澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

地方紙が県政の広報紙になってはならない。

本日の岩手日報に、昨日県政記者クラブで会見して情報を提供した「浜の一揆」の記事が掲載になった。驚くべし。ベタ記事の扱い。しかも、内容不正確。提供した記者会見用資料さえ読んで書いたとは思えない。日経や読売の報道の方がずっとマシといわざるを得ない。かつてはそんなことはなかった。しっかりせよ、岩手日報・記者諸君。

盛岡在住の時代には日報の朝刊で夜が明け、日報の夕刊で日が暮れた。当時県内唯一の夕刊発行紙(残念ながら、今夕刊発行はなくなっている)。圧倒的なシェアを誇り、県内世論への影響力は抜群だった。その岩手日報の紙面にも日報の記者諸君にも、私には愛着がある。愛着があるだけに、その紙面の姿勢や水準には無関心ではいられない。

1985年国家秘密防止法案が国会上程されたとき、全国に反対運動が起こってこれを廃案にした。そのとき、岩手は先進的な運動の典型を作った。どのように、「先進的な運動の典型」かといえば、県内の弁護士とジャーナリストの共闘関係を築き上げたことにある。もっと具体的には、岩手弁護士会と岩手日報労働組合の強固な連携ができたこと。これを中心に、岩手大学などの教育関係者、著名な作家などの文化人が加わって、「国家秘密法に反対する岩手県民の会」がつくられ、多くの労組・民主団体が加わり、いくつもの企画を成功させた。日報紙上には、何度も県民のカンパによる国家秘密法反対の意見広告が掲載された。

この運動の以前から岩手弁護士会と岩手の記者諸君との交流は活発だった。その席では常に、「弁護士もジャーナリストも、ともに在野で反権力」とエールの交換がおこなわれた。メディア側の中心は常に日報だったが、朝日の本田雅和、毎日の広瀬金四郎など後に有名になった記者もいた。

当時、私は日報の記者にも紙面の姿勢にも敬意を払っていた。だから、今回は甘えた仲間意識があって、「浜の一揆」といえば、ピンと分かってくれるだろうとの思い込みがあった。目録を除いてA4・5頁の申請書と、6頁のマスコミへの記者会見説明書に目を通してくれれば十分だとも思っていた。しかも、記者会見には当事者の漁民が10人以上も立ち会って記者たちに震災後の生活苦を切々と訴えてもいる。不合理な県政を批判するよい記事を書いてもらえるにちがいない、そう思った私が浅はかだった。

岩手日報の記事の見出しは、「刺し網サケ漁 県に許可要望 県漁民組合」となっている。これが大間違い。これまでの水産行政にも、漁民の運動にも何の知識もなく、漁民の生活苦に何の関心もない記者が書くとこうなるのだろう。

この見出しは3年前なら正確なものだった。震災・津波の被害に、水産行政の面で向き合おうとしない県政に怒りを燃やした漁民が、岩手県漁民組合を立ち上げ、以来県に陳情・請願を繰り返した。そのメインの一つが、「固定式刺し網によるサケ漁の許可を県に要望」だった。しかし、3年を経て要望は遅遅として実現せず、漁民の困窮は「もう待てない」という域に至って、漁民個人が裁判を視野に入れた法的手続きに入ったのである。だから、「要望」ではなく「法的手続き」であり、「権利行使」なのだ。日報の記者には、全くこの重みが理解されていない。漫然と「陳情の繰り返しがあったのだろう」という程度の思い込みが、このような見出しになっているのだ。

記事本文を区切って、全文を紹介する。
「県内各漁協の組合員有志でつくる県漁民組合(藏徳平組合長)は30日、県に固定式刺し網によるサケ漁の許可を求める申請書を提出した。」
これも間違い。申請書を提出したのは、漁民組合という団体ではない。漁民38名が個人として法的な手続きを行ったのだ。記者会見では、この点について口を酸っぱくして説明したつもりだが、全く理解されていない。申請書のコピーも見ているはずなのだが、どうしてこんな記事になるのか了解不可能である。

「藏組合長ら約60人が県庁を訪問し、達増知事宛ての申請書を県水産振興課に届けた。」
これも不正確。「藏組合長ら約60人が県庁を訪問し」まではその通りだが、達増知事宛ての申請書を提出したのは漁民38名であって、「藏組合長」でも「組合長ら約60人」でもない。なお、「申請書を届けた。」という語感の軽さに胸が痛む。この記事を書いた記者には、漁民の声の切実さに耳を傾けようという心が感じられない。

「藏組合長は本県サケ漁が定置網とはえ縄のみで行われていることに触れた上で『定置網漁の経営主体は一部漁協の幹部に偏っている』と指摘。『青森、宮城で認められている固定式刺し網漁が本県で認められないのもおかしい』と主張した。」
この記事が漁民側主張の根拠を紹介する全文なのである。いったい何が問題なのか、記者自身に問題意識がないから、焦点が定まらない。この記事を読んだ一般読者はどう思うだろうか。「漁民組合は、一部漁協の幹部に偏っている定置網漁の権利を自分たちにも寄こせ」と主張しているのだろう、と誤解することになるのではないだろうか。また、「サケの漁法が問題となっており、定置網とはえ縄だけで行われている漁法に、固定式刺し網を追加して許可した方が合理的」だという漁法の選択が論争点なのかと思わせられるのではないか。

漁民の困窮した状態、要求の切迫性、法的な要求の正当性についての言及が全くないから、こんなのっぺらぼうな記事になるのだ。

「県は申請書の内容を審議し、同組合に返答する。」
これはヘンな記事。県が「漁民組合に返答する」ことはあるかも知れないが、本筋の話ではない。あくまで、漁民38名は法に則った許可処分を申請している。不許可処分に至れば、漁民らは不服審査申し立ての上、不許可処分を取り消す行政訴訟を提起することになる。

「同課の山口浩史漁業調整課長は『主張は理解するが、資源には限りがある。漁業者間での資源配分の合意形成が必要だ』との見解を示す。」
ここが最大の問題である。この記事では、県側の言い分を垂れ流す県政広報紙と変わらない。ジャーナリズムとしての在野性の片鱗もみえない。震災・津波後の漁民への思いやりの姿勢もない。

