本日(10月17日)から4日間が、靖国神社秋季例大祭。本来一宗教法人の宗教行事なのだから粛々と信者だけで内輪の儀式を執り行えばよいのだが、この神社の行事には、どうしても国が絡む。政治が絡む。歴史観が絡むし、軍国主義が絡んでくる。創建以来の東京招魂社・靖国神社の歴史がそうさせるだけではない。この神社が、いまだに「大東亜戦争聖戦論」を積極的に喧伝していること、このことに関連して、戦没者ではないA級戦犯を昭和殉難者として特別に祭神として祀っていることによるところが大きい。つまりは過去のことではなく、現在の靖国神社の在り方が、きな臭くも生臭くもある独特の臭いと、騒々しさを作り出しているのだ。
その今年の秋季例大祭に安倍晋三さんは参拝しないこととし、昨日(16日)参拝に代えて真榊料5万円を奉納したという。
安倍さんが神道の信者であり、熱心な靖国神社信仰者として、私的に参拝の思いが深いとしても、首相という地位にある(さして長くはない)期間、参拝を控えるのが賢明な態度である。大学は法学部の出身とのことだから、宮沢・芦部の名は知らなくとも、憲法の政教分離規定は学んでおられるだろうし、外交上の配慮も必要だろう。さらには「右翼の軍国主義者」と言われる材料提供を重ねることも得策ではあるまい。
もっとも、安倍晋三という人、本当に「私的参拝」の意欲や動機をもった人なのだろうか。靖国神社の信仰者なのだろうか。サラリーマン時代、彼は例大祭の度に靖国神社に参拝していたのだろうか。政治家になった途端に、靖国神社参拝を意識したのなら、「私的参拝」と言っても信じてもらうのは無理な話。
ところで、参拝はしなかったことは良しとして、真榊料奉納なら問題がないというのは間違いだ。「首相の参拝は不可、真榊料なら可」という定式があるわけではない。著名な参考判例として、愛媛県知事の靖国神社玉串料奉納を憲法の政教分離原則に違反するとした歴史的な最高裁大法廷の違憲判決(1997年4月2日)がある。
ちなみに、その判決の15人の最高裁裁判官の意見分布は13対2だった。反対にまわった守旧派裁判官の名は覚えておくに値する。三好達と可部恒雄。とりわけ、当時最高裁長官だった三好達。いまは、右翼団体の総帥、「日本会議」の議長である。「最高裁長官」だからといって、超俗の公平無私な人格をイメージしたら大間違い。所詮は、俗の俗、偏頗の極み、右翼の使い勝手のよい人物でしかない。
愛媛玉串料訴訟の事案と、安倍真榊料奉納とを比較してみよう。
寄付者は、愛媛県知事と首相。
寄付を受ける者は、両者とも宗教法人靖国神社。
寄付の名目は、玉串料と真榊料。
寄付金額は、愛媛県知事が9回で合計4万5000円、安倍首相が1回5万円。
玉串料には宗教的意味合いが深く、真榊料にはそのような意味がない、などという妄言は聞かない。「玉串」とは何で、「真榊」とは何なのか。その穿鑿は意味が無い。「賽銭」「献金」「布施」「供物料」「初穂料」「神饌料」「幣帛料」‥、何と名付けようとも異なるところはない。宗教的な意義付けをした金銭の授受があれば、愛媛玉串料訴訟の法理が妥当する。
残る問題は、愛媛の事件では、玉串料は露骨に公費からの支出であった。これに対して、安倍さん側は、「真榊料はポケットマネーからの支出」と言っているそうだ。しかし、「私費で出したのだから、問題はなかろう」とはならない。
公的参拝と私的参拝の区別について、当ブログで以前に論じたことがある。再び、公人性排除のメルクマールとされた、三木武夫内閣の靖国神社私的参拝4要件を思い起こそう。「公用車不使用」、「玉串料を私費で支出」、「肩書きを付けない」、「公職者を随行させない」というものである。
参拝に代わる靖国神社への「寄金」についても、その寄金が本当に私的なものなのかどうか、可能な限りあてはめて吟味しなければならない。誰が、5万円を靖国神社まではこんだのか。公職者が使われていないか。その際に公用車の使用はないか。真榊料とされた寄金の奉納者名に、「内閣総理大臣」の肩書は付けられていないのか。
