澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

宮地義亮が記録した ー23期司法修習生阪口徳雄君の罷免から 再採用までー

(2020年12月18日)
宮地義亮という熱血漢がいた。早稲田を出て都庁に入り、その後司法試験に合格して23期の司法修習生となった。私と、同期・同クラス、実務修習地(東京)と班まで同じだった。それだけでなく、「青年法律家協会」や、同期で作った「任官拒否を許さぬ会」の活動をともにした。私よりは7才年長だが、気の合った間柄だった。その宮地義亮が、青年法律家協会の機関紙に掲載した、「あの日から2年 ー 阪口君の罷免から 再採用まで」のドキュメントをお読みいただきたい。

1971年4月5日、23期修習修了式当日の夕刻、阪口徳雄君は修習生罷免となり、2年後の1973年1月31日最高裁は彼の再採用を決定した。いったい何があったのか、どのようにして資格回復が実現したのか。最高裁の体質とはいかなるものか。「準当事者」としての立場で、当時弁護士になっていた宮地が綴っている。阪口君の修習生としての資格回復の1週間後に書かれたもので、当時の同期の心情をよく表している貴重な記録である。

23期の司法修習生集団は、権力機構としての最高裁当局、なかんずく司法官僚の頭目・石田和外とたたかった。その最前線に立った阪口徳雄君は、報復措置としての苛酷な罷免処分を受けた。阪口君の資格回復は、最高裁批判で盛り上がった国民運動の成果であったが、2年の期間を要した。

なお、ここで描かれている青法協裁判官任官拒否事件は、いま生々しい学術会議の任命拒否によく似ている。いずれも、不公正極まる採用人事を通じてトップの権力を誇示し、組織全体を萎縮せしめる手口なのだ。

この文章を書いた宮地義亮は、その後享年40で早逝している。悔やまれてならない。

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「青年法律家」1973年2月15日号 
 ◇ドキュメント◇あの日から2年ー阪口君の罷免から再採用までー

23期 宮地義亮(73・2・8記)

◇来なかった電報◇
2年前の(1971年)3月30日は23期の裁判官志望者たちにとって長い一日だった。
この日のうちに裁判官採用の決定を知らせる電報が届くことになっていた。
しかし夜がふけ、やがて朝が白みはじめてもついに待ち望んだ電報が届けられなかった人たちがいた。青年法律家協会の会員6人と「任官拒否を許さぬ会」の会員1名とである。
いずれも裁判官としてのすぐれた資質、豊かな憲法感覚、青年らしい正義感、信念にもとずいて行動する勇気をもちあわせていた。それ故にこそ、最高裁は彼らに対してその扉を開こうはしなかったのである。

◇冷たい最高裁の扉◇
こうした不採用決定は青法協への加入や任官拒否反対運動への参加という不当な理由によるものと疑がえる十分な状況にあった。その理由をただすため不採用者とともに、採用になった数十名の人たちが、場合によってはその採用決定を取り消されるかも知れない不利益をもかえりみず、不採用の「理由」をただすため最高裁に出むいたが2度も相手にされず追い返されてしまった。

◇残された唯一の機会◇
急をきいて帰省先より修習生が続々と上京してきた。いたるところで熱っぽいクラス討論が行なわれ、「終了式が最高裁および研修所に任官拒否の理由を公的にただす唯一の残された機会だ」ということで一致していった。
かくして彼らはクラス委員長の阪口君にその使命を託したのである。

◇運命の4月5日◇
式場にあてられた研修所の大講堂の雰囲気は例年と全く異なっていた。式次第も掲示されず、式場としての飾りつけもなく最高裁長官などの来賓の招待も取りやめになっていた。研修所側の判断は修習生の怒りを正当に(?)評価して式中止に傾いていた。だがこのことに気づいた者はいなかった。

◇誰一人制止する者なくあらしの拍手のなかで=500人の目撃者◇
守田所長が式辞をのべようと登壇したときだった。阪口君が式場のほぼ中央の自席から挙手し起立した。
同時にあらしのような拍手が式場を埋めた。
所長が手を耳にあてて聞えないというしぐさをしたので、誰かが「前にでろ」というと拍手は一段とました。彼は1瞬ためらったが拍手の波に押しだされるように前にすすみで所長に向って2度3度と礼をした。また誰かが「きこえないからマイクで話せ!」とさけんだ。
不思議なことに式場には前方に50名からの教官と事務局員10数名が席を占めていたが誰一人として彼の前進を阻む者もその行動を制止しょうとする者もいなかった。加えて、所長はにこやかな微笑(えみ)さえうかべて彼に対応した。こうした許容の状況のなかで彼は一礼して静かにマイクをとり、くるりと向きをかえて所長に背を向けた形で、「今日の喜ぶべき日に悲しむべき7人の不採用…その理由につき10分間釈明のため発言する機会を与えてあげてほしい。……」
所長はすでに演壇をおりて自席にもどっていた。
1分15秒が経過した。
突然中島事務局長が「終了式を終了しまーす」と落着いた口調で宣言した。
教官たちも一斎に席を立って退場しょうと出口に向かっだ。
誰かが「ワナにかかった!」と叫んだ。あまりにも唐突な終了宣言という卑怯なやり方に憤激した数名の修習生が事務局長につめより、これを制止しようとするクラス委員たち、取材の記者、カメラマン、退席しようとする教官などの間に混乱が起った。こうして500人の目撃者の前で、研修所は自らの手で式を混乱に陥入れたのである。

◇強権の発動◇
その日のうちに、緊急の最高裁裁判官会議が開かれ阪口君の罷免処分が決定された。
夜8時半大講堂で待機していた修習生の前で気丈にも彼は涙一つこぼさず罷免の辞令を一気に読み上げた。「罷免!」ということばが大講堂の静寂を破ってすみずみにゆき渡ったとき、彼のそばにいた一人の修習生が「阪口!」と悲痛な叫び声をあげて、阪口君をしっかりと抱きしめた。それは任官拒否を許さないたたかいを1年有余にわたって共にしてきた友をいとおしむ抱擁であった。

◇国民の良識は最高裁を許さなかった◇
最高裁に対する国民の批判はきびしかった。処分の苛酷さはもとよりのこと、教官会議の「罷免に値しない」という多数意見を無視し、一言の弁明の機会も与えることなく、何が何んでも彼に制裁を加えようと自ら終了式の終了を宣言しておきながら、当日の夜の0時までは修習生の身分ありとする狡猾な論法をあやつり、しかも間違った事実認定をもとに…。
4月13日衆議院法務委員会で最高裁の矢ロ人事局長は「制止をきかず約10分間混乱させ式を続行不能にした」と説明し、500人の目撃者に挑戦した(あとで訂正を余議なくされることになったが…)ーーその夜のうちに処分を決定してしまったのだから、国民がこの不当から違法なスピード判決にただあ然とし、非難を集中して、良識の健在を示したのは当然といえば当然であった。

◇北から南へかけめぐる◇
阪口君のもとには全国からおびただしい数の激励電報電話、手紙がよせられた。団地の主婦、工場で慟く労働者、学生、サラリーマンETC。
こうした国民の反響は阪ロ君への実情報告の要請になってあらわれた。彼はびっしり詰ったスケジュールをやりくりして、それらの1つ1つに誠実に応えていった。あるときは1000名をこえる聴衆を前に講演をしあるときは4、5人とお茶をのみながら夜半に及ぶことさえあった。
こうした北から南への列車をのりついでの報告の旅は各地で大きな共感をよんでいった。
裁判所のあり方がこれほど国民の間で語られ、現実の生活とのかかわり合いをひとりひとりが感じたことがかってあっただろうか。
好漢阪口も聴衆の拍手が鳴りやんで、ひとり津軽海峡をわたる青函連絡船のデッキにたたずみふと郷里の老いた母のことや、同期の仲間が弁護士として第一線で活躍していることをおもい一まつの淋しさがよぎることもあった。
こうしたさまざまな哀歓を伴ないながら、36都道県をかけめぐり約10万の人々にことの真相を伝えていった。

