澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

暴論 ― 「神社は宗教に非ず」「宮城遙拝は臣民たるの義務である」

「大嘗祭は皇室の伝統行事であって宗教行事ではない。」「神道儀礼は、日本の風習に過ぎず信仰とは無縁である」「神道には、教祖も教典もないから宗教ではない」。などという大真面目な議論が交わされている。これは、大日本帝国憲法時代における天皇制政府が信教の自由侵害を糊塗したロジックの引き写しである。

大日本帝国憲法28条は、「日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ信教ノ自由ヲ有ス」と規定した。この条文によって曲がりなりにも「信教ノ自由ヲ有ス」るはずの「日本臣民」は、その実態において神社参拝や宮城遙拝を強制された。とりわけ、学校ではあからさまな公権力による宗教行事への参加強制がまかり通っていた。

その事態は、法治主義が無視され蹂躙された結果ではない。形骸としての法治主義は貫徹されたが、憲法の歪んだ解釈によって実質的に信教の自由侵害がもたらされたのである。

天皇制下の戦前といえども、国民に対する国家神道行事への参加強制は、その実質において旧憲法28条で保障された「信教ノ自由」の侵害にあたる。これを、形式における合憲性を取り繕う論理として編み出されたのが、「神社は宗教に非ず」とする神社非宗教論であり、宮城遙拝や神社参拝は「臣民タルノ義務」であるとする、両様の公権解釈であった。

神社非宗教論は、公権力が宗教を恣意的に定義することによって、「信教の自由」の外延を限定する論法である。天皇制政府とその忠実な吏員は、「神道には創始者がいない」「神道は教義の体系をもたない」「単なる自然崇拝である」「祖先の祀りに過ぎない」‥、等々の「宗教であるための条件」を欠くことをあげつらって、神社や神道の宗教性を否定し、神道行事への国民の参加強制を信教の自由侵害とは無関係なものとした。

今日振り返って、神社非宗教論の「法論理」には、次の2点の問題性の認識が重要である。
その一は、公権力がいかようにも宗教を定義できるという考え方の問題性である。もともと、信教の自由は、各国の憲法史において自由権的基本権のカタログの筆頭に位置してきた。個人の精神生活の自由を公権力の掣肘から解放するための基本的人権概念の内実が、公権力の恣意的な定義によって制限されるようなことがあってはならない。
にもかかわらず今、一部の判決における「一般的,客観的に見て」という奇妙なフレーズが、信教の自由の外延を制限的に画する役割を果たしている。裁判所が、国民に強制される行為の宗教性の有無を「一般的,客観的に見て」と多数者の視点をもって判断することは、その判断によって信教の自由を侵害される少数者の立場からは、神社非宗教論と同様の誤りなのである。

その二は、「非宗教的行為については、国家が国民に強制しても、強制される国民の信教の自由に抵触するものではありえない」とする考え方の問題性である。
神社参拝も宮城遙拝も非宗教的行為である以上、いかなる信仰をもつ者に対する関係においても、その強制が信教の自由を侵害するものではない、とされた。
しかし、非宗教行為の強制が、特定の信仰者の信仰に抵触してその信教の自由を侵害することは当然にありうることに注意が肝要である。

神社参拝や宮城遙拝の強制を合理化するもう一つの公権解釈における論法が、これを信教の自由にかかわる範疇からはずして、「臣民タルノ義務」の範疇に属せしめるものである。

大日本帝国憲法制定当時(1889年)には、「臣民ノ義務」は兵役の義務(20条)・納税の義務(21条)の二つであったが、教育勅語の発布(1890年)によって教育の義務が加わって、「臣民の三大義務」とされた。28条の「臣民タルノ義務」は、当初は「臣民の三大義務」を指すものであったが後に拡大して解釈されるようになった。

神社非宗教論だけでは、信教の自由を保障されたはずの国民に対する神社参拝強制を合理化するロジックとしては不完全であることを免れない。前述のとおり、特定の信仰をもつ者に対する関係では、非宗教的行為の強制が、その信仰を侵害することもありうるからである。神社の宗教性を否定しただけでは、「神社が宗教であろうとなかろうと、自分の信仰は自分の神以外のものへの尊崇の念の表明を許さない」とする者の信教の自由を否定する論拠としては不十分なのである。

天皇制政府の公権解釈は、神社参拝を「臣民タルノ義務」の範疇に属するものとすることでこの点を解決した。神社参拝の強制を自分の信仰に抵触するものとして服従しがたいとする者にも、臣民としての義務である以上は、信教の自由侵害を理由とする免除は許されないとして、強制を可能とするロジックが一応は完結することとなった。

具体的な事例として、上智大学学生の靖国神社参拝強制拒否事件の顛末を追うことで、この点の理解が可能である。
「1931年(昭和6)9月の満州事変の勃発を境に、国内の思想言論の統制は加速度的に強化され、国家神道はファシズム的国教へと最後の展開をとげることになった。
神社対宗教の緊張関係は、国家神道の高揚期を迎えて、様相を一変した。満州事変勃発の翌1932(昭和7)年4月、靖国神社では、「上海事変」等の戦没者を合祀する臨時大祭が挙行され、東京の各学校の学生生徒が軍事教官に引率されて参拝した。そのさい、カトリック系の上智大学では、一部の学生が信仰上の理由で参拝を拒否した。文部省と軍当局は事態を重視し、とくに軍当局は、管轄下の靖国神社への参拝拒否であるため態度を硬化させ、同大学から配属将校を引き揚げることになった。軍との衝突は、大学の存立にかかわる重大問題であったから、大学側は、天主公教会(カトリック)東京教区長の名で、文部省にたいし、神社は宗教か否かについて、確固たる解釈を出してほしいむね申請した。カトリックとしては、神社がもし宗教であれば、教義上、礼拝することは許されない、というのが、申請の理由であった。文部省は内務省神社局と協議し、9月、天主公教会東京大司教あての文部次官回答「学生生徒児童ノ神社参拝ノ件」を発し、「学生生徒児童ヲ神社ニ参拝セシムルハ、教育上ノ理由ニ基クモノニシテ、此ノ場合ニ、学生生徒児童ノ団体カ要求セラルル敬礼ハ、愛国心ト忠誠トヲ現ハスモノニ外ナラス」との正式見解を示した。神社参拝は、宗教行為ではなく教育上の行為であり、忠誠心の表現であるから、いかなる宗教上の理由によっても、参拝を拒否できないというのである。この次官回答によって、学校教育においてはもとより、全国民への神社参拝の強制が正当化されることになった。カトリックでは、神社は宗教ではないという理由で、信者の神社参拝を全面的に認め、国家神道と完全に妥協した。しかしプロテスタントでは、翌年、岐阜県大垣の美濃ミッションの信者が、家族の小学生の伊勢神宮参拝を拒否して、二回にわたって同市の市民大会で糾弾されるという事件がおこったのをはじめ、教職者、信者による神宮、神社の参拝拒否事件が続発した。」(村上重良「国家神道」岩波新書・200?201頁)

