本日は、「「日の丸・君が代」不当処分撤回を求める被処分者の会」の定期総会。この会は「東京君が代裁判」の原告で構成されている。年に1度の総会が、創立総会を含めて、今回が11回目である。あれから10年。会員も、弁護団員も、10歳の年輪を重ねた。この間、会の活動に参加した教職員の熱意には敬意を禁じ得ない。とりわけ、この長きにわたって中心的に活動を支えた人々の労苦と献身性には頭が下がる。日本の教育の希望はこのような集団にこそあると言って過言ではない。
石原慎太郎教育行政の「10・23通達」以来、卒業式等の起立・斉唱・ピアノ伴奏の強制に従わなかったとして処分された教職員は、延べ450名に上る。これは、現代の思想弾圧であり踏み絵だ。また、教育を権力の下僕にしようとする邪悪なたくらみでもある。これに対する現場の教員の抵抗と支援の運動が満10年継続して、今日の総会に至っている。
この間、法的手段としては、予防訴訟を提起し、処分に対しては人事委員会に審査請求をし、行政訴訟を提起し、服務事故再発防止研修執行停止の申立をし、君が代処分を理由とする再雇用の拒否に対する権利救済の訴訟を起こした。
この10年の闘いが一通りの最高裁判決を経て、今やや膠着した状態にある。これまでに勝ち得た成果もあるが、勝ち取れなかったものもある。そして、今後の課題が見えてきている。
私たちは、法廷闘争においては、違憲論として次の二つの柱を建てた。
(1) 精神的自由の侵害(思想・良心・信仰の蹂躙の違憲違法)
(2) 教育の自由の侵害(権力の教育への介入の違憲違法)
そして、違憲論とは別建てに、
(3) 公務員に対する懲戒権の逸脱濫用としての違法の判断と救済
を求めた。
この10年間で、勝ち得た成果といえば、
*服務事故再発防止研修執行停止申立についての須藤決定(研修内容が内心の自由に干渉するに至れば違法となる)。
*予防訴訟一審の難波孝一判決(「日の丸・君が代」強制の違憲違法を全面的に認めた)
*処分取消請求一次訴訟の控訴審大橋寛明判決(戒告を含む全原告の懲戒を処分権濫用として、取り消した)
*同訴訟の1・16最高裁判決(減給以上の懲戒処分は過酷として原則違法)
*第2次訴訟の確認(戒告は認めるが、減給以上の処分は原則違法)
*最高裁判決における、裁判官2人の違憲の少数意見と、都教委批判の補足意見
勝ち得たものはけっして小さくはない。とりわけ、私どもが「思想転向強要システム」と呼んだ、機械的な累積加重の処分基準を最高裁が違法として、都教委が現実に過酷な処分をできなくなっていることの意味は大きい。これまで、判決によって25人(30件)の処分取り消しが確定しているが、この基準は当然に大阪の処分にも適用されることになる。
しかし、最高裁判決は違憲の主張を排斥している。これは到底容認できない。最高裁の使命は、憲法に忠実な判決を言い渡し、社会に憲法の理念を実現することにある。権力による国民への「日の丸・君が代」強制が思想・良心を蹂躙することは本来自明というべきことではないか。これを合憲として、行政を免責する最高裁は、憲法をねじ曲げる存在と断定せざるをえない。
「日の丸・君が代」強制を、思想良心の自由を保障した憲法19条に違反しないとした最高裁判決の「論理」は次のようなものである。
※「強制される外部行為による思想良心への直接制約の否定」
起立・斉唱・伴奏という「外部行為」と、
そのような外部行為をとることはできないとする理由としての「思想良心」
との密接不可分性の有無の判断について
A 行為者の主観においては関連しているものと認められる。
B しかし、一般的・客観的に両者が密接不可分とは言い難い。
C 従って、起立斉唱の強制が直ちに思想良心を侵害するとは言えない。
※「外部行為による思想良心への間接制約の存在とその容認」
D とは言え、間接的には侵害があるものと考えざるを得ない。
E 間接侵害の合違憲は「必要かつ合理的」という緩い基準の判断でよい。
F 本件職務命令は「必要かつ合理的」という緩い基準に適合しており合憲。
結局、D以下は言い訳に過ぎない。厳格審査を僣脱して緩い審査基準で判断してよいするための範疇作りで、結論を引き出すために論理操作のフリをしているだけ。
本日の総会では、「何としてでも違憲判決を勝ち取ろう」という真摯な熱意に溢れた意見が交わされた。メインの訴訟形態となっている処分取消請求事件では、1次に続いて2次の訴訟が最高裁判決で終了となり、現在東京地裁に3次訴訟が係属中である。そして来春、4次訴訟の提起が予定されている。違憲判決を勝ち取るまで、運動も訴訟も続くことになる。
では、違憲判決を勝ち取るにはどうすればよいか。もちろん、容易ではないが、挑戦し続けなければならない。
ひとつには正面突破作戦がある。最高裁の論理の間違いを徹底して弾劾し、真正面から判例の変更を求めるという方法である。裁判所の説得方法は、「判例違反」「学界の通説に背馳」「米連邦最高裁の判例」などにある。
ついで、正面突破ではない迂回作戦がある。そのひとつが、最高裁の判断枠組みをそのままに、実質的に換骨奪胎する試みである。一連の政教分離訴訟において、最高裁は厳格な分離説を排斥して、緩やかな分離でよいとする論理的道具として日本型目的効果基準説を発明した。しかし、この目的効果基準を厳格に使うべきとするいくつもの訴訟の弁護団の試みが、愛媛玉串料訴訟大法廷判決に結実して、歴史的な違憲判決に至っている。本件でも、間接侵害の枠組みをそのままに、「間接と言えども思想良心の侵害は放置しえない」「本件の場合、必要かつ合理性ありとはいえない」との論理を追求しなければならない。
また、もう一つの迂回作戦が考えられる。最高裁がまだ判断していない論点で結論を覆すことである。この点については、
(1) 公権力は国民に国家シンボルの強制をなしえない(根拠は立憲主義・自由主義の大原則。条文では、前文・13条・99条違反)
(2) 公権力は限度を超えた教育への介入をなしえない(根拠は憲法26条・23条・13条、教育基本法16(旧10)条)
の2点がメインとなる。
さらに、法哲学的アプローチや、違憲をカムフラージュする儀礼論や公務員論への対抗理論の構築、国際人権論からの反撃なども重要であり、処分の裁量権逸脱濫用論の深化も課題である。
そして、付言しなければならない。なによりも裁判所・裁判官を何とかしなければならない。個別事件において法廷での説得も重要ではあるが、裁判官の採用システムや養成システムそして、裁判官の人事を通じての官僚的統制などの問題に切り込まねば、百年河清を待つことになりかねない。
「司法も権力の一翼である以上、司法だけが『民主化』することはあり得ない」という見解がある。この見解の説得力は限りなく大きい。とりわけ、精神的自由に関する最高裁判例を見ていると、ときに絶望的にならざるを得ない。とはいえ、そのように一刀両断に切り捨てることで、地道な努力を怠る口実にしてはならない、とも思う。
たしかに「裁判所も権力の一部」ではある。しかし、相対的に行政権力中枢からの独立の側面をもっていることを見落としてはならない。個別事件での裁判所説得の努力と、憲法の理念を実現し人権を擁護する裁判所の確立に向けた「あるべき司法改革」をなし遂げなければならない。迂遠の道程ではあっても、けっして百年河清を待たねばならない課題ではない。
(2013年10月5日)
私は学生時代に学問をしたという覚えがない。正規のカリキュラムに興味をそそられるものがなかったことがその原因。そう開き直って大学側に責任を転嫁している。無味乾燥なカリキュラムの中で、唯一の例外が「社会調査演習」だった。その分野での第一人者とされていた安田三郎さんという講師(後に広島大学教授)が、自著の「社会調査ハンドブック」をテキストに調査実技の指導をしてくれた。これが、たいへんに面白かった。そこで学んだことは、社会意識の正確な把握の難しさと、一見公正を装った調査による結果誘導の容易さである。
カードマジックに「フォース」という基本技法がある。演者が、相手(観衆の一人)に演者が意図する特定のカードを引かせ、しかも相手には自由な意思で選択したと思わせる心理的技法。上手に仕組まれた世論調査はマジックの効果を持ちうる。だから、世論調査には関心を持ちつつ、軽々には信用しない癖が付いた。
ところで、問題は世論調査における秘密保護法についての賛否の分布。
時事通信が9月6?9日に行った世論調査で、「機密情報を漏えいした国家公務員らの罰則を強化する特定秘密保全法案」について賛否を聞いたところ、「『必要だと思う』と答えた人は63.4%、『必要ないと思う』は23.7%だった」という。
さらに、産経新聞社とFNN(フジニュースネットワーク)が9月14?15両日に実施した合同世論調査では、「機密を漏らした公務員への罰則強化を盛り込んだ『特定秘密保護法案』について、必要だとしたのは83.6%、必要だと思わないが10.4%だった」という。
