法改憲によって憲法9条にトドメを刺そうとするものとして、到底看過できません。
皆さん、2年前の憲法記念日を思い出してください。発足間もない第2次安倍政権は、96条改憲を明言していました。「9条改憲が本丸だが、本丸攻めは難しい」「それなら、まずは外堀を埋めてしまえ」「96条の改憲手続きを変えて、明文改憲のハードルを下げるところから手を付けよう」という構想でした。
ところが、この96条改憲論がたいへんに評判が悪かった。2年前の5月には、「裏口入学に等しい姑息な手段」「卑怯卑劣な手口」として強い世論の反撃を受けました。その結果、安倍内閣はこれを撤回せざるを得ない事態に追い込まれてしまったではありませんか。
今、安倍政権がやろうとしている戦争法案の上程は、裏口入学どころの話しではありません。堂々と、憲法の玄関を蹴破って、憲法の平和の理念を押し潰そうというのです。一昨年同様、再び世論の力で憲法を9条を守り抜こうではありませんか。そして、戦争法の制定を推し進めようとしている安倍政権には、退場願おうではありませんか。憲法9条に成り代わって、皆さまに訴えます。
(2015年5月12日)
山内敏弘(一橋大学名誉教授・憲法)が、5月5日付赤旗で「軍事に大転換 断固阻止」と語っている。その中で、「戦争に備えたら戦争に」というフレーズが出て来る。言うまでもなく、「国の存立を全うし、国民を守るための切れ目のない安全保障法制を整備する」という安倍政権の戦争立法を批判してのもの。だから、「平和を望むなら平和に備えよ」との9条の理念が説かれている。
ローマ時代から「平和を望むならば戦争に備えよ」という言葉があったという。おそらくは「備えあれば憂いなし」と同じ感覚での言い習わしなのだろう。
当時、平和とは「外敵の進攻から自国の人民が守られている状態」の意であろうから、ことあるときには進攻してくる外敵と戦って勝てなければ平和を守ることはできない。戦いに勝てる軍事力は一朝にしては作れない。だから、隣国からの侵攻の気配のないときにも、戦争に備えた常備軍を保持しなければならず、訓練も怠ることはできない。そのことが「平和を望むなら、平時にも戦争に備えよ」と言い古されることとなった。
この命題は一面の真実である。しかし、真実の一面でしかない。各国がそれぞれ他国に猜疑心を持ち、相互に疑心暗鬼で国家が並立するときの真実であろう。国際協調が育たなかった人間の歴史は、長くこれを真実としてきた。しかし、今もなお真実であろうか。
古来この言葉を金科玉条としてきた諸集団・諸国家は平時から軍事力を競い合ってきた。いつか軍事の均衡が破れたときに戦端が開かれ、勝者に束の間の「平和」が訪れる。しかし、その「平和」が長く続くことはなく、勝者はまたやがて別の強者と闘わなければならない。平和とは常に暫定的なもので、戦争の恐怖から逃れることができない。
そのために、いずれの国も国民も、平時に一見友好的な隣国にも心を許すことはできない。常に戦争に備えよ、他国の軍事力を凌駕できなければ安心できない。ところが、その事情や考えは、隣国とて同じことなのだ。お互いに、「平和のためには軍備の増強が必要だ」「平和を望むからこそ戦争に備えなければならない」「国民の望む平和を保障するための精強な軍事力を」とならざるを得ない。こうして、各国とも際限のない軍備の負担に苦しまなければならない。ローマから、二つの世界大戦を経験するまでの長きにわたって、この呪縛から抜け出すことは夢物語でしかなかった。
しかし、この論理は、論理自体が戦争を誘発するリスクを内包している。その意味では悪魔の論理と言わねばならない。
「備えあれば憂いなし」は、自然災害への備えの場合には妥当する。しかし、相手国のある軍事に関しての「備え」は、相手国を刺激して別の「憂い」を誘発する。軍事的備えの増強は隣国から見れば、相手国の戦いの準備であり、軍事的進攻への対抗的な備えを増強しなければならないシグナルとして映るのだ。これへの対抗措置が、また新たな対抗措置を必要とし、相互に軍備の増強競争が始まることになる。
そのことを山内は、「戦争に備えたら戦争になる」と言っている。戦争への備えの主観的な意図如何にかかわらず、である。かくて、戦争へのスパイラルが作動を始めることになるのだ。
「戦争に」ではなく、反対に「平和に」備えたらどうだろうか。相手国は、敵対心のないことに信頼して軍備の負担を軽減してもよいと考えるだろう。相互に、軍備の増強の必要はないことになる。これは、平和へのスパイラルの作動である。
山内が言うとおり、まさしく「戦争の準備をすれば戦争になる」。歴史がそれを示している。だから「真の平和を望むなら平和の準備をしよう」。これが憲法9条の思想である。人類の歴史の進歩によって国際協調主義が成熟しつつあるとの認識にも支えられている。
安倍政権の戦争法案は、明らかに「切れ目なく戦争の準備をすれば、切れ目のない平和と安心がもたらされる」という考え方だ。これがローマ時代の常識であり、以来牢固として変わらず生き残ってきた思想。しかし、実は「切れ目のない戦争への備えとは、切れ目のない戦争誘発策」でもある。戦争準備が戦争を呼ぶことになるのだ。いまや、この考え方のリスクを見据えなければならない。
われわれはあらためて、「戦争の準備」を拒否して、「平和の準備」をしなければならない。このことを近隣諸国にも、全世界にも呼びかけよう。戦争を避けるために。平和な世界を実現するために。
(2015年5月8日)
第2次大戦の敗戦から70周年。この事情は日本もドイツも変わらない。そのドイツでは、ナチス・ドイツ降伏の5月8日を目前にして、メルケル首相の活発な動きが注目されている。
5月2日、メルケルは国民に歴史と向き合うよう呼びかける映像メッセージを政府ホームページに公開した。「『歴史に終止符はない。我々ドイツ人は特に、ナチス時代に行われたことを知り、注意深く敏感に対応する責任がある』と訴えている」「ドイツ国内のユダヤ系の施設を警官が警備している現状を『恥だ』とし、『意見を異にする人々が攻撃されるのは間違っている』と指摘。学校や社会でも歴史の知識を広めていくことの重要性を強調した」(朝日)という。このビデオでは、「独国内で戦争責任に対する意識が希薄になっていることについて『歴史に終止符はない』と強い口調で警告。『ドイツ人はナチ時代に引き起こした出来事に真摯に向き合う特別な責任がある』と述べ、戦後70年を一つの『終止符』とする考えを戒めた」「人種差別や迫害は『二度と起こしてはならない』と訴えた(毎日)とも報じられている。
また、メルケルは3日、4万人以上が犠牲となった独南部のダッハウ強制収容所の解放70年式典で演説し、「『我々の社会には差別や迫害、反ユダヤ主義の居場所があってはならず、そのためにあらゆる法的手段で闘い続ける』と述べ、ナチス時代の記憶を世代を超えて受け継ぐ重要性を訴えた」「式典には、収容所の生存者約130人や解放に立ち会った元米兵6人も参加。メルケル氏は『収容所の経験者が、まだ自らの経験を語ってくれるのは幸運なことだ』と述べた(毎日)。「ナチスがこの収容所で犠牲者に与えた底知れない恐怖を、我々は犠牲者のため、我々のため、そして将来の世代のために、決して忘れない」と語ってもいる(朝日)。
同所の演説では、「『われわれは、皆、ナチスのすべての犠牲者に対する責任を負っている。これを繰り返し自覚することは、国民に課せられた義務だ』と述べ、一部の若者らにみられる反ユダヤ主義や、極右勢力による中東出身者を狙った犯罪に強い懸念を示しました」(NHK)、「昨年起きたベルギーのユダヤ博物館のテロ事件などを例に、今もユダヤ人への憎しみが存在すると指摘。『決して目を閉じてはならない』と呼び掛けた(共同)」とも報じられている。
さらに、メルケルは、自身が10日にモスクワを訪れ、ロシアのプーチン大統領と無名戦士の墓に献花する。「ウクライナ危機でロシアと対立していても『第2次大戦の多数の犠牲者を追悼することは重要だ』と理解を求めた」(朝日)という。
世に、尊敬される指導者、敬服に値する政治というものはあるものだ、と感服するしかない。安倍晋三に、メルケルの爪の垢を煎じて飲ませたい。そうすれば、次のことくらいは言えるようになるのではないか。
**************************************************************************
某日、安倍晋三は、こう語った。
「歴史に終止符はない。我々日本人は、過去天皇制政府がおこなった近隣諸国民に対する蛮行について、敗戦時意図的に隠滅し隠蔽された証拠を誠実に探し出して、よく見極め注意深く敏感に対応する責任がある。学校でも、社会でも過去の日本人がした行為について、歴史の知識を広めていくことの重要性は最大限に強調されなければならない」
「われわれは、皆、私たちの国がした蛮行のすべての犠牲者に対する責任を負っている。これを繰り返し自覚することは、日本国民に課せられた義務にほかならない」