◇法曹界のなかでも◇
46年5月8日日弁連は臨時総会において、阪口君の処分につき「不当かつ苛酷なものであり断じて容認できない」旨の決議を圧倒的多数で可決した。
次いで47年2月「阪口徳雄君を守る法曹の会」が創立され、長老から若手まで約1000名の弁護士が参加し「法曹資格」実現への大きな足がかりができた。
同年4月10日には23期の弁護士の九0%をこえる352名の署名が全国からよせられ「阪ロ君の法曹資格を回復させよ」という趣旨の要望書を最高裁に提出した。

◇ゆらぐ赤レンガの巨塔◇
こうした法曹内外の阪口君に対する熱い共感や暖かな支援と最高裁に対する不信で最高裁の権威は大きくゆらぎはじめていた。
国民からの信頼を失ったとき最高裁の存在価値は急速に低下していかざるを得なない。とくに事実認定の重大な誤りはおおうべくもなく、最高裁の最大の弱点でありアキレス腱とさえなっていった。

◇選択◇
こうした状況のなかで彼を1日も早く弁護士にという声は、同期生をはじめ先輩弁護士、国民の間に急速に広がり高まっていった世論であった。
訴訟の提起、弁護士会への登録という回復方法についてはもとより真剣な検討が行なわれた。
しかし一日も早く法曹資格を実現するという目標にてらし、いずれも非現実的ななものであった。
こうしたなかで浮び上ってきたのが「再採用」の道だった。
最高裁が「懲戒」罷免した者を再採用した先例はないがこれをさせるという方法の選択であった。最高裁は厳しい国民的批判と、運動の広がりにつつまれ、失墜した権威と信頼を何とか回復しようと腐心する一方、このまま切り捨て御免にしてしまおうとの冷酷な姿勢との間を往き来しているような形跡がみられた。
そうした権力側の自己矛盾のなかに解決のカギが秘められていた。
彼は多くの同僚先輩の説得と最後には彼自身の選択において、一日も早く法曹資格を得、真に国民の立場に立つ法律家としての役割に積極的意義を認め、再採用の道をえらんだのである。
かくして昭和47年7月小池金市弁護士の事務所に入り法律実務の研さんを積むこととなった。来るべき日にそなえて……。

◇国民審査の結果、最高裁に大きな衝撃◇
国民の最高裁に対する批判は国民審査のなかに確実にあらわれ、最高裁に大きな危機感を与えた。
司法の反勧化を許さず、民主主義を守る国民運動のうねりは衆議院総選挙にも反映し、法務委員会での鋭い追及という不吉な予感が最高裁を支配しはじめていた。

◇再採用決定!◇
 1月31日、最高裁裁判官会議は阪口君の再採用を決定した。阪口君の「上申書」とひきかえに。
 それは礼儀作法についての反省にとどまり、その背景にある思想、信条、それにもとずく行動という、「聖域」に権力がふみことを許さなかった。
 そして最高裁に「再採用」(罷免処分という自己決定の否定)という大きな譲歩を余儀なくさせ、法曹資格獲得への大きな1歩を切り開いた。かくて権力との和解という儀式のなかでわれわれは、彼らに形ばかりの名を与え大きな果実を手にすることができたのである。

「#差別企業DHCの商品は買いません」

(2020年12月17日)
DHCという問題だらけの企業。その創業者でありワンマン経営者でもあるのが吉田嘉明。2014年以来の、私との法廷闘争の相手方である。もちろん、法廷闘争は彼が私に仕掛けてきた不当なもの。それを私が受けて立ち、厳しく反撃して今最終盤を迎えている。

ところでこの人、根っからの差別主義者。何があってか、朝鮮・韓国に対する民族的差別感情に凝り固まっている。通常の社会人の感覚としては、差別主義者と言われることは恥ずべきことである。ところがこの人、差別表現を繰り返して懲りない。

差別的表現は違法である。とりわけ、在日差別には特別法ができている。通称ヘイトスピーチ解消法(正式には「本邦外出身者に対する不当な差別的言動の解消に向けた取組の推進に関する法律」(施行2016年6月3日)には、下記の前文が置かれている。

我が国においては、近年、本邦の域外にある国又は地域の出身であることを理由として、適法に居住するその出身者又はその子孫を、我が国の地域社会から排除することをせん動する不当な差別的言動が行われ、その出身者又はその子孫が多大な苦痛を強いられるとともに、当該地域社会に深刻な亀裂を生じさせている。
もとより、このような不当な差別的言動はあってはならず、こうした事態をこのまま看過することは、国際社会において我が国の占める地位に照らしても、ふさわしいものではない。
ここに、このような不当な差別的言動は許されないことを宣言するとともに、更なる人権教育と人権啓発などを通じて、国民に周知を図り、その理解と協力を得つつ、不当な差別的言動の解消に向けた取組を推進すべく、この法律を制定する。

私は法廷においても当ブログにおいても、吉田嘉明の唾棄すべき差別表現を指摘し指弾してきた。それもあってか、ここしばらくは彼のヘイト発言は鳴りを潜め、おとなしくしていたようである。が、またぞろ吉田嘉明の在日差別発言が話題になっている。そのことを、昨日(12月16日)ハフポスト日本版のネット記事で知った。

ハフポストの記事のタイトルは、《DHCに「差別だ」と批判あがる。競合他社を在日コリアンへの蔑称を使い批判》というもの。

「競合他社」とはサントリーのこと。「在日コリアンへの蔑称を使い批判」とは、「チョントリー」とという、不愉快極まる品のない差別表現のこと。社会常識を弁えないというに留まらない。およそ、よい齢をした大人の言うことではない。いや、《許されざる違法な差別発言》と言わねばならない。DHCはワンマン企業といえども株式会社ではないか。この会社には、トップのヘイト発言をチェックするコンプライアンスの機能は働いていないのか。

問題の一文は、「ヤケクソくじについて」と題する吉田嘉明自身のDHC製品宣伝文。DHCの公式オンラインショップとされているサイトに掲載されている。問題箇所を抜粋すれば、以下のとおりである。

(同業他社は)DHCでなら500円で売れるものを5000円近くで販売しているわけですから、売上金額の集計では、多くなるのは当たり前です。消費者の一部は、はっきり言ってバカですから、値段が高ければそれだけ中身もいいのではないかと思ってせっせと買っているようです。

サントリーのCMに起用されているタレントはどういうわけかほぼ全員がコリアン系の日本人です。そのためネットではチョントリーと揶揄されているようです。DHCは起用タレントをはじめ、すべてが純粋な日本企業です。

ハフポストは、「文章の中での表現について、根拠は一切示されていない」「ハフポスト日本版では、DHCにメールで見解を聞いている」「DHCから返答があった場合は追記する。」とした上で、「DHCにネットで批判が寄せられている」ことを以下のように紹介している。

この文章が話題になると、Twitterでは抗議の声があがった。「#差別企業DHCの商品は買いません」というハッシュタグは、12月16日午前10時現在日本のトレンド2位に。「企業のトップとしてこういう発言を出すのはどうか」「有名企業が使っていて許されるのか」などといった投稿が寄せられている。

