澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

緊急事態条項創設の改憲案に反対する

(2022年4月6日)
 改憲の危機は、安倍晋三と結びついて語られてきた。タカ派で歴史修正主義者の安倍晋三が首相なればこその改憲の危機。国民の意識が、改憲を望むものではないのに、改憲を煽ってきたのが、安倍晋三。改憲勢力は、安倍の存在と、国会での改憲派の議席数増を、千載一遇のチャンスと捉えた。当然護憲派には危機感があった。

 その安倍晋三があっけなく政権を投げ出し、これでしばらくは憲法は安泰かに見えたが、このところ雲行きがおかしい。ハトかと思われていた岸田の正体が、どうも怪しい。維新という新たな改憲勢力の策動もある。衆参両院の憲法審査会の動向が混沌としている。「緊急事態下における国会議員の任期延長についての意見のとりまとめを行うべきだ」などという発言に驚かざるを得ない。

 毎回の憲法審査会を傍聴している仲間の弁護士から提案があって、本日、法律家団体の意見をまとめて、下記の緊急声明となった。憲法審査会の動きを注視し監視するよう、呼びかけたい。

**************************************************************************

あらためて緊急事態条項創設改憲案に反対する法律家団体の緊急声明

                                                    2022年4月6日
                                          改憲問題対策法律家6団体連絡会
                      社会文化法律センター   共同代表理事 海渡 雄一
                      自由法曹団            団長 吉田 健一
                      青年法律家協会弁護士学者合同部会 議長 上野  格
                      日本国際法律家協会        会長 大熊 政一
                      日本反核法律家協会        会長 大久保賢一
                      日本民主法律家協会       理事長 新倉  修

はじめに

 今通常国会における衆議院憲法審査会は、予算審議中の2月10日に始まり、これまでほぼ毎週開催という異例ずくめの展開となっている。新型コロナ感染拡大を受けて、早急にオンラインによる国会審議について議論等が必要として始まった衆議院憲法審査会は、現在、自民、公明、維新の会、国民民主などの改憲推進派委員が一体となって、感染症や大災害、ロシアのウクライナ侵攻のような国家有事に備えて憲法に緊急事態条項を創設すべきとする議論を口々に語り、まずは緊急事態下における国会議員の任期延長についての意見のとりまとめを行うべきなどとの発言も出ている。
 改憲問題対策法律家6団体連絡会は、安倍首相当時にとりまとめられた自民党改憲4項目案(?憲法9条に自衛隊明記?緊急事態条項の新設?合区解消?教育充実)に一貫して反対してきたが、今般、あらためて緊急事態条項の創設をはじめとする改憲案に強く反対するとともに、主権者を蔑ろにして衆議院憲法審査会で進められている改憲論議に抗議をするものである。 

1 緊急事態条項の危険性
 自民党らの狙う緊急事態条項は、9条改憲とあいまって戦争などの緊急事態において、国権の最高機関である国会の立法権を奪い、内閣や首相が独裁的に国民の人権制限を行うことを可能にするものである。緊急事態条項は、立憲的な憲法秩序を一時的にせよ停止し、行政府への権力の集中と強化を図って国家・政権の危機を乗り切ろうとするもので、立憲主義と民主主義を破壊する大きな危険性を持つ。
 「民主政治を徹底させて国民の権利を十分擁護致します為には、左様な場合の政府一存に於いて行いまする処置は、極力之を防止しなければならぬのであります。言葉を非常と云ふことに藉りて、その大いなる途を残して置きますなら、どんなに精緻なる憲法を定めましても、口実を其処に入れて又破壊せられる虞れ絶無とは断言し難い」(第90回帝国議会:金森徳次郎国務大臣答弁)として、憲法はあえて緊急事態条項を設けていないのであって、その意味を重んじるべきである。

2 緊急事態を理由とする改憲は不要 国会議員は自らの責務を尽くせ 
 戦争・内乱・大規模自然災害・パンデミックなどの対応については、すでに充分な法律が整備されており、憲法に緊急事態条項を置く必要性はない。すでにある法律でもし足りないところがあれば、それを議論して法改正を行うことこそが国会議員の責務である。金森国務大臣も答弁している通り、何より重要なことは実際に予想できる特殊な緊急事態に備えて、平素から対応を考えて準備をしておくということである。そのために、立法及び法律改正が必要であれば、濫用の虞れがないよう十分に国会で審議を尽くして、法令を完備しておくことこそが重要である。国会議員のこれらの責務を放棄し、あるいは国会議員にはその能力がないと認めて、内閣に白紙委任するような改憲を口にすること自体、国会議員として許されない行為である。
 また、神戸や東日本大震災並びに新型コロナ感染拡大などの経験から言われていることは、せっかく高度に整備された法制度があるにもかかわらず、平時から災害やパンデミックに備えた事前の準備がほとんどなされていないためにそれをうまく運用できなかったという点である。その点の検証と改善こそが緊急に必要なのであり、改憲議論は不要であるばかりか、災害やパンデミックから国民の命を守るために真に必要な国会での議論を阻害しかねないのであって有害である。

3 緊急事態での国会議員の任期延長改憲は不要である
 大規模災害等で選挙ができないと国会議員が不在となって国会の機能が維持できないから、国会議員の任期延長を認める改憲が必要であるなどの議論がなされている。
 憲法は「参議院議員の任期は、6年とし、3年ごとに議員の半数を改選する。」(憲法46条)。したがって、参議院議員が同院の定足数(総議員の3分の1;憲法56条1項)を欠くことはない。衆議院の解散後に緊急事態が発生した場合には、参議院の緊急集会(憲法54条2項但書)を開催し緊急事態に対応することは可能である。憲法はそのような事態をも想定して参議院の緊急集会を規定している。
 衆議院議員の任期満了の場合について憲法54条2項但書の類推適用が認められるかについては、学説上は肯定説が有力である。もっとも、この点については、任期満了により選挙ができないような状況が生じないよう、任期満了までに必ず衆議院選挙を行うような公職選挙法31条等の改正で解決できるのであって、そもそも改憲は不要である。必要な法改正をすぐに行えば済むことである。
 以上のとおり、憲法は国会の機能が常に維持できる体系を用意しているのである。改憲推進派は、日本全土が沈没して選挙が実施できないような極端な事態を想定して任期延長改憲が必要と主張するが、そのような極端な事例を出して議論すると「間違う危険性が強い」(本年2月24日高橋和之東大名誉教授)。「何よりも重要なのは、憲法に手を付ける前に、まず、緊急時における対応についての法制を準備しておくということではないか」(同日只野雅人一橋大学大学院教授)。こうした憲法研究者の意見は重要であり、その意味を理解しないで軽々に扱うことは許されない。
 選挙が実施できない地域では繰延投票制度(公職選挙法57条)を利用すれば済む。また、日本弁護士連合会が、2017年12月22日付「大規模災害に備えるために公職選挙法の改正を求める意見書」で提言するように、?平時から選挙人名簿のバックアップを取ることを法的に義務付けること、?避難所又は避難先で被災者が元の住所を入力することで、被災者の所在地を把握できる仕組みを構築すること、?大規模災害が発生した場合でも実施できる選挙制度の創設として、ア指定港における船員の不在者投票類似の制度の創設、イ郵便投票制度の要件緩和など、先ずは公選法改正で対応できることをやるべきである。

