澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

ジョージア州の「銃どこでも法」を嘆く

以下は、本日のCNN日本語版ネット配信記事。アメリカの銃「規制」問題についての最新事情をものがたっている。

「米ジョージア州で学校や教会などへの銃携行を条件付きで認める条項を盛り込んだ州法が23日、ネイサン・ディール知事の署名で成立した。
 同法は銃の携行を認める場所について規定する内容で、許可証を持つ人物が銃を隠して一部のバーや教会、学校、行政庁舎、空港の駐車場やショッピング街など一部区域に持ち込むことも認めている。同法は7月1日から施行される。
 署名式は同州北部エリジェイの屋外ピクニック場で行われ、出席者の多くは拳銃を携行していた。全米ライフル協会の帽子をかぶったり、「銃規制をやめろ」「銃は命を救う」などの横断幕を掲げる出席者もいた。
 ディール知事は署名に当たり、「我々の自由を再確認する素晴らしい日」が来たと述べ、同法によって住民は家族を守ることができ、銃を携行できる場所が増えると強調。銃の持ち込みを認めるかどうかは教会やバーなどの所有者が決められるとした。
 一方、反対派は同法を「銃どこでも法案」と呼んで批判していた。銃の持ち込みを認める範囲は当初の法案よりは狭められたものの、『これで米国一利用者の多い空港に銃が持ち込めることになり、学校では教室への銃持ち込みを認めるかどうかを巡って激しい論争が持ち上がる』(法案反対組織の幹部)と批判している。」

南部ジョージア州といえば、州都がアトランタ。かの「風と共に去りぬ」の舞台である。コカ・コーラ、CNNなどの企業本社所在地としても、犯罪多発地帯としても知られる。デルタ航空本社もここにあり、アトランタ空港は「世界で最も忙しい空港」という異名をとる。全米で最も銃規制が緩やかというフロリダに隣接してもいる。そのジョージア州での「銃どこでも法」の成立。

オバマ来日中だが、「アメリカのようにはなりたくない」と昔から思ってきた。私のイメージに沈潜しているアメリカの一面は、「差別の国」「格差の国」そして「暴力の国」である。「暴力の国アメリカ」を象徴するものが、「銃の社会」「銃の国」としての実態である。至るところに銃がある。いつ発砲されるかの不安から逃れられない。全米での銃所持率は57.7%に上るという。毎年1万人以上が射殺されている。いやしくも文明国、当然に銃規制の進展があるだろうと思っていたが、実はそうなっていない。ジョージアでの「銃どこでも法」の成立は、銃規制に逆行する全米の傾向をものがたっている。

銃規制に反対する思想は、「自衛のための武力は必要」、「自衛手段を備えることは権利」というもの。「『凶器としての銃』に対抗する手段としての護身の銃」を手放すことはできない、との信念である。

敷衍すれば、こうではないか。殺人や傷害、強盗・恐喝・脅迫の手段となる銃(悪い銃)と、身を守る手段としての銃(良い銃)とがある。「銃は命を救う」「住民は家族を守ることができる」「我々の自由を再確認する素晴らしい日」という発言は、良い銃が必要だし、良い銃が社会に充ちることこそが望ましい、という発想である。あるいは、銃が世に満ちれば、悪い銃は使えなくなるに違いない、というあまりに近視眼的な発想。

もちろん、銃に良いも悪いもない。どの銃にも殺傷力があるだけ。銃は本来的に危険な凶器である。使い手次第で、その危険性が現実化して、悪い銃になる。「良い銃こそ、世に満ちよ」という願いで、規制を解かれて世に出される大量の銃のうち、その一部は確実に「悪い銃」として使われる。

また、はたして銃が世に満ちれば悪い銃が使えなくなるだろうか。昨年9月、「銃の所持と殺人の間には、確実な統計的関連性がある」とする研究報告が、米国医師会雑誌に発表されている。「研究は30年間、全米50州を対象に行われたもので、銃の所持率が1%上がるごとに、殺人率が0.9%上がるとされている」という(AFPの記事http://www.afpbb.com/articles/-/2968025?pid=11340935)。

この結論は常識的なものだが、統計数値に支えられて説得力は大きい。この度のジョージアの立法も、確実に殺人率を上げることに貢献するだろう。

「国家権力に武力の独占をさせてはならない」として、人民からの武器剥奪に抵抗する思想に魅力を感じないではない。しかし、その思想の妥当性は役割を終えた過去のものとなった。歴史的には国民が銃を持つ権利が意味をもっていたが、今や国民が武器をもたないで安全に暮らせる社会の実現こそが具体的な目標となるべきだ。治安の攪乱が、身を守るべき銃を必要とする。治安の確立が銃を必要ないものとする。真に身を守る手段は、銃ではなく、いま人に銃を持たせることになる要因としての、格差・貧困・偏見・憎悪の克服をこそ目指すべきであろう。

この議論は、一国における武装自衛主義と非武装平和主義との論争に通じる。歴史は、国民が武器をもたない社会の形成をめざして、ほぼ実現しつつある。次は、各国が武器を持つ必要のない国際社会を目指すべきが当然だろう。国防軍の増強ではなく、各国間の格差・貧困・偏見・憎悪・収奪を克服して、国家間、国民間の平和的な交流の促進が課題となる。

その先頭に日本か立つことによって「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。」

なお、アメリカの銃規制反対派の拠りどころは、合衆国憲法である。その修正第2条は、「規律ある民兵は、自由な国家の安全にとって必要であるから、人民が武器を保有しまた携帯する権利は、これを侵してはならない」というもの。「人民が武器を保有しまた携帯する権利」とは、「良い銃」の保持が憲法価値にまで高められているのだ。とはいえ、この武器保有の権利も、国民の生命の保全や生活の安全などの他の憲法価値と衝突することとなれば、衡量しなければならない。既に、銃保有の自由が「殺人率」を高めて、国民の生命や社会生活の安全に桎梏となっていることが明らかとなっている以上は、銃規制の合憲性は当然と言うべきではないか。
(2014年4月24日)

司法の正義を実現した内部告発者に懲戒処分とはもってのほか

本日(4月23日)、東京高裁第23民事部(鈴木健太裁判長)は、いわゆる「たちかぜ裁判」での控訴審判決を言い渡し、国に対して7350万円の損害賠償を命じた。

よく知られているとおり、事案の内容は、海上自衛隊の護衛艦「たちかぜ」に勤務していた1等海士(当時21歳)が2004年10月に自殺したことについて、上職隊員のいじめが原因として、遺族が国といじめの元凶であった隊員に、その責任を問うたものである。

いじめがあったことは一審以来明らかにされていた。一審判決(水野邦夫裁判長)も、いじめの事実は認定して、いじめによって被害者が受けた精神的被害については賠償請求を認容した。が、その額は弁護士費用を含めて440万円に過ぎなかった。いじめと自殺との因果関係を認めなかったからである。

不法行為制度では、違法(故意・過失)行為に起因する全損害の賠償が認容されるわけではなく、相当因果関係が認められる範囲に限定される。相当因果関係を画するのが予見可能性である。本件の場合には、死亡という結果についての損害賠償請求が認容されるためには、いじめと自殺との間に、相当因果関係あることが要求され、いじめの被害者の自殺が「予見可能」であったことの証明が求められる。一審では、予見可能性の認定に至らなかったが、本日の控訴審判決では一転してこれを認めた。そのため、被害者の死亡による財産的・精神的損害の一切について賠償が命じられた。原告側は誇らしげに「完全勝訴」の垂れ幕を掲げた。

横浜地裁の一審判決が、2011年1月26日。控訴審係属期間3年余は最近では珍しい長期審理。統計によれば、東京高裁では民事控訴審事件の80%近くが一回だけの口頭弁論で結審になっている。本件が長引いたのは、特殊な事情による。予見可能性を立証する証拠の存在についての内部告発があったからだ。その内部告発に裁判所が耳を傾けたことが、慎重な審理となり、認容額も一審の440万円から、7350万円に大幅増額された。なによりも、事実が明らかにされ、被害者を自殺に追い込んだ自衛隊の責任が明瞭となったことが遺族にとっては何ものにも代えがたい提訴の成果であったろう。予期せぬこととして、自衛隊の常習的ないじめ体質だけでなく、不祥事の隠蔽体質まで明らかとされた。控訴審判決は、「重要な文書を海自側が違法に隠匿したと認定、このことについて独立して20万円の賠償を認めた」ことが報道されている。

もし、内部告発がなかったとしたら…。おそらくは、早期結審によって控訴棄却判決となり、一審判決が確定していたであろう。勇気ある内部告発が、司法の正義に貢献したのだ。

問題の内部告発情報は、乗組員190人分のアンケートや事情聴取メモである。その中には、生々しいいじめの報告だけでなく、「自殺前夜に、被害者から自殺を示唆された」という聴き取りメモもあった。一審では国側は、そのすべてが破棄されて存在しないとしていたが、実は保管されていたことが内部告発で判明した。この内部告発者は、法務に携わり本件を担当した現役の三等海佐。

朝日の生々しい報道がある。この三佐が直接上司に発言したのは、2011年1月26日。一審判決の日の言い渡し時刻の直前だったという。懐には、ICレコーダーを忍ばせて、海自の幹部の一人である首席法務官の部屋を訪ねた。「説得に失敗したら、人生が破滅する――。覚悟のうえでの『直訴』だった」という。しかし、この説得が聞き入れられることはなかった。

三佐は情報公開を請求するが、海自は「アンケートは破棄」と回答。三佐は、その後の2012年2月遺族側弁護士に事情を打ち明ける。そして同年4月、「海自はアンケートを隠している」と告発する内容の陳述書を東京高裁に提出した。すると、同年6月海自は一転して「アンケートが見つかった」と発表。以後、審理の方向は大きく転換することとなった。

ところが、思いがけないことが起こる。2013年6月、海自から三佐に、懲戒処分手続きの開始を通知する文書が届くのである。三佐は、調査の関連文書のコピーを証拠として自宅に保管していた。海自はこれを規律違反だと主張し、三佐は「正当な目的であり、違反にあたらない」と争っている。今後、海自がこの件をどうするか、予断を許さない。

「公益通報者保護法」の制定が2004年6月、施行は06年4月1日からである。この法律の制定過程の議論では、過剰な期待を抱いたものだ。この法律は、我が国の文化史の画期となるものではないか。組織に埋没した個人の主体性を救い出すきっかけとなるのではないか。圧倒的な存在としての「組織」、その最たるものとしての「国家権力」に対して、個人に闘う武器を与えるものとなるのではないか…。期待したほどの法律はできなかったが、それでもこれは第一歩。これからは内部告発者が、「公益通報者」として保護される時代なのだと期待させるものはあった。あれから10年、個人と組織との力関係の変化は生じていない。

