(2024年7月12日)
これまで経験したことのない、いくつものヘンなことが重なったヘンな選挙。日本の民度の低下を見せつけられるような、民主主義の衰退を確認しなければならないような不快感がまとわりついたヘンな選挙。本当にこれが選挙と呼べるものなのでしょうか。
ヘンな選挙でしたから、当選したのはヘンな人。次点になった人まで、とてつもないヘンな人。真っ当な候補者は3番手に沈みました。「ハテ?」「なぜ?」と、問わずにはおられません。
それでも、選挙は選挙。開票結果は厳粛に受けとめざるを得ません。トランプのように、「選挙結果は間違っている。都庁を襲撃せよ」などと言ってはなりません。300万に近い東京都の有権者が、稀代のウソつきの都知事三選を容認しました。これが今回投票に表れた、取りあえずの都民の民意です。あと4年、都民は「ウソつき知事」で我慢しなければなりません。4年の我慢…。なんとも長い期間ですが。
本来、選挙とは、有権者の民意を問うべきもの。候補者間の政策論争がなくてはなりません。そのための主要候補者の討論会。これまでの都知事選では、当然のこととしてNHKや民放のテレビ討論会が行われてきました。しかし、今回は一度も実現しなかった。ネットでの討論会がたった一度ありましたが、極めて不十分。消化不良が否めません。
なぜ、討論会が実現しなかったか。ウソつき百合子が論戦を不利と見て、逃げたからです。こんな人物を是として、多数の都民が投票しました。なぜ? 民主主義衰弱の病根は根が深いと思わざるを得ません。
バイデンは不利を承知で論戦に臨みました。論戦を逃げなかった。それだけで、民主主義国のリーダーとしての資質を認めなければなりません。が、ウソつき百合子は論戦を逃げまくり、逃げ通しました。
ウソつき百合子が論戦を不利と見て逃げた最大の原因は、学歴詐称問題です。学歴など取りに足りない問題です。しかし、ことさらのウソは大きな問題です。彼女は、小さなウソを隠すために、ウソを重ねてきました。ウソで塗り固められた哀しい人生。ですが、そのウソは、彼女一人の哀れだけにとどまらない、大きな影響を及ぼすものとなっています。
いまや、彼女のカイロ大学卒業という看板を真実と信じる人が存在するとは思えません。それでも、討論の場で公然と学歴詐称を論じられることには耐えられなかったのでしょう。学歴詐称を誤魔化す工作のために、エジプト軍事政権に大きな借りを作り、その国と政権に操られる存在になっているとの指摘を避けたかったのです。
こうしてウソつき百合子は論戦を避けて逃げ切り、三度目の知事戦に当選しました。8年前は、自民党を攻撃して民意を掠めとり、今回は表立たないように自民党の応援を受けてのことです。「勝てば官軍」です。「選挙に勝てば、ウソつきも知事」なのです。
しかし、選挙によって百合子のウソが真実に変わったわけではありません。神宮外苑間の再開発も、築地市場跡地も、五輪選手村も、三井不動産ファーストも、電通との腐れ縁も、関連企業への天下りも、在日ヘイトの体質も、歴史修正主義も、議会での答弁拒否の姿勢も、何もかも旧態依然のまま。
このウソつき百合子に対する制裁の一つは、刑事告発です。公選法235条の虚偽事項公表罪は最高刑禁錮2年。有罪になれば、公民権停止となって知事の資格を失います。しかし、民主主義の本道は広範な世論の声を糾合して、ウソつき百合子を政治的に追い詰めること。
「あと4年は、ウソつき知事で我慢」は、決して「4年間は知事のなすがままににお任せ」と同義ではありません。ウソつき知事を監視し、批判し、批判の声を挙げ、行動すること。それこそが民主主義の下での有権者のあり方です。
情報を集め、真偽を判断し、そして「ウソつきは我が国の首都の知事にふさわしくない」「退陣せよ」との声を上げ続けましょう。その声を糾合しましょう。民主主義のために。地方自治のために。私たちの住む東京のために。
(2024年6月4日)
6月4日、忘れてはならぬ日であるが、到底忘れられぬ日でもある。
あの日、私の中で崩壊したものは、中国共産党や中華人民共和国への期待や肯定的な評価だけではない。人類の進歩への楽観や希望も崩れたのだ。あれから35年、中国共産党の野蛮と危険は、さらに深刻化している。彼の地に、人権と民主主義が根付くには、百年河清を俟つがごとき感を拭えないが、やむを得ない。百年を俟つ覚悟をしようではないか。そう、百年批判の声を挙げ続ける覚悟を。
例年6月4日には、弾圧されて声を失った中国本土の民主勢力に代わって、香港の市民が大規模な追悼と抗議の集会を続け、亡き人たちの志を継いできた。が、今や、香港の文明は中国の野蛮に完全に呑み込まれ、いまこの志を継いでいるのは台湾である。
かつての「人民に依拠した中華人民共和国」と「国民党による強権支配の台湾」という関係は完全に逆転した。いまや、「一党独裁個人崇拝の専制国家・中国」と、「人権と民主主義の先進社会・台湾」との対比の構図である。
さらに深刻なことは、野蛮の側が腕力において圧倒的に強盛なことである。文明の側、人権や民主主義の旗を掲げる側は、軍事力において劣勢を免れない。
