澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

神は女性に、ヒジャブをかぶれと教えしや。神は、かくも非寛容で残忍なるや。

(2022年10月16日)
 神が人をつくったのではない。人が神を作ったのだ。ところが往々にして、その神が人を支配し、人を不幸に陥れる。場合によっては神が人を殺す。とりわけ、ナショナリズムと結びついた神は狂気を帯びる。ナショナリズムがカルトとなり、そのカルトが国家権力を握るとき悲劇が生じる。かつて、神権天皇制国家がそうであったし、いまテヘランで起きていることも同様だ。

 ちょうど1か月前の9月16日、イランの首都テヘランでヒジャブ(スカーフ)のかぶり方が不適切だとして警察に逮捕されていた22歳の女性、マフサ・アミニさんが急死した。9月13日警察に警棒で頭を殴られ、警察車両に頭を打ち付けられるなどした後意識不明に陥り16日に亡くなったとされる。警察発表は心臓発作が原因だと説明しているが、信じる者はいない。翌17日から、悪名高い「風紀警察」による撲殺だとして抗議するデモがイラン各地に広がった。女性の地位の確立を求める行動でもあり、その背後にある宗教支配への抵抗でもある。

 当局は、これに徹底した弾圧で応じている。権力の正統性の根幹に関わる問題と捉えられているからだ。これは、ときの政権だけでなく、体制維持の問題なのだ。

 国際人権団体アムネスティ・インターナショナルは10月13日、イランの反スカーフデモで治安部隊に殺害されたとして把握している144人のうち、10代の子供が少なくとも23人含まれていたと発表した。うち17人は治安部隊の実弾射撃で死亡したという。アムネスティは「容赦ない残忍な弾圧だ」と非難。子供の犠牲者数は実際はもっと多いとみて、調査を継続する。
 ノルウェー拠点の人権団体「イラン・ヒューマン・ライツ」は12日の報告で、大人も含め少なくとも201人が死亡したとしている。

 この事態は、宗教が人を不幸にしている好例である。かつて、天皇の神聖性を認めない宗教も学説も政治勢力も文学も、非国民・国賊として徹底した弾圧を受けた。いま、ヒジャブ着用強制の是非を巡る論争が、宗教論争を越えて体制選択の問題にもなっている。神の教えを認めないとするイランのデモに、国家が妥協し得ないのだ。政府はデモ参加者を国外の敵対勢力に扇動された者たちだとして、取り締まりの方針を変えていない。

 イランは厳格なイスラム国家といわれる。教えに従って、女性は公共の場でスカーフなどで髪を隠すことが義務づけられている。外国人も例外とされない。保守強硬派のライシ現政権は、その取り締まりを強化している。

 いま、イランの抗議デモに連帯する動きが、トルコからヨーロッパにも広がっているという。そして、抗議のパフォーマンスとしての女性の断髪が続いているという。「長い美しい髪が男性を誘惑するから、ヒジャブで隠せ」というのが、髪の教えらしい。これに、「短髪にすればスカーフはいらない」という抗議なのだという。

 「他国の、あるいは他人の宗教には寛容であれ」「真摯な宗教行為を尊重しなければならない」というのが、宗教と接する際の基本作法である。「宗教上の信念において、ワクチンは打てない」「輸血は拒否する」「剣道の授業は受けられない」という要望は、可能な限り尊重されなければならない。だから、ヒジャブを被る宗教習俗は尊重すべきではあろう。

 しかし、個人の宗教的信念の問題と、国家権力の強制の問題とは厳格に分けて考えなければならない。いま、問題は、権力が宗教を背景に女性を差別し、人権を弾圧している局面である。

 神はそれほどにも非寛容で、デモ隊への発砲も辞さない残酷な存在なのか。人が作った神の恐ろしさをあらためて思う。

国葬での弔意強制も、学校での国旗国歌の強制も、国家主義というカルトのなせる業なのだ。

(2022年10月15日)
 赤旗一面の下段に「潮流」という連載コラムが掲載されている。朝日の「天声人語」や、毎日新聞の「余録」に当たる、赤旗の看板である。

 本日の「潮流」が、「日の丸・君が代」強制問題を取りあげてくれた。なるほど、タイムリーなのだ。

 書き出しはこうである。
 「反対の声が大きく広がるもとで強行された安倍晋三元首相の「国葬」。「弔意」を強制し、憲法が保障する思想・良心の自由を侵害する政府の行為はもう一つの「強制」を思い出させます。教育現場における「日の丸・君が代」の強制です」

 安倍国葬を経て、特定政治家への弔意の強制をあってはならないとする国民的合意が形成されたと言ってよい。では、「日の丸・君が代」への敬意の強制はどうか、というタイムリーな問題提起。

 実は、いずれも個人の価値感に任せられるべき領域の問題なのだ。国家が、国民に特定の価値観を押し付けてはならない。安倍晋三に対する弔意は近親者や政治的立場を同じくする人々には自然なことでも、それ以外の人々には他人事である。飽くまで個人の心情が尊重されるべきで、国家が弔意を表明せよといういう筋合いはない。国旗・国歌(日の丸・君が代)についても同様に、国家は、国民個人の国家観や歴史観に寛容でなければならない。国家中心主義の立場から、愛国心を押し付けたり、国旗・国歌(日の丸・君が代)に敬意を表明すべきことを強制するなど、もってのほかなのだ。

 このことを「潮流」は、「国旗・国歌に対する態度はそれぞれの考えにもとづいて自由に判断するべきなのに、教職員には卒業式・入学式などで起立・斉唱することが強要されています。東京都では起立・斉唱の職務命令に従わなかったなどとして約20年間にのべ約500人が処分されました」と述べている。そのとおりなのだ。

 そして、もう一つタイムリーな出来事を紹介している。「先日、この問題をめぐって強制に反対する市民らが文部科学省と交渉しました。ILO(国際労働機関)とユネスコ(国連教育科学文化機関)が日本政府に出した勧告を実施することを求めたものです」。よくぞ取りあげてくれた。

