(2024年2月11日)
どの民族にも伝承されてきた神話がある。それぞれの神話は、個性豊かに古代社会の成り立ちや往時の人々の生活のあり方を語って耳を傾けるに値する。面白く興味は尽きない。が、近代に至って権力によって語り直された異形の「再生神話」は、権力の思惑を露骨に反映した薄汚さを払拭できない。当然のことながら、後世に作られた国家神話には警戒しなければならない胡散臭さがつきまとう。
王権神授説の根拠に利用された神話や伝説の類がなべてそのような胡散臭いものであるが、維新政府がでっち上げた万世一系神話の醜悪さは際立っている。荒唐無稽な天皇の祖先神にまつわる神話が、ことさらに歴史と混同されて、近代天皇制を権威付ける根拠として再利用された。紀元節は、日本という国家の起源を、実在しない神話上の初代天皇の即位の日を恣意的に推測して決められたものである。何の根拠もない国家の起源は、その天皇制国家の存立そのものの危うさ、はかなさをよく表している。
どの時代のどの出来事をもって、現国家の起源とするか。極めてイデオロギー色の濃い作業である。天皇の権威を最大限に活用しようと試みた維新政府が、天皇神話を活用して架空の神武即位の日をもって紀元節を定めたことは、異とするに足りない。政府は天皇を教祖ともし現人神ともする新興宗教としての国家神道(「天皇教」)を創設し、その信仰を国民に押し付けることによって新たな国民国家を形づくろうとした。当時、天皇くらいしか、手持ちの国民統合の方法を思い付かなかったのだろう。しかし、戦後は事情が異なる。初代天皇の即位日を国家の起源とする必然性はまったくあり得ない。むしろ、そうしてはならないのだ。「建国記念の日」を制定して紀元節を復活させたのは、愚策これに過ぐるものはない。
戦後に再出発した「日本国」は、戦前の「大日本帝国」とは原理原則をまったく異にする別異の存在である。むしろ正反対の相容れぬ存在と言ってよい。主権原理も、国家が尊重すべき価値観も、180度転換した。日本国憲法上、公務員の一人として天皇は残されたが、これは日本国憲法体系の中の不協和な夾雑物に過ぎない。天皇の存在は、日本国憲法における人権原理や民主主義、あるいは人間平等と言う大原則を不徹底とする汚点である。その天皇を万世一系と持ち上げ、実在するはずもない初代天皇の架空の即位日をもって「建国記念の日」とするのは、烏滸の沙汰というほかはない。
日本の社会と自然、そして民族的なアイデンティティは、敗戦を挟んで戦前と戦後が連続して当然である。しかし、国家は断絶しているのだ。主権者は天皇ではなく国民になった。政治の手法は中央集権ではなく、民主主義と分権になった。国是は、富国強兵ではなく国際協調と非武装平和になった。何よりも、個人の尊厳が至高の憲法価値となり、国家が個人の思想を束縛することは許されなくなった。
にもかかわらず、「建国記念の日」が紀元節と同じ日だって? いまのご時世に? 天皇と国家が一心一体だと? どこのどなたのご冗談?
(2024年1月31日)
能登の震災に始まった、めでたいどころではない年明けだった。引き続く現地の報道に胸が痛む中で、正月が今日で終わる。政治状況も、めでたくもない醜悪さを曝しつつ月を越えようとしている。
震災と裏ガネ。自然災害と政治の腐敗。実は無関係ではない。被災者を救助し救援し被災地を復興させるためにこそ、政治があり国家がある。自助ができない境遇の者に公助の手を差し伸べるべきが、福祉国家の使命ではないか。
にもかかわらず、与党の政治家が政治資金を食い物にしている惨状を見るに忍びない。裏ガネにまみれた自民党や、くだらない人気取りの万博を強行しようという維新などを清算して、被災地の復興に専念する真摯な政治が必要ではないか。
民主主義とは、人間の人間による人間のための政治手法である。当然に政治の主体は平等な一人の人間が単位となる。それゆえに、民主主義と福祉とは相性が良い。
一方、キックバック・裏ガネにまみれた自民党政治は、人間ではなく資本の政治である。カネのカネによるカネのための政治。政治主体はカネであって、カネの多寡によって政治の方向が決まる。これは福祉とも公助とも相性が悪い。
資本主義とは、カネが支配する経済体制であり社会でもある。民主主義とは資本の論理を排した人間中心の政治理念である。この世は、カネとヒト、資本主義と民主主義とがせめぎ合う場である。