両調査結果とも、さしたる重みはない。なにしろ、内閣官房の9月26日発表によれば、特定秘密保護法案の概要に対するパブリックコメント募集に対して、9月3日から17日までの15日間に94000件の意見が寄せられ、そのうち反対が77%を占め、賛成は13%に過ぎなかったというのだから。この件数は凄い。反対の率も凄い。
ところが、本日の「毎日」に、10月1?2日実施の新たな世論調査の結果が発表されている。これが、見出しを付けるとすれば、「特定秘密保護法必要の世論 6割に近く」として不正確とは言えない内容。産経の83.6%はさすがに眉唾としても、毎日の「必要だ」は57%、「必要でない」は15%に過ぎない。毎日の社会的信頼度を考慮すれば無視しえない。
しかし、これは質問文の作り方がよくない。今は亡き安田三郎講師の「社会調査演習」の授業なら、「不正確ないしは意図的誘導の質問文」として落第点しか与えられないだろう。毎日の調査が、誘導を意図しているものとは思わない。そうではなくて、質問作成者自身が、特定秘密保護法の内容や問題点をよく理解していない。そのうえに熟慮の姿勢が足りないのがこの質問文となり調査結果となっている。
毎日の質問項目の全文は以下のとおり。
「政府は、外交や安全保障に関する国の秘密が漏れるのを防ぐ『特定秘密保護法』を制定しようとしています。重要な秘密を漏らした公務員らに最高で懲役10年を科す内容です。こうした法律は必要だと思いますか。思いませんか。」
調査対象者に、少なくとも次の大きな誤解を与える。
(1) 現在は重要な秘密を漏らした公務員らを罰する法律はないようだ。
だから、国の秘密はだだ漏れになっている現状があるにちがいない。
(2) この法律は公務員だけを処罰するもので、民間人には無関係のようだ。
だから、自分の権利や義務に関わるものではなく、他人事としてよい。
(3) この法律は、「重要な国の秘密の保護」というメリットだけをもたらすもののようだ。
デメリットなどは考えられず、法曹会や言論界に反対などあろうはずがない。
やや長文になるが、もっと正確に次のような質問項目とすべきであろう。そうすれば、調査結果は大きく違ったものになるはず。
「安倍内閣は、過去の自民党政権が何度もたくらみながら、世論の大きな反対にあってその都度潰されてきた『国家秘密の漏洩を厳罰をもって処罰する法律』案を今また制定しようとしています。『特定秘密保護法』と名付けられた今回の法案は、「国家秘密法」や「スパイ防止法」などと言われた過去の法案よりも、規制の網を広くかけ厳罰化するものとなっています。
法案は、外交や安全保障に関するものだけでなく、スパイ防止やテロ対策上の国家秘密を広く保護しようとするもので、その範囲の限定がないだけでなく、ことがらの性格上『何が秘密かは秘密』とならざるをえません。逮捕されて初めて、「あれが特定秘密だったのか」となり、自分の行為に法律違反があったことを知ることになります。もちろん、裁判の過程でも秘密の保持は貫かれますから、弁護権の行使に大きな支障が生じます。
公務員だけでなく民間人でも秘密を知り得る地位にある者や、公務員から秘密事項を聞き出そうとした民間人も処罰対象となります。過失でも、未遂でも処罰されます。場合によっては、教唆の未遂すら処罰されます。
現行法でも、公務員の秘密漏示は最高刑懲役1年、自衛隊員の場合は最高5年となっています。それで特に不都合はないのに、一挙に重要な秘密を漏らした公務員らには最高で懲役10年、秘密を聞き出そうとした新聞記者にも懲役10年と重罰化しようとしているのです。
ですから、政府が間違ったことをしていても、これを知った公務員の勇気ある外部への公益通報は封じられます。なによりも、新聞記者が政府の独断専行に切り込むことに萎縮し、新聞記事の筆が鈍ることが心配になります。主権者としての国民の知る権利が損なわれれば、日本の民主々義が萎縮し歪められることにならざるを得ません。
こうした法律は必要だと思いますか。思いませんか。」
あらためて思う。「毎日」世論調査担当者の意識レベルがこの程度とすれば、秘密保護法の問題点の世論への浸透度は未だしである。「国民の知る権利を害し政府の独断専行を助長する」法案の問題点を執拗に訴え続けねばならない。
(2013年10月4日)
本日(10月3日)「日米安全保障協議委員会」(2プラス2)が共同文書を発表した。
内容は、臨時国会での安倍内閣のたくらみそのもの。さすがに明文改憲の共同謀議は公にされてはいないが、その余はすべて盛り込まれている。オバマ民主党政権は、日本国民の敵以外の何ものでない。
共同文書で、日本が単独でなすべきとされたことは、以下のとおり。
*国家安全保障会議(NSC)の設置
*国家安全保障戦略(NSS)の策定
*集団的自衛権行使容認の検討
*防衛予算の増額
*防衛大綱の見直し
*防衛力強化、地域への貢献拡大に取り組む
米国は、「これらの取り組みを歓迎し、日本と緊密に連携」とされた。
日米が共同して取り組むべきこととして確認されたことは以下のとおり。
*日米防衛協力指針(ガイドライン)の再改定作業を2014年末までに完了
*弾道ミサイル防衛(BMD)協力を拡大し、2基目のXバンドレーダーの配備先を空自経ケ岬分屯基地に選定すること
*サイバー空間、宇宙の分野で協力
*情報収集・警戒監視・偵察(ISR)活動の作業部会設置を歓迎
*南西諸島における自衛隊の態勢強化のため、施設の共同使用を推進
*F35戦闘機製造への日本企業の参画を通じ、技術協力は深化
*「核の傘」を含む拡大抑止の協議を定期的に開催
*情報保全の法的枠組み構築における日本の真剣な取り組みを歓迎
*輸送機オスプレイの日本本土での運用参加など、沖縄県外の訓練増加へさまざまな機会を活用
*在日米軍駐留経費負担(思いやり予算)の重要性を確認
さらに、「4月に発表した沖縄県内の米軍施設・区域返還計画の進展を歓迎。米軍普天間飛行場の沖縄県名護市辺野古沿岸部への移設が唯一の解決策だとする両政府の強いコミットメントを再確認。米国は、日本政府が3月に移設実現のため辺野古沿岸部の埋め立てを申請したことを歓迎。米軍訓練海域「ホテル・ホテル」の航行制限を11月末までに緩和。返還予定の米軍施設や区域への立ち入り制限を11月末までに緩和」と、沖縄への一層の負担が具体的に盛り込まれている。
日本の安全保障の基本方針は日米安保を基軸に規定されている。これが、誰の目にも分かりやすい構図。なにしろ、頭を下げて核の傘に入れてもらっている肩身の狭い身。目下の同盟者として、親分の命令には従うしかない立ち場。9条改憲も、集団的自衛権も、秘密保全法制も、主としてはアメリカから押し付けられてのものというのが素直なものの見方。
ところがごく最近、事態が様変わりしたのではないかと思わせることも少なくない。アメリカは、日本よりは中国との関係を重視せざるをえなくなっているのではないか。だから、日本に対して、中国との緊張関係を緩和するようサインを送っている、ようにも見える。むしろ、アメリカは、安倍政権の改憲姿勢や歴史修正主義の動きを牽制している、少なくとも集団的自衛権行使を望んでいないのではないか。そのような論調が注目される。
たとえば、9月30日「毎日」夕刊の「特集ワイド」での北沢俊美・元防衛大臣の次のようなインタビュー記事である。
問:(集団的自衛権が)行使できないと「日米同盟の信頼関係が損なわれる」と言われています。
北沢 米国は行使容認の必要性は感じていませんよ。防衛相在任中に当時のゲーツ米国防長官と8回会談したほか、米政府やシンクタンクの多くの要人に会ったけれど、公式・非公式問わず「日本政府は集団的自衛権行使を容認すべし」との意見は全く聞かなかった。2005年まで国務副長官だったアーミテージさんだけは「容認すべきだ」と言っていたけど。‥
米国が、日本はアジア諸国から危険視されず信頼される国であってほしいと考えていることは間違いない。主要同盟国がそれなりの地位にいてくれないと当然困るんです。「特に中国、韓国とは仲良くしてほしい」という忠告は米国に行けば必ず言われます。だから現状では米国は行使容認の必要性は感じていない。あれば必ず言ってきますよ。
元防衛大臣の発言であるだけに重みがある。しかし、本日の日米の共同文書を見る限り北沢見解は影が薄い。従来型の「目下の同盟」論の説得力が優っている。文書起案のイニシャチブが日米のどちらにあったかは分からない。分からないながらも、超大国アメリカの「安保の論理」が日本の安全保障政策の基本を決定していることに疑問の余地はなく、明文改憲・立法改憲・解釈改憲を阻止する闘いの「敵」は、安倍政権だけではなく、その背後のアメリカ・オバマ政権でもあることを再確認しなければならない。
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秋がきた!
