澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

「南無十万の火の柱」 ? 東京大空襲70周年

本日の東京新聞「平和の俳句」を心して読む。
    三月十日南無十万の火の柱

70年前の今日、東京が地獄と化した惨状をつぶさに目にした古谷治さん(91歳)の鎮魂の一句。
東京新聞は、古谷さんを取材して、「黒焦げの骸 鎮魂の一句」「戦争を知る世代の使命」という記事を掲載している。その記事の中に、「古谷さんは戦後、中央官庁の役人として働き、政治家を間近で見てきた。今、戦争を知らない世代の政治家たちが国を動かすことに『坂道を転げ落ちていくような』不安を覚える。」とある。そして、古谷さん自身の次の言葉で結んでいる。

「戦争を知っているわれわれが、暴走しがちな『歯車』を歯を食いしばって止めないとどうなるのか。その使命の重大さ、平和のありがたさをかみしめて、鎮魂の一句をささげた」

日露戦争後、3月10日は陸軍記念日であった。1945年の陸軍記念日の早暁、テニアン・サイパンから飛来した325機のB29爆撃機が東京を襲った。超低高度で人家密集地に1600トンの焼夷弾の雨を降らせた。折からの春の強風が火を煽って、人と町とを焼きつくした。死者10万、消失家屋27万、被災者100万に上ったと推計されている。これが、3時間足らずのできごとである。防空法と隣組制度で逃げれば助かった多くの人命が奪われた。

東京大空襲訴訟の証言で、早乙女勝元さんが甚大な被害の理由をこう解説している。
「1番目は退路のない独特の地形です。東京の下町は荒川放水路と、隅田川に挟まれて無数の運河で刻まれた所。2番目はその夜の気象状況にあったと思います。春先の猛突風が9日の夜から吹き荒れていて、火が風を呼び、風が火を呼ぶという乱気流状態になったことが挙げられましょう。そして3番目は防空当局のミスであります。ミスといいますのは、空襲警報が鳴らないうちに空襲が始まっております。4番目は‥、昭和18年に内務省が改訂版で『時局防空必携』というのを各家庭に配りました。それを守るべしということですが、1ページ目を開きますとこう書いてあります。『私たちは御国を守る戦士です。命を投げ出して持ち場を守ります』と。国は東京都民を戦士に仕立てあげたんではないのでしょうか。そういうことが大きな人的被害を生む理由になったのではないかと考えます。」

多くの都民が、命令され洗脳されて、文字どおり「持ち場を守って命を投げ出した」のだ。

同じ証言で、早乙女さんはこうも述べている。
「3月10日の正午になりますと、焼け残りの家のラジオは大本営発表を告げました。公式の東京大空襲の記録といっていいのですが、翌日の新聞にももちろん出ております。その中でたいそう気になりますのは、次の1節であります。『都内各所に火災を生じたるも宮内省主馬寮(しゅめりょう)は2時35分其の他は8時頃までに鎮火せり』。100万人を超える罹災者とおよそ10万人の東京都民の命は、『其の他』の三文字でしかありませんでした。戦中の民間人は民草と呼ばれて、雑草並みでしかなかったと言えるかと思います。残念ながら、大本営発表の、『其の他』は戦後に引き継がれまして、今、被災者遺族の皆さんは私を含めて高齢ですけれども、旧軍人、軍属と違って、国からの補償は何もなく、今日のこの日を迎えています。国民主権の憲法下にあるまじき不条理であります。法の下に平等の実現を願っております。」

大日本帝国の公式発表は、10万の都民の命よりも皇室の馬小屋の方に関心を示したのだ。こうして、1945年の陸軍記念日は、「我が陸軍の誉れ」の終焉の日となった。それでも、この日軍楽隊のパレードは実行されたという。

無惨に生を断ち切られた10万の死者の無念、遺族の無念に、黙祷し合掌するしかない。空襲の犠牲者は、英霊と呼ばれることもなく、顕彰をされることもない。その被害が賠償されることも補償されることもない。それどころか、戦後の保守政権はこの大量殺戮の張本人であるカーチス・ルメイに勲一等を与えて、国民の神経を逆撫でにした。広島・長崎の原爆、沖縄の地上戦、そして東京大空襲‥。このような戦争の惨禍を繰り返してはならないという、国民の悲しみと祈りと怒りと理性が、平和国家日本を再生する原点となった。もちろん、近隣諸国への加害の責任の自覚もである。2度と戦争の被害者にも加害者にもなるまい。その思いが憲法9条と平和的生存権の思想に結実して今日に至っている。安倍政権がこれに背を向けた発言を繰り返していることを許してはならない。今日は10万の死者に代わってその決意を新たにすべき日にしなければならない。

たまたまドイツのメルケル首相が来日中である。共同記者会見でメルケルと安倍がならんだ。同じ敗戦国でありながら、罪を自覚し徹底した謝罪によって近隣諸国からの信頼を勝ち得た国と、しからざる国の両首相。それぞれが国旗を背負っている。

1940年、日独伊三国同盟が成立したとき、並んだ旗はハーケンクロイツと日の丸であった。戦後、ドイツは、ハーケンクロイツから黒・赤・金の三色旗に変えた。日本は、時が止まったごとくに70年前の「日の丸」のままである。変えた旗と変えない旗。この旗の差が、日独両国の歴史への対峙の姿勢の差を物語っている。

さて、東京大空襲70年後のこの事態である。火の柱となった十万の魂は鎮まっておられるのだろうか。
(2015年3月10日)

「文官統制」という「文民統制の中心手段」をなくしてはならない

昨日(3月6日)、防衛庁設置法改正案が閣議決定され、同日国会上程された。その内容は、防衛省内の「文官統制」を廃止するというもの。ややわかりにくい。私も、先日の日民協の学習会で、小澤隆一さんや内藤功さんからこの問題を指摘されるまでよく飲み込めていなかった。

「文官統制」とは憲法原則でもなければ、世界共通の理念ではない。我が国独特の、防衛庁時代からの省(庁)内自衛隊コントロール・ルールだ。防衛省は、文官(背広組)と、幕僚監部(制服組)とから成っている。この関係は、従来文官が圧倒的に優位で、自衛隊側から見ると「背広にあごで使われていた」(毎日)ということのようだ。この文官優位のシステムが「文官統制」。文官優位には、制服組の不満がくすぶってきた。今回の法改正はこの不満を解消するためのものという。

文官統制の位置づけは、朝日が紹介している1970年4月の佐藤栄作発言が分かり易い。
「自衛隊のシビリアンコントロールは、国会の統制、内閣の統制、防衛庁内部の文官統制、国防会議の統制による四つの面から構成される制度として確立されている」

また、政府が2008年にまとめた報告書でも、日本独特のあり方として、「防衛庁内部部局が自衛隊組織の細部に至るまで介入することが、文民統制の中心的要素とされてきた」と認めていた(朝日)。

自衛隊に対するシビリアンコントロール(=文民統制)を防衛庁(省)のレベルで担保するものとしてきたのが「文官統制」で、これは自衛隊発足(1954年)後一環した保守政権の方針だった。この度の改正案は、これを撤廃しようというもの。防衛省内の文官優位は崩れ、背広組と制服組とは対等になる。具体的には、制服組は文官の監督や指示から離脱して、自衛隊の部隊運営については文官の承認なしに、直接防衛大臣を補佐することになる。機動的な隊の運用は文官を通さずにおこなわれることが通例になるのかも知れない。

言うまでもなく、軍とは取扱いのやっかいな危険物である。とりわけ戦前の皇軍は、文民統制を嫌ってしばしば暴発して、政党政治や議会制度を破壊し、さらには国家の存立を崩壊せしめた。その弊を除くためのシビリアンコントロール(文民統制)である。

