元日は寄席に出かけた。上野公園までの散歩の足をちょいと延ばしたら、お江戸上野広小路亭に行き着いて、ふらふらと入ってしまい、結局トリまで聴き入った。正月講演の客席は畳に座布団を並べただけの色濃い場末感が売り物。しかも、まばらな客の入りで、高座と客席の一体感がよい。
どの演者も、マクラで客の少ないことを嘆きつつ、さすがにプロ。座布団相手に手抜きなしの熱演続きで堪能した。近くの鈴本に行けば、落語協会の名のある正統派の噺家が出て来るが、こちらは落語芸術家協会。若手の「ホントに上手な噺を聞きたければCDで聞けば良い」という威勢のよい開き直りが心地よい。ライブならではの楽しいひととき。中で、講談界の大看板・神田松鯉が正月にちなんで、小品ながら「門松の由来」の一席。これを聞いただけでも、耳に福であった。
なんとなく、講談には,立身出世や尽忠報国・滅私奉公の臭みを感じて、落語に親しみを感じるのだが、なかなか講談も面白い。
しかも、気持ちがよいのは、この「お江戸上野広小路亭」の番組表やご案内の類が、すべて西暦表示であること。元号がまったく出て来ないのだ。こいつは春から、縁起がよろしい。
2日は、散歩の足を秋葉原まで延ばしたところ、行きも帰りも神田明神初詣客の凄まじさに驚くばかり。道路に溢れたあの行列列の長さ、あの渋滞ぶりでは、善男善女はいったい何時間待たされて拝礼したのだろう。しかも本日は明らかに個人か家族連れの参拝。1月6日の仕事始めには、会社ぐるみの参拝となる。恐るべきことになるのだろう。縁なき衆生から見れば、およそ馬鹿げたかぎり。
もっとも、平将門とは、朝敵であり逆賊である。板東平野に君臨して、自ら「新皇」と称したという。当然のことながら、中央政権の逆鱗に触れてあえなく討ち死にするが、その首は都に運ばれて晒し首とされる。わが国における晒し首第1号だとか。伝承によれば、その首は東に飛んで,大手町に落ちたという。今も、将門の首塚があるところ。
日本には、御霊信仰というものがある。深い怨みを呑んだ死者の霊は、強い霊力ををもって世に人に祟りをなす。これを恐れた人が手厚く神と祀れば、その霊力の加護に与ることができるという。
史上、菅原道真・平将門・崇徳院を三大怨霊ということになっている。これに、早良親王(皇位に就かなかないまま憤死したが、崇道天皇と諡されている)を加えることもある。それぞれに、御霊を祀る社ができている。その中でも、朝敵・逆賊の将門を祀る神田明神にいまも多くの参拝客が詣でるのが面白い。
一方、またまた五條天神に足を延ばすと、こんなものが掲示してあった。
上皇后陛下
神まつる 昔の手ぶり
守らむと 旬祭(しゅんさい)に発(た)たす
君をかしこむ
これには、違和感山積である。
まず、上皇。皇室典範には、上皇なんてものはない。その第5条に「皇后、太皇太后、皇太后、親王、親王妃、内親王、王、王妃及び女王を皇族とする」とあるが、今の時代に上皇なんて聞き慣れない地位も言葉もない。
やむを得ず、政府は「天皇の退位等に関する皇室典範特例法」を作り、「退位した天皇は、上皇とする。上皇の敬称は、陛下とする」とした。その上で上皇の妻を上皇后として、皇太后と同格とした。条文を重ねれば、「上皇后陛下」は間違いではない。
しかし、まずは「上皇」に違和感を禁じえないし、ましてや「上皇后」においておや。舌を噛まないか。さらに「上皇后陛下」とは。
「神まつる」は、「神祀る」。「昔の手ぶり」は、「昔の手風」であろう。「昔ながらの風習」くらいの意味か。「旬祭」は、毎月1日・11日・21日に行われる宮中祭祀。「かしこむ」は、「畏む」だろう。夫のことを、神を祀る者として、畏れ多いとし、畏まっているというのだ。
この夫に対する妻の姿勢を、美風とも文化とも言ってはならない。因習というべきだろう。神祀るなんて、ひっそりとおやりなさい。国民にひけらかすものではない。
もっとも、私のほかにこの掲示をまじまじと見る者などいない。見なけりゃいいし、読まなけりゃ不愉快でもないのだが。読むは因果、読まるるも因果か。
(2020年1月3日)
大晦日から元日は、ゴーン逃亡の記事に目を奪われた。
この事件は、香港の事態との関連性を考えさせる。香港市民から見て、中国本土は、「不公正と政治的な迫害が横行する野蛮の地」「到底、人権と正義にもとづく公正な裁判を期待することができない国」である。図らずも、同じ趣旨の言葉が、レバノンに逃亡したゴーンの口から発せられた。香港市民にとっての中国本土が、ゴーンにとっての日本というわけだ。このゴーンの認識はもっともなものだろうか。それとも言いがかりに過ぎないものだろうか。
国家権力と人権が最も峻烈に切り結ぶ局面が、個人に対する刑罰権の発動である。権力は、犯罪を犯したとする国民を逮捕し勾留したうえ、その生命すら奪うことができる。文明は、この権力による刑罰権の行使が放恣に流れず濫用にわたらぬよう、長い期間をかけて、その歯止めの装置を形作ってきた。それが刑事司法の歴史である。
香港市民の目には、中国が文明国たりうる刑事司法制度をもち人権擁護に配慮した運用をしているとは思えない。だから、昨年(2019年)4月に香港立法会(議会)に「逃亡犯条例」改正案が提出されたとき、これを深刻な事態として受けとめ反対闘争が燃え上がった。
香港は20か国と犯罪人引き渡し条約を締結しているというが、中国本土とはその条約はない。香港で犯罪の被疑者とされた者について、中国本土から香港政庁に被疑者の引渡要求はできないし、香港が中国本土に被疑者を引き渡す義務もない。ところが、「逃亡犯条例・改正案」は、刑事被疑者の中国本土への引き渡しを可能とするものだった。香港政庁はこの「改正案」を、「一国二制度」のもと、「法の抜け穴をふさぐために必要な当然の措置」としたが、香港市民からは、政治的弾圧の被害者の中国本土への引き渡しを可能とする、とんでもない「改悪案」と指弾された。
中国本土の刑事手続が、適正手続に則って被疑者・被告人に弁護権を保障する公正なものであるとの信頼はまったくないのだ。つまりは、香港の市民からは、中国は文明国として認められていない。化外の地なのだ。
この香港市民の対中国司法観には多くの人が賛同するだろう。ゴーンの日本の刑事司法観にはどうだろうか。中国と日本、はたして大同小異あるいは五十歩百歩だろうか。
カルロス・ゴーンの逃亡後の声明は次のとおりである。
もはや私は有罪が前提とされ、差別がまん延し、基本的な人権が無視されている不正な日本の司法制度の人質ではなくなります。
日本の司法制度は、国際法や条約のもとで守らなくてはいけない法的な義務を目に余るほど無視しています。
私は正義から逃げたわけではありません。
不公正と政治的迫害から逃れたのです。
いま私はようやくメディアと自由にコミュニケーションできるようになりました。
来週から始めるのを楽しみにしています。
ゴーンは、日本の刑事司法を不正なものとし、「有罪が前提とされ、差別がまん延し、基本的な人権が無視されている」「日本の司法制度は、国際法や条約のもとで守らなくてはいけない法的な義務を目に余るほど無視しています」という。だから、その桎梏から抜け出すために、保釈条件を無視しての国外脱出を正当化している。法的に理屈をつければ、緊急避難の法理にもとづいての違法性阻却という弁明になろう。
ゴーン弁護人の一人は、ゴーンの日本司法についての見解に対して、「保釈条件の違反は許されないが、ゴーンさんがそう思うのも仕方ないと思う点はある」と温いことを言っている。ゴーン逃亡に責任なしとしない弁護人の言としては、無責任の誹りを免れまい。
