昨年の2月11日、当ブログは「去年までとは違う『建国記念の日』」と題して、歴代首相として初めて、安倍晋三がこの日にちなんだメッセージを発表したことを取り上げた。是非ご一読いただきたい。
https://article9.jp/wordpress/?p=2086
今年は、右翼メディアの代表格としての産経の本日付社説を解説してみたい。「建国記念の日 『よりよき国に』の覚悟を」と標題するもの。もちろん、産経のいう「よりよき国」には独特な意味合いが込められている。安倍政権が曖昧にしか言えないことをズバリと言っている点において、産経とは貴重な存在なのだ。
「わが子の誕生を喜ばない親はまず、いまい。その後の子供の成長を願わない親もいないはずで、「這えば立て、立てば歩めの親心」とはまことにもって至言である。国家についてもまったく同じことが言えるのではなかろうか。」
冒頭の一節。こういう比喩の使い方が、騙しのテクニックの基本であり典型でもある。まったく異質の「わが子」と「国家」を、等質のものと思わせようという魂胆。うっかり、この手の論法に乗せられると、国家の誕生を祝わない国民は、子を虐待する非道の親のごとくに貶められてしまう。「非国民」概念をつくり出そうという発想なのだ。
「日本書紀によれば日本国の誕生(建国)は紀元前660年で、その年、初代神武天皇が橿原の地(奈良県)で即位した。明治6年、政府はその日を現行暦にあてはめた「2月11日」を紀元節と定め、日本建国の日として祝うことにしたのである。」
騙しのテクニックはさらに続く。日本書紀に書かれている紀元前660年に誕生した日本国と明治政府と日本国憲法下の日本国とを、何の論証もなく「連綿と同一性を保った国家」と言いたいのだ。ことさらに2月11日を選んで祝おうという狙いは、「連綿と続いた国家」を強調することにある。
当然のことながら紀元前660年の頃の日本は縄文晩期と弥生とが重なる時代、いまだ統一国家の萌芽もない。8世紀に編まれた日本書紀に、1400年も前の神武即位の年月日が特定されているわけでもない。どこの国ももっている建国神話を日本書紀が書き留め、明治政府が荒唐無稽な解釈によって、紀元前660年2月11日と擬制しただけの話。元祖歴史修正主義の所業というべきであろう。わが子の誕生日ははっきりしているが、日本国の誕生日など、歴史の見方次第でどうにでもなること。どうにでもなることだが、紀元前660年ではあり得ない。
「西欧列強による植民地化の脅威が迫るなか、わが国は近代国家の建設に乗り出したばかりで、紀元節の制定は、建国の歴史を今一度学ぶことで国民に一致団結を呼びかける意義があった。」
「意義があった」は偏頗なイデオロギーによる決め付け。冷静には、「紀元節の制定こそは、嘘で塗りかためた建国神話を徹底利用して、薩長閥が作り上げた政権の神聖性を臣民に刷り込むための小道具」「天皇制の始まりとされる日を拵え、その日の祝意を強制することによって国民に国家との一体感をつくり出すための演出」というべきなのだ。
「先の敗戦で紀元節は廃止されたものの昭和41年、2月11日は「建国記念の日」に制定され、祝日として復活した。「建国をしのび、国を愛する心を養う」と趣旨にうたわれているように、国家誕生の歴史に思いをはせる大切さは、今ももちろん変わっていない。」
「祝日としての復活」は、国民を二分するイデオロギー対立の暫定決着としてのことである。明治百年論争、元号法制化、国旗国歌法制定そして憲法改正論議なども同じ問題。一方に復古主義的な、「天皇中心の国体護持論+国家主義+軍国主義+歴史美化派」のイデオロギー陣営があり、他方に「国民主権論+個人の人権尊重+平和主義+歴史修正反対派」の陣営がある。両陣営の長いせめぎ合いの末に、両陣営とも不満足ながらの「名前を変えた祝日としての復活」に至った。そして、このせめぎ合いは今も続いている。国家主義への警戒の大切さは、今ももちろん変わっていない。
「ただ忘れてはならないのは、親心と同様に、誕生以後の日本を少しでもよい国にしようと、先人らが血のにじむ努力を重ねてきたことである。現在を生きる国民もまた、さらによい国にして次の世代に引き継がねばならない。」
これも、欺瞞のテクニック。「誕生以後の日本を少しでもよい国にしようと、先人らが血のにじむ努力を重ねてきたこと」などという抽象的な文章は、情に訴えようとするだけで実は何も語っていない。次に控えている危険な毒物を飲み込みやすいようにする準備の一文なのだ。
「日本を少しでもよい国にしようと、血のにじむ努力を重ねてきた先人」とは、何を指しているのだろうか。悲惨な戦争を画策し指導したA級戦犯たちを含んでいるのだろうか。政・商結託して大儲けをした明治の元勲たちはどうだろう。あるいは天皇制の野蛮な弾圧を担った特高警察や憲兵や思想検事たちも「少しでもよい国にしようと努力を重ねた先人」なのだろうか。一方、野蛮な天皇制の暴力に抗して平和や民主主義を目指した不屈の闘いを試みた人々はどうなのだろうか。
「現在を生きる国民もまた、さらによい国にして次の世代に引き継がねばならない」は、空疎空論の見本である。めざすべき「さらによい国」とは、声高に「国」の存在や権威を振りかざす者のいない国ではないか。
「慶応義塾の塾長を務めた小泉信三は昭和33年、防衛大学校の卒業式で祝辞を述べた。その中で小泉は、先人の残したものをよりよきものとして子孫に伝える義務を説いたうえで、こう続けた。「子孫にのこすといっても、日本の独立そのものが安全でなければ、他のすべては空しきものとなる。然らば、その独立を衛るものは誰れか。日本人自身がこれを衛らないで誰れが衛ることが出来よう」(小泉信三全集から)
ようやくここで本音が出て来る。「先人らの血のにじむ努力」とは国防の努力、「さらによい国」とはさらに軍備を増強した国のことなのだ。要するに、防衛力を増強したいのだ。もう一度富国強兵を国家的スローガンに掲げたいということなのだ。そのために「国の誕生」から説き起こし、「国の誕生日への祝意」を大切なものとし、「先人の努力」と「国をよくする」とまで論理をもってきたのだ。
「57年前の言葉がそのまま、目下の国防への警鐘となっていることに驚かされる。中国の領海侵入などで日本の主権が脅かされているばかりか、国際的なテロ組織によって国民の命が危険にさらされてもいる。だが、わが国の現状は、自らの国防力を高めるための法整備も十分ではなく、その隙をつかれて攻撃される恐れもある。」
まったくの驚きだ。57年前も今日と同じ言葉で国防への警鐘がなされていたのだ。いつの時代にも同じ言葉が繰りかえし語られるということなのだ。いつもいつも、仮想敵と敵による危機が叫ばれてきた。ソ連の脅威であり、李承晩の脅威であり、赤い中国の脅威であり、北朝鮮の脅威であり、今またイスラムの脅威であり、テロの脅威である。日本を取り巻く国際環境の厳しさは、際限なく無限に進行しているのだ。
「紀元節制定時に倣って今こそ、国を挙げ「日本人自身が日本を衛る」覚悟を決めなければならない。」
これが産経社説の締めくくり。社説子の頭の中は、今日は「建国記念の日」ではなく、完全に「紀元節」である。そして、かつての紀元節が、天皇中心の国家主義的イデオロギー鼓吹の小道具であったように、「建国記念の日」を国家主義、軍国主義思想浸透のきっかけにしようというのだ。「2月11日は富国強兵思想の記念日」というわけだ。
本日の産経社説。何のことはない。「わが子はかわいい」「かわいいわが子の誕生日を祝おう」「同様にかわいい国の誕生日も祝おう」「かわいい国には武装をさせて守ろうではないか」。だから「国民よ、国防国家となるべく覚悟を決めよ」と言っているだけのこと。
個人よりも国家が大切で、国防が何よりも重要で、歴史の真実よりは国家への誇りが大切だとするイデオロギーが、メディアの一角でこうまで露骨に語られる時代を恐ろしいと思う。しかし、萎縮してはおられない。憲法や人権・平和の理念を護る覚悟が要求されているのだ。
昨年のブログの最終節はこうだった。