朝起きたら、キンモクセイが香った。この季節、誰よりも早くこの香りに気づきたいと思う。油断していると、キンモクセイは突然香る。急いで外に出て、垣根や街路樹を確かめてみる。厚くゴワゴワした葉っぱの陰に、粟粒ほどのクリーム色の花が恥ずかしそうに隠れている。その色がだんだん濃いオレンジ色になる頃には、街中キンモクセイの香りでいっぱいになる。
おや、サザンカの花も咲いている。一重の薄いピンクの小花が木を覆うように咲きそろうと、庭に上品なご婦人が佇んでいるような香りがする。こちらは白粉の匂いだ。
コムラサキシキブのビーズ玉のような実も薄く紫に色づいてきた。ハナミズキの葉がほんのり色づいた、と思っていたら、真っ赤な実と一緒に銀色に光る花芽が空を向いてピカピカ輝いている。こんな都会の小さな「秋」でもこんなにうれしいのだから、空がどこまでも広がるほんとうの「秋」ならどんなに素晴らしいだろうか。
昔、ススキを思いのままに茂らせたことがあった。その壮大さと華麗さは圧倒されるほどの美しさだった。思い切り長く、四方八方に叢生するススキの穂は、地上に降りてきた太陽を思わせた。株によって穂の色は、濃い紅、明るい紅、樺色、黒茶、黄色、銀色と異なり、その穂からは黄金やプラチナブロンドに輝く葯が盛大に吹き出している。その葯が風にそよぐとき、青空にザランザランという音が響き渡るようであった。生命の歓喜、躍動のひとときに立ち会う幸せに浴したのだ。盛大な驚喜乱舞の秋であった。
さて、小さな秋に戻ろう。チューリップの球根が届いている。春に、手を繋いで散歩する、保育園の子どもたちの歓声のために、早速植え込もう。
(2013年10月3日)
江戸時代には士農工商の身分制度があった。各身分内に更に細かな身分差が存在したし、四民の外に差別された身分もあった。明治維新での四民平等はタテマエで、士族や華族という新たな身分制度が拵えあげられた。もちろん、身分による差別が支配の道具として有効だったからだ。ようやくにして、20世紀半ばに現行憲法が成立して、人は平等(14条)となった。しかし、今もなお天皇や皇族などという身分制度の残りかすを払拭し切れていない。旧制度の残りかすが、もっともらしく永らえているのは、やはり統治の道具として、また現行秩序維持の装置としていまだに役に立っているからである。この点、江戸、明治期とさしたる違いはない。
今日なお、人に生まれながらの貴賤の別があると思い込んでいる者がいるとしたら、愚かの極みである。自らの血筋や家柄を誇る人物は、軽蔑すべき輩でしかない。問題は、この差別の残りかすを撤廃する方向に向かうのか、温存ないしは助長するのか、である。
旧憲法の時代、「天皇は神聖にして侵すべからず」(3条)とされた。憲法の起草者が、天皇を神聖なものとする演出が国民統合に有益で、彼らが望んだあるべき秩序の維持に有益と考えてのことである。この条文に則って、理性ある国民なら滑稽と吹き出さざるをえない噴飯もののクサイ演技が重ねられた。それだけではなく、天皇の神聖性を疑い攻撃するものには、仮借ない弾圧が加えられた。
天皇の尊貴は、人間の序列を形づくるためのものであった。その対極に差別された身分の存在を必然化した。しかし、それだけではない。身分制度一般が人を差別し序列化することによる統治の装置であったが、近代天皇制はさらに天皇を神と位置づけ、その架空の権威によって効率的な統治を行おうと意図するものであった。古代エジプトや古代中国と同様の、究極の身分制度といってよい。
その天皇の神聖性や権威は、記紀神話における伝承の神の付与に由来するものとされた。近代天皇制の演出者は、神々の序列までを拵えあげ、トップの神に由来するものとして天皇を権威づけた。時代によって異なるが、全国9万?11万といわれる神社は、政府によって社格を与えられて階層区分され、各社格の中でも序列を付けられた。数多の神社の中で、本宗とされた格付けナンバー1の神社が、天照大神を祭神とする伊勢神宮である。もちろん、天皇の祖先神を祀る神社であるが故の最高序列。神々の格付けにおいて伊勢神宮を最高の神社とし、最高格付神社祭神の末裔である天皇の権威を人の序列において最高の格付けとし、神聖性を裏付ける道具としたということなのだ。
その伊勢神宮の式年遷宮「遷御の儀」が、今日(10月2日)行われるという。安倍晋三はこの宗教行事に参列するため、本日同神宮を訪れた。訪れてどのようなことをしたのか、まだ報道はない。だが、菅義偉官房長官は本日午後の記者会見で、「私人としての参列だと承知している。国の宗教的活動を禁じる政教分離の原則にも反するものではない」と説明した。
かくも安易に済まされることではない。「私人としての参列」とすれば、公務員としての仕事は放棄してのことなのか。多忙な首相が、私人としてわざわざ伊勢まで行って「私的に参列しなければならない」とは、この人以前からそれほど熱烈な神道信仰者であったということなのだろうか。
憲法20条の政教分離規定は、現行憲法に天皇制という旧憲法の遺物を残存させるについて、憲法全体の理念と可及的に矛盾させないよう、徹底的に無害化する必要あっての制度である。天皇は旧憲法下において、統治権の総覧者であり、統帥権の主体としての大元帥であり、神なる神聖な存在とされた。現行日本国憲法においては、天皇は主権を失って「国政に関する権能を有しない」(4条)とされ、憲法9条によって統帥権を失ったが、それだけでは不十分なのだ。再び神としての地位に戻してはならない保証が必要とされた。それが、政教分離規定(憲法20条3項)である。
だから、政教分離の「政」とは政治権力あるいは権力を担う人のことであり、「教」とは、天皇を神とした神社ないし神道のことと読まねばならない。「教」の軍国主義的側面を象徴するのが靖国神社であるが、「教」において天皇の神聖性付与に最も重要な意味をもつのは、伊勢神宮である。「政」と「教」の分離は、首相と靖国だけではなく、首相と伊勢神宮においても、最も厳格にしなければならない。「政」のトップに位置する首相が、「教」のトップに位置する伊勢神宮の最大の宗教儀式への参列を、軽々に「私的な参列」として見過ごすことは出来ない。
もちろん、安倍晋三個人も人権の主体であって、私的な信仰の自由は保障される。しかし、その個人の信仰行為も、客観的に公的な資格をもってする参拝となれば、憲法の政教分離規定によって禁じられる。その意味では、私的な信仰の自由は、その信仰行為表現の次元では制約されざるをえない。
首相としての地位にある者において、純粋に私人としての宗教行事参加を認められることは極めて困難なこと。おそらくは、人に知られることなく、お忍びでの参拝という以外にはなかろう。
これまで、公人性排除のメルクマールとされたのは、三木武夫内閣の靖国神社私的参拝4要件が公式のものである。「公用車不使用」、「玉串料を私費で支出」、「肩書きを付けない」、「公職者を随行させない」というものである。
安倍が、東京伊勢間の交通に公用車をまったく使用せず航空運賃や新幹線費用を私費で支払い、玉串料・真榊料その他の宗教的意味合いのある金銭支出を一切私費で行い、肩書きを附した記帳をせず、公職者の随行員を一切付けない、ということに徹して初めて私的参列であり得る。なお、私は個人的に、もう3要件が必要だと考えている。「公職に就く以前において、当該宗教行事あるいは同等とみなされる宗教行事に複数回参加していること」「当該宗教行事への参加をメディアに漏らさないこと」「宗教行事への参加時間は通常人の勤務時間を外してすること」である。
要は、首相と天皇制との結びつきの切断の維持という憲法の要請を損なうことなく、安倍晋三の個人としての信仰の自由にも配慮する方法の選択である。「個人としての信仰の自由」を口実にしさえすれば、靖国神社参拝も、伊勢神宮式年遷宮行事参加も自由に出来るとさせてはならない。
