澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

東京都教育委員の諸君、聞く耳をもたないのか

本来行政とは、主権者への奉仕のシステムである。自治体であれば、主人である住民に仕えなければならない。ところが、世の中理念と現実は大違い。主客逆転して、筋の通らない行政が満ち満ちている。これを是正する方策として、政治ルートと司法ルートとが想定されている。もちろん、政治ルートが本筋である。

しかし、政治ルートの実効性は極めて低い。行政そのものが多数派支配の機関という宿命を帯びているからだ。筋の通らない行政の被害者の多くは少数派で、少数派であるが故の理不尽な迫害についての「政治ルートでの解決」、つまりは選挙を通じての多数派横暴の是正は画に描いた餅でしかない。

そこで、筋の通らない行政の是正のために司法ルートに期待がかかる。行政訴訟法はそれなりのメニューを取りそろえて、主権者国民の裁判所へのご来店を待ってくれてはいる。しかし、これも現実にはそう簡単なことではない。手間も暇も、金だってかかる。そのうえで、確実に勝訴できるとは限らない。

それでも、行政に腹の据えかねるときには、たった1人でも訴訟ができる。いくつものメニューの中で、もっとも使いやすいのは国家賠償の制度だが、これは国や自治体の責任を追及すること。これとは異なり、筋の通らない行政の責任者である自治体の公務員個人の責任を追及する手段が住民訴訟。然るべき立場の公務員個人の責任を問題とし、その個人の行為の違法性と自治体に与えた損害について攻撃防御を尽くす舞台を設定することで、住民個人と権力をもった公務員との対等性を実現することができる。もっともっと、住民訴訟の活用がはかられてよい。

住民訴訟は、本来は財務会計上の違法行為を是正し、違法行為の責任者個人への民事的責任追求を通じて自治体の損害を回復するという制度。使い勝手がよいのは、他の行政訴訟では常に問題となる、処分性だの、原告適格だの、訴えの利益だの、主張制限だのといった手続的な面倒がないこと。仮に自分とは無関係な問題についても、当該自治体の住民でさえあれば、原告適格が認められる。この訴訟では、公益を代表して、住民個人が原告となって、公務員の違法を是正する構造なのだ。

この訴訟の多くは、知事や市長の個人責任追及のために使われる。首長の判断の間違いから、自治体に損害が生じた場合が典型。まずは、監査委員会に監査請求をし、棄却の裁決を経て、住民訴訟の提起となる。いまは、いきなり当該公務員個人を被告とはできない制度だが、自治体に公務員個人に対する賠償請求を義務づける訴訟が先行して、これが確定すれば、自治体は当該公務員(知事や市長)に損害賠償請求をしなければならない。

東京都教育委員会の責任追及の手段として、監査請求から住民訴訟を提起してはどうだろうという提案が一部にあるという。住民訴訟をやろうというのは、東京都や行政機関の責任ではなく、教育委員個人の責任を追及しようという意図以外にはない。東京都教育委員一人ひとりに賠償義務、あるいは不当利得返還義務があるという主張となる。

何をもって、各教育委員が東京都に対して損害を与えているというか、あるいは各委員が不当利得返還債務を負担しているというか。参考判例として箕面忠魂碑2次訴訟の一審判決(大阪地裁・1983年3月1日)がある。

この判決は、「忠魂碑の宗教的性質を認め、市教育長の忠魂碑前での慰霊祭への参列は公務とはいえないとし、その時間分の給与は不当利得となって市に対して返還義務を負う」と判断している。もっとも、慰霊祭参列の宗教性の認定は上級審で覆されてはいる。しかし、「違法な式典に参列した時間に相当する給与の返還義務」までが否定されたわけではない。要は、公務員としての業務遂行をしてないのに、その対価として得たものは、本来自治体が支払うべきでないのだから、不当な利得として返還しなければならないということだ。

さて、都教委の諸君のことだ。委員会において、やるべきことをやらず、やってはならないことをやっておられる。たとえば、日の丸・君が代強制問題で、最高裁判決が実質において「思想転向強制システム」を違法と判断した。この重大事について検討しなければならないことをしていない。反面、実教出版社の「日本史」採択妨害など、してはならないことはきちんとしている。

都の教育委員の月例報酬分について、東京都から教育委員に損害賠償をせよ、あるいは時間相当の不当利得返還請求をせよ、などの提訴は十分に考えられるところ。まずは監査請求を行えば、その過程で、給与の額や支払い方法などは明瞭になる。

こんなことを考えざるを得ないのは、都教委事務局の鉄面皮ぶりに怒っているからだ。「東京君が代訴訟」の原告団で構成している「被処分者の会」が、9月9日付で、「請願書」を提出した。その趣旨は、「9月6日判決を中心とする一連の最高裁判決と、被処分者の見解を教育委員に報告して、十分な議論を尽くして欲しい。是非とも、最高裁の多くの補足意見が述べているとおり、事態打開のために話し合いの場の設定をお願いしたい」という内容である。

この請願に対して10月10日付で形ばかりの回答がなされた。「教育委員会への報告は行わないこととなりました」というのである。理由は、「請願の処理は、(請願についての取扱要綱によれば)、当該事案について決定権限を有する者が処理するとされており、これに基づいて、教育委員会決定とされる特に重要な事項を選定し、教育委員会の会議に報告しています。」からという。

つまりは、「教育委員会決定とされる特に重要な事項」だけを教育委員に対する報告事項とし、それ以外は「事務局段階で握りつぶす」ことの広言なのだ。

都教委が行った、「10・23通達→校長への職務命令発令強制→懲戒処分」「機械的な累積過重懲戒システム」が、少なくとも一部については最高裁が違法と断罪し、30件(25人)の処分を違法であることを認めて取り消しの判決を言い渡し、これが確定したのだ。これ以上の「重要事項」などあろうはずがない。

最高裁が都教委違法と断定したのは、確かに日の丸・君が代強制行為のすべてではない。しかし、その本質部分と言って良い。しかも、最高裁の多数の裁判官が補足意見を書いている。「違憲違法との決め付けまではできないが、妥当であるかと言えば話は別」「権力的な強制は思わしくない。都教委の権力行使は謙抑的に」と言っているではないか。

教育委員の諸君よ、のうのうと報酬をもらっておられる事態ではない。あなたがその一員である教育委員会の処分が違法として取り消された。しかも、最高裁の判断として確定しているのだ。違法な処分を受けた関係者にどう謝罪するのか、違法処分の再発防止はどうするのか、責任者の処分をどうするのだ。最高裁から指摘があっても、自分の違法には頬被りなのか。それが、仮にも「教育」に携わる者の態度か。教育庁職員のやっていることに責任がないと開き直ってはならない。監督不行き届きなのだ。いじめや体罰問題を起こした当人だけの責任ではなく、学校の管理体制が問題だとあなた方は言っているではないか。自分のこととして考えていただきたい。

違法あれば、その是正に提訴が常に最善の手段というわけではない。しかし、このまま事態の打開ない場合には、社会と教育委員各自に、問題の深刻さを訴え、被処分者個人と権力をもった教育委員との、議論における対等性を実現する手段として、「報酬分の返還」を求める住民訴訟の提起は、まことに魅力的な提案ではある。

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  『東北アジアにも、ASEANなみの諸国連合を』
連日「ASEAN(東南アジア諸国連合)プラス3」首脳会議の記事が新聞を賑わせている。ところが、恥ずかしいことに、首脳の顔になじみがない。遠いアメリカやヨーロッパの首相や大統領の顔なら、おおよそは判別できるのに、である。記念写真の整列の順列が大きな意味を持つようだが、残念、よく分からない。

1967年ベトナム戦争中のアメリカが、東南アジアの共産化を恐れて、後援して発足させたのがASEANの起こり。最初の構成国は、タイ、インドネシア、シンガポール、フィリピン、マレーシアの5カ国。その後、ブルネイ、ベトナム、ミャンマー、ラオス、カンボジアが加わって現在は10か国で構成されている。

1990年代にベトナムが加わった頃からは、反共イデオロギーを超えた東南アジア地域統合体として成長した。10か国の総人口は6億人、GDPは日本の4割弱である。インドネシアのジャカルタに本部を置き、世界の50カ国あまりがASEAN大使を常駐させている。

2007年にはASEAN憲章が制定され、加盟国によって順次批准されている。民主主義の促進、核兵器の否定、武力行使・威嚇の拒否、国際法の遵守、内政不干渉などの条項がふくまれる。

2009年にはASEANインフラ基金も創設されて、日本と中国が各384億ドル、韓国が192億ドルを出資している。2015年までに域内経済を一体化させる「ASEAN経済共同体」創設に向かってすすんでいる。

さて、10月9日、ブルネイの首都バンタルスリブガワンで開かれた首脳会議の一番の関心事は、中国とフィリピンやベトナムなどとの間の南シナ海の領有権問題であった。今回、立役者となるはずのオバマ大統領が国内経済問題にてこずって会議に出られなくなるという事態となり、代わって中国の李克強首相の存在感が大きくなったと報道されている。日本の安倍首相にはオバマ大統領に代わって、仲を取り持つ器量や貫禄はとうてい望めない。

これまで、領有権紛争解決のために、法的拘束力のある「行動規範」策定に向けて、話し合いが続けられてきており、中国は自らの行動を縛ることになる「規範策定」には消極的だった。ところが、この会議では風向きが変わった。「紛争は直接の当事国の間の協議と交渉を通じて解決すべきだ」という従来の主張を繰り返しながらも、「行動規範策定に向けてASEAN側と協議を続ける」との柔軟な態度を取り始めたということだ。「南シナ海には船舶航行の自由があり、南シナ海での航行の自由は保障されている」と言うようになってきている。

紛争相手国であるフィリピンは、1992年に一度は追い出したアメリカ軍を再び駐留させるという強硬政策をとってまで中国と対決する気だった。そのフィリピンのアキノ大統領も、協議の進展に評価の姿勢をしめし、「紛争を拡大させないため関係国は自制すべき」と態度を軟化させている。