そのような社会において、本件の三佐には、無条件に敬意を表するしかない。ときどき現れるこの三佐のような「正義の人」が、社会の鑑である。一人一人を励ます貴重な存在でもある。私も、ささやかな組織への抵抗を経験して、この人の覚悟のほどがよく分かる。言うは易く行うは難いのだ。社会はこの人に感謝すべきである。表彰すべきが当然で、懲戒処分にするなどとはもってのほか。海自には、よくお考えいただかねばならない。
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      散歩をしよう。サクラが終わっても、いたるところ緑。
庭でタケノコを見つけた。丁寧に掘りあげて、茹でて、ありがたく頂戴することにしよう。長さ20センチ、直径5センチほどの小さなもので、汁の実ぐらいにしかならないが。

実はこのタケノコの親は、15年ほど前に、ブロック塀の下をかいくぐって隣から家宅侵入してきた不届き者だ。その都度、これを手打ちにしてきた。その隣にはアパートが建って、元の竹林は消滅したのだが、我が家の日当たりの悪い庭に侵入した分だけが生き残って、細々と命脈を保っている。ひょろりとした3本の「孟宗竹」が、毎年1、2本ほどのタケノコをやっとのことで顔を出す。それを情け容赦なく掘りあげるのである。気がつかない年には、細くスラリとした青竹が立ち上がって、そのまま命を全うすることもある。そんな年は、古竹を切って物干し竿にするのだ。猫の額ほどの庭だが、豪壮な話のタネにはなるので、この竹林は絶やすことなく大切にしようと思う。

さて、こちらは本当の庭園の話。東大本郷の三四郎池では、まわりの木に這い上ったヤマフジが今を盛りと、見事に咲き誇っている。花に絡まれた木が池の上に傾いて、池に映った藤色の美しいこと。きっと、ヤマザクラが終わった関東の里山をヤマフジの薄紫が飾っているのだろうと想像するだけでうっとりする。

東大の構内はいたるところで、大木のイチョウに可愛らしい小さな葉が出てきて賑やかだ。木の下には役目を終えた雄花が、歩道がみえないほどたくさん散り敷いている。トチノキも天狗の団扇のような大きな葉をゆったりと開いている。モミジもヤナギもマンサクもコブシもサンシュユも柔らかな葉を開いている。薄紫の花を枝の先にいっぱいつけた桐の木も空に向かって堂々と華やかだ。ハナミズキも白やピンクの花に飾られて、アピール満点だ。上だけではない。下を見れば、色とりどりのツツジが咲き始めている。郊外や山には行けなくとも、公園や街路の緑を眺めるだけで、気分が爽快になる。時間を見つけて散歩をしよう。
(2014年4月23日)

「政治的中立」というカムフラージュでの政治的偏向

最近、各地の自治体による、護憲運動や市民運動への冷たい仕打ちが目につく。安倍政権発足以来の時代の空気を反映するものとして不気味なことこの上ない。その口実が、「行政の政治的中立」である。これには警戒を要する。

このことを最初に意識したのは、神戸市が今年の憲法記念日集会への後援申請を拒否したという報道。この件については、「『政治的中立』という名目での政治的偏向」との標題を付して、3月13日の当ブログで取りあげた。その集会は内田樹氏の講演をメインとするもの。講演のテーマは、「憲法施行67周年、今あらためて憲法を考える」というだけの党派性の片鱗もないもの。しかも、同氏は地元・神戸女学院大学で長く教鞭を執った人ではないか。前例に鑑みて、主催の実行委員会は当然に後援の決定あるものと想定していた。不承認には驚いたようだ。断った市教委は、その理由を「『憲法』自体が政治的な要素を含むテーマである昨今の社会情勢に鑑み」と堂々と明示したそうだ。「憲法を考える」「憲法を守ろう」というごく当然の言動が政治的だと攻撃される時代なのだ。

長野県千曲市でも、東大の小森陽一さんの3月30日講演会(実行委員会主催)の後援要請を市長が「不承認」としている。同市では、07年3月の「九条の会」呼びかけ人の澤地久枝さん、同11月の経済同友会終身幹事の品川正治さん、08年3月の経済アナリストの森永卓郎さんの各講演会(いずれも千曲市9条の会主催)は、市も市教育委員会も後援していたのにかかわらず、である。ここでも、不承認の理由が「講演内容に政治的主張を含むと認められるため」「講演テーマは国論を二分する問題であり、政治的意見の分かれる典型的なもの…行政の中立性が保てない恐れがある」とされているという(3月7日付赤旗による)。

栃木県那須塩原市は、新潟県巻町での脱原発運動の実話をドラマ化した「渡されたバトン さよなら原発」上映会への後援を断った。同市は以前、同じ団体が催した憲法などに関する上映会や、原発関連でも内部被ばく対策など別の団体が催した5件は後援した、にもかかわらずである。従前の例に照らせば、明らかに方針が変わっているのだ。

「渡されたバトン さよなら原発」は、住民投票で原発建設計画を撤回させた新潟県巻町(現新潟市)のドラマで、映画制作会社インディーズ(東京都中央区)が社会的なテーマを扱ったシリーズの3作目。市民でつくる実行委員会は昨年11月、市に後援申請したが却下され、今年1月に後援なく開催した。実行委によると、市の取り扱い要領が「目的や内容に公共性があること」を名義後援の条件としており、「公共性があると明確に判断できない」と説明されたという(東京新聞)。原発問題や原発反対運動にかかわる問題を、「公共性がない」と切って捨てる神経は理解しがたい。当然のことながら、主催者も「那須塩原市は福島県に接しており、原発への関心は高い」と反発している。

そして、「千葉市も自主規制 平和集会 後援断る」という報道である。一作日(4月17日)の東京朝刊。記者の問題意識がよく反映した記事になっている。

「憲法や原発をテーマにした市民団体のイベントなどの後援申請を拒否する自治体が相次いでいる問題で、千葉市も4月から、平和に関する行事の後援などの申請要件を厳格化し、実質的に拒否していることが分かった。市ではこれに先立ち、1月の平和集会の後援を拒否していた。
 市は、行事の共催や後援に関する基準を4月から変更した。従来は、共催や後援を見送るのは政治的・宗教的中立性を侵したり、営利目的のケースだったが、新たに平和関連行事を念頭に『一般的に論点が分かれているとされる思想、事実等について主観的考えを主張すると認められるとき』や『そのおそれのあるとき』を加えた。
 市男女共同参画課によると、平和行事の定義は、戦争の悲惨さや平和の大切さを伝える行事。担当者は『東日本大震災以降、脱原発や憲法をテーマにした行事の後援申請が増えた。政治的中立性という従来の基準はあいまいで、判断に困る場合が出てきた』と説明している。」

千葉市は、「政治的中立性という従来の基準はあいまい」と言いつつ、もっと極端に、政治的中立性という口実での偏向姿勢を露わにしているのだ。

昨日(4月18日)赤旗は、『「平和憲法電車」中止ひどい」と報道している。こちらは自治体ではないが、地方の鉄道会社の方針変更による平和憲法への冷たい仕打ち。

「高知県の市民団体などがカンパを募り、土佐電気鉄道(本社・高知市)の路面電車に、『守ろう平和憲法』や『9条は世界の宝』と書いた車両を走らせていましたが、同社は今年から中止することを決めました。市民から批判の声が出ています。
 平和憲法ネットワークなどが2006年から(途中2回中断)『平和憲法号』を、高知憲法会議などが昨年から『憲法9条号』をそれぞれ運行。憲法記念日の5月3日前後から終戦記念日の8月中旬まで高知市を中心に25・3キロの区間を走らせていました。80万円ほどの費用は市民カンパで賄ってきました。
 土佐電鉄では、昨年の運行に対し市民から電話やメールで賛同の意見とともに、『意見広告ではないか』との指摘があったとして論議。国会でも憲法論議が高まっている時に『政治的と受け取られかねない』と判断し『走らさない』と団体に通告してきました」

「平和憲法電車」中止の理由が、国会での改憲論議と絡んでいることに注目せざるを得ない。

そして、昨日(4月18日)の毎日夕刊の報道である。「強制連行追悼碑:群馬県が『政治利用』と許可更新に応じず」という記事。「記憶 反省 そして友好」と刻まれている朝鮮人強制連行追悼碑の設置許可更新に県が応じていないという記事。全文を転記しておきたい。

「第二次世界大戦中の強制連行で犠牲になった韓国・朝鮮人を追悼しようと、群馬県高崎市の県立公園『群馬の森』に建てられた石碑を巡り、県が『政治利用されている可能性がある』として設置許可の更新に応じていないことが分かった。碑を管理する市民団体『追悼碑を守る会』は『平和と友好を誓った碑を撤去せざるを得なくなる』と懸念している。
 市民団体が県の設置許可を得て、2004年4月に追悼碑を建立。高さ1.8メートルで、『わが国が朝鮮人に対し、多大の損害と苦痛を与えた歴史の事実を深く記憶にとどめ、二度と過ちを繰り返さない決意を表明する』などと刻まれている。

 県や守る会によると、12年から『碑文が反日的なので撤去して』との苦情が計約100件あった。その後、県は、12年の追悼集会で参加者が高校授業料無償化の対象から朝鮮学校を除外する政府方針を批判したことなどについて、『政治的行事を行わないと定めた設置許可条件に抵触する可能性がある』と問題視するようになった。

 県は今年1月に『政治的発言と考えるか』などとの質問を出したが、守る会は『集会が丸ごと政治喧伝の場であったかのように決めつけている』として回答を拒否。碑の設置許可は10年間だが、県は更新申請を保留し、1月に期限が切れた。
 守る会の猪上輝雄事務局長(84)は『韓国や中国との関係がぎくしゃくしているこの時代にこそ、碑の意味がある』と訴える。県都市計画課は『再度の回答要請も含めて対応を検討中』としている。」

問題の発端が「碑文が反日的なので撤去して」との「約100件の苦情」であったというのだ。県当局が、このような排外的な、歴史修正主義者たちの「意見」に振り回されている様子が情けない。しかし、群馬県は、設置許可更新の申請に回答を保留し、まだ拒否したということではなさそうだ。是非良識を発揮して着地点を見つけてもらいたい。

仮に、設置挙許可更新拒否、碑の撤去要求という事態に至るようなことがあれば、日韓、日朝間の大きな問題となるだけではない。国際世論から、「いまだに日本は、侵略戦争や植民地支配への反省をしていない」として指弾されざるを得ない。また、10年前には碑の設置を許可し、今設置許可の更新を拒否する、その姿勢の豹変ぶりが、軍国主義化、大国主義への路線変更と各国に印象づけられることにもなるだろう。

それにしても、「政治的中立」あるいは、「意見が別れている問題への支持支援拒否」という名目での、その実は「著しい政治的偏向」の動きには、その都度的確に抗議しなければならない。自治体にとって、「護憲」も「改憲」も、どっちもどっちの「政治的」イシューなのではない。自治体が支持・支援すべきは、「憲法擁護」「改憲阻止」「憲法の理念の実現」というテーマである。つまりは、平和・人権・民主主義に与する方向であって、「改憲」「排外主義」「差別」「反人権」ではない。基準はあくまで日本国憲法なのだ。憲法を遵守すること、憲法理念の実現に努力することは、自治体の責務と認識されなければならない。
(2014年4月19日)