もっとも日本国憲法は軍隊の存在を想定していない。だから、憲法に文民統制の在り方が具体的に書き込まれてはいない。「自衛隊は違憲でない」「自衛隊は危険ではない」と力説しなければならない立場にあった自衛隊成立直後の政権は、自衛隊を厳重にシビリアンコントロールされているもので危険性のないものと説明しなければならなかった。その説明材料の一つが「防衛庁内における文官統制」であった。今、厳重なシビリアンコントロールを説明する必要はなくなったとして、文官統制をなくそうとしているのだ。

オリンピック誘致の時は、「放射能は、完全にコントロールされ、ブロックされています」と言わなければならないが、決まってしまえば知らん顔。あのやり口とよく似ている。

このような政策転換の際に政府の意図を読み取るには、産経社説を読むのが手っ取り早い。政府広報紙であり、政府の意図忖度広報紙でもあるのだから。

本日(3月7日)の産経社説は、「制服組と背広組 自衛隊の力生かす運用を」というもの。

「内局官僚が自衛官に指示・監督する「文官統制」の弊害を是正する措置が、ようやく取られることになった。」
これまでの文官優位のシビリアンコントロールを「弊害」と言うのが産経の立場。産経が「弊害」と言っているのだから、大切にしなければならない制度であることは当然である。

「政府は防衛相を補佐する上で防衛省の内局(背広組)と自衛隊の各幕僚監部(制服組)を対等に位置づける同省設置法改正案を閣議決定した。自衛隊の実際の部隊運用について、制服組のトップである統合幕僚長が防衛相を直接補佐する仕組みが整う。これまでは、部隊を動かす専門家ではない文官が、陸海空の自衛隊の運用などに指示・承認を行うことが認められていた。」
そもそもシビリアンコントロールとは、軍事専門家でない文官が軍を監督し統制することなのだ。軍を運営する効率よりも、その暴発を幾重にもチェックすることの方が重要だという考え方にもとづく。自衛隊トップの統合幕僚長といえども、内局に呼び出されて説明を要求されることが必要なのだ。

「法改正で、自衛隊が日本の平和と国民の安全をより実効的に守れるようになる意義は大きい。防衛出動はもとより、尖閣諸島や原発が襲われるなど、猶予なしに訪れるグレーゾーン事態にも対応できる。実現を急いでほしい。」
シビリアンコントロールを弱体化することを「自衛隊が日本の平和と国民の安全をより実効的に守れる」というのだから恐れ入る。防衛出動にも、慎重を要するグレーゾーン事態への対応にも、シビリアンコントロールを嫌う自衛隊の立場を代弁しているのだ。

「これまでの「文官統制」を評価する立場から、今回の見直しは文民統制を弱めるとの指摘もあるが、それはおかしい。有権者が選んだ政治家が、実力組織である自衛隊をコントロールし、政治が軍事に対する優位を保つ。文民しか就けない首相や防衛相が自衛隊を指揮監督し、国会は予算や法制面からチェックする。こうした原則は、法改正後もまったく変わらない。」
産経のいうことこそ、明らかにおかしい。「今回の見直しが文民統制を弱めるとの指摘」は否定しようもない。産経が言えるのは、「今回の防衛省設置法改正が実現した場合の『文官統制撤廃』は、文民統制を弱めるものではある。しかし、文官統制だけが文民統制のすべてではないのだから、文民統制がなくなったとは言えない」との範囲のこと。そうは言えても、「文民統制の中心的要素」とまで言われた、シビリアンコントロールの重要な制度を失うことの危険ははかり知れない。

産経のいうとおり、「防衛出動はもとより、尖閣諸島や原発が襲われるなど、猶予なしに訪れるグレーゾーン事態への対応」を急ぎたいことからの法改正案の提出である。産経が「実現を急いでほしい」と言っているのだから、集団的自衛権行使容認の動きと一体となった危険な改正案であることには疑いの余地がない。

しかも、強く警戒すべきは、「緊急を要する防衛出動やグレーゾーン事態への対応」のすべてに特定秘密保護法の、情報秘匿の網がかけられることである。

違憲なはずの自衛隊が、次第に大手を振って一人前の軍隊としての体裁を整えようとしている。今回の改正案上程も、その重要なステップの一つとして強く反対せざるを得ない。そして、自衛隊への運用に対するコントロールは何よりも国民の目でおこなわねばならない。

それにつけても、特定秘密保護法の罪の深さを嘆かざるを得ない。
(2015年3月7日)

「知らなかったから問題ない」では済まされないー安倍「疑惑内閣」は出直せ。

政治とカネについて疑惑が浮上すると、必ずこう繰り返されてきた。「些細なミス、訂正すれば済むことだ」「法的には問題ないが道義的責任を感じて辞任する」「疑惑を指摘されたカネは直ぐに返還したから、もう問題はない」。それで済まされたのでは民主主義が泣く。今国会で、もう一つのフレーズが付け加えられた。首相自身の言葉としてである。

「知っていたかどうかが重要な要件で、知らなかったから問題ない」というものだ。えっ? 我が耳を疑った。政治家がそんなことを言って開き直ってよいのか。ましてや疑惑の元締である安倍首相がそんなことを言って、批判の矢ぶすまにならないでおられるのか。この国はそれほど生温いのか。権力者に寛大なのか。信じがたい。

西川公也農相の辞任直後に、下村博文文科相の疑惑が浮上した。政治団体の無届け、そして無届け政治団体を通じてのヤミ献金の疑いである。しかも、政治資金規正法違反の疑惑だけでなく、政治資金収支報告書の記載から見えてくる「闇の勢力との黒い交際疑惑」などのスキャンダルが「教育行政をつかさどる責任者として、明らかに不適格」なのだ。しかし、ドミノ倒しになっては政権がもたないとばかりの必死の抵抗を続けている。

ところが、下村だけでなく、さらに望月義夫環境相、上川陽子法相にも疑惑の火がついた。この両名は、いずれも、補助金受領者からの献金を禁じた公職選挙法に違反するというもの。国からの補助金受領者からの政治家への献金は、「補助金受領にお骨折りいただいたことへの謝礼」と見られかねない。見方によっては、キックバックともとらえられかねない。だから、政治とカネとの汚い疑惑を断ちきり、カネに左右されない政治への信頼をゆるがせにしないための制度なのだ。

望月・上川の両閣僚は、この信頼を裏切った。世間はこう考えざるを得ない。「やはり、政治家にカネを渡している企業に補助金が行くんだ」「補助金をもらった企業は、やはり政治家に金を渡してお礼をし、次もよろしくと挨拶するのだ」と。

だから、安倍首相は、望月・上川の両閣僚と一緒に、政治の廉潔性への信頼を汚してたことに対して、深謝しなければならない。ところが、反省の弁を述べるどころか開き直って発したのが、「本人は知らなかったのだから、責任がない」「指摘されてわかったから直ぐカネは返した」「これで何の問題もない」というのだ。

改めて、政治資金規正法第1条を掲げておきたい。安倍晋三も下村博文も望月義夫も、そして法務大臣の立場にある上川陽子も、よくこの条文をかみしめるべきである。

第1条(目的) この法律は、議会制民主政治の下における政党その他の政治団体の機能の重要性及び公職の候補者の責務の重要性にかんがみ、政治団体及び公職の候補者により行われる政治活動が国民の不断の監視と批判の下に行われるようにするため、政治団体の届出、政治団体に係る政治資金の収支の公開並びに政治団体及び公職の候補者に係る政治資金の授受の規正その他の措置を講ずることにより、政治活動の公明と公正を確保し、もつて民主政治の健全な発達に寄与することを目的とする。