ASEANの存在感なかなかのものであり、会議の進展は平和的なムードだ。ところが、日本の安倍首相だけが浮いている。憲法解釈を変更し集団的自衛権の行使を可能にするいきさつを説明するために、「積極的平和主義」をすすめると公言した。「平和主義」ではなく「積極的平和主義」。これが「武力の威嚇をもってする平和」の宣言にほかならないことは先刻承知のこと。こうした日本の言動が、太平洋戦争で侵略されて忘れることのできない記憶を抱いているアジア諸国に及ぼす懸念を認識しないのだろうか。こんなことで、近隣諸国の懸念を払拭して友好な関係を確立できると思っているのだろうか。

日本は尖閣列島を国有化し、首相の靖国参拝問題、慰安婦問題と中国・韓国の神経を刺激し続けている。竹島問題の行方も知れない。今回の会議においても、中国の李克強首相とはかすりもせず、韓国の朴槿恵大統領とは朝鮮料理の話ができたと喜んでいる情けない事態となっている。

近隣諸国間の対話と信頼の醸成の場の必要性は安倍首相も感じたはずだ。ASEANのような共同体を東北アジアにも作らなければならない。定期的に会議の場が設定され、イヤでも隣国の首脳同士が顔を合わせ、口を利かなくてはならない。そのような関係をつくることが重要ではないか。いくらアメリカだけを頼りにしても、日本の平和的安全保障は成立しない。
(2013年10月11日)

大戦時、日米はどのように相手国民を侮蔑しあったか

名著「敗北を抱きしめて」の著者、ジョン・ダワーの近著「忘却のしかた、記憶のしかた」(本年8月刊)が評判となっている。著者がこれまでに発表した11編の論文集だが、さすがによくできている。安倍自民党政権が、きな臭い雰囲気を漂わせている今、精読するに値する。

とりわけ、第2章の「二つの文化における 人種、言語、戦争ーアジアにおける第二次世界大戦」を興味深く読んだ。大戦中に、米日両国のそれぞれの国民が、どのように敵国人を憎悪する感情に支配されていたか、いかに敵国民を侮蔑する言動に及んでいたかを克明に叙述している。

「敵を非人間化することは、戦闘中の人間にとっては望ましいことだ。それは人を殺すことへの良心の呵責や迷いを消し去り、そう理由付けることによって自己保身にも寄与する。『つまるところ、敵は同時におまえを非人間化し、殺そうとしているのだ』」両国とも、そのように敵を非人間化した。

著者によれば、米英の側の「日本人への人種差別の認識」は五つのカテゴリーにまとめられるが、その第一が「日本人は人間以下」というものだったという。そして、「ほとんど例外なく、アメリカ人は日本人が比類ないほど邪悪であるという考えにとりつかれていた」。たとえば、「ピューリッツァー賞の歴史部門で2度受賞したアラン・ネヴィンスは、『おそらく、われわれの全歴史において、日本人ほど嫌われた敵はいなかった』と述べた」「ハリウッド映画はおきまりのように、ナチスと一緒に善良なドイツ人も描いたが、『善良な日本人』を描くことはほとんどなかった」などという。

このような米兵の認識が、日本兵を殺すことに抵抗感をなくした。彼らは、「まるで郷里で鹿狩りをするように、しゃがみ込むジャップに銃の照準器を合わせた。」

「日本人は害虫だった。もっと行きわたったイメージは、日本人が類人猿やサル、『黄疸になったヒヒ』というものだ。」「アジアにおける戦争は、振り返っていまだに衝撃を受けるほど非人間的な軽蔑語をひろめた」という。

但し、著者によれば、「戦争がそうした形容を大量にうんだのではない。こうした蔑視の言葉は深くヨーロッパ人、アメリカ人の意識に埋め込まれたもので、戦争は弾みを付けてそれを解きはなったに過ぎない」とされる。この点の指摘は重要である。

一方、日本人は、「米英の敵に言及するときには、鬼や悪魔に目を向けた」「『鬼畜米英』は白人の敵にたいするもっともなじんだ蔑称だった」「視覚芸術において、米英人の描写は、民話や民間信仰に登場する鬼や悪魔そっくりに描かれた」「戦時の日本人において、鬼は単なる『人間以下』や、『凶暴な獣類』のイメージではあらわせない敵の比喩としてはたらいた」

「決定的な局面でイメージと行為が結びつくと、鬼も猿も害虫も、同じように機能した。そうしたイメージのすべてが、敵を非人間化することによって、殺戮をたやすくさせた。」「米海兵隊員が、自らを『ネズミ駆除人』と呼んだ硫黄島は、日本の公式ニュース映画では、『米国の悪魔を畜殺するにふさわしい場所』と描写された」

両国民とも、正義は我が方にあり自国民は穏和で優れた存在とし、敵国民は侮蔑するに値するという。選民思想と差別感情とは対になって凄まじく、敵国民殲滅を正当化する論理にまで行きつく。

この論文が考えさせるところは、戦時だけに限定して問題を語っていないことである。戦後の、両国の思惑や軋轢に垣間見られる相互の不信や差別意識に言及して、問題が終わったものではなく、状況次第でいつでも繰り返されうることを示唆しているのだ。

1970年代に、アメリカが相対的に没落する一方日本が経済大国化したとき、「アメリカのレトリックにおいて、人間以下の類人猿は『肉食エコノミックアニマル』として復活し」、「日本人の方でもしばしばアメリカによる悪魔のような日本たたきを非難して、‥日本の達成は『大和民族』の同質性や純血のおかげだとした」

こうして、論文は、根源的な選民思想や差別感情について、「時の移ろいにつれ、慣用語は変わっていくが、完全に消滅することはない」と悲観的に結ばれている。

著者の姿勢の客観性が印象的である。とりわけ、米国民の敵国日本人にたいする差別意識と憎悪の凄まじさを徹底して暴き出している。東京大空襲も広島も長崎も、その差別と憎悪の延長上にあるのだ。そして、神話を根拠とする日本の選民思想や、アジア諸国にたいする差別意識の指摘においても容赦をしない。

人種差別表現の公然化は、その社会が戦争への発火点に近い危険領域にあることを物語っている。そして、国民・民族としての優越意識や、他民族・他人種への差別意識は、戦争終了とともに簡単になくなるものではない。社会に沈潜した澱となって、常に危険な存在となりうるのだ。常に意識し、常に警戒して、ナショナリステックな言動を抑え込まなければならない。

意識的にこれに火をつけようというのがヘイトスピーチである。あさはかなレイシストの言動ではあるが、明らかに彼らは、安倍政権の鼓舞と許容のメッセージに躍っている。昨年暮れの総選挙投票日の前日、自民党最後の打ち上げは秋葉原駅頭だった。駅前広場を埋めつくした、日章旗と旭日旗の林立には、肌に粟立つ思いを禁じ得なかった。安倍極右勢力の総選挙勝利は、レイシストたちに、「嫌中・嫌韓は時の流れ」「何をやっても大丈夫」というメッセージと認識されているのだ。

日米の交戦時に、お互い敵国民に対してどのような差別語で侮蔑しあったか。そのことを忘却してはならない。そして、その重い記憶を常に賢く活かさねばならない。日中も同様、日韓もだ。忘却は、あの忌まわしい体験を再来させかねない。再確認しよう。すべての人の尊厳を認めることが、平和の礎である。差別感情の扇動こそが、戦争の危険を招き寄せるのだ。
(2013年10月10日)

本日の「東京・君が代訴訟」弁護団会議で

A「東京都教育委員会の『10・23通達』関連訴訟は合計23件を数える。そのうち、昨年1月16日処分取消1次訴訟判決、同年2月9日予防訴訟判決、そして先月6日の2次訴訟判決で、大規模事件の最高裁判決がある程度出揃って、最高裁の基本姿勢が見えてきた。3次訴訟が地裁段階に係属しており、いずれ4次訴訟も続くことになる。この時期に、今後の展望を切り開くための各自のご意見を聞きたい。」

B「『10・23通達』以来10年になろうとしている。10年闘って、獲得したもの、獲得し得ていないものを整理し、獲得したものをどう活用し維持発展させるか、獲得できていないものについてどう切り込むのか、明確にしなければならない。とりわけ、学校現場はどうなっているか。そのことが訴訟の各論にどう反映されているか。」

C「現場がどうなっているかを、もっと意識的に訴訟に反映させる努力が必要だ。これまでの判決が、都教委の暴走に十分な歯止めとなっているとは思えない。職員会議形骸化の実態は凄まじく、実教出版「日本史」教科書採択妨害という異常もあり、服務事故再発防止研修による嫌がらせ強化もある。大阪に飛び火して、口元チェックという信じられないような事態まで起きている。このような事態を的確に反映した訴訟活動でなくてはならない」

D「基本的に賛成だ。2次訴訟判決は、これまでの憲法19条論と処分権濫用論を確認する内容にとどまっている。19条論を捨てることはあり得ないが、同じ主張を繰り返しても裁判所の説得には限界がある。むしろ、26条の『教育を受ける権利』や23条の『教育の自由』をメインに、学校現場の荒廃状況から説き起こすことを考えなければならないのではないか」

E「これまで、思想・良心の自由(19条)と、教育の自由(26条・23条)を車の両輪と位置づけてきた。しかし、一度この『両輪論』の呪縛から脱して、混沌とした問題状況を全体的に見つめ直して、徹底的に事実を把握するところから、論理の再構成をしてみるべきではないだろうか。いろんな角度から、もっと自由な発想で事実を見つめなおし、新たな理論を語らねばならない」

F「これまでも、19条論だけを主張してきたわけではない。『日の丸・君が代』強制問題は、公権力による教育統制の象徴という位置づけで主張してきたつもりだ。しかし、裁判所にはこの位置づけを伝え切れていない。判決は、裁判所が関心をもつ限りでの19条論を投影した形に切りとった事実認定をして、その余の問題点は捨象してしまっている。これを是正して、どうしたら裁判所に丸ごとの事実をとらえ直させるか。」

G「その点では、少数意見の中に、都教委の「日の丸・君が代」強制の意図を的確に把握して認定したものがある。抽象的に意図を語るのではなく、具体的な事実の積み上げの中から、都教委の教育介入の意図や教員の思想をあぶり出して排除しようという意図を浮き出させる努力が必要ではないか。この点は、違憲論だけでなく、懲戒権濫用論にも直結する」

