(2022年5月16日)
私の手許に、B4版で500ページに近い重量感十分の写真記録集がある。おそらくは3㎏の重さ、内容もずっしりとこの上なく重い。
「沖縄 : 戦後50年の歩み 激動の写真記録」という、1995年に沖縄県が編纂し発行したもの。毎年6月23日には開いて読むことにしている。
構成は、序章を「大琉球の時代」とし、本章は下記のとおりである。
第1章 廃墟のなかから
第2章 基地の中の沖縄
第3章 ドルと高等弁務官の時代
第4章 ベトナム戦争と復帰運動
第5章 アメリカ世からヤマト世へ
第6章 21世紀に向けて
416ページ以後が資料編で、衣・食・住・教育・スポーツ・芸能・美術・女性…たばこ・泡盛・映画等々、興味は尽きない。
いうまでもなく、「第5章 アメリカ世からヤマト世へ」が、1972年5月の「本土復帰」の記述の表題である。この「世」は「ゆ」と読まねばならない。「アメリカ世(ゆ)は、アメリカ支配の『世の中』」あるいは『時代』を表す。この表題の付け方が意味深なのだ。「本土復帰」とは言わない。「復帰」も「返還」も、もちろん「祖国」の語もない。「アメリカ世からヤマト世へ」は、読み方によっては、「沖縄の支配者がアメリカからヤマトに替わっただけ」「他者の沖縄支配であることに変わりはない」と主張しているように読めなくもない。
この第5章第1節の解説には、「世替わり」と小見出しが付けられている。その冒頭部分が下記のとおりである。
「世替わり」の日、1972年5月15日午前零時には、汽笛が鳴り車からは一斉にクラクションが響いた。抗議と歓迎の交錯した複雑な県民感情の中、「世替り」は訪れた。27年間の米軍支配に終止符を打ったこの日は、県全体が大雨になり「県民要求を無視した返還に天も怒った」と評する人、「歓喜の涙」と5.15を迎えた人など世論は分かれた。1945年の敗戦以来、県民の圧倒的多数が望んでいたはずの復帰なのに、素直に喜べない気にさせたのは何と言っても返還の内容であった。
1969年11月22日、佐藤ニクソン会談で72年沖縄返還を合意、共同声明を発表。71年6月17日、マイヤー駐日大使と愛知外相が返還協定に調印。72年1月8日、佐藤ニクソン会談で沖縄返還を72年5月15日と決定するなど、沖縄の復帰スケジュールは決まったのに、その中身は県民の要求する即時無条件返還ではなかった。
日米間で合意したのは、「72年・核抜き・本土並み」という触れ込みだったが、その公約も実体の伴わないものだった。復帰後も米軍基地の自由使用が認められたことがその証拠であろう。全国の75%を占める米軍専用基地はベトナム戦争の泥沼化に連れて強化こそすれ、撤去には結びつかなかった。政府の公約した「本土並み」が虚像だったと実感した県民は多かったはずである。「第三の琉球処分」と言われても仕方のない返還のあり方だったと言える。だが基地の存続を希望した人たちがいたことも否定し得ない事実である。
新生沖縄が誕生したその日は、賛否の声を反映したかのように祝賀と抗議の大会が相次いだ。保守的な人たちは復帰祝賀県民大会を、革新的な人々は5・15を「屈辱の日」として、決議大会とデモ行進を決行、県内を二分した。
この日をもって、復帰運動のシンボルとして扱われた「日の丸」が逆に「軍国主義」の象徴ととらえられたのは歴史の皮肉であった。
これが、50年前の5月15日「沖縄の本土復帰」をめぐる県民意識であった。「革新的な人々は5・15を『屈辱の日』と捉えた」という厳しい表現が眼に突き刺さる。それゆえに、その日以来「日の丸」の意味づけが変わったのだ。「復帰運動のシンボル」から、「軍国主義の象徴」に。そして50年、今もなお「日の丸」は「軍国主義の象徴」であり続けている。
(2022年5月15日)
本日、沖縄本土復帰50周年である。50年前と同様に、沖縄は雨だったという。雨が降る中の宜野湾と東京とを結だ「記念式典」が開かれた。内容のない、印象の薄い盛り上がらない儀式だった。「記念式典」とはいったい何だろう。いったい何を、どのように記念しようというのだろうか。
琉球新報は、「雨の中『沖縄を返せ』 50年前、基地従業員も願った復帰」とのタイトルで、元「全軍労」の専従役員(83)の回想を掲載している。
「1972年5月15日の与儀公園で、降りしきる雨の音に対抗するように、復帰運動の象徴となっていた歌(『沖縄を返せ』)を大声で歌っていた」「あの日から50年。米軍絡みの事件・事故は絶えず、沖縄の差別的な扱いも続いている」「今も変わらないじゃないか」
毎日は、本日の式典の取材記事。「『記念式典を粉砕するぞ』 飛び交う怒声、会場近くで抗議 沖縄」という見出し。会場の周辺では、「岸田は帰れ!」と叫ばれ、「辺野古新基地 直ちに中止せよ!」の横断幕や「違法工事止めろ」のプラカードが並び、背に「熊本県警察」の警官隊と抗議団がにらみ合った。「新基地 民意はNO」のプラカードを持っていた女性(73)=那覇市=は「復帰した50年前はまだ期待があったが、今は自衛隊配備も進み状況はより悪くなっている」と憤った、と報じている。