なお、漁業調整課長の『資源には限りがある。漁業者間での資源配分の合意形成が必要だ』が正確な取材に基づくコメントと前提して、一言しておきたい。

本件許可申請に障害事由となり得るものは、許可によって(1)サケ資源の枯渇を招くことになるか、(2)漁業の利益調整に不公正を来すか、の2点のみである。
県の立場は、(1)については何も言うことなく、(2)について、自らの判断を回避して「漁業者間での資源配分の合意形成が必要だ」と逃げていることになる。

「逃げている」という表現は不適切かも知れない。「漁業者間での資源配分の合意形成が必要」とは、言葉はきれいだが、「浜の有力者が譲歩しない限りは、現行の制度を変えるわけにはいかない」という態度表明というほかはない。つまりは、「新たな合意形成ができない限りは」、一般漁民に一方的な犠牲を強いて、一部の有力者の利益に奉仕している現行制度を変更しません、という宣言とも理解できるのだ。

漁民組合は、これまで「新たな資源配分の合意形成」に向けての努力を重ねてきた。その努力は3年に及んだ。それでも、どうしてもラチがあかないので、法的手続きに踏み切ったのだ。県の言い分はもう聞き飽きたことである。県政が、これまでと同じことしか言えないのなら、さっさと行政訴訟で決着をつけるだけのことである。

それまで、漁民は「浜の一揆」の旗を掲げ続けることになろう。
(2014年10月1日)

岩手三陸沿岸の「浜の一揆」

本日、岩手県漁民組合(組合長・藏?平)の組合員等38名を代理し、岩手県庁の水産振興課を窓口として達増拓也岩手県知事に対して、固定式刺し網によるサケ漁の許可を求める申請書を提出した。申請人らの所在地は、沿岸の各地に広くわたっている。申請人ら漁民は、このサケ漁の許可を求める運動を「浜の一揆」と呼んでいる。

本日の申請は第一次分であり、続いて近々に第二次分50名余の申請を予定しており、さらに第三次申請も想定されている。漁民のサケ漁の許可申請は、その生計と生業を維持するための切実な要求に基づくものであるだけでなく、震災後の沿岸地域経済復興に資するものであり、漁業法の理念に基づいた正当な要求でもある。

秋から冬にかけて漁期となるサケは、岩手県の漁業における基幹魚種とされる。ところが、奇妙なことに岩手県においては一般漁民はこれを採捕することを許されていない。県内では、サケはそのほとんどが大規模な定置網漁業によって採捕されるが、定置網漁業の経営主体は漁協と実質的に一部漁協の幹部であって、岩手の一般漁民は豊富なサケを目の前にして漁に加わることができない。また、この時期、サケ以外にめぼしい採捕魚種はない。

東日本大震災によって壊滅的打撃を受けた岩手県沿岸の漁民にとって、秋サケ漁禁止の事態が継続する限り、岩手三陸漁民の後継者の育成はおろか、現在の漁業の継続自体が不可能となっている。一般漁民において可能な「固定式刺し網」漁による秋サケの採捕を可能とすることが、漁民の生計を維持し、生業を回復して継続するために死活的に重大な要求なのである。

岩手県漁民組合は、2011年10月の結成以来、今日まで、一般漁民に固定式刺し網によるサケ漁を許可するよう県や国の水産行政に陳情や請願を重ねて粘り強く求め続けて来た。しかし、その思いは行政に届かぬままいたずらに時が経過するばかりで、すでに漁民の困窮は、これ以上漫然と行政の変化を待つことができない事態にまで至っている。本日の申請は、行政不服審査法や行政事件訴訟法による法的手続きまで視野におくものである。知事は、漁民に背を向けることなく、「浜の一揆」の要求に応えなければならない。申請人ら漁民の生存権を擁護する立場に立脚し、震災後の沿岸地域経済復興の観点をも踏まえ、また本来あるべき民主的な漁業行政の理念に則って、速やかに本申請を許可すべきである。

そもそも、三陸の漁民に、「サケを捕ってはならない」とする現行の水産行政のあり方が不自然で、不合理というほかはない。県境を越えれば、宮城県でも、青森県でも、その沿岸の漁民は当然の権利として、固定式刺し網によるサケ漁に勤しんでいるのである。申請人らは、これまでこの不自然で不合理な岩手県の水産行政に甘んじてきた。しかし、震災後の生活苦はその不合理を耐え難いものとして、今ようやくにして公正な漁業資源の配分を要求する法的手続きに至ったものである。

漁業法は、漁業生産力の民主的発展を法の目的としている。具体的には、水産資源を保護して漁業の持続性を確保すること、および有限な水産資源の平等で合理的な配分を目的として掲げ、これを法第1条は、「漁業の民主化を図ることを目的とする」と表現している。当然に、岩手県の水産行政も、この法の理念に基づくものでなくてはならない。

最大の問題は、水産資源の平等で公正な配分の実現にある。「漁業の民主化」が必要であり、その民主化の要求運動が「浜の一揆」と呼ばれる所以である。漁協が必ずしも民主的組織ではなく定置網によるサケの漁獲が一般組合員の利益として還元されない現実がある。また、漁協幹部が実質的に個人として定置網漁を営んで巨利を得ている現実もある。

漁民の目から見て、県の水産行政は漁民の利益に配慮するものとなっていない。むしろ、水産行政幹部の天下り先組織の有力者の利益のための行政としか映らない。

漁民のすべてに公正に秋サケ漁を解放せよ。その要求の実現まで、「浜の一揆」は続くことになる。
(2014年9月30日)

香港の若者よ、若者であることの特権を徹底して謳歌せよ

反体制であることは、しがらみからの束縛に自由な若者の特権である。
齢を重ね、生活のしがらみや、社会とのしがらみが複雑に絡みついてくると、人は生きるために右顧左眄せざるを得なくなる。心ならずも体制に屈し迎合し、理想や理念とは異なる行動をするうちに、やがては本心までが変わってしまうのだ。かつての理想や理念を「若気の至り」として、保守化した自分を合理化してしまう。「それが大人になるということなのだ」などと自分に言い訳もする。

香港の若者よ、若者であることの特権を徹底して謳歌せよ。怪我をせぬよう心しつつ、粘り強く闘え。あきらかに正義は君たちの側にある。

「一国二制度」下にある香港では、中国の全国人民代表大会が、2017年の長官選挙から「普通選挙」導入を認める一方で、民主派の立候補を事実上排除する決定をした。「行政長官選の候補者は指名委員会を構成する1200人の半数以上の推薦が必要だと定めた。この委員会のメンバーは親中派が多くを占めるとみられている。この決定に従えば、中国政府に逆らう候補者は選挙から除外される。『中国を愛する』候補者だけが立候補を申請できる」(日経)と報じられている。