「建国記念の日」とは、国家主義との対峙に決意を新たにすべき日。そうしなければならないと思う。
ほとんど同じだが、産経社説の標題に倣って、今年は次のように締めておこう。
「建国記念の日 『国家主義との対決』の覚悟を」
(2015年2月11日)
毎日新聞の「仲畑流万能川柳」(略称「万柳」)欄、本日(2月10日)掲載の末尾18句目に
民意なら万柳(ここ)の投句でよくわかる(大阪 ださい治)
とある。まったくそのとおりだ。
その民意反映句として、第4句に目が留まった。
出すほうは賄賂のつもりだよ献金(富里 石橋勤)
思わず膝を打つ。まったくそのとおり。
過去の句を少し調べてみたら、次のようなものが見つかった。
献金も 平たく言えば 賄賂なり(日立 峰松清高)
献金が無償の愛のはずがない(久喜 宮本佳則)
超ケチな社長が献金する理由(白石 よねづ徹夜)
選に洩れた「没句供養」欄の
献金と賄賂の違い霧と靄(別府 吉四六)
という秀句も面白い。庶民感覚からは、疑いもなく「献金=賄賂」である。譲歩しても「献金≒賄賂」。
国語としての賄賂の語釈に優れたものが見あたらない。とりあえずは、面白くもおかしくもない広辞苑から、「不正な目的で贈る金品」としておこう。「アンダーテーブル」、「袖の下」、「にぎにぎ」という裏に隠れた語感が出ていないのが不満だが。
刑法の賄賂罪における「賄賂」とは、金品に限らない。「有形無形を問わず、いやしくも人の需要または欲望を満たすに足る一切の利益を包含する」という定義が大審院以来の定着した判例である。もちろん、「融資」や「貸付」も、「人の需要を満たすに足りる利益」として当然に賄賂たりうる。巨額、無担保、低利であればなおさらのことである。
DHCの吉田嘉明から、「みんなの党」の党首・渡辺喜美(当時)に渡ったカネは、吉田自身が手記に公表した限りで合計8億円。本当に貸したカネなのか呉れてやったカネではないのかはさて措くとしても、これが健全な庶民感覚に照らして「不正な目的で贈る金品」に当たること、「いやしくも人の需要または欲望を満たすに足る一切の利益」の範疇に含まれることは理の当然というべきだろう。
前述の各川柳子の言い回しを借りれば、この8億円は「出すほうは賄賂のつもりだよ」であり、「平たく言えば 賄賂なり」である。なぜならば、「出すカネが無償の愛のはずがない」のであって、「超ケチな社長が金を出す理由」は別のところにちゃんとある。結局は、「堂々と公表される無償の政治献金」と、「私益を求めてこっそり裏で授受される汚い賄賂」の違いは、その実態や当事者間の思惑において「霧と靄」の程度の差のものでしかない。これが社会の常識なのだ。
原告DHC側の完敗となった1月15日言い渡しの「DHC対折本弁護士」事件判決でも、このことが論じられている。少し詳しく書いておきたい。
原告は折本ブログの次の5個所を名誉毀損の記述と特定した。
?「報道によると,徳洲会の場合,東電病院に絡んだ話なんかもあったし,DHCについても,薬事法の規制に不満を待っていたという話もあるようだが,やはり,何らかの見返りを期待,いやいや,期待どころか,約束していたのではないかと疑いたくなるところだ。」(献金が無償の愛のはずがない)
?「常識的にみて,生き馬の目を抜くようなビジネスの世界でのし上がって来た叩き上げの商売人が,ただ単に政治家個人を応援する目的で多額の金を渡すということは考えにくいからなおさらだ。」(超ケチな社長が献金する理由)
?「おそらく,現実には,金をもらった時点でただの野党の党首にすぎない渡辺喜美については,職務権限という収賄罪の構成要件がクリアされないだろうから,この事件が贈収賄に発展する可能性は低いと思うが,それはそもそも,日本の贈賄罪,収賄罪の網掛けが不十分であり,また,構成要件が厳しすぎるからなのだ。」(献金も 平たく言えば 賄賂なり)
?「だが,ちょっとうがった見方をすれば,当時党勢が上げ潮だったみんなの党が選挙で躍進してキャスティングボードを握れば,政権与党と連立し,厚生労働省関係のポストを射止めて,薬事法関係の規制緩和をしてもらう,とまあ,その辺りを期待しての献金だった可能性だってないとはいえないだろう。」(出すほうは賄賂のつもりだよ献金)
?「まあ,本件については,まだまだわからない点もあるから,断定的なことはいえないが,実際,大企業の企業献金も含めて,かなりのものが何らかの見返りを求めてのものであり,そういった見返りを求めての献金は,実質的には『賄賂』だと思うのだ。」(献金と賄賂の違い霧と靄)
以上の折本ブログの記事について、原告DHC側は、次のとおりに主張した。
「原告吉田が,薬事法関係の規制緩和をしてもらうとの約束の下,渡辺に対して8億円を貸し付けたとの事実を摘示しており,この貸付けが何らかの見返りを求めてのものであって贈収賄の可能性があり,実質的には賄賂である旨の法律専門家である弁護士としての法的見解を表明するものであって,原告吉田の社会的評価を低下させている。」
判決は、この原告主張を一蹴して、次のように判示した。
「まず,本件記述?,?及び?は,本件金銭の交付の事実を前提として,薬事法関係の規制緩和をしてもらうとの約束の下で,又は見返りを期待して,本件金銭の交付がされたとの疑いを指摘するものであり,上記約束や見返りの存在を明示的に摘示するものでない。しかも,その記述の仕方や表現方法をみても,そのような疑いが,原告会社が薬事法の規制に不満があることや単に政治家個人を応援するという目的だけで多額の献金をすることは考え難いこと等の外形的な事情による被告の推測に基づくものであると読み取ることができ,また,本件各記述においては,『疑いたくなるところだ』,『可能性だってないとはいえないだろう』,『本件については,まだまだわからない点もあるから,断定的なことはいえないが』等の断定を避ける表現が繰り返し使用され,本件記述?と?の間には,政治思想を同じくする渡辺に協力する目的で原告吉田が献金した可能性にも言及されるなど原告吉田の主張に沿う見方も指摘されていること(甲2)からすれば,本件記述??及び?が,上記約束や見返りの存在について暗示的にも断定的に主張するものと認めることはできない。
「そうすると,被告は,弁護士ではあるものの,一私人にすぎず,本件金銭の交付に関して当時既に公表されていた情報以上を知る立場にないことも併せて考慮すれば,一般読者において,本件記述?,?及び?に記述された疑いは,推測に基づく,本件金銭の交付に対する被告による一つの見方が提示されたものとして読み取られるというべきであり,それを超えて上記約束や見返りの存在を断定的に主張するものとして読み取られるとは認められないのであるから,それによって,原告らの社会的評価が低下したと認めることはできない。」
「本件記述?は,上記約束や見返りの存否とは異なる職務権限の要件を理由にして,本件金銭の交付が贈収賄となる可能性が低いこと等を指摘するものであり,また,本件記述?は,見返りを求めてされる政治献金一般に対する被告の論評ないし意見を表明しているにすぎないところ,前記判示のとおり,本件記述?,?,?及び?が,原告ら主張に係る事実を摘示するものでないなどの前後の文脈も併せて考慮すれば,一般読者において,本件記述?及び?が,上記約束や見返りの存在を前提としているものとして読み取られると認めることはできない。」
「また,本件記述?及び?は,本件金銭の交付が贈収賄となる可能性を何ら指摘するものではないし,本件記述?での実質的に賄賂であるとの意見についても,飽くまで何らかの見返りを求めてされる政治献金一般に対して述べられたものであり,本件金銭の交付については,前記のとおり,規制緩和の約束や見返りという事実の存在を前提としていないのであるから,本件金銭の交付が実質的に賄賂であるとの意見が表明されているものとして読み取られると認めることもできない。」
「以上によれば,原告らの上記の主張は採用できない。」
