アベ君。私は恥ずかしい。高校生のキミに歴史を教えたのは私だ。キミの歴史への無知は私にも責任がある。なんともお恥ずかしい限りだ。
これまでもハラハラし通しだった。キミの歴史や社会に関する知識が乏しいこと、ものの見方の底の浅いことは私がよく知っている。それでも、今までは周りが上手に支えてくれて、たいしたボロを出さず乗り切ってきた。私は感心していた。周囲のフォローの努力と力量にだ。しかし、やっぱり浅い底が割れた。
キミは、ポツダム宣言もカイロ宣言も読んだことがないと国会で言っちゃった。もっとも、「そんなもの知らないよ」「読んだことないんだ」と率直には言わなかった。「私はまだ、その部分をつまびらかに読んでおりませんので、承知はしておりません」と、ちょっとヘンな日本語で格好をつけてはみたが同じことだ。
今にして思う。高校生の時に、キチンとキミの歴史と社会の成績に落第点をつけて、留年させておくべきだった。そのうえで、まっとうに勉強させておくべきだったのだ。それがキミのためでもあったし、日本の国民のためにもなったのだ。不勉強なキミを及第させ、卒業させてしまったことがまちがいだった。まことに残念だ。
どういうわけか、キミは憲法と言えば、大日本帝国憲法のことしか頭になかった。古い憲法と、五ヶ条のご誓文だけはよく覚えていたようだ。それから、お祖父さんが活躍した満州には関心があったようだ。しかし、ポツダム宣言受諾と敗戦、それに続く戦後の諸改革、日本国憲法の制定、そして戦後民主主義に関しては、ちっとも勉強をせなんだ。キミの頭の中では、日本の歴史は1941年12月8日あたりで止まっているようだった。ポツダム宣言やカイロ宣言など、そのあとの出来事はキミの気に入らないこととして知る気にも読む気にもなれないのだろうな。
昨日(5月20日)の党首討論での志位和夫の質問は、次の通りだ。
志位 戦後の日本は、1945年8月、「ポツダム宣言」を受諾して始まりました。「ポツダム宣言」では、日本の戦争についての認識を二つの項目で明らかにしております。
一つは、第6項で、「日本国国民ヲ欺瞞(ぎまん)シ之ヲシテ世界征服ノ挙(きょ)ニ出ヅルノ過誤」を犯した勢力を永久に取り除くと述べております。日本の戦争について、「世界征服」のための戦争だったと、明瞭に判定しております。日本がドイツと組んで、アジアとヨーロッパで「世界征服」の戦争に乗り出したことへの厳しい批判であります。
いま一つ、「ポツダム宣言」は第8項で、「『カイロ』宣言ノ条項ハ履行(りこう)セラルベク」と述べています。
「カイロ宣言」とは、1943年、米英中3国によって発せられた対日戦争の目的を述べた宣言でありますが、そこでは「三大同盟国は、日本国の侵略を制止し罰するため、今次の戦争を行っている」と、日本の戦争について「侵略」と明瞭に規定するとともに、日本が「暴力と強欲」によって奪った地域の返還を求めています。
こうして「ポツダム宣言」は、日本の戦争について、第6項と第8項の二つの項で、「間違った戦争」だという認識を明確に示しております。
総理におたずねします。総理は、「ポツダム宣言」のこの認識をお認めにならないのですか。端的にお答えください。
こりゃ、答えは簡単だ。「当然、認めます」「当たり前の話ですよ」で済む問題だ。しかし、キミは「ポツダム宣言の認識をその通りに認める」ことはできないのだ。しかも、その理由を説明し反論するだけの知識も能力もない。だから、キミの返答は次のような、ちぐはぐなものになってしまった。
アベ この「ポツダム宣言」をですね、われわれは受諾をし、そして敗戦となったわけでございます。そしていま、えー、私もつまびらかに承知をしているわけでございませんが、「ポツダム宣言」のなかにあった連合国側の理解、たとえば日本が世界征服をたくらんでいたということ等も、いまご紹介になられました。私はまだ、その部分をつまびらかに読んでおりませんので、承知はしておりませんから(議場がざわめく)、いまここで直ちにそれに対して論評することは差し控えたいと思いますが、いずれにせよですね、いずれにせよ、まさにさきの大戦の痛切な反省によって今日の歩みがあるわけでありまして、われわれはそのことは忘れてはならないと、このように思っております。
聞かれたのは、「間違った戦争だというポツダム宣言の認識を肯定するのか否定するのか」ということだ。結局キミは認めるとは言わなかった。歴史的経過として、日本が同宣言を受諾をして敗戦となった事実は認めるとは言ったが、そんなことは聞かれていない。問題は、戦争の評価だ。私は、教師として口を酸っぱくして、キミに教えたはずだ。あの戦争は侵略戦争であり、植民地拡大のための戦争だった。これを誤りとして反省するところから戦後日本は再出発し、近隣諸国にも迎え入れられたのだ。キミはどうして、「あの戦争は間違いだった」と言えないのか。「カイロ宣言やポツダム宣言に書いてあるとおりだ」と言おうとしないのか。ヘンな教え子をもってしまった私は不幸せだ。
キミの昨日のこの答弁のニュースは、アメリカにも届いていることだろう。キミは先日、アメリカの上下両院合同会議で演説したそうだ。その席で、「カイロ宣言やポツダム宣言に書いてあるところはつまびらかにしませんので、その評価は差し控えます」と口走ったらどうなっていただろう。おそらくは、議会の空気が凍り付いたろう。そして、その瞬間に日米関係に亀裂が走ったことだろう。昨日の発言が「日本の国会でのことだったから、どうせたいしたことではない」と、キミは言うのだろうか。
私の周囲では、これが今年の流行語大賞の有力候補と騒ぐ者が多い。「つまびらかに読んでおりません」あるいは「つまびらかに承知はしておりません」というフレーズだ。首相の無知あるいは不誠実が物笑いのタネになっている。一部では、これで大賞は決まりも同然とまことしやかにささやく者さえある。もっとも、私もその部分についてはつまびらかにしないのだが。
(2015年5月21日)
追記
上記の記事に思いがけない反応を得た。最初に、「もちろんパロディである」と注記しての引用ブログが目についた。「わざわざパロディと断りが必要なのかな」といぶかしんでいたところ、「澤藤さんは弁護士になる前に高校の教員をしていた経験があるのですか」「まさかとは思いますが、本当に安倍さんを教えたことがあるのですか」という問合せを受けて唖然とした。大方に誤解はないと思うが、この読者サービスの趣向を真実の体験と読み違えることにないように追記しておきたい。
私に安倍晋三首相の教師としての実体験があったとしたら、それこそ慚愧に堪えない。とても恥ずかしくて、公表できるようなことではない。フィクションだからこそ、軽く書けるのだ。
私が語らせた高校教師像は、戦後民主主義の体現者の象徴である。その理念の承継に必ずしも成功せず、その内側から民主主義の攪乱者を生みだしたことに呻吟する存在なのだ。そのような寓意を汲み取っていただきたい。
(2015年5月25日)
大阪市民を二分した「都構想・住民投票」の狂騒は、いったいなんだったのだろうか。問われたものは、大阪都構想の当否でも大阪市の解体の是非でもなかったようだ。実は、民主主義の質が問われたのではなかろうか。
通常の政治課題では強者と弱者との対立構造が分かり易い。権力対民衆、資本対労働、事業者対生活者、中央対地方。あるいは、富者と困窮者、社会的多数派と少数派、人種・民族的な対立、地域間格差、産業間の力量差、大企業対中小企業等々、対立者間の力関係の格差が紛争の中に明瞭となる。
基本的には、現行の経済構造とこれに照応した政治的秩序を擁護しようとする体制派と、現行秩序を不満とする革新派のせめぎ合い、という図式を描くことができよう。しかし、大阪都構想をめぐる政治的な抗争はこの図式とは異なっているように見える。私は、現体制には大いに不満な「革新派」の一員をもって任じてはいるが、「都構想の実現によって大阪の現状を変革しよう」という立論には与しない。
常識的には、「体制擁護の自民党」と「反体制の共産党」の二極を軸として、いくつかの政党がバラエティをもって並立する。この二極を基軸として、政治課題全般がせめぎ合う。ところが、今回、市民を真っ二つにしたテーマで、自・共が共闘しているのだ。