他人の痛みへの共感能力を育てよう

孟子は、人の性を善なるものと説いた。孟子公孫丑編の四端説の章に、次の有名な一節がある。高校時代に漢文の授業で習った。

「人みな人に忍びざるの心有り。…人みな人に忍びざるの心有りと謂ふ所以は、いま、人たちまち孺子の将に井に入らんとするを見れば、みな怵惕惻隠の心有り。交わりを孺子の父母に内るる所以にあらず、誉れを郷党朋友に要むる所以にあらず、其の声を悪みて然るにもあらざるなり。これに由りてこれを観れば、惻隠の心なきは、人にあらざるなり。羞悪の心なきは、人にあらざるなり。辞譲の心なきは、人にあらざるなり。是非の心なきは、人にあらざるなり。惻隠の心は仁の端なり。羞悪の心は義の端なり。辞譲の心は礼の端なり。是非の心は智の端なり」(今里禎の読み下し)

次のような大意であろう。
「誰にだって、思いやりの心がある。だってね、ちっちゃい子が井戸に落ちそうになっているのを見たら、誰だって、『あっ危ない、何とかしてあげなくちゃ』って思うだろう。その子の親に取り入ろうとか、周りの人たちに褒めてもらおうとか、なにもしなけりゃ悪口を言われるからってわけじゃない。だからね、思いやりの心というのは誰にでもあるんだ。これなくちゃ人間じゃない。悪を恥じる心も、譲り合う心も、善悪を判断する心もおんなじだ。」

その上で「四端」が説かれる。惻隠・羞悪・辞譲・是非の心が、それぞれ仁・義・礼・智の各「端」(今里訳では、端を「芽生え」としている。「糸口」などという洒落た訳もある。)であるというもの。高校時代、よくは分からないながら、「惻隠の心なきは、人に非ざるなり」「惻隠の心は仁の端なり」のフレーズが印象に残った。

「孟子」には、人が生来もっているはずの善として、惻隠・羞悪・辞譲・是非の心が語られている。中でも、「惻隠の心」である。どう理解すればよいのだろう。

藤堂明保の「漢字源」によれば、惻とは「いつも心について離れない。ひしひしと心に迫る」の意という。「惻隠」は、「ひしひしといたわしく思う」とされている。広辞苑もこれによったか、「いたわしく思うこと。あわれみ」とある。「同情する心」、「痛ましく思うこと」、「慈しむこと」などとも解されているようだ。私には、「思いやり」の語が一番しっくりする。

今にして思う。孟子の説いている善とは、人の痛みへの共感のことではないのだろうか。子どもが井戸に落ちそうになれば、とっさに助けたいと思う。もし、落ちてしまえば、その子の苦しみは自分の苦痛となる。その子の母の嘆きは、自分の悲嘆でもある。人間の尊厳を尊重し、人間の尊厳の侵害に対して、侵害された人に寄り添い、共感をもってともに痛む心、それが「惻隠の心」ではないか。「惻隠の心なきは、人に非ざるなり」は今に通じる名言だと思う。

韓国の旅客船セウォル号が一昨日(4月16日)珍島付近で沈没し、多数の死者と行方不明者を出している。リアルタイムの報道に胸が締めつけられる。狂わんばかりに、わが子の安否を案じる母親の姿に心の痛まない者はない。

「船内にいる子どもからメッセージが届いた」という報道があった。沈没した船内に取り残されたという男子生徒から、兄に携帯電話の文字メッセージが届いた。生存者がおり、救出を求める内容で、「今ここは船の中、何も見えない。男子数人と女の子が泣いている。まだ私は死んでいない」と記されたものだったという。涙がこぼれそうになる。いま、韓国民だけでなく、日本国民も「惻隠の心」を感じている。ヘイトスピーチの連中も、人として同様であろう。

ところが、残念なことに、「惻隠の心」を持ち合わせていない人もいる。性善説が揺らぎかねない。

今月13日、米カンザス州オーバーランドパークのユダヤ教系施設で、銃撃によって3人が殺害された。犯人として逮捕されたのはフレージャー・グレン・クロス(73歳)。コミュニティーセンターの駐車場で14歳の少年と祖父を射殺し、さらに近くの高齢者介護施設の駐車場で女性1人を殺害した。白人至上主義者集団クー・クラックス・クラン(KKK)に関連する団体の元幹部で、極端な反ユダヤ主義活動家であり、黒人への嫌がらせを繰り返してもいたという。事件が起きた13日は、ユダヤ教の行事「過越の祭り」開始日の前日だった。地元テレビ局の映像には、逮捕された容疑者がパトカーの後部座席から「ヒトラー万歳」と叫ぶ姿が映っていた(CNNの報道)。

死亡した少年は、歌唱コンテストのオーディションに出場するため祖父の車でセンターを訪れていた。祖父は現役の医師。皮肉なことに、2人ともキリスト教徒だった。被害者の女性は、介護施設に入居中の母親を毎週末見舞っており、その施設の駐車場で撃たれた。視覚障害児の施設で作業療法士を務め、この人もカトリック教会に所属していた。

この犯人には、惻隠の情がない。彼がユダヤ人と思い込んだ3人に、それぞれの人生があり、家族があり、交流する人々がいることを考えられない。死への恐怖や、心の痛み、周りの人の悲哀に共感すべき心が失われている。井戸に落ちそうな子どもを救うはずの人間が、子どもを井戸に突き落としたのだ。「惻隠の心なきは、人に非ざるなり」というほかはない。

しかし、孟子の性善説も、次のように解釈されている。
「人間の本性が善である、という命題は、けっして現実の人間が善であることを意味しない。『性』を全面的に開花させるためには、人格完成のための努力が必要である。ここに実践倫理としての孟子独自の修養論が内省を中心として展開されるのである」(松枝茂夫・竹内好監修「中国の思想・孟子」)

国籍・言語・宗教・人種・性別・門地・職業・障がいの有無等の一切を捨象して、誰もが等しく人間としての尊厳を尊重されなければならない。「等しく」とは、「弱い立場にある者ほど手厚く」という意味でもある。自己と他者をともに人間としての尊厳あるものとする姿勢は、「性善」だからといって当然に現実化しているわけではない。その本来の善を開花させるために、人権尊重の教育が必要なのだ。徹底して差別を戒める教育が重要なのだ。惻隠の情の獲得は、具体的に心身の痛みを背負う人々と接触し、その人たちの痛みや嘆き苦しみ悲哀を身近に感じることが糸口であろう。そのことから、人間としての尊厳を傷つけられた者に対しての、共感能力が育つ。私は、現代の教養とは、人権侵害の被害に対する共感能力のことだと思っている。人権侵害に、敏感でありたい。
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     八重の「御室桜(オムロザクラ)」が世代交代で一重の桜に
昨日、恒例の根津神社のツツジ祭りへ行ってきた。まだ2分咲き程度で、入場券にプリントされた写真とはだいぶ様子が違っていたが、緑に混じった色とりどりのツツジは初々しく美しかった。見物客が少なくてゆっくり見られたこともなによりだった。

ツツジ山を下りたところによしず張りの植木屋の店が出ている。今年はもう絶対、植木は買わないと強い決意で、「見るだけ、見るだけ」と覗いてみると、シロ花のハナズオウと八重桜が私をがっちりとらえて、「つれてって、つれてって」と放してくれない。どうしたって運命的出会いには抗えるものではない。紫色のハナズオウはよくあるけれど、白は珍しい。八重桜は「キクシダレ(菊枝垂)」。これもなかなかお目にかかれるものじゃない。花は濃いめのピンクの八重咲き。小さな花弁がギッシリ集まってボール状になって、それが3から5花ぐらいづつかたまってぶら下がっている。何とも可憐である。置いて帰るわけにはいかない。

さて、帰宅して、花弁の数を数えてみたら、一花につき91枚、116枚、124枚と花を3つまで分解して数えたが、それ以上は根気が続かずやめてしまった。径3センチメートルの小花に大体100枚以上の花弁がついている。雌しべは1本、雄しべはかすかに3,4本。雄しべは花弁に変化してしまったのだ。真ん中の花弁は糸くずのように細くて小さい。こんな花弁数が極端に多い八重咲きをキク咲きという。

枝垂れない普通の「キクザクラ(菊桜)」は花弁が、100枚から180枚。「ケンロクエンキクザクラ(兼六園菊桜)」は100枚から300枚。「ライゴウジキクザクラ(来迎寺菊桜)」は2段咲きで90枚から270枚。「フジキクザクラ(富士菊桜)」は2段咲きで300枚から400枚。トップクラスは「ヒヨドリザクラ(鵯桜)」で、2段咲きで280枚から450枚。以上は「日本の桜」(木原浩ほか著 山と渓谷社)からピックアップしたもの。ヤマザクラのような5弁花に飽き足らない人たちは、400枚もの花弁をもつようなサトザクラをつくりあげたのだ。おかげで春になると、ソメイヨシノやヤマザクラのシンプルな美しさとサトザクラの豪華さの前で、どちらがいいか心が引き裂かれる思いがする。

京都仁和寺の「御室桜(オムロザクラ)」は京都の春の最後を飾る遅咲きの八重桜。種類は「オムロアリアケ」。ヤマザクラの影響の見られるサトザクラで花弁が5から10枚のふっくりとした八重の白い花を咲かせる。

その御室桜について4月15日付け京都新聞は次のように報じている。
江戸時代に貝原益軒の「京城勝覧」(1718年)は「境内の奥に八重桜多し、洛中洛外にて第一とす」と記している。また、昭和初期の研究者香山益彦の「御室の桜」には「八重が多数を占める」と書いてある。ところが、今回調査したところ、212本のうち八重はわずか18本しかなかった。樹齢360年のサクラが枯れて植え変えられたわけではなく、大枝が枯れて、根もとからでてきた「ひこばえ」で世代交代を繰り返しているうちに、そこに咲いた花は一重になってしまったのだ。品種改良された八重のオムロアリアケが先祖返りしてしまったということらしい。

仁和寺の立部佑道門跡は「御室桜は枝が大きくなると枯れてゆく特性があるが、それもまた花の姿の一つ。桜から学んでいこうという気持ちがあるので、御室桜を新しい苗に植え替えるということはしない」と述べている。もっとも、2010年に芽の組織から苗木を作る研究が行われ、今年の4月11日143センチに成長したクローン桜の蕾が一輪開花した。それを報じた朝日新聞の写真を見ると、白いふっくりとした八重桜が映っている。

この話を聞けば、理研の小保方さんのスタップ現象もありうることかもしれない気分がしてくる。組織細胞にお酢をかけて、初期化すれば八重も一重も思いのままなんて、楽しいようでもあり、恐いようでもある。
(2014年4月17日)

竹富町の八重山採択地区からの独立の意向を尊重せよ・再論

4月12日の当ブログで、「竹富町の八重山採択地区協からの独立の意向を尊重せよ」と書いた。「尊重せよ」の宛名は、安倍政権であり、文科省であり、下村博文文科相であり、石垣・与那国の教育長らのつもりだった。