判決は、当該言論の「公共性」「公益性」「真実(相当)性」など違法性阻却事由有無の議論に踏み込むことなく、「そもそも名誉毀損言論ではない」と切って捨てたのだ。これは言い渡し裁判所の見識というべきであろう。
判示の中で、最も重要で普遍性のある判断は、「被告(折本弁護士)が,本件金銭の交付に関して当時既に公表されていた情報以上を知る立場にないことも併せて考慮すれば,一般読者において,本件記述の『疑い』は,推測に基づく,本件金銭の交付に対する被告による一つの見方が提示されたものとして読み取られるというべきであり,それを超えて上記約束や見返りの存在を断定的に主張するものとして読み取られるとは認められない」「だから,原告らの社会的評価が低下したと認めることはできない」という説示部分である。
もちろん、「社会的評価が低下したと認めることはできない」とは、明示されてはいないものの「法的な救済を必要とするほどの」という限定が付されている。厳密な意味で、「折本ブログが何の社会的影響も与えるものではなかった」「原告にとって痛くも痒くもない」と言っているわけではない。
語尾を疑問形にしようと断定調にしようとも、論評は論評であり、「疑い」は一つの見方の提示以上のなにものでもない。それを法的に「社会的評価が低下した」とは言わないのだ。
だから、遠慮なく民意は語られてよいのだ。「出すほうは賄賂のつもりだよ献金」「献金も 平たく言えば 賄賂なり」と言って誰にも文句を言われる筋合いはない。なんと言っても、「献金が無償の愛のはずがない」のであり、「超ケチな社長が献金する理由」は見え見えで、「献金と賄賂の違い霧と靄」なのだから。
これを、目くじら立てて咎め立てするのは、やましいところあって、自分のことを貶められたかと心穏やかではいられないからなのではないか。不粋という以外に形容する言葉が見つからない。ましてや、スラップとして高額損害賠償の提起においてをやである。
なお、DHCと吉田は対折本弁護士事件判決を不服として控訴したとのこと。恥の上塗りを避けて控訴を断念し潔く負けを認めて謝罪することこそが、傷を浅く済ませる賢明な策だと思うのだが。
(2015年2月10日)
朝鮮日報、中央日報、東亜日報、聯合ニュースなどの韓国メディアが、インターネット日本語版で発信している。まことに貴重な情報源である。
例えば、2月6日の朝鮮日報ネット日本語版に朴正薫(パク・チョンフン)という幹部記者の次のようなコラムが掲載されている。
標題が、「悲劇に冷静な日本、ぞっとするほど恐ろしい」というもの。同記者は20年前の阪神淡路大震災の現場取材を行って、「頭を殴られたような衝撃を感じる出来事」に遭遇したという。70代とみられる高齢者夫婦の自宅が崩壊し、妻ががれきの下に埋まった。夫が見守る中、救助作業が行われたが、妻は遺体となって発見された。
「記者が本当にぞっとしたのは次の瞬間だった。救助作業中、ずっとその場に立ちすくんでいた白髪の夫は妻の死を確認すると、救助隊員らに深々と頭を下げ、何度も『ありがとうございます。お疲れさまでした』と大声で叫んでいるようだった。夫は一滴も涙を流さず、自らの感情を完璧にコントロールしていた。ロボットのようなその様子を見ると、記者は『これが日本人だ』と感じた。…被災地のどこにも泣き叫ぶ声は聞こえなかった。『静けさゆえに恐ろしい』という感覚。これこそ記者が日本の素顔を目の当たりにしたと感じた体験だった」
続いて、記者はこう続ける。
「過激派組織『イスラム国』により2人の日本人が殺害され、日本国民の間に衝撃が走った。しかし、日本社会の反応は20年前の阪神淡路大震災当時とほとんど変わらなかった。最初の犠牲者となった湯川遥菜さんの父は、息子が斬首され殺害されたとのニュースを聞くと『ご迷惑を掛けて申し訳ない』と述べた。また2人目の被害者となった後藤健二さんの母もカメラの前で『すみませんでした』と語った。何が申し訳なくて、何が迷惑だったのだろうか。」
記者は、これを「迷惑コンプレックス」と紹介している。「日本人の潜在意識には『他人に迷惑を掛ける行為は恥』と考える遺伝子が受け継がれている。『侍の刀による脅し』が日本人をそのようにしたという見方もあれば、教育の効果という見方もある。いずれにしても理由は関係ない。重要なことはたとえ悲惨な状況の中でも、彼らは常に忍耐を発揮するということだ」という。
記者が言いたいことは次のようなことのようだ。
「イスラム国に家族を殺害された遺族らは、日本政府に対して恨み言の一つでも言いたいはずだ。2人の人質が殺害されるという最悪の結果を招いたことについては、安倍政権の失政が大きいからだ。2人が人質となったのは昨年10月ごろで、イスラム国との交渉も水面下で行われていたという。ところが安倍首相は致命的なミスを犯した。中東を歴訪した際、現地で『イスラム国との戦争に2億ドル(約240億円)を拠出する」(原文のママ)と表明し、まさに彼らの面前で挑発したのだ。安倍首相の発言が報じられた直後、イスラム国は2人の人質を殺害すると突然表明した。無用にイスラム国を刺激する結果を招いた戦術的なミスだった。」
「他人に迷惑を掛ける行為は恥」と考える遺伝子を受け継いでいる日本人は、安倍首相のミスで家族を失っても、政権を批判しないどころか、「ご迷惑を掛けて申し訳ない」「すみませんでした」と謝るばかり。記者は、そのように日本人に対する苛立ちを隠さない。日本通と思われる韓国人から、われわれはこう見られている。思いがけないというべきか、思い当たるというべきだろうか。
韓国メディアは、権力批判に遠慮がない。日本の政権にも手厳しい。安倍政権の従軍慰安婦否定発言問題ではことさらである。
安倍首相が今月初めの国会審議において、「アメリカの教科書が従軍慰安婦問題をどのように記述しているかを知って驚愕した」「政府として教科書の記述の変更を求める」と、答弁したことへの反応は敏感である。昨日(2月8日)の朝鮮日報(ネット日本語版)は、アメリカ歴史学界の動向をインタビュー取材して次のように報道している。
「安倍首相は学問の自由を脅かしている」というもの。
今年の1月2日に、アメリカ歴史学会(AHA)が昨年11月の安倍首相による歴史修正主義的発言を批判する全会一致の声明を出した。また、今月5日には、安倍首相の教科書非難発言について、専門家19学者連名の声明が出ている。その中心となった歴史学者のインタビュー記事である。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150207-00000800-chosun-kr
米国コネチカット大学のアレクシス・ダデン教授は「日本政府の教科書修正要求は学問の自由に対する直接的な脅威であり、教科書を執筆したハワイ大学ハーバート・ジーグラー教授を、私たち歴史学者が支持しなければならないということにすぐ同意した」と語った。安倍首相は先日、米国の教科書に日本軍慰安婦問題が間違って記述されていると語り、その前にも日本の外務省は教科書を発行したマグロウヒル社に慰安婦に関する部分を削除するよう要求していた。
同教授は「日本の間違った行動に対し警告すべきだという共感と連帯感が強かった。歴史は自分の都合のいいように選び、必要なものだけを記憶するものではない」と述べた。以下は一問一答。
?声明に賛同したのはどんな学者たち?
「さまざまな地域を研究する、さまざまな地位の学者たちが集まった。アジアを専攻する学者だけでなく、ロシア、欧州、ラテンアメリカなど世界各地の専門家だと考えればよい」
?日本政府の教科書修正要求を歴史学者たちはどのように受け止めているのか。
「学問の自由に対する直接的な脅威だと深刻に受け止めている。日本政府が独特なのは、従軍慰安婦問題は論争の種ではなく、すでに全世界が認めている『事実』なのにもかかわらず、しきりに政治的な目的をもってこれを変更、あるいは歴史の中から削除しようとしている点だ。マグロウヒル社は非常に評判が高い出版社で、見当違いもいいところだ」
?なぜ安倍政権はしきりに歴史問題を取り上げると思う?