この共闘現象を「反ファシズム統一戦線」になぞらえて説明してよいのか。実のところ、よくは分からない。橋下的なポピュリズムが不気味で警戒すべきものであることは明らかだが、ファシズムないしはその萌芽と規定できるほどのものであるかは分からない。分からないながらも、指摘できることはいくつかある。
大阪都構想なるものは、実は新自由主義的構造改革にきわめて親和的である。というよりは、財界が求めてやまない道州制実現の橋頭堡として位置づけられたものである。その意味では、中央資本にも政権にも都構想は歓迎すべき政策なのだ。道州制とは、道洲に福祉や教育などの金のかかる住民サービスを押しつけて、国の荷物を軽くしようとするもの。当然に各道州間で大きな住民サービスの格差が生じるが、中央資本にとっての負担軽減策として断然有利になることは明らかなのだ。
村井宮城県知事と橋下大阪市長とは「道州制推進知事・指定都市市長連合」の共同代表を務めている。「道州制に向けて歩みを進めているリーダーを失った。道州制(実現)への影響は間違いなく出る」という村井知事のコメントが産経に紹介されている。
また、橋下の地域振興政策の目玉がカジノ(IR)誘致構想であったことは周知の事実。そのような意味では、大阪都構想をめぐっては、「資本(ないしは中央資本)の利益」対「地域コミュニティの利益」の対立構造があったことは疑いがない。だから、都構想支持派には意識的な新自由主義推進派が含まれている。自民党支持層の4割が、賛成派にまわったのも頷けるところ。また、維新・橋下の「日の丸・君が代」強制や、労働組合への嫌悪の徹底ぶりは、右翼勢力からのシンパシーも得たことだろう。
とはいえ、大阪都構想賛成派の市民は、新自由主義派や右翼ばかりではない。大阪の現状に不満を募らせた多くの人々が、これが大阪発展の青写真と煽られ、その展望に賭けてみようという気持にさせられたのだ。ベルサイユ体制に鬱屈していたドイツ国民がナチスの煽動に乗って、ヒトラーを支持した構図と似ていなくもない。昭和初期の不況に喘いだ日本国民が「満蒙は日本の生命線」というフレーズに心動かされた歴史を思い出させもする。
さて、問題はここからである。一人ひとりが責任ある政治主体として維新から示された「青写真」や「展望」をじっくり見据えて自分の頭で判断しようとするか、それとも、人気者が香具師の口上さながらに語りかける政治宣伝にお任せするか、そのどちらをとるかなのだ。生活の困窮や鬱屈の原因を突きつめて考えるか、考えるのは面倒だからさしあたりの「既得権者攻撃」に不満のはけ口を提供するポピュリストに喝采を送るか、という選択でもある。
前者を本来的な民主主義、後者を擬似的民主主義と言ってよいだろう。あるいは、理性にもとづく下からの民主主義と、感性に訴えかける上からの煽動による民主主義。成熟度の高い民主主義と、未成熟な民主主義。正常に機能している民主主義と、形骸だけの民主主義。独裁を拒否する民主主義と、独裁に根拠を与える民主義。本物の民主主と偽物の民主主義、などとも言えるだろう。
今回の狂騒が意味あるものであったとすれば、民主主義の質について考える素材が提供されたということであったと思う。
なお、個人的に興味を惹かれたことを一点。自民党大阪府連は果敢に橋下都構想を攻撃した。そのホームページでは、自民も維新もともに道州制賛成であることを前提に、道州制とは矛盾するものとして都構想を非難している。党中央とはねじれた判断である。ここには、体制派内部の中央と地方(ないし地域)とのねじれを読み取ることができるだろう。
なお、自民党中央と地方自民党とは、相当に主張も肌合いも異なるのではないか。地方の票が積み重なって中央を形作るが、実は中央の方針を貫徹していては、地方では票にならない。自民党とは、そのあたりを柔軟に対応する術を心得てこれまではうまくやって来た。しかし、沖縄でも大阪でも、党中央と地方組織との矛盾が覆いがたいものとなった。TPPでも、復興でも、農業再生でも、漁業振興でも、あるいは原発再稼働でも同様だ。その他福祉でも教育でも、多くのテーマで自民党の中央は地方党活動家の意識と乖離せざるを得ないというべきなのだ。
保守陣営の中での「地方の反乱」の芽は確かに育まれている。はからずも、今回沖縄だけでなく大阪においても、自・共の共闘までもが可能であることが教えられた。このことも、きわめて意義の深い教訓である。
(2015年5月20日)
確認しておこう。5月15日政府が国会に提出した新法「国際平和支援法案」と、下記10法の一括改正を内容とする「平和安全法制整備法案」について、当ブログは「戦争法案」と呼ぶ。
・武力攻撃事態法改正案
・重要影響事態法案(周辺事態法を改正)
・PKO協力法改正案
・自衛隊法改正案
・船舶検査法改正案
・米軍等行動円滑化法案
・海上輸送規制法改正案
・捕虜取り扱い法改正案
・特定公共施設利用法改正案
・国家安全保障会議(NSC)設置法改正案
「国際平和」や「平和安全」はまやかしであって、「戦争法案」という呼び名こそがこの法案の本質を表している、そう考える理由を述べておきたい。
私の認識では、憲法9条は1954年自衛隊創設によって「半殺し」の目に遭った。「陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない」はずの日本が、常識的には治安警察力を遙かに超える軍事力をもったのだ。違憲の状態が生じたことは誰の目にも明らかだった。しかし、このとき憲法9条は死ななかった。しぶとく生き延びた。
このときから、自衛隊は、「国に固有の自衛権を行使する実力部隊であって、憲法にいう戦力には当たらない」とされた。自衛隊の発足と当時に、参議院では全会一致で、「自衛隊の海外出動を為さざることに関する決議」が成立してもいる。自衛隊の任務は、専守防衛に徹することとされ、その限度を超えた装備も編成ももたないことが確認されたのだ。
このとき、非武装に徹することによって平和を維持しようとした憲法9条の理念は大きく傷ついたが、「専守防衛」というかたちでは生き残ったと評価することができよう。
その後、「自衛隊を一人前の軍隊にせよ」「そのためには9条改憲を」という外圧は強かった。この「押しつけ改憲」と闘い、せめぎ合って、日本の国民世論は9条を守ってきた。そのため、自衛隊が防衛出動に踏み出せるのは、国土が侵略を受け蹂躙されたときに限られた。だから、自衛隊は、外征や侵略に必要な武器の装備はもてなかった。外国に派遣されたことはあっても、海外での戦闘行為はできなかった。満身創痍の憲法を活用し、9条の旗を押し立てた国民運動とそれを支えた国民世論の成果であったと言えよう。
歴代の保守政権も9条をないがしろにはしてこなかった。「右翼の軍国主義者」が首相に納まるまでは…、のことである。
今までは、自衛隊が武力を行使する局面は、「我が国土における防衛行為」としてのものに限られていた。飽くまでも、必要な限りでの自衛・防衛行為であって、これを戦争とはいわない。しかし、集団的自衛権の行使となれば、まったく話しは違ってくる。他国の戦争の一方当事者に加担して、自らも戦争当事国となるべく買って出て、武力を行使することになる。これは明らかな戦争加担行為にほかならない。
「戦争をしないから9条違反の存在ではない」とされてきた自衛隊に、戦争をさせようという法案だから「戦争法案」。この呼び方が、体を表す名としてふさわしいのだ。かくて、戦争法が成立すれば、これまでしぶとく生き残ってきた「半殺し」状態の9条に、トドメが刺されることになる。
5月14日閣議決定、15日国会に法案を提出。本日(19日)は、衆議院本会議で戦争法案審議のための特別委員会設置が可決された。自民・公明の与党のほかに賛成にまわったのは次世代の党。これで法案の集中審議が可能となった。小さいながらも次世代の党は、与党単独採決と言わせないための「貴重な」役割を演じている。委員は45名。自民28、民主7、維新4、公明4、共産2。委員長に浜田靖一元防衛相、筆頭理事には江渡聡徳前防衛相や長妻昭・民主党代表代行らが就任した、と報じられている。民主と共産に期待するしかない。