その台湾では、就任まもない頼清徳総統が、本日「天安門事件の記憶は歴史の奔流の中で消えることはない」と発言した。さらに、「(天安門事件は)民主主義と自由が簡単には手に入らないことを思い知らせてくれる。私たちは、自由によって独裁政治に対応し、勇気をもって権威主義の拡大に立ち向かわなければならない」「民主や自由があってこそ人民を守ることができる」とも述べたという。そして、台北市内では民主団体によって天安門事件犠牲者を追悼する集会が開催された。
習近平共産党指導部は、事件を「動乱」と認定して民主化要求運動を武力で抑え込んだ対応をいまだに正当化し、さらに国内民主化運動をおさえこもうと躍起である。4日早朝、天安門広場やその周辺には制服姿の警察官や武装警察官が多数配備された。厳戒態勢を敷き、市民の追悼や抗議活動を監視しているという。強権を発動しなければ、治安を維持することのできない脆弱さを抱えているのだ。
一見、中国と台湾が対立しているように見えるが、実は、民主主義を求める勢力と、これと敵対し弾圧する勢力とが対立している。民主主義を求める勢力は中国本土では劣勢で弾圧されている。台湾では、民主主義を求める健全な勢力が多数派を占めており、虐げられている中国の民主主義勢力に手を差しのべているのだ。
周知のとおり、中国指導部の頼総統に対する非難のボルテージは高い。先月の総統就任時には祝辞を送らず、《台湾に『戦争と衰退』をもたらす『危険な分離主義者』》との物騒なメッセージを送って、台湾周辺をぐるりと取り囲む形での軍事演習の実施で威嚇をしている。《中国に逆らうと『戦争と衰退』が待っているぞ、中国からの台湾分離など唱えることの『危険』を知れ》と恫喝しているのだ。これこそ、野蛮な反社の姿勢ではないか。
「天安門」から、「08憲章」・「チベット・ウイグル」・「香港」、そして台湾と矛先は広がっている。自由に発言のできる立場にある者は、「天安門の母」や香港の市民に代わって民主勢力を弾圧する野蛮な中国共産党を批判しなければならない。小さな声も、無数に集まれば力になる。そうすれば、百年待たずして河清を実現できるかも知れない。
(2024年5月12日)
「法と民主主義」2024年5月号【588号】は連休前に発刊されたが、このブログでの紹介が遅れた。本号の特集タイトルは、以下のとおり熱い。
●あらためて問う《政治とカネ》― その理念と規制改革の方向
時宜に適った充実した内容であり、只野雅人・石村修両氏をはじめとする適材の執筆陣の力のはいった論稿が揃っている。
◆特集にあたって … 編集委員会・澤藤統一郎
◆政治資金と民主主義 … 只野雅人
◆会社による政党への寄附 ── 八幡製鉄事件最高裁判決・再読 … 石村 修
◆政治資金の統制の論理 ── 政治資金規正法の盲点 … 加藤一彦
◆政党もコンプライアンスの導入急務── 自民党各派の政治資金パーティー問題の経過と現状 … 栗原 猛
◆政治資金パーティーという「企業献金の抜け道」を塞げ … 立岩陽一郎
◆民主主義の理念貫徹のための選挙制度改革── 小選挙区制の弊害と改革の方向 … 小松 浩
◆政治資金と納税義務 ―― 自民党キックバック、裏金への課税 … 岡田俊明
◆政治資金と納税義務 ―― 納税者の怒りと運動の視点 … 浦野広明
◆主要各国における政治寄付関連制度(国会図書館作成資料)
私のリードは、下記のURLでお読みいただきたい。
https://www.jdla.jp/houmin/backnumber/pdf/202405_01.pdf
民主主義の理念に敵対するものとして、資本の論理がある。利潤の追求をその本質とする企業は、儲けのためにはなんでも買う。カネは票を買い、政策を買い、政治を買うのだ。かくて、放置されている限り、カネは強力な武器となって民主主義の理念を侵蝕する。民主主義は、このカネの力を徹底して規制しなければならない。
同時に、政治資金の流れは、徹底して可視化されなければならない。政治資金収支報告の内容を透明化するとともに、有権者が関心をもって監視し意見を表明することが必要である。政治家の腐敗の程度は、有権者全体の民主化度の反映なのだ。
特集以外の記事は、以下のとおりで。
◆緊急掲載
岡口基一弾劾裁判の手続と判決の問題点 … 児玉晃一
◆司法をめぐる動き〈93〉
・NHK情報公開訴訟での一審判決報告 … 澤藤大河
・3月の動き … 司法制度委員会・町田伸一
◆連続企画・憲法9条実現のために(51)
岸田改憲と憲法審査会の動向 ── 「戦争への道」=改憲を葬り去る時 … 高田 健
◆メディアウオッチ2024●《グローバルパートナーって何だ?》
「裏金」問題の陰で「戦争国家」への道 円安、生活苦、この国をどうする? … 丸山重威
◆改憲動向レポート〈№58〉
憲法改正問題とは「関係のない自民党派閥による裏金問題」と発言した
馬場伸幸日本維新の会代表 … 飯島滋明
◆インフォメーション
・ブックレット「『国会議員の任期延長改憲』その危険な本質?軍事大国化の中での憲法審査会の動向?」のご案内
・国の指示権を拡大する「地方自治法の一部を改正する法律案」の廃案を求める法律家団体の声明
◆時評●平和的共存への道に希望を … 松田幸子
◆ひろば●改憲問題対策法律家6団体連絡会議事録整理班の活動 … 久保木太一
お申し込みは、ぜひ下記の「法と民主主義」ホームページから
