(2022年3月23日)
本日午後6時、注目のゼレンスキー・ウクライナ大統領の国会演説。オンラインで12分間のスピーチだった。激したところはなく、戦時下のリーダーの言とは思えない穏やかな内容。軍事につながる支援要請はなかった。安倍・プーチン関係についても、真珠湾攻撃も口にしなかった。ロシア軍の原発攻撃についての言及はあったが、核の脅威や核威嚇についての踏み込みは意外なほどに浅かった。あれもこれも、計算し尽くしてのことなのだろう。
日本の国会での演説。当然全国に放映される。この機会をどう生かすべきか。ゼレンスキーは、なりふり構わぬ軍事支援要請ではなく、戦争終結後までを見据えて日本からの好感獲得を第一目標としたようだ。ところが、その「日本」は一様ではない。何を訴えれば好感につながるか、実はなかなかに難しいのだ。
一方に《政権とそれを支える自公維国》があり、他方に《野党と自覚的市民勢力》の存在がある。この2グループの望むところはまったく異なる。「平和を守るためには武器が必要だ」「侵略者ロシアに対抗するための武器の提供を」「武器を購入するための資金の提供を」と言えば、与党側は身を乗り出してくるだろうが、野党側はそっぽをむくことになる。また、ロシアの核脅迫をとことん非難し核廃絶を訴えれば、野党陣営は喝采するだろうが、与党側は渋い顔をせざるを得ない。
なにしろ生中継での演説でである。ゼレンスキーが何を言い出すか与党側も心配だったようだ。「日本企業はロシアから全部撤退しろと言うのでは」とか、「真珠湾攻撃には触れないでと要望した」などと報道されていた。結局、与野党とも、胸をなで下ろす結果となったというところ。
結局、ゼレンスキーはロシア非難に徹し、その余は無難なスピーチに終始した。それが、ソフトで穏やかな印象の演説となった。パンチの効かない、話題性に欠ける、印象の薄い演説になったことは否めない。しかし、それでも、多くの日本人から広く好感を獲得するという目的には成功したと言えるだろう。
とはいえ、現に攻撃を受けている被侵略国の大統領の発言である。ロシアに対する非難は痛烈だった。何よりも日本のロシアに対する制裁を継続するよう求めた。そして、同時通訳では要領を得ないところもあったが、「1000発以上のミサイル、空爆があった。多くの街では家族、隣人が殺されても、彼らはちゃんと葬ることさえできない。家の庭、道路沿いに(埋葬)せざるを得ない」と説明した。また、ロシアの侵攻で多数の子供が犠牲になっていることを強調して、「最大の国(ロシア)が戦争を起こしたが、その影響・能力の面では大きくない。(ロシアは)道徳の面では最小の国だ」と非難している。この点については、多くの日本人の共感を得たものと思う。よかったのは、それ以上に「祖国のために、ウクライナ国民は立ち上がり、闘っている」などとは言わなかったこと。抑制が利いていたとの印象を受けた。
ところが、ぎごちなくオーバーに「閣下の勇気に感動しております」「わが国とウクライナは常に心は一つ」などと続けた参院議長山東昭子の空回り挨拶。完全に白けた。聞くだにこちらが恥ずかしい。
ウクライナと日本、はからずも両国のタレント出身政治家のスピーチが並んだが、彼我のレベルの大きな落差を見せつけられることとなった。
(2022年3月22日)
最近落ち着かない。なんとなくウロウロ、という心もちなのだ。3・11のときもこんな感じだったが、あれ以来のこと。いま、戦争の惨禍が現実のものとなって人々を苦しめている。恐怖、飢餓、家族の離散、そして生命の危機。
ウクライナの市民の多くの命が奪われている。もちろん、兵士の命なら失われてもよいとはならない。ロシア兵の命も同じように大切だ。1000万人という難民一人ひとりの心細さを思う。胸が痛む。落ち着かない。
先月まで、マリウポリという都市の名さえ知らなかった。いまその街が、ロシア軍に包囲され、孤立無援の状態にあるという。住宅の8割は破壊され、35万を超える市民が電気や水の入手も困難な状況で息をひそめていると報じられている。ロシア国防省は20日、ウクライナに対し「マリウポリから軍を撤退させ、市を明け渡せ」と要求したが、ウクライナの副首相は21日、この降伏要求を拒否したという。落ち着かない。これからどうなるのだろう。降伏要求拒否でよいのだろうか。
私は生来臆病なタチで、「命がけで」「英雄的に闘う」とか、「愛国心」やら「民族の団結」などという勇ましい議論には馴染めない。そして、「戦争だから犠牲はやむを得ない」とか、「国家の立場から」「民族としては」「歴史を俯瞰すれば」という大所高所からの語り口にも、ざらつくものを感じてしまう。「国益を重視する立場からは…」という物言いには心底腹が立つ。
国家よりも、民族よりも、栄光の歴史よりも、一人ひとりの今が大切なのだ。何よりも命、自分と家族の命、そして安心、暮らしに必要な水・灯り・家・パンとケーキ・庭に咲く花・学校・病院・畑・山林…、その全てが一体となった平和、平和な暮らし。