天皇を神聖なものとし現人神とした時代において、国家神道が国民をマインドコントロールしていたその反省に立っての政教分離条項の厳格な解釈でなくてはならない。天皇制を支えこれを権威づけた宗教施設に、権力を担う者との接触を安易に認めてはならない。そもそも、天皇という身分制度の遺物を、いささかも権威付け助長させてはならないのだ。
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「シリアと大久野島の化学兵器」
国連安保理でシリアの化学兵器全廃決議が採択されて、少しだけほっとした。しかし、これからも気が抜けない困難が待ち受けている。交渉の相手方であるアサド大統領は、とうてい信頼できる相手ではない。「19カ所の化学兵器保管場所のうち7カ所が反体制派の占拠している場所にある」とアサド政権のムアレム外相はいっている。もしそれを信じれば、ますます化学兵器の量、種類、保管場所も闇の中ではないか。化学兵器禁止機関(OPCW)の査察官の身の安全や行動の自由の保障も危うい。世界一治安の悪いシリアで、「14年前半まで」と切られた期限に廃棄が完了するとはとうてい思えない。
化学兵器の処理の責任はアサド政権にあるわけだが、推定1000トンの処理費用は数千億円にものぼるという。後始末を任せておいてもらちが明くはずはない。OPCWは不足する資金、人材を加盟国に求めるといっている。廃棄作業の実績のあるのはアメリカ、ロシア、日本、中国、リビアだけである。日本は現在、中国で第二次大戦中に遺棄してきた化学兵器の処理をしている最中で、日本の移動式化学兵器処理施設の提供を期待されているようだ。自衛隊が出ていく必要はない。現在、民間機関が廃棄処理を行っているのだから、平和国家としての軍縮活動の一貫として協力すべきだろう。
日本軍が中国に遺棄した毒ガス兵器は、瀬戸内海の大久野島(広島県)の「陸軍造兵廠火工廠・忠海(ただのうみ)兵器製造所」(1929?1945年8月)でつくられた。この工場では、近隣の農民、漁民、勤労学生など6500人が働いた。技能者養成所がもうけられ、高等小学校を卒業した、貧しくて進学できないけれど向学心の強い、14,5歳の子どもたちが集められた。
「先生から『大久野島で子どもを養成する制度ができた、はいらんか』と言われたんです。給料をもらいながら勉強できる、というでしょう。私は中学へ進学することはできない状況だったので、その条件は輝かしいものでした。しかも、3年の学習期間がすめば基幹工員にもなれる。努力次第で出世の道も開かれていくということに、すごく夢を持った。これは社会への登竜門なんだと思いました。」「初日に全員が『誓約書』の提出を求められました。誓約書の内容のなかに『大久野島は軍の秘密に属する島であるから、秘密は一切もらさない』という一項がありました。島での仕事の内容は決して、親兄弟にも言ってはならないと言われました。自分たち養成工は軍属ですから、もし秘密をもらすようなことがあれば軍法会議にかけられる、と」
少年たちは毒ガスの被害の一端を垣間見て、実体験するようになるにつれて、徐々に自分たちが作るものが何であるか気づいていく。「こんなことだと知っていたら、来るのではなかった。入所をすすめてくれた先生に相談したい、先生に手紙を書こうかと思ったけれど、『何も言わない』という誓約書を交わしとるでしょう。その約束を破ったら軍法会議ということだから、誰にも相談することができない。」(「戦争で死ぬ、ということ」島本慈子著 岩波新書)
1925年のジュネーブ議定書で化学兵器の使用は禁止されていた。日本はこの条約を批准していなかったとはいえ、国際社会に秘密にしなければという後ろ暗さはあった。くしゃみ・嘔吐性ガスは「あか1号」、催涙性ガスは「みどり1号」、びらん性ガスは「きい1号」、「きい2号」、青酸ガスは「ちゃ1号」と名付けられた。第二次大戦終戦まで、総量6616トンの毒ガスがつくられ、中国戦線に送られ使用された。そして敗戦。大久野島には3000トン以上のイペリット、青酸ガスなどが残された。「毒ガスをつくっていたお前たちは戦犯になる」と脅かされ、ガスや装置は証拠隠滅のため、海へ捨てさせられた。「しばらくすると、魚が腹を見せて浮かんできた。メバル、大きなチヌ(クロダイ)、そして小さい魚たち」
戦争の罪の深さを思う。大久野島で製造された毒ガス兵器の犠牲者たちの悲惨。そして、心ならずも加害者として兵器作りに従事した子どもたちの良心の呵責。現在、シリアにも化学兵器を作らされた子どもたちがいるのだろうか。大久野島同様、証拠隠滅があちこちで計られているのだろうか。
第一級の戦犯であるアサド大統領が何も罰せられないまま、政権に着き続けることは許されない。そして、化学兵器だけではなく、地雷や劣化ウラン弾、核兵器も製造してはならない。いや通常兵器と言えども、人を殺傷する道具として、製造したり、使用したり、輸出したりしていいはずはない。アサドも、アサドに原材料や技術や武器を輸出した国も罰せられなければならない。
(2013年10月2日)
本日、安倍晋三首相は、2014年4月から予定通り消費税率を8%に引き上げると表明した。予定の通りとは言え、たいへんなことだ。
私も、学生の頃に財政学や社会政策を学んだ。そこでは、財政が冨や所得の再配分機能をもっていると教えられた。福祉国家理念や、富と所得の平準化、中間層の拡大などは当然の国家目的とされた。ここには、資本主義経済が不合理で修正ないし是正を要するという了解があった。ところがどうだ。今、安倍自民がやろうとしていることは、その正反対。低所得階層から、間接税をもぎ取って、企業減税の財源にしようということだ。国家権力による「富と所得の逆再配分」だ。
アベノミクスは、3本の矢を放つという。3本とも、低所得者の心臓を狙っている。晋三の放つ、心臓への痛みの矢だ。私は既に年金生活者だ。私も強い痛みを感じる。年金は下がる。物価は上がる。そして消費増税だ。いい加減にしてくれ。
「日本経済は回復の兆しを見せている」だろうか。経済の回復とは、大企業の儲けが指標ではない。働く者が潤うこと、失業率が低下し、賃金が上昇し、そして生活必需品の物価が下がることではないか。そのような意味での経済の回復は兆しもない。そのうえ、消費増税は確実に「庶民の経済」に打撃を与えることになる。
消費増税と企業減税のセットサービスを最も喜んでいるのが経団連だ。安倍の経済政策が、「強きを助け、弱きにしわ寄せ」だから。いや、「貧者からむしりとって、富者に贈る」ものだからだ。企業経営者の満面の笑みは、本来、選挙での反撃の矢を受けるはずのもの。これまで、消費税を作り上げた内閣は、国民から相応の選挙による懲罰を受けた。どうして、安倍内閣の支持率が下がらないのか。不思議でならない。
安倍の消費増税を「決められる政治の実現として評価する」向きがあるという。恐るべきことだ。戦争やファシズムは、果断の結果であろう。庶民を苦しめる決断なら、何もしない優柔不断がずっとマシではないか。
また、安倍は、消費増税に備えて、成長戦略としての5兆円規模の歳出増を伴う経済対策と1兆円規模の企業減税をパッケージで実施するという。要するに、消費増税として庶民から吸い上げた分のすべてを企業のために使い切るということだ。何たることか。
憲法25条(生存権の保障)が泣いている。27条・28条(労働権・労働基本権)もだ。そして、憲法29条(財産権の保障)と22条(企業活動の自由) が笑っている。どこかが狂っているとしか思えない。本来なら、15条(参政権の保障)や、43条・44条(両議院の議員選挙権)の参政権や民主々義手続が、適切に働いて、こんな政権の跳梁を阻止しているはずなのだ。
民主々義が正常に機能していない。人権の保障もないがしろにされている。平和主義はもっと危うい。安倍政権に評価すべきところは皆無。憲法が危ういとは、具体的にあれもこれも危険水域にあるということなのだ。何とかしなければ‥。