ここに紹介されている文部次官通達が述べるところは、学生生徒児童が要求される靖国神社の祭神に対する敬礼の宗教性を否定するにとどまらず、「教育上ノ理由ニ基クモノニシテ、愛国心ト忠誠トヲ現ハスモノニ外ナラス」と明確に、臣民たるの義務の一環だとしている。神社参拝を非宗教行為の範疇に属するとしただけではなく、村上重良氏が指摘するとおり、「いかなる宗教上の理由によっても、参拝を拒否できない」としたものである。

戦前の天皇制政府によって「神社は宗教にあらず」とされた如く、「大嘗祭は皇室の伝統行事であって宗教行事ではない。」「神道は、日本の風習に過ぎず信仰とは無縁である」「神道には、教祖も教典もないから宗教ではない」などとごまかしてはならない。
(2019年11月18日)

大嘗祭に国費の支出は明白な違憲行為。だが、問題は裁判で争うにはハードルが高いことにある。

大嘗祭こそが、日本国憲法の政教分離原則が想定する典型的な宗教行事であり、国費を投じて国家行事としてこれを行うことが違憲として禁じられていることは、明々白々と言ってよい。これを許容するなら、憲法の政教分離は空文に帰することになる。
ところが、さすがに政府も大嘗祭を国事行為とまで位置づけることはできなかったが、宮廷費からその費用を支出した。つまり、国費を投じた。その違憲性は、明らかである。

しかし、日本の司法制度は、国民にその違法・違憲を法廷で争う手段を提供していない。飽くまで、司法的救済は、国民の私的権利の侵害を前提に、その救済を実現するための制度とされているからだ。この明白な違憲行為は、このような現行の司法制度に助けられて強行されている。

たとえば、次の「即位の礼・大嘗祭」違憲訴訟の一審判決(1992年11月24日・要旨)は次のとおり述べている。

▼即位の礼及び大嘗祭に係る諸儀式等のうち,即位礼正殿の儀及び大嘗宮の儀等を国費により執行することが違憲であることの確認を求める訴えについて,我が国においては,主権者たる国民の地位や納税者としての地位に基づいて,国に対し国の行う具体的な国政行為の是正等を求める訴訟を提起する方法は制度として認められておらず,また,前記訴えは抽象的,一般的に当該諸儀式・行事の違憲確認を求めているにすぎないものであるところ,現行法制度の下において裁判所は具体的事件を離れて抽象的に法律命令等の合憲性を判断する権限を有していないから,前記訴えは不適法である。(訴えの却下)

▼即位の礼及び大嘗祭に係る諸儀式等のうち,即位礼正殿の儀及び大嘗宮の儀等を国費により執行することが違憲であり,主権者たる国民としての権利を侵害するものであるとして提起された損害賠償請求について,仮に,当該国費の支出により,国民らが,自己の意思に反して,国事行為ないし公的性格を有する前記諸儀式等の執行に加担させられ,そのことにより従属的,臣下的地位を強制され,人格的尊厳を傷つけられたと考えたとしても,それは自己の見解と相反することに国費が支出されたり,国事行為や公的な皇室行事が行われたことに対する憤怒の情や不快感などといったものであって,損害賠償により法的保護を与えなければならない利益には当たらない。(請求棄却)

つまり、この判決では国民が国の行う大嘗祭の違憲性を裁判で争う手段がないと明言されているのだ。もっとも、例外的に地方公共団体の財務会計上の違法行為に関しては、当該の住民が原告適格をもつ住民訴訟の制度がある。前回の天皇交替に際しては、下記3件の大嘗祭関連住民訴訟が提起され,これには最高最の判決がある。

(1) 大分県主基斎田抜穂の儀参列違憲訴訟(2012.7.9第3小法廷)
(2) 鹿児島県大嘗祭参列違憲訴訟(2012.7.11第1小法廷)
(3) 神奈川県即位儀式・大嘗祭参列違憲訴訟(2014.6.28第2小法廷)

いずれも、国の大嘗祭挙行の違憲性を直接の争点としたものではない。各知事の関連行事への参列の違法の有無を問う域を出ないもので、大嘗祭の合違憲には触れず、知事の関連行事への出席は「他の参列者と共に参列して拝礼したにとどまること,参列が公職にある者の社会的儀礼として天皇の即位に祝意,敬意を表する目的で行われたことなど判示の事情の下においては,憲法20条3項(政教分離原則)に違反しない」とされた。

これに対して、いわゆる国家賠償違憲訴訟判決の傍論ではあるが、「即位の礼・大嘗祭違憲訴訟」大阪高裁判決(2005・3・9)の判示が注目される。

「現実に実施された本件即位礼正殿の儀(即位の礼の諸儀式・行事のうち、本件諸儀式・行事に含まれるのは、即位礼正殿の儀のみである)は、旧登極令及び同附式を概ね踏襲しており、剣、璽とともに御璽、国璽が置かれたこと、海部首相が正殿上で万歳三唱をしたこと等、旧登極令及び同附式よりも宗教的な要素を薄め、憲法の国民主権原則の趣旨に沿わせるための工夫が一部なされたが、なお、神道儀式である大嘗祭諸儀式・行事と関連づけて行われたこと、天孫降臨の神話を具象化したものといわれる高御座や剣、璽を使用したこと等、宗教的な要素を払拭しておらず、大嘗祭と同様の趣旨で政教分離規定に違反するのではないかとの疑いを一概に否定できないし、天皇が主権者の代表である海部首相を見下ろす位置で「お言葉」を発したこと、同首相が天皇を仰ぎ見る位置で「寿詞」を読み上げたこと等、国民を主権者とする現憲法の趣旨に相応しくないと思われる点がなお存在することも否定できない。」

つまり、司法が大嘗祭の国費投入を合憲とお墨付きを与えたということはない。違憲なものは、あくまで違憲なのだ。ところが、ネットを検索して、次のような妄論にお目にかかった。元自民党国会議員の発信である。

新しい象徴天皇を戴くことに、国を挙げて喜んでいたが、やはりこのような慶事でも、不満をかこち、あらぬ批判をする人達もいる。相変わらず左翼政党や例の新聞など、同じ顔ぶれではあるが・・・。
特に違憲論を又持ち出しているが、これはもう決着済みのことで今更何を言っているのかと腹立たしい。
大嘗祭については今まで5件の提訴があったが、そのことごとくが最高裁判所で原告側の完全敗訴になっている。大嘗祭は実質的に合憲という判決も下されていて、憲法問題はすでに解決済みなのだ。
国士館大学百地章特任教授は産経新聞欄で次のように指摘している。
『憲法の政教分離は国家と宗教の完全な分離を定めたものではない。最高裁も昭和52年の津地鎮祭裁判で、国家と宗教の関わりは、「目的」が宗教的意義を持たず、「効果」が特定宗教への援助にあたらなければ許されるとした上で、神道式地鎮祭を合憲とした。
大嘗祭も宗教的意義を有するが、目的はあくまで皇位継承のため不可欠な伝統儀式を行うことであって、特定宗教への援助に当たらないから違憲ではない。又皇室は宗教団体ではないから、大嘗祭への公金支出は許される。』
まさに正論だと思う。(略)
今、日本は内外共に厳しい多くの問題を抱えている。このような時代だからこそ、官民一体、ワンチームで努力しなければならない。まさに国家国民統合の象徴、「天皇の存在」の意義を深くかみしめることが必要なのである。

