(2022年1月15日)
維新と読売の関係に興味津々である。包括提携協定を締結したポピュリズム政党と権力迎合体質の大新聞との深い仲は、今後どうなるのか。何がどう変わっていくのか。
その恰好の素材が早くも現れた。維新・前川清成議員(奈良)の公選法違反容疑の報道である。各紙が大きな関心をもって報道している。しかも、各紙かなりのスペースを費やしている。前川は弁護士だというから、それなりの法的弁明があり、その弁明の適否についての判断の材料を読者に提供しなければならないからだ。ところが、読売はまことにあっさりしたもの。ネットでの記事だが、以下のとおりである。
維新・前川議員を書類送検…衆院選で公選法違反容疑
(読売新聞 2022/01/15 10:38)
「昨年10月の衆院選で、公示前に自身への投票を呼びかける文書を有権者に送付したとして、奈良県警は14日、日本維新の会の前川清成衆院議員(59)を公職選挙法違反(事前運動、法定外文書頒布)の疑いで書類送検した。捜査関係者への取材でわかった。前川議員は読売新聞の取材に「違法性はない」と否定している。
前川議員は奈良1区から出馬して落選したものの、比例選で復活当選した。」
信じがたいことに、以上が全文である。「最低限の事実を報道しないわけにはいかないが、できるだけ目立たないように。読者への悪印象を避けるように」配慮しているとしか思えない。
これに、毎日のネット記事を対置させてみよう。同じ記者が連名で2本出稿している。
維新の前川清成衆院議員書類送検 公示前に投票呼びかけ文書配布疑い
(毎日新聞 2022/1/14 15:12)
「2021年10月の衆院選で、公示前に自身への投票を呼びかける文書を有権者に送ったとして、奈良県警は14日、日本維新の会の前川清成衆院議員(59)=比例近畿=を公職選挙法違反(法定外文書頒布、事前運動)の疑いで書類送検した。
県警は検察に起訴を求める「厳重処分」の意見を付けた。罰金以上の刑が確定すれば失職し、原則5年間、公民権停止となる。前川氏は「公選法に抵触するところはないと確信している」とのコメントを出した。
(前川清成氏が送ったとされる選挙はがきの見本=(関係者提供写真))
送検容疑は衆院選公示前の10月中旬ごろ、自身への投票を呼び掛ける文書数十通を母校・関西大の卒業生らに送ったとしている。
捜査関係者などによると、文書は選挙運動期間中にのみ使用が認められている「選挙はがき」に宛名やメッセージなどの記入を依頼する内容で、はがきや返信用封筒などをセットにして送られていた。
(前川清成氏が関西大の卒業生らに送ったとされる依頼文。選挙はがきの宛名や推薦メッセージなどの記入を求めている=関係者提供拡大)
毎日新聞が入手した選挙はがきには「選挙区は『前川きよしげ』、比例区は『維新』とお書き下さい」と記載され、依頼文には「ぜひ一票をお願いします」とメッセージの例文が添えられていた。
県警はこうした内容が、不特定多数の有権者に投票を呼び掛ける選挙運動に当たると判断。前川氏が指示したとみて調べていた。
前川氏は21年12月、毎日新聞の取材に応じ、「(卒業生らでつくる)『前川きよしげを支える関大有志の会』の会員に約2000通を送ったが、選挙はがきに宛名などの記入をお願いする『準備行為』で、事前運動には当たらない」などと説明していた。
前川氏は奈良弁護士会所属の弁護士。04年の参院選で初当選し、参院議員を2期、旧民主党政権で副内閣相などを務めた。21年10月の衆院選では維新の公認候補として奈良1区から出馬し、比例復活で当選を果たした。」
選挙はがき
公職選挙法で選挙中に配布が認められている文書の一つ。はがきに候補者の写真や政策、推薦文などを記載し、有権者に支援を呼び掛けるもので、衆院選(小選挙区)で候補者個人が使用できるのは3万5000枚まで。立候補届け出後、投票日前日まで使用できる。「公選はがき」「推薦はがき」とも呼ばれる。」
「各陣営やっている」公選法違反を全否定 維新・前川議員の言い分は」
(毎日新聞 2022/1/14 15:14)
(前川清成衆院議員=奈良県庁で2022年1月12日午後3時31分、加藤佑輔撮影写真)
「僕だけじゃなく、各陣営がやっている」――。2021年10月の衆院選で投票を呼び掛ける文書を公示前に送ったとして、公職選挙法違反(事前運動など)の疑いで書類送検された日本維新の会の前川清成衆院議員(59)。毎日新聞の取材に強い口調で違法性を否定し、「報道されたら訴える」とも話していた。文書はどんな内容で、何が問題とされたのか。
捜査関係者などによると、文書は公選法で選挙運動期間中にのみ使用が認められている「選挙はがき」や、そのはがきに宛名やメッセージの記入を求める内容だ。
選挙はがきは、通常サイズのはがきなどに候補者の写真や政策、推薦文などを掲載したもので、郵便局で「選挙」との表示を付けてもらって有権者に郵送する。衆院選(小選挙区)で候補者個人は3万5000枚、政党は候補者1人につき2万枚まで配布が認められるが、立候補の届け出から投票日前日までしか使えない。
(前川清成氏が送ったとされる選挙はがきの見本=関係者提供)
前川氏によると、文書は選挙はがきに宛名やメッセージなどを事前に書いてもらうために送ったという。衆院選の公示(10月19日)より前の10月上旬ごろ、母校・関西大の卒業生らでつくる「前川きよしげを支える関大有志の会」の会員ら約2000人に会長名で送付。返信用封筒なども同封したという。
毎日新聞が入手した選挙はがきの見本は、「あなたの1票で奈良県に維新の国会議員が誕生します」「選挙区は『前川きよしげ』、比例区は『維新』とお書き下さい」と投票を呼び掛ける内容で、維新副代表の吉村洋文・大阪府知事とのツーショット写真を掲載。依頼文には、はがきに記入するメッセージの例として、「前川さんへぜひ一票をお願いします」と書かれていた。
奈良県警は、こうした文書を不特定多数に送る行為が選挙運動に当たると判断。公示前だったことから、事前運動と法定外文書頒布の疑いで書類送検したとみられる。
一方、弁護士でもある前川氏はこうした見方を「恣意(しい)的だ」と批判した。関西大の卒業生らに選挙はがきの協力を求めたのは合法的な「選挙の準備行為」であって、投票を呼び掛ける選挙運動ではないという理屈だ。「(選挙期間の)12日間で計5万5000枚のはがきを(宛名などの)重複がないかチェックして発送することなんて誰もできない」と話し、他の陣営でも同様の文書を配っていると主張。「弁護士のバッジを懸けてもいいが、絶対に不起訴になる」「公判請求(起訴)などであれば、とことん闘う」と話した。
