(2022年3月3日)
世界が、ロシアに怒っている。ロシアによって引き起こされた戦争に怒っている。世界中の人々が無法者プーチンを糾弾している。ウクライナへの軍事侵攻は、ロシアとプーチンの孤立をもたらした。そのことによって、侵略者の側が深刻な深手を負っている。この侵略行為は成功体験とはなり得ない。一見頼りなげな国際世論が、いま、大きな力を持ちつつあるのではないか。
昨日(3月2日)、国連総会は、ウクライナ危機をめぐる緊急特別会合で、「ロシアを非難し軍の完全撤退を要求する決議」を採択した。国連加盟193か国のうち、賛成票を投じたのが141カ国であった。反対は孤立した5か国。その国名をよく覚えておこう。ロシアとベラルーシ・シリア・北朝鮮・エリトリアである。棄権は35カ国、その中に、中国・インドがあることも今後忘れてはならない。かつて冷戦下では世界を二分する勢力の領袖であったロシアのこの凋落ぶりである。
決議が採択されると、ウクライナのキスリツァ国連大使は起立し、議場は40秒にわたって鳴り響いた拍手で支持を表明したという。ロシアとウクライナ、国際世論の支持でくっきりと明暗を分けた。
この決議は、ウクライナの主権や領土保全を再確認し、ロシアの行動は「国連憲章に反する」と明記した。ロシアによる「特別な軍事作戦」の宣言を非難し、ウクライナ東部の親露派支配地域の「独立承認」も撤回するよう要求。ロシア軍が「直ちに完全無条件で撤退すること」を求めているという。ロシアにとっては、徹底した厳しい内容となっている。
この決議を採択したのは、ニューヨークの国連本部でのこと。一方、ジュネーブでは国連人権理事会の通常会期が進行中である。そこでの興味深い一幕が、報道されている。
この人権理事会で、3月1日ロシアのラブロフ外相がオンラインで演説をした。この演説が始まるや、多くの外交団が一斉に退席し、抗議の意思を示したという。
退席したのは日本を含む約40カ国の100人以上の外交官。退席した外交官らは議場の外で、ウクライナ大使の周りに集まり、ウクライナへの支持を表明したという(ロイター)。
ラブロフは、当初ジュネーブを訪れて会合に参加する予定だったが、欧州連合(EU)が、自身を制裁対象とし、「移動の自由の尊重を拒否したため、オンライン参加を余儀なくされた」とし、約15分間の演説で侵攻の正当性を主張した(共同)と報道されている。
ここでも、肩身の狭いロシア、友情に包まれているウクライナの明暗である。
目前に迫った北京パラリンピックでも、同様の事態が生じている。
国際パラリンピック委員会(IPC)は、4日に開幕する北京冬季パラリンピックに、ウクライナに侵攻したロシアと、ロシアに協力的なベラルーシの参加を容認した。
同日夜、北京市内で開かれたIPCの記者会見で、ウクライナ紙の男性記者が写真を示しながら真っ先に質問した。「この選手には、もう二度と競技をする機会は訪れない」。
この記者によると、写真の男性はウクライナのバイアスロンのジュニア世代元代表。1日にウクライナ第2の都市ハリコフで爆撃を受け、亡くなったという。「あなたは侵略側の選手には競技をさせると言うが、この選手にはもう二度と競技をする機会は訪れない。彼の遺族にあなたはどんな言葉をかけるのか」とたたみかけた。
これに対し、IPCのアンドルー・パーソンズ会長は「ウクライナの皆さんの苦痛は想像だにできない」と哀悼の意を表したが、「彼に起きたことを私たちが変えることはできない」「スポーツと政治は別だ」とも述べた。
ウクライナ紙の記者は会見後、「規則を盾に逃げただけだ」と断じた。会見にはロシア人記者も出席したが、質問に立つことはなかった。(以上、毎日)
これが、昨日(3月2日)のこと。ところが、本日事態は逆転した。
「国際パラリンピック委員会(IPC)は3日、4日から開幕する北京パラリンピックに、ロシアとベラルーシ選手の出場を認めないと発表した。複数のパラリンピック委員会、チーム、選手が参加辞退をほのめかし、北京大会の実施が難しくなる可能性と、選手村の状況が悪化し、選手らの安全が守れないと発表した。」(朝日)
結局、各方面からの批判で、1日足らずで方針を撤回する形になったという。これも国際世論の力だ。世論が、事態を変化させ、その変化が世論に自信を与え、さらなる世論を呼ぶ。
このような国際世論の興隆が、政治的・経済的・社会的・文化的なロシア・プーチン批判の大きな渦を作りつつある。これが、ウクライナの人々を励まし、ロシアの戦意を喪失させている。こうして、国際世論は現実的な力になりつつある。
(2022年3月2日)
2月24日以来、一刻も心穏やかではいられない。今も、キエフで、ハリコフで、市民が砲撃に曝されている。ロシア兵の命も無駄に失われている。両国民の血が無意味に流され続けている。何という、愚かしい悲惨な事態であろうか。
ロシアのウクライナに対する軍事侵攻という深刻な現実から、何を学ぶべきであろうか。世界の人々が、それぞれに真剣に考えなければならない。そして、声を上げなくてはならない。この事態を繰り返さないために。
真摯にこの事態に向き合い考えるべきは全世界の人々ではあるが、国家の枢要な地位にある人にはその責務は重い、大国の関係者であれば、なおさらである。さらに、ロシアの轍を踏む危険をもつ超大国と言えば、アメリカと中国の名を挙げざるを得ない。とりわけ、我が国との関係で考えるならば、中国こそ最も真摯に国際法を蹂躙したロシアを批判しなければならない。
ところが、こともあろうに、中国大阪総領事館の薛剣総領事のツィッターでの冷酷な発言が波紋を呼んでいる。これまでも、数々の物議を醸してきた人物。中国の本音をチラつかせていると見ざるを得ない。
この人、日本語で「ウクライナ問題から学ぶべき教訓」と題して、「弱い人は絶対に強い人に喧嘩を売る様な愚かをしては行けない」(原文のママ)と言ったのだ。軍事侵攻したロシアではなく、明らかに被害を受けたウクライナに矛先を向けた批判である。
しかも、このツィッター、彼の地に引き起こされた市民の悲劇に関心を寄せた形跡はカケラもない。この人の頭の中には、人が傷を負い、血を流し、命を失うという惨劇に対する憐憫の情がない。こういう人物を人非人とか、冷血漢という。
この人の頭の中では、戦争もゲーム感覚でしか理解できていない。しかも、正義も法もない強者絶対のルールに基づくゲームである。「弱い人は宿命的に、強い人に従順でなければならない」という、傲慢な強者の理論が大上段に語られている。恥ずかしくないか。
中国を代表する総領事がこう述べれば、強者とは強国である中国のことである。結局彼はこう言っているのだ。
「ロシアのウクライナ侵略の事態とは、弱いウクライナが強いロシアにケンカを売って報復を受けたということである」「だから、この事態の最大の教訓は、弱い国が強い国にケンカを売っては悲惨なことになるということなのだ」「もちろん、中国は強大国である。中小の諸国は中国にケンカを売るような愚を犯してはならない」
さらに、「台湾も日本も韓国もベトナムもフィピンも、中国に従順にしなければ、明日はウクライナのごとくなるぞ」とも響くのだ。野蛮な超大国の無法ぶりが垣間見える。