私は、権力に対する刑事被告人の立場の弱さを嘆き続けてきた。もっと実質的に防御権・弁護権が保障されなければならないと思い続けてもきた。だから、刑事被疑者や被告人が、裁判所や検察を出し抜けば、まずは拍手を送る心境だった。が、今回は違う。苦々しい印象あるのみである。
刑事被告人に対する保釈についての実務は近年ようやく過度の厳格さから解放されつつあったが、その後退を心配しなければならない。保釈保証金の高額化や保釈条件の煩雑化、厳格化も進むことになるのではないか。ひとえに、ゴーンの所業の所為でのことである。迷惑至極といわねばならない。
ゴーンという人には、他国の主権の尊重とか、法の支配に対する敬意はない。彼にも大いに言い分はあろうが、徹底して法廷で無罪を主張して争うべきだろう。それができないはずはない。彼は曲がりなりにも保釈をされている。私選弁護人も付いている。なによりも、闘うための十分な財力に恵まれてもいる。日本に特有の制約はあろうが、法廷で争う手段を彼はもっているのだ。刑事司法の訴追を免れるための国外逃亡という発想は、文明人のものではない。
報じられるところでは、19年3月のゴーンの保釈申請に対して、東京地裁は「海外渡航の禁止やパスポートの弁護人への預託のほか、制限住居の玄関に監視カメラを設置して録画する、携帯電話は弁護人から提供される1台のみを使うなど15項目にわたる条件を付けて保釈を認めた。その中には、妻との接触には裁判所の許可が必要という条件もはいっている。保釈保証金は15億円だった。これが、すべて逃走防止に役立たなかったことになる。ゴーンの違法行為によって、ゴーン自身が批判した「人質司法」がさらに深刻化しかねないのだ。
私にも、日本の刑事司法には大いに不満がある。多くの改善点があることは当然のことと思っている。ときには絶望の思いもないではない。それでも、香港の市民から見た中国の刑事司法と大同小異・五十歩百歩とは思っていない。ゴーンが堂々と無罪の主張を展開することに、裁判官が耳を傾けないはずはないし、検察官提出証拠の弾劾も、弁護側で収集した証拠の提出も可能ではないか。
ゴーンによる日本の刑事司法の欠陥の具体的な指摘は歓迎する。しかし、刑事司法の制度と運用に不満だからという理由での国外逃亡を容認することはできないし、してはならない。
(2020年1月2日)
あらたまの歳のはじめ。さて、本当にめでたいと言うべきか。あるいは、めでたくもないのだろうか。
今、表立っての軍事衝突はなく、国内には曲がりなりにも平和が続いている。軍国主義の謳歌という状況もなく、独裁というほどの強権支配もない。国民の多くが飢えに苦しんでいるわけではなく、国家財政の目に見える形での破綻もない。国民がなだれを打って海外に逃れるような現象はなく、近隣隣国からの大量難民の流入もない。国民の平均寿命は延びつつある。これをめでたいと言って、おかしくはない。
しかし、この「平和」には危うさがつきまとっている。嫌韓ヘイト本が書店の棚を埋めつくしている。国威を興隆せよ、そのための軍事力を増強せよ、自衛隊を闘える軍隊にせよという乱暴な声が大きい。その勢力の支持を受けた安倍晋三という歴史修正主義者が、いまだに首相の座に居座り続けている。しかも彼は、この期に及んでなお、改憲の策動を諦めていない。少なくとも、諦めていないがごとき言動を続けている。
のみならず、天皇という存在が、民主主義の障害物として大きな存在感を示し始めてもいる。表現の自由が侵蝕されつつあり、三権分立は正常に機能せず、政権におもねる司法行政が裁判官の独立を侵害して「忖度判決」が横行している。明らかに格差が広がり貧困が蔓延している。人の自律性は希薄になって、政治への参加や、デモ・ストは萎縮している。社会を革新する労働運動の低迷はどうしたことだろうか。教育は競争原理を教え込むことに急で、連帯や団結を教えない。社会変革の主体を育てるという視点はない。保守政権が望むとおりのものとなっている。これがめでたいとは、とうてい言えない。
改めて思う。実定憲法とは、法体系全体の理想でもある。この理想に照らして、今現実は理想との距離を縮めつつあるのか、それとも拡げつつあるのだろうか。常に、その意識が必要なのだ。
分野によって一律ではないが、現政権の悪法ラッシュによって、この乖離は確実に拡大しつつあるといわざるを得ない。手放しで「お目出度い」などととうてい言ってはおられないのだ。
しかも、この理想そのものを変えてしまえと言うのが安倍政権であり、これを支える人々の乱暴な意見なのだ。まずは、改憲志向政権を退陣に追い込んで、掲げる理想を守ることが、なににもまして重要な今年の課題というべきであろう。
昨年は天皇交替と元号変更の騒がしい歳だった。この騒がしさは、今年も東京五輪に引き継がれる。国威発揚の舞台としてのオリンピック、ナショナリズム発揚のためのオリンピックを批判し続けねばならない。
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(2020年1月1日)
2019年が本日で終る。今年は、天皇交替の歳で、新元号制定となった。これに伴う一連の動きの中で、日本の民主主義の底の浅さが露呈した不愉快な歳だった。いつもは筋を通している「日刊ゲンダイ」が、この暮れに中西進のインタビュー記事を掲載している。なんとも、筋の通らないふにゃふにゃの代物。歳の終わりを、そのインタビュー記事批判で締めくくりたい。(以下、赤字が日刊ゲンダイのインタビュアー質問、青字が中西回答。黒字が私見である)
考案者・中西進氏「令和とは自分を律して生きていくこと」
この表題からして荒唐無稽だ。「令和とは自分を律して生きていくこと」という文章自体がなりたたない。この一文の「令和」は、元号としての「令和」でも、時代としての「令和」でもない。漢字2字からなる熟語としての「令和」の意味を「自分を律して生きていくこと」だといいたいのだ。しかし、言うまでもなく、言葉とは社会的な存在である。勝手に言葉を作り、勝手にその意味を決めるなどは、権力者と言えどもなし得ることではない。この人、そんな不遜なことが自分だからできると思い上がっている様子で不愉快きわまりない。
今年の世相を表す「今年の漢字」に「令」が選ばれた。新元号「令和」はまもなく元年が終わろうとしているが、国をリードするべき政権への不信感は募り、国民生活も青息吐息で先行きは不透明だ。これから私たちは、新時代「令和」をどう生きていったらいいのか。「令和」の考案者で万葉集研究の第一人者、国文学者の中西進氏を訪ねてみた。
「これから私たちは、新時代「令和」をどう生きていったらいいのか。」が、恥ずかしくて、読むに耐えない。天皇が交替したから「新時代」、元号が変われば生き方も変わる、という発想は皇国史観に毒された臣民のものの考え方。奴隷の言葉と言ってもよい。主権者の発想ではなく、自由人の言葉ではありえない。わけても、ジャーナリストの矜持をもつ者が決してくちにすべき言葉ではない。
――令和元年は、どのような年だったでしょうか。
いい年だったと思います。とかく惰性的だった生活から、一挙に節目ができたんですから、これほどすごいことはないでしょう。平成の陛下が辞めるとおっしゃったことは、私たちを活性化する大きな出来事でした。みな、「はっ」としたはずです。目が覚めたような感じがしたんじゃないでしょうか。
これが、はたして学問をする人の言葉だろうか。この押しつけがましさには、開いた口がふさがらない。「平成の陛下」へのおもねりは勝手だが、「みな、『はっ』としたはず」などと、他人も同様と思い込んではにらない。天皇の交替で「一挙に節目ができた」と、あなたが思っても、私はそうは思わない。「目が覚めたような感じがしたんじゃないでしょうか」は,いささかなりとも主権者意識をもっている多くの国民に失礼極まる。