同種の事件では、16年の参院選で、公示前に選挙はがきを有権者に送ったとして、奈良県警が元参院議員の後援会関係者を公選法違反(事前運動など)の疑いで書類送検。奈良簡裁が罰金30万円の略式命令を出した例がある。はがきは後援会名義で出されたが、会員ではない人も含めて1万通以上送られた点が問題視されたという。
選挙制度に詳しい岩井奉信・日本大名誉教授は「文書には『ぜひ一票を』との言葉があり、投票依頼と受け取られかねない。後援会の内部で配っているだけなら後援会活動の一環と見なされるが、不特定多数に配っていれば選挙運動に当たる可能性がある」と指摘している。」
以上のとおり、読売と毎日でこれだけの圧倒的な情報量の差があることに驚かざるを得ない。読売しか読まない人に、毎日のこの記事を読ませたいものと思う。
さらに、毎日の報じた、この維新議員の弁明が興味深い。いかにも維新らしいというべきか。「弁護士のバッジを懸けてもいいが、絶対に不起訴になる」と言ったのだ。懸けてもらおう。起訴になったら、自分の言葉に責任をもって、弁護士のバッジを外していただきたい。そう、永久にでなくてもよいが、少なくとも10年は。
そして、「公判請求(起訴)などであれば、とことん闘う」のは被告人の権利だ。闘うのは当然だろう。しかも、公判闘争の結果には議員バッジが懸かっている。起訴されて有罪となれば、否応なく議員バッジは取りあげられる。この議員は、相次いで二つのバッジを失うことになる。
そのとき、「弁護士バッジだけはやっぱり着けておきたい」はなしにしてもらいたい。維新はこの議員の「有言実行」に責任をもたねばならない。弁護士バッジの着脱に、維新の信用がかかっている。そのときは、読売も維新の態度を正確に詳細に報道していただきたい。
(2022年1月14日)
学術会議が推薦した6候補に対する菅義偉の任命拒否は、権力による学問の自由蹂躙という大事件である。2020年10月1日のその事件が未解決のままに2度の年越しを経て、一昨年のこととなった。こんな「首相の違法行為」が放置されてよいはずはない。岸田政権は、安倍・菅のデタラメを承継してはならない。速やかに前首相の違法を是正して、6名を任命しなければならない。
昨日(1月13日)、岸田はこの問題をめぐって学術会議の梶田隆章会長と会談した。岸田は、「聞く耳」をもつことを、自分の美点と誇示している。「聞く耳」は重要だが、それだけでは何の意味ももたない。聞いたことをどう活かしどう実行するのか、それが問題ではないか。この会談で聞いたことを聞きっぱなしにして済ますのか、6人の任命実現につなげるのか。その姿勢を厳しく問わなければならない。聞くフリだけでは、タチが悪い。
主要メディアの、この会見に関する報道の見出しを拾ってみた。
読売 首相、学術会議の会員候補6人任命拒否は変えず…「当時の首相が判断し一連の手続きは終了」
赤旗 「任命拒否」変えず 首相、学術会議会長と会談
東京 首相、学術会議の任命拒否「もう結論でている」 梶田会長と面会
NHK 首相 学術会議の梶田会長と会談 “今後は官房長官窓口に対話”
毎日 岸田首相、任命拒否問題で学術会議と対話の姿勢 梶田会長と面談
朝日 学術会議の6人任命拒否問題「検討していく」 岸田首相、梶田会長に
産経 学術会議任命拒否 岸田首相「菅氏が決めたこと」
読売・東京・赤旗・産経は、岸田の姿勢を「聞いただけ」と否定的に厳しい見出しの付け方。これに対して、NHK・毎日・朝日は、「今後の対話と検討に期待」と温かく見守る姿勢。
とりわけNHKが暖かい。「日本学術会議が推薦した会員候補が前の政権で任命されなかったことに関連し、岸田総理大臣は学術会議の梶田隆章会長と会談し、今後は松野官房長官を窓口として対話を進めていきたいという考えを伝えました」というリード。
もっとも、「岸田総理大臣は『6人については、任命権者である当時の総理大臣が最終判断したもので、一連の手続きは終了したと承知している』と述べました」とは明記している。その一方で、「今後は松野官房長官を窓口として学術会議側と対話を進めていきたいという考えを伝えました。梶田会長は『少なくとも松野官房長官が担当となって検討していただけるということなので、前向きに捉えたい』と述べました」と期待を滲ませた報道となっている。
各紙の報道も内容は大同小異。岸田の「もう結論は出ている」「手続きは終了した」という発言をメインとするか、「今後も対話を進めていきたい」とする部分に重きを置くか。これは、岸田への幻想を切り捨てているか、持ち続けているかという各メディアの姿勢によるものではあるが、それだけでもないようだ。
世論の指弾が岸田をどれだけ追い詰めているのかということについての評価の差もあるのではないか。岸田は、世論に押されてやむなく学術会議会長との会談に応じざるを得なかった。情報公開請求や審査請求も利いているに違いない。という見方からは、NHK・朝日・毎日タイプの見出しになる。その評価がなければ、読売・東京・赤旗タイプとなろう。
また岸田について、安倍菅政権の残滓に縛られざるを得ないと見るのか、あるいはこの件を期に安倍菅政権から脱してリベラルな岸田色を出して世論の喝采を得ようとするサプライズもありと見るのか。
各紙は、記者団の取材に応じた梶田会長の談話として、「首相は学術会議と対話する姿勢を示し、松野官房長官をその窓口とすると応じた」「(任命拒否について)検討いただけるということなので前向きに捉えたい」「少なくとも官房長官にご担当いただいて、ご検討いただけるということなので、前向きにとらえたい」などと話したと報じている。
今後の「検討」の内容は予測しがたいが、基本は世論の高揚次第なのであろう。菅だけでなく、この件の黒幕とされた杉田和博官房副長官も既にその地位にない。世論を見ての岸田の決断次第で、6人の任命(任命拒否の撤回)は可能ではないか。
(2022年1月13日)
言葉は重層的な意味をもっている。しかも、時代や場所や局面によって変化する。なかなかに言葉の選択は難しい。
たとえば「国民」である。国家や権力に対峙する「国民」、主権者としての「国民」、基本的人権の主体としての「国民」と、安定した無難な言葉だと永く思っていた。ところがあるとき、「ことさらに日本国籍を持たない人々を排除した差別用語ではないか」と指摘されて考え込んだ。実は、それ以来ずっと考え込んで結論は出せないままである。