以上は形式的な問題だが、政教分離の精神が求めているのは、政権と神社との象徴的紐帯の切断である。靖国神社という特定の宗教団体が国から特別の支援を受けているという外観を作出してはならないのだ。靖国は国を利用してはならないし、政権も靖国神社信仰を利用してはならない。相寄る衝動をもつ両者だが、真榊料を仲介とした結合を許してはならない。
(2013年10月17日)
このごろ巷にはやるもの
汚染原発
再稼働
薄めて捨てる放射能
シャットアウトと
ブロックと
コントロールで
オモテナシ
原発は
国内売れなきゃ外がある
トイレないまま売り込むぞ
安全偽装の安倍マンション
死の灰も、
売れれば経済万歳で
儲けりゃ文句を言わせない
あとは野となれ山となれ
オレは強いぞ 安倍政権
ねじれは解消 選挙は遠い
一党独裁 なんでもできる
やばいことなら 今のうち
げに恐ろしの世なりけり
国家安全保障法
実は国民不安法
戦争招く危険法
尖閣紛争ありがたや
北のミサイルこれ幸い
口実いくつも拵えて
憲法9条ないがしろ
放棄したはず軍事力
いつの間にやらアメリカと
徒党を組んでの狼藉は
過去の罪業忘れたか
秘密保護法 暗闇法
すべては真っ暗 目隠し法
何が秘密かそりゃヒミツ
知らぬは仏か主権者か
庶民に増税消費税
貧乏人から取り上げて
財源つくって さあどうぞ
企業に減税オモテナシ
大企業 内部留保は山のよう
ブラック企業はやり放題
老若男女を使い捨て
強欲経営一族は
ケイマン諸島に貯金して
金持ちますます肥え太る
物価上昇目標で
年金切り下げ
賃上げお手上げ
弱者切り捨て
政府が率先
今に見ていろ
オレだって
五分の魂もってるぞ
そのうち返すぞ 倍返し
因果はめぐるぞ 覚悟せよ
げに恐ろしの世なりけり
(2013年10月16日)
本日、第185臨時国会開会。今国会最大の対決法案は、「特定秘密保護法」。なんとしても、この法案の上程を阻止したい。提案されても、成立させてはならない。
この秘密保護法の問題点を訴えるには、三つのポイントがある。これを意識しながらTPOで細部を詰めていく。そのような語りかけや議論ができるようにしたいと思う。
第1点は、この法案の出自である。「法案提出の動機」「提案の背景事情」と言ってもよい。今回の法案は「アメリカからの度重なる要請」を出自としている。「要請」とは実質的に「押し付け」にほかならない。アメリカが押しつけているものは、独りこの法案に限らない。実は、この法案は孤立したものではなく、改憲、集団的自衛権、国家安全保障法、日本版NSC法、防衛大綱見直し‥等々とセットになった、危険な企図の一端であること。
第2点は、この法案がもっている独自の本質的危険性である。国民主権や民主々義が機能するためには、国民が政治的テーマについての情報を把握していることが大前提である。法案は、「時の政権が許容する範囲において国民に情報が与えられる」という仕組みをつくるものとして、国民主権・民主々義を蹂躙するものであること。
第3点は、この法案がもっている危険性の具体的イメージである。もし、この法案が成立したとすれば、日常生活はどうなる、国会はどうなる、記者の取材はどうなる、国民の知る権利は具体的にどうなってしまうのか。戦前の軍機保護法、国防保安法、軍刑法がどう使われたか。戦後も、沖縄返還密約問題など、秘密保護法制の危険性を生々しく具体的に語らねばならない。
以上の各点について、敷衍したい。まず、第1点。