しかし、言われるだろう。「個人の尊厳が最重要だとしても、国や民族が団結して英雄的に立ち上がらねば、今は個人の尊厳も守れない切迫した事態になっている」と。それはそうなのかも知れない。だから、そのことに腹を立てているのかも知れない。そんな事態に追い込んだのは誰だ。誰の責任なのだ。
ベルリンの壁が崩壊し東西冷戦が終わったとき、平和の世紀が幕を開けると思った。しかし、そうはならなかった。あれ以来、地域紛争、民族紛争、宗教戦争が絶えることなく頻発してきた。湾岸戦争、イラク戦争、アフガン戦争…。多くはアメリカの責任が大きかった。今や、世界の秩序が変わり、一強のアメリカに代わって、幾つかの大国が悪役を演じる時代となった。
どうすればよいのやら。平和への道筋は見えてこない。だから、落ち着かない。胸が痛んで、ウロウロするばかりなのだ。一つだけ、心に留めておこう。平和を願う声を発信し続けよう。そして、この機に乗じて、非核3原則を揺るがせにしたり、9条の理念を攻撃する動きに、断乎として抵抗しよう。せめて、そのくらいの決意を固めよう。うろうろしながらも。
(2022年3月21日)
ゼレンスキー・ウクライナ大統領の我が国での“国会演説”が、明後日(3月23日)午後6時からオンラインで生中継となる見通しと報じられている。今のところ、自公維国が積極姿勢で、立憲・共産は慎重とのこと。
被侵略国には連帯したい。が、何を言うかはよく分からない。それでいて、世論に与える影響は大きい。慎重になるべきは当然だろう。日本の多数派、政権与党側に擦り寄っての支援要請発言とならざるを得ない以上は、我が国の少数派勢力には十分な警戒心が求められる。
よもやとは思うが、「ウクライナ人民は、国民一丸となって、祖国の栄光のために、死をも恐れずに、降伏を拒否してひたすら闘う。そのための軍事支援を。そして、平時にも軍備の増強を」などと、戦前さながらの軍国主義・国家主義・好戦主義を煽られてはたまらない。
ジャーナリストの鳥越俊太郎が自身のツイッターで、厳しい反対の意向を示していることが話題になっている。
反対理由は、「紛争の一方当事者の言い分を、国権の最高機関たる国会を使って言わせることでいいのか? 国民の声も聞かずに! 中国・台湾紛争でも台湾総統の演説を国会で流すのか?」とツイート。ゼレンスキー大統領の国会演説に疑問を呈している。
さらに「私はゼレンスキーに国会演説のチャンスを与えるのには反対する!どんなに美しい言葉を使っても所詮紛争の一方当事者だ。台湾有事では台湾総統に国会でスピーチさせるのか?」と猛反対。「紛争の当事者だ。何を言うか、分からんねぇ?国民は許さない。たとえ野党まで賛成してもだ!!」
また立憲民主の泉健太も、ゼレンスキーに演説させるにしても、「両国政府の合意の範囲」が当然であると主張している。党内から批判の声も上がったが、3月18日の記者会見では演説自体に反対ではないと釈明しつつ、国会が国権の最高機関であることや過去のケースを理由に首脳会談や共同声明、演説内容の「事前調整」の必要性を改めて強調したという。
私は、どちらかと言えば賛成の立場。但し、事前に幾つかの前提を踏まえてもらう必要があるだろう。日本には平和主義の日本国憲法があり、憲法9条は戦力放棄を定めている。非核3原則という国是もある。戦前の日本は、帝国主義的侵略国であったが、敗戦と同時に国のありかたを一変して、恒久平和主義を遵守する国家になって現在も変わらない、と。その立場からのウクライナ支援には自ずから限界があることの認識が必要なのだ。
ゼレンスキーに国会で喋ってもらうのは、飽くまでも理不尽な侵略を受けている国と国民の代表としてである。紛争当事国の一方としてのことではない。
なお、自民党の深谷隆司が、こう言っている。「16日の米国連邦議会向けの演説で、ゼレンスキー大統領はロシアの残虐行為を真珠湾攻撃になぞらえていた。彼の無知と偏見に私は驚いた。日本軍は真珠湾で民間人を狙った攻撃や、無差別爆撃をしていない。」
驚いてみせる必要はない。ゼレンスキーはこう言ったのだ。「真珠湾を思い出してほしい。1941年12月7日の恐ろしい朝、空があなたたちを攻撃する飛行機で黒くなった。米同時多発テロを思い出してほしい。2001年の恐ろしい日、邪悪が米国の都市を戦場に変えようとした。そのとき、無辜の人々が空から攻撃された。誰も予測していなかったように。そして、あなたがたはそれを防げなかった。我が国は同じことを経験している、毎日、まさに今この瞬間も」(訳は、CNN・Japan)
自民党には、かつては我が国がロシアと同じく、隣国に侵略戦争を仕掛けたという自覚がないのだろうか。宣戦布告なき真珠湾攻撃をいまだに反省していないのだろうか。
(2022年3月20日)
ロシアのウクライナへの侵略批判は、徹底して行わねばならない。しかし、過去の日本の大陸への侵略や、近くはアメリカのいくつもの侵略行為に目をふさぐものであってはならない。日本の過ちを自覚しつつ、プーチン・ロシアを批判する最近の幾つかの論稿を抜粋して引用したい。
