澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

「しのばず通信」に見る、それぞれの「私の戦争」「私の8月15日」。

「根津・千駄木憲法問題学習会」の機関紙「しのばず通信(9月8日号)」が届いた。毎月、切手のない封筒に入れての戸別配達。わが事務所の郵便受けにぽとり。

A4・1枚両面印刷の手作りだが、通算129号。毎月1回の例会を欠かさず、10年以上の継続となっている。その息の長い活動に頭が下がる。ここに集まるような人々が、憲法を支えているのだ。

月刊だから、9月号は「〔特集〕私の8月15日」となって、3人の寄稿が掲載されている。敗戦時、中学2年の男性、女学校1年の女性、そして当時13歳の女性。それぞれの「私の8月15日」が興味深い。1億通りの8月15日があったことをあらためて想起させられる。

「当時中学2年の男性」とは、少年事件問題の家裁調査官として著書も多数ある浅川道雄さん。「私の戦争体験」を次のように綴っておられる。

「私が生まれた昭和6年に「満州事変」が始まり小4の冬「大東亜戦争に突入ということで、私が物心付いた時に戦争は日常のことになっていました。戦争末期に体験した東京大空襲」は「死の瀬戸際」を感じるほどの強烈な体験でした。
 1945年5月25日に目黒の自宅を焼かれ、寄留先の八王子でも、8月1日にまた焼かれ、命からがら目黒に戻り、疎開先に留守番を兼ねて仮住居しているとき、敗戦を迎えました。
 中学2年の私は、5月の空襲でも、八王子の後も、生きている限り「小国民の義務」として三鷹の軍需工場へ通い続けました。「米軍が上陸してきたら、皇居と首都を守って玉砕するのだ」と配属将校に言われ、自分の心にも、そう言い聞かせていました。「どうしたら立派に死ねるか」が私の最大の関心事でした。そんな思いをけっして子どもたちに味合わせたくないと、固く思います。」

「当時女学校1年の女性」は、「戦争はいや! 私たちは戦争の語り部に!」と題して、「やがて戦争が終わったことを知ると、今夜から明るい電燈の下で暮らせ、空襲の恐ろしさもないのだという安心感に満たされた。」「でも、あれから71年経った現在、…民主々義の自由の風も、人びとが気付かぬうちに、じわじわと戦争前の時代のような匂いがしてきた」と警告している。

そして、「当時13歳の女性」の「私の8月15日」が、貴重な体験を次のように語っている。
「3月10日の東京大空襲で母はじめ5人の兄弟を失った私。更に土浦空襲でも予科練生だった兄を失って父と2人だけになってしまった私。
 あの日は父の部下だった方の所、千葉へ買い出しに行くとの事で父と一緒に列車に乗った。途中、天皇陛下の重大放送があるという事で全員、列車から降ろされて線路に並ばされた。正午、一段高い所に置かれたラジオにみんな頭を下げて陛下の玉音放送なるものを聴いた。が、ただガアガアと云っているだけで、何も聞き取れなかった。空が真っ青に澄んでいて暑い日だった。
 その日、父の部下だった方の家に2、3人の村人がやって来て日本は戦争に負けたのだと云った。そしてこれからはアメリカ軍がやってきて、女性はみんな陵辱され、男共と子どもはみんな殺される。だからみんな山に逃げなければいけないと云った。私は父が殺されて又一人になったらどうしよう。そして大人でも子どもでもないチビの私はどうなってしまうのかとたいへんな不安におののいた、私13歳の日本敗戦日でした。」

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8月15日の感想は一色ではない。おそらくは、「戦争が終わって、今夜から明るい電燈の下で暮らせる。空襲の恐ろしさもなくなった」という安堵感で終戦を迎えた人が多数であったろう。しかし、「日本は戦争に負けた。これからアメリカ軍がやってきて、女性はみんな陵辱され、男共と子どもはみんな殺される。」と敗戦の悲劇を恐怖した少なからぬ人もいた。これは、根も葉もない流言飛語の類だったのだろうか。

ずいぶん以前のことになったが、沖縄の戦跡をめぐったことがある。いくつもの、「ガマの悲劇」を聞かされた。現地で見て、想像していたよりもガマが広く大きいのに驚いた。数十人単位の避難民がそれぞれのガマで運命をともにしたという。

ガマの外から、米軍が日本語で投降を呼びかける。ガマの中の避難民に抵抗の術はなく逃走も不可能。投降するか確実な死か。極限の選択が迫られた。

あるガマでの現地平和運動活動家からの説明が印象的だった。
「このガマには二つのグループが避難していましたが、一つのグループは投降して全員が助かり、もう一つのグループは投降を拒否して自決か砲撃でほぼ全員が死亡しました。
 投降を受諾したグループのリーダーは、元はアメリカに出稼ぎ経験のある高齢男性でした。彼の気持の中でのアメリカは、「敵ではあっても、デモクラシーの国」であって、「鬼畜米英」という観念はなかったのです。みんなを説得して投降し、命を救ったのです。
 一方、投降を拒否したグループのリーダーは従軍看護婦の経歴を持つ女性でした。中国戦線での体験から、投降した中国人捕虜が皇軍によっていかに残虐に扱かわれていたかを知る立場にいた方です。この方は、みんなを説得して投降を拒否したのだと言いつたえられています。
二つのグループはガマの中で行動をともにしていましたが、最後の決断で分かれ、運命も分かれたのです。」

あのガマの闇が、歴史の闇に重なる思いだった。重苦しく合掌するのみ。
(2016年9月13日)

「法学セミナー」に、特集「スラップ訴訟」?「DHCスラップ訴訟」を許さない・第79弾

本日(9月12日)発売の「法学セミナー」(日本評論社)10月号が、「スラップ訴訟」を特集している。弁護士・学者・ジャーナリストが執筆した、計9本の論文から成っている。

私が、総論として「スラップ訴訟とは何か」を書き、以下各論が充実している。事例紹介、言論への萎縮効果、アメリカでの反スラップ法の紹介、名誉毀損訴訟の理論的検討、スラップ提起を不法行為とする判例枠組みの再検討、そしてスラップ抑止・救済のあり方、立法論の検討まで、充実した特集となっている。

執筆者の一人、紀藤正樹さんは、「ついにいろいろな方々の協力を得て、ここまでこぎつけました。今月号の法学セミナーの『スラップ訴訟』特集。是非お読みください。現時点の日本での最高峰の議論はできていると思います。」と宣伝に努めている。

言論の自由を大切に思う方、民事訴訟制度のあり方に関心をお持ちの方に、是非ご購読いただきたい。定価は税込1512円(本体価格 1400円)、お申し込みは下記URLから。
  https://www.nippyo.co.jp/shop/magazines/latest/2.html

特集の冒頭に、編集部の次のリードがある。
「日本においてようやく認知され始めたスラップの定義、実態、弊害を整理して紹介し、アメリカの反スラップ法を参考に日本における抑止・救済策を整理し、今後の議論を展望する。」

