8月13日(木)11時?14時 日弁連講堂「クレオ」で、下記のシンポジウムを開催し、「国民の70年談話」を採択する。日本国憲法の視座から、各分野の戦後70周年を検証し、「安倍政権の戦後70周年談話」に対峙する「国民の側からの70年談話」を決議し採択しようという企画。
この企画への参加を呼びかけるチラシのPDFファイルを、ここからダウンロードして、ぜひ拡散していただくようお願いしたい。
コンセプトは、あくまで安倍政権と対峙する国民の側からの、戦後70年という来し方の総括であり、今後の展望である。各人それぞれの個性ある総括ではなく、「国民」の総括であり展望。国民とは、主権者であると同時に被治者である人々の総体。権力者との対概念にほかならない。
国民の戦後70年の総括が安倍政権と同様となるはずはなく、今後の展望も安倍政権とは異なるものとなる。その国民の総意を、憲法の立場に立脚するものとして確認したい。もっともオーソドックスな憲法の解釈と、その憲法が踏まえた歴史認識を前提とするのが「国民の70年談話」の基本となる。それが、「日本国憲法の視座から」と副題をつけた意味である。
政権の側の「談話」の内容は、安倍首相独特の個性から、歴史認識の記述がきわめて独善的で不十分になることが予想されている。自ら選定した有識者懇談会の意見をさえ聞こうとしていないと報道されている。私たちは、憲法の視座から、公表された安倍談話と対峙させた内容の「国民の談話」を作成して、安倍政権のあり方を根底から批判するものとしたいと思う。
おそらく、彼我の最大の対決点は平和主義のとらえ方となるだろう。憲法9条が指し示す「武力によらない平和」か、安倍政権が打ち出している「積極的平和主義」すなわち武力による抑止力に期待する平和か。この思想の対立を浮かびあがらせることが課題となると思われる。また、この点の理解は、歴史認識の違いから導き出されると考えられる。侵略戦争や植民地支配についての加害者としての真摯な反省を表明するか否かも鋭く対立するところとなるだろう。
期間はきわめて切迫しているが、可能な限り原案を広く世に問うて、多くの人の意見に耳を傾けて成案としたい。この過程にも、ぜひご参加いただきたい。
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(企画の総合タイトル)
「『国民の70年談話』ー日本国憲法の視座から
過去と向き合い未来を語る・安全保障関連法案の廃案をめざして
(企画の趣旨)
戦後70周年を迎える今年の夏、憲法の理念を乱暴に蹂躙しようとする政権と、あくまで憲法を擁護し、その理念実現を求める国民との対立が緊迫し深刻化しています。
この事態において、政権の側の「戦後70年談話」が発表されようとしていますが、私たちは、安倍政権の談話に対峙する「国民の70年談話」が必要だと考えます。
そのような場としてふさわしいシンポジウムを企画しました。憲法が前提とした歴史認識を正確に踏まえるとともに、戦後日本再出発時の憲法に込められた理念を再確認して、平和・民主主義・人権・教育・生活・労働・憲法運動等々の諸分野での「戦後」をトータルに検証のうえ、「国民の70年談話」を採択しようというものです。
ときあたかも、平和憲法をめぐるせめぎ合いの象徴的事件として安全保障関連法案阻止運動が昂揚しています。併せて、この法案の問題点を歴史的に確認する集会ともしたいと思います。
ぜひ、多くの皆さまのご参加をお願いいたします。
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(プログラム)
◆それぞれの分野における「戦後70年」検証の発言
■戦後70年日本が戦争をせず、平和であり続けることが出来たことの意義
高橋哲哉 (東京大学教授)
■戦後改革における民主主義の理念と現状
堀尾輝久 (元日本教育学会・教育法学会会長)
■人間らしい暮らしと働き方のできる持続可能な社会の実現に向けて
暉峻淑子 (埼玉大学名誉教授)
■日本国憲法を内実化するための闘い──砂川・長沼訴訟の経験から
新井章 (弁護士)
■安全保障関連法案は憲法違反である
杉原泰雄 (一橋大学名誉教授)
◆「国民の70年談話」案の発表と参加者による採択
主催※「国民の70年談話」代表・新井章
※事務局長・加藤文也 (連絡先 東京中央法律事務所)
以上
(2015年7月28日)
本日(7月27日)延長国会での、戦争法案参院審議が始まった。連日、猛暑の中で、多くの人が国会を取り囲んで法案反対の意思表示をしている。デモも集会も、対外的には世論の盛り上がりを可視化する方策であり、対内的には連帯と団結を確認し拡大する手段だ。反対運動は、確実に拡がりつつある。とりわけ、若者に、女性に、つまりは戦争の被害を最も深刻に受ける層に。また、これまで声を上げにくかった人々も起ち上がりつつある。大いに勇気づけられる。
衆議院の強行採決による敗北感・無力感や焦燥感が感じられない。これは、運動参加者の確信によるものであろう。本日(7月27日)日経と読売が世論調査結果を発表して、7月の各紙の調査が出揃った。日経が「内閣不支持率50%となり、支持率38%を上回った」。読売が、「不支持49%、支持43%」。ともに初めて不支持率が支持率を上回った。産経調査でも、「不支持52・6%、支持39・3%」となっている。すべての調査が示している、この逆転劇の衝撃は計り知れない。安倍政権、盤石のように見えて、実は案外に脆いことをさらけ出した。とても、もう一度の強行採決などできそうにもない。60日ルールの適用も同様だ。
それだけではない。こういうときには、劣勢側の焦りがエラーを招き寄せる。またまた、オウンゴールの1点が献上された。
これまでもたびたび話題の礒崎陽輔首相補佐官が、昨日(7月26日)大分市の講演で、安全保障関連法案が法的安定性を損なうものとの批判があることに反論した。「法的安定性は関係ない。わが国を守るために(集団的自衛権行使が)必要かどうかが基準だ」と述べた、という。「この発言は安保環境の変化に立脚した議論が必要との考えを示したものとみられるが、法的安定性を軽視したとも受け取れる言い方で、野党の反発を呼びそうだ」(共同)。「安保法案『法的安定性確保』軽視発言の礒崎補佐官が大炎上 民主は解任要求、自民も不快感」(産経)と報道されている。
さっそく本日、民主党の枝野幹事長が、記者会見でこの発言を取り上げた。
「法治主義や法の支配は、ルールはこう解釈されて一方的に変更されない(というもの)。であればこそ、そのルールに従ってみんな生きていくことができる。それを法的安定性と呼ぶ。ところが、法的安定性を関係ない、つまり、ルールは都合でころころ変わるということでは、憲法はもとより、そもそも法治主義、法の支配という観点から、行政に携わる資格なし、と思う。安倍首相は法の支配の『いろは』の『い』もわかっていない補佐官をいつまで使い続けるのか」
