澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

うなじ垂れ失意に深く沈む子にことばもなくて熱き茶いるる

(2022年1月2日)
 本日は、母のことを語りたい。そして、母方の祖父のことも。
 母・澤藤光子(旧姓赤羽、戸籍名ミツ子)は、1915年7月2日の生まれで1998年1月11日に没している。父にやや遅れて生まれ、父と結婚して4人の子を育て、父を看取って間もなく生を終えたことになる。

 生前歌作をしていたはずだが、散逸してのことか遺された歌は意外に少ない。その中に次の歌があることを知った。いつの作品か、誰のことを詠ったのかは定かでない。

  うなじ垂れ失意に深く沈む子にことばもなくて熱き茶いるる

 この「失意に沈む子」は、私かも知れない。私は、1962年3月に東大を受験して不合格となった。合格の自信はあり、自分に挫折あろうことなど考えてもいなかっただけに、確かに失意は深かった。このとき地球が自分を中心に回っているのではないことを知った。

 不合格の報を受けたときの記憶は定かでないが、母は私の「失意」を見ていたはず。この歌はいかにも母らしいと思う。今にして、母が4人の子に、ことあるごとに「ことばもなくて熱き茶いるる」を繰り返していただろうと思い当たる。

 またもしかしたら、この「失意に沈む子」は、次弟の明かも知れない。明は、1966年3月に京大を受験して不合格となっている。私よりも繊細な弟の方が、この歌の情景にふさわしいかも知れない。

 幸い、私も明も不合格の翌年には合格している。また、末弟の盛光は69年に京大に合格しているが、3人の子の合格を喜ぶ歌は残されていない。「深く失意に沈む子」に寄り添う歌が母にはふさわしいように思える。

 ところで、「大正生れの歌」には、女性版がある。

 ☆大正生れのわたし達 すべて戦争(いくさ)の青春で
  恋も自由もないままに 銃後の守りまかされた
  終戦迎えたその時は たのみの伴侶は帰らずに
  淋しかったわ ねぇあなた

 ☆大正生れのわたし達 再建日本の女房役
  姑に仕え子育てと ただがむしゃらに三十年
  泣きも笑いも出つくして やっと振り向きゃ白い髪
  それでもやらなきゃ ねぇあなた

 ☆大正生れのわたし達 可愛い孫のお守り役
  いまでは嫁も強くなり それでも引かれぬことがある
  休んじゃおれない ねぇあなた
  しっかりやりましょ ねぇあなた

 必ずしも母のイメージとは重ならないが、夫を戦争にとられ、戦後の混乱と貧しさの中での子育てに苦労したのは、この歌のとおりだ。私は幼いころ、母から「戦争は嫌だ」「あんな思いは二度としたくない」と繰り返し聞かされた。

 そして、父が軍隊生活を懐かしんで話すのによい顔をしなかった。子どもたちが、どうしてみんな戦争に反対しなかったの? と聞くと、「反対できるような世の中ではなかった」「しょうがなかったんだよ」と悲しそうに呟いていた。

父が遺した歌に、
 妻と子が日ごと詣でし氏神に無事の帰還を礼申しける
 農家より米もらうとて箪笥開け妻は晴着の幾枚を出す

などがある。母は、戦時中も戦後も苦労させられたわけだ。

 母光子の父、つまり私の母方の祖父は赤羽幹と言った。盛岡に根付いた人だったが、晩年、光子を訪ねて大阪府下の富田林に来て1週間ほどを過ごしたことがある。そのとき私は中学生だったが、初めて明治生まれの人と忌憚なく話し込むという経験をした。祖父と孫との会話である。一人前に扱われたこともあり、私にとっても楽しいものだった。祖父も楽しそうによく話を聞いてくれた。

 きっかけは忘れたが、天皇が話題となって雰囲気が変わった。私は、遠慮することなく、しゃべった。子どもの頃、私は口が達者だった。
 私は天皇(裕仁)のことを「あの猫背のオッサン」と呼んだ。「あのオッサンが日本のみんなを騙して戦争を始めた」「騙された日本人が、戦争に巻き込まれてたくさん死んだ」「原爆落とされて死んだ可哀想な人もいっぱいいる」「それなのに、あのオッサンは自分だけ生き延びたずるいヤツだ」「どうしてまた今、エラそうな顔をしていられるのか」としゃべった。

 すると、思いがけないことが起こった。黙って聞いていた祖父の目に涙が溜まっているのだ。そして、圧し殺すような声で「今の日本人が生きておられるのは天皇陛下のお蔭だ」「天皇陛下がいなければ、敗戦のとき日本人は皆殺しだった」と言った。私には、印象的な衝撃的な体験だった。それ以上言い募ることはせず黙った。

 母はその顛末を知っていたはずだが、何も言わなかった。その後1年を経ずして、祖父の訃報が母に届いた。私は、あのときの居心地の悪さを抱えたまま今日に至っている。  

「五黄の寅の元日生れ」であった、私の父。

(2022年1月1日)
 2022年、「五黄の寅」年の元日である。私の父・澤藤盛祐(1914年1月1日生?1997年8月16日没)のことを語りたい。父は、「五黄の寅の元日生れ」である。

 「五黄の寅」も「元日生れ」も誇るべきほどのことでもなさそうだが、父は「だから、自分は最も強い運気に恵まれている」と言っていた。もっとも、その生涯は必ずしも運気に恵まれたものではなかったようだ。

 元号でいえば大正3年の生まれ。父は、その時代の空気の中で、「お国のために」真面目に生きようとした庶民の一人であった。「大正生まれの歌」というものがある。小林朗 作詞・大野正雄 作曲でレコードも出ているそうだが、おそらくは多くの替え歌バージョンがあるのだろう。いくつか目に留まった歌詞が下記のとおりで、なんともうら悲しい世代の歌である。「五黄の寅」よりは、こちらの方が父にピッタリのように思えてならない。いかにも運気隆盛ではない。

 ☆大正生まれの俺達は
  明治の親父に育てられ
  忠君愛国そのままに
  お国の為に働いて
  みんなの為に死んでゆきゃ
  日本男子の本懐と
  覚悟は決めていた なぁお前

 ☆大正生まれの青春は
  すべて戦争(いくさ)のただ中で
  戦い毎の尖兵は みな大正の俺達だ
  終戦迎えたその時は 西に東に駆けまわり
  苦しかったぞ なぁお前

 ☆大正生まれの俺達は
  明治と昭和にはさまれて
  いくさに征って 損をして
  敗けて帰れば 職もなく
  軍国主義者と指さされ
  日本男児の男泣き
  腹が立ったぜ なあお前