保守陣営の,ナショナリズムの核としての天皇を位置づけようとのホンネがよく出ている。だが、「(大嘗祭)違憲論を又持ち出しているが、これはもう決着済みのことで今更何を言っているのかと腹立たしい。」は、訂正してもらわなければならない。

一方、常識的な憲法論を平明に述べている記事もある(11月15日配信・共同通信編集委員=竹田昌弘)。抜粋して引用しておきたい。

大嘗祭へ国費支出は憲法違反か 目的と効果によって判断、県費で靖国神社玉串料は違憲

14?15日に中心儀式「大嘗宮の儀」が行われた大嘗祭。皇位継承に伴う重要祭祀として、国費の宮廷費から24億4千万円の支出が見込まれている。政教分離原則に反しないのか。最高裁は2002年7月、平成の大嘗祭(1990年)に鹿児島県知事が公費で参列したことについて、目的は社会的儀礼で、その効果も特定の宗教に対する援助、助長などにはならないとして、憲法違反ではないと判断した。ただこれは鹿児島県の公金支出に対する判断であり、宮廷費の支出について、最高裁は判断を示していない。

95年3月の大阪高裁判決では、大嘗祭は「神道儀式としての性格を有することは明白」として、目的が宗教的意義をもつことを認め「少なくとも国家神道に対する助長、促進になるような行為として、政教分離規定に違反するものではないかという疑義は一概に否定できない」と指摘している。目的効果基準を当てはめれば、憲法違反となるのではないか。

津地鎮祭訴訟と愛媛玉串訴訟の最高裁判決には「明治維新以降国家と神道が密接に結びつき、種々の弊害を生じたことにかんがみ、政教分離規定を設けるに至った」と書かれている。政教分離原則が戦前の反省から生まれたことも踏まえると、秋篠宮さまが提案したように、少なくとも大嘗祭の費用は内廷会計から支出し、けじめを付けた方がいい

(2019年11月17日)

「香港での弾圧の即時中止を求める」

香港の事態が頭から離れない。大国中国の権力に対峙し、民主主義を求めて立ち上がった香港の人びとに心からの敬意を惜しまない。遠くからの声援を送りたいが、これ以上の犠牲を出して欲しくはない。胸が痛むばかり。

いったい中国はどうなってしまったのだろうか。再び天安門事件の蛮行を繰り返して、弾圧国家・人権無視国家・民主主義後進国家の汚名を甘受し、国際社会の悪役になろうというのか。革命前の、あの中国共産党の道義的な崇高さは、どこで投げ捨てたのだ。

昨日(11月15日)の赤旗に、日本共産党・委員長名の声明が掲載された。「香港での弾圧の即時中止を求める」という表題。香港の事態を、中国による弾圧」と規定した内容。14日の記者会見で公表して、同日午前中に在日中国大使館を通じて中国政府に伝達したという。

全面的にその内容に賛意を表して、全文を転載する。

**************************************************************************
一、香港で政府への抗議行動に対する香港警察による弾圧が強まっている。11日には警官が至近距離からデモ参加者に実弾発砲し、1人が腹部を撃たれて重体となった。丸腰のデモ参加者への実弾発砲は、言語道断の野蛮な暴挙である。大学構内への警察による突入で、多数の負傷者と逮捕者が出た。警察は、香港立法会(議会)の「民主派」議員7人を逮捕した。香港警察とデモ参加者との衝突のなかで、デモ参加者から犠牲者が出ており、その真相解明が厳しく求められている。

わが党は、デモ参加者が暴力を厳しく自制し、平和的方法で意見を表明することが重要だと考える。しかし、殺傷性の高い銃器を使用して、抗議活動への弾圧を行うことは、絶対に容認できるものではない。

一、重大なことは、香港当局の弾圧強化が、中国の最高指導部の承認と指導のもとに行われていることである。

習近平中国共産党総書記・国家主席は4日、林鄭月娥・香港行政長官との会談で、抗議行動への抑圧的措置を続けている香港政府のこの間の対応を「十分評価する」としたうえで、「暴力と混乱を阻止し、秩序を回復することが依然、香港の当面の最も重要な任務である」と強調した。「一国二制度」の下で中国政府の指導下にある香港に対するこの言明が、何を意味しているかはあまりにも自明である。

実際、中国政府は、香港警察による11日の実弾発砲について、「警察側の強力な反撃にあうのは当然である」と全面的に擁護している(12日、外交部報道官)。

中国の政権党系メディアは、香港警察に対し「何も恐れる必要はない」「国家の武装警察部隊と香港駐留部隊が、必要な時には、基本法の規定に基づきみなさんを直接増援できる」と言い放った(「環球時報」11日付社説)。武力による威嚇を公然とあおり立てているのである。

一、今日の香港における弾圧の根本的責任は、中国政府とその政権党にあることは、明らかである。その対応と行動は、民主主義と人権を何よりも尊重すべき社会主義とは全く無縁のものといわなければならない。

今日の世界において人権問題は国際問題であり、中国政府は、人権を擁護する国際的責任を負っている。

日本共産党は、中国指導部が、香港の抗議行動に対する弾圧を即時中止することを強く求める。「一国二制度」のもと、事態を平和的に解決する責任を果たすことを厳しく要求するものである。

(2019年11月16日)

憲法の構造として「卵黄と卵白」をイメージしよう。

日本国憲法の全体像を図形的にどうイメージするか。こういうことを考えてみることは、楽しい作業である。もちろん飽くまでもイメージに過ぎないものだが、憲法の基本構造をどう把握し、憲法各パートの関連をどう理解するか、自分なりの憲法観の確認でもある。いったい、象徴天皇制とは、その構造のどこにどのように位置するものか。

憲法の基本構造を「3本の柱」の構築物と捉えることが、「新しい憲法のはなし」以来のスタンダードではないだろうか。この教科書では、「いちばん大事な考えが三っつあります」として、「民主主義」と「国際平和主義」と「主権在民主義」を挙げている。

この憲法体系イメージのミソは、「(象徴)天皇」という柱のないことである。「主権在民」の柱は、天皇主権を否定してそびえている。「民主主義」も「国際平和主義」も、大日本帝国憲法の体系を否定し、そのアンチテーゼとして確立されたもの。「新しい憲法」の解説としては、優れものだったろう。

しかし、この3本柱イメージは、「人権」が欠落している点で、違和感を禁じえない。近代立憲主義の視点からの整理がなされているともいいがたく、体系性に欠けるといわざるを得ない。

私の世代は、「国民主権」・「恒久平和」・「基本的人権」の3本の原理を柱として、憲法体系が成り立っているという憲法構造の把握に馴染んできた。この3本柱の構造も、天皇制の旧憲法とは異なる「新憲法の特徴」を取りあげて「重要な柱」として列記したもの。そのとおりではあるが、各柱それぞれの位置づけや関係性には無頓着で、これも体系的なものとは言いがたい。

私は、卵の形と把握したい。もう少し正確に言えば、卵の内側の構造。黄身(卵黄)と白身(卵白)の関係のイメージ。大切な黄身を壊さぬように、白身が優しく包んで支えているという構造。黄身が人権である。ここに憲法価値が凝縮されている。白身が統治機構である。黄身を支え、黄身を保護するものとしての役割を担っている。白身がなければ、黄身は保護されない。だから、白身もとても重要である。が、もとよりその重要性は、黄身を守るためのもので、それを超えての価値があるわけではない。

