DHCスラップ「反撃」訴訟控訴審第1回口頭弁論は、1月27日(月)午前11時? 511号法廷でおこなわれる。ことは、表現の自由にも、政治とカネの問題にも、消費者の利益にも関わる問題である。是非、多くの方に傍聴いただきたい。
昨年(2019年)10月4日、東京地裁民事第1部で一審の勝訴判決を得た。この判決は、DHC・吉田嘉明が私(澤藤)を訴えたスラップは違法であると明確に断じた。だから、請求認容額(110万円)にかかわらず、勝利感の強い判決で、当方から積極的に控訴する気持にはならなかった。
ところが、被告側DHC・吉田嘉明が控訴し、私は被控訴人となった。控訴審に付き合いを余儀なくされる立場に立つと、660万円の請求に対する110万円の認容額の少なさに不満が募るようになった。そこで、附帯控訴をすることとなった。
原審で原告が請求した損害は以下の3費目である。なお、前件訴訟というのが、DHC・吉田嘉明が私に仕掛けたスラップ訴訟のことであり、本件訴訟が反撃訴訟のことである。
?前件訴訟応訴のための財産的損害(弁護士費用)
?前件訴訟提起による精神的損害(慰謝料)
?本件訴訟提起のための弁護士費用
この三者を合計した損害の内金として660万円を請求した。
これに対する、原判決の認定は、以下のとおりとなっている。
?前件訴訟応訴のための財産的損害(弁護士費用)ゼロ
?前件訴訟提起による精神的損害(慰謝料)??? 100万円
?本件訴訟提起のための弁護士費用 10万円
まず慰謝料の額が低い。その理由を判決は、「敗訴の可能性(多額の損害賠償債務の負担)の観点から,原告の精神的な損害を過大に評価することは困難である。」という。噛み砕いて言えば、「こんな荒唐無稽の訴訟をされたところで、被告(澤藤)が負けるはずもないのだから、大した心配をすることはなかったでしょう」というのだ。それはなかろう。訴訟が荒唐無稽であればあるほど腹立たしさは募るものなのだ。また、敗訴可能性の濃淡にかかわらず、応訴のための時間と労力を割かねばならない煩わしさには多大なものがある。到底100万円では納得しがたい。
なによりも、前件スラップ訴訟に応訴のための弁護士費用負担分を認めなかったことが不服である。
この金額は本来多額である。訴額6000万円の事件だと弁護士費用の標準額は旧弁護士会報酬規程に則って着手金が247万円である。しかも、これが各審級で必要となる。成功報酬は678万円である。私が、この標準額を弁護団に支払うとなれば、1425万円となる。その一部でも、違法なスラップを提訴したDHC・吉田嘉明に支払わせなければならない。
実は、これまで、違法なスラップ提訴による損害賠償を認容した判決例において、弁護士費用を損害と認定したものは極めて少ない。ところが、最近N国がこの種の判例を作ってくれている。その典型が、判例時報2354号60頁に紹介されている、2017年7月19日東京地方裁判所民事第41部判決。
同判決は、「NHKの受託会社の従業員が放送受信契約締結勧奨のために訪問したことが不法行為に当たるとして提起された別件訴訟につき、権利が事実的、法律的根拠を欠くことを知りながら、業務を妨害する目的であえて提訴したもので、裁判制度の趣旨・目的に照らして著しく相当性を欠く不当訴訟であるとして、別件訴訟の原告と提訴を促し訴状の作成に関与した者との共同不法行為責任を認めた事例」と紹介されている。
端的に言えば、N国の指示に従って、視聴者の一人がNHKを被告とする10万円の損害賠償訴訟を提起し,当然のごとくに敗訴した。ところが問題はそれで収まらない。この訴訟をスラップと考えたNHKが、逆に54万円の弁護士費用について損害賠償訴訟を提起してその全額が認容されたという事件である。
注目すべきはNHKの請求が「別件訴訟」の応訴費用についてだけのものであり、判決は訴訟追行に必要な弁護士費用としてNHKが弁護士に支払った54万円の全額を、「相当」と認めた。「別件訴訟」は訴額10万円に過ぎない。しかも、原告2人(視聴者とN国幹部)とも弁護士をつけない本人訴訟である。考えられる限り迅速に審理が終了して判決に至った簡易な事案であって、この判決は控訴なく確定している。
それでも、東京地裁民事41部は、訴額10万円の損害賠償請求事件における被告側の応訴費用である弁護士費用54万円全額を損害として認定し,その賠償を認定した。
これと比較すれば、DHC・吉田嘉明の私(澤藤)に対する前件スラップ訴訟は、訴額6000万円の大型損害賠償請求事件である。しかも原告側は本人訴訟ではなく弁護士が訴訟代理人として付いている。さらに、一審だけでなく、控訴審も上告受理申立審までフルコースを闘った。それでいて、応訴に不可欠な弁護士費用の負担を損害額としてまったく認めず、その部分の認容額がゼロだという。この極端な不権衡は明らかに不当というほかはない。
N国事件判決中に次の説示がある。不当提訴の応訴費用を相当な損害として認定するには、「当該訴訟における訴額及び当該訴訟の有する社会的影響力等の諸要素を考慮して判断すべきもの」「原告に対する損害賠償請求訴訟が相当数提起されており、その勝敗が、係属中の他の訴訟や今後同種の訴訟が提起される可能性に影響を及ぼし得るものであること等を踏まえ」る、というのである。
DHC案件においても、DHC・吉田嘉明から私(澤藤)に対する前件訴訟の勝敗が、スラップ訴訟提起常習者としてDHC・吉田嘉明の行動に、大きく影響する。私が十分な勝ち方をすれば、吉田嘉明はこれに懲りて、今後同種のスラップ訴訟の提起を断念することになろうる。しかし、私が十分な勝ち方をしなければ、吉田嘉明は懲りることなく、またスラップを続けるだろう。
私の勝訴は社会を益することになり、吉田嘉明が勝てば社会を害することになるのだ。
(2020年1月8日)
例年、総理大臣・安倍晋三の仕事始めは伊勢神宮参拝からである。今年も例外ではない。ゴルフ休み明けの伊勢神宮。総理大臣が特定の宗教施設に公然と参拝する。東京在住の安倍晋三が町内の神社に初詣するのとはわけが違う。天皇の祖先神を祀るとされている神宮に、わざわざ公費で出かけるのだ。もちろん、違憲。
いささかなりとも憲法感覚の持ち合わせがあれば、やるべきことではない。メディアも世論ももっと敏感に、安倍を批判しなければならない。立憲民主党も、国民民主も真似をせぬ方がよい。政権を担ったら、絶対やってはいけない。
わが国の政教分離とは、権力と神道との危険な癒着を厚い壁で隔てることを言う。ここで言う神道とは、天皇を神にまつりあげた国家神道の基礎となった宗教をいう。国家が再び天皇を神とし、神なる天皇というこの上なく重宝な政治的道具を利用させぬための歯止めである。
そのような意味で、憲法の政教分離規定が最も警戒する宗教施設が二つある。1番が伊勢神宮で、2番が靖国神社である。伊勢は天皇の祖先神を祀るのだから、天皇の政治的利用を嫌う憲法の立場からは、政教分離と言えば、まずは政権と伊勢神宮との関係を問題とする。この両者を隔絶しなければならないのに、何と無神経な安倍晋三。
そして2番目の靖国神社は、皇軍将兵の戦没者を神として祀る軍事的宗教施設である。これも天皇の神社だが、なによりも軍国主義の精神的主柱とされた。だから、皇軍の侵略を受け、あるいは植民地化された近隣諸国の目は厳しい。靖国に首相や天皇の参拝あれば、厳しい外圧を覚悟しなければならない。
