(2022年9月26日)
しばらく、途絶えていた「憲法と落語」。大ネタの「らくだ」を取りあげるなら、安倍国葬を明日に控えた今日をおいてない。
この噺、元はと言えば上方ネタの「駱駝の葬礼」。これを、3代目柳家小さんが東京へ移したという。夏目漱石をして、「この人と同じ時代に生まれたことを好運と思う」と言わしめた、あの3代目小さん。噺のなかの焼場は大阪の千日前が落合に変わり、多少はアレンジされてアクが抜けたものの、基本は変わらない。初めは、「らくだの馬」とも題したそうだ。「馬」は、らくだの本名である。
この噺は、貧乏長屋でフグにあたって死んだらくだが見つかるところから始まる。生きたらくだは出てこない。出てくるのは、登場人物によって語られるらくだ生前の乱暴狼藉、悪行の数々。この生前の悪行を死後も責めて、葬儀だの香典などとんでもないとするのか、「あんなに乱暴ならくださんでも、死んでしまえば罪も報いもない仏」とする倫理観で宥すのか、それが噺のテーマになっている。
「安倍晋三の生前の悪行・失政は徹底して追及されねばならない。これに蓋をしようという国葬などとんでもない。最後まで撤回を求める」と筋を通して考えるべきか、あるいは、「安倍晋三生前の功罪をあげつらうよりは、国葬と決めた以上は非業の死を遂げた元首相を粛々と送るべきが良識ある社会人の態度ではないか」とするか。
安倍晋三とらくだ。その葬儀をめぐっての論争は、よく似た側面があり、また違う側面も見落としてはならない。
死んだらくだを最初に見つけたのは、らくだの兄貴分である。これが、葬儀を出し焼き場に運ぼうという義侠心を出し、たまたま来合わせた屑屋の久さんを脅してこれを使いっ走りにする。長屋から香典を集めさせ、大家には酒肴を用意させ、八百屋からは早桶代用の菜漬けの樽をもってこさせる。
この「葬儀準備」の過程で、らくだの死を喝采して喜ぶ人々も、半ばは後難を恐れ半ばは死者への接し方の倫理観から、極めて消極的ながらも葬儀には最小限の協力をする。噺の聞き手に興味深いのは、最初は脅されやむなく使いっ走りをしていた屑屋が、次第に興に乗って積極的に協力するようになっていく姿である。
さて、この図は安倍国葬とそっくりではないか。らくだを懇ろに葬ってやろうという兄貴分は、言うまでもなく安倍派の面々、あるいは安倍をトップとしてきた右翼の輩。いずれも強面の勢力である。これが、幾つかのルートで、屑屋の久こと岸田に働きかけた。岸田首相は、半ばは安倍派・右翼におもねり、半ばは自分のリーダーシップを誇示するチャンスと国葬を決し、押し進めた。
周囲は大いに迷惑である。長屋の連中も大家も八百屋も困惑したとおり、「政治を私物化した安倍晋三の国葬なんぞとんでもない」のだ。しかも、「非業の死を遂げた元首相」という形容は実態にそぐわず、安倍が癒着していた統一教会の怨みを被った自己責任と結論づけられつつある。
らくだは、市井の一乱暴者でしかない。周囲から疎まれてはいたがその罪は小さい。その葬儀も飽くまで私的なものに過ぎない。公金が出ることはない。これに比して、政治を私物化し、失政を重ねた安倍晋三の影響力は大きく、罪は深い。岸田も同罪である。
「らくだ」の噺は、庶民の死者に対する畏敬の念や葬儀についての礼儀の常識がベースとしてある。その社会的な良識を踏まえてなお、らくだの死をあからさまに歓迎する人々の遠慮ない言葉が、笑いを誘う。安倍国葬もどこか同じブラックユーモアを感じさせるようになってきている。
「らくだ」では、通夜のまねごとへの酒と肴を渋る大家に向かって、兄貴分がこう言って大家を脅す。「死骸のやり場に困っております。こちらに死骸を担ぎ込んでカンカンノウを踊らせてご覧にいれます」。
これは、らくだを安倍晋三に置き換えると示唆的である。「安倍晋三は亡くなりましたが、その影響力がなくなったわけではありません。安倍国葬への攻撃は、安倍の後ろ盾からの反撃あることを心していただきたい」ということなのだ。安倍派・右翼・統一教会一体となっての、カンカンノウである。
いま、安倍国葬積極推進の世論はほぼない。代わって目につくのは、「死者やその家族に対して失礼ではないか」「外国の要人を呼んでおきながらの国葬反対行動は、みっともない」「静粛であるべき葬儀の時に騒ぐのは、市民社会の常識に反する」と言う類いの国葬防衛論ばかり。
屑屋の久さんの声が聞こえる。
「生前は数々の罪を重ねた安倍晋三でも、死んでしまえば罪も報いもない仏さま。死んでしまった安倍晋三に手を合わせるのは当たり前、生前の安倍晋三に手向けをするのではない。だから、家族が粛々と行う葬儀に反対するのは非常識だろう。でも、国葬となれば話は別だ。国葬って、国民に生前の安倍の業績を認めろという強制じゃないのか。俺は、断固反対するね」
(2022年9月25日)
安倍国葬が明後日に迫っている。国家とは何か、政治とは何か、政治家とはいかにあるべきか、そして日本の保守政治の実態とはいかなるものであるのか。多くのものを見せつけ、多くのことを考えさせる、醜悪なイベント。
その安倍国葬をどう考え、どう対応すべきかを考える素材として、朝日新聞デジタルの《あの日の「国葬事件」と僕ら?北野高生の回想?第1回》が、実に面白い。「国葬で休校 反対して座りこんだ高校生たち 待っていた意外な結末」というタイトル。
あの日とは、1967年11月1日のこと。「吉田茂国葬」の翌日である。当時北野高校に在籍していた約20人が、集団で議論の末授業を無断で欠席、大阪府教育委員会に赴き「吉田茂国葬」に抗議したのだという。なんという、素晴らしい若者の自主性、そして褒むべき行動力。
彼らが手にした抗議文には、それぞれが調べた吉田茂に対する評価が盛り込まれていたという。「米英との戦争には反対したが、中国への侵略には積極派だった」「日米安保条約を結んだ一方、沖縄を米軍統治下にして犠牲にした」等々。
相反する評価が交錯する首相経験者に対し、国を挙げて功績をしのび、喪に服する。政治的に中立であるはずの学校が休みになる。そんな「国葬」に疑問を持たざるを得なかったのだ。
その抗議文をすぐには受け取ってもらえず、庁舎の玄関先で1時間ほど座り込んだ。このとき、異様さに気づいたマスコミが続々と集まってきて、期せずして彼らの行動は、報道されることとなった。
ようやく府教委の職員が現れ、抗議文を受け取ると、「係に渡します」とだけ言い残し、去っていった。あまりにあっさりとした対応に張り合いなく、生徒たちは学校に戻る道すがら、次第に心細くなったという。