ハフポスト日本版がDHC広報部に電話したところ、「電話では取材を受けられないので、メールを送ってほしい」との返答があった。そのため、Twitter上での批判に対する受け止めや、この文章が差別に該当すると考えるかなどをメールで問い合わせている。返答があった場合、追記する。

差別表現には、直ちに反撃が生じるのは、結構なことだ。「#差別企業DHCの商品は買いません」というハッシュタグを検索すると、2人の著名人の発言があった。

町山智浩氏 これは韓国人に対する差別ではない。コリアン系日本人に対する差別だ。芸能界、テレビ界はどうして声を上げないのか。どうしてDHCと戦わないのか。どうしておれみたいなミジンコがいつまでも孤独に地道に叫び続けなきゃならないのか。

小田嶋隆氏 DHCの問題はAPAホテルと高須クリニックの問題でもある。つまり「カネを持っていれば差別が容認される社会」のお話だ。DHCの問題は、単に「差別を拡散する企業が実在している」というだけの話ではない。そういう企業がテレビで番組を持ち、CMを打ち、有名タレントを起用し、コンビニに棚を確保し、新聞に広告を掲載することを許しているこの国の現状こそが問題だと思う。カネさえ払えば何をやってもいいのか、という。

また、こんなツィートもあった。「(吉田嘉明の)この文章を読んでもまだDHCの商品使う人がいたり、DHCの広告を受ける担当者がいたり、DHCの番組制作に関わってたりする人たちがいることが、本当に恐ろしい。他者への差別にそこまで無関心になれる社会が何よりも恐ろしい。心底恐ろしい。」

私は、日本に住む皆様に心からお願いしたい。ぜひとも、「#差別企業DHCの商品は買いません」を実行していただきたい。この日本の社会を、住みやすく差別のない真っ当なものにするために。

夫婦別姓の実現を阻む天皇制の呪縛

(2020年12月16日)
自民党内の夫婦別姓論議が熱い。もっとも、熱いのは一方的に右翼・守旧派の面々の発言だけのこと。そろそろ自民党も世論の良識に耳を傾けざるを得ないかと思わせる事態だったが、危機感を感じてか、頑迷固陋の守旧派が巻き返した様子。やれやれ、自民党の本質はしばらく変わることはなさそうである。

自民党の「女性活躍推進特別委員会」(委員長・森雅子)が、政府の第5次「男女共同参画基本計画」の改定案をめぐる議論を開始したのが12月1日。焦点となったのは選択的夫婦別姓採用の可否である。昨日(12月15日)の結論は、政府原案が大きく後退してしまったと報じられている。
朝日の見出しは、「夫婦別姓の表現、自民が変更 反対派の異論受け大幅後退」
毎日は、「夫婦別姓、自民保守派抵抗 『更なる検討』で決着 男女共同参画計画案」
時事は、「自民、選択的夫婦別姓削除し了承=男女参画計画」

法制審議会が選択的夫婦別姓の制度を提案して、「民法の一部を改正する法律案要綱」を答申したのが、1996年2月のこと。以来、20余年も寝かされっぱなしの課題となっている。この法改正を阻んでいるのは、守旧派の家族観をめぐるイデオロギーにほかならない。

別姓推進派の見解については、法務省がホームページに次のようにまとめている。

 現在の民法のもとでは,結婚に際して,男性又は女性のいずれか一方が,必ず氏を改めなければなりません。そして,現実には,男性の氏を選び,女性が氏を改める例が圧倒的多数です。ところが,女性の社会進出等に伴い,改氏による社会的な不便・不利益を指摘されてきたことなどを背景に,選択的夫婦別氏制度の導入を求める意見があります。

 選択的夫婦別姓とは、全員に別姓を強制するわけではない。同姓を選びたい人は同姓でよい、別姓を選択したい人の意向を尊重しようという、個人の人格尊重の立場からはまことに当然の制度である。これに対して、どの夫婦も同姓でなくてはならないというのはお節介にもほどがある。現実に、不便・不利益が顕在化しているのだから、現行法を改正すべきが理の当然であろう。

ところが自民党内には、明治以来の「伝統的な家族観」を重視する議員が多いのだという。今回の自民党委員会でも、「別姓の容認は家族観を根底から覆す」という声高な発言があったようだ。

その結果、現行の第4次基本計画に入っている「選択的夫婦別氏制度の導入」の文言が削られ、「戸籍制度と一体となった夫婦同氏制度の歴史を踏まえ」という記述がこれに代わった。さらに、第5次案を策定するにあたっての原案には盛り込まれていた、「実家の姓が絶えることを心配して結婚に踏み切れず少子化の一因となっている」などの意見や、「国際社会において、夫婦の同氏を法律で義務付けている国は、日本以外に見当たらない」との記述は、反対派の指摘を受けて削除されたという。自民党って、こりゃダメだ。

私は、選択的夫婦別姓制度に対する反対理由として、「伝統的な家族観に反する」以上の説明を聞いたことがない。「伝統的な家族観」とは、儒教道徳における「修身斉家治国平天下」の「斉家」である。統治者は「家」になぞらえて統治機構を作った。「家」の秩序の崩壊は、国家秩序の崩壊でもあった。国家秩序維持の手段として、女性は「家」に閉じ込められた。自民党守旧派のイデオロギーは、その残滓以外のなにものでもない。

選択的夫婦別姓制度の実現を阻んでいるものは、自立し独立した対等な男女の婚姻観とは、まったく異質な「伝統的な家族観」であり、「戸籍制度と一体となった夫婦同氏制度の歴史」なのだ。

さらに、古賀攻(毎日新聞元論説委員長)が、本日(12月16日)の朝刊コラム「水説 出口のない原理主義」で、こう言っている。

 どんな形でも夫婦別姓は、家族の解体へと導く個人の絶対視であり、ひいては家系の連続性や日本人の精神構造を崩す、と彼ら(注ー自民党右派)は訴える。この硬直的なロジックは、実は本丸での攻防につながっている。天皇制のあり方だ。

 皇統は男系男子以外ない。旧皇族の皇籍復帰で守れ、という思考からすると、夫婦別姓は女系天皇をもたらすアリの一穴になる。

 なるほど、「伝統的な家族観」とは「天皇制を支える家族観」ということであり、「夫婦別姓は伝統的な家族観に反する」とは「夫婦別姓が現行天皇制の解体を招くアリの一穴」だというのだ。これは興味深い。つまりは、現行の天皇制とは、同姓を強制する家族制度を通じて、個人の自立や両性の対等平等の確立、女性の社会進出の障害になっているということなのだ。

天皇制は罪が深い。夫婦別姓の実現を阻むだけではない。個人の自立や両性の平等、そして女性の社会進出の敵対物となっている。

国民に焼き付けられた、「菅義偉とは、国民の気持ちが分からず、頑固で、無能で、頼りない」というイメージ

(2020年12月15日)
人は時に、取り返しのつかない失言をする。「失言」とは、「その言葉の深刻な影響に考え及ばないままの不用意な発言」を意味する。不用意な一言が思わぬ結果を招き、大きく事態を変えてしまう。これまでの成果や苦労を水の泡に帰してしまう。そのことを恐れて、菅義偉はこれまで記者会見は敬遠し、国会での発言は原稿棒読みに徹してきた。みっともない、ふがいないとの批判を甘受しても、失言のダメージを避けることを選択したのだ。ところが、少しの気の緩みから、やっちまった。ああ、覆水は盆に返らない。