50年前、「本土復帰」は沖縄の悲願であり、復帰後のその期待は大きかった。今、沖縄県民は、その期待と現実との落差に、落胆を隠せないのだ。
この復帰への沖縄の期待については、私自身が肌で感じている。1966年末、復帰前の沖縄に1か月余の滞在を経験した。滞在しただけでなく、那覇の多くの市民と会話する機会を得た。当時、私は東大文学部社会学科の大学4年生。友人は皆就職が決まっていた頃に、留年必至の身で敢えてした沖縄行。そのときの強烈な沖縄体験の印象を忘れない。
貧乏学生だった私に、長旅のできる余裕はなかった。当時私が在籍していた大学と琉球大学と朝日と地元紙とが共同でした大規模な社会調査の面接調査員としてのアルバイトでの長期滞在。初めてのパスポートを手に、行き帰りともに長い船旅だった。右側通行の車に戸惑いつつ、那覇北部の一街区を受け持って、毎日調査対象となった住民宅を訪問して、面接での聴き取り調査をした。
自ずから、沖縄戦の話が出て来る。米軍基地への不満が話題となる、沖縄の歌や踊りや神話なども聞かされた。方言も教えてもらった。何と有意義な楽しいアルバイトだったろう。
その中で強く感じたのは、「異民族支配」への拒絶感と、「平和で自由で豊かな本土」への復帰の願望であった。「本土復帰」は、明るい展望で語られていた。「日の丸」復帰運動のシンボルであった時代のことである。
「即時・無条件・全面返還」のスローガンを掲げた復帰運動の昂揚を経て、72年5月15日沖縄の本土復帰は実現した。「鉄の嵐」を経験した沖縄の人びとが真に求めたものは、平和憲法がその条文のとおりに生き生きと根付いた本土への復帰だったろう。基地のない平和な沖縄を取り戻すことであったはず。しかし、現実は、本土の沖縄化とさえ言われた「核疑惑付き・基地付き返還」となった。それ以来、再びの闘いが始まって今日に至っている。
その後に明らかとなった、主権者気取りの天皇(裕仁)の「沖縄メッセージ」に、私は激怒した。私も東北の蝦夷の末裔として実感する。権力の中枢は、常に平然と辺境を犠牲にする。沖縄も、中央政府に侵略され、捨て石にされ、さらに切り捨てられた。その非道な仕打ちに、天皇(裕仁)の個性が大きな役割を果たしている。とんでもない人物なのだ。
沖縄本島の北端、はるかに本土を望む辺戸岬に屹立する「祖国復帰闘争碑」。その碑文を読み直す。その文章に込められた想いに胸が痛くなる。
吹き渡る風の音に 耳を傾けよ
権力に抗し 復帰をなし遂げた 大衆の乾杯の声だ
打ち寄せる 波濤の響きを聞け
戦争を拒み平和と人間解放を闘う大衆の雄叫びだ
?鉄の暴風?やみ平和の訪れを信じた沖縄県民は
米軍占領に引き続き 1952年4月28日
サンフランシスコ「平和」条約第3条により
屈辱的な米国支配の鉄鎖に繋がれた
米国の支配は傲慢で 県民の自由と人権を蹂躙した
祖国日本は海の彼方に遠く 沖縄県民の声は空しく消えた
われわれの闘いは 蟷螂の斧に擬された
しかし独立と平和を闘う世界の人々との連帯であることを信じ
全国民に呼びかけ 全世界の人々に訴えた
見よ 平和にたたずまう宜名真の里から
27度線を断つ小舟は船出し
舷々相寄り勝利を誓う大海上大会に発展したのだ
今踏まえている 土こそ
辺戸区民の真心によって成る冲天の大焚火の大地なのだ
1972年5月15日 おきなわの祖国復帰は実現した
しかし県民の平和への願いは叶えられず
日米国家権力の恣意のまま 軍事強化に逆用された
しかるが故に この碑は
喜びを表明するためにあるのでもなく
ましてや勝利を記念するためにあるのでもない
闘いをふり返り 大衆が信じ合い
自らの力を確め合い決意を新たにし合うためにこそあり
人類が 永遠に生存し
生きとし生けるものが 自然の摂理の下に
生きながらえ得るために警鐘を鳴らさんとしてある
(2022年5月14日)
平和の問題を論じるときに、「外国の軍隊から攻め込まれたらどうする」と言い募る向きがある。「攻め込まれたときには、防衛の軍事力が必要だろう」という含みを持つ質問。かつては、ソ連が「攻め込む外国」として想定され、次いで北朝鮮、そして中国に移り、いままたウクライナに侵攻したロシアも加えられている。
この問に端的に答えれば、「攻め込まれたら、時既に遅しだ。どうしようもない」と答えざるを得ない。もしかしたら、侵略者に抵抗の方法はあるのかも知れないが、想定するに値しない。当然のことながら、「どうすれば、攻め込むことも、攻め込まれることもない、国際平和を築くことができるか」「戦争の原因を取り除く外交努力はいかにあるべきか」と問うべきで、問の建て方がまちがっているのだ。
しかし、そう言われても納得せずに、「それでも、攻め込まれたら」「外交が失敗して攻め込まれたら」「さあ、どうする、どうする」と繰り返して言い募る人もいるだろう。そういう人には、「ミサイルが飛んできてそれを防げる原発はない。世界に1基もない」という言葉を噛みしめてもらいたい。
山口壮原子力防災相(兼環境相)の昨日の閣議後会見での発言である。この問題での国政の最高責任者が、ミサイルからの原発の防衛は「これからもできない」と言明しているのだ。