内容は以下のとおり。
? スラップ訴訟とは何か……澤藤統一郎

? 事例紹介
  1 武富士事件スラップ訴訟……新里宏二
  2 伊那太陽光発電スラップ訴訟……木嶋日出夫

? 恫喝訴訟と言論萎縮効果……三宅勝久
  ──高額損害賠償請求の「恫喝訴訟」による企業批判のタブー化

? スラップ訴訟、名誉毀損損害賠償請求訴訟の現状・問題点とそのあるべき対策(立法論)……瀬木比呂志

? アメリカにおける反スラップ法の構造……藤田尚則

? 昭和63年判例(最三小判昭63・1・26)の再検討……小園恵介
  ──抑止・救済のための法的課題の検討1

? 日本の名誉毀損法理とスラップ訴訟……佃 克彦
   ──抑止・救済のための法的課題の検討2

? スラップ訴訟の外縁から見る抑止・救済の法的課題の検討……紀藤正樹
   ──抑止・救済のための法的課題の検討3

上記の各タイトルの内、「? 昭和63年判例の再検討」だけが、やや呑み込みにくい。これは、スラップ提起への対抗策として、提訴自体を不法行為とする損害賠償請求反訴(または別訴)の認容要件についての再検討である。この「昭和63年判例」は、「訴えの提起が不法行為にあたる場合」のリーディングケースとなっているが、事案は言論の自由に関わるものではなく、不動産取引に関する提訴である。この判例の判断枠組みを、言論の自由を意識的に攻撃するスラップ訴訟に、そのまま当てはめることの不当と、再検討の必要を論じたのがこの論文。

法律雑誌にこのような特集が組まれることは、スラップの横行が社会悪として看過し得ない事態に至っていることを示している。スラップ被害回復とスラップ阻止、そしてスラップ廃絶への大きな一歩というべきだろう。スラップ常連企業には、こころしていただきたい。

各論文は雑誌をお読みいただくとして、ご購読の意欲喚起のために、私の論文の「結びに」の一部を抜粋してご紹介しておきたい。
「かつては、社会にも訴訟関係者にも不当訴訟の提起を許さない雰囲気があった。真っ当な弁護士なら、民事訴訟をこのような不当な手段には使わないという黙契があった。いま、企業も政治家もスラップ提起に躊躇なく、またスラップ訴訟提起を受任して恥と思わない弁護士が増えてきている。」
「スラップ訴訟は敗訴を重ねているが、その威嚇効果の有効性を否定し得ない。立法措置を展望しつつ、法廷では個別の案件でスラップに成功体験をさせない努力の積み重ねが必要だが、それだけではない。スラップという用語と概念を世に知らしめ、スラップ提起を薄汚いこととする常識を定着させなければならない。スラップ提起者のイメージに傷がつき、ブランドイメージや商品イメージが低下して、到底こんなことはできないという社会の空気を醸成することが重要だと思う。法制度の設計も運用も、社会の常識と離れてはあり得ないのだから。
(2016年9月12日)

天皇制の呪縛「権威への依存性」を断ち切れ

天皇制を論じる出発点は丸山眞男(「超国家主義の論理と心理」)なのであろうが、私の世代感覚からは、丸山の論じるところはあまりに常識的に過ぎてインパクトは薄い。丸山は天皇制の呪縛と闘ってかろうじて逃れ得た人、という程度のイメージ。

丸山自身の次のような言は、丸山自身には重い意味を持っているのだろう。

「『國體』という名でよばれた非宗数的宗教がどのように魔術的な力をふるったかという痛切な感覚は、純粋な戦後の世代にはもはやないし、またその『魔術』にすっぽりはまってその中で「思想の自由」を享受していた古い世代にももともとない。しかしその魔術はけっして『思想問題』という象徴的な名称が日本の朝野を震撼した昭和以後に、いわんや日本ファシズムが狂暴化して以後に、突如として地下から呼び出されたのではなかった。日本のリベラリズムあるいは『大正デモクラシー』の波が思想界に最高潮に達した時代においても、それは『限界状況』において直ちにおそるべき呪縛力を露わしたのである。」(「日本の思想」岩波新書)

私は、この一節がいう「純粋な戦後世代」に属する。もちろん、『國體』という観念の「魔術的な力」についての痛切な感覚とは一切無縁である。天皇制の呪縛とは、「天皇教」のマインドコントロールということにほかならない。その「魔術」や「おそるべき呪縛力」に絡めとられてしまった学問にいったいどんな意味があるというのだ。そんな「知性」はニセモノに過ぎないのではないか。そう、突き放すのみ。

しかし、丸山の「日本のリベラリズムあるいは『大正デモクラシー』の波が思想界に最高潮に達した時代においても、それは『限界状況』において直ちにおそるべき呪縛力を露わしたのである」という指摘は、過去のものではなく今耳を傾けなければならない。現天皇の生前退位表明以来の象徴天皇制に関する諸議論を、「天皇制の呪縛との関わり」という視点で吟味が必要なのだ。

戦前の天皇は、統治権を総覧する主体(旧憲法第1条)であるだけでなく、「神聖ニシテ侵スヘカラ」ざる存在とされた(旧憲法第3条)。3条は、『國體』という名でよばれた非宗数的宗教が条文化されたものと読むことができる。1条の政治権力は、3条の神聖性や文化的道徳的権威の基盤のうえに構築されたものなのだ。

旧天皇制は、「権力的契機」と「権威的契機」とからできていた。丸山の前掲書を我流に引用するなら、
「伊藤(博文)が構想した明治憲法体制は、『国家秩序の中核自体を同時に精神的機軸とする』ものであった。新しい国家体制には、『将来如何なる事変に遭遇するも…上(天皇)元首の位を保ち、決して主権の民衆に移らざる』ための政治的保障に加えて、ヨーロッパ文化千年にわたる『機軸』をなして来たキリスト教の精神的代用品をも兼ねるという巨大な使命が託されたわけである。」

「國體」とは、急ごしらえではあっても、「ヨーロッパ文化千年にわたる『機軸』をなして来たキリスト教」に相当するものとして構想され、この擬似宗教による権威が天皇の政治権力正当化の役割を担った。

敗戦と日本国憲法制定によって、旧天皇制の「権力的契機」は払拭された。このことによって、直接的な政治的支配の道具としての天皇の有用性はほぼ解消された。しかし、「権威的契機」は象徴天皇制として生き残った。この残滓としての象徴天皇制が、社会的統合機能を司る。その統合が、「権威への依存性」を涵養する役割を果たす。

刈部直の「丸山眞男?リベラリストの肖像」(岩波新書)は丸山眞男が論じたところを、的確にそしてコンパクトに紹介する。直接に丸山を読むより、刈部を読む方が、丸山がよく分かるのではないだろうか。

刈部の書から、天皇制に関する核心部分を引用してみる。キーワードは、「権威への依存性」である。

「南原(繁)にせよ、津田(左右吉)にせよ、丸山がその後も尊敬してやまなかった学者である。彼らに見える皇室に対する敬愛を、明治人と大正人との程度の違いはあれ、みずからもこれまで抱いてきた。しかし、戦時中に軍隊で経験し、再び戦犯裁判で見せつけられることになった、「権威への依存性」は、リベラルな知識人の天皇への親近感のなかにも、しっかりと根をはっているのではないか。それを放置したままで、個人が「自主的な精神」を確立することなどできるのか。―そうした問いが、丸山の中をかけめぐる。そして、「三日か四日」で一気に論文(「超国家主義の論理と心理」)を書きあげた。のち、昭和天皇の崩御に際しての回想で、執筆時の気持ちを生々しく語っている。」