朝日が、そのうちの一人を取材している。「みんな怖くなっていました。退学処分を心配して、仕事を探すとまで言う生徒もいました」 校則に違反する初めての抗議行動。無届けの集会、授業ボイコット、そして府教委への抗議…。はたして、どんな処分が待っているのか。
「学校に帰り着くと、ちょうど昼休みの時間帯だった。生徒たちがうつむき加減で校門を通ると、意外な光景が待ちうけていた。建物まで50メートルほど。在校の生徒たちがずらりと並び、拍手をして迎えてくれたのだ。列の中には、先生たちの姿もあった。「やりましたねー」と興奮気味に声をかけてくれる人もいた。みな、お昼のニュースで抗議の様子を知ったようだ。」
数日後、処分が言い渡された。保護者が学校に呼び出され、口頭での「注意」を受けるだけで済んだ。生徒たちから恐れられていた生活指導の先生の対応は穏やかだったという。「お越しいただき、ごくろうさまです」「生徒はいろんな体験をすることが大切ですね」と述べ、「注意」のたぐいは一切なかったという。学校にも、余裕があったのだ。
学校の歴史をつづった「北野百年史」によると、このときのことは「吉田茂国葬事件」として記述されているそうだ。そこには、生徒たちが許可なく集団欠席したことなどを重くみる一方、「当時の社会情勢としてこのような行動をする生徒の心理を単純な事件として取扱うことなく、学校全体として新しく考えていく出発点として受止めている」と、職員会議録の内容が紹介されているという。
今は、沖縄で印刷業を営むという、当時の高校3年生(74)は、当時の大人たちの寛容さを「若いときに望まない戦争に駆り出され、戦地で思い出したくないようなつらい体験をしていた」「彼らの世代にとって、国が特定の政治家をたたえ、国民に弔意を強制することに違和感があったんじゃないでしょうか」と述べている。
そして今、「様々な評価がある元首相を国を挙げて顕彰することへの違和感はぬぐえない」と言う。そのうえで、「高校3年のときの自分が、9月27日の安倍氏の国葬を迎えたら…」、と思いをめぐらせる。「やっぱり授業を休んで、何らかのかたちで反対の意思表示をしたと思います」と、記事は締めくくられている。爽やかな読後感。
あれから55年である。日本の民主主義はあのときよりも進歩しているのだろうか。退歩してしまったのだろうか。願わくは、今の若者もこうであって欲しいと思う。そして、学校も家庭も、このような若者の自主性や行動力に寛容であって欲しいとも思う。なによりも大切なのは、一人ひとり、ものを考え、行動する個人なのだから。
(2022年9月24日)
自民党の村上誠一郎(元行革相)が、安倍晋三を「国賊」と評して、自民党内での物議を醸している。安倍晋三は「国賊」なるや「国賊」にあらざるや、しばらく、党内論議から目を離せない。
私は、昔から「愛国心」という言葉になじめない。端的に言えば大キライだ。この言葉には、常に煽動の臭いがつきまとう。「愛国」とは「偏狭」と同義だと信じて疑わない。「真の愛国者」と言ってみても変わらない。「祖国」は、さらにいかがわしい。
「愛国」の裏返しである「売国」や、「非国民」にも虫酸が走る。「売国奴」「国賊」などという言葉を聞くだにアレルギー症状が出る。「愛国者」も「売国奴」も、常に差別と分断と紛争を伴って使用される。
しかし、私の好悪とは無関係に、「愛国」は褒め言葉となり、「売国」は悪罵として使われる。とりわけ、ナショナリストを気取る人物にとっては、「売国奴」「国賊」という言葉は最大級の侮辱となるようだ。だから、場合によっては効果絶大な言葉の武器にもなる。
それぞれの部分社会ごとに、特定の言葉が罵り言葉となる。安倍晋三は、質問に立っている野党議員に向かって、「キョーサントー」「ニッキョーソ」と野次を飛ばした。彼と彼が所属する特殊な部分社会においては、「共産党」も「日教組」も悪罵なのだ。なるほど、統一教会・勝共連合と気脈が通じるわけだ。
自民党内での「国賊」は、「キョーサントー」「ニッキョーソ」を上回る最大限の侮辱語彙なのだろう。味方陣営内での論争ではタブーと思われる。おそらくは、安倍晋三にとって「国賊」と面罵されることは、我慢のならないことに違いない。
硬骨漢として知られる自民党の村上誠一郎は、このタブーに頓着しなかった。20日安倍晋三を批判して国葬欠席を表明し、「財政、金融、外交をぼろぼろにし、官僚機構まで壊した。国賊だ」と述べた。「党本部で記者団の質問に答えた」ものと、時事通信が報じている。
安倍晋三の生前の業績を「財政・金融・外交・官僚機構」を「ぼろぼろにし壊した」という総括にではなく、「国賊だ」という一言に党内が反発し、あるいは反発して見せて、問題が生じている。
村上にしてみれば、安倍長期政権は、「内政・外交・政治姿勢」のあらゆる面で失政を重ね、日本という国のありかたを貶め、国力を低下させたのだ。一言でこれを総括する言葉として「国賊」がふさわしいと考えた。「安倍晋三の所業は国賊と言うに値する」との評価である。
亡き安倍晋三に代わって、安倍派内の議員が反応した。「絶対に許さない」「除名だ」などと激怒する声が広がっているという。安倍の跡目を争う面々が、声を上げざるを得ない。派閥幹部の萩生田光一(政調会長)と世耕弘成(参院幹事長)は、翌21日、村上が総務会メンバーであることから、遠藤利明総務会長に事実確認と「けじめ」を要求したという。また、萩生田は茂木敏充幹事長とも意見交換したとも報じられている。
国賊発言は「党員の品位を汚す行為」に当たる可能性があるとして、幹事長権限で「党役職停止」処分とし、村上氏を総務会メンバーから外す案が浮上している。安倍派内には、より重い処分を求めて「党紀委員会で処分を検討すべきだ」(閣僚経験者)との意見もあるそうだ。
ことは、自民党内の党内民主主義に関わる。正確に言えば、自民党の民主主義イメージに関わる。「自由」と「民主主義」を看板にする「国民政党」の、言論の自由度が問われている。村上発言が党によって圧殺されるとなれば、その程度の「自由」であり、「民主主義」かと言うことになる。
「国賊発言」を大ごとにすれば、世論の注目を集める。あらためて国民が、安倍長期政権の功罪を考えざるを得ない。今は、「安倍政治とは国葬に値するものであるか」というレベルで問われているが、次は、「安倍の所業は国賊と言うに値するものでないか」というレベルでの問いかけに回答が求められる。大ごとにすることを避けて無難に収めようとすれば、安倍派の面子をつぶすことにならざるをえない。さて、どうするか。どうなるか。興味津々というところ。
(2022年9月23日)
実は、と前置きするほどのことでもないが、私は「宗教二世」である。ものごころついて初めて字を覚え、分からぬながらも初めて文章を読んだのは、その宗教団体の「教典」だった。
