(2022年2月14日)
北京オリンピックで大きく印象に残るものといえば、中国当局の強権的姿勢、それに対する各国の宥和的態度、不公正な審判、ドーピング等々、白けることばかり。人権を無視したこの国でのこんなオリンピック、どこにやる意味があるのか。何ともつまらぬと思っているところに、たった一つだけ興味のある「事件」が生じた。
2月11日のスケルトン男子に出場したウラジスラフ・ヘラスケビッチ(ウクライナ)が3回戦のレース後、「NO WAR IN UKRAINE(ウクライナに戦争はいらない)」と英語で書いたプラスターをテレビカメラに向けた。ロイター通信などによると、2度目の五輪となる23歳のヘラスケビッチは「私は戦争を望んでいない。母国と世界の平和を願っている。それが私の立場だ」と訴えたという。
言うまでもなく、ウクライナはロシア軍による軍事侵攻の危険に曝されており、米国のサリバン大統領補佐官は、「五輪期間中にもロシア軍による侵攻が始まる可能性がある」と表明している。その危機のさなかでの、「NO WAR IN UKRAINE」である。インパクトは大きい。
五輪憲章第50条は、「政治、宗教、人種的な意思表示」を禁じている。が、昨夏の東京五輪では、試合前や選手紹介中などであれば、節度ある範囲での行為は容認する方針に変わったとされる。東京五輪では、サッカー女子の試合開始前に人種差別に抗議するために片ひざをつく所作(ニーダウン)が見られた。
ヘラスケビッチのこの日の行動について、「IOCは『選手とこの件について話し合った。一般的な平和への願いなので、この件は決着した』としている」(朝日)。あるいは、「『平和を求める一般的な呼びかけだ』として、処分の対象にはならないという見解を示したということです」(NHK)と報じられている。
平和を求めることを「政治的意思表示」というだろうか。さすがにIOCも『平和を求める一般的な呼びかけ』を「政治的意思表示」として禁止するとは言えなかった。その意味するところは大きい。
「NO WAR IN UKRAINE」が許されるのだから、「NO WAR IN THE WORLD」が許されないはずはない。平和を求める一般的な呼びかけだけでなく、自由や人権や人種間の平等という普遍的な価値を求める一般的な呼びかけが、許されないはずはない。
オリンピックは世界から切り離された特殊な空間ではない。ここでも、人間の尊厳が確保され、人権が尊重され、差別が禁止され、そして表現の自由が保障されてしかるべきではないか。
とすれば、「世界に基本的人権を」「中国に表現の自由を」「新疆ウイグル自治区になきなき民族間の平等を」などというスローガンの意思表示が禁止されてはならない。
(2022年2月13日)
仙台高裁の岡口基一判事(55)が、国会に設けられている裁判官弾劾裁判所(裁判長・船田元)に罷免訴追されたのが昨年(21年)の6月。その第1回公判期日が3月2日に指定され、召喚状が送付された。
弾劾裁判所は衆参両院の議員7人ずつ計14人の「裁判員」で構成され、3分の2以上の賛成で罷免される。罷免以外の処分はなく、仮に罷免判決となれば不服申し立ての手続はない。罷免の効果として、岡口判事は法曹資格を失う。弁護士としての登録もできない。
報道によれば、罷免訴追は、2012年に盗撮事件で罰金刑を受けた大阪地裁の判事補以来で9人目(10件目)となった。そのうち過去7人が弾劾裁判で罷免判決を受けているという。また、初公判では人定質問や訴追状朗読などの手続きが行われ、2回目以降の期日は未定だが、判決は今国会中に言い渡されると言われている。
法廷は公開である。傍聴手続は以下のとおり。
○事 件 名 罷免訴追事件(令和3年(訴)第1号)
○開 廷 日 時 令和4年3月2日(水)午後1時30分
○場 所 裁判官弾劾裁判所(参議院第二別館南棟9階)
○傍 聴 席 数 19席
○申込み方法等 2月24日(木)の正午までにメール又ははがきで申し込まれた方を対象に抽せん。
メールで申し込まれる方はこちらから
https://www.dangai.go.jp/info/boucho.html
はがきで申し込まれる方は、住所、氏名、電話番号を明記の上
郵便番号 100?0014
東京都千代田区永田町一丁目11?16参議院第二別館内
裁判官弾劾裁判所事務局総務課宛てに申し込みを
私は、昨年8月にこの件についての記事を当ブログに掲載した。目を通していただけたらありがたい。
弾劾裁判所は、岡口基一裁判官を罷免してはならない。
(2021年8月28日)
https://article9.jp/wordpress/?p=17458
「不当な訴追から岡口基一裁判官を守る会」が作られ、罷免に反対する共同声明への賛同者を募集し集約している。
https://okaguchi.net/
https://okaguchi.net/?page_id=93
岡口基一裁判官の罷免に反対する共同声明
本年(2021年)6月16日、仙台高等裁判所判事である岡口基一氏が、裁判官訴追委員会により裁判官弾劾裁判所に罷免訴追された。訴追状によれば、都合13件にわたる訴追事由が挙げられているところ、いずれも職務と関係しない私生活上の行状であり、その全てがインターネット上での書き込み及び取材や記者会見での発言という表現行為を問題とする訴追となっている。
訴追事由13件のうち10件は、殺人事件被害者遺族に関するものであり、その中には遺族に対してなされたものもあり、内容的あるいは表現的に不適切なものもないわけではなく、この点同判事にも反省すべき点があるのかもしれない。しかしながら、弾劾裁判による罷免は、裁判官の職を解くのみならず退職金不支給、法曹資格の剥奪という極めて厳しい効果をもたらす懲罰であり、裁判官の独立の観点から、軽々に罷免処分がなされてはならない。重大な刑事犯罪により明らかに法曹として不適任な者に対してなされてきた従前の罷免の案件とは異なり、本件には刑事犯罪に該当する行為はなく、行為そのものも全て職務と関係しない私的な表現行為であって、従前の罷免案件に比べ明らかに異質である。このような行為に対する罷免は過度な懲罰であり、岡口氏個人としての人権上も極めて問題であるばかりか、裁判官の独立の観点から憂慮すべき事態である。また、本件が先例となることにより、裁判官の表現行為その他私生活上の行状に対する萎縮効果も極めて大きい。本件行為に不適切性があるとするなら、話し合いや直接の謝罪等で解決されるべきであり、罷免とすることは相当ではない。
私たちは、裁判官弾劾裁判所に対し、従前の案件との均衡や弾劾裁判所による罷免の重大性等を十分考慮の上、罷免しないとする判決をされるよう要請する。
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現在、元裁判官(21人)と、弁護士(985人)、および「裁判所職員、司法書士、その他の士業、司法修習生」が賛同者として名を連ね、コメントを寄せている。
まず私のコメント
澤藤統一郎 司法の独立の核心は、個々の裁判官の独立にある。司法行政の統制に服することなく市民的自由を意識的に行使しようという裁判官は貴重な存在である。最高裁にも政権にもおもねることなくもの言う裁判官の存在も貴重である。その貴重な裁判官を訴追し罷免することは、司法の独立の核心を揺るがすことであり、政治権力による司法部に対する統制を許すことにもなる。けっして罷免の判決をさせてはならない。
そして、元裁判官の何人かのコメントをご紹介したい。
井戸謙一
弾劾裁判による罷免は、比例原則に違反します。更に他の裁判官は、表現活動で枠を踏み越えると強烈なサンクションが待っていると学習すれば、今以上に、内に閉じこもることになるでしょう。裁判所全体に与える悪影響は図り知れません。
森野俊彦