子どもの頃を思い出す。父が戦地の苦労を語り、母が銃後の辛酸を口にする。幼い私は、父母の心情をよくは分からないままに、「そんな戦争には反対すれば良かったのに」と言う。母が、「そんなことはとても言えなかった」「言えるような時代ではなかったんだよ」と呟く。父も母も、積極的に戦争に賛成した人ではない。しかし、戦争反対と言った人でもなく、反対と言える時代を作る努力をした人でもなかった。平均的庶民の一人として、応分の責任を持たねばならない世代に属していた。
いま時代は、あの戦争における戦前のターニングポイントあたりにあるのではなかろうか。戦争に反対と今なら言える。が、この言論の自由はいつまでもつか、見通せない。
戦争に反対、戦争を選択肢となし得る国とすることに反対。戦争のための教育に反対、防衛秘密法制に反対。戦争に反対する言論への封殺に反対。声を上げ続けなければならない、と思う。
何よりも、今は「戦争準備の法案に反対」と声を大きくしなければならない。新たな戦後を作らないために。また、次の世代から、「そんな戦争には反対すれば良かったのに」と言われることのないように。
(2015年5月19日)
大阪都構想は夢のまた夢、露と消えた。維新は落城し、城主はあえなく切腹を約した。まずは目出度い。
目出度いとは、なによりも大阪市民府民のために喜ぶべきだが、憲法の命運にも明るい萌し。「橋下徹?安倍晋三・最悪コンビ」による改憲推進の構想はなくなったと考えて良さそうだ。これで維新内での橋下の重しがとれて、親安倍政権グループの勢力が殺がれ、反政権派がイニシャチブをとるとすれば、ずいぶんマシになるのではないか。
とは言え、住民投票結果の僅差には驚きを禁じ得ない。橋下にもう少しの魅力があれば、ブレーンにもう少しの智恵者がおれば、なんらかもう少しのパフォーマンスが加わっていれば、勝敗の結果は変わり得たと言わねばならない。あるいは支援者の身内を特別秘書にして薄汚い公費を渡すなどのスキャンダルがなければ、あるいは従軍慰安婦問題での馬鹿げた「ホンネの失言」などがなければ、都構想が実現して彼がなお、政治家として居直っていたかも知れないのだ。
げに「民主主義」とは恐ろしいもの。あんなまやかしの、底の浅い提案が紙一重の差で通っていたやも知れないのだ。大阪都構想が半数近くの市民の賛意を得たことについては、今後の正確な検討が必要であろう。
おそらくは、多くの市民府民が大阪の現状には不満を募らせていた。これまでの市政府政の責任は大きい。中央政治担当者も同罪だ。鬱屈して不満な市民の感情は、「どんな方向にであろうとも、ともかく現状の変更を」という思いとなって、クサイクサイ橋下劇場の演技を支持したということなのだろう。橋下のしたことは、鬱屈した市民府民の不満の感情に火をつけたことなのだ。それも、乱暴極まるやり方でである。
民主主義とは、本来が理性にもとづく政治過程である。冷静で知性をもった主権者が、十分な情報を得たうえで、自由な討議を重ねて結論への到達を目指す。その意味では「熟議の政治」である。そのうえで、衆議一決しない場合には多数決でことを決する。そのルールが想定しているものは衆愚政治ではなくポピュリズムでもない。民衆の未成熟な歪んだ感性に訴えて、支持を獲得することは、民主主義の本来が想定するところではない。
橋下流の民衆支持獲得術は、意識的に敵対者を作りだし、その攻撃に鬱屈した民衆を動員して、負の感情を刺激し満足感を与えることにある。その攻撃対象とされる「敵」は、けっして本当に責任のある権力や権威の中枢とはならない。政権や財界や天皇制が、民衆の困窮や不満の根源として指摘され、攻撃されることはない。
「敵」として、バッシングの標的とされるのは、公務員であり、教員であり、労働組合である。庶民にとってほんの少しだけ安定したよい生活をし、ほんの少しだけ気取った生活をしている、嫉視の相手として恰好の階層を、既得権者だと決めつけてイジメの対象とする。これが、庶民のカタルシスとなり、支持獲得に効果抜群なのだ。違憲・違法、あるいは不当労働行為の手段まで使って、徹底してイジメることこそ橋下流であり、維新流なのだ。
これまで維新の勢力拡張は、民衆の中にあるこのような負の感性部分を覚醒し増幅し、カタルシスを味あわせることに依拠してきた。これで、知事選を勝ち、市長選を勝って、都構想でもあわやというところまで漕ぎつけたのだ。
つまりは、民主主義が本来的には想定していない手口での、民衆の支持獲得に、ある程度まで成功を収めた。今回、橋下は政界からの引退を誓約した。橋下はいなくなるが、橋下のような政治家はあとを断たないのではないか。
このような危険な政治家と危険な政治手法を、今後は徹底して警戒しなければならない。それが、投票結果僅差の教訓である。
(2015年5月18日)
これまで、食品業界の不祥事は星の数ほどあった。カネミ油症や森永ヒ素ミルクのような「大事件」ばかりではなく、マクドナルド、雪印、赤福、船場吉兆、白い恋人など枚挙に暇がない。そんなことに遭遇しない自分を幸運だと思っていた。ところが、自分にかかわる問題として食の安全を意識する事件に遭遇した。その顛末をご報告する。
問題食品の製品名は「明治 北海道十勝カマンベールチーズ」。製造業者は株式会社明治。このチーズに髪の毛が混入していたことが報道された。その報道の2日前、同様製品をたまたま購入していたのだ。私の購入したチーズにも髪の毛が混入しているかどうかは、「開封していないから分からない」としか言いようがない。たとえ、髪の毛混入がなくても、とても不快で食べる気はしない。
事件の顛末は、以下のごとくである。
先月(4月)25日の午後。ある男性が、熊本県天草市にあるスーパーでチーズを買った。「明治 北海道十勝カマンベールチーズ」である。そのチーズに、髪の毛が埋め込まれた状態で混入していた。男性はこれを動画に撮影した上で、製造・販売元の明治に連絡した。その後12日を経過した今月8日、同社から電話で回答があったという。「検査の結果、チーズに混入していたのは髪の毛だった」「原因は調査中」とのこと。
この件は5月11日TBSで報道され、私はそのことを同日ネットで知った。
http://news.tbs.co.jp/newseye/tbs_newseye2489405.html
http://headlines.yahoo.co.jp/videonews/jnn?a=20150511-00000024-jnn-soci
たまたま私が購入したチーズも同じ「明治 北海道十勝カマンベールチーズ」。成り行きを注目したが続報はなく、明治のホームページを見てもなんの関連情報の掲載もない。
そこで仕方なく、明治のお客様相談センターに電話をかけてみた。5月13日のことだ。担当の小池忠郎氏(センター・課長)の曰く、「私どもといたしましては、万全を期して製造しております。ですが、人間のしていることですので・・。あの髪の毛の入ったチーズについての情報は私どもがTBSに提供したものではありません。その原因につきましては鋭意調査中でございます」。なお、問題の髪の毛混入チーズは、同じ「明治の北海道十勝カマンベールチーズ」ではあるが、私が購入したものとは違って、分割包装されている「切れてるタイプ」というもののようだ。製造工場も違うとの指摘があった。
製品のタイプの違いは下記のとおり。
http://catalog-p.meiji.co.jp/products/dairies/cheese/020304/4902705060050.html
「それでは調査結果の公表を待ちたいと思います。ホームページに掲載してください」と要請すると、本来そのような予定はないという態度だったが、シブシブ「社内で検討いたします」とまで譲歩した。そしてその2日後(5月15日)に、小池氏から電話がかかってきた。
「この件は製造過程ではなく、包装中に髪の毛が入ったということで、当該のお客様には納得していただきました。人間が作っているものなので、ミスの可能性は否定できません。しかしながら、当社としてはそのことについてホームページに載せるとか、公表することはいたしません。この件では当該のお客様とだけ個別に対応が必要と認識しており、ご納得いただいたことで解決済みとなりました」と、きっぱりとした明快な報告であった。