4 国会議員の任期延長改憲は、国民の参政権を侵害し権力による濫用の危険が大きい
 国会議員の任期延長は、国民固有の権利(憲法15条1項)である選挙の機会を奪うということであり、民主政治の根幹を揺るがしかねない。
 任期延長とその期間を決めるのが国会議員自身または内閣であるとすれば、自らの地位延命のために、あるいは、政権や国会多数派にとって不利な時期の選挙を避けるために任期延長をはかるといったご都合主義、お手盛りの危険が常につきまとうのであり、国会議員自らが軽々に任期延長の議論をすること自体、厳に慎むべきものである。わが国では1941年に衆議院議員の任期が任期満了前に立法措置により1年間延期されたことがある。選挙を行うと「挙国一致防衛国家体制の整備を邁進しようとする決意について、疑いを起こさしめぬとも限らぬ」からという理由で選挙が延期され、その間に真珠湾攻撃を行い非戦論を封じてアメリカ・連合軍との無謀な戦争に突入したのである。この教訓が端的に示すとおり、緊急の事態にあっては、むしろ民主政治を徹底し国民の審判の機会を保障することこそが必要である。
 しかも、国会議員の任期を延長したからといって国会が開かれる保証はない。改憲派の狙いは選挙を避けて権力を温存したうえで緊急政令等の内閣・首相の独裁で政治を行うことにあるとみるのが正確であろう。憲法53条の国会召集要求をコロナ禍でさえも2回にわたって無視するような自公政権を見ればこの危険は一層の現実味を持つと言えよう。
 緊急事態における国会議員の任期延長は、以上のとおり、国民主権・民主主義の根幹にかかわる議論であり、権力による濫用の危険が極めて高く、立憲主義を破壊する危険がある。憲法審査会で軽々に議論をして、しかも多数決で「とりまとめ」るなどといった暴挙は、絶対に許されない。

5 まとめ
 任期延長の議論のとりまとめが済めば、次は、緊急政令と人権制限、憲法9条の改憲議論に突き進むことは、現状の改憲派の動静から見て明らかである。
 わたしたち改憲問題対策法律家6団体連絡会は、コロナ禍で多くの市民が苦しむ中、民主主義と立憲主義を葬りかねないような議論が衆議院憲法審査会で行われていることに強く抗議するとともに、緊急事態下における国会議員の任期延長についての意見のとりまとめを行うことに対しては断固反対するものである。

以上

気をつけよう「身を切る改革」あなたの身 ― 維新の正体を見つめよう

(2022年4月5日)
 「法と民主主義」4月号(567号・3月末発刊)の特集タイトルは、「『維新』とは何か」というもの。下記の目次のとおり、維新を多面的によく語っている。維新という事象を考えるについて必読と言ってよい。

 『維新』とは何か? その性格を表すのに、次の3ワードが必要にして十分ではないだろうか。
 新自由主義・ポピュリズム、そして改憲策動。

 このほかに、この特集を通読すると「成長至上主義」「幻想ふりまき」「管理・統制」「略奪型経済政策」「メディア露出」「新たな利権」「自助努力・自己責任」「反科学主義」「批判拒絶体質」「政権擦り寄り」等々の評価も述べられているが、概ね前記の3点で包括できるだろう。

 維新と言えば、何よりも極端な新自由主義政党である。資本の利益のために、府民・国民の利益を切り捨てようという政党。それでいて、府民・国民の利益を擁護するごときポーズで幻想を振りまき、選挙民の欺瞞に一定の成功を収めてきたポピュリスト集団である。

 だから、この特集の中の教育面解説「維新政治による教育破壊の“ほんの一部”」の記事の中にあるように、《気をつけよう「身を切る改革」 あなたの身》なのだ。維新は、容赦なく大阪府民・市民の身を切ってきた。そして、府外からの収奪も狙う。それでいて、「開発幻想」を振りまいているのだ。

 そしていま維新は、現政権の言いにくいことを代弁して改憲策動の尖兵となり、「非核三原則の見直し」「核共有」の声を上げている。野党ではなく、与党の政策をさらに保守の立場から引っ張る存在である。

 維新を語る際の最大の関心事は、いったい誰が維新支持の担い手なのかということ。近畿圏以外の人には、まったく分からない。この点について、特集リードの中に、次の一節がある。

 「関西学院大学の冨田宏治教授が三年前に分析した論文(「維新政治の本質ーその支持層についての一考察」)は次のとおり、維新支持層のイメージを描いている。
 そこに浮かび上がってくるのは「格差に喘ぐ若年貧困層」などでは決してなく、税や社会保険などの公的負担への負担感を重く感じつつ、それに見合う公的サービスの恩恵を受けられない不満と、自分たちとは逆に公的負担を負うことなくもっぱら福祉医療などの公的サービスの恩恵を受けている「貧乏人」や「年寄り」や「病人」への激しい怨嗟や憎悪に身を焦がす「勝ち組」・中堅サラリーマン層の姿にほかなりません」

 本号の巻頭論文に当たる「日本維新の会の『支持基盤』を探る」(岡田知弘・京大名誉教授)は、この見解をベースにしつつも、維新は「さらなる成長を」というスローガンによる「開発幻想」を振りまくことによって、「勝ち組」以外からも集票したとみる。強固な支持層としての、新自由主義の利益に均霑する「勝ち組」 中堅サラリーマン層 と、「開発幻想」にすがるしかない立場の「非勝ち組」層

 しかし、現実の地域経済の衰退は覆うべくもないことを指摘し、在阪マスコミの維新擁護の報道を乗り越えて、「維新が振りまく幻想の危険性」と「真実にもとづく維新批判」の言論高揚の必要を説いている。

目次は、下記のURLをご覧いただきたい。
https://www.jdla.jp/houmin/index.html

そして、お申し込みは下記URLから。
https://www.jdla.jp/houmin/form.html

************************************************************************** 

特集●「維新」とは何か

◆特集にあたって … 岩田研二郎
◆日本維新の会の「支持基盤」を探る … 岡田知弘
◆在阪マスコミと中央政権が育てた新たな利権政党 … 幸田 泉
◆大阪IRカジノの問題点 … 桜田照雄
◆大阪都構想の問題点とその後の動き … 森 裕之
◆地域経済を疲弊させる維新の略奪型経済対策 … 中山 徹
◆維新府政のもとでのコロナ禍の保健所の現状 … 小松康則
◆維新政治による教育破壊の“ほんの一部”
 ?大阪は 維新政治で 滅茶苦茶に? … 今井政廣
◆維新政治による人権侵害と闘う弁護団活動 … 岩田研二郎
◆維新による公務員の団結権への侵害と反撃 … 豊川義明
◆改憲勢力としての日本維新の会 ── 憲法審査会での策動を中心に … 田中 隆
◆維新は政党政治の一翼を担えるか … 栗原 猛