政治の腐敗とは、民主主義の理念が、敵対する資本の論理に敗北した事態にほかならない。資本の論理は、人間の論理と相容れない。カネの政治を打破して、人間のための民主主義にもとずく政治を実現しなければならない。震災と並んで、自民党、とりわけ安倍派の醜悪さが話題となっている今、このことは分かり易い。
自分を傷付ける投票行動をやめよう。取りあえずは、自民党と維新とに投票してはならない。
(2024年1月6日)
旧年は、良い年ではなかった。戦争が勃発し人権も民主主義も蹂躙された。世界中に軍事力信仰が蔓延し、国内でも軍拡大増税へと舵が切られた。政治経済文化すべてがよくない。今年こそはとの願いは虚しく、元日からの能登大地震である。
報道陣がようやく現地に入れるようになって、3・11以来の惨状に息を呑む。これが2024年を象徴する出来事なのだ。今年も暗い。
こんなときに、国家とは何のためにあるのか、と考えざるを得ない。所得の再分配が国家の主要な役割だと説かれる。過剰な利益に与る者から租税を徴収して、経済的に困窮する弱者の福祉に支出する。そのことによって、すべての人々の生存の権利が全うされ、社会は安定する。
今、明らかに、能登の被災者に救援が必要である。インフラを再整備し、街を復旧し、壊れた家を直し、生業を建て直し、被災した人々の生計を支えなければならない。そのためには、国家財政の調整が必要である。不要不急な支出を削減して、有限な原資を救援に使わねばならない。
とした場合、削減すべき不要不急の支出とは何だろうか。まずは、2023年度から5年間の防衛費43兆円を削って被災者の救援を優先すべきである。
次は、毎年200億円を超える皇室関連費用の削減だろう。好色な天皇と記紀に描かれている仁徳だが、民の竈に煙の立たぬのを見て、3年間質素倹約して租税を免除したというではないか。徳仁も見習ってはいかがか。
1月1日は、宮中祭祀の四方拝の日である。天皇(徳仁)は、四方の天神地祇に国民の安寧を祈ったのだろう。しかし、その日の内の大地震である。しょせん、天皇の祈りなど無益なのだ。
天皇(徳仁)もショックであったろう。翌1月2日に予定されていた新年の一般参賀を中止にした。仁徳ほどではないが、国民の不幸に身を慎んだということなのだろう。もう一歩、足を踏み出して、3年間質素倹約して内定費返上くらいのことがあってもよいのではないか。
そして、誰もが思うもう一つが、「万博の予算を被災地に」「万博やめて能登の救援を」「くだらん万博やってる場合か。その予算を被災地の復興にまわせ」。これは、誰言うとなく、湧くように出てきた世論であり、天の声である。詠み人知らぬまま、これは既に今年の流行語大賞ではないか。
これに対して、吉村洋文は、愚かな「反論」を試みている。
「(復興支援と)万博は二者択一の関係ではないし、関係するものではない。それがなぜ二者択一になっているのか、よくわからない」「万博があるから(復興の)費用が削減されるものではない」「万博と比較されたり、あるいは万博と二者択一になるものではない」
「二者択一の関係」にあるなどと誰も主張してはいない。しかし、万博については、やる意味はない。くだらん。何の魅力もない。不必要だ。カネを喰い過ぎ、中抜き業者を儲けさせているだけだ。…等々の悪評芬々ではないか。その万博をやめるきっかけにちょうどよいと、みんなか思っていることなのだ。
私は、関西万博は無駄と言っているのではない。万博は有害だと主張しているのだ。何よりも、夢洲はカジノの予定地である。万が一にも万博成功となったら、その次には公営賭場まで成功しかねない。カジノ反対であれば、万博もつぶさなければならない。
あのミャクミャクというのがおかしい。あの不気味さを受容できる感性は理解しかねる。「世界ではじめて海の上でやる万博なんですよ」「空を見れば空飛ぶクルマが飛んでる」だと? 何と馬鹿げたことを。その程度のキャッチしかないのか。海の上、それがどうした。空飛ぶ自動車なんて、そんなものまっぴらご免だ。
吉村洋文よ、どうせ失敗に決まっている関西万博だ。撤退する口実が出来たとは思わないか。動機は何であれ、被災者支援に有益となれば、案外維新への信頼も持ち直すのではないか。
(2023年12月27日)