毎日新聞に毎月1回の掲載だった「加藤陽子の近代史の扉」。昨日(3月19日)の掲載分が「露軍ウクライナ侵攻 武力をたのむ国は自滅する」という表題。これが、連載の最終回とのことでややさびしい。
「武力をたのむ国は自滅する」とは、日本近代史に鑑みての言明である。だから、ロシアも自滅の道に踏み込んでいるという含意がある。
「ウクライナを短期決戦で制圧できる」「ロシアのかいらい国家をつくれる」と踏んだプーチンの誤りに関連して、日本近代史のエピソードは「相手に対する軽視や慢心からの認識不足に起因した短期決戦構想の失敗事例に事欠かない」という。具体的に語られているのは、盧溝橋事件直後の「(第二次)上海事変」。情報不足からの苦戦に、天皇(裕仁)、外務官僚、軍務官僚の言として、「心配した」「敗北するのではないか」「大失敗を演じた」との評価が紹介されている。
局部的な作戦失敗のエピソードではなく、もっと長い歴史的スパンでの英国の歴史家トインビーの日本分析が紹介されている。「千年王国を目指して日本が樹立した満州国は、日本の安全感の増進に役立たない。武力をたのむ日本は古代のカルタゴのように自滅するしかない」というもの。同様に、加藤も「ウクライナを軍事的に制圧してもロシアは安全感を得られまい。引き返すしか道はないのだ」と締めくくっている。まったくそのとおりだと思う。軍事に訴えざるを得ない事態に至ったことが、既に自滅の第一歩なのだ。
もっと端的に、「プーチンは誤算? でも裕仁は想定通りを喜んだ」という日本近代史のエピソードが諸所で引用されている。「hanten-journal」名のネット発言だが、「hanten」とは反天皇の意であろう。この見解にも同意せざるを得ない。まったくこのとおりなのだ。
力によって現状を変える。
それを平和のためと強弁する。
国際的な非難や経済制裁を受けても開き直り、むしろ資源確保に奔る。
民間人、子どもも女性も殺戮する。
病院を破壊する。医者も患者も殺す。
占領したら自国の領土とするか傀儡政権を打ち立てる。
ロシアのウクライナ侵攻のことだけではない。
侵略戦争では、必ず起こることだといっていい。
1941年12月8日午前1時半、真珠湾攻撃開始よりも早く、マレー半島で日本軍による戦いの火蓋が切られた。宣戦布告前の奇襲作戦であり、シンガポールを含むマレー半島全域の占領が目標であった。55日間でマレー半島を一気に南下する電撃戦を展開し、翌年2月8日にはシンガポール島への上陸作戦が敢行された。イギリス軍の抵抗にあったが1週間でシンガポールを陥落させた。その過程で日本軍は、ブキテマにおいて女性や子どもを含む数百人の村民の虐殺やアレクサンドラ陸軍病院で医師や患者200〜400名もの殺戮など、数々の蛮行を繰り返した。「子どもも女も、皆、殺せ」という命令も出されたという。
さらに占領後の数週間の間には、日本軍に敵対する者を一掃するとして、シンガポール側の調査では5万人(日本が認めたものだけでも5000人)もの無抵抗の人びとが殺害(粛正)されている。
内大臣木戸幸一の日記には、シンガポールの陥落に際して昭和天皇に「祝辞」を述べた際の記述に、「陛下にはシンガポールの陥落を聴(きこ)し召され天機(てんき=天皇の機嫌)殊(こと)の外(ほか)麗しく、次々に赫赫(かくかく)たる戦果の挙がるについても、(略)最初に充分研究したからだとつくづく思うと仰(おう)せり」とある。昭和天皇は上機嫌で、事前の研究によって想定通りに「戦果」があがったことを喜んでいるのだ。
ロシアのウクライナ侵攻後の3月10日に、77年前のこの日に起こった東京大空襲の記憶を継承するという文脈でTVインタビューに「今ウクライナで起こっていることが、東京でも起こっていたことを忘れないで欲しい」と訴えている人がいた。被害の記憶も重要だが、むしろ忘れるべきではないのは、ロシアよりも何十倍・何百倍もの規模となる侵略戦争を、かつての日本が行ったことである。
もう一つ。毎日新聞3月16日夕刊の「特集ワイド」。「ウクライナ侵攻 旧日本軍手法に重なるロシア 「泥沼化」教訓、世界に示せ」という大型特集。話者は、日中戦争研究を専門とする広中一成。
大国が隣国を武力で脅し、言うことを聞かなければ軍を進めて意のままにする――。ロシアのウクライナ侵攻は、どうしても過去の日本の中国侵攻と重ね合わせてしまいます。
例えば、今回のロシアには北大西洋条約機構(NATO)への対抗、つまり、自分の国と仮想敵の間にあるウクライナに緩衝地帯を設けたい、という意図があります。一方、満州国が1932年に日本の謀略と武力で生まれた背景にも、共産主義のソ連の南下防止に不可欠、という考え方がありました。
今回、ロシアはウクライナの非軍事化を主張していますが、ウクライナをロシアの思う通りにしたいという動機を前提にすると、本当の意味の非軍事化や中立化は考えにくく、なんらかの形でかいらい化すると想像するのが自然です。「だまされないぞ」と思っていたほうがよいと思います。今年は満州国建国90年なのですが、1世紀近くたっても手法はあまり変わらないように見えます。驚きです。