特集外記事
◆連続企画・学術会議問題を考える〈5〉
 「日本学術会議の在り方に関する政策討議取りまとめ(令和4年1月21日)/ CSTI有識者議員懇談会」をどう読むか … 広渡清吾
◆司法をめぐる動き〈72〉
 ・「日の君」再任用訴訟で逆転勝訴判決
  ── 再任用拒否の違法性を正面から認定 … 谷 次郎
 ・2月の動き … 司法制度委員会
◆メディアウオッチ2022●《「核時代の戦争」と世論・情報・メディア》
 どんな理由でも戦争は認めない 不戦、非核、非武装の外交の確立を
 ── ウクライナ戦争を機に … 丸山重威
◆とっておきの一枚 ─シリーズ?─〈№11〉
 「戦争の不条理」を胸に … 鶴見祐策先生×佐藤むつみ
◆改憲動向レポート〈№39〉
 憲法改正を「今こそ成し遂げなければならない」と主張する岸田首相 … 飯島滋明
◆書籍紹介
◆インフォメーション
 ロシアによるウクライナ侵攻に対し強く抗議するとともに直ちに戦闘行動を停止し撤退することを求める声明/ロシアのウクライナへの軍事侵攻に強く抗議し、ロシア軍の即時撤収を訴える声明/自民党改憲案(4項目改憲案)に反対し、改憲ありきの憲法審査会の始動には反対する法律家団体の声明
◆時評●地位協定と新型コロナ対策 ── 日伊の比較 … 高橋利安
◆ひろば●和歌山での憲法を守る取り組み ── 93回目のランチタイムデモ … 阪本康文

「ワクチン・9条」、世界各国に広く接種を。

(2022年4月4日)
 ヒトを宿主とする「戦争ウィルス」という亡霊が、人類誕生以来今日まで、世界の各地を徘徊してきた。そして今、このウィルスによる古典的な「戦争病」がヨーロッパの一角に発症し、その被害が猖獗を極めている。

 当然のことながら、このウィルスは戦時にのみ存在するものではない。平時に、ヒトの内奥に潜伏して伝播を繰り返し、ときに権力者に感染して、基礎疾患と相俟って戦争病の発症と重症化をもたらす。その症状と被害とはとてつもなく無惨で甚大である。宿主の絶滅をももたらしかねず、その対応は人類全体の喫緊の課題となっている。

 戦争ウィルスには、いくつもの亜種・変異株がある。
  国際収奪種
  大国ナショナリズム種
  民族ヘイト株
  言論統制株
  好戦教育株

 それぞれのウィルスが各国で蔓延し、他国のウィルスとの相互作用によって急速に活性化される。いったん発症すると、未だに有効な治療手段は開発されておらず、このウィルスの暴虐を制御することは困難である。戦争という典型症状に至らずとも、戦争未満の大国の横暴や威嚇は常に国際緊張の火種となってきた。

 この事態に、けっして人類が拱手傍観してきたわけではない。数々の平和思想を生みその実践も重ねられてきた。戦争を違法とする国際条約の締結や、国際連盟・国際連合、さらには国際司法裁判所も創設されている。それでもなお、戦争ウィルス根絶は困難で、戦争病を駆逐し得といない。

 人類はこのウィルスに対する有効な抗体をもたないのだが、実は既に75年前に戦争ウィルスに対する有効なワクチンは開発され、少なくも一国には接種されている。そのワクチンの名を「日本国憲法第9条」という。

 そのワクチン効能の機序は、被接種国の権力に「戦争の放棄」と「戦力の不保持」を命じることによって、一切の戦争を不可能としてた平和を招来しようというものである。ワクチンであるからその接種率の向上が課題であるところ、残念ながら、現在に至るまでその明るい見通しは開けていない。

 だが、あきらめてはならない。このワクチンの効果は実証済みなのだ。戦争ウィルスに起因する最も警戒すべき重症症状は、侵略戦争の開戦である。「9条ワクチン」は、被接種国が侵略戦争に暴走することへの有効な法的歯止めとなる。もちろん、侵略戦争に不可避的に附随する軍国主義の高揚や言論統制、教育の国家化なども防止する。そして、外交における相手国への威嚇や挑発はなく、国際協調を実現する外交態度の実現ともなる。

 もっとも9条ワクチンは平和への万能薬ではない。全世界の主要国がこのワクチンを接種するまでは、平和をつくる国際運動の有力な武器になるという役割を果たすことになる。平和のための工夫と努力の、頼もしい拠り所となるのだ。

 いま、望まれることは、9条ワクチンの接種率の向上である。今、人類の平和構築の構想は過渡期にある。このワクチンの接種が全ての主権国家に行き届いたとき崩れぬ平和が実現する。世界の戦争が根絶され、恒久平和が実現する。

 それまで、このワクチンの摂取率を上げることが、人類の課題である。侵略・軍拡・核武装容認・核威嚇・敵基地攻撃能力整備論は、ウィルスに冒された症状の発現である。これを克服する努力を重ねなければならない。世界の主要国に接種が進行するまで。貴重な既接種国が、自らワクチンの効果を否定することは、人類史に対する冒涜とというべきである。

「僕の方が強いぞ」っていうと「僕の方がもっと強い」っていう。

(2022年4月3日)
 花冷えである。しかも本格的な雨。せっかく咲いた花が、かじかんで震えている。気持ちも晴れない。ウクライナの停戦が実現しそうで実は困難なことが見えてきて胸がふたぐ。ロシア侵略軍の蛮行によるウクライナの人々の甚大な被害、その報道に落ち着かない。これからどうなるのか。そして、日本への影響は。おろおろするばかり。

 同じ出来事を経験しても、教訓として得るものは人によって大きく異なる。アジア太平洋戦争の惨禍を経て、「二度と戦争をしてはならない」と教訓を語る人が大多数なのだが、実はそのような人ばかりではない。「もっと周到な準備の下に、国防体制を立て直して、今度こそ勝つ戦争をしなければならない」という反省の仕方もあるのだ。どちらも、論理としては成立しうる。

 ロシアのウクライナ侵略の推移を見て、「自衛のための軍備が必要」「防衛予算を増額しなければならない」「国家への忠誠心がなくてはならない」「強国との軍事同盟が不可欠」「敵基地攻撃能力があればさらに安心」「非核三原則を見直して核共有も」と、「教訓」を声高に語る人がいる。