被選挙権の剥奪である。民主々義の根幹にある選挙を選挙でなくしてしまおうというのだ。かくして選挙は、権力が正当性獲得するためのカムフラージュ手段と化する。若者ならずとも、怒るのは当然である。

中国外務省の報道官は今日(9月29日)、「香港での民主派団体による抗議デモのような『違法行為』を支持する国外の一切の動きに反対する」と表明し、「中国国内の問題に外国が介入すべきでないとの見解を示した」(ロイター)とそうだ。民主々義を求める集団行動が、彼の国では「違法行為」なのだ。体制に反するものを「違法」というのだろう。人権も民主々義も、体制の枠組みを逸脱すれば、「違法」となるのだ。この私のブログも、「違法行為を支持する国外の動き」なのだろうか。

体制も権力も醜悪だ。選挙制度すら、公正・公平なものにしようとせず、体制に奉仕するシステムにしようとする。民意にしたがって権力を形成し運営しようというのではない。権力の側が民主々義をも押さえ込み、選挙をも体制を維持するための道具にしてしまおうというのだ。

中国だけはない。日本も五十歩百歩。同罪といってもよい。政権の維持に好都合な小選挙区制の選挙制度導入強行によって、底上げの議席を積み重ねて「安定政権」を作っているのが自民党政権ではないか。憲法の平和主義が不都合として、閣議決定で解釈を変えることで、事実上憲法を変えてしまっているのが安倍内閣ではないか。

香港と違うところは、反政府デモの規模の圧倒的な格差である。香港の人口は700万余だという。その国で今回の街頭デモにはピーク時8万人が参加したという。7月1日以来の運動参加者は延べ50万人に及ぶという。これはすごい数字だ。なるほど中国がまっとうな選挙を押さえ込もうというわけだ。

体制の権力に無批判に迎合する姿勢も醜悪だ。私は、もう若くはないが、せめて批判を続けることで、老醜を避けたいと思う。
(2014年9月29日)

本日の神奈川新聞に見るスジの通った姿勢

たまたま、本日(9月28日)の神奈川新聞に目を通した。
全国ニュースからローカルニュース、そして論説・特報、投書欄までの充実ぶりを立派なものと感心した。なるほど、確かに中央紙より地方紙にこそジャーナリスト魂が宿っている。

とりわけ、社会面の「事件『繰り返させない』 横浜・米軍機墜落37年 横須賀で平和集会」の記事に、地元神奈川県民の立ち場からの取り上げ方が典型的に表れている。要約しようと思ったが、もったいなくて、全文を引用させていただく。

「住民3人が死亡、6人が負傷した横浜・米軍機墜落事件から37年となる27日、横須賀市長沢の『平和の母子像』前で集会が開かれた。事件で妻が重傷を負った椎葉寅生さん(76)も参加。『このような事件を再び繰り返させない日本をつくろう』と訴えた。
 1977年の墜落事件から8年後の85年、犠牲者の死を無駄にせず、事件を語り継ごうと像が建てられた。以来毎年、集会が開かれている。
 被害者の冥福を祈るため、毎年参加している椎葉さんは『これは事故でなく、墜落事件。二度と繰り返してはいけない』と強調。事件を風化させまいという思いに加え、日本を取り巻く安全保障の変容についても触れ、安倍政権の集団的自衛権行使容認の閣議決定について『憲法9条で戦争は禁止されている。それを解釈で中身を変えようとした。こんなことを許したら国会も議員も必要なくなる。どうか皆さん、憲法9条を守ろうじゃないですか』と呼び掛けた。
 米軍機に関わる事故は後を絶たず、昨年12月には三浦市で米軍ヘリが不時着に失敗した。『米軍基地がある限り、事故はなくならない』と椎葉さん。一方、米軍の新型輸送機オスプレイが県内にも飛来している現状について『あれは論外。米国が日本政府に売りつけようとしている。医療や福祉の予算は削られているのに、私たちの税金が使われている』と怒りをあらわにした。
 事件は77年9月27日、在日米海軍厚木基地(大和、綾瀬市)を離れたジェット偵察機が、エンジントラブルで横浜市緑区(現・青葉区)の住宅地に墜落。全身やけどなどで親子3人が死亡し、6人が負傷した。」

もしやと思って、神奈川新聞のホームページを検索してみた。案の定である。
「ニュース」が6項目に分類されている。「社会」「政治・行政」「経済」「子育て・教育」「医療・介護」、そして「在日米軍・防衛」なのだ。
http://www.kanaloco.jp/topic/sub-category?categoryid=13&limit=100

これをクリックすると、「沖縄からのメッセージ 辺野古・普天間 届かぬ『ノー』涙も出ず」「横須賀基地にGW配備6年 撤回求め市民ら行進」「【照明灯】日米密約問題」「深谷通信所跡地 横浜市が市民暫定利用に前向き」「【社説】辺野古移設 計画の混迷は不可避だ」などの記事が並んでいる。地域に根ざした確かなジャーナリズムが存在するという感慨を禁じ得ない。(なお、「GW配備」とは、原子力空母「ジョージ・ワシントン」のこと。念のため)

もう一つ、紹介に値するのが、「紙面拝見」という識者による神奈川新聞検証記事。本日の論者は、横浜在住のフェリス女学院大学矢野久美子教授。

「差別意識と向き合う」というタイトルで、外国人労働者、ヘイトスピーチや朝鮮学校の処遇問題などの民族差別について、同紙の報道に依拠して語っている。以下はその一部。

「9月8日付論説・特報面での師岡康子さんの言葉を書き留めておきたい。『人種差別撤廃条約は植民地主義や奴隷制度への反省の上に結ばれたものだ。例えば、ヘイトスピーチについての勧告で「根本的原因に取り組むべき」としているのも、植民地主義に根ざした朝鮮人への差別であると認識しているからだ』
 記事によれば、国連人種差別撤廃委員会の審査では関東大震災における朝鮮人虐殺についても『いつ調査を行うのか』と問われたが、日本政府は『1995年に人種差別撤廃条約を締結しており、その以前に生じた問題は条約には適用されない』と答弁したという。『反省の上に結ばれた条約』なのだから、歴史の事実がどう伝えられているかということも重要な論点だろう。9月9日、10日付論説・特報面では、横浜市の社会科副読本で朝鮮人虐殺の記述が改訂されるプロセスが書かれている。これらの記事から歴史認識が現在の差別や政治動向と連動していることがよく分かる。『植民地支配を正当化するために熟成された差別意識』(9月1日付照明灯)と向き合うことこそが、今問われているのだろう。」

