平家物語の名文句「驕れる人も久しからず。ただ春の夜の夢の如し」は、いくつものバリエーションで語られる。そのなかに、「驕る平家は内より崩る」というものがある。奢侈に慣れ驕慢が染みついた一族の愚行から、さしもの権勢も滅びた。滅びの原因は外にではなく内にあったのだという戒めとされる。
遠く異朝をとぶらへば、秦の趙高・漢の王莽・梁の周伊・唐の禄山、是等は皆旧主先皇の政にも従はず、楽みをきはめ、諌をも思ひいれず、天下の乱れむ事をさとらずして、民間の愁る所を知らざッしかば、久しからずして、亡じにし者ども也。
異朝の故事ではなく今の世のこととして置き換えて読めば、「憲法の定めるところに従わず、議席の数に驕って学者やメディアの提言を無視し、戦争を準備して近隣諸国との軋轢・緊張関係を高めながら、これを世論の憂いと受け止める自覚に欠け、結局は民意と乖離して政権は崩壊する」と示唆している。既に安倍政権は、「偏に風の前の塵に同じ」状態ではないか。平家物語作者の洞察力や恐るべし。
「内より崩る」を「一族の中の突出した愚か者の行為を発端にして瓦解する」と読むこともできよう。平家一族の権勢を笠に着た一門の愚行の例は、その末期症状としていくつも語られている。安倍政権でも、いくつもの末期症状が窺えるではないか。
一昨日(6月25日)の、自民党若手議員の勉強会「文化芸術懇話会」の席上発言は、典型的な末期症状の露呈だ。失言としても冗談としても、到底看過し得ない。むしろ、非公開だからとしてホンネが語られたとみるべきだろう。こういう本性をもった輩が、勇ましく先頭に立って戦争法案成立に旗を振っているのだ。
勉強会出席の議員数は、37人だという。この「37人+百田尚樹」の38人衆が、「内より崩る」の愚行の尖兵だ。「安倍政権の内側からの墓堀人」にほかならない。そして、大切なことは、内側からだけでなく外側からも大いに働きかけて、内外相呼応して戦争法案を葬りさるとともに安倍内閣を早期に崩壊させねばならない。
朝日・毎日・東京だけでなく、さすがに読売までもが本日(6月27日)社説を掲げて、自民党・安倍内閣の「異常な異論封じ」「批判拒絶体質」を批判し、報道規制発言に苦言を呈している。産経だけが様子見である。明日の社説を注視したい。メディアとしての矜持を保つか、あるいは自ら墓堀人グループの一員として名乗りを上げるか。
「異常な『異論封じ』―自民の傲慢は度し難い」と題する朝日の社説は最近珍しく、ボルテージが高い。「これが、すべての国民の代表たる国会議員の発言か。無恥に驚き、発想の貧しさにあきれ、思い上がりに怒りを覚える。」と言葉を飾らない。毎日も、東京も遠慮するところがない。
この3紙の社説を読んだあと、百田のツイッターを見て驚いた。「炎上ついでに言っておくか。私が本当につぶれてほしいと思っているのは、朝日新聞と毎日新聞と東京新聞です(^_^;)」と言っている。開き直りも甚だしい。さすがに、内側からの墓堀人の名に恥じない。
当事者性から言えば、まずは「沖縄の2つの新聞はつぶさないといけない」(読売だけは、「あの二つの新聞社はつぶさなあかん」と表現している。録音を持っているのではないか)と言われた、沖縄タイムスと琉球新報とである。
沖縄タイムス編集局長・武富和彦、琉球新報編集局長・潮平芳和両名による「百田氏発言をめぐる沖縄2新聞社の共同抗議声明」は、押さえた筆致で、ジャーナリズムの基本姿勢を語って格調が高い。「戦後、沖縄の新聞は戦争に加担した新聞人の反省から出発した。戦争につながるような報道は二度としないという考えが、報道姿勢のベースにある。」という一節が印象深い。ジャーナリストとしての理念を立派に貫いているからこその権力側からの逆ギレ批判であることが良くわかる。
「百田氏の発言は自由だが、政権与党である自民党の国会議員が党本部で開いた会合の席上であり、むしろ出席した議員側が沖縄の地元紙への批判を展開し、百田氏の発言を引き出している。その経緯も含め、看過できるものではない。」とは正鵠を射たもの。安倍政権全体の問題であることが明らかではないか。
そして、本日の両紙の社説の舌鋒が鋭い。憤懣やるかたないという怒りがほとばしり出ている。
琉球新報は、「ものを書くのをなりわいとする人間が、ろくに調べず虚像をまき散らすとは、開いた口がふさがらない。あろうことか言論封殺まで提唱した。しかも政権党の党本部でなされ、同調する国会議員も続出したのだ。看過できない。」と言い、沖縄タイムスは「政権与党という強大な権力をかさにきた報道機関に対する恫喝であり、民主的正当性を持つ沖縄の民意への攻撃である。自分の気に入らない言論を強権で押しつぶそうとする姿勢は極めて危険だ。」「一体、何様のつもりか。」といずれも手厳しい。
政府に批判的な2紙を潰せと言っただけではない。「マスコミを懲らしめるには広告料収入がなくなるのが一番。」「文化人が経団連に働きかけてほしい」「悪影響を与えている番組を発表し、そのスポンサーを列挙すればいい」「広告を取りやめるように働きかけよう」とまで、政権政党の議員が発言したのだ。報道の自由侵害の問題として、全マスコミの怒りが沸騰しなければならない。たとえば、北海道新聞が「自民の勉強会 マスコミ批判は筋違い」「耳を疑う発言が、また自民党から飛び出した。」というが如く。
愚かな読売社説のように、「地元紙に対する今回の百田氏の批判は、やや行き過ぎと言えるのではないか。」などと、生温く政権におもねっていてはならない。
そして、メディアの怒りを国民全体の怒りとして受け止めなければならない。メディアの自由は、国民の知る権利に奉仕するためにあるのだから。
沖縄は渾身の怒りを表現するだろう。この沖縄の怒りを孤立させてはならない。日本全土の国民が沖縄の怒りを我が怒りとしなければならない。沖縄の平和は、そのまま日本全土の平和なのだから。