白身が肥大して、黄身を押し潰してはならない。白身は、自制のためのいくつものサブシステムをもっている。それが、三権分立であり、民主主義であり、戦力の不保持であり、検閲の禁止であり、学問の自由であり、教育への支配の禁止であり、司法の独立であり、平和主義であり、租税法定主義等々である。

天皇制はもちろん黄身の一部ではない。白身の一部として端っこに紛れ込んではいるが、人権を支える役割を担うものではないから、明らかに異物である。黄身を保護すべき白身の機能の邪魔にならない限りで存在が許容されるが、次第に器質的にも機能的にも縮減していくことが望ましい。

「憲法を護る」とは、この黄身である基本的人権を護ることである。それに資する限りで、白身の機能を護ることである。憲法体系の端っこに天皇制が書き込まれているからという理由で、天皇制を擁護することが体系としての憲法を護ることではない。むしろ、天皇制を廃絶に向かわしめることこそ、異物を排して憲法を護ることなのだ。

この至高の価値としての人権とこれを支える統治機構の関係の比喩は、卵黄と卵白でなくてもよい。貝の身と貝殻でも、カンガルーの赤ちゃんと母親の袋でも、ウニとトゲでも、ひなと鳥の巣でも、小銭と財布でも、果実のタネと果肉でも、あるいは電力と送電線でも、コンテンツと通信手段でも、なんでもよいのだ。が、大切に黄身を抱く白身のイメージがふさわしいように思われる。

どのようにイメージしても、天皇の存在は、憲法の番外地でしかない。そのことを、国費を投じた大嘗祭の挙行に際して確認しておきたい。
(2019年11月15日)

大嘗祭を国家の行事としてはならない。国費を投じてはならない。

本日(11月14日)の夕刻から明日未明にかけて「大嘗祭」の中心行事だという「大嘗宮の儀」が催される。実のところ、大嘗宮の奥まった密室で新天皇が何をするのかは窺い知れない。何しろ、「秘儀」とされているのだから。「秘儀」ではあるが、最も重要な宮中神事だという。

「秘儀」ともったいぶるのは、神秘と権威をひけらかす常套手法。新天皇が神と一体になり、新天皇に神の霊力が備わるという、通常人の理解を超えた宗教儀式には神秘性がなくてはならない。白昼、群衆の目に曝されるところでは、神秘の儀式は成立し得ない。深夜、密室での、秘儀であればこそ、荒唐無稽な意味づけの神事も成立しうる。都合のよいことに、「なにごとのおはしますかは知らねども かたじけなさに涙こぼるる」と言ってくれる下々が大勢控えているのだ。

この秘儀に、27億円の国費が費やされる。皇室にどんなに重要なものであっても、いや重要なものであればこそ、憲法は公的な宗教行事は一切認めない。神事に公費の支出は違憲である。もちろん、大嘗祭の費用を宮廷費から支出するなど明らかに違憲。もってのほかというしかない。

もっとも、天皇にも純粋に私人としての信仰の自由は認められてよい。天皇の神事は、天皇が身銭を切って、身の丈に合わせて、身内の行事として、ひっそりとやっていればよいはずのもの。

秋篠宮発言は、下記のとおりの具体的な具体的な提案となっていた。
「宗教色が強いものを国費でまかなうことが適当かどうか」「大嘗祭には天皇家の私的生活費の『内廷費』を充てるべきだ。身の丈に合った儀式で行うのが本来の姿」「大嘗祭のために祭場を新設せず、毎年の新嘗祭など宮中祭祀を行っている『新嘉殿』で行い、費用を抑える」

「身の丈に合った」「内廷費での」大嘗祭挙行は、おそらく皇室・皇族の一致した希望なのだろう。でなければ、秋篠宮があれだけはっきりと発言できるはずはなかろう。できるだけ世論に反発を受けない、出過ぎない皇室の在り方をめざすもの。しかし、為政者にとって大事なのは、国民の統合や、保守政治の道具として使える天皇制でしかない。皇室や皇族の意向を無視して、「身の丈を遙かに超えた」大嘗祭となっている。

大嘗祭に使用だけの目的で大嘗宮関連建築物を建設し事後速やかに取り壊すという税金の無駄遣いが20億円。この深夜の無駄遣い儀式に、三権の長以下700人が参列するという。何をするのか訳の分からぬ行事のために、なんという大仰な馬鹿馬鹿しさ。

共産党は、こう言って、大嘗祭への出席を拒絶している。
「大嘗祭」は、天皇が神と一体になり、そのことによって民を支配していく権威を身につける儀式として古来より位置づけられてきた。国民主権の原則にも、政教分離の原則にも明らかに反する。
社民党も同様の見解で出席しない。常識的な憲法感覚を持つ者にとっては当然のこと。

問題は公明党。創価学会という宗教団体をバックとする同党が、どうして「他宗教の行事」に参加できるのだろうか。
もちろん、宗教の教義は無限に多様である。他宗にひたすら寛容で無原則の宗教団体もありうる。しかし、創価学会は日蓮の教えの正統な承継者を自負して、他宗には非寛容の厳格さで知られる。戦前には、創価教育学会が国家神道に弾圧された歴史もある。それでも公明党を、秘儀なる神事に参列させるのだ。天皇制恐るべし、というほかはない。

大嘗祭に国が関わり国費を支出することは、たまたま憲法に政教分離条項があるから違憲となるのだなどという底の浅いものではない。日本国憲法は、戦争の惨禍をもたらした神権天皇制の復活を絶対に認めないという大原則のもとに,象徴天皇制を容認した。象徴天皇とは、権力を持たないと言うだけではなく、いかなる意味でも神ではない一介の公務員職としての天皇を意味している。しかるところ、大嘗祭とは天皇を神とする意味づけの儀式ではないか。ことは、憲法の根幹に関わっている。けっして、いささかも、国家の関与は認められない。

繰り返し、言わねばならない。

 日本国憲法の政教分離原則とは、再び天皇を神としてはならないということであり、天皇を神にする儀式である大嘗祭に国家が関与してはならない。
(2019年11月14日)

桜散る 水に落ちたる 犬の背に

来年(2020年)4月の「桜を見る会」は、中止になったという。これは、明らかに急速に盛り上がった「安倍晋三の行政私物化糾弾」世論の成果である。と同時に、一定の譲歩をもって、これ以上の世論の追及を交わそうという戦術でもある。

今安倍政権は窮地にある。2大臣更迭、萩生田「身の丈」発言、大学受験業者癒着問題を抱えた上での、「桜」問題である。閣僚が起こした問題ではない。今度は、自分自身の落ち度。これで、安倍は「水に落ちた犬」状態だが、手を緩めてはならない。今こそ「安倍打つべし」である。

本日(11月13日)午後、官房長官が記者会見で唐突にその旨の発表をした。安倍晋三は、午後7時前、官邸を出る際に記者団に対し、「私の判断で中止することにした」と述べたという。「私の判断で中止」って、何をエラそうな口の利きかた。