神奈川新聞の記事だけに拠って、今日的な人権問題や憲法問題ついて、これだけのことが語れるのだ。
中央各紙にも、このような姿勢がほしい。
(2014年9月28日)

アジア大会からナショナリズムを希釈して、国際交流と友好の場に

アジア大会がようやく賑やかになってきた。とはいうものの、どこの誰が何色のメダルを取ろうが、あるいは取り損ねようが、それ自体はたいしたことではない。

それよりも、目を惹いたのが、本日(9月27日)毎日新聞夕刊3面の、「eye:スポーツで越える壁 仁川アジア大会、広がる日韓交流」という特集記事。

「韓国・仁川で開催中の第17回アジア大会には45カ国・地域から選手約9500人が参加して10月4日まで連日熱戦が繰り広げられている。今大会は日韓関係がぎくしゃくする中での開催となったが、競技会場などでは両国選手や観客が交流する場面が随所に見られた。印象的なシーンをレンズで追った。」というもの。

自国選手の活躍を称賛してナショナリズムをあおるでなく、選手のゴシップを取り上げるでなく、競技会を通じて「両国選手や観客の交流」が広がっていることを記事にしている。毎日の明確な視点を評価したい。

この特集の中に、「『日韓交流おまつり』で金魚すくいに興じる韓国人女性ら。」という写真と短いキャプションがある。「10回目の今回は過去最高の5万人が来場した。初めて参加したオ・ヘウォン(18)さんは『最近の韓日関係で雰囲気が心配ったが、みんな笑顔でよい気持ちになれた』=ソウルで」という内容。

この日韓関係のギグシャグの中で、アジア大会が、ソウルでの「日韓交流おまつり」を大規模に成功させ、「みんな笑顔でよい気持ちになれた」というのなら、スポーツ祭典の効用、たいしたものではないか。毎日の特集記事の結びの言葉が、「スポーツには国の枠を軽々と超える力がある。それを改めて感じている。」となっている。なるほどと思わせる。

これに較べれば、国別のメダル争いなどは些細な、どうでもよいこと。アジア大会でのメダル獲得数は、かつては日本の独壇場だった。1980年代からは、中国がトップ、韓国がこれに続いて、日本が3位という順位が定着している。中国や韓国のメダル獲得数は新興国故のこだわりの表れと解しておけばよい。今回も同じようになる模様だが、日本の3位は、成熟した国のちょうどよい定位置ではないか。

過剰なナショナリズムの発揚から余裕を失い、メダルや国旗にこだわったのでは碌なことにはならない。そのことの教訓となる事件がいくつか起きている。

世界的なスイマーとして高名な、孫楊(スン・ヤン)の発言が話題となっている。9月23日に男子400メートル自由形で日本の萩野公介を破って金メダルをとり、さらに24日400メートルリレーでも中国チームが日本を破って優勝すると、中国人記者の質問に「(勝って)気持ちいいというだけではなく、今夜は中国人に留飲が下がる思いをさせた。正直に言うと、日本の国歌を聞くと嫌な感じになる」(訳は毎日による)とコメントした。彼は、アスリートとしては大成したが、社会人として身を処すべき方法には疎い人のようだ。換言すれば、体裁を繕うすべを身につけていない正直な人物。それ故に、本音を言っちゃったのだ。

おそらく、「君が代=嫌な感じ」は、彼の本音であるだけでなく、多くの中国人の本音でもあるのだろう。なにしろ、かつて海を渡って侵略してきた恐るべき軍隊の歌と旗そのものなのだから。そんな来歴の歌や旗を、未だに国旗国歌としている方の神経も問われなければならないが。

しかし、中国の世論は相当に成熟している。孫の発言には賛意だけではなく、「場をわきまえよ」という中国国内からの批判の声が上がったそうだ。彼は26日1500メートル自由形で優勝した後に、「申し訳ないと思っている」と謝罪し、釈明した。「おそらく誤解がある。全ての選手は自国の国歌を聞きたいと思っているということ」という内容。

ところで、中国の国歌は「起来!不愿做奴隶的人?!」(立ち上がれ、奴隷となることを望まぬ人々よ)という呼びかけで始まる。日本軍の侵略に屈せず立ち上がって砲火を恐れず戦え、という内容である。日中戦争中、中国共産党支配地域で抗日歌曲として歌われ浸透したもの。だから、「正直に言うと、中国の国歌を聞くと嫌な感じになる」という日本人がいても、いっこうに不思議ではない。「中国への日本軍隊派遣は、侵略ではなくアジア解放のためだ」などと考えている向きには、なおさらである。あるいは、「戦後70年を経て、未だに日中戦争をテーマの国歌でもあるまい」と考える人にも不愉快かもしれない。

相互に不愉快をもたらす、やっかいな国旗や国歌は、国際友好の障害物として大会に持ち込まないに如くはない。ナショナリズムとは克服さるべきもの。あおるための小道具を神聖視する必要はさらさらない。

もう一つの話題が、冨田尚弥選手のカメラ窃盗事件。「レンズを外し、800万ウォン(約83万円)相当のプロ仕様のカメラ本体を盗んだ疑い」が報じられている。同選手は、前回大会の200メートル平泳ぎ金メダリスト。「カメラを見た瞬間、欲しくなった」と供述しているという。トップアスリートであることと、人間として良識をわきまえていることとが何の関連性もないことをよく証明している。伝えられている限りで冨田選手の手口に弁解の余地はない。

しかし、物欲は誰にも共通してあるもの。通常、人はこれを抑制して社会生活を営むが、一定の確率で、抑制が働かない場合が生じる。窃盗罪を犯す人と犯さない人との間に、質的で決定的な差があるわけではない。どこの国のどこの集団にも、乱暴者がおり、暴言を吐くものがあり、窃盗を働く者だっているということだ。

だから、責めを負うべきは冨田選手個人にとどまる。ことさらに冨田選手のカメラ窃盗事件を、「日本人の本性の表れ」などと言ってはならない。そのような言動こそ、「悪しきナショナリズムの表れ」なのだ。

ナショナリズムからの解放こそが、国民の成熟度のバロメーターだ。あらゆる国際イベントからナショナリズムを可能な限り希釈して、国際交流と友好の場にしたいものと思う。
(2014年9月27日)