 しかし、果たしてそうだろうか。むしろ、汲むべき教訓は、「軍事力で国民を守ることはできない」ということではないのか。ウクライナに「9条」はない。むしろ、相当の軍事力を持った国である。洗練された兵器をもち、兵の練度も高い。それでもなお、ロシアの軍事侵攻を防ぐことはできなかった。また、ウクライナのNATO加盟への強い意思が、ロシアの侵略を決意させたともいわれている。

 この度のウクライナ侵攻に、ロシアは、そしてプーチンは、どう教訓を得ただろうか。国民に対する情報操作による世論誘導の危うさ、そしてその破綻の危惧におののいてはいないか。国際世論を敵にまわすことの重圧を感じてはいないか。経済制裁による国家財政のデフォルトの危険を認識してはいないのか。なくもがなの侵略を敢えてした愚を後悔しているのではないか。この侵略がどのような結末になるにせよ、ロシアの権威も経済力も凋落することが目に見えている。世界の諸大国もこのロシアが陥った現実を見据えて教訓としているだろう。

 日本は、維新直後から第2次大戦まで、侵略戦争を繰り返してきた。9条に象徴される敗戦時の「不戦の誓い」は、侵略戦争の放棄という気分であったろう。日本が侵略戦争さえしなければ、日本に攻め入る侵略国があろうとは考え難かった。こうして自衛戦争まで放棄し、戦力不保持を明記した9条が成立した。

 その後、日本が侵略の対象となる現実的な危機の経験はなく、むしろ、日米安保の存在は、アメリカの戦争に巻き込まれる危険の文脈で語られ続けてきた。今、ロシアから侵略対象とされたウクライナを、中国からの侵攻の危険に曝されている台湾になぞらえ、あるいは日本に喩えて、「侵略される危険」が語られている。憲法制定時とは、日本周辺の国際環境が大きく変化してきたというのだ。

 しかし、だからと言って、軍事力の増強、軍備拡張の路線に走ってはならない。ましてや核の保有などと短絡するのはもってのほか。特定の国家を意識して、侵略防止のための軍備拡張は、実は相手国を刺激して二国間の緊張を高め、戦争を誘発することにもなりかねないのだ。

 金子みすゞの「こだまでしょうか」をこう解したい。

「遊ぼう」っていうと「遊ぼう」っていう。
「仲良くしよう」っていうと「仲良くしよう」っていう。
「馬鹿」っていうと「馬鹿」っていう。
「もう遊ばない」っていうと「もう遊ばない」っていう。
「僕の方が強いぞ」っていうと「僕の方がもっと強い」っていう。
「僕の方がもっともっと強いぞ」っていうと「僕の方がもっともっともっと強い」っていう。
こだまでしょうか、いいえ、どこの国でも。

「憲法が君たちを守る。君たちが憲法を守る」? 憲法擁護と憲法遵守と。

(2022年4月2日)
 メールやメーリングリストの普及によって、仲間同士の情報や意見交換は実に便利になった。さらに、最近はズームやチームのオンラインの活用。電話とファクスの時代に長く過ごした身には、今昔の感に堪えない。

 ところで、自由法曹団には、テーマ別に幾つかののメーリングリストがある。そこでの意見交換は、にぎやかで楽しい雰囲気。その内の一つに、最近ある弁護士がこんな書き込みをした。

 知り合いの(定年後)再任用の教員から、こんなことを尋ねられました。
 「毎年、一年ごとに任用されることになり、その都度教育委員会に誓約書を提出するのですが、その文言が以前は「憲法を遵守し」だったのに、今年の書式には「憲法を擁護し」となっていました。これって、どう違うんでしょうか。変更には悪しき意図がありませんか。弁護士さんの感覚はどうですか。」
 さて、皆さんのご意見はいかがでしょうか。

  これに、にぎやかに意見が寄せられた。
 
 「誓約書としてはその言葉の変更自体で特段の差はないように思う」「99条の条文をよく見たら『遵守』ではなく『擁護』となっていたことに気付いたから、『擁護』の方がふさわしいと考えた。その程度のことではないでしょうか」という以外は、次のように、概ね好意的・肯定的な意見が多かった。

 「直感的に、『遵守』より『擁護』の方は改憲を許さん的な意味でむしろ奮っているのではないかと思いました。辞書を調べると、『遵守』は単に厳格に守るということですが、『擁護』はやはり危害から庇い護る事とあります。これは教育委員会の中のどなたかの計らいだとすると、かなりメッセージ性の強い変更のように思います。悪しき意図を感じるものではありません。」

 「『遵守』は98条の最高法規性の条文で、『擁護』は99条の憲法尊重擁護義務の条文なんですね。誓約書には、もちろん99条の方がしっくりきますね。これを変更した方は、この2つの条文の意味を理解したのかもしれません。私は賛成です!」

「文言変更の意図がどこにあるのかわかりませんが、結果的には良い方向になっているということですね。この教育委員会を訴訟の相手にしている立場としては、それほど立派な組織とは思われませんが、誓約書の件については結果オーライといったところではないでしょうか。」

「これが弁護士的感覚かというと自信はないですが、すごくいいじゃんと思います」

 私も意見を述べたが、少数派であった。少し敷衍して、改めてコメントしておきたい。

 憲法学者・佐藤功の名言として、「憲法が君たちを守る。君たちが憲法を守る」というフレーズが知られている。子ども向けに書き下ろした『憲法と君たち』の中の一節だという。「憲法が国民を守り 国民が憲法を守る」「憲法が市民を守り 市民が憲法を守る」と言い換えてもよい。

 「憲法は君たちを守る」は、憲法が国民の人権や民主主義を守る根拠となるという法的な作用を語っている。そして、「君たちが憲法を守る」は、国民が憲法の命じるところに従うべきという意味ではない。主権者である国民に憲法改悪を阻止し、憲法の理念を実現する努力を求める呼びかけとしての政治的メッセージと読むべきだろう。この後者の国民の政治的な作用として「憲法を守る」を、憲法擁護というにふさわしい。縮めれば、「護憲」である。

 他方、「国民が憲法の命じるところに従うべきという意味での『憲法を守る』義務」は存在しない。国民の憲法遵守義務というものは観念しがたい。が、むろん、公務員には憲法遵守義務がある。

 憲法の条文を意識せずに「憲法を守る」というときには、
 「現行憲法の定めに従う」という意味と、
 「現行憲法の条文や理念を改悪させない」という意味の
両義がある。

 前者を『遵守』、後者を『擁護』と使い分けると意味がはっきりする。前者は法的な概念で、後者は政治的概念だと言うしかない。

 この言語感覚からは、憲法99条の公務員の「憲法を尊重し擁護する義務」という用語の使い方が国語とズレている。本来、99条は『擁護』ではなく『遵守』がふさわしい。

 現に公務員の採用時には、「憲法遵守」と宣誓している例も多いようで、この言葉づかいは条文上間違い、などと言われることがある。しかし私は、国語としては「遵守」の方が正しいのだと思っている。