 「ILOとユネスコの勧告は『起立や斉唱を静かに拒否することは…教員の権利に含まれる』とした上で、卒業式などの『式典に関する規則』について教員団体と対話する機会を設けることを求めています。『国旗掲揚・国歌斉唱に参加したくない教員にも対応できるような』合意をつくることが目的です」

 よくぞ、内容がお分かり。まるで、私が起案したみたい。

「しかし、日本政府は勧告を事実上、無視したままです。市民らとの交渉でも文科省は終始、消極的な姿勢だったといいます。教職員の思想・良心の自由が奪われた学校で、子どもたちが本当の意味で憲法や自由について学べるのか。政府は国際的にも問題が指摘されていることを真摯に受け止めて、直ちに勧告に沿った対応をするべきです」

  さすがによくできた練れた文章。文科大臣にも、東京都知事にも、大阪府知事にも、そして東京都と大阪府の各教育委員にもよく読ませたい。

 ところで、弔意の強制と国旗国歌の強制、カルト(ないしはセクト)をキーワードとすると共通点が見えてくる。

 フランスの反セクト法(2001年)では、「著しい、あるいは繰り返される心理的・身体的圧力、若しくはその判断力を侵害する技術により生じた心理的・身体的な隷属状態」に乗じて、「その無知あるいは脆弱な状態を不当に濫用する行為」が処罰対象とされるという。日本では考えられないところだが。

 この条文だと国旗国歌の強制は、カルトのやることだ。東京都教育委員会も、香港を蹂躙した中国共産党も、反セクト法では犯罪者たりうる。国家主義者が権力を握ると、愛国心の高揚だの、国旗国歌の強制だのをしたくてならないのだ。

 個人よりも国家大事とする倒錯した心理が、愛国主義であり国家主義である。全体主義と言ってもよい。国葬だからとして被葬者への弔意を強制するのも、学校儀式で国旗国歌を強制するのも、国家主義というカルトのなせる業なのだ。

保守心情の感動と涙を誘った菅の弔辞は代筆だった。

(2022年10月14日)
 またまた、安倍国葬ネタが続く。今度は、安っぽい保守派心情に感動を呼んだ「涙の菅弔辞」の化けの皮である。

 香川県の地方紙「四国新聞」に、スシローこと田崎史郎執筆の、コラム「岸田、菅の『話す力』追悼の辞の明暗」が掲載された。10月9日付のこと。このコラムの表題が意味深である。実は、「安倍国葬の追悼の辞をめぐって、岸田文雄、菅義偉両名の『話す力』の格差が話題となっている。その明暗の真相を語ろう」というものなのだ。

 スシローは、「安倍国葬参列者の拍手と感動の涙を誘った友人代表の弔辞」が菅本人のものではなくスピーチライターの筆になるものだったとスッパ抜いている。これまで菅は、いかにも自分で弔辞を書いたかのように振る舞ってきた。スシロー、こんな重要秘密を暴露して、今後の商売に差し支えはないのだろうか。他人事ながら、やや心配せざるをえない。

 コラムの要点は以下のとおりである。
 菅の弔辞には感動の讃辞が送られた一方、岸田の追悼の辞に対する評価は「役人が書いたような文章の棒読み」などさんざんだった。
 「評価はまるで真逆。ところが、である。岸田の追悼の辞も菅のそれも、実はスピーチライターは同一人物だった。」
 「菅は、山縣有朋が、長年の盟友、伊藤博文に先立たれ、故人をしのんで詠んだ歌を引用した。…この歌はライターの原案段階から入っていた。」

 では、「スピーチ原案のライターが同じなのに、評価がなぜ分かれたのか。私は、どれだけ『念』を入れたのかの違いだと思う」

 これ以外に、読むべきところはない。菅の「感動の弔辞」は本人が書いたのではなく、プロ(あるいは官僚)のスピーチライターに代筆を依頼したものだという。残念ながら、そのライターの名前は特定されておらず、電通との関係があるともないとも言ってはいないが、あの「拍手」「感動」「涙」を誘ったのは菅本人の言葉ではなく、他人の文章なのだ。

 「山県の(伊藤を悼む)歌はライターの原案段階から入っていた」ということだから、驚く。プロのライターが、軍国主義の巨魁の歌を引用する無神経さにである。しかも、伊藤は朝鮮植民地化を象徴する人物である。安倍が葛西の葬儀に引用したばかりであることを知らないはずもなかろう。菅は、次からライター替えた方が無難だろう。

 さらに驚くべきは、「岸田と菅の弔辞はどちらも同じスピーチライターが書いたもの」だという事実。どうしてこうなったのか、この辺の裏話は知りたいところ。そして、田崎は、同じライターで評判が真逆に分かれた理由を「どれだけ『念』を入れたのかの違い」だという。田崎の文章は分かりにくい。「念」とは何か、だれの『念」の入れ方がどう違ったのか、さっぱり分からない。

 同じライターの二つの弔辞に対する念の入れ方が違っているというよりは、菅と岸田で、ライターへの依頼の仕方における念の入れ方に差があったという意味であろうか。それにしても、どう違ったのだろうか。

 政治家の形式的な式辞だの弔辞などは官僚が書いた紋切り型の文章を読めば良い。しかし、時には、まるで自分が書いたような上手な文章が求められる。菅にとっては、友人代表の弔辞。そのように起案しなければならないが、自分にそんな能力はない。そこで、代筆のスピーチライターの出番となる。

 ライターは飽くまで黒衣である。聞き手には、あたかも菅本人が書いた文章と思ってもらわねば、拍手も感動も涙も湧いて来ない。そして、いつまでも黒衣は黒衣に徹しなければならず、秘密を破ることは許されない。