竹富町教委を支持して政権の不当を論じているのは私ばかりではない。多くの良識の一致するところといってよい。これに対して、産経・読売がタッグを組んだがごとく、瓜二つの社説を書いている。13日産経「竹富町の教科書 法の無視は認められない」、本日(15日)読売「竹富町の教科書 法改正の趣旨踏まえた対応に」というもの。安倍政権が攻撃されれば、産経・読売が反撃する。さながら、集団的自衛権の行使を彷彿とさせる。

中央紙には産経・読売に対抗する社説の掲載はない。4月11日付の沖縄タイムスが政府批判の立ち場から「八重山教科書問題ー政治介入に終止符打て」という渾身の社説を書いている。また、文科省から竹富町への是正要求に関して、3月15日付の琉球新報の「文科相是正要求 道理ゆがめる『恫喝』だ」というこれも気合いのはいった社説がある。両社説とも、客観的に見て格調高く、自説の根拠を具体的に展開して説得力に富む。両社説とも感動的ですらある。産経・読売のお粗末さとはまったく比較にならない。比べて読めば、一目瞭然である。

下記がこの4社説のURLである。是非、読み比べていただきたい。もうひとつ、併せて「沖縄の教科書―両方を使ってみては」という朝日のふやけた社説もどうぞ。沖縄地方二紙の格調が理解されよう。

産経http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/140413/trl14041303060002-n1.htm
読売http://www.yomiuri.co.jp/editorial/20140414-OYT1T50106.html
沖タイhttp://www.okinawatimes.co.jp/article.php?id=66620
新報http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-221379-storytopic-11.html
朝日http://www.asahi.com/articles/ASG3G4J94G3GUSPT006.html

産経と読売とでは、多少の差がないわけではない。読売の方がほんの少しだけ反対論に目くばりをしている。独善的な断定調にも多少のぼかしが入っている。産経社説のこの独善の論調は、読者の要求に応えたものなのか、社説執筆陣が読者を先導しているのか。卵と鶏の関係はわからない。拠って来たるところはわからないながらも、産経だけを読んでいる人の精神構造はいったいどうなるのだろうと、他人事ながら心配せざるを得ない。心配のあまり、逐語的に反論を書かねばならないという意欲が湧いてきた。なお、産経批判はそのまま読売批判でもある。産経とほんの少しの差でしかない。五十歩百歩の差にも至らず、せいぜいが「五十歩六十歩」の程度、歩の進む方向はまったく同じである。

産経の社説は「主張」と称されている。4月13日の「主張」は、「竹富町の教科書 法の無視は認められない」との標題。以下、産経社説の部分々々を引用しながら全文を批判する。

「国の是正要求に従わず法改正の趣旨も歪(ゆが)めるのか。教科書採択で沖縄県竹富町教育委員会が、石垣市などとの共同採択から離脱を検討している。これを認めるべきではない。是正要求に従い、勝手な教科書使用をやめることが先だ。」

この出だし。なんと大上段で、なんと大袈裟なことか。滑稽極まる。国家権力から理不尽に人権を蹂躙された側に立って憤るのなら、どんな大声を発してもよい。地方の小さな町が、国の意向に従わないとして、権力の尻馬に乗る姿勢が恥ずかしくはないか。いじめに加担する卑怯な振る舞いというしかない。
しかも臆面なく、典型的な「お上は正しい」「お上のいうことには従え」論。さすがに産経の社説というべきか。本来、ジャーナリズムとは、まず「お上のいうことに本当に理があるのだろうか」「権力への抵抗には一理あるのではないか」を吟味しなければならない。「国の是正要求」は「国の要求」であるから従わねばならないものではない。国とて間違う、いや国も大いに間違うのだ。間違っているか否かの基準は日本国憲法である。憲法大嫌いな安倍政権であれば、大切な問題について間違う公算は極めて高い。是正要求の根拠とされているものには様々な疑義が提示されている。論点は具体的に明確化されているのだ。「法改正の趣旨」についても同様だ。これらの具体的な問題点に触れることがないままの、勝手な結論押し付けをやめることが先だ。

「小規模な市町村は、近隣市町村と共同で教科書を選ぶルールが、義務教育の教科書を配布するための教科書無償措置法で定められている。生活、文化など一体性のある広域で同じ教科書を使えば効率的な配布のほか、教師の共同研究や転校した場合に学習の連携などメリットが大きいからだ。」

複雑な法体系を一面化しあるいは過度に単純化して把握することが間違いの第一歩である。場合によっては、誤導の論法ともなる。産経社説には教科書無償措置法しか言及されていないが、文科省の有権解釈によれば、地教行法上教科書採択の権限は各市町村の教育委員会にある。各市町村教育委員会の独立性が大前提で、小規模な市町村の便宜のために広域採択の制度ができたと理解すべきであろう。便宜のためであるべき制度が、メリットの享受よりもデメリットの桎梏が優るとなれば、制度利用に縛られるいわれはない。
広域採択のメリットはもちろんある。しかし、同時にデメリットも大きいのだ。広域化のメリットだけを語って、各市町村教育委員会の独立性喪失というデメリットを語らないのは不都合である。産経のいうようなメリットばかりであれば、強制の問題は生じない。事実、今回の法改正以前には、採択地区での教科書採択に強制は予定されていなかった。協議を尽くすべきことことが求められていただけ。
また、本来は、教科書を使う専門家としての現場教師の意見の集約や集団討議による意見反映がもっとも重要視されるべきなのだ。現場の発言の重視は、採択単位が小さいほど現実性を帯びる。現場の教師の影響力をできるだけ排除したいという政策的要求が広域採択の制度になった。「効率的な配布、教師の共同研究や転校した場合に学習の連携」などのメリットは、当然に現場が考える。押し付けが正当化されることにはならない。

「竹富町の場合、石垣市、与那国町の3市町で八重山採択地区協議会をつくり採択してきた。平成23年夏の採択で協議会は、中学公民教科書に育鵬社版を決めた。だが竹富町は従わず東京書籍版の使用を24年度から始めた。地方自治法で最も強い措置の是正要求が出されたが、今年度も違法状態の教科書使用を強行している。」

これを過度の単純化という。むしろ、単純化を装った意図的な事実の曲解というべきであろう。この単純化への反駁として、少し長いが、「不審な経過」と小見出しを付された、3月15日付琉球新報社説の一節を引用する。
『そもそも竹富町教委の行為は正当な教育行政だ。それをあたかも違法であるかのように政府は印象操作している。
 経過を振り返る。石垣・竹富・与那国3市町の教科書を話し合う八重山採択地区協議会会長の玉津博克石垣市教育長は2011年6月、教科書調査員を独断で選任できるよう規約を改正しようとして反対された。役員会で選任することになったが、玉津氏は役員会を開くことなく独断で委嘱した。
 その調査員も、報告書では、保守色の極めて強い育鵬社版の中学・公民の教科書について「文中に沖縄の米軍基地に関する記述がない」などと難点を指摘。複数を推薦した中に育鵬社版は入れていなかった。
 だが同年8月23日の採択地区協議会は、玉津氏の主導で育鵬社版を選ぶよう答申した。しかし竹富町教委は8月27日、選考過程における前述の不審な点を挙げ、育鵬社版でなく東京書籍版を選んだ。
 一方、石垣・与那国2市町教委は育鵬社版を選定。3市町教委は8月31日に採択地区協議会を開き、再協議したが、決裂した。
 9月8日、今度は3市町教育委員全員で協議し、多数決で東京書籍版を選んだ。だが文科省は「全員協議はどこにも規約がない」と、この選定を無効とした。
 規約の有無を言うなら、玉津氏の調査員選任も規約にない手法だった。その点は問わないのか。
 政府は同年11月、「自ら教科書を購入して生徒に無償で給与することは、無償措置法でも禁止されるものではない」との答弁書を閣議決定している。竹富町教委の行為は合法だと閣議で決めたのだ。それが自民党に政権交代した途端、違法になるというのか。』
迫力十分な叙述である。経過の説明は以上に尽きる。これへの反論は聞いたことがない。

「竹富町の共同採択離脱の方針は、9日に成立した教科書無償措置法改正に伴うものだ。採択地区の構成単位を「市郡」から「市町村」に変えたことを捉え町単独で採択できるとしている。沖縄県教委は要望を受け認める方向だ。
 この改正は市町村合併に伴い、飛び地の自治体が共同採択するケースなどができ、不都合を解消しやすいよう見直したものだ。竹富町にはあてはまらない。」

この法改正の趣旨が最大の問題なのに、産経社説は、何とも迫力に欠ける。結論は明瞭だが、根拠の薄弱なことこの上ない。読者を説得する意思も能力もないことを露呈するのみ。
文科省が、ホームページに「義務教育諸学校の教科用図書の無償措置に関する法律の一部を改正する法律案」について、下記URLに、概要、要綱、案文・理由、新旧対照表を掲載している。ここには産経の言い分に与するものはひと言もない。
http://www.mext.go.jp/b_menu/houan/an/detail/1344707.htm

産経の社説は、下村文科相の言い分を口移しにしただけのものだが、これについては、4月11日付沖縄タイムス社説が次のとおり反駁している。
『下村博文文科相は3月の会見で「(採択地区は)市町村教委の意見を尊重しながら、県教委が最終的に決定する」と明言。県教委が竹富町を分離しても「法の違反には当たらない」と述べた。
 政府見解は腰の定まらない印象をぬぐえない。国の恣意(しい)的な法律運用がまかり通れば不当のそしりは免れない。』

法の解釈は、文理解釈が基本である。法の文言が明晰性を欠き、文理解釈が困難なときにはじめて、立法者意思などが忖度されて目的論的解釈などに頼らざるを得なくなる。本件では、そのような事情なく、法文は極めて明晰である。ややくどいが、産経の読者にもわかるように噛み砕いて、解説しておきたい。

改正前の教科書無償措置法12条1項は、「市若しくは郡の区域又はこれらの区域をあわせた地域に」教科書用図書採択地区を設定しなければならないと定めていた。だから、採択地区は、論理的に、「市」「郡」という区域単独の場合と、「市および郡」をあわせた地域から構成される場合があり得たことになり、それ以外はなかった。つまり、市は単独で採択地区を構成することはできたが、郡内の町村は単独では採択地区を構成することはできなかったのである。

改正法は、当該箇所を「市町村の区域又はこれらの区域を併せた地域に」と変更した。これによって、採択地区は、論理的に、「市」「町」「村」という各区域単独の場合と、「市および町」「町および村」「村および市」「市および町および市」を併せた地域から構成される場合があり得ることとなった。つまり、これまで、郡内の町村は単独では採択地区を構成することはできなかったが、郡という区域単位を捨象することによって、町・村ともに、単独での採択地区となる資格を取得したのである。「飛び地の自治体が共同採択する不都合を解消しやすいよう見直す」こともあり得ようが、それにとどまるなどとは条文の読みようがない。「竹富町にはあてはまらない」などということに何の根拠もない。