望月・上川両名の責任は、「寄附の質的制限」違反であり、その根拠条文は以下のとおりである。

第23条の3
第1項 国から補助金交付の決定を受けた会社その他の法人は、当該給付金の交付の決定の通知を受けた日から同日後1年を経過する日までの間、政治活動に関する寄附をしてはならない。
第6項 何人も、第1項の規定に違反してされる寄附であることを知りながら、これを受けてはならない。

第1項が企業に対する献金禁止規定であり、第6項が政治家の側に対する献金受領禁止規定である。違反に対する制裁は、両者とも「3年以下の禁錮又は50万円以下の罰金」となっている。

確かに、政治家を処罰するためには、「第1項の規定に違反してされる寄附であることを知りながら」という要件の充足が必要である。しかし、何よりも、問題は政治家の行為が犯罪として成立するかどうかではない。先に引用した政治資金規正法の趣旨に明記されているとおり、「政治活動の公明と公正を確保するために」「国民の不断の監視と批判の下に行われ」ことを最重要とするのが法の趣旨である。政治家は、犯罪構成要件の充足如何を問題としてたれりとする次元であってはならない。政治に対する国民の信頼を傷つけたことを謙虚に反省し謝罪しなければならないのだ。それでこそ、「民主政治の健全な発達」を期待することが可能となる。

なお、政治家が自分に政治献金してくれる企業の動向に無関心であることは考えにくい。しかも本件の場合、「鈴与」が受領した補助金の額は2件で合計2億円を超える巨額である。常識的には「知らなかったはずはない」として追及を受けて当然というべきだろう。安倍晋三流の弁護の仕方は強引に過ぎる。また、仮に本当に知らなかったとすれば、相手方企業だけに犯罪が成立してしまうことになる。そのような事態を作出したことにおいて、政治家としては失格と言うべきではないか。

予算委員会での追求の先頭に立っている民主党の諸議員は、よく調べて鋭く質問している。とりわけ、「下村大臣は教育を食い物にしていると言っていい」は、本質をよく衝いていて小気味よい。声援を送りたい。

それにしても、今次安倍内閣は政治とカネの疑惑まみれ。指を折れば、松島みどり・小渕優子・宮澤洋一・江渡聡徳・西川公也、そしてこれに加えて時の人となっている下村博文・望月義夫・上川陽子の3閣僚。「襟を正せ」「姿勢を改めよ」では言葉が足りない。やはり、「顔を洗って出直せ」というしかないのではないか。
(2015年2月27日)

「ニッキョーソ!」は、罵り言葉たりうるか

「罵り言葉(ののしりことば)」というものがある。憎むべき相手に、最大限の打撃を与えようとして投げつけられる言葉。「悪口」・「雑言」・「悪罵」と言い替えてもよいが、「罵り言葉」が陰湿な語感をもっともよく表しているのではないか。

罵り言葉には、相手を貶め、最も深く突き刺さる言葉が選ばれる。差別用語がその典型。また、相手の身体的なコンプレックスを衝く言葉も罵り言葉の定番。しかし、罵り言葉の使い方は難しい。その鋭利な切れ味は、相手だけでなく自らをも切り裂くことになるからだ。

身体の障がいや容貌、身体的特徴についての罵りは、言葉を発したその瞬間、相手に届く以前に、自らを大きく傷つける。銃なら暴発である。既にこの種の用語は使えない時代となっているのだ。国籍・人種・民族・信仰・出自・性差等についても同様のはずだが、その理解ない人もいてまだ根絶に至っていない。そのため、ときに物議を醸すことになる。

問題は、思想的政治的立場や発言を封じようとして投げつけられる罵り言葉である。適切に使うことは難しい。何よりも言語である以上は、その言葉が人を傷つける意味を持つことについての共通の理解がなければならない。それがなければ、発言者の悪意が相手に通じることはなく、なんの打撃を与えることもできない。

多くの場合、ある属性をもっていることの指摘が悪罵となる。しかし、指摘される内容が、恥ずべきことであり、非難に当たるかは自明ではない。しかも、このような罵り言葉には、鮮度がある。陳腐なものは切れ味が落ちる。さりとてあまりに斬新を狙うと意味不明となってしまう。

かつての日本社会では、弑逆・不敬・謀反・不忠・不孝は、最高の罵り言葉であった。しかし、今やすべて死語と言ってよかろう。惰弱・卑怯・未練なども同様ではないか。また、かつてのナショナリズムの高揚とともに、漢奸・売国奴・国賊・非国民などの語彙が生まれ、育ち、猛威を振るった。これが、今は死語になったと思っていたところ、ネットの世界でゾンビのごとく甦っている様子だ。ネットは文化の飛び地に過ぎないのか、リアル世界での排外主義復活の反映なのだろうか。「反日」という、罵り言葉としてはネット特有の未熟な用語の氾濫とともに不気味さは拭えない。

罵り言葉を適切に選んで、上手に罵ることは、意外に難しいのだ。罵る側の知性も品性もはかられることになるのだから。そんなことを考えていたときに、「事件」が起きた。「安倍晋三・トンデモ罵り事件」である。

事件は、昨日(2月19日)の衆議院予算委員会でのこと。民主党玉木雄一郎議員の質問の最中、あろうことか、安倍首相が唐突に「日教組!」などとヤジを飛ばし委員長からたしなめられる一幕となった。議員の質問は西川農水相が砂糖業界から受けた寄付金を巡ってのものだったという。

以下が、安倍首相らの発言内容。

安倍首相 「日教組!」
玉木議員 「総理、ヤジを飛ばさないでください」
玉木議員 「いま私、話してますから総理」
玉木議員 「ヤジを飛ばさないでください、総理」
玉木議員 「これマジメな話ですよ。政治に対する信頼をどう確保するかの話をしてるんですよ」
安倍首相 「日教組どうすんだ!日教組!」
大島委員長「いやいや、総理、総理……ちょっと静かに」
安倍首相 「日教組どうすんだ!」
大島委員長「いや、総理、ちょ…」
玉木議員 「日教組のことなんか私話してないじゃないですか!?」
大島委員長「あのー野次同士のやり取りしないで。総理もちょっと…」
玉木議員 「いやとにかく私が、申し上げたいのは…」
玉木議員 「もう総理、興奮しないでください」
.
この応酬に、「関係ないヤジじゃないか」などのヤジで一時議場騒然だったという。なお、玉木議員は、財務省の出で日教組出身者ではないそうだ。

安倍首相に限らず、右翼の連中は総じて日教組批判が持論。「あれもこれも、教育が悪いからだ」「日本の教育を悪くしたのは日教組だ」「だから、あれもこれもみんな日教組の責任だ」というみごとな三段論法が展開される。

持論としてのこのような信念は愚論あるいは暴論というだけのこと。ところが、安倍晋三という人物の頭の構造では、「日教組!」が罵り言葉として成立すると信じ込んでいるのだ。玉木議員にこの言葉を投げつけることが、何らかの打撃になるものと信じ込んでの発言なのだ。これは、彼がものごとを客観的に見ることができないことを示している。

「日教組どうすんだ!日教組!」という彼のヤジは軽くない。まさしく、罵る側である安倍晋三の知性も品性もさらけ出す発言なのだから。飲み屋で、どこかのオヤジが騒いでいるのではない。これが一国の首相の発言なのだ。

私たちの国の首相に対しての「罵り言葉」を探す必要はない。彼の言動を正確に再現するだけで足りるのだ。その言動の確認自体が、彼への最大限の打撃になるのだから。
(2015年2月20日)

「圧殺の海」を観に行こうー辺野古新基地建設反対闘争に連帯して

旧友からの音信は嬉しいもの。私の場合は、大学の教養課程の語学(中国語)クラスをともにした27人の仲間が最も懐かしい。人生のスタートラインに立つ手前で、見通しの効かない不透明な将来を語りあった貴重な友人たち。