「日本政府の不名誉を覆い隠そうという意図ではないかと思う。しかし、河野談話を通じて多くの人々が慰安婦に関する真実を知り、これを認めている。日本の人々も同様だ。特に慰安婦に関する真実のほとんどは、日本人学者の吉見義明・中央大学教授の努力により証明されている。さらに過去数十年間、日本の小中高校に関連の記述があったが、安倍政権になって急に、安倍氏とその支持者たちが真実を変えようとしている。自分たちに有利な記憶だけ大事にしようとしているが、これは問題だ」
?日本はなぜ、第二次世界大戦中のナチスの過ちを謝罪し続けるドイツのように行動できないのか。
「日本人の多くはドイツと自国を比較することを好まない。終戦70周年を迎えたのにもかかわらず、安倍政権は不幸にも日本の過去の責任を認めた村山談話にも挑もうとしている。地域内の平和を20年以上守ってきた歴史問題やそれに関連する大きな枠組みを個人的な政治ゲームのため不必要に崩そうとするのは問題だ。だが、安倍首相がドイツのように過去の過ちを謝罪し、未来に向かって進めない理由はない。世界が直面している危機に共に対処しても不十分なのに、安倍政権は全てを後退させる傾向がある。北東アジア地域や世界にとって良くないことだ」
韓国メディアは米国歴史学者の安倍批判発言を大きく取り上げている。日本と韓国、足を踏んだ側と、踏まれた側の違いではないだろうか。私たちは、韓国国民の発信に耳を傾け、その感情の動きにもっと敏感でなくてはならない。
(2015年2月9日)
昨日(2月7日)の毎日・「経済観測」という小さな連載コラムに、宮本太郎中央大教授が「『ピケティ・ブーム』に求められる視点」と題して寄稿している。
「最後のカリスマ」宮本顕治の息子は政治学者だが、さすがに経済学にも詳しい。短い文章だが、教えられるし考えさせられる。
「各国の格差拡大を歴史的かつ理論的に論じたピケティ・パリ経済学校教授の『21世紀の資本』が世界的ベストセラーとなり、先ごろ来日した教授は、あちこちでひっぱりだこだったようである。輸出企業などの高収益が、格差や貧困の是正につながらない日本の現実が背景にある。」というのが前置きでもあり、現状認識と現状批判でもある。
続けて、ピケティの提言がこう簡潔にまとめられている。
「資本課税を含めた累進的税制による再分配強化、これがピケティ教授の処方箋である。」
ここからが本論で、ピケティとは別の角度からのものの見方と、格差是正の対応策に言及している。
「ただし忘れてはならないのは、日本がこれまで格差を相対的に抑えてきた仕組みは、再分配による福祉給付ではなかった、ということである。終身雇用や公共事業、業界保護などで、皆が仕事に就いて一定の所得を得ることができたことが、この国の安定を支えてきた。だがこうした仕組みは、成長を阻害する既得権益として、否定的に評価され解体されてきた。」
宮本の指摘は、かつて日本が「格差を相対的に抑えてきた仕組み」は、資産や所得の再分配ではなく、再分配以前の所得獲得における相対的平等性だったという。この平等性確保の中核にあった雇用創出と雇用安定の仕組みが、新自由主義的潮流の席巻とともに「否定的に評価され解体されてきた」のは周知のとおり。
ここで指摘されていることは、格差や貧困を抑える仕組みは2種類あるということ。資産や所得の事後的再分配による格差是正だけでなく、その前段の不平等の源泉である所得格差そのものの是正への留意が語られている。前者は、政治あるいは行政のレベルでおこなわれるが、後者は企業の労働現場が舞台となる。
宮本は、次のように紹介している。
「米エール大のハッカー教授は、こうした仕組みを『当初分配』(プレ・ディストリビューション)と呼び、格差の拡大を防ぐ上では、むしろ再分配より重要と主張する。皆が働ける条件が確保されず、社会が二極分解しているなら、再分配への合意も生まれないと言う。」
私は、ハッカー教授をまったく知らない。「当初分配」(プレ・ディストリビューション)という用語も初めて教えられた。だが、取り立てて目新しい考え方ではあるまい。むしろ、「社会をさまざまに解釈するだけなく、大切なのは社会を変革すること」という立場に魅力を感じてマルクス経済学を(表面なりとも)学んだ立場からは、資本と労働との「当初分配」の現場こそが格差や貧困を生み出す根源である。ここで格差が是正できるなら、それこそが本筋。
「当初分配」における不平等こそが格差や貧困の根源である。ここで、労働者の所得を増やし、しかも労働者全体の雇用創出を目指すことは、むしろ古典的な課題で、当初配分を所与のものとして、所得や資産の「再分配」という事後的弥縫策の方が、「目新しい」施策ということではないか。
宮本は日本の「当初分配」のあり方として、以下のように言う。
「もちろん、日本の旧来の仕組みでよいということではない。これからの当初分配は、男性稼ぎ主だけではなく老若男女が対象でなければならない。政治家による保護ではなく、地域で真に必要な公共事業や介護・医療での雇用などが確保される必要がある。こうした雇用機会を広げることを一定のコストがかかる『分配』ととらえるところが、当初分配論の特徴だ。地方創生とも直接に関わる提起である。」
ここらあたりは宮顕の息子の言ではない。経済合理性では生まれない雇用を政策的にコストをかけても創出することが「当初分配」のごとくである。「当初」といいつつも、実はそのコストは、事後の「再分配」としてのものなのだ。
宮本の結論はこうだ。
「ピケティ教授とハッカー教授の主張は対立するものではなく、日本に再分配の拡充は必要だ。けれども、まず当初分配をという提起は傾聴に値する。」
「まず当初分配における格差是正と公平を」という主張に異論のあろうはずはない。この点の強調のないピケティ批判には賛成だ。
だが、「当初分配」の概念を「政策的な雇用創出や安定」に閉じ込めてはならない。何よりも、労働者自身の闘いによる労働所得の増額が必要である。労働組合運動の昂揚による賃金の増額が何よりも重要であり、これを支える諸制度の充実や運用の適正も必要だ。
整備されるべきは、まともな最低賃金制度の創設であり、不当労働行為制度の厳格な活用であり、労働基本行政の厳格な実践であり、行政だけでなくマスメディアや教育機関も連携したブラック企業の追放であり、労働基本権についての実践的教育の徹底であり、フェアトレード運動の実践等々である。
そのような「初期分配」の不公正是正の実践の上に、ピケティのいう所得や資産の再分配が実施されるべきだろう。いずれにせよ、このような格差や貧困是正の論議を巻き起こしたことにおいて、ピケティの業績は極めて大きいと思う。
(2015年2月8日)
NHKの籾井勝人会長がまたまた話題を提供している。この人に抜きがたく刻印されたイメージどおりの、「期待を裏切らない」発言によってである。余りに露骨で拙劣な政権ベッタリの籾井発言に接して、安倍首相のメディア対策人事が成功しているとは到底思えない。これは政権側から見ても大失敗の人事ではないか。
言うまでもなく、真実を伝えてこそのメディアでありジャーナリズムである。真実を不都合として妨害する力を持つ者は、第1に政治権力、第2に経済的富力、そして第3に多数派の社会的圧力である。
これらの諸力から毅然と独立し対峙する存在であってはじめて、メディアとしての存在価値がある。何よりも、報道の自由とは権力から憎まれ、経済的富者から疎まれ、社会の多数派から歓迎されない、そのような事実や見解を報道する自由なのだ。
権力にへつらい、シッポを振って恥じないこのような人物。ジャーナリストとしての矜持を持たないこんな男を、よくぞ見つけてきてNHKのトップに据えたものだ。救いは、ジャーナリストらしい格好すらできないことだが…。
一昨日(2月5日)の籾井発言の内容は、昨日の朝日に詳しく、本日(2月7日)朝日だけが「NHK会長 向き合う先は視聴者だ」と題して社説に取り上げている。朝日のその姿勢に拍手を送りたい。
ああ朝日よ、君に告ぐ。君、萎縮したまふことなかれ。籾井が何を言おうとも、他紙の攻撃激しくも、君の誇りは傷つかじ。この世ひとりの君ならで、ああまた誰をたのむべき。君、萎縮したまふことなかれ。
本日の朝日社説の冒頭を引用したい。さすがに、読みやすい良く練られた達意の文章となっている。
「NHKの籾井勝人会長が、おとといの記者会見で、公共放送のトップとして、また見過ごすことのできない発言をした。
戦後70年で『従軍慰安婦問題』を取り上げる可能性を問われ、こう答えたのだ。
『正式に政府のスタンスというのがよくまだ見えない。そういう意味において、いま取り上げて我々が放送するのが妥当かどうか、慎重に考えなければいけない。夏にかけてどういう政府のきちっとした方針が分かるのか、このへんがポイントだろう』