本日の赤旗に、「差別チラシ 大阪・長野でも」「DHC元会長の会社」「地方紙 不適切認める」との見出しの記事。そのリードは、「DHC元会長の吉田嘉明氏が設立した通信販売会社『大和心』(東京都)が、外国人差別をあおる内容のチラシを新聞に折り込んでいた問題で、新たに大阪府枚方市で『朝日』に、長野県で地方紙『信濃毎日』に折り込まれていたことが26日、分かりました。『信濃毎日』は本紙の取材に『差別を助長しかねない内容が含まれていた』として、今後同様のことがないよう折り込みを取り次ぐ会社に要請するとしています」というもの。
新聞は社会の木鐸ではないか。その新聞が、デマとヘイトを煽るチラシを折り込むなどもってのほか。ましてや天下の朝日ではないか。デマとヘイトにまみれた会社の宣伝などやることを恥とは思わないのか。朝日の系列会社である「朝日オリコミ」は、これまで赤旗の取材に、「個別案件に関する質問には、一切お答えいたしかねます」との回答だそうだ。まるで、安倍派議員並みの答弁ではないか。朝日の威信も地に落ちたというべきか。
「信濃毎日」は、問題のチラシは11月24日に、長野県全域で同紙に折り込まれたと認めている。当然望ましくないとの認識を前提に、「チラシの内容については、折り込み各社がそれぞれ審査基準を設けており、新聞の発行本社は関与しない仕組みになっていると説明。その上で、『今後、このようなことがないように関係各社に対応を要請します』とコメントしました。」とのこと。
赤旗記事の最後に、「問題のチラシは、『極悪人もバカも、無審査のフリーパスで日本国民にしているのです』『悪事を働いても大抵が不起訴』などと外国人への差別をあおる内容が含まれていました。」とある。「大和心」とは、吉田嘉明が経営者である以上、宿命的にデマとヘイトの企業である。そして、吉田嘉明はカネで政治を動かそうとの典型的な企業人である。
全国の消費者に訴えたい。こんな「デマとヘイトの大和心」を、育てるも、つぶすも、消費者次第なのだ。あなたの商品購買における選択次第で、この日本を「デマとヘイト」の跋扈を許す社会にも、「デマやヘイト」を許さない社会にも、変えていくことができる。
ヘイト企業・吉田嘉明の「大和心」から、一切の商品を購入することをやめよう。「大和心」とつながるすべての企業・人物に抗議しよう。「大和心」の宣伝を受託している企業にも。
(2023年12月18日)
12月17日付の赤旗社会面に、「外国人差別あおる」「DHC元会長がまた」という記事。吉田嘉明の、「また」「ヘイト」発言の冒頭は、「極悪人もバカも、無審査のフリーパスで日本国民にしているのです」という悪質なデマ。
これは、既に消された「大和心」のホームページにアップされたものではなく媒体は新聞折り込みのチラシ、消しようもない印刷文書である。赤旗の記事は、「新聞チラシ なぜ折り込み」と、横見出しを付けている。「なぜ折り込み?」についての突っ込みは物足りない。続報や解説記事を期待したい。
ところで業界では、「新聞とは、インテリが作りヤクザが売る」と言いならわされてきた。その真偽のほどはよくわからないが、社会の木鐸をもって任じる新聞のイメージが、販売の場面で損なわれる事例はいくつもある。新聞社内の編集部門と営業部門の角逐も見てきた。今回は、「大和心」というヘイト企業の新聞広告の問題ではなく、形式上は他企業である新聞販売店による折り込みチラシである。
赤旗が確認したのは、朝日と東京新聞への新聞折り込み。もちろん、新聞社本体が関与しているとは思えない。しかし、吉田嘉明の「大和心」という高名なヘイト企業の広告チラシである。これを新聞に折り込んで配達することは、外形的にはヘイト発言の共犯行為である。少なくも、ヘイト発言の伝達を幇助し、ヘイトの蔓延に加担することである。
ヘイトのチラシを容認しているから、「大和心」というヘイト企業に対する十分な批判の記事が書けないのではないか、記事に手心が加えられているのではないか。本当にスポンサーに対する忖度はないのか、と疑念をもたれることになる。
唾棄すべきヘイト企業「大和心」の新聞広告をすべきではないことは当然として、チラシの新聞折り込みも許してはならない。その根拠の一つを赤旗の記事が提供している。
各新聞販売店でのヘイトチラシの折り込みは、朝日新聞のグループ企業、朝日オリコミからの依頼によるものだという。そのホームページを開いてみると、下記のとおりの立派な「経営理念」が掲載されている。