以下は、刈部が引用する丸山の言。
「敗戦後、半年も思い悩んだ揚句、私は天皇制が日本人の自由な人格形成?自らの良心に従って判断し行動し、その結果にたいして自ら責任を負う人間、つまり「甘え」に依存するのと反対の行動様式をもった人間類型の形成?にとって致命的な障害をなしている、という帰結にようやく到達したのである。あの論文を原稿紙に書きつけながら、私は「これは学問的論文だ。したがって天皇および皇室に触れる文字にも敬語を用いる必要はないのだ」ということをいくたびも自分の心にいいきかせた。のちの人の目には私の「思想」の当然の発露と映じるかもしれない論文の一行一行が、私にとってはつい昨日までの自分にたいする必死の説得だったのである。」

こうして丸山は、「天皇制」について、「これを倒さなければ絶対に日本人の道徳的自立は完成しないと確信する」立場に至った、というのだ。いうまでもなく、「これを倒さなければならないとする天皇制」とは象徴天皇制のことである。

しかしなんとまあ、大仰に悩んだ挙げ句の天皇制の呪縛からの脱出劇。必死に自分を説得しての天皇制への訣別宣言。これが、インテリゆえの苦闘なのだろうか。あるいは、旧体制の上層の位置にどっぷり浸っていた精神構造のゆえなのだろうか。

同世代の日本人が、天皇制からの精神的自立のためにこんなにも悩んだとは思えない。少なくも、食糧メーデーに参集した庶民の側は、「朕はタラフク食ってるぞ ナンジ人民 飢えて死ね ギョメイギョジ」というフレーズに共感する健康な精神をもっていたのではないか。

もっとも、丸山の「権威への依存性」は、リベラルな知識人の天皇への親近感のなかにも、しっかりと根をはっているのではないか。それを放置したままで、個人が「自主的な精神」を確立することなどできるのか、という問には共感する。この場合の「権威」は天皇制に限らない。あらゆる分野に、「権威」が満ち満ちているではないか。この依存性を断ちきって、自分が誰かに従属する「臣民根性」から脱却しなければならないと思う。

天皇・天皇制は、本来民主主義と相容れない。それは、君主に権力が集中する恐れあるからという理由よりはむしろ、権威の象徴としての天皇を認めることが、丸山のいう国民の精神における「権威への依存性」を容認することだからである。まさしくそれを放置したままでは、個人の「自主的な精神」「主権者意識」は育たないからなのだ。

確かに、現行日本国憲法は象徴天皇制を認めている。しかし、それは歴史的な旧憲法体制の残滓であって、憲法の基本構造からみれば夾雑物に過ぎない。将来は憲法を改正して制度を廃絶すべきが当然である。そして、現行憲法が天皇制を廃絶するまでの間は、この夾雑物が、人権尊重・民主主義・平和主義に矛盾せぬよう、可能な限りその存在を極小化する努力を継続すべきなのだ。

その立場からは、国事行為以外の天皇の公的行為を認めてはならない。国会開会式での天皇の「(お)ことば」は不要である。国民体育大会にも植樹祭にも出席は無用だ。天皇に過剰な敬語は要らない。皇室予算は可及的に削減すべきである。そして、何よりも、主権者の一人ひとりが「権威への依存性」を意識的に断ち切る努力をしなければならない。
(2016年9月10日)

「西松建設違法献金・株主代表訴訟」和解での、政治献金監視センター発足の意義

本日(9月10日)の朝日朝刊が大きく報じている。「西松建設の元役員ら、株主と和解」「違法献金めぐり賠償」の記事。北朝鮮核実験の愚挙がなければ社会面トップの扱いにもなったところ。中見出しの「弁護団『企業監視のモデルに』」がすばらしい。

残念ながら、毎日の扱いは小さい。記事の内容はとてもよいのに…、である。見出しは、「政治資金収支報告書・ネットで全文公開」「西松建設1000万円寄付」となっている。日経は、「西松建設の株主訴訟、異例条件で和解」「政治資金公開団体に寄付」というもの。

各紙の見出しだけで、何が話題かおよその見当がつくだろう。「西松建設がした政治家への献金を違法として、株主の一人が当時の役員9名を被告に、『献金相当額を会社に賠償せよ』という株主代表訴訟を起こした」「昨日(9月9日)、東京高裁でその訴訟の和解が成立した」「その和解において、被告らは違法献金を賠償しただけでなく、『政治資金公開団体』に1000万円を寄付することを約束した」「この『政治資金公開団体』は、政治資金収支報告書をネットで全文公開しようというもの」「このような条件で和解に至ることは異例」「弁護団は、このような解決方法を『企業監視のモデルに』したい」と言っている。

一審で判決が出たのが、2年前の2014年9月。判決は、献金の違法を認めて「被告元役員らは(連帯して)、6億7200万円を西松建設に(損害賠償金として)支払え」というものだった。昨日成立の東京高裁での和解金は1億5000万円。この金額が、現実に西松建設に支払われることになる。被告らは、この和解金とは別に、1000万円を『政治資金公開団体』へ拠出することを約した。被告らが、原告・弁護団の理念に基づいた提案に応じた姿勢を評価したい。西松建設が、「和解を機に、一層の法令順守を徹底し再発防止に努めていく」とするコメントしたことも、その言やよし。今後、本件がモデルケースとなって、同様の和解の方式が定着することを期待したい。

1000万円の資金拠出で発足する『政治資金公開団体』は、「一般財団法人・政治資金センター」という。阪口徳雄弁護団長は、記者会見で「株主や市民が企業を監視する、一つのモデルケースになったと思う」と発言している。今後も、「株主や市民が企業を監視する」活動を継続していくという宣言でもあるだろう。

この世の不公正は、強者による弱者への支配としてあらわれる。強者とは、政治的には権力であり、経済的には企業であり富者である。強者は一握りの存在であり、弱者はそれ以外の全ての市民である。政治的強者と経済的強者とは、相互に利用し補完する関係に立って、双頭の猛獣となっている。市民は、この双頭の猛獣をコントロールしなければならない。

市民による政治権力へのコントロールは、タテマエにもせよこの民主々義社会において、一応はメニューが揃っている。政治的権力に対するコントロールの基本は選挙であるが、「投票日だけの主権者」によるコントロールには限界がある。権力を担う者への監視を可能とする情報公開と、報道の自由があれば、市民は監視の目を光らせて、権力暴走の実態を把握し、批判することができる。権力の違法に対する批判は、言論やデモによることもあれば、パプリックコメント、あるいは司法の利用を手段として実現することも可能となる。

これに比して、市民による対企業コントロールは、制度として想定されているものではない。消費者運動による意識的な商品選択行動として、あるいは市民が公開会社の株主となっての株主オンブズマン活動などが試みられているが、成果は部分的なものに過ぎない。株主代表訴訟は貴重な対企業コントロール手段である。