「現在なお、歴史修正主義が横行し、被害者からの抗議の声やそれを伝える報道を『捏造』と切り捨て、あまつさえ排外主義の極みとしてのヘイトスピーチが野放しとなっている現状を大いに恥辱だと認識しなければならない」
「日本人は、旧天皇制の時代に引き起こした、侵略戦争と植民地支配に真摯に向き合う特別な責任がある。これまで、その責任に真摯に向き合って来なかったことに鑑みれば、戦後70年を一つの終止符として、『もうそろそろこの辺で謝罪は済んだのではないか』『いつまで謝れというのだ』『これからは未来志向で』などという被害者の感情を無視した無礼で無神経な発言は厳に慎まなければならない」
「人種差別や民族迫害は、絶対に再び犯してはならない。我々の社会には差別や迫害、他国への威嚇や武力行使があってはならず、そのような邪悪な意図の撲滅のために、あらゆる法的手段で闘い続ける覚悟をもたねばならない」
「天皇制政府と皇軍が被侵略国や植民地の民衆に与えた底知れない恐怖を、我々は今は声を発することのできない犠牲者のためだけでなく、我々自身のために、そして将来の世代のためにも、決して忘れてはならない」
「脱却すべきは戦後レジームからではなく、非道な旧天皇制のアンシャンレジームの残滓からである」「取り戻すべき日本とは、国民主権と人権と平和を大原則とする日本国憲法の理念に忠実な日本のことでなければならない」
「厳粛に宣言する。われわれは、日本と日本国民の名誉にかけて、決して過去に目を閉じることなく誠実にその責任に向かい合うことを誓う」
こうすれば、日本は近隣諸国からの脅威と認識されることなく、真の友好関係を築いてアジアの主要国として繁栄していくことができるだろう。もちろん、戦争法の整備による戦争準備は不要になろう。
ところで、国民はそれにふさわしい政府や政治家をもつ、という。ドイツはワイツゼッカーやメルケルの政府をもった。日本は、安倍や橋下のレベルの政府や政治家しか持てない。このレベルが、日本国民にふさわしいということなのだろうか。私も、恥の文化に生きる日本人の一人である。まったくお恥ずかしい限り。
(2015年5月5日)
私は、国のつく言葉が嫌いだ。国威・国体・愛国・憂国・国士・国粋・挙国・国富・国益・国母・国是・国策・国論・国賊・売国・国禁…。どれもこれも嫌なイメージがつきまとう。
中でも、「国辱」が大嫌い。「我が誇るべき国家の名誉を傷つけた。許せぬ」という、思い込み激しい罵り言葉として使われる。多くの場合、ウルトラナショナリストが激情赴くままに議論を拒絶した発語だから始末に悪い。
しかしときに、なるほどこれこそは「国の恥」にあたる「国辱的行為」ではないかと思いあたることがある。それが国自身のなせるわざで、政権に強く突き刺さる鋭さをもつのであれば、敢えてこれは「国辱もの」と言ってよいのではなかろうか。
本日(4月28日)の朝日が報道する「特派員『外務省が記事を攻撃』 独紙記者の告白、話題に」という記事の内容がまさしくそれ。安倍政権と外務省が挙国の態勢で、憂国の志から碧眼の賊徒を懲らしめ、国威を発揚せんとした愛国美談の一幕。しかし、これこそまぎれもなく国恥であり国辱ではないか。そのような批判の語として用いるのが、「国辱」の正しい使い方であろう。
その記事には、メインの見出しのほかに4本のサブの見出しがついている。「政権批判 総領事が独本社訪れ抗議」「東京滞在5年 離日に際し告白」「記者『昨年あたりから変化』」「識者の人選にも注文」というものだ。紙面に勢いがあふれている。権力批判のジャーナリズム健在を示す記事だ。これは下記のURLで読める。是非とも拡散して、多くの人に読んでもらおうではないか。再びの「国辱」が繰り返されることのないように。
http://www.asahi.com/articles/ASH4P6GZ3H4PUHBI02T.html?iref=comtop_6_06
記事は「昨年来、日本の外務官僚たちが、日本に批判的な外国特派員の記事を大っぴらに攻撃している」と指摘するもの。有り体に言えば、日本の国家総掛かりでの言論への介入である。それも、ドイツやアメリカの有力紙へのもの。おそらくは氷山の一角として明らかになった、ドイツ有力紙元東京特派員の驚くべき告白がメイン。そして、「米主要紙東京特派員」への在米日本大使館からの批判メール事件を紹介している。さすがに、よく行き届いた直接取材で信憑性はきわめて高い。由々しき問題と、憂国せざるを得ない。
主要部分を引用しておきたい。
注目されているのは、独紙フランクフルター・アルゲマイネ(FAZ)のカルステン・ゲルミス記者(56)が書いた英文の寄稿「外国人特派員の告白」だ。日本外国特派員協会の機関誌「NUMBER 1 SHIMBUN」4月号に掲載された。これを、思想家の内田樹(たつる)さんがブログに全文邦訳して載せ、ネット上で一気に広がった。
ゲルミス氏は2010年1月から今月上旬まで東京に5年余り滞在した。発端となる記事をFAZ紙に掲載したのは昨年8月14日のこと。「漁夫の利」と題し、「安倍政権が歴史の修正を試み、韓国との関係を悪化させているうちに、中韓が接近して日本は孤立化する」という内容の記事だった。これに対し、中根猛・駐ベルリン大使による反論記事が9月1日付のFAZ紙に掲載された。
ここまではよくある話だが、寄稿が明かしたのは、外務省の抗議が独本社の編集者にまで及んでいた点だった。記事が出た直後に、在フランクフルト日本総領事がFAZ本社を訪れ、海外担当の編集者に1時間半にわたり抗議したという。
寄稿によると、総領事は、中国が、ゲルミス氏の記事を反日プロパガンダに利用していると強調。さらに、総領事は「金が絡んでいると疑い始めざるを得ない」と指摘した。また、総領事は、ゲルミス記者が中国寄りの記事を書いているのは、中国に渡航するビザを認めてもらうために必要だからなのでしょう、とも発言したという。
ゲルミス氏は寄稿で、「金が絡んでいる」との総領事の指摘は、「私と編集者、FAZ紙全体に対する侮辱だ」と指摘。ゲルミス氏は「私は中国に行ったことも、ビザを申請したこともない」とも記している。
当事者たちに、現地で直接取材した。昨年8月28日、FAZ本社を訪れたのは坂本秀之・在フランクフルト総領事。対応したのは、ゲルミス氏の上司に当たるペーター・シュトゥルム・アジア担当エディター(56)だった。
シュトゥルム氏によると、同紙に政府関係者が直接抗議に訪れたのは、北朝鮮の政府関係者以来だったという。シュトゥルム氏は「坂本総領事の独語は流暢だった」と話す。総領事は中国のビザ取得が目的だったのだろうと指摘したうえで、「中国からの賄賂が背後にあると思える」と発言したという。シュトゥルム氏は「私は彼に何度も確認した。聞き違いはあり得ない」と話す。
現在勤務する独北部ハンブルクで取材に応じたゲルミス氏は、「海外メディアへの外務省の攻撃は昨年あたりから、完全に異質なものになった。大好きな日本をけなしたと思われたくなかったので躊躇したが、安倍政権への最後のメッセージと思って筆をとった」と話した。
ゲルミス氏が、機関誌に寄稿したのは「日本政府の圧力に耐えた体験を書いてほしい」と、特派員協会の他国の記者に頼まれたからだ。その後、記事への反応を見ると、好意的なものが多かったが、「身の危険」をほのめかす匿名の中傷も少なからずあったという。「日本は民主主義国家なのに歴史について自由に議論できない空気があるのだろうか」と語る。
シュトゥルム氏もこう話した。「我々は決して反日ではない。友好国の政府がおそらく良いとは思えない方向に進みつつあるのを懸念しているから批判するのだ。安倍政権がなぜ、ドイツや外国メディアから批判されるのか、この議論をきっかけに少しでも自分自身を考えてもらいたい」
もう一つは「日本大使館、識者の人選に注文」というもの。記事のコメンテーターへのクレームという話題だ。
米主要紙の東京特派員は、慰安婦問題に関する記事で引用した識者(コメンテーター)について、在米日本大使館幹部から人選を細かく批判する電子メールを受け取った。同特派員は「各国で長年特派員をしているが、その国の政府からこの人を取材すべきだとか、取材すべきでないとか言われたのは初めて。二度と同じことをしないよう抗議した」と話したという。
外務省が嫌ったコメンテーターとは、中野晃一・上智大教授であり、代わって外務省国際報道官室幹部が政権御用達として秦郁彦を推薦するメールを送信しているという。このメール全文までは報道されていないが、メールの存在と内容は外務省が認めているという。
はたして日本に、権力の干渉を受けることなく表現する自由は健在なのだろうか。
おなじみになった、「国境なき記者団」の「世界報道の自由度ランキング 2015」では、日本は180カ国(地域)中の61位である。かつては11位と高位にランクされた時代もあったが、安倍政権になって以来急速に評価を下げ、「先進諸国」中の最下位に甘んじている。アジアでは、台湾(51位)、モンゴル(54位)、韓国(60位)の後塵を拝しする立場。この日本の自由度ランキングは、安倍政権が続いている限りのことだが、来年さらに顕著に順位を落とすことが確実である。