一、私たちは、折込広告を通して、社会に愛され信頼される会社を目指します。
一、私たちは、折込広告を通して、地域社会の繁栄と人々の豊かな暮らしに貢献します。
一、私たちは、朝日新聞と共に歩み、新聞の戸別配達をサポートします。
そして「朝日オリコミ 折込広告倫理網領」が掲げられている。
一、折込広告は、真実を伝えるものでなければならない。
一、折込広告は、新聞読者、消費者に不利益を与えるものであってはならない。
一、折込広告は、新聞事業の品格を損なうものであってはならない。
一、折込広告は、関係諸法規に違反するものであってはならない。
この経営理念、この倫理網領に照らして、新聞販売業者は吉田嘉明の広告や大和心のチラシを、今後一切取り扱うべきではない。
そして、繰り返す。ヘイトに加担の最大の責任は消費者にある。全国の消費者よ、吉田嘉明・「大和心」の商品購入をやめよう。
(2023年12月16日)
「野ざらし」といえば柳好である。録音で聴くだけだが、何とも噺のリズムが心地よい。向島で、餌も付けずに釣り糸垂れた八五郎が唱う鼻歌の一つに、「よせば良いのに 舌切り雀さ ちょいとなめたが コラサノサ 身のつまり サイサイサイ」とある。これが名調子。ちょいとなめては後悔を繰り返す凡夫の心情を巧みに表現して秀逸な歌詞。
これ、昨日の敗訴判決を受けた猪瀬直樹の心境であろうかと思う。「こんな裁判やらなきゃよかった」「そもそも女性候補者の身体に触らなきゃよかったんだ」、不注意にチョイとあんなことをやり、勢いで裁判までやってしまったのが大きな恥になってしまった。あ~あ、ノリなんぞ舐めるんじゃなかった、という舌切り雀の後悔の心境。
昨日(12月15日)猪瀬直樹の全面敗訴の判決言い渡しがあった。維新の猪瀬直樹が原告なって、朝日新聞社と政治学者の三浦まり上智大教授を被告とした、名誉毀損不法行為による1100万円の損害賠償請求訴訟。東京地裁民事6部に係属していたが、中島崇裁判長が猪瀬の請求を棄却した。
猪瀬の敗訴は当然だが、負け方がひどい。判決理由では「意図的に女性の胸に触れたのは真実と認められる」と認定された、と報じられている。まさしく、「チョイと舐めたばかりの大きな恥」というところなのだ。
報じられている「猪瀬のセクハラ」は昨年(2022年)6月12日、JR吉祥寺駅前の公道でのこと。同月22日の参院選公示日を目前に、維新の街頭演説会の最中で起きた。全国比例で立候補予定だったのが猪瀬、東京選挙区の候補予定者だったのが海老澤由紀。猪瀬が海老原を紹介する際に、不必要に海老原の身体を触ったということなのだ。
朝日新聞はその5日後、「『たとえ本人がよくても…』演説中に女性触った猪瀬氏、その問題点」と題した記事を出した。その記事の中で、三浦教授は「映像では、胸に触れていたように見えました。間違いなくセクハラではないでしょうか」「その場では女性本人も拒絶することができない、そういう瞬間だったと思います」とコメントしている。
海老澤にすれば、迷惑な話である。「衆人環視の中でのセクハラ被害」である。しかし、加害者は同じ政党の高齢立候補者。抗議の声を上げることもできない。そして、このことがマイナスに働いたからでもあろう。落選している。維新にしてみれば、愚かな猪瀬の行為に怒り心頭であろうが、敵対勢力からはニンマリと「さすが猪瀬、よくぞやってくれた」とも言いたいところ。
選挙(7月10日開票)後の9月3日、猪瀬が提訴に及んだ。こんな事件を引き受けた弁護士もいたということだ。そして15か月後の昨日、予想のとおり猪瀬全面敗訴判決言い渡しとなった。
判決書きを見ていないが、以下のような論理構造となっているはず。
(1) 一般読者の通常の読み方を基準として、当該三浦コメントが、猪瀬の社会的評価を低下せしめるものであるか。この点を肯定して、 (2)以下に進む。
(2) 一般読者の通常の読み方を基準として、当該三浦コメントは「事実の摘示」であるか。あるいは「意見(ないし論評)」であるか。
この点は大きな争点だが、常識的に「事実の摘示」ではなく、「意見・論評」であるとして、以下に進む。