「法と民主主義」(略称「法民」)は、日民協の活動の基幹となる月刊の法律雑誌です(2/3月号と8/9月号は合併号なので発行は年10回)。毎月、編集委員会を開き、全て会員の手で作っています。憲法、人権、平和、司法、原発、ジェンダー、天皇制など、情勢に即応したテーマで、法理論と法律家運動の実践を結合した内容を発信し、法律家だけでなく、広くジャーナリストや市民の方々からもご好評をいただいています。定期購読も、1冊からのご購入(1冊1000円)も可能です。よろしくお願いします。
https://www.jdla.jp/houmin/index.html
(2024年5月4日)
産経の社説は「主張」という。産経自らが、「憲法改正、靖国神社参拝、領土問題などについて、日本の国益のもとにハッキリとした論説を展開しています」と、その姿勢を説明している。「日本の国益のもとにハッキリとした論説」とは、「真正右翼の言説」という意味。「これがハッキリとした右翼の主張」なのだ。ときおりこれを見ていれば、いま右翼が何を問題とし何を言いたいのか、ほぼ見当がつく。その意味で便利で存在価値ありなのだが、カネを払って読むほどの内容はない。ネットで斜め読みするだけで十分である。
最近、産経らしい「主張」のタイトルが以下のように続いている。安倍なきあとの右翼の危機感の表れなのかも知れない。
(4月27日)皇位継承と皇族数 「正統の流れ」確認された
(4月29日)昭和100年式典 日本を挙げて開催したい
(5月1日)天皇陛下即位5年 重きお務めに感謝したい 伝統守り男系継承を確実に
(5月3日)憲法施行77年 国会は条文案の起草急げ 内閣に改憲専門機関が必要だ
内容はタイトルだけで推察されるとおり。基本姿勢の一つは「国体思想」であり、もう一つが「軍事大国化」。両々相俟って「国益論」となり、「改憲・靖国・領土」という具体的トピックに盛り込まれる。
「国体思想」とは、愚にもつかない天皇崇拝のこと。「思想」というほどの論理性も体系性もなく、今の世にはアナクロニズムというしかない代物。天皇教というべき蒙昧なかるとに過ぎず、統一教会の原理講論と五十歩百歩というところ。
天皇とは、調和のとれた美しい憲法体系中に埋め込まれた、本来あってはならない異物である。体系に馴染みようがない。憲法体系を人体になぞらえば、盲腸か腫瘍にあたると言えよう。憲法体系の調和を撹乱し、この異物を摘出しない限りは憲法の体系性が完成しないのだ。
憲法は、すべての人の生まれながらの平等を基本原理として体系化されている。しかし、天皇は生まれだけでその地位に就く。人の平等性という原理を破壊する存在なのだ。天皇を貴しとするところから、相対的な賤なる存在が生まれる。その意味で天皇制は差別の根源である。あらゆる差別の廃絶のために、天皇制を廃棄しなければならない。
「軍事大国化」は、富国強兵のスローガンをもって語られた大日本帝国の国是であった。大日本帝国は、「軍事大国化」の大方針を掲げて、台湾・朝鮮・満州へと侵略を重ねた。平然と、他国の領土を「日本の生命線」とうそぶいて恥じなかった。対中戦争の膠着を打開するとして対英米蘭にまで戦争を仕掛けて、壮大な失敗を犯した。日本国憲法はその失敗の教訓から生まれ、徹底した平和主義・国際協調主義を採用した。これを再び戦前に戻してはならない。
ところで、最近の産経社説の中で、最もあからさまに国体思想の臭みを放っているのが、5月1日掲載の「天皇陛下即位5年 重きお務めに感謝したい 伝統守り男系継承を確実に」である。
産経は天皇を、あたかも主権者の如く、またあたかも聖なる存在の如く、崇め奉っている。これは、危険な兆候と言わねばならない。
産経は、「天皇は、憲法第1条で「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」と定める日本の立憲君主の立場である。国と国民の安寧を祈り、さまざまなお務めに励まれてきた陛下に深く感謝申し上げたい」と言う。ことさらに、憲法第1条の後段、「この(象徴たる)地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。」を引用から省いての作文が解せない。天皇の地位は、飽くまで主権者である国民の意思にもとづく限りもので、言うまでもなく天皇制廃絶の憲法改正は可能である。このような政体をことさらに「君主制」という必要はない。
産経社説から伺える右翼の問題意識は、男系男子としての天皇の「正統性」への固執と、血統の断絶に対する恐れとである。つまらぬことではないか。天皇は、人権と民主主義、そして平和と国際協調を調和のとれた体系とする憲法に必然の存在ではない。天皇の血統が途絶えて天皇制がなくなっても、憲法の人権も民主主義も平和主義も、何の影響も受けることはない。当然のことながら、日はまた東から昇り、季節はめぐる。稲も枯れることはなく、鳥もさえずり続けるのだ。
(2024年5月3日)
本日、77回目の憲法記念日。擬人化すれば、日本国憲法は77歳となった。この間、部分的にも明文改憲はなかった。誕生以来本日まで、1字の損傷もなく、憲法は擁護された。これは、主権者である国民の憲法を支える強い意思が保守勢力の改憲策動を阻止したことを意味する。その意味では日本国憲法の喜寿を祝い喜ぶべきではあろう。本日は、めでたい日である。