この法案の出自がアメリカの要請にあることは、よく知られている。最初が2000年のアーミテージ・レポートだった。アメリカとの軍事的共同作戦を実行するためには秘密情報を共有しなければならない。だから日本にも「アメリカ並みの秘密保護法制が必要」というのだ。改憲をなし遂げ国防軍を作ることができればアメリカとの共同作戦を遂行することになる。改憲に至らずとも解釈改憲によって集団的自衛権行使が容認されれば海外での共同作戦遂行が可能となる。そのとき、アメリカとしては、同盟国日本との軍事作戦情報が秘匿されなければならない。ここに、この法案の出自がある。
安倍政権がたくらむのは、特定秘密保護法ばかりではない。戦争のできる国日本を目指すには、改憲、集団的自衛権、日米ガイドライン見直し、国家安全保障法、日本版NSC法、防衛大綱‥等々とセットになった総合法制が必要である。特定秘密保護法はその突破口であり、要の地位にもある。この動機や背景を見定めることは、そのままこの法案の危険性や、成立した場合の影響を語ることにもなる。
第2点。
憲法の国民主権原理は、国民一人ひとりが国政に関する重要な情報を把握することを大前提としている。国政に関して正確な知識を持った主権者が、自ら考え、意見を述べ、討議を重ねることによって、政策決定がなされることを想定している。民主々義は、国民の情報へのアクセスの権利、すなわち「知る権利」があって初めて成立する。情報を遮断された国民による、「民意の形成」も、「討議の政治」もなりたち得ない。民主々義のサイクルの始まりに、国民の知る権利がある。秘密保護法は、これを侵害する。国民主権と民主々義を根底から突き崩すものと言わざるを得ない。
国民は、報道機関の自由な取材と報道の活動によって国政に関する情報を知る権利をもっている。権力はいかに自分に不都合なものであっても、報道の自由を侵害してはならない。また国民は、行政が把握した国政に関する情報についてもこれを知る権利がある。民主々義が行政に要請するものは、行政の透明性を確保するための国民に対する情報の開示と説明責任の全うである。断じて、秘密の保持の範囲の拡大と厳格化ではない。
第3点。この点については、常に新鮮な情報か新しい切り口の提供が必要である。
本日、院内集会に参加して印象深かった情報2点。
一つは、毎日新聞の臺宏士記者からの報告の中でのこと。福島県議会の「特定秘密保護法に対し慎重な対応を求める意見書」が10月9日全会一致で採択され、本日開会の両院には届けられているという。
その内容は、「当県が直面している原子力発電所事故に関しても、原発の安全性に関わる問題や住民の安全に関する情報が、核施設に対するテ口活動防止の観点から『特定秘密』に指定される可能性がある」ことを指摘し、「今、重要なのは徹底した情報公開を推進することであり、刑罰による秘密保護と情報統制ではない。『特定秘密』の対象が広がることによって、主権者たる国民の知る権利を担保する内部告発や取材活動を委縮させる可能性を内包している本法案は、情報掩蔽を助長し、ファシズムにつながるおそれがある。もし制定されれば、民主主義を根底から覆す瑕疵ある議決となることは明白である。」という強い怒りの表現となっているというのだ。
もう1点は、赤嶺政賢議員の指摘。
「1989年のこと。海上自衛隊那覇基地内にASWOC(アズウォック・対潜水艦戦作戦センター)の庁舎建築に際して、建築基準法に基づき那覇市に建築工事計画通知書が提出された。この資料を市民が情報公開請求し、那覇市が市条例に基づいてこれを公開した。ところが国(那覇防衛施設局長)が公開に『待った』をかけた。『防衛秘密に属するから公開はまかりならぬ』というのである。国は、那覇市を被告として公開取り消しの裁判を起こした。最高裁までいって、この件では那覇市が勝訴したが、特定秘密保護法が成立したらこうはならないだろう。情報の公開ではなく、秘密の保持が優先することを恐れる」
秘密保護法について、構成をきちんとして縦横に語れるようになりたいものである。
(2013年10月15日)