日弁連が、石原慎太郎元都知事の差別発言に3度目の人権救済措置

私には、「水に落ちた犬を打つ」趣味はない。首都の公教育から自由を奪った張本人である石原慎太郎(元知事)は、すでに「水に落ち目の犬」状態と思っていたら、なかなかそうでもない。

昨日(9月25日)「太陽の党が復活」と報じられた。各紙に西村・田母神・石原という極右トリオが手をつないだ写真が掲載されている。
「無所属の西村真悟衆院議員と元航空幕僚長の田母神俊雄氏は25日、国会内で記者会見し、2012年に石原慎太郎氏らが結成して休眠状態だった『太陽の党』を引き継ぎ、党の活動を再開すると発表した。代表に西村氏、代表幹事には田母神氏が就いた。所属国会議員は西村氏1人。次期衆院選で党勢拡大を図る。会見には、次世代の党の最高顧問を務める石原氏も出席した。太陽の党は、次世代の党との連携を視野に入れている。」(共同)との報道。

そんなわけで、石原慎太郎元知事について、打つこと、叩くことを遠慮することはなさそうだ。

日弁連は、毎月機関誌「自由と正義」を会員に配布している。その9月号が先日届いたが、日弁連人権擁護委員会の委員会ニュース「人権を守る」9月号が同封されていた。これは年4回刊である。

ここで、日弁連が石原慎太郎元知事に人権救済警告をしていることを知った。今年の4月下旬のことだが、おそらく、よくは知られていないことなので、全文を紹介しておきたい。

タイトルは、『差別発言で元都知事に再度の警告』『今回は少数者の人権侵害で日弁連からの照会も無視』というもの。担当者の苦々しさが、伝わってくる。

人権救済申し立てに対しては、「不措置」か「措置」の結論が出される。調査の結果、人権侵害またはそのおそれがあると認められる場合には「措置」となり、措置の内容としては、司法的措置(告発、準起訴)、警告(意見を通告し反省を求める)、勧告(適切な措置を求める)、要望(趣旨の実現を期待)、助言・協力、意見の表明等がある。

また、さらに、日弁連は人権擁護委員会による措置の内容を実現させるため、2009年4月以降、人権救済申立事件で警告・勧告・要望等の措置を執行した事例について、一定期間経過後(現在は6ヶ月経過後)に、各執行先に対して、日弁連の警告・勧告・要望等を受け、どのような対応をしたかを照会(確認)している。回答内容が不十分な場合、再度の照会を行うこともある、という。

今回の人権救済措置は同一人物に3度目のもの。紹介記事の内容は以下の通り。

「日弁連は本年4月22日、衆院議員の石原慎太郎元東京都知事に対し、知事時代に、同性愛者など性的少数者を蔑視し、社会から排除しようとする発言があり、性的少数者の人権を侵害しており、社会の差別意識を助長する危険性もあるとして、強く反省を求める警告をしました。

「石原元知事の差別発言に対する日弁連の人権救済措置は、いずれも知事時代の2000年8月の『三国人発言』に対する要望、03年12月の『ババア発言』に対する警告に続いて三度目です。石原元知事は今回、事実関係の確認を求める日弁連からの二度の照会を無視し、一切の回答を拒否。日弁連は、石原元知事からの主張や反論はないと判断した上で、石原元知事が、対象は異なるが差別発言を繰り返していると認定し、元職であっても知事による発言の影響力は大きいとして、再度の警告としました。

『繰り返される差別発言』
 警告の対象となった石原元都知事の発言は三つ。まず10年12月、青少年健全育成条例改正を求める要望書を提出に都庁を訪れたPTA団体などの代表者に「テレビなんかにも同性愛者が平気で出るでしょ。日本は野放図になり過ぎている。使命感を持ってやりますよ」などと発言し(第1発言)、この発言の真意を記者から問われると「(同性愛者は)どこかやっぱり足らない感じがする。遺伝とかのせいでしょうか」などと発言したこと(第2発言)が、いずれも新聞報道されました。
 さらに11年2月発売の週刊誌の記事では、「我欲を満たすための野放図な害毒は日本を駄目にする」「同性愛の男性が女装して、婦人用化粧品のコマーシャルに出てくるような社会は、キリスト教社会でも、イスラム教社会でもあり得ない。日本だけがあっていいという考え方はできない」などと発言していました(第3発言)。
 これに対して、国際的な人権NGOや性的少数者の人権保障を訴えるNGOがインターネット上で抗議活動をおこない、海外からも批判されるなど、社会的反響も確認できました。

『憲法や自由権規約を侵害』
 そこで日弁連は、事実関係を調査し、いずれの発言も都知事としての発言であると認定した上で「性的少数者はテレビなどに出演すべきではない存在だという誤った認識を社会に与え」「性的少数者を社会から排除すべきとの差別を招きかねない」「性的少数者は人間として不十分だと受け止められる危険性があり、差別を助長する」と判断。多様な性的指向や性自認を認めず、性的少数者の人権を否定し、その社会進出を拒否し、排除しようとする発言であり、憲法13、14条や国際人権規約などが保障する性的少数者の権利を侵害すると結論づけました。」

日弁連の石原に対する3回の要望・警告は、「民族差別」「女性差別」「性的マイノリティへの差別」についての公然たる発言を人権侵害と認定するものである。人権感覚の欠如に基づく差別発言は、同人の民主主義社会における政治家としての致命的欠陥を露呈している。

このような人物が関わる「太陽の党」は必然的に日陰を作る。日陰となる位置にある人を差別する政党の「党勢拡大」など許してはならない。
(2014年9月26日)

株主代表訴訟と住民訴訟、明と暗の二つの判決

誰もが自分の権利・利益を保護するために裁判を申し立てる権利を持つ(憲法32条)。とはいえ、裁判は自分の権利・利益の保護を求めてのもの。自分の権利の保護を離れての訴訟提起は法が想定するところではない。正義感から、公益のために、世の不正や違憲の事実を裁判所に訴えて正そうと、裁判を提起することは原則として許されない。

もっとも、これにはいくつかの例外がある。自分の権利保護を内容としない訴訟を「客観訴訟」と言い、客観訴訟が認められる典型例が地方自治法上の「住民訴訟」。地方自治体の財務会計上の行為に違法があると主張する住民は、たった一人でも、住民監査を経て訴訟を提起することができる。住民であるという資格だけで、全住民を代表して原告となり、自治体コンプライアンスの監視役となって訴訟ができるのだ。