あれから50年にもなるが、あのころの友人のそれぞれの未来は相互に交換可能だったのだと思う。別にあったかも知れない自分の人生を考えるとき、リアリテイを伴って思い浮かべることができるのは他の26人の現実の来し方。そのなかの一人に、「朝日」に就職して記者人生を全うし、その後「熊野新聞」に移った小村滋君がいる。「もしかしたら、私にも朝日や毎日、あるいはNHKの記者としての人生だってあり得たのかも知れない」「いやそれはあり得ないかな」などと考える。

昨年久しぶりの同級会で、小村君は、新宮の大逆事件関係者顕彰運動について熱く語った。今は廃止された刑法の大逆罪は、法定刑が死刑しかない。その罪名で起訴された者が、首魁幸徳秋水以下の26名。1911年1月に言い渡された判決は死刑24名、有期刑2名であった。この恐るべき天皇制政府による蛮行の犠牲者の中に、「紀州新宮グループ」がある。大石誠之助、高木顕明、成石勘三郎、成石平四郎、峰尾節堂、崎久保誓一の6名。

小村君は、地元の記者として、彼らの事蹟を発掘していたとのこと。いま、彼ら受難者は、「平和・博愛・自由・人権の先覚者」とされ、その「志を継ぐ」という碑が地元に建立されているそうだ。小村君などの地道な調査によるものなのだろう。

さて、刑死100年を記念して、新宮グループの中心人物だった大石誠之助を新宮市の名誉市民にしようという運動が盛りあがったのだそうだ。大石は「ドクトル(毒取る)」の異名で慕われた社会主義者の名物医師。その診療所の玄関には、「(診察費は)できるだけ払ってください」という札が掛かっていたという。

2011年3月新宮市議会は、市民運動が進めてきた「大石誠之助を名誉市民に」と求める請願について、なんと7対10の賛成少数で不採択とした。小村君はこれを残念がる。そして、「新宮の大逆事件に触れていただくときには、大石誠之助を名誉市民にする運動では、共産党市議団の裏切りで市議会で否決されたことを書くように」と念を押されている。共産党市議団にも言い分はあるのだろうが、残念ながら小村君の信頼を裏切ってしまったようだ。細かい経緯は、「大逆事件と大石誠之助ー熊野100年の目覚め」(現代書館刊)に書いてあるそうだ。この書物も、実質小村君が編集したものだという。

ところで、その小村君からEメールで「気まま通信」がときおり送られてくる。配信先は20人程度だそうだ。これは究極のミニコミ。今回は、大阪十三のミニシアターで観た映画「圧殺の海」の感想。辺野古基地建設反対に体を張る人々を描いたドキュメンタリーだ。「気まま通信」では彼の興奮が伝わってくる。これだけは観ておかなくては、と思わせる文章になっている。以下は、その抜粋。

「沖縄ファン」をヤマトに増やそうー映画「圧殺の海」を見て

黒いカーテンを開けると、小さな部屋に、ほぼ満席の観客の視線が一斉に私を見たように思った。「こんなに沢山の仲間がいる」私は、会場に暖かいものがあふれている気がした。ひとり一人、数えたら35人。

安倍政権は昨年7月から辺野古新基地建設に着工、これを阻止しようとする住民を圧倒的な力で押さえこもうとしてせめぎ合いが続いている。

カメラはいつも住民の側にいた。キャンプ・シュワブのゲート前で機動隊と揉み合うときも、海にカヌーで漕ぎ出して海保のボートに追い回され海に投げ出されたときも、カメラは住民の側から、海の中から、当局側を捉えていた。

そして11月の沖縄知事選、12月の総選挙で沖縄4選挙区とも辺野古反対の「オール沖縄」が勝った。にも拘わらず、安倍首相ら閣僚は、面会を求める翁長・沖縄知事に会わなかった。映画は、選挙結果について菅官房長官が「辺野古は粛々と進めるだけ」と鉄仮面のような表情で語るのを映し出していた。

映画が終わって、私は興奮を胸にエレベーターホールに出た。他の30人余も恐らく同じ気分だったろう。「昼食でも一緒しましょう!わざわざ和歌山から来た人を何もなしで返すわけにはいかん」ちょっと恰幅のいい男性が、背の低い日焼けした男性に話しかけていた。大きな声が、映画の興奮の余韻を表していた。「和歌山はどちらですか」「海南です」と二人の問答。私もエレベーターに一緒に乗り込んだ。和歌山かぁ、私も和歌山県の端っこにいた、昼食を一緒したい、と申し込もうか、いやいや見ず知らずが割り込んで邪魔してもなあ。結局、私は遠慮した。しかし胸に暖かいものが湧いた。

この映画は続映を重ねている。「問い合わせが多いので」という。ヤマトンチュウも捨てたもんじゃない。いや沖縄の民意を露骨に敵視し無視する安倍政権の態度が沖縄びいきをふやしているのかもしれない。ヤマトンチュウは元来、判官びいきなのだ。巨人・大鵬・卵焼き人種も多いが、弱い阪神や広島ファンも多いのだ。

1月30日の朝日新聞夕刊に、沖縄県に「ふるさと納税」する人が増えているというコラムが掲載された。例年、1月は1桁しかないのに今年は21日までに96件471万円余が送られてきた。安倍政権の沖縄への対応に対し、「ささやかながら沖縄を応援したい」との声が県税務課に届いているという。

沖縄の大村博さんからの年賀状に『日本の平和と民主主義の展望は沖縄から生まれると言ってよいでしょう』とあった。その前段には、保守やら革新やら古い枠組みを破って、反基地・反辺野古に結集した『オール沖縄』が、昨年の選挙で全勝したことが誇らしげに書かれていた。大村さんは、昨年8月に設立された「琉球・沖縄の自己決定権を樹立する会」の代表幹事の一人だ。「樹立する会」は、沖縄の非武の伝統に基づき基地のない島、東シナ海を平和と共生の海とし、沖縄に国連アジア本部の誘致をめざすという。私も、この会に入れてもらった。新宮の「くまの文化通信」の仲間にも入会希望者はいる。沖縄のささやかな応援団は確実に増えている。これが「本土」に平和と民主主義の展望を開くことに繋がり、大村さんの年賀状の予言が実現するのだ。2015年の初夢でもある。

映画の上映スケジュールは、下記「森の映画社」のサイトをご覧いただきたい。
http://america-banzai.blogspot.jp/2014/11/blog-post.html

東京では、ポレポレ東中野で2月14日(土)?3月13日(金)まで。
小村君があれだけ勧める映画だ。私も観に行こうと思う。沖縄での闘いに連帯の気持を表すためにも。
(2015年2月19日)

「今の組長、筋目を外しているんじゃござんせんか」

高倉健が亡くなって懐かしむ声が高い。
彼は、ヤクザ映画で売り出した俳優。さすがに、ヤクザ、暴力団、博徒、テキ屋などという言葉は避けて、映画資本は「任侠」という言葉を選んだ。その任侠映画シリーズの花形鶴田浩二の弟分という役回りで、高倉は大衆の支持を得た。

現実の暴力団・博徒集団は、民衆の嫌われ者である。右翼組織と一体化して、政治権力や企業の手先ともなった。安保反対のデモ隊にも三池争議のピケ隊にも襲いかかった野蛮な憎むべき輩。それが、映画では美化されて民衆の喝采を得た。

アウトローや反権力は、民衆の憧れとなる一面をもっている。スパルタカス、水滸伝、ロビンフッド、カリブの海賊、アルセーヌルパン、アテルイ、平将門、国定忠治…。政治権力や社会秩序の圧力が重苦しいと感じる多くの人々の願望と空想の中で、偶像化された反逆児が自由人として羽ばたいた。あるいは、社会秩序からの自由を求めながら結局は挫折する者の生き方の美学が多くの人に受けいれられた。