失言で思い出すのは、得意の絶頂だった小池百合子の「排除いたします」の一言。この傲岸な発言が繰り返しテレビで報じられ、小池百合子だけでなく希望の党も取り返しのつかないダメージを受けた。この時焼き付いた「小池百合子とは即ち排除の人」というイメージは、いまだに拭えない。

森喜朗の「日本の国は天皇を中心としている神の国であるということを、国民の皆さんにしっかりと承知をしていただく」という、愚かな「失言」の影響も甚大であった。以後、彼が何をどう言っても、「天皇中心の神の国」がつきまとい、記録的な低支持率のまま首相の座を下りた。この時焼き付いた「森喜朗とは即ち天皇と神の国の人」というイメージは、いまだに拭えない。

そして、菅義偉である。どういう風の吹き回しか、記者会見嫌いな彼が動画配信サイト「ニコニコ生放送」の番組に出演した。記者を相手では意地の悪い質問に晒されるがニコ生なら気楽にしゃべれる、とでも思ったのであろうか。その気の緩みが、失態を招いた。

先週の金曜日(12月11日)の夕方、ニコ生の番組での「失言」は以下の3点である。

(1) 冒頭の「こんにちは、ガースーです」という、ふざけた自己紹介。

(2) 「GoToトラベル停止『まだ考えていない』」という、コロナ感染対策に消極姿勢。

(3) 「いつの間にかGoToが悪いことになってきたが、移動では感染はしないという提言も(分科会から)頂いている」という言い訳。

国民各層に、以上の3点が、極めて不快な印象をもたらした。まず、(1)の「ガースー」発言。本人は、親しみやすさを狙ったユーモアのつもりなのだろうが、完全にすべっている。国民の重苦しい気分とのズレが甚だしい。空気を読めない人、国民の気持ちを分かろうとしない人、というイメージが植え付けられた。この印象は今後に大きく影響するだろう。

そして、(2)である。翌、12月12日毎日新聞朝刊の一面トップが、「新型コロナ 首相、GoTo停止考えず」と、大見出しを打った。既に分科会の尾身でさえ、「GoTo見直し」を政府に提言している。これを無視した形になった。考え方に柔軟さを欠いた頑固な首相、専門家の意見に聴く耳をもたない非科学的な政治家、経済一辺倒の危ない政策。そして、思考や判断の根拠に自信がなく、国民への訴えに説得力をもたない頼りないリーダー、というイメージの定着である。

そして、(3)「移動では感染はしない」という開き直りには、多くの国民がのけぞったのではないだろうか。東大の研究チームが約2万8000人を対象に調査したところ、1か月以内に嗅覚・味覚の異常を自覚した人は、GoToトラベルを利用した人、しなかった人で、統計的には約2倍の差が生じたと報じられている。また、英スコットランド自治政府のスタージョン首相が12月9日の会見で、ウィルスの遺伝子配列の解析を根拠に「新型コロナウイルスの感染拡大は旅行が原因だった」と発表している。これが我が国でも話題になっているが、菅という人は情報に疎い、あるいは情報を理解する能力に欠ける人ではないか、というおおきな不安を国民に与えた。

結局、このたび国民の印象に焼き付けられたのは、「菅義偉とは、即ち、国民の気持ちが分からず、頑固で、無能で、頼りない」というイメージ。おそらく、将来にわたってこれを拭うことはできないだろう。ということは、首相失格というほかはない。

蜜月から破綻へ ー 早くも始まった菅政権の末期症状

(2020年12月14日)
ハネムーンとは、天にも昇る心地の人生の最幸福期。お互い、アバタもえくぼに見える時期。そんな仲に他人が口を差し挟むのは、この上ない野暮な振る舞い。それは分からんでもない。

新政権発足後の100日ほどを「ハネムーン期間」というのだそうだが、これはよく分からない。新政権が国民と蜜月の関係にあり、メディアが政権批判をするのは野暮、とでもいうのだろうか。この時期、メディアは新政権を批判せず、ご祝儀の提灯記事ばかりを書くのが通り相場と言うようだが、硬派のメディアには大いに迷惑であろう。

選挙で選ばれたわけでもない新総理である。これが、国民と蜜月の関係と言われても、白けるばかり。何よりも、この新政権は国民に愛情を示すところがない。紋切りのご祝儀記事で、メディアが作りあげたハネムーンではないのか。

「ハネムーン期間」などあろうはずはないとは思ったが、政権発足直後のアバタもえくぼの高い内閣支持率に驚いた。しかし、その「似非蜜月」の関係は、10月1日の学術会議新会員の任命拒否で、早くも破綻した。この事件、DV男が早くもその正体を表したという強烈な印象。

その後は、新総理の凡庸さ、熱意のなさ、判断の不確かさ、理念の欠如、周りの人物の不甲斐なさ等々が際立つばかり。中でも、この人、語彙が乏しい、自分の言葉で語ることができない。メモを棒読みするしか表現力がない。コロナ禍の危急のこの時期に、前総理に勝るとも劣らない無能ぶりが明らかになってきたのだ。

まず、ハネムーンが壊れた。毎日新聞の世論調査が事態をよく表している。
毎日が昨日(12月13日)発表した世論調査における内閣支持率は40%で、不支持率が49%である。不支持が支持を、9ポイントも上回っているのだ。国民は、新総理・新政権のアバタをアバタとしてしっかり見据えたのだ。

政権発足以来毎日は、9月17日、11月7日、12月12日と3回の世論調査を重ねた。その推移は、以下のとおり劇的ですらある。
支持率   64% ⇒ 57% ⇒ 40%(17ポイント減)
不支持率  27% ⇒ 36% ⇒ 49%(13ポイント増)
その差   (+37)   (+21)   (?9)

前回調査比17ポイントの支持率下落のみならず、国民の目の厳しさが新政権の政策に向けられていることに注目せざるを得ない。「《菅政権の新型コロナウイルス対策》について聞いたところ、「評価する」は14%で、前回の34%から20ポイント下がり、「評価しない」は62%(前回27%)に上昇した。新型コロナ対策の評価が低下したことが、支持率の大幅減につながったようだ。」というのが、毎日の分析である。多くの国民が、医療体制の逼迫に危機感を持っているのに、新政権は経済一辺倒の無策なのだ。

当事者同士が、アバタをアバタと見るようになったのだから、ハネムーン期間は終わったのだ。他人が口を挟むに遠慮する理由はなくなった。今や、メディアの批判は厳しい。

「にやにやして危機感ない」「発信力ない」「支持率急落、首相に党内から不満噴出」「支持率急落、菅首相「鉄壁ガースー」戦略の限界」「会見はメモ棒読み、紋切り型答弁で説明を回避」「菅政権の『逃げの政治』はどこまで続くか?短期政権の時代に入るかの岐路」「菅首相の「ガースー」発言に「ダサい」」「決断が遅すぎる」「支持率低下で追い込まれた首相 敗れた『勝負の3週間』」と、まったく遠慮がなくなった。

メディアの手の平を返したような報道姿勢に違和感がある。本人同士の相手を見る目が曇っていても、第三者として、アバタをアバタと正確に伝えることがメディアの役割ではないか。

菅義偉政権。まだ第1ラウンドである。だが、既に足がもつれ舌ももつれている。何をやってもうまくはいかない。さすがにダウンはしていないが、グロッキーにはなっている。ハネムーンが終わった途端に、もう先が見えてきたのだ。ここしばらく、解散などできようばずもなく、さりとてこの落ち目を挽回する術もない。どうしたらよいのだろうか。どうしたらよいのかって? そりゃ、「説明できることと、できないことってあるんじゃないでしょうか」。なるほど、そのとおりだよ。