この中国総領事の投稿をめぐって、中国政府投稿をめぐり中国政府が釈明をしたようだ。「中国外交は国の大きさを問わずすべて平等だと一貫して主張している」「中国は強さと大きさを利用した弱い者いじめを行わない」と、報道されている。この釈明にも、芬々たる大国意識が透けて見える。。
問われているのは、外交官薛剣の品位ではなく、今や大国意識丸出し中国の品格ではないか。
(2022年3月1日)
「ウラジーミル。君と僕は、同じ未来を見ている。行きましょう。ロシアの若人のために。そして、日本の未来を担う人々のために。ゴールまで、ウラジーミル、2人の力で、駆けて、駆け、駆け抜けようではありませんか」
ウラジーミルとは言わずもがなのプーチンのこと。読むだに恥ずかしいこのセリフをシラフで口にしたのは、ウラジーミルの親友アベシンゾーである。2019年、ウラジオストク「東方経済フォーラム」でのスピーチの一節。
「カムパネルラ、どこまでもどこまでも一緒に行こう。僕はもうみんなの幸のためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまわない」「うん。僕だってそうだ」「けれどもほんとうのさいわいは一体何だろう。」「僕わからない」「僕たちしっかりやろうねえ。」
「僕もうあんな大きな暗やみの中だってこわくない。きっとみんなのほんとうのさいわいをさがしに行く。どこまでもどこまでも僕たち一緒に進んで行こう」
カムパネルラとジョバンニだから、美しい寓話となる。プーチンとシンゾーでは、醜悪極まるというだけではなく、危険この上ない。
プーチンとシンゾーは「2人の力で、駆けて、駆け、駆け抜けた先のゴールに、何を想定していたのだろうか。どうやら、相互に核を保有し、相互に核の威嚇を容認する新たな世界秩序のことのようなのだ。
今日は、3月1日ビキニデー、8月6日・8月9日とならんで、世界の人とともに核廃絶の誓いを新たにすべき日である。大戦終了から10年を経ない1954年3月1日、南太平洋のマーシャル群島ビキニ環礁におけるアメリカの水爆実験で第五福竜丸の乗組員23名が被爆した日。
今年のビキニデーは、これまでにない緊迫感に包まれている。ウクライナに侵攻したプーチンが、作戦展開の遅延に苛立ってのことか、ロシアの核兵器抑止部隊を高度警戒態勢として、核による威嚇をチラつかせる事態となっているからだ。そして、親友アベシンゾーが、これに呼応するごとくに、米国が日本に配備した核兵器を日米が共同運用する「核共有(ニュークリア・シェアリング)」について検討すべきだと言い始めたのだ。
2月27日、プーチンは「西側諸国が経済面でも不法な制裁をすると攻撃的な発言をしている。したがってロシア軍の抑止力部隊を特別戦闘準備態勢に移すことを命令する」と、明らかに核兵器使用を示唆する威嚇の発言。経済制裁には核の使用もあるぞ、という脅し。
同日、これに呼応する親友シンゾーはフジテレビの番組に出演して、「この世界はどう安全が守られているのかという現実の議論をタブー視してはならない」「米国の核兵器を国内に配備し、日米共同で運用する『核共有』政策の導入について議論すべきだ」と発言。核保有容認のタカ派ぶりを露わにした。
この「アベ好核発言」に対して、被爆者から、「あきれた。被爆者で国会議事堂を取り囲んで、『発言を取り消せ』と訴えたい」。「核も戦争もない日本を76年間守ってきたけれど、政治が危険な方向に進んでいる気がする。死んでも死にきれんで」「原爆の日にはいつも『非核三原則を堅持する』と述べていたが、彼の本音が出たと感じた。日本は戦争被爆国として核廃絶をリードする立場にあるのに」「すごく怖い。核で平和は絶対に保てない。核開発競争で恐怖が増大し、悪循環に陥るだけ。非常に危険な考え方で、根本から変える必要がある」「核戦争の危機が高まっている今、核を一つでも二つでも減らす、軍縮のテーブル作りを日本がすべき時だ。軍拡競争に拍車をかけかねない発言で到底許されない」などと強い怒りと非難の声が寄せられている(毎日)。
多少の救いは、首相の国会答弁である。昨日(2月28日)の参院予算委員会で、岸田文雄は「核共有」政策の導入を明確に否定した。「平素から自国領土に米国等の核兵器を置くといった枠組みを想定しているなら…『持たず、つくらず、持ち込ませず』という非核三原則堅持という我が国の立場から考えて認められない」と明言した。この答弁は田島麻衣子議員(立憲民主)の質問に答えたもの。首相が、アベでなくて本当によかった。
また、首相はロシアの核兵器抑止部隊が高度警戒態勢に入ったことについて「事態を更に不安定化させる危険な行為だ。唯一の戦争被爆国である我が国としても、厳しく問題点を指摘しなければならない」とした。ロシアのウクライナ侵略は国際法違反であり断じて許容できないと厳しく非難した。こちらは、自民党議員への答弁。
アベシンゾーの発言を否定した形だが、首相としては、政権維持のためには、核廃絶の世論に耳を傾けるべき以外にないと考えたに違いない。非核三原則を堅持し「核なき世界」実現への姿勢を堅持しなければ、政権はもたないことを知るべきなのだ。
ウラジーミルとシンゾー、僕たち2人の力で、一緒に、駆けて、駆け抜けようではありませんか。世界の世論に見捨てられる淋しいゴールまで。
(2022年2月28日)
本日午過ぎ、狸穴のロシア大使館まで出向いて、道路を挟んだ向かいの位置から門に向かって、一人で「侵略者ロシアはウクライナから撤退せよ」「無法者プーチンよ恥を知れ」と声を出してきた。大使館員の誰の耳にも届かなかったろうが、これが精一杯。一応は、個人としての意思表明はしてきた。
実は、たくさんの人々がロシア・プーチンに対する抗議の声を上げているかと思ってきたのだが、誰もいない。代わっていたのは、警察車両と大勢の警察官。私の声は警備の警官にだけ届いて、聞きとがめられた。不審人物と見られてか、二人の警察官がロシア大使館に向かう途中から、私の後にくっ付いてきていた。やり過ごそうと停まるとあちらも停まる。こうして、私の近くに控えていた警察官が、私が声を出したら、近くまで寄ってきて何やら言ってきた。孤立無援。ロシア軍に囲まれたウクライナ同然の体。他国に軍事侵攻してその安全を蹂躙しているロシアだが、その大使館は日本の警察に安全を保障されているのだ。
本日、東京弁護士会と大阪弁護士会が、ロシアのウクライナ侵攻に抗議する内容の会長談話を発表した。兵庫県弁護士会は、2月26日付けで会長談話を発表している。これは素早い。さらに、自由法曹団は2月25日付の「緊急声明」である。こちらは弁護士会に較べれば意思統一がし易いから先頭を切っている。
以下に、東京弁護士会・兵庫県弁護士会・大阪弁護士会の各会長談話と自由法曹団の緊急声明をご紹介する。
概ね、ロシアの軍事侵攻を国際法違反・国連憲章違反と断じた上、市民に対する究極の人権侵害と指摘し、恒久平和主義・平和的生存権を掲げる憲法をもつ我が国の立場から、けっして容認できないとする。ロシアに抗議するとともに、日本政府に国際平和実現のための外交努力を求めるものとなっている。
なお、自由法曹団は当然として、東京弁護士会会長談話の日付が、西暦一本であることにもご注目いただきたい。