なお、このランキングでは北朝鮮が179位である。ドイツ有力紙の編集者が、日本の総領事の行為について「政府関係者からの直接抗議は北朝鮮以来」と言っているのは示唆に富む。安倍政権は、北朝鮮に比肩されているのだ。
この事態は、安倍政権の末期症状として見るべきなのか、あるいは恐るべき言論弾圧時代の幕開けなのか。憂国の情に堪えない。
(2015年4月28日)
「俳人・9条の会 新緑の集い」にお招きを受けて、報告した。テーマは、9条ではなく「『思想の自由』と『表現の自由』の今ー権力と社会的圧力に抗して」というもの。準備の過程で、なるほどこのテーマであれば私こそ語るにふさわしい、と考えるようになった。
「日の丸・君が代」強制と靖国問題とで思想・良心・信仰の自由の問題に触れ、DHCスラップ訴訟で表現の自由を語った。いずれも、私自身が関わる問題である。聞いてもらわずにはおられない。
精神生活の基礎を形づくるものとして、思想は自由である。人が人であるために、自分が自分であるために、憲法によって保障される以前から、思想は本来的に自由なのだ。
思想のほとばしりである言論も本来的に自由でなくてはならない。表現の自由を侵害するものは、公権力と社会的圧力である。公権力は法的強制をもって言論を封じ、社会多数派はその同調圧力で個人の言論を封じる。
フォーマルには、社会的多数者の意思が権力の意思となり、国や自治体が言論を規制する。インフォーマルには、社会的多数派の圧力が、個人の言論を萎縮させ、非権力的に言論を抑制する。
個人の言論が、多数者の意思によって圧迫を受けてはならない。表現の自由とは、本来的に少数者の権利であって、多くの人にとって不愉快で耳障りな表現こそが権利として保障されなければならない。民主々義社会では、多数派が権力を構成するのだから、社会的な圧力は容易に公権力による規制に転化する。だからこそ、権力が憎む表現、多数が眉をしかめる表現の自由が権利として守られねばならない。
社会的な言論抑圧のレベルでは、
多数派の意思→圧力→少数派の萎縮→多数派の増長→圧力の強化→さらなる萎縮
という負のスパイラルを警戒しなければならない。言論の萎縮は、さらなる圧力をもたらし、さらなる後退を余儀なくさせる。
社会的多数派の耳に心地よくない言論とは、政権に対する批判、与党勢力に対する批判、天皇や皇族の言動に対する批判、「日の丸・君が代」強制への批判、ナショナリズムへの批判、最高裁の判決に対する批判、ノーベル賞の権威などに対する批判等々の言論である。このような権力や権威に対する批判の言論の自由が保障されなければならない。
そして、ダブルスタンダードなく、反体制内権力や革新内部の多数派にも批判が必要だ。たとえば、選挙をカネで歪める動きについて、保守派だけを批判するのは片手落ち、革新陣営の選挙違反にも遠慮のない批判の言論が保障されなければならない。それなくしては緊張感を欠くこととなり、革新陣営の腐敗が免れないことになる。いかなる組織にも、運動にも、下から上への批判が不可欠なのだ。
このようなときであればこそ、表現者は萎縮してはならない。自主規制して言論を躊躇してはならない。社会的圧力に抗して、遠慮することなく、いうべきことをはっきりと言わねばならない。でないと、今日の言論の保障は、明日には期待できなくなるかも知れないのだから。
**************************************************************************
懇親会にまでご招待いただきありがとうございます。本席では、天皇の発言が話題となっていますので、この点についてもう少しお話しさせてください。
私は、本来人間は平等だという常識的な考えもっていますから、天皇という貴種が存在するなどとは思いもよりません。天皇を特別な存在とし、血筋故に貴いとか、文化的伝統を受け継いだ尊敬すべき人格だとかという虚構を一切認めません。
「象徴天皇は憲法的存在だから認めてもよいのではないか」という議論は当然になり立ちます。制度としては天皇の存在を認めざるを得ません。しかし、天皇が象徴であることから、天皇をこのように処遇すべきだという、法的な効果は何もないのです。「象徴」とは、権限や権能を持たないことを意味するだけの用語に過ぎません。天皇の存在を可能な限り希薄なものとして扱うこと、最終的にはフェイドアウトに至らしめること、それが国民主権原理の憲法に最も整合的な正しい理解だと私は思っています。
「象徴天皇は、存在しても特に害はないのではないか」というご意見もあろうかと思います。しかし、私は違う意見です。今なお、象徴天皇は危険な存在だと思うのです。その危険は、国民の天皇への親近感があればあるほど、増せば増すほどなのです。国民に慕われる天皇であればこそ、為政者にとって利用価値は高まろうというものです。
先ほど、高屋窓秋という俳人のご紹介の中で、嫌いなものは「奴隷制」というお話しがありました。奴隷制とは、人を肉体的に隷属させるだけでなく、精神的な独立を奪い、その人の人格的主体性まで抹殺してしまいます。
奴隷根性という嫌な言葉があります。奴隷が、奴隷主に精神的に服従してしまった状態を指します。客観的には人権を蹂躙され過酷な収奪をされているにかかわらず、ほんの少しのご主人の思いやりや温情に感動するのです。「なんとご慈悲深いご主人様」というわけです。奴隷同士が、お互いに、「自分のご主人様の方が立派」と張り合ったりもすることになります。
旧憲法下の、天皇と臣民は、よく似た関係にありました。天皇は、臣民を忠良なる赤子として憐れみ、臣民は慈悲深い天皇をいただく幸せを教え込まれたのです。これを「臣民根性」と言いましょう。明治維新以来、70年余にわたって刷り込まれた臣民根性は、主権者となったはずの日本国民からまだ抜けきっていないと判断せざるを得ません。
天皇制とは、日本国民を個人として自立させない枷として作用してきました。臣民根性の完全な払拭なくして、日本国民は主権者意識を獲得できない。天皇制の呪縛を断ち切ってはじめて、個人の主体性を回復できる、私はそう考えています。
**************************************************************************
本日の私の報告の中で、「権力を信頼することは権力を腐敗させること、権力には猜疑の目をもっての批判が不可欠だ。それあってこそ、健全な権力を維持することができる」「この理は、たとえ民主勢力が政権を取っても、あるいはいかなる民主的な政府が成立したとしても変わらない」というくだりがあった。
これに対して、「本当に民主的な政府にも、批判が必要なのか」という質問があって、時間切れとなった。一応、追加して触れておきたい。
完全に「民主的な政府」となどというものはありえない。より民主的な政府を目ざさなければならない。また、いかなる権力も、権力が成立した瞬間から腐敗の進行を始める。従って、ある政府を、より民主的にするためにも、腐敗を防止するためにも、民衆の忌憚のない批判が絶対に必要なのだ。選挙は大きな国民の政府への批判の機会であるが、これだけに限られない。日常的な批判の言論が実質的に保障されなければならない。
国民の批判を実質的に保障するとは、権力運用の透明性が確保されていなければならず、権力が批判に寛容でこれを受容し生かす制度を完備していなければならない。
そこまでしても権力が腐敗を免れれることができるか、おそらくは無理だろう。そのときには、政権交代の受け皿が用意されていなければならない。こうしたサイクルで、民主主義は命永らえていくのではないだろうか。
(2015年4月26日)
明日(4月26日)は、統一地方選後半戦の投票日。安倍自民党の暴走へ歯止めをかけるチャンスである。
憲法9条をないがしろにし、集団的自衛権行使容認だけでなく、戦争法制を整備して、切れ目なく、つまりはいつでもどこでも戦争ができる国を作ろうという安倍自民の目論見が公然化しつつあるこの時期の選挙。その自民党と、下駄の雪の公明党への批判を期待したいのだ。そのような視線で、地元文京区議会議員の選挙公報を眺めている。
定員34に立候補者が46名。14人が落選する選挙。政党別の候補者数は以下のとおりだ。
自民 10
共産 7
公明 5
民主 4
維新 2
社民 1
次世代 1
ネット 1
生活 0
諸派 1
無所属 14
地域に根差した政党としての活動がなければ、立候補者数の確保はできない。民主の4、社民の1、生活の0は寂しい。また、維新2、次世代1は、おそらくは早晩消えていくことになるのだろう。
自民の10人は、公報での訴えを見る限り、政党としてのまとまりがあるとは到底思えない。もっとも、そこが強みなのかも知れない。安倍自民の公約や政権の動向とは無関係に集票して議席を獲得し、自民党議員団としての勢力を誇示して都政と国政の基盤を形成する。柔軟といえば柔軟、したたかといえばしたたかな、草の根からの民意掠めとり構造が透けて見えてくるではないか。