(3) とすれば、当該三浦コメントは「ことさらに猪瀬の人格攻撃などに踏み込んでおらず、『意見・論評』の域を超えるものではない」ので、公共性・公益性の存在を認め、「意図的に女性の胸に触れたこと」は真実と認められると「『意見・論評』が前提とする事実が重要部分で真実であるとの証明がある」と認定した。
(4) だから、三浦コメントは、猪瀬の社会的評価を低下させる名誉毀損表現であるが、表現の自由保障の観点から、違法性を欠く。⇒よって請求を棄却する。
判決についての報道は、「原告(猪瀬)の女性(海老澤)の胸を触ったという行為が客観的にみて性的な意味を持っているかどうかは、評価であってそれ自体事実(摘示)ではない」とした上、記事(三浦コメント)の公共性、公益目的を認め、「論評が、意見ないし論評としての域を逸脱したものでもない」とした。注目すべきは、判決が評価の前提である「意図的に女性(海老澤)の胸に触れたこと」を明確に真実と認定したことである。三浦のコメントを、「真実と信じたことに相当な理由がある」という相当性のレベルでの故意・過失欠缺の問題とはしなかった。この点、猪瀬の完敗と言ってよい。
判決後、猪瀬は「不当な判決であり、到底承服できない」とのコメントを発表。直ちに控訴する意向を示した、と報じられている。このごろ、お行儀が悪いと話題の猪瀬だが、条件反射的な発言は慎んだ方がよい。
一審を受任した弁護士がどう言っていたかは知らないが、控訴をするか否かは、複数の弁護士に相談することをお勧めする。
さて、この件についての、ネットでのいくつかのつぶやきを拾ってみる。こちらの方が耳を傾けるに値する。
「自分で裁判起こして裁判所から「も」セクハラ認定された間抜けがこちら」「スラップ訴訟失敗。恥の上塗り」「5000万バッグがチラついて笑ってしまう。セクハラ敗訴まで上乗せしないで。しかも何故か毎回上から目線で自信満々の態度なんだよなぁ」「猪瀬直樹も今や維新議員。維新お家芸のスラップ訴訟に目覚めてしまったか」「公式にこんな認定されて動画も残ってて、どうして税金でこいつを養わなきゃいけないのか。国会の品位を汚したって理由で辞職勧告出す案件では」「朝日新聞憎しは分からんでもないけど、ありゃどう見てもセクハラというより、私には痴漢レベルに見えましたな」「あ、あ、あの、バッグ持って汗ダラダラ流してたお爺さんですか?」「5000万円もらったり、お触りしたり、裁判起こしたり、作家したり忙しいな猪瀬氏は」「これ訴えない方が良かったのでは? なぜ負ける裁判をするのか」
誰もが疑問に思うのは、猪瀬が勝てそうにもない訴訟と知りつつも、敢えて提訴したこと。そして今、敢えて控訴しようとしていること。
私の過去ログ「澤藤統一郎の憲法日記」のいくつかを参照願いたい。
竹田恒泰のスラップ完敗判決から学ぶべきこと
https://article9.jp/wordpress/?p=16267(2021年2月7日)
「明治天皇の玄孫」を自称の竹田恒泰、重ねてのスラップ敗訴
https://article9.jp/wordpress/?p=17436(2021年8月25日)
スラップの提訴受任は、弁護士の非行として懲戒事由になり得る ー 「DHCスラップ訴訟」を許さない・第193弾
https://article9.jp/wordpress/?p=17196(2021年7月12日)
猪瀬の提訴時には、下記のブログを書いた。その一部を再掲しておきたい。
猪瀬直樹の対朝日提訴に勝ち目はない。
https://article9.jp/wordpress/?p=19917(2022年9月8日)
結局のところ、猪瀬側に勝ち目のない訴訟と評せざるを得ない。そのことを猪瀬自身が知らぬはずもない。ではなぜ、敢えて提訴か。自分に対する批判の言論に対する萎縮効果を狙ってのものと考えるしかない。これがスラップである。
むしろ本件は、明らかに法的・事実的な根拠を欠いた民事訴訟の提起とされる可能性が高い。猪瀬がその根拠を欠くことを知りながら提訴におよんだか、あるいは、通常人であれば容易にそのことを知り得たのに敢えて提訴におよんだと認定されれば、この民事訴訟提起自体が不法行為となり、猪瀬に損害賠償が命じられかねない。それが判例のとる立場である。
猪瀬は今、危ない橋を渡り始めたのだ
そして今、猪瀬が渡り始めた危ない橋の橋桁が抜けた。後戻りは難しい。切られた雀の舌は戻らない。