とは言うものの、手放しで喜んでよい憲法状況ではない。確実に解釈改憲の策動が進行している。憲法の空洞化といってもよい。とりわけ、憲法の平和主義への攻撃と侵蝕は看過しがたい。9条は危殆に瀕している。安倍政権の集団的自衛権行使容認の憲法解釈変更以来今日まで、政府の憲法無視は甚だしい。就任前はハトと思われていた岸田が今はタカの本領を発揮している。安保3文書の閣議決定、敵基地攻撃能力保有、軍事費倍増、戦闘機まで含む殺傷兵器の輸出解禁、日米軍事同盟の質的強化等々、明らかに憲法の平和主義をないがしろにする大軍拡路線が進行中である。
憲法とは、主権者から為政者に対する命令である。権力行使を有効に制約しなければ憲法の存在意義はない。いま、政権には憲法遵守の誠実さはなく、邪魔な存在として解釈を変更して違憲な権力行使を行い、さらには明文改憲の意図を隠そうともしていない。
かくして、憲法に従うべき義務を負う権力者が、憲法改正を唱える異常事態が常態化するに至っている。さらに憂うべきは、自・公の与党勢力だけでなく、維新や国民という一部野党までもが、改憲勢力の一翼を担っている。喜寿の憲法は必ずしも安泰ではない。
喜寿を迎えた日本国憲法について、もう一つの感想がある。今日まで明文改憲を阻止し得たと言うことは、その反面、より良い憲法改正をなし得なかったということでもある。憲法は保守勢力と進歩勢力との、暫定休戦協定という政治的意味をもっている。進歩の勢力が強くなれば、憲法は大いに改正を重ねてしかるべきものなのだ。
日本国憲法は立派な憲法ではあるが理想の憲法ではない。当然のことながら、不磨の大典でもあり得ない。人権・民主主義・平和という理念を充実し実質化する方向に、真の意味での「憲法改正」を進展させなくてはならない。にもかかわらず、日本国憲法は、人権にも民主主義にも敵対し平和主義にも危険な「天皇制という異物」を抱えたまま喜寿を迎えた。憲法制定以来今日までの長きにわたって、日本の主権者はこの憲法上の異物を摘出できていない。
日本国憲法の喜寿は、まずはその無事を確認して祝したいが、それだけでは足りない。明文改憲と解釈改憲の両者を最大限警戒するとともに、より良い憲法へ向けての「真の改正」の必要を確認する日としたい。異物を摘出し、部分的な治療を重ねることによって、日本国憲法は大いに若返り活性化するに違いない。
(2024年4月30日)
新聞とネットで拝見する限りだが、NHKの朝ドラ「虎に翼」の好評が続いているようだ。結構なことである。だが、喜べないこともある。このドラマがとんでもない反動裁判官の実像隠蔽や美化になりかねないことだ。ドラマと史実を混同してはならないという当然の警告が必要であって、今後何度もこの点を繰り返さねばならないことになろうかと思う。
このドラマに、桂場等一郎なる人物が出てくる。このドラマのある紹介記事では統一郎という私の同名となっており、なんとなくその人物像に親しみを感じてしまいそう。これがくせもの。くわせもの。
桂場等一郎は、このドラマの第1話から登場するのだという。戦後、新憲法制定の直後に、主人公猪爪寅子が「憲法14条に基づき、女性にも裁判官任官の道が拓けた」と考えて、当時の司法省に採用願いを提出する。その際の面談の相手となった人事課長が桂場等一郎。つまり、人事行政を行う官僚としての裁判官という立場。これが、ドラマではモノの分かった好人物に描かれている模様なのだ。
この桂場等一郎のモデルが、石田和外と聞いて驚いた。石田和外とは、本来がパージとなるべき戦前の亡霊のごとき思想判事だったが、戦後典型的な司法官僚として出世し5代目の最高裁長官となった男。疑う余地とてなき反動として知られた人物である。
任期中に名を馳せたのは、民主的な若手裁判官の自主的集団であった青年法律家協会裁判官部会を弾圧したこと。当時は、ブルーパージと呼ばれた。その高圧的な姿勢に接して、私は反権力に生きることを決めた。私にとっての、忘れることのできない憎むべき「反面教師」である。
定年退官後は「英霊にこたえる会」の初代会長となった。さらに「元号法制化実現国民会議」の議長ともなる。これが、「日本を守る国民会議」に改称し、現在の「日本会議」となっている。右翼の親玉となった元最高裁長官なのだ。
寅子のモデルである三淵嘉子(当時は和田姓)が新憲法制定後に、任官資格が「大日本帝国男子に限る」とされていた裁判官の採用願いを提出したこと、当時の司法省人事課長が石田和外だったことはおそらく史実なのだろう。しかし、石田の姿勢がどうだったかは分からない。桂場等一郎の人物像は、飽くまでドラマでの設定に過ぎない。
現在ドラマでは、寅子の父が大規模な疑獄に巻き込まれて逮捕され起訴されるという大事件に遭遇している。この疑獄のモデルが帝人(帝国人造絹絲)事件で、政争に絡んだでっち上げとして知られた事件。16名の被告人全員が一審無罪で、検事控訴なく確定している。その無罪の判決書を左陪席として起案したのが石田和外。
ハテ? 三淵嘉子の父の経歴には逮捕も起訴もないというから、ドラマはことさらに桂場等一郎の出番を作ったことになる。おそらくは、これから等一郎裁判官の善玉としての活躍を描くことになるのだろうが、この等一郎の美化には、警戒を要する。ドラマの等一郎の美化が、右翼反動の石田和外美化につながりかねないのだから。「寅に翼」全面礼賛というわけにはまいらぬ。