伊勢への首相の参拝は、外圧は小さいが、これこそ厳格な政教分離の対象なのだ。私は毎年このことを指摘してきた。最近のものは下記のURLでお読みいただけたら、ありがたい。
総理大臣・安倍晋三の仕事始めは伊勢神宮参拝から
https://article9.jp/wordpress/?p=11847?? (2019年1月5日)
伊勢神宮での内閣総理大臣年頭記者会見
https://article9.jp/wordpress/?p=7939 (2017年1月5日)
新年の伊勢神宮「公式参拝」、そこで首相が祈願したこと
https://article9.jp/wordpress/?p=6176? (2016年1月6日)
今年は天皇交替で元号変更後の新年だが、今年の伊勢での安倍晋三年頭記者会見は精彩がない。批判をするにも面白みに欠ける。そこで、衆議院のホームページに掲載されていたこんな質問主意書と答弁書を取りあげたい。
2018年1月22日提出の質問趣意書。提出者は立民の逢坂誠二議員。表題が「安倍総理の伊勢神宮参拝に関わるLINEでの発信に関する質問主意書」というもの。
「平成三十(2018)年一月四日、首相官邸のLINEの公式アカウントで安倍総理は、「安倍晋三です。伊勢神宮に向かう道中、新幹線から美しい富士山が見えました」(「本発言」という。)と発信している。
静粛な環境の下、歴代の総理大臣が年頭にあたり伊勢神宮に参拝することは、社会通念上、国民に受容されていると考えられるものの、その行動を首相官邸のLINEの公式アカウントで告知することは、伊勢神宮の活動に関する助長、促進につながるものと考える。
このような観点から、以下質問する。
一 歴代の総理大臣が年頭にあたり宗教施設である伊勢神宮に参拝することは、社会通念上、国民に受容されていると考えているのか。政府の見解如何。
二 本発言が発信されることで、伊勢神宮への参拝者が増加し、特定の宗教施設の活動を援助、助長、促進するものではないのか。政府の見解如何。
三 本発言をLINEで発信することは、「昭和四六(行ツ)六九 行政処分取消等」(最高裁判所大法廷判決 昭和五十二年七月十三日)でいうところの、「当該行為の目的が宗教的意義をもち、その効果が宗教に対する援助、助長、促進又は圧迫、干渉等になるような行為」に該当し、日本国憲法第二十条に反するのではないか。政府の見解如何。
四 静粛な環境の下、内閣総理大臣が年頭にあたり伊勢神宮に参拝することは、社会通念上、国民に受容されていると考えられるものの、その行動を事前に、首相官邸のLINEの公式アカウントで告知することは、伊勢神宮の活動に関する助長、促進につながり、不適切ではないか。政府の見解如何。
逢坂議員の人柄については、予てから信頼に足りる政治家という好印象が強い。しかし、「静粛な環境の下、内閣総理大臣が年頭にあたり伊勢神宮に参拝することは、社会通念上、国民に受容されていると考えられる」は、私見と大きく食い違う。曖昧な「国民意識の受容」をもって軽々に憲法原則を曲げてはならないと思う。また、質問内容もものたりないとは思う。それでも、果敢にこのような趣意書を発信して答弁を引き出している姿勢は評価したい。
なお、引用されている「昭和四六(行ツ)第六九号・行政処分取消等請求上告事件」は、津地鎮祭訴訟のこと。(行ツ)は、行政訴訟上告審の事件番号に付する符号。民事訴訟ではなく、行政訴訟としての住民訴訟だった。名古屋高裁の住民側勝訴判決を逆転し、厳格分離説を排斥して政教分離の規準として目的効果論を採用した判例として知られているもの。
衆議院議員逢坂誠二君提出安倍総理の伊勢神宮参拝に関わるLINEでの発信に関する質問に対する答弁書
一について
内閣総理大臣が私人としての立場で行う伊勢神宮参拝については、政府として立ち入るべきものではないことから、お尋ねについてお答えすることは差し控えたい。
二から四までについて
お尋ねの「発信」又は「告知」は、それ自体宗教的意義をもつ行為ではなく、その効果が宗教に対する援助、助長、促進又は圧迫、干渉等になるようなこともないことが明らかであることから、「日本国憲法第二十条に反する」及び「不適切」との御指摘は当たらないと考えている。
ニベもない答弁書である。質問の一部に対しては、「安倍晋三の伊勢神宮参拝は『私人としてのもの』だから政府は関与しない」という。また、LINEでの告知は、目的効果基準からは許されるとしている。しかし、安倍晋三は、肩書を記帳し、随員を同道し、公用車も使い、列車にも公費で乗車している。玉串料だけは私費で支出しているというが、それなら問題ないということにはならない。
下記は、天皇と首相の靖国神社公式参拝を違憲とした岩手靖国訴訟仙台高裁判決(1991年3月1日)の判示の一節である。
「天皇及び内閣総理大臣の靖国神社公式参拝は,その目的が宗教的意義をもち,その行為の態様からみて国又はその機関として特定の宗教への関心を呼び起こす行為というべきであり,しかも,公的資格においてされる公式参拝がもたらす直接的,顕在的な影響及び将来予想される間接的,潜在的な動向を総合考慮すれば,前記公式参拝における国と宗教法人靖国神社との宗教上のかかわり合いは,憲法の政教分離原則に照らし,相当とされる限度を超えるものであり,憲法20条3項が禁止する宗教的活動に該当する違憲な行為である」
目的効果基準を前提としてなお、「直接的・顕在的な影響だけではなく、将来予想される間接的・潜在的な動向、波及的効果までを総合考慮する」ことによって、政教分離違反・違憲と断じている。安倍晋三は、この判決の「靖国神社」を「伊勢神宮」と読み替えて、よく理解してもらわねばならない。
(2020年1月7日)
米国によるイラン軍司令官殺害に関する
社会権の会(防衛費より教育を受ける権利と生存権の保障に公的支出を求める専門家の会)声明
はじめに
アメリカのトランプ大統領は2020年1月3日、米軍がイラン革命防衛隊の司令官ソレイマニ氏をイラクのバグダッドで殺害したと発表した。トランプ大統領は同日の記者会見で、ソレイマニ司令官は「米国の外交官や軍人に対し、差し迫った邪悪な攻撃を企てていた」と批判し、「我々の行動は戦争を止めるためのものだった」として殺害を正当化している。イランが「イランに対する開戦に等しい」「国連憲章を含む国際法の基本原則を完全に侵害する国家テロだ」として反発し報復を宣言する(ラバンチ国連大使)一方、米国防総省は米軍部隊3,500人を中東地域に増派する方針を明らかにし、米イラン関係、米イラク関係を含め中東地域は緊迫した情勢となっている。
?意見の理由
ソレイマニ氏はイラン革命防衛隊コッズ部隊の司令官として、各国でイスラム教シーア派民兵組織(イスラム国[IS]に対抗してイラクの宗教指導者シスタニ師が呼びかけて結成された人民動員部隊[PMU]など)を支援してきた革命防衛隊最高幹部であり、敵対するアメリカに対しては、過去に、中東に展開する米軍をいつでも攻撃できるという趣旨の発言もしていた。しかし、いかに政治的・軍事的に目障りな存在であるとしても、超法的に人を殺害することが許されるはずはない。大統領という国家機関によって指示されたこの殺害行為は、明白な脱法行為であり、アメリカによる国際法違反行為(超法的処刑extra-judicial execution)である。