 この県教委が、教員に対して、「日本国憲法を遵守するのみならず、(改憲を阻止して)憲法を擁護する」という宣誓文言がふさわしい、との含意での誓約を求めているとすれば素晴らしいことだろうが、それはあり得ない。憲法99条の条文の文言のとおりに、公務員の「憲法を尊重し擁護する義務」という用語を使うように変更しただけのことであろう。

 問題は国民皆の憲法意識にある。国民が憲法遵守の義務を負うことはない、権力者や天皇に憲法を遵守させなくてはならない。そして、この日本国憲法とその理念を飽くまで擁護しようと意識すべきなのだ。

9年間毎日ブログを書き続けてきたことを記念し、今夜はサイダーで乾杯。

(2022年4月1日・毎日連続更新満9年と1日)
 4月、年度が変わる。当ブログも本日から10年目に入る。毎日連続更新を広言して連載を始めたのが2013年4月1日。昨日で満9年、毎日連続更新第3287回となった。この間一日の休載もなく書き続けられたことに、いささかの達成感がある。怪我や病気や事故なく過ごせた好運に恵まれたことを喜びたい。

 この日記の連載を始めたのは、安倍晋三極右政権の改憲に危機感あってのこと。当然に、改憲阻止をメインテーマにしてきたが、人権や民主主義に関わる諸問題や、司法問題にも触れてきた。法律問題だけでなく、「日記」として日常の諸問題をも書き綴ってきた。

 この9年間で印象に残るのは、何よりもこのブログによる「舌禍」としてDHC・吉田嘉明からスラップ訴訟を起こされたこと。このブログで大いに反撃し、「DHCスラップ訴訟」と、これに続く「DHCスラップ『反撃』訴訟」とをともに完勝し、その経過を逐一このブログで報告した。この顛末を、いま出版しようと稿を練っているところ。刊行を楽しみにしていただきたい。

 そして「宇都宮君おやめなさい」シリーズ。今読み直して力作である。当時の緊張した思いが懐かしいだけでなく、重大な問題提起をしていると思う。何よりも読み物として、面白いのではなかろうか。しかし、残念ながら、今のところこちらのテーマでは出版の予定がない。そのほか、東京「君が代」裁判や、NHK問題などの報告、弁護士会のあり方、天皇制批判などについて、自分なりに意義ある言論を世に問うてきたとの、ささやかながら自負がある。

 繰り返し広言してきたが、権力者や経済力のある者、多数意見派の耳に痛いことを遠慮なく言わねばならない。その姿勢を堅持したい。終期を決めず、安倍政権が終わるまではと思っているうちに意外に安倍政権が長期政権となって、ブログの連載も長期化することとなった。負けるものかと張り合ううちに、政権は倒れたが改憲危機は続くことになり、「憲法日記」は本日まで止められない事態となった。本日のこの記事が、10年目の第1回となる。当面の目標をあと1年の継続としよう。

 このブログの発信は、ネットやメール接続のフロクだという。その意味ではタダなのだ。なんの変哲も工夫もなく、写真一枚ない文字だけのブログ。誰の宣伝もしない。毎日相当の時間を割いて一円にもならない作業になぜのめり込むのか。自分でも分からない。人には、自分の内心を表出したいという生来の欲求があるということなのだろう。

 それにしても、このブログの記事を紙に印刷して撒けば、いったいどれだけ撒くことができるだろうか。ネットなればこそ、金をかけることもなく、瞬時に全国の人に読んでもらうこともできる。誰もが社会に発言できるツールの存在を素晴らしいことと思う。これを活用しない手はない。

 身近な人が口を揃えていう。「ブログをもっと短くしなさいよ」「長文と思った瞬間読む気が失せる」「読んでもらえなけりゃ意味がないでしょう」と。これまで、そのアドバイスに従おうと思いつつ、できなかった。

 10年目、今日からは短くするぞ、このブログ。きっと…。多分…。いや、必ず…。多くの人に読んでいただけるように。  

「もの言わぬ教師」が作り出されるとき、平和と民主主義は危機を迎える。

(2022年3月31日・本日毎日連続更新満9年)
 年度末の3月末日。例年、都立校関係者の『卒業式総括・総決起集会』が開催される。東京都教育委員会の《卒入学式における国旗・国歌(日の丸・君が代)強制》に抗議しての集会である。本年は、『卒業式総括・再任用打ち切り抗議 総決起集会』となった。

 私も出席して、都立校の校内で起こっている様々な出来事の報告を聞いた。共感し、励まされ、元気の出る話が多かった。誇張ではなく、立派な教育者が悩み嘆かざるを得ない事態に追い込まれ、それでもよく頑張っているのが現状である。私も要旨次のような報告をした。 

 悪名高い「10・23通達」の発出から18年余。今の高校生が生まれる前のことだと聞いて、改めて感慨深いものがあります。あれから毎春の卒入学式が、東京都の公立校における教職員に対する国旗・国歌(日の丸・君が代)強制の場となり、これに現場で、社会で、訴訟で闘ってきました。私たちは、この間何を求めて闘い、何を獲得して、未だ何を得ていないのか。

 この旗と歌とを、国旗・国歌と見れば、国家と個人が向き合う構図です。憲法は、個人の尊厳をこそ根源的な憲法価値としており、国家が個人に愛国心を強制したり、国家に対する敬意表明を強制することなどできるはずはなかろう。

 また、この旗と歌とを「日の丸・君が代」と見れば、この旗が果たした歴史と向き合わざるを得ません。「日の丸・君が代」こそ、戦前の天皇制国家とあまりにも深く結びついた、旗と歌。天皇制国家が宿命的にもっていた、国家神道=天皇教による臣民へのマインドコントロールの歴史を想起せざるを得ません。そして、軍国主義・侵略主義・民族差別の旗と歌。これを忌避する人に強制するなどもってのほか。

 そして、問題は教育の場で起きています。国旗・国歌(日の丸・君が代)の強制は。国家主義イデオロギーの強制にほかなりません。戦後民主主義は、戦前の天皇制国家による国家主義イデオロギー刷り込みの教育を根底的に反省するところから、出発しました。教育は、公権力から独立しなければならない。権力は教育内容を支配し介入してはならない。この大原則を再確認しましょう。

 法廷闘争では、懲戒権の逸脱・濫用論の適用に関して一定の成果を収めています。懲戒処分対象行為が内心の思想良心の表明という動機から行われたこと、行為態様が消極的で式の進行の妨害となっていないことなどが重視されて、「実質的な不利益を伴わない戒告」を超える過重な処分は違法として取り消させています。この点は、憲法論において間接的にもせよ思想良心の制約の存在を認めさせるところまで押し込んだことが、憲法論の土俵では勝てなかったものの懲戒権の濫用の場面で効果を発揮したものと考えています。