なぜ中止なのか。いかなる違法を認めたのか。自分の責任をどう感じているのか。国民への謝罪の言葉はないのか。11月8日参院予算委員会での質疑に対する傲慢な答弁はいったい何だったのか。「来年度中止」でことの幕引きがはかれると思っているのか。

安倍晋三は、実は悩んだに違いない。劣勢に追い込まれた今、徹底抗戦して切り抜けるか。それとも、陣を退いて立て直すか。徹底抗戦は、どうにも勝ち目がなさそう。その闘いで負った疵は致命傷になりかねない。ここは、いったん退かざるを得ない。しかし、退くのも難しい。退けば、野党の連中は嵩にかかって追撃してくるに違いない。どこかで、踏みとどまることができるだろうか。

一面は、しおらしく非を認め、そして一面は「慣行だった」「民主党政権時代も同じだった」と交わしながら陣を退いて立て直すことにしよう。もっとも、安倍政権になってから、招待客も費用も増加してきたと突かれるのは辛いところ。それにしても、「キョーサントー」の質問からだ。面白くもない。

この事態で、各メディアが、一斉に「桜を見る会」の実態について取材し報道している。もう、遠慮の必要はないのだ。後援会やその周辺の人びとが、様々に勧誘されて申し込んで参加しているという。各界代表でもない人が、功績の有無など関係なく。そもそも、多くの人が、安倍晋三の後援会が開催する行事だと思いこんでいたのだともいう。「桜を見る会」の会場では酒やつまみなどの軽食が無料でふるまわれたほか、土産ものも配られたという。今回の報道で公的な行事であることを初めて知ったとも。

この件については、野党のまとまりがよかった。野党側は安倍晋三から説明を聞く必要があるとして、予算委員会の集中審議を求めていく方針だが、与党側は「桜を見る会」の実施手続に問題はなく、集中審議の必要はない、としていた。事態が一転した今、与党は、「来年は中止になったのだから、集中審議の必要もなくなった」とでもいうのだろうか。しかし、野党がこれで戈を収めてよいはずはない。

違法な行為の法的責任は事後的になくなることはない。民事でも刑事でも同様だ。政治的、道義的責任も同じこと。公私混交甚だしい、安倍晋三の責任を徹底して追及しなければならない。

朝日が、こう報じている。

「安倍晋三首相が開いた「桜を見る会」に参加した政治家たちが、当時のブログなどを次々に削除している。朝日新聞が、ウェブ上に保管されているデータから内容を確認すると、自身の後援会関係者らと「見る会」を満喫する光景が浮かぶ。
 藤井律子・周南市長は、参院予算委員会で「桜を見る会」が取り上げられた8日の夜、2014年と18年のブログを消した。
 18年の「桜を見る会」は4月21日にあり、後日こう書いた。「片山さつき先生とも久しぶりの再会を果たしました。『今日は、山口県からたくさんの人が来てくださっているわね?。10メートル歩いたら、山口県の人に出会うわよ!』と、いつものように元気よくお声をかけていただきました」

プレジデントオンラインがこう書いており、なるほどと思わせる。

「菅原氏や河井氏は有権者に「自腹」で金品を配った。一方、安倍政権の幹部たちは「桜を見る会」において、地元後援会の人間を堂々と税金を使って接待している。
「政治家が自分のお金でやったら明らかに公職選挙法違反。(今回の件では)税金を利用している。モラルハザードを安倍政権が起こしている」という田村氏の指摘は多くの国民が共感しているのではないか。」
「桜を見る会」の問題は、菅原、河井の両氏が辞任したスキャンダルよりも悪質ではないか。そういう疑念が広がりつつある。

(2019年11月13日)

「桜を見る会」への批判を ー 「究極の行政私物化」「選挙民を税金で買収」「記録の廃棄」

安倍晋三の「桜を見る会」悪用疑惑。一挙に大問題となってきた。今度こそ、徹底追及して事実を究明し、傲った政権にピリオドを打ちたい。

本日の本郷三丁目交差点での「湯島本郷九条の会」の宣伝活動でも、すべての弁士が「安倍9条改憲阻止」とともに、期せずして「桜を見る会」問題を取りあげた。

安倍晋三追及の論陣は急速に広がりはじめている。メディアも野党も、そしてネットの世界でも。たとえば、小沢一郎。彼は、朝日・毎日・東京の各紙を引用する形で、安倍批判の発言を繰り返している。私は、小沢一郎という人物に好感を持っているわけではないが、彼の昨日(11月11日)のツイッターにこう書かれていることには文句なく賛同する。

ある意味で「権力の私物化」の最終形態だろう。地元後援会850人を、飲食を伴う政府主催のお花見に御招待。全部税金。証拠はきれいに隠滅。たまたま各界の功績ある方々が地元後援会にいたと。この総理の感覚は麻痺している。問題は、国民の感覚まで麻痺したら、この国はついに終わりということである。

このツイッターによく表れているとおり、問題点その1は、安倍晋三の「権力の私物化」である。国民の税金を使って、私的な後援会活動に使う。なるほど、「私物化の最終形態」と言ってよい。政治の私物化、行政の私物化、総理大臣職の私物化でもある。森友事件、加計学園事件でも話題となった、安倍晋三のタチの悪さ・薄汚さがここでもよく表れている。普通、右翼は潔癖なはずなのだが、こういう汚い政治家をどうして応援できるのか。

問題点その2は、選挙民に対する供応である。「地元後援会850人を、飲食を伴う政府主催のお花見に御招待」である。内閣府の「『桜を見る会』開催要項」によれば、「来会者のために茶菓の接待をする」と明記されている。自分のカネではなく、権力を濫用しての選挙時に選挙運動を担う850人もの人への大規模な供応。「茶菓の接待」の内容を追及しなければならない。

問題点その3は、「証拠はきれいに隠滅」である。招待者名簿は、速やかに破棄されたという。これも、安倍政権の常套手段。都合の悪い記録は破棄するか隠蔽する、あるいは改竄する。「破棄をした」は到底信じがたいが、仮に破棄したとしても内閣府は、各省庁や各界からの推薦に基づいて招待者名簿を作っている。再現は容易なはず。しかし、「隠すのは、疚しいから」であり、 「隠れたるより現るるはなし」でもある。

問題点その4は、いつもながらの牽強付会の言い逃れ。。「たまたま各界の功績ある方々が850人も地元後援会にいた」と言ってのける甚だしい無神経。これを「桜論法」と言おう。花に似ず美しくはないが、花に似てすぐに散る言い逃れ。
前記「開催要項」は、「桜を見る会」の招待範囲を次のように、特定している。
「皇族、元皇族
各国大使等
衆・参両院議長及び副議長
最高裁判所長官
国務大臣
副大臣及び大臣政務官
国会議員
認証官
事務次官等及び局長等の一部
都道府県の知事及び議会の議長等の一部
その他各界の代表者等
計 約1万人
この列挙において「その他各界の代表者等」に後援会員をもぐり込ませようというのは、無理な話。いったいどのような手続で、これらの人びとを特定して選考し、「招待状」を送付したというのか。これを「その他各界の代表者」と強弁する安倍流には、徹底した批判が必要である。