(2023年12月14日)
筋金入りのヘイト言論常習者として著明な元DHCの吉田嘉明。その彼が新しく起こした企業が「大和心」。先月の6日にホームページを立ち上げ、同月21日に「宣言」と「解説」を掲載した。ビジネスの体裁を借りた、韓国・朝鮮そして中国に対する差別主義イデオロギー宣言文書である。この人、おそらくはヘイト嗜癖依存症。酒やタバコをやめられぬように、ヘイト発言を抑えきれないのだ。こういう人物が、いまだにこの社会に生存している。
11月30日、メディアが吉田嘉明のヘイト発言を取りあげた。私も、その日のブログに下記のとおり、批判の意見を書いた。ご参照いただきたい。
https://article9.jp/wordpress/?p=21329
そしたらどうだ。なんと、吉田嘉明はさっさと批判されたヘイト発言を削除した。削除の理由も、経過についての説明もなく、引っ込めたのだ。尻尾を巻いて逃げたというにふさわしいみっともなさ。自分の言葉に責任をもたぬ卑怯なやりかた。
「大和心」のホームページから、ヘイトにまみれた「宣言」が消えて、「大和心」という社名の由来らしきもの説明が残されている。「敷島のやまと心を人とはゞ、朝日に匂ふ山桜花」と本居宣長の歌に、「『大和心』についてはいろいろな解釈がありますが、弊社代表の吉田は『武士道』と解釈しております」と添えられている。何を言わんとしているのやら、本人も分かってはおるまい。
宣長は皇国史観というカルトの祖と言ってよいが、もとより武士ではない。宣長の歌と武士道を並べてみせると、なんとなく国粋的な、なんとなく排外的で右翼的な雰囲気が醸し出される。という程度のもので、それ以上のなにものでもない。
桜は散り際が美しいとして旧軍に好まれた。神風特攻隊として最初に編成された4隊は、本居宣長の歌を典拠に、敷島隊、大和隊、朝日隊および山桜隊と命名されている。泉下の宣長が、眉をしかめたか、あるいは膝を打ったかはわからない。
この歌は、敗色濃厚となった1943年刊の、第5期国定国語教科書初等科国語7「御民われ」に載せられ、国民学校初等科6年前期教材として教えられたという。 山中恒の解説によれば、宣長の歌は次のように紹介されている。宣長、桜、やまと魂とつなげられている。
「敷島のやまとごころを人とはば朝日ににほふやまざくら花
さしのぼる朝日の光に輝いて、らんまんと咲きにほふ山桜の花は、いかにもわがやまと魂をよくあらはしてゐます。本居宣長は、江戸時代の有名な学者で、古事記伝を大成して、わが国民精神の発揚につとめました。まことにこの人に ふさわしい歌であります。」
孫引きだが、『大日本国体物語』(白井勇、1940年刊博文館)という書物に、下記の記述があるそうだ。
「日本の武士は決して死をおそれませんでした。うまく生きのびようとするよりもどうして立派な死にようをしようかと考えている武士は、死ぬべきときがくると桜の花のようにいさぎよく散っていったのです。だから本居宣長という人は、
敷島の大和心を人とはば朝日ににほふ山桜花
という歌を歌って、日本人の心は朝日に照りかがやいている桜のようだと言ったのです。」
武士道と言い、桜と言うときには、散りぎわ、死にざまのいさぎよさがイメージされている。「うまく生きのびようとするよりもどうして立派な死にようをしようかと考えている武士は、死ぬべきときがくると桜の花のようにいさぎよく散っていった」というのは、受け容れるわけにはいかない危険な美学である。
が、吉田嘉明のヘイトとはこれと違う。潔く散る危険な美学とはまったく異なり、まことに見苦しい。みっともないのだ。およそ、武士道の美学の片鱗もない。いや、真逆である。
何度でも繰り返そう。こういう見苦しい人物が経営する企業に、一円のカネも支払ってはならない。それが、正しく賢い消費者のありかたである。日本を健全な社会に育てる、あるべき消費者主権の行使なのだ。
(2023年12月8日)
12月8日である。82年前の今日、日本は英米蘭3国に宣戦を布告した。が、その宣戦布告以前に奇襲は始まっていた。奇襲実行のはるか以前に、戦闘準備を整えた艦隊は出航している。日米交渉継続中の一方的な宣戦布告なき奇襲攻撃の日と記憶されねばならない。いかにも、天皇を大元帥と戴く軍隊にふさわしい、薄汚いやりくち。4年を経てその代償の深刻さを思い知ることになる。