国連憲章51条は「武力攻撃が発生した場合」にのみ自衛権の行使を認めており、先制的・予防的な自衛権の行使は認められていない。在外自国民の保護など、国の領土保全に対する武力攻撃に至らない程度の侵害行為に対しても、自衛権を援用することは許されない。攻撃が急迫していると信ずるに足りる合理的な理由がある場合には先制攻撃も許されるという学説もあるが、差し迫ったものかどうかの判定は先制攻撃を行う国が行うこととなり、濫用されやすい考え方である。
先制的自衛論を含め、そもそも自衛権の行使が濫用されやすいものであることは、歴史が示している。アメリカの軍艦が攻撃を受けたとして、アメリカがベトナム戦争に本格的に参戦するきっかけとなった「トンキン湾事件」は、後に、アメリカが秘密工作によって自ら仕掛けた「やらせ」であったことがジャーナリストによって暴かれた(ペンタゴン・ペーパーズ)。また、2003年のイラク戦争は、イラクが大量破壊兵器を持っている「恐れ」を理由とし、ブッシュ大統領の先制攻撃論(ブッシュ・ドクトリン)によってアメリカとイギリスが一方的にイラクを攻撃したものだったが、大量破壊兵器は発見されなかった。にもかかわらず、軍事行動は「フセイン大統領の排除」、「イラクの民主化」と目的を変遷させて続けられた。
こじつけの理由であれ、いったん始まった軍事行動はエスカレートするのが常であり、その結果は悲劇的である。ベトナム戦争では200万人以上のベトナム人が犠牲になり、米軍の撒いた枯葉剤による障害や健康被害に苦しむ人が今もいる。イラク戦争は推定で数十万人ものイラクの民間人死者を出し、米軍の使った劣化ウラン弾などによる奇形児の誕生など被害は続いている。さらに、イラク戦争とそれに続くアメリカ・イギリス軍の駐留、その後発足したイラク新政権、これらにより激化した社会の混乱とイスラム教の宗派対立は、「イラクのアルカイダ」を源流とするISを生む結果になったと今では広く認識されている。
イラク戦争時、日本の小泉政権はアメリカに追随してイラク戦争を手放しで支持したが、イラク戦争を遂行した国や支持した国(オランダ、デンマークなど)と異なり、日本政府は今なお、イラク戦争を支持した政治判断の検証をしていない。それどころか政府は、憲法の専守防衛の原則に明らかに反する2015年の安保法制によって、地球上どこでもアメリカと共に集団的自衛権を行使して日本の自衛隊が軍事活動を行うことを可能にする法整備を行った。
今回の事件を受け、中東に駐留する米軍がイランから攻撃を受ける可能性がある。その場合日本は、集団的自衛権の行使として米軍と共に反撃することが求められる事態になりうる。折りしも日本政府は先月末の閣議決定で、1月中に中東地域に海上自衛隊を派遣する決定を行っている。これは、「日本関係船舶の安全確保に向けた情報収集を強化」するという名目で、防衛省設置法上の「調査・研究」を根拠として行われるものだが、自国船舶の防護を求めるトランプ政権の意向を受けた派遣であり、これによって得られた情報はアメリカと共有されることが当然考えられる。自衛隊が駐留することになった結果、場合によっては、アメリカの同盟国として自衛隊が攻撃を受けることがありうる。きわめて憂慮すべき事態である。
トランプ大統領は、環境保護や紛争の平和的解決のための国際協定から次々とアメリカを離脱させる一方、日本には高額の米国製兵器を売りつけ、日本や韓国、ドイツなど同盟国に駐留米軍経費負担の大幅増を求めるなど、国際社会の公益には関心がなくもっぱら米国の経済的利益のための「ディール」を推進する人物である。そして、日本政府はそのような指導者をもつアメリカと距離をおくどころか、その要求を唯々諾々と受入れ、米国製兵器のローン購入を含め、防衛費をかつてない規模に増加させ続けている。急速に少子高齢化が進む中、年金の引下げと生活不安(「老後2,000万円」問題)、保育所を設置し待機児童をなくす、若い人の人生の足かせになっている「奨学金」ローンの問題といった少子化対策、教育を受ける権利を実現するための学費値下げなどが本来、日本の抱える最重要課題であるにもかかわらずである。
今回の殺害は、次期大統領選挙も見据え「強いアメリカ」を演出する意図もあったとみられるが、アメリカも、そして日本も、イラク戦争がISを生み今に至っていることへの反省もなく、さらに中東地域を武力衝突の悪循環に陥れることは断じて許されない。
意見の趣旨
我々は日本政府に対し、第一に、ソレイマニ司令官殺害が戦争を止めるための正当な行為だったとするアメリカの説明を支持せず、超法的殺害として毅然と非難する態度を取るよう求める。第二に、自衛隊の中東派遣は直ちに中止すべきである。第三に、アメリカがさらなる軍隊派遣と攻撃によって武力衝突の危険を高めていることに日本として懸念を示し、問題の平和的な解決を促すことを強く要求するものである。
2020年1月5日
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2020年 1月 6日
報道関係のみなさま
世界平和アピール七人委員会
私たち世界平和アピール七人委員会は、本日、添付の通り、「米国によるイラン革命防衛体司令官殺害を非難し、すべての関係者が事態を悪化させないよう求める」を発表し、国連総長、国連総会議長、米国大使館、イラン大使館、安倍首相、茂木外相、河野防衛相に送りました。報道関係のみなさまには、私たちのアピールとその意図するところを、世界に広く伝えていただくよう、よろしくお願いします。
なお、私たちは、米国がイラン核合意を一方的に破棄し、中東の緊張が高まる情勢の中で、「調査・研究」を名目として自衛隊が中東に派遣されることについて、昨年12月12日付で「自衛隊の海外派遣を常態化してはいけない」を発表しています。これも併せて、お送りします。
「世界平和アピール七人委員会」は、1955年(昭和30年)11月、世界連邦建設同盟理事長で平凡社社長の下中弥三郎の提唱で、人道主義と平和主義に立つ不偏不党の有志の集まりとして結成され、国際間の紛争は絶対に武力で解決しないことを原則に、日本国憲法の擁護、核兵器禁止、世界平和などについて内外へのアピールを発表してきました。 今回のアピールは、平和アピー
ル七人委員会発足から、138番目のアピールです。
発足時のメンバーは、下中のほか、植村環(日本YWCA会長)、茅誠司(日本学術会議会長、のちに東京大学総長)、上代たの(日本婦人平和協会会長、のちに日本女子大学学長)、平塚らいてう(日本婦人団体連合会会長)、前田多門(日本ユネスコ協会理事長、元文相)、湯川秀樹(ノーベル賞受賞者、京都大学教授、京都大学基礎物理学研究所長)でした。
その後、委員は入れ替わり、現メンバーは、武者小路公秀(国際政治学者、元国連大学副学長)、大石芳野(写真家)、小沼通二(物理学者、慶應義塾大学名誉教授)、池内了(宇宙論・宇宙物理学者、総合研究大学院大学名誉教授)、池辺晋一郎(作曲家、東京音楽大学客員教授)、?村薫(作家)、島薗進(上智大学教授、宗教学)です。
連絡先:世界平和アピール七人委員会事務局長 小沼通二
URL: http://worldpeace7.jp
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2020年1月6日 WP138J
米国によるイラン革命防衛体司令官殺害を非難し、
すべての関係者がこの危機を悪化させないよう求める
世界平和アピール七人委員会
武者小路公秀 大石芳野 小沼通二 池内了 池辺晋一郎 ?村薫 島薗進