H「本件では、これまで国際人権論については相当に手厚く主張してきたつもりだが判決に結実していない。先日の京都地裁のヘイトスピーチ判決が、自動執行力をもった国際条約活用のよき先例となっている。あきらめずに、この点についてもさらに主張を積み上げよう」

I「都教委暴走の真の被害者が教育そのものであることを再確認しよう。子どもや保護者のどのような利益が、具体的にどのように損なわれているのか。これを明確化することは、訴訟においてだけでなく、教育運動や保護者による支援運動の高揚にも有益だ。」

J「現場では、日々新たな問題が発生しているはず。10年前と同じ抽象的な主張を繰り返していたのでは著しく迫力に欠ける。とりわけ、1・16最高裁判決のあとも、都教委は何も反省せず、学校現場はさらに不正常になっていることを、具体的に突きつけることが最重要の課題だ。」

K「場合によっては、個別の異常事態に焦点を絞った新たな提訴も考慮する必要があるのではないか。『授業をしていたのに処分・訴訟』はそのような個別提訴の先例として有効だったと思う。『10・23通達による一連の日の丸・君が代強制の違法』が問題の根源だけでは裁判所を説得しきれない場合には具体的に考慮する必要があると思う」

A「議論は生煮えの段階だが、ご意見を今後に生かしたい。現場の実態把握の段取りと、関連領域の専門家を招いての研究会と、これからの主張の構想について、弁護団事務局で一度整理をしてみたい。そのうえで、再討議をお願いすることになる。」
(2013年10月9日)

元号は「日本のアイデンティティー」だろうか

横浜市鶴見区にお住まいのI・S様、本日の東京新聞「発言」欄に、あなたの「日本の歴史 元号が象徴」という元号使用に愛着のご意見を拝読いたしました。これに対する私なりの感想を述べさせていただきます。やや不躾になるかも知れませんが、ご寛容にお願いいたします。

貴見は、西暦表記への統一を求める投稿について「本欄9月21日付『併用は不便 元号廃止を』のご意見を拝読した。なかなか含蓄のある意見だが、全面的に賛同はできない」と、ご自分の立ち場を明瞭にしていらっしゃいます。

そのうえで、「私の思考経路は常に元号でなされているが、別に戸惑うこともなく不便でもない。」「西暦、元号の併用に特別問題はないと思う。」「ただ、ハッキリ言えるのは、元号は日本独自の歴史を象徴し、日本のアイデンティティーのよりどころだということである。」とされています。

お気持ちは良く理解できます。「大正生まれ」の私の父も、おそらく同様の意見だったと思います。また、「西暦使用は怪しからん」とはおっしゃらず、「西暦と元号の併用でよいではないか」あるいは、「時と場合で使い分ければよいではないか」という柔軟な姿勢には好もしさを感じます。

しかし、「元号は日本独自の歴史を象徴するもの」とのご認識と、「元号は日本のアイデンティティーのよりどころだ」というご意見には、私なりの違和感を禁じ得ません。

その違和感の根源のひとつは、ある特定の個人の死亡という偶然の事情によって、時代を画して表記するという不自然さにあります。天皇が死亡すると、次の天皇が直ちに即位します。「国王は死んだ。国王万歳」は君主政の常ですが、日本の場合その人間の死という偶然が、新しく元号を付された時代の初年となるのです。自分の生きている時代の歴年の数え方を、見ず知らずで私とは何の関係もない一人の自然人の死亡の時をもってすることを不自然と感じざるを得ないのです。

さらに、根源的には、自分の人生や家族、社会の歴史の数え方を、天皇の在位と結びつけられることへの違和感です。こちらは、違和感というよりは嫌悪感というのが正直なところ。仮に、元号使用を義務づけられ強制されたら、精神的な苦痛を感じざるを得ません。

私は、天皇制を価値あるものとは認めません。人が、家柄や生まれによって、貴賤の別があることを容認しません。唯一の例外としてであっても、天皇の高貴を絶対に認めません。そして、古代や中世、近世まではともかく、近代以降の天皇制は極めて有害なものと考えています。そして、そのような考えの持ち主である私もこの国、あるいはこの社会の一員として生きる資格があるものと信じて疑いません。

昔、「メブカドネザル大王の治世5年目」とか、「トトメス?世の在位3年目」という歴年の数え方がありました。このような権力者の名称を付した歴年の使用は、その権力者への服従を表しました。元号の使用は、現在なお「昭和天皇在位18年に私は生まれた」「今年は平成天皇治世25年目である」というのとまったく同じことです。これは、不自然であり滑稽だというだけでなく、国民に天皇制についての意識を刷り込むための、あわよくば天皇制への従順さをつくり出すための小道具として、有害だと思うのです。

元号の制度は、歴史的には中国に始まり、中国文化圏の諸国がこれに倣って真似をしたものです。もともとは、天帝の子である天子が時を支配するという古代中国の宗教思想の表れとされています。元号は頻繁に改廃されましたが、明治維新後に「一世一元」とされました。以来、天皇の代替わりと元号の制定とがセットになりました。けっして古来の習俗でも、伝統でもなく、薩長閥政府が人民統治の道具として拵えあげた発明品に過ぎません。

明治維新から敗戦まで、あるいは大日本帝国憲法時代には、天皇は統治権の総覧者であり、現人神として天子でもありましたから、その権威をもって元号を制定することは当然とされました。また、臣民が、政治的には天皇に服属の証しとして、また宗教的な権威に服する立ち場から、天皇が定める元号を使用することに、大きな無理はなかったと思われます。

しかし、時代は変わりました。日本国憲法では国民が主権者です。厳格な政教分離の定めのとおり、天皇の宗教的権威は意識的に排除するのが憲法の基本的立ち場です。ですから、元号の存続には原理的に無理があると言わざるを得ません。慣習としてしばらくは生き残っても、国民の主権者意識の成熟とともに、消えゆくべき運命にあると考えられます。このことに、危機感を持った保守勢力が1979年に元号法を制定しました。もちろん、国民こぞっての立法とはなりませんでした。

ちなみに、現行元号法は、
第1項: 元号は、政令で定める。
第2項: 元号は、皇位の継承があつた場合に限り改める。
というだけの、もっとも条文が短い法律です。

昨年4月、自由民主党は「日本国憲法改正草案」を発表しました。その第4条に元号の定めがあって、「元号は法律の定めるところにより、皇位の継承があったときに制定する」となっています。元号を憲法事項にして、簡単に改廃できないようにしたい。それが、日本の右翼的な人々の考え方です。

その憲法改正草案は、日本を「天皇を戴く国家」として、天皇制と深く結びつく「日の丸・君が代」を国旗・国歌として国民にその尊重を義務づけるとともに、一世一元の元号も憲法事項とする、天皇中心の国家主義てんこ盛りの内容となっています。このような、右翼ないしは保守的な憲法改正案は、「元号は日本のアイデンティティー」とおっしゃる多くの人の感性に支えられてのものと言わねばなりません。

ところで、I・S様に伺いたいのです。「日本のアイデンティティー」とはいったい何でしょうか。天皇・「日の丸・君が代」・元号というのが、日本あるいは日本人のアイデンティティーなのでしょうか。これを受け入れがたいとする私のような者は、非国民でしょうか。

私自身は、「日本人としての」アイデンティティーをまったく必要としていません。個人としての自分を中心として、家族・地域社会・日本・アジア・世界と幾重にもひろがりをもつ社会の中で、日本という単位が特別に重要なものという思いはありません。

仮に、アイデンティティーを探すとしても、天皇制やこれに繋がるものを「日本のアイデンティティー」とするのは、あまりに偏狭で、余りに貧しくはないでしょうか。むしろ、日本の自然や風土、四季のうつろい、そしてこれを詠じた日本語や古典の数々。こんなところなら、異論はないのですが‥。

重要なことは、日本という社会の単位が、国家という権力機構を形成していることです。時の権力者にとって、天皇や「日の丸・君が代」、あるいは元号などを国民統合の手段とすることが、便利この上ないはずです。元号を日本国民のアイデンティティーと考えてくれる人々が多くいることが、時の権力者にとってありがたいことと言わねばなりません。このような多くの人の感性がどのように生まれてきたのか。そして、どのように利用される危険をもっているのか、十分に吟味しなければならないと思うのです。

いずれにせよ、忌憚のない意見を交換することが大切だと思います。失礼はお許しください。

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  『死の灰のセールスマン 安倍首相』その2
「原子力協定」は核関連技術の平和利用や第三国への情報流出防止を約束する2国間協定で、これを結ばないと原発の輸出入はできない。日本はすでに13か国、1国際機関(欧州原子力共同体・EU27か国)、実質的に40か国と締結している。そして現在、安倍政権は経済発展著しいインドとの協定締結に躍起になっている。インドは2020年までに原発を18基建設予定で、総額9兆円の市場だからだ。それだけでなく、高速鉄道や地下鉄などの未整備インフラの宝の山でもある。

ところが、その宝の山インドには、世界各国の原発セールスマンが二の足を踏むような大きな障害が立ちはだかっている。
まず、インドは核拡散防止条約(NPT)に未加盟のまま核実験を行い、100個もの核弾頭を保持している。日本が目の敵にしている北朝鮮と同じく、危険な核保有国だ。原発が稼働すれば、インドの核開発に手を貸すことになる。核軍縮や廃絶を願う立場からも、インドへの原発輸出は許されることではない。しかし、2007年に経済的政治的理由から、アメリカがインドと原子力協定を結んでしまったので、「我が日本も追随」という流れになっている。道義の問題にも、ダブルスタンダードとの批判にもほっかむりだ。

しかし、世界の原発企業が二の足を踏んでいる本当の理由は別のところにある。他の国とは異なりインドには原発事故の際には原発メーカーに賠償責任を負わせる法律があるからだ。
インドでは1984年にボパール化学工場で有毒ガスが漏出し、25000人もの死者を出した大惨事が起こった。経営主体のアメリカのカーバイト社の責任を問う裁判は未だに決着がついていない。これを教訓に「汚染者負担の原則」を採用して、原発事故が起これば、原子炉メーカーに責任を問える法律が成立した。