私の父は、ある宗教の熱心な信者で、私が5歳のころにその教団の布教師となった。以来私は、高校を卒業するまで教団の中で育った。
私にとって好運だったのは、その教団がけっして排他的でも閉鎖的でもなく、私の父母も、私の進路を拘束しようとはしなかったこと。そして、小中学校は、教団施設から公立校に通ったこと。
それでも私はその宗教の色に深く染まった。何しろそれが世界の価値観の全てで、それ以外に拠るべき何物もないのだから。教団は穏やかで居心地のよい場所ではあったが、私が選び取った世界ではなかった。いつのころからか私は、自分にまとわりついた宗教色を拭い去って、教団からの脱出を夢みるようになった。
高校生のころには、教団の経営する学校の寮舎で、同じ境遇の友人と石炭ストーブにあたりながら、「俺たちに『信仰しない自由』ってないんだろうか」「親が子どもの信仰を決められるんだろうか」「将来の自分にとって信仰がどんな意味をもつのだろうか」などと話し合ったことを覚えている。おそらく、この問が宗教二世問題の原点なのだろう。
いま、統一教会問題をめぐって、宗教二世問題がクローズアップされている。
9月16日、全国霊感商法対策弁護士連絡が集会を開き、「旧統一教会の解散請求等を求める声明」を採択した。文科大臣への統一教会についての解散請求を求める内容を中心としながら、6項目の要求をまとめている。そのうちの第4項が、「二世問題」である。
https://www.stopreikan.com/seimei_iken/2022.09.16_seimei01.htm
厚生労働大臣、こども政策担当大臣及び各都道府県知事に対して、
(1)いわゆる「二世」と呼ばれるこどもが抱える問題について児童虐待と位置づけて、適切なこども施策を策定・実施されたい。
(2)その前提として、担当職員(特に児童相談所職員)に対し、専門家を招致して研修などを実施し、カルト団体の問題点及び「二世」が抱える問題点等についての知見を周知されたい。
と要求するものだが、その理由が具体的で詳細である。その中に、次の一節がある。
「二世は、両親を通して当該宗教団体から以下のような人権侵害を受けており、児童虐待防止法上の児童虐待に該当するものも含まれる。
? 生まれたときから両親の信仰を強制される(信教の自由の侵害)
? 婚姻前の恋愛の禁止(幸福追求権の侵害)、信者以外との結婚禁止(婚姻の自由の侵害)
? 学費負担拒否(教育を受ける権利の侵害)
? 服装、下着、体毛処理、外出等の生活の全てを管理(幸福追求権の侵害)
? 親の指示に従わない場合の鞭などによる体罰(身体的虐待)
? 親の指示に従わない場合の監禁、軟禁(身体的虐待)
? 布教を優先した育児放棄(ネグレクト)
? 「悪魔、死ね」等の暴言(著しい心理的外傷を与える言動)
? 体調不良時に病院への付添拒否(著しい心理的外傷を与える言動)
? 二世であることを理由にした差別、いじめ(第三者による人権侵害)」
私はこのうちの???までとは無縁だったが、「? 生まれたときから両親の信仰を強制される(信教の自由の侵害)」だけは、免れようのない宿命的課題として、対峙せざるを得なかった。
「声明」は、こう述べている。
「二世問題への対応の難しさは、?二世自身が自らの抱える問題を明確に自覚できていない、あるいは、自覚をしていても自らそれを外部に申告することができないこと、?両親に注意喚起、指導をしても、自らの行為は信仰に基づくものであり、間違っていないと信じ込んでいるため受け入れられず、むしろ、外部の介入が両親によるこどもに対する攻撃を増幅させる危険があることである」という。
上記?については、自分の体験として頷ける。?についての実体験はないが、その危険と恐怖の深刻さはよく分かる。
そのような難しさの中で、『二世の宗教選択の自由と、両親の信教の自由(あるいは、(親権者の子どもに対する教育の権能)との関係』をどう捉えるべきか。「声明」はこう語っている。
「我が国が批准している子どもの権利条約第14条は以下のように定めている。
1 締約国は、思想、良心及び宗教の自由についての児童の権利を尊重する。
2 締約国は、児童が1の権利を行使するに当たり、父母及び場合により法定保護者が児童に対しその発達しつつある能力に適合する方法で指示を与える権利及び義務を尊重する。
両親がこどもに宗教教育を行う自由は認められているが(憲法第20条1項、自由人権規約第18条4項)、それは「児童に対しその発達しつつある能力に適合する方法」によらなければならない。」
信仰をもつ親が、我が子にも同じ信仰をもってもらいたいとしての「宗教二世」の生産・再生産は、けっして親の信教の自由として無制限のものではない。なによりも、子どもの人格、人権の尊重を最優先とする制約に服さざるを得ない。
子どもは、親次第でどのようにも育つ。子どもの心情は白紙というにとどまらない。親の愛情の中で育つ子どもは、親の信仰を積極的に受容しようとする。マインドコントロールの環境としてはこれに過ぎるものはない。これが、私の体験的「二世問題」の基本視点である。
キーワードである「子どもの発達能力に適合する方法」の尊重は極めて大切な原則である。これを貫徹することの現実的な困難は明らかではあるが、困難であるからと放擲してはならない。全ての人に、あらゆる局面で、再確認し具体化する努力の持続が求められる。
おそらくは二世ではない一般信者の獲得においても、子どもについての信仰教化の環境設定が理想として追求されることになるだろう。つまりは、被勧誘者に対して不都合な関連情報をシャットアウトすることと、勧誘者に対して好意を喚起する工夫を施すことである。こうして、「適合性を欠如した」信仰の伝道・教化の成功に結実する。
なお、私がかつて教団で学んで今につながることもある。教団経営の高校授業には、週一回の「宗教の時間」があった。そこで教団の幹部から、戦前の教団弾圧の際の体験を生々しく聞かされた。このとき培われた権力を憎む心情は今も変わらない。
(2022年9月21日)
ボクが、ウラディーミル。シンゾーの親友さ。お互い、ファーストネームで呼び合って、「一緒に駆けて駆けて駆け抜けよう」なんて臭いセリフを言い合う仲。似た者どうし、うんと気が合ったんだよ。驚いたなあ、そのシンゾーが死んじゃったんだ。
だから、葬儀には駆けつけなければならないんだけど、招待もしてくれない。ボクが悪いんじゃない。日本が悪い、岸田のせいだ。