 ある日、あれは菅本人の文章ではない。あたかも菅自身が書いたものの如く、念には念を入れて周到につくられたゴーストライターの作文である、と秘密が漏らされたときに、魔法は解ける。拍手も感動も涙も全て、嘘によっていざなわれたこととなって白けるのだ。

 だから疑問に思う。なぜ、政権中枢に取り入ることで、喋るネタを仕入れていたスシローこと田崎が、菅の弔辞の化けの皮を剥がすようなことをしたのだろうか。もう、菅には、次の目はないというシグナルなのだろうか。

あれあれ、「海賊」が「国賊」に謝っちゃだめでしょう。

(2022年10月13日)
 国葬ネタが続く。自民党の、村上誠一郎議員に対する処分のこと。
 村上は、安倍国葬に欠席すると表明した際に、安倍に対する評価としてこう言った。

 「財政、金融、外交をぼろぼろにし、官僚機構まで壊して、旧統一教会に選挙まで手伝わせた。私から言わせれば国賊だ」

 けだし、簡にして要を得た名言である。この名言が「1年間の役職停止処分」の理由となった。「党員たる品位をけがす行為」だというのだ。しかし、解せない。安倍政権下で、財政も金融も外交もぼろぼろになったではないか。安倍が、政治を私物化して健全な官僚機構を壊したことも間違いない。統一教会に選挙まで手伝わせたことも、いま明らかになりつつある。以上は、争いようのない事実ではないか。これをして村上は、安倍を「国賊だ」と評した。私は「国賊」という言葉はキライだが、村上が安倍を指して「国賊だ」と言ったことには、筋の通った十分な理由がある。真実を語ることを押さえてはならない。

 いったいどういうことなのだ。「財政、金融、外交をぼろぼろにし、官僚機構まで壊した国賊」が国葬に祭りあげられ、これを正当に批判した議員に処分である。そりゃオカシイ。石流れ木の葉が沈んではならない。アベが流れ、村上が沈むのは、あべコベではないか。

 党紀委員会の委員長は、安倍一派と気脈を通じる衛藤晟一。委員会終了後、記者団に「『国賊』との発言は極めて非礼な発言で許しがたいものだという意見で一致した」と説明している。「財政、金融、外交をぼろぼろにした」「官僚機構まで壊した」ではなく、「国賊」という表現が、保守派の逆鱗に触れて、「極めて非礼」だというのだ。安倍はといえば、不規則発言で品位を問われた人物。「国賊」が極めて非礼なら、「キョーサントー」「ニッキョーソ」はどうなのだろう。

 この処分、国民にはどう映るだろうか。「自民党って、意外に狭量」「党内の言論の自由というのはこの程度のものか」「多くの意見があっての国民政党ではないのか」「自民党の面々、ホントは安倍に対する冒涜を許したくはないんだ」「国民の6割強が国葬に反対だ。村上が6割強の側で、党紀委員会は3割の側なのに」「自民党がもっと強くなると、言論の自由が危うくなる」…。

 だが一方、村上に失望という向きも多いのではないか。「村上は党紀委員会に、『国賊』発言を撤回して謝罪する―という趣旨の文書を事前に提出していた」。事後には、「発言を撤回し、深くおわび申し上げます。15日の山口県民葬が終わりましたら、速やかにご遺族におわびにお伺いしたい、とも述べた」という。おやおや。

 村上は、海賊(村上水軍)の末裔という出自を誇る人物である。海賊には、山賊・盗賊・蛮族・野盗とは違った反権力・自由のニュアンスがある。18世紀初チャールズ・ジョンソン著の『海賊史』には、海賊のユートピア「リバタリア」が描かれている。ここでは、奴隷制や専制主義などが否定され、自由や平等、民主主義などの価値観が重視されていた。当時、多くの若者が自由と平等を求めて、海賊になったともいう。

 誇り高い海賊の末裔が、国賊なんぞに負けてはならない。処分はやられてもいたしかたないが、謝罪は海賊らしくない。さらに、安倍政治の評価に関する名言の撤回は、いかにももったいない。

 村上の名は、「安倍1強」が強まる中で、保守陣営からの政権批判者として著名であった。
 特定秘密保護法にも、「森友・加計学園問題」でも、安倍批判を重ねて、保守の良心を示してきた。とりわけ、14年の集団的自衛権行使容認の憲法解釈変更や翌15年の安全保障関連法には、反対を明言した。安倍退陣を求めた村上の謝罪は、いささか残念ではある。今後、「転向」などせずに筋を通してもらいたいものと思う。

安倍国葬出席の最高裁長官、不見識ではないか。

(2022年10月12日)
 安倍国葬という奇妙奇天烈な代物については、多方面にわたって問題山積である。今後長期にわたっての徹底的な検討で解明しなければならない。

 私も、問題と思った一点を書き留めておきたい。戸倉三郎最高裁長官が当然のごとく「葬儀」に参列して追悼の辞を述べたことへの違和感である。これを違憲・違法とまでは言いがたいが、どう考えても不見識である。戸倉長官は、内閣からの参列要請を拒否すべきではなかったか。

 もし、長官が司法の独立の観点から安倍国葬参列を拒否し、その理由を記者会見で明示でもしていれば、司法に対する世人の見方を変えることができたであろう。「司法の実態は行政権の一部でしかない」との社会に蔓延している固定観念を覆し、行政権からの、また政権与党からの、司法権の独立をアピールする絶好の機会であったが、無念なるかな、その機を逸した。

 現実には、戸倉長官は、内閣から期待された役割を期待されたとおりに無難にこなした。内閣からも、政権与党からも無難な「番犬」との信頼を篤くしたところであるが、結局は何の問題提起もせず、国民には何の益するところももたらさなかった。

 メディアの一部には、「国葬であるからには、三権の長の列席があって当然」という感覚がある。その感覚の前提として、「最高裁長官とは結局のところ行政官ではないか」「内閣に指名された長官ではないか。内閣の要請を受けて当然」という牢固たる認識がある。