米国政府は、イラクでイラン革命防衛隊の司令官を1月3日にドローンで殺害したと発表した。これに対してイランは報復を予告している。イラク首相は主権侵害だとしている。
「米国」と「イラン」の立場を置き換えたとき、米国政府と米国民は自国軍の司令官の殺害という事態を受け入れられるだろうか。
私たち世界平和アピール七人委員会は、米国によるこの殺害を非難し、この危険な事態をさらに悪化させないよう関係するすべての国に求める。
国連安全保障理事会のメンバー諸国は 直ちに自国の立場を明示すべきであり、国連は速やかに総会を開いて対話による解決のためのあらゆる努力を行っていただきたい。
米国とイラン双方と友好関係にあると自任する日本政府は、直ちに米国に完全な自制を促すべきである。
日本政府は、米国が2019年6月に提案した有志連合には参加せず、海上自衛隊の護衛艦と哨戒機を、通行する船舶の護衛を含まない「調査・研究」のために中東に派遣すると、国会にも国民にも説明しないまま2019年12月27日に決定した。
しかし得られる情報を有志連合と共有するため、バーレーンにある米中央海軍司令部に連絡員を派遣することが明らかになり、事態が変われば派遣目的を変更するとされている。これでは米国に与するものとみなされてもしかたがない。我々が12月12日に発表したアピール『自衛隊の海外派遣を常態化してはいけない』の内容をあらためて強く求める。日本国憲法によって法的に制限された軍事組織である自衛隊を危険地域の周辺に派遣させるべきでない。日本は非軍事的手段による平和構築に積極的に取り組むべきである。
連絡先::http://worldpeace7.jp
(2020年1月6日)
通常国会は、1月20日開会の予定。「桜」「カジノ」「イラン」と、政権には頭の痛い問題が山積している。開会直後からの、鋭い野党の切り込みを期待したい。
とりわけ、「桜疑惑」は、追及次第で政権を散らすことになりうる大問題である。首相たる者の行政私物化が歴然だからである。モリ・カケは、いずれも安倍晋三の責任についての疑惑は限りなく濃いものの、安倍自身の具体的関与の点において、直接証拠に欠ける。忖度した部下の責任に転嫁した形となっているのだ。これに比して、「桜を見る会」疑惑については、安倍晋三自身の責任が明確なのだ。
いやしくも首相の地位にある者において、国民のための行政を、安倍晋三個人のための行政にねじ曲げ、国民からの負託に背いたのである。その罪は深く、放置してはならない。適切な責任をとらせなければならない。
本来国民への奉仕者である公務員が、その任務に背き自分の私益のために権限を濫用する行為は、背任に該当する犯罪である。公務員のトップに位置する内閣総理大臣の行政私物化は、国家の私物化に等しい犯罪行為である。こんな人物に権力を委ねることはできない。
昨年11月18日参院予算委での田村智子質問が衝撃的だった。が、それ以後も具体的な問題が次から次への出てきた。安倍晋三の行政私物化の実態が、衆目に曝されつつある。こんな人物が、こんな政治を行っていたのだ。
これまで、安倍晋三の行政私物化の証左として、安倍の選挙区(山口4区≒下関市)内の後援会員の多くが「桜を見る会」に招待されていたことが問題とされてきた。安倍の私的な後援会活動、延いては選挙対策活動を、国費で行っていたということへの批判である。
しかし、どうも漠然と選挙区内の後援会員を招待していたというにとどまらないようなのだ。もう少し生臭い事情があるという。それが下関市長選における論功行賞だというのだ。これは、昨年末の野党の合同ヒアリングでも問題とされていると言うが、「紙の爆弾」2月号に、横田一記者(フリー)が、ルポを書いている。タイトルが、「山口県下関市『桜を見る会』税金私物化―首相の地元選挙対策と特定企業優遇」というもの。その概容をご紹介したい。
下関市では、安倍首相と宏池会(岸田派)の林芳正・元農水大臣が父親の代からライバル関係で、市長選は両者の代理戦争の様相も呈し、市長ポストの争奪戦を続けてきた。最近三代の下関市長は、以下の通りである。
江高潔市長(1995年?2009年)安倍派
中尾昭友市長(09年?17年)林派
前田晋太郎市長(17年?)安倍派
17年の市長選は、8年も続いた林派の市長ポストを、久々に安倍派奪還の選挙だった。この選挙対策として、あるいは論功行賞として、この選挙の前後に地元選挙民の招待者が膨らんだという。
問題はこの先である。
なぜ安倍首相は、法律違反のリスクを冒してまで、「桜を見る会」を使って下関市長選などの地元選挙対策に力を入れていったのか。
江島市長(安倍派)時代には、神戸製鋼所などの安倍首相関連企業が地元大型案件を相次いで受注して談合疑惑も浮上、田辺よし子市議(無所属)らが議会で追及した。
こうした『アベ友優遇案件』ともいえる談合疑惑で最も有名なのが、安倍首相の出身企業であった神戸製鋼所が市のゴミ処理関連事業を連続受注したことだ。同社は談合情報が飛び交うなか、2000年に「奥山工場焼却施設」(110億円)、そして01年にも新環境センター「リサイクルプラザ」(60億円)を落札した。
しかも奥山工場の焼却施設は「プラズマ溶融炉」で「焼却灰がリサイクルできる」ということが売りだったが、当時の神戸製鋼所の実績は皆無だったのに、なぜか受注に至った。「癒着ではないか」という声が市民の間から出たのはごく自然のことだった。
しかもメリットとされた「焼却灰のリサイクル」は実現せずに頓挫。それでもプラズマ溶融炉の維持管理費を関連企業「神鋼ソリューション」に払い続けてきたが、林派の中尾市政になった12年8月に使用停止を決定、電気代などが浮いて経費削減をすることができた。安倍派市長時代には、神戸製鋼所からプラズマ溶融炉を購入しただけでなく、余計な維持管理費も系列企業に支払っていたが、林派市長時代に打ち止めになったということだ。
もう一つのリサイクルプラザでも「神戸製鋼所に決まった」という談合情報が流れたが、市は入札を強行。情報通り、神戸製鋼所が落札したため、市議会で「官製談合ではないか」と追及された。
こうした地元での『アベ友優遇政治』への反発が強まり、首相直系の江島氏は不出馬に追い込まれ、09年の下関市長選では、安倍派県議だった新人候補(友田たもつ県議)を林減の中尾市長が破った。ようやく安倍減市長による市政にピリオドが打たれたのだ。
しかし13年に再選された中尾氏は17年の市長選で安倍首相が全面的に支援した前田氏に僅差で敗北、三選を果たせなかった。」
下関市でも、安倍派市長がアベ友企業(神戸製鋼所)優遇の談合疑惑があったというのだ。既にその追及が下関市議会では行われてきたという。この横田一ルポを読むまで私はまったく知らなかった。この際、是非とも国会で徹底的な追及を期待する。日本の政治全体が腐る前に、患部を摘出しなければならない。
(2020年1月5日)
正月気分が消し飛んだ。背筋が寒い。これは大変な事態ではないか。昨日(1月3日)トランプがイラン革命防衛隊の司令官をバグダードの空港付近で殺害したという事件である。ゴーンの逃亡などとは次元が違う。もしや開戦もと,本気になって心配しなければならない。
殺害されたソレイマニという司令官は、イランの国民的英雄とされるきわめて重要な人物だったという。最高指導者ハメネイも復讐のメッセージを出している。イラン国民が報復の挙に出ることは覚悟しなければならない。イランだけではなく、主権を侵害されたイラク国民の憤激も当然の無法な行為。いったいトランプは、こんな危険なことを,どんな理由でやらねばならなかったのか。このあとの事態をどう治めるつもりなのか。そもそも成算あってのことなのか。