最重要問題は、政治献金を通じての権力と企業との癒着に対する市民のコントロールをどう実効性あるものとするか、である。今後、新たに設立された「政治資金センター」が、各政治家ごとに、あるいは企業ごとに、政治資金収支報告書や選挙運動収支報告書を整理して公開し、分析を発表し続けることだろう。根気を要する地道な作業だが、権力と企業の両者を監視して、コントロールのための基礎資料と分析結果を市民に送り続けるとなればその意義は大きい。

なお、西松建設株主代表訴訟の一審判決言い渡しは、2014年9月25日だった。偶然だが、同じ日にやはり東京地裁で、住民訴訟関連の「原告国立市・被告上原公子(元市長) 損害賠償請求事件」判決が言い渡されている。

両判決を比較した私の見解を、「株主代表訴訟と住民訴訟、明と暗の二つの判決」と題して、その当日(9月25日)の当ブログに詳しく書いている。再読していただけたらありがたい。
  https://article9.jp/wordpress/?p=3589

両訴訟の一審判決は、市民の側から見て明暗分かれたが、国立市事件判決はその後逆転して高裁段階では両訴訟とも私が望ましいとした結果となった。たった一人でも、権力や企業の不正を糺すことを目的に提訴できる株主代表訴訟と住民訴訟。その制度を形骸化させることなく活用し、活性化したいものである。市民が、権力と企業の違法を是正すべくコントロールするために。
(2016年9月10日)

詩画人・四國五郎の「辻詩」 ー「福竜丸だより」から

四國五郎(1924?2014)という画家をご記憶だろうか。ウィキペディアには、「広島県広島市出身の画家・挿絵画家・絵本作家・詩人である。広島平和美術展を広島の画家仲間達と創設。絵画と詩を描きながら、広島を拠点にして戦後の平和運動を推進した。特に原爆をテーマにした絵本『おこりじぞう』の装丁と挿絵が有名。」とある。峠三吉や山口勇子と組んで仕事をした人だ。

本日配達になった「福竜丸だより・№395」(2016年9月1日)に、ご長男・四國光氏の寄稿がある。「詩画人・四國五郎と『辻詩』」というタイトル。

「辻詩」とは耳慣れない。「辻」は、四つ辻の辻。辻説法・辻占・辻商い・辻籠・辻待ち・辻芝居・辻斬りの、あの「辻」。往来が交差する賑わうところ、巷の意味。辻詩は、「巷の詩」ということになるが、その内容は思想的宣伝物(手描きの反戦反核ポスター)なのだ。これを、単にポスターとかビラあるいは伝単などと即物的に表現せず、「辻詩」と言うところに作成者の思い入れがある。作成者とは峠三吉と四國五郎の両名が中心。峠が文を四國が絵を担当したという。この辻詩の作成と貼り出しは、占領下の広島で当局の言論統制をかいくぐっての逮捕覚悟のものだったという。その表現意欲がすさまじい。

「福竜丸だより」の寄稿を抜粋して紹介したい。これはまた見事な、亡き父へのオマージュでもある。

 父・四國五郎は第五福竜丸の水彩画を残している。また、ビキニ事件の時は、巨大な「原爆マグロ」を作って広島のデモに参加した。行動しなければ、という思いが常に父を突き動かしていた。
 その父の展覧会が「原爆の図一丸木美術館」で、開催されている(9月24日迄)。
父の作品としては「絵本おこりじぞう」の絵や、峠三吉と作った「原爆詩集」の表紙面や挿画が最も知られたものだと思うが、今回の展示の目玉のひとつは、父が峠と作った手描きの反戦反核ポスターだ。父たちはこの表現形式を「辻説法」になぞらえ「辻詩」と呼んだ。1950年の朝鮮戦争の始まる少し前から、峠が入院する53年頃まで、父は100枚から150枚描いたというが、現存するのは父のアトリエにあった8枚のみ。今回の展覧会では初めてこの8枚全てが展示された。
 当時はGHQによる言論統制のため、戦争や原爆に関する表現は厳しく規制されていた。「辻詩」はそのような状況下で作られた、逮捕覚悟の反戦活動であった。「辻詩」が出来上がると、峠が始めた詩のサークルである「われらの詩の会」のメンバーが手分けしてゲリラのように街中に貼り出し、警察が来ると大急ぎで剥して逃げた。「辻詩」の四隅に残る画鋲の穴を数えると、何回逃げたかがわかる。多いもので40個の穴が開いていたそうだ。
 どのようにして「辻詩」を作ったか、父のメモが残されている。それを読むと、ジャズの即興を連想させる。峠と父とでアイデアを持ち寄る。お互いに意見をぶつけ合いその場で「辻詩」の原案をどんどん作っていく。父がそれを自宅に持ち帰り、絵と、絵に相応しい字体で詩を書き入れる。出来上がると街に貼り出し道行く人に訴える。混沌の現実から今もぎ取ってきたような「生の表現」。それこそが人の心に訴え人を動かす、という信念が父たちにはあった。父は自分たちで書くだけでなく、多くの方が参加可能な「表現のプラットフォーム」として、「辻詩」に大きな可能性を見出していた。沈黙から言葉を引き出そうとした。
 仲間たちの中には、父や峠の、あまりに前のめりな姿勢に対して、危険すぎるので止めるべきだ、という反対も多かったと言う。しかし、父の日記を読む限り、この運動を減速したり止めたりする気持ちは微塵もなかったようだ。「辻詩」によって、詩と絵が社会に対してどれだけの働きかけができるのか、そのチヤレンジに全身全霊をかけて没頭していた様子が伺われる。
 「この時代、沈黙してはいけない」。日記を読むと、一連の表現活動による逮捕の可能性も仄めかしており、恐らく覚悟の上だったようだ。「戦争とシペリアを経験したので、それに比べればどんな事でも乗り越えられると思った」と晩年語っていた。
 「辻詩」とは廃棄あるいは押収される事が運命づけられた「使い捨て」の表現物だ。自分が丹精込めた「表現」の痕跡は一切残らない。3年近く、父は「辻詩」の作成に情熱を注いだ。作品として残る可能性の無いものに対して、そこまでのエネルギーを費やし続けることの、執念のような腹の括り方に、 私は改めて驚きを禁じ得ない。
 峠の死後も、父は生涯、戦争と平和のメッセージを伝える事を自分の使命と課し、絵や詩など膨大な作品を残した。その中で、最も父の心を熱く燃やしたものが、若き日の「辻詩」であったと思う。「辻詩」は表現者・四國五郎の原点であった。

なお、東京新聞(16年8月4日)の記事に、次の紹介がある。
「原爆をテーマにした絵本「おこりじぞう」の挿絵や詩人・峠三吉の私家版「原爆詩集」の表紙絵などで知られ、生涯にわたり反戦と平和を表現し続けた画家四国五郎さん(1924?2014年)の画業を振り返る「四国五郎展」が、東松山市の原爆の図丸木美術館で開かれている。」「復員の翌年、峠三吉と知り合った四国さんは、反戦詩をつづった絵を街頭に張り出す「辻詩」の活動を始める。朝鮮戦争(1950?53年)の最中、占領軍の言論統制下でのゲリラ的な運動だった。50年、丸木位里・俊夫妻も官憲の目をかいくぐりながら「原爆の図」の全国巡回展を始め、出発点となった広島では、四国さんらが展覧会を支えた。」(以下略)