(2013年10月1日)
9月26日、自民党の特定秘密保護法案に関するプロジェクトチーム(PT)の会合で、政府は自民党に同法の政府原案を示した。
http://www.asahi.com/politics/update/0927/TKY201309270036.html
7章25か条の法律案の形になっている。格別の支障がない限り、この原案が閣法として政府提案される公算が高い。
9月3日に発表された「概要」と内容は変わらないが、法律案となっているので分かりやすく、また生々しい。第5章「適性評価」など、条文を読むだに気分が悪くなる代物。
「第七章 罰則」(21条?25条)の一部についてだけ、紹介しておきたい。
21条 1項 特定秘密の取扱いの業務に従事する者がその業務により知得した特定秘密を漏らしたときは、十年以下の懲役に処し、又は情状により十年以下の懲役及び千万円以下の罰金に処する。特定秘密の取扱いの業務に従事しなくなった後においても、同様とする。
2項 第9条又は第10条の規定により提供された特定秘密について、当該提供の目的である業務により当該特定秘密を知得した者がこれを漏らしたときは、5年以下の懲役に処し、又は情状により5年以下の懲役及び500万円以下の罰金に処する。
3項 前2項の罪の未遂は、罰する。
4項 過失により第1項の罪を犯した者は、2年以下の禁錮又は50万円以下の罰金に処する。
5項 過失により第2項の罪を犯した者は、1年以下の禁錮又は30万円以下の罰金に処する。
21条1項の犯罪主体は、「特定秘密の取扱いの業務に従事する者」である。公務員に限らない。この「業務に従事する者」が、その業務により知得した特定秘密を漏らしたときは、最高刑で懲役10年に処せられる。同条2項は、特別の必要あって秘密の提供を受けた者(たとえば、国会議員・裁判官など)が、これを漏らせば最高懲役5年となる。両者とも未遂も過失も処罰される。
第22条 1項 人を欺き、人に暴行を加え、若しくは人を脅迫する行為により、又は財物の窃取若しくは損壊、施設への侵入、有線電気通信の傍受、不正アクセス行為その他の特定秘密を保有する者の管理を害する行為により、特定秘密を取得した者は、十年以下の懲役に処し、又は情状により十年以下の懲役及び千万円以下の罰金に処する。
2項 前項の罪の未遂は、罰する。
3項 前2項の規定は、刑法その他の罰則の適用を妨げない。
22条は、一定の手段で特定秘密を取得することが、最高刑懲役10年とされている。一定の手段とは、強取、喝取、窃取、詐取など、違法性の強い者に限定されていない。「特定秘密を保有する者の管理を害する行為により」というのだから、ほとんど無限定に等しい。その未遂罪も罰せられる。これは極めて危険だ。記者の活動は著しい制約を受ける。言論界が、こぞって反対しないとたいへんなことになる。
第23条 1項 第21条第1項又は前条第1項に規定する行為の遂行を共謀し、教唆し、又は扇動した者は、5年以下の懲役に処する。
2項 第21条第2項に規定する行為の遂行を共謀し、教唆し、又は扇動した者は、3年以下の懲役に処する。
「特定秘密の取扱いの業務に従事する者」の秘密漏示行為を教唆・煽動したものは最高刑5年の懲役である。教唆・煽動の行為の定型性は緩い。何が教唆・煽動にあたるか、思いがけないことになりかねない。「特別の必要あって秘密の提供を受けた者」への秘密漏示の教唆・煽動も3年の刑となる。
何が秘密かはヒミツである。逮捕されるまで国民には分からない。まさしく、「特定秘密」は埋め込まれ隠された地雷である。地雷を踏んだ記者が直接の生け贄とされるが、地雷敷設による真の被害者は、知る権利を侵害される国民である。
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『パブコメはどう生かされるのか』
なお、内閣官房は同日、同法案の概要に対するパブリックコメントの実施結果を明らかにした。今月3日から17日までの15日間に94000件のコメントが寄せられ、そのうち反対が77%を占め、賛成は13%に過ぎなかったという。
反対意見は「原発問題やTPP(環太平洋連携協定)交渉など重要な情報を知ることができなくなる」「特定秘密の範囲が広範かつ不明確」「取材行為を萎縮させる」など、国民の知る権利や報道の自由を懸念する内容がほとんど。賛成意見は、「スパイを取り締まれる状況にしてほしい」「安全保障のため秘密を守ることは必要」などというもの。
この件数について、東京新聞は、「意見公募は、政府が法案を閣議決定する前などに、国民の意見を聞く制度。意見が数件しか寄せられないケースも多く、九万件は異例だ。今回の募集期間が、一般的である30日の半分しかない15日だったことを考えれば、国民が強く懸念している実態を示したといえる」と論評している。
ところが、自民党の側はそのような評価ではない。町村信孝PT座長は、反対意見が圧倒的に多かったことについて、「多くの人が心配しているのは分かった。ただ、賛成多数だった各種メディアの世論調査と違う結果で、一定の組織的コメントする人々がいたと推測できる」と記者団に述べた(毎日)という。
いったい何のためのパブコメなのだ。件数が少なければ、あるいは賛成意見が多ければ、「これが世論だ」と飛びつき、思うとおりのパブコメではないとなると、「世論調査と違う」「組織的なコメントだ」と開き直る。これではパブコメ募集の意味がない。パブコメはどう生かされるのか、問い質さなくてはならない。
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「アシダカグモ」のこと
日本には1000種、世界には30000種のクモがいるという。ジョロウグモのように、網を張って獲物を捕る「造網性」のクモと、「徘徊性」のクモの2種類に分類される。
「徘徊性」のクモでひとめお目にかかりたいクモがいる。「アシダカグモ」だ。クモは節足動物だから、(写真で)よく見ると「カニ」とよく似ている。「アシダカグモ」は見方によっては長い8本の足を持った「タカアシガニ」に似ているかもしれない。いや、足を縮めると、毛が生えた8本の足にいっぱい身のつまった「ケガニ」にそっくりだ。
足を伸ばしたサイズはちょうど大人の掌くらい。ちょっとグロテスクだけど、漫画やイラストでとても人気がある。
このクモ、ただグロなだけじゃなくて、大変な働き者。夜間に徘徊し、ゴキブリを捕殺する益虫だ。ゴキブリを見ると、目にもとまらぬ早業で、8本の足で抱え込み、消化液を注入して、ゴキブリの体内を液体化して食し、身体の外側の固い部分を粉々にして、小さなラグビーボールのようにまるめて、ポイと捨てるそうだ。一晩に25匹のワモンゴキブリを捕殺したという記録がある。昆虫だけではなくて、トノサマガエルやカヤネズミを餌食にしている写真さえある。どうです、すごいでしょう。
アシダカグモは夜間にしか出てこない。消化液には殺菌効果があり、身ぎれいに毛繕いをして清潔である。室内を歩き回ったり、食物の上を這い回ったりしない。人を噛んだりはしない。長生きで清潔でおとなしくて、世話いらず。飼っていれば、ゴキブリやハエは一匹もいなくなる。メスは13回、オスは9回の脱皮をしておおきくなる。そして、長生きだ。オスは5年、メスは平均7年も長生きをする。
日本の生息域は温暖な関東以南の太平洋側だ。たいして珍しいクモでもなく、ゴキブリのいるところなら住み着くようだ。こんなにゴキブリに強いなら、「ごきぶりホイホイの代わりに、2,3匹飼いましょう」とならないのはなぜか。
分かりきったことだ。やはり、ゴキブリ以上にクモ、とくに大きなクモには虫酸が走るという人が多いということが理由。いくら益虫だと説明しても、「イヤなものはイヤ」ということ。へたをすれば、ゴキブリの代わりにたたき殺されてしまう。