 ☆大正生まれの俺達は
  祖国の復興なしとげて
  やっと平和な鐘の音
  今じゃ世界の日本と
  胸を張ったら 後輩が
  大正生まれは 用済みと
  バカにしてるぜ なあお前

 父は岩手県黒沢尻(現北上市)の生まれ。小学校6年を飛び級し旧制黒沢尻中学を受験して合格、同校の第2期生となっている。子どもの頃は秀才だったのだろう。卒業後は上級学校への進学を望んだが生家が零落して希望は叶わず、「株屋」に就職している。その樺太支店に勤務し、支店長も務めたというが、勤務先の株屋が破産。どうも「運気」旺盛とはいいがたい。

 その後、中学時代の教師の伝手で盛岡市役所に職を得、商工会議所設立の準備をするが、召集令状が届いてこれも中断する。

 父が残したメモによると陸軍に応召が2度、海軍にも徴用されている。
  第1回招集 3年7か月
  帰郷     10か月
  海軍徴用    9か月
  第2回招集 1年3か月

 第1回の招集は1939年5月のこと。弘前の聯隊からソ満国境の愛琿(アイグン)の守備隊に配属された。地平線から昇る満州の仲秋の名月を2度見ている。除隊になってから長子である私が生まれたが、その直後に横須賀海軍工廠造兵部に徴用されている。そして、第2回の招集で横須賀から弘前に直行して青森の小さな部落で終戦を迎えたようだ。

 これも父のメモである。「軍隊生活とは」とされており、「戦争とは何であったか」という問にはなっていない。
 「軍隊生活とは、私にとってなんであったろうか。
  まったく聖戦だと思っていたし、
  実弾の下をくぐったこともなく、
  白刃をふるったこともなく、
  演習につぐ演習。
  辛くはあったが、軍隊を地獄と思ったことはない。
 身体を鍛えてもらっただけでも、
 私は恵まれた星の下において頂けたのだと思う。」

 父は実戦の惨劇に遭遇することはなく、現地の人々に危害を加えることも加えられることもなく、郷土部隊の中で居心地悪からぬ軍隊生活を送ったようなのだ。兵から軍曹になり、最後は曹長になった父の軍隊内の地位も影響しているのだろう。

 生年月日で決まった父の運気は、戦争には駆り出されたが戦闘を経験することはなく生き延び、戦後は穏やかに過ごすことに費やされたのかも知れない。

 戦後父は、思うところあって、宗教団体「PL教団」の布教師となり、生涯を教団に捧げた。晩年、「教えと出会えたことが人生最大の幸運」「教えに人生を捧げたことに一点の悔いもない」と言っていた。

 父は自らの意思で教団に飛び込んだが、私は宿命として教団の中で育った。教団が経営する私立高校を卒業後、教団を離れて自立し上京して進学したいという私の希望を父は、受け入れた。

 進学先は、国立大学しか考えられなかったが、それでも清貧を余儀なくされている父の経済状態では仕送りなどは望むべくもなかった。私は、高校在学中に幾つかの奨学金受給の申請をし合格した。そのとき、学校からの手続への協力が必要だったが、必ずしも学校(教団)は協力的ではなかった。籠から鳥が飛び立つことを歓迎しなかったのだ。

 そのとき、父は敢然と学校に抗議をしてくれた。おそらく、父のたった一度の教団への反抗であったろう。私は、そのお蔭で大学に進学し、奨学金とアルバイトで学生生活を送った。仕送りを受けたことはないが、父には感謝している。

 あのとき父は多くを語らなかったが、進学を断たれた自分の無念の思いを反芻していたのだろう。「五黄の寅の元日生れ」の運気は、長男の私には御利益をもたらしたのだ。

 遺された子どもたちも高齢になった。今年こそは生前の父の追悼歌集を作ろうと企画している。もとは次弟の明が発案し、資料を集めて選歌もし版組までの作業をしていたのだが、昨夏急逝した。替わって末弟の盛光が編集をしている。

 その盛光の提案で、歌集の題名は「草笛」となった。歌集の冒頭に掲載の第一句からの命名である。
 
  校庭の桜の若き葉をつまみ草笛吹きし少年のころ

 中学生であった父は、校庭で草笛を吹きながら自分の将来やこの社会の行く末をどのように考えていたのだろうか。

ああ、香港。ああ、新疆。嗚呼、「中国的民主」。そして、ああ日本。

(2021年12月31日)
 2021年が暮れていく。その歳の境目で考える。いったい、世界は進歩しているのだろうか。実は、恐ろしく退歩してしまったのではないだろうか。ロシアはウクライナの国境に10万の軍を集結して一触即発と伝えられている。クーデターを起こしたミャンマー国軍の蛮行は止まるところを知らない。そして香港である。本日も、香港行政当局が民主的新聞社を襲撃し、幹部7人を逮捕したというニュースが流れている。逮捕状は、山梨大学の教員にも出されているという。

 【香港・時事】によれば、香港警察の国家安全維持部門は29日、200人以上を動員して「立場新聞」のオフィスを捜索し、当局は関連資産6100万香港ドル(約9億円)を凍結した。同紙は同日、廃刊を発表した。

 これ以上はない典型的な、権力による言論弾圧というほかはない。容疑は「扇動的な出版物発行の共謀」と報じられている。警察は、逮捕理由を「2020年7月から今年11月、香港政府や司法への憎しみを引き起こす文章を発表した」と説明したという。

 同紙が、政府の転覆を企てたというわけではなく、虚偽の報道をしたというわけでもない。「香港政府や司法への批判」は、中国共産党にとっては「憎しみを引き起こす文章の発表」として許容し得ないのだ。これが「中国的民主」である。さすが習近平、焚書坑儒の故事に倣ったのだ。我が身を秦の始皇帝になぞらえてのこと。

 あらためて思う。「人はパンのみにて生くるものに非ず」という箴言を。
 中国共産党は「小康社会を実現したその成果を見よ」「人民は自由も民主も望んでいない。その望むところはパンであり、経済的な利益への均霑である。中国共産党は十分にこれに応えた」と胸を張っているのだ。

 しかし、これは14億の民を家畜かペットと勘違いしているのではないか。人にはそれぞれの尊厳があり、精神生活が不可欠である。人が人である以上、自分で選択した情報を得ることも、その情報に基づいて意見を述べることも、そして支配されているだけでなく能動的に政治参加することも基本的な欲求なのだ。おそらくは習政権、かならずこのことを思い知ることになるだろう。それがいつであるか、具体的に指摘できないことが歯がゆい。