表現の自由が抑圧された時代にも、表現者は黙ってはおれない。「この時代、沈黙してはいけない」という四國の言葉は重い。今の時代、意欲さえあれば、書ける、話せる、出版も、掲示も、メールも、ブログも、ほぼ自由に表現できる。この貴重な自由を、精一杯行使し続けなければならない。表現の萎縮によって自らこれを放棄する愚を犯してはならない。峠や四國の活動を知って、痛切にそう思う。
(2016年9月9日)

ネトウヨ・産経グループの差別記事に負けるなー蓮舫候補にエールを送る

戦争と差別は、緊密に結びついてきた。差別こそは、平和や共生の最大の敵である。人種や民族間の差別意識が憎悪や猜疑を生む、これなくしては戦争も戦争準備も成り立たない。だから、戦争や戦争準備をたくらむ勢力は、必ず差別意識の醸成に狂奔する。かつての日本は、「暴支膺懲」「鬼畜英米」、そして朝鮮人にもロシア人にも根拠のない差別感情をむき出しにした。支配勢力の意識的な操作に民衆が呼応したのだ。同時に何の根拠もない、自民族優越の「信仰」が蔓延した。

それゆえ、平和を望む勢力は、差別を振りまく勢力と意識的に闘わなければならない。永年にわたって民衆の中に培われ刷り込まれた、根強くある人種差別や民族差別の意識の払拭に努めなければならない。

差別とは、内と外の峻別を基礎とする。内なる仲間と、外なる他者との明確な区分が不可欠なのだ。その上で、内には仲間意識を醸成して、外なる他者を排撃する。差別主義者には、内と外との境界上にある存在の取り扱いがやっかいとなる。ときに、内なる仲間の純化のために、境界上にあるものが排撃の対象となる。この境界上にある者の典型が、在日であろう。在日に接する態度において、日本に居住する者すべてが、差別に関する感性や、その立場性を問われている。

民進党代表選に立候補している蓮舫に「二重国籍疑惑」が生じているという。例によって、ネトウヨが騒ぎ立て、産経が尻馬に乗っている。私たちの差別意識払拭の程度が試されていると言わなければならない。

蓮舫が中華民国との二重国籍だったらいったい何がどう問題だと言うのか。日本国民の「お仲間意識」から見過ごせないというのが、実は民族的な差別意識のなせる業というものにすぎない。

未開の時代、皮膚の色が異なり言語を異にする人が接すると、お互いがお互いを恐れた。これを克服して理解し合ってきたのが文明の進歩であったはず。国籍の違いは、取るにたりない人為的に付された記号の違いでしかない。国籍の壁が人間相互間の交流や理解を妨げるわけがない。その違いを大袈裟に言い立てる姿勢自体が、野蛮な差別主義と非難されなければならない。

もっとも、今は国民国家が分立している国際情勢下、それぞれの主権国家が定める国籍の取り扱いに従うしかない。それはやむを得ないとしても、それ以上のものではない。日本国籍を持っている蓮舫が、国会議員としても、政党党首としても、さらには内閣総理大臣としても、なんの差し支えもない。仮に、二重国籍であろうとも欠格要件にはあたらない。法的になんの問題もないのだ。

産経の記事では、「首相の資質の根源に関わる国籍に無頓着だったのは致命的といえる。」という根拠のない断定には驚いた。こういう輩が、戦前には戦争協力や天皇制鼓吹の手先となったのだと不愉快極まりない。蓮舫が日本国籍を持っている以上、首相の資格になんの問題もない。「資質の根源に関わる」「致命的」などと大袈裟にいう根拠はなく、差別感情丸出し以外のなにものでもない。

しかも、経過から見て「蓮舫が国籍に無頓着であった」とはいいがたい。朝日が報じる、「蓮舫氏は85年に日本国籍を取得した際、父とともに大使館にあたる台北駐日経済文化代表処を訪ね、台湾籍の放棄を届け出たと説明してきた。7日の報道各社のインタビューで、台湾籍を放棄する書類を再び代表処に提出した理由について『台湾に31年前の籍を放棄した書類の確認をしているが、「時間がかかる」という対応をいただいた。いつまでに明らかになるかわからない』と説明。あくまで『念のため』だと強調した。」で、十分に説明責任は尽くされている。

私は、民進党に関わりはないが、野党第一党の代表選挙には注目している。いま、産経からの言いがかりに民進党がどう対応するのか、試されており国民が注視している。真偽のほどは定かではないが、産経の報道のとおりに、「代表選で蓮舫氏と争う玉木雄一郎国対副委員長の陣営幹部は『ウソを重ねているように映る蓮舫氏に代表の資格はない』と断言。前原誠司元外相の陣営幹部も『きちんと説明すべきだ』と追及する構えをみせる。」ということであれば、この党に未来はない。むしろ、「差別を許さない」「ネトウヨ・産経グループの不当な介入を許さない」と民進党が挙って声を上げれば見直されるのではないか。

こうなれば、蓮舫候補の圧倒的勝利を期待したい。右翼が騒いでも失敗するだけ、反対の結果となるという実績をもう一つ積み重ねていただきたい。
(2016年9月8日)

近ごろ気になることー「天皇を護憲の守護神のごとく見てよいのか」

「憲法日記」と題した当ブログ。本日で連続更新1256回となる。3年5か月と7日。毎回が何の節目でもない積み重ねの一コマ。毎日途切れることなく、飽きることなくよく続くものと、自分でも感心している。

ときおり、読者から励ましの言葉をいただく。
励まし方には二とおりある。名誉毀損であるとして高額損害賠償請求訴訟の被告とされることも、「不敬言動調査会」などの「警告」も、私には発憤の材料である。そのたびに、「萎縮してはならない」と自分に言い聞かせる。嬉しくはないが、非難も罵倒も恫喝も励ましには違いない。誰にも心地よく、毒にも薬にもならない無難な内容のブログなら、時間と労力をかけて書き続ける意味はない。

他方、本当の意味での暖かい励ましの言葉をいただくと本当に嬉しい。私の意見は、常に少数派のもの。その少数派の人たちに、「同感し、励まされます」と言っていただくと、書き続けることの意義を再確認して、また書き続けようという意欲が湧いてくる。偶然だろうか、最近は出版関係の0Bの方から、そのような励ましをいただくことが多い。