ロシアは当初、ウクライナを数日で占領しようと考えていたようです。一発大きな打撃を与えれば、敵は降伏するだろうと。戦前、日本の軍部の一部でも、中国に一発浴びせれば屈服するだろうという、いわゆる「対支一撃論」(中国一撃論)という考えがありました。しかし、日中戦争が始まって中国に一発浴びせても降伏しない。もくろみが外れたのです。その結果、戦争が泥沼化していきました。
ロシアも、屈服せず粘り強く抵抗するウクライナに手を焼いています。日本は中国戦線で歯止めがきかなくなって泥沼に陥り、最終的に破滅しました。プーチン大統領には、歴史の教訓から学んでほしいと思います。
かつての中国への侵略については、日本を批判するか擁護するか、という内向きの議論が多いように思います。それだけではなく、世界に向けて侵略戦争を否定するメッセージを発することで、加害の歴史を教訓として生かせると思っています。日本政府にも今回の戦争を終わらせるため、かつての戦争加害者の役割として、彼らに対話を呼びかけることはできないでしょうか。考えてほしいところです。
(2022年3月19日)
「週刊金曜日」(22/03/18・1369号)が、天皇制と水平社宣言を並んで取りあげて、それぞれが熱のこもった誌面を構成している。各記事の中では触れられてはいないが、偶然にこう並んだはずはない。天皇と部落差別とは光と影の存在、相互依存の関係にある。その目次は下記のとおり。
天皇制 皇位継承問題 焦点は「直系か傍系か」だ 永田政徳
「菊タブー」に物申す 女性天皇の是非よりも国民主権から問え
今こそ天皇制存続についての議論を 鈴木裕子
日本初の人権宣言「水平社宣言」から100年
「人権擁護の法整備」の大切さを訴える 西村秀樹
部落解放同盟中央本部 組坂繁之執行委員長に聞く
「貧困・格差解消に翼を広げる」
あらためて、西光万吉という人物に敬意を表明したい。彼の発案になる「水平社」というネーミングが素晴らしい。そのとおりこの人間社会は「水平」なのだ。人間皆同じ、高い人も低い人も、尊いも卑しむべき人もないのだ。誰にも恐れ入る必要はないし、誰をも見下したり差別してはならない。それが、この社会を見る目の原点、「公理」である。
ところが、天皇はこの公理と決定的に不調和な異物である。一部の人間の思惑で無理矢理拵えられた「貴」によって社会の水平が破られ、他方に「賤」が作られた。人間平等という原理を受容しては「貴種」「貴族」の存在はあり得ないのだから、皇室やら皇族をありがたがる愚物には、論理的にも現実的にも人間の不平等が必要なのだ。天皇信仰と部落差別とは、表裏一体のものとして、ともに廃絶しなければならない。
特定の人や集団に対する差別観は、別の特定の人や集団に対する神聖視に支えられている。部落差別や、在日差別をあってはならないと考える人は、あらゆる差別の根源としてある天皇への神聖視や敬意表明の強制を容認してはならない。人間社会皆等しく「水平」であることの実践が必要なのだ。「週刊金曜日」記事が、天皇や皇族への一切の敬語を使っていないことで、実に清々しいものになっている。
不合理な差別をなくするためには、まず天皇という逆差別の存在をなくして「水平」を実現しなければならない。そのための第一歩として、天皇や皇室の神聖性を打破しなくてはならない。バカバカしい敬語の強要に敢えて異を唱えなければならない。同調圧力に屈してはならない。
「金曜日」誌上で鈴木裕子が力説するとおり、女性天皇容認でよしとするのではなく、「今こそ天皇制存続についての議論が必要」なのだ。しかも、実のところは、天皇も皇族も、自分の生まれを呪っているに違いないのだから。
そして思う。旧優生保護法下、ある人々には不妊・断種が強制された。そして、皇室の女性には男子の出産が強制されたのだ。同じ人間に対する扱いとしての、目の眩むような恐るべきこの落差。
優生思想を唾棄すべきものとする多くの人に申しあげたい。天皇の存在を容認する思想も、実は優生思想の半面なのだ。あらゆる差別に反対する立場からは、けっして天皇の存在を容認してはならない。
(2022年3月18日)
一昨日(3月16日)、国際司法裁判所(ICJ、オランダ・ハーグ)は、ロシアに対し、ウクライナでの軍事行動を即時停止するよう命じる「仮保全措置」を出した。「この決定は法的拘束力のあるものだが、ロシアはそもそもICJには管轄権がないと主張しており、武力行使を停止する可能性は低い」(朝日など)、と報じられている。
「法的拘束力はあるが、強制力はなく実効性に乏しい」という解説が、ことの性質上やむを得ないながらも十分には分かりにくいし、まことに歯がゆい。
国連自身が、「ICJによる判決には拘束力がありますか?」という問に、「国家間の紛争に対して、裁判所あるいはその裁判部によって下された判決は関係各国を拘束します。国連憲章第94条は、『各国際連合加盟国は、自国が当事者であるいかなる事件においても、国際司法裁判所の裁判に従うことを約束する』と規定しています」と解説している。