トランプ氏は、「合衆国の軍は、世界随一のテロリスト、カセム・ソレイマニを殺害した空爆を完璧な精度で実行した」「その殺害は、戦争を始めるためでなく、止めるため」だったと述べたという。
しかし、愚かで邪悪なトランプよ。おまえにこそ、「テロリスト」「ならず者」でないか。そしてトランプを大統領としているアメリカこそ、「テロ支援国家」「ならず者国家」と言われるに相応しい。
また、ペンタゴンは、「大統領の指示のもと、米軍はカセム・ソレイマニを殺害することで、在外アメリカ人を守るための断固たる防衛措置をとった」と発表したという。
同じことをイランの国防省も言いたいはずである。「最高指導者の指示のもと、イラン軍は最悪のテロリスト・トランプを殺害することで、イランの国民の生命と財産を守るための断固たる防衛措置をとった」と。
明らかなことは、この愚行によって、イランとアメリカの緊張は一気に激化することだ。いや、中東全体が一触即発の事態となる。もしかしたら、「一触」は既に通り過ぎていて、「即発」が待ち受けているのかも知れない。
オバマ前政権でホワイトハウスの中東・ペルシャ湾政策を調整していたフィリップ・ゴードンは、ソレイマニ殺害はアメリカからイラクへの「宣戦布告」のようなものだと言う。
その自覚あってか、米国務省はイラク国内のアメリカ人に「ただちに国外に退去するよう」警告し、米軍は兵3000人を中東に増派する方針という。オバマが築いた中東平和への努力をトランプがぶち壊している。なんということだ。
アメリカとイランの現在の緊張は、イラン核合意からトランプが一方的に離脱したことに始まっている。火に油を注ぐ今回のアメリカの行為には、世界がトランプを批判しなければならない。とりわけ、これまで動きが鈍かった関係各国が緊急に動かなければならない。
この事態に日本は鳴かず飛ばずのようだが、傲慢で愚かなトランプと肌が合うという、お友達の日本首相は、トランプに沈静化の努力をするよう、身を挺して説得しなければならない。たとえ失敗しても、誠実にやるだけのことをやるかどうか、国民は見ている。それをしなければ、「外交はやる気のないアベ政権」の看板を掲げるがよい。
もう一点。中東へ派遣を閣議決定した護衛艦一隻とP?3C哨戒機。あの決定を取り消さねばならない。派遣名目の「調査・研究」をするまでもない。中東情勢の厳しさは既によく分かった。よく分かった以上は、武力を紛争地に展開する愚は避けなければならない。イランから見れば、憎きアメリカの同盟軍となるのだから。失うものは大きい。
(2020年1月4日)
元日は寄席に出かけた。上野公園までの散歩の足をちょいと延ばしたら、お江戸上野広小路亭に行き着いて、ふらふらと入ってしまい、結局トリまで聴き入った。正月講演の客席は畳に座布団を並べただけの色濃い場末感が売り物。しかも、まばらな客の入りで、高座と客席の一体感がよい。
どの演者も、マクラで客の少ないことを嘆きつつ、さすがにプロ。座布団相手に手抜きなしの熱演続きで堪能した。近くの鈴本に行けば、落語協会の名のある正統派の噺家が出て来るが、こちらは落語芸術家協会。若手の「ホントに上手な噺を聞きたければCDで聞けば良い」という威勢のよい開き直りが心地よい。ライブならではの楽しいひととき。中で、講談界の大看板・神田松鯉が正月にちなんで、小品ながら「門松の由来」の一席。これを聞いただけでも、耳に福であった。
なんとなく、講談には,立身出世や尽忠報国・滅私奉公の臭みを感じて、落語に親しみを感じるのだが、なかなか講談も面白い。
しかも、気持ちがよいのは、この「お江戸上野広小路亭」の番組表やご案内の類が、すべて西暦表示であること。元号がまったく出て来ないのだ。こいつは春から、縁起がよろしい。
2日は、散歩の足を秋葉原まで延ばしたところ、行きも帰りも神田明神初詣客の凄まじさに驚くばかり。道路に溢れたあの行列列の長さ、あの渋滞ぶりでは、善男善女はいったい何時間待たされて拝礼したのだろう。しかも本日は明らかに個人か家族連れの参拝。1月6日の仕事始めには、会社ぐるみの参拝となる。恐るべきことになるのだろう。縁なき衆生から見れば、およそ馬鹿げたかぎり。
もっとも、平将門とは、朝敵であり逆賊である。板東平野に君臨して、自ら「新皇」と称したという。当然のことながら、中央政権の逆鱗に触れてあえなく討ち死にするが、その首は都に運ばれて晒し首とされる。わが国における晒し首第1号だとか。伝承によれば、その首は東に飛んで,大手町に落ちたという。今も、将門の首塚があるところ。
日本には、御霊信仰というものがある。深い怨みを呑んだ死者の霊は、強い霊力ををもって世に人に祟りをなす。これを恐れた人が手厚く神と祀れば、その霊力の加護に与ることができるという。
史上、菅原道真・平将門・崇徳院を三大怨霊ということになっている。これに、早良親王(皇位に就かなかないまま憤死したが、崇道天皇と諡されている)を加えることもある。それぞれに、御霊を祀る社ができている。その中でも、朝敵・逆賊の将門を祀る神田明神にいまも多くの参拝客が詣でるのが面白い。
一方、またまた五條天神に足を延ばすと、こんなものが掲示してあった。
上皇后陛下
神まつる 昔の手ぶり
守らむと 旬祭(しゅんさい)に発(た)たす
君をかしこむ
これには、違和感山積である。
まず、上皇。皇室典範には、上皇なんてものはない。その第5条に「皇后、太皇太后、皇太后、親王、親王妃、内親王、王、王妃及び女王を皇族とする」とあるが、今の時代に上皇なんて聞き慣れない地位も言葉もない。
やむを得ず、政府は「天皇の退位等に関する皇室典範特例法」を作り、「退位した天皇は、上皇とする。上皇の敬称は、陛下とする」とした。その上で上皇の妻を上皇后として、皇太后と同格とした。条文を重ねれば、「上皇后陛下」は間違いではない。
しかし、まずは「上皇」に違和感を禁じえないし、ましてや「上皇后」においておや。舌を噛まないか。さらに「上皇后陛下」とは。
「神まつる」は、「神祀る」。「昔の手ぶり」は、「昔の手風」であろう。「昔ながらの風習」くらいの意味か。「旬祭」は、毎月1日・11日・21日に行われる宮中祭祀。「かしこむ」は、「畏む」だろう。夫のことを、神を祀る者として、畏れ多いとし、畏まっているというのだ。
この夫に対する妻の姿勢を、美風とも文化とも言ってはならない。因習というべきだろう。神祀るなんて、ひっそりとおやりなさい。国民にひけらかすものではない。
もっとも、私のほかにこの掲示をまじまじと見る者などいない。見なけりゃいいし、読まなけりゃ不愉快でもないのだが。読むは因果、読まるるも因果か。
(2020年1月3日)
大晦日から元日は、ゴーン逃亡の記事に目を奪われた。
この事件は、香港の事態との関連性を考えさせる。香港市民から見て、中国本土は、「不公正と政治的な迫害が横行する野蛮の地」「到底、人権と正義にもとづく公正な裁判を期待することができない国」である。図らずも、同じ趣旨の言葉が、レバノンに逃亡したゴーンの口から発せられた。香港市民にとっての中国本土が、ゴーンにとっての日本というわけだ。このゴーンの認識はもっともなものだろうか。それとも言いがかりに過ぎないものだろうか。