本日安倍首相は本会議の答弁において「民主党などが『徴兵制復活』と連呼しているが、『徴兵制は明確な憲法違反で導入はあり得ない』と否定した」という。しかし、憲法に「徴兵制は許さない」との条文があるわけではない。徴兵制は、憲法18条で禁止されている「その意に反する苦役」に当たるという解釈が定着して、違憲と言われているのだ。「集団的自衛権行使は違憲」と定着していた解釈を、一転合憲と覆したのは安倍政権である。さらにこの上、「法的安定性は問題ではない」ということになれば、「徴兵制は崇高な国民の自発性に基づく義務であって苦役ではない。したがって合憲であることは明らかである」と、いつでも言い出せることになるのだ。
法案の危険性は次第に国民に浸透しつつある。反対運動は盛りあがってる。運動の成果は目に見えるものとなっている。防戦側はミスの連続だ。最近、公明党支持者の公明党への愛想づかしがニュースに大きく取り上げられるようになってきた。このままでは公明党がもたなくなるだろう。
そのような中で、安倍に何か智恵があるか成算があるかといえば、何もなさそう。本日の参院本会議答弁も、「わが国を取り巻く安全保障環境がますます厳しさを増す中、憲法9条の範囲内で、国民の命と平和な暮らしを守り抜くために不可欠な法案だ」「参院での法案審議においても工夫を凝らして分かりやすく、丁寧な説明を心掛けていく」と、すり切れたレコード状態だ。的を外した答弁を丁寧に繰り返すことを宣言したに過ぎない。
これなら、法案を廃案に追い込むことのリアリティ十分ではないか。来夏に選挙を控えた参議院である。公明党議員が、この評判の悪い戦争法案成立にがんばれるわけがない。公明がポシャれば、自民党単独では過半数に届かないのだ。
「どうせ数の力で押し通す」「60日ルールの適用が可能なのだから、既に勝負あった」という醒めた発言はけっして的を射たものではない。
政治学の概念として「自己実現する予言」というものがある。「法案は、どうせ通る」「勝負は2014年12月の総選挙で既についている」「結局は議会内の数の力で決まる」という「予言」が重なれば、そのとおりに自己実現することになる。
反対に、多くの人が「この闘い、勝たねばならない」ことを理解し確認し、「絶対に勝とう」と決意を固め、そして「きっと勝てる」と確信したとき、運動の昂揚は安倍政権とともにこの法案を葬ることになる。
ものごとをなし遂げようというときには、成功体験のイメージトレーニングの重要性が説かれる。法案を廃案に追い込むとともに、安倍退陣をイメージして、「戦争法案ただちに廃案」「安倍はやめろ」「安倍政権を許さない」のスローガンを高く掲げて、自己実現させようではないか。
(2015年7月27日)
アベ君。私は恥ずかしい。キミに英語を教えたのは私だ。例によって、「昔々ある学校で」のこと。キミは、目立たない生徒だったが、英語だけは人並みの成績だった。英語の勉強はよくしていたように見受けた。だが、キミの英語を学ぶ姿勢には、最後まで違和感を禁じ得なかった。キミほど実用と方便としてだけの英語を身につけようとした学生をほかに知らない。
私は、英語の学びを通じて、生徒には揺るぎのない教養を身につけて欲しいと願い続けてきた。ことあるごとにその旨を語ったはずだ。英語を入り口として、その奥にひらけた英語圏の豊穣な文化は、教養として人格の核になり得るものだ。また、英語を入り口として、英語圏以外の多様な文化とも触れあうことができるようにもなる。
日本の伝統・文化・歴史を真に理解するためには他国の文化を知らねばならない。日本を相対化して見つめる姿勢を持たなければ、独善に陥って日本を正確に見極めることができない。夜郎自大の姿勢を避けつつ、しかも自分の属する文化に誇りを持つためには、教養としての英語が必須だと私は思っている。しかし、この考えはキミには一顧だにされなかった。
あらゆる学問に通じることだ。いったい何のために学ぶのか。何のために科学者となるのか。何のために医学を志し、どのような姿勢で臨床に臨むのか。誰のどのような利益への奉仕を目指して法を学び実践するのか。英語を学ぶキミには、まったく目的意識というものが感じられなかった。
あれから随分と時を経た。キミにジェントルマンとしての教養が身についていないなどと、無い物ねだりをして嘆いているのではない。英語の教師としての私から見て、キミは政治家として不思議な立ち位置にある。私が生徒に望んだことの正反対がキミの今の姿なのだ。
私が望んだことの一つは、日本文化や日本の歴史を相対化して見る眼の育成だ。英米流の普遍的な合理主義に照らして、日本の戦前の神権天皇制や国体思想の非合理を多少なりとも批判する眼をもって欲しいということだ。そうすれば、個人主義や人権思想あるいは抵抗権思想などによく理解が及び、社会的同調圧力に流され易い日本の文化に疑問を持つことができるだろう。「和を以て貴しとなす」などという日本の伝統に叛旗を翻すことまでは望み薄としても、間違っても、戦前指向や偏狭なナショナリズムに染まって、失笑を買うようなことがあってはならない。
もう一つは、英語によるコュニケーション能力を鍛えることで、欧米人に対する無用のコンプレックスを払拭し、堂々と対等意識で対峙する精神を鍛えてほしい、ということだ。
今のキミは、いったいどうなっているのだ。キミの国内政治の基本姿勢は、「戦後レジームからの脱却」であり、「日本を取り戻す」ということだという。これは、英語圏文化から見て非合理極まる戦前指向であり、偏狭なナショナリズムを基本理念としているということ以外のなにものでもない。
もう一つは、キミのアメリカに対する姿勢の問題だ。キミは国内では偏狭なナショナリストとして傲岸きわまりないが、アメリカにはまことに卑屈ではないか。こういう精神性はアンビバレントであるように思えるが、独善と卑屈とがキミの精神の両面として矛盾がなく収まっている。
沖縄問題や思いやり予算がその典型だったが、戦争法案がにわかにクローズアップされてきた。キミは、アメリカ議会の演説で戦争法案の成立をアメリカ合衆国に公約した。まだ、日本の主権者に法案の形も見せていない時点でだ。「アメリカに約束してしまったのだから、もう引き返せない。その約束を守るために、日本の国民を説得する。説得できなければ強行採決をしてでも戦争法を成立させなければならない」というのがキミの姿勢だ。おかしくはないか。
キミは、私が英語を教えた二つの目的を、みごとに二つとも正反対の結果で答えたのだ。教師としては、これにすぎる落胆はない。情けなくも嘆かわしい。
私は、意識的に生徒の教養の核とするにふさわしい英語教材を選んで学習させた。その中の一つに、リンカーンのゲティズバーグの演説があったことを覚えているだろうか。短いものだが、名演説とされているものだ。
その最後のフレーズが、日本国憲法の前文にも取り入れられた次のもの。
…these dead shall not have died in vain―that this nation, under God, shall have anew birth of freedom―and that government of the people, by the people, for the people, shall not perish from the earth.