よく似た制度が「株主代表訴訟」。これも、取締役らの不正があったと主張する株主は、たった一人で裁判所に提訴ができる。各取締役個人を被告として、「会社に与えた損害を賠償せよ」という内容になる。原告にではなく、会社に支払えという裁判。住民訴訟同様に、原告となる株主個人が、全株主を代表して損なわれた会社の利益を回復する仕組みであり、この制度あることによって取締役の不正防止が期待されている。

株主代表訴訟と住民訴訟、両者とも私益のためではなく、「公益」のために認められた特別の訴訟類型。はからずも本日(9月25日)東京地裁で、両分野で、注目すべき判決が言い渡された。

まずは、株主代表訴訟。西松建設事件である。
「旧経営陣に6億円賠償命令 西松建設の株主代表訴訟
 西松建設の巨額献金事件で会社が損害を受けたとして、市民団体「株主オンブズマン」(大阪市)のメンバーで個人株主の男性が、旧経営陣10人に総額約6億9千万円の損害賠償を求めた株主代表訴訟の判決で東京地裁は25日、6人に対し総額約6億7200万円を西松建設に支払うよう命じた。
 事件では、会社が設立したダミーの政治団体に幹部社員らが寄付し、賞与の形で会社が穴埋めするなどの方法で政治献金が捻出されていた。10人は、献金当時に役員を務めていた。
 大竹昭彦裁判長は、うち社長経験者ら6人が『役員としての注意義務違反があった』と指摘した。」(共同通信)

西松建設は、実体のない政治団体を使って国会議員に裏金を献金していた。2008年から東京地検特捜部が本社を捜索し、2009年に事件は「偽装献金事件」として政界に波及した。自民党や民主党の多数政治家に大金が流れていた。

西松建設幹部と国会議員秘書など計5人が、政治資金規正法違反として起訴され、4人が執行猶予付きの禁錮刑となり、1人が略式手続きによる罰金刑となって、刑事事件は確定した。

刑事事件は確定しても、会社から違法に流出した政治献金の穴は残ったまま。各取締役個人に対して、これを賠償せよというのが、今回の株主代表訴訟の判決。

たった一人の株主が、会社の不正を質した判決に到達したすばらしい実践例。「株主オンブズマン」(大阪市)の日常的な活動があったればこその成果といえよう。

もう一つは、住民訴訟関連の判決。報道の内容は次のとおり。

「高層マンション建設を妨害したと裁判で認定され、不動産会社に約3100万円を支払った東京都国立市が、上原公子元市長に同額の賠償を求めた訴訟の判決が25日、東京地裁であり、増田稔裁判長は請求を棄却した。
増田裁判長は『市議会は元市長に対する賠償請求権放棄を議決し、現市長は異議を申し立てていないので、請求は信義則に反し許されない』と指摘した。」(時事)

先行する住民訴訟において、東京地裁判決(2010年12月22日)が、元市長の国立市に対する賠償責任を認め、この判決は確定している。元市長は任意の支払いを拒んだので、国立市は元市長を被告として同額の支払いを求める訴訟を提起した。

ところが、その判決の直前に新たな事態が出来した。市議会が、11対9の票差で裁判にかかっている国立市の債権を放棄する決議をしたのだ。今日の判決は、この決議の効果をめぐっての解釈を争点としたものとなり、結論として国立市の請求を棄却した。

こちらは、せっかくの住民訴訟の意義を無にする判決となって、高裁、最高裁にもつれることになるだろう。

問題は、たった一人でも行政の違法を質すことができるはずの制度が、議会の多数決で、その機能が無に帰すことになる点にある。

たとえば、総務省の第29次地方制度調査会「今後の基礎自治体及び監査・議会制度のあり方に関する答申」(2009年6月16日)は、次のように述べている。
「近年、議会が、4号訴訟(典型的な住民訴訟の類型)の係属中に当該訴訟で紛争の対象となっている損害賠償請求権を放棄する議決を行い、そのことが訴訟の結果に影響を与えることとなった事例がいくつか見られるようになっている。
4号訴訟で紛争の対象となっている損害賠償又は不当利得返還の請求権を当該訴訟の係属中に放棄することは、住民に対し裁判所への出訴を認めた住民訴訟制度の趣旨を損なうこととなりかねない。このため、4号訴訟の係属中は、当該訴訟で紛争の対象となっている損害賠償又は不当利得返還の請求権の放棄を制限するような措置を講ずるべきである。」

私は、この答申の考え方に賛成である。首長の違法による損害賠償債務を議会が多数決で免責できるとすることには、とうてい納得し難い。国立市はいざ知らず、ほとんどの地方自治体の議会は、圧倒的な保守地盤によって形成されている現実がある。首長の違法を質すせっかくの住民訴訟の機能がみすみす奪われることを認めがたい。

とはいえ、現行制度では、自治体の権利の放棄ができることにはなっており、その場合は議会の議決が必要とされている。問題は、議会の議決だけで債権の放棄が有効にできるかということである。

最高裁は、古くから「市議会の議決は、法人格を有する市の内部的意思決定に過ぎなく、それだけでは市の行為としての効力を有しない」としてきた。高裁で分かれた住民訴訟中の債権放棄議決の効力について、最近の最高裁判決がこれを再確認している。

2012(平成24)年4月20日と同月23日の第二小法廷判決が、「議決による債権放棄には、長による執行行為としての放棄の意思表示が必要」とし、これに反する高裁判決を破棄して差し戻しているのだ。

国立市の現市長は、「長による執行行為としての放棄の意思表示」をしていないはず。最高裁判例に照らして、「現市長は異議を申し立てていないので、請求は信義則に反し許されない」は、すこぶる疑問であり、不可解でもある。

首長の行為の違法を追求可能とするのが住民訴訟の制度の趣旨。この判決では、市長派が議会の過半数を味方にすれば責任を逃れることが可能となる。さらに、前市長・元市長の違法を追求しようという現市長の意図も、議会の過半数で覆されることになる。

このままでは、せっかくの住民訴訟の制度の趣旨が減殺される。上級審での是正の判断を待ちたいところではある。
(2014年9月25日)