――確かに大きな変化でした。
インタビュアがこれではダメだ。まったく突っ込みになっていない。だいいち「変化」ってなんだ。なにがどう変化したのか。
僕はね、退位を示唆されてすぐに思ったんですが、日本国憲法を読んだことのある人なら、これほどに天皇陛下がリーダーシップをもって時代を動かすことができるとは誰も思わなかったと思います。憲法では退位を定めていないのに、肉体的な理由で、自ら天皇の地位を降りられたわけでしょう。上皇は徹底的な戦争否定論者でしたから、余計お疲れだったのかもしれませんが。ともあれ見事な新時代の誕生です。国政が変わったというより、文化の様式としての元号が変わったんです。だから大騒ぎになった。文化がいかに人間にとって大事なのかが分かったと思いますね。
「日本国憲法を読んだことのある人なら、これほどに天皇陛下がリーダーシップをもって時代を動かすことができるとは誰も思わなかったと思います。」は、概ねそのとおり。もう少し正確には、「日本国憲法を大切に思う人なら、これほどに天皇がその矩を超えたリーダーシップをもって、明確に違憲の提言をすることがあろうとは誰も思わなかったと思います。」と言うべきなのだ。
「文化の様式としての元号」とは、訳が分からんような表現だが、必ずしも分からなくもない。元号を小道具とした、タチの悪い天皇制賛美論を、「文化の様式」と言っているのだ。
――元号は文化でもあるんですね。
? 元号の伝統は、世界広しといえど現存しているのは日本だけです。みんな、西暦のほうが便利だということになり、やめてしまいました。確かに西暦はキリストの誕生から年数を数えて、機械的に数を重ねることができます。便利だけど、どこか無機質ではないですか? 片や元号は、統治の出発からの年数で「一世一元」ですから、天皇の代が替われば足し算できなくなり、年数を数えるうえでは不便です。それでも元号を使うのはなぜか。ある時代に対する美的な感覚のようなものではないでしょうか。
元号の不便は自明である。そのことについては、この人も認めているようだ。だから日常生活やビジネスにおける不便に耐えかねて、古代王政の遺物である「元号の伝統」は世界から姿を消したのだ。ところが、日本だけは、国民に不便を強いてもなお、元号を残し、かつ事実上その使用を強制するのはなぜか。この人は、その辻褄合わせを「文化」や「ある時代に対する美的な感覚のようなもの」で説明しようとしているのだが、いかにも自信がない。説得力に欠けるというほかはない。
元号は文化ではないか、と僕は思うんですね。その元号に、私たちはさまざまな希望を込めてきたわけです。公明に治める「明治」、昭らかな平和であれ、と願いを込めた「昭和」というふうに、いい元号をつけるのは、ひとつの期待感でした。ですから元号はある種の倫理コードの役割もあるんです。
ここには、多少のホンネが透けて見える。元号に、「私たちはさまざまな希望を込めてきた」のだという。これはウソであり、誤魔化しでもある。ウソの根源はこの人の言う「私たち」にある。元号の制定は、国民投票で決められたものではない。国会の審議も経ていない。いかなる意味でも、元号は国民の意思を反映したものではない。そもそも、本当に元号が必要なのかすら、しっかりとした議論がない。「私たち」の僭称は慎んでいただきたい。
この人のいう「私たち」は、おそらく「日本国の日本人」という意味なのであろう。日本における日本人とは、昭和までは「神なる天皇を中心とする國体における臣民」であった。臣民に元号策定の権限などあるべくもない。神なる天皇が時を支配し、元号の制定によって時代を改めるという、荒唐無稽の呪術的権威によって、改元は天皇の行為だった。
では、その後の2例の元号(平成・令和)の制定には、国民が関与したか。戦前と同様、政権は関与したが、主権者国民が関与したわけではない。憲法が変わり、国体観念もなくなったはずが、そうなっていないのだ。元号制定の経過は意図的に曖昧にされ、戦前と戦後が、太い一本の心棒でつながっている。その実質は天皇制ナショナリズムである。そういえば角が立つから、この人は「文化」と言っている。この「文化」は「国体」と何の変わりもない。
■宰相は「十七条の憲法」の尊重を
――国書を典拠とする初めての元号となった「令和」に込められた思いを改めて教えてください。
「令和」の2文字は、万葉集の「梅花の歌三十二首」の序文、「初春の令月にして 気淑く風和ぎ」から取られました。令の原義は「善」。秩序というものを持った美しさという意味があります。もっと噛み砕いて言えば、自律性を持った美しさ、ですね。「令は命令に通じるからけしからん」と言うのは、「いい命令」を考えていないのですね。「詩経」や「礼記」などの注釈には「令は善なり」と定義があるのです。
?一方、「和」はこれまで248種類作られてきた元号の中で今回を含め20回使われることになります。「和」の根源は、聖徳太子が定めた日本の最初の憲法「十七条の憲法」の第1条、「和を以て貴しと為す」にあります。聖徳太子という人は、徹底的に平和を教えた人。「平凡な人であることが平和の原点ですよ、自分が利口だと思うから争いが起こる」と604年に発言しているのですから、すごいことです。
? この人の言っていることは、独善であり牽強付会というしかない。えっ? 「令」とは「秩序をもった美しさ」ですと。「善い命令を考えよ」ですって。これは、完全に支配者の発想である。一糸乱れぬ軍隊の行進の美しさ。上命下達の官僚組織の美しさ。国民すべての思想と行動に目を光らせ不服従を許さぬ統制の美しさ。そんなものが、「私たちが元号に込めた希望」だというのか。批判あってしかるべきではないか。
――日本はその前年まで新羅と泥沼の戦争をしていました。
? 第2次世界大戦が終わった翌年に今の憲法ができたように、十七条の憲法も泥沼の戦争の次の年に作られました。ですから、非常に切実な願いが込められているんです。源実朝や藤原頼長ら代々の宰相たちはその聖徳太子が作った「十七条の憲法」を、尊重しようとしてきました。ぜひ今の宰相も「十七条の憲法」を尊重してもらいたいと願っています。
「十七条の憲法」は、保守派の大好きアイテムなのだ。自民党の改憲草案にも、産経の改憲案にも、「和をもって貴しとなす」が出て来る。なぜ、保守派が「和」が好きなのか。この「和」は、上命下服の秩序が保たれている状態を意味するからなのだ。けっして、同等者の連帯や団結を意味するものではない。「十七条の憲法」の第1条には「逆らうことなきを旨とせよ」と書いてある。下級が上級を忖度して、もの言わぬことが「和」なのである。この「和」は、民主主義とも国民主権とも無縁な支配者の求める秩序に過ぎない。こんなものを今の政治に求めてはならない。
それぞれがこのような意味を持つ元号「令和」は、自律性を持った美しさによって「国家」を築いていくという意味です。具体的に言うと、どんなに車が来なくても赤信号では道を渡らない。目の前に1000円が落ちていて誰も見ていなくてもポケットに入れない。それが自分を律するということ。
? 考案者は、新しい令和の時代をそう生きるべきではないか、という思いを込めたんだと思いますよ(笑い)。
何とも馬鹿馬鹿しい。ここで、「自律性」が唐突に出てくる。しかし、「令和」の「令」も「和」も、権力者の支配の秩序以外の何ものでもなく、言わば強いられた「他律」であって「自律性」が出てくる余地はない。言語とは飽くまで社会的存在なのだから、勝手な解釈での意味づけは慎んでもらわねばならない。