10月5日の各紙は「東芝傘下のアメリカ原子力大手ウェスチングハウス・エレクトリック社(WH)がインドでの原発新設の契約を結んだ」と報じている。皆の知りたいところは、インド原子力損害賠償法の扱いがどうなったかということ。地元メディアは「インド側が請求権を放棄するなど賠償法の運用を緩めて米国側と譲歩した」と報じたが、インド政府高官は「米国に対して何の譲歩もしていない」と言い、インド原発公社は「交渉は進行中で、コメントできない」と言っている。合意内容は闇の中だ。将来明らかになることはあるのだろうか。原発建設に反対している、インドの住民の不信や不安はいかばかりかと思う。

ここまでは将来起こりうる問題だが、三菱重工がサザン・カリフォルニア・エジソン社から受けている賠償請求は現実の問題で、注目を浴びている(本年7月24日の当ブログを参照されたい)。
昨年1月、エジソン社のサンオノフレ原発(米カリフォルニア州)3号機で蒸気発生器の配管が破損し、微量の放射性物質が漏出して、運転停止となった。米原子力規制委員会(NRC)はただちに稼働を禁止した。定期点検中の2号機の蒸気発生器にも15000カ所の摩耗が見つかり、こちらも稼働禁止になった。

(ここからはアメリカで取材を続けたジャーナリストの堀潤さんのブログからの引用)。
再稼働させようとする電力会社の労組、再稼働反対の住民運動があるなか、NRCは1年以上、再稼働申請を審査し、中立的な姿勢で公聴会を重ねた。公聴会には毎回1000人以上の人が参加し、活発な議論がなされた。NRCは神戸の三菱重工の事業所まで調査し、「三菱重工とエジソン社が設計上の不具合を事前に把握しながら、十分な改良をしなかった」という報告書を出した。それを受けて、エジソン社は今年6月2,3号機の廃炉を決定した。

エジソン社は蒸気発生器が適切に設計されていなかった、迅速な修理もなされなかったとして、メーカーの三菱重工に損害賠償請求した。三菱重工側は契約上の責任上限額1億3700万ドルは認めるが、それを超える代替燃料費や廃炉費用は争うとしている。損害額がどこまで膨らむかは、雲を掴むようで、話がまとまらなければ、地獄のような訴訟が続くことになる。

この推移は「欧米の先進国への原発輸出は契約がはっきりしていて、賠償の範囲もきちんと決められているはず」という常識は通用しないことを示している。とすれば、今回、三菱重工が契約したトルコではどうなるのだろうか。また、契約が闇の中で、免責の法律が存在するインドではどうなるのだろうか。安倍政権が後押しして成立させた「原発輸出」が大事故を起こしたとき、日本政府にまったく関係ないと知らんぷりできるとは到底考えられない。

フクシマ事故直後の、2011年5月27日、衆議院経済産業委員会で、日本共産党の吉井議員は、福島第1原発で事故を起こした原子炉製造メーカーの製造者としての責任について取り上げている。事故を起こした1号機は米ゼネラル・エレクトリック(GE)が作り、2号機以降もGEと東芝などが作ったことを指摘して、「東電とともにGEの製造者責任も問うべきだ」と迫った。それに対し、外務省の武藤義哉審議官は「88年の現協定では旧協定(アメリカの要求で米国側が提供した核燃料などの使用などによる損害については免責条項が含まれていた1958年発行の日米原子力協定)の免責規定は継続されていない」という答弁をした。であるならば、GEなどに対して免責規定はなく、フクシマの被害者は製造物責任を追及することができるはずである。

立場を変えれば、原発事故が起こった場合、トルコやインドの被害者から日本メーカーに対する製造者としての責任追及もあり得るということだ。そのときには、死の灰のセールスマン・安倍晋三の責任も免れない。首相としてのセールスの責任は、何らかの形で日本が負わざるを得ないことになろう。
(2013年10月8日)

ヘイトスピーチに損害賠償と差し止め判決ーその意義を語る

本日、京都地裁は、在特会のヘイトスピーチを違法と断罪して、損害賠償と差し止めを命じる判決を言い渡した。高く評価し、関係者に敬意を表したい。

以下の京都新聞の報道が簡にして要を得ている。

「京都朝鮮第一初級学校に押しかけ、民族や出自への差別的な憎悪表現「ヘイトスピーチ」を浴びせる街頭宣伝を繰り返し、民族教育を妨害したとして、学校を運営する京都朝鮮学園(京都市右京区)が「在日特権を許さない市民の会」(在特会)と同会関係者に3千万円の損害賠償と学校周辺での将来にわたる街宣の差し止めを請求した訴訟の判決が7日、京都地裁であった。橋詰均裁判長は「被告の示威行為は人種差別に該当し、差別行為に対する効果的な保護と救済措置となるような高額の損害評価が必要」として原告側の主張をほぼ認め、約1200万円の支払いと街宣差し止めを命じた。

原告側弁護団は、ヘイトスピーチによる被害の悪質性を強く訴えており、「主張が実質的に認められたと考えられる。同種のヘイトスピーチに対する抑止となる画期的判決」と評価している。

判決によると、被告らは2009年12月に当時南区にあった同校前で約50分間、街宣を行い「朝鮮学校、こんなものはぶっ壊せ」「犯罪者に教育された子ども」「端のほう歩いとったらええんや」などと拡声器でシュプレヒコールを上げるなどした。

橋詰裁判長は、在特会などの行為を「在日朝鮮人に対する差別意識を世間に訴える意図がある」とし、「著しく侮蔑的な差別的発言を多数伴い、日本が加盟する人種差別撤廃条約が禁じた『人種差別』に該当する」と違法性を認定。損害は「街宣活動による物品の損壊など経済的な面だけでなく、業務の運営や社会的評価に対する悪影響など全般に及ぶ」と判断した。」

この事件では、2011年4月に京都地裁の刑事有罪判決が先行している。在特会会員らの京都の犯罪と徳島の犯罪とが併合審理されたもの。この事件に関心をもって、早くから発言を続けている前田朗氏のまとめによれば、
「4月21日、京都地裁は『在日特権を許さない市民の会(在特会)』『主権回復を目指す会』などの構成員が行った差別(暴言・虚言)と暴力について、4人の被告人に対して犯罪実行の事実を認定し、それぞれ懲役1?2年(いずれも執行猶予4年)を言い渡した。事案は、第一に、被告人ら4名(ABCD)が、共謀の上、京都朝鮮第一初級学校前に押しかけて暴言を撒き散らし、スピーカーに接続された配線コードを切断し(威力業務妨害罪、侮辱罪、器物損壊罪)、第二に、4名のうち3名(ABC)が、共謀の上、徳島県教職員組合事務所に乱入し、暴行や暴言を伴う大騒ぎをした(建造物侵入罪、威力業務妨害罪)」というものである。

威力業務妨害罪・侮辱罪・器物損壊罪に該当する行為だけが取りあげられ、必ずしもヘイトスピーチそのものに関心が集中していないが、紹介された刑事判決文が認定した被告人らの「スピーチ」の内容は以下の如き凄まじさである。

「被告人4名は、京都朝鮮第一初級学校南側路上及び勧進橋公園において、被告人ら11名が集合し、日本国旗や『在特会』及び『主権回復を目指す会』などと書かれた各のぼり旗を掲げ、同校校長Kらに向かってこもごも怒声を張り上げ、拡声器を用いるなどして、『日本人を拉致した朝鮮総連傘下、朝鮮学校、こんなもんは学校でない』『都市公園法、京都市公園条例に違反して50年あまり、朝鮮学校はサッカーゴール、朝礼台、スピーカーなどなどのものを不法に設置している。こんなことは許すことできない』『北朝鮮のスパイ養成機関、朝鮮学校を日本から叩き出せ』『門を開けてくれ、設置したもんを運び届けたら我々は帰るんだよ。そもそもこの学校の土地も不法占拠なんですよ』『戦争中、男手がいないところ、女の人レイプして虐殺して奪ったのがこの土地』『ろくでなしの朝鮮学校を日本から叩き出せ。なめとったらあかんぞ。叩き出せ』『わしらはね、今までの団体のように甘くないぞ』『早く門を開けろ』『戦後。焼け野原になった日本人につけ込んで、民族学校、民族教育闘争ですか、こういった形で、至る所で土地の収奪が行われている』『日本から出て行け。何が子供じゃ、こんなもん、お前、スパイの子供やないか』『お前らがな、日本人ぶち殺してここの土地奪ったんやないか』『約束というものは人間同士がするものなんですよ。人間と朝鮮人では約束は成立しません』などと怒号し、同公園内に置かれていた朝礼台を校門前に移動させて門扉に打ち当て、同公園内に置かれていたサッカーゴールを倒すなどして、これらの引き取りを執拗に要求して喧騒を生じさせ、もって威力を用いて同校の業務を妨害するとともに、公然と同校及び前記学校法人京都朝鮮学園を侮辱し、被告人Cは、勧進橋公園内において、京都朝鮮学園が所有管理するスピーカー及びコントロールパネルをつなぐ配線コードをニッパーで切断して損壊し」た。
これらが威力業務妨害罪(学校の授業運営などを妨害した)、侮辱罪(朝鮮学校に対する侮辱)、器物損壊罪と判断された。

報道されている限りだが、本日の判決についていくつかの特色がある。
*まず、賠償認容額が高額(1226万円)であることが評価される。
 損害賠償認容額は、違法行為の再発を抑止するに足りる金額でなくては意味がない。
*その責任主体として、被告9名の個人の不真正連帯としたことが極めて重要である。
 ヘイトスピーチデモ参加者は、このような個人としての損害賠償責任を覚悟しなければならない。刑事事件の被告人となることは免れても、民事責任は負わねばならないのだ。
*なお、是非とも、徹底して被告らの個人財産に強制執行を行う努力をお願いしたい。勤務先のある者にとっては、給料債権の差押えがもっとも簡便で有効な方法である。
*朝鮮学校周辺200メートルの範囲での街宣差し止め命令の認容も高く評価したい。子どもたちの平穏に教育を受ける権利に十分な配慮がなされたものとして評価を惜しまない。
*違法を認定する根拠として、「日本が加盟する人種差別撤廃条約」違反に言及したことも画期的である。いわゆる自動執行力をもつ条約として直接に国内法としての効力をもつものだが、実務での採用を評価したい。