「国民」に代えて「市民」がふさわしい場合もあるが、権力との対峙のニュアンスが弱い。差別臭のない言葉としては「住民」だが地域的に限定される。「大衆」は好きな言葉だが、独特の手垢がついている。個人的には「民衆」や「庶民」を使うことが多いが、どうしても使える局面は限られるし、ニュアンスは軽くなる。
さて、本命は「人民」である。圧制に抗議し蜂起して隊列を組むのは、「人民」でなくてはならない。「人民」こそ、権力や資本や天皇制に対する批判者であり、批判的行動の主体である。さらに、人民こそは、国境や資本のくびきから解放された、人類的な普遍性を持ち、しかも差別とは無関係な人々の「集合」を意味する。
さはさりながら…、「人民」は余りに崇高で神聖な左翼用語として、消化しつくされたのではないか。「人民」という言葉は、いまや重すぎる言葉として、使える局面が極めて狭小になりつつある。「人民」という言葉の責任ではない。闘うべき「人民」が、闘うべき機会を逸して齢を経るうちに、廃用性機能障害を起こしてしまったのだ。状況が劇的に変化して、闘う主体とともに「人民」も復活することを期待したい。
朝日新聞(デジタル・1月9日)に、漢字の本場中国における「人民」の事情についての興味深い説明がある。(社説余滴)「「人民」って一体誰のこと?」という古谷浩一解説員の記事。要約すれば、以下のとおり。
私は1990年代の初めに中国の大学に留学して、中国語を学んだ。先生はとても立派な人だった。新疆出身のウイグル族の女性で、中国語専攻の20代の学者(のタマゴ)。母語と違って中国語を客観的に見つめる視座があったからだろう。漢族の先生が口にしないようなことも丁寧に教えてくれた。
例えば「人民」という単語。中国では反体制以外の人とか、「敵対勢力」ではない人といった意味を持つ。「では、私たちは人民でしょうか」と尋ねると、先生が困った顔をしていたのをよく覚えている。
こんな昔話をするのは、昨今の「中国式の民主」をめぐる議論で、中国が強調するのが国民や公民や市民ではなく、あくまで「人民の民主」という概念なのが気になったからだ。
習近平(シーチンピン)国家主席は昨年10月の演説で、「民主主義は飾り物ではなく、人民が解決を必要としている問題を解決するためのものである」と言っている。この解決すべき「問題」のなかに、新疆で迫害される少数民族の住民や、人権や表現の自由を求めて拘束された人たちが訴える「問題」はたぶん含まれないのだろう。なぜならば彼らは敵対勢力であり、「人民」ではないのだから。
敵と見なされた人々は封殺される。そして、それは「ごく少数をたたくのは大多数を守るため。独裁は民主の実現のため」(白書『中国の民主』)だと正当化されてしまう。
香港では立法会の選挙から民主派が排除された。それでも中国の高官が「民主的だ」と強弁するのは、敵を取り除いた選挙がまさに「人民の民主」の実現だからにほかならない。
なるほど、ところ変われば言葉も変わる。私は「人民」を、体制や権力と闘う志の高い人々を指す言葉と思っていた。しかし、習近平の用語法では「人民とは体制派」なのだ。しかも、「権力が特定の人々を除外し差別する」ために使われる「人民」なのだ。「人民」だけではない。中国共産党のいう、「民主」も「人権」も「自由」も「平和」も、そして「社会主義」も吟味を要する。一見言葉が同じようで、実はその意味が正反対ということもあるのだ。
(2022年1月12日)
ある維新の議員が、昨日付のブログでこう発信している。
「東京新聞 望月衣塑子記者のアンフェア発言に物申す。立憲・CLPの不祥事と大阪の連携協定はまったく同列ではない」
分かりにくいものの言い方だが、私はこう思う。
「東京新聞 望月衣塑子記者の発言に非難さるべき不適切さはまったくない。これをアンフェアと謗る維新議員こそ強く非難されねばならない。確かに、立憲・CLPの不祥事と大阪の連携協定はまったく同列ではない。維新と読売の癒着というべき大阪の包括連携協定の方が格段に悪性が強く、はるかに民主主義への負の影響が大きい。これを真逆に描くのは、ミスリードも甚だしい」
「公権力と大新聞の癒着事件」と、「立憲・CLPの不祥事」との悪性・危険性を比較するには、問題を2層に分けてとらえねばならない。まずは、当該行為自体の可非難性であり、次いで当該行為の可視性の問題である。
まずは、《読売新聞大阪本社と大阪府との包括連携協定》をどう評価すべきか。誰がどう見ても、ジャーナリズムと権力との癒着である。しかも、巨大全国紙と巨大地方都市の特別な関係の構築。好意的に読売をジャーナリズムと見るならば、権力批判をその本領とするジャーナリズムの堕落と言うべきだろう。また、権力の側から見れば、御用広報紙の取り込みで、批判を受けない権力は堕落する。そのツケは、府民にまわってくる。
というだけではない。読売という御用新聞とポピュリズム政党維新の癒着である。当然にそれぞれの思惑あってのことだ。とりわけ、維新の府政は問題だらけだ。カジノ誘致も万博も、そしてまだ都構想も諦めていないようだ。コロナ禍再燃の中、イソジンや雨合羽の体質も抜けきってはいない。維新府政は、ジャーナリズムの標的となってしかるべきところ、読売の取り込みは維新にとっては使えそうなところ。客観的に見れば、この上なく危険極まる、汚れた二つの「相寄る魂」。
但し、この癒着はことの性格上、アンダーテーブルではできないこと。年末のギリギリに発表して共同記者会見に及んだ。もちろん、会見では批判の矢が放たれたが、可視化はせざるを得ない。この癒着は大っぴらに開き直ってなされた。
対して、《立憲がカネを出していたCLPの不祥事》の件である。こちらは、立憲がカネを出していたことが秘密にされていた。ここが不愉快でもあり、大きな問題でもある。これまでは与党の専売特許と思われていたことを野党第一党もやっていたというわけだ。
可視化ができているかだけを比較すると、維新と立憲、立憲の方が明らかに分が悪い。立憲も弁明しているが、洗いざらいさらけ出して膿を出し切るのがよい。
しかし、可視化ができているか否かの点だけを比較して、《維新は公明正大、これに較べて立憲のやることは不透明で怪しからん》というのは、ミスリードも甚だしい。
行為の悪性や影響力を較べれば、維新の方が格段に悪い。読売と維新は、開き直って大っぴらに、「悪事」を働いているに等しいのだ。
大阪読売のOBである大谷昭宏の声に耳を傾けたい。