?新自由主義のもと弛緩した現代人
――平成の時代は自分を律することなく、自由気ままでいることをよしとする風潮だったかもしれません。
戦争が続いた昭和を経験したことで、「平らになる」平成を望んだわけですが、平凡に平らじゃ困る。そろそろ奮い立たなきゃいけません。アクティブな信号が必要になっていたんじゃないでしょうか。
信号がずっと青(OK)だと、何をしようと平気でしょう。新自由主義によって、経済や効率化が優先されるようにもなりました。“役に立たない”文化とは相いれません。多くを考えなくても生きていけるのは平和だとも言えるけど、人間の心が弛緩してしまいます。経済のことも、教育のことも、よくよく考えなければいけないことは、山積していると思いますね。
この人の頭の中は、ごちゃごちゃで未整理のままなのだ。こんな人が,「そろそろ奮い立たなきゃいけません。アクティブな信号が必要になっていたんじゃないでしょうか」という思いつきで考案した元号が「令和」だというのだ。繰り返すが、天皇制に対する信仰者でも、馬鹿馬鹿しくならないか。
「新自由主義によって、経済や効率化が優先されるようにもなりました」ですって? 本当に新自由主義のなんたるかがお分かりなんでしょうか。新自由主義と対峙するものとして、「文化(=元号)」を考えているようだが、浅薄きわまりない。
■文化は最大の福祉
――文化の衰退は国の衰退と同義語かもしれません。
?「文学で飢えた子を救えるか」という言葉がありますが、確かに肉体は養えません。けれど、心は養えます。文化とは最大の福祉です。福祉というのは生活が豊かになることではなく、心が豊かになることを言います。心の貧乏にならないために、自らを見つめ律する。「令和」らしい生き方をしていきたいものですね。
こういう言説は、眉に唾を付けて聞かなければならない。「福祉というのは生活が豊かになることではなく、心が豊かになることを言います。」は、暴言というほかはない。「福祉というのは、まず生活を豊かにすることだが、それだけでは足りず、心が豊かになることまでを考えなければなりません」と言うことなら分かる。しかし、どうもこの人は本気で、「文化によって、心を豊かにすることが、生活を豊かにすることに先行する」「最大の福祉とは、経済的に生活や医療・教育を成り立たせることではなく、文化(=元号)的環境を整えることにある」と考えているようだ。いかにも、今日の日本の支配層の考えそうなことではないか。
安倍政権の改憲策動と、天皇制と元号の批判で、2019年は暮れていく。歳が改まったところで、なにかが急に変わるわけではない。
明日からも、当ブログは政権と天皇制の批判を続ける。
(2019年12月31日)
ツキ落ちメッキ剥げて
指弾の怒気 天に満つ
惨たり 国政私物化の末路
孤立無援の安倍官邸
退陣を求むるの鯨波
肺腑を抉る
一強緊張を失い
処処綻び深し
夜來怨嗟の聲
命運既に尽きしを知る
国政乱れて 詭弁在り
政権昏迷して 瞞着深し
危機を感じて 国会は閉じて開かず
カジノを望んでは 逮捕に心を驚かす
改憲叫べど良民は踊らず
ただネトウヨの声援のみ 萬金に抵る
足掻けども先は更に短かく
レームダックとなるを如何せん
水島朝穂さんの「直言」(11月25日)が、「首相の『責任』の耐えがたい軽さ―モリ・カケ・ヤマ・アサ・サクラ」という表題。
http://www.asaho.com/jpn/bkno/2019/1125.html
「■ 安倍政権の『悪夢の7年』が終わりに近づいているようです。『モリ、カケ、ヤマ、アサ、サクラ』の蕎麦メニューがすべてつながって見えるようになりました。」と述べている。(ヤマは山口敬之問題、アサは昭恵の大麻問題を指す)
水島さんのいう蕎麦メニューだけではない。2大臣引責、共通テスト、官僚不倫カップル、カジノに郵政疑惑まで加わって、もはや末期症状である。
「アベの罪。まずはモリ・カケ、ヤマ・サクラ。カジノにカンポでもう終わり」
「まだあるぞ。戦争法に秘密法、共謀罪に、アホな野次。できるはずなき改憲鼓吹」
「アベノミクスも大間違い。格差・貧困・非正規増。大企業には優遇で、庶民に対する大増税。地方を切り捨て、農林漁業に見切りつけ、国保も介護も負担増。これで政権もつはずない」
(2019年12月30日)
昨日(12月28日)の東京新聞を開いて驚いた。23面「あの人に迫る」という欄に、大きな山田善二郎さんのインタビュー記事。「『鹿地亘事件』生き証人」として,大いに語っている。しかも、昔話ではなく、今につながる警告が語られている。
おお、山田さん、しばらくぶり。写真を見る限りずいぶんお齢を召された。91歳と紹介されている。もっとも、写真はお齢相応だが、記事の内容は相変わらずの矍鑠たるものである。
この記事は、下記のURLで全文読める。ぜひお読みいただきたい。手に汗握る、実話なのだから。
https://www.chunichi.co.jp/article/feature/anohito/list/CK2019122702000240.html
また、事件の全容が、鹿地・山田両名出席の1952年12月10日衆院法務委員会議事録で読むことができる。こちらも、どうぞ。
https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=101505206X01019521210
ところで、山田さんは私の「人生の転機」に関わった人である。私が今のような弁護士としての人生を歩むについてのきっかけを提供してくれた人。
当ブログの「私が出会った弁護士(その3) ― 安達十郎」
https://article9.jp/wordpress/?p=10912 (2018年8月13日)
の一部を再掲したい。
50年以上も昔にこんなことがあった。私は学生で、駒場寮という学生寮に居住していた。その「北寮3階・中国研究会」の部屋の記憶が鮮やかである。ペンキの匂いも覚えている。ある夜、その部屋の扉を叩いて、集会参加を呼びかける者があった。「これから寮内の集会室で白鳥事件の報告会をするから関心のある者は集まれ」ということだった。
白鳥事件とは、札幌の公安担当警察官・白鳥一雄警部が、路上で射殺された事件である。武闘方針をとっていた共産党の仕業として、札幌の党幹部が逮捕され有罪となった。そして、再審請求の支援活動が市民運動として盛り上がりを見せていた。
当時、私は毎夜家庭教師のアルバイトをしており帰寮は遅かった。集会の始まりは深夜といってよい時刻だったと思う。なんとなく参加した少人数の集会だったが、その報告者の中に、若手弁護士としての安達十郎さんと、まだ30代だった国民救援会の専従・山田善二郎さんがいた。もちろん私は両者とも初対面。自由法曹団も、国民救援会も殆ど知らなかったころのことだ。
具体的な会合の内容までは記憶にない。格別にその場で劇的な出来事があったわけではない。しかし、初めて弁護士が受任事件について情熱をもって語るのを聞いた。安達さんの報告に好感を持ったのは確かなこと。私はその集会をきっかけに、国民救援会と接触し、札幌の白鳥事件の現地調査に参加し、山田さんに誘われて鹿地事件対策協議会の事務局を担当し、やがて弁護士を志すようになる。
弁護士を志すきっかけが、安達弁護士と山田さんの、あの駒場寮での深夜の集会だった。学生時代のあの日。駒場寮内の薄暗いあの部屋での集会に参加しなかったら、法学とは縁もゆかりもなかった私が弁護士を志すことは多分なかっただろう。弁護士になったとしても、「『丸ビル』内に事務所を張って、大企業を顧客として収入をあげる極く少数の弁護士」を志していたかも知れない。