葬儀と言えば、英国女王の国葬もそうだ。どうしてボクには招待状が来ないんだ。面白くない。イギリスが悪い。エリザベスのせいだ。
日本にもイギリスにも、いや世界中に、ウクライナへの特別軍事作戦を始めたボクが、何かすごく悪いことをしているように言う人が多い。でも、悪いのはボクじゃない。みんなウクライナが悪い、ゼレンスキーのせいだ。だって、ウクライナはNATOに加盟しようとしていたんだよ。NATOの東方拡大なんて許せるはずがない。
「実はウクライナはNATOには加盟しないことになった。だからウクライナ軍事侵攻の必要はない」という側近からの進言を、ことさらにボクが無視したなんて報道もある。でも、ボクに都合の悪い報道は全部デマだよ。悪いのはボクじゃない。メディアが悪い、でなければ側近のせいだ。
「反転攻勢」って言葉は不愉快だ。耳に痛いんだよ。いま、ウクライナの戦況は最悪だけど、ボクが悪いんじゃない。アメリカの軍事支援のせいだ。バイデンが悪い。ウクライナがNATOに加盟していたら、どんなことになっていたかよく分かるだろう。ウクライナ侵攻の正当性が証明されたように思うんだけど、違うかな。
もちろん、ハルキウでの敗北は痛い。特別軍事作戦の開始自体に対する疑問は国内からも噴き出している。だけど、これは参謀本部の責任さ。だって、作戦の進め方は総て参謀本部が決めているんだ。だから、ボクが悪いんじゃない。ボクのせいじゃない。
こんな事態だから、サマルカンドまで足を運んで上海協力機構(SCO)首脳会議に出席した。習近平には軍事援助を期待したんだけれど、あいつニベもない態度。困ったときの友が真の友というだろう。あいつは真の友じゃないことがよく分かった。悪いのはボクじゃない。中国が悪い、習のせいだ。あ?あ、お世辞上手が取り柄だったシンゾーが懐かしい。
サマルカンドでは、モディとも話しをしたが、あいつも実に不愉快だ。無神経に、このボクに「今は戦争のときではない」と、ウクライナとの早期停戦を要求する発言。いったいあれが、友好国首脳が公の場でいうことかね。ボクに恥をかかせようというのだろうか。しょうがないから、こう言っておいた。
「私たちは全てをできるだけ早く終わらせたいと思っているが、ウクライナ側が交渉を拒否している」。そう、常に一方的に悪いのがウクライナ。戦争が長引いているのもウクライナのせい。ボクは、いつも、ちっとも悪くないんだ。
頭の痛いのは、ロシア国内で公然と、ボクに向けた批判の動きが芽生えて、拡がり始めていること。サンクトペテルブルクとモスクワの区議会では今月中旬以降、ボクの辞任を求める請願運動が展開され始めた。賛同する区議が90人近いとも言うんだ。メディアでも、ボクを批判する論調が拡がりつつある。
ボクのせいじゃないけど、このままだと戦況の好転は難しい。武器も兵員も不足なんだ。しょうがないから、予備役30万人を召集することにした。国内世論が反戦に傾くんじゃないかと心配だけど、背に腹は代えられない。こんなことになったのも、ぼくが悪いんじゃない。みんな参謀本部のせいだ。アメリカとゼレンスキーのせいだ。
とうとう、ロシア全土で抗議デモだ。38都市で1400人を超える市民を逮捕したが、これでおさまるはずはない。特にモスクワとサンクトペテルブルクではそれぞれ500人を超える市民を分散留置している。たいへんなことになった。みんなみんな、無能な部下のせいだ。
このままでは、ジリ貧のスパイラル。奥の手を考えなければならない。最近は奥の手って言っても、みんな恐がらないし、恐れ入りもしなくなったけど。奥の手はたくさんあるぞ。まずは、ウクライナ4州の実効支配地域をロシアに編入する住民投票は前倒しでやる。政敵を消すための毒殺だつてあるぞ。全面戦争だってやるぞ、原発攻撃だって遠慮しない。そして、戦術核兵器の使用だって本気になればやるんだ。ハッタリじゃないぞ。敵国を撹乱して偽情報や裏資金を注ぎ込む「裏工作」もある。ボクKGBの出身なんだもの。得意技は使わなくちゃあ。
どう? 恐いでしょう。えっ? たいして恐くない? もう戦争を始めちゃった以上、恐いなんて言ってられないって? それは困った。それって、いったいだれのせい? だれが悪いんだろう?
(2022年9月21日)
本日が水曜日。来週火曜日(27日)の安倍国葬まで1週間を切った。この時点で、国葬反対の声はますます高く、国葬中止を求める意見の表明は引きも切らない。
安倍国葬を支持するのは、アベトモとして甘い汁を吸った連中、岩盤支持層と言われた右翼勢力、統一教会シンパ。これに「自分は国葬賛成というわけではないが、国葬が実施される以上は敢えて反対するのは礼を失する」とのたまう、どこにでもいる「良識派ぶった体制派」。それに加えて、教祖安倍をどこまでも信奉する信者たち。安倍晋三を「日本の宝」と言ってのけた櫻井よしこのごときがその典型。おそらくは、安倍国葬反対の世の動向を、法難と受けとめているのだ。
自民党の村上誠一郎(元行革相)が、朝日の取材に、「(国葬は)そもそも反対だ。出席したら(国葬実施の)問題点を容認することになるため、辞退する」と明言したという。「安倍氏の業績が国葬に値するか定かではない」「国民の半数以上が反対している以上、国葬を強行したら国民の分断を助長する」「こうしたことを自民党内で言う人がいないこと自体がおかしなこと」とも語っている。その、筋を通す姿勢に感嘆せざるを得ない。
これに対照的なのが、立憲の野田佳彦。野田は、「私も執行部と考え方は同じ。(政府は)国会を絡めず独善的に決めてしまった。これでいいのかとの気持ちはある」と一応は言うのだ。そのうえで、「元首相が元首相の葬儀に出ないのは、私の人生観からは外れる。花を手向けてお別れする」と出席する意向。
言ってることがなんだかおかしい。《国葬是か非か》を問題にしているときに、私的な弔意に問題をすり替えているのだ。野田は、増上寺の家族葬には参加しなかったのだろうか。国葬に出席しなければ安倍への追悼ができないとでも考えているのだろうか。個人的に弔問して追悼すればよかろうし、国葬には出席せず国民の一人として献花台に花を手向けるというお別れのしかたもあろう。
原口一博(立憲・元総務相)が、ツイッターで野田発言を「人生観よりも法と正義が優先する。個人を優先するなど私にはできない」と批判すると、読売が読売らしく、《立民議員、国葬出席の同僚らを相次ぎ非難…》と報じた。自民党幹部の「『弔意を示すな』と強制するのもおかしい」とのコメントを報じている。