昨日(10月14日)付の「赤旗・日曜版」に、日本共産党にとってなんとも景気の良い記事が掲載されている。「参院選後 地方議員選49連勝」という見出し。
「参院選後の定例地方議員選挙。日本共産党は党候補81人が立候補した24市25町村で全員当選、11週にわたって49連勝中です。当選者数は4年前の前回と同数ですが、定数を減らされる中、議席占有率は8.6%から9.2%へ0.6ポイント前進しました。」
「これらの議員選挙全体でみると、7月の参院選比例票の113.8%を獲得。他党は、自民91.1%、公明84.0%、民主49.9%、維新の会59.2%と、いずれも参院選比例票より得票を減らしています。」
「補欠選挙では定数1の茨城県議補選筑西市区(9月8日投票)で自民党推薦候補との一騎打ちを制して、日本共産党公認の鈴木聡さんが当選しました。」
この記事に表れた数字がどのような意味をもつものなのかよくは分からないが、「11週にわたって49連勝中」とはまことに結構なこと。
共産党の他党とは異なる組織上の特色は、全国各地に拠点となる党組織を持ち、地方議会に献身的な議員をもっていることだ。要するに、「政党らしい政党」となり得ている。文字通り、「身を粉にして」「地を這うような」地道な活動をしている地方議員が党を支え、日本の民主々義をも支えている。その地方議員の選挙が「連戦連勝」であることは、喜ばしい。
「水商売」という言葉は言い得て妙である。一見調子が良さそうでも、金融機関が「水商売」に信用を措くことはない。明日の流れは「水もの」なのだから。維新や民主を「水商売」にたとえることが失礼であれば、「風政党」でもよかろう。風の吹き方、風向き次第。風が収まれば、また離合集散を繰り返すしかない。一時は勢いのよかった維新や民主の風も、いまやぱったりである。なお、本日は社民党の党首選開票日だったが、その話題性の凋落は覆うべくもない。いまやひっそり、というしかない。
これに比較して共産党の活動は、「水もの」でも「風頼み」でもない。確かな党の勢いを実感できる。支持者は着実に増えている。もちろん、その支持は日本共産党の理念や政策への積極的支持ばかりではあるまい。当然のことながら、安倍政権の悪政批判の消極的支持も多いことだろう。共産党が、政権批判の唯一の受け皿としての重みをもちつつあるのだから。他に「受け皿」としての政治勢力はなく、この傾向はしばらく続くことにならざるを得ない。
私は、共産党の党勢がなかなか大きくはならないことについて、いくつかの原因があろうかと思っている。
(1)まずは、戦前の記憶の残滓がある。
戦前において、共産党は、明らかに権力からの弾圧の対象であり、非国民として社会的からも排斥された。なにしろ、天皇陛下に弓を引こうというのだ。しかも、労働者の搾取は不正義などとも言う。地主様にもたてつこうという不逞の輩である。3・15事件、4・16事件ばかりではない。共産党員は、検挙され、拷問され、有罪とされ、命さえ奪われた。善良な小市民の目からは、共産党も共産党員も恐るべき存在である。
いじめられっ子に味方すると、自分までいじめられる。共産党の同類と疑われたのではたまらない。うっかり共産党の言うことに耳を傾けたり、目を向けたりしたらたいへんなことになる。治安維持法がなくなった戦後も、民衆の記憶の底に染みついた残滓はいまだに容易に消し去られてはいない。
(2)戦後の保守勢力は、民衆の反共意識を煽り助長して、最大限に利用した。
下山・三鷹・松川の各事件とも、事件直後から、政府が「労働組合と共産党の犯行」と宣伝した。有無を言わさない大規模なレッドパージは、戦前の記憶の再現となった。善良な市民に、「やっぱり、共産党の側にいるだけで火傷する」と思わせる状況が意識的につくられたのだ。
(3)体制の変革者としての共産党は、体制そのものからもっとも疎まれる存在である。