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法の支配を蹂躙するロシアのウクライナ侵攻を非難する会長談話
2022年02月28日
東京弁護士会 会長 矢吹 公敏
本年2月24日未明,ロシアがウクライナに大規模な軍事侵攻を開始し,多数の民間人の犠牲者が出ていると報じられています。
当会も会員である国際法曹協会(International Bar Association)は,プーチン大統領によって命じられたウクライナ侵攻を最も強い言葉で非難する声明を出しました。同会のスタンフォード・モヨ会長は,「プーチン大統領によるこの行為は,紛れもなく国際法に違反する行為である。国連加盟国は1945年以来,領土は同意によってのみ変更できると合意しており,このルールは,国際法と国家間の秩序を維持するための中心的なものである。法の支配を保護し促進するために設立されたIBAは,ロシアのウクライナ侵攻を強く非難する。」と述べています。
戦争は,市民の生命・身体の安全を脅かす究極の人権侵害行為です。戦争によって侵されるのは領土だけでなく,そこで暮らす市民の平穏な生活です。
我が国の憲法は,前文で恒久平和主義を規定し,平和を愛する諸国民の公正と信義を信頼し,全世界の国民が平和のうちに生存する権利を有していることを確認しています。恒久平和主義の理念を掲げる憲法の下,基本的人権の擁護を使命とする私たち日本の弁護士は,国際法に違反し,法の支配を蹂躙する今回のロシアの人権侵害行為を,いかなる理由があろうとも断じて許すことはできません。
当会は,このようなロシアのウクライナ侵攻を非難するとともに,同国が法の支配を遵守し,武力侵攻と人権侵害行為を直ちに止めることを強く求めます。
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ロシア連邦のウクライナ侵攻に関する会長談話
2022年(令和4年)2月26日
兵庫県弁護士会
会 長 津 久 井 進
このたびのロシア連邦のウクライナに対する侵攻は、国連憲章及び国際法に違反し、市民に重大な危険と恐怖をもたらすもので、到底、許されるものではありません。ウクライナやロシア連邦をはじめとする市民の方々に一刻も早く平和な日常が取り戻されることを強く望みます。
私たちは国際社会における一市民として、第1に、他国で起きている事実を他人事とせずしっかり直視すること、第2に、その一方で冷静さを欠いた国家主義に陥らないこと、第3に、他者の生命・自由・人権を守り支えることの重要性を、あらためて認識する必要があります。とりわけ、平和的生存権は、戦争や暴力の応酬が絶えない今日の国際社会において、全世界の人々が平和に生きるための全ての基本的人権の基礎となる人権です。自らへの危険を顧みず、政府に反対意思を表明しているロシア連邦の市民の方々の勇気にエールを送ると共に、広く平和的生存権が保障されることを希求します。そして、権力の濫用・暴走の歯止めとなる法の力を期待します。
こうした観点から、日本政府には、解決に向けた積極的な外交努力を求めます。
当会は、これまで数多くの機会で、市民の方々とともに、個人の尊厳と恒久の平和の実現に不可欠である平和的生存権の保障を求めてきました。基本的人権の尊重と社会正義の実現を使命とする弁護士として、外交努力によって戦争の惨禍がこれ以上深刻化しないことを心より願って、この会長談話を発表いたします。
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ロシア連邦のウクライナに対する軍事侵攻に反対する会長談話
この度、ロシア連邦はウクライナに対して軍事侵攻を行い、ロシア連邦自身がこの軍事侵攻を認めている。また2022年2月26日、日本政府はロシア軍の侵攻を「侵略」と認定している。
国連憲章は、その前文において「国際の平和及び安全を維持するためにわれらの力を合わせ、共同の利益の場合を除く外は武力を用いないことを原則の受諾と方法の設定によって確保し」た旨を規定し、また、国連憲章第2条は、「すべての加盟国は、その国際紛争を平和的手段によって国際の平和及び安全並びに正義を危くしないように解決しなければならない。」「すべての加盟国は、その国際関係において、武力による威嚇又は武力の行使を、いかなる国の領土保全又は政治的独立に対するものも、また、国際連合の目的と両立しない他のいかなる方法によるものも慎まなければならない。」と規定している。この国連憲章の武力行使の禁止は、戦争が最大の人権侵害であることを踏まえて規定されたものである。ロシア連邦によるウクライナへの軍事侵攻は、明確に国連憲章に違反するものであり、決して容認出来ない。
日本国憲法前文は、「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し」、第9条において、「武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」と規定する。
弁護士は、基本的人権を擁護し、社会正義を実現することを使命とするものであり、日本政府に対し平和的紛争解決に向けたなお一層の努力を求めるとともに、ロシア連邦によるウクライナに対する軍事侵攻に強く抗議する。
2022年(令和4年)2月28日
大阪弁護士会
会長 田中 宏
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ロシア連邦によるウクライナに対する軍事行動に断固として抗議し、
直ちに軍事行動の停止を求める緊急声明
ロシア連邦は、2022年2月24日日本時間午後、主権国家たるウクライナに対し、軍事行動を開始した。ロシア連邦は、すでに首都キエフ郊外を含む複数の軍事施設に対して攻撃を開始し、ウクライナ側には子どもも含めた死傷者がでているとの報道もある。
ロシア連邦からは、ウクライナ国内で独立宣言をした2つの地域についてその独立を承認した上で、その「独立国」と締結した「友好相互援助条約」に基づき、同地域の住民の安全と権利保障のための措置と主張しているとの報道がされている。
しかし、2つの地域の住民の安全と権利保障のためにウクライナに対して武力攻撃する正当な理由はないのであって、ロシア連邦の軍事行動自体がウクライナにおける平和を侵すものであることは明らかである。ロシア連邦の軍事行動は、国連加盟国の主権、独立及び領土保全の尊重、武力行使及び武力による威嚇の禁止を明記している国連憲章、国際法の基本原則に反した侵略行為であり、ウクライナの主権及びウクライナ国民の人権を著しく侵害するだけでなく、第二次世界大戦以降、国際連合及び各国の不断の努力によって維持拡大してきた国際的な平和的枠組を破壊するものにほかならず、国際社会の平和秩序の維持という観点からも許されるものではない。
ロシア連邦は、2015年2月に調印した停戦のための「ミンスク合意」はもはや存在しないと言い切り、自らが当事国となった合意を反故にする姿勢を示しているが、直ちに国連憲章の諸原則に沿って、平和的に解決をはかるプロセスに立ち戻るべきである。