この即時停戦命令は法的拘束力を持ち、ロシアは従わなければならないものなのだ。しかし、実力をもってその違反を是正する手段はない。拒否権を持つ安保理事会の常任理事国に対して、国連が実力行使することは想定されていないのだ。とは言え、履行の強制力には欠けるものの、ロシアの即時停戦違反は今後違法であり続ける。
ウクライナのICJ提訴は2月26日、ロシアの侵攻開始(同月24日)の直後である。ロシアは管轄の欠缺という立場だが、本案についてもある程度の主張はしたようだ。「親ロシア派が支配するウクライナ東部でジェノサイド(集団殺害)が起きていることを武力侵攻の理由にした」とのロシア主張はICJによって否定された。また、《ロシアに対する即時停戦を命じ》るとともに、《両国に対し、事態の解決をより困難にする行動をとらないようにも命じ》たという。
ICJの裁判官は定員15人だが、この表決は13名の賛成に対して2名の反対がある。反対の2名の内の一人はロシア出身判事だが、もう一人は中国出身である。もっとも、ロシアと中国出身の判事は、《ロシアに対する軍事作戦の停止命令》には反対した一方で、《両国に、紛争を悪化・拡大させるような行動を控えるべきとする点》では賛成し、こちらは全員一致になっているという。
このICJ命令の全文訳は見当たらないが、「ウクライナで起きている広範な人道上の悲劇を深刻に受け止めており、人命が失われ人々が苦しみ続けている状況を深く憂慮している」「ロシアによる武力行使は国際法に照らして重大な問題を提起しており、深い懸念を抱く」などの言及が報じられている。
ウクライナのゼレンスキー大統領はツイッターで「完全な勝利だ」と歓迎した上で、「ICJの命令は拘束力がある」とし、「ロシアが命令を無視すれば、さらに孤立する」と述べている。ICJ命令の強制力の有無はともかく、ロシアの国際的孤立化に大きな役割を演じることは間違いない。
翌17日、クレムリンのスポークスマンは、ロシアはこの国際司法裁判所(ICJ)の命令を、承服しがたいものとして拒否すると述べた。
中国を侵略し満州国をデッチ上げて、国際連盟で孤立した旧日本の悪夢を思い起こさずにはおられない。もはや、ロシアには一片の正義もない。国際的な孤立は避けようもない。中国も、ロシアと一緒に孤立せぬよう心すべきだろう。
(2022年3月17日)
昨夜の大地震は宮城や福島では最大震度6強と報じられている。東北は私の故郷、被災の皆様にはお見舞い申しあげます。
関東一円での震度は4、我が家が揺れて軋む音が恐かった。幸い、実害がないと思っていたら、今朝(17日)になってメールが通じていないことが分かって慌てた。このブログも、閲覧不能になっている。地震で「サーバーが落ちた」というトラブルだとのこと。本日(17日)深夜には復旧するはずだという。
このブログが攻撃されるとすれば、安倍かプーチンの手先によるものかと思っていたが、地震もあったのだ。復旧を待つしかない。
関東弁護士会連合会に「憲法改正問題に取り組む全国アクションプログラム」という部門があり、数年前から、「こども憲法川柳」公募の企画を続けている。再審の「関弁連たより」に、以下のとおり、今年の入賞作品が発表されている。
第5回こども憲法川柳 入賞作品発表!
関東弁護士会連合会では、今回も管内11都県の小学校5年生から高校3年生までの学生の皆さまに「日本国憲法」を題材とする川柳を募集したところ、多数のご応募をいただきました。
審査の結果、次の作品を入賞作品に決定しました。
ご応募いただきました皆さま、ありがとうございました。
最優秀賞(1作品)
目指すのは 自由と平和 二刀流
(山梨県中学3年 大天使ルシファー)
(作品に込められた思い)自由と平和を両立することで必ず良い未来が待っているという思いを込めた。
優秀賞(5作品)
攻めちやうの? 守るだけだよ 自衛隊 (東京都中学3年)
(思い)集団自衛権により他国を攻撃してしまうことがあるのでやめてほしい。
振り上げた 軽い拳が 戦争参加(惨禍) (東京都高校1年)
(思い)憲法9条を守りたいという強い思いを込めた。安易に周りに流されて戦争に向かうことのないよう、一人ひとりが考えてほしいというメッセージを伝えたい。
戦闘機 国を守りて 人守らず (山梨県 高校2年 鈴山かやく)
(思い)年々上がる防衛費。確かにそれは他国からの攻撃から国を守るのに必要だ。しかしそれを補っているのは本来守るべき国の国民だ。はたしてお金をかけるべきところはそこであっているのだろうか。それを国民は望んでいるのか。
第9条 消費期限は 永久です (山梨県中学3年 もみじ)
(思い)第9条は絶対に変えてはいけないものなので、未来まで戦争のない幸せな日本であり続けてほしいから。
黒髪に 染めて心も ブラックだ (千葉県中学3年)
(思い)自分も学生としてこの校則はよくないと思うし、髪を染めた人はどのような気持になるか考えてかきました。