多くの人との出会いの積み重ねで、自分が今の自分としてある。安達十郎弁護士と山田善二郎さんには、大いに感謝しなければならない。なお、駒場寮の存在にも感謝したいが、いま駒場のキャンパスに寮はなくなっている。寂しい限りと言わざるを得ない。
さて、このインタビュー記事には、「◆軍隊の闇の部分、今に通じる問題」という大きな見出しがつけられている。
山田善二郎さんが、インタビューの最後に、こう語っている。
?鹿地亘事件の意味は。
「民主主義の国」米国の行為、隠された闇の部分を、いわば内側にいた私が暴露したことも、国会の場で究明されたことも、歴史的な役割があったと思います。
でも、東京・中日新聞も報道してきたように、米中枢同時テロ(2001年)の後、米中央情報局(CIA)が確証もなしに「敵戦闘員」と見なした人々を拉致、監禁して拷問したことなどは、同じことの繰り返しに見えますね。
軍隊には特殊なスパイ組織がつくられる伝統があります。なのに国内では自衛隊を通常の「軍隊」「国防軍」にしようとする動きもあります。今につながる問題と知ってほしいのです。
占領期には、下山・三鷹・松川を始めとする数々の政治的謀略事件があった。占領軍の仕業と言われながらも、真犯人が突き止められてはいない。その中で、鹿地事件は、米軍の謀略組織の仕業だということが確認された稀有の事件である。占領末期、キャノン機関といわれる「GHQ直属の秘密工作機関」が、著名な日本人作家鹿地亘を拉致して1年余も監禁を続け、独立後の国会審議で事態が明るみに出たことから解放した。
偶然にも監禁された鹿地に接触した山田さんの決死的な救助行動がなければ、鹿地は行方不明のまま消されていただろう。すべては闇に葬られたはずなのだ。
当然のことながら、これは米占領軍に限った非道ではない。「民主主義の国・米国でさえもこんな汚れたことをした」と考えなければならない。戦争・軍隊にはこのような陰の組織や行動が付きものなのだ。
戦争のそれぞれの面の実相を語る「貴重な生き証人」として、山田さんには、語り続けていただきたい。
(2019年12月29日)
私は、2012年4月に韓国憲法裁判所を見学し,東北大学に留学していたという見事な日本語を語る判事補の通訳を介して、広報担当裁判官から懇篤な説明を受けた。その際の、「人権擁護のための真摯な姿勢」に深い感銘を受けた。そして、「世論調査によれば、韓国内で最も信頼に足りる団体が憲法裁判所とされている」と誇りをもって述べられたことが印象的だった。
その韓国憲法裁判所が、昨日(12月27日)、日韓慰安婦合意に関する案件で却下の決定を言い渡した。憲法裁判所という存在が、われわれにはなじみが薄い。却下決定が意味するものはやや複雑である。
ソウル発の聯合ニュース(日本語版)から引用する。
まずは、判決の内容について。
韓国憲法裁判所は27日、慰安婦被害者らが旧日本軍の慰安婦問題を巡る2015年末の韓日政府間合意の違憲性判断を求めた訴えに対し、「違憲性判断の対象ではない」とし、却下した。
却下は違憲かどうかの判断を求めた訴えが憲法裁判所の判断対象ではないとみた際に審理をせずに下す処分。つまり、裁判所は慰安婦問題を巡る韓日政府間合意が慰安婦被害者の基本権を侵害したかどうかについて、判断しないということだ。
憲法裁判所は「同合意は政治的合意であり、これに対するさまざまな評価は政治の領域に含まれる。違憲性判断は認められない」とした。
審理の対象となった慰安婦合意については、次のように解説している。
同合意は15年12月に当時の朴槿恵(パク・クネ)政権と日本政府が「最終的かつ不可逆的」に解決すると約束したもの。慰安婦問題に関する日本政府の責任を認め、韓国政府が合意に基づき、被害者を支援する「和解・癒やし財団」を設立。日本政府が財団に10億円を拠出することを骨子とする。
ただ、合意過程で慰安婦被害者らの意見が排除された上、合意の条件として韓国政府が二度と慰安婦問題を提起しないとの内容が含まれたことが明らかになり、韓国では不公正な合意との指摘が上がった。
提訴と審理の経過については、次のように述べている。
16年3月、姜日出(カン・イルチュル)さんら慰安婦被害者29人と遺族12人は憲法裁判所に、合意を違憲とするよう求める訴えを起こした。被害者側の代理の弁護士団体「民主社会のための弁護士会」(民弁)は、「日本の法的な責任を問おうとするハルモニ(おばあさん)たちを除いたまま政府が合意し、彼らの財産権や知る権利、外交的に保護される権利などの基本権を侵害した」とした。
一方、韓国外交部は18年6月、「合意は法的効力を持つ条約でなく、外交的な合意にすぎないため、『国家機関の公権力行使』と見なすことができない」と主張し、憲法裁判所の判断以前に訴えの却下を求める意見書を提出していた。
以上のとおり、形の上では、憲法裁判所の判決は韓国外交部(外務省)の意見を採用したことにになり、訴えた元慰安婦らの落胆が伝えられている。しかし、実は慰安婦合意の性格についての憲法裁判所の判断は、法的拘束力を否定したことにおいて、積極的なインパクトを持つものとなっている。毎日新聞の解説記事にあるとおり、この決定が「法的義務はないとしたことで、合意でうたわれた『最終的かつ不可逆的解決』の確約が失われ逆に元慰安婦の支援団体が日本政府の責任を追及する動きを強める契機となる可能性もある』と考えるべきだろう。
共同通信の報道が端的にこう述べている。
韓国の憲法裁判所は27日、旧日本軍の元従軍慰安婦らが慰安婦問題を巡る2015年の日韓政府間合意は憲法違反だと認めるよう求めた訴訟で、合意は条約や協定締結に必要な書面交換も国会同意も経ていない「政治的合意」にすぎず、効力も不明だと指摘、法的な履行義務がないと判断した。
裁判所は、合意で履行義務が生じていないため元慰安婦らの権利侵害はなく、合意を結んだ政府の行動が違憲かどうかを判断するまでもないとして、元慰安婦らの訴えは却下した。
合意履行を韓国政府に求めている日本政府は反発を強めそうだ。
毎日が詳細に報じているが、昨日の決定は、日韓政府間合意は条約ではなく、「外交協議の過程での政治的合意」だと判断。両国を法的に拘束するものではない(法的拘束力はない)、合意によって具体的な権利や義務が生じたとは認められないため、元慰安婦らの法的地位は影響を受けないという。とりわけ問題となったのが、「外交的に保護を受ける権利」だったが、裁判所はこれを含めて基本権を侵害する可能性自体がないとした。もちろん、「政治的合意」がもつ政治的効果まで否定したわけではない。
この決定を受けて、原告側代理人の李東俊(イドンジュン)弁護士は「日韓合意は条約ではないと判断したので、韓国政府が破棄、再交渉する手がかりを作った」と述べたという。
一方、請求を却下するよう求める意見書を提出していた韓国外務省は「憲法裁の判断を尊重する。被害者の名誉、尊厳の回復や心の傷の治癒に向け、努力を続けていく」とコメントした。
また、同じ原告団が政府に損害賠償を求めた訴訟で、ソウル高裁は26日、日韓合意について「(韓国政府が)被害者中心主義に違反した合意であることを認め、真の問題解決ではなかったことを明らかにし、被害者の名誉回復のために内外で努力する」という調停案を提示。双方が受け入れた、という。韓国政府が合意した「内外での努力」の具体的内容はよく分からない。