そして問題点その5は、「国民の感覚」である。明らかに、安倍晋三の感覚はおかしい。廉恥の心に欠けているからこんなことをして反省の弁すらない。問題は、この感覚のおかしな男を支えている地元の有権者の感覚である。首相の「桜を見る会」に招待されて喜んでいる850人の感覚が安倍晋三同様に麻痺しているのだ。全国民が、山口一区の選挙民並みになったら…、この国はついに終わりということである。

この国を終わりにしてはならない。安倍政権を終わりにしなければならない。
(2019年11月12日)

王妃に対する国民の熱狂とその後

昨日(11月10日)のこと。普段の日曜日には都心を散歩するのだが、この日の都心の空気は穢れているとの思いもあり、不愉快な警備や人出も避けたくもあって、早朝から郊外に疎開していた。もうよかろうと疎開先からの帰途、貴重な経験に遭遇した。

夕刻5時過ぎ、東京駅から丸の内線に乗ったら、例のパレード見物帰りと思しきオバサン連の座席の前に,対面して立つ羽目となった。そのオバサン連の、周りを憚らぬ会話が耳にはいってくる。「とても、可愛らしかったわね。」「見に行ってよかったね」。どこかからか都心まで「見に来た」人たちなのだ。

そのうちの一人が、少し遠くの座席の人を指さして、「あら、号外を読んでいる人がいる。どこでもらえたのかしら」と大きな声。このタイミングで、私も声を上げた。「号外って、何か事件があったのですか」。案の定、「ほら、天皇陛下の祝賀のパレードよ」とのたまう。「わざわざ号外が出たというのは、パレードに事故でもあったんですか。まさか爆弾でも?」「なにもないわよ。みんなでお祝いしましょうということ。」「お祝いだけで、号外まで出たんですか」。そんなつまらないことで「号外」ですか,とまでは口にしなかったが、さすがにその雰囲気は伝わって、場は白けた。オバサン連の表情は硬くなった。

どういう反応があるのだろうと、敢えて言ってみた。「ボクには、まったく理解できない。どうして、税金だけで暮らしている夫婦を、みんなでチヤホヤしようというんでしょうかね」
誰からも返答も反論もなかった。「ヘンクツなオジさんが、ヘンなことを言っている」と、そう思われたに違いない。それ以上の会話は続かなかった。しばらくの沈黙のあと、オバサン連は小さな声で内輪の話をはじめた。
「写真はどこかで手に入るしら」「もうすぐ、皇室カレンダーが発売になるでしょ。あれに載っているよ」「皇后様は、皇后になってからきれいになったんじゃない?」「堂々としているように見えたわね」「やっぱりオーラを感じるよね」…。もっぱら関心は、新皇后の容貌や振る舞いに集中している様子。普段付き合う人からは聞かれぬ言葉を生で聞いた思いだった。

こんなとき、私は上手に会話ができない。もう少しやわらかく、パレードの様子を聞き、彼女たちの感動に耳を傾ければ会話がつながっただろうと思う。そうすれば、もっと、貴重なホンネを聞けたかも知れない。どうして、どの程度に、皇室に親近感を持っているのかを。そのミーハー的感覚が、象徴天皇制支持にどうつながっているのかを。

本当に私には理解し難いのだ。若い有名人カップルのパレードなら、ミーハー連が群がる心理も分からぬではない。しかし、59才のオジさんと55才のオバサン夫婦が若作りをしたお色直しを、10万人余がわざわざ見物に集まるということの訳が分からない。

ホンネのところでは、この観衆は意地が悪いのではないか。皇后に注目が集まったのは、これまで噂されたいろんな理由からのストレスを抱えて苦しんできたという彼女を「見に来た」のではないだろうか。そんなホンネがあるのかないのか、聞いてみたかったようにも思う。

が、間もなく、私は下車した。オバサンたちは、ヘンなオジさんがいなくなって、再び大きな声でその日に見てきたことの感想を述べあったであろう。誰かは、「いるのよね。ああいう非国民が」と述べたかも知れない。

ところで、1770年5月マリーアントワネットがハプスブルク家からフランスの王太子ルイに嫁いだときは、14才だった。このとき、ルイは15才。その結婚式は、ベルサイユ宮殿で盛大に挙行され、フランス国民は熱狂して美貌の王太子妃を歓迎した。ルイはその4年後に戴冠してルイ16世となり、マリーアントワネットは王妃となった。

そして、1789年7月の大革命を迎えたとき、マリーアントワネットは国民の怨嗟の的となっていた。入牢生活の後、1993年10月彼女は広場の大群衆が見守る中、ギロチン台の露と消えた。熱狂して彼女を王国に迎えた同じ国民が、彼女の処刑場では熱狂して「共和国万歳」を叫んだのだという。

もちろん時代も国も異なる話だが、民衆の熱狂は移ろい易くもあり、冷めやすくもあるのだ。
(2019年11月11日)

「ニントク君の回想ーボクって何者?」に重ねて。

ネットを検索していると、時に昔自分が発信した記事に出会うことがある。そして、希にそれが面白いと思うこともある。下記は、そのようなものの一つ。投稿の日付は2016年2月27日、3年10か月ほど以前のもの。

「ニントク君の回想ーボクって何者? ボクってなんの役に立っている?」
https://article9.jp/wordpress/?p=6490

新天皇のパレードという本日(11月10日)、このアーカイブを多少アレンジして、再掲したい。

**********************************************************************

恐れ多くも畏くも、第16代の天皇となられたオホサザキノミコトには「仁徳」の諡が献じられています。本日パレードの126代とされる天皇のお名前は「徳仁」。偶然とはいえ、「仁徳」と「徳仁」、とてもよく似ているではありませんか。

「仁」とは古代中国における為政者としての最高の徳目ですから、仁徳天皇こそが古代日本の帝王の理想像なのであります。

その仁政と人徳を象徴するものが、「民の竈は賑わいにけり」という、あのありがたくもかたじけない逸話でございます。あらためて申しあげるまでもないのですが、あらまし次のような次第でございます。

ある日、ミカドは難波高津宮の高殿から、下々の家々をご覧になられたのです。賢明なミカドは、ハタと気が付きました。ちょうど夕餉間近の頃合いだというのに、家々からは少しも煙が上がっていないではありませんか。慈悲に厚いミカドは、こう仰せられました。

「下々のかまどより煙がたちのぼらないのは貧しさゆえであろう。とても税を取るなどはできることではない」

こうして3年もの長きの間、税の免除が続きました。そのため、宮殿は荒れはてて屋根が破れ雨漏りがするようなことにもなりました。それでもミカドはじっと我慢をなさいました。

そして、時を経てミカドが再び高殿から下々の家々をご覧あそばすと、今度は家々の竈から、盛んに煙の立ちのぼるのが見えたのでございます。

ミカドは喜んで、こう詠われました。

高き屋に登りて見れば煙立つ民の竈はにぎはひにけり

こののちようやく、ミカドは民草が税を納めることをお許しになり、宮殿の造営なども行われるようになったのです。なんと下々にありがたい思し召しをされる慈悲深いミカドでいらっしゃることでしょう。

これが、天皇親政の理想の姿なのでございます。何よりも下々を思いやり、下々の身になって、その暮らしが成り立つことを第一にお考えになる、これこそ我が国の伝統である天皇の御代の本来の姿なのでございます。消費増税によって、民の竈を冷え込ませたアベ政権には、仁徳天皇の爪の垢でも呑ませたいところでございます。