(2024年4月26日)
宮沢博行という衆議院議員が議員バッジを外して辞職願を申し出、昨日(4月25日)の衆議院本会議で許可となった。この辞職は、週刊文春に「妻子がありながら別の女性と金銭的援助を伴う同居をしていた」と報じられてのこと。これをメディアは、「パパ活辞任」と言っている。自民党全体が裏金まみれの疑惑を抱えているこの時期の「パパ活」スキャンダルとして目を惹かざるを得ない。
この人、コロナ禍の緊急事態宣言下での「パパ活」同棲の事実があったことを認め、さらにコロナ禍が明けると出会い系サイトに「ひろゆき 49歳 東京都 自営業」のプロフィールで登録して露骨な書き込みで女性を物色していことも認めた。デリヘル嬢が連夜宮澤の自宅を訪ねている写真も掲載されたという。
ハテ? 既視感のある報道ではないか。2023年8月の「週刊文春」に踊ったタイトルが「オレはエッチをガマンできない」「木原誠二官房副長官は違法風俗の常連だった!」というもの。木原は「ナカキタ」という偽名を名乗って違法デリヘル(事実上の売春)に浸っていた。文春記者が木原氏の写真を見せたところ、複数のデリヘル嬢が「接客したことがある」と認めたという。
その一人の証言が、木原の「世の中、コロナ下なんだけど、俺はエッチを我慢できないからさぁ」(同誌2023年8月10日号)
さすが、同窓の先輩。宮沢博行に比較して、みっともなさでは、木原誠二に一日の長がある。先輩と比較すれば、宮沢の醜行ぶりも、その規模イマイチというところ。しかも、宮沢には木原のように権力を振りかざして捜査に介入などという悪質さにも欠ける。
にもかかわらず、宮沢は辞職を余儀なくされ、木原は議員として生き延び今なお党の要職に就いてさえいる。この差はどうしてなのだろうか。
私が宮沢博行という政治家の存在を知ったのは、一連の裏金問題が話題となって以来のこと。2023年に防衛副大臣に就任するも、安倍派による組織的な裏金作りが発覚して副大臣を辞任。2023年12月、政治資金パーティーのキックバックに関して以下のように公然と派閥幹部を批判して注目を集めた。
「派閥の方から、かつて収支報告書に記載しなくて良いと指示がございました。3年間で140万円(その後の党の調査で132万円と判明)です。はっきり申し上げます。しゃべるな! しゃべるな! これですよ」
さらに、2024年1月には、「清和政策研究会(安倍派)は、解散すべきである。わたしは派閥に残り、派閥を介錯(かいしゃく)する。安倍派を介錯する」と安倍派の解散を求める声を上げていた。
党や派閥の幹部の不興を買うことを覚悟しての発言だが、悲しいかな、彼には有力な庇護者がいなかった。確証はないが、スキャンダル報道の情報源にもその辺の事情が絡んでいて実は潰されたのかも知れない。一方、自民党の木原誠二・幹事長代理は、よろけつつも命脈を保っている岸田首相の側近として知られる。この差は大きい。
ところで、宮沢も木原も、同じ自民党議員で東大法学部の卒業。宮沢が97年卒で、木原は4年先輩の93年だという。だから、何と言えるだろうか。
「東大法卒の品性とは、こんなみっともないもの」「東大出ってホントにみっともないやつばかり」「政治家の一皮剥いた本性をあらわしている」「自民党議員のレベルはこの程度」「男なんてみんなこんなもの」
少ないサンプル数で全体を決めつけることは間違いだが、このような印象は拭えない。少なくとも、「東大法卒だから品性立派とは限らない」「みっともない東大出も珍しくはない」「一皮剥いたらこんな本性の政治家もいる」「自民党にはこんな低レベルの議員も複数いる」「こんな男性も少なくない」とは言えるのだ。選挙では、人物をよく見極めよう。もうすぐ衆院議員の補選だし、都知事選も近い。
(2024年4月13日)
4月1日から始まったNHK朝ドラ「虎に翼」が大きな話題になっている。法曹関係者やジェンダーに関心のある向きにだけではなく、多くの視聴者の好意的な評価を得て、視聴率も好調だという。私は一切テレビを観ないのだが、何人もの友人から「面白い」「お勧め」と声をかけられた。女性として日本で最初の弁護士となり裁判官ともなったのが三淵嘉子。その人をモデルにした主人公の学生時代を描いた筋立ては、ほぼネットでつかんだ。
本日の毎日新聞夕刊5面(芸能)が、大きく紙面を割いて「『虎に翼』に飛躍の予感 『はて?』が導く分かりやすさ」と見出しを付けた担当記者座談会。絶賛に近い評価と言ってよい。20代、30代、40代の各芸能記者が、声をそろえて、分かり易く楽しく面白いと強調して共感している。時宜を得た、幸運なドラマである。主人公寅子が、理不尽な場面で発する「ハテ?」は、早くも今年の流行語大賞候補とも何度も聞かされた。
もう30年も前のこと。教科書問題に取り組んでいる弁護士から、「今、教科書作りでの保守と革新のせめぎ合いの主たる舞台は、歴史でも公民でもない。実は家庭科なのだ」と聞かされたことがある。
父と母がそろった家庭、夫婦の性別役割分担が安定的に固定している家庭像が、保守陣営と文科省のお望みの家庭なのだという。家庭科教科書には、そのような押しつけが厳しく、挿絵や写真はそんな家庭像ばかり。未婚の母や、離婚した夫婦を前提の家族が肯定的に描かれることはあり得ないのだとか。