なお、昨日の憲法裁判所の決定には、慰安婦合意の1項目である「日本大使館敷地前の少女像移転」問題について、「(合意は)解決時期や未履行による責任も定めていない」としており、市民団体が活動を活発化させることも考えられると報じられている(毎日)。
念のため、2015年日韓合意(「12・28合意」)の骨子は以下のとおりである。
・慰安婦問題が最終的かつ不可逆的に解決されることを確認。今後、互いに非難や批判を控える
・日本政府は、当時の軍の関与の下に多数の女性の名誉と尊厳を傷つけた慰安婦問題の責任を痛感
・安倍晋三首相は心からおわびと反省の気持ちを表明
・韓国政府が元慰安婦を支援する財団を設立し、日本政府の予算で10億円程度を拠出
・韓国政府は在韓国日本大使館前の少女像への日本政府の懸念を認知し、適切な解決に努力
(2019年12月28日)
予てから懸念されていた中東海域への自衛隊派遣が、本日(12月27日)閣議決定された。来年2月上旬にも、新規に護衛艦1隻を派遣と、現在ジブチで海賊対処行動に従事している哨戒機P?3Cを活用するとしている。アメリカに追随した外交上の愚策であり、政治的に危険な行為として批判の声は高い。与党内からも懸念の声が上がっているとされるなか、国会閉会中の間隙を縫って、議論が尽くされないままの姑息な決定である。
憲法の理念に反することは明らかというだけではない。派遣の根拠法がまことに奇妙なのだ。自衛隊の海外派遣、それも紛争多発の危険な中東への派遣なのだから、根拠法は当然に自衛隊法だろうと普通は考える。自衛隊法には然るべき要件や国会の関与などの手続規定があって、議論のない派遣には歯止めがあるはずだとも。
ところが、この事実上の軍艦や軍用機を伴う実力部隊海外派遣の根拠は、自衛隊法によるものではない。本日の閣議決定では「防衛省設置法第4条第1項第18号の規定に基づき実施する」となっている。この海外派遣は、情報収集活動を行うもので、同号の「調査・研究」にあたるのだという。いくらなんでも、それはないだろう。これでは、法の支配も立憲主義も、画餅に帰すことになる。
行政法規のカテゴリーとして、組織法と作用法という分類がある。行政主体の組織をどう構成するかという規定と、行政主体の作用に関する規定とは別物なのだ。行政の活動における権限やその要件は、作用法の分野に定められる。「防衛省設置法第4条」とは、(所掌事務)を定めるもので、明らかに組織法に分類されるものに過ぎない。
具体的に条文を見ていただく方が、手っ取り早い。同法4条の規定は、以下のとおり、その第1項で25の所掌事務が列記されている。
第4条 防衛省は、次に掲げる事務をつかさどる。
一 防衛及び警備に関すること。
二 自衛隊の行動に関すること。
三 陸上自衛隊、海上自衛隊及び航空自衛隊の組織、定員、編成、装備及び配置に関すること。
四 前三号の事務に必要な情報の収集整理に関すること。
五 職員の人事に関すること。
六 職員の補充に関すること。
七 礼式及び服制に関すること。
八 防衛省の職員の給与等に関する法律の規定による若年定年退職者給付金に関すること。
九 所掌事務の遂行に必要な教育訓練に関すること。
十 職員の保健衛生に関すること。
十八 所掌事務の遂行に必要な調査及び研究を行うこと。
防衛省は、「防衛及び警備に関すること(一号)」「自衛隊の行動に関すること(二号)」を所掌する。しかし、この規定から、防衛大臣がその判断で、「防衛及び警備に関すること」「自衛隊の行動に関すること」ならなんでもできるはずはない。「防衛及び警備に関すること」「自衛隊の行動に関すること」は、作用法としての自衛隊法6章に定められた手続に従ってなし得ることになる。
一八号も同様である。「調査・研究」と名目をつければ、防衛相限りで、実質的な海外派兵までできるとは、恐るべき法解釈と指摘せざるを得ない。
この件については、既に今月19日付けの法律家6団体連絡会の緊急声明が発せられ、政府に提出されている。以下に掲示する。
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?2019年12月19日
改憲問題対策法律家6団体連絡会
社会文化法律センター共同代表理事 宮里 邦雄
自 由 法 曹 団 団長 吉田 健一
青年法律家協会弁護士学者合同部会議長 北村 栄
日本国際法律家協会 会 長 大熊 政一
日本反核法律家協会 会 長 佐々木猛也
日本民主法律家協会 理事長 右崎 正博
自衛隊中東派遣の閣議決定に強く反対する法律家団体の緊急声明
はじめに
政府は、自衛隊のヘリコプター搭載可能な護衛艦1隻を新たに中東海域に派遣することを閣議決定する方針を固めた。
中東派遣の根拠については、防衛省設置法の「調査・研究」とし、派遣地域は、オマーン湾、アラビア海北部、イエメン沖のバベルマンデブ海峡で、ホルムズ海峡やペルシャ湾を外したとしている。また、護衛艦の派遣に先立ち、海上自衛隊の幹部を連絡要員として派遣することを検討しているとされ、さらに、現在、ジブチで海賊対処の任務に当たっているP3C哨戒機2機のうち1機を活用するとしている。
しかし、海外に自衛隊を派遣すること、とりわけ、今回のように軍事的緊張状態にある中東地域に自衛隊を派遣することは、以下に述べるように、自衛隊が紛争に巻き込まれ、武力行使の危険を招くものであり、憲法9条の平和主義に反するものである。
私たちは、今回の自衛隊の中東派遣の閣議決定をすることに強く反対する。
1 自衛隊の中東派遣の目的・影響
今回の自衛隊の中東派遣決定については、米国主導の「有志連合」への参加は見送るものの、護衛艦を中東へ派遣することで米国の顔を立てる一方、長年友好関係を続けるイランとの関係悪化を避けるための苦肉の策だとの指摘がある。確かに、政府は、今年6月に安倍首相がイランを訪問してロウハニ大統領、ハメネイ最高指導者と首脳会談を行い、9月の国連総会でも米国、イランとの首脳会談を行うなど仲介外交を続けてきており、これは憲法の国際協調主義に沿ったものとして支持されるべきものである。
しかし、自衛隊を危険な海域に派遣する必要性があるのかという根本問題について、菅官房長官も日本の船舶護衛について「直ちに実施を要する状況にはない」としており、そうした中で、自衛隊を危険な海域に派遣する唯一最大の理由は、米国から要請されたからと言わざるを得ない。しかも、菅官房長官は記者会見で、自衛隊が派遣された場合「米国とは緊密に連携していく」とし、河野防衛大臣も同様の発言をしており、中東地域を管轄する米中央軍のマッケンジー司令官も、自衛隊が派遣された場合には「我々は日本と連携していくだろう」と日本側と情報共有していく意向を示していることからすれば、イランは、自衛隊の派遣を、日米一体となった軍事行動とみなす可能性があり、イランばかりでなく、これまで日本が信頼関係を築いてきた他の中東諸国との関係を悪化させる恐れがある。
また、自衛隊が収集した情報は、米国をはじめ「有志連合」に参加する他国の軍隊とも共有することになるため、緊張の高まるホルムズ海峡周辺海域で、軍事衝突が起こるような事態になれば、憲法9条が禁止する「他国の武力行使との一体化」となる恐れがある。
2? 必要なのは米国のイラン核合意復帰と中東の緊張緩和を促す外交努力
自衛隊の中東派遣の発端となったホルムズ海峡周辺海域では、今年5月以降、民間船舶への襲
撃や拿捕、イラン軍による米軍の無人偵察機の撃墜とそれへの米国の報復攻撃の危機、サウジアラビアの石油施設への攻撃などの事件が発生しており、米国は、こうした事態に対応するためとして、空母打撃群を展開したり、ペルシャ湾周辺国の米軍兵力を増強するなどイランに対する軍事的圧力を強めており、軍事的緊張の高い状態が続いている。