どのメディアも、「裁判所が、ヘイトスピーチとして問題になっている特定の民族に対する差別街宣について『人種差別』と判断したことで、東京・新大久保や大阪で繰り返される在日コリアンを標的にした差別街宣への抑止効果が予想され、ヘイトスピーチの法規制議論を促すことになるとみられる」という。

在日コリアンを標的にした差別街宣への抑止効果は大歓迎だ。しかし、私は、ヘイトスピーチ処罰の刑事立法には躊躇を禁じ得ない。捜査機関や司法当局を必ずしも信用していないからである。ヘイトクライム法が成立した暁に、どのように運用されるか、一抹の不安を払拭できないのだ。しかし、やや迂遠ではあるが、民事訴訟や保全手続による積極的なヘイトスピーチ押さえ込みには、全面的な賛意を表したい。

本日の京都地裁判決が、その輝かしい第1歩とならんことを心から願う。

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  「死の灰のセールスマン 安倍首相」(その1)
いくら安倍首相が、原発事故について「ブロックできている」、「制御できている」といってみても、放射能濾過装置アルプスはスムーズに動かず、汚染水は漏れ続け、海の汚染は悪化している。原発再稼働も道遠く、新規着工はそれ以上に困難。機をみるに敏なる小泉元首相は「脱原発」を言い始めている。トイレのないマンションから出る「核のゴミは管理不可能だ」とし、「日本は原発ゼロでも充分やっていける」「いま、ゼロ方針を打ち出さないと将来も難しくなる」と講演している。

しかし、こんなことぐらいでは「原発利益共同体」はあきらめはしない。当面、国内が駄目なら、輸出に方針転換だ。今年2月には原子力産業協会の今井敬会長が座長を務めるエネルギー・原子力政策懇談会は「原発輸出に対する政府の姿勢を明確化することをためらうべきではない」との提言を安倍首相に出している。経産省の総合資源エネルギー審議会(新日鉄住金取締役相談役三村明夫会長)では、「本分科会のミッションは原子力の必要性を明確にすること。一定のシェアを維持すべく新増設の議論もしてほしい」と、あからさまな原発推進の議論がなされている。日本から原発を輸入しようとしている各国要人の期待の言葉を並べ「日本の原子力技術は世界から高い期待が寄せられている」という、フクシマ原発事故などどこ吹く風の危険で利益追求優先の発言が飛び交っている。こうした議論をもとにして、「エネルギー基本計画」が策定されようとしている。

原子力産業、経産省、自民党安倍政権は一体となって、猛然と巻き返しを図るべく、3.11以降中断していた「原発の国外セールス」に全力を挙げている。安倍政権は「成長戦略」として、2020年までにインフラシステム輸出額を30兆円に伸ばすとしている。その内、現在3000億円の原発関連輸出額を7倍増して2兆円にする計画だ。原発は一基受注すれば数千億円。政府が後援して、原発関連企業が被ったフクシマの損失を外国で挽回しようと企てている。
大企業のためならなり振り構わないとばかり、安倍首相は5月の連休前から、財界連中を引き連れて、外国へトップセールスに出かけた。まず、中東のサウジアラビア、アラブ首長国連邦、トルコ、つづいて、東欧のポーランド、チェコ、スロバキア、ハンガリーを歴訪した。アラブ首長国連邦とトルコでは原子力協定を結んだ。地震大国トルコでは、三菱重工がフランスのアルバ社と組んで、総事業費2兆円の原発4基の受注に成功した。財界の使い走りができて、安倍首相はさだめしホッとしていることだろう。

「日本は大原発事故を起こした」ので、「日本こそ世界一安全な原発の技術を提供できる」という奇妙キテレツなセールストークが有効だったはずはない。トルコのエルドアン首相を納得させるには、安倍首相はどんな魔法を使ったのだろうか。トルコの財界はともかく、トルコ国民まで魔法にかけることができるのだろうか。

昨年9月までは、原発関連機器の輸出前に、相手国の規制体制を調べる国の「安全確認」という手続きが行われていた。旧原子力安全・保安院の廃止に伴って担当官庁がなくなってしまった。現在、原子力規制委員会は「推進業務である輸出に関与するとなれば規制機関としての独立性が保てなくなる」として、この業務の引き継ぎを拒否している。もっともな言い分。だから、現在は安全面で確認のないまま、他国に売り込みを図る異常状態にある。

原発事故の責任は「原発を規制する立地国にある」と規定する「原子力安全条約」があるので、「日本が賠償に関する財務責任を負うものではない」と衆院本会議(5月28日)で茂木経産相は答弁している。確かに、同条約にはそのように読んで読めないこともない簡単な条文はある。しかし、納入した原子炉の欠陥で事故を起こした場合に、納入メーカーと熱心なセールスをかけた我が国が、はたして無責を通すことができるだろうか。一度事故を起こせば、結局はすべての利益を吐き出さなくてはならなくなるどころではない、たいへんな国民の負担に直結する。

フクシマでの事故の原因も究明されず、事故の収束のめどもついていないのに、日本政府は官民一体となって、外国へ原発の技術の輸出に狂奔している。事故原因もわからない、安全確認もしないまま輸出すれば、「過酷事故」と「死の灰」のセールスになりかねない。賠償責任はないからといって、自国で運転できない欠陥商品を輸出することが国際社会の道義として通用するだろうか。トルコ国民は納得するだろうか。

次回は「死の灰のセールスマン 安倍首相」(その2)、内容は「三菱重工に対する米電力会社の損害賠償請求」と「免責を拒むインド」について。
(2013年10月7日)

徳洲会組織ぐるみ大規模選挙違反の波紋

選挙違反には、目を光らせよう。それが主権者としての務めであり、たしなみでもある。

昨年12月16日の総選挙と都知事選。公訴時効は、選挙犯罪の別(当該犯罪の法定刑の軽重)によりけりだが、3年ないし5年。2015年暮ないし2017年暮れまで。その間に摘発すべきは厳正に摘発されることを望む。
 
今のところ、大きな話題となっているのは、石原宏高陣営(東京3区)と、徳田毅(鹿児島2区)陣営の悪質・大規模選挙違反。これまでの報道によれば、いずれも捜査の進展次第で、石原慎太郎にとって致命傷となりうる。石原慎太郎のダメージは「日本維新の会」へのダメージとなり、民主々義の微笑みとなろう。

慎太郎三男・石原宏高の選挙違反の悪質さについては、これまで当ブログで何度も触れてきた。これは、カジノ企業と政治家の、腐臭を放つ癒着の構造が選挙違反として露出したものなのだ。形式的な選挙違反だけでなく、更に保守政治家の本質的な醜悪さを露呈する事件となりうる。捜査当局がどうして強制捜査に逡巡しているのか理解に苦しむ。これだけ大きく報道された事件について当局が動かなければ、保守政界に間違ったメッセージを与えることになりかねない。

強制捜査は、徳洲会事件が先行した。徳洲会は、石原慎太郎の政治資金源として噂されていた存在。捜査の進展は、選挙違反にとどまらず、保守政界の醜悪な金の動きを垣間見せることになるだろう。

ごく最近の報道によれば、徳洲会の選挙違反の端緒は、徳洲会の内紛のようだ。本日の赤旗・社会面のトップは、そのことに触れている。もっとも、歯切れが悪く分かりにくい記事ではある。記者が詳細を掴んでいないのか、掴んではいるが事情あって書けないのか、読者には判断しかねる。ともかく、大要は以下のとおり。

徳洲会グループが、グループ内で選挙の経理を取り仕切っていた「選挙経理担当の元事務総長」なる人物を今年の2月に懲戒解雇し、さらに最近、業務上横領と背任容疑でこの人物を警視庁に告訴したという。しかし、元事務総長も黙ってはおらず、徳洲会に83ページにわたる反論書を作成して提出しており、この内容が徳洲会組織を上げての選挙違反や、裏金による政界工作の実態を暴くものとなっているという。これが、捜査の端緒となった模様。

「たとえばー。
▽ある政党を立ち上げるときに、徳田理事長が億単位の現金を提供した。その後、徳洲会の税金申告漏れ事件が報道されると返還された。
▽首都圏の知事にも億単位の資金提供。かき集めたその資金の中には、税金から拠出された政党助成金も含まれており、他から現金を持ってきて穴埋めした。」

どうもこれだけの記事では、何が行われたのか、どこに事件の本質があるのか、もうひとつ分かりにくい。「ある政党」とは「立ち上がれ日本」のことだろうが、「国民新党」のことなのかもしれない。あるいは両者をともに指すのだろうか。「首都圏の知事」とは、石原慎太郎以外に考えられないが、なぜ名前が伏せられているのだろうか。はたして赤旗は、「反論書」を入手しているのだろうか。

この「83ページの反論書」(報道によっては「上申書」)が、事情通や捜査機関には把握されているとして、注目の的である。注目の理由は、選挙違反の実態もさることながら、政界工作資金としての徳洲会マネーの流れをあきらかにするものとしてである。

普段は水面下に没して分かりにくい保守政治の汚い金の動き。そのほんの一部が、氷山のごとくに水面に浮かび出たもの。それが、投票買収や運動買収の選挙違反資金である。徹底して、これを暴いてこその刑事司法の存在価値である。本来、金や権力の横暴を抑制すべきが民主々義である。あべこべに、金や権力によって、民主々義が左右されるようなことがあってはならないのだから。
(2013年10月6日)

「日の丸・君が代」不当処分撤回を求める被処分者の会 総会

本日は、「「日の丸・君が代」不当処分撤回を求める被処分者の会」の定期総会。この会は「東京君が代裁判」の原告で構成されている。年に1度の総会が、創立総会を含めて、今回が11回目である。あれから10年。会員も、弁護団員も、10歳の年輪を重ねた。この間、会の活動に参加した教職員の熱意には敬意を禁じ得ない。とりわけ、この長きにわたって中心的に活動を支えた人々の労苦と献身性には頭が下がる。日本の教育の希望はこのような集団にこそあると言って過言ではない。