**************************************************************************
最優秀賞の「二刀流」は大谷翔平の活躍にあやかったものだろうが、「自由」と「平和」を組み込んだのは、なかなかのセンス。「自由と平等」や、「民主と人権」では面白くない。まさか、「成長と分配」、「予防と経済」でもあるまい。
この句の形、無限にパロディを生む。その意味では、たいへんな秀逸作
目指すのは 法治と立憲 二刀流
目指すのは 護憲と倒閣 二刀流
目指すのは 非核非武装 二刀流
目指すのは 平和と友好 二刀流
目指すのは 民事も刑事も 二刀流
目指すのは 理論と実践 二刀流
目指すのは ワークとライフ 二刀流
目指すのは 家庭と社会の 二刀流
願わくは 半農半漁 二刀流
うそっぼい 倫理と算盤 二刀流
本領は 嘘とごまかし 二刀流
みえすいた カネと売名 二刀流
プーチンに 抵抗腹背 二刀流
プーチンに 抗議と制裁 二刀流
プーチンに 声とペンでの 二刀流
プーチンは 四苦と八苦の 二刀流
目指すのは 福祉と9条 二刀流
目指すのは 竹刀と木刀 二刀流
目指すのは 武器を持たない 無刀流
(2022年3月16日)
マリナ・オフシャニコワ。我々には覚えにくいこのお名前の女性。二児の母とのことだが、この人こそ現代のジャンヌ・ダルク、本当のヒロイン。この人の勇気と知性を学びたいと思う。
この人が自ら録画しネットに投稿した動画メッセージの全文訳(の一例)が以下のとおり。鮮烈な覚悟のほどを隠さず、忖度とも遠慮とも無縁の、権力者を名指ししての全力批判となっている。
「ウクライナで起こっているのは犯罪だ。ロシアは侵略国家であり、その責任はたった一人の人間の良心の問題ですらある。その人とはウラジーミル・プーチンだ。私の父はウクライナ人で、私の母はロシア人だ。2人がいまだかつて敵同士であったことはない。いま私のつけているネックレス(ロシアとウクライナの国旗の色を合わせたもの)は、ロシアがただちに兄弟相争う戦争をやめねばならない現実の象徴であり、兄と弟はいまからでもやりなおせるだろう。
この数年間、私がクレムリンのプロパガンダに手を貸しながらチャンネル1で働いたことは不幸なことであり、恥だと思っている。何が恥ずかしいかと言えば、テレビに嘘が流れるのを放っておいたことだ。職場の人間がロシア人をゾンビにするのを放置してきたことが恥ずかしいのだ。
すべてが始まった2014年に、私たちは沈黙していた。クレムリンがナヴァリヌィを毒殺しようとしたときにも私たちは抗議しなかった。私たちはこの非人道的な政府を職場で息をひそめてみているだけだった。そしていま、世界が私たちに背中を向けている。いまから数えて第10番目の世代にいたってもこの同胞殺しの戦争の傷は忘れられないだろう。
私たちロシア人は考え続ける知的な人間だ。この狂気をくいとめるのは私たちの力しかない。抗議活動をしよう。何も恐れることはない。私たちを一人残らず拘束することなどできるはずはない」
『この狂気をくいとめるのは私たちの力しかない。抗議活動をしよう。何も恐れることはない。私たちを一人残らず拘束することなどできるはずがない』という呼びかけの言葉は、感動的で素晴らしい。しかし、『何も恐れることはない』と、並みの人には言い切れない。確かに「権力は私たちを一人残らず拘束することなどできるはずがない」が、「私たった一人なら、簡単に拘束することが可能だ。続く人がいなければそれでお終いになる」のだ。
この勇気ある「マリナの呼びかけ」に、ロシアの良心と知性は、どのように応え、どのように目覚めて続くことになるのだろうか。いや、国際世論にも同じ問が突きつけられている。今や、《プーチンの野蛮と暴力》と、《マリナの勇気と正義》とが対峙している。その結末は、ウクライナの戦況同様予断を許さない。
また、マリナが国営テレビのニュース生放送中に割り込んで掲げた手作りのプラカードの訳文は、「戦争反対。戦争止めろ。プロパガンダを信じないで。ここの人たちは皆さんにうそをついている」というもの。カメラが切られるまでの放送時間は、5秒と報道されているが、この場面は全世界に繰り返し放映されることになった。戦争遂行にメディアが果たす役割と、プロパガンダメディアとの果敢な闘いの意義とを鮮やかに示した一幕。
興味を引かれたのは、このマリナが、けっして闘士型の人物ではなく、活動家でもなかったということ。この人を知る同僚のブログへの書き込みによると、「子供が2人いるオフシャニコワさんは政治について口にすることはなく、その話題はもっぱら『子供たちと犬と家のことがほとんど』だった」という。
政権にとって所属や背景のない人の権力批判は恐ろしい。普遍性の高い、任意の一人の批判は、圧倒的多数の人々の意向の代弁であるからだ。普段の話題が『子供たちと犬と家のことがほとんど』という人とは、圧倒的多数のロシア国民のことであろう。その「圧倒的多数のロシア国民の代弁者」が、あからさまに、そして徹底的に、プーチン批判を行っているのだ。この件、政権の心胆を寒からしめて当然なのだ。