永尾俊彦『ルポ「日の丸・君が代」強制』(緑風出版)をお薦めする

(2020年12月13日)
本日、永尾俊彦さんから、その著書『ルポ「日の丸・君が代」強制』の献本を受けた。12年間にわたる法廷闘争と教育現場の取材をまとめた詳細なルポで、400ページに近い大著になっている。さすがに記者による読みやすい文章で、東京編だけでなく大阪編もあり、私も知らないことがたくさんある。何よりも、問題の全体像把握のための記録として貴重なものである。

あらためて、このルポに登場してくる多くの人々の真摯さに打たれざるを得ない。ぜひとも多くの人に、この著作をお読みいただきたいと思う。「籠池泰典元理事長インタビュー?「天皇国日本」というモノサシをつくる学校」なども、たいへん面白い。

http://www.ryokufu.com/isbn978-4-8461-2022-1n.html
永尾俊彦[著]ルポ「日の丸・君が代」強制(緑風出版)
四六判上製/392頁/2700円

■内容構成
まえがき?「口パク」すればいいのだろうか
第一部 少国民たちの道徳
第一章 東の少国民「うんこするのも天皇のため」?山中恒さんインタビュー
第二章 西の少国民「上があるから下ができる」?黒田伊彦さんの語り
第三章 「君が代」の道徳 「生と性の賛歌」から天皇の讃美歌へ?川口和也さんの研究
第二部 東京篇
第一章 東京の「狂妄派」?教職員の牙を折りたい狂おしい欲望
第二章 東京の教師、子どもたちと「日の丸・君が代」強制
一 「君が代」は誇り高く歌いたい?近藤光男さん(体育)の場合
二 「お前のこと、用いるから」?岡田明さん(日本史/現代社会)の場合
三 音楽が息づく学校を?竹内修さん(音楽)の場合
四 「自分の可能性をあきらめないで」?大能清子さん(国語)の場合
五 子どもたちの「障がい」が消えた日?渡辺厚子さん(特別支援学校)の場合
六 「俺は先生の生徒でよかった」?加藤良雄さん(英語)の場合
七 表現を行動として生きる?田中聡史さん(特別支援学校/美術・図工など)の場合
第三章 「生徒の心を聞く仕事」であるために
第三部 大阪編
第一章 大阪の「狂妄派」?ビシッと「モノサシ一本」の快感
一 法的にも復活した「非国民」
二 「教育事件」としての森友問題
籠池泰典元理事長インタビュー?「天皇国日本」というモノサシをつくる学校
第二章 大阪の教師、子どもたちと「日の丸・君が代」強制
一 「歴史が歴史をたしかめる」?増田俊道さん(社会)の場合
二 「真の愛国者は自由を保障することで育つ」?梅原聡さん(理科)の場合
三 「先生に何ができるの」への答えを探して?井前弘幸さん(数学)の場合
四 「事実さえ教えられれば」?松田幹雄さん(中学・理科)の場合
五 「背骨」は曲げられない?志水博子さん(国語)の場合
性的少数者と思想的少数者?南和行弁護士インタビュー
六 子どもたちを「無我の人」にするな?奥野泰孝さん(美術)の場合
「陽気な地獄破り」を?遠藤比呂通弁護士インタビュー
第三章 「自己を持つ」子どもたちを育てるために
あとがき?ニッポンの良心
引用文献
資料 国旗国歌に係る懲戒処分等の状況(文部科学省調査)
「日の丸・君が代」強制問題関連年表

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本日は、たまたま国旗・国歌(日の丸・君が代)強制問題での原稿を書いていた。その草稿の一部を掲載しておきたい。

第1次懲戒処分取消訴訟の控訴審判決は、2011年3月10日に言い渡され、東京高裁第2民事部(大橋寛明裁判長)は、戒告(166名)・減給(1名)の全員について、懲戒権の逸脱濫用を認めて違法とし全処分を取り消した。

戒告といえども懲戒権の濫用に当たるとした大橋寛明判事は、元最高裁上席調査官である。教員の不起立・不斉唱を、「やむにやまれぬ真摯な動機に基づくもの」とした「実質違憲判決」には、大きな励ましを受けた。

この大橋判決に対する上告審では、最高裁で弁論が開かれた。以下は、「教員の良心を鞭打ってはならない」とする、澤藤が担当した法廷弁論の一部である。

 「本件各懲戒処分の特質は、各被上告人(教員)の思想・良心・信仰の発露としての行為を制裁対象としていることにある。各人の内面における思想・良心・信仰と、その発露たる不起立・不斉唱の行為とは真摯性を介して分かちがたく結びついており、公権力による起立・斉唱の強制も、その強制手段としての懲戒権の行使も各教員の思想・良心・信仰を非情に鞭打っている。司法が、このような良心への鞭打ちを容認し、結果としてこれに手を貸すようなことがあってはならない。」

 「被上告人らは、内なる良心に従うことによって公権力の制裁を甘受するか、あるいは心ならずも保身のために良心を捨て去る痛みを甘受するか、その二律背反の苦汁の選択を迫られることとなった。思想・良心・信仰の自由の保障とは、こういうジレンマに人を陥れてはならないということではなかったか。人としての尊厳を掛けて、自ら信ずるところにしたがう真摯な選択は許容されなければならない。」

 「教育者が教え子に対して自らの思想や良心を語ることなくして、教育という営みは成立し得ない。また、教育者が語る思想や良心を身をもって実践しない限り教育の成果は期待しがたい。『面従腹背』こそが教育者の最も忌むべき背徳である。本件において各教員が身をもって語った思想・良心は、教員としての矜持において譲ることのできない、「やむにやまれぬ」思想・良心の発露なのである。」

 「不行跡や怠慢に基づく懲戒事例とは決定的に異なり、上告人(都教委)が非違行為と難じる行為について、被上告人らがこれを反省することはあり得ない。したがって、職務命令違反は当然に反復することになる。反復の都度、処分は累積して加重される。その過程は、心ならずも不当な要求に屈して教員としての良心を放棄し、思想においては「転向」、信仰においては「改宗」「棄教」に至らない限り終わることはない。」

 「本件は、精神的自由権の根幹をなす思想・良心の自由侵害を許容するのか、これに歯止めをかけるのかを真正面から問う事案である。憲法の根幹に関わる判断において、最高裁の存在意義が問われてもいる。人間の尊厳を擁護すべきことも、教育という営みに公権力が謙抑的であるべきことも、多数決支配とは異なった事件の憲法価値として、人類の叡智が確認したところである。」

 「これを顕現するものは、憲法の砦としての最高裁であり、最高裁裁判官諸氏である。歴史の審判に耐え得る貴裁判所の判決を求める。」

学術会議被推薦者6名の任命拒否は、それ自体が直ちに学問の自由の侵害である。

(2020年12月12日)
毎日新聞が、「菅語」を考えるというシリーズで12月6日に、「国語学者・金田一秀穂さんが読む首相の「姑息な言葉」 すり替えと浅薄、政策にも」という記事を掲載している。
https://mainichi.jp/articles/20201205/k00/00m/040/216000c

「総合的・俯瞰的」「多様性」「バランス」「既得権益」……。日本学術会議の任命拒否問題を巡っては、菅義偉首相が抽象的なフレーズを繰り返す場面が目立つ。具体性を著しく欠いた国のトップの説明は、日本語の専門家にはどう映っているのだろうか。国語学者の金田一秀穂さんは「本来的な意味での『姑息』」と指摘し、政権が打ち出す政策にも相通ずるものがあるとみる。