日本には、54基の原発がある。攻め込んだ外国軍隊からの攻撃を防ぐ手立ては今もできないし、これからも無理なのだ。この一つでも攻撃されればいったいどうなるか。これについては、同じ山口壮原子力防災相の3月11日閣議後会見での下記の発言がある。
「日本の原発の安全規制は他国からの武力攻撃などを想定していない」「(ミサイルなどの攻撃を受けた場合の被害想定について)チェルノブイリの時よりも、もっとすさまじい。町が消えていくような話だ」(朝日)
ロシア軍がウクライナの原発を攻撃した事態を受け、自民党や自治体などから原発の防衛力強化を求める意見が出ている。全国知事会は3月、ミサイル攻撃に対し自衛隊の迎撃態勢に万全を期すよう要請をした。が、担当相として甘い見通しを語ることはできないのだ。
また、同日の会見で、山口防災相は、「原子力規制委員会による安全審査では、原発への他国からの武力攻撃を想定していない。(仮に原発が武力攻撃を受けた場合には)そういうこと(武力攻撃)を認めるようなことで、やりだしたら話はもう大変だ」とした上で、「今ある枠組みで、どう対応するのかを検討する」と語っている(朝日)。要するに、原発に対する武力攻撃への対応など、しようもないということなのだ。
原発への武力攻撃については、原子力規制委の更田豊志委員長が3月9日、衆院経済産業委員会で「審査等において想定していないので、対策として要求していない」と答弁。武力攻撃を受けた場合には、「放射性物質が攻撃自体によってまき散らされてしまう。現在の設備で避けられるものとは考えていない。(中央制御室が)占拠された場合は、どのような事態も避けられるものではない」などと語っていた。更田氏の発言について、山口氏は「同じ意見だ」と述べている。(朝日)
原発だけではない。太平洋沿岸に連なるコンビナートへの攻撃も、防ぎようはない。戦争が始まってしまえば、国土や国民の防衛など絵空事とならざるをえない。では、仮想敵国の軍事侵攻を事前に防止する軍備を整えるか。あるいは、先制攻撃を敢行するか。いずれも、とうていリアリティあることではない。
「ミサイル攻撃を避けるために敵基地攻撃も先制攻撃も必要」といえば、相手国に日本に対する侵攻の口実を与えることにもなろう。平和を大切にする諸国民や国際世論とともに、常に敵を作らず、戦争を起こすことのない外交努力を重ねること、それ以外に国民の生活を守る術はない。敵基地攻撃能力の整備やら、軍備増強やら、核武装などもってのほかというしかない。
(2022年5月13日)
本日の毎日新聞朝刊・トップに「配給所 屈辱の露国歌」という大きな主見出し。これに「避難 命懸けのマリウポリ」という横見出しが付けられている。
この記事は、マリウポリから西に200キロのサポロジェでの毎日記者による取材記事。取材対象は、マリウポリの住民だった母子。4月10日にロシア軍占領下のマリウポリから徒歩で脱出し、1か月近くの逃避行を続けてサポロジェで保護されたという。マリウポリへの砲撃と、露軍占領下の街の様子が生々しく語られている。その街の様子として次の一節がある。
「露軍による占領後、ロシア側が開いた人道支援物資の配給所へ何度か足を運んだ。午前11時の開始を目がけ、腹をすかせた人々が早朝から列を作る。屈辱的だったのは、配給時にロシア国歌が流されることだった。『(露軍の攻撃で)家も日常生活も失った中で、悔しくて涙が出た』と唇をかみ締めた。」
このマリウポリの女性にとってロシア国歌を聴かされることは、「悔しくて涙が出る」ほどの屈辱なのだ。その歌は、ロシアという国家の存在と、その国家による理不尽な支配を誇示するものなのだ。
特定のデザインの旗が国旗となり、特定の歌詞とメロディーの曲が国歌となる。国旗国歌は、特定の国家のシンボルとなって、国家の存在に代わる意味づけを持つ。
チャイコフスキーの序曲『1812年』では、フランス国歌「ラ・マルセイエーズ」の旋律をもって侵略軍の激しい咆哮とし、やがてこれを撃退して祖国に平和が戻ったことを高らかな唱ってロシア帝国国歌が奏でられる。
また、映画「カサブランカ」には、独仏の「歌合わせ」の有名な場面がある。酒場でドイツ兵たちが「ラインの守り」を高唱していると、レジスタンスのリーダーが客たちと歌う「ラ・マルセイエーズ」に圧倒されて、かき消されてしまう。
旗も歌(あるいは曲)も、ときにその意味するところは大きい。マリウポリの街のロシア国歌は、この街の主人がロシアであることを我がもの顔に語っているのだ。
同様に、卒業式での「国旗・国歌」への、起立・斉唱は国家への忠誠の象徴的行為である。「日の丸」への叩頭・「君が代」の高唱は、「日の丸・君が代」と一体となった神権天皇制や軍国主義の歴史受容の象徴的行為にほかならない。
少なくとも、そのような理解は、思想・良心の自由として保障されなければならない。ロシア国歌を聴かざるを得ないことが、「悔しくて涙が出る」ほどの精神的苦痛であるなら、国旗・国歌(日の丸・君が代)を受容しがたい人に、起立・斉唱を強制することも同様の苦痛を伴う行為なのだ。精神的自由の根幹に関わる問題として、そのような強制は許されない。