まるで、NHKの番組の内容や、放送に関する判断を『政府の方針』が左右するかのような言い方だ。
就任会見で『政府が右と言うことを左と言うわけにはいかない』と発言し、批判を招いて1年余。籾井会長は相変わらず、NHKとはどういうものか理解していないように見える。
当たり前のことだが、NHKは政府の広報機関ではない。視聴者の受信料で運営する公共放送だ。公共放送は、政府と一定の距離を置いているからこそ、権力をチェックする報道機関としての役割を果たすことができる。番組に多様な考え方を反映させて、より良い社会を作ることに貢献できる。そして、政府見解の代弁者でないからこそ、放送局として国内外で信頼を得ることができるのだ。
政府の立場がどうであれ、社会には多様な考え方がある。公共放送は、そうした広がりのある、大きな社会のためにある。だからみんなで受信料を負担し、支えているのだ。公共放送が顔を向けるべきは政府ではない。視聴者だ。」
昨日の「会見詳報」には、次のような発言も収録されている。
問 去年、朝日新聞の誤報問題で従軍慰安婦が脚光を浴びたが、従軍慰安婦問題を戦後70年の節目で取り上げる可能性は
籾井 なかなか難しい質問ですが、やはり従軍慰安婦の問題というのは正式に政府のスタンスというのがよくまだ見えませんよね。そういう意味において、やはり今これを取り上げてですね、我々が放送するということが本当に妥当かどうかということは本当に慎重に考えなければいけないと思っております。そういう意味で本当に夏にかけてどういう政府のきちっとした方針が分かるのか、この辺がポイントだろうと思います。
問 先ほどの従軍慰安婦問題で、正式に政府のスタンスがよく見えないとおっしゃった。現時点では河野談話があり、現政府も踏襲すると言っている。それでも政府のスタンスがよく見えないというのは、河野談話について変わるべきだとか変わりうるとか言うことでおっしゃってるんでしょうか
籾井 その手の質問にはお答えを控えさせていただきます。
問 「よく見えない」という認識は……
籾井 あの、どんな質問もお答えできかねます。
問 それはどうしてですか
籾井 しゃべったら、書いて大騒動になるじゃないですか。
問 大騒動になるようなお考えをお持ちなのですか
籾井 ありません。そんな挑発的な質問はやめてくださいよ。
この人の頭の中では、NHKとは「政府のスタンス」に従う伝声管でしかないのだ。そのような戦前のあり方を反省しての放送法であり、あらたな公共放送機関としての新生NHKであったはずではないか。
いま、先日亡くなられた奥平康弘氏の、表現の自由に関する論文を読み返している。そのなかに、戦前の放送規制のあり方に関して次のような叙述がある。やや長いが、是非お読みいただきたい。
「わが国放送事業が、1924年、社団法人東京放送局・大阪放送局・名古屋放送局の設立免許とともにはじまったのは、周知のとおりである。監督庁たる逓信省はその内規、放送用私設無線電話監督事務処理細則(1924(大13)年2月作製、のちしばしぱ改正した)および各放送局施設許可付帯命令書などにより、放送番組内容の詳細な事前検閲権を確保し・所轄逓信局長の監督に服せしめるものとした。のちまもなく、既存三法人を解散させ、日本放送協会を成立せしめたが、放送番組に関する公権力的検閲の大綱は変化しない。1930年全面改正された監督事務処理細則によれば、
(1) 放送種目及び放送内容は社会教育上適当と認めるものに重きを置くこと
(2) 放送内容中経済財界に関する事項については慎重なる考慮を払うここと
(3) 講演・演芸等の委嘱又は雇傭に依る放送は人選を慎重調査し特に外国人を選ぶときは十分に注意すること、などが命ぜられている。
また、大体において新聞紙法・出版法に準拠して、放送番組の禁止・削除・訂正の各事項が列挙されている。これらの諸点につき、逓信局の事前のチェックをうけることもちろんだが、それだけでは不十分というわけか、つぎのようなフェイル・セイフの制度がとられている。
すなわち、各放送には監督者たる放送主任者を配置せしめなけれぱならず、この放送主任者席には「常時放送を監督し得る装置と瞬時に放送を遮断し得る装置をなさしめ、逓信局との直通電話もこの席に設くること」これである。
逓信省は、所轄逓信局を経由して、そのときどきの具体的な禁止事項・注意事項を通達し、たえまない指導監督をおこなっていたが、準戦時体制に入ると、ここでも番組統制権は、他のマス・メディア統制権とともに、内閣情報局の集中掌握するところとなる。」(有斐閣「表現の自由??理論と歴史」『戦前の言論・出版統制』。初出は「ジュリスト」378号・1967年)
同論文で、出版・新聞・放送・演劇・演芸等の表現活動に対する戦前の統制を概観して、氏は最後をこう結んでいる。
「戦前の出版警察を考究して脳裡から離れないのは、日本人はよくも長いこと、こんな非合理的、徹頭徹尾馬鹿馬鹿しい権力を我慢してきたものだという一事である。わたくしには、この秘密をわたくしなりに解明をしてみないかぎり、現行憲法が表現の自由を保障しているということに安心立命することができないように思える。」
「奥平先生に、まったく同感」では済まない。述べられていることが過去のことではなく、現在の問題でもあるのだから。籾井のごときがNHKの会長を続けるこの事態は、まさしく「日本人はよくも、こんな非合理的、徹頭徹尾馬鹿馬鹿しい権力を我慢していられるものだ」というに値する。こんな人物をトップにいただくNHK、こんなトップを任命する安倍政権の「非合理的、徹頭徹尾馬鹿馬鹿しさ」に我慢してはおられない。安心立命など到底できようはずもない。
(2015年2月7日)
毎日の「万能川柳」欄の充実ぶりはたいしたものだが、欠点は「遅い」こと。選考に手間取るのだろうが、投句から掲載までの期間が長く、句によっては鮮度が落ちてしまう。その点、「朝日川柳」の鮮度は高い。
本日の掲載句中に、鮮度命の以下のものが見える。
壮士かと思えばわしらの安倍首相 (埼玉県 椎橋重雄)
好きですね「私が最高責任者」 (神奈川 桑山俊昭)
知っていて蛮勇奮い歴訪し (東京都 大和田淳雄)
川柳子の明言はないが、「蛮勇奮って歴訪中」の「壮士風言動」が、日本人2人の命を奪うことになったのではないか。「わしらの安倍首相」の「最高責任者」としての言動のあり方が厳しく問われねばならない。
首相官邸のホームページに、「1月17日 『日エジプト経済合同委員会合』における安倍首相の政策スピーチ」の動画がアップされている。スピーチ全文も起こされて掲載されている。
http://www.kantei.go.jp/jp/97_abe/statement/2015/0117speech.html
標題からもわかるとおり、経済人を引き連れての中東歴訪であり、経済的な交流を主目的とする会合でのスピーチである。かなりの長文だが、言わずもがなの「壮士風の蛮勇」をひけらかしたのは、下記の部分である。
「今回私は、「中庸が最善(ハイルル・ウムーリ・アウサトハー)」というこの地域の先人の方々の叡智に注目しています。「ハイルル・ウムーリ・アウサトハー」、伝統を大切にし、中庸を重んじる点で、日本と中東には、生き方の根本に脈々と通じるものがあります。
この叡智がなぜ今脚光を浴びるべきだと考えるのか。それは、現下の中東地域を取り巻く過激主義の伸張や秩序の動揺に対する危機感からであります。中東の安定は、世界にとって、もちろん日本にとって、言うまでもなく平和と繁栄の土台です。テロや大量破壊兵器を当地で広がるに任せたら、国際社会に与える損失は計り知れません。
…
イラク、シリアの難民・避難民支援、トルコ、レバノンへの支援をするのは、ISILがもたらす脅威を少しでも食い止めるためです。地道な人材開発、インフラ整備を含め、ISILと闘う周辺各国に、総額で2億ドル程度、支援をお約束します」
ISILを1度ならず2度までも名指しして、「ISILと闘う周辺各国への支援をお約束」と明言した。しかも、「現下の中東地域を取り巻く過激主義の伸張や秩序の動揺に対する危機感」表明に繋げてのことだ。明らかに、ISIL敵対当事者への支援宣言であり、有志連合への積極加担のアピールである。
安倍スピーチは、国際武力紛争の一方当事者を「過激主義・テロ勢力」と決め付けたうえで、「これと闘う」対立当事国側へと明示しての支援の約束である。日本国憲法の平和主義・国際協調主義から許されものか、まずこの点の吟味が必要である。国論が沸騰するときにこそ、冷静でなければならない。
さらに、政府は、1月17日当時、後藤さんが拘束され身代金の要求があったことまで知っていた。