それだけでなく、鶴田浩二や高倉健の世界では、民衆の道徳が語られたのではないだろうか。「弱きを助け強きを挫く」のがその動かしがたい基本。弱き立場の民衆は、これを支持した。「強きに与して」の「弱い者いじめ」は、最も恥ずべき卑怯な振るまいとして醜く描かれた。

そして、常に「筋目」を通すことが語られた。「義理」や「仁義」に外れることが嫌われる。嘘をつくこと、策略で人を陥れることは専ら悪役の役所。任侠映画は、意外に健全な民衆の道徳観に支えられていた。

安倍晋三という役者は、どうやらこの典型的な任侠道に大きく外れた悪役を演じているのではないか。筋目を外して、「強きに与して強い者いじめ」ばかり。高倉健に喝采を送った民衆が、これからも安倍晋三を支持するとは考えにくい。

本日の赤旗を引用する。「野中広務元自民党幹事長が、15日放送のTBS『時事放談』で、安倍首相の政治姿勢を厳しく批判した」というもの。その批判が、「安倍は、保守の筋目を外している」という、老ヤクザ、いや任侠の言に聞こえる。

「首相の施政方針演説について野中氏は、『昭和16年に東条英機首相の大政翼賛会の国会演説のラジオ放送を耳にしたときと変わらない』『重要な部分には触れないで非常に勇ましい感じで発言された』と述べました。

沖縄県辺野古への米軍新基地建設を民意に背いて強行する姿勢については、『沖縄を差別しないために政治生命を懸けてきた1人として、絶対に許すことができない。県民の痛みが分からない政治だと思い、強く憤慨している』

また来年度予算案について『防衛費だけ増えていく、そういう国づくりが本当にいいのか』と疑問を投げかけ『一番大切な中国の問題、韓国の問題を正面から捉えようという意欲がないのではないか』と指摘しました。最後に『私は戦争をしてきた生き残りの1人だ。どうか現役の政治家に“戦争は愚かなものだ”“絶対にやってはならない”ということを分かってほしい』と訴えました。」

先代親分の代貸しが、老いの身でこう呟いているのだ。
「今の組長は、筋目をはずそうとしていらっしゃる。ふたたびの出入りはしないことを誓っての組の再出発だった。これこそが筋目だということをもうお忘れか。

先の出入りを知る者も少なくなった。勇ましい言葉は組を滅ぼすこととわきまえてもらわなくてはならない。今の組長のやり方は危なっかしくって見ちゃいられない。

隣の組とは腹を割って話し合わなくっちゃならない。その懐の広さが、親分の親分たる力量の見せどころ。ところが、今の組長は貫禄に乏しく、セールスはできても、手打ちのための話し合いができない。これじゃダメだ。

そして、なによりも弱いものの立場に立って親身になってこその任侠道ではないか。いじめられている者を、かさにかかって痛めつけるようでは、任侠道もおしまいだ。今の組長、道に外れている。

それに嘘をついてはいけない。大事なことを言わないのは嘘なのだ。大事なことは言わずに、些細なことを大袈裟に言うことで組員を騙し、組の外にいる人々との緊張を高めて、最後は出入りにもっていこうとしている。

これは、先の出入りの前の時代とよく似たやり方だ。今の組長のじいさまの代が、そんなことをやって組を壊滅の寸前までもっていったのだ。私は強く危惧し憤慨している。また同じことを繰り返してはならない」
(2015年2月16日)

建国記念の日 「国家主義との対決」の覚悟を

昨年の2月11日、当ブログは「去年までとは違う『建国記念の日』」と題して、歴代首相として初めて、安倍晋三がこの日にちなんだメッセージを発表したことを取り上げた。是非ご一読いただきたい。
   https://article9.jp/wordpress/?p=2086

今年は、右翼メディアの代表格としての産経の本日付社説を解説してみたい。「建国記念の日 『よりよき国に』の覚悟を」と標題するもの。もちろん、産経のいう「よりよき国」には独特な意味合いが込められている。安倍政権が曖昧にしか言えないことをズバリと言っている点において、産経とは貴重な存在なのだ。

「わが子の誕生を喜ばない親はまず、いまい。その後の子供の成長を願わない親もいないはずで、「這えば立て、立てば歩めの親心」とはまことにもって至言である。国家についてもまったく同じことが言えるのではなかろうか。」

冒頭の一節。こういう比喩の使い方が、騙しのテクニックの基本であり典型でもある。まったく異質の「わが子」と「国家」を、等質のものと思わせようという魂胆。うっかり、この手の論法に乗せられると、国家の誕生を祝わない国民は、子を虐待する非道の親のごとくに貶められてしまう。「非国民」概念をつくり出そうという発想なのだ。

「日本書紀によれば日本国の誕生(建国)は紀元前660年で、その年、初代神武天皇が橿原の地(奈良県)で即位した。明治6年、政府はその日を現行暦にあてはめた「2月11日」を紀元節と定め、日本建国の日として祝うことにしたのである。」

騙しのテクニックはさらに続く。日本書紀に書かれている紀元前660年に誕生した日本国と明治政府と日本国憲法下の日本国とを、何の論証もなく「連綿と同一性を保った国家」と言いたいのだ。ことさらに2月11日を選んで祝おうという狙いは、「連綿と続いた国家」を強調することにある。

当然のことながら紀元前660年の頃の日本は縄文晩期と弥生とが重なる時代、いまだ統一国家の萌芽もない。8世紀に編まれた日本書紀に、1400年も前の神武即位の年月日が特定されているわけでもない。どこの国ももっている建国神話を日本書紀が書き留め、明治政府が荒唐無稽な解釈によって、紀元前660年2月11日と擬制しただけの話。元祖歴史修正主義の所業というべきであろう。わが子の誕生日ははっきりしているが、日本国の誕生日など、歴史の見方次第でどうにでもなること。どうにでもなることだが、紀元前660年ではあり得ない。

「西欧列強による植民地化の脅威が迫るなか、わが国は近代国家の建設に乗り出したばかりで、紀元節の制定は、建国の歴史を今一度学ぶことで国民に一致団結を呼びかける意義があった。」

「意義があった」は偏頗なイデオロギーによる決め付け。冷静には、「紀元節の制定こそは、嘘で塗りかためた建国神話を徹底利用して、薩長閥が作り上げた政権の神聖性を臣民に刷り込むための小道具」「天皇制の始まりとされる日を拵え、その日の祝意を強制することによって国民に国家との一体感をつくり出すための演出」というべきなのだ。

「先の敗戦で紀元節は廃止されたものの昭和41年、2月11日は「建国記念の日」に制定され、祝日として復活した。「建国をしのび、国を愛する心を養う」と趣旨にうたわれているように、国家誕生の歴史に思いをはせる大切さは、今ももちろん変わっていない。」

「祝日としての復活」は、国民を二分するイデオロギー対立の暫定決着としてのことである。明治百年論争、元号法制化、国旗国歌法制定そして憲法改正論議なども同じ問題。一方に復古主義的な、「天皇中心の国体護持論+国家主義+軍国主義+歴史美化派」のイデオロギー陣営があり、他方に「国民主権論+個人の人権尊重+平和主義+歴史修正反対派」の陣営がある。両陣営の長いせめぎ合いの末に、両陣営とも不満足ながらの「名前を変えた祝日としての復活」に至った。そして、このせめぎ合いは今も続いている。国家主義への警戒の大切さは、今ももちろん変わっていない。

「ただ忘れてはならないのは、親心と同様に、誕生以後の日本を少しでもよい国にしようと、先人らが血のにじむ努力を重ねてきたことである。現在を生きる国民もまた、さらによい国にして次の世代に引き継がねばならない。」