「同法改正では、共同採択地区で同一教科書を使う規定が明確化された。竹富町の役場自体、石垣市の港近くにある。地域性から同市と共同採択するのが自然だ。」

改正法が13条5項が、「共同採択地区で同一教科書を使う規定が明確化された」ことは、指摘のとおりである。そのための法改正であった。反対解釈からは、改正前には、「共同採択地区で同一教科書を使う義務は存在しなかった」と言える。これまでの竹富町教委の行動に違法があったとは到底考えられない。今後は、県教委の承認があれば、竹富町の独立した教科書採択は可能となる。「竹富町の役場自体、石垣市の港近くにある。地域性から同市と共同採択するのが自然だ」などの言は児戯に等しい。役場の存在場所が自治体の独立性を蹂躙する理由にはならない。「共同採択が自然だ」などというふやけたことが何の根拠とも理由ともなり得ない。

「下村博文文部科学相は、採択の際に教科書の内容を吟味する調査研究が、小規模の教委では難しいことも挙げ、法の趣旨を竹富町教委に「しっかり伝える」としている。沖縄県教委も法を曲げないでもらいたい。協議会が育鵬社版を選んだのは、尖閣諸島を抱える地域性から、領土などの記述が詳しい内容を重視した結果だ。」

ここにいたって、本性露顕である。恐るべき「論理」といわねばならない。教育の本旨の何たるか、教育が行政から、なかんずく国家から独立していなければならないとする大原則に無理解も甚だしい。「小規模教委は大規模教委に付け」とするのは、教育の地方分権に対する露骨な敵対感情である。教育は国家統制から距離を置かねばならない。国より広域自治体の教育委員会、広域自治体よりは基礎自治体の教育委員会、さらには学校、そして教師一人一人の独立と、分権が理想である。産経社説の「論理」はその真逆なのだ。

「同社版の歴史や公民教科書に対しては「戦争を美化する保守系教科書」などと批判が繰り返されていた。いわれのない教科書批判にとらわれ、採択を歪めたのは竹富町や沖縄県教委の方である。法に従わぬ教育委員会に安心して教育は任せられない。国の責任で是正を果たしてもらいたい。」

まさしく、国家による教育統制が安倍政権の狙いであり、右往左往しながらも、下村文科省の狙いでもある。そして、産経・読売がその応援団となっている。

本日の読売社説の一節に、「竹富町教委だけが独自に異なる教科書を採択したのは、明らかに違法行為である。文科省が地方自治法に基づき、是正要求を発動したのは当然のことだった。是正要求に従おうとしない竹富町教委の姿勢は、教育行政を担う機関として、順法精神に欠け、許されるものではない」とある。沖縄タイムスや琉球新報社説を読めば、読売の異常さは明らかとなる。しかし、何百万もの読者に、「竹富町教委・違法」と垂れ流す読売の影響力に背筋が寒くなる。

最後に3月15日琉球新報社説の末尾を引用しておきたい。

『竹富町の教育現場では(教科書採択問題が生じて以来の)過去2年、問題は起きていない。仲村守和元県教育長によると、問題行動は皆無で学力は県内トップ級、科目によっては全国一の県をも凌駕(りょうが)する。静穏に教育が行える環境ができているのだ。子どもたちに無用な混乱をもたらしているのはむしろ文科省の方ではないか』
産経よ、読売よ。竹富町への無用な混乱の助長は余計なお世話なのだ。

琉球新報は、文科省から竹富町に対する違法確認訴訟をスラップ訴訟と警戒している。しかし、竹富町は、このスラップ訴訟の提起を恐れることはない。恫喝目的の提訴自体が不法行為を構成する可能性は高い。その場合には、応訴費用を反訴請求することも可能となる。
がんばれ竹富。叛骨の島。
(2014年4月15日)

日本国憲法9条を保持する日本国民にノーベル賞を

「憲法9条にノーベル平和賞を」という運動が話題になっている。憲法9条にノーベル賞という発想だけでなく、一人の主婦の発案からはじまった運動としても話題性十分。

ノルウェーのノーベル賞委員会から、署名を集めた市民実行委員会や推薦人の大学教授らに、2014年のノーベル平和賞候補として正式に受理したとの通知が届いたと報じられている。今年の候補は278件で、10月10日に受賞者が発表されるという。

「この活動は神奈川県座間市の鷹巣(たかす)直美さん(37)が発案し、昨年1月から署名活動を始めた。市民実行委が昨夏発足、推薦資格のある大学教授らに呼びかけた。今年2月1日の締め切りまでに学者ら42人が賛同し、約2万5000分の署名と共に応募した。」
「受賞資格は個人または団体のため『憲法九条を保持する日本国民』としてノミネートされている。実行委メンバーは『改憲を目指す安倍政権を、国際的な力で穏便に止められる手段だと共感を得た。多くの人が平和憲法を尊び、危機感を持っていると実感した』と話している。」(東京新聞)

「憲法9条を世界遺産に」という大田光さんの著書がある。古賀誠元自民党幹事長の「9条は平和憲法の根幹で、世界遺産だ」という話題の発言もあった。こちらの方が普通の発想。だが、ユネスコに世界遺産登録申請の具体的な運動が起きたことは聞かない。一人の主婦がノーベル平和賞の受賞を目指す運動を始めたこと、それがノミネートの段階まで漕ぎつけたことに脱帽するしかない。

しかもこの発案者の発想は、極めて真っ当なのだ。「『戦後70年近くも日本に戦争をさせなかった9条に(平和賞受賞の)資格がある』とひらめいた。安倍政権が改憲への動きを活発化する中、『受賞すれば9条を守れる』と思ったことも大きかった (1月3日東京)」という。しっかり応援をしたい。

もっとも、多少の引っかかりを感じないわけでもない。「憲法9条にノーベル賞を」という発想は、ノーベル賞のもっている権威を前提に、憲法9条に権威のお裾分けをいただこうというものではないか。はたして、ノーベル平和賞とは、そんなに権威ある存在だろうか。また、憲法9条とは、ノーベル平和賞よりも権威のないものなのだろうか。

私の記憶では、佐藤栄作の受賞がノーベル平和賞のイメージを決定づけている。キッシンジャーが受賞し、オバマが受賞したこのノーベル平和賞の政治性は覆いがたい。はたして、ノーベル平和賞はその権威において、日本国憲法9条を凌ぐものだろうか。

ところで、法の歴史において、近代立憲主義の嚆矢となったものはアメリカ合衆国憲法(1787年)であり、輝かしく基本的人権を宣告したのはフランス人権宣言(1789年)である。ともに、過去の遺産ではなく、いまだに実定法として生きている憲法の一部である。

合衆国憲法は、後に「権利章典」部分を修正条項として付加して今日に至っている。フランスの第5共和国憲法は統治機構部分を有してはいるが、独自の人権宣言部分をもたない。前文で「1946年憲法で確認され補充された1789年宣言によって定められた、人権および国民主権の原則に対する愛着を厳粛に宣言する」として、1789年人権宣言の各条項に基づいて違憲立法審査権を行使しているとのことだ。

これらこそノーベル賞ものであり、世界遺産当確と思うのだが、アメリカ人やフラン人にしてみれば、合衆国憲法も、人権宣言もノーベル賞よりも権威ある存在として、ノーベル賞にノミネートという発想にはならないにちがいない。日本国憲法9条が、合衆国憲法や人権宣言のごとくに、歴史的にも地理的にも尊敬を勝ち得、やがてはノーベル賞など足元にも及ばない権威を獲得する日の来たらんことを願う。

なお、ひとつ提案がある。憲法第9条が受賞した場合、授賞式に臨む日本国民の代表者を選任しなければならない。これまで運動を担ってきた関係者とは別に、「9条を保持する日本国民」の代表としてふさわしい人物を。

戦争責任者の長男である天皇は、「9条を保持する日本国民」の代表としては、最もふさわしからぬ存在である。9条破壊に専念している安倍もその資格を欠く。

そこで、一般国民の中から、もっともふさわしい「9条国民代表」を選任するための大イベントを企画してはどうだろうか。年齢・性別・国籍・居住地・職業等の属性一切関係なく、日本国民としての自覚だけを要件とすればよい。そして、9条についての思いを作品にして、募集するのだ。論文・散文・小説・詩・短歌・俳句・絵画・彫刻・工芸・写真・動画・作曲・落語・浪曲・能・狂言…。要するに何でもよい。大会場で、自薦他薦のスピーチ大会を開催して、投票で代表を選任する。いかがだろうか。

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          安倍晋三の「観桜会」に思う
樋口一葉に「闇桜」という作がある。幼い頃から隣どおし、兄妹のように育った二人の物語。この二人は伊勢物語の「筒井筒」のように結ばれることはない。
娘は「一粒ものとて寵愛はいとど手の内の玉かざしの花に吹かぬ風まずいといて願うはあし田鶴の齢ながかれとにや千代となづけし親心にぞ見ゆらんものよ栴檀の二葉三つ四つより行く末さぞと世の人のほめものにせし姿の花は雨さそう弥生の山ほころび初めしつぼみに眺めそはりて盛りはいつとまつの葉ごしの月いざよう」と美人薄命を暗示される。終章、男はなすすべもなく、病床の娘の手をとりて、「風もなき軒端の桜ほろほろとこぼれて夕やみの空鐘の音かなし」でおわる。何ともじっれたい話。

坂口安吾の「桜の森の満開の下」は山賊の話。「この山賊はずいぶんむごたらしい男で、街道へでて情容赦なく着物をはぎ人の命も断ちましたが、こんな男でも桜の森の花の下へくるとやっぱり怖ろしくなって気が変になりました」。そんな男が、例のとおり身ぐるみはごうとした女のあまりの美しさに、身も心も奪われて女房にしてしまう。ところが、この女が「外面如菩薩内心如夜叉」で、男は都に出て悪逆非道を尽くすことを強いられる。盗み、殺し、贅を尽くした都暮らしを続けるが、いつしかむなしさを感じた山賊は山に帰ろうと決意する。女はいやがるが、仕方なく山へ帰ることに同意する。花びらが一面に散り敷いた桜の木の下にたどり着いたとき、背負ってきた女が「鬼」に変わっているのに気づいた山賊は、女をくびり殺してしまう。「彼は女の顔の上の花びらをとってやろうとしました。彼の手が女の顔にとどこうとした時に、何か変わったことが起こったように思われました。すると、彼の手の下にはふりつもった花びらばかりで、女の姿は掻き消えてただ幾つかの花びらになっていました。そして、その花びらを掻き分けようとした彼の手も彼の身体も、伸ばしたときにはもはや消えていました。あとに花びらと、冷たい虚空がはりつめているばかりでした。」悪い女に迷った男のよくある話。しかし、男は繊細で感じやすい人間であり、救いがある。

次は国家権力による「桜の利用」。「桜・・それはすこやかに輝く命の花であった。そこに死の翳などの入りこむ余地はなかった。その花を、明治政府のかつての志士の幸運な生存者たちである薩長の軍事官僚たちが、勝手に武人の花、死の花に変えてしまった。明治中期、九段坂上に、戊辰・西南の内戦での戦死者たちを祀った招魂社(現・靖国神社)を建立した際、その社前に桜が植樹され、明治後期の二度の外征での若い死者たちもここに合祀されて、桜は『九段の花』として軍事国家時代の国民に深く印象づけられた」(「桜と日本人」小川和佑著)