 国内はどうだろうか。安倍壊憲政治の後遺症は余りに大きい。モリ・カケ・サクラ・クロカワイ、そして学術会議である。何一つ本当何が起こったのか明らかになっていない。尻尾は切って、トカゲのアタマは何の責任もとろうとしない。このようなときに、「野党は批判ばかり」という安倍応援団のバッシング。国民は民主主義社会の主権者としての未成熟を露呈した。新しい年も、おそらくは変わり映えしない状況が続くことになるのだろう。元気の出ない、さして目出度くもない正月になりそうだ。

 このブログは、今年も毎日欠かさず365日書き続けた。出来のよいのばかりではないが、とにもかくにも2013年4月1日以来の連続更新は本日で3197回となった。明日から、足かけ10年目に入ることになる。引き続きのご愛読をどうぞよろしく。

 そしてみなさま、よいお歳をお迎えください。加えて、人権にも民主主義にも、平和にも、よい歳でありますように。

「戦死の賛美は戦争の正当化につながる」

(2021年12月30日)
 以下、管原龍憲さん(浄土真宗本願寺派僧侶)のフェスブック記事からの引用である。紹介に値する一文であると思う。

 「仏教教団の多くが戦時中、戦没者に「軍人院号」という特別な称号を与え、顕彰したことはあまり知られていない。真宗大谷派の門徒である西山誠一さんは父の戦死から半世紀を経て、院号を教団へ返還することを願い出た。「戦死の賛美は戦争の正当化につながる」という信念からだ。
 真宗大谷派、本願寺派教団は近代以降、戦時奉公を統括する部署を設け、さまざまな側面より戦争協力を行ってきた。そのような戦争協力の一環としてあったのが「軍人院号」であった。「国のためといえども宗派として侵略戦争をたたえてよいのか」。西山さんは2001年に父親の院号法名を教団に返還し、法名のみ再交付するよう願い出て翌年認められた。真宗大谷派では初のケースで、返還当時の宗務総長は「戦争責任の検証が不徹底だった」と表明した。現在も同派では、住職を目指す僧侶が使う教材に問題の経緯を詳しく記載し、戦争協力の一断面として伝えている。
 西山さんは院号を返還した後も、父が祀られている靖国神社への合祀取り消し請求訴訟に参加し、「仏教と戦争」の問題を問い続けている。」

 私(澤藤)は、決して墓地巡りを趣味にしているわけではない。が、時折墓地で墓石を見詰め、見知らぬ人の生と死に思いをめぐらすことがある。墓石には、俗名が彫ってあることも、戒名や法名が書いてあることもある。ときに戒名の上に院号というものが付いている。「平和院 反戦居士」「立憲院 人権大姉」というが如くにである。

 院号を得るには相当の喜捨を必要とするというのが俗世の常識。墓石の大小や院号の有無で、人は死後も格差に晒され続けることになる。遺族は死者が肩身の狭い思いを続けることのなきよう、喜捨をはずむことになるのだ。

 この貴重な院号が、戦没者には無償で提供されていたという。特定の宗派に限ったものではなく、仏教教団の多くが「軍人院号」を付与したというのだ。私はその実物を見たことがないが、「忠節院」「武勇院」「尽忠院」「報国院」などと言うものであったろうか。

 靖国に合祀された戦死者の多くは、故郷の寺院の檀家の子弟であったろう。国家からは神に祀られ、地域の仏門からは格式の高い「院」とされたのだ。国民総動員体制における戦死者(遺族)への厚遇である。

 このような宗教による戦死者の慰霊ないしは追悼・供養には、当然に世俗的な意図があった。言わずもがなではあるが、靖国とは、天皇の神社であり、軍国神社であり、侵略軍の神社であった。戦死者を天皇への忠誠故に「英霊」として顕彰し、戦死者を顕彰することによって、戦争を美化するとともに、戦死を厭わない将兵の戦意を高揚したのだ。諸宗教の多くは、国策に迎合することで、その身の安泰をはかった。教義は天皇神話や靖国に沿うべく修正もされた。これを肯んじなかった「まつろわぬ」宗教は、徹底して弾圧された。

 管原さんが紹介する西山さんの言葉、「戦死の賛美は戦争の正当化につながる」は至言である。戦争賛美の装置の中心に靖国があったが、この装置は、教育やメディアや、靖国以外の宗教や、地域共同体との連携において、その本来の役割を発揮した。

 そして今なお、戦死の美化を通じての軍国イデオロギー鼓吹をたくらむ勢力があとを絶たない。まずは、極右の安倍晋三。そして賑々しく靖国参拝を重ねようという右翼議員の面々。

 無数の西山誠一さんの活躍に希望を見出したい。 

今年も暮れに被告発人安倍晋三を不起訴処分とする通知

(2021年12月29日)
 午過ぎに、伊藤文規という差出人からの簡易書留郵便を受領した。「ハテ、伊藤文規さん、お名前に覚えのあるようなないような」。封を切ってみると、東京地検特捜部からの処分通知書。下記のとおりのなんとも味気なく、つまらない文面。検察審査会の議決に基づいて捜査をしてはみたが、またまた安倍晋三を不起訴にしたというだけのこと。

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東京都文京区×××
 澤藤 統一郎 殿

処 分 通 知 書

令和3年12月28日

東京地方検察庁        
検察官検事  伊 藤 文 規


 貴殿から令和2年5月7日付け及び同年12月22日付けで告発のあった次の被疑事件は,再検査の結果,下記のとおり処分したので通知します。

1 披 疑 者  (1) 安倍晋三
         (2) 配川博之
         (3) 西山 猛
2 罪名 (1),(2)につき,公職選挙法違反
     (1),(3)につき,政治資金規正法違反
3 事件番号 (1) 令和3年検第18083号
       (2) 同      18084号
       (3) 同      18085号
4 処分年月日  令和3年12月28日
5 処分区分  不起訴

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 被告発人安倍晋三が告発の標的。主敵であり、巨悪でもある。あとの二人は、脇役であり、小悪である。配川博之は安倍晋三の公設第1秘書。安倍晋三とともに政治資金規正法違反で告発されたが、配川のみが略式起訴となり政治資金規正法違反(収支報告書不記載)罪で100万円の罰金刑に処せられて納付した。が、尻尾を切った安倍は、しぶとく起訴を免れた。

 また、西山猛は、安倍晋三の資金管理団体である晋和会の会計責任者。安倍晋三が主催した「桜を見る会」前夜祭の経費の支払いは、晋和会の名義でなされていた。にもかかわらず、その経費は安倍晋三後援会も晋和会も収支報告書に届けていない。そして、このことを指摘されるや、明らかに辻褄の合わない操作をして報告書を訂正したのだ。みっともない、汚い、安倍晋三のやり方。これでも、またまたの不起訴だという。