対英米戦は、日中戦争が打開できないままに、何の成算もないままに日本の国民を塗炭の苦しみに追いやり、周辺諸国の多くの人を死地に追い込んだ無謀な戦争。
開戦時の閣僚の一人に、鈴木禎一という人物かいた。国家総動員体制を担った企画院の総裁。この「背広を着た軍人」がこう言っている。「物が足りないのにいくさをした」との批評があるがそうではない、「物が足りなかったから戦争になった」のだ、と。物とは、何よりも石油であった。対中戦争を完遂するための石油である。他国の土地と富を奪おうとの戦争を継続するための新たな戦争と始めた愚かさ。
しかし、省みるべきは、勝ち目のない戦争を始めた愚かさではない。戦争を企てたこと自体の理不尽である。繰り返してはならないのは、勝ち目のない戦争ではなく、多くの人にこの上ない不幸をもたらすすべての戦争
ウクライナに戦火が止まず、ガザの虐殺が激しさを増す中での今年の12月8日だが、東京は晴れわたって穏やかである。東京だって、気候と天候に恵まれれば、なかなかの街並み。街路樹の紅葉も美しい。ウクライナやガザの戦火に心を痛めつつも、平和で暮らせることがなによりもありがたい。
(2023年12月6日)
安倍晋三の亡霊が各地を徘徊している。関係団体の資金を妻昭恵に集約したかと思えば、大阪夢洲の税金食い潰しに精を出し、昨今は永田町での裏金作りパーティ問題や、岸田文雄の統一教会との関わりにも一役買って、世の耳目を惹いている。あらためて、安倍晋三という人物の負の遺産の大きさと多面性を再認識せざるを得ない。この亡霊が、昨日(12月5日)は仙台高等裁判所に出た。
長く一貫して政府自身が違憲(憲法9条違反)としてきた集団的自衛権の行使。その解釈を変更したのが2014年7月の閣議決定、そして翌年強行採決で成立の「安全保障関連法」、別名「戦争法」である。政治を私物化し、歴史を改ざんし、公文書の改竄・隠蔽を繰り返し、国会では虚偽答弁を連発し、あらゆる部門の人事に手を突っ込み、国民生活に格差と貧困を招じて、日本に経済停滞をもたらし…、罪状数限りない安倍晋三だが、その最大の悪業は、集団的自衛権の行使を容認して日本を戦争の危険に曝したことである。
安保法制を憲法違反だとして、各地に集団訴訟が起こされた。全国22地裁・支部(計25件)に提起された訴訟で、これまで地裁と高裁で39件の判決が出ていた(「安保法制違憲訴訟の会」)。多くは違憲国賠訴訟だが、そもそも原告に具体的な権利ないし法的利益の侵害が認められないとして、憲法判断に踏み込んだ判決は一件もなかった。
そのような事態で、40件目となる昨日の仙台高裁判決を迎えた。事件は、福島県内の戦争経験者や家族ら170人が1人あたり1万円の国家賠償を求めた「ふくしま平和訴訟」の控訴審判決。実は、もしかしたら…、と期待と注目度の高かった判決。
もしかしたら…、の理由の一つは、裁判長が評判の良い小林久起裁判官だったからであり、もう一つの理由は、審理の過程で原告側から申請のあった証人長谷部恭男教授(憲法)を採用して裁判長自身が異例の長時間の尋問をしたからでもある。
しかし、現実は甘くなかった。「もしかしたら…」は実現せず、「ああ、やっぱり…」という控訴棄却の判決となった。
報道では、判決理由中の幾つかのリップサービスを好意的に紹介しているものもある。「憲法の基本理念である平和主義に重大な影響を及ぼす可能性のある憲法解釈の変更だ」「武力行使の限界を超えると解する余地もある」「解釈運用に、不確実性が生ずること自体は免れない」などの指摘についてである。しかし、結論は「このような限定的な場合に限り政府が一貫して許されないと解釈されてきた集団的自衛権の行使が、安全保障関連法によって憲法上容認されるとなったとしても憲法9条の規定や平和主義の理念に明白に違反し、違憲性が明白であると断定することまではできない」というものであった。
違憲と判断できないのであれば、行政・立法を追認しただけのこと。すべては、「安保国会」で政権側が説明したことを、期待の判決も容認したということなのだ。
判決後の記者会見で、原告側は「期待に反しての全面敗訴となった。安保法制を肯定し、政府の一機関になったといっても過言ではないような内容で、不当判決と言わざるを得ない」「政治が暴走したときに、ブレーキをかけるのが裁判所といわれているが、きょうの判決の内容は情けなかった。平和を求めるわれわれの戦いは子孫のためにも責任がある」と述べ、防衛省は「国の主張が認められたものと受け止めています」とコメントしたという。どちらも、そのとおりと言えよう。