現在なお、「2025年度から中学校で使われる教科書の検定」において、「家庭科の教科書を申請した全3社が、家族のあり方や多様性について考えさせる記述を盛り込んだ。一方、文科省は「学習指導要領が示す内容に照らして、扱いが不適切である」として、いずれも修正を求める「検定意見」をつけた。「同性カップルなど多様化する家族の形を紹介した記述が「不適切」と指摘され、教科書が同時代を描く難しさも浮き彫りとなった」(「毎日」)と報じられている。
かつては、家父長制が社会構造における最も基底的な秩序維持の単位であった。個人の尊厳よりは社会秩序の安定を優先する体制派の思考からは、家父長制の秩序崩壊は即ち社会秩序の崩壊を意味する。社会総体の秩序とは、いうまでもなく天皇を頂点とする国体を意味する。家父長制が下から国体を支え、国体が上から家父長制を擁護してきたのだ。
そして今なお、保守派の家父長制への親和性が高い。国体的な社会構造へのノスタルジーが確実に強く存在している。差別に慣れ、秩序を受け容れる民衆こそが、権力に好都合な望ましい被支配層であるからだ。そんな中での、家父長制への抵抗ドラマ「虎に翼」の企画はグッドジョブであり、その視聴率好調はグッドニュースである。
本日の「毎日」夕刊5面には、記者座談会と併せて、ペリー荻野(コラムニスト)の「NHK朝ドラ『虎に翼』 長い『語り』にはワケがある」という一文が掲載されている。「女性が意見を言えない環境で、主人公の心情を伝える語りの多さは必然なのだ」という趣旨。そうなのかどうかはさて措き、この人も寅子に感情移入している。
そのコラムの最後が、「これから寅子は、数々の困難に立ち向かうはずだ。その姿を見守り、応援したいと思う。そして、さまざまな妨害に遭う女子部の仲間や、当時、無数にいたであろう『寅子になれなかった女性たち』のことも思う。令和の今、『寅子になれなかった女性』は皆無になったのか? 答えられないもどかしさも忘れないようにしながら。」と結ばれている。この指摘、大切な視点だと思う。
「寅子と志を同じくしながら寅子になれなかった女性たち」は、戦前だけのことではなく、今なお、数多くいる。東京大学の今年度の新入生計3126人のうち、男性は2480人であるのに対し、女性は2割の646人だという。これが、今なお残るジェンダーギャップの現実である。これを踏まえて、同大の入学式における学長式辞は、こう述べている。
「東京大学の入学者の性別には、大きな偏りがあります。そして、その偏りは文科よりも理科でさらに大きくなっています。その基礎には、そもそも受験する女性が少ないという状況もあります。東京大学が、女性のみなさんをはじめ多様な学生が魅力を感じる大学であるか、多様な学生を迎え入れる環境となっているかについても、問わなければなりません。」
なお、「寅子」の命名は、「五黄の寅」の年(1914年)の生まれからだとされている。実は、私の亡父も同年の1月1日生まれである。当時の旧制中学を卒業後に進学を希望しながら、経済的事情で叶わずに株屋に就職せざるを得なかった。その目からは寅子の境遇と進学は羨ましい限り。父の就業先は不景気で倒産。ようやく盛岡市の吏員として職を得たが、2度の陸軍への徴兵と海軍への徴用。終戦時は30代で、就学の機会を得なかった。「何ものかになろうとしてなれなかった多くの男性たち」もいたのだ。人の志を潰す構造的差別は性別だけでなく、貧富の格差でもあった。
また、一言しておきたい。「令和の今」という、筆者の何げない一言。私には大きく引っかかって違和感を禁じえない。時代を表す言葉として、どうして天皇と関連の「令和」なのだろうか。女性差別も家父長制も、天皇制を支え天皇制に支えられてきた。無数の小さな家父長の権力と権威の上に、大きな天皇の権力と権威が築かれていた。その天皇制を国民生活に刷り込もうという明治政府新発明の小道具が、一世一元の元号だった。女性差別の非を論じるコラムに「令和の今」は、あまりに不用意と言わざるを得ない。日本社会の構造的差別の根源にあるのものが天皇制である。無意識にもせよ令和を使うことは、守旧派の術中に陥っていることではないか。
ついでにもう一言。ドラマの中で、寅子が、同級生から「法律とは何かもわかっていないくせに」と言われて、「法律とは、私たちが守らなければいけない規則」と答える場面がある。ハテ? この回答にはシラける。法が差別を強制しているときに、「法律とは、私たちが守らなければいけない規則」と言ってしまえば、差別を容認することではないか。それでは法は役に立たないし、法を学ぶ意味はない。法を克服する対象として学ぶ姿勢がなければ、寅子が法律家を目指すはずはない。
きっとこれから、寅子は抵抗者として法を見、法を武器に差別と闘う姿勢を学びとっていくことになるのだろう。
(2024年3月31日)
明日、靖国神社の宮司が交代する。新任の宮司は、自衛隊元海将の大塚海夫。元自衛隊幹部が靖国のトップに就任することの意味は小さくない。なお、10人いる崇敬者総代のうち、2人が自衛隊幕僚長級の元幹部だという。このところ、自衛隊の集団参拝も報じられている。靖国と自衛隊。相寄る魂のごとくであるが、元来が禁じられた仲なのだ。