石原慎太郎教育行政の「10・23通達」以来、卒業式等の起立・斉唱・ピアノ伴奏の強制に従わなかったとして処分された教職員は、延べ450名に上る。これは、現代の思想弾圧であり踏み絵だ。また、教育を権力の下僕にしようとする邪悪なたくらみでもある。これに対する現場の教員の抵抗と支援の運動が満10年継続して、今日の総会に至っている。

この間、法的手段としては、予防訴訟を提起し、処分に対しては人事委員会に審査請求をし、行政訴訟を提起し、服務事故再発防止研修執行停止の申立をし、君が代処分を理由とする再雇用の拒否に対する権利救済の訴訟を起こした。

この10年の闘いが一通りの最高裁判決を経て、今やや膠着した状態にある。これまでに勝ち得た成果もあるが、勝ち取れなかったものもある。そして、今後の課題が見えてきている。

私たちは、法廷闘争においては、違憲論として次の二つの柱を建てた。
(1) 精神的自由の侵害(思想・良心・信仰の蹂躙の違憲違法)
(2) 教育の自由の侵害(権力の教育への介入の違憲違法)
そして、違憲論とは別建てに、
(3) 公務員に対する懲戒権の逸脱濫用としての違法の判断と救済
を求めた。

この10年間で、勝ち得た成果といえば、
*服務事故再発防止研修執行停止申立についての須藤決定(研修内容が内心の自由に干渉するに至れば違法となる)。
*予防訴訟一審の難波孝一判決(「日の丸・君が代」強制の違憲違法を全面的に認めた)
*処分取消請求一次訴訟の控訴審大橋寛明判決(戒告を含む全原告の懲戒を処分権濫用として、取り消した)
*同訴訟の1・16最高裁判決(減給以上の懲戒処分は過酷として原則違法)
*第2次訴訟の確認(戒告は認めるが、減給以上の処分は原則違法)
*最高裁判決における、裁判官2人の違憲の少数意見と、都教委批判の補足意見

勝ち得たものはけっして小さくはない。とりわけ、私どもが「思想転向強要システム」と呼んだ、機械的な累積加重の処分基準を最高裁が違法として、都教委が現実に過酷な処分をできなくなっていることの意味は大きい。これまで、判決によって25人(30件)の処分取り消しが確定しているが、この基準は当然に大阪の処分にも適用されることになる。

しかし、最高裁判決は違憲の主張を排斥している。これは到底容認できない。最高裁の使命は、憲法に忠実な判決を言い渡し、社会に憲法の理念を実現することにある。権力による国民への「日の丸・君が代」強制が思想・良心を蹂躙することは本来自明というべきことではないか。これを合憲として、行政を免責する最高裁は、憲法をねじ曲げる存在と断定せざるをえない。

「日の丸・君が代」強制を、思想良心の自由を保障した憲法19条に違反しないとした最高裁判決の「論理」は次のようなものである。
※「強制される外部行為による思想良心への直接制約の否定」
 起立・斉唱・伴奏という「外部行為」と、
 そのような外部行為をとることはできないとする理由としての「思想良心」
 との密接不可分性の有無の判断について
 A 行為者の主観においては関連しているものと認められる。
 B しかし、一般的・客観的に両者が密接不可分とは言い難い。
 C 従って、起立斉唱の強制が直ちに思想良心を侵害するとは言えない。

※「外部行為による思想良心への間接制約の存在とその容認」
 D とは言え、間接的には侵害があるものと考えざるを得ない。
 E 間接侵害の合違憲は「必要かつ合理的」という緩い基準の判断でよい。
 F 本件職務命令は「必要かつ合理的」という緩い基準に適合しており合憲。
結局、D以下は言い訳に過ぎない。厳格審査を僣脱して緩い審査基準で判断してよいするための範疇作りで、結論を引き出すために論理操作のフリをしているだけ。

本日の総会では、「何としてでも違憲判決を勝ち取ろう」という真摯な熱意に溢れた意見が交わされた。メインの訴訟形態となっている処分取消請求事件では、1次に続いて2次の訴訟が最高裁判決で終了となり、現在東京地裁に3次訴訟が係属中である。そして来春、4次訴訟の提起が予定されている。違憲判決を勝ち取るまで、運動も訴訟も続くことになる。

では、違憲判決を勝ち取るにはどうすればよいか。もちろん、容易ではないが、挑戦し続けなければならない。

ひとつには正面突破作戦がある。最高裁の論理の間違いを徹底して弾劾し、真正面から判例の変更を求めるという方法である。裁判所の説得方法は、「判例違反」「学界の通説に背馳」「米連邦最高裁の判例」などにある。

ついで、正面突破ではない迂回作戦がある。そのひとつが、最高裁の判断枠組みをそのままに、実質的に換骨奪胎する試みである。一連の政教分離訴訟において、最高裁は厳格な分離説を排斥して、緩やかな分離でよいとする論理的道具として日本型目的効果基準説を発明した。しかし、この目的効果基準を厳格に使うべきとするいくつもの訴訟の弁護団の試みが、愛媛玉串料訴訟大法廷判決に結実して、歴史的な違憲判決に至っている。本件でも、間接侵害の枠組みをそのままに、「間接と言えども思想良心の侵害は放置しえない」「本件の場合、必要かつ合理性ありとはいえない」との論理を追求しなければならない。

また、もう一つの迂回作戦が考えられる。最高裁がまだ判断していない論点で結論を覆すことである。この点については、
(1) 公権力は国民に国家シンボルの強制をなしえない(根拠は立憲主義・自由主義の大原則。条文では、前文・13条・99条違反)
(2) 公権力は限度を超えた教育への介入をなしえない(根拠は憲法26条・23条・13条、教育基本法16(旧10)条)
の2点がメインとなる。

さらに、法哲学的アプローチや、違憲をカムフラージュする儀礼論や公務員論への対抗理論の構築、国際人権論からの反撃なども重要であり、処分の裁量権逸脱濫用論の深化も課題である。

そして、付言しなければならない。なによりも裁判所・裁判官を何とかしなければならない。個別事件において法廷での説得も重要ではあるが、裁判官の採用システムや養成システムそして、裁判官の人事を通じての官僚的統制などの問題に切り込まねば、百年河清を待つことになりかねない。

「司法も権力の一翼である以上、司法だけが『民主化』することはあり得ない」という見解がある。この見解の説得力は限りなく大きい。とりわけ、精神的自由に関する最高裁判例を見ていると、ときに絶望的にならざるを得ない。とはいえ、そのように一刀両断に切り捨てることで、地道な努力を怠る口実にしてはならない、とも思う。

たしかに「裁判所も権力の一部」ではある。しかし、相対的に行政権力中枢からの独立の側面をもっていることを見落としてはならない。個別事件での裁判所説得の努力と、憲法の理念を実現し人権を擁護する裁判所の確立に向けた「あるべき司法改革」をなし遂げなければならない。迂遠の道程ではあっても、けっして百年河清を待たねばならない課題ではない。
(2013年10月5日)

秘密保護法アンケート調査       「こんな法律必要でしょうか」

私は学生時代に学問をしたという覚えがない。正規のカリキュラムに興味をそそられるものがなかったことがその原因。そう開き直って大学側に責任を転嫁している。無味乾燥なカリキュラムの中で、唯一の例外が「社会調査演習」だった。その分野での第一人者とされていた安田三郎さんという講師(後に広島大学教授)が、自著の「社会調査ハンドブック」をテキストに調査実技の指導をしてくれた。これが、たいへんに面白かった。そこで学んだことは、社会意識の正確な把握の難しさと、一見公正を装った調査による結果誘導の容易さである。

カードマジックに「フォース」という基本技法がある。演者が、相手(観衆の一人)に演者が意図する特定のカードを引かせ、しかも相手には自由な意思で選択したと思わせる心理的技法。上手に仕組まれた世論調査はマジックの効果を持ちうる。だから、世論調査には関心を持ちつつ、軽々には信用しない癖が付いた。

ところで、問題は世論調査における秘密保護法についての賛否の分布。
時事通信が9月6?9日に行った世論調査で、「機密情報を漏えいした国家公務員らの罰則を強化する特定秘密保全法案」について賛否を聞いたところ、「『必要だと思う』と答えた人は63.4%、『必要ないと思う』は23.7%だった」という。

さらに、産経新聞社とFNN(フジニュースネットワーク)が9月14?15両日に実施した合同世論調査では、「機密を漏らした公務員への罰則強化を盛り込んだ『特定秘密保護法案』について、必要だとしたのは83.6%、必要だと思わないが10.4%だった」という。

両調査結果とも、さしたる重みはない。なにしろ、内閣官房の9月26日発表によれば、特定秘密保護法案の概要に対するパブリックコメント募集に対して、9月3日から17日までの15日間に94000件の意見が寄せられ、そのうち反対が77%を占め、賛成は13%に過ぎなかったというのだから。この件数は凄い。反対の率も凄い。

ところが、本日の「毎日」に、10月1?2日実施の新たな世論調査の結果が発表されている。これが、見出しを付けるとすれば、「特定秘密保護法必要の世論 6割に近く」として不正確とは言えない内容。産経の83.6%はさすがに眉唾としても、毎日の「必要だ」は57%、「必要でない」は15%に過ぎない。毎日の社会的信頼度を考慮すれば無視しえない。

しかし、これは質問文の作り方がよくない。今は亡き安田三郎講師の「社会調査演習」の授業なら、「不正確ないしは意図的誘導の質問文」として落第点しか与えられないだろう。毎日の調査が、誘導を意図しているものとは思わない。そうではなくて、質問作成者自身が、特定秘密保護法の内容や問題点をよく理解していない。そのうえに熟慮の姿勢が足りないのがこの質問文となり調査結果となっている。

毎日の質問項目の全文は以下のとおり。
「政府は、外交や安全保障に関する国の秘密が漏れるのを防ぐ『特定秘密保護法』を制定しようとしています。重要な秘密を漏らした公務員らに最高で懲役10年を科す内容です。こうした法律は必要だと思いますか。思いませんか。」