周知のとおり、東京の開花宣言の標準木は靖国神社の境内にある。その花の盛りが過ぎたころの4月12日、新宿御苑で安倍首相が「観桜会」を催した。14000人の人が招かれ、盛大なものであったと報じられた。その席で、安倍は「給料の上がる春は八重桜」と、信じがたい駄句を披露している。

安倍は、可能であれば、九段の靖国神社に参拝し、靖国での観桜会をしたかったであろう。新宿御苑の観桜会はこれに代わるものだが、美しい「八重桜」もことのほか迷惑顔。そして、心なし安倍の駄句に赤面した風情だった。悪逆を尽くした山賊も、その害悪と責任の大きさにおいて、靖国に合祀されている戦犯には足もとにも及ばない。その戦争に無反省な安倍晋三らにも。

花は、確かに人を狂わせる。一葉のえがく余りにも繊細でか弱い人たちのようでもなく、坂口安吾のえがく孤独で内省的ではあるが残虐な山賊のようでもなく、そして安倍晋三のごとく臆面もなく策と思惑を露わにしてのことでもなく、美しいものを美しいとして、こころしずかに花見をしたいものである。
(2014年4月14日)

カジノ解禁法案に反対する

賭博は犯罪である。単に違法な行為というだけのものではない。国家が刑罰権を発動して制裁を科する必要があるとされているのだ。その本質において、互いに相手の財産を奪い合う醜い行為であり、やがては身を滅ぼす行為でもある。単純賭博罪(刑法185条)、常習賭博罪(同186条1貢)、賭博場開張図利罪(同186条2項)。博徒結合図利罪(同)と類型化され、富くじの発売も、発売の取次も、授受も犯罪(同187条)とされている。

「賭博は、お互い負ければ取られることを覚悟でのゲームだ。大人の娯楽として、刑罰をもって禁圧するほどのことはあるまい」という意見は、昔からある。賭場を開帳して、寺銭を稼ごうという有力者の声が大きい。しかし、賭博の実態が、その禁圧の必要性を確認し続けてきた。

ダンテの「神曲」では、賭博を行う者は、「他人の不利を自己の利とせし」罪によって地獄に堕ちている。最高裁は、「国民の射幸心を煽り、勤労の美風を損い、国民経済の影響を及ぼす」と説明している。賭博とは、マクロに見れば参加者から収奪するシステムにほかならない。宝くじもおなじ。

賭博あるいは博打は、人を不幸にする。賭博の公認は、大規模に不幸な人をつくり出す。横文字にして、賭博や博打をギャンブルといい、賭場をカジノと言い換えても、事情はまったく変わらない。

昨今は、賭博の経済効果が喧伝されている。そして、イメージを一新しようと、「IR」などと言葉をもてあそぶ。IRとは、定着しているInvestor Relationsの略語ではなく、Integrated Resortの訳語、カジノを中心とした複合型娯楽施設のことだそうだ。「統合型リゾート」の訳されている。その狙いは、賭博の本質が発散する胡散臭さをカムフラージュすることにある。

超党派の「IR議連」が立ち上げられ、議員立法で「特定複合観光施設区域の整備の推進に関する法律案」が昨年12月に提出された。認可業者が、国の認定を受けた地域でカジノを中心とする「特定複合観光施設」を設置・運営できるとするもの。その法案の審議が連休明けから動き出すと観測されている。

法案の推進母体となっている「IR議連」の正式名称は、「国際観光産業振興議員連盟」。最高顧問として安倍晋三、麻生太郎、石原慎太郎、小沢一郎などのおぞましい面々が並ぶ。業界の利権とのつながりが懸念され、それあらんか、維新の会がことのほか熱心だ。

経済紙誌に、「1兆円の市場規模」「いや、年間で総額400億ドル(約4兆円)の売り上げを期待」「ラスベガス、マカオに次ぐ巨大施設建設を」「ロビー活動活発化」「お台場に」「大阪湾の人工島・夢洲(ゆめしま)に」「震災からの復興の目玉に」と、景気のよい話と危ない話しとが踊る。博打奨励の尻尾を隠して、「海外の観光客を誘致してお金を落としてもらい、国内の雇用を増やし、経済を活性化させる」などと「大義」が説明されている。とりわけ、2020年の東京五輪招致がカジノ設立のチャンスと捉えられている。業界には、これ以上ない美味しい話し。庶民には不幸のばらまき。
 
もちろん、カジノ解禁法案に反対の世論は健在である。特に注目されているのが、弁護士の動き。昨日(4月12日)、「多重債務者の支援に取り組んできた弁護士らが、法案に反対する団体を設立し、全国で反対運動を行なっていくことなどを確認した」ことが報道されている。

彼らは、社会問題としての多重債務問題のおおきな一因として、ギャンブルやギャンブル依存症があることを、深刻に受けとめてきた。これまでは、競馬、競輪、パチンコ、宝くじの類である。「ギャンブルで借金を作り、家族や仕事を失う悲惨な人たちを私たちは見てきました。そうした犠牲を基に経済活性化を目指す国でいいのでしょうか」という代表(新里宏二弁護士・仙台)の言葉が紹介されている。人の不幸に向かいあってきた弁護士グループの言葉として重い。IRの公認は人の不幸に輪をかけることになる。

これから、国会議員に反対を訴えていくほか、大阪・沖縄・東京・仙台など、カジノの誘致を検討しているといわれる自治体に対して、具体的な反対運動を行なっていくことを確認したという。

カジノは、人を不幸にする。人を不幸にしての経済振興はあり得ない。また、カジノ誘致には、基地や原発の誘致と同じ匂いがする。基地や原発に依存した経済の二の舞となることが目に見えている。

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           「ローズマリーの庭」
イングリッシュガーデン愛好家のバイブル「ローズマリーの庭にて」の著者ローズマリー・ヴィアリー(1919?2001)は四月について以下のように書いている。

「ガーデニングに関心のある者にとって、春とは、大地の温度が上昇するときを意味する。道端に雑草が生えてきたらいよいよ種のまき時だ。わざわざ寒暖計で測定しなくても、まいたものは必ず発芽してくれる。それともう一つ、大地の匂いが良い年はすべてのものの生育が良好と期待していい。」

「四月とは名ばかりの寒い日が続いたのでヘッジロウ(生け垣)には春の気配は全く感じられない。葉を落とした灌木の枯れ枝がそう思わせるのだ。が、そうみえるだけで生き物たちは本格的な春に備えて着実に活動を始めている。注意していれば生け垣に沿って早足で駆けていくウサギの後ろ姿を見かけるはずだし、枯れ枝と紛らわしいのでわかりにくいだけで、ウズラたちも何やら忙しそうだ。『三月の声を聞くといてもたってもいられなくなる』といわれる活発な野ウサギたちにいたっては、長い後ろ足を最大限に生かして野原をぴょんぴょん飛んで跳ねている」

90年代に日本ではイングリッシュガーデンブームが巻き起こった。およそ似て非なるものであることは承知しながら、みな競って、日本の狭い庭にカタカナ名前の花苗を植え、装いを凝らしたものだ。雑誌や写真誌もイギリスの広大な庭に咲きそろった美しい花壇の写真を載せた。「キングサリ」の黄金色のアーチや「ホワイトガーデン」、「香りの庭」に夢中になり、英国庭園ツアーに大挙した。

その有名な庭園のひとつ「バーンズリーハウス」のオーナーが、高名な女性ガーデンデザイナーのローズマリー・ヴィアリーさんだった。「バーンズリーハウス」は英国でも特に美しいコッツウォルズ地方にある。コッツウォルズ特産の蜂蜜色のライムストーンで300年以上前に建てられた、典型的な英国の美しい屋敷である。その庭をローズマリー・ヴィアリーさんが30年以上かけて、手作りで造りあげ公開していた。4エーカーというから5000坪ほどの庭である。広大ではあるが、手に負えない広さではない。憧れにぴったりの、田園地帯の「良きイギリスの庭」だったと思う。生前のローズマリーさんに会った人たちは彼女の気取らない実直で穏やかな人柄に魅了されたようだ。目の前に造り上げられた美しい庭を見、彼女の数々の著作に触れれば当然なことだ。「聖地」を訪れる「巡礼者」は全世界から引きも切らなかったことと思われる。

私も写真で見たキングサリのアーチに魅せられて、せめて黄色い藤の花房を見上げてみたいものだと、苗屋から買ってきては何本も枯らした思い出がある。白い花や香りのある花に関心が向くようになったのも、それからのことである。

「毎年四月下旬には野生のパルサティラ・バルガリス(セイヨウオキナグサ)を観に行くことにしている。石灰岩がむき出しの西向きの急斜面に何千、何万というブルーの花が咲き乱れるのである。崖の下から見上げるようにすると一番よく見える。花は6センチほどの短い茎に隠れて見にくいからである。・・この素晴らしい花畑の地主はグロスターシャー自然保護トラストからの要請で、花が咲き出してから種子が完全に地面に落ちるまでのあいだ、家畜を一帯に近づけないと約束したそうである。トラストはこのような自然を後世に伝えていくための地道な活動を全英五十箇所で行っている。そのほか成人向けの教育プログラムと子ども向けの自然観察など、その活動は幅広く、頭が下がる思いだ。」

ここに出てくるトラストとは、英国において歴史的名所や景勝地を保護するために1895年設立されたボランティア団体、通称「ナショナル・トラスト」のこと。現在27万ヘクタールの田園地帯、960キロメートルの自然海岸、300カ所余りの歴史的建造物、230カ所余りの庭園が寄贈され、買い取られたりして、保有、公開されている。「ピーターラビット」の著者ビアトリス・ポターの保存した湖水地方やチャーチル首相が幼い頃過ごした邸宅チャートウェルなどが有名である。

このように書いたローズマリーさん亡きあと、「バーンズリーハウス」は残念ながら、ナショナルトラストの保有するところとはならなかった。ホテル業者に売却されて、宿泊客と食事をする客だけに庭は公開されているという。聖地が冒涜されたような、少々切ない気持ちになりながら、ガーデナーとしてのローズマリーさんの夢の結実の庭園がどのような形でも長く受け継がれていきますようにと切に願う。
(2014年4月13日)

閣議決定での「集団的自衛権限定容認」は禁じ手だ

人は様々である。それぞれに密かな愉しみがある。他人から見れば、なんとたわいもない些事。「それがどうした」と、一蹴される類のもの。

最近の私の愉しみは、ときどきグーグルで「憲法」というキーワード検索を試みること。その検索のトップページに当ブログがあれば安心する。その順位があがればニンマリする。絶対に誰からの共感も得られない、理解を分かち合うこともできない、そのようなささやかで密やかな愉しみ。

本日午前中、「憲法」のキーワードで、グーグル検索をかけてみたところ、ヒット数は「約9,370,000件」となっている。そのトップページに並ぶトップテンは以下のとおり。
1位 日本国憲法(政府運営サイトe-Govの公式憲法典条文)
2位 憲法のニュース検索結果
3位 憲法 – Wikipedia
4位 日本国憲法 – Wikipedia
5位 法条文・重要文書 | 日本国憲法の誕生- 国立国会図書館
6位 澤藤統一郎の憲法日記 – article9.jp
7位 憲法とは-コトバンク- Kotobank
8位 憲法会議
9位 憲法 – キーワード(赤旗)- 日本共産党中央委員会
10位 法学館憲法研究所