「本来、権力を監視するのがメディアの役割なのに、行政と手を結ぶとは、とんでもない話です。大阪読売はこれ以上落ちようがないところまで落ちた。もう『新聞』とか『全国紙』と名乗るのはやめて、はっきりと『大阪府の広報紙』と言ったほうがいい。そこまで自分たちを貶めるんだったら、もはや大阪読売はジャーナリズムの範疇には置けませんよ」「期待はしていなかったんですが、それにしても行政機関と提携するとは、ジャーナリズムとしてあり得ない。そこまでジャーナリズムの誇りを打ち捨ててしまうのか。OBの一人として哀れというしかないですね」「今回、読売が協定を結んだのは、明らかに部数増と大阪府からの見返りを期待しているからです。大阪府の職員は、朝日や毎日よりも、府と協力関係にある読売を読むようになるでしょうし、読売に優先的に取材上の便宜を図ろうとするでしょう。まさにギブ&テイクです。」「会見では、一部の地方紙も行政と協定を結んでいると言い訳していましたが、痩せても枯れても読売は全国紙ですから、影響力の大きさが比較にならない。しかも、大阪府が、朝日や毎日や産経にも声をかけて、結果的に読売だけが応じたというならまだしも、今回は読売のほうから大阪府に提案したんです。吉村知事は『報道内容に何ら影響されることはない』と言うが、ゴロニャンとにじり寄った側が相手を叩くことなんかできるわけがないじゃないですか」
「木に縁りて魚を求む」の喩えもある。維新に「権力の謙抑」やら「ジャーナリズムの本旨」を説いても耳にはいるとも思えないが、批判は続けなくてはならない。
(2022年1月11日)
2022年初めての街宣行動は冷雨の中でのこととなった。用意した、「9条改憲反対」署名用紙をひろげることができない。結局手作りのプラスターが主役となって、傘を差して歩く通行人の目を惹いた。
★人類の理想 戦争放棄の9条。
★敵基地攻撃能力、憲法違反。
★戦争できる国 9条改憲 ストップ。
★穏やかな声、優しそうな顔で平和憲法を壊してゆく岸田文雄首相。
★6兆円こえる軍事費、いつの間にか戦争する国に。
通行人がプラスターを横目で見ていく。子どもたちが興味津々で文字を読む。中には、「写真を撮らせていただけますか」と立派なカメラを向ける女性も。そして、「ご苦労様、ガンバってくださいねー」という威勢のよい男性の掛け声。「9条守れ」「平和を守れ」の訴えには、それなりの手応えがある。
マイクで語られたのは、「敵基地攻撃能力保有論」や「緊急事態条項」の危険性。一見ハトに見える岸田文雄のタカの振る舞い。そして、あらためて「人類の理想9条を守ろう」という訴え。
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あらためて訴えます。憲法9条は、再び戦争はしない、戦争をしない保障として軍備をもたない、と決めています。これは、日本の世界に向けた約束でもありますが、それだけのものではありません。
憲法9条は人類の理想です。世界に先駆けて、日本は平和の理想を実定憲法に書き込んだのです。ですから、憲法9条は世界の宝でもあるのです。私たちは、この人類の理想、世界の宝を守り抜いて、やがては、世界に拡げなければならないと思います。
「平和のためには武器を持たない」という9条の精神の対極に、「自国の平和を保つためには軍事力を持たねばならない」という考え方があります。その軍事力は大きければ大きいほど、強ければ強いほど、自国は平和で国民は安心していられる。周辺国に負けない軍事力があってこそ平和の維持が可能だというのです。
この考え方ですと、隣り合う国は、際限なく相手国よりも強大な軍事力を持とうという競争を続けざるを得ません。平和のための軍事力拡大競争という矛盾に陥ってしまいます。現に、そのようにして日本は一度、戦争を引き起こし、国を滅ぼしました。9条はその手痛い経験から生まれたものです。
「敵基地攻撃能力保有論」は、究極の挑発行為です。日本がそのような立場をとれば、日本の仮想敵国と想定された隣国は、日本からの攻撃に備えた防備を増強するでしょうし、反撃の能力を誇示することにもなるでしょう。そうすれば、日本の軍事力はさらに一層の強化をしなければならなくなります。相互不信ある限り、お互いに、馬鹿げたことを積み上げなくてはならなくなります。
1月7日におこなわれた日米両政府の「外交・軍事担当閣僚による安全保障協議委員会」、いわゆる「2プラス2」では、日本政府が「敵基地攻撃能力保有論」の検討をアメリカ側に約束したと伝えられています。
これは危険なことです。戦争の気運を促すことにもなりかねません。こんなことは即やめさせなければなりません。そのための世論の力を積み上げましょう。ご協力をお願いいたします。
(2022年1月10日)
本日は「成人の日」だそうな。いつの間にか、どうして今日が「成人の日」になったのか。その所以はよく知らない。かつては、1月15日が成人の日だった。この日が小正月で、武家では元服の儀式が行われていた慣わしによるものと聞かされてきた。天皇制とは無関係な祝日だが、武家社会の男子だけの通過儀礼を起源としたわけだ。
自分の成人のころを思い出す。私は学生だったが、アルバイトで自活していた。いつから成人したというような意識も自覚もなかった。強いて言えば、田舎の高校を卒業して学生として上京した18歳の春だったろう。成人式の案内というものを、区役所からもらった記憶があるが、バカバカしくってそんなことに費やす時間はないと無視した。若者を集めて、したり顔の年寄りの説教など聞きたくもなかった。
人類最古の文字による記録は、シュメール文明の粘土板に書き付けられたものだというが、その最古の文章が「近頃の若いモンは…」「実に嘆かわしい」という内容であるという。また、パピルスに書かれたヒエログラフの最古の文書もまた、「近頃の若いモンは…」という嘆きだとか。本当のところは知らないが、年寄りの若者に対する説教の歴史には、人類の歴史とともに年季が入っているのだ。
年寄りの説教好きとともに、年寄りが作った社会に対する若者の反抗心も年季が入ったもの…と思っていた。私は長く、「若者とは、常に社会への抵抗者である。齢をとるにつれて抵抗をあきらめ、既存の社会秩序に迎合して保守化し、やがて、次代の若者の抵抗の姿勢を嘆くのだ」と思ってきた。あるいは、「若者とは、常に理想を追い求める者、しかし、齢を重ねるにつれて現実に絡めとられ理想を失って妥協し、保守化し、やがて、次代の若者の理想を力なく嗤うことになるのだ」とも。