これも、欺瞞のテクニック。「誕生以後の日本を少しでもよい国にしようと、先人らが血のにじむ努力を重ねてきたこと」などという抽象的な文章は、情に訴えようとするだけで実は何も語っていない。次に控えている危険な毒物を飲み込みやすいようにする準備の一文なのだ。

「日本を少しでもよい国にしようと、血のにじむ努力を重ねてきた先人」とは、何を指しているのだろうか。悲惨な戦争を画策し指導したA級戦犯たちを含んでいるのだろうか。政・商結託して大儲けをした明治の元勲たちはどうだろう。あるいは天皇制の野蛮な弾圧を担った特高警察や憲兵や思想検事たちも「少しでもよい国にしようと努力を重ねた先人」なのだろうか。一方、野蛮な天皇制の暴力に抗して平和や民主主義を目指した不屈の闘いを試みた人々はどうなのだろうか。

「現在を生きる国民もまた、さらによい国にして次の世代に引き継がねばならない」は、空疎空論の見本である。めざすべき「さらによい国」とは、声高に「国」の存在や権威を振りかざす者のいない国ではないか。

「慶応義塾の塾長を務めた小泉信三は昭和33年、防衛大学校の卒業式で祝辞を述べた。その中で小泉は、先人の残したものをよりよきものとして子孫に伝える義務を説いたうえで、こう続けた。「子孫にのこすといっても、日本の独立そのものが安全でなければ、他のすべては空しきものとなる。然らば、その独立を衛るものは誰れか。日本人自身がこれを衛らないで誰れが衛ることが出来よう」(小泉信三全集から)

ようやくここで本音が出て来る。「先人らの血のにじむ努力」とは国防の努力、「さらによい国」とはさらに軍備を増強した国のことなのだ。要するに、防衛力を増強したいのだ。もう一度富国強兵を国家的スローガンに掲げたいということなのだ。そのために「国の誕生」から説き起こし、「国の誕生日への祝意」を大切なものとし、「先人の努力」と「国をよくする」とまで論理をもってきたのだ。

「57年前の言葉がそのまま、目下の国防への警鐘となっていることに驚かされる。中国の領海侵入などで日本の主権が脅かされているばかりか、国際的なテロ組織によって国民の命が危険にさらされてもいる。だが、わが国の現状は、自らの国防力を高めるための法整備も十分ではなく、その隙をつかれて攻撃される恐れもある。」

まったくの驚きだ。57年前も今日と同じ言葉で国防への警鐘がなされていたのだ。いつの時代にも同じ言葉が繰りかえし語られるということなのだ。いつもいつも、仮想敵と敵による危機が叫ばれてきた。ソ連の脅威であり、李承晩の脅威であり、赤い中国の脅威であり、北朝鮮の脅威であり、今またイスラムの脅威であり、テロの脅威である。日本を取り巻く国際環境の厳しさは、際限なく無限に進行しているのだ。

「紀元節制定時に倣って今こそ、国を挙げ「日本人自身が日本を衛る」覚悟を決めなければならない。」

これが産経社説の締めくくり。社説子の頭の中は、今日は「建国記念の日」ではなく、完全に「紀元節」である。そして、かつての紀元節が、天皇中心の国家主義的イデオロギー鼓吹の小道具であったように、「建国記念の日」を国家主義、軍国主義思想浸透のきっかけにしようというのだ。「2月11日は富国強兵思想の記念日」というわけだ。

本日の産経社説。何のことはない。「わが子はかわいい」「かわいいわが子の誕生日を祝おう」「同様にかわいい国の誕生日も祝おう」「かわいい国には武装をさせて守ろうではないか」。だから「国民よ、国防国家となるべく覚悟を決めよ」と言っているだけのこと。

個人よりも国家が大切で、国防が何よりも重要で、歴史の真実よりは国家への誇りが大切だとするイデオロギーが、メディアの一角でこうまで露骨に語られる時代を恐ろしいと思う。しかし、萎縮してはおられない。憲法や人権・平和の理念を護る覚悟が要求されているのだ。

昨年のブログの最終節はこうだった。
「建国記念の日」とは、国家主義との対峙に決意を新たにすべき日。そうしなければならないと思う。

ほとんど同じだが、産経社説の標題に倣って、今年は次のように締めておこう。

「建国記念の日 『国家主義との対決』の覚悟を」
(2015年2月11日)

NHK会長人事の「非合理的、徹頭徹尾馬鹿馬鹿しさ」

NHKの籾井勝人会長がまたまた話題を提供している。この人に抜きがたく刻印されたイメージどおりの、「期待を裏切らない」発言によってである。余りに露骨で拙劣な政権ベッタリの籾井発言に接して、安倍首相のメディア対策人事が成功しているとは到底思えない。これは政権側から見ても大失敗の人事ではないか。

言うまでもなく、真実を伝えてこそのメディアでありジャーナリズムである。真実を不都合として妨害する力を持つ者は、第1に政治権力、第2に経済的富力、そして第3に多数派の社会的圧力である。

これらの諸力から毅然と独立し対峙する存在であってはじめて、メディアとしての存在価値がある。何よりも、報道の自由とは権力から憎まれ、経済的富者から疎まれ、社会の多数派から歓迎されない、そのような事実や見解を報道する自由なのだ。

権力にへつらい、シッポを振って恥じないこのような人物。ジャーナリストとしての矜持を持たないこんな男を、よくぞ見つけてきてNHKのトップに据えたものだ。救いは、ジャーナリストらしい格好すらできないことだが…。

一昨日(2月5日)の籾井発言の内容は、昨日の朝日に詳しく、本日(2月7日)朝日だけが「NHK会長 向き合う先は視聴者だ」と題して社説に取り上げている。朝日のその姿勢に拍手を送りたい。

ああ朝日よ、君に告ぐ。君、萎縮したまふことなかれ。籾井が何を言おうとも、他紙の攻撃激しくも、君の誇りは傷つかじ。この世ひとりの君ならで、ああまた誰をたのむべき。君、萎縮したまふことなかれ。

本日の朝日社説の冒頭を引用したい。さすがに、読みやすい良く練られた達意の文章となっている。
「NHKの籾井勝人会長が、おとといの記者会見で、公共放送のトップとして、また見過ごすことのできない発言をした。
戦後70年で『従軍慰安婦問題』を取り上げる可能性を問われ、こう答えたのだ。
『正式に政府のスタンスというのがよくまだ見えない。そういう意味において、いま取り上げて我々が放送するのが妥当かどうか、慎重に考えなければいけない。夏にかけてどういう政府のきちっとした方針が分かるのか、このへんがポイントだろう』

まるで、NHKの番組の内容や、放送に関する判断を『政府の方針』が左右するかのような言い方だ。
就任会見で『政府が右と言うことを左と言うわけにはいかない』と発言し、批判を招いて1年余。籾井会長は相変わらず、NHKとはどういうものか理解していないように見える。
当たり前のことだが、NHKは政府の広報機関ではない。視聴者の受信料で運営する公共放送だ。公共放送は、政府と一定の距離を置いているからこそ、権力をチェックする報道機関としての役割を果たすことができる。番組に多様な考え方を反映させて、より良い社会を作ることに貢献できる。そして、政府見解の代弁者でないからこそ、放送局として国内外で信頼を得ることができるのだ。
政府の立場がどうであれ、社会には多様な考え方がある。公共放送は、そうした広がりのある、大きな社会のためにある。だからみんなで受信料を負担し、支えているのだ。公共放送が顔を向けるべきは政府ではない。視聴者だ。」