(これらの戦死者の死をむだに終らしめないことを、ここで堅く決意することである。この国に、神の下で、新たに自由の誕生をなさしめることである。そして、人民の、人民による、人民のための政治が、この地上から滅びることがないようにすることである。本間長世訳)
キミは、「民意に反してでも、強行採決をしてでも戦争法案を成立させることが、国民のためになるものと後世理解を得ることにきっとなる」という趣旨のことを言ったそうではないか。おそらくは、「私が正しい。だから、民意を無視してもよい。だから憲法解釈を変えたってよい。だから、違憲法案だといわれても意に介さない」
キミは、リンカーンから何も学ばなかった。思い上がりも甚だしい。アメリカの独立宣言も、キング牧師の演説も、キミの人格形成にはかすりもしなかったのだ。私はますます肩身が狭い。
TPPや集団的自衛権は、新たな植民地支配の形ではないか。キミはグローバル化にえらく熱心だが、結局はご主人様への奉仕と、そこからのおこぼれ頂戴に熱心だということだ。私は、世界の誰とも対等な人格としてコミュニケーションができるツールとして、キミに英語を教えたつもりだった。ところがキミは、奴隷主の言葉として英語を学び、上手にご主人の機嫌をとって見せたのだ。この齢でこんな嘆きをしなければならならぬとは、…ああ、無念極まる。
(2015年7月26日)
「安倍・戦後70周年談話」に対峙する、「国民の70年談話」を採択しようという企画のお知らせです。ぜひ多数ご参加ください。できれば、拡散をお願いいたします。
企画の総合タイトル
「国民の70年談話」ー日本国憲法の視座から
過去と向き合い未来を語る・安全保障関連法案の廃案をめざして
日時 8月13日(木) 11時?14時
場所 日弁連講堂クレオ(霞ヶ関・弁護士会館2階)
参加費無料ですが、企画へのカンパを歓迎いたします。
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(企画の主旨)
戦後70周年を迎える今年の夏、憲法の理念を乱暴に蹂躙しようとする政権と、あくまで憲法を擁護し、その理念実現を求める国民との対立が緊迫し深刻化しています。
この事態において、政権の側の「戦後70年談話」が発表されようとしていますが、私たちは、安倍政権の談話に対峙する「国民の70年談話」が必要だと考えます。
そのような場としてふさわしいシンポジウムを企画しました。憲法が前提とした歴史認識を正確に踏まえるとともに、戦後日本再出発時の憲法に込められた理念を再確認して、平和・民主主義・人権・教育・生活・憲法運動等々の諸分野での「戦後」をトータルに検証のうえ、「国民の70年談話」を採択しようというものです。
ときあたかも、平和憲法をめぐるせめぎ合いの象徴的事件として安全保障関連法案阻止運動が昂揚しています。併せて、この法案の問題点を歴史的に確認する集会ともしたいと思います。
ぜひ、多くの皆さまのご参加をお願いいたします。
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◆それぞれの分野における「戦後70年」検証の発言
■戦後70年日本が戦争をせず、平和であり続けることが出来たことの意義
高橋哲哉 (東京大学教授)
■戦後改革における民主主義の理念と現状
堀尾輝久 (元日本教育学会・教育法学会会長)
■人間らしい暮らしと働き方のできる持続可能な社会の実現に向けて
暉峻淑子 (埼玉大学名誉教授)
■日本国憲法を内実化するための闘い──砂川・長沼訴訟の経験から
新井章 (弁護士)
■安全保障関連法案は憲法違反である
杉原泰雄 (一橋大学名誉教授)
(なお、杉原先生にはご予定の日程調整をお願いしているところです)
◆「国民の70年談話」の発表と参加者による採択
主催※「国民の70年談話」実行委員会 代表・新井章
※事務局長・加藤文也 (連絡先 東京中央法律事務所)
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いま、政権と国民が、憲法をめぐって鋭く対峙しています。
その政権の側が「戦後70年談話」を公表の予定ですが、これに対峙する国民の側からの「70年談話」を採択して発表しようというものです。そのことを通じて、彼我の思想の差異を明確にし、きちんとした批判をしようというねらいです。
なお、集会のタイトル、主旨等は暫定案とご理解ください。企画の具体化が進行の都度、繰りかえしご案内申し上げます。
(2015年7月25日)
市民運動、社会運動、大衆運動、民衆運動、政治運動…。なんと名付けてもよいが、被治者である市民・国民・住民・消費者が共通の要求を実現しようとする運動(仮に「市民運動」と言っておこう)は、純粋に参加者の自発性に支えられている。その運動体に内部統制の強制力はなく、上命下服の指揮関係を持たない。
市民運動の全体力量は、「参加者の数×各参加者の意欲」と定式化できるだろう。運動の参加人員を大きくするためにも、参加者一人ひとりの行動意欲を引き出すためにも、一人ひとりを尊重する運動スタイルでなければならない。運動参加者が、自分の言葉で語り、自分のスタイルで活動できる多様性を尊重することこそが運動を大きく広げることのカギではないか。
いま、戦争法案反対の国民運動に、若者と女性を中心に運動の新しいあり方が話題になっている。さわやか、かっこういい、自分の言葉で語り、自分のスタイルを大切にする。そのような評価であり期待でもある。
私は、7月5日下記のブログで若者の運動にエールを送った。しかし、その程度。
「7月3日雨の金曜日 澁谷に集まった若者たちに寄せて」
https://article9.jp/wordpress/?p=5164
ところが、同期の友人郷路征記弁護士が若者の行動にいたく感激したとメールを送ってきた。以下、その抜粋である。
SEALD’sのスピーチとコールがメチャカッコいいと思っています。こんなカッコのいい若い女性の口から、「アベハ ヤメロ」、「コクミン ナメンナ」、「センソウシタガル ソウリハ イラナイ」等という激し い言葉が飛び出してくると、私の理性は霧消してしまって、聞き惚れてしまいます。新聞やテレビでは知りえないことです。インターネットの持つ訴求力は、大変なものなのかもしれません。