あらためて、象徴(シンボル)というものに対峙する精神のあり方について、理解を得たいと思う。聖なる画像を踏まざるを得ない信仰者の心の痛みを。他国の国旗国歌であろうと、自国の国旗国歌(日の丸君が代)であろうと、その思想や良心において受容しがたいものを強制される精神の苦痛を。
「愛国心涵養のために国旗国歌(日の丸君が代)の掲揚斉唱が必要」などという暴言は、個人を尊重する憲法原則の最も忌むべき謬論である。
(2022年5月12日)
憂鬱である。まさかと思っていた戦争が勃発した。核兵器廃絶どころか、戦術核の使用がチラつかされる恐ろしさ。中国には強権政治が横行し、その改善の萌しも見えない。ウィグルや香港の情勢に胸が痛む。ミャンマーのクーデターは結局成功してしまうのか。そして、なんということだろう、フィリピンに「マルコス政権」の悪夢。日本の国内では、右翼・歴史修正主義者やポピュリストたちが我がもの顔ではないか。
私は、生来が楽観主義者である。だから、歴史を見る姿勢は「進歩史観」の立場であった。私がいう「歴史の進歩」とは、全ての人に自由と平等と豊かさを実現する方向への「進歩」である。行きつ戻りつのジグザグはあるにせよ、他者との共生の知恵ある人類である。その人類の社会が進歩し発展する方向に向かわないはずはない。全ての人にとって生きるに値する社会を形成する方向に「進歩」していくだろう。そういう楽観である。
私がイメージする進歩の指標軸は3本、人権・民主主義・平和である。この3本は、関連しながらも独立している。
「人権」擁護の進歩とは、公権力や社会的・経済的強者に対峙した個人の尊厳が花開いていくだろうということ。
「民主主義」の進歩とは、独裁や専制から、民主制・共和制への移行である。
そして「平和」の進歩。戦争の原因を排除し、戦争を違法化し、軍縮を進め、やがては武器をなくする。
ところがこの頃、本当に歴史は進歩するのだろうか、人類は進歩する知恵を持っているのだろうか。もしかしたら、退歩して亡びてしまうのではないか。そう、考え込まざるを得ない。
本日の朝日の社説が、「フィリピン 強権を引き継ぐ危うさ」と表題したもので、その中に、「勝ち取ったはずの民主主義が後退し、権威主義的な体制に変質する。東南アジアで憂慮すべき動きが広がっている。」という一節がある。憂慮すべき事態は、東南アジアにとどまらない。
歴史の進歩に抗しているのは、プーチンだけではない。天安門事件以後の中国こそ本家というべきであろう。もちろん、これまでのアメリカの諸悪の積み重ねも見逃してはならない。軍事クーデターを経たタイやミャンマー、そして一党支配のベトナム・カンボジア・ラオス。さらにそれらに加えてのフィリピンの新事態なのだ。
大統領選挙で圧勝したのが、フェルディナンド・マルコス。かつて独裁体制を恣にした悪名高い故フェルディナンド・エドラリン・マルコスと、その妻で3000足の靴を残したことで有名になったイメルダの長男である。
同国の大統領府を「マラカニアン宮殿」と呼ぶ。まだ生存しているイメルダは、同宮殿に『凱旋』することになると報じられている。そして、36年前に残していった自分の靴を取り戻すことになるのだろう。
独裁者マルコスは、1965年から20年余り政権を維持した。戒厳令を布告し、民主化を求める活動家らを容赦なく弾圧した。戒厳令のもとで1万人以上の市民が殺害・拷問などの被害を受けたとされる。アムネスティ・インターナショナルは、3200人以上が殺害されたと発表している。
この独裁者夫妻の不正蓄財は凄まじい。後に最高裁判所は「推計50億?100億ドル(約6600億?1兆3100億円)」と認定しているという。この、絵に描いたような独裁政権が、圧政に耐えかねた民衆によるデモによって倒された。歴史が進歩を見せた一コマである。ところが、再び「マルコス大統領」が誕生する。しかも、副大統領が、あの野蛮なドゥテルテ前大統領の長女なのだ。これは、悪夢以外のなにものでもない。
これがクーデターによる軍事独裁政権の誕生であれば、問題は分かり易い。しかし、新大統領は選挙という民主主義の手続によってその正統性を獲得しているのだ。この問題はより複雑で深刻である。いったい民主主義とはなんだろうか。
今回選挙では、マルコスの選挙運動手法に大きな問題がある。自分に批判的なメディアの取材には一切応じず、候補者討論会にも参加しなかった。もっぱら一方通行のSNSでの発信による選挙運動であったという。そのような候補者を国民は選任したのだ。
国民の主権者としての意識が成熟しなければ、民主主義は形骸化するばかり。歴史の進歩とは、実は、人の意識の進歩なのだ。人が進歩することに、楽観的でいられるか。平和も民主主義も自由も平等も、百年河清を待たねばならないのだろうか。憂鬱は続きそうだ。
(2022年5月11日)
なんということだ。本当の戦争が始まっている。自分の国の戦争ではないが、砲弾が飛び交い、街が焼かれている。人が人を殺し、建物を壊し、略奪もしている。多くの人が難民となって逃げている。この時代に、信じられないなんという野蛮な出来事。