 しかし、日本国憲法の構造上、司法権の真骨頂は、内閣からの独立にある。確かに、最高裁長官は、内閣が指名し天皇が任命する。天皇の任命が形式的なものに過ぎないことは当然として、内閣が指名するから内閣に劣位する存在ではない。毅然として内閣の違憲・違法を糺すべき立場にある。

 今回の安倍国葬は、憲法にも法律にも根拠をもたない。仮に、最高裁が内閣法制局が首相に進言したという法的根拠の屁理屈を是認するとすれば、不見識も甚だしい。国権の最高機関とされる国会の関与もない。このような閣議決定限りの国葬に、内閣の要請で出席することを不見識という。

 「内閣の要請に応えて国葬の形を調えることに協力しても差し支えないのでは」との反論もあるかも知れない。しかし、最高裁は司法権の頂点に立ち、最高裁長官は大法廷の裁判長を務める。裁判体の長でもあるのだ。この国葬の違憲・違法をあらそう訴訟は既に数多く提起されており、これからも提起が予想される。それらの訴訟は最終的に最高裁の判断を仰ぐことになるのだ。

 最高裁長官の公正中立に対する信頼は、行政権と対峙して怯むところがないという全ての裁判官の姿勢から生まれる。最高裁長官が、内閣からの要請で、総理大臣を長く務めたというだけの保守政治家の葬儀に列席することは、憲法の想定するところではなく、国民の期待するところでもない。

国民に忠ならんと欲すれば安倍派に孝ならず、安倍派に孝ならんと欲すれば国民に忠ならず。

(2022年10月11日)

「安倍国葬」は戦争への導火線

「本郷湯島九条の会」石井 彰

 定例の「本郷湯島九条の会」の昼街宣をおこないました。

 参集した8人は「国葬」反対、軍事費倍増するななどのプラスターを持ち街ゆく人々に訴えました。秋快晴のもとプラスターをゆっくり見入る人たちが多くいました。何人かの若い方々も弁士の訴えに聞き入っていました。弁士の訴えも溌剌としていて赤信号で待っている方々のじっと聴いている姿が印象的でした。
 弁士は、物価高の中での生活の苦しさを訴え、そのさなかに戦争準備をする岸田文雄政権を糾弾しました。
「安倍国葬」によって、安倍晋三元首相の統一協会との癒着の深さが暴露され、その安倍晋三元首相の政治を引き継ぐと公言して憚らない岸田文雄政権が国民から見放されつつあることを報道の世論調査での政権の凋落振りを披瀝しながら語りかけました。政権の安泰振りを誇示していた政権の崩壊の近いこと、それを促進することを訴えました。
 憲法9条は、他国を攻撃してはならないための条項で、戦争準備をしてはならないことを強調し、戦争準備は戦争を引き込む事になることを訴えました。
 9条の放擲を画策している岸田文雄政権は「国葬」を強行しました。戦前回帰を狙ったシナリオ通りの「国葬」が武道館でおこなわれたことを語り、大規模に自衛隊を動員し、「儀仗隊」、軍歌「国の鎮め」を陸自中央音楽隊が演奏し、空砲で弔意を表す「弔砲」を撃ちました。この風景は1943年におこなわれた連合艦隊司令長官山本五十六の「国葬」と重なります。「国葬」が戦争遂行の儀式であることの反省から戦後日本国憲法施行によって「国葬令」は失効し、ふたたび日の目を見ないようにしたのです。岸田文雄政権は「国葬」の法制化を狙っています。決して許してなりません。

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 [プラスター]★「国葬」でフタを許さない、安倍元首相と統一協会との癒着の徹底調査。★ダメダメ敵基地攻撃能力、戦争になる。★人類の理想・戦争放棄の9条。★消費税下げろ、給料上げろ。★軍事費2倍12兆円、アメリカの盾・アメリカの捨て石ごめんです。★9条の会、迷わず平和路線。

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 最後に、近所の弁護士から一言。
 昨日の新聞に最新の世論調査の結果が報じられています。共同通信の調査によれば、岸田内閣の支持率は35.0%です。前月比、5.2ポイントの下落。不支持率は48.3%。先日の毎日新聞の調査では内閣支持率29%でした。危険水域に達しています。いま、あらゆる調査結果において岸田内閣支持率は続落、止まるところがありません。

 岸田内閣は安倍・菅政権に飽き飽きしたという思いの、少なからぬ国民からの期待を得て、発足当時は高い支持率を誇っていました。だから、昨年の総選挙も、今年7月の参院選も、岸田与党の大きな勝利となりました。ところが、選挙後明らかになったのは、安倍晋三を中核とする自民党と統一教会との醜い癒着です。そして、強引な安倍国葬の強行。これで、あっという間に、支持率は落ちました。内閣だけでなく、自民党の支持率も落ちてきました。

 それでも内閣は、国葬が終われば支持率が回復するだろうという甘い見通しを持っていたのでしょう。ところがそうはなりません。共同通信の調査では、国葬に否定的な評価をする人が61.9%という数字が躍っています。国葬での持ち直しはなかった。そして、今後も内閣支持率が上がる要素はない。むしろ、これからの物価高そして軍事費の増大です。むしろ、もっと下がることになるだろうと予想されています。

 なぜこんなに岸田内閣の支持率は低迷しているのでしょうか。
 理由は二つあると思います。一つは長く続いた安倍政権の正体が、今露見しているいるからです。8年8ヶ月の長期政権が崩れて、その後に何が残されたか。明らかになったものは、アベノミクスの失敗を筆頭に、内政外交の失政と、それに加えての統一協会との醜い癒着の関係の露呈。

 国民は、「安倍政権の正体見たり」「自民党政治とはこんなものだったのか」と驚き、呆れてしまったのです。言わば、岸田政権は安倍晋三のとばっちりを受けて、支持率を減らしたのです。アベの因果が岸田に報いたという一面です。