問題は、この判決が憲法判断を回避せずに初めて踏み込んで、「安保法制は違憲とは言えない」と判断したことである。これを評価する向きもあるようだが、とうてい納得し得ない。
我々は、裁判官を励ましてきた。「勇気をもって憲法判断に向かい合え」「憲法判断から逃げてはいけない」と。憲法判断は、当然に保守政権の違憲政治を撃つことになるはずとの思いからである。ところが、小林久起判決は、逃げずに憲法判断を行って、あろうことか、安保法制に違憲とは言えないというお墨付きを与えた。
非戦のために戦力不保持を謳った憲法9条は、旧来の政府解釈では「憲法は国家の自衛権までは否定していない」「自衛のための実力部隊は禁じられた戦力に当たらない」とされて、自衛隊の存在と増強が容認されてきた。安倍政権はさらに一歩を進めて、集団的自衛権の行使を容認したが、小林久起判決はこれを追認した。
司法とは何のための存在かが問われている。我が国の三権分立は崩壊しつつあるのではないか。これも、あの妖怪安倍の亡霊の仕業であろうか。
(2023年12月4日)
「法と民主主義」2023年12月号【584号】の特集は、「関東大震災 朝鮮人・中国人虐殺から100年 ― その今を問う」である。この特集の編集は私が務めた。
私のリードは、下記のURLでお読みいただける。
https://www.jdla.jp/houmin/backnumber/pdf/202312_01.pdf
また、巻末の「ひろば」には、「映画『福田村事件』を通じて平和を考える」という表題で、岡山の則武透弁護士が平仄を合わせている。その末尾に引用されているのが次の一文。
朝鮮人あまた殺され
その血百里の間に連なれり
何の惨虐ぞ、われ怒りて視る
(萩原朔太郎『近日所感』)
https://www.jdla.jp/houmin/backnumber/pdf/202312_03.pdf
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法と民主主義2023年12月号【584号】(目次)
特集●関東大震災 朝鮮人・中国人虐殺から100年 ― その今を問う。
◆特集にあたって … 編集委員会・澤藤統一郎
◆朝鮮人虐殺事件はなぜ起きたのか、その責任の所在は
── 埼玉の事件から考える … 関原正裕
◆関東大震災から100年・虐殺された朝鮮人追悼の現状 … 西崎雅夫
◆「朝鮮人虐殺」の事実を見つめようとする者と覆い隠そうとする者 ── そのせめぎ合いの今 … 加藤直樹
◆「関東大震災朝鮮人犠牲者追悼式典」運動史と東京都の責務 … 宮川泰彦
◆虐殺の事実すら認めない自民党政権 ── 歴史の抹殺は許されない … 藤田高景
◆朝鮮人虐殺とメディアの責任
── 100年前の「誤報の構造」は清算されているか … 北野隆一
◆関東大震災朝鮮人虐殺についての教科書記述の現状 … 鈴木敏夫
◆人権侵害の事実を認めないことの問題 ── 国際人権法の観点から … 申 惠丰
◆虐殺の対象となった在日コリアンの法的・社会的地位
── その100年前と現在と … 金 哲敏
◆人種差別撤廃法制定に向けて ── 弁護士の取組と課題 … 師岡康子
◆日弁連勧告と無視し続ける政府、その歴史的意味 … 森川文人
◆参考資料
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お申し込みは、ぜひ下記の「法と民主主義」ホームページから
「法と民主主義」(略称「法民」)は、日民協の活動の基幹となる月刊の法律雑誌です(2/3月号と8/9月号は合併号なので発行は年10回)。毎月、編集委員会を開き、全て会員の手で作っています。憲法、原発、司法、天皇制など、情勢に即応したテーマで、法理論と法律家運動の実践を結合した内容を発信し、法律家だけでなく、広くジャーナリストや市民の方々からもご好評をいただいています。定期購読も、1冊からのご購入も可能です(1冊1000円)。
https://www.jdla.jp/houmin/index.html