日曜日、コンピューターの前に座って、ずっとSEALDsの動画、ツイッター等を追いかけてきました。そして、強く心を揺さぶられました。奥田愛基君は「30万人を集めましょう」と言っていましたが、可能性があるかもしれません、彼らなら。
ネットにアップされている彼らのスピーチは、素晴らしいと思いました。
まだ、見ていない方は、ぜひ、クリックして、彼らの訴えに耳を傾けてください。
SEALDS関西の女性のスピーチも、非常に感動的です。まるで、憲法9条が乗り移ったかのような。安倍を断罪する言葉の強さ、鋭さ。その訴える力。激しい言葉を並べるのではなく、大きな声を張り上げるのでもないのですが。言葉が、借り物ではない彼女の信念に裏打ちされているからでしょうし、事態の本質をとても明解に指摘する能力に優れているからでしょうね。前日の日比谷の野音の集会に出たお爺さん、お婆さんをあげて、この人たちが闘い続けてきてくれたから、いまの平和があるというところでは、思わず、うると来ましたね。
スピーチをしている人は、みんな、自分で考えたことを、皆に訴えようと誠実に展開している。押し付けている感じはまったくない。悲壮感などの余分な感情もない。驚くほど、しっかりしている。こんな素晴らしい若者たちがいるなんて、本当に希望を持てます。コールは本当に素晴らしい。ノリがよくて、リズムがあって。
そして郷路君は、同期有志の弁護士が作っているメーリングリストに「希望を拡げたい」というタイトルで次の記事を寄せた。
「前略、突然のメールをお許し下さい。ぜび、お知らせしたいことがあり、ご迷惑をかえりみず、メールをさせていただきました。
7月17日、ユーチューブを徘徊していて、戦争法制に反対する動画が目について、ついクリックしたのですが、すぐ引き込まれてしまいまし た。スピーチをしている女性がとてもカッコ良かったのです。
スピーチの内容は勿論素晴らしかったのですが、その後のコールが一段と素晴らしかった。正直言って、驚きました。その映像は次のリンクをクリックすることで見ることができます。
https://www.youtube.com/watch?v=I5nowbc1Jqs&list=PL0r_ha6smF6TY6DQ4cO_QgXIAvJ62CbSl&index=4
その驚きをメーリングリストに投稿したら、別のスピーチを紹介してもらいました。
https://www.youtube.com/watch?v=BzSwC8wSNNA
7月18日からの3連休は、関連するスピーチを見続けました。それらは、以下に大体纏められています。
https://www.youtube.com/watch?v=I5nowbc1Jqs&list=PL90_FDu3Dz6MIauQ6vjUg-igiQ0bl7RIh
結論として、私は、この国の若い世代に、強い希望を抱くことができたのでした。
ツイッターやフェイスブックで、彼らが所属する「SEALD-s」に関する情報を集めました。
SEALD-sとは「(Students Emergency Action for Liberal Democracy – s・自由と民主主義のための学生緊急行動」の略です。彼らの考え方については以下のウエブを参照してください。
http://www.sealds.com/
彼らは、戦争法制に関しては6分間の動画で要領よく批判していますし、動画の最後では、我々に対する呼びかけをしています。
https://www.youtube.com/watch?v=6LuZDH0GHOE
その呼びかけに触発されて、みなさまに「SEALD-s」のスピーチをぜひ聞いていただきたいと私は思い、このメールを差し上げようと決意をしたのです。
それは、私が抱いた希望を拡げることなのだと・・・。
可能であれば、ぜひ、動画を見てその印象を記載したメールを関係する方々に広く送付して頂きたいと思います。このメールの転送でもかまいません。多くの広い層の方々に、希望を拡げることが、岐路に立っている日本の民主主義にとって、立憲主義にとって、平和主義にとって、今、最も大切なことだと思うからです。」
これに対して、仲間ゆえの遠慮なさから、忌憚のない突っ込みの反応が直ぐにあった。このあたりがメーリングリストの面白いところ。
「そんなに若者に変に感動してないで、北海学園事件のときのように貴兄自らが街頭デモやスピーチの先頭に立たなきゃダメだよ。今は傍観者(失礼)的感動の時に非ず。平和国家『存立危機事態』故、戦争法案阻止、安倍内閣打倒に向けて今日明日明後日と大衆行動あるのみ。」
これに対する郷路君の返答が、また素晴らしい。
「僕にとっては、これが戦争法案阻止、安倍内閣打倒にむけての行動なので、頑張ります。昔から、他人と同じ行動は取れないタイプだったので、ゴメンね」
彼は所属する札幌弁護士会の会員全員(メールアドレスの分かる人) に、同文をメール送信したという。
「530通ですね。1通、1通手作業だったので、よく使う指の部分が痛くなりました。」
そして、「嬉しい反応が返ってきています。」と、今度は返事を送信してくれている。
これはすごいことだ。
おそらく彼は、どうすれば保守派も反動派も含めた多くの弁護士の耳に、戦争法反対・安倍政権打倒の訴えを届けることができるだろうかと思い続けていたに違いない。そして、若者たちの訴えを届けようと考えたのだ。
一昔前。街頭に立った若者は、「われわれわぁ、せいけんをぉ、だんことしてぇ、ふんさいするぅ」と、独特の抑揚でアジ演説をした。アメ帝と日本独占資本が敵で、たいていの問題は、その敵とその手先を糾弾することでこと足りた。それも真実かも知れないが、独特のスピーチスタイルであり、仲間内以外には通じない言葉を使って平気だった。今の若者は、もっと多様。自分の言葉で語る人が多くなっている。しかも、シールズの動画を見る限りだが、その語る内容は誰にも了解可能なうえ的確で訴える力をもっている。
札幌弁護士会に所属する全弁護士に若者の声を伝えた郷路君も「自分の言葉、自分のスタイル」にこだわった自分流の運動参加なのだ。戦争法案反対のこの運動、まだまだ拡がりそうではないか。
(2015年7月24日)
私が被告とされているスラップ(言論封殺目的)訴訟。7月1日に結審して、判決言い渡しは9月2日となった。その日のスケジュールをお伝えします。
9月2日(水)
13時15分 東京地裁631号法廷 判決言い渡し
(東京地裁庁舎南側(正面入口から入構して右側)6階)