自民党・安倍政権は、まぎれもなく2本の虎の尾を踏んだ。一本はジャーナリズム、もう一本が沖縄である。その痛みは、虎の本体としての日本国民全体のものである。国民の圧倒的な怒りの風を起こして、安倍政権を塵として吹き飛ばそうではないか。
(2015年6月27日)
「富士の白雪」「荒城の夜半の月」と使われる「の」は、連体の格助詞として所有や所属の関係性を表すと説明される。
ゆく秋の大和の国の薬師寺の塔の上なるひとひらの雲
と詠われれば、その美しさが引き立って、「の」も本望であろう。これに反して、「違憲の法案」「首相の野次」「こけの一念」「バカの一つ覚え」という最近の使われ方では、「の」が泣いている。
言葉は生き物である。この「の」が時に、思いもかけない役割を演じる。かつて、紀元節を「建国記念日」として復活しようという目論見が難航したとき、反対派国民を宥めるために「の」が動員された。「建国記念の日」として祝日になったのはご存じのとおり。漢語と漢語の間にはさまった「の」は、両漢語の一体感や連結度を緩和する働きをもつようである。ごつごつとした語感を、若干なりともマイルドにもする。
いままた、安倍首相は、この「の」働きに期待し利用しようとしていると伝えられる。戦後70年の「首相談話」を「首相の談話」にしようというのだ。
本日(6月25日)の毎日新聞トップ記事に次の一節がある。
内閣総務官室によると、「首相談話」には閣議決定が必要だが、「首相の談話」は首相の決裁で出すことができる。首相が13年末に靖国神社を参拝した際に出したのは「首相の談話」だった。政府関係者は「党や役所が嫌がっていると『首相の談話』になる。障害がなければ『の』が取れる」と解説する。
「首相談話」と「首相の談話」。ちょっと似てるが大きく違うというのだ。国民には何とも分からない情けない話。96条先行改憲から始まって、官邸人事による内閣法制局長官の首のすげ替え、そして集団的自衛権行使容認を認める解釈改憲まで、安倍晋三のやることなすことすべてが姑息極まるというほかはない。もっとも、姑息な「首相の談話」発表は、「首相談話」発表に政権内部の異論があることの自認だと明らかになった。さあ、勇躍「首相談話」とするか、それともひっそり「首相の談話」しか出せないと割り切るか。「安倍の思案のしどころ」だ。「国民の反対の声の大きさの読み方の如何」にかかってもいる。
同じ毎日の記事の見出しは、「戦後70年談話:首相、前倒しで独自色 過去の談話に縛られず」というもの。当然に8月15日に発表と誰もが思っていた談話の時期を、8月上旬に前倒しするという。そして、内容に「安倍カラーの独自色」を出したいというのだ。「内容のフリーハンドを確保しようという思惑が透ける」「8月15日には政府主催の全国戦没者追悼式が東京都内で開かれ、首相が式辞を述べる。首相官邸関係者は、この日と70年談話の発表が重なることを懸念した」「閣議決定をしないことで、首相自身の歴史観を談話に反映する判断をしたものとみられる」とも報じられている。
首相がこだわる安倍カラーとは国防色のことだ。軍服の色、軍靴の色、銃の色、火薬の色、砲弾の色、戦車の色である。もしかしたら、どす黒い血の色も交じっている。沖縄慰霊の日の行事では「帰れ」コールを浴び、沖縄戦で肉親を失った82歳の県民から「戦争屋は出て行け」と怒声を浴びせられた(琉球新報など)安倍晋三ではないか。今の世に安倍カラーを押し出せば、当然のことながら歴史修正主義談話とならざるを得ない。
「首相(の)談話」も、「安倍(の)談話」も要らない。安倍晋三に勝手なことを言わせておいてはならない。これを批判し、これに対抗して、「戦後70年 国民の良識の声」をこそ上げようではないか。
曇りのない目で過去を見つめ、我が国がおかした植民地政策と侵略戦争の過ちを率直に認めるところからしか、アジアの諸国民との揺るぎない友好関係を築くことはできない。そのような声を上げる場を緊急に作ろう。今年の8月15日までに。
(2015年6月25日)
95日(!!)の会期延長だという。これは戦争法案成立に向けた安倍政権の並々ならぬ執念の表れ。しかし、この非常識というべき延長日程は、安倍内閣存立の非常事態宣言ではないか。論戦での劣勢を自認し、数を恃んでの強行突破はできないという自白でもあるのだ。
世論を宥める時間が必要だ。人の噂も75日。法案違憲で沸騰している世論も、75日もあれば治まるだろう。「95日も延長すれば、説明が足りないなどとは言わせない。」「これでなんとか成立に漕ぎつけるだろう」との背水の陣とも読める。
しかし、これは政権にとっての大きな賭けでもある。時間がたてば立つほど、反対世論が大きく強固なものになっていく可能性も大きい。当然、廃案時の傷はより大きくなる。政権そのものを崩壊させることにもなるだろう。安倍の心中穏やかであるはずがない。
幸い今のところ株価の推移は順調だ。これが内閣支持率の頼みの綱。もう少し時間をかけて、法案について「丁寧な説明」を尽くせば世論はやがて変わるだろう。別に合憲と考えていただかなくても結構。強行採決をしても大きな反発を招くことにはならないという程度でよいのだ。もちろん、「丁寧な説明」とは内容についてのものではない。世論の危惧と噛み合った説明をしていたのでは、次々とボロが出る。さらに世論を刺激してしまう。そのくらいのことを心得ない私ではない。
だから、過去のことを聞かれたら未来のことで切り返す。昨日のことを聞かれたら一昨日の話しで煙に巻く。明日の天気について質問されたら、明後日の空模様を答弁する。左が問題になっていても得意の右を論じる。白ではないかと問い質されたら、黒ではないようだと答える。噛み合っていないではないかという再質問には、再び丁寧に同じことの説明を繰り返す。この洗練された「忍法・はぐらかし」で、のらりくらりと時間を稼げばよいのだ。こうして時間稼ぎをしているうちに、攻め手は疲れる。世論は飽きる。どこかで強行採決のタイミングというものが熟してくる。そんなものさ。これが安倍流逃げ切りの術。