国家権力と人権が最も峻烈に切り結ぶ局面が、個人に対する刑罰権の発動である。権力は、犯罪を犯したとする国民を逮捕し勾留したうえ、その生命すら奪うことができる。文明は、この権力による刑罰権の行使が放恣に流れず濫用にわたらぬよう、長い期間をかけて、その歯止めの装置を形作ってきた。それが刑事司法の歴史である。
香港市民の目には、中国が文明国たりうる刑事司法制度をもち人権擁護に配慮した運用をしているとは思えない。だから、昨年(2019年)4月に香港立法会(議会)に「逃亡犯条例」改正案が提出されたとき、これを深刻な事態として受けとめ反対闘争が燃え上がった。
香港は20か国と犯罪人引き渡し条約を締結しているというが、中国本土とはその条約はない。香港で犯罪の被疑者とされた者について、中国本土から香港政庁に被疑者の引渡要求はできないし、香港が中国本土に被疑者を引き渡す義務もない。ところが、「逃亡犯条例・改正案」は、刑事被疑者の中国本土への引き渡しを可能とするものだった。香港政庁はこの「改正案」を、「一国二制度」のもと、「法の抜け穴をふさぐために必要な当然の措置」としたが、香港市民からは、政治的弾圧の被害者の中国本土への引き渡しを可能とする、とんでもない「改悪案」と指弾された。
中国本土の刑事手続が、適正手続に則って被疑者・被告人に弁護権を保障する公正なものであるとの信頼はまったくないのだ。つまりは、香港の市民からは、中国は文明国として認められていない。化外の地なのだ。
この香港市民の対中国司法観には多くの人が賛同するだろう。ゴーンの日本の刑事司法観にはどうだろうか。中国と日本、はたして大同小異あるいは五十歩百歩だろうか。
カルロス・ゴーンの逃亡後の声明は次のとおりである。
もはや私は有罪が前提とされ、差別がまん延し、基本的な人権が無視されている不正な日本の司法制度の人質ではなくなります。
日本の司法制度は、国際法や条約のもとで守らなくてはいけない法的な義務を目に余るほど無視しています。
私は正義から逃げたわけではありません。
不公正と政治的迫害から逃れたのです。
いま私はようやくメディアと自由にコミュニケーションできるようになりました。
来週から始めるのを楽しみにしています。
ゴーンは、日本の刑事司法を不正なものとし、「有罪が前提とされ、差別がまん延し、基本的な人権が無視されている」「日本の司法制度は、国際法や条約のもとで守らなくてはいけない法的な義務を目に余るほど無視しています」という。だから、その桎梏から抜け出すために、保釈条件を無視しての国外脱出を正当化している。法的に理屈をつければ、緊急避難の法理にもとづいての違法性阻却という弁明になろう。
ゴーン弁護人の一人は、ゴーンの日本司法についての見解に対して、「保釈条件の違反は許されないが、ゴーンさんがそう思うのも仕方ないと思う点はある」と温いことを言っている。ゴーン逃亡に責任なしとしない弁護人の言としては、無責任の誹りを免れまい。
私は、権力に対する刑事被告人の立場の弱さを嘆き続けてきた。もっと実質的に防御権・弁護権が保障されなければならないと思い続けてもきた。だから、刑事被疑者や被告人が、裁判所や検察を出し抜けば、まずは拍手を送る心境だった。が、今回は違う。苦々しい印象あるのみである。
刑事被告人に対する保釈についての実務は近年ようやく過度の厳格さから解放されつつあったが、その後退を心配しなければならない。保釈保証金の高額化や保釈条件の煩雑化、厳格化も進むことになるのではないか。ひとえに、ゴーンの所業の所為でのことである。迷惑至極といわねばならない。
ゴーンという人には、他国の主権の尊重とか、法の支配に対する敬意はない。彼にも大いに言い分はあろうが、徹底して法廷で無罪を主張して争うべきだろう。それができないはずはない。彼は曲がりなりにも保釈をされている。私選弁護人も付いている。なによりも、闘うための十分な財力に恵まれてもいる。日本に特有の制約はあろうが、法廷で争う手段を彼はもっているのだ。刑事司法の訴追を免れるための国外逃亡という発想は、文明人のものではない。
報じられるところでは、19年3月のゴーンの保釈申請に対して、東京地裁は「海外渡航の禁止やパスポートの弁護人への預託のほか、制限住居の玄関に監視カメラを設置して録画する、携帯電話は弁護人から提供される1台のみを使うなど15項目にわたる条件を付けて保釈を認めた。その中には、妻との接触には裁判所の許可が必要という条件もはいっている。保釈保証金は15億円だった。これが、すべて逃走防止に役立たなかったことになる。ゴーンの違法行為によって、ゴーン自身が批判した「人質司法」がさらに深刻化しかねないのだ。
私にも、日本の刑事司法には大いに不満がある。多くの改善点があることは当然のことと思っている。ときには絶望の思いもないではない。それでも、香港の市民から見た中国の刑事司法と大同小異・五十歩百歩とは思っていない。ゴーンが堂々と無罪の主張を展開することに、裁判官が耳を傾けないはずはないし、検察官提出証拠の弾劾も、弁護側で収集した証拠の提出も可能ではないか。
ゴーンによる日本の刑事司法の欠陥の具体的な指摘は歓迎する。しかし、刑事司法の制度と運用に不満だからという理由での国外逃亡を容認することはできないし、してはならない。
(2020年1月2日)
あらたまの歳のはじめ。さて、本当にめでたいと言うべきか。あるいは、めでたくもないのだろうか。
今、表立っての軍事衝突はなく、国内には曲がりなりにも平和が続いている。軍国主義の謳歌という状況もなく、独裁というほどの強権支配もない。国民の多くが飢えに苦しんでいるわけではなく、国家財政の目に見える形での破綻もない。国民がなだれを打って海外に逃れるような現象はなく、近隣隣国からの大量難民の流入もない。国民の平均寿命は延びつつある。これをめでたいと言って、おかしくはない。
しかし、この「平和」には危うさがつきまとっている。嫌韓ヘイト本が書店の棚を埋めつくしている。国威を興隆せよ、そのための軍事力を増強せよ、自衛隊を闘える軍隊にせよという乱暴な声が大きい。その勢力の支持を受けた安倍晋三という歴史修正主義者が、いまだに首相の座に居座り続けている。しかも彼は、この期に及んでなお、改憲の策動を諦めていない。少なくとも、諦めていないがごとき言動を続けている。
のみならず、天皇という存在が、民主主義の障害物として大きな存在感を示し始めてもいる。表現の自由が侵蝕されつつあり、三権分立は正常に機能せず、政権におもねる司法行政が裁判官の独立を侵害して「忖度判決」が横行している。明らかに格差が広がり貧困が蔓延している。人の自律性は希薄になって、政治への参加や、デモ・ストは萎縮している。社会を革新する労働運動の低迷はどうしたことだろうか。教育は競争原理を教え込むことに急で、連帯や団結を教えない。社会変革の主体を育てるという視点はない。保守政権が望むとおりのものとなっている。これがめでたいとは、とうてい言えない。
改めて思う。実定憲法とは、法体系全体の理想でもある。この理想に照らして、今現実は理想との距離を縮めつつあるのか、それとも拡げつつあるのだろうか。常に、その意識が必要なのだ。
分野によって一律ではないが、現政権の悪法ラッシュによって、この乖離は確実に拡大しつつあるといわざるを得ない。手放しで「お目出度い」などととうてい言ってはおられないのだ。
しかも、この理想そのものを変えてしまえと言うのが安倍政権であり、これを支える人々の乱暴な意見なのだ。まずは、改憲志向政権を退陣に追い込んで、掲げる理想を守ることが、なににもまして重要な今年の課題というべきであろう。