「ネットで公開された写真を見た限り、髪の毛はチーズに陥入して、埋め込まれている状態ではありませんか。包装中に混入したというのはとうてい考えられない」「事故製品を買った方が『納得した』というのも到底信じられない」「私の購入チーズは、違う工場で造られたからといって、気味が悪く食べる気はしない。送りますのでせめて代金を返してください」と言うと、「金属片が入っていたわけでもなく、健康被害があったわけでもないので、その要望にはお応えできません」とこれも歯切れよく断られた。「チーズは食べようと捨てようとお客様のご判断次第です」ともいわれた。とりつく島がないとはこのこと。
あっけにとられるばかりでは芸がないので、「明治」について調べてみる気が俄然わき起こってきた。こんなときインターネットは便利である。「明治」のホームページには立派な言葉が並んでいる。相談室の対応に接した後では空虚な美辞麗句としか思えない。
以下はホームページに記載された会社の方針から抜粋したもの。
http://www.meiji.com/corporate/management/philosophy/
◇「グループ理念」
「私たちの使命は『健康・安心』への期待に応えていくこと。私たちの願いは『お客様の気持ち』に寄り添い、日々の『生活充実』に貢献すること」
◇「経営姿勢」
「『高品質で安全安心な商品』を提供すること。『透明・健全で社会から信頼される企業』になる」
羊頭狗肉とはこのこと。「明治」および小池氏の慇懃無礼な対応は、「お客様の気持ちに」寄り添っていない。「安心安全な商品」を提供していないし、誠実に説明責任を果たそうとしない態度は「透明・健全で社会から信頼される企業」の姿勢とはほど遠い。
◇「品質マネジメントシステム」
「食品メーカーとして製品の安全性を担保することは基本中の基本です。当社はフードチェーン全体に存在するリスクを顕在化して、リスク評価を行い、リスクを許容できるレベルまで合理的に低減するための手順を決定し実行しています」
この部分は理解に苦しむ文章。「人間のやることですので髪の毛一本くらい仕方がないでしょう」という言い訳を社の方針として述べているのかとも読める。
なお、小池氏が「金属片」という言葉を出していたが、それは、「明治」が2010年8月に金属片の入った疑いのあるチーズ23万個を自主回収した前科を指していたのだということを、インターネットが教えてくれた。もちろん、明治のホームページには、そんなことの片鱗も掲げていない。
明治の担当者が、「あなたの購入製品は事故を起こした製品ではない」と言った途端から、明治と私とは、具体的な事故の当事者の関係であるよりは、事業者と一般消費者との関係に転化した。
最後は次のように、こちらからしゃべった。
「消費者の一人として申しあげるが、食の安全については万全を期してもらわねばならない」「現実に事故が起こったのだから、真摯にその原因を調査して公表し、再発を防止する策を明確にしなければならない。そのことが、消費者の信頼を回復する唯一の手段ではないか」「一個のチーズに髪の毛が混入していたことは、製造工程の異物混入防止策が不十分なことを物語っている。髪の毛だけではなく、フケでも、汗でも、唾液でも混入した可能性を否定できない」「真摯な事故対応があって、信頼できる調査結果が発表されれば、事故は限定的なものだったと納得ができる」「しかし、今回の明治の対応は、社の隠蔽体質を露わにしたと言わざるを得ない」「これでは、他のチーズにも、チーズ以外の他の食品にも同様事故があったのではないか。多くの事故を個別の対応でこっそり解決して、隠蔽し続けてきているのではないか。いったいどれだけの事故が個別対応でこっそり処理されているのだろうか。そう疑われても仕方なかろう」
結局は、のれんに腕押しの相手に、当方の住所氏名を名乗り、ブログに顛末を掲載すること、以後明治の製品は買わないこと、「カマンベールチーズ」は記念にとっておくことを告げて電話を切った。消費者は非力である。読者諸氏には明治の製品にはくれぐれもご注意をと申し上げる。
現代の社会では、ほぼすべての人の生活が全面的に事業者によって提供される商品またはサービスに依存してなり立っている。衣食住から、医療・教育・情報・趣味の分野まで、すべてが商品を購入せずにはなり立たない。しかも、高度に複雑化し専門化した商品やサービスの安全性や耐久性は消費者には解明しがたい。消費者、つまりは生活者の生活の質や安全が、事業者の提供する商品に依存しているということだ。
事業者は自社が製造し販売する製品の利便性と安全性を喧伝し、消費者はこれを信頼して購入する。ところが、時としてこの製品に対する信頼が裏切られることがあって、社会問題となる。とりわけ、食品や医薬品の安全問題が、消費者の生命や健康に直接かかわる問題として、重要である。食品事故は、消費者共通の利害にかかわる社会的重要事として、隠蔽されてはならない。
消費者は、事業者に事故情報の開示を求めよう。積極的に事故情報を発信し交換し共有しよう。もちろん、できるだけ正確にである。そのことが、消費生活の安全に資することにつながる。
(2015年5月17日)
(内閣広報官)本日は、皆さまからのご要望で、御質問にお答えするかたちで特別に総理がホンネを語ります。オフレコのお約束は厳格にお守りいただくよう、特にご注意ください。違約の社には、官邸から調査がはいることもありますことを事前に警告申し上げます。では、ご質問をどうぞ。
(記者)幹事社から質問いたします。
閣議決定された安全保障関連法案ですが、報道各社の世論調査では、賛否が分かれて、慎重論は根強くあると思います。また、野党からは、集団的自衛権の行使の反対に加えて、先の訪米で総理が議会で演説された「夏までに実現する」という表明についても、反発の声が出ております。総理はこうした声にどうお答えしていく考えでしょうか。
(総理)国民の命と平和な暮らしを守ることが、政府の最も重要な責務であります。我が国を取り巻く安全保障環境が一層厳しさを増す中、あらゆる事態を想定し、切れ目のない備えを行う「平和安全法制」の整備は不可欠である、そう確信しています。ですから、国民のために法案の成立を早期に実現するよう努力いたします。
あらゆる世論調査で、国民が集団的自衛権の行使容認に反対ないしは慎重の結果となっていることはよく心得ています。しかし、国民の命と幸せな暮らしを守るために、この法整備を断固としてやり遂げなければならない。それが政権を預かるものの使命と考えています。
もちろん、国民の皆さまに、しっかりとわかりやすく丁寧に審議を通じて説明をしていきたいとは思います。しかし、いつまでもグズグスしているわけにはまいりません。民主主義のルールに従って、予め予定された期間の議論が終了すれば、粛々と多数決で決着をつけねばなりません。
先般の米国の上下両院の合同会議の演説において、「平和安全法制の成立をこの夏までに」ということを申し上げました。これは、国際公約ですから、国民の納得よりも優先させねばなりません。「夏」とは、常識的に8月末までにということですから、それまでに衆参両院の審議と議決を済ませる覚悟です。国民への説明を丁寧にする、委員会や本会議での審議を尽くすというのも、時間を区切ってのこととならざるを得ません。国民の納得は望ましいことですが、仮にそれが得られなくても、早期にこの法案を成立させることの方が、遙かに重要なことなのです。
こうした私の方針は国民の皆さまよくご存じのはず。私を、改憲論者で、平和は武力によってこそ守られるというイデオロギーの信奉者だと知ってなお、国民の皆さまに支持いただいています。2012年暮れの総選挙以来、私は総裁として、また我が党として、この戦争法制を整備していくことを一貫して公約として掲げています。特に、先の総選挙においては、昨年7月1日の閣議決定に基づいて、「平和安全法制」を速やかに整備することを明確に公約として掲げ、国民の審判を受けました。
皆さまご記憶のとおり、2014年総選挙は、私自身が「アベノミクス選挙」と命名し、「景気回復、この道しかない」とのキャッチフレーズを掲げた選挙でした。確かに、安全保障政策の転換を争点とした選挙ではなかった。しかし、よく読めば公約には安全保障問題も掲げていたのです。これを「争点ずらし」などというのは、負け犬の遠吠え。勝てばこっちのものですから、総選挙の結果を受けて発足した第3次安倍内閣の組閣に当たっての記者会見において、戦争法案は通常国会において成立を図る旨、はっきりと申し上げたはずであります。