 もう一つあります、アベのせいにはできない、岸田自身の自業自得の側面。それは、安倍派に毅然とした態度を取れないということです。麻生派にもです。だから、山際大志郎に毅然たる対応ができない。岸田は自分の意思で安倍・麻生のとばっちりを拭うことができないのです。

 今の岸田の立ち位置は、安倍派あるいは麻生派の意向に耳を傾けずしては成り立たない状況です。国民の声を聴こうと思えば安倍と麻生に逆らうことになる。安倍麻生の言うことを聞けば国民の声を聞くことができない。こういうジレンマの中で右往左往しているのが岸田政権なのです。いま、国民はこんな岸田を見限りつつあるのだと言わざるを得ません。

 参院選後の岸田政権は、国政選挙のない3年間を得たことになります。これを、「黄金の3年間」として、自由度の高い政治が可能だ。憲法改正も進展するだろう。などとささやかれていました。しかし、実のところ、もう泥沼の3年に足をすくわれ始めています。

 唐突な国葬の発案もおかしかったし、原発再稼働容認も、老朽化原発容認もおかしい。そして、軍事費倍増だという。安倍派、麻生派の声にだけ聞く力を発揮しないで、国民の声に耳を傾けていただきたい。でなくては、いつまでも支持率低迷が続くことになりますぞ。岸田さん。

スポーツの日に思い起こす、1964東京オリンピックの頃。

(2022年10月10日)
 天候は忖度しない。爽やかな秋空がひろがる今日ではなく、雨模様のどんよりした、「体育の日」改め「スポーツの日」。この祝日の起源は、1964年の東京オリンピック。当時私は大学2年生でアルバイトに明け暮れていた。オリンピック当日に雨が降ろうと雪が降ろうと、何の関心もなかった。

 私は典型的な苦学生だった。高校卒業以後、親から仕送りを受けたことはない。奨学金と学費免除制度と学寮があったから進学を決意し、生活費は全てアルバイトで稼いだ。贅沢とは無縁の生活。私の貧乏性は、当時の暮らしで身についたもの。

 若さとは大したもの。その当時に、辛いとも苦しいとも惨めとも思ったことはない。が、啄木の、「わが抱く思想はすべて金なきに因するごとし 秋の風吹く」という思いはまさしく、私のものでもある。

 本日、たまたま久しぶりの同窓会幹事会で当時の大学に足を運んだ。駒場寮のなくなったことはさびしい限りだが、キャンパス全体の風景はさして昔と変わらない。往時を思い出させるに十分である。

 あの東京オリンピック前には、土木工事のアルバイトに恵まれた。技術のない学生の日当も結構高かった。駒場構内の作業もあったことを記憶している。級友と一緒に、酒癖の悪い土方の親方の指示で働いたことなどを懐かしく思い出す。家庭教師と土方仕事。そして不定期な雑誌原稿のリライト。私にとっての割のよいアルバイトだった。

 今の学生の生活はどのようなものだろうか。親の経済力にかかわりなく、教育を受けることができるよう制度は進展しているのだろうか。機能しているのだろうか。

 ところで、長く10月10日は、「体育の日」だった。「国民の祝日に関する法律」では、その意義を「スポーツにしたしみ、健康な心身をつちかう」としていた。「東京オリンピック2020」以来、「体育の日」は「スポーツの日」となった。その意義も、若干変わった。「スポーツを楽しみ、他者を尊重する精神を培うとともに、健康で活力ある社会の実現を願う。」というのだ。なんとなく、そらぞらしい。

 「体育」には、軍国教育の臭いがつきまとう。「スポーツ」には商業主義と勝利至上主義が。社会に、スホーツ文化の成熟は未だしなのだ。だれもが、学びつつ、働きつつ、また老後にも、余裕をもって自分なりにスポーツを楽しむことができる文化の定着を願う。

 もう、私の人生には間に合いそうもないのだが。

小坪慎也行橋市議、ヘイトに重ねたスラップで二審判決も敗訴。

(2022年10月9日)
 昨日の赤旗に、「ヘイト告発二審も勝訴」「福岡高裁 共産市議『大きな意味』」という記事。この訴訟もスラップ。しかも、ヘイトが絡んだスラップ。スラップを棄却した裁判例に、また一つが付け加えられた。

 このスラップ訴訟、原告は小坪慎也というヘイト発言の常習者、福岡県行橋市の市議である。注目すべきは、その代理人が江頭節子。最近、この種ヘイト事件を専らにする弁護士。被告は行橋市と日本共産党の徳永克子市議の2者。請求は各被告それぞれに220万円の支払と謝罪広告掲載の要求。2019年12月の提訴で、一審・福岡地裁小倉支部判決が請求を棄却し、一昨日(10月7日)福岡高裁が控訴を棄却する判決を言い渡した。

 赤旗の報道は、「ヘイトスピーチを批判する市議会決議と議会報告で名誉を損なわれたとして福岡県行橋市議会の小坪慎也氏が日本共産党の徳永克子氏に220万円の損害賠償を求めている裁判の控訴審判決が7日福岡高裁でありました。梅本圭一郎裁判長は徳永市議が勝訴した一審判決を支持し、控訴を棄却しました」として、被告行橋市については何も言っていない。マッ、それでもいいか。間違いというわけではないし、読者の関心も徳永市議の勝敗にのみにある。

 赤旗の短い記事が、要領よく事実経過を整理している。

 「小坪市議は2016年の熊本地震の際インターネット記事で「『朝鮮人が井戸に毒を入れた』というデマが飛び交うことは仕方がない」などと発言。市には団体や個人からの多数の抗議が寄せられたほか、爆破予告の脅迫事件が起きました。市議会は、小坪市議に謝罪などを求める決議を可決し、徳永市議はその全文をインターネットの議会報告に掲載したものです。」