そうは問屋が卸さない。日本の命運が掛かった根競べだ。世論の追求が勝つか、安倍が逃げ切るか。その95日レースの中間指標が、各紙の世論調査だ。法案への賛否や、内閣支持率。その数値の騰落が、政権の行動を縛りもし煽りもすることになる。
本日の朝日が、世論調査の結果を公表している。ここがスタートだ。これに続く世論調査の結果次第で、安倍を追い詰めることにもなり、安倍の逃げ切りを許すことにもなる。このスタートの状況を確認しておきたい。
朝日が20・21の両日に行った全国世論調査(電話)によると、安倍内閣の支持率は39%で、前回(5月16、17日調査)の45%から下落し、第2次安倍内閣発足以降最低に並んだ、という。
◆安倍内閣を支持しますか。支持しませんか。(かっこ内は5月調査時の数値)
支持する 39%(45)⇒6%の下落
支持しない 37%(32)⇒5%の上昇
1か月間で、安倍内閣支持から不支持への鞍替え組が少なくとも5%である。日本の有権者総数はほぼ1億人。およそ500万人の大移動だ。これで、支持不支持層の差は13%→2%と減じて、ほぼ差がなくなった。女性だけに限れば逆転(支持34、不支持37%)しているという。ここがスタートラインだ。
戦争法案への賛否は、「賛成」29%に対し、「反対」は53%と過半数を占めた。
◆安全保障関連法案に、賛成ですか。反対ですか。
賛成 29(29)
反対 53(43) ⇒10%の上昇、過半数に。
この「10%≒1000万人」の戦争法案反対への1か月の大移動が内閣支持率を変えたのだ。
さらに、法案をいまの国会で成立させる必要があるか聞くと、「必要はない」が65%を占め、「必要がある」の17%を大きく上回る。延長してでも今国会での成立を目指す政権に賛同する世論はきわめて少数なのだ。
◆この法案を、今の国会で成立させる必要があると思いますか。今の国会で成立させる必要はないと思いますか。
今の国会で成立させる必要がある17(23)⇒6%の減
今の国会で成立させる必要はない65(60)⇒5%の増
今国会で成立させる「必要がない」というのが、「ある」の3倍に近い圧倒的世論と言ってよい。強引にこの世論をねじ伏せようというのが、政権の95日会期延長である。明らかに、議会内の議席配分と議会外の民意とは大きく乖離しねじれている。もしかしたら、安倍は、この上なく危険な虎の尾を踏んでしまったのではなかろうか。
さらに朝日は、いくつか興味深い設問をしている。まずは、戦争法案の合違憲についての意見調査。
憲法学者3人が衆院憲法審査会で「憲法違反だ」と指摘したが、こうした主張を「支持する」と答えた人は50%に達した。他方、憲法に違反していないと反論する安倍政権の主張を「支持する」という人は17%にとどまっている。
◆法案について、3人の憲法学者が「憲法に違反している」と主張しました。
これに対して安倍政権は「憲法に違反していない」と反論しています。
どちらの主張を支持しますか。
3人の憲法学者 50% ⇒ほぼ3倍の圧勝。
安倍政権 17% ⇒ほぼ3分の1のボロ負け。
安倍晋三首相は法案について「丁寧に説明する」としているが、首相の国民への説明は「丁寧ではない」という人は69%。「丁寧だ」の12%を大きく上回った。
◆安倍首相の安全保障関連法案についての国民への説明は、丁寧だと思いますか。
丁寧ではないと思いますか。
丁寧だ 12%
丁寧ではない 69%⇒「丁寧だ」派の5.75倍
もうひとつ。
◇(安倍内閣を「支持する」と答えた39%の人に)これからも安倍内閣への支持を続けると思いますか。安倍内閣への支持を続けるとは限らないと思いますか。
これからも安倍内閣への支持を続ける 47%
安倍内閣への支持を続けるとは限らない 49%
◇(「支持しない」と答えた37%の人に)これからも安倍内閣を支持しないと思いますか。安倍内閣を支持するかもしれないと思いますか。
これからも安倍内閣を支持しない 60%
安倍内閣を支持するかもしれない 33%
つまり、安倍内閣支持派の支持の度合いは不確かなのだ。浮動的といってよい。けっして確信にもとづく支持ではない。「安倍内閣への支持を続けるとは限らない49%は、支持から不支持への予備軍が大量に存在していることを物語っている。安倍不支持派拡大の「のりしろ」が大きいということなのだ。一方、安倍不支持派は、遙かに固定性が高い。しかも、留意すべきは、1か月で500万?600万人の「支持⇒不支持・意見大移動」を経てなお、この数字なのだ。
政権の説明は、国民への説得力を持っていないことが明らかとなっている。安倍内閣が戦争法案を閣議決定したのが5月14日、国会上程が翌15日。以来、1か月間の「丁寧な説明」の結果が、この世論調査結果である。これから、95日間安倍の「丁寧な説明」はさらに国民の不支持を拡げるだろう。
国民一人ひとり、のみならず子々孫々の運命に関わる大問題だ。安倍の敵失を待っているだけでは、95日レースの勝利を確実なものとはなしえない。戦争をできる国への変身の危険と愚かさをあらゆる手段で発信し続けよう。既に、「潮目が変わった」のレベルは通り越した。もはや、世論は止めて止まらぬ「大きな竜巻」になりつつある。自信をもって戦争法案を吹き飛ばそう。
(2015年6月23日)
1945年2月13日、ドレスデンは連合軍の無差別爆撃で文字どおり焼き尽くされた。英空軍所属のランカスター重爆撃機800機に続いて米空軍のB17「空の要塞」450機が、高性能爆弾と新型焼夷弾を投下した。さらに、P51ムスタングが、廃墟をさまよう市民に機銃掃射のとどめを刺したという。一晩で13万5000人が焼死したというのが公式記録となっている。爆弾・焼夷弾の投下量において東京大空襲を遙かに上回る規模の市民殺戮。