 私たちの闘いの成果は、十分なものとは言えませんが、闘ったからこそ、石原慎太郎教育行政が意図した民主的な教員をあぶり出し放逐しようという、邪悪な企てを阻止し得たのだと思います。

 今、処分取消第5次訴訟。これまで積み残しの課題もあり、新たな課題もあります。この意義のある壮大な民主主義の闘いを、ともに継続していきたいと思います。

 そのあと、大阪高裁の「再任用拒否国家賠償訴訟」逆転勝訴判決の内容紹介をした。またまた、東京でも、再任用打ち切りが問題となっている。

 以下に、本日の集会が確認した抗議声明を掲載する。この声明、気迫に溢れた立派なものではないか。《「もの言わぬ教師」が作り出されるとき、平和と民主主義は危機を迎える》という指摘は、今の情勢を見るとき重いものがある。

**************************************************************************

「君が代」処分を理由とした再任用不合格に抗議する声明

 1月19日、東京都教育委員会(都教委)により、1名の都立高校教員が校長を通じて再任用の不合格を告げられた。
 当該教員が定年を迎えるに当たり再任用を申し込んだ2019年以来3回にわたって、毎年繰り返されてきた「懲戒処分歴がある職員に刻する事前告知」の内容を強行したものである。これは以下のように幾重にも許しがたい暴挙であり、私たちは断固として抗議するとともに再任用不合格の撤回を要求する。

 まず、「事前告知」において問題として挙げられている処分は、2016年の卒業式における不起立に対する戒告処分であるが、当該処分については現在その撤回を求めて裁判を行っている係争中の案件であるにもかかわらず任用を打ち切ることは、裁判の結果如何によっては都教委が回復不能の過ちを犯すことにもなりかねない。
 また、すでに戒告処分によって不利益を被っている者に対して任用をも奪うことは、二重処罰と言っても過言ではなく、これが容認されるならば行政処分の中で最も軽いとされる戒告処分が免職にも相当することになる。
 さらに、「事前告知」では卒業式での不起立に対する戒告処分が理由として言及されていたにもかかわらず、今回の不合格通知に際しては理由すら明らかにされなかった。校長からの問い合わせに対しても、「判定基準を満たさなかった」とのみ回答した。しかも、再三にわたる私たちの要請や質問に対して、都教委は「合否に当たり、選考内容に関することにはお答えできません。」との回答に終始しており、任用を奪うという労働者にとっての最大の権利侵害に対して理由すら明らかにしない姿勢は、任命権考としての責任をかなぐり捨てたという他はない。
 何よりも、卒業式での不起立は一人の人間として教員としての良心の発露であり、過去の植民地支配や侵略戦争、それに伴うアジア各国の人々と日本国民の犠牲と人権侵害の歴史を繰り返さないため、憲法と教育基本法の精神に基づいてなされた行為であると同時に、憲法が規定する思想良心の自由によって守られるべきものである。

 「10・23通途」発出以来今日までの18年半の間に、通達に基づく職務命令によってすでに484名もの教職員が処分されてきたこの大量処分は東京の異常な教育行政を象徴するものであり、命令と処分によって教育現場を意のままに操ろうとする不当な処分発令と再任用の不合格に満身の怒りを込めて抗議し、その撤回を求める。
 あまつさえ都教委は再三にわたる被処分者の会、原告団の要請を拒んで紛争解決のための話し合いの席に着こうともせず、この問題を教育関係考自らの力で解決を図るべく話し合いを求めた最高裁判決の趣旨を無視して「職務命令」を出すよう各校長を指導し、結果として全ての都立学校の卒業式・入学式に際して各校長が「職務命令」を出し続けている。それどころか、二次?四次訴訟の判決によって減給処分を取り消された現職の教職員に対し、改めて戒告処分を発令する(再処分)という暴挙を繰り返し、再任用の打ち切りまで強行するに至っては、司法の裁きにも挑戦し、都民に対して信用失墜行為を繰り返していると言わざるを得ない。

 東京の学校現場は、「10・23通途」はもとより、2006年4月の職員会議の挙手採決禁止「通知」、主幹・主任教諭などの職の設置と業績評価制度によって、閉塞状況に陥っている。「もの言わぬ教師」が作り出されるとき、平和と民主主義は危機を迎える。
 私たちは、東京の学校に自由で民主的な教育を甦らせ、生徒が主人公の学校を取り戻すため、全国の仲間と連帯して「日の丸・君が代」強制に反対し、不当処分撤回一再任用打切りの撤回を求めて闘い抜く決意である。この国を「戦争をする国」にさせず、『教え子を再び戦場に送らない』ために!

 2022年3月31日
 四者卒業式・入学式対策本部
 (被処分者の会、再雇用2次訴訟を語りつぐ会、予防訴訟をひきつぐ会、解雇裁判をひきつぐ会)

あらためて問う、NHK経営委員長森下俊三の違法行為と安倍晋三の任命責任。

(2022年3月30日・明日で連続更新満9年)
 NHKの予算決算は国会の承認事項となっている。衆参両院の本会議に諮られる前に、各院の総務委員会で質疑が行われる。今年は、3月24日に衆院の、昨日3月29日に参議院の各総務委員会でNHK予算についての質疑が行われた。この質疑において、衆院では宮本岳志、参院では伊藤岳の、共産党の両議員が、経営委員会の議事録開示問題に関して、鋭く的確な質問を行った。

 参院総務委員会での伊藤岳議員の反対討論を紹介しておきたい。

 「日本共産党はNHKのかんぽ生命不正販売に関するクローズアップ現代プラスの報道をめぐって、NHKが日本郵政グループからの圧力に屈して、第二弾の放送を取り止め、さらに経営委員会が会長を厳重注意したことは、放送番組は何人からも干渉されないとする放送法第3条、および第32条第2項に違反する行為であると指摘してきました。しかも経営委員会は、放送法第41条に反して、会長を厳重注意した議事録の公開にも背を向けてきました。こうしたもと、わが党は2020年度、21年度のNHK予算の承認に反対しました。昨年7月、経営員会は『議事起こし』を情報公開請求者などに対して開示しました。そこには、日本郵政からの圧力に屈する経営委員会の対応が生々しく記されていました。しかし、未だに全文を議事録として作成・公表しておりません。放送の自主自律を遵守せず、視聴者・国民への説明責任も放棄したNHKの対応に、国民の信頼は揺らいだままです。こうしたもとで、執行部が編成し、経営委員会が議決をした予算を承認することは出来ません」

 まことにこのとおりである。念のために、細かいことだが、用語の説明をしておきたい。NHKはその内規で、独自の情報公開制度を設けている。「情報公開」の態様を、「情報の開示」と「情報の提供」に分け、前者を開示請求者に対する「文書開示」とし、後者はホームページに掲載など全ての視聴者に閲覧可能とする。経営委員会議事録については、内規ではなく法律(放送法41条)が、遅滞なく作成して「公表」するよう命じている。公表はホームページに掲載して行われる。なお、『議事起こし』とは、経営委員会の議事の速記録と思われるが、文書開示請求者には開示されたが、NHKのホームページに掲載する方法での「公表」はなされていない。