 そして、控訴審判決の内容を、これも短く、こう解説している。

 「二審判決は、徳永市議の議会報告は、『専ら公益を図るもの』で、その意見表明には『信じるにつき相当の理由がある』と改めて認定。小坪市議の反論を全て退けました。」

 名誉毀損言論の真実性を証明できれば違法性が阻却される。真実性を証明できなくても、相当性(真実と信じるについての相当の理由)があれば、過失を欠くものとして責任が阻却されることになる。どちらにせよ、請求は棄却となる。

 このスラップを起こした小坪慎也(行橋市議)は、レイシストとして著名な人物である。2016年4月の熊本地震直後に、産経の右翼オピニオンサイト「iRONNA」に、「『朝鮮人が井戸に毒』大騒ぎするネトウヨとブサヨどもに言いたい!」という表題の記事を掲載した。表題が品位を欠くだけでなく、記事もひどい。これによって、彼はヘイトスピーカーとして一躍有名人となったが、良識ある市民からは顰蹙を買い、批判の的となった。のみならず、行橋市に対する爆破予告の脅迫事件まで起こしたのだ。

 その記事の中で、彼は大要こう述べている。「『朝鮮人が井戸に毒を入れた』というデマが飛び交うことに対しては仕方がないという立場である。」「私は、災害時において外の人を恐れるのは仕方ないし、当然のことだと受け入れている。極限状況になればそうなることが自然だと考えるためだ。疑われるのは『外の人』である。もっとも身近な外の人が朝鮮人というだけだろう」。「治安に不安がある場合は、自警団も組むべきだろう。」「しかし、疑心暗鬼から罪なき者を処断する・リンチしてしまうリスクも存在する。そうはなって欲しくないが、災害発生時の極限状況ゆえ、どう転ぶかはわからない。」

 恐るべき人物の恐るべきヘイトスピーチ。こんなものを掲載した産経にも、大きな問題ありと言わねばならない。

 同年9月12日、行橋市議会は、「小坪慎也議員に対する決議」を採択した。評決は16対8、内容は以下のとおりである。

 「9月8日に、行橋市役所に脅迫の電話があった。この事により、市民に対し、また、市当局や議会においても多大な迷惑を及ぼした。この「脅迫事件」は決して許されるべきものではない。
 これは、小坪慎也議員が、平成28年4月に熊本地震が発生した際、差別的にとらえられるSNSでの意見発表を行った事を発端としている。
 公人である市議会議員は、住民を代表する立場にあり、議会外の活動であっても良識ある言動が求められるのは当然である。
 市民・国民に迷惑を及ぼすような意見の表明は、行橋市議会の信用が傷つけられたものといわざるを得ない。
 行橋市議会は、小坪慎也議員が品位を汚すことの無いよう、公人としての立場をわきまえる事を求めると共に、謝罪及び必要な行動を自ら行うことを求めるものである。
 以上、決議する。」

 小坪は、この決議に反発した。「本件爆破予告事件の原因は、原告の「SNSでの意見表明」ではなかった。にもかかわらず、本件決議案等は、本件爆破予告事件が起こるや否や、犯人が逮捕されもしないうちから、『小坪慎也議員が、平成28年4月に熊本地震が発生した際、差別的にとらえられるSNSでの意見発表を行った事を発端としている。』と事実を適示し、それを前提に、原告が市民・国民に迷惑を及ぼし行橋市議会の信用を傷つけたと決め付け、良識が無い、品位を汚すなどと非難したものである。」との言い分である。

 この決議の事実摘示が間違っている。徳永市議は、この間違った決議を提案し、成立させ、事後にはこれをインターネットサイトに掲載し、拡散もした、ことを違法として提訴した。2019年12月のこと。2022年3月17日、福岡地裁小倉支部は行橋市議ヘイト・スピーチ事件裁判について原告の請求を棄却する判決を言い渡している。「本件爆破予告事件の原因が、原告の「SNSでの意見表明」ではなかったにせよ、それが真実であると信じるについての相当な理由が認められるということである。

 小坪は、もう一度真摯に市議会決議を読み直さなくてはならない。「公人である市議会議員は、住民を代表する立場にあり、議会外の活動であっても良識ある言動が求められるのは当然である」。にもかかわらず小坪は、ヘイトに重ねて、スラップにまで及んで良識を放擲したのである。「品位を汚すことの無いよう、公人としての立場をわきまえるべきこと」が求められている。

昔軍隊、今体育部 ー その野蛮・その人権感覚の欠如

(2022年10月8日)
 毎日新聞「記者の目」が、いつも読み応え十分である。地方支局の記者が、それぞれの目による取材で、渾身の執筆をしている。ローカルな出来事が普遍的な問題を指摘していることがよく分かる。

 一昨日(10月6日)朝刊に、「聖カタリナ学園高野球部集団暴行 根本解決へ調査・説明尽くせ」という、松山支局斉藤朋恵記者の記事。伝えられた事実に驚きもし、さもありなんとも思う。そして、考えさせられる。

 記者はこう伝えている。

 「2021年春の選抜高校野球大会に出場した聖カタリナ学園高(松山市)の野球部の寮で、部員間の集団暴行が繰り返されていたことが今年7月、判明した。「指導」という名で行われた暴力の解決には、学校側が問題を直視して説明を尽くすことが不可欠だが、今の対応では改善に向かう兆しは見えない。

 発覚したのは、21年11月18日夜、1年の部員が部のルールで禁じられているスマートフォンの学校への持ち込みを理由に、寮の自室で複数の1、2年部員から馬乗りになって殴られるなどした事案(学年は当時)▽22年5月18日夕、1年の部員が寮内で1、2年部員計9人から呼び出され、バットやスパイクで殴られた事案――の2件。被害者はいずれも転校した。