そのドレスデンに、当時無名だったカート・ヴォネガットがいた。アメリカ兵として対独戦に参戦し、この町で捕虜になっていたのだ。奇跡的に生き延びた彼は、後年ドレスデン大空襲を素材に「スローターハウス5」を執筆する。
彼はこの空襲を、「とことん無意味で、不必要な破壊だった」「あれは一種の軍事実験で、焼夷弾をばらまくことによって全市を焼き尽くすことが可能かどうか試してみたかったのだろう」と言っている。ドイツ系アメリカ人として対独戦に参加し、英・米の無意味な空襲で死にかけた彼にとって、国家とはいったいなんだったのだろうか。
英米のドレスデン爆撃以前に、ナチス・ドイツのゲルニカ爆撃があり、皇軍の重慶無差別空襲があった。そして、ドレスデン大空襲の直後に、東京大空襲の惨劇となった。いずれも、「とことん無意味で、不必要な破壊」であり、国家による市民大殺戮でもある。
アメリカを代表する作家となったカート・ヴォネガットは、2005年に82歳で、「A Man Without a Country」というエッセイのような、回顧録のような、評論集とも言える書物を著す。この書は「ニューヨーク・タイムズのベストセラーとなり、また最後の著作となった」と紹介されている。
2007年にNHK出版から刊行された訳本の表題は「国のない男」。「Without a Country」とは、「国にとらわれず、国と為政者を徹底して批判し、国を相対化し、国をおちょくった」という語感が込められている。「国を拒絶した」が意訳としてふさわしいのではないだろうか。
国と、国をなり立たせている人や仕掛けに対して、その欺瞞性や俗悪性をえぐり出す批判精神の強靱さには一驚せざるを得ない。NHK出版からの訳本(訳者は金原瑞人)だが、「政府が右と言えば、左とは言えない」とのたまう心性とはおよそ対極にある知性が躍動している。
さらに驚くべきは、彼の怒りが、今のわれわれの怒りとまったく質を同じくしていることだ。その書の中のブッシュを安倍に、アメリカ憲法を日本国憲法に置き換えれば、「Without a Country」はそのまま日本に通用する。パロディにすらならない。たとえば、こうだ。
これが理想だよ、と言って掲げたらだれもが納得してくれるものがある。それは、日本国憲法だ。わたしはこの憲法のために、正義の戦いを戦った。しかし、その後この国は、どこかからの侵略者に一気に乗っ取られてしまったのではないだろうか。
安倍晋三は、自分のまわりに上流階級の劣等生たちを集めた。彼らは歴史も地理も知らず、自分が差別主義者であり歴史修正主義者だということをあえて隠そうともしない。何より恐ろしいことに、彼らはサイコパスだ。サイコパスというのはひとつの医学用語。賢くて人に好印象を与えるものの、良心の欠如した連中を指す言葉だ。
世の中には生まれながらに目が悪い人や耳が聞こえない人などがいる。だが、いまここで言っているのは、生まれつき人間的に欠陥のある人、この国全体を最悪の場所に変えてしまった元凶ともいうべき連中のことだ。生まれつき良心の欠如している人々、ともいえる。そういう連中が、いま、世の中のすべてを一気に乗っ取ろうとしている。サイコパスは外面がいい。そして自分たちの行動がほかの人にどんな苦しみをもらたすかもよくわかっているが、そんなことは気にしない。というか、気にならない。なぜなら頭がイカレているからだ。ネジが一本ゆるんでいる。
サイコパス。これ以上にぴったりくる言葉がなさそうな種類の人たち。自分たちは清廉潔白なつもりでいる。だれに何を言われようと、どんな悪評が立とうと、少しも気にしない。
こういう多くの冷酷なサイコパスがいまや、政府の中枢を握っている。病人ではなく指導者のような顔をして。彼らはいろんなものを統括している。報道機関も学校も。われわれはまるで大日本帝国占頷下の朝鮮状態だ。
これほど多くのサイコパスが政府に巣くってしまった原因は、彼らの迷いのなさだと思う。彼らは毎日、目標に向かって何かをこつこつとやり続ける。恐れることを知らない。普通の人々と違って、疑問にさいなまれることがない。これをしてやろう。あれをしてやろう。自衛隊を動員してやろう。学校教育を私物化してやろう。政府を秘密の壁で守っておこう。正規労働者をなくして大企業にサービスしよう。医療・介護をカットしてやろう。国民全員の電話を盗聴してやろう。金持ちの税金を安くして貧乏人から取り立てよう…。
われわれが大切に守るべき日本国憲法には、ひとつ、悲しむべき構造的欠陥があるらしい。どうすればその欠陥を直せるのか、わたしにはわからない。欠陥とはつまり、頭のイカレた人間しか首相や閣僚になろうとしないということなのだ。
(2015年6月21日)
昨日(6月17日)改正公職選挙法が成立した。これで、18歳のキミたちにも選挙権が与えられる。国政選挙・地方選挙で投票ができるだけではない。憲法改正国民投票の権利が君たちのものとなる。憲法を変えて新しい国の形を作ることが、君たち若者の役割だ。そのための18歳選挙権だということを肝に銘じていただきたい。憲法改正を期待されている君たちに私のホンネを語るから、心して聞きたまえ。
君たちにとっては古い歴史でしかないかも知れないが、70年前までの我が国は、皇紀輝く強国だった。富国強兵をスローガンとした一億一心の国柄で、台湾を植民地とし、朝鮮を国土に組み入れ、満州の建国を助けた。しかも、皇国の対外政策は、西欧列強に虐げられた東亜の民族の解放であり、五族共和の王道楽土建設という崇高な理想を目指すものであった。
ところが、我が国の精強と東亜の解放を快く思わぬ勢力に対して、我が国の生命線である満蒙の権益を守るために、自存自衛の戦争を余儀なくされた。我が軍と国民は一体となり、ナチズム・ドイツやファシズム・イタリアを盟友とし、世界を敵にまわしてよく闘った。