自民の誰一人として、安倍晋三の名も安倍政権中枢に位置する政治家の名も挙げていない。むしろ意識的に避けているのではないかという印象。地元商店街の振興は叫んでも「アベノミクス」は一言も出てこない。教育の充実は語られても、「教育再生」は出てこない。もちろん、戦後レジームも、靖国も、日の丸・君が代も、原発再稼働も、歴史修正主義も、集団的自衛権も一切触れられていない。安倍政権のメインスローガンとは無縁な候補者の当選が、安倍自民の暴走の護符となる。この奇妙さをどう理解すればよいのだろうか。
たとえば、自民党公認の男性45歳候補。公報のスペースには、ラグビー選手であることをアピールする大きなイラスト。意味がある表現はそれだけと言ってよい。殆ど意味のない「政策」が2行だけ並んでいる。そのうちの一つが「不動産業で培った知識とノウハウで暮らしやすい活気あふれる『まちづくり』『都市計画』を進めます!」というもの。もちろんこの人現職の不動産屋さん。生活者の視点からではなく、事業者の視点で「まちづくり」をしようというのだ。どういった区民がこの人に投票するのだろうか。
共産党の10人すべての候補者が、地元の問題とともに、「安倍暴走ストップ! 地方政治で審判を」「戦争立法・原発再稼働反対」と掲げている。もちろんバリエーションはあるが、政党としてのまとまりが目に見える。
公明党の5名は、およそ政権与党の一員であることを押し出すところがない。代わっての押し出しは、「現場第一主義」であり、「生活相談」であり、ひたすらドブ板に徹した姿勢。これも、中央政界とは一線を画したいという意識的なアピールとの印象。
維新の2人は、党の政策を一応掲げてはいる。が、それ以外は、かなりの個性派。その一人の次のような公約に目がとまった。
「武力で他国を守る集団的自衛権の行使を可能にする(事態法)改正反対」
念のため、党の政策を確認してみた。「自国への攻撃か他国への攻撃かを問わず、我が国の存立が脅かされている場合において、現行憲法下で可能な『自衛権』行使のあり方を具体化し、必要な法整備を実施」というもの。
「集団的自衛権行使を可能とする法整備の推進」が党の政策で、この立候補者の公約は、「集団的自衛権の行使を可能にする法整備反対」である。まったく逆。おそらくは、この候補者には「集団的自衛権行使容認反対」が世論にウケが良く、集票に役立つものとの思惑がある。しかし、党の基本政策と真逆のことを掲げて、どうして党の公認候補者なのだろうか。
次世代の党からの立候補者は歯医者さん。元はみんなの党に所属していたようだ。禁煙運動に取り組んでいることをアピールしているので、個人的には好感が持てるのだが、もちろん私はこの政党が大嫌い。「次世代」らしいのは、「文京区を想い、国を想う」というフレーズと、「外国人地方参政権は反対。参政権を行使するためには国籍を取得すべき」という政策。レイシストに落選の憂き目あれ。
やはり、「自・共対決」の時代となりつつあるのだろう。自共以外の政党の存在感が薄い。もっとも、中央政界での一強を誇る自民党も、地域まで下りてくると案外たいした勢力ではない。けっして、イデオロギーや基本政策でまとまった自民党地域組織や集団があるわけではないことがよく分かる。地域では、安倍人気もなければ、安倍政策の魅力も語られてはいないのだ。
地域の自民党とは、意外に何の色も着いていない殆ど透明の存在なのだ。何の色もない候補者に有権者が投票し、当選した議員が区議団自民党を形づくると、かなりの色が着いてくる。これが都議会自民党となると殆ど真っ黒の「自民党色」となる。さらに中央政界では、安倍カラーの戦争色にまでになり、キナくさい臭いまでも撒き散らすことになる。草の根と安倍政権とをつなぐ、魔法の糸が紡がれているのだ。
しかし、安倍政権を支える基盤は存外に脆弱なのだ。安倍政権とは、「実は張り子の虎だった」といわれる時代が早晩訪れるのではないだろうか。そんなことを考えさせられる選挙前日である。
(2015年4月25日)
社民党の福島瑞穂議員が、参院予算委員会での安倍首相に対する質問の中で「14?18本の戦争法案」との発言にクレームをつけられている。クレーマーとなっているのは、政権であり、これに追随する院内自民党である。両クレーマーとも明らかにおかしい。この問題は民主主義の本質に関わるといってよく看過し得ない。全面的な福島議員応援の手段として、これからは、「安全保障関係連法案」「安保関連法案」などと言うのをやめよう。躊躇することなく、「戦争法案」と言おうではないか。
法に対するネーミングは重要だ。呼称者がその法律をどう把握しているかを表すものとして、である。正式な法の名称はたいていは長過ぎる。しかも、実態を表わさず明らかに誤解を期待するごときものも少なくない。
「日本国憲法の改正手続に関する法律」を「国民投票法」と呼べば、「主権者・国民の意思を国政に反映させる法律」というイメージだが、「改憲手続法」と言った方が穏やかならざるこの法律の本質がよく分かる。
1985年に、「国家秘密に係るスパイ行為等の防止に関する法律案」が国会に上程され国民的な反対運動の盛り上がりの中で廃案となった。上程者側は、この法案を「スパイ防止法」と略称し、「スパイ天国日本において国益に反するスパイの跳梁を防止する法律」と宣伝した。メディアは、これを「国家秘密法」と呼び、反対の運動体は「国家機密法」と呼んだ。戦前の軍機保護法や国防保安法を連想させる本質を衝いた上手なネーミングであった。
ところで、現行憲法の第2章の標題は「戦争の放棄」である。ご存じのとおり、第9条が1か条あるだけ。自民党改憲草案の第2章は「安全保障」と名称を変更する。「平和主義」の第9条のあとに、「国防軍」を定める第9条の2をおいている。安全保障とは、「戦争の放棄=武力によらない平和」に対立する用語なのだ。
名は体を表す、どのような「体」と見るかは人によってさまざまであるから、呼び「名」も異なることになる。ある立法の真の目的や、役割をどう把握するかは、国民一人ひとりの評価の問題で、これを他からとやかく言われる筋合いはない。国会議員であれば、あるいは政党であればなおさらのことである。しかも、政府与党のいう安全保障法制とは、武力による威嚇あるいは武力の行使によって、わが国の安全を保持しようというスタンスに間違いはない。これを「戦争法」「戦争立法」「戦争準備法」「戦争挑発法」と呼んでいささかの違和感もない。
もし、安倍や自民がこれを気に入らないとすれば、論戦の中で反論すればよいだけのこと。「そのような評価が怪しからん」「そのような法の呼び方をやめろ」「議事録からの抹消を承諾せよ」というのは、思想良心の自由に対する挑戦に等しい。討論拒否体質をむき出しにしたもので、あまりに大人げないし、乱暴極まる。
このことについての最初の報道は4月18日の朝日だったと思う。「社民党の福島瑞穂氏が参院予算委員会で安倍晋三首相に質問した際、政府が提出をめざす安全保障関連法案を『戦争法案だ』などと述べたことについて、自民党の理事は17日、一方的な表現だとして修正を求めた。…政治的な信条に基づく質問の修正を求めるのは異例で、論議を呼びそうだ。」というもの。
今日(4月24日)の赤旗が、志位委員長の発言として、「恥ずべき傲慢 撤回を」「『戦争法案』自民の修正要求」という記事を載せている。注目すべきは、「かつて日本共産党が、周辺事態法(1999年)を『戦争法』と呼び批判の論陣を張ったときには、自民党から同様の要求はなかった」と言っている。
実際にはどのようなやり取りだったか確認してみたいと思っていたら、福島議員が自分のブログ「福島みずほのどきどき日記」(4月2日)に未校正稿を掲載している。
要旨を引用すれば以下のとおり。
○福島みずほ君 安倍内閣は、五月十五日、十四本から十八本以上の戦争法案を出すと言われています。集団的自衛権の行使や、後方支援という名の下に戦場の隣で武器弾薬を提供する、このことを認めようとしています。
誰が戦争に行かされるのか。奨学金を払えない、仕事がない、資格を取りたい、大学に行きたい、そんな若者が行かされるのではないでしょうか。若者の過酷な労働条件の延長線上に本物の戦場がある、そのことが出てくると思います。格差拡大、貧困と戦争はつながっていると思いますが、総理、いかがですか。
○内閣総理大臣(安倍晋三君) 我々が今進めている安保法制について、戦争法案というのは我々もこれは甘受できないですよ。そういう名前を付けて、レッテルを貼って、議論を矮小化していくということは断じて我々も甘受できないと、こんなように考えているわけでありまして、真面目に福島さんも議論をしていただきたいなと、これは本当にそう思うわけでございます。
我々が進めている安保法制は、まさに日本人の命と、そして平和な暮らしを守るために何をすべきか、こういう責任感の中から、しっかりと法整備をしていきたいと、こういうものでございます。