「私たちの主張」にもあるとおり、岡口氏の言動中には不適切なものもあるが、これに対して死刑ともいうべき「弾劾罷免」に処することは、到底納得し難く、それでなくとも社会に対して発言しない裁判官をますます萎縮させることになるから、百害あって一利なしというべきである。
山田徹
岡口君ほど,法律関係の最新の情勢をフォローし,調べた上で自ら考え,臆さずに発信してくれる現役の裁判官はいない。だからこそ今回の件では言い過ぎたところがあるかもしれないが,裁判官としての能力や資質は、明らかに人並み以上である。彼を罷免することなど,法曹界だけでなく社会にとって大きな損失であるし,戒告処分で終わったはずのことである。たくさん物を言ったからといって,そのごく一部分だけをとらえて,これも表現の自由を体現している白ブリーフ写真などと適宜リンクさせるなどして,出る杭は打つかのごとく,自由に物を言える雰囲気を,国家が奪おうとするのであれば,ヒラメ裁判官の養殖こそが優先されることにもなり,貴重な情報に市民が触れることもできなくなり,これこそ表現の不自由展を国が主宰しているようなものだ。訴追委員会や弾劾裁判所を構成する国会議員は,そういったことをわかっているのか。
仲戸川隆人
裁判官弾劾法2条2号は,「その他職務の内外を問わず,裁判官としての威信を『著しく』失うべき非行があったとき」を弾劾による罷免の事由と規定している。弾劾による裁判官の罷免は,裁判官を失職させるばかりか,法曹資格を5年以上の長期にわたって喪失させるもので,その法律効果が極めて重大な制裁であるから,その法律要件である同号の「裁判官としての威信を『著しく』失うべき非行」の解釈適用にあたっては,『著しく』を厳密に解釈し,過去に弾劾裁判で罷免された事案の様に,刑事罰に該当する行為や明確な違法行為に匹敵する行為に限定して適用すべきものである。そうすると,本件で,仮に,訴追状記載の13の各事由が認められたとしても,また,これらを総合して評価をしたとしても,同号の「裁判官としての威信を『著しく』失うべき非行」に該当すると判断することはできない。万一,本件で岡口基一裁判官を罷免する判決がなされた場合,同号の構成要件を幅広く拡張して解釈して適用する悪しき先例となるから,裁判官の表現行為にとどまらず,裁判官の身分保障,裁判の独立,裁判官の市民的自由に対して計り知れない深刻な影響を与えると考える。
下澤悦夫
1 岡口基一裁判官が、2015年11月12日発生の強盗殺人、強盗強姦未遂刑事事件及び犬の返還請求民事事件に関して、インターネット上で発言した行為は、いずれも憲法が保障する表現の自由に基づいて裁判官に許された行為である。
2 したがって、岡口基一裁判官の前記表現行為は、裁判官として、裁判官弾劾法第2条第1号所定の職務上の義務に著しく違反し、又は職務を甚だしく怠ったときに該当せず、また、同条第2号所定の裁判官としての威信を著しく失うべき非行があったときに該当しない。
3 裁判官弾劾裁判所が岡口基一裁判官に対して、前記刑事事件及び民事事件に関してインターネット上で発言したことを理由に罷免の裁判をすることは違法かつ不当である。
なお、裁判官弾劾裁判所裁判員等名簿は以下のとおり。
裁判長 船田 元(衆・自民)
第一代理裁判長 松山 政司(参・自民)
第二代理裁判長 階 猛(衆・立民)
衆議院選出裁判員
山本 有二(自民)
稲田 朋美(自民)
山下 貴司(自民)
杉本 和巳(維新)
北側 一雄(公明)
参議院選出裁判員
有村 治子(自民)
野上 浩太郎(自民)
鉢呂 吉雄(立憲)
古賀 之士(立憲)
安江 伸夫(公明)
片山 大介(維新)
(2022年2月12日)
「建国記念の日」にこだわりたい。昨日付の産経社説(「主張」)が、「建国記念の日 子供たちに意義を教えよ」というもの。この非論理、このバカバカしい論調が危険極まりない。陳腐なアナクロと看過するのではなく、批判や非難が必要である。「現在の滴る細流が、明日は抗しがたい奔流となりかねない」のだから。私も、子どもたちに語りかけてみよう。産経に騙されてはならないと。
皆さん、誰もが自分の意見を言ってもよい社会です。この世にはいろんな意見が入り乱れています。ですから、とんでもない意見も堂々と述べられていることに気を付けなければなりません。自分の頭で考えて、納得できるものでことを選ばなくてはなりません。たとえば、産経のような大新聞の社説を読むときにも、とんでもないことが述べられているのではないかと批判の目を失ってはいけません。もちろん、私(澤藤)の意見についてもです。
「辛(かのと)酉(とり)の年の1月1日、初代の神武天皇が大和の橿原宮で即位した。よってこの年を天皇の元(はじめ)の年となす―と、日本の建国の由来が、日本書紀に記されている。」
ここには、「日本の建国の由来」が書かれていますが、二つのことに気を付けてください。一つは、「日本の建国の由来」が史実に基づくものではなく、神話をもとに語られていることです。そしてもう一つは、初代天皇の即位を「建国」としていることです。
未開の時代にはそれぞれの部族がそれぞれの神話を作りあげましたが、文明が進歩するにつれて、考古学や歴史学に基づく客観的な史実を重視するようになりました。いまだに、国の成り立ちを神話に求めて「これこそ自国のプライドの源泉」とメルヘンを語ることは、独りよがりではありますが微笑ましいとも言えましょう。しかし、神話に基づいて「日本=天皇」と言いたくてならない産経のような主張には警戒を要します。悪徳商法の騙しに警戒しなければならないように、です。
明治維新以来敗戦まで、日本は紛れもなく「天皇の国」でした。そこでは、天皇の天皇による天皇のための政治が行われ、天皇の命令として国民は軍隊に組織され、侵略戦争が行われました。また苛酷な植民地支配も行われたのです。「天皇の国」は、軍国国家、侵略国家でした。戦後の憲法は、その反省から出発しています。
今、強調すべきは、天皇の支配する国であった日本を徹底して清算することで、「平和を望む国民が主権者の日本」の姿をき近隣諸国に見てもらうことではないでしょうか。戦争を起こした天皇(裕仁)はその責任を認めず、謝罪しないまま亡くなりました。いま、「日本=天皇」と繰り返すことは、とんでもない時代錯誤だと言わざるを得ません。
「この日は今の暦の紀元前660年2月11日にあたり、現存する国々の中では世界最古の建国とされる。科学的根拠がないから必要ないという批判はあたらない。大切なのは、日本が建てられた物語を私たちの先祖が大切に語り継いできた積み重ねである。」
「科学的根拠がないから必要ない」の意味上の主語は、「建国記念の日」のようです。しかし紀元節復活反対は、「建国記念の日は科学的根拠がないから必要ないという批判」をしているわけではありません。少なくも私は、「必要ない」ではなく、「有害だから認めない」と批判をしているのです。なぜ有害なのか、天皇という存在、天皇を戴くという制度が、諸悪の根源だと考えるからです。
「日本が建てられた物語を私たちの先祖が大切に語り継いできた」は、大嘘だと思います。神武東征の物語とは架空のものにせよ、勝者が敗者を武力で制圧した物語です。勝者の物語だけが残りましたが、敗者の怨みの物語は消えていったのです。
明治期にまったく新しく作られた近代天皇制は、暴力に支えられたものでした。大逆罪、不敬罪、治安警察法、治安維持法、国防保安法、新聞紙法、出版法…。天皇の権威を認めない者にはいくつもの弾圧法規による重罰が科せられました。正式な裁判を経ることなく、特高警察に虐殺された人も少なくありません。この史実に目を背けることは許されません。
「建国神話を軍国主義と強引に結びつけた批判が一部に残っているのは残念である。日教組などの影響力が強い学校現場でも、建国の由来や意義はほとんど教えられていない。」
「建国神話と軍国主義とは、故なく強引に結びつけられた」ものではありません。「日本書紀」には、神武天皇が大和橿原に都を定めたときの神勅に、「八紘(あめのした)をおおいて宇(いえ)と為(せ)んこと、またよからずや」とあります。ここから「八紘一宇」(世界を、天皇を中心とする一つの家とする)というスローガンが生まれ、朝鮮・満州・蒙古・中国への侵略を正当化したのです。