13時30分 勝訴判決報告集会 第一東京弁護士会(弁護士会館12階)
この日を祝賀の日として集おうではありませんか。
判決は、DHC・吉田嘉明の言論封殺の意図を挫いて、
政治的な言論の自由を確認し、
市民や消費者の立場からの、企業や行政への遠慮のない批判を保障する
そのような内容になるはずです。
法廷傍聴も報告集会も、どなたでも参加ご自由です。言論の自由を大切に思う多くの皆さまに、ご参加されるようお願いいたします。
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判決言い渡しとなる訴訟は、以下のとおり。
東京地方裁判所民事第24部合議A係平成27年(ワ)第9408号
原告 吉田嘉明 DHC(株)
被告 澤藤統一郎
裁判長裁判官 阪本勝 陪席裁判官 渡辺達之輔 大曽根史洋
原告代理人弁護士 今村憲 木村祐太 山田昭の3名
被告代理人弁護士 光前幸一以下111名
請求内容は、当初2000万円の損害賠償請求。私の3本のブログが、DHCと吉田嘉明の名誉を傷つけたというもの。この提訴を言論封殺目的の不当訴訟だと当ブログで反撃(今日まで48本)したところ、その内の2本が、さらに名誉を毀損するものとして請求を拡張。6000万円の請求となった。提訴時には、ブログ3本で2000万円。請求拡張では、提訴批判のブログ1本が2000万円である。信じがたいことが現実に起こるのだ。
なお、経過は本ブログに全部掲載している。1本2000万円の値がついたブログもぜひお読みいただきたい。
https://article9.jp/wordpress/?cat=12 『DHCスラップ訴訟』関連記事
前回、7月1日の結審法廷で、私は10分間の意見陳述をした。「スラップに成功体験をさせてはならない」という主旨である。
仮に、本件で私の言論が、いささかでも違法と判断されるようなことがあれば、およそ政治批判の言論は成り立たなくなる。原告吉田嘉明に成功体験を与えたら、吉田自身が図に乗るだけではない。本件のごときスラップ訴訟が乱発され、社会的な強者が自分に対する批判を嫌っての濫訴が横行する事態を招くことになる。そのとき、市民の言論は萎縮し、権力者や経済的強者への断固たる批判の言論は、後退を余儀なくされることになる。言論の自由と、言論の自由に支えられた民主主義政治の危機というほかはない。
DHC・吉田は、名誉や信用を毀損されることがあったとしても、これを甘受しなければならない。強調すべき根拠が3点ある。
第1 原告らの「公人性」が著しく高いこと。もともと吉田は単なる「私人」ではなく、多数人の健康に関わるサプリメントの製造販売を業とする巨大企業のオーナーで、行政の規制と対峙しこれを不服とすることを公言する人物である。これに加えて、公党の党首に政治資金として8億円もの巨額を拠出して政治に関与し、さらにそのことを自ら曝露して、敢えて国民からの批判の言論を甘受すべき立場に立った。自らの意思で「私人性」を放棄し、積極的に「公人性」を獲得したというべきである。
第2 私(澤藤)の言論の内容が、政治とカネというきわめて公共性の高いテーマであること。「原告吉田の行為は政治資金規正法の理念を逸脱している」というのが、私の批判の核心。もしも、この私の言論が違法ということになれば、憲法21条の表現の自由は画に描いた餅となり、民主主義の政治過程がスムーズに進行するための基礎を失うことになってしまう。
第3点は、私の言論が、すべて原告吉田が自ら週刊誌に公表した事実に基づくものであること。真実性の立証も、相当性の立証も問題となる余地がない。私は、その事実に常識的な推論を加えて論評しているに過ぎない。意見や論評を自由になしうることこそが、表現の自由の真髄。私の論評がどんなに手痛いものであったとしても、吉田はこれを甘受しなければならない。
吉田は私を含む10人の批判者を被告にして同じような訴訟を提起した。カネをもつ者が、カネにものを言わせて、裁判という制度を悪用し、自分への批判の言論を封じようという典型的なスラップ訴訟である。吉田は、私をだまらせようとして、非常識な高額損害賠償請求訴訟を提起したのだ。私は、「黙れ」と恫喝されて、けっして黙ってはならない、と決意した。もっともっと大きな声で、何度でも繰りかえし、原告吉田の不当を徹底して叫び続けよう。これも弁護士としての社会的使命の一端なのだ、そう自分に言い聞かせている。
前回結審後の報告集会では、光前弁護団長の経過と争点についての解説があった。光前さんは、「本格的に、政治的な言論の自由と切り結んだ判決を期待する」ことを表明した。勝訴判決であればよいというのではなく、勝ち方を問題としているのだ。
そして、何人かの弁護団員から、「請求棄却の勝訴判決を得ただけでは不十分ではないか」「DHCに対する効果的な制裁を考えるべきだ」という意見が相次いだ。
勝訴判決のあと、「DHC・吉田やその取り巻きに対する効果的な制裁」を考えよう。言論の自由のための闘いの一環として。
(2015年7月23日)
アベ君。私は恥ずかしい。キミに漢文を教えたのは私だ。「昔々ある学校で」のことだ。キミの漢文理解の素養が貧弱なことには、教師である私にも大いに責任がある。なんとも悲しく、お恥ずかしい限りだ。
キミは、強行採決で幕を閉じた7月15日衆議院平和安全法制特別委員会の質疑において、長妻昭議員の質問に答える中でこう言っている。
「当然批判もあります。しかしその批判に耳を傾けつつ、みずから省みてなおくんばという信念と確信があればしっかりとその政策を前に進めていく必要があるんだろう、こう思うわけであります。」
有名な、「孟子」公孫丑編の一節「自反而縮 雖千萬人 吾往矣」(自ら反(かえり)みて縮(なお)くんば、千万人と雖も吾往かん)を引用しての信念の披瀝なのだろう。この孟子の一節は、キミの座右の銘と聞いている。これまでも、何度も答弁で引用されたとのことだ。キミの公式ホームページには、キミの政治信条として、この言葉が次のように掲げられている。
「自らかえりみてなおくんば、一千万人といえどもわれゆかん」
村田清風もまた吉田松陰も孟子の言葉をよく引用されたわけでありますが、自らかえりみてなおくんば、一千万人といえどもわれゆかんと、この自分がやっていることは間違いないだろうかと、このように何回も自省しながら、間違いないという確信を得たら、これはもう断固として信念を持って前に進んでいく、そのことが今こそ私は求められているのではないかと、このように考えております。