共産党は現在なお、資本がもっとも警戒する存在である。企業への就職に際しても、就職してからも、共産党に関わりを持っていることは、不利になるものと考えざるを得ない。企業だけではなく、官庁においても同様である。職業人として生きていくのに、共産党支持を表明して有利になることはほとんど考えられない。
(4)世渡りには共産党と関わりを持たないことが大切と信じられている。
上手に世渡りするには、「共産党を支持しています」などと毛ほどのそぶりも見せてはいけない。共産党の言うことに耳を傾けてはならない。赤旗講読などもってのほか。共産主義は、時代遅れだという思想を身につけよう。体制に疎まれることのない、今はやりの思想で共産党の言っていることに反論しよう。こうすることが、世に受け容れられる賢い生き方。そう広く信じられている。
にもかかわらず、いま、共産党への支持が拡大しつつあるのは、安倍右翼政権への対峙の姿勢に揺るぎがないからだ。私は、積極的な共産党支持者が増えることもさることながら、民衆の反共意識の克服が重要な課題だと思っている。そうでなくては、共産党を中心とする共闘が成立し得ない。改憲を阻止して民主々義を実現するための実践的課題である。
どんな動機であれ、民衆が共産党の政策に耳を傾け、選挙で投票する経験をもつことには、極めて大きな意義がある。共産党と関わりを持ちたくない、共産党支持者だと思われたくない、共産党と関わりを持たないことが賢い生き方だという反共意識を払拭する第一歩として。そして、改憲阻止の民主的共闘体制の構築を実現するために。
(2013年10月14日)
西にスノーデンあれば、東に朱建栄あり。国家秘密に関わることとなると、まことに陰湿で嫌な事件が起こる。おそらくは、われわれの耳目をかすめることのない無数の類似事件があるのだろう。
「サンデー毎日」2013年10月20日号によると、東洋学園大学(文京区)朱建栄教授は、今年7月に上海で消息を絶った。その後、2か月近くたった9月11日に、中国外務省の洪磊副報道局長が定例記者会見で「朱建栄は中国(籍)の公民だ。中国は法治国家であり、公民は国の法規を遵守しなければならない」と述べ、国家安全省が情報漏洩の疑いで身柄を拘束している事実を認めた、という。
公安関係者の解説として、「国家安全省は、防諜と呼ばれるスパイ活動の監視や摘発を主任務とする情報機関です。朱氏は中国の情報を日本側に提供したと見られたのでしょう‥」。とは言うものの、記事は「諸説紛々だが、今も真相は藪の中だ」としている。
たまたま本日、久しぶりにスノーデンのコメントが報道されている。内部告発サイト「ウィキリークス」が、10月11日にネット上に掲載し公開されたものだとか。「時事」の報道は、「スノーデン容疑者は、『必要ないときまで、底引き網のように情報をあさり、全人類を監視下に置こうとする。社会を安全にするどころか、意見を表明し、考え、生きることを規制している』と、米国家安全保障局(NSA)の監視活動を批判した」と言っている。
朱氏の身に何が起こったかはよく分からない。分からないながらも、国家秘密漏洩に関わって同氏の身柄が当局に拘束されていることが高い確度で推察される。ことがらの性質上、公的に拘束の理由が明示されることはない。「何が逮捕勾留の理由か、それはヒミツ」だからだ。中国の秘密保護法制については詳らかにしないが、日本がお手本にすべきものでないことだけは確かである。
中国外務省報道官の「朱建栄は中国(籍)の公民だ。中国は法治国家であり、公民は国の法規を遵守しなければならない」とは、恐るべき宣言である。ここでは、「法治主義」という言葉は、疑いもなく「国家が国民に向かって、規範の遵守を要求する」スローガンとされている。言葉の本来の意味である「権力の行使は法の制約に服さなければならない」という観念はまったくないようなのだ。「法によって縛られるものはなによりも国家である」ことが法治主義。「法によって国民を縛る」のは、秦・漢の法家以来の伝統で、近代の思想ではない。