夜な夜なこんなでかいクモがキッチンを這い回って、寝ぼけ眼で起きてきたら、青い目で睨まれた。たしかに、こうした遭遇に耐えられる人は少ない。実をいって、わたしも、もう今となっては「アシダカグモ」にお目にかからなくてもいい気分になっている。
(2013年9月30日)
注目の堺市長戦は、投票締切と同時に「竹山候補当確」となった。票差がどのくらいのものかはよく分からないが、「竹山圧勝」「維新惨敗」で間違いなさそう。明日の朝刊には、「橋下不敗神話崩れる」などの見出しが躍ることになる。
最大の争点と影響が「大阪都構想問題」なのではない。実は、「維新の会」という危険な存在の勢いが、増長するのか失速するのか、それこそが最大の争点であった。その選挙で、維新の凋落が決定的になった。
この結果をもたらしたのは、反維新の各党各勢力の共闘である。共産党は、自民と組んでまでして反維新を貫き成功させた。国共合作を彷彿とさせる。中国共産党は、蒋介石の国民党と組んでまでして、日本軍の侵略と戦った。これに比肩すべき、「自共共闘」。但し、この「自」は「安倍自民」ではなく、「自民府連」であることの意味は小さくない。
堺の各政党の勢力は、7月の参院選比例代表の得票数で自民8万1103票、民主2万4793票、共産4万1720票。3党を合計すれば、維新の10万856票を遙かに凌駕する。そして、党派別市議数は、公明12、維新10、ソレイユ堺(民主)10、共産8、自民7である。
共産党単独では首長選に勝ち目はない。さりとて、常に独自の候補を立てて存在感をアピールし、選挙ごとに影響力を拡大していくのが、政党本来の在り方。数合わせで共闘を考えてはならない。問題は、維新を、侵略外国軍と同等の敵と規定できるかどうかにある。これまでの、維新橋下の大阪府政、大阪市政を見ていれば、その凶暴ぶり、危険さは侵略外国軍並みと言ってよい。共闘は理念においても、現実的な政治選択としても正しかったとえるだろう。
珍しく、共産党がネットで選挙総括の市田書記長談話を発表している。
その中で「今回の勝利は、‥『構造改革』の推進、憲法改悪など自民党よりさらに『右翼』的立場にたつ『維新』への都議選、参院選につづく審判でもあり、今回の結果はきわめて大きな意義をもつものです」と言っている。
維新側は、竹山陣営に共産が加わっていることについての批判を前面に打ち出した。
橋下は、「竹山さんはある意味、共産党の市長なんです」。「共産党軍団が『堺はなくなる』と言う。堺なくなる詐欺だ」と与野党相乗り支援を批判し、共産をことさらに標的にした。維新の体質をよく表している。しかし、反共攻撃が成功しなかったことの意味は大きい。いまや、反共攻撃の効果は期待しがたい。むしろ、非理性的な反共体質の露呈は、逆効果でさえある。
維新関係者の不祥事続出が維新凋落の必然を象徴している。振り返れば、昨年暮れの総選挙が維新のピークだった。今年6月の都議選が終わりの始まり。7月参院選は終わりの始まりの確認。そして、今回が凋落への本格的第一歩なのだろう。
安倍は自らを「右翼」と呼べと言った。維新は、「極右」といってよい。また、極端な新自由主義、反人権主義、そしてその政治手法の凶暴性において際立っている。自民と共闘しても抑え込まねばならない政治勢力であって、本日の選挙結果はまことに喜ばしい。
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『キイロスズメバチの巣』
ジョロウグモの巣がキラキラ光る朝露で飾られると、秋がきたと思う。どうやって張るのか驚くほど大きなネットがあちこちに張り巡らされる。意外に強いその糸が行く手をさえぎって、おちおち歩けない。巣の真ん中には赤と黄色の派手な衣装をまとった、歌舞伎役者のような雌グモがにらみをきかせている。冬の寒さがくる前に、獲物をたくさん捕らえて力をつけて、旅する雄グモと交接し、卵を産まなければならない。卵嚢には1000個もの卵が包まれ、それを守る母グモは衰え死んでも、来年の春には子グモがふ化する。暖かくなる頃には、子どもたちは文字通り、クモの子を散らしたように広い世界に散らばってゆく。
生命の営みを活発化するクモにひきかえ、この時期スズメバチの活動は静かになる。
我が家の2階の軒下がよほど気に入ったとみえて、キイロスズメバチが3年連続で巣をかけた。はじめの2年は、早めに役所の環境課の職員に巣を撤去してもらったが、毎年お願いするのは気が引けた。今年はどのくらい大きくなるのか見届けてやろうという興味もあって、放置したのが間違いのもと。5月の初め頃、女王バチがひとりで巣作りしていたうちは遅々として進まなかった。しかし、夏の盛りに働きバチが殖えると、唸り声がきこえるほど密集して、見るも恐ろしい状態になり、ただ唖然として見守るしかなかった。みるみるうちに巣は両手で抱えきれないほどの大きさになってしまった。後悔先に立たずである。
しかし、気温が低くなるにつれて、飛び回るハチの数は目に見えて減ってきた。それを見透かしたかのように、まわりにクモの巣が張られた。今朝はその細い糸に一匹のスズメバチがかかってしまった。目先を飛び回る仲間のハチはまったく無関心で、助けようとするそぶりも見せない。ジョロウグモの方も恐ろしいのか近づかない。当然、蹴破って逃げるに違いないと思っていたけれど、午後にはスズメバチは静かになってしまった。凋落を象徴する事件だ。
また気温が上がれば、スズメバチもしばらく勢力挽回するだろうが、いずれ新女王バチが選ばれて、古い巣は見捨てられてしまう。新女王は枯れ葉の下で受精卵を腹に抱えて、またくる春の栄華を夢見て、寒さの冬を眠って過ごす。
地方によってはスズメバチが家に巣作りすることを、縁起がいいこととして喜ぶところもあるそうだ。冬になったら、巣を取り外して窓辺にでも飾って、「分限者バチ」にあやかろうか。今年は何とかおっかなびっくりスズメバチと共生できた。 さて来年はどうしよう。放っておけば、来年の巣はどこまで大きくなるのだろうか。興味津々だが、思案のしどころである。
(2013年9月29日)
公職選挙法11条1項2号は、「禁錮以上の刑に処せられその執行を終るまでの者」について「選挙権及び被選挙権を有しない」と定めている。この規定によって、服役中の受刑者には選挙権が与えられていない。選挙犯罪に限らない。政治犯であろうと過失犯であろうともだ。なお、1項1号には「成年被後見人」と書き込まれていたが、本年5月31日の法改正で削除されている。
受刑者の一律選挙権剥奪を違憲として争った訴訟の控訴審判決の言い渡しが昨日(9月27日)大阪高裁であった。受刑者であったために選挙権を行使できなかった原告(控訴人)の主張に対して、「『受刑者の選挙権を一律に制限するやむを得ない理由があるとは言えない』と指摘。受刑者をめぐる公選法の規定が、選挙権を保障した憲法15条や44条などに違反するとの初判断を示した」などと報道されている。
判決文そのものが閲覧できないのでもどかしいが、原告の請求は、(1) 次回における選挙において投票できる地位の確認と、(2) 過去の選挙において選挙権の行使ができなかったことによる慰謝料の国家賠償、の2点であったようだ。
これに対して、一審大阪地裁の判断は、(1)については服役が終了しているので訴えの利益を欠くから不適法な訴えとして却下、(2)については受刑者の選挙権を一律に制限するやむを得ない理由がないとはいえないとして違憲の主張を退けて請求を棄却したようだ。
ところが、昨日の大阪高裁の判断は違った。まず、選挙権について「議会制民主主義の根幹をなし、民主国家では一定の年齢に達した国民のすべてに平等に与えられる」と原則を述べ、選挙権の制限はやむを得ない理由がなければ違憲になるとする最高裁大法廷判例の基準に沿って判断すると枠組みを設定した。そのうえで、受刑者について、「過失犯など、選挙権の行使とは無関係な犯罪が大多数だ」と認定。国側の「受刑者は著しく順法精神に欠け、公正な選挙権の行使を期待できない」とする主張を退け、単に受刑者であることを理由に選挙権を制限するのは違憲だと結論づけた(以上、判決内容は主として朝日の報道による)。