国民の皆さまが望んでおられるのは、ものごとをテキパキと決めて前に進む政治であろうと心得ています。決められない前政権の政治に批判があって、安倍政権になったのではありませんか。ですから、私は、特定秘密保護法も、沖縄辺野古基地建設も、NSC設置法も、日米ガイドラインも、テキパキと決めてきました。7月1日閣議決定もその流れです。選挙で信任を得た以上は当然のことと考えています。世論調査の結果を無視するとはいいませんが、その結果で決断を躊躇することはいたしません。もちろん、国民の審判によって弱体化した野党の反対は覚悟の上で、粛々と採決の所存です。
(記者)国民の不安、懸念などについて説明を伺いたいと思います。自衛隊発足後今日まで、紛争に巻き込まれて自衛隊の方が亡くなることはなく、また、戦闘で実弾を使ったりすることもありませんでした。このことが国内では支持されていましたし、国際的な支持でもあったかと思います。今回の法改正で、自衛隊の活動がすごく危険になるとか、リスクな方に振れるのではないかと懸念されますが、この点に関する総理の御説明をお願いいたします。
(総理)まさに自衛隊員の皆さんは、日ごろから日本人の命、幸せな暮らしを守る、この任務のために苦しい訓練を積んで危険な任務に就いているわけであります。これからも同じようにその任務を果たしていくということが基本であります。
自衛隊発足以来、今までに1800名の方々が、様々な任務で殉職をしておられます。こうした殉職者が出ないよう努力はしたいと思いますが、これまでも危険な任務であったことはご理解いただきたいと思います。
自衛隊員は自ら志願し、危険を顧みず、職務を完遂することを宣誓したプロフェッショナルとして誇りを持って仕事に当たっています。その誇りのよってきたる根源は、死をも厭わずにお国のために尽すところにあります。当然のことですが、この法案が成立すれば、海外の戦闘で自衛隊員の死者が出ることは予想されるところですから、その戦闘死の顕彰を考えなければならないことになるでしょう。
私が、靖国神社参拝にこだわっているのは、過去の歴史をどう捉えるかというだけではありません。これからの戦争や武力行使における自衛隊員の犠牲者の顕彰につながるものと考えているからです。国が、戦闘員の死に無関心で、その死に感謝や尊崇の念をもたなければ、いったいだれが命がけの任務に当たることになるでしょうか。
危険な戦闘任務のための特別手当や、遺族に対する特別の補償の用意も必要でしょうが、何よりも全国民に戦闘死を名誉とする国民意識の涵養が不可欠だと思います。その死を誉れあるものとして子どもたちには教えなくてはなりませんし、公共への奉仕としてこれに勝るものはない立派な行為として、道徳の教科書にも是非載せなければならないと思います。
そして、できることなら、靖国神社に戦死した自衛隊員を合祀したい。その合祀の臨時大祭には、戦前の例に倣って、余人ならぬ天皇陛下自らのご臨席を賜ることが望ましいと考えています。
一方、怯懦から敵前において逃亡するなどの卑劣な行為には、旧陸軍刑法や海軍刑法に倣って厳罰を科する法制度を整えなければなりません。軍法会議の新設も必要になりましょう。そのためにも、憲法改正が必要なのです。
ここまで来れば、「非武装」や「専守防衛」という憲法9条を中核にした戦後レジームを放擲し、たるみきったその精神的呪縛からもようやくにして脱却できたことになります。そのとき、念願の精強な我が軍の軍事力によって平和と安全を確立する「あるべき日本の姿を取り戻した」と言えるのではないでしょうか。
(内閣広報官)時間も経過しましたので、記者の皆様からの御質問を打ち切ります。この席での総理発言はホンネのところですから、くれぐれもご内密にお願いいたします。
(2015年5月16日)
70年前、私たち日本人は一つの誓いを立てました。もう二度と戦争の惨禍を繰り返してはならない。この不戦の誓いを将来にわたって守り続けていく。そして、国民の命と平和な暮らしを守り抜く。
このような腑抜けた誓いにもとづく国の在り方を、私は予てから「戦後レジーム」と呼んで、このような考え方の呪縛から脱却すべきことを訴えてまいりました。そして、ついに本日、日本と世界の新たな秩序を確かなものとするための戦争法案を閣議決定いたしました。
もはや武力によらずして、どの国も自国の安全を守ることはできない時代であります。私たちはその厳しい現実から目を背けることはできません。私は、近隣諸国との対話を通じた外交努力を重視していますが、有利な外交を推し進めるためには、どうしても武力が必要になります。口先の外交だけの国とナメられたのでは、一方的な妥協を余儀なくされるばかりです。
総理就任以来、私を歴史修正主義者と騒ぎ立てる中国と韓国は無視し、それ以外の地球儀を俯瞰する視点で積極的な外交を展開してまいりました。その結論は、丸腰外交の限界ということでございます。外交には軍事力の支えが不可欠なのです。しかも、いざというときには、口先の威嚇だけではなく本気になって断固総力戦に踏み切る気概がなくては外交の成功はありえず、平和を守ることもできません。戦前のごとくに、国民すべてが一億一心となって滅私奉公の覚悟を確認し合う、そのような日本を取り戻さねばなりません。
もっとも、本気で戦端を開いた場合、我が国の軍事力はいささか心もとないことは、皆さまご存じのとおりです。そのため、我が国の安全保障の基軸である日米同盟の強化に努めてまいりました。先般のアメリカ訪問によって日米のきずなはかつてないほどに強くなっています。日本が攻撃を受ければ、米軍は日本を防衛するために力を尽くしてくれる…はずです。そうでなくては困るのです。ですから、下駄の雪といわれようと、ポチと蔑まれようと、目上の同盟者アメリカにおもねるしか、我が国には選択の余地はないのです。
安保条約に基づいて、私たちのためその任務に当たる米軍が攻撃を受けても、私たちは日本自身への攻撃がなければ何もできない、何もしない。これがこれまでの日本の立場でありました。本当にこれでよいのでしょうか。もちろん、日本ができることはたいしたことではありません。それでも、ポチとしては、いや目下の同盟者としては、ご主人であるアメリカのためにお役に立てるよう心掛けていますよ、と殊勝なところを見せなければならないのです。
この辺の機微を国民の皆さまにはよくご理解いただきたいのです。もはや、これまでのように、「憲法の制約がありますから」「日本の憲法9条では…」などという弁解が通じる時代ではないのです。端的に申しあげれば、憲法を守ることよりも、アメリカにゴマを摺ることの方がはるかに大切なことなのです。そのようにしてでも、アメリカに擦り寄り、いざというときには拝み倒してもアメリカの軍事力に縋って我が国の平和と安全を守らなければならないのです。集団的自衛権というのは、そのような受益に見合ったリスクの負担なのです。ここをよくご理解ください。
日本近海において米軍が攻撃されるとします。世界の警察をもって任じるアメリカですから、これまでも頻繁にいろんな国と紛争を起こしてきました。もちろんこれからも、ドンパチがあるでしょう。そのとき、日本に対する攻撃はないからと言って、黙って見ているのでは友だち甲斐のない奴と見限られてしまいます。大して役には立たないでしょうが、及ばずながらの一太刀の加勢をしておくこと、一声でも吠えておくことが、後々のために大切なのです。このときが、汗のかきどき、血の流しどきなのです。自衛隊員に貴い犠牲が出たとすれば、それこそアメリカへは高く恩を売ったことになります。おそらくは犠牲になった隊員やご家族にも、お国のための戦死として本望なことでしょう。
もっとも、こうあからさまに本音を申しあげると不快、あるいは不都合とおっしゃる向きもありますので、ここは「集団的自衛権行使の要件をしっかりと定めました」と言っておくことにいたします。「同盟国アメリカが攻撃される状況は、私たち自身の存立にかかわる危機」という強調を前提として、「その危機を排除するために他に適当な手段がない」「なおかつ必要最小限の範囲を超えてはならない」という3つの要件による厳格な歯止めがある、としておきましょう。