「岸田文雄外相は5日の参院予算委で『(後藤さんの)奥様から(昨年)12月3日、犯行グループからメール接触があったと連絡を受けた。11月1日、後藤さんが行方不明になったと連絡をいただいた後、緊密に連絡をとった」と語った(朝日)。
この状況における中東歴訪の強行であり、紛争当事国となっている各国への経済支援をぶち上げ、明確にイスラム国と闘う国への人道支援を約束したのだ。この壮士風発言が、イスラム国側をいたく刺激したであろうことは推測に難くない。
首相は「私の責任でスピーチを決定した」として、「(自身の)判断について正しかったかどうかを含め検証していく」と答えてはいる。
問題は、特定秘密保護法の存在である。
「『イスラム国』から後藤さんの妻へのメールの内容や、日本政府とヨルダン政府の交渉の内容なども明らかになっていない。首相は4日の衆院予算委で『一切言わないという条件で情報提供を受けている。特定秘密に指定されていれば、そのルールの中で対応していくことに尽きる』と述べ、公開できない情報もあるとの考えを示した。」(朝日)という。
早くも、特定秘密保護法がその期待された役割を果たすことになりそうだ。こんな文脈になるのだと思われる。
「最高責任者としての自分の責任を糊塗する意図は毛頭ない」「しかし、ことは防衛・外交に深く関わることで、責任追求に誠実に対応しようとした場合に、特定秘密保護に抵触することは十分に考えられる」「その場合には、特定秘密保護法のルールにしたがって対応するしかない。これが法治国家の当然のあり方だ」「当然のことだが、その場合にいかなる秘密に抵触しているのかについては一切あきらかにできない。それが、法に基づいて行政を司る者の責務である」
かくして、安倍首相の責任追及は闇に葬られることになりかねないのだ。それこそが、特定秘密保護法に期待された狙いのひとつの実現のかたちである。
セールスは重視人命は軽視
国民を煙と闇の果てに捨て
責任を秘密のベールで包み込み
間に合ったこの日のための秘密法
(2015年2月6日)
本日(2月5日)午後、衆院本会議で、「日本人殺害脅迫事件に関する非難決議」が成立した。決議の全文は以下の通り。
「今般、シリアにおいて、ISIL(アイシル、イスラム国)が2名の邦人に対し非道、卑劣極まりないテロ行為を行ったことを強く非難する。
このようなテロ行為は、いかなる理由や目的によっても正当化されない。わが国およびわが国国民は、テロリズムを断固として非難するとともに、決してテロを許さない姿勢を今後も堅持することをここに表明する。
わが国は、中東・アフリカ諸国に対する人道支援を拡充し、国連安全保障理事会決議に基づいて、テロの脅威に直面する国際社会との連携を強め、これに対する取り組みを一層強化するよう、政府に要請する。
さらに、政府に対し、国内はもとより、海外の在留邦人の安全確保に万全の対策を講ずるよう要請する。
最後に、本件事案に対するわが国の対応を通じて、ヨルダンをはじめとする関係各国がわが国に対して強い連帯を示し、解放に向けて協力してくれたことに対し、深く感謝の意を表明する。
右決議する。」
決議の内容を噛み砕けば、(1)今回の邦人2名の殺害を非難し、(2)テロを許さないとする国民意思を表明し、(3)人道支援を拡充して国際社会との連携を強化すると言い、(4)政府に邦人の安全対策を要請し、(5)ヨルダンに感謝の意を表明する、というもの。
この内容で間違っているはずはない。安倍首相のごとくに、「テロリストたちを絶対に許さない。その罪を償わせる」などと、感情的に息巻いているわけではない。全会一致もむべなるかな、とも思う。そして、明日(2月6日)は参院でも同様の決議採択の予定とのことだ。
しかし、どうしてもなんとなくしっくりしない。問題の複雑さに十分対応し切れていない紋切型の言葉の羅列の虚しさは明らかだ。しかし、それだけではない。どこかに引っかかるものを感じる。日本国憲法9条の精神に照らして、これでよいのだろうか。もっと違った姿勢、違った言葉が出て来るべきではないのか。議員の中で、一人くらいは、敢えて異を唱える人がいてもよいのではないか。そんな気持がわだかまり、澱となって消えない。
イスラム国が無辜の日本人二人に対してした所為は野蛮きわまりない。残虐非道と言ってもよい。何らかの制裁措置が必要と思いたくもなる。だから、「わが国およびわが国国民は、テロリズムを断固として非難するとともに、決してテロを許さない姿勢を今後も堅持することをここに表明する」と言いたくもなり、「わが国は、中東・アフリカ諸国に対する人道支援を拡充し、…テロの脅威に直面する国際社会との連携を強め」たいとの気持にもなる。しかし、本当にそれで問題の解決になるのだろうか、そう問いかけるもう一方の気持ちもある。
本日(2月5日)東京新聞朝刊の一面に、「殺りくの連鎖やめてー後藤さん兄が訴え」という記事がある。
「イスラム教スンニ派の過激派組織『イスラム国』を名乗るグループによるヨルダン軍パイロットの『殺害』と、ヨルダン当局による死刑囚の刑執行が明らかになった4日、イスラム国に殺害されたとみられる後藤健二さん(47)の兄純一さん(55)は、共同通信の取材に『殺りくの応酬、連鎖は絶対にやめてほしい。平和を願って活動していた健二の死が無駄になる』と語った」というもの。
同じ東京新聞の9面には、「『イスラム国』ヨルダン参加非難」「空爆への報復強調ーパイロットの殺害映像公開」「ヨルダン 対決姿勢強化」という、キナくさい見出しが躍っている。
同紙によれば、「自国軍パイロットの殺害映像公開に対する措置として、ヨルダン政府は4日、治安閣議を開き、イスラム国に対する攻撃を強化する方針を決めた」という。「殺害されたパイロットの出身地カラクでは、3日、街中に集まった市民らが、ヨルダンの国旗を手に、『イスラム国に死を』『復讐を』と叫びながら、既に暗くなった街の中を行進した」と報じられている。焼殺という残虐非道な行為にに対抗するその気持としてもっとも、と思わせるものがある。
しかし他方、イスラム国側からすれば、有志連合の空爆こそが残虐非道の行為であり、有志連合に加わったヨルダンは憎むべき「十字軍参加国」なのだ。「ヨルダン軍パイロットを焼殺したとされる映像には、空爆で怪我をした子どもたちの写真や泣き声なども流された」という。空爆による被害の場面を見せつけられれば、イスラム国の言い分ももっともだとの思いも湧いてこよう。
米軍は、空爆によって、これまで6000人のイスラム国戦闘員を殺害したと発表している。しかし、人口密集した都市への爆撃が戦闘員だけにピンポイントでおこなわれたとは考えられない。非戦闘員や子どもを含む一般市民にも多数の犠牲者が出ていることだろう。この報復の連鎖による、悲惨な被害の拡大を制止することこそが、いま、もっとも必要なことではないか。
これまで、武力の行使によって幾億人もが非業の死を遂げた。その非業の死の数だけの復讐の誓いがなされたに違いない。しかし、報復の連鎖は無限に続くことになりかねない。この報復の連鎖を断ちきろうというのが日本国憲法の精神であり、その9条が憲法制定権者の意思として日本国の為政者に一切の武力の行使を禁止しているのだ。
だから、国会の決議は、「我が国及び国民は、決してテロを許さない姿勢を今後も堅持する」という断固たる意思の表明よりは、「9条の精神に則って、殺りくの応酬、連鎖は絶対にやめなければ゜ならない」「平和を願って活動していた者の死を無駄にしてはならない」という基調のものにして欲しかったと思う。断固たる態度や、勇ましい言葉は不要なのだ。
(2015年2月5日)
本日の [産経・正論]欄に、「『和諧』を良しとする日本を誇る」という一文が掲載されている。著者は平川祐弘という相当のお歳の比較文化史家。東京大学名誉教授とのこと。「正論」の常連執筆者の一人である。
もちろん国民誰にも表現の自由は保障されている。だから、目くじら立てるほどのこともないではないか、と言われればそのとおり。が、この人のトンデモ憲法論に幻惑される被害が発生せぬよう、最低限の反論が必要と思われる。
1年ほど前に、彼は、「新しい憲法について国民的な議論を高めたい。比較文化史家として私も提案させていただく」として、やはり「正論」に寄稿している。「『和を以って貴しとなす』。この聖徳太子の言葉を私は日本憲法の前文に掲げたい。‥このような憲法改正には文句のつけようがないだろう」「憲法はそのように日本の歴史と文化に根ざす前文であり本文でありたい」との内容。今回の寄稿はその焼き直し。
よく知られているとおり、自民党改憲草案の前文には、「日本国民は、国と郷土を誇りと気概をもって自ら守り、基本的人権を尊重するとともに、和を尊び、家族や社会全体が互いに助け合って国家を形成する」と書き込まれている。ここでの「和を尊び」は、現実に存在する権力や経済力による支配と被支配の対立構造、あるいは社会的な貧困や格差を隠蔽し糊塗する役割を担っている。