 この通知には、既視感がある。私の昨年末のブログをたどってみる。年末になると検察が安倍告発に、幕引きしようとするのだ。安倍こそ、国政私物化の権化、民主主義の敵、改憲の尖兵。安倍を倒さでおくべきや。検察は、その安倍を最も打撃の少ない時期を見計らって、処分しようとする。検察の矜持と威信はどこに行った。

2020年12月19日 「安倍晋三年内不起訴へ」の報道には、とうてい納得し得ない。
2020年12月21日 「桜・前夜祭収支疑惑」で、安倍晋三を第2次告発
2020年12月23日 「秘書がやったこと」という弁明を許さない
2020年12月26日 「安倍晋三告発に対する処分通知書」

下記のような記事もある。
2021年7月31日 「検察はその威信をかけて、安倍晋三を徹底捜査し起訴せよ ー 国民世論は安倍晋三不起訴に納得していない。」
2021年3月19日 「桜を見る度に思い起こそう。そして語り継ごう。桜を見る会を私物化した、とんでもない首相がいたことを。」

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昨日、「桜を見る会」を追及する法律家の会が、以下のとおりの緊急声明を発表した。

2021年12月28日

「桜を見る会」を追及する法律家の会
事務局長 弁護士 小野寺 義 象 
世話人  弁護士 米 倉 洋 子 
世話人  弁護士 泉 澤   章

               外

 私たち「『桜を見る会』を追及する法律家の会」(以下「法律家の会」という)は、本日、東京地検特捜部が、安倍晋三元首相らを再び不起訴処分にしたことについて、下記の声明を発表する。

1 法律家の会は、安倍元首相がその在任中、「桜を見る会」の前夜祭を都内一流ホテルで催した際、参加した後援会員らに対して公職選挙法で禁止されている寄附行為を行ない、その収支について政治資金規正法所定の収支報告をしなかったことは、明白な犯罪行為であるとして、2020年5月21日、東京地検特捜部に第1次刑事告発を行った。この告発は、過去に例を見ない977名もの法律家による大規模告発となった。さらに、法律家の会は、同年12月21日、検察の捜査によって新たに判明した安倍元首相が代表である資金管理団体「晋和会」の補填金の関与を追及するため、第2次告発を行った。

しかし、これらの告発に対して東京地検特捜部は、同年12月24日、後援会責任者1名を政治資金規正法収支報告不記載罪で略式起訴するのみで、安倍元首相については不起訴処分とした

  そこで、法律家の会は、この不起訴処分を不服として、21年2月2日、東京検察審査会に審査申出を行い、これを受けて、同年7月15日、東京第一検察審査会は、安倍元首相らを「不起訴不当」とする議決を行った。法律家の会は、この議決後の同年8月27日、後援会による収支報告書訂正もつじつま合わせの虚偽記載であるとして、第3次刑事告発を行った。

 今回の東京地検特捜部による不起訴処分は、東京第一検察審査会による上記「不起訴不当」の議決と、第3次告発に対してなされたものである。

2 昨年末の12月24日になされた東京地検特捜部による安倍元首相の不起訴処分は、首相(当時)の違法行為への関与という重大な問題に踏み込むことなく、問題を矮小化して幕引きしようとした政治的な判断であり、安倍元首相も、これで政治生命の危機は乗り切れたと考えたに違いない。

しかし、東京第一検察審査会は、検察の幕引きを容認しなかった。

東京第一検察審査会は、安倍元首相の公職選挙法違反(寄附)及び政治資金規正法違反(晋和会会計責任者に対する選任監督責任)について不起訴は不当とし、さらに、晋和会会計責任者の政治資金規正法(収支報告不記載)についても、不起訴は不当と議決した。

議決は、「総理大臣であった者が、秘書がやったことだと言って関知しない姿勢は国民感情として納得できない。国民の代表である自覚を持ち、清廉潔癖な政治活動を行い、疑義が生じた際には、きちんと説明責任を果たすべきである。」と、安倍元首相の政治家としての資質の欠如を痛烈に批判した。

また、前夜祭参加者の寄附の認識について「寄附の成否は個々に判断されるべきであり、一部の参加者の供述をもって参加者全体の認識の目安をつけるのは不十分である。単純に提供された飲食物の内容だけで認識を判断するのは相当でない。」とした。

さらに、安倍元首相の犯意について、「秘書らと安倍の供述だけでなく、メール等の客観的資料も入手した上で、安倍の犯意の有無を判断すべきである。」とし、晋和会の収支報告不記載については、「前夜祭開催に西山は主体的、実質的に関与していた。領収書は、一般的には宛名に記載された者(晋和会)が領収書記載の金額(前夜祭の不足分)を支払ったことの証憑とされ、宛名となっていない者が支払ったという場合は、積極的な説明や資料提出を求めるべきであり、十分な捜査が尽くされていない。」と、検察捜査の生ぬるさを具体的に指摘して厳しく批判した。

このような議決に基づいて再捜査をするのであれば、東京地検特捜部は、捜査対象者を拡大したうえで事情聴取を継続し、さらに強制捜査を実施してメール等の客観的資料の検討を徹底して行うなどの捜査を遂げる必要があった。しかし、議決後、東京地検特捜部が、強制捜査を含む大規模かつ徹底的な捜査を行ったなどという情報に接したことはない。今回の東京地検特捜部による不起訴処分は、おざなりな再捜査による結果と言わざるを得ない。

3 さらに、第3次告発は、安倍元首相の秘書を略式起訴する際に「訂正」された後援会の収集報告書の虚偽性を突くものであり、違法な寄付金の原資がどこから来たのかに関わる重要な告発である。収支報告書の「訂正」がつじつま合わせの虚偽記載であることが明白である以上、不起訴処分が妥当であるとは到底言い難い。森友学園問題の国賠訴訟で被告となった国は、本年12月15日に、請求を「認諾」することで訴訟を強制的に終了させ、真相を闇に葬ろうとして、世論の強い批判を浴びている。本日の東京地検特捜部による不起訴処分も、政権を忖度して真相究明に蓋をするものであり、検察の存在価値自体が厳しく問われることになる。

4 今回の東京地検特捜部の不起訴処分により、第1次・第2告発は終了したが、第3次告発については、今後、東京検察審査会への審査申し出をする予定である。

私たち法律家は、わが国で法の支配が徹底され、「桜を見る会」と前夜祭問題における法的責任の所在が明確になるまで、これからも追及の手を緩めることはない。
以上

「命」こそが尊く、「戦死」が尊いわけはない。兵の死を美化する国家の策謀に乗せられてはならない。

(2021年12月28日)
 菅原龍憲という方がいる。浄土真宗本願寺派の僧侶で、政教分離や靖国問題に関心を持つ人たちの間では著名な存在。右顧左眄することのない、その発言の歯切れの良さが魅力である。公開されているFacebookに、下記の言葉が躍っている。