 『痛すぎて抵抗もできなかった』。自宅で取材に応じた5月事案の被害者はこう絞り出した。殴る回数はスマートフォンのルーレットアプリで決められたという。延々と続く暴力は『サーキット』と称され、命の危険を感じた。すねには傷痕が残り、今も夜に突然目が覚めることがある。」

 「他の元部員らにも取材を重ねる度、暴行が常態化していた実態を突きつけられ、言葉を失った。ある元部員は、寮内で殴られた痕が残る部員を日常的に目にしたと話した。5月事案では「やらないとお前もやる」と先輩から言われた1年生や、暴行を指導者に報告しようとしたことがばれて殴られた元部員もいた。」

 記者は、こう驚いている。

 「私は『高校生がすることか』と驚いた。わずか1年半前、私は甲子園初出場が決まった同部に取材で通い、当時の部員たちのはつらつとした姿が印象に残っていただけに、信じがたい思いだった。」

 記者の驚きは、高校生の暴力行為の酷さだけにについてのものではない。表舞台での礼儀正しくはつらつとした球児たちの印象と、人目につかないところでの陰湿な傷害事件との落差への驚きである。だがこれは、甲子園出場水準の高校球児についての稀有な事例ではない。おそらくは野球に限らず、高校スホーツに蔓延する病弊である。

 彼らは、表舞台での「高校生らしさ」「爽やかなスポーツマンのあり方」の作法を教えられる。それは、メディアに向かっての演技であって、ホンモノではない。部活の中では新入生としていじめられ、上級生になれば新入生をいじめる文化のなかにどっぷり浸かっている。若くして、ダブルスタンダードの振る舞いを身につけるのだ。

 昔軍隊、今体育部である。旧軍に、新兵イジメの伝統があり、陸海軍共に独特のイジメの文化も発達した。これは、上意下達の規律の維持のためとして半ば公然と行われた。兵の人権が顧みられることはなく、兵には「上官の命令は天皇の命令」と思い込むことが強要され、命令一つで死地にも飛び込むことが求められた。その上官の命令の絶対性は暴力による恐怖をもって叩き込まれたのだ。

 軍事的合目的性からは、兵の自発性は不要、上官の意のままに手足となって動く兵が求められ、そのための訓練が積み重ねられ、見えないところでは暴力も重要な役割を担わされた。軍隊ほど、表と裏の落差激しい社会はない。

 日本の学校教育における体育は、兵士の育成を意識して導入され、軍隊のあり方を模したものとなった。その伝統は今なお脈々と生き続けている。教育の場に人権教育がなく、とりわけ体育関係に人権意識が希薄なのだ。

 記者は問題の背景を識者の指摘を引用して、こう考えている。

 「スポーツ倫理に詳しい友添秀則・日本学校体育研究連合会会長は『少子化で生徒募集に苦労する中、高校野球の宣伝効果は大きく、甲子園出場による学校の増収は億単位とも言われる。短期間で成果を求められる指導者側のプレッシャーも大きい。スポーツを学校の経営に生かす手段とすることを常態化させると、今回のような問題が起きかねない』と指摘する。」

 かつて強い軍隊を作るためには、上官の意のままに動く兵が必要と考えられた。いま、強いスポーツチームを作るには、監督の意のままに動く選手が必要と考えられているの。そのためには、体罰も必要、チーム内秩序の維持のためのイジメも黙認とされているのではないか。実は、企業もこの原理で動いている。

 そして記者は、こう怒っている。

 「学校の過度な期待を背負う野球部員たちは被害、加害の立場に関わらず被害者と言えるだろう。夢を抱いて親元を離れた高校生が身の危険にさらされ、問題発覚後も大人の都合で根本的な解決が図られていない現実に、強い憤りを感じる。学校は第三者委の委員を明らかにせず、調査結果の公表方針も明言していない。適切に調査し、批判を覚悟で結果を公表できなければ、野球部の再建はない。」

 この人権侵害の不正義に記者の批判は鋭い。ペンは剣よりも強い。がんばれ、毎日新聞松山支局・斉藤記者。

「日の丸・君が代」強制問題・セアート勧告報告

(2022年10月7日)
 弁護士の澤藤です。「障害者権利条約・第1回日本審査の報告集会」に発言の機会を与えていただき、ありがとうございます。

 私の報告は、公立学校での「国旗国歌(日の丸君が代)強制問題」についてのものです。障害者権利条約や性教育に関するものではありません。本日のメインテーマから外れた付録の発言。ですが、教育問題として、また国連の勧告を現場に生かそうという運動として密接に関連しています。

 この件についての国連から勧告は、ILOとユネスコが合同で作った専門家委員会・セアートの勧告を、ILOとユネスコがそれぞれ正式に採択したものです。1919年に最初の勧告が出ましたが、日本政府(文科省)に誠実に履行する態度がありません。このことをセアートに報告して、今年になって再勧告が出ています。

 実は、この再勧告の実施を求める2度目の対文科省交渉を先ほど終えたばかりです。障害者権利条約に関するこの報告集会が15時始まりですが、同じ参議院議員会館の別室で13時から、「『日の丸・君が代』ILO/ユネスコ勧告実施市民会議」と「アイム89東京教育労組」の合同申し入れでの交渉が行われました。

 一言でいえば、文科省の消極姿勢には失望せざるを得ません。本日の文科省交渉を通じての実感は、国連からの勧告をもらっただけでは、絵に描いた餅に過ぎないということ。本当に腹の足しになる食える餅にするためには、当事者を中心に、市民運動が起きなければならないということです。メディアや政治家の皆様にも汗をかいていただかなくてはなりません。

 石原都政下の都教委が悪名高き「10・23通達」を発出して以来、もうすぐ19年です。以来、「国旗に向かって起立し、国歌を斉唱せよ」という職務命令と闘い続けてきました。最初にこの問題を法的に考えたときに、こう思いました。