 言うまでもなく、健全なジャーナリズムは健全な民主主義の基盤である。ジャーナリズムが権力の膝下におかれた状況では、平和も国際協調も人権も自由も平等も全てが危うくなる。

 歴史的経緯があって、日本のジャーナリズムの中心にはNHKが位置すると言って過言でない。おそらく今もなお、NHKは日本で最も影響力の大きなメディアである。その報道姿勢の如何は、日本の民主主義のあり方に死活的な影響を及ぼす。

 NHK執行部を監督する立場にあって、会長の任免権を持つNHKの最高機関が経営委員会である。内閣総理大臣の任命によるが、安倍晋三国政私物化内閣が成立して以来、この経営委員会の人選がメチャクチャである。ジャーナリズムのなんたるかを理解し、その理念を貫徹しようという委員の存在はまったく見えない。とりわけ、委員長森下俊三の不適切性は際立っている。

 今、100名余の原告がNHK情報公開訴訟に取り組んでおり、私も弁護団の一員である。原告らは、いずれも、これまでNHKに対する監視と批判の市民運動に携わってきた者。NHKが権力から独立していないことに危機感をもちつつも、NHKに真っ当なジャーナリズムの精神を期待して、一面批判し、一面激励してきたという立場である。

 その訴訟における最重要の請求は、「2018年10月23日経営委員会議事録の開示」である。この会議で、経営委員会は上田良一NHK会長(当時)を呼びつけて厳重注意を言い渡している。明らかにNHKの良心的看板番組「クローズアップ現代+」が、日本郵政グループによる「かんぽ生命保険の不正販売問題」に切り込んだ報道をしたことに対する牽制であり、続編の制作妨害を意図した恫喝である。

 これは、明々白々な経営委員会による番組制作への介入であって、放送法32条に違反する違法行為である。内閣総理大臣が任命した12人の経営委員が、このようなあからさまな違法行為を行っているのだ。

 我が国の民主主義のあり方に重大な影響力をもつ公共放送の最高機関である経営委員会がどのように運営されているか。また、その識見を見込まれて内閣総理大臣が任命した各経営委員が、それぞれの問題について、どのような発言をしているか。その言動に関して、視聴者に対する徹底した透明性が確保されなければならない。その「透明性」「説明責任」の確保があって始めて、視聴者の経営委員会批判やNHKのあり方への批判が可能となり、その自由で闊達な批判の言論こそが公共放送のあり方を健全なものとし、日本の民主主義の発展に資するべきことが想定されている。

 ところが、日本郵政グループの上級副社長・鈴木康雄と意を通じて、違法な「会長厳重注意」をリードした中心人物が、当時経営委員会委員長代行だった森下俊三である。こんな違法をやっているのだから、法が公表を明示しているにもかかわらず、議事録は出せない、出したくもない。2年にもわたって非公開とされ、文書開示請求も拒絶してきた。

 もとより、情報公開とは、行政に不都合な情報の開示を強制する制度である。行政の透明性を高め、歪んだ密室行政を是正するために不可欠な制度である。行政文書の開示請求への拒絶が問題となるのは、文書の公開を不都合とする行政当局者の姿勢の故である。公開を不都合とする行政の実態があり、これを隠蔽しなければならないとする行政側の意図が働いているからである。国民の目の届かないところで、国民に知られては困る行政が進められていることが根本の問題としてある。

 この点に関しては、NHKが自ら定めた情報公開制度においても、その理念も事情も異にするところはない。本件のごとき「経営委員会が隠したい議事録」こそが、正確に、且つ速やかに作成され、公表されなければならないのだ。

 『議事起こし』が、法41条の要求する文書であるなら、遅滞なく、誰もが閲覧できるように、ホームページに掲載する方法で、「公表」しなければならない。そうすれば、誰にも、外部勢力と通じてNHKの良心的な番組の制作に圧力を掛けた森下俊三の違法行為がよく分かるだろう。森下と、森下を任命した安倍晋三内閣の責任が厳しく問われなくてはならない。我が国の民主主義を救うために。

「核共有」「非核三原則見直し」「原発再稼働」「武力の拡大」…これが維新だ。

(2022年3月29日・連続更新9年まであと2日)
 一昨日の日曜日(3月27日)、維新が党大会を開催した。この党大会で採択された方針は穏やかではない。これまで、安倍自民が保守本流を逸脱した右翼路線と批判されてきたが、維新はさらにその右に位置して、自民党を右側から引っ張り、あわよくば侵食しようとさえしている。危険極まりない。

 産経新聞が、「維新党大会、『現実路線』で保守層に訴え」という表題で、以下のようにまとめている。

 「日本維新の会は27日の党大会で、…活動方針を決定した。議席を伸ばした先の衆院選以降、現実路線で保守層へのアピールを強めており、夏の参院選では与党に代わり得る責任政党の地位を盤石にしたいところだ。ただ、一部政策に関しては党内からも『維新らしさが失われた』と懸念の声が上がっている。」

 「ロシアによるウクライナ侵攻もあり、維新は参院選を前に緊急事態に対応するための『憲法改正』、米国の核兵器を自国領土内や周辺海域などに配備して共同運用する『核共有』、エネルギー価格の急騰に備えた『原発再稼働の必要性』を率先して訴えている。自民や立憲民主党に満足できない保守・中道層に『維新は現実を直視する政党』だと印象付ける狙いも透けてみえる。」

 「一方で課題もある。維新が打ち出す政策の意義は党内でも広く共有されていない。政府が国民に一定額の現金を毎月無条件で支給する『ベーシックインカム』を軸とした最低所得保障制度の導入に関して、維新ベテラン議員は「まるで社会主義国家だ。『自立する個人』を基本としてきた維新にはなじまない。財源の説明に困るのではないか」と主張。結党時からの熱心な支持者が離れかねないと懸念を示した。」

 また産経は、「『核共有、三原則議論を』 参院選見据え」との見出しで、日本維新の幹部が次のように語ったと報じている。

 「日本維新の会の馬場伸幸共同代表は27日、大阪市で開いた党大会で、夏の参院選を見据えて「核共有」政策や非核三原則をめぐる議論を始めるべきだとの認識を示した。「非核三原則は今、『語らせず、考えさせず』を加えた五原則になっている。タブー視せずに放置してきた課題を解決する」と述べた。