正義凛(りん)たる 旗の下
明朗アジア うち建てん
力と意気を 示せ今
紀元は二千六百年
ああ弥栄(いやさか)の 日はのぼる
国民は、これに乗せられました。今、同じことを安倍晋三や産経がやろうとしています。批判の精神が必要なのです。
「中学校学習指導要領は「日本人としての自覚をもって国を愛し、国家及び社会の形成者として、その発展に努めること」と定めている。国の成り立ちを知らなければ、真に国を愛せようか。」
このような立場を歴史修正主義と言います。あるいは、「愛国史観」と言ってもよいでしょう。本来、大切なのは客観的・科学的に歴史的真実を見つめる姿勢です。ところが、産経の態度はそうではありません。まず、「国を愛する」ことが求められています。そのうえで、「国を愛する」立場から「国の成り立ち」を学べというのです。しかも、その国の成り立ちが、非科学的な架空のものであることは産経とても認めざるを得ません。要するに、史実も科学もどうでもよい。大事なのは、神話を信じて伝承することだ。そうすれば、子どもたちに、天皇制の素晴らしさを植え付けることができる、と言っているのです。
「きょう、子供たちに日本の建国の由来と意義を教えよう。そして私たちに繁栄した祖国、ふるさとをバトンタッチしてくれた先人に感謝しよう。」
産経新聞の立場は、基本的に戦前と変わらないものです。私はこう言うべきだと思います。「きょう、子供たちに、日本の建国の由来とされているものが、実は後の世の政治権力が捏造したまったくのウソであることをしっかりと教えよう。さらに、そのウソが国民を戦争に駆りたてるために利用された危険なものであることも教えなければならない。そして、天皇制政府の暴虐に抵抗して虐殺された先人を悼み、それでも抵抗を続けた人々を讃え感謝しよう。」
(2022年2月11日)
「建国記念の日」である。言わずと知れた旧紀元節。かつて、この日が当てずっぽうに「初代天皇即位の日」とされ、それゆえに「建国の日」とされた。天皇制の発祥と、日本の建国とは同義だった特異な時代でのこと。また、この日は大日本帝国憲法公布の日ともされた。いまどき、こんな日をめでたがってはならない。
ところが、この日を奉祝しようという一群の勢力がある。いまだに、天皇制という洗脳装置によるマインドコントロール状態を脱しきれていない哀れな人々と、この哀れな人々を利用しようとたくらむ輩と。その勢力にとっては、本日こそが「褒むべき天皇制起源の祝祭日」であり、「歴史修正主義奉祝記念日」でもある。
本日を我が国の「建国記念」の日とすることは、我が国を「フェイク国家」と貶め、明治期に急拵えされた天皇制絶対主義のチャチな欺しを容認しているという証しにほかならない。
我が国の近代は珍妙な宗教国家であった。ようやくにして1945年8月に、あるいは遅くとも1947年5月には、旧国家から断絶して国家存立の基本原理をまったく新たにする「普通の価値観国家」となった。が、この断絶にはいくつもの穴があって、往々にして戦前と戦後が相通じている局面に遭遇せざるを得ない。戦前と戦後の断絶を明確に認識する史観と、連続性を強調する史観とがせめぎあっている。本日は、そのことを意識させられる日。
本日、《「建国記念の日」を迎えるに当たっての内閣総理大臣メッセージ》なるものが官邸のホームページに掲載された。その幾つかの節を取りあげたい。
「「建国記念の日」は、「建国をしのび、国を愛する心を養う」という趣旨のもとに、国民一人一人が、遠く我が国の成り立ちをしのび、今日に至るまでの先人の努力に思いをはせ、さらなる国の発展を願う国民の祝日です。」
典型的な連続史観の表白である。「愛すべき国の成り立ちは、連綿たる遠い過去にある」として、そのように位置づけられた国の発展を願う、という。国民主権国家、平和国家、人権尊重国家として生まれ変わったこの国の大原則を大切にしよう、とは言わないのだ。
「長い歴史の中で、我が国は、幾度となく、大きな困難や過酷な試練に直面しましたが、その度に、先人たちは、勇気と希望を持って立ち上がり、明治維新や戦後高度経済成長など、幾多の奇跡を実現してきました。」
これにも驚かざるを得ない。神権天皇制を拵え上げ、その集大成としての欽定大日本帝国憲法制定に至った明治維新を「勇気と希望をもってする奇跡」と全面肯定し、戦後民主主義と日本国憲法の価値には言及しない。「建国記念の日」とは、明治政府がデッチ上げた皇国史観再確認の日のごとくである。
岸田メッセージには、わずかに「自由と民主主義を守り、人権を尊重し、法を貴ぶ国柄を育ててきました」とあるが、いかにも歯切れが悪い。「自由と民主主義を守り」は、自由民主党という党名の枠内のものであろうし、「人権を尊重し、法を貴ぶ」は、大日本帝国憲法の法律の留保を連想させる。たとえば、第29条「日本臣民は法律の範圍?に於て言論?作集會及結?の自由を有す」のように。せっかく「人権を尊重し」と言いながら、これに「為政者の作った法を貴ぶ」をくっつけることによって、人権制約を強調しているのだ。
「先人たちの足跡の重みをかみしめながら、国民の命と暮らしを守り抜き、全ての人が生きがいを感じられる社会を目指す。「建国記念の日」を迎えるに当たり、私は、その決意を新たにしております。」
この岸田の決意の内容が、悪かろうはずはない。しかし、「建国記念の日」を迎えるに当ってのメッセージとなると、どうしても違和感を拭えないのだ。ちょうど、「靖国に詣でて平和を祈念する」「伊勢神宮で民主主義を語る」がごとくの甚だしい場違いなのだ。
言うまでもないことだが、明治政府は天皇の権威を拵えあげ、これをもって国民を統合し統治しようとの設計図を描いた。天皇は神であり、道徳・文化の源泉であり、しかも大元帥であって、それ故に統治権の総覧者とされた。神権天皇制とは、この壮大なデマとフェイクに基づくマインドコントロールの体系であった。このフィクションを国民に対して刷り込むために国家権力が総力をあげた。学問・教育とメディアを徹底して国家統制とした。そのための弾圧法体制を幾重にも整備した。理性を持つ者は、沈黙するか面従腹背を余儀なくされ、あるいは非国民として徹底して弾圧された。
紀元節とは、そのような諸悪の根源であった天皇制の起源と意味付けされた日である。言わば、「天皇制の誕生日」なのだ。とうてい穏やかには迎えられない。
赤旗が、本日の主張で「負の歴史刻んだ過去の直視を」と、紀元節問題を取りあげている。要旨以下の通り。
「きょうは「建国記念の日」です。もともとは戦前の「紀元節」でした。明治政府が1873年、天皇の権威を国民に浸透させるため、「日本書紀」に書かれた建国神話をもとに、架空の人物である神武天皇が橿原宮(かしはらのみや)で即位した日としてつくりあげたもので、科学的・歴史的根拠はありません。
朝鮮半島の支配をロシアと争った日露戦争の宣戦布告も1904年2月10日におこなわれ、11日に新聞発表されました。国民を侵略戦争に駆り立てるために「紀元節」を利用することは、1941年12月8日に開始されたアジア・太平洋戦争のもとでいっそう強められました。
負の歴史を背負った「紀元節」は戦後、国民主権と思想・学問・信教の自由を定め、恒久平和を掲げた日本国憲法の制定に伴い、48年に廃止されました。ところが佐藤栄作内閣が66年、祝日法を改悪して「建国記念の日」を制定し、「紀元節」を復活させて今日に至っています。
日本政府が侵略と植民地支配の負の歴史を認めようとしないのは、根深い歴史修正主義の考えがあるからです。登録推薦を行うのなら、戦時中の朝鮮人強制労働の歴史を認めるべきです。
今こそ歴史の事実と向き合い、憲法9条にたったアジアの平和外交への転換が求められています。」