○福島みずほ君 問いに答えていないですよ。格差拡大、貧困と戦争がつながるかと質問しました。
戦争法案、これは集団的自衛権の行使を認め、後方支援という名の下にまさに武器弾薬を提供するわけですから、戦争ができることになる、そういうふうに思います。これを戦争法案、戦争ができるようになる法案ですから、そのとおりです。
今、日本国憲法下の下にそれをやろうとする安倍内閣は退陣すべきだということを申し上げ、私の質問を終わります。
○委員長(岸宏一君) 先ほどの福島みずほさんの御発言中、不適切と認められるような言辞があったように思われますので、後刻理事会において速記録を調査の上、適当な処置をとることといたします。
安倍自民。あまりに狭量ではないか。あまりに余裕がない。安倍晋三の狭量は以前からおなじみだが、岸宏一委員長の政権追随ぶりもいただけない。立法府の矜持と見識はどこに行ったのか。国会は討論の府ではないか。「戦争法案」と主張する質問者にも、「戦争法案ではない」という答弁者にも、それぞれが把握した法の本質を存分に語らせ、議を尽くさせたらよいのだ。
安倍は、「あなたは戦争法というが、それはあたっていない。なぜなら、これは平和を求めた法律なのだ。けっして戦争のため立法ではない」としたうえで、格差・貧困の拡大と戦争とのつながりの有無について答弁すればよい。もちろん、重ねての議論がここから続くことになる。説得力の有無は、国民が判断することだ。それを、質問者の見解を封じ、議論もしようとしないからおかしくなるのだ。
福島議員のいうとおり、若者の命が奪われる事態が現実に起ころうとしているのだ。なんの遠慮がいるものか。さあ、これからは「戦争法」の用語を使って大いに議論をしよう。そして、この危険な違憲の諸法案を廃案に追い込もうではないか。
(2015年4月24日)
本日もしつこく、安倍政権の大学に対する国旗国歌押しつけ問題を取り上げる。私は、この10年、教育の場への国旗国歌強制を不当とする訴訟に取り組んできた。この訴訟に携わった者の責務として、この問題では発言しなければならないと肚を決めている。しつこさには、目をつぶっていただきたい。
昨日のブログに、東京新聞の社説がこの問題に触れないことを嘆いた。明けて今日(4月17日)、期待に応えて同紙の社説が政権批判を論じた。これで中央紙の政権批判派が4紙となり、政権への無批判ベッタリ追随派が2紙となった。4対2の色分けは、まだ言論界が全体として健全な批判精神をもっていることを示している。
数だけではない。内容においても、政権批判派は政権ベッタリ派を圧倒している。主張の説得力も格調も段違いだ。社説を比較する限りでのことだが、なぜ、読売や産経のような新聞が淘汰されずに生き延びているのか、不思議でならない。もしかしたら、両紙の読者は、他紙を読んだことがないのかしら、などと思わせる。
東京の社説は、「大学と国旗国歌 自主自律の気概こそ」という、まことに正攻法。真っ向勝負の東京新聞らしい。
冒頭の一節が引き締まっている。
「国立大学の卒業式や入学式で日の丸掲揚、君が代斉唱を求める安倍政権の動きは、大学の自治を脅かす圧力になりかねない。統制を強めるほど、教育研究は色あせ、学問の発展は望めなくなる。」
その理由や根拠は次のように簡潔に述べられている。
「大学の自治は、憲法が定める学問の自由を守る砦である。教育研究はもちろん、人事や予算、施設管理といった学内の運営に対する外野からの干渉は許されない。だからこそ、九年前の教育基本法の改正では、大学の自主性、自律性の尊重を義務付ける条文が盛り込まれたのではなかったか。」
「大学は世界の平和と人類の福祉に貢献するという原点を忘れないでもらいたい。真理を探究し、新しい価値を創造する。日本の未来のためにも、自治の精神を貫く気概を持つべきだ。」
東京新聞は、露骨に大学の自治への介入を試みている政権を批判するとともに、大学に政権の強要に屈するな、と呼びかけている。私たちも、その両者に目を向ける必要がありそうだ。
昨日は、地方紙の旗手として道新の社説を取り上げたが、新たに神戸新聞、高知新聞、信濃毎日の各社説が目に留まった(そのほかに、東京の親会社である中日新聞は、東京新聞と同じ社説を掲げているがこれは除く)。それぞれに多様な特色があって実に面白い。
まずは、神戸新聞。「国旗国歌の要請/強要でないと言うのだが」というタイトル。飄々としたしたたかさを感じさせる文体。どちらかといえば硬派ではない軟派。直球派ではない軟投派だ。
社説の冒頭で「『お願い』と言いながら威圧的なのが気がかりだ。」という。言われて見ればそのとおり。確かに下村文科省の態度は、「威圧的」だ。到底、人に「お願い」しようという姿勢ではない。
決めつけずに、したたかに次のように言っている。
「国旗国歌法の成立時、当時の小渕恵三首相が『強制するものではない』と述べたことも想起したい。下村氏も『お願いであり、するかしないかは各大学の判断。強要ではない』」とは話している。しかし、単なる『お願い』と受け止めにくい状況がある。国立大の運営費交付金は削減傾向が続いており、大学側からは『教育や研究の質の低下を招きかねない』との悲鳴が上がっている。一方で改革に積極的な大学には交付金を重点配分することも検討されている。そんな中、首相の『税金によって賄われていることを鑑みれば』の発言だ。『要請』は受ける側にとって圧力のように響く。」
次いで、「【国旗国歌要請】大学の自主性に委ねよ」という高知新聞。こちらは硬派だ。直球のストレート勝負。要点を抜き出せば以下のとおり。
「政治が、大学の式典の中身にまで口を挟むのは問題があると言わざるを得ない。」
「政治権力などの干渉を受けず、全構成員の意思に基づいて教育研究や管理に当たる『大学の自治』は、憲法が保障する『学問の自由』に不可欠な制度とされている。2006年改正の教育基本法でも、それまでなかった大学の条文が設けられ、『自主性、自律性その他の大学における教育及び研究の特性が尊重されなければならない」としている。
「国が『お願い』だと主張しても、いまの国立大学は『圧力』と受け止めかねない状況にある。」「兵糧攻めへの恐怖は大きい。」
そして、硬派の硬派たる所以が末尾の一節。
「下村文科相は会見で圧力を否定し、『強要ではない』と強調した。しかし、集団的自衛権行使容認をはじめ、安倍政権に見られる強引な政策展開からは不安は募る。注視し続ける必要がある。」
ごもっとも。よく言っていただいた。腹に据えかねるとして、吐き出された一文ではないか。
そして、信濃毎日新聞である。「大学に国旗国歌 『法にのっとる』のなら」という標題。これは他にない法的ロジックの社説。
「大学の自治を軽んじる動きが続いている。」
「戦前には、大学の研究内容に国家が介入した。例えば滝川事件では京都帝大教授が自由主義的との理由で文相に辞職に追い込まれた。学問の自由が妨げられた反省に立って大学自治の仕組みがつくられたことを忘れてはならない。」
「大学は深く真理を探究する場である。教育基本法もそううたう。続けて『大学については、自主性、自律性が尊重されなければならない』と定めている。法にのっとって、と言うなら、政権の介入こそ慎まなければならない。」
これまで、8紙の政権批判派社説と、2紙の政権ベッタリ派社説を見てきた。7紙が2紙を圧倒していると言ってよい。論点は出尽くした感がある。東京社説の言うとおり、政権を批判する世論を作るとともに、大学人を励ますことも実践の課題となる。
**************************************************************************
ここからは、付録。
東京新聞社説の中に、次の一文がある。前後とのつながりは明瞭でない。
「2004年の園遊会での一幕があらためて思い出される。
東京都教育委員だった棋士の故米長邦雄氏が『日本中の学校で国旗を揚げ、国歌を斉唱させるのが、私の仕事です』と語ると、天皇陛下は『やはり強制になるということでないことが望ましいと思います』と返されたのだった。」
なぜ、唐突に天皇が持ち出されたのか。天皇がこう言ったからどうなんだ、とは書いていない。だから、論評は難しい。が、この「米長対天皇問答事件」は、私に印象が強い。米長と天皇の両者に問題ありとして、当時のブログに2度書いた。今、それを読み返してみると、私は少しも変わっていない。少しも進歩していない。十年一日のごとく同じことを繰り返しているのだ。但し、ペンの切れ味は落ちていると嘆かざるを得ない。
当時は日民協のホームページに連載していた「事務局長日記」、そのアーカイブ2件を再録して披露しておきたい。
*******************************************
2004年10月29日(金)米長邦雄を糾弾する
以下は、朝日の報道。
「天皇陛下は28日の園遊会の席上、東京都教育委員を務める棋士の米長邦雄さん(61)から『日本中の学校で国旗を掲げ、国歌を斉唱させることが私の仕事でございます』と話しかけられた際、『やはり、強制になるということではないことが望ましい』と述べた。」