戦争、こんなに罪なものはない。侵攻したロシアが優勢となれば、ウクライナの人々が殺される。ウクライナが押し戻せば、ロシアの若者が死ぬ。人の血が流れれば、その家族の涙が溢れる。戦争が長引けば、人々の不幸も積み重なる。どちらかの勝利で決着すれば、敗戦国の被害が甚大となる。
どうしたら、この戦争をこれ以上の被害なく止めさせることができるだろうか。なにか、自分のできることはないか。そう考えていたところに、「救援新聞」(5月15日号)に、「プーチン大統領に 抗議ハガキを出そう」という呼びかけ。なるほど、戦いを始めたのがプーチンなのだから、戦いを終わらせることだってできないはずはない。宛先は、「在日本・ロシア大使館」である。これなら、私にもできる。
ウクライナヘの侵略は中止を
プーチン大統領に抗議ハガキを出そう
**************************************************************************
ウラジーミル・プーチン大統領 殿
国連憲章に違反するウクライナヘの侵略に抗議します。
人を殺さないでください。
戦争に反対する人を逮捕しないでください。
逮捕した人は釈放してください。
核兵器は使わないでください。
話し合いで解決する努力をしてください。
もうこれ以上、血を流さないでください。
住所
氏名
私のひとこと
*上記のハガキ案も活用して、抗議の声をとどけましょう。
【要請先】
〒106?0041 東京都港区麻布台2丁目1?1
駐日ロシア連邦大使館
ウラジーミル・プーチン大統領 殿
**************************************************************************
この案文はよくできている。それに、救援会らしさもよく出ている。「人を殺さないでください」が最重要の一文だろうが、私も幾つかの「案文」を考えて見た。
☆人を殺さないでください。人を殺させないでください。
☆どんな理由があっても、軍事侵略は許されません。
☆直ちに、戦闘を停止してください。
☆直ちに、軍隊をロシアに返してください。
☆終戦処理を国連の安保理事会で話し合ってください。
☆このままでは、あなたがヒトラー。
☆絶対に核兵器を使ってはなりません。
☆あなたが始めた戦争です。あなたの責任で終わらせなさい。
(2022年5月10日)
ご近所にお住まいの皆様、ご通行中の皆様。しばらく、お耳を拝借いたします。こちらは「本郷・湯島九条の会」です。私たちは、日本国憲法の徹底した平和主義をこよなく大切なものと考え、長く「九条守れ」の活動を続けてまいりました。
そして今、ロシアがウクライナに軍事侵攻を開始したという深刻な事態の中で、常にも増して、今こそ「九条を守れ」「九条による平和を」と、声を挙げなければならないと決意を固めています。
皆さん、戦争とはいったいなんでしょうか。それは、大量の殺人行為です。大規模な強盗です。放火でもあり、建造物損壊でもあります。これ以上なく多くの人に不幸をもたらす野蛮な犯罪と言わねばなりません。歴史上、権力を手にした多くの為政者が、罪のない多くの人の不幸を無視して、より大きな権力と富を求めて戦争を繰り返してきました。しかし同時に、文明は何とかして戦争を止めさせたいと願い続け考えつづけてもきました。
そして、19世紀から20世紀にかけて、人類は戦争を違法なものと確認する営みを継続してきました。最初は捕虜に対する非人道的な行為や残虐な武器の使用を禁じ、やがて侵略戦争を違法とし、第二次大戦のあとには国連憲章が、例外を残しながらも戦争一般を違法なものとして禁止しました。
その流れをさらに一歩進めて、日本国憲法九条は、例外のない全ての戦争を放棄し、その保障として戦力の不保持を宣言しました。人類の叡智の貴重な到達点と言わねばなりません。
ウクライナに侵略した現在のロシアは、軍国主義・侵略主義をひた走った戦前の日本の姿です。日本は、侵略戦争を繰り返す中で、台湾・朝鮮を自国の領土とし、さらには満州を占領し、国際連盟で孤立しました。それでも中国にまで侵略の手を伸ばして泥沼に陥いり、世界から経済制裁を受けて行き詰まるや、米・英・蘭にも戦争を仕掛け…、そして壊滅的な敗戦を迎えました。
それが内外にどんな悲惨な災禍をもたらしたか、ご存じのとおりです。これを身に沁みた日本国民は、平和憲法を制定し、二度と戦争はしない、いかなる名目でも戦争は絶対にしないこと、そしてその保障として戦力を持たないことを憲法に明記したのです。これは、日本が世界に向かってした誓約にほかなりません。
しかし、今、ことさらに「九条は無力だ」「敵基地攻撃能力が大切だ」「非核三原則を見直そう」と、声高に語る人がいます。予てから、戦争の準備が必要だと発言していた人たちです。火事場泥棒同然にこの機会に乗じた、「防衛力を増強しよう」「軍事予算を増やそう」などという煽動に乗せられてはなりません。ましてや、「九条改憲」「核共有」などもってのほか、危険極まりないといわねばなりません。