 松井一郎代表は党大会に先立つ会合で、ロシアによるウクライナ侵攻を受け『日本に攻め込まれないようにする防衛力を議論すべきだと参院選公約に盛りこむ』と語った。」

 維新とは、格別の政治理念を持つ政党ではない。権力を求める雑多なポピュリストたちの集合体である。その理念なき集団が、いまリベラルなスローガンや政策ではなく、「憲法改正」「核共有」「非核三原則見直し」「防衛力拡大」などという右翼的方針を打ち出すことで票が取れる、党勢を拡大できると、国民心理を読んでいることが重要なのだ。

 日本維新の会が理念として掲げるものは、「自立する国家」、「自立する地域」、「自立する個人」の実現である。この順序が、国家からであることで、ぞっとさせられる。この自立の意味は不明で、菅義偉流の「自助努力強要路線」との違いは認めがたい。

 同じ3月27日の日曜日、投開票された兵庫県西宮市長選挙では、維新候補が大敗した。党大会では、大阪府以外での勢力拡大が重要とされ、西宮市長選では、応援演説に松井一郎や吉村洋文を投入するなど党をあげて選挙戦に臨んだが、ダブルスコアに近い大敗となった。兵庫県内の市長選ではこれで4連敗だという。

 なお、「法と民主主義」4月号(3月末日発行)は、維新の問題点を特集する。ぜひとも、乞うご期待。

「政教分離」とは、いったい何なのだ。那覇地裁の判決は?

(2022年3月28日・連続更新9年まであと3日)
 先週の水曜日、3月23日に那覇地裁(山口和宏裁判長)で、政教分離に関する訴訟の判決が言い渡された。市民2人が原告となって那覇市を訴えた住民訴訟でのこと。請求の内容は、「那覇市営の松山公園内にある久米至聖廟(孔子廟)は宗教的施設なのだから、市の設置許可は憲法の政教分離に反する。よって、『那覇市が、施設を管理する法人に撤去を求めないことの違法の確認を求める』」というもの。

 この訴訟には前訴があり、「那覇市が無償で、宗教施設と認定せざるを得ない孔子廟に公園敷地を提供していることは違憲」という最高裁判決が確定している。今回の判決は、「今は、適正な対価の支払いを受けている」ことを主たる理由として請求を棄却した。なお、原告になった市民とは右翼活動家で、弁護団も原告と政治信条を同じくするグループ。

 さて、あらためて政教分離とは何であるか。日本国憲法第20条1項本文は、「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する」と信教の自由を宣言する。そして、これに続けて「いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない」と定める。宗教の側を主語として、政治権力との癒着を禁じている。さらに、同条3項は、「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない」と、公権力の側からの宗教への接近を禁じている。これが、憲法上の政教分離原則である。

 政教分離の「政」とは国家、あるいは公権力を指す。「教」とは宗教のこと。国家と宗教は、互いに利用しようと相寄る衝動を内在するのだが、癒着を許してはならない。厳格に高く厚い壁で分離されなくてはならないのだ。

 なぜ、政教分離が必要か、そして重要なのか。「憲法の政教分離の規定は、戦前に国家と神道が結びついて軍国主義に利用され、戦争に突き進んだ反省に基づいて設けられた」(毎日新聞社説)、「かつて(日本は)国家神道を精神的支柱にして戦争への道を突き進んだ。政教分離の原則は、多大な犠牲をもたらした戦前の深い反省に立脚し、つくられたのだ」(沖縄タイムス社説)などと説明される。

 この原則を日本国憲法に書き込んだのは、戦前に《国家と神道》が結びついて《国家神道》たるものが形成され、これが軍国主義の精神的支柱になって、日本を破滅に追い込んだ悲惨な歴史を経験したからである。国家神道の復活を許してはならない。これが、政教分離の本旨である。そのとおりだが、《国家神道》とは、今の世にややイメージしにくい言葉となっている。平たく、『天皇教』と表現した方が分かり易い。創唱者イエス・キリストの名をとってキリスト教、仏陀を始祖とするから仏教。また、キリストや仏陀を聖なる信仰の対象とするから、キリスト教と称し仏教と言う。ならば、天皇の祖先を神として崇拝し、当代の天皇を現人神とも祖先神の祭司ともするのが、明治以来の新興宗教・「天皇教」である。 この「天皇教」は、権力が作りあげた政治宗教であった。天皇の祖先神のご託宣をもって、この日本を天皇が統治する正当性の根拠とする荒唐無稽の教義の信仰を臣民に強制した。睦仁・嘉仁・裕仁と3代続いた教祖は、教祖であるだけでなく、統治権の総覧者とも大元帥ともされた。

 この天皇教が、臣民たちに「事あるときは誰も皆 命を捨てよ 君のため」と教えた。天皇のために戦え、天皇のために死ね、と大真面目で教えたのだ。直接教えたのは、学校の教師たちだった。全国各地の教場こそが、天皇教の布教所であり、天皇のために死ぬことを名誉とする兵士を養成し、侵略戦争の人的資源としたのだ。

 目も眩むような、この一億総マインドコントロール、それこそが天皇教=国家神道であり、戦後新憲法制定に際しての旧体制への反省が政教分離の規定となった。

 当然のことながら、戦前の天皇制支配に対する反省のありかたを徹底すれば、天皇制の廃絶以外にはない。しかし、占領政策の思惑は戦後改革の不徹底を余儀なくさせ、日本国憲法に象徴天皇制を残した。この象徴天皇を、再び危険な神なる天皇に先祖がえりさせてはいけない、天皇教の復活を許さない、そのための歯止めの装置が政教分離なのだ。

 だから、憲法の政教分離に関する憲法規定は、本来が、『公権力』と天皇教の基盤となった『神道』との癒着を禁じたものである。それゆえに、リベラルの陣営は厳格な政教分離の解釈を求める。靖国神社公式参拝・玉串料訴訟、即位の礼・大嘗祭訴訟、護国神社訴訟、地鎮祭訴訟、忠魂碑訴訟等々は、そのようなリベラル側からの訴訟であった。これに反して、右翼や歴史修正主義派は、天皇教の権威復活を求めて、可能な限りの政教分離の緩やかな解釈を求めるということになる。

 ところが、世の中にはいくつもの捻れという現象が起きる。那覇孔子廟訴訟(前訴)がまさしくそれで、今回の訴訟もその続編である。後に知事となった翁長雄志那覇市長(当時)に打撃を与えようとの提訴ではあったが、前訴では比較的厳格な政教分離解釈を導き出している。リベラル派としては、喜んでよい。

 今回の判決では、「歴史や学術上価値の高い公園施設として市が設置を許可しており、実際に多数の観光客らが訪れたり、教養講座が開かれたりしていると指摘。最高裁判決後、久米崇聖会が市に年間約576万円の使用料を支払っていることにも触れ『特段の便益の提供とは言えない』として、政教分離原則に反しないと判示した」と報じられている。喜ぶべきほどのこともなく、残念と思うほどのこともない判決と言ってよいだろう。

澤藤統一郎の憲法日記 © 2022. Theme Squared created by Rodrigo Ghedin.