共同通信は、以下のとおり。
「東京・元赤坂の赤坂御苑で28日に開催された秋の園遊会で、天皇陛下が招待者との会話の中で、学校現場での日の丸掲揚と君が代斉唱について『強制になるということでないことが望ましいですね』と発言された。
棋士で東京都教育委員会委員の米長邦雄さん(61)が『日本中の学校に国旗を揚げ、国歌を斉唱させることが私の仕事でございます』と述べたことに対し、陛下が答えた。」
問題の第1は、米長が天皇の政治的利用をたくらんだこと。これは、現行憲法下の禁じ手である。天皇制は人畜無害を前提にかろうじて存続が許されているからだ。もともと、天皇は政治的利用の道具であった。そのことが天皇制批判の最大の根拠である。天皇の政治的利用をたくらんだ者の責任は徹底的に糾弾されなければならない。二歩を打った棋士米長はその瞬間に負けなのだ。天皇制存続派にとっても米長の行為は愚かで苦々しいものであろう。
問題の第2は、米長の意図とは違ったものにせよ、天皇が政治的な発言をしたことにある。国旗国歌問題について、天皇がものを言う資格など全くない。自ら望んだ会話ではないにせよ、出過ぎた発言である。天皇には口を慎むよう、厳重注意が必要だ。
問題の第3は、宮内庁の発言である。
羽毛田信吾次長は「国旗や国歌は自発的に掲げ、歌うのが望ましいありようという一般的な常識を述べたもの」と話した(共同通信)という。冗談ではない。少なくとも私は、そのような「一般的な常識」の存在を認めない。毎日に拠れば、羽毛田は、天皇の真意を確認しての会見という。「一般常識として歌うのが望ましい」との認識を天皇が有していたという発言自体が大きな問題だ。羽毛田見解が天皇の発言を「国民が自発的に国旗国歌を掲揚・斉唱するのが望ましい」との内容と釈明したとすれば、天皇の責任をさらに重大化するものである。
天皇は黙っておればよい。誰とも口を利かぬがよい。それが、人畜無害を貫く唯一のあり方なのだ。彼の場合、何を言っても「物言えばくちびる寒し秋の風」なのだから。
*******************************************
2004年10月31日(日)米長君、君に教育委員は務まらない
米長邦雄君、君は教育委員にふさわしくない。潔く辞任したまえ。
君は、棋士として名をなしたそうだ。産経新聞社主催の棋聖戦では不思議と強くて「永世棋聖」を名乗っていると聞く。僕も将棋は好きだがまったくのヘボ。永世棋聖がどのくらいのものだか、君がどのくらい強いのか理解はできない。
しかし、これだけは僕にも分かる。君は盤外のことはよく分からないのだ。そして盤外では、自分の指し手に相手がどう対応するのか、まったく読めない。将棋ができることがエライわけではなく、将棋しかできないことが愚かでもない。問題は、盤外での君が、愚かを通り越してルール違反をしたこと。禁じ手を指したのだ。即負けなのだよ。教育委員が務まるわけがない。
本来、教育委員というのは、重い任務なのだよ。日本の将来の少なくとも一部に責任を持たねばならない。将棋を指すこととは、根本的に異なる。それなりの見識がなければならない。床屋談義のレベルで務まるものではないのだ。不見識を露呈した君は、その任務に堪え得ない。だから、一日も早く辞めたまえ。それが、若者の将来のためでもあり、君自身のためでもある。
君は園遊会で、天皇に次のように話しかけた。
「日本中の学校に国旗を上げて国歌を斉唱させるというのが私の仕事でございます」
このことは、複数のマスコミ報道が一致している。ところが君のホームページを見ると、国旗国歌問題については何の会話もなかった如くだ。この姿勢はフェアではなかろう。君のやり方は姑息だ。ちっともさわやかではない。
君が天皇へ話しかけた言葉に不見識が露呈されている。君の頭の中がよくみえる。君は、子どもたちの無限の可能性を引き出す教育という崇高な営みについて何も考えてはいない。教育について何も分かってはいない。国旗・国歌問題だけが「私の仕事」と信じこんでいるのだ。しかも、天皇からさえ批判された「強制」が君のこれまでの仕事なのだ。
君は棋聖なのだから、自分が一手を指すまえに相手の二手目の応手を読むだろう。それなくしては一手を指せない。きみは、天皇に話しかけるに際して、相手の反応をどう読んだのか。いったい天皇のどんな返答を期待したのだろうか。願わくは「しっかりやってくださいね」という激励、少なくとも「そうですか。ご苦労様」という消極的同意を期待したものと判断せざるを得ない。でなくては、棋士米長にあるまじき無意味な発語。君がどんなに否定してもそのような状況でのそのような意味を持つ発言なのだ。
これは、天皇の政治的利用以外の何ものでもない。君も知ってのとおり、日本には最高規範として日本国憲法というものがある。憲法では天皇の存在は認められているが、厳格に政治的な権能は制約されている。そもそも、天皇の存在自体が憲法の本筋として定められている国民主権原理に矛盾しかねない。政治的にまったく無権限・無色ということでかろうじて憲法に位置を占めているのが、天皇という存在なのだ。だから、天皇の政治的利用は、誰の立場からもタブーなのだ。君は、そのタブーをおかしたのだよ。不見識を通り越して、ルール違反・禁じ手だという所以だ。
天皇が、君の問いかけに対して、こう答えたと報じられている。
「やはり強制になるということでないことが望ましいですね」
君と一心同体の産経だけが、、「望ましい」でなく、「好ましい」としているそうだが、どちらでも大差はない。
これは、天皇としてあるまじき政治的発言ではないか。誰が考えても、学校教育の現場での国旗国歌のあり方が政治的テーマでないはずがない。しかも今、強制の波は現実の課題として押し寄せ、大量処分と訴訟にまで発展している。政治的に大きく割れた意見のその一方の肩をもつ発言を天皇がしたのだ。由々しき事態である。この問題発言を引き出したのは、米長君、君だ。君自身が責任をとらねばならない。
もっとも、君もさぞかし驚いただろう。天皇は、君がやっている「日の丸・君が代」強制の事実を知っていたのだ。しかも、それに批判的な見解をもっていた。都教委が現場の教師に起立・斉唱を強制し、これを拒否した教員を大量処分した事実に関心を持ちよく新聞も読んでいたのだろう。即座に、強制反対を口にしたのは、予てからこの事態を苦々しく見ていたからに違いない。皮肉なことだが、君とその仲間がやっていたことは、天皇の「お気に召す」ことではなかったのだ。
この天皇の発言に対する、君の三手目の指し手が次のとおりだ。
「ああ、もう、もちろんそうです」「ほんとにもう、すばらしいお言葉をいただきましてありがとうございました」
これをどう理解すればよいのだろう。君は多分天皇崇拝主義者なのだろうね。だから、天皇に反論したりはせず、滑稽なほど迎合した発言になってしまったのだろう。それはともかく、君は、「強制でないことが望ましい」に対して、「もちろんそう。すばらしいお言葉ありがとう」と言ったのだよ。天皇の前でのこの言葉を、まさか、撤回ということはあるまいね。今後は「すばらしいお言葉」を無視して、「日の丸・君が代」の強制を続けることなどできはすまい。
実は、君の一手目がルール違反で敗着。指し継いでも、相手の二手目が絶妙手で君の負け。三手目は詰んだあとの無駄な指し手。
もう君には、教育委員の重責は務まらない。やることがあるとすれば、君の言のとおり強制を望ましくないとして、処分を撤回すること。それができないのなら、すぐに辞めたまえ。君の流儀は「さわやか流」というそうではないか。この際さわやかに潔く辞めることが、君の名誉をいささかなりとも救うせめてもの「形作り」なのだから。
「国立大学の卒業式に国旗国歌を」という安倍晋三の押しつけに、まず朝日と毎日が批判の社説を書いた。朝日「国旗国歌―大学への不当な介入だ」、毎日「国旗国歌の要請 大学の判断に任せては」というもの。両紙とも4月11日の朝刊に掲載。安倍発言は9日で、予定されたことではなかったようだから、両紙の迅速な対応には敬意を表したい。
対して、政権ベッタリの本領を発揮したのが、14日付の産経社説。「国旗国歌 背向ける方が恥ずかしい」というもの。「読むだに恥ずかしい社説」と、私が昨日のブログで叩いたものだ。実は、昨日日経も社説に取り上げていた。「自主・自律あっての大学だ」という標題。これが、実にリベラルな立場からの明確な政権批判の内容なのだ。おそらくは、経済合理性を重んじる財界主流の意向は、安倍の非合理な復古主義にはついていけないということなのだろう。ともかく、昨日の時点で、この問題についての中央各紙の社説の姿勢は3対1で、批判派が圧倒した。
ところが今日(16日)、読売がこの問題で社説を書いた。産経の後追いである。内容はお粗末極まる。日経並みの見識を示すチャンスを逃して、産経並みでしかないことを天下に示した。ともあれ、これで批判派とベッタリ派とは、3対2の色分けとなった。東京新聞はこの件を社説に取り上げていない。4対2となるよう期待したいところ。