しかし、原口ツィッターは、野田の『弔意を示す自由』をいささかも侵害していない。野田は元首相としての仲間意識を大切に、存分に「私の人生観」のとおり安倍に弔意を示せばよい。ツィッターでも、記者会見でも、雑誌記事でも、駅頭演説でも…。そのことを妨害する者はない。問題は飽くまで、「国葬是か非か」なのである。国葬でなければ弔意を表すことができないはずはない。この論点を誤魔化してはならない。
最も批判さるべきは、連合会長の芳野友子の国葬出席表明である。この人、記者会見で「苦渋の判断だが出席せざるを得ない」と言ったという。「苦渋の判断」というのは、どう苦汁したのかさっぱり分からない。「出席せざるを得ない」という結論はなおさらである。
忖度するに、「わたしは、労働者の闘う力など信じちゃいない。労働条件改善は政府に擦り寄ってお願いするしかないんだから、政府から国葬出席を要請されれば、喜んで応じるしかないでしょ」「政府と対決したら、取れるものも取れない。安倍の時代と同様に、上手に付き合うしかないものね」「政府と親密に付き合っていれば、わたしの立場もぬくぬくと安泰でいられるはず」「わたしは、共産党と闘うことを使命としてる。共産党が国葬欠席と言った以上は、私の国葬欠席はあり得ない」「国民は出席と言い、立憲は欠席という。どちらをとっても『苦汁の判断』と言ってみせるしかないでしょ」「中央執行委員会では国葬への批判続出で、『欠席してほしい』と求める声が相次いだのは事実。だけど、出席という結論ありきなんだから、反対意見を押し切ることが『苦汁』だったわけ」
各地の弁護士会が反対声明を出している。本日は沖縄弁護士会の会長声明が出た。各地の自治体の長の国葬参加の公費支出差し止めを求める住民監査請求も各地でなされている。この勢いは止まらない。
注目すべきは、地方議会での国葬反対意見書の採択である。本日夕刻の時点で、「毎日新聞の集計では、少なくとも12市町村の議会が国葬中止や撤回を求める意見書や決議を可決している。」「その他、国葬の根拠となる法整備を求める意見書(長野県伊那市議会)や国会での徹底審議や弔意を強要しないことを求める意見書(北海道日高町議会)なども可決されている」という。
最初の決議は神奈川県葉山町だった。9月6日のこと。意見書は共産党町議が提出。議長を除く13人中、共産、立憲民主、無所属などの計8人が賛成した。意見書では「国葬実施は、安倍元首相の政治的立場を国家として全面的に公認・賛美することになる」「国民に対し、弔意を事実上強制することにつながる」と指摘しているという。
次いで、8日鳥取県南西部にある日南町議会が、元首相の国葬中止を求める決議案を可決。驚くべきことに全会一致である。以後、9日に小金井市、12日に鎌倉市議会が続いた。さらに、15日高知県大月町議会。ここも、自民・公明を含む議員10名の全会一致。16日には国立市。長野県では本日(21日)までに、大鹿村、南箕輪村、長和町、坂城町、箕輪町の5町村で可決している。
鎌倉市議会の例を見ると、議長を除く25人の議員のうち、中間派8人が「好意的な退席」となり、共産党、神奈川ネットワーク運動・鎌倉、鎌倉かわせみクラブなど計12人が賛成。反対にまわった公明党、自民党の5人が孤立した。現在の国民意識をよく反映しているのではないか。
安倍国葬が目前のいま、世論の動向如何にかかわらず、国葬実施に突き進むしかないというのが、政府・与党の態度。これは、政府が国葬撤回の機会を失したと見るべきであろう。国葬の実施は政権に大きな傷を残すだろうからだ。政治状況は、けっして「黄金の3年間」を許さぬものとなる模様である。
(2022年9月20日)
奴隷は、いかに苛酷に扱われようとも奴隷主に反抗することは許されない。やむなく、奴隷主への抵抗をあきらめ、むしろ迎合の心性を獲得せざるを得ない。これを《奴隷根性》と呼ぶ。悲しい立場ゆえの、悲しい性である。
だが、《奴隷根性》は奴隷主への消極的な無抵抗や迎合にとどまらない。奴隷が奴隷主に積極的に服従するようにもなる。奴隷を酷使して作りあげた奴隷主の富や文化を、奴隷が誇りにさえ思うようにもなる。奴隷が、奴隷主を心から尊敬し愛するという倒錯さえ生じる。《奴隷根性》恐るべしである。
臣民が君主に積極的に服従する精神構造を《臣民根性》と呼ぶ。臣民が、その収奪者であり支配者である君主への忠誠を倫理とし、忠誠を競い合い、誇るのである。《奴隷根性》と同様の倒錯というしかない。君主たる王や皇帝や天皇に支配の実力が備わっていた時代には、《臣民根性》は《奴隷根性》と同義・同種のものであった。これも悲しい性というしかない。
しかし、君主の統治権が剥奪され、人民が主権者になった今になお、遺物・遺風として存在する《臣民根性》は、嗤うべき対象というしかない。その恥ずべき典型が、英国と日本とにあるようだ。
いや、《臣民根性》は単に嗤うべき存在にとどまらない。主権者意識と鋭く対立するものとして、対決し克服すべきものと言わねばならない。にもかかわらず、《臣民根性》は意図的に再生産されて、今日なお肥大化しつつある。
《奴隷根性》と根を同じくする《臣民根性》は、抵抗や自己主張と対極の心根である。権威主義になじむ精神構造であり、不合理な旧秩序を受容し、社会の多数や体制に迎合する心性でもある。《臣民根性》は主権者意識を眠らせ、体制への抵抗の精神とは敵対する。
だからこそ、《臣民根性》は体制派が歓迎する心情であり、全体主義になじむ心情でもある。忌むべき愛国心の基盤ともなり、国家や権力や政党や資本の支配に従順な御しやすい人物を作る。
昨日、ロンドンで行われたという英国女王の国葬。《臣民根性》再生産を意図した大規模イベントというほかはない。直前の報道の見出しが、「英女王国葬、各国要人約500人参列へ」「一般弔問は最長24時間待ち」となっていた。この見出しの二文は、まったく別の意味合いをもっている。
英女王国葬に参列する「各国要人500人」は、《臣民根性》涵養によって受益する支配者の側の階層である。一方、最長24時間も待たされる「一般弔問者」は《臣民根性》を深く植え付けられた憐れむべき被治者なのだ。この一般弔問者が75万人にも及ぶという。日本でも繰り返されたところではあるが、遅れた国の恥ずべき光景というしかない。
安倍国葬には一顧だにしなかったバイデンやマクロンが、女王の国葬に出かけるのは、それぞれの国の《臣民根性》涵養のために、英女王の国葬参加がはるかに効率的で、支配の秩序の確立に有益との思いゆえである。《臣民根性》恐るべしなのだ。
(2022年9月19日)
大型台風が九州を襲って天候は不穏だが、毎日新聞朝刊の一面トップからは爽やかな風。同紙世論調査結果報道の見出しの付け方がよい。
「内閣支持続落29%」「旧統一教会対応『評価せず』72%」「国葬『反対』62%」