今年2月発行の靖国神社「社報」に大塚新宮司の寄稿が掲載されているという。この人は現職の自衛官時代に靖国神社奉賛会に入会しており、「国防という点で英霊の御心を最も理解できるはずの我々こそが」「その思いを受け継ぎ、日本の平和のために尽力すべき」と述べているそうだ。この新宮司の発言、これは危ない。
靖国は、天皇のために命を捨てた皇軍の将兵を、天皇への忠誠故に顕彰する目的で、天皇の発意によって創建された宗教的軍事施設である。当初は内戦における天皇軍の戦死者を祀り、内戦が終わってからは対外的侵略戦争の戦死者を護国の神として祀る神社と性格を変えた。皇軍の戦死者は天皇の勅によって祭神となって合祀される。合祀の儀式である臨時大祭には、大元帥としての軍服をまとった天皇が必ず親拝した。靖国の宮司は陸海軍の最高幹部が務め、その境内は陸海軍が警固した。
ことほどさように、靖国とは徹頭徹尾天皇の神社であり、軍国神社である。神社であるからには宗教施設であるが、その宗教を何と呼称するかは微妙な問題。「国家神道」という表現は分かりにい。天皇を神とも祭司ともする、「天皇教」というネーミングが分かりやすい。天皇教は、明治政府が拵えあげた新興宗教にほかならない。もちろん、鍛え抜かれたマインドコントロール手法を誇ったカルトである。
理性をもっている人間を戦争に引き込むのは難事である。その理性を捨てさせる手段の一つとしてこのカルトがつくられ、国民を洗脳して戦争に総動員した。天皇教の教団は、全国の学校に訓導(教師)という布教師を配して、こう教えた。
「おまえの命など取るに足りない。天皇に絶対随順して命を捨てることこそ臣民の道であり、永遠の大義に生きることなのだ」「つまらないおまえでも、戦地で死ねば、天皇陛下によって靖国に祀っていただく名誉に浴することができる」「靖国に祀っていただけるのだから、笑って死ね」
信者に対して、財産だけでなく命をも捨てよと求める、これこそ究極のカルトである。恐るべきは、20世紀の中葉まで、このマインドコントロールが成功したことである。こうして、240万もの将兵が戦死して靖国の英霊となった。
新宮司による前記の「靖国」への寄稿は、「国防という点で英霊の御心を最も理解できるわれわれ自衛隊員こそが、天皇のために命を捧げて英霊となった旧軍人の尊い思いを受け継ぎ、日本の平和を守るための強力な軍隊を作り国防精神を昂揚すべく力を尽くさねばならない」との誓いと読める。
軍隊でも戦力でもないはずの自衛隊が、天皇の軍隊である旧軍にかくも親近感をもち、かくも精神的な一体感をもっていたのかと、驚愕せざるを得ない。
79年前の夏、敗戦によって大日本帝国は消滅した。神権天皇も、陸海軍を統帥する大元帥としての天皇もなくなり、陸海軍も解散した。しかし、天皇制は清算されることなく残った。陸海軍の付属施設だった靖国神社も宗教法人として生き延びた。そして、さほどの時を経ることなく自衛隊が創設された。戦前の残滓の跳梁に警戒を要する事態となって、現在に至っている。
戦争の惨禍を経て、その反省の内に日本国憲法の原理に貫かれた、平和な民主主義国家が誕生した。しかし、面倒なことに、象徴天皇という異物が生き残り、宗教法人靖国神社制も残り、旧軍に似た自衛隊が誕生して、靖国と天皇、靖国と自衛隊の癒着に警戒しなければならない事態が生じているのだ。
戦前のままの精神構造をもった守旧派連中は、靖国の国家護持を求める運動を起こしたが挫折し、次に靖国神社への天皇・内閣総理大臣・国賓等の公式参拝要請運動を展開した。憲法改正運動と並ぶ、右翼・保守派の悲願となって今日に至っている。
靖国をめぐっては、永く保守とリベラルが反目を続けてきた。そして、ずいぶんの昔から、リベラルの運動体内部では、「靖国問題の本質は反戦にある。将来、戦争が近づけば靖国問題が喫緊の重要課題となる。戦死者をどう葬るべきかが浮上するからだ」と言ってきた。つまりは、ながらく「将来」の問題だった。
それが今、リアリティをもって語らなければならない事態となったということではないのか。自衛隊が戦争参加を覚悟すれば、戦死者をどのように葬り、追悼し、顕彰すべきか、その問題に直面せざるを得ないのだ。このところ急ピッチで報じられる、自衛隊と靖国との接触は、その新たな危険な事態の兆しと見なければなるまい。
(2024年3月30日)
最近まで、日本に安倍晋三という疫病神が徘徊していた。ずるくてウソつきで、極端な身贔屓で、官僚人事を壟断して「忖度政治」を横行させ、モリ・カケ・サクラ等々の諸事件を引き起こして世論の指弾を受けた…。だけではなく、日本国憲法が大嫌いで、歴史修正主義者で、統一教会との関係が深く、メディアを操縦し、日本の教育・平和・外交・防衛・人権・経済を重篤な疫病症状とし、日本の国力を徹底して殺いだ。いま、自民党内では安倍派に属していたことだけでこの上なく肩身が狭い。党内だけではない、その負のレガシーは全国のあらゆる分野におよんでいる。
たとえば、小林製薬製のサプリメント「紅麹コレステヘルプ」による深刻な被害の問題である。以前から予想された「機能性表示食品」制度の危険が現実のものとなった。これも、安倍晋三という疫病神のなせる業。