昨日の「会見詳報」には、次のような発言も収録されている。

問 去年、朝日新聞の誤報問題で従軍慰安婦が脚光を浴びたが、従軍慰安婦問題を戦後70年の節目で取り上げる可能性は
籾井 なかなか難しい質問ですが、やはり従軍慰安婦の問題というのは正式に政府のスタンスというのがよくまだ見えませんよね。そういう意味において、やはり今これを取り上げてですね、我々が放送するということが本当に妥当かどうかということは本当に慎重に考えなければいけないと思っております。そういう意味で本当に夏にかけてどういう政府のきちっとした方針が分かるのか、この辺がポイントだろうと思います。

問 先ほどの従軍慰安婦問題で、正式に政府のスタンスがよく見えないとおっしゃった。現時点では河野談話があり、現政府も踏襲すると言っている。それでも政府のスタンスがよく見えないというのは、河野談話について変わるべきだとか変わりうるとか言うことでおっしゃってるんでしょうか
籾井 その手の質問にはお答えを控えさせていただきます。

問 「よく見えない」という認識は……
籾井 あの、どんな質問もお答えできかねます。

問 それはどうしてですか
籾井 しゃべったら、書いて大騒動になるじゃないですか。

問 大騒動になるようなお考えをお持ちなのですか
籾井 ありません。そんな挑発的な質問はやめてくださいよ。

この人の頭の中では、NHKとは「政府のスタンス」に従う伝声管でしかないのだ。そのような戦前のあり方を反省しての放送法であり、あらたな公共放送機関としての新生NHKであったはずではないか。

いま、先日亡くなられた奥平康弘氏の、表現の自由に関する論文を読み返している。そのなかに、戦前の放送規制のあり方に関して次のような叙述がある。やや長いが、是非お読みいただきたい。

わが国放送事業が、1924年、社団法人東京放送局・大阪放送局・名古屋放送局の設立免許とともにはじまったのは、周知のとおりである。監督庁たる逓信省はその内規、放送用私設無線電話監督事務処理細則(1924(大13)年2月作製、のちしばしぱ改正した)および各放送局施設許可付帯命令書などにより、放送番組内容の詳細な事前検閲権を確保し・所轄逓信局長の監督に服せしめるものとした。のちまもなく、既存三法人を解散させ、日本放送協会を成立せしめたが、放送番組に関する公権力的検閲の大綱は変化しない。1930年全面改正された監督事務処理細則によれば、
(1) 放送種目及び放送内容は社会教育上適当と認めるものに重きを置くこと
(2) 放送内容中経済財界に関する事項については慎重なる考慮を払うここと
(3) 講演・演芸等の委嘱又は雇傭に依る放送は人選を慎重調査し特に外国人を選ぶときは十分に注意すること、などが命ぜられている。
また、大体において新聞紙法・出版法に準拠して、放送番組の禁止・削除・訂正の各事項が列挙されている。これらの諸点につき、逓信局の事前のチェックをうけることもちろんだが、それだけでは不十分というわけか、つぎのようなフェイル・セイフの制度がとられている。
すなわち、各放送には監督者たる放送主任者を配置せしめなけれぱならず、この放送主任者席には「常時放送を監督し得る装置と瞬時に放送を遮断し得る装置をなさしめ、逓信局との直通電話もこの席に設くること」これである。
逓信省は、所轄逓信局を経由して、そのときどきの具体的な禁止事項・注意事項を通達し、たえまない指導監督をおこなっていたが、準戦時体制に入ると、ここでも番組統制権は、他のマス・メディア統制権とともに、内閣情報局の集中掌握するところとなる。」(有斐閣「表現の自由??理論と歴史」『戦前の言論・出版統制』。初出は「ジュリスト」378号・1967年)

同論文で、出版・新聞・放送・演劇・演芸等の表現活動に対する戦前の統制を概観して、氏は最後をこう結んでいる。

「戦前の出版警察を考究して脳裡から離れないのは、日本人はよくも長いこと、こんな非合理的、徹頭徹尾馬鹿馬鹿しい権力を我慢してきたものだという一事である。わたくしには、この秘密をわたくしなりに解明をしてみないかぎり、現行憲法が表現の自由を保障しているということに安心立命することができないように思える。」

「奥平先生に、まったく同感」では済まない。述べられていることが過去のことではなく、現在の問題でもあるのだから。籾井のごときがNHKの会長を続けるこの事態は、まさしく「日本人はよくも、こんな非合理的、徹頭徹尾馬鹿馬鹿しい権力を我慢していられるものだ」というに値する。こんな人物をトップにいただくNHK、こんなトップを任命する安倍政権の「非合理的、徹頭徹尾馬鹿馬鹿しさ」に我慢してはおられない。安心立命など到底できようはずもない。
(2015年2月7日)

人質事件の首相責任解明に特定秘密保護法の壁

毎日の「万能川柳」欄の充実ぶりはたいしたものだが、欠点は「遅い」こと。選考に手間取るのだろうが、投句から掲載までの期間が長く、句によっては鮮度が落ちてしまう。その点、「朝日川柳」の鮮度は高い。

本日の掲載句中に、鮮度命の以下のものが見える。
  壮士かと思えばわしらの安倍首相  (埼玉県 椎橋重雄)
  好きですね「私が最高責任者」    (神奈川 桑山俊昭)
  知っていて蛮勇奮い歴訪し      (東京都 大和田淳雄)

川柳子の明言はないが、「蛮勇奮って歴訪中」の「壮士風言動」が、日本人2人の命を奪うことになったのではないか。「わしらの安倍首相」の「最高責任者」としての言動のあり方が厳しく問われねばならない。

首相官邸のホームページに、「1月17日 『日エジプト経済合同委員会合』における安倍首相の政策スピーチ」の動画がアップされている。スピーチ全文も起こされて掲載されている。
http://www.kantei.go.jp/jp/97_abe/statement/2015/0117speech.html

標題からもわかるとおり、経済人を引き連れての中東歴訪であり、経済的な交流を主目的とする会合でのスピーチである。かなりの長文だが、言わずもがなの「壮士風の蛮勇」をひけらかしたのは、下記の部分である。

「今回私は、「中庸が最善(ハイルル・ウムーリ・アウサトハー)」というこの地域の先人の方々の叡智に注目しています。「ハイルル・ウムーリ・アウサトハー」、伝統を大切にし、中庸を重んじる点で、日本と中東には、生き方の根本に脈々と通じるものがあります。
この叡智がなぜ今脚光を浴びるべきだと考えるのか。それは、現下の中東地域を取り巻く過激主義の伸張や秩序の動揺に対する危機感からであります。中東の安定は、世界にとって、もちろん日本にとって、言うまでもなく平和と繁栄の土台です。テロや大量破壊兵器を当地で広がるに任せたら、国際社会に与える損失は計り知れません。

イラク、シリアの難民・避難民支援、トルコ、レバノンへの支援をするのは、ISILがもたらす脅威を少しでも食い止めるためです。地道な人材開発、インフラ整備を含め、ISILと闘う周辺各国に、総額で2億ドル程度、支援をお約束します」

ISILを1度ならず2度までも名指しして、「ISILと闘う周辺各国への支援をお約束」と明言した。しかも、「現下の中東地域を取り巻く過激主義の伸張や秩序の動揺に対する危機感」表明に繋げてのことだ。明らかに、ISIL敵対当事者への支援宣言であり、有志連合への積極加担のアピールである。

安倍スピーチは、国際武力紛争の一方当事者を「過激主義・テロ勢力」と決め付けたうえで、「これと闘う」対立当事国側へと明示しての支援の約束である。日本国憲法の平和主義・国際協調主義から許されものか、まずこの点の吟味が必要である。国論が沸騰するときにこそ、冷静でなければならない。