昨年は天皇交替と元号変更の騒がしい歳だった。この騒がしさは、今年も東京五輪に引き継がれる。国威発揚の舞台としてのオリンピック、ナショナリズム発揚のためのオリンピックを批判し続けねばならない。
毎日更新を宣言して8年目となる当ブログ。温かいご支援をいただくようお願いを申しあげます。
(2020年1月1日)
2019年が本日で終る。今年は、天皇交替の歳で、新元号制定となった。これに伴う一連の動きの中で、日本の民主主義の底の浅さが露呈した不愉快な歳だった。いつもは筋を通している「日刊ゲンダイ」が、この暮れに中西進のインタビュー記事を掲載している。なんとも、筋の通らないふにゃふにゃの代物。歳の終わりを、そのインタビュー記事批判で締めくくりたい。(以下、赤字が日刊ゲンダイのインタビュアー質問、青字が中西回答。黒字が私見である)
考案者・中西進氏「令和とは自分を律して生きていくこと」
この表題からして荒唐無稽だ。「令和とは自分を律して生きていくこと」という文章自体がなりたたない。この一文の「令和」は、元号としての「令和」でも、時代としての「令和」でもない。漢字2字からなる熟語としての「令和」の意味を「自分を律して生きていくこと」だといいたいのだ。しかし、言うまでもなく、言葉とは社会的な存在である。勝手に言葉を作り、勝手にその意味を決めるなどは、権力者と言えどもなし得ることではない。この人、そんな不遜なことが自分だからできると思い上がっている様子で不愉快きわまりない。
今年の世相を表す「今年の漢字」に「令」が選ばれた。新元号「令和」はまもなく元年が終わろうとしているが、国をリードするべき政権への不信感は募り、国民生活も青息吐息で先行きは不透明だ。これから私たちは、新時代「令和」をどう生きていったらいいのか。「令和」の考案者で万葉集研究の第一人者、国文学者の中西進氏を訪ねてみた。
「これから私たちは、新時代「令和」をどう生きていったらいいのか。」が、恥ずかしくて、読むに耐えない。天皇が交替したから「新時代」、元号が変われば生き方も変わる、という発想は皇国史観に毒された臣民のものの考え方。奴隷の言葉と言ってもよい。主権者の発想ではなく、自由人の言葉ではありえない。わけても、ジャーナリストの矜持をもつ者が決してくちにすべき言葉ではない。
――令和元年は、どのような年だったでしょうか。
いい年だったと思います。とかく惰性的だった生活から、一挙に節目ができたんですから、これほどすごいことはないでしょう。平成の陛下が辞めるとおっしゃったことは、私たちを活性化する大きな出来事でした。みな、「はっ」としたはずです。目が覚めたような感じがしたんじゃないでしょうか。
これが、はたして学問をする人の言葉だろうか。この押しつけがましさには、開いた口がふさがらない。「平成の陛下」へのおもねりは勝手だが、「みな、『はっ』としたはず」などと、他人も同様と思い込んではにらない。天皇の交替で「一挙に節目ができた」と、あなたが思っても、私はそうは思わない。「目が覚めたような感じがしたんじゃないでしょうか」は,いささかなりとも主権者意識をもっている多くの国民に失礼極まる。
――確かに大きな変化でした。
インタビュアがこれではダメだ。まったく突っ込みになっていない。だいいち「変化」ってなんだ。なにがどう変化したのか。
僕はね、退位を示唆されてすぐに思ったんですが、日本国憲法を読んだことのある人なら、これほどに天皇陛下がリーダーシップをもって時代を動かすことができるとは誰も思わなかったと思います。憲法では退位を定めていないのに、肉体的な理由で、自ら天皇の地位を降りられたわけでしょう。上皇は徹底的な戦争否定論者でしたから、余計お疲れだったのかもしれませんが。ともあれ見事な新時代の誕生です。国政が変わったというより、文化の様式としての元号が変わったんです。だから大騒ぎになった。文化がいかに人間にとって大事なのかが分かったと思いますね。
「日本国憲法を読んだことのある人なら、これほどに天皇陛下がリーダーシップをもって時代を動かすことができるとは誰も思わなかったと思います。」は、概ねそのとおり。もう少し正確には、「日本国憲法を大切に思う人なら、これほどに天皇がその矩を超えたリーダーシップをもって、明確に違憲の提言をすることがあろうとは誰も思わなかったと思います。」と言うべきなのだ。
「文化の様式としての元号」とは、訳が分からんような表現だが、必ずしも分からなくもない。元号を小道具とした、タチの悪い天皇制賛美論を、「文化の様式」と言っているのだ。
――元号は文化でもあるんですね。
? 元号の伝統は、世界広しといえど現存しているのは日本だけです。みんな、西暦のほうが便利だということになり、やめてしまいました。確かに西暦はキリストの誕生から年数を数えて、機械的に数を重ねることができます。便利だけど、どこか無機質ではないですか? 片や元号は、統治の出発からの年数で「一世一元」ですから、天皇の代が替われば足し算できなくなり、年数を数えるうえでは不便です。それでも元号を使うのはなぜか。ある時代に対する美的な感覚のようなものではないでしょうか。
元号の不便は自明である。そのことについては、この人も認めているようだ。だから日常生活やビジネスにおける不便に耐えかねて、古代王政の遺物である「元号の伝統」は世界から姿を消したのだ。ところが、日本だけは、国民に不便を強いてもなお、元号を残し、かつ事実上その使用を強制するのはなぜか。この人は、その辻褄合わせを「文化」や「ある時代に対する美的な感覚のようなもの」で説明しようとしているのだが、いかにも自信がない。説得力に欠けるというほかはない。
元号は文化ではないか、と僕は思うんですね。その元号に、私たちはさまざまな希望を込めてきたわけです。公明に治める「明治」、昭らかな平和であれ、と願いを込めた「昭和」というふうに、いい元号をつけるのは、ひとつの期待感でした。ですから元号はある種の倫理コードの役割もあるんです。
ここには、多少のホンネが透けて見える。元号に、「私たちはさまざまな希望を込めてきた」のだという。これはウソであり、誤魔化しでもある。ウソの根源はこの人の言う「私たち」にある。元号の制定は、国民投票で決められたものではない。国会の審議も経ていない。いかなる意味でも、元号は国民の意思を反映したものではない。そもそも、本当に元号が必要なのかすら、しっかりとした議論がない。「私たち」の僭称は慎んでいただきたい。
この人のいう「私たち」は、おそらく「日本国の日本人」という意味なのであろう。日本における日本人とは、昭和までは「神なる天皇を中心とする國体における臣民」であった。臣民に元号策定の権限などあるべくもない。神なる天皇が時を支配し、元号の制定によって時代を改めるという、荒唐無稽の呪術的権威によって、改元は天皇の行為だった。
では、その後の2例の元号(平成・令和)の制定には、国民が関与したか。戦前と同様、政権は関与したが、主権者国民が関与したわけではない。憲法が変わり、国体観念もなくなったはずが、そうなっていないのだ。元号制定の経過は意図的に曖昧にされ、戦前と戦後が、太い一本の心棒でつながっている。その実質は天皇制ナショナリズムである。そういえば角が立つから、この人は「文化」と言っている。この「文化」は「国体」と何の変わりもない。
■宰相は「十七条の憲法」の尊重を
――国書を典拠とする初めての元号となった「令和」に込められた思いを改めて教えてください。