ここに間違ったことは書かれていない。まったくそのとおりではある。が、教科書を読ませられるような淡々たる印象はどうしたことか。この文面には、天皇制に対する怒りのほとばしりがない。天皇制に虐殺された多くの共産党員の怨念が感じられない。社会進歩を目指した真面目な活動家たちや、その思想・信条や信仰のゆえに天皇制に弾圧された人々への、苦悩や怒りへの共感が感じられない。
そして、今なお権力の道具として危険な存在である象徴天皇制への警戒心もみられない。本来は、今日こそ天皇制の危険を訴えるべき日ではないか。
(2022年2月10日)
救援新聞2月15日号(旬刊)が届いた。国民救援会元会長・山田善二郎さんの訃報が掲載されている。享年93、私もこの記事のとおり、「生前のご活躍に深く感謝するとともに、謹んで哀悼の意を捧げます」と心から申しあげる。
同じ号に、いくつもの重要な弾圧事件・再審事件の動きが報道されている。倉敷民商・禰屋事件、鹿児島・大崎事件、静岡・袴田事件、東京・乳腺外科医師事件など。そして、日弁連の再審法改正に関するシンポジウム紹介が充実している。このシンポで、冤罪犠牲者を代表して発言した桜井昌司さん(茨城・布川事件再審無罪の元被告)は、こう語っている。この人の言葉は重い。
「証拠を捏造する警察、無実の証拠を隠す検察官、それらの経過を見逃し、科学的証拠を無視して有罪にする裁判官。今の日本は法治国家とは言えない。法の改正を議論する際に、冤罪体験者の声をなぜ聞かないのか。あなたが冤罪になったとき、今の制度でいいのか、ということです。一日も早く、再審法改正が実現できるようがんばります」
「無実の証拠を隠す検察官」の実例として、東京・小石川事件が取りあげられている。「検察の証拠隠しに抗議 誤判究明を妨害するなと宣伝。東京高裁」という見出し。この事件、日弁連が再審支援をしている事件の一つだが、まだ十分に知られていない。
私がこの記事に目を引かれたのは、次の一行である。再審弁護団からの証拠開示請求に対して、検察官はこれを拒否する理由としてなんと言ったか。
「証拠を開示することは確定判決を全面的に見直すことになり、確定判決の法的安定性を損なう」
なんという言いぐさだろう。「再審請求人の人権」よりも「確定判決の法的安定性」が大切だというのだ。私の耳にはこう聞こえる。「せっかく苦労して獲得した有罪判決だ。隠していた証拠をさらけ出して無罪となったら、これまでの苦労が水の泡じゃないか。再審事件の裁判所は、これまで検察側で選んで出した証拠だけで判断してもらいたい」
刑事事件における法的正義とは、単純明快である。「無実な人には無罪の判決を」「厳格な有罪の立証ができない限りは無罪の判決を」ということに尽きる。このことは、「被告人の人権を尊重し、権力の抑制を求める」ことでもある。被告とされた人の人権は、再審手続においても、大切な人権であることに変わるはずはない。
小石川事件の概要
http://www.kyuenkai.org/index.php?%BE%AE%C0%D0%C0%EE%BB%F6%B7%EF
2002年8月、東京都文京区小石川のアパートで、一人暮らしの女性(当時84歳)の遺体が発見されました。約1カ月後、同アパートで恋人と同居していた伊原康介さんが、アパートの別の部屋から現金8万円を盗んだ件で逮捕・起訴され、ほか2件の窃盗容疑で追起訴されました。その勾留中に強盗殺人の犯人だと取調べを受け、否定しましたが、嘘や暴力をともなう執拗な取り調べで約4カ月半後に「自白」をさせられました。裁判では無実を訴えましたが、無期懲役刑が確定し、千葉刑務所に収監。獄中から訴えを続け、日弁連がえん罪事件として支援を決定し、2015年、東京地裁に再審請求を申し立てました。東京地裁は2020年3月不当にも再審請求を棄却し、現在東京高裁に即時抗告をしています。
情況証拠のみで有罪
原審によれば伊原さんは、2002年7月31日午後9時10分ごろ、アパート2階に住む女性の居室において、整理タンス上の小物入れを物色中、女性に気づかれたので、女性の背後からタオル等を口部等に押し当てて引き倒し、口の中にタオルを押し込むなどして窒息死させ、現金約2千円が入った財布を強取したとされています。
有罪の根拠は、?被害者宅の小物入れ内のスキンローションの瓶から伊原さんの指紋が採取された ?死亡推定時刻にアリバイがない ?外部から侵入した形跡がない ?100万円以上の借金があり、財政的にひっ迫していた ?所持金がなかったのに、事件翌日にコンビニで買い物をしたなどの状況証拠と「自白」だけです。
残るはずの痕跡なし(再審請求の新証拠)
●犯人のDNA型と一致しない
確定判決では「自白」を根拠に、伊原さんが被害者女性と激しくもみ合い、女性を仰向けに倒し、柔道の袈(け)裟(さ)固めのような体勢にして、タオルを口の中に押し込んだとされています。このような犯行態様であれば、タオルに犯人の皮膚片や垢等が付着するため、DNA型が検出される可能性が高くなりますが、弁護団の鑑定結果によると、タオルから検出されたDNA型は伊原さんのものとは異なることが判明しています。
●着衣の繊維が検出されていない
被害者を倒して、自身の身体を被害者に強く押しつけた場合、被害者の手指や着衣に、犯人の着衣の繊維が付着します。ところが検察側提出の鑑定書には、被害者の手指等から、伊原さんのシャツに類似する繊維が付着していたと記載があるのみでした。弁護団の鑑定によれば、伊原さんの着衣の繊維は1本も検出されませんでした。
●物色したタンスに指紋がない
確定判決は、伊原さんが整理タンスの小物入れを開けて、中を物色したとしています。伊原さんの指紋が付いたとされるスキンローションの瓶は、小物入れに入っていました。しかし、小物入れの前にはラジオが置いてあり、どかさなければ戸の開け閉めはできません。ラジオからも物色したとされるタンスからも、伊原さんの指紋は検出されていません。瓶の指紋は、事件の1カ月前に伊原さんが窃盗で同女宅に侵入した際に付いた可能性が高いものです。
伊原さんは、逮捕以来3カ月半以上も勾留され、犯行に関わりのない昏睡強盗の別件を持ち出され、殺人を認めれば別件は起訴しないとの利益誘導や偽計、脅迫を受けました。「自白」をした日は、トイレも行かせてもらえず、取調べの警官から平手で殴られる、胸倉をつかまれるなどの暴行が加えられました。
確定判決の根拠とされた「自白」は客観証拠と矛盾し信用できず、取調べの経過から任意性も認められません。情況証拠はいずれも弱く、伊原氏を本件犯行と結びつける証明力はありません。
不当な東京地裁の再審棄却決定
ところが、再審を担当した東京地裁は、弁護団の度重なる証拠開示の要請に対して、充分な開示を行わず、事実調べも行わないまま不当な再審請求棄却決定を送りつけてきました。
この決定は、弁護団の新証拠に対して充分な検討もせずに、あれこれと難癖をつけて、「採用できない」とする不当なものです。伊原さんは「充分な証拠開示や審理を尽くさず、何も調べようとしないのは悲しい」と述べています。
弁護団は即時抗告を行い、たたかいは東京高裁に移ります。引き続きご支援をお願いします。
(2022年2月9日)
石原慎太郎の死去が2月1日だった。「棺を蓋いて事定まった」はずなのだが、この人の場合、生前にもまして毀誉褒貶のブレが大きい。石原の同類や同類へのへつらいが、こんな人物を褒めたり、懐かしがったり、持ち上げたりしている。この際、石原の死に際して、誰がなんと言ったかをよく覚えておこう。 「自分は石原なんぞとの同類ではない」と声をあげている人が清々しい。たとえば、本日の東京新聞「本音のコラム」欄、斎藤美奈子の「無責任な追悼」という一文。抜粋しての引用。爽やかに辛辣である。
「石原慎太郎氏は暴言の多い人だった。『文明がもたらしたもっとも有害なものはババア』『三国人、外国人が凶悪な犯罪を繰り返している』。暴言の多くは、女性、外国人、障害者、性的マイノリティなどに対する差別発言だったが、彼は役職を追われることも、メディアから干されることもなかった。そんな「特別扱い」が彼を増長させたのではなかったか。