この調査と報道に、国民の関心事である3テーマが凝縮されている。《安倍国葬強行》、《統一教会対応の不徹底》、それゆえの《国民の政権不信》である。岸田政権の《安倍国葬》実施決定と強行を機に、自民党(とりわけ安倍周辺)と《統一教会》との癒着の旧悪が暴かれ、これに対する政府・与党の対応の不手際、不徹底が《国民の政権不信》となって「内閣支持率3割を割る」数字となって表れている。しかも、「続落」である。
毎日の今回調査は、9月17・18日。前回調査は8月20・21日だった。なお、前々回は7月16・17の両日。この間の世論の変動は衝撃的ですらある。
岸田内閣の支持率 29% (前回比7%減、前々回比23%減)
同 不支持率 64% (前回比10%増、前々回比24%増)
自民党支持率 23% (前回比6%減、前々回比11%減)
旧統一教会の問題を巡る岸田政権の対応を
「評価する」 12%
「評価しない」 72%
「どちらとも言えない」 16%
自民党が実施した旧統一教会と党所属議員との関係の調査が
「十分だ」 14%
「不十分だ」 76%
自民党は安倍氏と旧統一教会との関係についても
「調査すべきだ」 68%
「調査する必要はない」 24%
安倍氏の国葬「反対」 62%(前回比9%増)
「賛成」 27%(前回比3%減)
この調査結果に関連した、毎日2面の記事が興味深い。「政権『耐えるしかない』」「支持率29%、危険水域に」というタイトル。政権・与党は、なすすべなくお手上げというのだ。
「内閣支持率は「危険水域」とされる20%台まで落ち込んだ。自民党の国会議員と世界平和統一家庭連合(旧統一教会)との根深い関係が相次いで判明したことや、安倍晋三元首相の国葬への反対論が強いことが影響したとみられる。政府・与党は危機感を強めるが政権浮揚への特効薬はなく、『今は耐え忍ぶしかない』といった声が相次いだ。」
毎日だけではない。共同通信世論調査は、「内閣支持急落、最低の40% 不支持46%、初めて逆転」と伝えられている。これも、インパクトのある調査結果。
「共同通信社が(9月)17、18両日に実施した全国電話世論調査によると、岸田文雄内閣の支持率は40・2%で8月10、11両日の前回調査から13・9ポイント急落し、昨年10月の内閣発足以降最低となった。不支持率は岸田内閣として最も高い46・5%となり、支持率を初めて逆転した。安倍晋三元首相の国葬に「反対」「どちらかといえば反対」が計60・8%を占め、「賛成」「どちらかといえば賛成」の計38・5%を上回った。」
「自民党が世界平和統一家庭連合(旧統一教会)と党所属議員の関係を公表した調査をめぐり、自民党の対応が「十分ではない」との回答は80・1%で、「十分だ」16・1%を大きく上回った。自民党と旧統一教会との関係について「関係を断つことができない」と思うとの回答が77・6%に上った。」
日本経済新聞社とテレビ東京の16?18日世論調査の結果も発表されている。「岸田内閣支持、最低の43% 旧統一教会調査『不十分』79%」
「岸田文雄内閣の支持率は43%で8月調査(57%)から14ポイント低下した。2021年10月の政権発足後で最低となった。内閣を「支持しない」と答えた割合は49%だった」
各報道機関の調査のうち、安倍国葬に《「賛成」「評価する」》対《「反対」「評価しない」》の割合はは以下のとおりである。
時事通信 25.3% 対 51.9%、
朝日新聞 38% 対 56%
NHK 32% 対 57%
共同通信 39% 対 61%
毎日新聞 27% 対 62%
いずれも「反対」が大きく上回り、国民の過半が反対していることが明らかである。この点について、NHKが、次のように解説をしている。
「NHKに限らず他社の調査でも、(国葬に)肯定的評価を否定的評価が上回り、しかもその差が開いていく傾向が顕著です。安倍元首相の国葬に対する世論は、「賛否拮抗」「二分」から「反対(ないしは否定的評価)多数」に変わっています。」
「さらに興味深いのは18?39歳の若い世代の動向です。
NHKの今回(9月)の調査では、18?39歳では「評価する」43%に対し、「評価しない」47%と、否定的な回答が上回っています。8月の調査では、「評価する」53%、「評価しない」30%と、「評価する」が23ポイントも上回っていました。1カ月の間に、「評価する」は10ポイント減り、「評価しない」が17ポイントも増えるという急激な変化が起きています。」「これですべての世代で「評価しない」が「する」を上回ることになりました。」
岸田による安倍国葬決定と強行がもたらした世論の変化。こんなにも、世論が急激に変化することは珍しいのではないか。
国民意識は「豚に真珠、安倍に国葬」ではと呟いたら、とたんに異議が出た。「それじゃ、国葬がとても立派なことみたいじゃないの」。なるほど。では、「目くそと耳くそ、安倍と国葬」と言い直したら、「品がない」と却下。面白くはないが、「臭い物に蓋、安倍の所業に国葬」ということで、了解となった。
(2022年9月18日)
20年前の日朝平壌宣言の記憶は、今も鮮やかである。私は、小泉純一郎という人物は大嫌いだったが、ピョンヤンに出向いてのこの宣言の発表には、見事なものと感嘆した。以来、この舞台回しをした田中均という外務官僚を尊敬している。
これで日本の戦後処理は終わる…、拉致問題も解決する…かに見えた。が、残念ながら無用な問題がこじれて、そうはならなかった。その責任の大半は、安倍晋三にある。
しかし、平壌宣言自体が消滅したわけではない。両国とも、宣言に盛り込まれた合意が進展しないのは相手国の責任だと繰り返してきた。宣言を基礎に、両国の関係を正常化することは夢物語ではない。
外務省のホームページで宣言を再確認しておこう。
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小泉純一郎日本国総理大臣と金正日朝鮮民主主義人民共和国国防委員長は、2002年9月17日、平壌で出会い会談を行った。
両首脳は、日朝間の不幸な過去を清算し、懸案事項を解決し、実りある政治、経済、文化的関係を樹立することが、双方の基本利益に合致するとともに、地域の平和と安定に大きく寄与するものとなるとの共通の認識を確認した。
1.双方は、この宣言に示された精神及び基本原則に従い、国交正常化を早期に実現させるため、あらゆる努力を傾注することとし、そのために2002年10月中に日朝国交正常化交渉を再開することとした。