誰の目にも破綻が明らかとなったアベノミクスは、3本の矢からできていた。「大胆な金融政策」「機動的な財政政策」そして、「民間投資を喚起する成長戦略」である。この第3の矢の「成長戦略」とは、なんということはない「規制緩和」の別名である。企業に課している社会的規制を取っ払って、自由に任せれば経済は成長することになるだろうという、安直きわまる発想。
「機能性表示食品」という制度も、このような発想から生み出された。国民の健康を犠牲にして、企業に利潤追求の自由を与えたものなのだ。まことに疫病神にふさわしいやりくち。
安倍晋三(当時首相)は、2013年6月の「成長戦略第3弾スピーチ」で、概要こんなことを述べている。
「私の経済政策の本丸は、三本目の矢である成長戦略です。我が国には、時代に合わない規制がまだまだ存在します。世界と比較すれば、歴然となります。企業活動の障害を、徹底的に取り除きます。
本日、規制改革会議から答申をいただきました。その主な成果を紹介しましょう。
健康食品の機能性表示を、解禁いたします。現在は、国から「トクホ」の認定を受けなければ、「強い骨をつくる」といった効果を商品に記載できません。お金も、時間も、かかります。とりわけ中小企業・小規模事業者には、チャンスが事実上閉ざされていると言ってもよいでしょう。アメリカでは、国の認定を受けていないことをしっかりと明記すれば、商品に機能性表示を行うことができます。国へは事後に届出をするだけでよいのです。」
機能性表示食品問題は、私(澤藤)にとって他人事ではない。ちょうど10年前、私は、このことをブログ「澤藤統一郎の憲法日記」に記事にして、DHCの吉田嘉明から当初2000万円の、さらには訴訟進行中に増額されて6000万円請求のスラップを仕掛けられた。その記念のブログの一部を再録しておきたい。
「DHC8億円事件」大旦那と幇間 その蜜月と破綻
https://article9.jp/wordpress/?p=2386 (2014年4月2日)
《『ヨッシー日記』と標題した渡辺喜美のブログがある。そこに、3月31日付で「DHC会長からの借入金について」とする、興味の尽きない記事が掲載されている。興味を惹く第1点は、事件についての法的な弁明の構成。これは渡辺の人間性や政治姿勢をよく表している。(略)
興味を惹くもう1点は、政治家と大口スポンサーとの関係の醜さの露呈である。金をもらうときのスポンサーへの矜持のなさは、さながら大旦那と幇間との関係である。渡辺は、「幇間にもプライドがある」と、大旦那然としたDHC吉田嘉明のやり口の強引さ、あくどさを語って尽きない。その結論は、「吉田会長は再三にわたり『言うことを聞かないのであれば、渡辺代表の追い落としをする』、と言っておられたので今回実行に移したものと思われます。」というもの。
それにしても、渡辺や江田にとって、大口スポンサーは吉田一人だったのだろうか。たまたま吉田とは蜜月の関係が破綻して、闇に隠れていた旦那が世に名乗りをあげた。しかし、闇に隠れたままのスポンサーが数多くいるのではないか。そのような輩が、政治を動かしているのではないだろうか。
たまたま、今日の朝日に、「サプリメント大国アメリカの現状」「3兆円市場 効能に審査なし」の調査記事が掲載されている。「DHC・渡辺」事件に符節を合わせたグッドタイミング。なるほど、DHC吉田が8億出しても惜しくないのは、サプリメント販売についての「規制緩和という政治」を買いとりたいからなのだと合点が行く。
同報道によれば、我が国で、健康食品がどのように体によいかを表す「機能性表示」が解禁されようとしている。「骨の健康を維持する」「体脂肪の減少を助ける」といった表示で、消費者庁でいま新制度を検討中だという。その先進国が20年前からダイエタリーサプリメント(栄養補助食品)の表示を自由化している米国だという。
サプリの業界としては、サプリの効能表示の自由化で売上げを伸ばしたい。もっともっと儲けたい。規制緩和の本場アメリカでは、企業の判断次第で効能を唱って宣伝ができるようになった。当局(FDA)の審査は不要、届出だけでよい。その結果が3兆円の市場の形成。吉田は、日本でもこれを実現したくてしょうがないのだ。それこそが、「官僚と闘う」の本音であり実態なのだ。渡辺のような、金に汚い政治家なら、使い勝手良く使いっ走りをしてくれそう。そこで、闇に隠れた背後で、みんなの党を引き回していたというわけだ。
大衆消費社会においては、民衆の欲望すらが資本の誘導によって喚起され形成される。スポンサーの側は、広告で消費者を踊らせ、無用な、あるいは安全性の点検不十分なサプリメントを買わせて儲けたい。薄汚い政治家が、スポンサーから金をもらってその見返りに、スポンサーの儲けの舞台を整える。それが規制緩和の正体ではないか。「抵抗勢力」を排して、財界と政治家が、旦那と幇間の二人三脚で持ちつ持たれつの醜い連携。
これが、おそらくは氷山の一角なのだ。》
機能性表示食品の制度は2015年に発足している。私のブログと吉田嘉明のスラップ提訴はその前年のこと。疫病神に操られ煽られた吉田嘉明や渡辺喜美の醜態と言うべきであろう。多くの人を操り煽った政権トップの罪は深い。既に死者5名と報じられている「紅麹」サプリ問題は、疫病神・安倍晋三の巨大な負のレガシーの一端に過ぎない。