ビキニの水爆と福島の原発はつながっている

昨日(9月23日)が久保山愛吉忌。第五福竜丸の無線長だった久保山愛吉がなくなって60年になる。

1954年3月1日に、一連のアメリカ軍の水素爆弾実験(キャッスル作戦)が始まった。ブラボーと名付けられた、その最初の一発によって、第五福竜丸の乗組員23人が死の灰を浴びて、全員に急性放射線障害が生じた。各人が個別に浴びた放被曝線量は「最小で1.6シーベルト、最大で7.1シーベルト」と算定されている。そして、被曝から207日後に久保山が帰らぬ人となった。

病理解剖の結果による久保山の死因について、都築正男医師(元東大教授・当時日本赤十字病院長)は、「久保山さんの遺骸の解剖検査によって、われわれは今日まで習ったことも見たこともない、人類始まって以来の初めての障害、新しい病気について、その一端を知る機会を与えられた」と言っている。

聞間元医師は、「久保山の死因は、放射性降下物の内部被曝による多臓器不全、特に免疫不全状態を基盤にして、肝炎ウィルスの侵襲と免疫異常応答との複合的、重層的な共働成因により、亜急性の劇症肝炎を生じたもの」で、「原爆症被爆者にも見られなかった『歴史始まって以来の新しい病気』『放射能症性肝病変』なのであり、『久保山病(Kuboyama Disease)』と名付け、後世に伝えるべき」と述べている(以上、「第五福竜丸は航海中ー60年の記録」から)。

久保山は1914年の生まれ、死亡時40歳。私の父と同い年で、今生きていれば、100歳になる。23人の第五福竜丸乗組員の最年長者だった。妻と3人の幼子を残しての死であった。長女が私と同年輩であろう。

なお、乗組員のリーダーである漁労長・見崎吉男が28歳。以下、ほとんどが20代であって、その若さに驚く。(余談だが、第五福竜丸展示館に、見崎吉男の筆になる長文の「船内心得」が掲示されている。当時、操舵室に張ってあったもの。その文章の格調に舌を巻かざるを得ない)。久保山だけが、召集されて従軍の経験を持っていたのだろう。従軍経験者の常識として、被曝の事実は無線で打電することなく、寄港まで伏せられた。米軍を警戒してのこととされる。

久保山の死は、核爆発によるものではなく、核爆発後の放射線障害によるものである。原子力発電所事故による放射線障害と変わるところがない。だから、久保山の死は、原水爆の被害として核廃絶を訴える原点であると同時に、核の平和利用への警鐘としても、人類史的な大事件なのだ。福島第一原発事故の後、そのことが誰の目にも明瞭になっている。

被ばく当時20歳だった第五福竜丸の乗組員大石又七が今は80歳である。「俺は死ぬまでたたかいつづける」と宣言し、病を押して証言者として文字通り命がけで活躍している。

昨日(9月23日)江東区亀戸中央公園で開催された「さようなら原発全国大集会」で、車椅子の大石が被ばく体験を話した。以下は、本日付東京新聞朝刊社会面(31面)の記事。

「ビキニの水爆と福島の原発はつながっている。核兵器も原発も危険は同じ。絶対反対です」「乗組員には頭痛や髪の毛が抜けるなどの急性症状が出た。この日は被ばくの半年後に亡くなった無線長の久保山愛吉さんの命日。『核実験の反対運動は当時タブーとされ、内部被ばくの研究も進まなかった。福島第一原発事故の後も、同じことが繰り返されようとしている。忘れられつつあるビキニ事件を今の人たちに伝えたかった』と大石さんは語った」

久保山愛吉が遺した言葉が、多くの人々の胸の奥底にある。
「原水爆の犠牲者は、私で最後にしてほしい」

この言葉は、大石又七の「ビキニの水爆と福島の原発はつながっている。核兵器も原発も危険は同じ」の名言と一体のものして理解すべきだろう。

「原水爆であれ原発であれ、核による人類の被害は、久保山愛吉の尊い犠牲を最後にしなければならない」と。
(2014年9月24日)

朝日バッシングの異様に対抗言論を

滅多にないことだが、時に寸鉄人を刺すごときコラムにぶつかって膝を打つことがある。9月21日付東京新聞25面の「本音のコラム・日本版マッカーシズム」(山口二郎)ははまさにそれ。そして、その下欄に続く「週刊誌を読む・池上さん『朝日たたき』にクギ」篠田博之)も、池上彰コメントを紹介して、実に的確に朝日バッシングの風潮を批判している。その姿勢に学びたい。

山口コラムの冒頭は、以下の通り。
「このところの朝日新聞攻撃は異様である。為政者とそれを翼賛するメディアのうそは垂れ流され、権力に批判的なメディアのミスは徹底的に叩かれる。」

まったくその通りだ。記事が不正確だからたたかれたのではない。朝日だから、従軍慰安婦批判だから、反原発の論調だったから、「徹底的に叩かれた」のだ。だから、まさしく異様、まさしく常軌を逸した、たたき方になっているのだ。

「為政者とそれを翼賛するメディアのうそは垂れ流され」の例示として、山口は、「安倍首相は『福島第一原発の汚染水はアンダーコントロール』と世界に向かって大うそをついたことについて、撤回、謝罪したのか。読売や産経も、自分の誤りは棚に上げている」という。指摘の通り、為政者のうそは、汚染水同様に垂れ流され、右派のメディアはこれを批判しようとはしない。

篠田が紹介する池上彰コメントは、週刊文春に掲載された「罪なき者、石を投げよ」というもの。今、朝日に石を投げているお調子者にたいして、「汝らにも罪あり」と、その卑劣さをたしなめる内容だという。

そのなかに、「為政者を翼賛するメディアのうそ」の具体例として、次のくだりがある。
私(池上)は、かつて、ある新聞社の社内報(記事審査報)に連載コラムを持っていました。このコラムの中で、その新聞社の報道姿勢に注文(批判に近いもの)をつけた途端、担当者が私に会いに来て、『外部筆者に連載をお願いするシステムを止めることにしました』と通告されました。‥後で新聞社内から、『経営トップが池上の原稿を読んで激怒した』という情報が漏れてきました。‥新聞社が、どういう理由であれ、外部筆者の連載を突然止める手法に驚いた私は、新聞業界全体の恥になると考え、この話を私の中に封印してきました。しかし、この歴史を知らない若い記者たちが、朝日新聞を批判する記事を書いているのを見て、ここで敢えて書くことにしました。その新聞社の記者たちは、『石を投げる』ことはできないと思うのですが。

「ある新聞社」とは朝日のライバル紙。いま、朝日たたきをしながら「自社の新聞を購読するよう勧誘するチラシを大量に配布している」と、苦言が呈されている社。固有名詞こそ出てこないが、誰にでも推測が可能である。