集団的自衛権の行使が厳格に過ぎたのでは、アメリカに恩を売ることはできません。当然のことながら、そのあたりは、適宜、以心伝心、魚心あれば水心という腹芸で運用宜しきを得なければ役には立ちません。
それでもなお、アメリカの戦争に巻き込まれるのではないか。漠然とした不安をお持ちの方もいらっしゃるかもしれません。「ここからは、抑揚をつけてゆっくり、はっきりと断言する」。あれっ、カンニングペーパーのト書きを間違って声を出して読んでしまいました。撤回して続けます。
その不安をお持ちの方にここではっきりと申し上げます。そのようなことは絶対にあり得ません。新たな日米合意の中にもはっきりと書き込んでいます。日本が武力を行使するのは日本国民を守るため。これは日本とアメリカの共通認識であります。
あれっ? これだけの説明で、国民の不安を解消することはできないだろうと私も思いますが、原稿にはこれ以上の理由の書き込みはありません。
誰が考えても、本当は危ないことをするんです。日本が攻撃されていないのに、アメリカが攻撃されたら助っ人を買って出ようというのです。その途端に日本は中立国ではなく、戦争当事国になります。ですから、アメリカとの交戦相手国から、日本が攻撃を受けても文句は言えません。とりわけ、日本の軍事施設や原発の近くにいる方には覚悟が必要です。
しかし皆さん、リスクなくしてメリットだけというムシのよい話はありません。このような危険を敢えて冒してこそ、もし日本が危険にさらされたときには、日米同盟は完全に機能する。そのことを世界に発信することによって、抑止力は更に高まり、日本が攻撃を受ける可能性は一層なくなっていくと考えます。正確に言えば、戦争と戦争による被害を覚悟し、敢えて戦争を辞さないとする決意と準備があって初めて、近隣諸国は日本と米国の本気を恐れて、うっかり手を出すことをためらうのです。
ですから、戦争法案という呼称はきわめて正確なのです。集団的自衛権の行使を認めることは、戦争を準備しその覚悟をすることなのですから。ただ、そう言ってしまっては、法案が通りにくいことになりますから、「戦争法案などといった無責任なレッテル貼りは全くの誤りであります。あくまで日本人の命と平和な暮らしを守るため、そのためにあらゆる事態を想定し、切れ目のない備えを行うのが今回の法案です」と言っておくことにします。そして、法案の名称は、正確に「戦争法」とすることは避けて、「平和」や「安全」で飾っておきましょう。
戦後日本は、平和国家としての道を真っすぐに歩んでまいりました。世界でも高く評価されています。その平和は、自衛隊の創設、日米安保条約の改定、度重なる改憲の試みなどの戦争への動きに抗した、国民的な平和運動の努力の結果であると一般には理解されています。しかし、もうこれからは違います。
武力を背景に強い日本を作ること、日本の武力で足りないところは、アメリカの武力を頼ること、集団的自衛権の行使容認を立法化して、日米同盟を現実に戦争のできる実効的な同盟に作り替えること、このことを通じてしか我が国の平和と安全の確立はありません。
私はそのように確信いたします。一見矛盾するレトリックのようですが、戦争の準備と覚悟が、抑止力にもとづく平和を生むのです。時代の変化から目を背けて立ち止まるのはやめましょう。そうして前に進もうではありませんか。
日本と世界の平和のために、精強な軍事力を育てようではありませんか。いざというときには戦争を厭わない強い国民精神を養おうではありませんか。
子供たちに平和な日本を引き継ぐため、自信を持って、声を大にして言いましょう。
「君たち、お国のために海外で戦う気概をもちなさい」「いざというときは、自分を犠牲にしてでも戦う勇気と公共心を持ちなさい」「そうすることで、我が国の平和と安全を守ることができるのですよ」と。
私はその先頭に立って、国民の皆様と共に新たな時代を切り拓いて、今は失われた、本来の強い日本を取り戻す覚悟であります。
(2015年5月15日)
先週の土・日(5月9日・10日)は、大阪出張だった。市営地下鉄のアナウンスが、「5月17日の住民投票には、必ず出かけましょう」と、差し出がましい呼びかけを繰り返していた。市長の側は、投票率が上がることを賛成派に有利と見ているのだろう。
毎日(共同・産経)、朝日、読売の各調査すべてが、反対派優勢の結果となっており、橋下自身も街頭演説で劣勢を認めている。とりわけ、「女性に超不人気」と自ら口にしている。普通に考えてみれば当たり前の話し。負ければ即・橋下引退だ。このことをよく確認しておこう。
産経の報道では、「20代女性は調査のたびごとに賛成の割合が低下し、今回は初回の半分以下にまで落ち込んだ(賛成17・1%、反対60・0%)。また、70歳以上の男女も反対が賛成を大きく上回った。子育てや、70歳以上が対象の優待乗車証「敬老パス」に象徴される高齢者福祉など、身近な行政サービスの先行き不透明感に対する不安を投影している可能性もある。」
説得力ある反対派の論拠は、「大阪市内で集められた大量の税金が、大阪市「外」に流出することになるのです。その総額は、実に2200億円!もちろん、これは今、大阪市が担当している事業の一部が大阪府に引き継がれることになるので、その事業のための資金だと解釈できるのですが、2200億円の予算が大阪市外に流出し、それを現大阪市民の自治でその使い道を、現在の様に「管理」出来なくなるのは事実です」。
「年2200億円が大阪市から大阪府に吸い上げられ、市民には大損だ」「住民サービスが不便になる」「住民サービスが下がるのは嫌だ。政令市を守りたい。そう思うなら、反対と書きましょう!」この宣伝が効いている。
これに対する橋下の反論が、大阪の街をつぶすのではない。役所の仕組みをつくり変えるだけだ。「住民サービスが極端に下がることはない」(産経)というもの。これでは防戦にも反論にもなっていない。勝負あったというところ。
安倍と菅が、改憲問題への協力とバーターで橋下・維新にエールを送って、この問題を全国区マターにした。しかしおそらくは、両者の思惑に反してこの薄汚い取引が政権にも大阪維新にも裏目に出ているのだ。
橋下のこの問題での街頭演説をネットで聞いてみた。香具師の口上そのものではないか。およそ、論証というものがない。これに拍手を送っている聴衆がいるのだから寒心に耐えない。容易に口車に乗せられる、人のよい無防備な人々。悪徳商法被害が尽きないわけだ。
とは言え、賛成派は投票所に行くモチベーションが高かろう。反対派は相対的に低いことが予想される。世論調査のとおりの結果が出るかは予断を許さない。
本日の当ブログは、「大阪市解体住民投票」に、反対の立場の気利いたコメントを掲載してみる。発言者の氏名を省略するが、本日のブログのタイトルを含めて、すべて引用である。
二重行政の弊害を取り除いて、それで浮いたカネで、大阪経済の活性化と大阪財政の再建ができる、っていうんだから、こんなウマイ話はない。ウマイ話には気を付けよう。
大阪市長と知事のポストを同じ維新の会の人間が占めてこれだけの時間が経過しているのに、な〜んにもできていない。それがどうして、効率的に行政が運営されるようになると言えるのか…全然理解できない。
小保方晴子「STAP細胞はあります」⇒成功しませんでした。
橋下徹「都構想の効果はあります」⇒試算したらありませんでした。
「東京の繁栄は『都区制度』のおかげでなく、『一極集中』の賜物」
ひと言で言えば、東京の都区制度は自治体として不十分なものであり、それでも栄えているのは企業や人口が集中する首都だから、という話である。大阪の行政の仕組みを東京に似せて変えたからといって東京のように経済発展するはずがない、そもそも各都市の行政機構のかたちと経済情勢の間にほとんど関連がないことなど、子どもでもわかりそうなものだが、橋下は「金持ち東京みたいになるんです」と吹聴しつづけてきた。東京コンプレックスの強い大阪人につけ込む詐術的弁舌である。
大阪市を廃止・分割し、将来の経済効果を図る目処もなく、
必要経費ばかりが膨らむいわゆる「大阪都構想」。
政治をゲーム感覚で捉える権力志向のリーダーのわがままに付き合わされるのは、もううんざりです。
大阪市の廃止・分割より、市民・府民の毎日の暮らしの中には課題がいっぱい!