グーグルがどういう基準で、配列の順位を決めていているのかは知らないし、想像もつかない。それでも、憲法会議と共産党を抜いた。小さく「万歳」をしよう。

1位のe-Gov「日本国憲法」は不動の位置を確保している。これを抜くことは不可能だろう。挑戦の対象はまずは「国会図書館」である。そして、次はWikipediaだ。これを抜くことができたら…、別になんと言うこともないのだが。コツコツと毎日ブログの掲載を継続して、より多くの人に読んでもらえるようになりたいものと思う。

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グーグルの「憲法」検索で本日2位の座を占めている「憲法のニュース検索結果」の内容は、本日(4月11日)午前4時22分配信のNHKニュース、「憲法解釈変更で容認は立憲主義に反する」というもの。

「政府が右と言えば、左と言うことはできない」という会長をいただくNHKである。首相が「集団的自衛権行使容認という憲法解釈変更を閣議決定で」とやる気満々に、「右」を指し示している。敢えてこれに水を差して、「憲法解釈変更で集団的自衛権行使容認は立憲主義に反する」と、「左」の立場からのニュースを流してもよいのだろうか。あのときと同様に幹部が官邸に呼びつけられて、「放送法を遵守せよ。それ以上のことは言わない。言わなくてもわかっているだろう」と安倍晋三から言われることにならないか。あるいは、わざわざ安倍が乗り出さなくとも、籾井会長レベルで、「放送法遵守の観点から徹底調査する」何てことにならないだろうか。NHKには、一々心配がつきまとう。

NHK報道の内容は、昨日(4月10日)夕刻に、日弁連が主催した「シンポジウム 集団的自衛権と憲法ー『積極的平和主義』を問う」の報道。正確な報道は、安倍政権の基本政策に道理のないことを明らかにすることになる。

シンポジウムは、北澤俊美氏(元防衛大臣)の基調講演とパネルディスカッション。パネラーは、北澤氏の他は、阪田雅裕氏(元内閣法制局長官)、谷口真由美氏(全日本おばちゃん党)、半田滋氏(東京新聞論説委員)。村越進日弁連新会長も、危なげない挨拶をしていた。

NHKが取材に来ていたことは知らなかったが、ネットでは次のとおりの報道とされている。

「集団的自衛権と憲法について考えるシンポジウムが10日夜、都内で開かれ、防衛大臣や内閣法制局長官の経験者が、『憲法解釈を変更して集団的自衛権の行使を容認するのは立憲主義に反する』などと批判しました。

シンポジウムは、日弁連=日本弁護士連合会が開いたもので、最初に、北澤俊美元防衛大臣が講演しました。

この中で、北澤元防衛大臣は、安倍総理大臣が集団的自衛権の行使を容認するための憲法解釈の変更に意欲を示していることについて、『憲法解釈の変更で集団的自衛権の行使を容認することは立憲主義に反し、自衛隊にとっても死活問題だ。たとえ総理大臣であっても過去の解釈と整合性のとれない変更をすることは許されない』と批判しました。

続いて行われたパネルディスカッションでは、集団的自衛権の行使を容認する根拠として昭和34年に出された「砂川事件」の最高裁判決が引用されていることが議論になりました。パネリストの1人で、元内閣法制局長官の阪田雅裕さんは、『当時は、国際法上、集団的自衛権の概念も明確ではなかった。これまで議論になったこともない判決を根拠に憲法解釈の変更を正当化するのは不可解だ』と指摘しました。会場を訪れた女性は、『安倍政権に危機感を感じ、憲法の勉強を始めました。子どもや孫を戦争には行かせたくないので反対の声を上げていきたい』と話していました。」

NHKの報道は立派なものではないか。第一線の現場はがんばっている、ということがよくわかる。会長と、経営委員だけがおかしいのだ。

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シンポジウムでは、淡々と語った阪田さんの発言に重みがあった。

「私は、防衛政策の在り方に発言する立場にはない」とし、「私が言いたいことは、立憲主義を大切にすべきだということに尽きる。憲法9条2項に整合的な解釈として、集団的自衛権行使容認の余地はない。集団的自衛権を容認するのであれば、96条に定められた改正手続きを経て国民が憲法を改正する道を執るべきで、内閣の解釈変更で憲法が許さないことをやってしまおうということは、立憲主義に反するし、法治国家にあるまじきこと」

「違法な戦争はできない。合法的な武力の行使には二通りしかない。個別的自衛権の行使か、集団的自衛権の行使か。憲法9条2項は、戦力の不保持を明記している。これは、自衛のための最小限度の実力組織の保持と、個別的自衛権の発動に限っての武力行使を認めたものと読むべきで、集団的自衛権行使は認めないことと表裏をなしている。集団的自衛権行使を容認したら、自衛隊は他国の軍隊とまったく同じになってしまい、憲法9条の存在意義がなくなってしまう」

「これを限定容認なら、ということはできない。これまで積み重ねられてきた歴代内閣の整合的な憲法解釈を崩してしまうもの。安保法制懇の答申にもとづいてという手法も姑息だ」

専守防衛に徹すべきだという真摯な論調は力強く貴重なものと思う。

昨年(2013年)の4月?5月は、96条先行改憲論に反対する統一戦線的論調が世論に浸透して、安倍政権のたくらみを潰した。今年は、集団的自衛権行使容認論批判だ。とりわけ、「限定的容認論」なら落としどころではないか、という自民・読売的論調への徹底批判が必要だ。たまたま、本日(4月11日)の毎日社説が、「集団的自衛権 限定容認論のまやかし」である。世論調査の動向を見ても、うん、今年も勝てそうだ。

ところで、日弁連や、在京3弁護士会が主催する、市民向け公開シンポジウムは一切費用を取らない。無料というだけではない。さすがに、いつも充実した内容。

下記のサイトが今後のイベント一覧を掲載している。近々、袴田事件の報告集会もある。特定秘密保護法に関して西山太吉氏の対談も予定されている。是非、霞ヶ関の弁護士会館に足を運んでいただきたい。
http://www.nichibenren.or.jp/event.html

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NHK籾井会長、百田・長谷川両経営委員の辞任・罷免を求める署名運動へのご協力のお願い。

下記URLからどうぞ
http://kgcomshky.cocolog-nifty.com/blog/2014/02/post-3030-1.html
http://chn.ge/1eySG24
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    NHKに対する「安倍首相お友だち人事」への抗議を
☆抗議先は以下のとおり
 ※郵便の場合
  〒150-8001(住所記入不要)NHK放送センター ハートプラザ行
 ※電話の場合 0570?066?066(NHKふれあいセンター)
 ※ファクスの場合 03?5453?4000
 ※メールの場合 下記URLに送信書式のフォーマット
    http://www.nhk.or.jp/css/goiken/mail.html
☆抗議内容の大綱は
  *籾井勝人会長は即刻辞任せよ。
  *経営委員会は、籾井勝人会長を罷免せよ。
  *百田尚樹・長谷川三千子両経営委員は即時辞任せよ。
  *経営委員会は、百田尚樹・長谷川三千子両経営委員に辞任勧告せよ。
以上よろしくお願いします。
(2014年4月11日)

本郷三丁目交差点での訴え?集団的自衛権行使容認ノー

本日(4月9日)夕刻、地元「本郷湯島九条の会」などが本郷三丁目交差点で集団的自衛権問題で街頭宣伝活動を行った。これまで、特定秘密保護法についての訴えは何度も行ってきたが、集団的自衛権のテーマについては初めての行動。

久々に、街頭宣伝行動でマイクを握って、家路を急ぐ人々に、ショートフレーズで語りかける。

今、安倍内閣は、憲法解釈を大転換して、集団的自衛権の行使容認に踏み切ろうとしています。これは、憲法の平和主義を根底から突き崩すたいへん危険なたくらみとして到底見過ごすことができません。

歴代の自民党政権は決して憲法を大切にしようという姿勢ではなかった。それでも、「我が国では、憲法9条の制約があって集団的自衛権の行使は許されない」ということで一貫してきました。これまで何度も確認されてきた憲法解釈を投げ捨てて、集団的自衛権を認めようというこの乱暴なやりかたは、安倍内閣の暴走という以外に言葉がありません。

自衛権とは、自国が攻撃されたときに、やむを得ずこれに反撃する権利をいいます。現実に攻撃がなされていること、実力で反撃する以外に方法がないこと、反撃の程度が過剰にわたらないことの3点が要件とされています。

ところが、集団的自衛権とは自国が攻撃されていないのに、同盟国が攻撃されたら、それを自国への攻撃と見なして、攻撃された国と一緒に戦争ができるという権利のことです。謂わば人のケンカを買って出る権利のことを言います。自分が攻撃されているわけではないのですから、本来の意味での自衛権ではありません。

日本と軍事同盟を結んでいるアメリカは世界に軍隊を展開しています。現実にたくさんの戦争をしてきました。そのアメリカが世界のどこかで攻撃を仕掛けられたら、それがどこであろうとも日本も一緒になって攻撃を仕掛けた国を相手に戦うことができるということなのです。

「義務ではないから選択肢が増えただけで差し支えないじゃないか」などと言ってはいけません。これまで日本がアメリカの戦争に巻き込まれずに済んだのは、我が国が集団的自衛権の行使はできないという憲法上の大原則をもっていたからです。この貴重な原則を投げ捨てれば、日本は参戦を拒否できなくなります。

これまで、集団的自衛権はアメリカやソ連などの超大国が、目下の同盟国から要請を受けたとして軍事介入をする口実に使われてきました。いま、安倍政権は、日本をアメリカのケンカを買って出て、世界で戦争のできる軍事大国に育て上げたいのです。

あの戦争の惨禍から再出発した日本は、再びの戦争を絶対に繰り返すまいとして平和憲法を打ち立てました。平和憲法は、その前文で、誰もが平和に生きる権利があることを確認し、憲法9条で、戦争を放棄し、「陸、海、空軍、その他の戦力はこれを保持しない」と宣言しています。

戦力を持つことのできない日本が、どうして自衛隊を持てるのでしょうか。政府は、一貫して、「自衛隊は戦力ではない」と言い続けてきました。日本は、憲法で禁止されている戦力は持てないが、国に自衛権はある。自衛のための実力は戦力ではない。そのように説明してきました。これは、半分はまやかしですが、半分は真実と言えることでもあるのです。

自衛隊はあくまで、自衛のための実力なのですから、専守防衛に徹する編成や行動が強いられます。自衛の範囲を超えた武器、たとえば空母や大陸間弾道弾などの武器を持つことはできません。ましてや、自国では使えるはずのない核兵器も持てません。海外派兵はできませんし、カンボジアやイラクに派遣された自衛隊が、軍事作戦に従事することはありませんでした。

ところが、集団的自衛権を行使できるということになれば、専守防衛の原則が崩れます。軍備にしても、海外派兵にしても、歯止めがなくなります。これは、憲法の平和主義の原則が、まったくの骨抜きになることと言わざるを得ません。