 「お国のために戦い、尊い命を犠牲にされたご英霊」というのが戦没者を顕彰する常套文句だ。一方では「尊い犠牲のうえに、生み出された憲法九条を踏みにじるな」という。どっちむいても「尊い犠牲者」ばかりで被害者はいない。被害者がいなければ当然加害者もいない。おーーい

 私は戦死者たちを「犠牲者」と呼ぶことにはどうしても違和感をおぼえてしまう。加害、被害が明確にならない。靖国神社に祀られているのは「尊い犠牲者」ばかりだ。被害者は誰ひとりとしていない。だから当然のように加害者もいない。

 1985年8月のこの日―どうしても私の胸をよぎるのは、中曽根康弘が閣僚たちを引き連れて、威風堂々と靖国神社を公式参拝したときのことだ。神社の白洲で拍手と歓声をもって彼らを迎え入れた遺族たちの姿が忘れられない。とても切なく哀しい光景として胸の底にとどまっている。

 「あのおばさん、亡くなって何年になるかね?」「ええっ!?」突拍子もなく妻が言いだした。
わたしが靖国訴訟を起こしたときを境に、パタッとお寺に来なくなった門徒のおばさんのことだ。母の代から何十年と、なにをさておいてもお寺に駆けつけてくれた、お寺の主のようなひとだった。
「あのときが、一番辛かったね?」妻がポツンとつぶやいた。おばさんも戦没者遺族であった。

 今もっとも危機にさらされているのは「平和に生きる権利(平和的生存権)」(憲法前文)である。それは殺されないだけでなく、殺さない権利、日本人が被害者になるだけでなく、再び加害者にならないとする権利である。

 まったく同感である。管原さんの言葉に深く共鳴する。深く共鳴しながらも、多少付言せざるを得ない。

 もう40年も以前こと、私が盛岡地裁に提出する予定の《岩手靖国違憲訴訟・玉串料訴訟》訴状案文をつくったとき、原告や支援者から思いがけない「反論」に接して戸惑った経験がある。「こんなに露骨に戦死を無意味とする書き方では遺族を敵にまわすことになる」「それは、情において忍びないだけでなく、運動上もマイナスではないか」という強い反発だった。

 もちろん、その反対論もあった。私にはこちらの方がしっくりする。「戦死の美化をそのままにしていては、戦争の絶対悪を語ることができない」「戦争国家の思惑で作り出された《英霊》観を払拭しなければ、再びの《英霊》をつくることになる」「結局のところ戦死は犬死である。そのことを徹底して明確にしなければ、天皇制国家の罪業を明らかにすることはできない」というものだった。

 これに対して、「戦没者遺族の感情への配慮を抜きにして、平和運動はなり立たない」「孤立したら結局負けになる」という反論がなされた。

 私は、「戦死=犬死」とまでは言い切れなかったが、戦争を糾弾し、再びの戦争を防止するには、侵略戦争が国の内外に強いた死の無意味さの認識が出発点だと思っていた。「戦死が貴い」ことはあり得ず「命」こそが貴い。戦争は「貴い命を無意味に奪った」のだ。これを「犬死」といっても間違いではなかろうが、この言葉を聞かされる戦没者遺族には、つらいものがあろう。戦没者の生前の存在自体が貶められる思いを拭えないだろうから。兵士の死をどう評価し、どう表現すべきか、難しいと思った。

 どんな死も掛け替えのない尊い命の喪失なのだから、遺族にとって無念このうえなく辛いことである。いかなる立場からにせよその死を意義あるものとして国家や社会が遇してくれれば、幾分とも気持ちは慰藉される。その微妙な気持ちに泥を塗るごとき「戦死=犬死」論が遺族の耳にはいるのは困難である。しかし、その死を「徹底して無意味な強いられた死」と見つめ、再びの戦争を繰り返さず、再びの戦死者を出してはならないとする国民意識の出発点とすることができれば、その死は新たな意義を獲得する。「無意味な兵士の死」は、その死の悲惨さ無意味さを見つめるところから新たな意味を獲得するというべきではないか。

 「お国のために戦い、尊い命を犠牲にされたご英霊」という言いまわしは、眉に唾して聞かなければならない。この一文、意味の上で「尊い」は、「命」ではなく「お国」と「犠牲」に掛かるのだ。だから、「尊いお国のために戦い、本来は尊くもない命をお国のために犠牲にされたその死にゆえに尊いご英霊」ということであろう。端的に言えば、尊いのは兵士の「命」ではなく、その「死」だというのだ。

 これに対して、「尊い犠牲のうえに、生み出された憲法九条を踏みにじるな」というときの「尊い」は、文意の上では「命」にかかっている。貴い命が死を余儀なくされたことを「犠牲」と言っている。だから、この一文は、「尊い命を無意味に失わしめられた悲惨な犠牲を繰り返してはならない。その思いから生み出された憲法九条を踏みにじってはならない」と言っていると理解しなければならない。
 だから、私には「どっちむいても「尊い犠牲者」ばかり 」と、靖国派と九条派を同列に、どっちもどっちだと言ってはならないと思える。

 管原は言う。「尊い犠牲者」ばかりで被害者はいない。被害者がいなければ当然加害者もいない。おーーい。

 誰が加害者か。遠慮せずに指摘しなければならない。当然のことながら、まずは天皇(裕仁)である。そして、制度とイデオロギーの両面で天皇制を支えた政府であり軍部であり、産業界である。それに加担した教育者・マスコミ・文学者・科学者・宗教者、そして町々の小さな権力であったろう。

 最大の教訓は、国民の精神を支配する道具として、この上なく有効だった天皇という存在の危険性である。天皇にいささかの権限も権威も与えてはならない。

連合とはいったい何なのだ。「寝百姓」とどう違うのか。

(2021年12月27日)
 幕藩体制に抵抗した農民を「立百姓」と言い、抵抗運動からの脱落者や裏切り者を「寝百姓」と言った。幕藩体制下の一揆は、文字どおり命を賭けた「立百姓」の団結と果敢な行動によって権力からの譲歩を勝ち取ったが、大きな犠牲を伴うのが常であった。「寝百姓」は、自ら危険に曝されることはなく、闘わずして「立百姓」が命を賭けて獲得した成果には均霑した。しかも、恥ずかしげもなく「立百姓」の足を引っ張り後方を撹乱することで、身の安全をはかった事例も多々ある。これは、昔話の世界だけのことではない。今なお、最前線で闘う多くの人々の成果だけを享受して、後方からこれを撃つ人々がいる。…恥ずかしげもなく。