このことが永遠の法則かと思っていたら、昨今はどうも様相を異にするようだ。若者ほど自民党の支持率が高いという。「そんなバカな…」と絶句するしかない。
おそらくは、粘土板に書かれた楔形文字の文章は、「近頃の若い者は、私たちが苦労して作りあげたこの社会の秩序や道徳に反抗的である」「慎みなく新しい秩序を作ろうなどと攻撃的で実に嘆かわしい」というものであったろう。ところが、今やこの社会では、年寄りがこう言わざるを得ない。「近頃の若いモンは、私たちが苦労してぶち壊そうとしてもう一歩で成功しなかった旧社会の秩序に安住して抵抗も反抗もしようとしない」「理想をもって新しい秩序を作りだそうというエネルギーに欠けて実に嘆かわしい」
本日の東京新聞社説が、「成人の日に考える 『関係ない』と言わぬ人」というタイトル。至学館大学(愛知県大府市)の越智久美子准教授による「主権者教育」への取り組みを紹介している。その中に次の一節がある。
戦争を生き延びたある先輩の証言が、主権者教育に取り組むきっかけになりました。
「軍需工場といえば空襲の標的です。そんなところにいることは、恐ろしくなかったですか」と越智さんが尋ねると、その人は言いました。
「はじめはちっとも怖くなかった。何も知らなかったから。自分には関係ないと思ってた。家を焼かれ、家族を失い、ようやく震えが来ましたよ。その時にはもう手遅れでした」
越智さんは考えます。
「温暖化も原発事故もコロナ禍も、知らなかった、関係ないでは済まされない。今を生きる若い人には、過去に学び、今にかかわり、未来を創造する人になってほしい。それが主権者。そのための一票です。一票は微力かもしれません。でも決して無力ではありません」
無関心といわれる若い人たちに、選挙の内側に入ってもらい、一票の力を感じてもらうのが、演習の狙いです。
「一票は微力かもしれません。でも決して無力ではありません」「無関心といわれる若い人たちに一票の力を感じてもらいたい」がキーセンテンス。昔から言われてきた「一人ひとりは微力だが決して無力ではない。連帯し団結することによって社会を動かす力となる」という文脈の一部。ゼロをいくつ重ねても総和はゼロにしかならないが、「ゼロではない微力なら、票を増やし、仲間を増やせば確実に力となる」という理屈。
そうとも言えるが、実は「一人ひとりは決して無力ではないにしても、まことに微力に過ぎない。だから、自分の投票行動で社会が変わるとも思えないし、連帯し団結することによって社会を動かす力になるとの実感をもてない」ことが問題なのだ。その発想の転換をどうすればよいのか。
何よりも、意識的な家庭教育、学校教育の成果に待ちたいところだが、自分の体験で言えば、社会との関わりをもち、何らかの能動的な行動を経験するところが出発点だ。などと、私も、いまどきの若いモンに説教する側にまわったようだ。無駄なこととは知りつつも、である。
(2022年1月9日)
岸田文雄が、あちらこちらで年頭所感を述べている。この人の物腰には、安倍晋三や菅義偉のようなトゲトゲしさがなく、乱暴も虚勢も感じられない。真面目にものを言っている雰囲気がある。だから、安倍や菅や麻生に辟易してきた国民には新鮮に映り、「あれよりはなんぼかマシではないか」「久しぶりに普通に会話のできる首相登場」という評価が定着しつつあるようだ。
安倍や菅、麻生などの危険性は一見して分かり易い。とりわけ安倍の国政私物化の姿勢は酷かった。これに較べて岸田の危険は分かりにくい。しかし、どうやら岸田流の一見危険に見えないことの危険性を看過し得ないものとして見据えなければならないようだ。
岸田は、今年にはいってからの発言で、改憲に極めて積極的である。憲法改正は「本年の大きなテーマだ」と言ってはばからない。そして何よりも岸田は、施政方針演説で敵基地攻撃能力について言及した初めての首相である。
一昨日(1月7日)の「日米2プラス2」後の共同発表文書でも、日本側が「ミサイルの脅威に対抗する能力を含め、国家防衛に必要なあらゆる選択肢を検討する」と決意表明。この表現について林芳正外相は同日の記者会見で、「いわゆる敵基地攻撃能力も含まれる」ことを明言している。岸田政権の敵基地攻撃能力へのこだわりは相当なものなのだ。
この点について、昨日(1月8日)の赤旗が、《「敵基地攻撃能力」保有の問題点》という、松井芳郎氏(名古屋大学名誉教授・国際法)のインタビュー記事を掲載している。説得力のあるものと思う。
かなりの長文だが、抑止論との関係について述べている最後の部分だけを引用する。
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― 自民党は、「抑止力向上」を「敵基地攻撃」能力の保有の理由としています。
抑止論とは、自国が強固な軍事力を有すれば相手国は自国への攻撃を差し控えるだろうという発想に立つものです。しかし、歴史的経験によれば、こちらが強大な軍事力をもてば、相手国は自国への攻撃を控えるのではなく、より強固な軍事力の建設に向かい、その結果一層の軍拡競争と国際緊張の激化がもたらされたというのが現実です。ましてや、中国についていえば、核軍備を含む強大な軍事力をもっているわけで、日本がこれを「抑止」するに足る軍事力を有することはまったく非現実的です。
抑止論の虚妄は一般的には、ほぼ結論が出ています。1978年の国連第1回軍縮特別総会では、抑止論に対置して、国連の集団安全保障強化と全面軍縮を進めることで平和を維持しようという考え方が示され、米国やソ連を含めて合意されました。ただ、現実の政策はなかなか変わってきませんでした。これをどういうふうに現実化するかということが重大な課題となっていると思います。
― 抑止論に代わる対処政策として、どのようなことが考えられますか。
私は、平和的生存権と戦力の不保持を規定する日本国憲法に基づく平和外交の政策が、一見したところ理想主義にすぎると見えるにもかかわらず、かえって現実的ではないかと思います。
日本はこれまで、日米安保体制を軸として、中国や北朝鮮という近隣諸国を仮想敵国として、それに備えるという政策をとってきました。これが逆に、相手国にとっては大変な脅威となって、相手国の軍事力増強の一つの口実になっています。
しかし、日本が憲法に基づいて平和外交を展開すれば、地域の緊張緩和が進み、これら諸国の軍備増強の口実の一つを除去することができる。現状では、中国などを相手に、紛争案件をめぐる対話はほとんど行われていなのが実態です。