調査対象者に、少なくとも次の大きな誤解を与える。
(1) 現在は重要な秘密を漏らした公務員らを罰する法律はないようだ。
 だから、国の秘密はだだ漏れになっている現状があるにちがいない。
(2) この法律は公務員だけを処罰するもので、民間人には無関係のようだ。
  だから、自分の権利や義務に関わるものではなく、他人事としてよい。
(3) この法律は、「重要な国の秘密の保護」というメリットだけをもたらすもののようだ。
  デメリットなどは考えられず、法曹会や言論界に反対などあろうはずがない。

やや長文になるが、もっと正確に次のような質問項目とすべきであろう。そうすれば、調査結果は大きく違ったものになるはず。

「安倍内閣は、過去の自民党政権が何度もたくらみながら、世論の大きな反対にあってその都度潰されてきた『国家秘密の漏洩を厳罰をもって処罰する法律』案を今また制定しようとしています。『特定秘密保護法』と名付けられた今回の法案は、「国家秘密法」や「スパイ防止法」などと言われた過去の法案よりも、規制の網を広くかけ厳罰化するものとなっています。
法案は、外交や安全保障に関するものだけでなく、スパイ防止やテロ対策上の国家秘密を広く保護しようとするもので、その範囲の限定がないだけでなく、ことがらの性格上『何が秘密かは秘密』とならざるをえません。逮捕されて初めて、「あれが特定秘密だったのか」となり、自分の行為に法律違反があったことを知ることになります。もちろん、裁判の過程でも秘密の保持は貫かれますから、弁護権の行使に大きな支障が生じます。
公務員だけでなく民間人でも秘密を知り得る地位にある者や、公務員から秘密事項を聞き出そうとした民間人も処罰対象となります。過失でも、未遂でも処罰されます。場合によっては、教唆の未遂すら処罰されます。
現行法でも、公務員の秘密漏示は最高刑懲役1年、自衛隊員の場合は最高5年となっています。それで特に不都合はないのに、一挙に重要な秘密を漏らした公務員らには最高で懲役10年、秘密を聞き出そうとした新聞記者にも懲役10年と重罰化しようとしているのです。
ですから、政府が間違ったことをしていても、これを知った公務員の勇気ある外部への公益通報は封じられます。なによりも、新聞記者が政府の独断専行に切り込むことに萎縮し、新聞記事の筆が鈍ることが心配になります。主権者としての国民の知る権利が損なわれれば、日本の民主々義が萎縮し歪められることにならざるを得ません。
こうした法律は必要だと思いますか。思いませんか。」

あらためて思う。「毎日」世論調査担当者の意識レベルがこの程度とすれば、秘密保護法の問題点の世論への浸透度は未だしである。「国民の知る権利を害し政府の独断専行を助長する」法案の問題点を執拗に訴え続けねばならない。
(2013年10月4日)

安倍の背後にオバマ民主党政権あり

本日(10月3日)「日米安全保障協議委員会」(2プラス2)が共同文書を発表した。
内容は、臨時国会での安倍内閣のたくらみそのもの。さすがに明文改憲の共同謀議は公にされてはいないが、その余はすべて盛り込まれている。オバマ民主党政権は、日本国民の敵以外の何ものでない。

共同文書で、日本が単独でなすべきとされたことは、以下のとおり。
*国家安全保障会議(NSC)の設置
*国家安全保障戦略(NSS)の策定
*集団的自衛権行使容認の検討
*防衛予算の増額
*防衛大綱の見直し
*防衛力強化、地域への貢献拡大に取り組む
米国は、「これらの取り組みを歓迎し、日本と緊密に連携」とされた。

日米が共同して取り組むべきこととして確認されたことは以下のとおり。
*日米防衛協力指針(ガイドライン)の再改定作業を2014年末までに完了
*弾道ミサイル防衛(BMD)協力を拡大し、2基目のXバンドレーダーの配備先を空自経ケ岬分屯基地に選定すること
*サイバー空間、宇宙の分野で協力
*情報収集・警戒監視・偵察(ISR)活動の作業部会設置を歓迎
*南西諸島における自衛隊の態勢強化のため、施設の共同使用を推進
*F35戦闘機製造への日本企業の参画を通じ、技術協力は深化
*「核の傘」を含む拡大抑止の協議を定期的に開催
*情報保全の法的枠組み構築における日本の真剣な取り組みを歓迎
*輸送機オスプレイの日本本土での運用参加など、沖縄県外の訓練増加へさまざまな機会を活用
*在日米軍駐留経費負担(思いやり予算)の重要性を確認

さらに、「4月に発表した沖縄県内の米軍施設・区域返還計画の進展を歓迎。米軍普天間飛行場の沖縄県名護市辺野古沿岸部への移設が唯一の解決策だとする両政府の強いコミットメントを再確認。米国は、日本政府が3月に移設実現のため辺野古沿岸部の埋め立てを申請したことを歓迎。米軍訓練海域「ホテル・ホテル」の航行制限を11月末までに緩和。返還予定の米軍施設や区域への立ち入り制限を11月末までに緩和」と、沖縄への一層の負担が具体的に盛り込まれている。

日本の安全保障の基本方針は日米安保を基軸に規定されている。これが、誰の目にも分かりやすい構図。なにしろ、頭を下げて核の傘に入れてもらっている肩身の狭い身。目下の同盟者として、親分の命令には従うしかない立ち場。9条改憲も、集団的自衛権も、秘密保全法制も、主としてはアメリカから押し付けられてのものというのが素直なものの見方。

ところがごく最近、事態が様変わりしたのではないかと思わせることも少なくない。アメリカは、日本よりは中国との関係を重視せざるをえなくなっているのではないか。だから、日本に対して、中国との緊張関係を緩和するようサインを送っている、ようにも見える。むしろ、アメリカは、安倍政権の改憲姿勢や歴史修正主義の動きを牽制している、少なくとも集団的自衛権行使を望んでいないのではないか。そのような論調が注目される。

たとえば、9月30日「毎日」夕刊の「特集ワイド」での北沢俊美・元防衛大臣の次のようなインタビュー記事である。
 問:(集団的自衛権が)行使できないと「日米同盟の信頼関係が損なわれる」と言われています。
 北沢 米国は行使容認の必要性は感じていませんよ。防衛相在任中に当時のゲーツ米国防長官と8回会談したほか、米政府やシンクタンクの多くの要人に会ったけれど、公式・非公式問わず「日本政府は集団的自衛権行使を容認すべし」との意見は全く聞かなかった。2005年まで国務副長官だったアーミテージさんだけは「容認すべきだ」と言っていたけど。‥
 米国が、日本はアジア諸国から危険視されず信頼される国であってほしいと考えていることは間違いない。主要同盟国がそれなりの地位にいてくれないと当然困るんです。「特に中国、韓国とは仲良くしてほしい」という忠告は米国に行けば必ず言われます。だから現状では米国は行使容認の必要性は感じていない。あれば必ず言ってきますよ。

元防衛大臣の発言であるだけに重みがある。しかし、本日の日米の共同文書を見る限り北沢見解は影が薄い。従来型の「目下の同盟」論の説得力が優っている。文書起案のイニシャチブが日米のどちらにあったかは分からない。分からないながらも、超大国アメリカの「安保の論理」が日本の安全保障政策の基本を決定していることに疑問の余地はなく、明文改憲・立法改憲・解釈改憲を阻止する闘いの「敵」は、安倍政権だけではなく、その背後のアメリカ・オバマ政権でもあることを再確認しなければならない。

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   秋がきた!
朝起きたら、キンモクセイが香った。この季節、誰よりも早くこの香りに気づきたいと思う。油断していると、キンモクセイは突然香る。急いで外に出て、垣根や街路樹を確かめてみる。厚くゴワゴワした葉っぱの陰に、粟粒ほどのクリーム色の花が恥ずかしそうに隠れている。その色がだんだん濃いオレンジ色になる頃には、街中キンモクセイの香りでいっぱいになる。

おや、サザンカの花も咲いている。一重の薄いピンクの小花が木を覆うように咲きそろうと、庭に上品なご婦人が佇んでいるような香りがする。こちらは白粉の匂いだ。
コムラサキシキブのビーズ玉のような実も薄く紫に色づいてきた。ハナミズキの葉がほんのり色づいた、と思っていたら、真っ赤な実と一緒に銀色に光る花芽が空を向いてピカピカ輝いている。こんな都会の小さな「秋」でもこんなにうれしいのだから、空がどこまでも広がるほんとうの「秋」ならどんなに素晴らしいだろうか。

昔、ススキを思いのままに茂らせたことがあった。その壮大さと華麗さは圧倒されるほどの美しさだった。思い切り長く、四方八方に叢生するススキの穂は、地上に降りてきた太陽を思わせた。株によって穂の色は、濃い紅、明るい紅、樺色、黒茶、黄色、銀色と異なり、その穂からは黄金やプラチナブロンドに輝く葯が盛大に吹き出している。その葯が風にそよぐとき、青空にザランザランという音が響き渡るようであった。生命の歓喜、躍動のひとときに立ち会う幸せに浴したのだ。盛大な驚喜乱舞の秋であった。

さて、小さな秋に戻ろう。チューリップの球根が届いている。春に、手を繋いで散歩する、保育園の子どもたちの歓声のために、早速植え込もう。
(2013年10月3日)

安倍首相の伊勢神宮式年遷宮行事参列に異議あり

江戸時代には士農工商の身分制度があった。各身分内に更に細かな身分差が存在したし、四民の外に差別された身分もあった。明治維新での四民平等はタテマエで、士族や華族という新たな身分制度が拵えあげられた。もちろん、身分による差別が支配の道具として有効だったからだ。ようやくにして、20世紀半ばに現行憲法が成立して、人は平等(14条)となった。しかし、今もなお天皇や皇族などという身分制度の残りかすを払拭し切れていない。旧制度の残りかすが、もっともらしく永らえているのは、やはり統治の道具として、また現行秩序維持の装置としていまだに役に立っているからである。この点、江戸、明治期とさしたる違いはない。

今日なお、人に生まれながらの貴賤の別があると思い込んでいる者がいるとしたら、愚かの極みである。自らの血筋や家柄を誇る人物は、軽蔑すべき輩でしかない。問題は、この差別の残りかすを撤廃する方向に向かうのか、温存ないしは助長するのか、である。