下記は、そのような励ましのお手紙に添えられた、「職域関係会報に載せた」というご意見の抜き刷り。ご紹介して是非お読みいただきたい。筆者は戦中派の年代の方。

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近ごろ気になること(2016・4・24)
 2月27日の朝日歌壇に《フィリピンで果てにし父よ両陛下慰霊で供花す暑さの中を》など、天皇訪比を称える歌3首が載っていた。
同じ選者が選んだものだ。選者は「評」の中で「両陛下のフィリピン慰霊の旅、日比両国民に犠牲を強いたあの戦争を忘れてはならぬというお言葉に共感を示す歌が多く寄せられた」と書いている。3月26日の東京新聞「平和の俳句」には「今現に九条貫く天皇あり」という句が選ぱれ、選者は「潔い句だ。作者の気持ちの込め方も、その対象の天皇のお姿も言動も、まことに潔い。今次大戦を深く悔いて、平和を願う天皇皇后」と述べていた。
 安倍暴走の中、時おり見せる平和主義的言動のゆえに天皇を護憲の守護神のように見なす傾向が強まっている。ある元外交官は「大御心」という古語を使って礼賛し、ある政治学者は九条の会関係の講演で「お言葉」「お立場」「おっしやいました」を連発して感激している。
 しかし、天皇はこうした護憲的イメージと裏腹な言動を見せることもある。昨年4月パラオ慰霊の旅への出発時には「祖国を守るべく戦地に赴き、帰らぬ身となった人々」云々と述べた。右側の人たちは歓喜した。その一例《ご出発に当ってのお言葉に、「祖国を守るべく戦地に赴き」との一節。一見、何気ないご表現に見えるかも知れない。しかしこれは、戦役者への「顕彰」に他ならない。わざわざ「祖国を守る」為と明言されているのだから。[略] これらは紛れもなく、ご嘉賞(お褒め)のお言葉と拝すべきだ。それらの戦地で斃れた英霊たちを、ひたすら″気の毒な″被害者、犠牲者と見るようなお態度では、全くない》(新しい歴史教科書をつくる会副会長のブログ)。このブログの言う通り、天皇は、この時、戦死者を顕彰すべき英霊として捉え、あの戦争は祖国防衛戦争であって侵略戦争などではないと言っていたに等しい。
 また、2006年12月には、イラクに派遣された自衛隊員約180名を皇居に招き、「ブッシュの戦争」と呼ばれる露骨な侵略戦争に関わった武装組織の労をねぎらった。この4月には「神武天皇没後2600年」という驚くべき行事に出席している(この行為には憲法20条3違反の疑いもある)。こうした言動に対してマスメディアは勿論、護憲派諸組織も、疑念や懸念を表明したことはない。
 現在の日本において天皇は至高の存在だ。メディアで報じる時は必ず最大級の敬語を用いなければならない。右のような言動についてもその評価を自由に論じることなど事実上許されていない。そんな状況の中で、民主主義と自由を希求する護憲派が、いかに安倍政治に対抗するためとはいえ、賛美する一方で良いのだろうか。戦時中「天皇陛下のおんために死ねと教えた父母の」などと歌わされ、先生の訓示の中で「天皇陛下」という語が出てくるつど全員さっと直立不動の姿勢をとらされた経験を持つ人間としては、どうも気になるところだ。

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まったく同感である。天皇を護憲の守護神のごとくたてまつってはならない。憲法が厳しく限定した枠を超えて天皇の言動を許してはならない。また、天皇の個性は偶然のことがらで、天皇制の持つ意味は必然のことである。この両者の区別を意識しなければならず、混同してはならない。

私の拙いブログが、このような意見を持つ方たちと励まし合う関係になるのなら、欣快の至り。「憲法日記」ずっと書き続けなければならない、と思う。
(2016年9月7日)

「議論段階から社会実験へ」ヨーロッパでのベーシックインカム事情

本日の東京新聞「暮らし」欄(17面)に、興味深い解説記事が出ている。
「ベーシックインカム(BI)」「『全ての人にお金』で脱貧困?」という大きな見出し。続く中見出が、読者の目を惹く。

「欧州で来年から社会実験」
「フィンランド 25?58歳に月7万円程度」
「オランダ 5条件に分け就労分析」

つまり、「ヨーロッパではいよいよベーシックインカムの制度導入本格化のための社会実験が始まる。フィンランドでは、25?58歳の国民すべてに月7万円程度の支給を想定しての実験となる模様。オランダでは、給付対象者を5条件に分類して月額12万円ほどを支給してその効果を分析する」というのだ。なんと魅力的な実験ではないか。

ベーシックインカムのなんたるかについては、〈働く能力や意欲、収入、資産にかかわらず、個人に平等に基礎所得を支給する構想。誰もが対象となり受給へのちゅうちょが生じにくいほか、年金や生活保護、雇用保険などの統合や簡素化ができる。〉と、メリットずくめの解説が付いている。

ベーシックインカム導入論は我が国では少数意見であり、議論自体が寡少である。リベラル派からも無視ないし冷淡視されてきた。しかし、ヨーロッパの一部では、制度導入のための社会実験実施まできているというのが、この記事。

こんなリードがつけられている。記者の肯定的思い入れたっぷりの内容。
「貧困をなくすために政府がすべての人に生活に最低限必要なお金を配る『ベーシックインカム』(BI、基礎所得保障)制度の導入に向け、欧州がかじを切り始めた。スイスはことし6月、世界初の国民投票を実施、フィンランドやオランダでは来年から社会実験が始まる。背景にあるのは格差拡大といった社会保障制度の行き詰まりだ。」

紹介されているのは、フィンランド、オランダそしてスイス3国の事情。
◆フィンランド 
フィンランドのユハ・シピラ首相は昨年5月、国レベルでBIの社会実験を試行すると表明した。2017年中に始め、2年間実施。過去にカナダの自治体で試みはあったが、制度導入が実現すれば世界初だ。
BIは無条件に一律に支給されるため、社会保障制度をスリム化し、行政コスト削減が期待される。昨年10月から政府の調査チームが実験手法の研究を始め、月55?600ユーロ(6万4千?7万円程度)の給付を検討。25?58歳の約7千人を選び、19年に結果を分析する。

調査チームの代表で、社会保険庁のオッリ・カンガス氏によると、大きな目的の一つは「貧困のわな」の解消だ。公的扶助の受給者が働き始めると、援助が削られるため一定の給与がないと所得は増えず、就労に後ろ向きになる。給与を得ても減額されないBIは、働けば所得が上乗せされるため「働く意欲を喚起する解決策になるのではないか」と語る。
貧困層だけでなく起業への挑戦や、柔軟な働き方も期待できる。経済低迷が長引き、失業率が10%前後で推移していることも検討の背景にある。

カンガス氏によると、世論調査ではBI導入の賛成意見は70%に上るというが、批判も根強い。
首都ヘルシンキ在住の調理員メルヤ・レヒトさん(52)は「絶対に反対です」。制度の簡素化は歓迎だが、「なぜ富裕層にも一律に支給されないといけないのか。一体誰がその負担をするのでしょう。働くことに積極的になるどころか、もっと受け身になる人が増える」と疑問を呈する。

◆オランダ 5条件に分け就労分析
オランダでは、約20の自治体がBIの社会実験を計画。最終的には政府の認可が必要だが、17年にも始まる見通しだ。BI議論を主導してきた自治体の一つで国内第4の都市ユトレヒトは、500人規模での実施を計画。対象を公的扶助の受給者に限る点では、フィンランドとは異なる。
給付はBIの理念通り、無条件。職探しの努力といった条件を課さないことで、受給を終えて長期の仕事に就けるかを調べる。2年間、少ない条件付きも含めた5グループに分け、月1000ユーロ(11万7000円)程度の給付を予定。職探しの意欲、実際の就労にどんな違いが生じるかを分析する。
担当者は「福祉制度はシンプルであるべきだ。実験することで、伝統的な仕事がなくなり、新しい職業が生まれる将来の経済・雇用環境の変化にも備えられる」と説明する。