保育や教育の質の向上。若い世代の女性の就職難や貧困層の増大。女性シニア世代の独居問題。高齢者介護の問題。「大阪市廃止・分割はアカンやろ!」
橋下はこれだけの批判を浴びながらも、一向に反省することなく、「実務を知らない学者が批判している」といった反論を繰り返している。公務員を叩き、学者や教師を叩き、マスコミを叩き、大衆の「負の感情」を煽って自らの支持に変えてきたいつものやり方で、この住民投票を乗り切ろうとしているようだ。しかし、有権者は今度こそ、こうした橋下の反知性主義的な詐術に騙されてはならない。「大阪都構想」などというデタラメによって甚大な被害を受けるのは、ほかでもない、大阪市民自身なのだから。
橋下はいろいろ大袈裟に言う割には、実現しないか、実現すれば失敗だからです。
橋下はある案のいい面だけを強調し、悪い面を隠しているように思われます。世の中にそんなウマイ話はあるものではありません。その案実現の障害となる要因、あるいは、実現した場合の弊害などを検討し、あらかじめ手を打っておくべきなのです。しかし橋下はそれをしません。仮に大阪都構想がそんなに悪くないものだとしても、橋下がやれば失敗するでしょう。
橋下市長はどのタウンミーティングでも「平松さんのときにはたった教育予算67億円、たった67億円、ところが維新の会、もう大阪府と大阪市が一体となっていま政策をすすめています。教育予算は370億円、その額にして6倍です。そこまでもう増やしています」と、「教育予算」を5倍にしたと宣伝するのですが、これは教育予算全体ではなくて自分が重点投資した政策予算の部分だけ取り上げているのです。ちょっと考えれば、260万人人口のいる大阪市の教育予算が67億円とかありえないでしょう。
橋下市長と維新の会が「増やした」と言うのは、塾代助成や学校現場へのパソコン導入など、橋下氏肝いりの目玉施策を積み上げたものに過ぎないのです。橋下市政になったら、そこだけぐんぐん増えるのは当たり前でしょう。
橋下市長になってから、教育予算はその重点投資を合わせても減っているのです。
橋下市政では塾代を補助して、小学校は統廃合し、保育料は値上げしてます。そしてさらに、大阪「都」になったら市内の全保育所を民営化するというのです。まさに暴挙。
これでは子どもの数が減るのは当たり前です。
普通は旧システムから新システムに乗り換える時、新システムが安全であることを確認し、その場所を確保した上で旧システムを閉じる。しかし5月実施の大阪市住民投票では、新システムが確保できないのに旧システムをまず壊すことに同意せよと問うている。まるで住民は博打を強要されているかのようだ。
現在、橋下維新側は、17年間で2700億円程度の財政効果があると喧伝し、これが都構想賛成論の重大な根拠とされているが、この金額の内訳を知る人々は一般にはほとんどないだろう。しかし財政学者はその中身を冷静に分析し、これが如何に「粉飾」された「盛りに盛りまくった数字」であるかを明らかにしている。
財政学の森裕之・立命館大学教授は次のように指摘する。「大阪府市は特別区になった場合の財政シミュレーションを示しているが、再編効果には大阪市の事業の民営化(地下鉄・バスや一般廃棄物事業など)や『市政改革プラン』など、『大阪都構想』による二重行政の解消とは関係のないものが意図的に盛り込まれている。それらを差し引けば、純粋な再編効果は単年度でせいぜい2?3億円程度」。要するに、「大阪府と大阪市の二重行政が税金のムダづかいを生むというのが、『維新の会』が『大阪都構想』を主張する最大の根拠になっています。しかし、その主張には根拠がありません」(鶴田廣巳・関西大学教授・財政学)ということなのである。
なお、この問題では、もっとも充実している宮武嶺ブログ、「Everyone says I love you !」を是非参照されたい。写真や図解が親切で分かり易く説得力がある。今日の当ブログの記事の一部もここから引用させていただいた。
http://blog.goo.ne.jp/raymiyatake
5月17日住民投票の結果は、大阪の将来にかかわるだけでなく日本の民主主義や憲法改正問題にも影響が大きい。是非、「反対」の立場での運動にご協力を。
(2015年5月14日)
東京「君が代」裁判弁護団の澤藤です。本日、服務事故再発防止研修受講の業務命令を受け、不本意ながらもこれから研修を受けるためこのセンターに入構する教員を代理して、センターの総務課長と職員の皆様に抗議と要請を申しあげます。
まず、総務課長を通じて、都教委に対して厳重に抗議します。本日の研修は、まったく必要のないものです。いや、本日予定されている研修はけっしてあってはならないものと強く指摘せざるを得ません。あなた方は、違憲違法なことを強行しようとしているのです。
本来、この教員は今日これから、授業を担当しているはずなのです。その教員を教室から引き剥がし、子どもたちの教育を受ける権利を侵害しているのが、あなた方のしていることです。あなた方の違法な行為の被害者は、誰よりも子どもたちなのです。
さらに、言うまでもなく教員自身が被害者です。「日の丸・君が代」斉唱時に起立をしなかったというだけのことで、教員は減給10分の1を1か月という懲戒処分を受けました。それに加えての本日の研修です。本日は9時から12時半まで210分にわたって行われます。しかも、本日だけでは終わりません。もう一日同じ時間の研修が待っています。さらに、その後は校内研修も繰り返されます。あたかも、「懲戒処分だけでは不十分。もっと厳しい制裁が必要だ」「日の丸・君が代あるいは国旗国歌に敬意を表するよう思想を改造せよ」と言わんばかりの理不尽ではありませんか。
本日研修受講を命じられている教員は、教育の本質と教員としての職責を真摯に考え抜いた結果、自己の良心と信念に従った行動を選択したのです。このように良心と信念に基づく行動に対して、いったいどのように「反省」をせよと言うのでしょうか。信念にもとづく行為に対して「再発防止」を迫るということは、思想や良心を捨てよと強制することにほかなりません。日の丸・君が代への強制に服しない者への公権力による処分自体が思想・良心を侵害する公権力の発動として許されることではありませんが、これに加えて再発防止研修に名を借りた転向強要はあってはならない違法行為といわざるを得ません。
研修が必要なのは、日の丸・君が代の強制に屈しなかった教員ではありません。むしろ、あなた方、東京都教育委員の諸君と教育庁の幹部職員にこそ、研修が必要と言わざるを得ません。あなた方こそ、教育の本質を学ばなければならない。憲法や教育基本法についての研修を受けなければならない。戦前の教育のどこがどう間違い、どのように反省して今日の教育の法体系やシステムができているのか。憲法や教育基本法は、教育や教員についてどのように定めているのか。しっかりと十分な理解ができるまで研修を繰り返して、違憲・違法な教育行政の再発防止に努めていただきたい。
そうすれば、10・23通達自体の違憲・違法・不当性に思い至るはず。石原知事の意向を受け、知事のお友だちを集めた教育委員たちが、10・23通達を出したのは、2003年のことでした。あれから12年経って、知事は代わりました。当時の教育委員は全員居なくなりました。都議会の構成もあらたまっています。この体制を推し進めた教育長も交替して、10・23通達体制の泥にまみれていない外部からの新教育長の着任と聞いています。明らかに都庁の空気は変化しているはず。教育行政も変化して当然なのです。
現知事は、ことのほかオリンピックに熱心ですが、世界の人々が集まるここ東京が、思想や信仰を弾圧するということでよいのか。10・23通達体制は、不自然で無理があり、いつまでもは維持できるはずがないのです。どこかで、問題を解決しなければなりません。
一連の最高裁の判決からも、最高裁の裁判官たちが、東京都の教育が不正常で、なんとか改善しなければならないと嘆いていることを読み取れます。しかも、その改善は権力側のイニシャチブで行わねばならないことも記されています。
ようやく、10・23通達について抜本的な解決ができる萌しが見えているこの時期、再発防止研修の名で新たなトラブルを起こす愚は避けていただきたい。
そのような観点から、本日の研修を担当する研修センターの職員の皆様に要請を申しあげたい。
日の丸・君が代強制と、強制に屈しない個人への制裁として本日これから強行されようとしている服務事故再発防止研修とは、キリシタン弾圧や特高警察の思想弾圧と同じ質の問題を持つ行為です。おそらく皆様には、内心忸怩たる思いがあることでしょう。キリシタン弾圧や特高警察になぞらえられるようなことを進んでやりたいとは思っているはずはないとおもいます。だが、仕事だから仕方がない。上司の命令だから仕方がない。組織の中にいる以上は仕方がない。「仕方がない」ものと割り切り、あるいはあきらめているのだろうと思います。
しかし、お考えいただきたい。本日の研修受講命令を受けている教員は、「仕方がない」とは割り切らなかった。あきらめもしなかった。教員としての良心や、生徒に対する責任を真剣に考えたときに、安穏に職務命令に従うという選択ができなかった。