さらに、日本がより広く世界的な規模で平和的生存権の実現を推進する外交政策を展開し、そのような国としての国際的評価が確立すれば、この事実は軍事力をはるかに凌駕する「抑止力」を発揮すると思われます。
憲法に平和的生存権と戦力の不保持を規定する日本は、国民の英知を集めて、この平和外交の具体的な在り方を組み上げていくことこそ必要だと思います。
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私は、双手を挙げてこの見解を支持する。この武力の均衡による「抑止力」を否定した平和外交推進の立場こそが、日本国憲法の理念である。平和外交を基本に据えた安全保障政策を「非現実」「お花畑的思考」と揶揄する向きがあるが、軍事的均衡論に基づく安全保障政策こそ非現実的と言うべきであろう。軍事的均衡論の負のスパイラルの行き着くところは「お花畑」ではなく、戦場に墓標を並べた「墓場」なのだから。
(2022年1月8日)
我が国には日本国憲法を頂点とする法体系が構築されて「法の支配」が貫徹されている…はずである。しかし、現実には「安保法体系」というもう一つの法体系が我がもの顔に日本国憲法の法体系を侵蝕している。
田中耕太郎長官時代の最高裁大法廷が、「統治行為論」という「法論理」で、「安保法体系」の「日本国憲法体系」からの独立性、ないしはアンタッチャブルな正確を容認してしまった。以来、「安保法体系」は、ひっそりと日陰に存在しているのではない。大手を振って堂々と自らを誇示しているのだ。
「安保法体系」が突出するところ、日本国憲法が保障する平和主義だけでなく、人権尊重も影をひそめることになる。いつの間にか安保容認論に毒された世論の下においても、ときに安保法体系の反国民性が無視し得ないものとして映ることがある。いま、沖縄で猖獗を極めつつあるオミクロン株の蔓延はその典型である。
沖縄県における感染状況が急激に悪化している。1月6日の新規感染者は981人、7日は1414人、そして本日(1月8日)が1759人と報告されている。メディアはようやく「地位協定という穴」「日本の主権侵害」として報道を始めたが、問題は以前からのものだ。
「米軍基地が集中する沖縄県で新型コロナウイルスの感染が急拡大している。感染力の強い変異株「オミクロン株」が基地を経由して市中に広がった可能性が高く、5日の県内の新規感染者数は昨夏の緊急事態宣言中以来となる600人台となった。同じく基地がある山口県でも感染者が急増しており、日本の水際対策が米軍に適用できない日米地位協定の規定と米軍の甘い感染防止対策が、国内のオミクロン株流行を早めた形だ。
政府は新型コロナの封じ込め策として、海外からの入国者を制限するなどの水際対策を続けてきた。だが、海外から軍用機などで入ってくる米軍関係者は規制の対象外となる。協定は在日米軍と米軍関係者らの法的地位を定めた取り決めだが、米側に大きな権限が与えられ、日本の主権が事実上及ばないためだ。」(1月6日・毎日)
NHKの集計によれば、昨日(7日)までの1週間における人口10万人当たり感染者数は、都道府県単位で沖縄県がダントツの239.23人、次いで岩国基地を要する山口県が46.91人となっている。
この沖縄の感染者数に驚かざるを得ないが、琉球新報の本日(1月8日)の報道では、基地内の感染密度はこれよりはるか高い。「沖縄米軍のコロナ感染 世界最悪級に…10万人当たり1905人 本紙試算」との見出しで、「基地内の直近1週間の新規感染者数を人口10万人当たりに換算すると2千人に迫り、世界最悪レベルとなる」とされている。
同紙は、「2021年12月26日までの1週間、新規感染者数が最も多い米国は人口10万人当たり358・2人。新規感染者数が米国に次いで多い英国は同901・3人となっている」とも報じており、最悪の基地内感染から、基地外に「滲み出している」ことがよく分かる。沖縄でも、岩国でも、オミクロン株のゲノム解析から、感染の拡がりが基地の中から外に出たことが「確認」されてもいるという。
玉城知事は2日の会見で「県の危機意識が米軍に共有されていない。激しい怒りを覚える」と指摘。「日米両政府はこの問題を矮小化せず、日米地位協定の構造的な問題だという意識を持ってほしい」と強調した。ただ、政府の地位協定見直しの姿勢は消極的と伝えられている。
地位協定は、1960年締結の「新安保条約」に基づいて、旧「行政協定」に替わるものとして締結された。その第9条1項と2項が以下のとおりである。(3?6項略)
1 この条の規定に従うことを条件として、合衆国は、合衆国軍隊の構成員及び軍属並びにそれらの家族である者を日本国に入れることができる。
2 合衆国軍隊の構成員は、旅券及び査証に関する日本国の法令の適用から除外される。合衆国軍隊の構成員及び軍属並びにそれらの家族は、外国人の登録及び管理に関する日本国の法令の適用から除外される。ただし、日本国の領域における永久的な居所又は住所を要求する権利を取得するものとみなされない。
この条文を根拠に、基地内の軍人軍属には、出入国審査・住民登録の義務がない。出入国の際の必須手続であるCIQ(税関 (Customs)、出入国管理 (Immigration)、検疫 (Quarantine))の全てが免除される。だから、日本国法に基づく強制ができない。
米兵は、オミクロンとともに米国から日本国内の基地に直行し、あるいは空港でのチェックをスルーして、フリーパスで基地に入ることができる。そして、基地のゲートから街の酒場へも繰り出すことができる。そう。日本憲法の法体系を凌駕する、安保法体系が健在だからこそなのだ。
(2022年1月7日)
年末に、「拝謁記」が出版された。「拝謁」とは、臣下が王や君主に面会することである。もっとも、この出版は古代・中世の記録ではない。20世紀後半の、現行日本国憲法制定後における、大真面目な「凡庸な君主と聡明な臣下」の面談記録なのだ。臣下の側の筆の運びが、いかにも「拝謁」の文体となっている。この臣下は、この時代に、この「君主」に対して、こうまでへりくだらねばならなかったのだろうか。その内容の一部を下記で一読できるし、可視化した映像を視聴もできる。このような非対称の人間関係には、生理的嫌悪を禁じえない。
昭和天皇「拝謁記」―戦争への悔恨
https://www3.nhk.or.jp/news/special/emperor-showa/?tab=1&diary=1
昭和天皇は何を語ったのか?初公開・秘録「拝謁(はいえつ)記」?