…作家としての石原慎太郎の姿勢にも私は疑問を持っている。朝日新聞の文芸時評を担当していた2010年2月。「文学界」3月号掲載の『再生』には下敷(福島智『盲ろう者として生きて』)。当時は書籍化前の論文)があると知り、両者を子細に読み比べてみたのである。
と、挿話が同じなのはともかく表現まで酷似している。三人称のノンフィクションを一人称に書き直すのは彼の得意技らしく、田中角栄の評伝小説『天才』も同様の手法で書かれている。これもまた『御大・石原慎太郎だから』許された手法だったのではないか。
各紙の追悼文は彼の差別発言を「石原節」と称して容認した。二日の本紙(東京新聞)「筆洗」は『その人はやはりまぶしい太陽だった』と書いた。こうして彼は許されていく。負の歴史と向き合わず、自らの責任も問わない報道って何?(文芸評論家)」
浮かび上がる石原像は、基本的に汚い。そして、弱い者イジメを売り物にした唾棄すべき男。
もう一つ、紹介しておきたい。本日配送された週刊金曜日に、斎藤貴男の「弔辞」が掲載されている。「ヘイトやフェイクの時代の先駆者、石原慎太郎氏への弔辞」というタイトル。その記事の中に、こんなことが書かれている。私は、初めて知って仰天した。
「石原氏は16年東京五輪の招致活動で、IOC(国際オリンピック委員会)のロゲ会長(当時)に手紙を書いている。〈忌まわしい戦争〉から解放された少年時代に、〈民族を違えても人間は人間としてある〉と痛感したとする回顧から書き起こされ、わが祖国はその戦争への反省から〈戦争放棄を謳った憲法を採択し〉て今日に至った、日本で〈民族の融和、国家の協調を担う大きなよすがとなるオリンピックを行うことは、世界の平和に大きな貢献ができるものと信じます〉と結ばれていた。
大嘘だった。近頃の若者がダメな理由はと問われた彼が「60年間戦争がなかったから」「『勝つ高揚感』を一番感じるのは、スポーツなどではなく戦争だ」と断じたのは五輪招致を言い出す半年前(『週刊ポスト』05年1月14・21 日号)。招致失敗後も何も変わらなかった。」
斎藤貴男による石原評は、さすがに鋭く的確である。「石原氏は安全圏から標的を見下し、せせら笑って悦に入る。思えばヘイトやフェイクが猖獗を極める時代の、彼は先駆者だった。」「権力者にとって便利な人だった。躊躇のない差別は、新自由主義や、もちろん戦争の大前提であり、“理想”でもあるからだ。都政を私するコソ泥三昧が許された所以か。」「慎太郎的なるものの定着などあってはならない。合掌。」
一方、こちらは、石原慎太郎と同じ穴のムジナか、ムジナへの迎合者たちの弁である。NHK・Webnewsに掲載された、「石原氏の死去を受けて、各界から悼む声が上がっています」という、延々たる記事の見出しを並べてみただけのもの。
岸田文雄首相「重責を担い大きな足跡を残された 寂しいかぎり」
自民で政調会長など歴任 亀井静香氏「『太陽が沈んだ』」
ジャーナリスト 田原総一朗さん「大きな衝撃で仰天 大ショック」
自民 茂木幹事長「カリスマ性あり 時代代表する政治家 言論人」
自民 安倍晋三元首相「既成概念に挑戦し続けた政治家」
自民 二階元幹事長「惜しい政治家を亡くした」
自民 古屋憲法改正実現本部長「遺志に応え改憲実現を」
自民 長島昭久衆院議員「政界でおやじのような存在」
維新 松井代表「経験豊富 丁寧な指導に感謝」
維新 馬場共同代表「生の政治について指導していただいた」
維新 鈴木宗男参院議員「筋を通す 芯がある政治家」
芥川賞受賞 田中慎弥さん「一度 お目にかかりたかった」
舘ひろしさんがコメント「偉大で稀有な存在でした」
野田元首相「尖閣諸島めぐる激論 忘れられない」
元都知事 猪瀬直樹氏「存在感のある人だった 喪失感が大きい」
小池都知事がコメント「強い思いを受け継ぎ 尽力」
東京五輪・パラ 組織委 橋本会長「レガシー 大事に育てていく」
JOC 山下会長がコメント「日本スポーツ界の発展に多大なる貢献」
(2022年2月8日)
昨日の午前11時東京地裁631号法廷で、東京「君が代」裁判・第5次訴訟・第3回ロ頭弁論期日が開かれた。
原告は、この日3通の準備書面を提出した。「10・23通達」に関連の最高裁判決における合違憲判断の枠組みが原告の主張を正確にとらえていないこと(準備書面(3))、教育の本質と戦後教育改革の理念とを踏まえた旭川学テ最高裁大法廷判決を論じて(準備書面(4))、その理念に逆行している東京都の教育現場の実態、とりわけ特別支援学校において分かり易く可視化されている「日の丸・君が代」強制の反教育的性格(準備書面(5))を裁判官に訴えた。
この日の法廷では、原告2名と代理人弁護士1名が口頭で意見を陳述した。原告はその心情を吐露し、弁護士は合計200ページ余の3通の準備書面の要約を語った。当然のことながら、弁護士陳述は感動的なものたり得ないが、原告の意見陳述はこのうえなく感動的なものであった。3名の裁判官とも、いずれも真摯な態度でよく耳を傾けてくれた。
強制されてなお、国旗・国歌(日の丸・君が代)への敬意表明をしがたいという教員の姿勢は、けっしてわがままでも、独りよがりでもない。教員としての職責のあり方を突き詰めて考え、自分自身の教員としての生き方を裏切ることができないという重い決意で、不起立に至っている。そのことの重さが裁判官にも伝わったのではないかと思う。
情報や論理については「書面を読めば分かる」ものでもあろうが、肉声でなくては伝わらないものもある。人の精神の奥底にある懊悩や、それを克服しての決意の重さは、文字では伝わりにくい。原告お二人の陳述は、聞く人の胸に訴え、人の心を動かす真摯さに溢れたものであった。法廷にいる皆が、人の精神の崇高さに触れたと思ったのではないだろうか。以下は、その抜粋の要約である。
(1) 原告Y教員 意見陳述要旨
私は十代後半から二十代にかけて、「死」という絶対的な無に帰す人生に意味も、目的も見いだせずただ恐怖ばかりが募り苦しみました。その恐怖の中で、命は有限という点で平等なのだと気づきました。それまで、人間はみな平等と言われても、能力も、資産も、容貌も生まれつき大きな差があり、全く不平等だと思っていましたが、「無限・永遠」を対比させれば、寿命の長短は意味を失い、死ぬべき命を今生きているという共通点があるばかりです。そして、私は一人ではない、同じ運命の他者が与えられている。他者と共に生きる時、人生の意味や価値を見いだすことができる、と考えるようになりました。このような思いに至るにはキリスト教との出会いがあり、信仰を与えられたことが大きな転機となりました。大学2年の時に洗礼を受け、教師という職業も信仰によって選びました。「神と人とに仕える」生き方ができる仕事だと思ったからです。
教員になって二年目、初めて担任したクラスの生徒が夏休み中に自死してしまいました。遺書はありませんでした。わかったのはただひとつ、私の目には彼の悩みや苦しみが何一つ見えていなかったという事実だけです。担任の仕事とは「今」「気づかなければならない一人」に気づけるかどうかなのだ、と激しい後悔の中で肝に銘じました。「ひとりの命、ひとりの存在をできる限り大切にする。あとで後悔しても遅いのだから」これが私の教師としての良心です。
「君が代」の「君」は象徴天皇制における天皇を指す、と政府は説明しました。「君が代」はこの「君」という特別な存在を認める歌です。神の前に特別な一人、はあり得ない。すべての人は、「神から与えられた限りある一つの命」を今生きている。この絶対的な平等ゆえに互いの命を尊重しあうことが可能になると私は考えます。