そもそも、十七か条の冒頭に位置する「以和爲貴」は、「無忤爲宗(逆らうことなきを旨とせよ)」や、「承詔必謹」とセットをなしている。「和」とは、対等者間の調和ではなく、「天皇を頂点に戴く権力構造の階層的秩序」と理解するほかはない。本気になって「憲法に『以和爲貴』を書き込もう」と言っているとすれば、甚だしい時代錯誤。近代立憲主義も現代立憲主義も、いや法の支配も、法治主義すらも理解していない人の言としか思えない。
その平川さんが本日の「正論」で靖国の祭神について述べている。未整理の文章で論旨不明瞭といわざるを得ないが、結論だけが「…だから日本は素晴らしい」というもの。どんな結論でもけっこうだが、靖国について「敵味方を超えて行われる鎮魂」と言っている点で、反論しておかねばならない。
平川さんの文章は、平将門を祭神とする神田明神への参拝の隆昌から説き起こされている。そして、次のように展開する。
「祟ると崇めるとは字も似るが、祟りが怖ろしいから崇めたのだ。だが、そんな荒ぶる御霊が鎮魂慰撫されて今では利生の神(平将門を指す)、学問の神(菅原道真を指す)として尊崇される。神道では善人も悪人も神になる。本居宣長は「善神にこひねぎ…悪神をも和め祭る」と『直毘霊』で説いた。鎮魂は正邪や敵味方の別を超えて行われてこそ意味がある」。ここまでの文意は明瞭で、敢えて異を唱えるほどのこともない。
その次からが突然の転調となる。
「読売新聞の渡辺恒雄氏は宗教的感受性が私と違うらしく、絞首刑に処された人の分祀を口にした。私は『死人を区別していいのか』と感じる。解決の目途も立たぬまま大陸に戦線を拡大した昭和日本の軍部は愚かだと思うが、だからといって政治を慰霊の場に持ち込むのは非礼だ。靖国神社は日本軍国主義の問題と決めてかかる人が国内外にいるが、そうした狭い視野で考えていいことか」
文意を繋げると、「神道では善人も悪人も神になる」のだから、「絞首刑に処された東條英樹以下の悪人も神になった」。「分祀とは神に区別を設けること」なのだから、「いかなる悪人であろうとも神になった死人を区別することはよくない」。こう言いたいのだと推測するよりほかはない。なお、それまでの説明と、「靖国神社」「日本軍国主義」「狭い視野」とは関連不明としか評しようがない。
文意がわかりにくいのは、論者が世の常識とは違うことを言っているからなのだ。
日本人の伝統的な死生観が「怨親平等」という言葉に表される死者の平等にあったことはよく知られている。例えば、蒙古襲来の際の犠牲者を、日本の民衆は敵味方の区別なく手厚く葬った。その象徴として円覚寺の存在が語られる。
この日本的伝統を真っ向から否定して死者の差別を公然化したのが、招魂社であり、靖国神社である。維新期の西南雄藩連合は、自軍を皇軍(すめらみいくさ)として、荒ぶる寇(あらぶるあだ)である賊軍との戰に斃れた自軍の戦死者だけを祀った。要するに、徹底した死者の差別であり、魂の差別である。ここには怨親平等のヒューマニズムはかけらもない。政治的な思惑から、天皇への忠誠故の死者を褒めそやし、未来永劫賊軍の死者を侮辱さえしたのである。
戊辰戦争の最大の山場は会津戦争であった。官軍の死者の遺体はこの地に埋葬され、「天皇のために闘った、忠義の若者たちがいたことを後世に伝えるために」石碑が建てられた。一方、賊軍側3000の戦死者には、埋葬自体が禁じられた。死体はみな、狐や狸や野鳥に食われ腐敗して見るも無惨な状態になった。(「明治戊辰殉難者之霊奉祀の由来」・高橋哲哉「靖国問題」による)
この天皇への味方か敵かを峻別し、死者をも徹底して差別することが靖国の思想である。明治維新が、国政運営にこのうえない便利な道具として神権天皇制を拵え上げたその一環として、靖国神社は天皇制政府の軍事におけるイデオロギー装置となった。天皇へ忠誠を尽くして死ぬことを徹底して美化し、その反対に天皇に敵対することを徹底して貶める、死の意味づけにおける差別の体系と言ってよい。この魂の差別については、既に古典と言ってよい「慰霊と招魂」(村上重良・岩波新書)に詳しい。
戊辰戦争で賊軍とされた奥羽越列藩同盟の戦死者も、西南戦争で敗れた西郷軍も、未来永劫靖国の祭神の敵として靖国神社に合祀されることはない。この内戦における死者への差別は、皇軍が対外戦争をするようになってからは排外主義の精神的基盤ともなり、また戦死者を「天皇への忠義を尽くしての戦死」か「しからざる(捕虜や逃亡兵としての)死」かに差別することにもなった。
平川「正論」が、日本人の伝統に反してまで徹底した「死者の差別」をしている靖国神社を引き合いに、祭神の平等、死者の平等を説くから、話がこんがらかってしまうのだ。
(2015年2月4日)
本日(2月3日)付で、北星学園大学(札幌)が「本学に届いた脅迫状と一般入学試験の実施について」という以下の学長声明を発表している。
「昨日2日、本学に対するあらたな脅迫状が届きました。2月6日から実施される本学の一般入試会場とその周辺において本学関係者に危害を加えるといったきわめて悪質な内容であり、直ちに管轄の警察署に被害届を提出し、受理され、捜査中です。
本学に対するこのような卑劣な行為は許されるものではありません。
本学としましては、受験生の皆さんが安心して入学試験に臨めるように全学態勢で警備に取り組むことといたしました。また、所轄警察に対し警備強化を要請するとともに、専門の警備会社による警備を依頼したところです。
受験生、保護者及び関係者の皆さまには、‥‥事情をご理解賜りますよう、何卒よろしくお願いいたします。
なお、本学の基本的立場については、昨年9月30日付け「本学学生及び保護者の皆さまへ」にて公表させていただいております。大学の自治を侵害する、このような卑劣な行為によって、受験生並びに学生をはじめ本学にかかわる全ての方々の平穏・安全が脅かされることがないことを強く願っています」
卑劣な攻撃の標的となった大学の苦悩がにじみ出ている。毅然とした姿勢を堅持しつつも、それゆえの苦慮が伝わってくる。改めて、闇の奥で手書きの脅迫状を認めて投函した卑劣漢に怒りを禁じ得ない。
道新の報道は次のとおりである。
「従軍慰安婦問題の報道に関わった朝日新聞元記者が非常勤講師を務める北星学園大(札幌市厚別区)に、6?8日に行われる一般入試の際に受験生や教職員に危害を加えるとの内容の手紙が届いていたことが3日、分かった。札幌厚別署は威力業務妨害の疑いで調べている。
同署によると、手紙は2日、北星大の学長宛てに郵送で届き、手書きだったという。これまで送られた5通のうち一部はパソコンで印字されていた。一般入試の会場などと場所を特定した上で、受験生や教職員に危害を加えるとの内容が書かれていた。差出人の名はなく、消印は1月31日付だった。」
誰もが、平穏で安全な生活を享受する権利を持っている。危害を加えられることなど想定することなく日常生活を送っている。姿を見せない卑劣漢からの無法な脅迫に対して真っ当な生活者は対抗のすべを持たない。この社会は犯罪に脆弱なのだ。卑劣な犯罪者はその最も脆弱な部分を狙って脅しをかけているのだ。
匿名の犯罪者は増長している。「学生を痛めつけてやる」「ガスボンベを爆発させる」(昨年5月29日脅迫状)、「火薬爆弾だ。開けたら吹っ飛ぶぞ」(昨年7月28日)、「爆破してやる」(昨年9月12日電話)、「学生の家の何軒かから出荷(火)する」(本年1月8日脅迫状)。そして入試直前の今回。これは、愉快犯の類ではなく、偏狭なナショナリズムを正義と盲信する輩の犯罪なのだ。正義の盲信という点では、国際テロリスト集団と酷似している。
朝日の報道を日本国を貶める国辱と決め付け、朝日バッシングに猛進する大きな勢力がある。その勢力の末端か周辺に、このような卑劣な犯罪者群が存在する。ネットで蠢動し、一部がリアルな脅迫行為に及ぶ。朝日バッシング勢力は、補完しあう種々の役割分担の協働によって社会的影響力を保持している現実がある。
北星学園への脅迫行為は、政治的な信条如何にかかわらず、社会を挙げてこれを摘発し根絶しなければならない。まずは、共犯関係にあることを疑われる立場にある、朝日バッシング扇動の「メディア」や「ジャーナリスト」、「研究者」が、犯罪者に偏狭な正義を吹き込んでいる者の責任として、本気になってこれを止めさせるよう声を上げなければならない。沈黙していれば、犯罪者と同類と見なされることになるのだから。
たとえば次のようにだ。