だが、この引用は私には理解できない。むしろ、不適切極まるものと言ってよい。ホームページから削除し、今後は一切この名句の引用は辞めたがよい。強くそう願う。キミ自身のためにも、孟子の名誉のためにもだ。そして私の教員人生の汚点を消していただきたいのだ。
私がキミに孟子を講義したときには、真っ先に孟子の革命思想をお話ししたはずだ。貝塚茂樹説を引用して、「孟子」という書物は永く異端思想を含むものとしてとり扱われてきたことをよく教えた覚えがある。
孟子は、周の武王が殷の紂王に反旗をひるがえして討滅し、ついに天下をとったことを正面から是認している。暴虐な君主は民意を失い、そのことによって天命を失い、天子としての統治の正統性を喪失してしまったのだ。これに対して、周の武王は人民の与望をにない、したがって天の命を受けて、天子としての統治の資格を得たのだ。人民の意志にもとづいて武王が紂王を殺しても弑逆の罪を構成しない。そう唱えたのだ。これは、万世一系の国体思想に敵対する危険思想ではないか。
要するに孟子にあっては、天子の天子たる所以は、民意に基づくところにある。天命とは、実は人民の意志にほかならない。政権は民意に背いてはならない。政権が民意に背けば、天がこれを見放し、人民は専制政府に対して抵抗し革命を起こす権利をもっている。「孟子」はそう宣言したのだ。「孟子」には、このようなラジカルな民主主義的政治思想が含まれている。
キミは、このことを理解しようとしていない。
「孟子」が「自反而縮 雖千萬人 吾往矣」というとき、これが為政者の言と想定されているはずはない。為政者の言とすれば、「民がなんと言おうとも、為政者の信念を貫いて、民意を踏みつぶす」という意味になってしまうではないか。まさしく、それが今の君の立場だ。だから、私は、悲しくもあり、恥ずかしくもある、というのだ。
キミは、民意から離脱しているというだけでなく、真っ向から批判されていることを自覚している。孟子なら、厳しくキミを叱責して、為政者としての資格喪失のレッドカードを突きつけるところだ。ところがキミは、孟子の言葉を引いて「自らかえりみてなおくんば、一千万人といえどもわれゆかん」と開き直っている。キミが闘おうと言っている一千万人とは、キミに為政者としての資格を授けた民そのものではないか。キミのいうことは筋が通らない。キミの論理はすっかり混乱している。キミは武王でなく、既に紂王の立場なのだ。だからもう、天はキミの側にない。無理してその地位に留まろうとする悪あがきはやめた方がよい。紂王のごとき悲惨な最期を遂げる前にだ。
私は政治家の座右の銘とすべき名句についても、キミに教えたことがあるが、こちらはキミにはお気に召さなかったようだ。もし、キミがもう一度、政治家として再出発する機会があれば、座右の銘を次の一節に換えたまえ。
子貢、政を問う。子の曰わく、「食を足し兵を足し、民をしてこれを信ぜしむ」。子貢が曰わく、「必らず已むを得ずして去らば、斯の三者に於いて何れをか先きにせん」。曰わく、「兵を去らん」。曰わく、「必ず已むを得ずして去らば、斯の二者に於いて何れをか先きにせん」。曰わく、「食を去らん。古えより皆な死あり、民は信なくんば立たず」。
愛弟子である子貢の問に答えて、孔子が政治の要諦を語っている、よく知られた一節。ここには、「食・兵・信」という政治の3価値が並べられて、その価値の序列が話題となっている。いろんな解釈が乱立しているが、私は君にこう教えたはずだ。
「『食』とは経済のこと、あるいは国民の福祉を意味している。『兵』とはいうまでもなく軍備である。そして、『信』とは為政者と人民との信頼関係、すなわち民主主義にほかならない。為政者は、戦争も軍備も撤廃して差し支えない。国民の福利さえも場合によっては削減せざるを得ない。しかし、民主主義だけはけっして捨てる去ることができない」
それが、今の世にまで通ずる孔子の教えなのだ。
アベ君、キミはいま、「『兵』をとって、『信』を捨てた」。民主主義を捨てて、戦争と軍備を選択した。孔子の教えを投げ捨てたのだ。さぞや孔子も嘆いていることだろう。孔子だけではなく、私もだ。そして、日本国憲法も、なのだ。
(2015年7月22日)
アベ君。私は恥ずかしい。キミに国語を教えたのは私だ。いつ、どこでと特定すれば物議を醸すことにもなりかねない。「昔々あるところで」のことだ。その昔々以来、キミの言語能力の進歩はない。キミのコミュニケーション能力の欠落には私にも責任がある。なんともお恥ずかしい限りだ。
私は口を酸っぱくしてキミに教えたはずだ。国語とは、コミュニケーションの手段であることを。最も大切なのは国語の技術ではなく、相手に自分の意見や心情を伝えようという熱意であり、相手の意見や心情を正確に汲もうという真摯な意思なのだと。キミにはその両者がともに欠落しているのだ。
国語が社会的存在であることもよく教えたはずだ。自分勝手な言葉の使い方は傲慢な性格の表れであって、言葉の受け手を困惑させるだけでなく、言葉の使い手の信用を落とすことになると。
その典型が「積極的平和主義」だ。「平和主義」という多くの人が好感を持つ被修飾語に「積極的」という修飾語をかぶせれば、常識的な意味での「平和主義」を強調する好ましい言葉だと思うはずではないか。ところが、キミが「積極的」という言葉を「平和」にかぶせた途端に、平和が戦争に変身してしまうのだ。こんな手品のような、自分勝手な言葉の使い方を、私はキミに教えた覚えはない。
さらにアベ君。最近気になるのは、キミの「理解」という言葉の意味の理解についてだ。キミは、「理解」という言葉を十分理解しているのだろうか。どうもあやしい。理解という言葉についてのキミの無理解が、国民に大きな混乱をもたらしていることを理解したまえ。
言葉には、重層的な意味がある。けっして単純に1語が、1概念と結びついているわけではない。キョトンとしていてはいけない。大事なことだ。よく分かってもらいたい。
キミは、戦争法案について、「国民の理解が十分ではない」と言った。このキミの言葉は、国民が法案の内容について認識を深めていないというのか、国民が認識した法案に了解を与えていないというのか、そのあたりが曖昧でよく分からない。キミに十分な国語能力があれば、もう少し明晰な語り口になるのだが…。