 あの旗と歌を、「国旗・国歌」とみれば、日本という国家の象徴であり、権力機構の象徴でもあります。主権在民の原則を掲げる今の時代に、主権者である国民に対して、国家の象徴である国旗国歌への敬意表明を強制できるはずはありません。

 憲法上なによりも大切なものは、個人の尊厳です。国家は、個人の人権擁護のために、主権者によって便宜作られたものに過ぎません。その国家が、主権者に対して、「国家を愛せよ」「国家に敬意を表明せよ」などと言えるはずはない。それは、倒錯であり、法の下克上でもあります。

 また、あの旗と歌を、「日の丸・君が代」とみれば、日本国憲法が意識的に排斥した大日本帝国憲法体制の象徴というほかはありません。天皇主権・国家主義・軍国主義・侵略主義・排外主義の歴史にまみれた旗と歌。侵略戦争と植民地支配のシンボルとしてあまりに深く馴染んでしまった旗と歌。これを受け入れがたいとすべきが真っ当な精神というべきで、日の丸・君が代への敬意表明を強制できるはずはありません。明らかに、憲法19条の思想・良心を蹂躙する暴挙ではないか。

 この件については、不起立に対する懲戒処分の取消を求めるかたちで多くの訴訟が重ねられ、多くの判決が出ています。結論を申しあげれば、残念ながら日の丸・君が代強制を違憲とする最高裁判決を勝ち取ることはできていません。しかし、何度不起立を重ねても、戒告はとかく、戒告を超える減給・停職は、重きに失する処分として違法で取り消されています。教員側も都教委側も勝ちきれていない状況が続いているのです。そのような膠着状態の中で、セアート勧告が出たのです。

 国連という世界の良識による、「教員の国旗国歌強制の拒否も、市民的不服従として許されるべきだ」「現場に混乱をもたらさない態様での思想・良心の自由は保護されなければならない」という勧告は、大いに私たちの闘いを励ますものとなっています。

 ご承知のとおり、安保理だけが国連ではありません。国連はいくつもの専門機関を擁して、多様な人権課題に精力的に取り組んでいます。労働分野では、ILO(国際労働機関)が世界標準の労働者の権利を確認し、その実現に大きな実績を上げてきました。また、おなじみのユネスコ(国際教育科学文化機関)が、教育分野で旺盛な活動を展開しています。

 その両機関の活動領域の重なるところ、労働問題でもあり教育問題でもある分野、あるいは教育労働者(教職員)に固有の問題については、ILOとユネスコの合同委員会が作られて、その権利擁護を担当しています。この合同委員会が「セアート(CEART)」です。日本語に置き換えると「ILO・ユネスコ教職員勧告適用合同専門家委員会」だそうです。名前が長ったらしく面倒なので、「セアート」と呼んでいます。

 2019年3月セアートは、その第13回会期で日本の教職員に対する「日の丸・君が代強制」問題を取りあげました。その最終報告書の結論として次の内容があります。

110.合同委員会(セアート)は、ILO理事会とユネスコ執行委員会が日本政府に対して次のことを促すよう勧告する。
(a) 愛国的な式典に関する規則に関して教員団体と対話する機会を設けること。このような対話は、そのような式典に関する教員の義務について合意することを目的とし、また国旗掲揚および国歌斉唱に参加したくない教員にも対応できるようなものとする。
(b) 消極的で混乱をもたらさない不服従の行為に対する懲罰を避ける目的で、懲戒手続について教員団体と対話する機会を設けること。

 「消極的で混乱をもたらさない不服従の行為に対する懲罰を避ける」べきだとするのが、最も重要な勧告のキモだと思います。その目的実現のために、「関係者は誠実に話し合え」と勧告しているのです。

 この勧告は、形式的には文科省に対して、実質的には都教委に対して発出されたものですが、文科省も都教委もほぼこれを無視しました。この国は、国連から人権後進国であることを指摘され是正の勧告を受けながら、これに誠実な対応をしようとしません。居直りと言おうか、開き直りというべきか。不誠実極まりないのです。人権を無視し国連を軽視すること、中国やロシア、北朝鮮並みではありませんか。実に情けない。

 日本の政府や都教委は、できることならこの勧告・再勧告を、「勧告に過ぎない。法的拘束力がない」として、無視しようとしてます。明らかに、自分たちの立場を弾劾する不都合な内容だからです。しかし、これが、世界標準なのです。誠実に対応しないことは、日本政府の恥の上塗りをすることになります。

 教職員側は、この日本政府の怠慢をセアートに報告。2021年10月第14期セアートは、あらためての再勧告案を採択。2022年6月、ILOとユネスコはこれを正式に承認しました。そのセアート再勧告の結論となる重要部分は次のようなものです。

173. 合同委員会は、ILO理事会とユネスコ執行委員会に対し、日本政府が以下のことを行うよう促すことを勧告する。
(a) 本申立に関して、意見の相違と1966年勧告の理解の相違を乗り越える目的で、必要に応じ政府および地方レベルで、教員団体との労使対話に資する環境を作る。
(b) 教員団体と協力し、本申立に関連する合同委員会の見解や勧告の日本語版を作成する。
(c) 本申立に関して1966年勧告の原則がどうしたら最大限に適用され促進されるか、この日本語版と併せ、適切な指導を地方当局と共有する。
(d) 懲戒のしくみや方針、および愛国的式典に関する規則に関する勧告を含め、本申立に関して合同委員会が行ったこれまでの勧告に十分に配慮する。
(e) 上に挙げたこれまでの勧告に関する努力を合同委員会に逐次知らせる。

 13期と14期の2期にわたる勧告となりました。日本の政府には誠実に対応する責務があります。

 どうやら私たちは、人権後進国に住んでいるのだと考えなければならない様子です。一人ひとりの思想・良心の自由よりは、愛国が大切だという、国家優先主義でもあるこの国。せめて、開き直らずに、誠実に国連機関が言う「国際基準」に耳を傾けていただきたいと思うのです。

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