クリスチャンは神から与えられている他者に区別を設けず隣り人として尊び、愛せよと教えられています。私は天皇賛歌であった「君が代」を国歌として歌うことはできません。特別な一人のために、国民がたった一つの自分の命を捧げて、たった一つの相手の命を奪うべく戦ったのは、ごく近い過去の出来事です。命に軽重はあり得ないのに、そこに特別な存在を設けるとき、ひとりひとりの命の絶対的なかけがえのなさが、見失われていきます。同時に、「他者と共に生きる」ための接点をも失ってしまうのです。クリスチャンとして教師として、「目の前の一人の生徒がすべて」と念じてかかわろうとしてきた私の良心に照らして、「君が代」は相容れないのです。
私は教師として自分の無力さを痛感しています。ひとりの生徒を理解し、関係を築くために必要な、優しさも、想像力も、共感する力も、忍耐力も、なにもかも足りない私に、あるのは信仰だけなのです。その私に、職務命令は、上司という人の命令に従うのか、信仰を持ち続け神に従うのか、と迫るのです。
私はこれまでも、都教委は個々人の思想、良心、信仰などの心の自由を「命令」で支配、強制してはならないと訴えてきました。しかしこれまでの判決では「10・23通達に基づく職務命令が信仰を持つ者にとって間接的な制約になるとしても、職務上の理由があるのだから、内心の自由の侵害には当たらない」とされてきました。クリスチャンにとってこの命令がある種の踏み絵だとしても、信仰を捨てて踏み絵を踏めとは言っていない、[心の中で何を信じてもけっこうだが、職務命令に従って踏み絵を踏んでください。『教育公務員として上司の命令に従わねばならない』という立派な言い訳が立つのだから、外形的な行為として踏み絵を踏んでもあなたの内面の信仰には何の問題もないはずだ」というのです。遠藤周作の小説『沈黙』でキリシタンに[形だけ踏めばよいのじや]と勧める役人と同じです。しかし信仰を持つ者は心と行動を切り離して言い訳をするとき、自ら信仰を捨てたと自覚するのです。だから踏み絵は切支丹弾圧に有効だったのです。
この問題に関してお互いに祈り合うクリスチャン教員の会もあります。採用試験に合格し、赴任校も決まっていたのに、任用前の打ち合わせで国歌斉唱を命じられ、採用辞退したクリスチャン青年にも会いました。そして、この職務命令はまた、自分の考えで立たない、歌わないという生徒をも追い詰めるのです。少数者に踏み桧を強いる職務命令は教育現場をゆがめ、社会を変質させていきます。「今日の滴る細流がたちまち荒れ狂う激流となる」という警句を思わずにはいられません。この訴訟では、「内心の自由とは、信仰者が信仰に従って生きぬく自由である」ことを認めていただき、戒告再処分の取り消しをお願いいたします。
(2) 原告I教員意見陳述要旨
私は、10・23通達後、国歌斉唱時に自分はどうするかということを何度も考えました。ここで通達とそれに基づく職務命令に従ったらずっと自分を責め続けることになる、一生後悔し続けることになる。そう思って、自分の信念に従うことを選択しました。
「日の丸・君が代」を称えることは、侵略戦争による加害の過去と向き合わないことを意味し、ささやかでもこれに抵抗することが、日本をまた同じ過ちへと進ませない一肋となるだろうと思います。また、私は象徴としての旗や歌に敬意を払うことは一種の宗教的行為だと思うので抵抗があります。そもそも卒業式入学式で国旗・国歌への敬意を表明する必要はないはずだと思っています。
私は国語の教員として、どんな作品を読んだり書いたりするときにも精神が解放されていることが大切だと思い、教員が権力者とならないように心がけてきました。抑圧は学習の妨げになると考えています。学校は違う意見、様々な考え方があってもお互いに尊重し、許容し合える場であってほしい。私が「君が代」強制の圧力に屈しないことが、生徒たちの生きる将来の社会が自由と権利の守られる社会になることにつながると思っています。
私は2005年の卒業式・入学式における不起立でそれぞれ戒告処分、減給処分を受け、2013年7月に勝訴判決の確定で減給処分が取り消されました。ところが、同年12月、減給処分が取り消された件について、再度戒告処分されました。減給処分取り消しの喜びもつかの間、新たに戒告処分されたことは衝撃でした。処分取り消しが確定した、13年9月の最高裁判決文には「謙抑的な対応が教育現揚における状況の改善に資するものというべきである」という裁判長の補足意見が付けられていました。判決が出てわずか3ヶ月後に再び処分を行うことは「謙抑的な対応」の対極にあるものです。
戒告というと軽い処分のように聞こえるかもしれませんが、経済的不利益も伴います。しかも、東京都の処分規定が変わったため、経済的不利益は取り消されたかつての減給処分より重くなっています。減給処分の取り消しによって減給された給料は戻りましたが、処分に伴う不利益がすべて解消されたわけではありません。担任を外されたり、異動で不利な扱いをされたりしたことなどはもとに戻せません。そこに更に、新たな処分によって不利益をこうむりました。再度の処分の時期がちょうど勤続25年の休暇取得の時期と重なり「懲戒処分を受けた日から2年を経過しない者」は取れないと、延期になり、前の処分から8年も後の再度の処分の理不尽さを感じました。
10・23通達後、卒入学式で「君が代」斉唱を全員にやらせることが生徒の利益より優先していて、学校教育の中で優先すべき順位が狂っていると思うことが続きました。卒業式への出席が危ぶまれるくらい心身の具合が悪い生徒の側に、担任か養護教諭がついていたほうがいいのではないかという意見が、「指定された席からの移動は国歌斉唱が終わってからにしてください」と認められませんでした。また、処分発令後に受講を強制された服務事故再発防止研修の個別研修を「授業のない日にしてほしい」という要望は、「授業は変更の理由にならない」とされ、検討すらされませんでした。生徒の状況や課題よりも国歌斉唱時に起立できるかどうかのほうが優先されるようになってしまったのです。
2017年3月の卒業式は私が卒業生担任として臨む最後の卒業式でした。夜間定時制高校の生徒は心身の健康や家庭のことなどで厳しい問題を抱えている生徒が多く、卒業までの4年間を通い続ける大変さは並大抵のことではありません。
私はそんな生徒たちの卒業までの頑張りを称え、祝福したいと思いました。
3学期に入ってからは、管理職から何度も「卒業式では起立してください」と言われました。悩みましたが、やはり起立することはできないと思い、そのことを卒業式間近の学年会で話しました。起立することはできないと思っていた気持ちに迷いが出てきたこともあり、何とか打開策はないものかと考え続けましたが、良い策があるわけがありません。結果的に卒業式当日は式に出ることができませんでした。生徒には申し訳なかったと思います。
「君が代」を強制する理不尽をご理解いただき、処分取り消しの判決をお願いします。
(2022年2月7日)
弁護士は、民事訴訟では当事者の訴訟代理人となり刑事事件では弁護人となって、相手方弁護士や検察官と対峙する。本来闘う相手は、相手方弁護士であり検察官であって、裁判官ではない。
裁判官は、言わば行司役である。力士は行司と闘わない。あるいは採点競技の審判員。フィギュアのスケーターは審判員とは争わない。法廷における弁護士ないし弁護団にとっても、裁判官は節度をもって接すべき説得の対象であって闘う相手ではない。これが平常時のセオリーである。
しかし、非常時となれば話は別だ。ときには口角泡を飛ばしても裁判所と対決しなければならないこともある。最近、あまり弁護団と裁判所の法廷内の厳しい衝突を聞かないが、1月28日(金)午後、東京地裁102号法廷において「非常時」出来の報に接した。
2月5日赤旗の報道を引用する。「裁判官が突然退廷」「東京地裁 『弁論権侵害』原告ら会見」という見出し。この見出しどおりの、奇妙なことが起こった。奇妙なだけではなく、看過できない問題をはらんでいる。