金田一秀穂という人の本来の語り口は、もの柔らかく優しい。しかし、「菅語」に対する批判は、たとえば次のようにまことに厳しい。

 ――菅さんは抽象的な言葉が多い印象です。どう見ていますか。
 ◆あまり考えた発言とは思えないですね。その場その場をしのげればいいと思っているんでしょう。(学術会議について)「女性が少ない」とか「私立大所属が少ない」「既得権益」とか、思いついたことをとりあえず言っている感じですね。これらは中身を伴わない、何の意味もない言葉です。「何も考えていないんだろうな、この人は」と思いますね。ポリシーがあって言っているわけではないことが分かってしまう。

 つまりは姑息なんです。姑息は「ひきょう」という元々なかった意味で使われることが多いですが、本来の意味は「その場限り」。菅さんはその場限りの答弁を繰り返して当座をしのぎ、いずれ国民が飽きて聞く気がなくなるのを待っているんでしょう。

しかし、最後の設問に対する次の回答の一部にやや違和感がある。

――改めて、学術会議の任命拒否問題についてはどう考えていますか。
 ◆すぐに学問の自由を侵すことにはならないと思います。ただ、今回が最初の一歩で、これから同じようなことが続いていくかもしれない。「アカデミズムは政府が主導できる」なんて考えられたら、たまったものではない。その意味で、政府がアカデミズムに介入できてしまった今回の経験は非常に恐ろしい。将来的には国立大の教授人事とかにも関わってくるかもしれない。そうなったらもっと恐ろしいし、絶対にやめてほしい。
 国家権力がアカデミズムや芸術といったものに触っちゃうと、貧しい国になります。豊かさというのは、いろいろな考えがあって初めて成り立つものです。それは歴史的にも明らかです。だから今回の任命拒否を認めてはなりません。

「『アカデミズムは政府が主導できる』なんて考えられたら、たまったものではない。その意味で、政府がアカデミズムに介入できてしまった今回の経験は非常に恐ろしい。」「だから今回の任命拒否を認めてはなりません。」は、まことにもってそのとおりである。しかし、「すぐに学問の自由を侵すことにはならないと思います。」には、賛成しかねる。今回の任命拒否は、直ちに「日本学術会議法に違反」し、かつ「学問の自由を侵す」ことにもなるのだ。

日本国憲法は、人の精神活動の自由を、内面の「思想・良心」の自由(19条)と、自由に形成された「思想・良心」を外部へ表出する「表現の自由」(21条)の両面において保障している。「学問の自由」(23条)の保障が、19条と21条に重なる「研究の自由・研究結果発表の自由・教授の自由」だけであれば、日本国憲法が旧体制の反省の中から、大日本帝国憲法を克服して制定された意義を没却することになると考えねばならない。

19条と21条とは別に、「学問の自由の保障」(23条)を定めた憲法の趣旨は、19条と21条ではカバーしきれない、「学問研究機関の権力からの独立性」「学問研究者の自律性」をこそ憲法の保障として重視すべきであろう。

伝統的な憲法学は、「学問の自由の保障」(23条)規定を、その制度的保障としての「大学の自治」に重点を置いて解説する。「自由」よりは「自治」「自律」が客観的法規範として重要なのだ。これまで、「大学の自治」として論じられてきたのは、伝統的に大学が主たる学問研究機関であったからであり、ポポロ事件など判例が大学を舞台とするものであったからでもある。しかし、日本学術会議は、まぎれもなく学問・学術の専門家集団であり研究機関でもある。設立の趣旨からも、憲法23条にもとづく「自治」「自律」が保障されるべきことは明らかと言わねばならない。

だから、政権が日本学術会議の人事に介入することが、直ちに学術会議の自治・自律を侵すものとして、「学問の自由」(憲法23条)を侵害することになる。菅政権は、自らの憲法違反を認識しなければならない。

「法と民主主義」12月号《緊急特集・日本学術会議会員の任命拒否を許さない」》のお薦め

(2020年12月11日)
日本学術会議が法に則って推薦した新規会員候補者6名について、菅首相が任命を拒否した。これは、看過しがたい重大な問題。菅政権による民主主義への挑戦であり、憲法秩序に対する挑戦でもある。何としても、この6名を任命させて、学問の自由・思想良心の自由・表現の自由、権力の謙抑性を取り戻さねばならない。

その運動に活用いただけるよう、日本民主法律家協会発行の『法と民主主義』12月号は、「緊急特集・日本学術会議会員の任命拒否を許さない」となった。本日発行である。以下のとおり、いま、この問題で最も充実した内容となっている。

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法と民主主義2020年12月号【554号】(目次と記事)
緊急特集・日本学術会議会員の任命拒否を許さない

◆特集にあたって … 日本民主法律家協会事務局長・米倉洋子
◆「任命拒否」が意味するものは何か … 広渡清吾
◆日本学術会議とはどのような組織か ── その構成と活動 … 小森田秋夫
◆日本学術会議会員任命拒否の違憲・違法性 … 岡田正則
◆軍事研究と日本学術会議 … 池内 了
◆歴史に学ぶ学問への弾圧と戦争体制 … 内田博文
◆インタビュー●安倍・菅政権における人事政策の危険性 … 前川喜平
◆裁判官の任官拒否・再任拒否から任命拒否を考える … 森野俊彦
◆日本学術会議会員の任命拒否問題と公文書管理・個人情報保護 … 右崎正博
◆行政府による「解釈変更」と国会によるその統制 … 宮井清暢

【日本学術会議会員任命拒否問題資料集】
◆日本学術会議が発出した声明等
◆法解釈資料
◆抗議声明
◆「法と民主主義」編集委員会作成資料

◆メディアウオッチ2020●《ジャーナリズムの責任》
ウソが作る既成事実、「すり替え」で問題隠す 安倍─ 菅政権の影に「独裁」の思想 … 丸山重威
◆改憲動向レポート〈No.29〉
十分な審議もせずに改正改憲手続法(憲法改正国民投票法)案の採択を求める 自民・公明・維新・国民民主党 … 飯島滋明
◆追悼・神谷咸吉郎先生の死を深く悼む … 小林元治
◆時評●自国軍隊のリアルをどう伝えるか … 佐藤博文
◆ひろば●日本学術会議を擁護する … 戒能通厚

なお、本特集に付した資料集は、以下のとおりである。
【日本学術会議が発出した声明等】としては、頻繁に引用される軍事研究に関する三つの声明や、今回の任命拒否に関し菅首相に出した要望書等を収録した。
【法解釈資料】としては、1983年と2004年の各法改正時における任命の形式性を明記する政府内部文書(立憲民主党小西洋之議員が入手)や、2018年11月13日付の「内開府日本学術会議事務局」名義の(問題)文書を収録した。大いにご活用いただけると思う。
【抗議声明】では、五つの声明ほか、任命拒否に対する抗議声明を発出した全ての団体名を列記し、圧巻の記録となった。
【「法と民主主義」編集委員会作成資料】として、フアクトチェックー覧表、首相答弁と反論の一覧表、6名の氏名こ専門分野等を掲載した。

緊急特殊のリードの末尾は、次のように結ばれている。

今回の任命拒否は、決して6名だけの問題でも、学問の自由だけの問題でもなく、すべての市民の「物を言う自由」への抑圧であり、「戦争への道」につながるものである。本特集がそのことへの理解を広げるための一助となり、6名全員の任命が実現することを心から願う。(日本民主法律家協会事務局長 米倉洋子)