安倍政権は「戦後レジームからの脱却」を叫んでいます。明文改憲、軍事力強化、特定秘密保護法、教育の国家主義化など、多方面での暴走が進んでいます。その中で、今最も重大なものが、集団的自衛権行使容認の閣議決定のたくらみなのです。

憲法の制約があって集団的自衛権の行使はできないとされているのですから、筋から言えば憲法改正以外に手段はないはずです。しかし、憲法改正の手続は国民投票で過半数の賛成を得なければならないのですから、安倍政権にその自信はありません。それなら、憲法を変えるのではなく、解釈を変えてしまおう。その発想が解釈改憲であり、閣議決定による集団的自衛権行使容認なのです。

憲法改正を実現するには厳重な手続的要件が定められています。それをすり抜けて、「国会の発議も、国民投票での過半数も得ることなく、一内閣の閣議決定だけで、憲法改正と同じことをやってしまおう」。これが安倍内閣のたくらみなのです。

政府の憲法解釈は、専門家集団としての内閣法制局が担当してきました。長年にわたる内閣法制局が担当した政府答弁の積み重ねで、「自衛隊が合憲であるためには専守防衛に徹しなければならない」「我が国では、憲法の制約があって集団的自衛権の行使はできない」という憲法解釈の見解が確定したものになっています。

安倍内閣にとってはこの内閣法制局見解が邪魔、なんと内閣法制局長官を最高裁判事に栄転させて、自分の言うことをよく聞くことを試し済みの、外務官僚小松一郎さんを後任に据えるという、異例の人事を行ったのです。やり口が姑息、汚い、と批判が噴出しています。

安倍内閣の手口の汚さはそれだけではありません。自分の言うことを聞きそうな権力迎合の人物だけを集めて、「安保法制懇」をつくり、集団的自衛権行使容認の可否について諮問をしているのです。答申の内容は分かりきっています。識者の意見を聞いたという形を整えて、閣議決定を行おうというのです。

安倍内閣のこのように姑息な手口は、今急速に国民の支持を失いつつあります。2月以来のあらゆる世論調査において、改憲反対の世論が急速に伸び、凋落した改憲賛成派を圧倒しています。朝日、毎日の調査だけはなく、読売や産経の調査結果も同様なのです。集団的自衛権行使容認派は永田町でこそ多数かも知れませんが、決して全国では多数派ではありません。

うららかなのどかな春の平和を大切にしたいものです。今日の平和を明日に続けましょう。私たちの今日の安全・安心と、子どもたちの未来のために、平和憲法の擁護を訴えます。閣議決定による憲法解釈の変更は禁じ手です。そんなことで平和を失うようなことがあってはなりません。

集団的自衛権行使容認の閣議決定ノー。安倍内閣ノー。その声を大きくしようではありませんか。
(2014年4月9日)

安倍改憲路線に民意は離れつつある

民主主義とは、民意を実現する政治のこと。その「民意」というものを考えたい。民意に基づく政治の大切さだけをいうのであれば、2500年も前から明らかにされている。よく知られている論語顔淵編の次の一節。

子貢問政、子曰、足食足兵、民信之矣、子貢曰、必不得已而去、於斯三者、何先、曰去兵、曰必不得已而去、於斯二者、何先、曰去食、自古皆有死、民無信不立。

私なりに訳せば、以下のとおり。
子貢が孔子に政治の要諦を尋ねた。
「経済を充実させ、軍備を怠らず、民意の支持を得ることだね」
「その三つとも全部はできないとすれば、まずどれを犠牲にしますか」
「そりゃ、軍備だね」
「残りの二つも両立は無理だとすれば、どちらを犠牲にすべきでしょうか」
「経済だよ。民生の疲弊はやむを得ないが、民衆の信頼がなければそもそも国家が成り立たないのだから」

孔子の時代の「民の信」とは、民衆の意思では取り替えることのできない為政者への包括的な信頼ということでしかない。民主主義社会では、具体的な民意を政治に反映することが必要だ。それができない為政者は、遠慮なく取り替えられなければならない。

はたして安倍政権の政策は、そのような意味で民意を反映し、民意の支持を得ているだろうか。むしろ、遠慮なく取り替えられるべき事態を迎えているのではないか。少なくもその兆しが見える。いくつかの世論調査の結果が、その証しである。

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本日の「朝日」朝刊に集団的自衛権に関する世論調査の結果が掲載されている。その大要は以下のとおり。
☆集団的自衛権について
 「行使できるようにする」        29%
 「行使できない立場を維持する」   63%
★「集団的自衛権を行使できるようにする」賛成者(29%)の中で、
 そのためには
 「憲法を変える」             56%
 「解釈を変更する」           40%
その場合近隣諸国の理解が
 「必要」                  49%
 「必要ない」               46%
☆今の憲法を
 「変える必要がある」         44%
 「変える必要はない」         50%
☆憲法9条を
 「変える方がよい」           29%
 「変えない方がよい」          64%
☆自衛隊を国防軍にすることに
 「賛成」                  25%
 「反対」                  68%
☆非核3原則を
 「見直すべきだ」            13%
 「維持すべきだ」            82%
☆武器輸出の拡大に
 「賛成」                 17%
 「反対」                 77%

朝日自身の解説を抜粋して紹介する。
 集団的自衛権について「行使できない立場を維持する」が昨年の調査の56%から63%に増え、「行使できるようにする」の29%を大きく上回った。憲法9条を「変えない方がよい」も増えるなど、平和志向がのきなみ高まっている。安倍内閣支持層や自民支持層でも「行使できない立場を維持する」が5割強で多数を占めている。
 安倍晋三首相は政府による憲法解釈の変更で行使容認に踏み切ろうとしているが、行使容認層でも「憲法を変えなければならない」の56%が「政府の解釈を変更するだけでよい」の40%より多かった。首相に同意する人は回答者全体で12%しかいないことになる。
 一方、国内では憲法9条を「変えない方がよい」も昨年の52%から64%に増え、「変える方がよい」29%との差を広げた。武器輸出の拡大に反対が71%→77%、非核三原則を「維持すべきだ」も77%→82%。自衛隊の国防軍化に反対も62%→68%と増えた。有権者が1年足らずの間に軍事力強化に対する不安を強めている様子がうかがえる。
 改憲の是非についても、今の憲法を「変える必要はない」の50%が「変える必要がある」の44%を上回った。朝日新聞社の調査で改憲反対が多数を占めるのは1986年の調査までで、次に改憲是非を聞いた97年以降は賛成が多かった。

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テレビ朝日「報道ステーション」が、3月29・30日実施した調査結果は以下のとおり。

☆集団的自衛権
 日本は、憲法第9条で、他国から直接攻撃を受けた場合のみ、武力行使することができるとされています。あなたは、これを変えて、日本と密接な関係にある国が攻撃を受けて、協力を求められた場合も、集団的自衛権を使って、自衛隊を海外に派兵して武力行使できるようにする必要があると思いますか、思いませんか?
 「思う」            35%
 「思わない」         45%
 「わからない、答えない」 20%
☆解釈改憲
 安倍総理は、憲法を改正しないで、第9条の解釈を変えることで、海外での武力行使ができるようしようとしています。あなたは、憲法を改正せずに、解釈でできるようにすることを、支持しますか、支持しませんか?
 「支持する」         22%
 「支持しない」        56%
 「わからない、答えない」  22%
☆閣議決定
 安倍総理は、憲法第9条の解釈を、内閣として決めることで、変えることができると主張しています。野党は、まずは国会での議論が必要だと主張しています。あなたは、内閣が決める前に、国会で議論することが必要だと思いますか、思いませんか?
 「思う」            84%
 「思わない」          7%
 「わからない、答えない」   9%
☆武器輸出
 安倍内閣は、国際環境の変化に対応するためなどとして、日本製の武器関連製品の外国への輸出を厳しく制限してきた、これまでの武器輸出三原則に代わって、新たな取り決めを検討しています。検討されている新たな取り決めでは、これまでの原則、輸出禁止に代えて、内閣が、日本の安全保障に役立つかどうかなどの政治判断を重視して、武器関連製品を、輸出するかどうかを決めることとしています。あなたは、この新たな取り決めを、支持しますか、支持しませんか?
 「支持する」         24%
 「支持しない」        47%
 「わからない、答えない」  29%

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また、4月1日付産経は、自社が行った世論調査の報道に、「憲法改正の賛否が逆転 反対47%が賛成38%を上回る」と見出しを付けている。記事の大要は以下のとおり。

 産経新聞社とFNNの合同世論調査で、憲法改正の反対派(47・0%)が昨年4月以降初めて賛成派(38・8%)を上回った。
 安倍晋三首相が改正に積極的な発言をしていた昨年4月は「賛成」(61・3%)が「反対」(26・4%)を引き離していたが、改正に慎重な公明党への配慮から発言を控えるようになると、賛成派は徐々に減少。今年1月には「賛成」(44・3%)と「反対」(42・2%)が拮抗していた。

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朝日が解説するとおり、民意は確実に平和指向・憲法擁護の方向にある。
産経の結果を再確認すれば、以下のとおり昨年4月から今年1月、そして今回の3月調査へと劇的な変化である。
  憲法改正反対 26.4%⇒42.2%⇒47・0%
  憲法改正賛成 61.3%⇒44.3%⇒38・8%  
民意は、安倍の「積極的平和主義」の暴走に大きな不安を感じて、「安倍ノー」を突きつけつつある。靖国参拝、消費増税、原発再稼動、原発輸出、非正規恒久化、さらにNHK人事、TPPである。それでもまだ安倍内閣の支持率が比較的高いのは、アベノミクス幻影という皮一枚の効果に過ぎない。

「民無信不立」は、「民に信ぜられることなくば立たず」と読みたい。政権も、政党も、政治家も、民意を獲得し民意の支持なくてはやっていけないのだ。猪瀬直樹や渡辺喜美が好例である。そして、各世論調査の結果は、安倍晋三もこれに続きそうな予兆なのだ。

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NHK籾井会長、百田・長谷川両経営委員の辞任・罷免を求める署名運動へのご協力のお願い。

下記URLからどうぞ
http://kgcomshky.cocolog-nifty.com/blog/2014/02/post-3030-1.html
http://chn.ge/1eySG24
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    NHKに対する「安倍首相お友だち人事」への抗議を
☆抗議先は以下のとおり
 ※郵便の場合
  〒150-8001(住所記入不要)NHK放送センター ハートプラザ行
 ※電話の場合 0570?066?066(NHKふれあいセンター)
 ※ファクスの場合 03?5453?4000
 ※メールの場合 下記URLに送信書式のフォーマット
    http://www.nhk.or.jp/css/goiken/mail.html
☆抗議内容の大綱は
  *籾井勝人会長は即刻辞任せよ。
  *経営委員会は、籾井勝人会長を罷免せよ。
  *百田尚樹・長谷川三千子両経営委員は即時辞任せよ。
  *経営委員会は、百田尚樹・長谷川三千子両経営委員に辞任勧告せよ。
以上よろしくお願いします。
(2014年4月7日)

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