自由法曹団は100年にわたり、平和、民主主義、人民の生活と権利を守るためにたたかい続けてきたものであり、まさに平和を破壊し人民の権利を踏みにじるロシア連邦の軍事侵攻は、全くもって承服できない。自由法曹団は、ロシア連邦の軍事行動に断固として抗議し、直ちに軍事行動の停止を求める。
以上
2022年2月25日
自由法曹団 団長 吉田健一
(2022年2月27日)
姓は澤藤、名は範次郎。私の同年輩の従弟である。沢藤範次郎ではない。「澤藤」か、「沢藤」か。この違いに、こだわるべきか、こだわらざるべきか。もちろん、同姓の私にとってもまったく事情は同じ、他人事ではない。
彼は、岩手県の金ケ崎町六原で、永年「さわはん工房」を経営し、郷土色豊かな創作民芸品を作ってきた。主たる作品は、和紙を素材にしての「張り子」。鬼剣舞の面もあれば、招き猫やら人形やら。その評価は高い。随分以前だが、地域の子どもたちと、縄文土器作りに挑戦したことの話しに感心したことがある。
https://ameblo.jp/sawahan
のみならず、達意の文章の書き手として、先年地元紙「岩手日報」が主宰する《岩手日報・随筆賞》を受賞している。年間たった一人の受賞なのだからたいしたもの。
その文化人である彼が、最近岩手日報社から取材を受けて、こんな経験をしたという。
「岩手日報社から取材を受けました。澤藤の名刺を出しましたら、記事には「沢藤」で出ると言われました。共同通信社加盟の新聞社の決まりだと言うことです」
釈然としなかったが、そのときは「まあ、いいか」と妥協したという。しかし、…。
「その記事が掲載になったのですが、なんだか他人のような気になりました。私は岩手日報社から「岩手日報文学賞・随筆賞」なるものを戴いているのですが、その受賞者名は「澤藤範次郎」です。また、受賞者が交代で日報社の「みちのく随想」に寄稿しているのも、「澤藤範次郎」名です。ところがたまに「ばん茶せん茶」という随筆投稿欄に書くと、「沢藤範次郎」に書き直されることがあります。
そこで注意してみますと、慶弔欄や公告は「澤」を普通に使っているようです。
また、新聞社が依頼した原稿等は「澤」を使うが、一般記事の場合は「沢」のようです。そして、有名人は、例えば「藤澤五月」「澤穂希」のように「澤」を使っています。」
さすがに観察眼が鋭い。明確に使い分けられているらしいのだ。どうやら丁重に扱われる場合と、軽く扱われている場合と。
「書棚にあった『記者ハンドブック 新聞用字用語集』(2005年版)によると、確かに「澤」は無くて、「沢」となっています。そして、このハンドブックの『人名用漢字の字体に関する申し合わせ(2005年)』には、『ただし、特に本人、家族などの強い要望があった場合、前記各項の申し合わせについては各社の運用に任せる』とあります。
私は取材を受けた直後、本社に電話して、できれば「澤」にしてほしいと言ったのですが、どうやら、「強い要望」とは認めていただけなかったようです。」
なるほど、なるほど。そして、問題が私に振られる。
「統一郎さんも『澤』を使用しているようですが、このようなことはありませんか?
人名の漢字も人格権のような気がしますが。」
私は、「人名の漢字も人格権のような気がします」という範次郎見解に賛成なのだが、念のために妻と子に意見を聞いてみた。やや意外な反応だった。
妻は、「澤藤でも沢藤でも、どっちでもいいわ。だいたい私は結婚してサワフジの姓になってもうすぐ60年になるけど、いまだに『澤藤』にも『沢藤』にも慣れない。自分の姓だと馴染めない」と恨みがましい。明らかに論点がずれているが、論争に踏み込むのは危険だ。
弁護士である子は、常々、集団訴訟の名簿づくりで異字体整理の繁雑さに辟易している。ところが、こう言った。「戸籍制度は、権力が人民を統制する手段なのだから、人名は無限に複雑で異字体が氾濫する状態が望ましい。統制が難しくなるよう、各自がそれぞれの字体を主張すべきだ」と、これもやや論点を逸らしての意見。
ところで、過日の朝日「天声人語」に、下記の記事。
「全国の電話帳から拾っただけでワタナベには少なくとも50通りの表記がありました」。そう話すのは名字研究家の高信幸男さん。長く法務省に勤め、戸籍や登記の実務に詳しい。ワタナベの源流は平安中期の武将、渡辺綱にさかのぼり、いまは渡部、渡邊、渡鍋、綿鍋などさまざまな書き方があるそうだ▼サイトウも多彩だ。サイの字は斉、斎、齊、濟などざっと30通り以上。高信さんによれば、ワタナベやサイトウが多様化したのは、明治の初め、新政府が戸籍制度を導入したころらしい▼「列強に追いつくには徴税と徴兵が欠かせない。全国民の台帳作りを急ぐあまり、人名の登録がややずさんでした」。漢字を書けない人が珍しくなく、役所の窓口で姓を問われると、口頭で答える。その場で係官が思いつく漢字を当てたようだ
なるほど、出版の利便性の側面からは、漢字の異字体を規格化し統一化することには、それなりの合理性・必要性を否定しえないように思う。しかし、漢字の表記は文化の一面である。しかも、氏名の表記となれば、人格てきな利益に結びつかざるを得ない。サイトウやワタナベとは違って、サワフジはわずか2種の異字体。
ところで、「氏名を正確に呼称される利益は、不法行為法上の保護を受け得る利益である」とする最高裁判例がある。重要部分を摘記する。
「氏名は、社会的にみれば、個人を他人から識別し特定する機能を有するものであるが、同時に、その個人からみれば、人が個人として尊重される基礎であり、その個人の人格の象徴であつて、人格権の一内容を構成するものというべきであるから、人は、他人からその氏名を正確に呼称されることについて、不法行為法上の保護を受けうる人格的な利益を有するものというべきである。しかしながら、氏名を正確に呼称される利益は、氏名を他人に冒用されない権利・利益と異なり、その性質上不法行為法上の利益として必ずしも十分に強固なものとはいえないから、他人に不正確な呼称をされたからといつて、直ちに不法行為が成立するというべきではない。すなわち、当該他人の不正確な呼称をする動機、その不正確な呼称の態様、呼称する者と呼称される者との個人的・社会的な関係などによつて、呼称される者が不正確な呼称によつて受ける不利益の有無・程度には差異があるのが通常であり、しかも、我が国の場合、漢字によつて表記された氏名を正確に呼称することは、漢字の日本語音が複数存在しているため、必ずしも容易ではなく、不正確に呼称することも少なくないことなどを考えると、不正確な呼称が明らかな蔑称である場合はともかくとして、不正確に呼称したすべての行為が違法性のあるものとして不法行為を構成するというべきではなく、むしろ、不正確に呼称した行為であつても、当該個人の明示的な意思に反してことさらに不正確な呼称をしたか、又は害意をもつて不正確な呼称をしたなどの特段の事情がない限り、違法性のない行為として容認される。」(最判1988.2.16)
同じことが、氏名に関する漢字の表記についても言えるだろう。当人が望む限りは、当人の希望を尊重しての表記とするのが妥当な姿勢。が、問題はマナーの問題にとどまり、「沢藤」との表記がことさらに嫌がらせとなって、人格権侵害の違法行為と評価される局面は考えにくい。