憲法9条本来の理念は、他国を武力によって威嚇する防衛思想を放棄し、国際的な信頼関係を醸成することによって、平和を築き戦争を予防しようということです。単に戦争を予防するだけでなく、信頼と協調で結ばれた平和な世界を創ろうということにほかなりません。本来、日本はそのような外交努力に邁進すべきなのです。
そのとき、なによりも大切なものは、信頼の獲得です。強大な武力を持つ国ではなく、戦争を放棄し戦力を持たない平和主義に徹した国であればこそ、世界のどの国からも、誰からも信頼してもらえます。その信頼に基づいた平和外交が可能となるのです。
戦争の原因となる相互不信の原因や、国際的な格差や飢餓や、搾取や不平等を解きほぐし信頼関係を構築するには、九条というソフトパワーは、強力なツールであり権威の源泉というべきです。
残念ながら今、日本は世界有数の軍事力を持ち、アメリカとの軍事同盟に縛られている現状で、九条はその力を十分に発揮してはいません。それでも、九条は、少なくとも専守防衛に徹することの歯止めとしての役割を果たしています。この歯止めがはずれた場合の恐るべき事態を防止しなければなりません。
これ以上、自衛隊を強化し、防衛予算を増やし、米軍の基地を増強し、さらには核共有までの議論を始めるとなれば、日本は、平和を望む諸国と人々に対する、国際的な信頼と権威をさらに失墜し、却って危険を招くことになるでしょう。
そうならないように、火事場泥棒に警戒を怠らず、ともに「今こそ九条を守れ」と声を挙げていただくよう、お願いいたします。日本と世界の平和のために。
(2022年5月9日)
本日の毎日新聞夕刊に、「『共食い』はごめんだ」という永山悦子論説委員の、IRに関する解説記事。『共食い』=「カリバニズム」は、まことに嫌な語感。指摘されてみると、賭博・博打・カジノは、まさしく『共食い』=「カリバニズム」そのものではないか。イヤーな語感も共通だ。さらに、IRは別の意味の深刻な「共食い」の舞台にもなるという。
「カリバニズム」と言わずに、「カニバリゼーション」というと、語感が変わるようだ。マーケッティング業界のテクニカルタームとして定着しているらしい。同じ企業の似たような製品同士が、購買層を「喰い合う」現象などをさすのだという。
永山の解説では、「米国では、カジノの経済的影響の一つに『カニバリゼーション』が挙げられる。日本語で共食いの意味だ。カジノへの支出が増えると、その分、同じ地域内の経済活動や消費への支出が減る。『カジノの繁栄はその周辺の経済活動を犠牲にしたもの』(鳥畑与一「カジノ幻想」)」という。カジノが、参加者同士の「共食い」であるだけでなく、地域経済における「共食い」でもあるという指摘なのだ。
大阪府・市が手を挙げた、人工島「夢洲」に計画されているカジノを含む統合型リゾート(IR)。このIRの経済的効果については、これまでは「こんな根拠薄弱な収支計画は絵に描いた餅、うまく行くはずがない」「破綻して、府民・市民に大きな負担をかけることになる」という悲観論の批判が強かった。
ところが、「仮に、こんな杜撰な収支計画が絵に描いた餅とならず、破綻なく順調に経営されてしまった場合」には、もっと大きな問題が出てくると言うのだ。それが、囲い込まれた夢洲IRが近隣の大阪商圏を喰ってしまうという「カニバリゼーション」。そのカラクリがこう説明されている。
「IRは、カジノだけでなく、エンタメ施設、ホテル、レストラン、国際会議場などを複合する巨大施設を指す。そこを訪れれば、だれもが仕事も娯楽も満足できるというコンセプトだ」「IRでは、カジノが利益の約8割を担う。カジノへ落とされるカネが経営を支えるから、IR側はカジノで長い時間を過ごさせたい。海外のカジノには『コンプ』という仕組みがある。コンプは、カジノのもうけを利用し、カジノを使う人にホテルや飲食などを格安で提供するサービスだ」「ただでさえIR内で用事が済むところ、コンプのようなサービスがあると、訪問者はIRに囲い込まれてしまう。施設外のホテルなどよりも安かったり、便利なサービスがあったりすれば、IRを選ぶ人も増える。地域産業は、とても太刀打ちできまい」
なるほど。これは、説得力がある。IRというビジネスモデルが成立するのは、収益の核としての大規模な「カジノ=賭場」があるからなのだ。健全な経済社会には存在し得ない「カジノ=賭場」とセットになっていればこそ、併設されているホテルも食堂も格安にできる。経営者はそのカジノの付属設備の魅力で客を吸収し、囲い込もうとする。真っ当な経済社会にある地域産業はとても太刀打ちできない。つまりは、客層はIRに吸い寄せられ囲い込まれて、喰われてしまうことになる。
現実に、「米国では、あちこちでカジノ周辺の産業が衰退に追い込まれている。『カジノは地域を壊す』と言われるゆえんだ。それは、誘致自治体が思い描く『地域の経済振興』とは正反対の姿」だという。大阪市民よ、府民よ。本当にこのままでよいのか。
永山は、この現象を、「人間同士の『共食い』」と表現して、「国や自治体が、『共食い』を推進するのは、どう考えてもおかしい」「立ち止まるのは、今からでも遅くない」と締めくくっている。