懲戒処分が待ち受け、人事評価にマイナス点がつき、昇給延伸も確実で、賞与も減額され、服務事故再発防止研修の嫌がらせが待ち受け、あるいは、任地の希望がかなえられないことも、定年後の再任用が拒絶されるだろうことも、すべてを承知しながら、それでも日の丸・君が代への敬意表明の強制に屈することをしなかった。彼は多大な不利益を覚悟して、自分の良心に忠実な行動を選択したのです。
本日の研修命令受講者は、形式的には、非行を犯して懲戒処分を受けた地方公務員とされています。しかし、実は自分の思想と教員としての良心を大切なものとして守り抜いた尊敬すべき人、立派な教員ではありませんか。そのことを肝に銘じていただきたい。
あなたがた研修センター職員の良心に期待したい。その尊敬すべき研修受講者に対して、心して研修受講者の人格を尊重し、敬意をもって接していただくよう要請いたします。
(2015年5月13日)
私たちは、「本郷・湯島九条の会」の者です。9条の会は、2004年に井上ひさしさんや大江健三郎さん、澤地久枝さんなど9人の方の呼びかけに応じて全国に立ち上げられました。いま、各地の地域や職域、学園、あらゆる分野に7500もの、単位9条の会が結成されて、それぞれのやり方で「9条を擁護する」「9条の精神を実現する」活動を行っています。私たちの会は、町内会の会長さんが代表者となっている、地域9条の会の一つです。
毎月第2火曜日のお昼の時間に、ここ本郷三丁目交差点「かねやす」前を借りて、「日本国憲法を守れ」「9条と平和を守れ」「あらゆる戦争への動きを根絶しよう」という街頭での訴えを続けています。今日も、しばらくお耳をお貸しください。
今年は、戦後70周年に当たります。1945年8月の敗戦から70年目の節目の年。70年前の東京には空襲が繰り返されました。東京の空襲被害は3月10日の大空襲だけではありません。サイパン・テニアンから飛来したB29の編隊による焼夷弾攻撃は100回にもわたって、東京を焼き払いました。文字どおり、東京を廃墟にしました。ここ、本郷も湯島も例外ではありませんでした。
70年前の今頃、日本と同盟を結んでいたムッソリーニのファシズム・イタリアも、ヒトラーのナチズム・ドイツも降伏し、日本だけが絶望的な戦いを続けていました。沖縄は凄惨な地上戦のさなかにあり、日本の主要都市のほぼすべてが、空襲の対象となっていました。
敗戦は明らかでしたが、戦争はなかなか終わりませんでした。天皇やこれを支える上層部が、「もう一度戦果を挙げてからの有利な講和」にこだわったからです。「有利な講和」とは国体の護持、つまりは天皇制の維持にほかなりません。しかし、最後の最後まで、「もう一度の戦果」はなく、沖縄は徹底して蹂躙され、広島・長崎に原爆が投下され、さらにソ連の対日参戦という事態を迎えて、無条件降伏に至りました。国体の護持、つまりは天皇制の維持にこだわることさえなければ、100万を超す命が助かったはずなのです。
国民は、正確な情報を知らされなかったばかりか、「神国日本が負けるはずはない」「いまに必ず神風が吹いて最後には戦局が好転する」そのように信じ込んでいました。一億総マインドコントロールの状態だったのです。もちろん、神風は吹かず日本は敗けました。70年前の8月のことです。
これ以上はない惨禍の末に戦争は終わり、国民は悲惨な思いの中からたくさんの教訓を学びました。よく考えてみれば、この戦争は侵略戦争であり植民地拡大戦争だったではないか。日本は、被害国ではなく、加害国としての責任を免れないと知りました。再び、戦争の加害者にも、被害者にもなりたくはない。どのような戦争も悲惨この上ないのだから、勝ち負けに拘わらず戦争をしてはならない。これが多くの国民の共通の思いでした。
この平和を願う国民の思いが、新憲法を平和憲法として誕生させます。日本の国民が、憲法の制定を通じて、再びの戦争をしないことを誓約したのです。戦争の被害者にも加害者にもならない。この考えが日本国憲法前文に平和的生存権として書き込まれ、憲法9条の条文にも結実しました。
憲法9条1項が、「国権の発動たる戦争」の放棄を宣言し、さらに念のために「武力による威嚇または武力の行使」をも、永久にこれを放棄しました。戦争の放棄です。
それだけではありません。戦争の放棄を担保する手段として、9条2項で「陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない」と、戦力の不保持を宣言したのです。
9条1項と2項、戦争の放棄と戦力の不保持。この二つを併せて読めば、日本が、自衛の戦争をも含む、いかなる戦争もしないと誓約したことに疑いはありません。
旧憲法下での最後の議会となった第90帝国議会で、新憲法をめぐる改憲論議が行われました。そこでの野坂参三共産党議員と吉田茂首相との有名な「自衛権」論争があります。
野坂は、「古来独立国家として自衛権をもたない例はない。9条も自衛戦争は否定していないはず」と糺しましたが、吉田は「歴史上、侵略を標榜した戦争はない。すべての戦争が自衛の名のもとに行われた。憲法9条はけっして、自衛の戦争を認めるものではない」と、徹底した平和主義を語っています。
こうして制定された日本国憲法ですが、戦後しばらくすると政府の解釈が変わります。自衛隊が創設された1954年、政府は「自衛隊は憲法にいう戦力に当たらないから違憲の問題は生じない」と辻褄を合わせる説明を始めました。「憲法は国に固有の自衛権を否定していない。自衛隊は、敵国が日本の領土に進攻してきた際に自衛権を行使する実力組織に過ぎない。自衛隊は、自衛を超えて海外で武力を行使することはない。自衛の必要を超えた装備や編成をもつこともない。だから9条に違反しない」というのです。いわゆる専守防衛路線です。
この政府解釈は批判されつつも、定着して60年続きました。明らかに憲法の条文に違反はしてはいるものの、自衛隊の装備や編成、あるいは行動を、専守防衛にとどめて、逸脱を防止し、暴走することのないよう自衛隊への歯止めの役割を果たしてきたという側面を見落としてはならないと思います。
安倍政権はこの専守防衛路線を乗り越えようというのです。自衛隊暴走への歯止めを外してしまおうというのです。これは完全に憲法9条の戒めを破ろうということにほかなりません。
集団的自衛権の行使を容認することによって、自国の自衛のために限定されていた実力の行使が歯止めを失うことになります。戦争をする組織ではない、飽くまで敵が国土を蹂躙したときに自衛する実力部隊であったはずの自衛隊が、集団的自衛権行使の名のもとに、同盟国とともに海外で闘う組織になるというのです。
国土を離れた海外での武力の行使を「自衛」とは絶対に言いません。それは憲法が禁じる「戦争」にほかなりません。昨日、自公が合意して、これから閣議決定を経て国会に提出される法案は、自衛隊に海外での武力行使を認める法律案ですから、「戦争法案」と呼ぶのが適切で相応しいのです。
今年1月に亡くなられた9条の会呼びかけ人のお一人、奥平康弘さんの言葉を借りて、私なりの言葉で表現し直せば、「憲法9条は、1954年自衛隊ができたときに『半壊』した。そして、2014年7月1日の集団的自衛権行使容認を認める閣議決定で『全壊』しようとしている」
他国との軋轢は外交で解決すべきとするのが、日本国憲法の立場です。相手国を軍艦で脅し、近くで軍事演習をして、軍事力で威嚇し、ことあれば武力の行使に及ぶという選択肢を完全に捨てたのが日本国憲法の立場です。70年前に、戦争の惨禍を繰り返すまいという国民の願いがそのような憲法を作ったのです。
しかし、安倍政権が目指している国のかたちは明らかに違います。強い国、強い外交を行うためには、いざというときには戦争という選択肢をもたねばならない、というのです。これは危険なことです。何よりも、近隣諸国からの信頼を失う愚行といわざるを得ません。戦後70年間築いてきた、平和ブランドとしての日本をなげうつことでもあります。
今朝の各紙の報道によれば、「戦争法」関連法案は、既存の有事法制10本をまとめて改定する一括法「平和安全法制整備法」と、自衛隊をいつでもどこでも他国軍の戦闘支援に派兵する新法「国際平和支援法」(派兵恒久法)の2本建てだということです。解釈改憲・立法改憲によって憲法9条にトドメを刺そうとするものとして、到底看過できません。
皆さん、2年前の憲法記念日を思い出してください。発足間もない第2次安倍政権は、96条改憲を明言していました。「9条改憲が本丸だが、本丸攻めは難しい」「それなら、まずは外堀を埋めてしまえ」「96条の改憲手続きを変えて、明文改憲のハードルを下げるところから手を付けよう」という構想でした。
ところが、この96条改憲論がたいへんに評判が悪かった。2年前の5月には、「裏口入学に等しい姑息な手段」「卑怯卑劣な手口」として強い世論の反撃を受けました。その結果、安倍内閣はこれを撤回せざるを得ない事態に追い込まれてしまったではありませんか。
今、安倍政権がやろうとしている戦争法案の上程は、裏口入学どころの話しではありません。堂々と、憲法の玄関を蹴破って、憲法の平和の理念を押し潰そうというのです。一昨年同様、再び世論の力で憲法を9条を守り抜こうではありませんか。そして、戦争法の制定を推し進めようとしている安倍政権には、退場願おうではありませんか。憲法9条に成り代わって、皆さまに訴えます。
(2015年5月12日)