彼女は、一昨日(現地時間での14日夜)の「事件」直後に当局から身柄を拘束され、弁護権の保障ないまま14時間にわたる取り調べを受けたという。翌日(15日)、罰金3万ルーブル(約3万3000円)を科せられ釈放された。この処罰は、ビデオ・メッセージの公表に対してのもので、テレビのニュース生放送中に反戦のプラカードを掲げたことについて別の訴追が予定されているのか否かは、明らかにされていない。
どうしてもジャンヌ・ダルクを連想する。ジャンヌは神の声を聞いたとして独り立ち、順次心服する者を糾合して軍の統率者となって奇跡を起こした。英仏間の戦争において、フランスが劣勢だった戦況を逆転させたのだ。マリナは、平和を願う諸国民の声を聞いて一人で立った。そして今、ロシア内外の大きな世論の支持を糾合しつつある。やがて、奇跡は起こるだろうか。ウクライナの戦況を逆転し、プーチンの野望を挫くという。
ジャンヌは、フランス人としてフランスの危機を救った。マリナは、ロシア人として世界の平和の危機を救おうとしている。この先にある奇跡を信じたい。
(2022年3月15日)
「死屍に鞭打った」のは、春秋時代の伍子胥である。父と兄の仇である楚の平王の墓を暴き、掘り起こした死体を鞭打って父と兄との恨みを晴らしたという。あまりに殺伐とした野蛮な行為だが、実は、その昔から死者は鞭打たぬものという常識あればこそ語り継がれた故事なのであろう。
石原慎太郎という、民主主義と人権の仇が亡くなったのが今年の2月1日。生前の石原の言動に対する批判の不徹底が歯がゆい。死者に対する肯定的な評価の傾向を「デス・ポジティビティ・バイアス(死による肯定バイアス、DPB)」と呼ぶのだそうだ(3月14日・毎日「過去の言動は死後に美化されるのか 石原慎太郎氏の死去から考える」)。そのような社会的現象が、石原の死にも生じているごとくだが、これは危険なことだ。徹底して、「デス・ネガティブ・バイアス(死による否定バイアス、DNB)」でなければならない。そうでなくては民主主義と人権の恨みは晴らせない。
石原慎太郎が亡くなったその日、法政大法学部の山口二郎が「石原慎太郎の訃報を聞いて、改めて、彼が女性や外国人など多くの人々を侮辱し、傷つけたことを腹立たしく思う。日本で公然とヘイトスピーチをまき散らしてよいと差別主義者たちを安心させたところに、彼の大罪がある」とツイートした。言わば、「死屍に鞭打った」のだ。これに批判的なリプライ(返信)が殺到したという。「自分も(石原の)遺族のこと傷つけてるのに」などというもの。
一方、同じ1日に共産党委員長の志位和夫は、国会内で記者団に「心からのお悔やみを申し上げたい」と述べた。さらに、「私たちと立場の違いはもちろんあったわけだが、今日言うのは控えたい」と語ったと報道されている。これに対して、SNS上では「礼節を重んじる常識人」「大人の対応」などと称賛の声が目立ったという。SNSとはそういうものなのだ。
私は、石原の訃報に機敏に反応した山口ツィートに共感する。石原とは弱い者イジメを気取って追随者を集めてきた人物である。実は世の中には、弱い者イジメ大好き人間がウヨウヨしている。石原慎太郎とは、彼らのアイドルだった。世に有害この上ない。
志位和夫の本心は知らず、そのわざとらしい振る舞いに辟易する。もっと率直にものを語ってもらいたい。弱者の側の味方に徹してもらいたい。
石原慎太郎は、ヘイトスピーチを振りまく差別主義者であるだけでなく、都政を私物化した、実質的意味での犯罪者でもある。
毎日新聞デジタル(最終更新 2/17 10:47)が、「石原慎太郎氏 都知事としての仕事ぶりはどうだったか」と題して、下記の検証記事を掲載しているのが興味深い。要点をご紹介させていただく。
「1999年に初当選して以来、圧倒的な得票で2回の都知事選を制してきた石原氏が初めて逆風にさらされたのが07年知事選だった。「都政私物化」が争点になったからだ。その源流は「サンデー毎日」が04年1月18日号から6回連載した調査報道「石原慎太郎研究」にある。取材・執筆の大半を私(日下部聡記者)が担当した。
交際費で飲食 登庁は週3日
都知事になった石原氏をそれまで、多くのメディアは国政を巡るキーマンか「ご意見番」的な位置づけで取り上げることが多かった。…むしろ、他の都道府県知事と同じように、自治体の長としての働きぶりを事実に基づいて検証する必要があるのでは――という問題意識が出発点だった。
都の情報公開制度を活用した取材の結果、飲食への交際費支出が異常に多く、米国出張時のリムジン借り上げやガラパゴス諸島でのクルーズ乗船など、海外視察の豪華さが浮かび上がった。一方で都庁に来るのは平均して週3日ほど。日程表には「庁外」とだけ記されて、秘書課ですら動静を把握していない日が多数あった。
サンデー毎日の記事を読んだ都民が石原氏に公金の返還を求めて起こした住民訴訟を契機に、都議会で「都政私物化」が問題化。記事掲載の3年後に知事選の争点となったのだった。
「ちまちました質問するな」
連載をしていた時、私は記者会見に出席して石原知事に見解をただした。