 昨日(12月26日)の毎日新聞に、「連合初の会長 芳野友子さん」の記事が掲載されている。1面トップと3面の大型企画記事。「提灯記事の如くで実は辛口」というべきか、「辛口の如くで、所詮は提灯記事」なのか。読む人によって、見解は分かれよう。辛口と思われる部分の一部を抜粋してみる。

 連合会長に就任すると、(全労連議長の)小畑さんからコチョウランを贈られた。「ジェンダー平等実現のために頑張りましょう」とのメッセージが添えられていた。
 「二つの全国組織のトップに女性が就いたのだから、ジェンダー平等を前に進めるチャンス」との思いを込めていたと小畑さんは明かす。でも、返事はないという。「それぞれが前に進もうということですかね」

 女性同士の共闘が動き出さないばかりか「女性トップが変えていく」との期待は、暗転した。
 きっかけは、衆院選投開票から一夜明けた11月1日にあった記者会見での発言だった。立憲民主党が議席を減らした結果について問われた芳野さんは「連合は、共産党や市民連合とは相いれない」と述べた。野党共闘を仲介する「市民連合」まで標的にした、と受け止められた。野党共闘の女性候補を応援した女性たちの間では「ジェンダー平等に取り組む人が、同じ志の仲間を排除するとも取れる発言はいかがなものか」といった失望感が広がった。

 選挙期間中に予兆はあった。「立憲民主党と共産党がのぼりを立てて街頭で演説会をするのは受け入れられない」「連合票は(野党共闘で)行き場をなくした」とも述べていた。…報道機関のインタビューでは「民主主義の我々と共産の考え方は真逆」などと述べている。政治スタンスに関連する発言からは「反共」というキーワードが浮かび上がっている。

 女性同士の共闘が動き出さないばかりか「女性トップが変えていく」との期待は、暗転した。
 きっかけは、衆院選投開票から一夜明けた11月1日にあった記者会見での発言だった。立憲民主党が議席を減らした結果について問われた芳野さんは「連合は、共産党や市民連合とは相いれない」と述べた。野党共闘を仲介する「市民連合」まで標的にした、と受け止められた。野党共闘の女性候補を応援した女性たちの間では「ジェンダー平等に取り組む人が、同じ志の仲間を排除するとも取れる発言はいかがなものか」といった失望感が広がった。

 選挙期間中に予兆はあった。「立憲民主党と共産党がのぼりを立てて街頭で演説会をするのは受け入れられない」「連合票は(野党共闘で)行き場をなくした」とも述べていた。連合が公表した芳野さんの遊説は選挙期間中12選挙区。会長に就任したばかりという事情があったにせよ、連日何カ所も掛け持ちした歴代会長と比べると、少ない。

 報道機関のインタビューでは「民主主義の我々と共産の考え方は真逆」などと述べている。政治スタンスに関連する発言からは「反共」というキーワードが浮かび上がっている。

 共産党に対する拒否感について、芳野さんに尋ねたことがある。その答えとして、出身労組の影響があると明かした。
 概要は次の通りだ。就職したJUKIには共産党の影響を受けた組合があった。これに反発した組合員が同盟系の労組を作った。自分の入社時には、同盟系が多数派になっていたが、組合役員になると共産党系の組合と闘った過去を学んだり、相手から議論を仕掛けられたらどう切り返すかというシミュレーションをしたりした――。
 このような経験から、共産系の組合が社内で宣伝活動などをしていると「会社に混乱を持ち込むのか」と嫌な気持ちになったという。労組専従の道を歩むとの決断が人生の転機になったのと同時に「共産アレルギー」が生まれ、徐々に膨らんでいったのかもしれない。

 変化が見えないこともあってか、連合内には会長選びを巡って「誰も拾わない(会長という)火中の栗を女性に拾わせた」「女性を持ってくることで批判に蓋(ふた)をした」といった言辞がくすぶっている。

 最終3行は、私(澤藤)の文章ではない。取材の東海林智記者の記事である。念のために。

岸田政権は卑劣で汚い。? 沖縄を愚弄するな。「米軍再編交付金」を使っての名護市長選挙介入をやめよ。

(2021年12月26日)
 街中に参院選予定候補のポスターが目につくようになった。我が家にも、山添拓のポスターが2枚。今年10月の総選挙の結果が革新の側に厳しかっただけに、来夏の参院選の重みが一入である。
 
 とりわけ来年復帰50周年を迎える沖縄である。いくつもの課題を抱えた沖縄の選挙には全国の関心が集まる。2022年は沖縄にとっての「選挙イヤー」であるが、注目度の高いのは、県知事選をハイライトに下記の各選挙。

名護市長選挙      1月23日
南城市長選挙      1月23日
沖縄県議会議員選挙   6月24日
参議院議員通常選挙   7月25日
沖縄県知事選挙     9月29日
那覇市長選挙      11月15日

 緒戦となる、名護・南城両市長選は来月16日が告示。その後を占う選挙として、注目せざるを得ない。とりわけ、辺野古新基地を抱えている名護市長選に大きな関心が集まっている。

 前回2018年名護市長選挙では、オール沖縄が擁立した現職の稲嶺進候補が、渡久地候補にまさかの敗北を喫した。政党勢力としては、《立民・民進・共産・自由・社民・社大》対《自民・公明・維新》の対立構造であった。

 今回選挙も保革の一騎打ちとなる。オール沖縄陣営からは、新基地建設阻止を掲げて岸本ようへい市議(49)《立民・共産・社民・沖縄社大・「新しい風・にぬふぁぶし」》と、渡具知武豊現市長(60)《自公政権丸抱え》が立候補する。前回も同様だが、渡具知陣営は「辺野古新基地建設」に賛否を明らかにしない。「見守る」というだけ。

 政権に擁立されている立場だから、口が裂けても「反対」とは言えない。しかし、「賛成」「基地容認」と明言すれば、市民感情を刺激する。ダンマリを決めこむしかないのだ。

 辺野古新基地建設反対の立場を明言する岸本ようへい(予定候補)のホームページが下記のとおりである。明快で、とてもよくできている。好感がもてる。説得力がある。応援したくなる。ぜひ、拡散をお願いしたい。

https://www.yoheikishimoto.com/

 「オール沖縄」が闘っている相手は、実は渡具知候補ではない。中央政府であり、自公政権とその補完勢力なのだ。「オール沖縄派」対「非オール沖縄派」とは、《沖縄県民》と《沖縄を支配している内地権力への服従者》との対抗関係なのだ。渡久地派とは懐柔された政権派にほかならない。