しかし、そもそも、こうした緊張の発端となったのは、米国が、イランの核開発を制限する多国間合意(イラン核合意)から一方的に離脱し、イランに対する経済制裁を強化したことにあり、こうした緊張状態を打開するためには、米国がイラン核合意に復帰し、中東の非核化を進めることこそが必要であり、日本政府には、米国との親密な関係と中東における「中立性」を生かした仲介外交が期待されているのであり、今回の自衛隊の中東派遣は、それに逆行するものである。
3? 法的根拠を防衛省設置法「調査・研究」に求める問題
また、政府は、今回の自衛隊派遣の目的を情報収集体制の強化だとし、その根拠を防衛省設置法第4条1項18号の「調査・研究」としているが、ここにも大きな問題がある。防衛省設置法第4条1項18号は「所掌事務の遂行に必要な調査及び研究を行うこと」を規定しているが、この規定は防衛大臣の判断のみで実施できる。しかも、条文は抽象的で、適用の例示もないことから拡大解釈の危険が指摘されており、過去には、2001年の同時多発テロ直後に、護衛艦が米空母を護衛した際や、テロ対策特別措置法に基づく活動開始前に護衛艦をインド洋に派遣した際にも根拠とされており、海上自衛隊幹部からは「使い勝手の良い規定」との発言も出ている。
? 自衛隊が憲法9条の禁止する「戦力」に該当し、違憲であるとの強い批判にさらされる中で制定された自衛隊法では、自衛隊の行動及び権限を第6章と第7章で個別に限定列挙しており、こうした自衛隊の行動については一定の民主的コントロールの下に置いている。これに対して、今回の自衛隊派遣の根拠とする「調査・研究」の規定は、自衛隊の「所掌事務」を定めた組織規程であって、どのような状況で調査・研究を行うかなど、その行動及び権限を何ら具体的に定めていない。そのため、派遣される自衛隊の活動の内容、方法、期間、地理的制約、装備等については、いずれも白紙で防衛大臣に委ねることになる。すでに政府が派遣目的を他国との武力行使の一体化につながりかねない情報収集にあることを認めていることは、白紙委任の問題性を端的に示すものといえる。このことは、閣議決定で派遣を決定したとしても、本質的に変わらない。
また、国会の関与もチェックも一切ないままで、法的に野放し状態のまま自衛隊を海外に派遣することは、国民的な批判を受けている海上警備行動・海賊対処行動・国際連携平和安全活動などの規定すら潛脱するもので、憲法9条の平和主義及び民主主義の観点から許されない。
しかも、今回の閣議決定は、臨時国会閉会後のタイミングを狙ったもので、国民の代表で構成される国会を蔑ろにするものである。
さらに、「調査・研究」を根拠に派遣された場合の武器使用権限は、自衛隊法第95条の「武器等防護のための武器使用」となるが、その場合の武器使用は、厳格な4要件で限定されており、危険な船が接近した場合の停船射撃ができないことから、防衛省内からも「法的に丸腰に近い状態」との声が出ており、派遣される自衛隊員の生命・身体を危険に晒すことになる。
4 自衛隊の海外での武力行使・戦争の現実的危険性
政府が、自衛隊を派遣するオマーン湾を含むホルムズ海峡周辺海域、イエメン沖のバベルマンデブ海峡は、前述のように軍事的緊張状態が続いており、米軍を主体とする「有志連合」の艦艇が展開している。しかも、日米ともに「緊密な連携」と「情報共有」を明言していることから、派遣される自衛隊が形式的に「有志連合」に参加しなくても、実質的には近隣に展開する米軍などの他国軍と共同した活動は避けられなくなる。
私たちは、2015年に成立した安保法制が憲法9条に違反するものであることから、その廃止を求めるとともに、安保法制の適用・運用にも反対してきた。それは、安保法制のもとで、日本が紛争に巻き込まれたり、日本が武力を行使するおそれがあるからであるが、今回の自衛隊派遣により米軍など他国軍と共同活動を行うことは、以下のとおり、72年以上にわたって憲法上許されないとされてきた自衛隊の海外における武力行使を現実化させる恐れがある。
先ず、行動中に、日本の民間船舶に対して外国船舶(国籍不明船)の襲撃があった場合、電話等による閣議決定で防衛大臣は海上警備行動(自衛隊法82条)を発令でき、その場合、任務遂行のための武器使用(警察官職務執行法第7条)や強制的な船舶検査が認められていることから(海上保安庁法第16条、同第17条1項、同18条)、武力衝突に発展する危険性が高い。
また、軍事的緊張状態の続くホルムズ海域周辺海域に展開する米軍に対する攻撃があった場合、自衛隊は、米軍の武器等防護を行うことが認められており、自衛隊が米軍と共同で反撃することで、米国の戦争と一体化する恐れがある。
こうした事態が進展し、ホルムズ海峡が封鎖されるような状況になれば、集団的自衛権行使の要件である「存立危機事態」を満たすとして、日本の集団的自衛権行使につながる危険がある。
さらに、政府は、ホルムズ海峡に機雷が敷設されて封鎖された場合、集団的自衛権の行使として機雷掃海ができるとしているが、戦闘中の機雷掃海自体が国際法では戦闘行為とされており、攻撃を誘発する恐れがある。
5 まとめ
以上述べてきたように、今回の自衛隊派遣は、その根拠自体が憲法9条の平和主義・民主主義に違反し、自衛隊を派遣することにより紛争に巻き込まれたり、武力行使の危険を招く点で、憲法9条の平和主義に違反する。
したがって、私たちは、政府に対して、自衛隊の中東派遣の閣議決定を行わないことを強く求めるとともに、憲法の国際協調主義にしたがって、中東地域の平和的安定と紛争解決のために、関係国との協議など外交努力を行うことを求めるものである。
以上
(2019年12月27日)
本日(12月26日)9時30分、醍醐聰さんと私とで日本郵政本社を訪ね、下記の申入書を提出した。応対されたのは、広報担当部門の責任者だという、「広報局グループリーダー」の肩書をもつ職員。約20分、神妙にこちらの話を聞いてはくれた。
申し入れの内容は、かんぽ不正販売に関しての3社社長の引責辞任は当然として、鈴木康雄上級副社長にも強く辞任を求める、という趣旨。
国民の郵政に対する信頼を裏切って、消費者被害をもたらした責任は大きい。明日(12月27日)の3社社長のトップとしての引責辞任は不可避な事態だが、鈴木副社長については、必ずしもその意向が明らかではなく、各紙の観測記事のニュアンスは様々である。
しかし3社社長がこの事態に無為無策であったことに責めを負う立場であるのに比して、鈴木副社長は明らかに報道のもみ消しをはかって被害を拡大した積極的な被害拡大に責任を負わねばならない。日本郵政の信頼回復は、トップ4名の辞任からであるが、けっして鈴木副社長の留任があってはならない。
また、辞任するだけではなく、自らの言葉で、被害者、職員、NHKへの謝罪を語るべきである。
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2019年12月26日
日本郵政株式会社社長 長門正貢様
日本郵便株式会社社長 横山邦男様
株式会社かんぽ生命保険社長 植平光彦様
日本郵政株式会社副社長 鈴木康雄様
緊急申し入れ
3社社長の引責辞任のみならず、鈴木康雄副社長の辞任を要求する
「日本郵政と経営委首脳によるNHK攻撃の構図を考える11. 5 シンポジウム」実行委員会