でも、この話には、いろいろとウラがございます。仁徳ことオホサザキノミコトご自身が、のちに次のような回想をしていらっしゃいます。ここだけの話しとして、お聞きください。

ボクって、天皇職に就職して以来、下々の生活なんかにゼーンゼン関心なかったの。何に関心あったかって。不倫。一にも二にも不倫。二股、三股。もっともっと。ボクって美女に目がないの。古事記にも恐妻の目を逃れての好色ぶりが描かれているけれど、まあ、あれは遠慮して書いてあの程度のこと。ホントはもっと凄かった。で、不倫って結構金がかかるんだ。それでもって、使い込んで…。結局民の竈の煙が立たなくなっちゃったんだ。

ある日ハタと気が付いたのは、下々の竈からの煙がなくなったってことじゃないんだ。毎日、上から目線で見慣れた景色だから、竈の煙が薄くなり消えそうになっているのは、前々から分かってた。

でも、ある日考えたんだ。このままだと、下々から税を取ろうにもとれなくなるんじゃないか、ってね。竈から煙が立たないって、民草は飢餓状態じゃん。これまで天皇や豪族が民草を「大御宝」なんて言ってもちあげてきたのは、ここからしか税の出所がないからさ。文字どおり金の卵を産み続けるニワトリだからなの。その民草が飢えて死にそうじゃ、税も取れなくなっちゃうじゃん。税が取れなきゃ、ボクの不倫経費も捻出できない。

もう一つ考えたのは、少し恐ろしいことになっているんじゃないかってこと。これまでは、下々や民草は、搾ればおとなしく言われたとおりに税を払うと思っていた。だけど、竈に煙も立たない状態となると、窮鼠となって反抗しないだろうか。考えてみれば、ボクと下々の格差はすさまじい。民草が怒っても、当然といえば当然。何も失うもののない民草が捨て鉢になって、団結して立ち上がってしまうことになるのではないだろうか。そして、宮殿に押し入って、火を付けたり公卿堂上や天皇にまで危害を加えたりしないだろうか。彼らが、突然にテロリストに化し、いままで甘い汁を吸ってきた私たちが、テロられることにはならないだろうか。

それで、方針を変えてみたんだ。金の卵を産むニワトリがやせ細ってきたのだから、しばらく卵をとるのは我慢して、ニワトリを太らせなくっちゃ。そして、よいテンノーを演出して、下々から攻撃されないよう安全を確保しなくっちゃというわけ。宮殿が荒れ果てたって雨漏りしたって、火を付けられるよりはずっとマシ。

こうして、税を取らないことにしたんだけど、誰でも思うよね。その間、何をしていたのかってね。もちろん、不倫はどうしてもやめられなかった。でも、ボクなりに相当の努力はしたんだ。不倫相手の数も減らして、出費も縮小した。そうして蓄えを少しずつなし崩しに減らしていった。とうとう金庫が底を突いたから、もう一度高殿に登って、「民の竈はにぎはひにけり」ってやったんだ。ニワトリは、もう十分に太った頃だろうからね。この程度で「仁政」だの「聖帝」だのといわれているんだから、ま、楽な商売。

でも、ここからは真面目な話し。この件のあと、いったいボクってなんだろう、天皇ってなんだろうって真剣に悩むようになった。自己肯定感の喪失っていうのだろうか。自分の存在意義に自信がなくなったんだ。ボクが税をとっているから、その分民が貧しくなる。3年でなく、ずっと税を取らなけりゃ、民の竈はもっともっといつまでも賑やかになっているはず。ボクって、実はなんの役にも立っていないことに気が付いたんだ。

おとなしい民草から、税を取り立てるだけのボク。自分じゃ働かず、人の働きの成果をむさぼっているだけのボク。おべんちゃらだけは言われているけれど、実は世の中にいてもいなくてもよいボク。いや、不倫の費用分だけ、いない方がみんなのためになるボク。こんなボクって、いったい何なのだろう。

ちょっぴりだけど反省して、河川の改修や灌漑工事など公共工事なんかやってみた。やってみたと言ったって、「よきにはからえ」って言うだけだったけど。それが、記紀に善政として出ている。せめてもの罪滅ぼし。それでも、不倫は生涯やめられなかったんだ

ところで、仁徳ならぬ徳仁、つまり本日パレードの新天皇のことでございます。台風19号の被災者を慮って、予定されていた10月22日のパレードを20日ばかり先に延ばしたのは、大先輩の故事に倣ってのことでございましょうか。4回もございました飲み食いの饗宴は予定どおりにしておいて、パレードだけは形ばかりの先延ばし。本日は19号被災者の復旧を確認されたわけでもなく、大がかりな警備の下、華やかに挙行されたご様子でございます。

さて、新天皇がどのような心境でいらっしゃいますことやら、窺い知ることはかないません。象徴天皇という職について張り切られも困るのですが、自己肯定感に満ちておれることやら、あるいはニントク君のように自己喪失感に襲われているやら。そのことは、年を経た後に、主権者の一人として聞いてみたいところでございます。
(2019年11月10日)

恥を知れ、安倍晋三。

昨日(11月8日)の参院予算委。質疑の中で、またまた安倍晋三の醜態が明らかとなった。改めて思う。こんな人物を行政府の長としている、わが国のみっともなさと不幸を。そして、最近よく聞く安倍晋三こそ国内最大のリスク」というフレーズに同感する。

安倍の「醜態その1」は、一昨日の衆院予算委に続いての閣僚席からの野次である。
毎日が、簡潔にこう伝えている。「安倍首相、再びやじ 質問議員指さして」「金子参院予算委員長『厳に慎んで…』」
https://mainichi.jp/articles/20191108/k00/00m/010/282000c

首相が8日の参院予算委員会で、質問する立憲民主党の杉尾秀哉氏を指さしながらやじを飛ばしたとして、杉尾氏が抗議する一幕があった。首相は6日の衆院予算委でも野党議員にやじを飛ばし、棚橋泰文衆院予算委員長が不規則発言を慎むよう要請した。
杉尾氏によると、放送局に電波停止を命じる可能性に言及した2016年の高市早苗総務相の発言について質問した際、首相が自席から杉尾氏を指さして「共産党」とやじ。金子原二郎参院予算委員長が「不規則発言は厳に慎んでほしい」と注意した。
杉尾氏は取材に「国会は政策を論議する場であり、やじは首相の適性や品格に関わる問題だ」と語った。

安倍にとっては、「共産党」が悪口なのだ。戦前の天皇制時代に作られた時代感覚そのままの恐るべきアナクロニズム。それにしても、立憲民主党の杉尾秀哉氏を指さしながらの「共産党」である。意味不明。というよりも、理解を超えた発言。他人ごとながら、「この人、ほんとに大丈夫かね」と心配になる。