「キミか。あのくだらん記事を書いているのは」
石原氏は開口一番、そう言った。
「知事の親しい人に高額の接待が繰り返されていますが」
「親しい人間で知恵のある人間を借りてるわけですから、それをもって公私混同とするのはちょっとおかしいんじゃないの」
(石原慎太郎・東京都知事が新銀行東京の幹部らを知事交際費で接待した際の料亭の請求書がある。都への情報公開請求で開示されたこの請求書では、石原氏を含む計9人で総額37万2330円の飲食をした。1人あたり4万円あまりの計算となる。)
「知事は就任直前『交際費は全面公開する』『公開したくないなら、私費で出すべきだ』と言っています。他の道府県のようにホームページで全面公開するようなことは考えていませんか」
「いや、公示の方法はいくらでもありますから。原則的に公示してんだからですね、それを関心のある人がご覧になったらいいじゃないですか」
「本誌は海外出張が必要以上に豪華だと指摘しました」
「必要以上に豪華か豪華じゃないか知らないけど、乗った船のイクスペンス(費用)は払わざるを得ないでしょう。(中略)何か文句あんのかね、そういうことで。ちまちました質問せずに大きな質問しろよ。ほんとにもう」
約20分間続いた記者会見の最後に、私は再度質問の手を挙げたが、石原氏は「もういいよ」と遮り、会見場の出口へ歩きながら「事務所に聞け、事務所に」と言って姿を消した。
公人としての意識がどれだけあったか
石原氏は税金が都民のものであることを、どのくらい認識していたのだろうか。
石原都政最大の失策ともいうべき「新銀行東京」の設立から撤退への過程では、最初の出資金1000億円に加え、破綻回避のための400億円の追加出資にも税金がつぎ込まれた。しかし、経営が好転することはなく、少なくとも850億円の都民の税金が失われた。
振り返ってみれば、非常識な知事交際費や海外出張費の使い方は、新銀行の行方を暗示していたように思える。
若い時から作家として、「裕次郎の兄」として「注目を集め」続けてきた石原氏に、都の予算は公金であり、自身は有権者の負託を受けた公人であるという意識は薄かったのではないかと私は考えている。
高まる「都政私物化」批判の中、石原氏は都知事選2カ月前の07年2月2日の定例記者会見で一転、「反省してます」と述べ、以降は知事交際費の使用状況や海外視察の内容を都のウェブサイトで公表するようになった。選挙戦でも「反省」を前面に押し出した結果、「情報公開」を掲げた浅野史郎・元宮城県知事に大勝したのだった。」
都民は、こんな人物を長年知事にしていたわけだ。都民の民主主義成熟度や人権意識の低レベルを反映したものと嘆かざるを得ない。
(2022年3月14日)
本日の東京は、雨上がりの穏やかな本格的な春日和。空は澄んで青く、梅は盛りを過ぎて散り残りの風情たが、桜のつぼみがふくらんでいる。小鳥も春をうたっている。キエフには砲弾の雨が降り、ウクライナ全土に母と子の悲鳴が上がっているというのに、このうららかさ。何とも申し訳ないような、後ろめたいような。それにつけても、プーチンが許せない。
あらためて今ある平和のありがたさを思う。そして、その平和の脆さと、けっして当然にいつまでもあるはずのものではないことを噛みしめつつ、平和を求めての努力が必要なことを再確認する。それにつけても、プーチンが許せない。
ウクライナの悲惨な事態には胸を痛めざるを得ない。とりわけ、「祖国を守るための英雄的な闘い」に立ち上がる人々が余儀なくされる苛酷な犠牲についてである。何とも痛ましい。このことについても、プーチンが許せない。
局面は極限の事態にある。犠牲を覚悟で武器を取る人々の勇気を讃えるべきだろうか。あるいは、それでもなお武器の使用を諫めるべきだろうか。武器の援助をすべきだろうか。武器以外の人道支援に限定すべきだろうか。
平和を求めることに反対する者は、おそらくはいない。平和の実現への道筋をどう考えるべきかが問題なのだ。古来の言いならわしの通り、「平和を望むのなら、戦争の準備をせよ」というのか、「平和を望むのなら、平和の準備をせよ」というべきか。「侵略を防ぐために武器を準備せよ」というのか、「確実な平和のために武器を捨てよ」とするのか。攻撃の側にだけ、武器を捨てよというのか、攻撃されている側にも同じことを言うべきなのか。ウクライナの犠牲に胸を痛めながら、ロシア軍兵士の犠牲には喝采を送る自分の気持ちにウンザリする。こんな気持ちにさせる、プーチンが許せない。
そして、究極の問に回答が迫られる。自分がウクライナの人々と同じ立場に立たされたとして、「国家の防衛のために、国民の一人として侵略者と闘う」べきか。あるいは、「国家よりも個人の生命が大切なのは自明なのだから、屈辱を忍んでも不戦を貫く」べきなのか。答は容易に出て来ない。こんな問に直面させる、プーチンが許せない。
おそらくは、この事態に至る以前に、ウクライナにはいくつもの最悪の事態回避の方法があったのではないか。それをこそ、教訓とすべきなのだと思うのだが、それにつけても、プーチンが許せない。