「同志よ、北星学園に対する脅迫を止めよ」「朝日に対するバッシングは、あくまで言論による世論喚起として行おうではないか」「脅迫など犯罪にわたる行為は、われわれの採るべき手段ではない」「同志の中に脅迫や威力業務妨害や名誉毀損、侮辱などの犯罪に及ぶ者があれば、世間はわれわれ全体を犯罪者集団と見なす恐れがある」「われわれが言論戦において理論的に劣勢だから実力行使に及ばざるを得ないと邪推されることにもなろう」「それでなくても、われわれは暴力を容認する集団とのあらぬ誤解を受けている」「敵対する勢力に、これが朝日バッシング勢力の本質だ、などと言わせてはならない」「国際テロリスト集団のごとく恐怖をばらまくことで社会的な影響を拡大しようとしていると言わせてもならない」「同志よ。君の志操の高潔と純粋さには称賛を惜しまない。しかし、脅迫や威力業務妨害の行為は、われわれの大義にとって障碍にしかならないことをよく理解していただきたい」「だから、同志よ。北星学園に対する一切の脅迫と業務妨害を中止せよ」
(2015年2月3日)
早春は弁護士会選挙の季節。今週金曜日2月6日が、私の所属する東京弁護士会の会長・副会長・監事・常議員各選挙の投票日となっている。日本最大のマンモス単位会7000人の選挙。いま、その選挙運動がたけなわである。例年のとおり、選挙公報に目を通してみる。
弁護士会の役員たらんとする者、弁護士会運営の理念を語らねばならない。その理念とは、弁護士の使命である人権擁護をいかにして実現せしめるかを中心に据えたものでなくてはならない。現実の社会のあり方や政権の動向から遊離して人権擁護実現の課題はありえない。だから、弁護士会選挙の公約やスローガンは、現実の社会や政権と切り結ぶものとならざるを得ない。
主流会派から今回会長選に立候補している候補者のメインスローガンは、「頼りがいのある弁護士会を」というもの。弁護士にとっての頼りがいではなく、「市民にとって頼りがいのある弁護士会を」という内容である。
選挙公報で彼は次のように語っている。
「…目を国政に転じてみると、立憲主義と恒久平和主義が危機にさらされています。また市民の中には高齢者や障がいのある人などまだまだ弁護士へのアクセスが困難な方がいます。弁護士・弁護士会に期待される、憲法の基本原理を守り、さまざまな人権を擁護する活動は、このような困難な中でも若手会員の参加を得て継続・強化してゆく必要があります」
「基本的人権の擁護は、弁護士の使命です。これまで弁護士会は再審無罪事件の支援など、歴史的に数多くの社会的弱者の人権救済や、人権擁護に資する立法活動に携わってきました。この伝統を受け継ぎ、多分野の人権擁護活動に継続的に取り組んでいきます。特に戦争はあらゆる意味で多くの犠牲者を出す国家の人権侵害です。その危険を除くことも重要な弁護士の使命です。また昨今の人種差別を煽るヘイトスピーチによる人権侵害の救済にも取り組みます」
「集団的自衛権行使容認反対と憲法改正問題」との標題で次の公約もある。
「昨年の閣議決定による集団的自衛権の行使容認は認めることができません。手続き的に立憲主義に反するものであり、恒久平和主義とも相容れません。この閣議決定に基づく関連諸法の改正に対して憲法の基本原理を維持する立場から対応します。また、恒久平和主義を根底から変えようとする憲法改正の動きに対しては断固として反対いたします」
会内の保守的穏健派の良識が表明されていると見てよいだろう。
これに対立して「革新派」候補が立候補している。反権力・反政権の旗幟が鮮明である。「盗聴を容認する日弁連を東弁から変えよう」「 改憲と戦争を阻止する行動に立ち上がろう」などがメインスローガン。
彼は、情勢認識から語る。「再び世界戦争が惹き起こされようとしています。フランスの銃撃・人質殺害事件と、それに対する各国政府の「反テロ戦争」宣言は、そのことを強く危惧させます。銃撃事件の実行者は、それを「イスラム国」に対するフランスの空爆に対する報復・反撃と言っています。結局、アメリカを中心とし、フランス、イギリス、ドイツその他の国が行った中東地域の石油支配をめぐる争奪戦に起因するものであることは間違いありません。
日本も、「集団的自衛権行使」を容認する7.1閣議決定以来、こうした欧米各国に遅れまいとして突き進んでいます。安倍首相は、新たに「存立事態」などという概念を創り出し、「自衛」の名のもとに、日本の軍隊を世界のどこにでも送り込めるようにするため、今通常国会で法整備をすることを言明し、8月15日には「戦後70年談話」を発表し、日本国憲法体制を転覆するつもりです。
戦争は、それによって利益を挙げる一部の富裕層が起こすものであり、民衆にとっては、相手国の民衆との殺し合いを国家から強要され、失うものばかりで益するものは何もありません。
「政府の行為によってふたたび戦争の惨禍が起ることのないようにする」と誓った私たちは、この国の圧倒的多数を占めている労働者民衆とともに力をあわせて、政府の改憲・戦争政策と治安強化立法の制定を阻止することが、今どうしても必要です。私は、東弁会長としてその先頭に立ちます。」
「圧倒的多数を占めている労働者民衆とともに力をあわせて、政府の改憲・戦争政策と治安強化立法の制定を阻止することが、今どうしても必要」だという認識が、革新派たる所以。個別政策テーマでは、刑事司法のあり方に過半の紙幅を割いて、日弁連の妥協的姿勢を厳しく叱正している。
この対向関係が弁護士選挙の基本パターンといってよい。定員6名に7名が立候補した副会長選挙でも大方がこの基本パターンに属する。保守中道的な姿勢で在野精神と反権力を語るか、革新的に明確な政権批判運動へのコミットを口にするか、なのだ。
ところが、副会長候補者の一人だけが、まったく色合いを異にする「マニフェスト」を掲げている。弁護士や弁護士会の理念を語るところがない。むしろ、理念を払拭することをもって、「新たなる弁護士会の幕開け」「『新』世代が起ち上がる、時が来た」という。64期・36歳だという。
彼のいう「弁護士会の変革」とは、「弁護士をサラリーマン化し、弁護士会を会社化すること」にほかならない。公益活動から手を引いて、徹底して会財政をスリム化して、会費を半減しようという。さらに、「任意加入制でよいではないか。弁護士会から受ける利益よりも参加することの負担が大きい人には、弁護士会に参加しない権利も認められるべきです」という。一昔前までは、恥ずかしくてとても公の場では言えないことを、あっけらかんと言ってのけている。彼のいう「新たなる弁護士会の幕開け」は、「恐るべき弁護士会の幕開け」にほかならない。
政治信条が保守であろうと革新であろうと、拠って立つ基盤が財界であろうと労働者であろうと、弁護士は弁護士である。弁護士が弁護士である所以は、在野性にある。権力に縛られることがなく、仲間以外の誰からも監督も指導も受けることはない。その意味では、弁護士会は公的存在でありながら、監督官庁からの指揮監督を受けない国内唯一の組織である。弁護士の懲戒権を弁護士会が有していることの意義を軽んじてはならない。
「あっけらかんマニフェスト」の文中に、こんな言がある。
「現在、弁護士会は強制加入の団体です。しかし、既存の弁護士会には高すぎる会費の問題や政治性の高い活動を行っていることなど強制加入の団体にふさわしくない点があります。懲戒や公益活動についても裁判所や行政の関与で代替可能であり、弁護士会が自ら行う必要はありません」「所得の二極化が進んでいると言われている現状では、若手弁護士は、弁護士会に所属する意味を見出すことができません」「会員利益にならない活動、公益上必要不可欠でない活動、強制加入団体にそぐわない過度に政治的な活動について廃止・縮小を検討し、会費や会務活動の無駄を省きます」
彼が、積極的に何かの課題に取り組むという言及は皆無である。刑事司法制度についても、民事司法制度についても関心があるようには見受けられない。関心は、ただひとつ、弁護士自身が喰っていけるようにせよ、ということ。
なるほど、弁護士会の人権活動や公益活動を費用の無駄と考え、弁護士自治に関心なく、稼ぎに汲々としている若手弁護士が群をなして存在しているのだ。志のない弁護士たち、会社員と同じノリで法律事務所に就職したとの意識の弁護士たち。こんな弁護士が増えつつあることは、保守政権や財界にとっては、確かに「希望の幕開け」といってよい。彼らは、つべこべ言わずに、ひたすら高額の稼ぎを求めて、強者の利益のために働くことを恥と思わない弁護士となるのだろうから。
歌を忘れたカナリヤのごとく、公益性も志も忘れた「資格だけの弁護士群」の拡大は、由々しき問題だと思う。国民から「後ろの山に棄てましょか」とされかねない。いま、人権や平和などの憲法理念の有力な担い手としての弁護士層の役割を頼もしいと思う立場からは、志を失った弁護士の将来像を思うとき、暗澹たる気分とならざるをえない。
(2015年2月2日)