毎日だけではない。大阪府と「包括連携協定」を結んだ読売新聞までが、5月4日の社説で、「カジノ誘致 収益に頼る地域振興は適切か」と疑問を投げかけている。もちろん、「適切ではない」と言いたいのだ。但し、理由は少し違う角度。
「大阪府と大阪市は開業後、カジノの売り上げや入場料から、それぞれ年500億円以上が入ると見込んでいる。しかし、訪日客が順調に回復するとは限らず、過大な期待だと言わざるを得ない。
そもそも、来場者がカジノで失った賭け金を地域振興に使う成長戦略は適切なのか。国や自治体はギャンブル依存症の対策を進めるとしながら、カジノの収益に期待する姿勢は矛盾している。
当初は認定を最大3か所と定め、地域間で競わせる想定だったが、その思惑はすでに外れている。国や自治体は、IR事業の実現ありきではなく、その必要性を再検討する時期ではないか。」
もっとはっきり言うべきだろう。読売は大阪に、「カジノはもう止めた方がよい」と言いたいのだ。
この点は、朝日も同様である。
4月28日付の社説が「カジノ計画 このまま走る気なのか」という表題。「まさか、このまま突っ走る気ではないだろうね」という含意。
「今後、巨額の建設費が住民負担となってはね返る恐れはないか、仮に事業者が撤退した場合、誰がどう責任をとるのかなど、納税者の視点からの慎重な吟味が必要だ。
既にパチンコや競輪、競馬などの公営賭博があり、カジノ解禁がギャンブル依存症の患者をさらに増やすとの懸念は強い。地域の活性化とは何か。そのためにどんな施策を講じるべきか。腰を据えて考えるよう、社説は繰り返し訴えてきた。」
そして最後は大阪府・市に、こううながしている。
「『求められるのは、立ち止まり、引き返す勇気だ』。和歌山県が3月に開いたIRに関する公聴会で、公述人の一人はそう述べた。政府がいま、耳を傾けるべき至言である」
そう。今なら、まだ浅い傷で引き返せる。松井も、吉村も、取り返しがつかなくなる前に、「引き返す勇気」を持て。
(2022年5月8日)
本日、香港の次期行政長官が決まった。就任は7月1日だという。
この人事、形式は選挙だが実質は中国共産党の任命である。任命された李家超(ジョン・リー)とは、「北京への忠誠」故に取り立てられ、共産党支配の手駒となった人物。これまでもこれからも、露骨に民意を抑圧しようという姿勢を隠そうともしない。
選挙とは、民意が権力を構成する作用をいう。民意のあるところを見定め、民意が選任する人物に権力を託す手続である。残念ながら、香港では、徹底して民意が押さえ込まれてしまっている。選挙の条件が破壊されているのだ。国外からの武力侵略を受けて傀儡政権が作られたのとまったく同じ構図である。
民意を反映する公正な選挙の実現のためには、公正な普通選挙制度のみならず、政治的言論の自由、政治活動の自由、政治的結社の自由、報道の自由、教育の自由、等々の諸条件の整備が必要である。その総体を民主主義と呼ぶ。香港にはこの諸条件が備わっていたが、残念ながら野蛮な暴力によってこれを奪い取られたのだ。
その民主主義諸条件強奪の尖兵となったのが李家超にほかならない。200万人のデモを鎮圧したと言われる。こんな人物を行政トップに据える手続を選挙というのは、ひどいブラックジョークというほかはない。こんな手続が選挙の名に値するものではありえない。
この人、本日の記者会見で、「内外の脅威から香港を守る」と語ったと報じられている。聞いてみたい。あなたのいう守られるべき香港とは、いったいその実体は何なのか。そして、いったい誰から守ろうというのだ。
伝えられるこれまでの彼の言動からすれば、「内外の脅威」とは、「これまで香港に根強く育ってきた民主主義と、それを支援する民主的な国際世論」である。強権的な為政者にとっては、香港に民主主義が育つことが脅威なのだ。だから、「守られるべき香港」とは、民主主義の対立物としての一党専制ないしは個人独裁以外にはない。
香港の民意を制圧しての安定的な中国共産党支配の確立、これこそが北京の意を受けた警察トップ・李家超の役割である。これまでも、そのために民主派弾圧の先頭に立ってきた。北京に抜擢されて行政トップの地位を得た以上は、今後その期待に応えて、なお一層、民主派と民主主義の弾圧に精を出すことにならざるを得ない。
新行政長官は何をしようとしているのか。まずは、「フェイクニュース法」の制定を目指しているという。これまでも、李家超は、民主主義を奉じジャーナリズムの矜持を貫いたメデイアに対する弾圧を敢行してきた。だから、李が「フェイク」を取り締まるといえば、当局に不都合なニュースは全て「フェイク」とされるだろうと考えるべきが当然なのだ。合わせて、記者の個人情報を登録させ、政府が管理することも検討されていると報じられている。目指すは、報道管制社会である。
のみならず、国安法を上回る弾圧を可能とする、「国家安全条例」の制定について「必ずやる、迅速に制定する」とも述べているという。そこには、「反逆罪」や「国家機密窃取罪」などの創設も含まれているとか。民主主義の香港は、弾圧の香港に様変わりしつつあるようだ。
ロシアといい、中国といい、革命を成し遂げた大国の末路に唖然とするしかない。