旧憲法の時代、「天皇は神聖にして侵すべからず」(3条)とされた。憲法の起草者が、天皇を神聖なものとする演出が国民統合に有益で、彼らが望んだあるべき秩序の維持に有益と考えてのことである。この条文に則って、理性ある国民なら滑稽と吹き出さざるをえない噴飯もののクサイ演技が重ねられた。それだけではなく、天皇の神聖性を疑い攻撃するものには、仮借ない弾圧が加えられた。

天皇の尊貴は、人間の序列を形づくるためのものであった。その対極に差別された身分の存在を必然化した。しかし、それだけではない。身分制度一般が人を差別し序列化することによる統治の装置であったが、近代天皇制はさらに天皇を神と位置づけ、その架空の権威によって効率的な統治を行おうと意図するものであった。古代エジプトや古代中国と同様の、究極の身分制度といってよい。

その天皇の神聖性や権威は、記紀神話における伝承の神の付与に由来するものとされた。近代天皇制の演出者は、神々の序列までを拵えあげ、トップの神に由来するものとして天皇を権威づけた。時代によって異なるが、全国9万?11万といわれる神社は、政府によって社格を与えられて階層区分され、各社格の中でも序列を付けられた。数多の神社の中で、本宗とされた格付けナンバー1の神社が、天照大神を祭神とする伊勢神宮である。もちろん、天皇の祖先神を祀る神社であるが故の最高序列。神々の格付けにおいて伊勢神宮を最高の神社とし、最高格付神社祭神の末裔である天皇の権威を人の序列において最高の格付けとし、神聖性を裏付ける道具としたということなのだ。

その伊勢神宮の式年遷宮「遷御の儀」が、今日(10月2日)行われるという。安倍晋三はこの宗教行事に参列するため、本日同神宮を訪れた。訪れてどのようなことをしたのか、まだ報道はない。だが、菅義偉官房長官は本日午後の記者会見で、「私人としての参列だと承知している。国の宗教的活動を禁じる政教分離の原則にも反するものではない」と説明した。

かくも安易に済まされることではない。「私人としての参列」とすれば、公務員としての仕事は放棄してのことなのか。多忙な首相が、私人としてわざわざ伊勢まで行って「私的に参列しなければならない」とは、この人以前からそれほど熱烈な神道信仰者であったということなのだろうか。

憲法20条の政教分離規定は、現行憲法に天皇制という旧憲法の遺物を残存させるについて、憲法全体の理念と可及的に矛盾させないよう、徹底的に無害化する必要あっての制度である。天皇は旧憲法下において、統治権の総覧者であり、統帥権の主体としての大元帥であり、神なる神聖な存在とされた。現行日本国憲法においては、天皇は主権を失って「国政に関する権能を有しない」(4条)とされ、憲法9条によって統帥権を失ったが、それだけでは不十分なのだ。再び神としての地位に戻してはならない保証が必要とされた。それが、政教分離規定(憲法20条3項)である。

だから、政教分離の「政」とは政治権力あるいは権力を担う人のことであり、「教」とは、天皇を神とした神社ないし神道のことと読まねばならない。「教」の軍国主義的側面を象徴するのが靖国神社であるが、「教」において天皇の神聖性付与に最も重要な意味をもつのは、伊勢神宮である。「政」と「教」の分離は、首相と靖国だけではなく、首相と伊勢神宮においても、最も厳格にしなければならない。「政」のトップに位置する首相が、「教」のトップに位置する伊勢神宮の最大の宗教儀式への参列を、軽々に「私的な参列」として見過ごすことは出来ない。

もちろん、安倍晋三個人も人権の主体であって、私的な信仰の自由は保障される。しかし、その個人の信仰行為も、客観的に公的な資格をもってする参拝となれば、憲法の政教分離規定によって禁じられる。その意味では、私的な信仰の自由は、その信仰行為表現の次元では制約されざるをえない。

首相としての地位にある者において、純粋に私人としての宗教行事参加を認められることは極めて困難なこと。おそらくは、人に知られることなく、お忍びでの参拝という以外にはなかろう。

これまで、公人性排除のメルクマールとされたのは、三木武夫内閣の靖国神社私的参拝4要件が公式のものである。「公用車不使用」、「玉串料を私費で支出」、「肩書きを付けない」、「公職者を随行させない」というものである。

安倍が、東京伊勢間の交通に公用車をまったく使用せず航空運賃や新幹線費用を私費で支払い、玉串料・真榊料その他の宗教的意味合いのある金銭支出を一切私費で行い、肩書きを附した記帳をせず、公職者の随行員を一切付けない、ということに徹して初めて私的参列であり得る。なお、私は個人的に、もう3要件が必要だと考えている。「公職に就く以前において、当該宗教行事あるいは同等とみなされる宗教行事に複数回参加していること」「当該宗教行事への参加をメディアに漏らさないこと」「宗教行事への参加時間は通常人の勤務時間を外してすること」である。

要は、首相と天皇制との結びつきの切断の維持という憲法の要請を損なうことなく、安倍晋三の個人としての信仰の自由にも配慮する方法の選択である。「個人としての信仰の自由」を口実にしさえすれば、靖国神社参拝も、伊勢神宮式年遷宮行事参加も自由に出来るとさせてはならない。

天皇を神聖なものとし現人神とした時代において、国家神道が国民をマインドコントロールしていたその反省に立っての政教分離条項の厳格な解釈でなくてはならない。天皇制を支えこれを権威づけた宗教施設に、権力を担う者との接触を安易に認めてはならない。そもそも、天皇という身分制度の遺物を、いささかも権威付け助長させてはならないのだ。

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  「シリアと大久野島の化学兵器」
国連安保理でシリアの化学兵器全廃決議が採択されて、少しだけほっとした。しかし、これからも気が抜けない困難が待ち受けている。交渉の相手方であるアサド大統領は、とうてい信頼できる相手ではない。「19カ所の化学兵器保管場所のうち7カ所が反体制派の占拠している場所にある」とアサド政権のムアレム外相はいっている。もしそれを信じれば、ますます化学兵器の量、種類、保管場所も闇の中ではないか。化学兵器禁止機関(OPCW)の査察官の身の安全や行動の自由の保障も危うい。世界一治安の悪いシリアで、「14年前半まで」と切られた期限に廃棄が完了するとはとうてい思えない。

化学兵器の処理の責任はアサド政権にあるわけだが、推定1000トンの処理費用は数千億円にものぼるという。後始末を任せておいてもらちが明くはずはない。OPCWは不足する資金、人材を加盟国に求めるといっている。廃棄作業の実績のあるのはアメリカ、ロシア、日本、中国、リビアだけである。日本は現在、中国で第二次大戦中に遺棄してきた化学兵器の処理をしている最中で、日本の移動式化学兵器処理施設の提供を期待されているようだ。自衛隊が出ていく必要はない。現在、民間機関が廃棄処理を行っているのだから、平和国家としての軍縮活動の一貫として協力すべきだろう。

日本軍が中国に遺棄した毒ガス兵器は、瀬戸内海の大久野島(広島県)の「陸軍造兵廠火工廠・忠海(ただのうみ)兵器製造所」(1929?1945年8月)でつくられた。この工場では、近隣の農民、漁民、勤労学生など6500人が働いた。技能者養成所がもうけられ、高等小学校を卒業した、貧しくて進学できないけれど向学心の強い、14,5歳の子どもたちが集められた。

「先生から『大久野島で子どもを養成する制度ができた、はいらんか』と言われたんです。給料をもらいながら勉強できる、というでしょう。私は中学へ進学することはできない状況だったので、その条件は輝かしいものでした。しかも、3年の学習期間がすめば基幹工員にもなれる。努力次第で出世の道も開かれていくということに、すごく夢を持った。これは社会への登竜門なんだと思いました。」「初日に全員が『誓約書』の提出を求められました。誓約書の内容のなかに『大久野島は軍の秘密に属する島であるから、秘密は一切もらさない』という一項がありました。島での仕事の内容は決して、親兄弟にも言ってはならないと言われました。自分たち養成工は軍属ですから、もし秘密をもらすようなことがあれば軍法会議にかけられる、と」

少年たちは毒ガスの被害の一端を垣間見て、実体験するようになるにつれて、徐々に自分たちが作るものが何であるか気づいていく。「こんなことだと知っていたら、来るのではなかった。入所をすすめてくれた先生に相談したい、先生に手紙を書こうかと思ったけれど、『何も言わない』という誓約書を交わしとるでしょう。その約束を破ったら軍法会議ということだから、誰にも相談することができない。」(「戦争で死ぬ、ということ」島本慈子著 岩波新書)

1925年のジュネーブ議定書で化学兵器の使用は禁止されていた。日本はこの条約を批准していなかったとはいえ、国際社会に秘密にしなければという後ろ暗さはあった。くしゃみ・嘔吐性ガスは「あか1号」、催涙性ガスは「みどり1号」、びらん性ガスは「きい1号」、「きい2号」、青酸ガスは「ちゃ1号」と名付けられた。第二次大戦終戦まで、総量6616トンの毒ガスがつくられ、中国戦線に送られ使用された。そして敗戦。大久野島には3000トン以上のイペリット、青酸ガスなどが残された。「毒ガスをつくっていたお前たちは戦犯になる」と脅かされ、ガスや装置は証拠隠滅のため、海へ捨てさせられた。「しばらくすると、魚が腹を見せて浮かんできた。メバル、大きなチヌ(クロダイ)、そして小さい魚たち」

戦争の罪の深さを思う。大久野島で製造された毒ガス兵器の犠牲者たちの悲惨。そして、心ならずも加害者として兵器作りに従事した子どもたちの良心の呵責。現在、シリアにも化学兵器を作らされた子どもたちがいるのだろうか。大久野島同様、証拠隠滅があちこちで計られているのだろうか。

第一級の戦犯であるアサド大統領が何も罰せられないまま、政権に着き続けることは許されない。そして、化学兵器だけではなく、地雷や劣化ウラン弾、核兵器も製造してはならない。いや通常兵器と言えども、人を殺傷する道具として、製造したり、使用したり、輸出したりしていいはずはない。アサドも、アサドに原材料や技術や武器を輸出した国も罰せられなければならない。
(2013年10月2日)

澤藤統一郎の憲法日記 © 2013. Theme Squared created by Rodrigo Ghedin.