「令和」の2文字は、万葉集の「梅花の歌三十二首」の序文、「初春の令月にして 気淑く風和ぎ」から取られました。令の原義は「善」。秩序というものを持った美しさという意味があります。もっと噛み砕いて言えば、自律性を持った美しさ、ですね。「令は命令に通じるからけしからん」と言うのは、「いい命令」を考えていないのですね。「詩経」や「礼記」などの注釈には「令は善なり」と定義があるのです。
?一方、「和」はこれまで248種類作られてきた元号の中で今回を含め20回使われることになります。「和」の根源は、聖徳太子が定めた日本の最初の憲法「十七条の憲法」の第1条、「和を以て貴しと為す」にあります。聖徳太子という人は、徹底的に平和を教えた人。「平凡な人であることが平和の原点ですよ、自分が利口だと思うから争いが起こる」と604年に発言しているのですから、すごいことです。
? この人の言っていることは、独善であり牽強付会というしかない。えっ? 「令」とは「秩序をもった美しさ」ですと。「善い命令を考えよ」ですって。これは、完全に支配者の発想である。一糸乱れぬ軍隊の行進の美しさ。上命下達の官僚組織の美しさ。国民すべての思想と行動に目を光らせ不服従を許さぬ統制の美しさ。そんなものが、「私たちが元号に込めた希望」だというのか。批判あってしかるべきではないか。
――日本はその前年まで新羅と泥沼の戦争をしていました。
? 第2次世界大戦が終わった翌年に今の憲法ができたように、十七条の憲法も泥沼の戦争の次の年に作られました。ですから、非常に切実な願いが込められているんです。源実朝や藤原頼長ら代々の宰相たちはその聖徳太子が作った「十七条の憲法」を、尊重しようとしてきました。ぜひ今の宰相も「十七条の憲法」を尊重してもらいたいと願っています。
「十七条の憲法」は、保守派の大好きアイテムなのだ。自民党の改憲草案にも、産経の改憲案にも、「和をもって貴しとなす」が出て来る。なぜ、保守派が「和」が好きなのか。この「和」は、上命下服の秩序が保たれている状態を意味するからなのだ。けっして、同等者の連帯や団結を意味するものではない。「十七条の憲法」の第1条には「逆らうことなきを旨とせよ」と書いてある。下級が上級を忖度して、もの言わぬことが「和」なのである。この「和」は、民主主義とも国民主権とも無縁な支配者の求める秩序に過ぎない。こんなものを今の政治に求めてはならない。
それぞれがこのような意味を持つ元号「令和」は、自律性を持った美しさによって「国家」を築いていくという意味です。具体的に言うと、どんなに車が来なくても赤信号では道を渡らない。目の前に1000円が落ちていて誰も見ていなくてもポケットに入れない。それが自分を律するということ。
? 考案者は、新しい令和の時代をそう生きるべきではないか、という思いを込めたんだと思いますよ(笑い)。
何とも馬鹿馬鹿しい。ここで、「自律性」が唐突に出てくる。しかし、「令和」の「令」も「和」も、権力者の支配の秩序以外の何ものでもなく、言わば強いられた「他律」であって「自律性」が出てくる余地はない。言語とは飽くまで社会的存在なのだから、勝手な解釈での意味づけは慎んでもらわねばならない。
?新自由主義のもと弛緩した現代人
――平成の時代は自分を律することなく、自由気ままでいることをよしとする風潮だったかもしれません。
戦争が続いた昭和を経験したことで、「平らになる」平成を望んだわけですが、平凡に平らじゃ困る。そろそろ奮い立たなきゃいけません。アクティブな信号が必要になっていたんじゃないでしょうか。
信号がずっと青(OK)だと、何をしようと平気でしょう。新自由主義によって、経済や効率化が優先されるようにもなりました。“役に立たない”文化とは相いれません。多くを考えなくても生きていけるのは平和だとも言えるけど、人間の心が弛緩してしまいます。経済のことも、教育のことも、よくよく考えなければいけないことは、山積していると思いますね。
この人の頭の中は、ごちゃごちゃで未整理のままなのだ。こんな人が,「そろそろ奮い立たなきゃいけません。アクティブな信号が必要になっていたんじゃないでしょうか」という思いつきで考案した元号が「令和」だというのだ。繰り返すが、天皇制に対する信仰者でも、馬鹿馬鹿しくならないか。
「新自由主義によって、経済や効率化が優先されるようにもなりました」ですって? 本当に新自由主義のなんたるかがお分かりなんでしょうか。新自由主義と対峙するものとして、「文化(=元号)」を考えているようだが、浅薄きわまりない。
■文化は最大の福祉
――文化の衰退は国の衰退と同義語かもしれません。
?「文学で飢えた子を救えるか」という言葉がありますが、確かに肉体は養えません。けれど、心は養えます。文化とは最大の福祉です。福祉というのは生活が豊かになることではなく、心が豊かになることを言います。心の貧乏にならないために、自らを見つめ律する。「令和」らしい生き方をしていきたいものですね。
こういう言説は、眉に唾を付けて聞かなければならない。「福祉というのは生活が豊かになることではなく、心が豊かになることを言います。」は、暴言というほかはない。「福祉というのは、まず生活を豊かにすることだが、それだけでは足りず、心が豊かになることまでを考えなければなりません」と言うことなら分かる。しかし、どうもこの人は本気で、「文化によって、心を豊かにすることが、生活を豊かにすることに先行する」「最大の福祉とは、経済的に生活や医療・教育を成り立たせることではなく、文化(=元号)的環境を整えることにある」と考えているようだ。いかにも、今日の日本の支配層の考えそうなことではないか。
安倍政権の改憲策動と、天皇制と元号の批判で、2019年は暮れていく。歳が改まったところで、なにかが急に変わるわけではない。
明日からも、当ブログは政権と天皇制の批判を続ける。
(2019年12月31日)
ツキ落ちメッキ剥げて
指弾の怒気 天に満つ
惨たり 国政私物化の末路
孤立無援の安倍官邸
退陣を求むるの鯨波
肺腑を抉る
一強緊張を失い
処処綻び深し
夜來怨嗟の聲
命運既に尽きしを知る
国政乱れて 詭弁在り
政権昏迷して 瞞着深し
危機を感じて 国会は閉じて開かず
カジノを望んでは 逮捕に心を驚かす
改憲叫べど良民は踊らず
ただネトウヨの声援のみ 萬金に抵る
足掻けども先は更に短かく
レームダックとなるを如何せん
水島朝穂さんの「直言」(11月25日)が、「首相の『責任』の耐えがたい軽さ―モリ・カケ・ヤマ・アサ・サクラ」という表題。
http://www.asaho.com/jpn/bkno/2019/1125.html
「■ 安倍政権の『悪夢の7年』が終わりに近づいているようです。『モリ、カケ、ヤマ、アサ、サクラ』の蕎麦メニューがすべてつながって見えるようになりました。」と述べている。(ヤマは山口敬之問題、アサは昭恵の大麻問題を指す)
水島さんのいう蕎麦メニューだけではない。2大臣引責、共通テスト、官僚不倫カップル、カジノに郵政疑惑まで加わって、もはや末期症状である。
「アベの罪。まずはモリ・カケ、ヤマ・サクラ。カジノにカンポでもう終わり」
「まだあるぞ。戦争法に秘密法、共謀罪に、アホな野次。できるはずなき改憲鼓吹」
「アベノミクスも大間違い。格差・貧困・非正規増。大企業には優遇で、庶民に対する大増税。地方を切り捨て、農林漁業に見切りつけ、国保も介護も負担増。これで政権もつはずない」
(2019年12月30日)