双方は、相互の信頼関係に基づき、国交正常化の実現に至る過程においても、日朝間に存在する諸問題に誠意をもって取り組む強い決意を表明した。
2.日本側は、過去の植民地支配によって、朝鮮の人々に多大の損害と苦痛を与えたという歴史の事実を謙虚に受け止め、痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明した。
双方は、日本側が朝鮮民主主義人民共和国側に対して、国交正常化の後、双方が適切と考える期間にわたり、無償資金協力、低金利の長期借款供与及び国際機関を通じた人道主義的支援等の経済協力を実施し、また、民間経済活動を支援する見地から国際協力銀行等による融資、信用供与等が実施されることが、この宣言の精神に合致するとの基本認識の下、国交正常化交渉において、経済協力の具体的な規模と内容を誠実に協議することとした。
双方は、国交正常化を実現するにあたっては、1945年8月15日以前に生じた事由に基づく両国及びその国民のすべての財産及び請求権を相互に放棄するとの基本原則に従い、国交正常化交渉においてこれを具体的に協議することとした。
双方は、在日朝鮮人の地位に関する問題及び文化財の問題については、国交正常化交渉において誠実に協議することとした。
3.双方は、国際法を遵守し、互いの安全を脅かす行動をとらないことを確認した。また、日本国民の生命と安全にかかわる懸案問題については、朝鮮民主主義人民共和国側は、日朝が不正常な関係にある中で生じたこのような遺憾な問題が今後再び生じることがないよう適切な措置をとることを確認した。
4.双方は、北東アジア地域の平和と安定を維持、強化するため、互いに協力していくことを確認した。
双方は、この地域の関係各国の間に、相互の信頼に基づく協力関係が構築されることの重要性を確認するとともに、この地域の関係国間の関係が正常化されるにつれ、地域の信頼醸成を図るための枠組みを整備していくことが重要であるとの認識を一にした。
双方は、朝鮮半島の核問題の包括的な解決のため、関連するすべての国際的合意を遵守することを確認した。また、双方は、核問題及びミサイル問題を含む安全保障上の諸問題に関し、関係諸国間の対話を促進し、問題解決を図ることの必要性を確認した。
朝鮮民主主義人民共和国側は、この宣言の精神に従い、ミサイル発射のモラトリアムを2003年以降も更に延長していく意向を表明した。
双方は、安全保障にかかわる問題について協議を行っていくこととした。
日本国総理大臣 小泉 純一郎
朝鮮民主主義人民共和国 国防委員会委員長 金 正 日
2002年9月17日 平壌
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昨日(9月17日)、時事通信が「日朝、状況整えば交渉可能性」との記事を配信している。要旨以下の通り。
「2002年9月の初の日朝首脳会談から17日で20年になるが、米国との対立姿勢を鮮明にし、核開発にまい進する北朝鮮にとって、日本への関心は薄まったかにも見える。
今後、日朝関係進展の可能性はあるのか。専門家は、状況が整えば北朝鮮が交渉に乗り出す可能性があると指摘する。
南山大の平岩俊司教授(現代朝鮮論)は「核・ミサイルに関しては米国を交渉相手と見ている」と語る。一方、「その他の国は、有利に使えるなら使おうとしている」とも分析。02年の首脳会談で発表された日朝平壌宣言には、過去の清算として国交正常化後の経済協力が盛り込まれており、平岩教授は「北朝鮮が頭を下げなくてももらえるお金」と解説する。「(核問題の進展など)一定の条件が整えば、日本との交渉に応じるだろう」とみる。
日朝関係に詳しい津田塾大の朴正鎮教授は、「米朝関係が途絶え、南北関係が動かない場合に、日本という存在が浮上する可能性がある」「北朝鮮はやりやすい問題から手を付けて、日本側の国交正常化への本気度を探りたいのだろう」と読み解く。
また朴教授は、北朝鮮がストックホルム合意後の16年に外務省傘下の日本研究所を設立したことについて「今後の日朝関係に向けた体制を準備しているかにも見える」と説明。「発する言葉は厳しいが準備はしている」と述べ、日本側の出方次第では交渉に応じる余地があるとの見解を示した。」
平壌宣言の際には、なるほど外交とはこういうものかと思った。鮮やかな互譲である。植民地支配の反省も、拉致問題への謝罪も、お互い言いにくいことがセットになって表現されており、そこを乗り越えて共に実利を獲得している。
いかなる周辺諸国とも、無用な軍拡競争はまっぴらご免だ。北朝鮮とも中国とも、平和への外交努力を積み重ねるしか道はない。岸田政権には、20年前の日朝平壌宣言を再び思い起こして、平和への努力と、拉致問題の解決に意を尽くしていただきたい。
(2022年9月17日)
本日の赤旗、トップ記事の見出しが「法に基づく解散命令を」「統一協会 霊感商法対策弁連が声明」となっている。要旨次のとおり。
「統一協会(赤旗はこう表記する)による被害救済に取り組んできた全国霊感商法対策弁護士連絡会が(9月)16日全国集会を開き、オンラインと合わせて約200人が参加した。被害の実態や協会と政治との関係、被害撲滅に向けた規制の在り方などについて意見を交わし、教団に被害信者への謝罪と損害賠償を求めた上で、宗教法人法に基づく解散命令の請求を行政に求める声明を採択した。」
「冒頭で代表世話人の山口広弁護士は『統一協会は単なる宗教団体ではない。資金づくりを担う事業部門や、各国の政権に何が何でも食い込もうとアプローチする政治部門、新聞などで主張を発信する部門などを添えた複合体だ』と指摘。」
「同じく代表世話人の郷路征記弁護士がオンラインで、協会が続けてきた伝道・勧誘の問題点を解説。『宗教団体の伝道であることを隠したまま「先祖の因縁」などで恐怖感・不安感をあおる。身近な人に相談もさせず、「やめる自由」を事実上なくして信仰させてしまう。信仰の自由を侵害している』と指摘した。」
この弁連の活動には、深い敬意を表したい。
同じ赤旗1面に、「『安倍元首相忘れない』 韓国の統一協会が声明」という記事がある。韓国の統一協会が、安倍晋三の死去に関し、「平和運動を推進しながら、不意の死をとげた安倍晋三元首相に対して深い哀悼の意を表します。朝鮮半島の統一と世界平和のビジョンを提示し、前・現職首脳と共にその意志を表明した安倍元首相の崇高なる犠牲を家庭連合は絶対に忘れません」と、韓国の主要日刊紙に全面広告したのだという。