山口は、現在の朝日たたきの現象を「日本版マッカーシズム」と警告する。
この状況は1950年代の米国で猛威を振るったマッカーシズムを思わせる。マッカーシーという政治家が反対者に「非米」「共産党シンパ」というレッテルを貼って社会的生命を奪ったのがマッカーシズムである。今、日本のマッカーシーたちが政府や報道機関を占拠し、権力に対する批判を封殺しようとしている。

ここで黙るわけにはいかない。権力者や体制側メディアのうそについても、追求しなければならない。マッカーシズムを止めたのは、エド・マーローという冷静なジャーナリストだった。彼は自分の番組で、マッカーシーのうそを暴いた」「いまの日本の自由と民主政治を守るために、学者もジャーナリストも、言論に関わるものがみな、エド・マーローの仕事をしなければならない。権力者のうそを黙って見過ごすことは、大きな罪である」
全くそのとおり。深く同感する。

篠田コラムは次のように終わっている。
池上さんは、『売国』という表現が、戦時中に言論封殺に使われた言葉であること指摘し、こう書いている。『言論機関の一員として、こんな用語は使わないようにすることが、せめてもの矜持ではないでしょうか』。池上さんに拍手だ

マッカーシーは、「非米」「共産党シンパ」という言葉を攻撃に用いて「赤狩り」をやった。いま、日本の右派メディアは口をそろえて、「売国」「反日」「国益を損なう」という言葉を用いてリベラル・バッシングに狂奔している。

マッカーシズムが全米を席巻していた頃、多くのメディアは、マッカーシーやその手先を批判しなかった。「共産党シンパ」を擁護したとして、自らが「非米活動委員会」に呼び出され、アカの烙印を押されることを恐れたからである。威嚇され、萎縮した結果が、マッカーシズムの脅威を助長した。ジャーナリストは、肝心なときに黙ってはならない。いや、ジャーナリストだけではない。民主主義を標榜する社会の市民は、主権者として声を上げ続けなくてはならないのだ。

私も、山口や篠田の姿勢に倣って肝に銘じよう。
ここで黙るわけにはいかない。権力者や体制側メディア、あるいは社会的強者の嘘やごまかしを、徹底して追求しよう」「いまの日本の自由と民主政治を守るために、言論に関わる者の一人として、私もエド・マーローになろう。権力者の嘘を黙って見過ごすことは、大きな罪なのだから
(2014年9月23日)

「敬愛する元帥の愛と配慮」と言わせる閉鎖社会の感覚

「仁川・アジア競技大会」が始まっている。やや盛り上がりに乏しいようだが、国境を越えて「45の国や地域から9700人を超える選手、監督・コーチ、取材陣、役員らが参加」し交流する大舞台。大規模な人と人との交流を通じて、相互理解と平和を構築する機会として意義のないはずはない。

各大会にスローガンが設定されるそうだ。今回の仁川大会は、「Diversity Shines Here(多様性がここで輝く)」だという。歴史・文化・伝統・宗教の多様性を認め合おうとの趣旨で、それ自体に文句のあろうはずはない。しかし、参加各国において少数民族抑圧の歴史や、男尊女卑の文化、体制順応の伝統、寛容ならざる宗教等々が横行している現実がある。その負の多様性を「輝く」ものと称えることはできない。多様性の名のもとにこれをも尊重すべしとしてはならない。

そのような文脈で北朝鮮選手団に目を向けざるを得ない。その北朝鮮が大会序盤に、「重量挙げで連日の世界新記録」と話題になっている。
「仁川アジア大会第3日(21日)重量挙げ男子は北朝鮮勢の連日の世界新記録に沸いた。男子56キロ級のオム・ユンチョルに続き、この日は62キロ級のキム・ウングクがスナッチとトータルで世界新をマーク。2人のロンドン五輪金メダリストが絶対的な強さを見せつけた」「北朝鮮勢は女子75キロ級にも、ロンドン五輪69キロ級女王のリム・ジョンシムがエントリーしており、旋風は収まりそうもない」(共同)と報道されている。その成績自体には、私は何の興味も関心もない。

私の関心を惹くものは、たとえば次の毎日の記事である。
「表彰式後に世界記録更新の感想を聞かれると、ユニホームの胸に描かれた国旗を誇らしげに示し『敬愛する最高司令官、金正恩(キム・ジョンウン)元帥(第1書記)の愛と配慮がそれだけ大きいから』」

北の体制を支えている国民と指導者の精神構造は、おそらく旧日本の天皇制によく似ている。しかし、戦前の日本臣民も、さすがに外国に向けては「金メダルは天皇陛下のおかげです」「この栄誉を陛下に捧げます」などとは口にしなかったのではないか。

「元帥を敬愛する」も、「元帥の愛と配慮のおかげ」も、「北」を一歩出れば恥ずかしい限り。これをも 「輝く多様性」として認め合おうと言うべきか。

毎日の記事は、「金正恩体制は、今まで以上に国際大会での活躍を重視している。22日の労働新聞は、キムが表彰式で国旗に敬礼する写真とともに『栄誉の金メダル奪取、連続新記録樹立』と報じた」と続いている。あきらかに、北朝鮮はアジア大会を国威発揚の機会ととらえている。そして、国威発揚と個人崇拝とは、彼の国では一体のものなのだ。

おそらく、オム・ユンチョルやキム・ウングクは、元帥様を中心とする北の体制の「支配の側」に組み入れられることになるのだろう。だから、元帥様礼賛は本心からのものに違いない。しかし、むきつけの国威発揚や個人崇拝が、この上なく格好の悪いことであるという感覚には乏しいようだ。そのような感覚が国外では通用せず、却って冷笑されるものと考え及ばない閉鎖された歴史・伝統・文化の中にあるようだ。

もっとも、スポーツを国威発揚の手段としている国は北朝鮮にとどまらない。また、国威の発揚が時の政権の威光として意識されることも言を俟たない。アジア大会参加の各国と「北」との違いは、五十歩百歩。北や元帥様を笑う資格はどの国にもなさそうだ。もちろん、日本にも。

国際スポーツ競技会とは、一面人々の交流の機会でもあるが他面ナショナリズム高揚の機会でもある。前者の側面を意識的に強調して充実させ、後者を意識的に抑制する方針を採らないと、しらけた偏頗な意味のないものに成り下がってしまうだろう。
(2014年9月22日)

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