時に利あらずして善戦もむなしく我が軍は敗れた。しかし、果敢な健闘は皇国臣民としての矜持に照らしていささかの恥じるところもない。遺憾とすべきは、経済的生産力において欧米に比肩し得なかったことのみだ。臥薪嘗胆して、再び敗戦の憂き目を見ることのない強国を作り直さねばならない。これが、「日本を取り戻す」と私が常々唱えている内容だ。
ところが、戦後は風向きが変わった。「富国」はともかく、「強兵」のスローガンが吹き飛んでしまっている。挙国一致に代わって、個人の尊重だの、憲法だの、平和だの、人権だの、そして自由だのというゴタクが幅を利かせている。これでは他国から侮られるばかりではないか。私が、「戦後レジームからの脱却」をいうのは、そこを嘆いてのことなのだ。
戦後謳われた理念のなかで「民主主義」だけが唯一素晴らしいものだ。私の理解では、民主主義とは、選挙に勝ったものにオールマイティの権限を与えるもの。このような民主主義観は、私とウマが合う橋下徹も認識はおなじだ。選挙という神聖な手続を通じて、国政を任された私だ。次の選挙で主権者の意思が私を否定するまでは、ぐずぐず言わずに私に任せておけばよいのだ。
それに対して、「権力も憲法の矩を超えられない」とか、「憲法は権力を縛るためにある」とか、立憲主義とは「民主的に構成された権力といえども手を付けてはならない原則を定めること」などと、七面倒な小理屈が聞こえてくる。そんなことを言ってる奴に、「黙れ、非国民」と言ってやりたいが、残念ながらいまはさすがにそうは言えない。せいぜいが、「ニッキョウソ」「はやく質問しろよ」とヤジる程度で隠忍自重せざるを得ない。
18歳のキミたちに聞きたい。どうだね、憲法がこんなものなら有害だとは思わないかね。私は、日本の国家と国民の安全を守るために、精一杯働こうとしている。憲法がその私の手を縛るとすれば、憲法こそ国家と国民の安全の敵ではないか。憲法を守ることと、国民の利益を守ること、この二つを較べてどちらをとるのか。私は躊躇なく国民の利益をとるね。それがなぜ叩かれるのか、いまだによくわからない。
やはり昨日(6月17日)の党首討論で、この点が浮き彫りになった。このことを伝えるNHKニュースWEB版の報道が私の問題意識をかなり正確に伝えている。さすがは、NHK。「政府が右といえば左とは言えない」の言葉を実践している。これを素材に憲法を語っておきたい。
安全保障関連法案を巡り、安倍総理大臣は党首討論で、憲法解釈の変更の正当性、合法性は完全に確信を持っていると述べました。
キミたちも参考に覚えておきたまえ。自信のないときこそ、断乎たる口調で結論だけを繰り返すのだ。根拠や理由までは言わなくてもよい。人柄のよい大方の国民は、それだけで納得してくれる。マスメディアも、産経と読売だけではなく大方は私の味方だ。私の味方をした方が得になることは皆心得ている。メディアも上手に私をフォローしてくれる。
憲法学者からは、国際情勢に応じて憲法解釈が変わっていくのは当然のことだという意見がある一方、なぜ法案が憲法違反ではないと言えるのか、明確な説明はなかったという指摘もあります。
さすがは、政府子飼いのNHKの報道。これだと、まるで憲法学者の意見が半々に分かれているような錯覚を与えるだろう。あとで、籾井勝人を褒めておかなくてはならない。
安全保障関連法案を巡り、菅官房長官が、違憲ではないと主張している憲法学者の1人として挙げた中央大学の長尾一紘名誉教授は、党首討論の内容について「環境の変化に応じて憲法解釈が変わっていくのは当然のことだ。どこまでが必要な自衛の措置に含まれるかは、国際情勢を見ながら判断していくべきだという安倍総理大臣の説明は、ポイントを押さえている」と指摘しました。
事情をよく分からぬ人が聞けば、長尾一紘が多くの憲法学者の意見を代表する立場にあると誤解してくれるだろう。そこが付け目だ。しかも、「環境の変化に応じて憲法解釈が変わっていくのは当然のことだ」と憲法学者にお墨付きをいただいたのだから、ありがたい。これこそ、立派な先生だ。
我が国を取り巻く安全保障環境が変わったのだから、これまでは集団的自衛権行使は違憲だと言っていたけれども、この度は合憲としたのだ。どのような軍事行動ができて、どのような軍事行動が禁止されるか。それは、「環境の変化」次第。環境の変化の有無は、私が責任をもって判断する。できることとできないことを総理が仕分けする。これこそが、「ポイントを押さえている」ということだ。
そのうえで、「法案が分かりにくいのは確かだが、安全保障に関することを、すべての国民が詳しく理解するのは難しく、基本原則を説明したうえで法案の成立を図るべきではないか」と述べました。
そのとおりだ。この先生はものがよく分かっている。「安全保障に関することを、すべての国民が詳しく理解するのは難し」いのは当然だ。だから、選挙で選ばれた私を信頼すればよいだけの話。信頼できなければ次の選挙で落とせばよい。それが民主主義というものだろう。
一方、衆議院憲法審査会の参考人質疑で法案は憲法違反だと指摘した早稲田大学の長谷部恭男教授は、「法案がなぜ憲法違反ではないと言えるのかについて、安倍総理大臣から明確な答弁、説明はなかった。相変わらず砂川事件の判決を集団的自衛権行使の根拠にしていたが、この判決からそうした論理は出てこない」と指摘しました。
そのうえで、「これまでの憲法解釈を1つの内閣の判断でひっくり返すことを認めれば、今は憲法違反とされている徴兵制も、その時々の内閣の判断で認められることになりかねない」と述べました。
こういう輩を曲学阿世の徒という。国家よりも、国民よりも、憲法の字面が大切という人種だ。あろうことか、徴兵制までもちだして、これで若者諸君を脅かしたつもりでいる。
ところで18歳の諸君、私だって憲法を守らないとは一言も言ったことはない。ただし、憲法のイメージがずいぶん違うようだ。キミたちは、憲法という枠組みの素材はどんなものとお考えかな。鋼鉄? 木材? ガラス? 陶器? それともコンクリートかな?