但し、控訴審判決の主文は「控訴棄却」だった。原告の敗訴である。(1)の請求については一審と同じ理由で却下し、(2)の請求については、違憲論とは別に、公務員の違法行為が必要な要件となるところ、国会議員の立法不作為の違法までは認められない、としたからだ。
この点の報道は、「判決は、『受刑者の投票権の制限に関する問題が独立して国会で議論され、世論が活発になっていたとは認められない』と指摘。『国会が正当な理由なく長期にわたり規定の廃止を怠ったとは評価できない』とした」というもの。
つまり、原告の「違憲な法律が放置されてはならないのだから、国会議員がこれを改正せずに放置した不作為が公務員としての違法行為にあたる」という主張が排斥されたのだ。立法不作為の責任の壁は、高くて厚い。判例では、「立法の内容又は立法不作為が国民に憲法上保障されている権利を違法に侵害するものであることが明白な場合や,国民に憲法上保障されている権利行使の機会を確保するために所要の立法措置を執ることが必要不可欠であり,それが明白であるにもかかわらず,国会が正当な理由なく長期にわたってこれを怠る場合などには,例外的に,国会議員の立法行為又は立法不作為は,国家賠償法1条1項の規定の適用上,違法の評価を受けるものというべきである」とされる。
最高裁は、2005年9月「在外邦人選挙権制限違憲訴訟」では、この例外的場合にあたることを認めて、一人5000円の慰藉料請求を認めた。また、「次回選挙における投票をすることができる地位の確認」も認めた。今回との違いは、違憲や制度改正の論議の成熟度ということであろう。
とすれば、この判決をきっかけにした法改正の動きが進行しない場合には、立法不作為による違法の責任が認められることになる、と言ってよい。
在外邦人、成年被後見人、そして受刑者へ。選挙権拡大の流れは着実に進んでいると見るべきであろう。一票の格差についても、最高裁の積極姿勢が見える。婚外子差別違憲判決も出た。これらをもって最高裁の司法消極主義からの転換と見てよいのだろうか。
「裁判所は変わった」という意見がある。最近の最高裁は、かつてよりも違憲判断に躊躇しない姿勢を見せているという積極的評価である。これに対して、「それは、天下の形勢に影響しない範囲でのことでしかない」という反論がある。体制の根幹にかかわるような問題についての司法消極主義はまったく変わらない、との否定的な評価である。おそらく「変化」自体は認めざるをえない。問題は、「どの範囲の、どのような変化となりうるか」である。もう少し、事態を注視しなければならないだろう。
(2013年9月28日)
安倍晋三の「ハドソン研究所」(米の保守系シンクタンク)主催会合での演説要旨についての報道は、時事通信が詳しい。その中の一節が、以下のとおり。
「本年、わが政府は11年ぶりに防衛費を増額した。すぐそばの隣国に、軍事支出が少なくとも日本の2倍で、米国に次いで世界2位という国がある。毎年10%以上の伸びを20年以上続けている。私の政府が防衛予算をいくら増額したかというと、たったの0.8%にすぎない。従って、もし私を右翼の軍国主義者と呼びたいのであれば、どうぞ呼んでいただきたい」
「軍国主義」の定義については、広辞苑の記載がよく引用される。「国の政治・経済・法律・教育などの政策・組織を戦争のために準備し、軍備力による対外発展を重視し、戦争で国威を高めようとする立場。ミリタリズム」
言葉について、私的な定義をすることに意味はない。広辞苑の穏当な定義に拠って、大きな間違いはないだろう。とすれば、「軍国主義者」とは、「国の政治・経済・法律・教育などの政策・組織を戦争のために準備し、軍備力による対外発展を重視し、戦争で国威を高めようとする立場に立つ人。ミリタリスト」ということになる。まさしく、安倍晋三にぴったりではないか。
彼は、憲法9条の平和主義を目の仇としている。「自衛のための最小限の実力」の保持では満足せず、地球の裏側にいってまで武力行使のできる国防軍を渇望している。集団的自衛権の行使容認をたくらみ、先制的自衛権や殴り込み部隊である海兵隊機能を提案している。軍国神社靖国に公式参拝して祖父の盟友であった戦犯の霊に額ずくことを公約している。軍法会議の創設を提案している。戒厳令の復活を狙っている。さらに、武器輸出三原則を清算し、教育基本法を変え、歴史教科書を塗り替え、従軍慰安婦の存在を否定し、軍服をまとって戦車や軍用機に乗ってはしゃいで見せている。軍国主義者としての資格に欠けるところはない。
また彼は、国粋主義者であり、近隣への差別主義者であり、天皇崇拝者であって、要するに典型的な、ありふれた「右翼」でもある。
彼の頭の中では、「軍国主義者」の定義は、「防衛予算を増額した国の代表」をいうものであるごとくだが、そのような「独自の私的な定義」は無視して差し支えない。おそらく、彼一人に、予算の編成を任せれば、防衛予算は倍増し福祉予算は半減するだろう。安倍が軍国主義者であることと、防衛予算の増減は必ずしも連結しない。
とはいうものの、「軍国主義者」とは、口にするのに憚らざるをえない最大級の悪罵である。いかに、安倍が定義にピタリの軍国主義者であっても、名指しして「あなたは軍国主義者だ」ということには躊躇せざるをえない。
ところが、本人から「もし私を右翼の軍国主義者と呼びたいのであれば、どうぞ呼んでいただきたい」と、わざわざの申し出である。これに応えて、これからは、遠慮や躊躇を捨てて、安倍晋三を「右翼の軍国主義者」と呼ぶことにしよう。
ただ、悪口として投げつけるだけでは芸がない。彼のたくらみの一つ一つを吟味して、それが「右翼の軍国主義者」故の発想から出たものである所以を明らかにすることが大切だと思う。
論語にもある。「文質(ぶんしつ)彬彬(ひんひん)として然る後に君子なり」と。
これを翻訳すれば、「安倍を軍国主義者だと言葉だけで攻撃してもダメ。安倍の政策の一つ一つの軍国主義的性格を明確にして実質で批判しなさい。それが理性ある主権者国民の正しい安倍批判の在り方ですよ」。孔子もうまいことを言う。
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「我が家の庭はレストラン」
ラジオで、「柿もぎをはじめました」というたよりが紹介されていた。ああもうそんな季節かと聞いていると、「ちょっと色づいた青柿です」といっている。柿渋をとるのかと思っていると、「サル対策で、他の作物を荒らしに出てこないように、柿が熟す前に落としてしまうんです」とのこと。たわわに実る柿の木の風景は山村ではもう見られない。
山村だけではない。静岡市の真ん中の静岡県庁にニホンザルが現れて、警察や職員を尻目にかけて、ベランダや庇を縦横に駆け巡って未だ捕まっていない。利口そうにこちらを伺うサルの写真を見れば、「ペンギンだって82日間逃げたんだからガンバレ」と無責任な声援を送りたくなる。山に食べるものが少ないのだろうか。
折り紙作家の布施知子さんの「ひまなし山暮らし」(筑摩書房 1996年)を紹介しよう。布施さんは長野県で「山暮らし」をしている。「オニヤンマが悠然と茶の間に入ってきて、ギロリとあたりを睨み、また悠然と出て行く。おおっ!オオスズメバチが軍艦のように入ってきた。ちょっと逃げていよう。壁に軽い頭突きを数度、ようやく出ていった。あっ、オシッコした。オシッコするとオオスズメバチは速度を急に早めて、ブーンと松林に消えた。」こんな羨ましい暮らしだ。