 だから、中央政府(自公政権)は露骨に、「非オール沖縄派」に利益を供与し、そのことで投票を誘導する。その最も分かり易い利益供与が、「米軍再編交付金」というつかみガネである。

 「渡具知氏は初当選した18年の前回市長選で辺野古移設の是非に言及しない戦略を徹底。その後も「国と県の裁判の推移を見守る」と繰り返してきた。一方、自公政権は市長選で支援した渡具知氏が就任すると、移設に反対した稲嶺進市長時代(10?18年)に凍結していた米軍再編交付金の交付を再開。渡具知氏は再編交付金を財源に学校給食費や保育料の無償化を進めた。」(2021年毎日新聞)

 「再編交付金は、米軍再編で負担が増える自治体に交付される。(名護市は)09年度には約3億8千万円を受け取り、道路整備などに充ててきた。だが10年の市長選で移設反対の稲嶺氏が当選すると、交付は止まった。市の13事業が宙に浮き、2事業は中止や保留となった」「前市議の新顔渡具知武豊氏はこの点を突く。借金増加は稲嶺市政が移設反対に固執しすぎているためだとし、再編交付金を含め『国から受け取れる財源は受け取る』と主張する。集会では『政府としっかり協議し、ありとあらゆる予算を獲得するために汗をかく』と声を張った。ただ、普天間移設については、ほとんど触れない」(2018年朝日)

 私が入手した「岸本ようへい・後援会ニュース」(内部資料)の表紙には、大きな字で「必ず守る! 保育料・給食費・子ども医療費は これからも無料」とあった。前市政を批判するのではなく、前市政を踏襲して「これからも無料」と訴える選挙公約の押し出し方に違和感があった。このことについて、次のように報道されている。

 「渡具知氏が子育て支援策の財源としてきた国の米軍再編交付金は、移設に反対する岸本氏が当選した場合に凍結される可能性が高く、岸本陣営は『交付金がなくなれば、無償化も打ち切られるのでは……』という市民の不安を打ち消すことに躍起だ」(毎日新聞)

 なるほど、名護市のホームページを閲覧すると、米軍再編交付金による事業を次のように報告している。政府はこの財源を、基地建設反対の「オール沖縄」派が勝てば止める、基地建設反対とは言わない「非オール沖縄」の市長には給付を継続する、というのだ。

幼保助成事業 (6か年)           2,613,835,000円 

学校給食事業 (4か年)         1,021,989,000円

こども医療費助成事業 (4か年)    394,659,000円

 

これっておかしくないか。卑劣ではないか。汚くないか。地方自治を尊重し、地元の民意に耳を傾けようというのではなく、中央政府のつかみ金で市長選を左右しているのだ。カネで言うことを聞かせようという姿勢。同じことは、県知事選についても行われている。「岸田政権、沖縄振興予算で揺さぶり」と報道されているとおりである。

 「来年度当初予算案について、玉城知事は3000億円台の維持を求めていたが、政府は前年度比で約300億円減の2680億円程度とする。3000億円を下回るのは12年度以来、10年ぶり。振興予算は安倍晋三元首相が13年に3000億円台を確保する意向を表明し、18?21年度はいずれも3010億円だった。」

 「防衛省が申請した辺野古移設の設計変更を不承認処分とした玉城知事に対し、官邸関係者は「移設は反対だが、振興予算は確保したいというのは虫がよすぎるのではないか」と指摘。基地問題と沖縄振興を絡める「リンク論」を安倍・菅両政権以上に前面に押し出し、沖縄の切り崩しを図る構えだ」(毎日新聞)

 余りに露骨ではないか。こういうやり口を「札束で頬を叩く」というのだ。沖縄県民を見くびっているのではないか。根本のところから、民主主義に反しているのではないか。

歴史修正主義は日本政府の専売特許ではなくなった。中国共産党よ、お前もか。

(2021年12月25日)
 クリスマスである。キリスト教徒にとっては神の子生誕の聖なる日であり、キリスト教文化圏では社会全体が習俗としての安息日となる。香港は長くイギリスの統治下にあって、クリスマスは祝日なのだそうだ。その安息の時期を狙ってコソドロ同然に、各大学の天安門事件関係のモニュメントが撤去された。罰当たりと言うべきだろう。

 正確に言えば、直接に撤去したのは各大学当局である。しかし、この時期一斉に各大学が自分の意志で行ったはずはない。香港政庁の差し金と見るべきが当然の判断。そして、香港政庁が北京の指示のままに動いていることは天下周知の事実。つまりは、中国共産党が天安門事件批判の痕跡を、香港から消し去ろうとしてのことなのだ。歴史修正主義は、いまや日本政府の専売特許ではなくなった。中国よ、お前もか。そう嘆かざるを得ない。

 AFPやロイターが伝えるところでは、昨24日香港の2大学が天安門事件を象徴する像とレリーフを撤去した。一昨日23日には、香港大学(HKU)が天安門事件で殺害された民主化運動参加者を追悼する記念像「国恥の柱」を構内から撤去している。

 香港中文大学(CUHK)当局は、24日未明「民主の女神像(Goddess of Democracy)」像を構内から撤去した。天安門広場に建てられたオリジナルを模して作成されたもので、高さ6.4メートル。香港民主化運動の象徴となっていた。また、嶺南大学(Lingnan University of Hong Kong)も、ほぼ同時刻に天安門事件を象徴するレリーフを撤去した。いずれも、陳維明(Chen Weiming)氏が制作したものだという。

 注目すべきは、嶺南大学の撤去理由。「本学に法的、安全面のリスクをもたらす恐れがある構内の物品」として撤去という。権力側の意図を語って分かりやすい。

 クリスマスイブのため、両大学とも構内に学生はほとんどいなかった。

 ロイターは、元学生の「ショックだ。民主の女神像は大学の自由な雰囲気を象徴していた」とのコメントを紹介している。今さらの「ショック」か、という思いも拭えないが、民主の女神像の撤去は、権力の弾圧が大学の中にまで及び、「大学の自由な雰囲気喪失の象徴」となったと言うことなのだろう。
 
 昨日撤去されたレリーフと民主の女神像の両者を制作した陳維明氏はロイターに対し、「作品に傷が付けば大学を訴える」「残忍な弾圧の歴史を葬り去りたいのだろう。香港に今後もさまざまな見方が存在することを認めないのだろう」と語っている。