世話人:小林 緑(国立音楽大学名誉教授・元NHK経営委員)/澤藤統一郎(弁護士)/杉浦ひとみ(弁護士)/醍醐 聰(東京大学名誉教授・「NHKを監視・激励する視聴者コミュニティ」共同代表)/田島泰彦(早稲田大学非常勤講師・元上智大学教授)/皆川学(元NHKプロデューサー)
報道によれば、貴職ら3名の日本郵政グループ社長は、このたびのかんぽ生命保険等の不正販売をめぐる総務省と金融庁の処分が27日に決まるのを受けて、同日にも辞任を表明されるとのことです。
過日、報告された「かんぽ生命保険契約問題 特別調査委員会」の報告書や一連の報道で明らかになった、かんぽ生命保険その他の商品の販売をめぐる不正行為は、高齢者を対象にした悪徳商法と断じて過言でないほど悪質極まりないものであり、貴職ら社長の引責辞任は当然のことです。
と同時に、辞任にあたっては悪徳商法で被害を蒙った人々と理不尽なノルマを押し付けられ、良心との板挟みで苦しんだ社員への深い謝罪が不可欠です。
しかし、辞任による引責という点では、貴職ら3名の社長の辞任だけでは済まされません。この問題を取り上げたNHKの「クローズアップ現代+」に対し、元総務事務次官の肩書を誇示して、不正の発覚を封じようと、続編制作のための取材を執拗に妨害したうえに、後輩にあたる総務事務次官(当時)に情報漏洩まで催促した日本郵政副社長・鈴木康雄氏の責任も極めて重く、辞任が当然です。
そこで、私たちは貴職ら4名に以下のことを申し入れます。
申し入れ事項
1.貴職ら日本郵政グループ3社の社長は、かんぽ生命保険等の不正販売の責任をとって、直ちに辞任すること。
2.NHKの取材を妨害し、総務事務次官に情報漏洩を働きかけた鈴木康雄氏の責任も3社社長の責任に劣らず重いことから、鈴木氏も、総務省の処分のいかんにかかわらず、直ちに引責辞任すること。
3.貴職ら4名は辞任にあたって、かんぽ生命保険等の不正販売の被害者、理不尽なノルマを強いられて苦しんだ、かんぽ生命保険の社員らに厳粛な謝罪をすること。
以上
(2019年12月26日)
DHCスラップ「反撃」訴訟では、本年(2019年)10月4日に一審東京地裁民事第1部での勝訴判決を得た。
判決主文は、請求の一部を認容して、DHC・吉田嘉明にして110万円(+遅延損害金)を支払えと命じるもの。訴訟費用負担は、原告(澤藤)が6分の1、被告ら(DHC・吉田嘉明)が6分の5という興味深い割合。
この判決にも被告(DHC・吉田嘉明)が控訴して、東京高等裁判所第5民事部に継続した。12月4日付で控訴理由書が提出され、第1回口頭弁論期日が、2020年1月27日(月)午前11時に指定されている。場所は地裁・高裁庁舎の5階、511号法廷。是非、傍聴にお越し下さい。
あらためて、この訴訟の概要についてお伝えし、ご支援をお願いしたい。
この事件は、典型的なスラップ訴訟である。スラップ訴訟とは、法に関わる社会現象であって、成文法に出てくる用語ではなく、厳密な定義があるわけでもない。常識的に理解されているところでは、「特定の表現を封殺する目的で提起される民事訴訟」を指す。封殺目的の「表現」の多くは言論だが、個人の行為や集団行動を対象とすることもある。その多くは、「社会的強者から」の「社会的に有益な表現」に対する攻撃である。その提訴という手段を通じて表現者を威嚇・恫喝せしめる側面に着目して、「威嚇訴訟」「恫喝訴訟」とも呼ばれる。典型的には、被告を威嚇・恫喝するにふさわしい、高額の損害賠償請求となっている。まさしく、DHC・吉田嘉明が私(澤藤)を被告として提起したDHCスラップ訴訟がそのような典型としての、世のイメージのとおりの訴訟である。
スラップは、その意図と効果において表現の自由封殺の反社会性をもちながら、国民の権利とされている民事訴訟提起を手段とするところに、スラップ特有の違法性判断の困難さがつきまとう。また、それが、スラップ提起者の付け目でもある。
私は、当ブログを毎日書き続けている。権力や権威、社会的強者に対する批判で一貫している内容。「当たり障りのないことは書かない。当たり障りのあることだけを書く」をモットーとして、連続更新は本日で、2459回である。
2014年春、このブログでサプリメント販売大手DHCのオーナー吉田嘉明を批判した。彼自身が週刊新潮の手記「さらば、器量なき政治家・渡辺喜美」で暴露した、みんなの党の党首(当時)渡辺喜美に政治資金として8億円の裏金を提供した事実を、「政治を金で買おうという薄汚い行為」と手厳しく批判したもの。
そして、吉田の裏金政治資金提供の動機を「利潤追求のために行政規制の緩和を求めたもの」として消費者問題の視点から批判した。
DHC・吉田嘉明がスラップ訴訟で、違法と主張したブログ記事の主要な一つが、次の記載である。
「大衆消費社会においては、民衆の欲望すらが資本の誘導によって喚起され形成される。スポンサーの側は、広告で消費者を踊らせ、無用な、あるいは安全性の点検不十分なサプリメントを買わせて儲けたい。薄汚い政治家が、スポンサーから金をもらってその見返りに、スポンサーの儲けの舞台を整える。それが規制緩和の正体ではないか。『抵抗勢力』を排して、財界と政治家が、旦那と幇間の二人三脚で持ちつ持たれつの醜い連携。
これが、おそらくは氷山の一角なのだ。」
これは、消費者に有益な情報である。このような言論が違法として封殺されてはならない。スラップ訴訟とは、市民に有益な情報を遮断しようというものである。スラップは本来表現の自由に敵対する違法な行為なのだ。
私は、突然に、生まれて初めて被告とされた。提訴時の請求慰謝料額は2000万円。私は、「黙れ」と恫喝されたと理解し、弁護士として絶対に黙ってはならないと覚悟を決めた。同じブログに、猛烈に「DHCスラップ訴訟を許さない」シリーズを書き始めた。本日がその第167弾にあたる。
このシリーズを書き始めたとたんに、DHC・吉田嘉明側の弁護士(今村憲・二弁)から警告があり、慰謝料請求金額は6000万円に拡張された。吉田自ら、提訴の動機を告白しているに等しい。
スラップの対象となった私のブログは、政治とカネをめぐっての政治的言論であり、「消費者利益擁護の行政規制を緩和・撤廃してはならない」と警告を発するもので、社会に許容される言論というよりは、民主主義社会に有益な言論にほかならない。
当然のことながら、このスラップ訴訟は、私の勝訴で確定した。しかし、DHC・吉田側が意図した、「DHCを批判すると面倒なことになるぞ」という恫喝の社会的な効果は残されている。スラップを違法とする「反撃訴訟」が必要と考えた。
こうして、DHCスラップ「反撃」訴訟が提起され、去る10月4日、その一審勝訴の判決を得た。先行の「DHCスラップ訴訟」の提起を違法として、慰謝料等110万円の賠償を命じたもの。係属裁判所は東京地裁民事1部(前澤達朗裁判長)である。
この判決は、大要次のように判断している。
「DHC・吉田嘉明が澤藤に対して損害賠償請求の根拠としたブログは合計5本あるが、そのいずれについての提訴も、客観的に請求の根拠を欠くだけでなく、DHC・吉田嘉明はそのことを知っていたか、あるいは通常人であれば容易にそのことを知り得たといえる。にもかかわらず、DHC・吉田嘉明は、敢えて訴えを提起したもので、これは裁判制度の趣旨目的に照らして著しく相当性を欠く場合に当たり、提訴自体が違法行為になる」
私の側は控訴しなかったが、DHC・吉田嘉明の側が控訴した。これから、控訴審が始まる。その第1回が、1月27日である。決定的に勝ちたいと思う。ご支援をお願いしたい。表現の自由の確立のために。
(2019年12月25日)