鋭い彼の観察眼のとおり、澤藤と沢藤との使い分けは、実は丁重に扱われるか否かなのだ。「沢藤」の表記は違法ではないが、「澤藤」と表記してもらうことがマナーとして望ましい。なんとも平凡だが、そんな結論。おそらく、そんなこだわりは、多くの人にあるのだと思う。面倒だとせずに対応してもらえる社会であって欲しいと思う。
(2022年2月26日)
さすがに産経である。産経の紙面では、何ごとも反共のネタとなる。
ロシアのウクライナ侵攻を平和に対する深刻な危機と捉えての素早い対応で気を吐いているのが日本共産党。いち早く、ロシアへの抗議の声を上げ、「国連憲章違反の侵略行為を許さない」「平和を守れ」という旺盛な論陣を張っている。私には、日本共産党の存在感発揮の好機に見える。ところが、これが産経にかかると、こんな記事になる。
《「9条で日本を守れるの?」ロシア侵攻で懸念噴出、共産は危機感》
「9条の危機」故の《共産党の危機感》というのだ。「9条で日本を守れるの?」「非武装で国を守れるのか?」。もっと素朴には、「攻められたらどうするの?」は、今に始まった問ではない。日本国憲法制定時の制憲議会での質疑から今日まで、同様の問いかけが繰り返されてきた。もちろん、真面目な議論もあり、護憲勢力を叩こうというだけの不真面目な議論もおりまざって、様々に積み重ねられてきた。
産経記事の本文はこうなっている。
「ロシア軍によるウクライナ侵攻を受け、『憲法9条で国を守れるのか』という懸念の声が会員制交流サイト(SNS)などで増えている。対話が通用しない国際社会の厳しい現実を目の当たりにし、最高法規に『戦争の放棄、戦力及び交戦権の否認』を掲げることへの危機感を受けたものだ。護憲勢力は警戒を強めており、特に夏の参院選に向けて『9条改憲阻止』を訴える共産党は火消しに躍起となっている。」
ここで、日本共産党委員長・志位和夫のツィッターが引用される。
『憲法9条をウクライナ問題と関係させて論ずるならば、仮に(ロシアの)プーチン大統領のようなリーダーが選ばれても、他国への侵略ができないようにするための条項が、憲法9条なのです』
「共産の志位和夫委員長は自身のツイッターで、ロシアによるウクライナ侵攻を強く批判する一方、ネット上で一気に噴出した9条懐疑論を牽制した。機関紙「しんぶん赤旗」も25日付で「ウクライナ問題 日本は9条生かし力尽くせ」との記事を掲載した。
ただ、プーチン氏のようなリーダーに率いられた覇権国家が日本への侵攻を試みた場合の9条の効力は不透明だ。」
次いで産経は、日本維新の会の松井一郎(大阪市長)の志位ツィッターへのツッコミを紹介する。
「志位さん、共産党はこれまで9条で他国から侵略されないと仰ってたのでは?」
松井の言うことはよく分からない。が、忖度して舌足らずな松井の言を補えば、こう言いたいのであろう。
「共産党はこれまで『憲法9条があるから、日本が他国から侵略されることはない』と言っていたはずではないのか。ところが、今回のウクライナの例を見よ。《仮にウクライナが憲法9条をもっていたにせよ》ロシアの侵攻を防げただろうか。同様に日本に憲法9条があるからといって、他国から侵略されることはないとは言えないだろう」
また、産経は、「自民党の細野豪志元環境相も『論ずべきは、憲法9条があれば日本はウクライナのように他国から攻められることはないのかということ。残念ながら答えはノーだ』」と紹介している。
松井・細野とも、その言から9条に対する敵愾心だけは伝わってくるが、9条を論難する論理にはなっていない。ウクライナに憲法9条はない。人口4000万を超える国なりの軍事力はある。けっして、「9条類似の憲法条項」をもっていたからロシアからの侵略を受けたわけでも、非武装だから侵攻の対象となったわけもない。松井・細野は、「9条をもたない国が侵略を受けたのだから、9条は有害だ」という、間の抜けた非論理を展開しているわけだ。明らかになったのは、武力では侵略を止めることができなかったということ。
強いて松井・細野の側に立って議論を膨らませれば、「もっと強い軍隊を」「もっと多数の兵士を」「もっと多額の軍事費の負担を」ということになろう。しかし、果たしてそのようなことが可能だろうか。そして、そうすれば安全だろうか。却って相互不信から危険を招くことにはならないか。
日本国憲法9条は、大戦の惨禍を招いた苦い経験への反省から、際限なき軍備拡張の愚をくり返さぬよう制定されたのだ。今、松井や細野が言っているような軍備正当化の見解を克服してのことである。その初心を思い起こそう。
制憲議会での政府答弁には、何度か「捨て身の態勢で平和愛好国の先頭に立つ」という覚悟と決意が述べられている。9条の平和主義は、けっして怠惰な消極主義ではない。積極的に国際平和を実現すべき努力を積み重ねて、安全な環境を作ろうとするもの。従って、「攻められたらどうする」「武力侵攻されたらどうする」という問を想定していない。原発にでも、コンビナートにでも、ミサイルを撃ち込まれれば、「そこでどうする?」という問は無意味なのだ。
なお、志位和夫のツィッターだけではよく分からない。共産党の公式見解は、9条についてどう言っているだろうか。ホームページから引用する。
「憲法をめぐるたたかいでは、第九条が最大の焦点となっている。…改憲のくわだてとむすびついて、軍国主義的 な思想・潮流の動向が強まっていることも重大である。
憲法九条をとりはらおうという動きの真の目的は、アメリカが地球的規模でおこなう介入と干渉の戦争に、日本を全面的に参戦させるために、その障害となるものをとりのぞくところにある。
昨年強行された戦争法は、そのための仕組みをつくろうとするものであった。しかし、九条があるために、戦争法においても、「自衛隊が海外で武力行使を目的に行動することはできず、その活動は後方地域支援にかぎられる」ということを、政府は建前にせざるをえなかった。政府が「後方地域支援」とよんだ兵站活動は、戦争の一部であり、政府の建前はごまかしである。同時に、なお九条の存在が自衛隊の海外派兵の一定の制約になっていることも また事実である。
戦後、日本は、一度も海外での戦争に武力をもって参加していない。これは、憲法九条の存在と、平和のための国民の運動によるものである。憲法九条は、戦後、自民党政治のもとで、蹂躙されつづけてきたが、自衛隊の海外派兵と日本の軍事大国化にとって、重要な歯止めの役割をはたしてきたし、いまなおはたしている。この歯止めをとりのぞき、自由勝手に海外派兵ができる体制をつくることを許していいのか。これが憲法九条をめぐるたたかいの今日の熱い中心点である。この点で、九条改憲に反対することは、自衛隊違憲論にたつ人々も、合憲論にたつ人々も、共同しうることである。
日本共産党は、憲法九条の改悪に反対し、その平和原則にそむくくわだてを許さないという一点での、広大な国民的共同をきずくことを、心からよびかける。」
以上のとおり、共産党の九条論は「自衛隊の海外派兵と日本の軍事大国化に対する重要な歯止めの役割」という位置づけであって、「9条で他国から侵略されないと仰ってた」「憲法9条があれば日本が他国から攻められることはない」などとは言っていない。共産党の九条論が、9条擁護論を代表するものであるかは措くとして、松井・細野の論理は、反共攻撃としては的を外している。