https://www6.nhk.or.jp/special/detail/index.html?aid=20190817_2
この凡庸な君主たる人、私の子どもの頃の記憶では、「あっ、そー」としかしゃべることのできなかった御仁。 「あっ、そー」 だけでなくしゃべることができるんだ。とはいうものの、どうしてこんなにふんぞり返っていられるのだろう。記録されたとおりの調子でしかしゃべることができないのだろうか。滑稽でもあり、哀れでもある。
「凡庸な君主」とは天皇(裕仁)、「聡明な臣下」とは初代宮内庁長官 田島道治。正確な書名は、「拝謁記 1 昭和24年2月~25年9月 (昭和天皇拝謁記 初代宮内庁長官田島道治の記録 第一巻 ? 2021/12)である。この「拝謁記」は、2019年8月、NHKによるスクープという形で世に出た資料。この度の岩波からの出版によって新たな話題となっている。
「特徴的なことは、録音を起こしたような会話の記述」「昭和天皇の生々しい肉声が記された超一級の資料」「好悪の感情を隠さない天皇の人間的側面が明らかになっている」とされ、さらに「昭和天皇が戦争への後悔を繰り返し語り、深い悔恨と反省の気持ちを表明したいと強く希望していた」(が、叶わなかった)ことが、田島の筆によってメモされている。
2000万もの被侵略国の人々を殺し、310万もの日本人の死にも責任を負わねばならないこの天皇(裕仁)が、「戦争への後悔を繰り返し語り、深い悔恨と反省の気持ちを表明したい」と言っても…今さら…なあ。人の責任には、どうにか取り返しのつくものと、どうにも取り返しのつかぬものがある。あんたの責任は、どうしたところで取り返しのつくものではない。そうだろう。
ところで、興味深いのは、この「拝謁記」に「松川事件」に関する記述がみえること。天皇(裕仁)の方から、田島に「松川事件」の「真相」について語りかけているのだ。1953(昭和28)年11月11日の田島の記録の全文が以下のとおり。(カタカナ書きの部分はひらがなに直す)
(昭和天皇の発言) 「一寸(ちょっと)法務大臣にきいたが松川事件はアメリカがやつて共産党の所為(せい)にしたとかいふ事だが」「これら過失はあるが汚物を何とかしたといふので司令官が社会党に謝罪にいつてる」
(田島のメモ) 「田島初耳にて柳条溝事件(原文ママ)の如き心地し容易ならぬ事と思ふ」
松川事件は、連合国軍総司令部の統治下だった1949年夏、下山事件、三鷹事件に続いて起こった。戦後最大の冤罪事件であり、権力によるデッチ上げ事件である。最終的に無罪を勝ち取った法廷闘争の金字塔たる事件。
福島市松川町の旧国鉄東北線で線路のレールが何者かによって外され、通過した列車が脱線・転覆し、乗務員3人が死亡した。国鉄と東芝の労働組合幹部など20人が逮捕・起訴された。ときの政権によって共産党の犯罪と喧伝され、多くの共産党員が被告人とされた。1950年12月6日一審福島地裁判決では20人の被告人全員が有罪判決を受けている。内5名が死刑であった。
1953年(昭和28年)12月22日の二審仙台高裁判決では、3人が無罪となっているものの17人が有罪(うち死刑4人)であった。天皇(裕仁)の松川事件への言及は、この二審判決直前の時期に当たる。
この17人の有罪は、国民的な裁判批判の大運動展開の後に、事件から14年後に全員の無罪が確定した。が、事件の真犯人は今に至るも未解明である。当時鉄道を管理統制していた占領軍ならこの事件を起こせる、占領軍以外には起こせない、と言われていた。天皇(裕仁)は、それ以上の具体的な情報を持っていたのだろう。「法務大臣にきいたが松川事件はアメリカがやって共産党の所為にした」は、いま天皇(裕仁)生きていれば、内容を問い質したいところである。
なお、当時の法務大臣は、指揮権発動で失脚したことで名高い犬養健(1952年?1953年)であり、その前任は反共活動で名高い木村篤太郎である。裕仁に情報を入れたのは、このどちらかであろう。
しかし、残念ながら、「拝謁記」のこの日の記述はノートの最後のページに書かれ、いつもの詳細さに欠けている。田島自身が、「此日の記事は紙面を考へ要約なり」として筆を置いている。NHKが解読を依頼した現代史専門家らは、次のようにコメントしている。
「汚物の意味は不明だが、法務大臣が天皇に報告するからには、根拠不明のうわさ話などではなく、アメリカから日本の捜査当局にもたらされた話だろう。これはこれまで根拠なく語られてきた謀略説を裏付ける初めての史料ではないか」「衝撃的な話だが、この記述だけでは評価しようがない。真偽が定かでない記述は慎重に扱うべきだ」
きっといつか、解明される日が来るだろう。「松川事件の真犯人」と、「共産党のせいにした」権力の策動が。
(2022年1月6日)
憲法20条は、厳格な政教分離を定める。高く堅固な分離の壁で隔てられる「政」と「教」とは、「政治権力=国家」と「宗教」である。この宗教とは、宗派を問わない宗教一般ではあるが、日本国憲法制定の過程に鑑みれば、明らかに「国家神道=天皇教」がその中核にある。
その「国家神道=天皇教」は、敗戦を機に制度の上では姿を消したが、信教の自由の保障を得て、国家とは切り離された私的な存在としては生き残っている。しかし、《国家と天皇と神道》との結びつきを《日本古来の伝統》と考える、右翼・守旧派は「国家神道=天皇教」を公的な存在として復活させたいのだ。