私は、憲法はゴムでできているのだと思う。あるいは粘土だ。伸縮自在で融通無碍なことが大切なのだ。所詮、憲法とは道具ではないか。使い勝手のよいものでなくては役に立たない。
それにしてもだ、ゴムの伸び縮みにも限度がある。もっともっと使いやすいものに取り替えたいというのが、私の望みなのだ。だから、18歳諸君。私に力を貸していただきたい。憲法改正に邁進し、再び他国からないがしろにされることのないよう、いざというときには戦争ができる国をつくろうではないか。そしてけっして戦争では負けないだけの精強な軍隊を作ろうではないか。キミたち若者が真っ先に兵士となって戦場に赴き、祖国と民族の歴史を守るために、血を流す覚悟をしてもらいたい。そのための、18歳選挙権であるということを肝に銘じて忘れないように。
(2015年6月18日)
人を助けることは美しい行為だ。しかし、安倍内閣を助けようなどとは醜いたくらみ。平和憲法擁護こそが美しい立派な行為だ。ボロボロの戦争法案の成立に手を貸そうとは、不届き千万ではないか。仲裁は時の氏神という。だが、この期に及んでの維新の動きは、「時の死神」たらんとするものにほかならない。
そもそも、維新とは何ものか。誰もよくはわからない。おそらく当の維新自身にも不明なはず。自民を見限り、期待した民主党政権にも裏切られた少なからぬ有権者の願望が作りだした「第三極」のなれの果て。「自民はマッピラ、民主もダメか」の否定の選択が形となったが、積極的な主義主張も理念も持ち合わせてはいない。あるのは、民衆の意識動向に対する敏感な嗅覚と、自分を高く売り込もうという利己的野心だけ。
しかし、ここに来て大きな矛盾が露呈しつつある。「国民意識環境」の大きな変化が、ポピュリズムと利己的野心の調和を許さない状況を作りだしていることだ。ポピュリズムに徹すれば党の独自性発揮の舞台なく埋没しかねない。さりとて、利己的野心を突出させれば確実にごうごうたる世論の非難を受けることになる。
さらに、維新への世論の支持は急速に低下している。真っ当な良識からの評価は皆無といってよいだろう。議席の数は不相応な水ぶくれ。国会内での存在感も希薄だが、国会の外ではほとんどなんの影響力もない。次の国政選挙では見る影もなくなる公算が高い。「崩壊の危機」という見方さえある。彼らの危機感も相当なものであろう。
そのような折り、危機乗り切りの焦りからか、労働者派遣法改正法案審議での「裏切り」に身を投じた。どうやら、毒をくらわば皿までの勢い。農協法改正法案の「対案」を提出して自公との修正協議を迫っている。そして、いまや窮地に陥っている、戦争法案の救出に手を貸そうというシナリオが見え見えである。
しかし、ここはよく考えた方がよい。自公と組むメリットばかりに目が行っているようだが、それは確実に滅びの道なのだ。権力の甘い腐臭の誘惑の先には、食虫植物の餌となる昆虫の運命が待ち受けている。
我が身を安倍政権と与党に売り込むには、いまがもっとも高価に値を付けることができる時期との打算。しかし、安倍政権に手を差し伸べることは、憲法と平和を売り渡すことであり、そしていまや世論に背を向けることでもある。
戦争法案の違憲性は、既に国民に広く浸透し確信にまでなっている。丁寧に説明すればするほどボロが出てくる。安倍は、丁寧にはぐらかし、丁寧に都合のよい部分だけをオウムのごとくに繰り返してきたが、それでもこの体たらく。いまや、誰の目にも愚かで危険なピエロとなり下がってしまっている。
政府が法案を合憲と強弁する根拠は完全に破綻した。まさしく「違憲法案のゴリ押し」「憲法の危機」の事態が国民の目に明らかとなり、法案撤回を求める国民世論は大きく盛りあがっている。やや反応が鈍かったメディアもようやくにして重い腰をあげつつある。このとき、まさかの伏兵として維新が安倍政権に手を貸そうというのだ。
「維新の党が今国会に提出する安全保障関連法案の対案の骨子が16日、明らかになった。集団的自衛権を使って中東・ホルムズ海峡で機雷を取り除くケースを念頭に、『経済危機』といった理由だけで自衛隊を送ることができないようにする。安倍晋三首相は同海峡での機雷除去に強い意欲を示しており、修正協議になった場合の焦点になりそうだ。対案は来週にも国会に提出する。」(朝日)
政府も与党も大歓迎で協議に応じることだろう。
おそらくは、維新はこう考えている。
「いまこそ、我が党の存在感を示すとき。数の力では自・公が圧倒しているのだから、この法案はいずれ通ることになる。それなら、少しでもマシなものにしておくことで、世論のポイントを稼げることになるはず」
維新は、戦争法案推進勢力と反対勢力との間に立って、「時の氏神」を気取っているのだろう。しかし、朝日が報道する維新の「対案」は、政府提案の腐肉にほんのひとつまみの塩を振りかけた程度のもの。腐肉は腐肉。法案違憲の本質はまったく変わらない。維新案はその実質において、憲法の平和条項に対する死の宣告に手を貸すものである。
維新の諸君よ、鋭敏な嗅覚で世論の法案反対の高まりを見よ。戦争法の成立に手を貸すことが、国民の大きな怒りを招き自らの滅亡に至ることを直視せよ。だから、こう一声かけざるを得ない。「君、死神となるなかれ」と。
(2015年6月17日)
溺れる者は藁をもつかむ。藁をつかんだところで詮ないことを知りつつもの人の性。昨日(6月15日)の記者会見で、長谷部恭男が語っている。政府が戦争法を合憲という論拠の説明についてである。「藁にもすがる思いで砂川判決を持ち出してきたのかもしれませんが、藁はしょせん藁、それで浮かんでいるわけにはいきません。」
砂川判決は、あれは藁なのか。藁に過ぎないのだが、そのほかに戦争法案を合憲というすがるべき根拠がなにもなかったから、やむなくこれにすがったというのだ。言い得て、まことに妙である。
ところが、政府はこの藁すらも捨てた。すがっても詮ないことを思い知らされたからだ。「衆院平和安全法制特別委員会は15日、一般質疑を行った。中谷元(げん)防衛相は、1959年の最高裁の砂川事件判決が集団的自衛権の行使容認を合憲だと判断する根拠になるかどうかについて『直接の根拠としているわけではない』と明言した」。藁とすがった砂川判決を捨てて、「中谷氏は『(根拠は)あくまでも72年の政府見解の基本的論理だ。砂川判決を直接の根拠としているわけではないが、砂川判決はこの基本的な論理と軌を一にするものだ』と答え、政府が個別的自衛権の行使を認めた72年見解が根拠との考えを示した」(以上、毎日)。