(2022年2月25日)
「平和」とは、こんなにも、もろくはかなく壊れやすいものだったのか。
あらためて、創らねばならないと思う。軍事の均衡による危うい「平和」ではなく、確かな平和を、崩れぬ本当の平和を。
相互の信頼に基づく堅固な平和を築く営みが必要なのだ。
賢治の言葉を噛みしめたい。「求道即ち道である」
昨日、ロシア・プーチンの非道が明らかになって以来、自問を続けている。平和について、日本の果たすべき役割について、憲法9条について、自分のなすべきことについて…。自問はいくつもあるが、もどかしくも自答はなかなか出てこない。
このおぞましい事態の最大の教訓は、軍事の均衡によってかろうじて保たれている『平和』の危うさである。迂遠のように見えても、平和を求める国際世論の醸成による真の平和を築く努力を重ねなければならない。
心強いのは、ロシアの蛮行に抗議する世界中での多くの人々の行動である。とりわけ、ロシア国内で、戦争に反対する抗議デモが起きていること。AP通信によると、24日にはロシア54の都市で1745人が拘束され、そのうち少なくとも957人がモスクワだったという。
伝えられているとおり、ロシアでは、今、恐れを感じずに声を上げることはできない。そんな中で、ウクライナの国旗に合わせた青と黄の花を手にしたデモ参加者や、「ウクライナの人たちに謝りたい。私たちはこの戦争を始めた人たちに投票していない」「私は自分の国が恥ずかしい。戦争はいつでも恐ろしい。私たちはこれを望んでいません」などという市民の言葉が紹介されている。
また、こんなジャーナリストの呼びかけが報道されている。
「ウラジミール・プーチンが友好国であるウクライナを攻撃したことで、多くの人々が今、絶望や無力、恥を感じていることでしょう。しかし落胆するのではなく、今夜7時にあなたの街の広場に集まって『ロシアの人々はプーチンが始めた戦争に反対する』とはっきりと伝えましょう」
全国各地で行われた集会は、誰からともなく広がったSNSの呼びかけで始まったという。モスクワでは、市中心部の広場に午後7時に集まろうと呼びかける投稿が拡散したため、当局が広場を封鎖。それでも、時間になると広場の周辺には千人以上とみられる市民が集まり、「戦争反対」と声を上げたと報じられている。
このような人々の存在が平和への希望である。集会はモスクワのほかサンクトペテルブルクや中西部のエカテリンブルク、極東のウラジオストクなどでも行われ、戦争に反対する声は国内のコメディアンや歌手、俳優、アスリート、作家などの著名人からも相次いでいるという。
昨年のノーベル平和賞を受賞したリベラル紙「ノーバヤ・ガゼータ」のムラトフ編集長はユーチューブに動画を投稿し、「我々の国は、プーチン大統領の命令でウクライナと戦争を始めた。私は悲しむと共に、恥じている。ロシア人による反戦運動だけが、この惑星の命を救うことができる」と訴えた。同紙はウクライナへの連帯を示し、25日の新聞をロシア語とウクライナ語で発行するという。
私も何かをしたい。しなければならない。せめて、ロシア大使館前で、叫びたい。「侵略者ロシアはウクライナから撤退せよ」「無法者プーチンよ恥を知れ」と。
(2022年2月24日)
大袈裟ではなく、仰天動地の事態である。膝が震えるような衝撃。「まさか」が、現実になった。ロシア軍のウクライナへの軍事侵攻が始まった。
1941年12月8日の多くの心ある人々の衝撃もこうであったろうか。私には、朝鮮戦争の始まりについての記憶はない。ベトナム戦争は飽くまで局地戦だった。キューバ危機は記憶に鮮明だが、結局回避されてことなきを得た。ところが今回、まさかまさかの内に、軍事大国ロシアが、NATOを後ろ盾とするウクライナへの侵攻に踏み切った。これは、世界史的大事件ではないか。
この間、国連も国際世論も、強くロシアを非難し牽制してきたが、残念ながら国連にロシアを制するだけの権威はない。全世界がこぞってロシアを非難するという空気も感じられない。世界の平和の秩序とは、かくも脆弱なものであったかと見せつけられたことが、「衝撃」の真の理由なのだ。
私は、今日の朝まで、漠然と最悪の事態は避けられるのではないかと考えてきた。まさか軍事侵攻はあるまいと思っていたのは、ロシアにとって、ウクライナに対する軍事侵攻が合理的な国家政策とは考えられなかったからだ。
ロシアの対ウクライナ政策の主たる目的は、ウクライナをNATOの影響から引き離し、ウクライナを緩衝地帯として確保しておくことだということと理解していた。それなら、武力による威嚇はあっても、武力の行使にまでは踏み切ることはないだろう。
国境線を越えて侵攻し、発砲し、爆撃し、国民を殺傷すれば、憎悪の禍根を残すばかりではないか。傀儡政権をデッチ上げようとも国民の支持を得られるはずもない。ウクライナを緩衝地帯として確保するどころか、くすぶり続ける火種をのこし、西側に押しやるばかりではないか。
しかし、現実から学んだ苦い教訓は、必ずしも軍は合理的に動くものではないということ。あるいは、国家としての長期的展望に基づく合理性は、為政者の個人的な目先の合理性とは必ずしも一致しないこと。
プーチンは、偉大なソ連復活を望む国内のナショナリズムに迎合したパフォーマンスをやって見せたのではないだろうか。それが、近づく大統領選挙に有利だとの計算で。しかし、この軍事侵攻で、ウクライナ国内を掻き回して、あとをどうする成算があるというのだろうか。今後何代も、ロシアはウクライナの怨みを背負い続けなければならない。それだけでなく、ロシアは国連憲章に違反した軍事侵略国としての汚名を着て、ロシア国民は肩身の狭い思いをしなければならない。
このようなときにこそ、国際協調による平和を希求する声を上げなければならない。まずは軍事侵攻をしたロシアをけっして許さないという市民の声を上げることだ。一人ひとりの声は小さくとも、無数の声が集まって力となる。
(2022年2月23日)
法における正義とは何か、司法の役割とは、裁判官はどうあるべきか。そして人権とは、人間の尊厳とは、差別とは。さらに国会とは、議員とは。もちろん、弁護士のありかたも…。いくつものことを考えさせられ、教えられることの多い、昨日の旧優生保護法・違憲判決である。
まずは、大阪高裁での逆転認容判決を喜びたい。国は、上告することなくこの問題の全面的な政治解決を試みるべきだろう。スモンの橋本龍太郎、ハンセンの小泉純一郎に倣うことができれば、岸田文雄の株も大いに上がろうというもの。
法は正義の体系であり、法の正義を実現する手続が司法である。裁判官は、正義を見極めて判決を言い渡さなければならない。が、何が正義であるかは必ずしも容易に見えない。正義の所在を裁判官に示すのが、法廷での弁護士の役割である。
各地の弁護団に、とりわけ最初にこの事件に取り組んだ仙台弁護団に敬意を表しなければならない。仮に、私にこの事件の受任依頼があったとして、果たして喜んで受けたであろうか、と考えざるを得ない。事案の内容はこの上なく深刻な人権侵害である、しかも国家による違憲・違法な行為。いまだ社会に根強い優生思想と切り結ぶ事案である。真っ当な弁護士なら義憤を感じて役に立ちたいと思うのは当然である。