さらに、政府は、1月17日当時、後藤さんが拘束され身代金の要求があったことまで知っていた。
「岸田文雄外相は5日の参院予算委で『(後藤さんの)奥様から(昨年)12月3日、犯行グループからメール接触があったと連絡を受けた。11月1日、後藤さんが行方不明になったと連絡をいただいた後、緊密に連絡をとった」と語った(朝日)。

この状況における中東歴訪の強行であり、紛争当事国となっている各国への経済支援をぶち上げ、明確にイスラム国と闘う国への人道支援を約束したのだ。この壮士風発言が、イスラム国側をいたく刺激したであろうことは推測に難くない。

首相は「私の責任でスピーチを決定した」として、「(自身の)判断について正しかったかどうかを含め検証していく」と答えてはいる。

問題は、特定秘密保護法の存在である。
「『イスラム国』から後藤さんの妻へのメールの内容や、日本政府とヨルダン政府の交渉の内容なども明らかになっていない。首相は4日の衆院予算委で『一切言わないという条件で情報提供を受けている。特定秘密に指定されていれば、そのルールの中で対応していくことに尽きる』と述べ、公開できない情報もあるとの考えを示した。」(朝日)という。

早くも、特定秘密保護法がその期待された役割を果たすことになりそうだ。こんな文脈になるのだと思われる。
「最高責任者としての自分の責任を糊塗する意図は毛頭ない」「しかし、ことは防衛・外交に深く関わることで、責任追求に誠実に対応しようとした場合に、特定秘密保護に抵触することは十分に考えられる」「その場合には、特定秘密保護法のルールにしたがって対応するしかない。これが法治国家の当然のあり方だ」「当然のことだが、その場合にいかなる秘密に抵触しているのかについては一切あきらかにできない。それが、法に基づいて行政を司る者の責務である」

かくして、安倍首相の責任追及は闇に葬られることになりかねないのだ。それこそが、特定秘密保護法に期待された狙いのひとつの実現のかたちである。

  セールスは重視人命は軽視
  国民を煙と闇の果てに捨て
  責任を秘密のベールで包み込み
  間に合ったこの日のための秘密法
(2015年2月6日)

今こそ憲法9条の旗を高く掲げよう

本日(2月5日)午後、衆院本会議で、「日本人殺害脅迫事件に関する非難決議」が成立した。決議の全文は以下の通り。

「今般、シリアにおいて、ISIL(アイシル、イスラム国)が2名の邦人に対し非道、卑劣極まりないテロ行為を行ったことを強く非難する。
このようなテロ行為は、いかなる理由や目的によっても正当化されない。わが国およびわが国国民は、テロリズムを断固として非難するとともに、決してテロを許さない姿勢を今後も堅持することをここに表明する。
わが国は、中東・アフリカ諸国に対する人道支援を拡充し、国連安全保障理事会決議に基づいて、テロの脅威に直面する国際社会との連携を強め、これに対する取り組みを一層強化するよう、政府に要請する。
さらに、政府に対し、国内はもとより、海外の在留邦人の安全確保に万全の対策を講ずるよう要請する。
最後に、本件事案に対するわが国の対応を通じて、ヨルダンをはじめとする関係各国がわが国に対して強い連帯を示し、解放に向けて協力してくれたことに対し、深く感謝の意を表明する。
右決議する。」

決議の内容を噛み砕けば、(1)今回の邦人2名の殺害を非難し、(2)テロを許さないとする国民意思を表明し、(3)人道支援を拡充して国際社会との連携を強化すると言い、(4)政府に邦人の安全対策を要請し、(5)ヨルダンに感謝の意を表明する、というもの。

この内容で間違っているはずはない。安倍首相のごとくに、「テロリストたちを絶対に許さない。その罪を償わせる」などと、感情的に息巻いているわけではない。全会一致もむべなるかな、とも思う。そして、明日(2月6日)は参院でも同様の決議採択の予定とのことだ。

しかし、どうしてもなんとなくしっくりしない。問題の複雑さに十分対応し切れていない紋切型の言葉の羅列の虚しさは明らかだ。しかし、それだけではない。どこかに引っかかるものを感じる。日本国憲法9条の精神に照らして、これでよいのだろうか。もっと違った姿勢、違った言葉が出て来るべきではないのか。議員の中で、一人くらいは、敢えて異を唱える人がいてもよいのではないか。そんな気持がわだかまり、澱となって消えない。

イスラム国が無辜の日本人二人に対してした所為は野蛮きわまりない。残虐非道と言ってもよい。何らかの制裁措置が必要と思いたくもなる。だから、「わが国およびわが国国民は、テロリズムを断固として非難するとともに、決してテロを許さない姿勢を今後も堅持することをここに表明する」と言いたくもなり、「わが国は、中東・アフリカ諸国に対する人道支援を拡充し、…テロの脅威に直面する国際社会との連携を強め」たいとの気持にもなる。しかし、本当にそれで問題の解決になるのだろうか、そう問いかけるもう一方の気持ちもある。

本日(2月5日)東京新聞朝刊の一面に、「殺りくの連鎖やめてー後藤さん兄が訴え」という記事がある。
「イスラム教スンニ派の過激派組織『イスラム国』を名乗るグループによるヨルダン軍パイロットの『殺害』と、ヨルダン当局による死刑囚の刑執行が明らかになった4日、イスラム国に殺害されたとみられる後藤健二さん(47)の兄純一さん(55)は、共同通信の取材に『殺りくの応酬、連鎖は絶対にやめてほしい。平和を願って活動していた健二の死が無駄になる』と語った」というもの。

同じ東京新聞の9面には、「『イスラム国』ヨルダン参加非難」「空爆への報復強調ーパイロットの殺害映像公開」「ヨルダン 対決姿勢強化」という、キナくさい見出しが躍っている。
同紙によれば、「自国軍パイロットの殺害映像公開に対する措置として、ヨルダン政府は4日、治安閣議を開き、イスラム国に対する攻撃を強化する方針を決めた」という。「殺害されたパイロットの出身地カラクでは、3日、街中に集まった市民らが、ヨルダンの国旗を手に、『イスラム国に死を』『復讐を』と叫びながら、既に暗くなった街の中を行進した」と報じられている。焼殺という残虐非道な行為にに対抗するその気持としてもっとも、と思わせるものがある。

しかし他方、イスラム国側からすれば、有志連合の空爆こそが残虐非道の行為であり、有志連合に加わったヨルダンは憎むべき「十字軍参加国」なのだ。「ヨルダン軍パイロットを焼殺したとされる映像には、空爆で怪我をした子どもたちの写真や泣き声なども流された」という。空爆による被害の場面を見せつけられれば、イスラム国の言い分ももっともだとの思いも湧いてこよう。

米軍は、空爆によって、これまで6000人のイスラム国戦闘員を殺害したと発表している。しかし、人口密集した都市への爆撃が戦闘員だけにピンポイントでおこなわれたとは考えられない。非戦闘員や子どもを含む一般市民にも多数の犠牲者が出ていることだろう。この報復の連鎖による、悲惨な被害の拡大を制止することこそが、いま、もっとも必要なことではないか。

これまで、武力の行使によって幾億人もが非業の死を遂げた。その非業の死の数だけの復讐の誓いがなされたに違いない。しかし、報復の連鎖は無限に続くことになりかねない。この報復の連鎖を断ちきろうというのが日本国憲法の精神であり、その9条が憲法制定権者の意思として日本国の為政者に一切の武力の行使を禁止しているのだ。

だから、国会の決議は、「我が国及び国民は、決してテロを許さない姿勢を今後も堅持する」という断固たる意思の表明よりは、「9条の精神に則って、殺りくの応酬、連鎖は絶対にやめなければ゜ならない」「平和を願って活動していた者の死を無駄にしてはならない」という基調のものにして欲しかったと思う。断固たる態度や、勇ましい言葉は不要なのだ。
(2015年2月5日)

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