理解という言葉には、「ものごとを正確に認識する」という意味Aと、「あるものごとについての相手の立場や考え方に賛同や好意の心情を持つ」という意味Bが併存している。
Aが、「原発事故の経過はよく理解している」「総理の憲法21条についての理解はおかしい」という使い方における理解。Bは、「総理には沖縄県民の辺野古基地建設反対住民の心情についてご理解いただきたい」「再び戦争を起こしてはならないという国民感情に理解がない」という用例における理解。
BはAから派生したものではあろうが、明らかに違うもの。Aは理性的な認識だけを意味し、Bはこれに好意・賛同・シンパシーの心理が付加されている。
ところでアベ君。キミが、Aの意味で「国民の理解が十分ではない」といえば、国民が法案の中身について正確な認識を欠いている、という意味だ。立法事実や、それぞれの事態の要件の決め方や効果としての自衛隊の活動可能範囲などについて、国民はよく分かっていないということになる。だから、認識不十分な国民によく説明をして認識を深めてもらえば、法案に賛成してもらえるようになる。そういう文脈で、語っていることになる。
ところが、Bの意味で「国民の理解が十分ではない」といえば、国民は「このような法案には賛成できない」と言っていることになる。法案の中身をよく分かった人も、あるいは必ずしもよくは分らないない人も、「ともかく、法案が抱える危険がよく分かった」「もうこれ以上安倍のやり口を許さない」ということだ。もう態度は決まっているのだから、さらに説明を重ねることは意味のないことになる。
アベ君、おそらくキミの当初の思惑は、Aの意味で理解が不十分な国民が、丁寧な説明を受けて、次第に法案賛成に回っていくだろうと楽観していたのではなかろうか。ところが、あらゆる世論調査の結果は、国会の審議が進み、メディアが詳細な報道をするにしたがって、法案賛成派は減り、反対派が増加した。そして「首相の説明は不十分」という国民の割合も増加するばかり。
これは、Aの意味で理解が不十分な国民が、だんだんと認識を深めよく分かってきて、Bの意味で理解が不十分な国民に変身していったのだ。
最初は、本当に「よく分からない。もっと説明を」と要求していた国民が、安倍クン、キミの説明で、「これは危険だ」「安倍や自公のいうがままにしておいたらたいへんなことになる」と変わっていった。その意味で、A型からB型への大量の変異が生じたのだ。いまや、安倍クン、キミの言うことは信用できないという意味で国民のキミに対する理解がなくなっているのだ。
だから、いつまでも同じ「丁寧な説明」を続けても無意味なのだ。どうもキミにはその辺の意識が希薄なようだ。悪いことは言わない。潔くあきらめて、法案を撤回すべきではないだろうか。
その上であらためて、もう一度国語の勉強をしなおすことをお勧めする。私も責任上、付き合うことにしたい。
(2015年7月21日)
もしかしたら、「丁寧な説明」は今年の流行語大賞に輝くかも知れない。これと争うのは、「どろっとした生牡蠣」あるいは「たった2520億円」だろうか。
「丁寧な説明」は、この国の為政者が何とも奇妙な使いかたをしたことによって、人々に印象深く記憶されることになった。この言葉の使い方が今の時代の政治のあり方をよく表している。国民があらためて認識したのは、為政者の言葉の軽さ虚しさであり、また、「政権の二枚舌」「政権の傲り」「政権の無責任」でもあったろう。
「説明」には、相手の意思や立場を尊重すべき状況が前提とされている。決定権限がある相手に対して、その決定が適切になされるよう、知識や情報を提供することが説明の基本である。馴染みのない複雑なことがらについて理解してもらわねばならないという状況があって、説明が必要となる。より複雑な問題について真に理解しを得ようというには、時間をかけ工夫を凝らして、「丁寧に説明をする」ことが求められる。
行政の国民に対する説明責任、医師の患者に対するインフォームドコンセント、投資勧誘におけるインフォームドチョイス、事業者の消費者に対する説明責任、すべて同じ発想である。決定権限は、国民に、患者に、消費者にある。その決定権限の行使を誤らしめることがないように、十分な情報を提供し、可能な選択肢を示し各選択肢のメリットとデメリットを正確に教示する。これが専門家責任における説明の基本である。
だから、安倍晋三が、「この法案については、国民に丁寧な説明をいたします」といえば、誰しも「おっ、安倍クンも国民が主権者として有する権限を尊重するつもりなんだね」と思う。そして、「説明が尽くされて国民が納得するまで、ゴリ押しはしないんだ」とも思うではないか。「安倍クンといえども、あながち民主主義無視というばかりでもないんだ」と、うっかり誤解もしてしまいそう。
7月15日、あの強行採決で幕を閉じた衆院安保特のその日の委員会審議において、民主党大串委員の質問に安倍はこう答弁している。
「残念ながらまだ国民の理解は進んでいる状況ではないということは申し上げているとおりでございます。これからさらに国民の理解が進むように努力をしていきたい、こう申し上げているわけでございます。」
えっ? 国民の理解は進んでいる状況ではない? では、強行採決などやらないのだな、と一瞬誤解ささせておいて、これからも「説明を続けます」というのだ。強行採決してからの「丁寧な説明」。いったいなんだ、それは。
安倍晋三流の「丁寧な説明」は、「インフォームド」の形だけがあって、「コンセント」が抜け落ちている。形だけ、予定された審議時間の説明さえすれば、国民が理解しようがいまいが、「これからさらに国民の理解が進むように努力をしていきたい」といって、採決の強行をしてしまう。国民に決定権限があるとは思っていないのだ。国民をなめているとしか言いようがない。
本来ものごとの決定権は主権者国民にある。憲法に関わることであればなおさらだ。しかし、安倍には、国民の合意を得ながら政治を進めようという姿勢はさらさらない。国民がどう反対しても、「自ら反(かえり)みて縮(なお)くんば、千万人と雖も、吾往かん」とまでいうのだ。およそ、民主主義社会の為政者が口にすべき言葉ではない。
安倍晋三医師は、患者である国民に向かってこう言ったわけだ。