しかしこの事件、受任して本当に勝てるだろうか。勝訴の見込みは極めて低い。敗訴に終わった場合のリスクを考えると二の足を踏まざるを得ない。これが、普通の弁護士の感覚であろう。
除斥期間の壁はあまりにも高く堅固である。除斥期間の起算点を強制された不妊手術時ではなく、旧優生保護法の「差別条項」が削除され、母体保護法に改正された1996年9月まで遅らせても、除斥期間の経過は明らかである。現実にこの壁を突破できるのか。
むしろ、除斥期間の壁の突破ではなく、この壁を回避して、国会における人権救済立法措置を懈怠したという立法不作為の違法を問うとする請求の建て方の方が、まだしも見込みはあるというべきだろうが、これとて、立法不作為の違法を認めさせることは「ラクダが針の穴を通る」ほどの難しさ。受任の可否を打診された私は、「裁判は困難ですから、行政や国会での救済策が本筋でしょう」などと言っていたかも知れない。
それでも、各地に被害者の人権を救済しようという弁護団が結成されて、8地裁に困難覚悟の提訴がなされた。日本の弁護士、なかなかに立派なものではないか。
「原告らの無念の思いが裁判官の心に届いた」という、昨日判決後の大阪弁護団のコメントが、心に残る。裁判官に求められる最も必要な資質は、この「無念の思い」への共感力である。これあれば、法の正義の実現のために、一般的な法制度の壁を乗り越えることもできる。この判決は、「本件の提訴時には、既に20年の除籍期間は経過していた」ことを認めた上で、「除斥期間適用の効果をそのまま認めることは著しく正義・公平の理念に反する」と判断して、救済につながる除斥期間の適用制限を導き出した。
判決は、要旨以下のとおりに旧優生保護法とこれに基づく「優生手術」強制の違憲違法を認定した。
「旧優生保護法は特定の障害などを有する者に優生手術を受けることを強制するもので、子を産み育てるか否かについて意思決定をする自由や、意思に反して身体への侵襲を受けない自由を明らかに侵害するとともに差別的取り扱いをするものであるから、公共の福祉による制約として正当化できるものではなく、憲法13条、14条1項に反して違憲である。」
この自己決定権や身体の自由、差別を受けない権利の保障の実現が、「法的正義」である。この正義実現のために、時効制度も除斥期間も可能な限り正義実現のための合目的的な解釈を要求される。本判決はその見本となった。
ところで、この判決は、「旧優生保護法の立法目的は、優生上の見地から不良の子孫の出生を防止するものであり、特定の障害や疾患がある人を一律に「不良」と断定するものだ。非人道的かつ差別的で、個人の尊重という日本国憲法の基本理念に照らし、是認できない」(要旨)と述べている。優生思想を反憲法的で唾棄すべきものとする前提で貫かれている。
人は平等である。どの人の尊厳も等しく尊重されねばならない。人に、「良」も「不良」もない。そのようなレッテルを貼ってはならない。ましてや「優生手術」の強制などおぞましいかぎりである。
たまたま、本日は天皇誕生日。その「血統」故に「尊貴」な立場にあるとされる人物と、「血統不良」として子孫の出生防止の見地から若くして「優生手術」を強制された原告らと。同じ国の同じ時代に生きる者の間のあまりに深い落差に目が眩む思いがする。血統における「尊貴」も「不良」も厳格に否定するところから人権の尊重は始まる。
(2022年2月22日)
言うまでもないことでも、ことあるごとに何度でも繰り返し確認しておかねばならないこともある。今、あらためて大きな声で言わねばならない。国家に教育を統制する権限はない。教育は国家の支配から自由でなくてはならない。教育は国家の統制や支配に服してはならない。これが市民革命後の民主主義社会の普遍的理念であり、我が国の戦後教育法体系の根本にある大原則である。
「教育行政」は、教育のシステムを整備し、学校の施設を整えて教員に給与を支払うなどのハード面の充実に責任をもたねばならないが、「教育」というソフトの面に関しては、「大綱的基準」を示すことを超えた権限をもたない。「教育」と「教育行政」、この両者の厳格な分離の認識が不可欠なのだ。
戦前教育は、ハードもソフトも、徹頭徹尾国家による管理と統制にもとづく教育であった。個人の尊厳を尊重しようとの理念はなく、盲目的に国家に忠誠で、国家目的遂行に有益な人材の育成が教育の目的とされた。そのために、神話が国史として教えられ、教育の名でマインドコントロールが行われ、天皇の神聖性が生徒に刷り込まれた。教育勅語の精髄は、「一旦緩急あれば義勇公に奉じ、以て天壌無窮の皇運を扶翼すべし」である。こうして、「臣民」は、「君のため国のために」勇躍して侵略戦争に臨んだ。
現行の教育法体系はその深刻な反省から出発している。教育基本法は、「教育に関する憲法」である。その第16条1項は、「教育は、不当な支配に服することなく、この法律及び他の法律の定めるところにより行われるべきもの」と定める。不当な支配の主体として第一に考えられているものが、国家であり行政権力である。次いで、与党やその議員もこれに含まれる。
ところが、自民党ではなく、「ゆ党」維新の議員が、予算委員会でこの不当な支配の役割をになう質問を行い、総理や文科大臣に国家による教育統制の徹底を焚きつけた。維新たるもの、民主主義や人権にとって危険な存在であることが明確になりつつある。本来は、自民党右派議員の専売特許だった国家主義的教育統制の火付け役を維新議員が買って出ているのだ。
昨日(2月21日)、「教科書ネット21」が、次の声明を出した。さすがに、要領の良い内容なので、まずはこれをお読みいただきたい。
日本維新の会による国会を通じた教育に対する政治的介入に抗議する
「明治憲法 授業で歪曲か」との見出しの『産経新聞』(1月30日付け)をもとに、衆議院予算委員会(2月2日)で、日本維新の会(「維新の会」)山本剛正議員は、オンラインで1月末に開催された日本教職員組合の教育研究全国集会・社会科教育分科会での新潟の小学校教員によるリポートを取り上げ、攻撃しています。
山本議員は、記事の中で「リポートでは、「『五日市憲法の方が民主主義の考え方なのに、なぜ選ばなかったのか』という疑問が生じた」とする授業を受けた児童の様子を紹介。教員が一方的な解釈を示したことで、正しい歴史理解が図れなかった可能性が高い」としていることや、他のリポートでも「早いうちから意図的に子供たちに『護憲』を浸透させようと各地で授業を進めている構図」としていることを取り上げ、岸田文雄首相に次のような質問をしました。
山本議員「総理はご自身の任期中に憲法改正の実現を目指しておられますが、このようなことをどう受けとめますか」「こういった間違った教育が、憲法を国民の手に取り戻す当たり前のことができないなどとの認識があるのか、この問題の真偽の調査と問題があれば、改善させるつもりがあるのか」。
末松信介文科大臣が、学習指導要領に基づき適正な指導が行われるよう新潟県教育委員会と連携して必要な対応をすると答え、岸田首相は、それを追認しました。