◆スイス
スイスは6月、BI導入を巡り世界初の国民投票を実施したが、76.9%の反対で否決された。政府は、大人1人月2500スイス・フラン(27万円)、子ども月625スイス・フラン程度の給付に膨大な予算が必要だとして反対していた。ただ、推進派の市民は「ゼロから始めて23%の賛成を得た。議論を広める目的は達成した」と強調する。

記事は以上である。続報がほしい。いったいどれだけの予算が組まれているのか。その予算捻出を決定する過程でどのような議論があったのか。どのような政治勢力が推進しているのか。また、反対しているのか。世論の動向はどうか。流入する移民にたいする給付についての議論はどうなのか。大国であるドイツやフランスでは議論がないのか。そして、成功への期待をもってこの実験の成りゆきに注目したい。

ベーシックインカム論は資本主義の世の中では夢物語ではないかとの思いが強かった。ところが、このヨーロッパ各国の試みは、ベーシックインカムの制度実現が夢でも幻でもないことを実証しつつあるのではないか。人類は、既にすべての人を貧困から解放すべき生産力を手に入れているのだ。貧困と格差を放置しておくことを、いかなる理由においても正当化してはならない。富と生産を公平に配分する方法として、ベーシックインカムは極めて魅力ある制度である。人類史上に大きく刻まれるべき、とてつもない実験が始まっているというわくわく感を禁じ得ない。

日本国憲法25条「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」は、ベーシックインカムの導入をズバリ想定し、これを求めていると読むこともできよう。世論が成熟し、「怠惰な国民をつくる制度」としてのとらえ方を克服して、「貧困を追放しすべての人に生存の基本を保障する制度」として賛意を得たとき、平和的な民主々義的手続によって富者の横暴を押さえた新たな制度を作りうるのではないか。

なお、ベーシックインカムについての議論状況を知りたい方には、「ベーシックインカムの可能性ー今こそ被災生存権所得を!」(村岡到編)をお勧めする。
  http://logos-ui.org/book/book-12.html

帯に、「新自由主義エコノミスト・原田泰、社会主義者・村岡到、長野県中川村村長・曽我逸郎らがベーシックインカムを説く!」という混沌さが魅力。
(2016年9月6日)

「差別がまかりとおる国の国旗に敬意は払えない」ーキャパニックの勇気

ハフィントンポスト(日本版)やロイターが、写真とともに生き生きと伝えている。「米ナショナル・フットボール・リーグ(NFL)サンフランシスコ・フォーティナイナーズのクォーターバック、コリン・キャパニック(28)は1日、サン・ディエゴで行われたプレシーズンの試合前の国歌斉唱時に両手を組んでひざまずき、人種差別や警官の暴力行為に対する抗議の意を示した。キャパニック選手は、有色人種を抑圧するような国の国旗に敬意は払えないとして、国歌斉唱時に不起立で抗議を表明すると述べ、賛否両論を招いている。」

9月1日のゲームは、たまたま、「サルート・ミリタリー・ナイト」と重なった。240人の水兵、海兵隊、兵士たちによるアメリカ国旗の進呈、そして退役した米海軍特殊部隊によるプレゲーム・パラシュート・ジャンプなどのイベントが行われた。そのような場での国旗国歌に対する抗議だったのだ。

米国で警官による黒人への武器使用事件が相次ぎ反差別運動が巻きおこっていることは周知のとおり。キャパニックは、これまでも反差別の意味で国歌斉唱に加わっていなかったが、8月26日の試合で広く注目された。9月1日にはチームメイトのエリック・リードも同調し国歌斉唱時にひざまずいた。そしてシーホークスのコーナーバック(CB)ジェレミー・レインも、9月1日に行われた別のナイトゲームで起立を拒否した、と報じられている。

コリン・キャパニックの名は日本人に広く知られていないだろう。2013年にフォーティナイナーズをスーパーボウルに導いたスーパースターだそうだ。そう言われてもよく分からない。年俸が最高クラスの1,900万ドル(約20億円)と聞けば、その格がほぼ想像が付く。

そのキャパニックは、警察の暴力に言及し、「黒人や有色人種への差別がまかり通る国に敬意は払えない」「その国の国旗に対する誇りを示せない」と語っている。
さらに、「同選手は自分の決断が議論を招くことは十分に承知しているとしたうえで、『だれかに分かってもらおうとか、認めてもらおうとかいう意図はない。虐げられている人々のために立ち上がらなければという思いだ』『たとえフットボールを取り上げられても、選手資格を奪われても、正しいことのために立ち上がったと思える』と語った」(CNN日本語版)。

キャパニックの行動が物議を醸し賛否両論があるのは当然として、注目すべきは、けっして彼が孤立していないことだ。

フォーティナイナーズは同選手の決断を尊重するとの声明を発表。「宗教や表現の自由をうたう米国の精神に基づき、個人が国歌演奏に参加するかしないか選択する権利を認める」と表明した。またNFLは声明で、「国歌演奏中に選手たちが起立することを奨励するが強制ではない」と指摘した(CNN)。

誰もが、1968年メキシコ五輪の男子200m走の表彰式で拳を掲げて抗議したトミー・スミス(金メダル)、ジョン・カーロス(銅メダル)を想起する。この二人はアメリカ国内の人種差別に抗議するために、星条旗が掲揚されている間中、ブラックパワー・サリュート(Black Power salute)という拳を高く掲げるポーズで、国旗国歌に抗議したのだ。

国旗国歌は国民を統合する機能をもつシンポルである。多様な国民を国家という組織に組み込む装置のひとつにほかならない。ところが国民を統合した国家が国民の差別をしているとなれば、そんな国家に敬意を払うことはできないと抗議する国民があらわれるのは当然のことだ。差別される少数の側は、国旗国歌を「差別する多数の側のシンボル」ととらえざるを得ない。自分を差別する国家のシンボルに敬意を表することができないとすることを、いったい誰に非難する権利があろうか。

米国では「国旗(The Stars and Stripes)」だけでなく「国歌(The Star-Spangled Banner)」も「星条旗」と訳される。これを「日の丸・君が代」との比較で考えたい。星条旗は英国からの独立闘争のシンボルであり、合衆国憲法の自由の理念のシンボルでもある。一方、「日の丸・君が代」は、野蛮な天皇制の侵略戦争と植民地支配とあまりに深く結びついたシンボルとなってしまった。この忌まわしい記憶は拭いがたい。

「日の丸・君が代」よりは、象徴するする理念においてずっと普遍性の高い「星条旗」も、差別や出兵への抗議で、そっぽを向かれるだけでなく、焼かれたり唾をかけられた受難の歴史を持つ。しかし、米国の司法は、国旗を侮辱する行為をも表現の自由として不可罰としてきた。日本でも、「日の丸・君が代」への敬意表明の強制に抵抗感をもつ多くの人が現実にいる。どこの国であれ、国民が国家をどう評価するかは自由でなくてはならない。国家が、国民に「われを讃える旗と歌」を強制することなどあってはならない。社会が個人に、国旗や国歌への敬意表明を強制してはならない。