「国家神道=天皇教」を代表する二大施設が、伊勢神宮と靖国神社である。軍国神社靖国への公式参拝には戦争被害国を中心に批判の目が厳しい。ところが天皇教の本宗である伊勢神宮には、比較的批判の声が小さい。いつの間にか、首相がここで年頭の記者会見をすることが定着してきた。それを許したメディアも、世論も反省しなければならない。それだけではない。野党の党首までが、年頭の伊勢詣でとは、情けないにもほどがある。
以下は、政教分離にもっとも鋭敏な宗教者からの抗議声明である。
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党の代表者による伊勢神宮参拝と記者会見に抗議します
内閣総理大臣 岸田文雄様
立憲民主党代表 泉健太様
国民民主党代表 玉木雄一郎様
マスコミ関係各社 御中
2022年1月4日、岸田首相は伊勢神宮を参拝し、記者会見を開きました。TBSやMBSなどによりますと、総理周辺は「伊勢参拝は公務としての行事であり、地元に帰るのとはわけが違う」と述べたことが報道されています。
最高裁は1997年、公費で玉串料を払った愛媛県に対し、「県が特定の宗教団体を特別に支援している印象を一般の人に与える」と指摘し、政教分離違反にあたるとの判決を出しています。今回、首相が公務であると自覚しつつ伊勢神宮を参拝したことは、憲法20条3項の政教分離原則を蹂躙する許しがたい行為です。さらに、こうした政府の暴走をチェックすべき野党の代表までが、無批判に後を追う姿勢に強く抗議いたします。
私たちはまた、記者会見において、そのことを指摘しなかったマスコミ各社に対しても、失望と憤りを禁じ得ません。
かつて1933年、伊勢神宮参拝旅行への参加を拒否した一児童に対して、政界、教育界、宗教界、マスコミを巻き込んだ全国的な排撃運動(いわゆる美濃ミッション事件)が展開され、私たちの教会の先達である日本基督教会大垣教会の浅倉重雄牧師も「祖先・国忠志を祭る神社に低頭して敬意をはらうのはキリスト教信仰に何ら差し支えない。愛する美濃ミッションの方々が国体と神社を正しく認識し、問題を繰り返さぬよう祈る」との見解を美濃大正新聞に発表しました。官民がこぞって伊勢神宮参拝を国民行事として支持し、マスコミの煽動によってマイノリティーを排除しようとした歴史に加担した罪責を覚える時、私たちは今回の与野党の代表者による伊勢神宮参拝とマスコミによる記者会見を看過することができません。
1965年の佐藤栄作首相以来、連綿と続いている総理大臣による伊勢神宮参拝によって、この国は少しはマシになったのでしょうか。かえって政治も経済も教育も医療も宗教も、すべからく低迷しているのではないでしょうか。いやしくも一国の首相や公党の代表たるあなたがたが、与野党ともに神頼みの政治を行おうとしている体たらくは、国内外の他民族に新たな恐怖を植え付けるとともに、唯々諾々と情報を垂れ流すマスコミ各社ともども、失笑を買うほかないでしょう。
かつて全国民に神社参拝を強要した狂気は、アジア全体にすさまじい戦争の惨禍をもたらしましたが、あのような過ちを二度と繰り返さないためにも、公人による伊勢神宮参拝と記者会見は、これを最後にして欲しいと願います。
2022年1月4日 日本キリスト教会大会靖国委員会委員長 小塩海平
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この声明で取りあげられている美濃ミッション(大垣のキリスト教会)事件について、略述しておきたい。狂信的な天皇教信徒と化した民衆による、少数者の精神的自由圧殺の典型的な一事例である。
1929年以後、美濃ミッション教会員の子弟が、その宗教的信念から神社参拝、招魂祭例への参加、さらには伊勢神宮参拝を拒否した。この事件は新聞で大々的に報道されて、大きな問題となった。日本基督教会も味方してはくれなかった。
メディアや政治家に煽動された大垣市地元民は「美濃ミッション排撃の歌:守れ国体、葬れ邪教」を作って美濃ミッションを迫害したという。(ウィキペディアから引用)
我が国体の尊厳を 害なう彼らミッションの
排撃目ざす 我らこそ 使命に生きる国民ぞ
血潮漲る憂国の 麋城(びじょう)の健児の力もて
倒せミッション倭異奴(ワイド)輩 正々堂々最後まで
いざ起て勇士時は今 我市四萬の健児らよ
邪教の牙城を葬りて 正義の御旗輝かせ
(上記の「麋城(びじょう)」とは大垣城の異名、「倭異奴(ワイド)」は、この教会の宣教師ワイドナーのことである。)
この排撃に遭遇して宣教師ワイドナーは健康を害して帰国の途次病没したという。また、複数の幹部が治安維持法違反で検挙されている。メディアと官憲と地域社会全体が、少数者を弾圧する典型例であった。もっとも、信徒については戦時中も信仰を守り妥協せず、官製の日本基督教団に加わることがなかったとされている。
このような官民一体になっての宗教弾圧事件は全国に無数に起きた。このような事件の根源は天皇を神とする信仰の全国民への強制にあった。敗戦時に廃棄すべきであった天皇が生き残ったため、この天皇を再び神にしてはならないとする歯止めの装置が必要となった。信教の自由保障を掲げるだけでなく、日本国憲法は歯止めの装置としての政教分離規定を創設した。政治に関わる者すべてが、これを遵守しなければならない。
年頭からの伊勢神宮参拝に違和感をもたないような、政党や政治家では、困るのだ。日本国憲法の理念を尊重していただきたい。