(2022年5月7日)
5月15日沖縄「返還」50周年を目前に、あらためて沖縄が注目されている。沖縄の歴史と歴史を引き摺っての現状に関して。何人かの著名人がその思いや見解を発信しているが、知花昌一さんもそのうちの一人。彼は、戦後1948年の生まれで、沖縄中部読谷の出身。読谷は、米軍の沖縄本島の上陸地である。
1945年4月1日、米軍は、北谷、読谷に上陸した。この頃、現地のチビチリガマで「集団自決」が発生している。この米軍の上陸地点から、首里城の軍司令部までの戦闘地域を「中部戦線」と呼ぶ。日米が死力を尽くして戦った沖縄戦の主戦場である。
米軍は上陸地点である北谷・読谷から首里城までの10キロの進軍に、ほぼ50日を要している。沖縄守備軍は この間の兵力10万を投入して、7万4千人(主戦力のほぼ7割)を失っている。1日あたり千人以上の死者を出していたことになる。太平洋戦争での唯一の本土地上戦であり、もっとも激しい戦いともいわれる。
その読谷で生まれ育った彼も、高校生だった64年、沖縄にやってきた東京五輪の聖火ランナーを日の丸を振って迎えた。その日の丸は今も大切にとってあるという。「平和憲法があって、基本的人権がある。沖縄にないものが日本には全部あると思った」(以下、朝日)
その彼が、87年、読谷村の国体会場での日の丸を引き下ろして燃やした。なにが、そうさせたのか。
生まれ育った集落のはずれにある「チビチリガマ」が83年、本格的に調査された。スーパーを経営し、顔が広かった知花さんも参加。住民たちは少しずつ重い口を開き、沖縄戦で住民約140人が避難し、うち83人が「集団自決」した事実が初めてわかった。
近所の遠縁の女性は6歳の長男を亡くしていた。いつも酔っ払っているオジイは、家族5人を手にかけた苦しみを紛らわすために酒を飲んでいた。「たくさんの人が、語れない過去を抱えて生きてきたことを知ったのです」
72年に復帰が実現しても、米軍基地はなくならなかった。有事の核兵器の持ち込みを認めるなど、日米間の「密約」も次々と判明する。79年には、昭和天皇が終戦直後、沖縄の長期占領を望むとのメッセージを米国に伝えていたことも明らかになった。日本側の狙いについてはいくつかの解釈があるが、「沖縄は戦後も天皇に切り捨てられた」と映った。
沖縄で国体が開かれた87年、知花さんは、掲げられた日の丸を引き降ろし、燃やした。「差別され、差別から逃れようと『天皇の国家』を信じ過ぎてしまったのが沖縄。その後悔と痛みを抱えて生きる人たちに対して、また天皇を象徴する旗が押しつけられたから、降ろすしかなかった」
周知のとおり、刑法には「国旗損壊罪」などはない。それに代わるものとして、建造物侵入・器物損壊・威力業務妨害の3罪での起訴がなされ、有罪となった。量刑は、懲役1年・執行猶予3年。
合衆国連邦最高裁の判例では、思想上の信念から国旗を焼却する行為は、「象徴的表現行為」の法理に基づいて、無罪となり得る。当然、弁護側はそのような弁論もしたが、判決(控訴審判決。最高裁への上告はなかった)は、「事案を異にする」として逃げた。けっして、「象徴的表現行為の法理」を否定してはいない。
今、知花さんはこう言う。
「沖縄戦24万人の犠牲の上に残された教訓はたった二つです。
一つは、軍隊は住民を守らなかった。守らない。
二つは、教育の恐ろしさ、大切さです。」
今、ロシアのウクライナ侵攻を機に、「国民の安全のためにもっと強い軍隊を」と望む声が一部にある。もう一度、沖縄戦を思い起こしたい。
なお、私的なことだが、私と知花さんとは袖擦り合っている。
1997年4月、地位協定に基づく《米軍用地特措法》という悪法の、その《再改悪》法が、国会通過の運びとなった。要するに住民の意思にかかわらず、軍用地の拡張を可能とする立法。これに沖縄が猛反対し、反戦地主会がその闘いの先頭に立った。知花さんを含む反戦地主21名が国会の本会議を傍聴して、悪法成立の瞬間に、一斉に抗議の声をあげた。これが議員運営委員会には不快と映り、21名全員警察署送りというたいへんな事態になった。
自由法曹団からの連絡で、20名を超す弁護士が国会に駆けつけた(あるいは麹町署だったかも知れない)が、釈放ないまま身柄は分散留置ということになった。その留置先の一つに本富士署があり、そこに留置される被疑者については、私が弁護を引き受けることとした。私の事務所から、徒歩5分もかからない。たまたま、その本富士署に留置されたのが知花さんだった。
もう一人の弁護士と、深夜、大声で、接見させろ、釈放しろと要求を重ね、弁護人選人届をとった。4月17日午後の逮捕で、翌18日朝検察官と交渉し、19日朝になって勾留請求ないまま釈放が決まった。釈放指揮のあった正午頃、私は知花さんの身柄を引き取って、タクシーに乗せ、江戸東京博物館ホールでの集会に送り届けた。
幸い不起訴で事件は終了した。当時、私は多忙を極めていた。知花さんとの会話は、本郷から両国までのタクシーの中だけでのこと。あれから、知花さんと会う機会はない。私が「日の丸・君が代」強制問題と取り組むようになったのは、それからしばらくしてのことである。