戦争法(安保法制)違憲訴訟は、現在全国の22地域に25件の事件が係属しており、その原告総数は7699名になるという。東京では3件の訴訟が提起され、その一つが、「安保法制違憲訴訟・女の会」の提訴事件。原告121人と弁護団の全員が女性だけの国家賠償請求訴訟。係属裁判所は、東京地裁民事6部(武藤貴明裁判長)。この訴訟で事件が起こった。当日の法廷は東京地裁102号。通常は刑事専用の「大法廷」である。
原告と弁護団は4日、司法記者クラブで記者会見を開いた。会見での説明は、「口頭弁論の最中に裁判官たちが突然退廷したことで弁論権を侵害された」ということ。
1月28日午後の口頭弁論期日では開廷後30分間、弁護士3人が更新弁論の陳述を行った。4人目の弁護士が発言しようと起立し、「今後の立証について…」と意見を述べ始めたところ、それを遮るように裁判長が右手を差し出し、陪席裁判官に目配せした上で後ろの扉から退廷した、という。
このときに裁判長は何らかの発言をしたようだが、小声で聞き取れなかった。代理人弁護士が『裁判長に戻ってきていただきたい』と書記官に求めたところ、1時間以上も待たされて『裁判長は来ない。閉廷した』と告げられた。これが、閉廷までに生じた顛末の全てのようなのだ。ここまでは、裁判長の訴訟指揮の問題。しかし、より大きな問題が法廷外に生じていた。
およそ2時間後、原告・弁護団・傍聴人が法廷を出ようとすると、廊下に警察官を含む数十人の警備要員と柵がバリケードのように配置されていた、という。その人数は、60人にも及んでいた。これは、懐かしいピケである。弁護団は民事6部に出向こうとしたが、このピケに阻まれた。弁護団は、原告らが移動できない状態で「威圧された」とし、この過剰警備の法的根拠を明らかにするよう求めている。
この事態は、裁判所の側から、非常事態のスイッチを入れたことを意味している。一見和やかに見える民事訴訟の審理だがそれは平常時でのこと。非常時には強権が顔を出す。
法廷内では、裁判長は強い訴訟指揮権をもっている。場合によっては法廷警察権の行使も可能である。訴訟指揮の権限は民事訴訟法上のもの(同法148条)だが、法廷の威信を保ち法廷の秩序を維持するために、裁判所法(71条1項など)は法廷警察権を明記している。法廷において裁判所の職務の執行を妨げたり,不当な行状をする者に対して退廷を命じることなどができる。その権限行使にあたっては,廷吏のほか警察官の派出を要求することもできる。
さらに、「法廷等の秩序維持に関する法律」(略称「法秩法」)というものがある。
裁判官の面前で,裁判所がとった措置に従わなかったり,暴言,暴行,喧騒そのほか不穏当な言動で裁判所の職務執行を妨害したりした場合、直ちに20日以下の期間での「監置」を命じることができる。これは恐い。
法廷の外で裁判所の敷地内では、司法行政当局の庁舎管理権が幅を利かせることになる。裁判所構内への横断幕やプラカード持ち込み禁止、シュプレヒコール禁止、撮影禁止、禁止、禁止…は、この当局による庁舎管理権の行使によるものである。しかし当日、警察を呼ばざるを得ないような警備の必要がどこにあったというのか。
いうまでもなく司法とは権力の一部であり、司法作用も権力作用の一部ではある。だから、非常時には強力な実力行使が可能という制度は調えられている。とはいえ、文明が想定する民主主義国家の司法とは、国民の納得の上に成立するものでなければならない。軽々に非常時のスイッチを入れてはならない。裁判所も、司法行政も、そして在野法曹も。
普段は猫のように見えても、非常時のスイッチが入れば司法は虎となり得る。うっかり虎の尾を踏むと監置にもなりかねない。警察と対峙せざるを得なくもなる。しかし、今回の事件、とうてい弁護団が不用意に虎の尾を踏んだようには見えない。
むしろ、係属裁判所も東京地裁当局も、「安保法制違憲訴訟・女の会」とその弁護団を過剰に恐れた故の事件だったのはないだろうか。どうも、裁判所は虎でなく、猫ですらなく、鼠だったごとくである。過剰に弁護団に対する恐怖に駆られて窮鼠となり、猫を噛んだとの印象が強い。裁判長にお願いしたい。法廷では、もっとフランクに、代理人席にも傍聴席にもよく聞こえるように発語願いたい。そして、けっして強権が支配する裁判所にはしないように配慮していただきたい。今回のごとき無用の強権発動は、結局のところ、国民の司法に対する信頼を失わしめるものなのだから。
(2022年2月6日)
2年に1度の日本弁護士連合会(会員数約4万3000人)の会長選挙の結果が出た。
詳しくは、下記URLを参照されたい。
https://www.nichibenren.or.jp/library/pdf/news/2022/20220204_sokuhou.pdf
一昨日(2月4日)の投開票の各候補の獲得投票数は以下のとおり。
・小林元治(33期、東京弁護士会) 8944票
・?中正彦(31期、東京弁護士会) 5974票
・及川智志(51期、千葉県弁護士会) 3504票
当選(内定)者は、小林元治(70歳)である。予想よりも票差が開いたという印象。2月14日の選挙管理委員会で正式に確定することになる。任期は、4月1日から2年間。
なお、当選には、全国52弁護士会のうち3分の1超(18会以上)でトップになる必要があるが、仮集計によると、小林候補は39会でトップを獲得している。投票率は43.24%だった。
時事通信は、「小林氏は立憲主義の堅持を掲げ、高中氏は裁判IT化への対応、及川氏は弁護士の激増反対を主張」と3候補の姿勢の特徴をまとめた。単純化の不正確は否めないとしても、「理念派」「実務派」「福利派」と色分けしてもよいかも知れない。「理念派」とは、弁護士自治や立憲主義の堅持を掲げて人権擁護の姿勢を貫こうという伝統的な分かり易い立場。「実務派」は、弁護士業務のあり方について実情に合った合理的な改革を目指す立場。そして、「福利派」は、弁護士の経済的な地位の向上を強く訴える立場。
小林候補が、立憲主義の堅持を掲げる候補として認識されて、会員の信任を得たことを心強く思う。高中候補は、「実務派」としての姿勢を評価されて第一東京弁護士でトップをとっている。一方で、「弁護士の激増反対主張」を掲げた「福利派」及川候補の善戦に注目せざるを得ない。彼は地元千葉だけではなく、埼玉・長野・富山・宮崎でもトップをとっている。大健闘と言ってよい。
同候補の主張は「弁護士増員反対」である。弁護士増員反対は、弁護士会の総意と言って過言ではない。そして、それはけっしてギルドのエゴではなく、弁護士の使命に鑑みてのことでもある。
私が、弁護士になった1971年ころ、司法試験の合格者は長く毎年500人だった。2年間の司法修習を終えて、同期のうちの150人近くが判事・検事に任官し、毎年350人前後が弁護士となった。当時、弁護士人口は8000人台で、これで弁護士が過少とは思わなかった。50年を経て、司法試験の合格者は1500?2000人となり、弁護士総数は4万人を超えた。この環境の変化が、弁護士の質に影響を及ぼさないはずはない。
私は恵まれた時代に弁護士として働いてきた。ありがたいことに経済的な逼迫を感じたことはない。不定期ではあるがそこそこの水準の収入を得て、金のために嫌な仕事をする必要はなかった。自らの良心に照らして恥じるべき仕事は遠慮なく断ったし、良心を枉げての事件処理をすることもなかった。
しかし、今弁護士激増の時代をもたらした者の罪は深いと思う。弁護士は明らかに、経済的な地位の低下を余儀なくされている。弁護士は、望まぬ仕事を、望まぬやり方でも、引き受けなければならない。経済的余裕がないから、金にならない人権課題に取り組む余力はない、という声が聞こえる。同時に、弁護士が人権の守り手ではなく、コマーシャルで集客をしてのビジネスマンになろうとしている。弁護士の不祥事は明らかに増えている。
弁護士が魅力のない仕事に見えれば、弁護士志望者は減っていく。ますます、その質が落ちていくことにもなりかねない。弁護士増員は、主としては安く弁護士を使いたいという財界の要請によるもの。これを「司法改革」として推し進めたのは、新自由主義政策を推し進める政権の思惑に適ったからであった。