「特に緊急事態というわけではありませんが、早いに越したことはありませんので、これまでの常識的治療法とはまったく異なる大手術を行います。これまでの担当医師たちは、これから私が行おうという治療方法は許されないと言ってきましたが、私は断固やる方針です。患者さんは、ちょっとご心配の様子ですから、できるだけ丁寧に説明をしてまいりました。残念ながらまだ患者ご自身やご家族の理解も進んでいる状況ではないということは申し上げているとおりでございます。しかし、ずいぶん説明に時間をかけましたから、もう機は熟しました。「自らを省みてなおくんば一千万人といえども我行かん」が私の信条ですので、誰がなんと言おうと手術はやります。しかし、これからさらに患者の理解が進むように努力をしていきたい、こう申し上げているわけでございます。」
しかも、この安倍医師。うまくいった場合の治療のメリットはよく説明するが、リスクはない、デメリットはない。たいした手術ではない、と繰り返すばかり。
説明を聞いている患者の方は、聞けば聞くほどアブナイ思い。医師の方は、逃げられたら困るとばかりに、麻酔注射を手に迫ってくる。
「感じ悪いよね」を遙かに通り越して「こわ?い」、安倍医院。これだけで医療過誤訴訟では、違法として慰謝料請求が可能であろう。消費者事件なら悪徳商法の手口。そう批判されて当然なのだ。セカンドオピニオンも、医師を選ぶのも患者の権利だ。早く、この藪医者を取り替えないとたいへんだ。患者は殺される。
(2015年7月20日)
今朝の毎日新聞に目をやって感動を覚えた。1面トップに「内閣支持急落35% 不支持51% 安保強行採決『問題』68%」の大見出し。安倍自民と公明には、衝撃的な調査結果。「やはりこうなったか」とは思いつつも、「それにしても恐るべき変化」である。平和憲法を擁護せよという国民意識の底力に励まされる。これなら、現実に戦争法案を廃案に追い込める。あらためての勇気と自信が湧いてくる。
この調査は月例調査ではない。7月4・5両日の調査からわずか2週間で、安倍内閣支持率は7ポイント減、不支持率は8ポイント増となった。1か月前からの変化を見てみよう。
安倍内閣 「支持」 45%⇒42%⇒35%
「不支持」 36%⇒43%⇒51%
その差 +9⇒ ?1⇒?14
戦争法案に「賛成」 34%⇒29%⇒27%
「反対」 53%⇒58%⇒62%
今国会成立に「賛成」 28%⇒25%
「反対」 61%⇒63%
政府の説明は「十分だ」 10%⇒10%
「不十分だ」 81%⇒82%
なお、新しい質問事項に対する回答として次のものが目を引く。
与党の強行採決は 「問題ではない」 24%
「問題だ」 68%
法案成立した場合には、
「抑止力が高まる」 28%
「戦争に巻き込まれるおそれが強まる」 64%
安倍首相は、アメリカとの軍事的な連携を深めることによって抑止力を高めることができる。抑止力を高めることによって我が国の平和を守ることがこの法案のねらいだ。そのように「丁寧に」説明を繰り返してきた。その説明は、国会で、記者会見で、マスメディアで、テレビ放送で、インターネットで、これ以上はないと思えるほどの情報量として、国民に提供された。むろん、その論旨は荒唐無稽なものではない。しかし、国民は、首相がメリットとして強調する「平和への期待」に納得していないのだ。むしろ、首相がけっして触れようとしない「戦争への危険」の側面に説得力を感じている。これは重要なアンケート結果だ。
毎日は、「安保法案への世論の批判は強まっており、政府・与党の一連の対応が内閣支持率を押し下げたとみられる。」「法案成立によって日本に対する武力攻撃への『抑止力が高まる』は28%にとどまり、自衛隊の海外での活動拡大で『戦争に巻き込まれる恐れが強まる』が64%に上った。『戦争に巻き込まれる』と答えた層では9割近くが法案に反対した。抑止力と考えるか、戦争に巻き込まれると考えるかは、法案の賛否に密接に関連している。」と解説している。
共同通信も17・18両日に実施した世論調査結果を発表している。「内閣支持率は37・7%で、前回6月の47・4%から9・7ポイント急落した。不支持率は51・6%(前回43・0%)と過半数に達し、第2次安倍政権以降で初めて支持と不支持が逆転した。」と、毎日とほぼ同じ数字。1か月で10%の下落は、毎日同様の劇的な変化というべきだろう。
また、「与党が16日の衆院本会議で、多くの野党が退席や欠席する中、安全保障関連法案を採決し、可決したことには『よくなかった』との回答が73・3%を占めた。『よかった』は21・4%だった。」。なお、共同調査では、「安保法案の今国会成立に反対が68・2%で前回から5・1ポイント増えた。賛成は24・6%だった。」という結果。「採決強行よくなかった73・3%」「今国会成立に反対68・2%」は、圧倒的世論と言ってよかろう。「安倍政権は強行採決を反省し、今国会での法案成立は断念せよ」というのが、圧倒的民意なのだ。
明らかに、「安倍政権・自公・底上げ議会」と「民意」とが大きくずれている。安倍と心中せざるを得ない少数のA級戦犯幹部はともかく、風向きを読むに敏なる自民・公明の議員諸君、なかんずく来夏に選挙を控えている参議院議員諸君、ぜひとも考え直していただきたい。これは理を分けての説得ではない。実利を指摘してのアドバイスである。
永田町事情に通じている人の話の受け売りだが、「内閣支持率が40%を切れば黄信号が点滅を始める」のだそうだ。「35%まで下がれば黄信号」。「30%で赤信号が点滅」で、「25%がレッドカード=即退陣」とのこと。60年安保条約が自然成立して岸退陣となったときの支持率が28%、第1次安倍内閣が突然に辞任したときは29%だったという。29%で、安倍さんは突然に体調を崩して政権を投げ出したのだ。
こういうときには、往々にして思いがけないことが起こる。往々にして、デジャビュー現象が起こったりもするものだ。支持率低下は、安倍さんの体に悪いのだから、ここは療養に専念していただいた方が、天下国家のためでもあり安倍さん自身のためでもある。
目標は定まった。安倍政権の退陣と、戦争法案の廃案とは不即不離、同義なのだ。あと、10%の安倍内閣支持率低下が、安倍内閣を退陣に追い込み、同時に戦争法を葬って、憲法と平和を守ることになる。澤地久枝のセンスと先見性が俄然光ってきた。「アベ政治を許さない」がここしばらくのスローガンとして重みをもってきた。あの金子兜太の筆になるポスターとともにだ。
あと10%。そう難しいことではない。材料は盛りだくさんなのだから。
(2015年7月19日)