憲法改正を推進する岸田首相を持ち上げる政治的意図のもとに、国会質問によって自主的な教育研究や学校現場の具体的な授業実践を取り上げ、「適正な指導」や「必要な対応」などを求めることは、教育内容に対する政治的介入であり、許されるものではありません。それは、政治権力により教育がゆがめられないよう求めた教育基本法第16条の「教育は、不当な支配に服することなく」との規定に抵触するものです。このように教師の教育上の自主的権限や専門性を侵害することは、憲法26条に保障された、子どもたちの教育への権利をも奪うものです。(中略)
政府・文科省が、憲法・教育基本法に違反する教育への不当な政治権力による介入に踏み込もうとしていることに強く抗議し、それを直ちに中止することを要求します。
また、一部マスメディアが、特定の政治的立場と歴史認識にもとづき教育への不当な政治的介入を助長する報道を行うことに抗議するとともに、その是正を求めるものです。
この維新議員の質問を聞く限り、「維新は、自民党と変わらない」などという論評は間違いかも知れない。自民党以上に反民主主義的で、自民党よりも危険な政党と言ってもおかしくない。維新、明らかに異常で異様である。
維新議員が元ネタとした産経記事は、概要以下のとおりである。これこそ、現今のメディアの問題状況をよく表している。学校教育での憲法教育の恰好の素材である。中学生は中学生なりに、高校生は高校生なりに、批判の議論をしてみてはどうだろうか。
明治憲法、授業で歪曲か 日教組集会で実践例
日本教職員組合(日教組)の教育研究全国集会(教研集会)、社会科教育(歴史認識)では、大日本帝国憲法(明治憲法)の制定過程に関して事実を歪曲して伝え、子供たちが正しく歴史を学べていない可能性が浮上。そこには子供のうちから現行憲法に対する?護憲?思想を浸透させようとする教員の政治的意図が見え隠れする。(大泉晋之助)
新潟県の小学校では、明治憲法と、当時の民間人が手がけた私擬憲法「五日市憲法草案」の内容を比べる授業が行われた。発表されたリポートによると、授業を担当した教員は児童に、五日市憲法草案を「日本国憲法と考え方が似ている」として提示。双方の違いを検討させて、児童が「民主主義の憲法が選ばれなかった理由を、当時の時代背景に照らし合わせながら考えた」としている。
ただ、これは前提が誤っている。そもそも、五日市憲法草案は昭和43年に東京都あきる野市(旧五日市町)で発見されたもので、明治憲法制定時に世に知られていなかった。このため、明治政府が双方を二者択一とし、あえて五日市憲法草案を選択せずに明治憲法を制定したかのように進めた授業は、歴史を大きく捻じ曲げている。
また、五日市憲法草案は基本的人権に触れており「現行憲法に通じる」と評価する研究者がいる。この教員も「国民主権を謳(うた)っている」先駆的内容だったとの認識で授業を展開した。
しかし、五日市憲法草案は天皇主権の立憲君主制をその中心に据え、天皇が国会での議決を拒否したり、刑事裁判のやり直しを命じたりできるなど、明治憲法に比べても強権的な要素が強い。さらに人権面でも障害者差別が明記され、女性参政権が認められていないなど、現行憲法とはかけ離れた内容が盛り込まれている。
私擬憲法に関する著作がある関東学院大社会学部の中村克明教授は五日市憲法草案を「反民主的」とした上で「人権の部分をいたずらに高く評価することは誤りだ」と指摘。「現行憲法とはまったく異なった思想で作られており、同一視するのは間違っている。両者が同じ思想にもとづいているかのような強引な解釈は歴史の歪曲だ」と授業のあり方に疑問を呈している。
リポートでは、「『五日市憲法の方が民主主義の考え方なのに、なぜ選ばなかったか』という疑問が生じた」とする授業を受けた児童の様子を紹介。教員が一方的な解釈を示したことで、正しい歴史理解が図れなかった可能性が高い。
社会科に関するほかのリポートでは、現行憲法について「絶対に憲法を変えてはいけない」「戦争をしないで憲法を守る」といった記述もあり、早いうちから意図的に子供たちに「護憲」を浸透させようと各地で授業を進めている構図が浮かび上がる。五日市憲法草案を現行憲法に結びつけようとする新潟の授業も、「護憲」を植え付ける意図が背景にありそうだ。
この産経記事は、イデオロギー色が出過ぎて押し付けがましく、それでいて論旨不明瞭なものになってしまっている。出来が悪いのだ。タイトルが、「明治憲法、授業で歪曲か 日教組集会で実践例」というのだから、どのように大日本帝国憲法を批判し貶めた教育実践が報告されたのかと思って読むと、拍子抜けするほどにそれはない。強調されているのは、五日市憲法草案がけっして民主的というべきほどの内実をもたないという指摘。
可哀想に、産経記事に引用された中村教授(専攻・平和学)、確かに「五日市憲法草案は現行憲法とは異なった思想で作られている」ことを持論としてはいるようだが、けっして旧憲法肯定論者ではない。「五日市憲法草案の防衛構想は,明治憲法(大日本帝国憲法)下におけるそれと大差ない,極めて危険な構想である」という、明確に旧憲法を危険視する平和主義の基本的立場。
それはともかく、産経や中村教授の五日市憲法草案観は少数派だろう。むしろ、下記の前皇后・美智子が述べているような「感想」が一般的なもので、新潟の教師が前提とした五日市憲法草案観もこれと軌を一にしている。
「かつて、あきる野市の五日市を訪れたとき郷土館で見せていただいた『五日市憲法草案』…。 明治憲法の公布に先立ち、地域の小学校教員、地主や農民が、寄合い、討議を重ねて書き上げた民間の憲法草案で、基本的人権の尊重や教育の自由の保障、及び教育を受ける義務、法の下の平等、さらに言論の自由、信教の自由など204条が書かれており、地方自治権等についても記されています。 当時、これに類する民間の憲法草案が、日本各地の少なくとも40箇所で作られてきたと聞きましたが、近代日本の黎明期に生きた人々の、政治参加への強い意欲や、自国の未来にかけた熱い願いに触れ、深い感銘を覚えたことでした。」
新潟の教育実践は、明らかに、このような一般的で平凡な五日市憲法観を前提とするものである。これを「前提が間違っている」「正しい歴史理解が図れなかった」というのは、牽強付会も甚だしい。ましてや、「明治憲法、授業で歪曲か」は極端な決めつけである。
産経記事では、この前皇后の感想も、「五日市憲法草案を現行憲法に結びつけ、「護憲」を植え付ける意図が背景にありそうだ」ということになろうか。
「民主主義の憲法が選ばれなかった理由を、当時の時代背景に照らし合わせながら考えた」は、ことさらに「明治政府が双方を二者択一とし、あえて五日市憲法草案を選択せずに明治憲法を制定したかのように進めた」とは考えがたい。
当時から、憲法には、「民権尊重の民主主義型」と、「国権重視の権威主義型」のものがあった。五日市憲法(素案)と、大日本帝国憲法とをその代表格として比較し、なぜ「民権重視型」ではなく、「国権重視型」の憲法制定に至ったのか。その理由や背景事情に目を向けさせることは、素晴らしい歴史教育ではないか。これに悪罵を投げつける産経も産経なら、維新も維新。
政府は、こんな連中に焚きつけられて、教育に不当な介入をするような愚を犯してはならない。