小林次期会長は、当選記者会見で「弁護士の業務基盤、経済基盤をしっかりつくっていく」「女性と若手弁護士の活躍機会を増やし、日弁連を変えていきたい」「法テラスの民事法律扶助や国選弁護について、弁護士の報酬が不合理に低い事例がある」「国民の権利・人権擁護に努めるとともに、持続可能性の観点から、弁護士が労力に見合った報酬を得られるよう議論していきたい」などと抱負を語ったが、これは弁護士業務の需要開拓による弁護士の経済的地位確立が喫緊の課題であることの認識によるものである。
人権擁護の任務遂行のためには弁護士の経済的基礎の確立が必要なことのご理解をいただきたい。
(2022年2月5日)
久しぶりに「赤旗」の紙面全16ページに目を通した。本日の赤旗、内容充実している。
一面トップは、「政党助成法廃止法案を提出/共産党議員団が参院に」「『民主主義壊す制度続けていいのか』 田村政策委員長が会見」との記事。
1995?2021年の27年間で政党助成金の総額は8460億円に上り、政党助成金を受け取っている多くの政党が運営資金の大半を税金に依存している。そのことの問題点はいくつもある。なかでも、税金を政党に配分するというその仕組みによって、国民の全てが「自ら支持しない政党に対しても強制的に寄付させられることになる」ことの弊害は分かり易い。「日本共産党は『思想・信条の自由』『政党支持の自由』を侵す憲法違反の制度だと批判し、この制度創設に反対するとともに、一貫して受け取りを拒否してきた」のは万人の知るところ。
また、「政治資金は、本来国民が拠出する浄財によってまかなわれるべき」であり、「政治資金の拠出は、国民の政治参加の権利そのものだ」という主張には同意せざるを得ない。政党助成金が、国民の政治参加の権利を歪め、政党間の公正な競争を阻害もしている。「民主主義壊す制度続けていいのか」という、問いかけは重い。
その政党助成法廃止は、唯一政党助成金を申請していない共産党ならではの法案提出。全政党・会派への検討が呼びかけられているが、とりわけ「身を切る改革」を看板にしている維新の諸君には、ぜひとも見習って「助成金受領を拒否」していただきたい。それができなければ、共産党の爪の垢でも煎じて飲むべきだろう。
一面左肩に、「北京五輪開幕 人権こそ中心課題」というスポーツ部長・和泉民郎のコラム。これはなかなかの見識。
「人権侵害と五輪は両立できません。中国がこれに向き合わない姿は、開催国の資格すら問われます」「人としての根源的な権利が侵された場所が“人間賛歌”の舞台としてふさわしいのか。開催地を選べない選手にも不幸な事態です」
2020年3月、国連の人権部門にいた専門家がまとめた「IOCの人権戦略のための勧告」が公表されている。北京大会について、「北京冬季五輪の大会に関する人権上の影響は深刻であり、対処は依然として難しい努力を要する」と言及されているが、IOCにその努力の形跡はない、という。この姿勢を堅持した赤旗の北京オリンピック報道に期待したい。その記事の下段に、「(中国の)人権弾圧に抗議 各国デモ」の記事と写真がある。
そして一面下段に、「特効薬は消費税減税 全国中小業者・国会大行動 倉林氏訴え」という記事。
「コロナ危機打開!消費税減税、インボイス制度実施中止を!社会保障の充実と地域循環型経済の確立を!」をスローガンに全国中小業者・国会大行動が4日、東京都内で行われた。国会大行動には約200人が参加。消費税率を5%に引き下げ、複数税率・インボイス(適格請求書)制度の即時中止を求める11万人の署名を持ち寄ったという。
第2面の右肩に、社説に当たる「主張」。「NHK虚偽字幕 すべての経過を明らかにせよ」との表題。
「複数の視聴者団体は経過を明らかにすることをNHKに申し入れました。五輪反対デモの主催団体は、金銭でデモ参加者を集めたかのような悪質な印象操作が行われたと抗議、謝罪を求めています。」は、赤旗が市民運動に密着した取材を行っていることを示している。
また、「この事態を引き起こしたのは、NHKが『(五輪)開催の機運を高める編成』を掲げ、五輪開催の旗を振ってきたことと無縁ではありません。NHKは、コロナ感染拡大で緊急事態宣言が出ているもとで、五輪中継一辺倒の放送を実施しました」と強調している。
2面の記事に「貧困の底が抜けた」「衆院予算委 コロナで参考人質疑」宮本徹・宮本岳志両議員が質問という詳報。
3面には、「佐渡金山めぐる安倍氏・岸田政権の動きとNHK報道」という、大型企画の記事が3本。「事実認め話し合ってこそ有効に」という、強制動員真相究明ネットワーク共同代表の飛田雄一さん、「歴史認識を『戦い』ととらえる愚」という永田浩三さんからの聞き書き。そして、「安倍氏の《号令》垂れ流したNHK『シブ5時』」という報道記事。「政権寄りどころか、歴史を偽造する立場に立って解説を垂れ流すことは、公共放送のあり方として厳しく批判されなければなりません」というまとめに集約されている。
第5面に、「核禁条約参加の日本に/日本原水協が運動方針提起/全国理事会」という記事と並んで「改憲阻止 運動広く/法律家らがキックオフ集会」の記事。
主催者が、「国民が求めているのは改憲ではなく、コロナから命と暮らし、子どもを守る政策だ」「火事場泥棒的に狙われている9条改憲を、主権者の声で断ち切ろう」と強調。
早稲田大学の愛敬浩二教授が、「改憲派が現実政治では必要性がないのに、改憲を主張している」と指摘。「憲法を変えている時間はありません。いまやるべきことは、憲法を政治に生かすことです」と講演。
続いて名古屋学院大学の飯島慈明教授は、各政党の改憲項目を批判。「環境権や教育無償化、データ基本権などは法律で対応可能なもの。自衛隊の明記や緊急事態条項は危険で無謀なもの」と語り、「850億円とも言われる税金を使う改憲発議は無駄遣いです」と述べた。
14面に「裁判官が突然退廷/東京地裁」「弁論権侵害」の記事。これについては、後日ブログで取りあげたい。
15面に、「団交拒否は「不当」/労組事務所撤去 大阪市の控訴棄却/大阪高裁」の記事。大阪市は団交を拒否して労働委員会で負け、これを不服とした行政訴訟の一審で負け、さらに昨日控訴審でも敗訴となったという報道。これは、維新に大きな打撃。
大阪市が橋下徹市長時代に市庁舎内にあった大阪市役所労働組合(市労組)の事務所を強制撤去させた問題で、組合事務所供与について大阪市が市労組との団体交渉を拒否しているのは不当労働行為と認定した大阪府労働委員会の命令を不服として大阪市が命令の取り消しを求めていた裁判の控訴審判決が4日、大阪高裁(大島眞一裁判長)でありました。一審に続き、団交拒否は「正当な理由がない」として大阪市の主張を全面的に退け、控訴を棄却しました。
管理運営事項を理由に市が団交に応じないことに対し、管理運営事項に当たらない事項を含み得る交渉事項の申し入れがされているとし、「団体交渉に応ずべき事項につき具体的に確認すべき立場にもかかわらず、十分に確認することのないまま団体交渉に応じないもの」であり、「正当な理由のない団体交渉の拒否にあたる」と認めました。
さらに「市の対応は誠実な交渉態度といえないのみならず、労働組合を軽視し、弱体化させる行為」であり、労組法7条3号の「支配介入に該当する」と断じました。
以上の各記事は、下記URLで読むことができる。
https://www.jcp.or.jp/akahata/aik21/2022-02-05/index.html
赤旗には広告欄がない。株価や競馬の欄も、皇室記事も芸能ゴシップもない。過剰なスポーツ記べーすべーすもない。その分市民運動や労働運動に関する情報が豊富である。文化面も充実している。あらためて思う。人権や民主主義に関心をもつ者にとって、またそのような運動に関与する者にとって、赤旗は貴重な情報源である。