 香港はかつて、「中国」で唯一天安門事件を語ることができる場であった。毎年6月4日には大規模追悼集会が行われ、天安門事件の資料を集めた「六四記念館」も開かれていた。しかし、香港の自由が北京の専制に飲み込まれる過程で、集会もできなくなり、今年6月「六四記念館」も閉鎖を余儀なくされた。そして、追い打ちをかけての大学構内からのモニュメント撤去なのだ。

北京在住で、香港を現地取材したジャーナリスト宮崎紀秀の今年6月2日付レポートの一部を紹介させていただく。

 中国で民主化を求める学生らが武力鎮圧された天安門事件。6月4日で、32周年となるのを前に、事件の資料を集めて公開していた香港の「六四記念館」が、2日、閉鎖を決めた。

 六四記念館は、1989年6月4日に、中国の民主化を求める学生らを人民解放軍が武力鎮圧した天安門事件に関する写真や遺品などの資料を集め、公開していた。その目的は事件を記録し、風化させないためだ。
 中国本土では、天安門事件についてはいまだにタブー。中でも事件で子供を失った親たちは、事件の真相究明と、公式な謝罪や補償を求めているが、中国政府は、「事件は解決済み」として、その声を無きものとしている。事件を公に語ることが許されない中国で、若い世代は事件の詳細をほとんど知らない。

 一方、一国二制度の下で一定の言論の自由が保たれてきた香港では、これまで事件の検証なども比較的自由だった。六四記念館もその1つだが、中国が香港への統制を強め、「香港国家安全維持法」を施行するなど、そうした環境が変わりつつある。
 六四記念館は、香港へ観光にくる中国本土の若者らが、天安門事件に触れることのできる数少ない場でもあった。
死亡した19歳学生の(弾痕の)ヘルメット。
 事件で、当時19歳の息子を失った張先玲さんは、息子の被っていたヘルメットを記念館に寄贈した。北京に住む張さんは、自由に香港に行けるわけではない。しかし、息子の形見である、(額から左後ろに弾が貫通した)弾丸の跡が残るヘルメットを記念館に寄贈した理由について、こう話していた。
 「博物館にあれば、多くの人に見てもらえます。銃を撃って人を殺したのは事実であるという証拠になりますから」

 一連の出来事は、殺された事実の証拠を残したいとする犠牲者の側と、殺した証拠を消したいとする権力者の側の争いなのだ。歴史をありのままに見てくれという権力に弾圧された人々と、歴史を修正しなければならないとする権力に連なる人々とのせめぎ合い。民主主義は、歴史の修正を許さないことを原則とする。「中国的民主」はいかに? 

「人間はみな平等やいうのに、なんで天皇だけは別やねん?」

2021年12月24日)
 「天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず」とは、福沢諭吉の「学問のすゝめ」冒頭の一節として知られる。その福沢が、「帝室論」においては、「帝室は尊貴にして全ての臣民に等しく君臨する」趣旨を述べている。天皇・皇族を人と解する限りにおいては、この2命題の絶対矛盾を解くことはできない。野蛮社会に特有の特定人物を人の形を借りた神とする迷妄が、かろうじて両命題を矛盾のないものとして説明することができようか。

 かつて国民の迷妄によって現人神とされた天皇(裕仁)が、敗戦後に「人間宣言」をして以来、この絶対矛盾が解かれぬ難問となって主権者国民の前に投げ出されている。

 私は中学生の頃に、社会科の教師と何度かこんな質疑を繰り返したことを覚えている。

 「先生、天皇は人間やな」

 「そや。天皇も人間や。昔は神さまや言われてはったが今はちゃう」

 「人間はみな平等やいうのに、なんで天皇だけは別やねん。なんであなにえばってんや。なんでまわりがヘイコラしてんのや。なんであのオッサン、税金で喰えるんや」

 「ものにはな、必ず例外ちゅうもんがあるんや。人間平等いうても天皇だけは例外やねん」

 「センセ。なんで例外や。みんな平等にしたらええやんか。あのオッサンも働いて自分のカセギで食うて見たらどないや」

 「みんなが、天皇だけは例外て認めとんのや。天皇が勝手に決めたんやのうて、みんなが天皇だけは例外と決めて認めてんやから、それでええんやないか」

 「ホンマに天皇だけは例外でかまへんてみんな納得してんのやろか。昔は神さまやいうことで欺されて、今はまた例外いうて欺されてんとちゃうか」

 「サワフジなあ、あんまりそういうことは大きな声で言わん方がええんや」

 「ほんでな先生。こんなおっきな例外を大っぴらに認めとったらな、人間平等はウソちゅうことにならへんやろか」

 「サワフジなあ。悪いこと言わんから、今はそんなん言わん方がええ。ホンマに、気ぃつけなあかんで」
 
 「天皇の退位等に関する皇室典範特例法案に対する附帯決議に関する有識者会議」というとてつもなく長い名前の諮問会議が、一昨日(12月22日)最終報告を答申した。毒にも薬にもならないこの答申を出した会議の座長が、清家篤・慶應義塾元塾長である。小泉信三の例もある。慶應は、天皇にとっての安全パイなのだ。そう思われていることに、慶應出身者は恥じなければならない。

 私は、中学生当時に抱いた天皇についての素朴な疑問を持ち続けて今に至っている。福沢諭吉はもちろん、小泉信三も、清家篤も、その疑問に答えてはくれない。疑問は疑問のままだが、天皇制に疑問を呈し、あるいは批判する言論には、脅迫や暴力による制裁があることを知るようになった。中学の社会科の教師が、「大きな声で天皇の批判はせん方がよい」と言ったことの意味を長じて後に知ることになる。天皇制維持の半分は、右翼暴力への恐怖によって支えられているのだ。

 通称「安定的な皇位継承のあり方・有識者会議」の報告は、皇位継承の具体策については特に示すことなく、皇族数の確保が喫緊の課題だとして、次の検討を求めている。
?女性皇族が結婚後も皇族の身分を保持する
・子は皇位継承資格を持たず、配偶者も一般国民
・現在の女性皇族には十分留意する
?旧宮家の男系男子が養子になり皇族に復帰する
・旧11宮家の子孫を想定
・皇位継承資格は持たない
?旧宮家の男系男子を法律で直接皇族にする
・?と?で皇族数を確保できない場合に検討する
という、「2案+1」の検討を求めた内容となっている。

 報告書を受け取った岸田首相は「国家の基本に関する極めて重要かつ難しい事柄について、大変バランスの取れた議論をしていただいた」と述べたという。わたしには、「国家の基本に関する極めて重要なことがら」とはとうてい思えない。また、「安定的な皇位継承」が必要という前提自体が大きくバランスを欠いたものとなっている。「果たして、皇位の継承は必要か」という問題意識をもたねばならない。

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