「差別がまかりとおる国の国旗に敬意は払えない」という、キャパニックの勇気を讃えたい。同時に、日本の社会も「日の丸君が代」への敬意表明強制に従えないという人を孤立させてはならない。ナショナリズムを超えた思想良心の自由に、寛容な態度を学ばねばならないと思う。
(2016年9月5日)

国家に子の命を奪われ、靖国に子の魂を奪われー「九段の母」の二重の悲劇

8月31日の当ブログで紹介した、2008(平成20)年8月靖國神社社頭掲示の立山英夫「遺書」には後日談がある。

陸軍歩兵見習士官立山英夫は、日中戦争開始直後の1937年8月、初陣での斥候任務の途中で戦死した。その血まみれの軍服のポケットから出てきた母の写真の裏に書き付けられたメモには、天皇陛下も万歳も、「大君の辺にこそ死なめ」もなく、ひたすら「母恋し」の心情に溢れた歌が書き込まれ、そのあとに「お母さん お母さん お母さん…」と24回書き付けてあった。撃たれてから書いたのではなく、書き付けたものをポケットに忍ばせていたのだ。我が子の戦死の報せを聞かされた母の嘆きはいかばかりのものであったろう。

死んだ兵の上官は、大江一二三(後に大佐)。この「遺書」に心を揺さぶられた大江は、立山の葬儀に弔電を送る。この弔電が、「ヤスクニノミヤニミタマハシヅマルモヲリヲリカヘレハハノユメヂニ(靖国の宮にみ霊は鎮まるも をりをりかへれ 母の夢路に)」という歌になっていた。これに、当時の著名作曲家である信時潔が曲をつけて国民歌謡となり、全国で歌われた。

この歌の意味は、当時の国民にはよく分かったのだろうが、今では解説なくしては理解しえない。
野暮は承知で解釈してみれば、
「故人の魂は神となって靖国の宮に鎮座してはいるが、ときどきは恋しい母のもとに帰って、その夢にあらわれたまえ」
というところであろうか。

靖国の祭神となった子の魂は母の許にはない。国家が魂を独占し管理しているのだ、母の夢路に「をりをり帰れ」と言うのが精一杯なのだ。

わたしはこの話を、大江一二三の長男である大江志乃夫さんから聞いた。岩手靖国訴訟で、大江さんに学者証人として盛岡地裁の法廷に立っていただいた1983年夏のこと。このことは、法廷に提出された陳述書をもとに上梓された大江志乃夫『靖国神社』岩波新書(1984年3月)の終章にまとめられている。抜粋して引用しておきたい。

 この歌は、太平洋戦争中の日本放送協会(NHK)国民歌謡のひとつである。国民歌謡は1936(昭和11)年6月から放送がはじめられ、翌年10月からさらに国民唱歌の放送がはじめられた。
 現在でも多くの人に親しまれている島崎藤村の詩「椰子の実」が大中寅二作曲で国民歌謡として電波にのったのは、国民歌謡開始の年のことである。太平洋戦争の記憶とわかちがたく結びついている「海行かば」は、万葉集にある大伴家持の歌に信時潔が作曲したもので、国民唱歌第一号であった。これらのシリーズには、戦時中の作品では、北原白秋の詩に井上武士が作曲した「落葉松」、吉田テフ子作詞・佐々木すぐる作曲「お山の杉の子」、戦後の作品には、土屋花情作詞・八洲秀章作曲「さくら貝の歌」、横井弘作詞・八洲秀章作曲「あざみの歌」などがある。
 「靖国の」は信時潔の作曲である。作詞は大江一二三となっている。大江一二三つまり私の亡父である。私の父は陸軍の職業軍人であった。1937年日中戦争がはじまった当時、九州の第六師団に属しており、戦争が開始された直後の7月27日に動員が下命され、ただちに出動した。おなじ部隊に若い見習士官立山英夫がいた。出征わずか三週間後の8月20日、将校斥候として偵察に出た初陣で戦死した。母親思いの立山の血まみれの軍服のポケットには彼の母親の写真があり、裏に「お母さんお母さんお母さん……」と二四回もくりかえし書かれていた。
 立山の遺骨が郷里に帰り、葬儀がおこなわれたとき、私の父は転勤して宮崎県の都城市にいた。父の打った弔電の文面が冒頭に紹介した短歌である。電報の配達局の消印は「12・11・17」の日付となっている。…
 作曲家の信時潔は1963年11月に文化功労者となった。そのときのNHK「朝の訪問」の番組で「今まででいちばん印象に残る作曲は?」と質問したインタビューアーにたいして?彼は当然「海行かば」という答を予期していたようであるが、?信時は「大江さんという軍人さんの歌ですが」と言い、自分でピアノに向かって「靖国の」を歌ったという。

 父が歌にこめた思いもおなじであろうが、私がいだいた素朴な疑問は、一身を天皇に捧げた戦死者の魂だけでもなぜ遺族のもとにかえしてやれないものか、なぜ死者の魂までも天皇の国家が独占しなければならないのか、ということであった。
 あれほど母親思いの青年の魂だけでも「をりをり」ではなく、永遠に母親の許に帰ることをなぜ国家は認めようとしないのであろうか。父の友人でもあったある歌人はこの歌を「全国民の唱和に供した悲歌」と評したが、そのとおりであると思う。父のこの歌の存在が私に靖国神社への関心を呼び起こした。

「をりをりかへれ」としか言わせない靖国神社の存在とはいったい何なのか、国家は戦死者の魂を靖国神社の「神」として独占することによって、その「神」たちへの信仰をつうじて何を実現してきたのか、あるいは実現することを期待したのか。

「戦死者の魂を国家が独占する」ことについては、敗戦まで靖国神社の宮司であった鈴木孝雄(陸軍大将)がこう言っている。(「偕行社記事 特別号」)

「人霊をそこへお招きする。此の時は人の霊であります。いったんそこで合祀の奉告祭を行います。そうして正殿にお祀りになると、そこで始めて神霊になるのであります。…遺族の方は、其のことを考えませんと何時までも自分の息子という考えがあっては不可ない。自分の息子じゃない、神様だというような考えをもって戴かなければならぬのです」「遺族の心理状態を考えますというと、どうも自分の一族が神になっている。…一方に親しみという方の点が加わるものですから、なんとなく神様の前の拝礼あたりも敬神というような点に欠けていることがまま見られるのであります。…それは確かに、自分の一族の方が神になっておられるんだという頭があるからだと思います。そうではなく、一旦此処に祀られた以上は、これは国の神様であるという点に、もう一層の気をつけて貰ったらいいんじゃないかと思います。」

これが靖国を通じて、国家が戦死者の魂を独占し管理するということなのだ。大江一二三は「せめて、をりをりは母の許に」と言ったが、靖国の宮司はこれをも、「何時までも自分の息子という考えがあっては不可ない。自分の息子じゃない、神様だというような考えをもって戴かなければならぬのです」「一旦此処に祀られた以上は、これは国の神様であるという点に、もう一層の気をつけて貰ったらいいんじゃないか」と叱責の対象にしかねない。

 「九段の母」とは、子の命を国家に取られ、さらにはその魂までも国家に取られた「二重の悲劇」の母なのだ。
(2016年9月4日)

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