おや、72年見解の論理に説得力がなかったから、砂川判決を持ちだしたのではなかったの? いずれにせよ、「72年政府見解」は集団的自衛権行使違憲の説明でしかない。こりゃダメだ。同見解は藁よりか細い。いや、そもそも水に浮かない。
念のために、72年政府見解の末尾の部分を引用しておこう。
「わが憲法の下で武力行使を行うことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られるのであって、したがって、他国に加えられた武力攻撃を阻止することをその内容とするいわゆる集団的自衛権の行使は、憲法上許されないといわざるを得ない。」
ところで、今朝の東京新聞が紹介している、長谷部恭男・小林節共同記者会見のボルテージはたいしたものだ。お二人の、憂い・怒り・使命感・心意気が痛いほど伝わってくる。まことにその言やよし。とりわけ、戦争法が成立した場合の対応についての発言には驚いた。感嘆するしかない。
長谷部:国政選挙で新しい政府を成立させ、いったん成立したこれらの法律を撤回することを考えるべきだ。
小林:次の選挙で自民党政権を倒せばよい。最高裁判決を待つより、よほど早い。
「安保ハンタイ。安倍を倒せ」なのだ。
この会見に刺激されて、ひねってみたのが次の戯れ歌。
藁は藁 所詮頼りにならねども 大船なければ すがるやむなき
砂川のよどみに浮かぶわらひとつ つかみかねてぞ 安倍は沈まん
高村から岸田にそそぐ砂川の 中の谷にて枯れる安倍(あんばい)
砂川で 立憲主義の 浮き沈み
藁捨てて すがるは維新橋の下
自と公と維新もろとも 泥の下
(2015年6月16日)
戦争法案への世論の動向をはかるバロメータとして重要なものの一つが、地方紙の姿勢とその紙面構成である。第2次安倍政権発足直後の96条先行改憲の動きを止めたものが、2013年5月憲法記念日前後の地方紙各紙の圧倒的な批判の社説であった。
中央各紙の姿勢は、ほぼ色分けが固定している。地方紙の動向は、世論をはかる指標として意味が大きく、「地元」選出の議員に影響大なるものがある。だから、機会あるごとに地方紙を読むように心がけている。この感覚は、東京育ちにはつかみにくい。また、有力な地方紙・ブロック紙をもたない大阪人にもわかりにくいのではないだろうか。
本日、たまたま神奈川新聞を読んだ。一面トップ、紙面半分以上のスペースを割いて、「安保法案 自民OBも反対」「藤井氏『自公インチキ』」の記事。
「山崎拓・自民党元副総裁、亀井静香元金融担当相らかつて自民党に所属した議員や元議員の重鎮4人は12日、日本記者クラブで会見し、集団的自衛権行使を可能とする安全保障関連法案に反対の考えを表明した。山崎氏は「地球の裏側で後方支援活動をすると憲法違反になる行動を引き起こす。自衛隊と相手方が殺し合う関係になるのは間違いない」と述べた。
ほかに藤井裕久元財務相と武村正義元官房長官が出席した。山崎氏は「問題点が多々あり、十分な審議を尽くすべきで、今国会での成立に反対だ。平和国家としての国是は大いに傷つく」との声明も発表した。‥‥
共同通信の配信記事として、全国の地方紙を大きく飾っているはず。もっとも、トップ扱いの判断や関連記事は、神奈川新聞独自のもの。この記事は、神奈川同様、各「地元」で大きな話題となるだろう。保守系先輩議員からの忠言を、現役の議員諸氏はどう聞くのだろうか。
首都の地方紙・東京新聞は一面左上隅に、「自民OBら 反対表明」の見出しと4人の写真を掲げ、記事は3面にまわした。比較的扱いは小さい。その代わり、社会面のトップに、「砂川事件弁護団再び声明」と記者会見を大きく取り上げた。これまたすばらしい。時宜を得た記事で、これも戦争法案廃案を求める運動に大きく力を与えるもの。
この声明の最後は、「安倍首相や高村正彦副総裁の言説が無価値であり、国民を惑わすだけの強弁にすぎないことはもはや明白であるから、一刻も早く態度を改め、提案している安保法制(改正法案)を撤回して、憲法政治の大道に立ち返られんことを強く要求するものである。」と結ばれている。
記事は、「最高裁判決には集団的自衛権行使の根拠はない」「合憲主張『国民惑わす強弁』」という大見出し。
他国を武力で守る集団的自衛権の行使容認を柱とする安全保障関連法案について、政府が1959年の砂川事件の最高裁判決を根拠に合憲と主張しているのに対し、判決時の弁護団の有志5人が12日、東京都内で会見し、「裁判の争点は駐留米軍が違憲かに尽きる。判決には集団的自衛権の行使に触れるところはまったくない」とする抗議声明を出した。5人はみな戦争を知る白髪の八十代。「戦争法制だ」「国民を惑わすだけの強弁にすぎない」と批判し、法案撤回を求めた。
「白髪の八十代有志5人」の会見の写真が若々しい。坂本修、神谷咸吉郎、内藤功、新井章、山本博の各弁護士。
会見の冒頭。新井章弁護士は眼鏡を外し、鋭いまなざしを子や孫世代の記者たちに向けた。そして「事件の弁護活動をした私らは裁判の内容にある種の証人適格を持っている」と法律家らしく語り始めた…。
あとは省略するが、「集団的自衛権について砂川判決から何かを読み取れる目を持った人は眼科病院に行ったらいい」というフレーズが紹介されている。そう。飛蚊症(ひぶんしょう)という目の病気がある。ないものがあるように見えるのだ。トンデモナイものが、あたかも飛んでいるように見える。高村正彦さん、誰にも見えないものがあなたにだけは見えているようだ。そりゃたいへんだ。早めに眼科の診察を受けることをお勧めする。
(2015年6月13日)
6月6日、「立憲デモクラシーの会」パネルディスカッションでの、樋口陽一の発言に耳を傾けたい。
「日本の近代化は戦前まで、立憲主義がキーワードだった。ところが、戦後はひたすら民主主義を唱えていればいいという時代があった。立憲主義と民主主義は場合によっては反発し合う。民主主義とは、人民による支配であり、憲法制定権力になる。一方、立憲主義は人間の意思を超えた触れてはならないものがあるとの考え方に基づく」(6月10日東京新聞)
ここで指摘されているものは、民主主義と立憲主義の緊張関係である。戦前、民主主義を標榜することが困難だった時代、政治のキーワードは立憲主義だったという。樋口は、戦前の立憲主義を評価する立場だ。そして、今、立憲主義がないがしろにされていることを、憂うべき深刻な事態として警告を発している。
民主主義は、時の政権に暴走の口実を与える。ファシズムの母胎にもなり得る。これに歯止めをかけるものとして、多数支持だけでは乗り越えられない理念的なハードルとしての立憲主義の機能が期待される。安倍政権には、その自覚が欠けているのだ。