その統一教会の声明のなかで、「全国霊感商法対策弁護士連絡会を特定の政治的意図をもった団体だと事実無根の攻撃をしました」と赤旗が紹介している。統一教会、大いに弁連憎しなのだ。それにしても、「特定の政治的意図」とはいったい何のことだろうか。自民党に不利になる活動を、すべからく「特定の政治的意図」によるものと攻撃したいのであろう。
弁連には、最大限に司法を活用して被害を救済し、さらに被害の根絶に向けた活動を期待したい。
統一教会による被害を根絶するための最大の手段が、宗教法人法81条の「解散命令」である。これが本日の赤旗記事の見出しになっている。「解散命令」とは宗教法人法上の法人格を剥奪すること。そのことによって宗教団体としての統一教会が消滅するわけでも宗教活動ができなくなるわけでもない。しかし、統一教会は所有権主体とも取引主体ともなれなくなる。「解散命令」には、財産関係の清算手続が続くことになる。そして、宗教法人に与えられている税法上の優遇措置を失うことにもなる。影響は死活的に大きい。
宗教法人法81条1項(解散命令)を確認しておこう。
「裁判所は、宗教法人について左の各号の一(ひとつ、の意味)に該当する事由があると認めたときは、所轄庁、利害関係人若しくは検察官の請求により又は職権で、その解散を命ずることができる。
一 法令に違反して、著しく公共の福祉を害すると明らかに認められる行為をしたこと。
二 第二条に規定する宗教団体の目的(注・宗教の教義をひろめ、儀式行事を行い、及び信者を教化育成すること)を著しく逸脱した行為をしたこと(以下略)
条文に明らかなとおり、解散命令は裁判所が出す。行政機関は出せない。裁判所が自ら職権でも出せるが現実には考え難い。常識的には、所轄庁の請求があって裁判所が動くことになる。所轄庁は、都道府県知事あるいは文科大臣である。利害関係人(たとえば、債権者)も請求の資格をもっているが、証拠を揃えるのは容易ではない。
解散命令のハードルは高い。同条1項1号は、単なる法令違反では足りず、「著しく」公共の福祉を害すると「明らかに」認められる行為あることを要件としている。法令違反は必ずしも刑事罰を意味しないが、明らかにその主体は宗教法人でなければならない。
これまで、解散命令が発せられたのは2件とされている。宗教法人オウム真理教に対するものと、霊視商法で詐欺被害輩出を重ねた宗教法人明覚寺に対するもの。いずれも、最高裁まで争われて、解散命令が確定している。オウムの最高裁決定が1996年、明覚寺は2002年である。以下に、両事件を概観して、統一教会への適用を考えて見たい。
問題は大きく2点ある。第1点は法81条1項(解散命令)の要件であり、第2点が、この条文あるいは解散命令の憲法20条適合性の有無である。
この第2点は、日本国憲法の柱の一つともいうべき信教の自由という重要理念の理解に関わる。その基準の定立如何は、国民の信教の自由保障と、既成宗教のあり方に大きな影響を与える。慎重の上にも慎重な判断が求められて当然である。
その重要な問いに対する最高裁の結論は、今のところは以下のとおりである。
「大量殺人を目的として計画的、組織的にサリンを生成した宗教法人について、宗教法人法81条1項1号及び2号前段に規定する事由があるとしてされた解散命令は、専ら宗教法人の世俗的側面を対象とし、宗教団体や信者の精神的・宗教的側面に容喙する意図によるものではない。右宗教法人の行為に対処するには、その法人格を失わせることが必要かつ適切であり、他方、解散命令によって宗教団体やその信者らが行う宗教上の行為に何らかの支障を生ずることが避けられないとしても、その支障は解散命令に伴う間接的で事実上のものにとどまるなど判示の事情の下においては、必要でやむを得ない法的規制であり、日本国憲法第20条1項に違反しない。」(宗教法人オウム真理教解散命令事件)
第1点(法81条1項(解散命令)の要件)については、まずオウム事件ではこう判断されている。
「宗教法人の代表役員及びその指示を受けた多数の幹部が、大量殺人を目的として、多数の信徒を動員し、宗教法人所有の土地建物等の物的施設と多額の資金を使い、大規模な化学プラントを建設して、サリンを計画的・組織的に生成したことは、当該宗教法人の行為として、宗教法人法81条1項1号及び2号前段所定の解散事由に該当する。」(第1審・東京地裁決定、第2審東京高裁も、最高裁も是認)
なお、オウムの解散請求は、検察官及びオウム真理教の所轄官庁たる東京都知事鈴木俊一両名からのものである。
一方、宗教法人明覚寺の解散命令事件は、1999年12月所轄官庁(文化庁)が、詐欺刑事事件判決を根拠に「組織ぐるみの違法性が認められる」として和歌山地裁に解散命令を請求したもの。和歌山地裁は解散命令を発し、明覚寺はこれを不服として最高裁まで争ったが棄却されて確定している。
解散命令の要件具備判断の要点を抜き書きしてみる。
「前記認定の各詐欺はいずれも相手方(宗教法人明覚寺)に属する満願寺もしくは龍智院という末寺を舞台として行われたものであるところ、その実行行為者及び件数が多数に及んでいることだけからみても、上記各詐欺が組織的に行われていたことが強く窺える」「さらに、前記各詐欺行為は、被害者が満願寺のチラシを見るなどして相談に訪れたことがその端緒になっているところ、そのチラシは、満願寺が独自に作成したものではなく、相手方代表者たる西川義俊の指示ないし決裁を経て、相手方の本部において関連会社に発注して作成したものである」「相手方では、教師特別錬成命令書が作成され、教師の目標数値が(騙取)金額をもって設定されていた」「相手方代表者西川義俊が自ら、金員騙取に向けた欺罔文言を羅列したトーク集なるものを作成した上、これを全体会議に集まった教師や住職らに配付していた」「騙取にかかる金員の振込送金を受ける場合には、相手方が管理する口座宛とされ、予定されていた金員の送金がない場合には、担当僧侶らに問い合わせるなどしていた」「各詐欺の実行行為者は、いずれも明覚寺の系列寺院において話術訓練等を受けていること」が認められる。
「これらの事実を総合すれば、各詐欺行為は、もはや相手方に属する僧侶等による個人的犯罪ということは到底できず、宗教法人たる相手方が主体となって行ったものというべきである。
そして、その被害件数及び被害額が極めて多数・多額に及んでいることからして、著しく公共の福祉を害するものであることは明らかであるし、組織的に詐欺行為を行うことが宗教団体の目的を著しく逸脱したと認められる行為であることは多言を要しない。」
以上の判断が判例の水準である。統一教会に解散命令を請求するに関しても類似の事実を積み重ねが必要であろう。是非とも、組織的な違法を炙り出す努力を期待したい。