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「法と民主主義」特集号のご案内
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幹部自衛官養成機関の狂気のイジメ ー 「防大イジメ訴訟」に逆転判決

(2020年12月10日)
天皇の軍隊内での上官による兵隊イジメは、伝統であり文化でもあった。兵に対する指揮命令系統は、そのままイジメの構造と一体でもあった。これを容認し支えた日本人の精神構造は、連綿と今も生き続けている。そのことを強く印象づけるのが、防衛大学校の下級生イジメ事件である。

上級生のイジメに遭って退学を余儀なくされた元学生の起こした訴訟が、防大での下級生イジメの実態をあぶり出した。いうまでもなく、防衛大学校は、「大学」ではない。幹部自衛官養成のための訓練施設である。「採用試験」に合格した学生の身分は特別職国家公務員たる「自衛隊員」であって、学費は徴収されず、「学生手当」の名目で給与が支給される。まぎれもなく、ここは自衛隊の一部である。

その防大での上級生による下級生に対するイジメの実態は凄まじい。一審判決の認定によれば、たとえば、下級生を裸にして陰毛に消毒用アルコールを吹きかけライターで火をつける、ズボンと下着を脱がせてその陰部を掃除機で吸引する、など狂気の沙汰である。こういう連中が、自衛隊の幹部になって、武器を扱うのだ。

訴訟によって明るみに出た陰湿で執拗で凄惨なイジメの手口は、旧軍から受け継いだ防大の伝統となっているいってよいだろう。ところが、国を被告としたこの損害賠償請求訴訟の一審、福岡地裁判決は原告が敗訴した。昨年(2019年)10月のこと。監督すべき立場にある者にとっては、上級生のやったことは、「予見不可能」であったと認めたからである。「予見不可能」であれば、その行為を止めるべき作為義務も生じては来ないのだ。信じがたい結論である。

昨日(12月9日)、その控訴審である福岡高裁は逆転判決を言い渡した。「防大いじめ、元学生が逆転勝訴 国に賠償命令、福岡高裁」(西日本新聞)などと大きく報道されている。

増田稔裁判長は、国の責任を認めなかった一審福岡地裁判決を変更し、「元学生に対する暴力や、精神的苦痛を与える行為を予見することは可能だった」として国の責任を認め、約268万円の支払いを命じた。
増田裁判長は、規律順守を目的に学生が他の学生を指導する「学生間指導」について、元学生の在学期間に「上級生による下級生への暴力や、不当な精神的苦痛を与える行為がしばしば行われていた」と言及。防衛大は「実態把握が必要との認識を欠き、調査などの措置を講じておらず、内部で防止策の検討も不十分だった」と述べた。
その上で、国や防衛大の教官は元学生への暴行やいじめについて、発生前から加害学生の行動などから予見可能だったとして「教官が適切な指導をしなかったため防げなかった」と指摘。発生後に教官が上司に報告しなかった点も考慮し、国と教官に安全配慮義務違反があったとして、元学生の体調不良に伴う休学や退校との因果関係を認めた。

なお、元学生が上級生ら8人に慰謝料などを求めた訴訟は昨年2月、福岡地裁が7人に計95万円の支払いを命じ確定しているという。

高裁判決の要旨は、国が学生の負うべき安全配慮義務の内容として、「具体的な危険が発生する場合には、これを防止する具体的な措置を講ずべき義務も含まれる」と判断。「学生間指導の実態を具体的に把握する必要があるのに、その意識を欠き、実態の把握のために調査などの措置を講じていなかった」ことを安全配慮義務違反と認めた。

この防衛大学校のイジメの伝統について、吉田満「戦艦大和ノ最期」の一節を思い出す。戦記文学の傑作として持ち上げる人が多い。大和が、天一号作戦で出撃する前夜にも、兵に「精神棒」を振り回す士官が描かれている。

江口少尉、軍紀オョビ艦内作業ヲ主掌スル甲板士官ナレバ、最後ノ無礼講ヲ控エ、ナオ精神捧ヲ揮フテ兵ノ入室態度ヲ叱責シ居リ 足ノ動キ、敬礼、言辞、順序、スベテニ難点ヲ指摘シテ際限ナシ サレバー次室ヘノ入室ハ、カネテ兵ノ最モ忌避スルトコロナリ
老兵一名、怒声二叩カレ、魯鈍ナル動作ヲ繰返ス 眸乾キテ殆ンド勤カズ 彼、一日後ノ己レガ運命ヲ知リタレバ、心中空虚ナルカ、挙動余リニ節度ナシ 精神棒唸ッテ臀ヲ打ツ 鈍キ打撲音 横ザマニ倒レ、青黒キ頬、床ヲ撫デ廻ル 年齢恐ラクハ彼が息子ニモ近キ江口少尉 ソノ気負イタル面貌二溢ルルモノ、覇気カ、ムシロ稚気カ
 「イイ加減ニヤメロ、江口少尉」叫ブハ友田中尉(学徒出身) 江口少尉、満面二朱ヲ注ギ、棒ヲ提ゲテソノ前二立チハダカル

また、兵学校71期出身の俊秀とされる臼淵大尉の、作者への鉄拳制裁に伴う次のような叱責も紹介されている。欠礼した兵を殴らなかった筆者を責めてこういうのだ。

「不正ヲ見テモ(兵を)殴レンヨウナ、ソンナ士官ガアルカ」「戦場デハ、ドンナニ立派ナ、物ノ分ッタ士官デアッテモ役二立タン 強クナクチャイカンノダ」「ダカラヤッテミヨウジャナイカ 砲弾ノ中デ、俺ノ兵隊が強イカ、貴様ノ兵隊が強イカ アノ上官ハイイ人ダ、ダカラマサカコノ弾ノ雨ノ中ヲ突ッ走レナドトハ言ウマイ、ト貴様ノ兵隊ガナメテカカランカドウカ 軍人ノ真価ハ戦場デシカ分ランノダ イイカ」

 上記の江口は軍隊内の部下への理不尽な暴力を、臼淵は合理的な制裁を象徴しているごとくである。しかし、その差は紙一重というべきであろう。要は、「アノ上官ハイイ人ダ、ダカラマサカコノ弾ノ雨ノ中ヲ突ッ走レナドトハ言ウマイ」と舐められないための部下への暴力なのだ。殴りつけておけばこそ、「弾ノ雨ノ中ヲ突ッ走レ」と命令できるのだという論理である。その伝統と文化は、確実に防大に生きている。いや、それだけでなく、今の教育の中に、スポーツの中に、運動部の中に、あるいは組織一般の中に残ってはいないだろうか。

一言、付け加えておきたい。私は、この防衛大学校訴訟に表れた幹部自衛官養成の実態に接して、幹部自衛官という人々を見る目が変わった。自衛隊という組織を恐るべきものと感じざるを得なくなった。この判決を読んでなお、子息を防衛大学校にやろうとする親がいるとはとうてい思えない。