樋口が示唆する視点で戦前を顧みたい。寺内正毅という人物がいた。長州軍閥の出身で、初代の朝鮮総督を務めた。韓国併合の際に、「小早川 加藤 小西が 世にあらば 今宵の月を いかに見るらむ」という愚かな「歌」を詠んだいやな奴。そして、無益なシベリア出兵を決断して、将兵を無駄死にさせた首相でもある。戦前の植民地主義と軍国主義を象徴するごとき武断派の政治家。彼の内閣は政党政治に基盤をおかない超然内閣の典型ともされる。当時から、識見能力とも無能の評が定着し、民衆からの好感度すこぶる低かった。
この評判の悪い寺内が、当時のマスコミから「ビリケン宰相」と呼ばれていたことが興味深い。ビリケンとは、今は通天閣の名物としてしか知られていないが、アメリカ製の人形キャラクター。この人形に寺内の風貌が似ていたという。そのことに引っかけて、寺内を立憲主義を守らない政権担当者だという、「非立憲(ひりっけん)」の非難と揶揄の意味合いを込めたあだ名。ビリケンのキャラクター自身に罪はないが、たまたま「ひりっけん」という政治用語に発音が似ていた不運からの、ビリケンの受難であった。
石川健治(東大教授)も発言している。
問題提起したい。「合憲と違憲」とは別次元で語られる「立憲と非立憲」の区別についてだ。京都帝国大の憲法学者、佐々木惣一が、違憲とは言えなくても「非立憲」という捉え方があると問題提起した。今、ここに集まってこられた方は今の政治の状況に何とも言えないもやもや感を抱いていると思う。そののもやもや感を「非立憲的」と表現した。まさに今、非立憲的な権力と政権運営のあり方が、われわれの目の前に現れているのではないのか。
樋口が応えて発言を続ける。
現政権はまず憲法96条を変え、改憲発議に必要な国会議員数3分の2というハードルを下げようとした。まずこれが非立憲の典型。安保法案は提出方法そのものが非立憲だ。国民が集団的自衛権の議論に飽きたころに法案を提出し、国民に議論を提起せずに、憲法の質を丸ごと差し替える法案を提出した。さらに安倍晋三首相は米国の議場で、日本の国会に提出もしていない安保法案について、夏までに必ず実現すると語った。これは憲法が大前提としている国民主権にも反する。
東京新聞は、この紹介記事に「法律をまず変え、それに合わせ改憲 これはまさに非立憲的な事態だ」と見出しを打った。
寺内正毅と安倍晋三、時代は違うが似たもの同士。出自は長州、「我が軍」大好き。やることすべてが「非立憲」。
「安倍・非立憲内閣」、「安倍・非立憲首相」、「ザ非立憲・安倍」「非立憲政治家・安倍晋三」…。安倍には非立憲がよく似合う。それにしても、ヒリッケンとは、発音しづらい。ビリケンとはよく言った。いまの世に、もはやビリケンのキャラクターイメージはない。けれども、語感の軽さと揶揄の響きだけは十分に残っているではないか。
そんなわけで、謹んで「安倍・ビリケン内閣」の御名をたてまつることとしよう。
(2015年6月12日)
平家滅亡の壇ノ浦の合戦。緒戦の平家優勢は潮の流れの変化とともに逆転したとされる。平家物語には潮の変化についての記述はないが、「巻十一 壇ノ浦の事」に次の印象深い一節がある。
「門司・赤間・壇ノ浦は、たぎりて落つる潮なれば、平家の船は、心ならず、潮に向かって押し落さる。源氏の船は、自ら潮に追うてぞ出で来たる」
潮の勢いに乗る源氏と、逆流に押される平家の明暗がくっきりと書き分けられている。戦争法案についての国会の審議も、潮の流れが逆転した。今は、護憲勢力が潮に乗って、安倍改憲勢力を追撃のときだ。緒戦は優勢だった政権・与党を、「たぎりて落つる潮に向かって押し落とす」ことができそうな状勢ではないか。
壇ノ浦では、潮の変化が阿波民部重能の寝返りを誘う。続いて、「四国鎮西の兵ども、皆平家を背いて、源氏に附く。今まで随い附きたりしかども、君に向かって弓を引き、主に対して太刀を抜く」「源平の国争ひ、今日を限りとぞ見えたりける」となる。これが戦だ。勢いの赴くところ、如何とも抗いがたい。
憲法学者の断固たる違憲論が世間の耳目を集めた。6月4日衆議院憲法審査会での3参考人全員の発言。次いで、6月6日立憲デモクラシーの会での樋口陽一・佐藤幸治という東西両権威の重ねての違憲発言。そして、戦争法案の撤回を求める憲法研究者署名に200名を超える賛同。重要なのは、これらの動きが大きく報じられ、話題になっていることだ。
これまでも、日弁連を筆頭として多くの団体が反対声明を出している。おそらくは、これから爆発的に増えるだろう。自信を持って違憲な法案と言える状況なのだ。遠慮なく、組織内の反対派・躊躇派を説得できるだろう。街頭の動きも勢いを増している。メディアも意気軒昂だ。なるほど、これが勢いというものなのだ。
このような動きが、国会に反映しないはずがない。安倍内閣の中枢はともかく、自民党の議員も支持者の不安の声に答えなければならない。政治家たる者、風を見、潮を読まねばならない。安倍と心中する義理あいのない政治家は、こぞって、「皆平家を背いて、源氏に附く」。「今まで安倍に随い附きたりしかども、安倍に向かって弓を引き、与党に対して太刀を抜く」ことになるだろう。
壇ノ浦では、矢見参のエピソードがいくつか語られている。腕に覚えの豪の者が、自分の矢に記名して強弓で敵陣に遠矢を射込むのだ。すると、敵方も負けじとその矢を遠く射返して武勇を競ったという。国会もよく似た話になっている。
昨日(6月9日)、政府は劣勢挽回のために安保関連法案が違憲ではないとの「合憲見解」を野党に発表した。文書は2種類、「新3要件の従前の憲法解釈との論理的整合性について」と、「他国の武力の行使との一体化の回避について」。前者が集団的自衛権行使に関わる問題、後者が外国軍隊への後方支援の問題。両者ともに、内閣官房と内閣法制局の連名。
麗々しく連名の記名矢2本を、政府側から野党陣営に射込んだ図である。さて、強弓によるものとして敵陣を震え上がらせるほどの遠矢であったろうか。野党陣営は、さっそくこの矢を拾って、射返そうということになっている。矢見参のひょろひょろ矢が強弓によって射返され、記名矢で味方が傷つくこともある。このことは大きな恥とされたようである。「合憲見解の2本の矢」、一見したところ大したものではなさそうだ。射返されれば政府が傷を深めることになるだろう。
もっとも、射返す矢の勢いは国民が強くもし弱くもする。潮の流れをつくり出すのも国民だ。傍観者としてでなく、どのような形でも「戦争法案反対」の声を上げようではないか。
(2015年6月10日)