ネットで地方紙を探してみたが、面倒で調べきれない。北海道新聞の社説だけが目にとまった。「国立大に日の丸 押しつけはやめるべき」という、なんともストレートなそのものズバリの標題。以下に、日経、読売、そして道新3紙の社説を要約してご紹介したい。
日経社説の論旨は、「自主・自律あっての大学だ」という標題のとおり。大学の自治の重要性を中心に、大学の国際化の問題にも触れて、大学を萎縮させてはならない、とするもの。
「大学はその運営も教育・研究の中身も自主性、自律性が尊重されるべき存在だ。世界中から人を受け入れる空間でもある。大学のグローバル化が急務となるなかで、国公立、私立にかかわらず画一的な統制はなじまない。」
「大学に対する政府の役割は、入学式をどう営むかといったお節介でなく、教育・研究の水準向上や多様性確保である。政府はこの問題で、これ以上の口出しは控えるべきだ。国立大学協会など大学サイドでも、きちんと対応を議論すべきではないだろうか。」
以上に見られる日経社説子の筆の運びは、「なんと愚かな」「非常識な」「馬鹿馬鹿しい」「どうしてそこまでやろうというのか」という、政権に対するあきれ果てたという気分にあふれている。
さらに、こう言っていることが注目される。
「下村文科相は、各大学への要請は『強制ではなく、お願い』だという。しかしまさに首相が『税金によって賄われている』と述べたように、国立大への交付金のさじ加減は文科省が握っている。そこからきた『お願い』は大学を萎縮させる効果が十分にあろう。」
きわめて常識的なそして明解な指摘ではないか。
本日の読売社説は「大学の国旗国歌 要請で自治が脅かされるのか」というもの。タイトルのとおりの内容である。面白くもおかしくもない。
「国旗・国歌が国民の間で広く定着している状況を考えれば、式典で掲揚や斉唱を促すのは妥当と言えよう。」というのが、基本スタンス。
一応、「憲法が保障している『学問の自由』と、それを支える『大学の自治』の原則は、尊重されなければならない。」とは言う。とは言うものの、一応のものとしての理解でしかない。かたちばかりの憲法原則の尊重は、その蹂躙を許容している。
要は、「『強制』ではない。『要請』に過ぎないのだから、問題はない」ということに尽きる。「強制力のない『お願い』によって簡単に揺らぐほど、大学の自治はもろいのだろうか。」とまで言っている。権力の側に立ち続けると、こういう感覚になるのかも知れない。日経の方がまことにまっとうではないか。
戦前、治安維持法や国防保安法、軍機保護法、新聞紙法、出版法などの思想弾圧法制が猛威を振るった当時、「思想統制はそんなにたいしたことはなかった。私は自分の書きたいことを書いた」という記者がいた。そりゃそうだ。権力に擦り寄っていれば書けるのだ。権力を批判する記事さえ書かなければ、「権力はたいしたことはない」のだ。読売は、長年そのようなスタンスだから、自分は安全なのだ。「『強制』ではない。『要請』に過ぎないのだから、問題はない」と言っていられるのだ。そう、権力ベッタリ派は、権力の恐ろしさに向かい合うことはない。権力を警戒せよと言っても、理解不能なのだ。
北海道新聞の社説「国立大に日の丸 押しつけはやめるべき」は格調が高い。まずは大学の国際化から説き起こしている。
「大学の役割はますます国際的に開かれたものになりつつある。…キャンパスで伝統的に培われてきた自治や自立、自主性を尊重することが大学の個性を生む。それが世界からの評価につながる。」
「大学をナショナリズム色の強い安倍カラーに染めあげては、国際化も世界に通じる人材の育成も危うい。押しつけはやめるべきだ。」
「国がカネを出しているのだから、国立大学は政府の考えに従うのが筋―。そう言いたいのだとしたら、あまりに了見が狭い。研究や学問はそもそも国という枠にとらわれるものではない。言うまでもないが、その目的は広く世界の科学や技術、社会の発展に寄与するところに置かれている。…「国家」ばかり強調すると、研究自体がゆがんでしまわないか。」
「下村文科相は『強要するものではない』と自主性を重んじる物言いだ。しかし、本当か。国が運営費交付金の重点配分を通じて大学を選別する方針を打ち出している。だからこそ、額面通りには受け取れないのだ。」
「教育の要諦は懐の深さにある。幅広い人材を生むには鷹揚さが欠かせない。なのに政府はいま、最高学府に対しても、たがをはめつつ、国内外の大学同士を徹底的に競わせようとしているようにみえる。競争至上主義の導入といい、今回の『国旗国歌』といい、大学が持ってきた自由闊達な空気を失わせないか。それを危惧する。」
読売や産経には疾うに失われた見識や知性というものが、地方紙の論説には脈々と生きていることに清々しい思いを禁じ得ない。
なお、読売が、「自国や他国の国旗・国歌に敬意を表すのは、国際社会における常識であり、当然のマナーだ。政府がそうした教育を求めるたびに、あたかも統制強化のごとくとらえる議論が起きるのは、世界でも日本だけだろう。」と言っている。
そうだろうか。国旗国歌を国家ないし権力の象徴として、国旗国歌に抵抗の意思を示す行動は世界に共通のものだ。愛国心の強制は国旗国歌の強制とともにあり、権力批判は国旗国歌への象徴的な抗議の行動となる。これも普遍的な現象だ。
アメリカの例を引きたい。国家への抗議の意味を込めて公然と国旗を焼却する行為を、象徴的表現として表現の自由に含まれるとするのが連邦最高裁の判例なのだ。
アメリカ合衆国は、さまざまな人種・民族の集合体である。強固なナショナリズムの作用なくして国民の統合は困難という事情がある。当然に、国旗や国歌についての国民の思い入れが強い。が、それだけに、国家に対する抵抗の思想の表現として、国旗(星条旗)を焼却する事件が絶えない。合衆国は1968年に国旗を「切断、毀棄、汚損、踏みにじる行為」を処罰対象とする国旗冒涜処罰法を制定した。だからといって、国旗焼却事件がなくなるはずはない。とりわけ、ベトナム戦争への反戦運動において国旗焼却が続発し、2州を除く各州において国旗焼却を禁止しこれを犯罪とする州法が制定された。その憲法適合性について、いくつかの連邦最高裁判決が国論を二分する論争を引きおこした。
著名な事件としてあげられるものは、ストリート事件(1969年)、ジョンソン事件(1989年)、そしてアイクマン事件(同年)である。いずれも被告人の名をとった刑事事件であって、どれもが無罪になっている。なお、いずれも国旗焼却が起訴事実であるが、ストリート事件はニューヨーク州法違反、ジョンソン事件はテキサス州法違反、そしてアイクマン事件だけが連邦法(「国旗保護法」)違反である。
68年成立の連邦の「国旗冒涜処罰」法は、89年に改正されて「国旗保護」法となって処罰範囲が拡げられた。アメリカ国旗を「毀損し、汚損し、冒涜し、焼却し、床や地面におき、踏みつける」行為までが構成要件に取り入れられた。しかし、アイクマンはこの立法を知りつつ、敢えて、国会議事堂前の階段で星条旗に火を付けた。そして、無罪の判決を得た。
アイクマン事件判決の一節である。
「国旗冒涜が多くの者をひどく不愉快にさせるものであることを、われわれは知っている。しかし、政府は、社会が不愉快だとかまたは賛同できないとか思うだけで、ある考えの表現を禁止することはできない」「国旗冒涜を処罰することは、国旗を尊重させている、および尊重に値するようにさせているまさにその自由それ自体を弱めることになる」(土屋英雄教授作成の東京君が代訴訟における「意見書」から)
なんと含蓄に富む言葉だろう。
安倍や産経、読売に聞かせてやりたい。
「大学に国旗を押しつけることは、国旗を尊重するに値するようにさせている、まさにそのわが国の自由を冒涜し、わが国の価値を貶めることになる」のだと。
(2015年4月16日)
昨日(4月14日)の産経社説が、国立大学における国旗国歌押しつけ問題を取り上げた。「国旗国歌 背向ける方が恥ずかしい」という標題。もちろん、産経本領発揮の提灯持ち社説。こんな記事を読まされる方が恥ずかしい。
同社説は冒頭にこう言っている。
「国立大学の卒業式や入学式で国旗掲揚と国歌斉唱を適切に行うよう求めることに反発がある。国旗と国歌に敬意を払う教育がなぜいけないのか。それを妨げる方が問題である。」
産経は、誰にどのような理由で「反発」があるかについて思いをいたすところがない。「実施できないのは、国旗国歌に背を向ける一部教職員らの反発が根強いからだろう」とだけ言って、この教職員の言い分に耳を傾けようとはしない。いったい、どこにどのような問題があるかを考えようともせず、噛み合った議論をしようという姿勢を持ち合わせていない。一方的に、自分の主張の結論を情緒的に述べているだけ。これでは幼児の口喧嘩のレベルに等しい。それが右翼メディアの本領と言えばそれまでだが、これでは、大学人の反発や懸念をますます深めるだけのものと知らねばならない。