この訴訟提起の意義は、幹部自衛官教育の実態と、そうして教育された幹部自衛隊員の人格の実像を世に知らしめたことであろう。原告となった元学生に感謝したい。

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2020年12月9日

福岡高裁判決に対する弁護団声明

防衛大いじめ人権裁判弁護団

 本件は、一審提訴が2016(平成28)年3月18日で、国に対する一審判決は、2019(令和1)年10月3日でした。本日の高裁判決まで提訴以来、約4年9ヶ月が経過しました。
一審判決は、どの学生が、いつどこでどのような加害行為を行うかは予見不可能であるとして、防衛大の安全配慮義務違反を認めませんでした。これは学生が学生を指導する学生間指導において現実に多発する暴力を追認すると言わざるを得ない判断でした。
今回の高裁の判決は、学生間指導により、具体的な危険が発生する可能性がある場合には、この危険の発生を防止する具体的な措置を講ずべき義務も含まれる、と安全配慮義務の内容について、より踏み込んだ判断をしています。
その上で、防衛大は、学生間指導の実態を具体的に把握する必要があるのに、その意識を欠き、実態の把握のために調査等の措置を講じていなかったとしています。
本件で問題となる、学生による加害行為のうちA学生が、粗相ポイントの罰と称して、一審原告の体毛に火を付ける行為について、見回りにきた教官が、確認を怠ったこと、同じA学生が一審原告に反省文を強要していることを、母親が防衛大に情報提供したにもかかわらず、注意だけですませ、そのような事案についての対応の検討を防衛大内部で行わなかったこと、指導記録に記載しなかったこと、ボクシング部の主将B学生による暴行行為についても注意するだけで、情報共有しなかったことを安全配慮義務違反としました。さらに、一審原告2学年時に福岡帰省の事務手続き不備を指摘され、中隊学生長のC学生から暴行行為を受けた際、指導を指示した教官が、C学生が暴力を振るう可能性があると認識できたとしてやはり安全配慮義務を怠ったとしています。
しかし、やはり事務手続き不備とされる件についてのD・E学生の暴行、3年生のF学生の恫喝的指導、G・H学生による一審原告に対する葬式ごっこと退学を迫る大量のラインスタンプの送付行為、相談室相談員が相談に訪れた一審原告に対して何の対応もしなかったことについては、安全配慮義務の違反を認めませんでした。
損害額については、請求額の約2300万円を大幅に減額しています。一審原告が請求していた幹部自衛官の収入と全国の平均収入との差額約776万円の他、慰謝料についても50万円しか認めませんでした。しかし他方で、医療費、休学により学生手当を受けられなかったことのほか、2学年で退学せざるを得なかったことによる、3学年と4学年の学生手当を失ったことによる損害賠償を認めたことは評価に値します。
不十分な点はありますが、学生間指導に名を借りた3人の学生の加害行為について防衛大の安全配慮義務違反を認めたことは画期的で、学生間指導に司法のメスが入ったことを意味します。国と防衛大に対しては、この判決について上告せず受けり入れ、暴力が蔓延する防衛大の現状を改善することを強く求める次第です。

以 上

司法の独立を確立するために、最高裁裁判官人事の透明化を。

(2020年12月9日)
「トランプ氏、ペンシルベニア州で敗北確定 米最高裁が訴えを棄却」という記事が踊っている。今回の大統領選挙では天王山となった激戦州ペンシルベニア(選挙人数20人、全米5番目)での選挙争訟に決着が付けられたということだ。

悪あがきというほかはない、ここまでのトランプの醜態。大統領選挙の敗北を認めがたく、あきらめの悪い訴訟を濫発してきた。その数30件に及ぶというが、連戦連敗で疾っくに勝ち目のないことは明らかになっている。それでも、連邦最高裁に持ち込めば、自分が任命した保守派の判事が逆転の判決を書いてくれるのではないか…、という一縷の望みもここに来て断ちきられた。往生際の悪いトランプも、自らが選任した保守派の判事に引導を渡されたかたち。もうお終いなのだ。

アメリカは連邦制の合衆国、訴訟の審級制は分かりにくい。ペンシルベニア州の最高裁での判決を不服として、トランプ陣営が連邦最高裁に申し立てた上訴が、12月8日あっけなく棄却となった。上訴の申し立て手続が完了した直後の棄却決定だったとほうじられている。反対意見のない9裁判官全員一致の判断。そして、この決定は理由の説示もない三くだり半。トランプの悪あがきに対するトドメに、いかにもふさわしい。

この訴えは、「大統領選をめぐってペンシルベニア州の共和党議員らが、開票集計結果の認定差し止めを求めた」もの(CNN)だったようだ。所定の期日までに、各州が開票集計結果を認定する。認定されれば確定して、それ以後は争うことができなくなるという制度なのだという。そのデッドラインが12月8日。それまでに、差し止めの判決を得なければトランプの選挙の敗北が確定することになる。結局、トランプの訴訟戦術は失敗したことになる。

この訴訟で、トラプ陣営が差し止めの根拠としたものは、選挙の不正ではなく、「郵便投票は無効」という手続の定めを争うものだった。ペンシルベニア州の地裁から、同州の最高裁まで争い、さらに連邦最高裁にまで上訴したもの。

この訴訟とは別に、最初から連邦地裁に訴えた訴訟もあったようだ。トランプ陣営は、「バイデン側に詐欺があって私たちが勝っていた」「バイデンが8000万票も獲得するはずはない」などと訴えた。が、ペンシルベニアの連邦地裁は11月21日、不正を訴える陣営の主張を「法的根拠のない推測」と一蹴。「『フランケンシュタインの怪物』のように場当たり的に縫い合わされたもの」とまで非難したという。陣営は控訴したが、連邦高裁もトランプ政権で任命された判事らがわずか数日で棄却した。

さて、問題は連邦最高裁裁判官の人事にある。トランプ劣勢とみられていた大統領選の直前、たまたまリベラル派の最高裁判事ギンズバーグが死亡した。トランプは、その後任に保守派のバレットを押し込んだのだ。露骨にジコチュウ剥き出しの大統領選対策である。これで、全9人の判事のうち保守派6人とし、選挙後に法廷闘争に持ち込んだ際に有利な最高裁を作ったのだ。

このとき、営々と築かれてきた米国の司法の権威は、国民の信頼を失って大きく傷ついた。連邦最高裁は、公正でも中立でも政治勢力から独立してもいない。司法の姿勢は政治的な思惑で左右されることを、国民は知ってしまった。今回の選挙争訟で、仮にも連邦最高裁がトランプの意向を忖度するようなことをしていたら、司法の権威についた傷が致命傷となるところだった。連邦最高裁の威信は、大きく傷つきながらも、かろうじて最悪の事態は免れたと言えよう。

一方、香港である。裁判所に毅然としたところがない。香港の高等法院(高裁)は9日、無許可のデモを組織して扇動した罪に問われ一審で禁錮10月の実刑判決を受けた民主活動家、周庭(アグネス・チョウ)の控訴にともなう保釈申請を却下した。その理由として、裁判官は「警察本部を包囲した行為は重大だ」と判断したという。これは信じがたい。犯罪行為の違法性の大小や、重大性は判決の量定において考えるべきこと。今問題となるのは、証拠隠滅と逃亡の恐れの有無ではないか。要するに、裁判所は中国の威光を恐れ、中国におもねって、周庭に判決確定前に制裁を科しているのだ。

米国の司法の独立は、露骨な裁判官の任命人事で揺れている。香港の場合は、裁判所全体が中国の意向に逆らえない。質もレベルも格段の差はあるが、両者とも司法の独立は不十分と言わざるを得ない。その両者の中間当たりに、日本の司法の基本性格があり、最高裁裁判官任命問題があろうか。現在の最高裁裁判官15名の全員が、嘘と誤魔化しで国政を私物化してきた安倍晋三の政権の任命によるものとなっている。それ自体で、最高裁の権威は薄弱となっている。最高裁裁判官任命手続、とりわけ推薦手続を、納得できる合理的なものとし透明化しなければならない。それこそ、法の支配、立憲主義、民主主義と人権擁護の第一歩である。

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