安倍の「醜態その2」は、共産党・田村智子議員の質問によって、明らかになった醜行。本日(11月9日)の赤旗トップ記事になっている。
「桜見る会を安倍後援会行事に」「参加範囲は『功労・功績者』のはずが」「税金私物化 大量ご招待」「田村氏追及に首相答弁不能」という大見出し。
https://www.jcp.or.jp/akahata/aik19/2019-11-09/2019110901_01_1.html

https://www.jcp.or.jp/akahata/aik19/2019-11-09/2019110903_01_1.html

「安倍内閣のモラルハザード(倫理の崩壊)は安倍首相が起こしている」―。日本共産党の田村智子議員は8日の参院予算委員会で、安倍晋三首相主催の「桜を見る会」に安倍首相や閣僚らが地元後援会員を多数招待していた問題を追及しました。安倍首相は質問に答えられず、審議はたびたびストップ。安倍首相が先頭にたって公的行事・税金を私物化している疑惑が深まりました。

「桜を見る会」の参加者数・支出額は安倍政権になってから年々増え続け、2019年の支出額は予算額の3倍にもなっています。田村氏は、各界で「功労・功績のある方」を各府省が推薦するとしながら、自民党議員・閣僚の後援会・支持者が多数招待されていることを明らかにしました。

安倍首相の地元・山口県の友田有県議のブログ記事では、“後援会女性部の7人と同行”“ホテルから貸し切りバスで会場に移動”などの内容が記されています。
田村氏は「安倍首相の地元後援会のみなさんを多数招待している」「友田県議、後援会女性部はどういう功労が認められたのか」とただしました。
安倍首相は答弁に立てず、内閣府官房長が「具体的な招待者の推薦にかかる書類は、保存期間1年未満の文書として廃棄している」と答弁しました。田村氏は「検証ができない状態ではないか」と厳しく批判しました。

田村氏は「安倍事務所に参加を申し込んだら、内閣府から招待状がきた」という下関の後援会員の「赤旗」への証言を紹介。「下関の後援会員の名前と住所をどの府省がおさえられたのか。安倍事務所がとりまとめたとしか考えられない」とただしました。
さらに田村氏は、友田県議や吉田真次下関市議のブログに、「桜を見る会」とあわせて安倍首相夫妻を囲んだ前夜祭の盛大なパーティーの様子が紹介されていると指摘。「桜を見る会が『安倍首相後援会・桜を見る会前夜祭』とセットになっているんじゃないか」「まさに後援会活動そのものだ」と追及しました。

安倍首相は「お答えを差し控える」と答弁を拒否し、議場は騒然。田村氏は「桜を見る会は参加費無料でアルコールなどをふるまう。政治家が自分のお金でやれば明らかな公職選挙法違反だ。こういうことを公的行事と税金を利用して行っていることは重大問題だ」と強く訴えました。

なるほど、安倍晋三は共産党が嫌いなわけだ。が、問題は安倍自身がしたことの責任だ。田村議員が指摘するとおり、「政治家が自分のお金でやれば明らかな公職選挙法違反」なのだ。これに呼応して、山添拓議員が、「私費でやれば公選法違反。税金で堂々やるとは、私物化も甚だしい!」とツイートしている。さて、政治家が自分のお金でやれば明らかな公職選挙法違反」だが、「税金で堂々やる」のは犯罪にならないのだろうか。そんなはずはなかろう。

問題の条文は公選法199条の2 第1項である。公選法の条文は、極めて読みにくく作られている。文意をとりやすいように整理すれば次のとおりである。

公職選挙法第199条の2
第1項 政治家は、当該選挙区内にある者に対し、いかなる名義をもってするを問わず、寄附をしてはならない。

その違反に対する罰則は、下記のとおり。
第249条の2
第1項 第199条の2第1項の規定に違反して当該選挙に関し寄附をした者は、1年以下の禁錮又は30万円以下の罰金に処する。
第2項 通常一般の社交の程度を超えて第199条の2第1項の規定に違反して寄附をした者は、当該選挙に関して同項の規定に違反したものとみなす。

もちろん、有罪が確定すれば、原則5年間の公民権(選挙権・被選挙権)停止となる。

問題は、この安倍晋三による「税金私物化 大量ご招待」を、「寄附」と見ることができるか、である。私は、できると思う。もしこの安倍晋三の税金私物化が、公職選挙法違反にならないとすれば、公選法は甚だしいザル法である。ザルの目を塞ぐ法改正が必要となる。

「寄附」の定義規定は次のとおりである。
公職選挙法第179条第2項
「この法律において「寄附」とは、金銭、物品その他の財産上の利益の供与又は交付、その供与又は交付の約束で党費、会費その他債務の履行としてなされるもの以外のものをいう。」

つまり、安倍晋三が山口1区の有権者に、「金銭や物品」を配ることだけが、公職選挙法で禁止された「寄附」に当たるものではない。禁じられているのは、「財産上の利益の供与」一切なのだ。

立法の趣旨は明らかである。カネを持つものが、カネで政治を壟断することを防止するためである。典型的には、カネで票を買うことは買収罪となり、カネを支払っての選挙運動員を使って票を集めることは、間接的に票を買うことになるとして、運動員買収罪となる。しかし、通常の選挙犯罪は、特定の選挙との具体的な関連性が要求される。たとえば、次のとおり。

第221条1項 次の各号に掲げる行為をした者は、3年以下の懲役若しくは禁錮又は50万円以下の罰金に処する。
第一号 当選を得若しくは得しめ又は得しめない目的をもつて選挙人又は選挙運動者に対し金銭、物品その他の財産上の利益若しくは公私の職務の供与、その供与の申込み若しくは約束をし又は供応接待、その申込み若しくは約束をしたとき。

選挙「買収」は、「当選を得若しくは得しめ又は得しめない目的をもつて」という形で、特定の選挙との具体的関連性が要件となっている。しかし、寄附にはその目的規定がない。特定の選挙との関連性が希薄ではあっても、カネの力で選挙民の投票行動が左右されるようなことがあってはならないとするのが法意なのだ。

本件では、安倍晋三がその選挙区の有権者を「参加費無料でアルコールなどをふるまう」会に招待し参加させたことが寄附に当たるか、が問われている。本来の「功労・功績者」への招待であれば公職選挙法条の犯罪とはならないが、欲しいままに予算を計上し、あるいは予算を大幅に上まわる人を招いて、事実上後援会員を「タダで飲み食いさせ」たのは,明らかに財産上の利益の供与であるから、寄附に当たる。問題は、「寄附」とは、自腹を切っての供与だけをいうもので、権力者が税金を欲しいままに使っての選挙民に対する利益供与は除かれるのか、という点に収斂する。

この寄附禁止規定は、「政治家が自分のカネでやる」ことを想定していたには違いない。しかし、身銭を切っての寄附の悪質性よりも、権力者がその地位を利用ないし悪用して、国民の財産を掠めとっての「寄附」がより悪質であることは、誰の目にも明らかではないか。

法の制定時、こんな安倍晋三流の悪質極まりない選挙違反は想定されていなかった。それが、安倍一強の驕りによってここまで腐敗が進行したということではある。しかし、実質的な負担者が誰であれ、有権者に利益を供与せしめた者すべてが、公選法199条の2 第1項違反と解すべきで、その解釈が罪刑法定主義に反するものではないと、私は思う。
それにしても、汚い。恥を知れ、安倍晋三。
(2019年11月9日)

澤藤統一郎の憲法日記 © 2019. Theme Squared created by Rodrigo Ghedin.