まずは、産経の議論の立て方がおかしい。「国旗と国歌に敬意を払う教育がなぜいけないのか」ではなく、「国旗と国歌に敬意を払う教育がなぜ必要なのか」と問わねばならない。さらに、「なぜかくまでに国旗国歌にこだわるのか」、「なにゆえに国旗国歌に敬意の表明を強制する必要があるのか」と問を展開する必要がある。
議論の出発点は飽くまでも個人の自由でなくてはならない。個人の思想も行動も、公権力に制約されることなく自由であることが大原則なのだ。どんな旗や歌を好きになろうと嫌いになろうと、その選択は個人に任されている。にもかかわらず、なにゆえ、国旗国歌に敬意を払わねばならないというのか。これは「国際常識」や「多数の意思」などで簡単にスルーすることはできない大きな問題である。さらに、歴史的に刻印された負の烙印をいまだに消せない「日の丸」と「君が代」への敬意を払うべきとする教育が、なにゆえに是認されるのか、政権も産経も納得のいく説明をしなくてはならない。
国家の象徴である歌や旗への態度は、個人が国家に対してどのようなスタンスをとるかを表す。これは、完全に自由でなくてはならない。日本大好きで、日の丸・君が代へ敬礼を欠かさない人がいてもよい。しかし、虫酸が走るほど嫌いで、日の丸・君が代は見るのもイヤだという国民がいてもよいのだ。国民の資格は国家への好悪が条件ではない。国民が主人公の民主主義国家においては、国家には国民に対する無限の寛容が要求される。
かつて大日本帝国大好きな臣民がいた。ナチスドイツの愛国者もいた。今、北朝鮮にもISにも熱烈な愛国者がいるだろう。しかし、国民すべてがその国を大好きなはずはない。問題は、いろんな理由で自分の国を好きではないと思う人たちが、非国民との非難を受けることなく安心して生きていけるかにある。そのことについての寛容の有無が、民主主義国家であるか全体主義国家であるかの分水嶺である。そして、国旗国歌への態度についての国の干渉のあり方は、民主主義か全体主義かのリトマス試験紙である。
憲法とは、突きつめれば個人と国家との関係の規律である。我が日本国憲法は、安倍政権や下村教育行政や産経にはお気に召さないところだが、18世紀以来の近代憲法の伝統にのっとった個人主義・自由主義に立脚している。自由な個人が国家に先行して存在し、その尊厳を価値の根源とする。国家は価値的に個人に劣後するものでしかない。いや、むしろ個人の自由を制約する危険物として取扱注意の烙印を押されているのだ。
その個人に対して、国家の象徴である国旗・国歌に敬意を払うべしとする立論には、納得しうる厳格な法的根拠が不可欠なのだ。自発的意思で国旗国歌を尊重する態度の人格形成を教育の目標とすることは、本来我が憲法下では困難というべきだろう。第1次安倍内閣が強行した改正教基法の「国を愛する」との部分は、「国」の内実の理解や、「愛する」が強制の要素を含むとすれば、違憲の疑いが濃厚である。
参院予算委員会で、安倍首相は「改正教育基本法の方針にのっとり、正しく実施されるべきではないか」と答弁した。産経はこれを「当然である。改正教育基本法では国と郷土を愛し、他国を尊重する態度を育むことを重視している」というが、浅薄きわまりない。
憲法23条は、「学問の自由は、これを保障する」と定める。誰からの学問の自由侵害を想定してこのような規定を置いたか。いうまでもなく、仮想敵は国家である。戦前、国家による数々の学問の自由への侵害事件が重ねられた。その悪夢を繰り返してはならないとする主権者の決意がこの条文である。誰にこの自由は保障されているのか。まずは個人だが、その自由を担保するための制度的保障として大学の自治が認められている。その大学に、国旗国歌の押しつけとは、おぞましい限りというほかはない。
さらに、教育基本法には産経が引用する条文だけではなく、次のようなものもある。
第2条(教育の目標)教育は、その目的を実現するため、学問の自由を尊重しつつ、次に掲げる目標を達成するよう行われるものとする。
一号 幅広い知識と教養を身に付け、真理を求める態度を養い、豊かな情操と道徳心を培うとともに、健やかな身体を養うこと。
二号 個人の価値を尊重して、その能力を伸ばし、創造性を培い、自主及び自律の精神を養うとともに、職業及び生活との関連を重視し、勤労を重んずる態度を養うこと。
第7条(大学)
1項 大学は、学術の中心として、高い教養と専門的能力を培うとともに、深く真理を探究して新たな知見を創造し、これらの成果を広く社会に提供することにより、社会の発展に寄与するものとする。
2項 大学については、自主性、自律性その他の大学における教育及び研究の特性が尊重されなければならない。
「学問の自由を尊重」「幅広い教養」「真理を求める態度」「豊かな情操」「個人の価値を尊重」創造性を培い」「自主及び自律の精神」「学術の中心」「高い教養」「深く真理を探究」「新たな知見を創造」「大学の自主性、自律性」「大学における教育・研究の特性の尊重」等々のすべてが、権力作用と背馳する。国旗国歌を排斥する。少なくとも馴染まない。教育基本法の隻句を国旗国歌押しつけの根拠とすることはできない。
産経は、「文科相は『お願いであり、するかしないかは各大学の判断』とも述べている。大学の自主性にも配慮した要請を批判するのは疑問だ」ともいう。しかし、産経の論難にかかわらず、下村文科行政の要請が「大学の自治を損なうもの」であることは明らかだ。カネを握るものは強い。カネの配分の権限を握っているものには、迎合せざるを得ないのがこの世の現実。大旦那が大旦那であるのは、知性は欠如していてもカネが支配の力をもっているからだ。それでなくとも乏しい文教予算。その配分を削られるかも知れないという恫喝がセットになっているところに大きな問題がある。だから、教育行政は教育条件整備に徹すべきであって、恣意的な予算配分で教育を歪めてはならない。
また、産経はこうも言う。「大学人にあえて言うまでもないことだが、国旗と国歌はいずれの国でもその国の象徴として大切にされ、互いに尊重し合うことが常識だ。」
これもお粗末な意見だ。大学人なら、「国旗国歌は、いずれの国でもその国の象徴としてふさわしいものであるが故に大切にされる。建国の理念や国民の団結を示す歌や旗としてふさわしくない国旗国歌は捨て去られる」と一蹴するだろう。
第2次大戦の敗戦国であるドイツもイタリアも国旗を変えた。その旗を象徴とした過去ファシズム国家のあり方を反省し、国の理念を変えたからである。同じ枢軸国の一員として、侵略戦争や植民地支配を反省し清算したはずの日本が、「日の丸・君が代」をいまだに国旗国歌としていることに違和感をもつ国民は少なくない。日の丸・君が代は、大日本帝国の侵略戦争や植民地主義とも、主権者天皇への盲目的崇拝ともあまりに深く結びついた存在であったからである。
国旗国歌法は、国家において「日の丸・君が代」を国旗国歌として用いることを定めただけもので、国民に何らの義務を課するものではない。敬意表明を強制をするものでないことは、国旗国歌法の審議過程で確認されたが、法ができあがってから政府はこれを少しずつ国民に強制しつつある。このやり口は詐欺に等しい。
また、産経は「人生の節目の行事で国旗を掲揚し、国歌を斉唱することは自然であり、法的根拠を求めるまでもない」という。恐るべき法感覚、人権感覚、社会感覚といわざるを得ない。私の常識では、人生の節目で国家が出てくるなんぞトンデモナイ。ましてや権力や権威を恐れず真理を探究すべき大学でのこと。口を揃えて「君が代」を唱う大学生とは、主体性を喪失し、知性や批判精神の欠如したロボットに過ぎない。知性の府である大学に、日の丸・君が代は夾雑物でしかない。
産経社説は、最後をこう結んでいる。
「祝日に国旗を掲げる家庭も少なくなっている。普段から国旗と国歌を敬う教育を大切にしたい」
「祝日に国旗を掲げる家庭が少ない」ことはごく自然で望ましいこと。政権は、家庭に直接の国旗国歌の強制は難しいから、学校教育での強制に躍起になっているのだ。
教育に最も必要なものは、個人の主体性の確立である。主権者にふさわしく、自分の足でしっかりと立って、自分の頭でものを考え、自分の意見をきっぱりと発言のできる明日の主権者を育成することである。無批判に、日の丸を仰ぎ君が代を唱わせる教育からはこのような主体は育たない。教育現場の国旗国歌こそは、国家や社会に従順な、主体性と個性に欠けた国民教育の象徴と言うべきであろう。
私見と、政権や産経の立論の差異の根底にあるものは、個人と国家の価値的優劣の理解である。私は、純粋な個人主義者であり、自由主義者である。政権や産経の立場は、国家主義であり全体主義である。
私の考え方は、アメリカ独立宣言、フランス人権宣言、そして日本国憲法、国連の諸規約に支えられた常識的なものだ。政権や産経の立場は、旧天皇制や現在も残存する全体主義諸国家を支える思想に親和的なもの。安倍政権や産経の社説に表れた、国家主義・全体主義の鼓吹には重々の警戒をしなければならない。
(2015年4月15日)