その中の「秋 柿の木」から。「凍みと凍みっ解けを何度もくりかえして白っぽくなった皮がたるんできた1月の中頃から、柿の木は賑わいをみせはじめる。主はひいさまー1羽のヒヨドリである。ひいさまの柿の実に対する執着は、けなげといっていいほどだ。じぶんがいるとき、なんぴとといえども相伴は許さない。翼をふるわせ、嘴を開き、あっちへ行け! さがれ!のポーズをする。小間鳥(カラ類、エナガ、コゲラ、メジロはよく一緒に団体で来るので、小間物屋にかけて小間鳥と呼んでいる)はなにしろ団体なので、ひいさまはご威光を知らしめ、警告を発するに大忙しとなる。小間鳥たちは警告に席を譲るものの、心底恐れ入ったようには見えない。うるさいのが来たからちょっとどいた、という感じである。そして2,3分、実や枝をつついていたかと思うと、来たときと同じように、団体でまたどこかへ行ってしまう。あっさりしたものだ。ひいさまはヤレヤレと食べはじめるが、落ち着かない様子でキョロキョロしている。いつもキョロキョロしている。因果なものだ」
うちの庭にもスモモの木があるが、実がなっていた頃は(昨年あたりから不思議なことにピタリと実がつかなくなってしまった)、同じ情景がくり広げられた。まず、さすがサルは来ないが、ハクビシンが夜ごと現れた。ピカリピカリと目を光らせて、器用に細い枝先まで登っていって、いちばん熟れたおいしいやつを選んで食べる。それもうまいところだけ一口。かわいくない。
朝になると、ヒヨドリのお出ましとなる。うちに来るのは「姫」じゃなくて、「野郎」。ピーピーと鳴きわめいて、メジロやシジュウカラを追い払う。そして、上品につついてひとつだけ、遠慮深くいただくということは、絶対しない。ヒヨドリのつつき回した後を、可愛らしく食べるメジロやシジュウカラがいとおしくなるのは人情。スモモとミカンの実がなくなる頃には、椿の花が咲き始める。鳥たちは椿の花粉の中に全身をうずめて、動くうぐいす餅のように粉まみれとなって遊ぶ。私もどんなにおいしいものかと舐めてみたが、花粉はただ苦いだけ。
こうして、我が家の小さな庭は、秋から冬の間、お客さんの絶えない賑やかなレストランとなる。ハクビシンはただの恩知らずだが、小鳥たちはお礼を残していく。春になるといろいろな実生が芽をだして、お楽しみクイズを提供してくれる。
(2013年9月27日)
本日「授業してたのに処分」事件が結審した。同事件は、元福生高校教諭の福嶋常光さんが、再発防止研修の日程変更を認められず、やむなく予定のとおりの授業を平穏に行っていたところ、減給6月という重い処分を受けたというもの。
理科の先生だった福嶋さんは、真面目を画に描いたようなお人柄。教師像の一典型と言えそう。その福嶋さんが、「君が代・不起立」で懲戒処分を受けた。ここまでは石原教育行政下での450件のエピソードの一つ。福嶋さんは、これに追い打ちをかけた信じがたい懲戒処分を受けて、憤懣やるかたなく、たったひとりの原告となった裁判を起こした。
懲戒処分を受けると、服務事故再発防止研修の受講を強制される。研修したところで、思想が改造できるわけはないのだから、石原教育行政の嫌がらせ以外の何ものでもない。それでも、受講拒否はさらなる懲戒事由とされるのだから、福嶋さんも受講せざるを得ないと覚悟はしていた。福嶋さんが再発防止研修を命じられたのは今回が初めてではなく、これまでは、受講命令に従っていた。
ところが、この嫌がらせ研修として指定された日には、福嶋さんは5時間の授業をしなければならない日程となった。しかも、他の教師に授業を代わってもらうことも、授業計画を建て直すことも不可能。当然に、研修の日程を変更してもらわねばならない。研修予定日の2か月前には校長に、1か月前には直接教育委員会にその旨を申し出た。研修日の変更は明らかに可能だった。
しかし、都教委の返答は「ノー」というもの。「教員に服務事故再発防止研修の日程変更を申し出る権利はない」ということなのだ。
福嶋さんは考えた。自分は、公務員として都教委の指示に従って研修を受けるべきだろうか、それとも教師として生徒のために授業を行うべきだろうか。答えは自ずから明らかだった。「自分は教師である。教師の本分は生徒に授業を行うこと。生徒に寄り添う立場を貫くならば、授業を放棄するわけにはいかない。授業を行うことこそが正しい選択だ」。そう考えての実行が、「減給10分の1・6か月」というとんでもない処分となった。信じられるだろうか。都教委が福嶋さんの都合を聞いて、次の研修の日を設定しさえすれば済むことなのに、減給6か月。
以下は、本日の弁論終結に際しての、私の意見陳述の内容。
弁論終結に際して、原告代理人の澤藤から一言申し上げます。
裁判官の皆様には、是非とも教育という営みの重さについて、十分なご理解をいただきたい。そのうえでの本件にふさわしい判決をいただきたいのです。
教育とは、尊厳ある個人の人格を形成する営みです。明日の主権者を育て、社会の未来をつくる営みでもあります。憲法の理念の実現はひとえに、教育にかかっている、と言って過言でありません。その教育の在り方が、本件では極めて具体的に問われています。
原告は、形の上では原告自身の権利侵害についての救済を求めています。しかし本件訴訟の実質においては、侵害されている教育本来の姿の回復が求められています。教育という営みがないがしろにされ歪められていることを黙過し得ず、たった一人で提訴を決意した原告の心情を酌んでいただくとともに、憲法や教育基本法が想定している本来の教育とはいかなるものであるか、教育行政はこれにどうかかわるべきか、そのことに思いを致しての判決起案でなくてはなりません。
本件事案は、教育をこよなく大切に思う現場教員と、教育を重要なものとは思わない教育委員会の争いであることが一見明白です。いや、正確には、「争い」とはいえません。不真面目な教育委員会が、真面目な教員を、一方的に貶めているという図式と言うべきでありましょう。貶められ、侵害されているのは、原告の権利だけではなく、教育そのものでもあります。
原告は、生徒の教育を受ける権利を全うしようという姿勢を崩すことなく、一貫して真摯に授業に専念しました。
これに対して、被告都教委の姿勢はどうだったでしょうか。教育にも、授業の進行にも、生徒の履修の障害にも、まったく関心を寄せるところはありませんでした。都教委が関心をもったのは、ひとえに、教員に対する強権的統制の貫徹。もっと具体的に言えば、学校現場に「日の丸・君が代」強制が徹底される体制の整備、それが生徒の授業を受ける権利よりも重要なこととして強行されたのです。
都教委は、偏頗で強固なイデオロギーをもっています。職務命令や懲戒処分を濫発してまで、全教職員が一律に「日の丸・君が代」強制に服することが教育現場に望ましいとする、秩序偏重の国家主義的イデオロギーです。
このイデオロギーは、私たちが「転向強要システム」と呼んだ、累積加重の懲戒基準に顕著に顕れています。「日の丸・君が代」、あるいは「国旗・国歌」強制に服することができないとする教員は、どのような理由からであれ、やむなくこれを受容するに至るまで処分は限りなく繰り返され、しかも加重されます。屈辱的な再発防止研修の受講強制も繰り返されるのです。
既に、最高裁はこの懲戒量定の基準を違法と断じました。その意味では、本件の判決主文の帰趨は明らかなのですが、本件はこれまでの判例にあらわれた「日の丸・君が代」強制事案と同じものではありません。本件では、もっと具体的に、教育行政がどのように教育と接すべきかという問題を提起してます。そして、転向強要システムは、教育現場であればこその際立った違法といわなければなりません。
裁判官の皆様には、安易に最高裁判決をなぞるだけの判決に終始されることなく、教育の重みと教育条理とを踏まえ、教育行政の教育への関与の限界を十分に認識された、本件にふさわしい判決を言い渡されるよう期待いたします。
判決期日は本年12月19日13時10分と指定された。
(2013年9月26日)