もし、特定秘密保護法が成立したら‥、我が国にも無数の朱建栄氏やスノーデンの事件が起こるだろう。意図せぬのに秘密を漏洩したと弾圧され、しかもその弾圧の内容すら秘密にされる事件。そして、正義感から、政府の違法行為の実態を広く社会に通報しようとして徹底的に弾圧される事件。
いずれの類型の事件においても国民の知る権利が侵される。その結果は民主々義の衰退をもたらす。教訓とすべきではないか。
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「声を出し続けるマララさん」
ノーベル平和賞は、シリアの化学兵器廃棄で注目された「化学兵器禁止機構」が受賞した。化学兵器問題に光が当てられ、シリアと世界の平和の前進が図られる一歩となることを喜びたい。
その平和賞の有力候補者であったマララ・ユスフザイさんは、受賞を逸したが、ますます元気なようだ。この小さな16歳の少女マララさんには、心引かれるものがあり、後援したいという気持ちを起こさせる魅力がある。
11日にはアメリカのオバマ大統領夫妻に面会した。オバマ大統領は、パキスタンの女子教育推進のマララさんの活動に「感謝」の気持ちを伝えたという。その会談のなかで、マララさんは「アメリカ軍がパキスタンで行っている無人機の攻撃で、民間人が傷ついて、かえってテロを助長している」と話したと伝えられる。
2004年以来の無人機攻撃で、3000人以上の人が殺された。そのうち1000人近くが民間人である。さらに痛ましいことに、民間人の死者のうち200人弱はパキスタンの子どもなのだ(概数。正確な数は把握できていない)。
報道写真によると、オバマ大統領との会談には、マララさんと同じ年頃のオバマ大統領の長女も同席し和やかな雰囲気ですすめられたようだ。マララさんが帰ったあと、オバマの家族は何を語り合っただろうか。長女は何を感じ、大統領は自分が命じた「戦闘と殺戮」について、長女と妻にどう釈明しただろうか。「ともかく、先日のシリアの爆撃を回避できてよかったよ」とでも語ったのだろうか。
以前、マララさんはアメリカのABC放送のインタビューで、「銃撃を予想していたので、そのときがきたら、何と言ってやろうかといつも考えていました。タリバンの子どもや娘たちにも教育を受けさせてくださいと言おうと思っていました」と目をクリクリさせて答えていた。きっと、マララさんは今回も、「オバマ大統領に会ったら何と言ってやろうかしら」と考えていたに違いない。
タリバンは今も、マララさんの命を狙うと脅迫し続けている。しかし、「無人機の攻撃をやめてください」と要求するということは、「タリバンの命も助けてください」と言っていることでもある。マララさんは国連での演説のなかでも、「私を銃撃したタリバンの人たちを憎みません」と述べている。タリバンは、たった独りのマララさんに、道義的にも負けてはいないか。
地元パキスタンでは「マララさんが撃たれて注目を浴びるようになってから、ここはよりいっそう危険になった」「マララは欧米かぶれだ」「自分は安全なところにいて」と批判の声の方が圧倒しているらしい。しかし、声を出せるところにいる人までが声を出さなくなったら、敗北を認めたことになる。とにかく、声を出し続けるマララさんはやっぱり立派だ。
(2013年10月13日)
安倍政権は、奇妙な言葉の使い方をする。眉に唾をしないと真意が分からない。消費者の目を眩ます悪徳商法家としての天賦の才能に恵まれているのだろう。国民は「賢い消費者」となって、悪徳セールスを見破らねばならない。でないと、被害は甚大、財産だけではなく生命まで根こそぎ奪われかねない。
「事故後の原発は完全にコントロール」「0.3平方キロでブロック」「水俣病を克服した」の類はまだ罪が軽い。戦争と平和の問題での誤導についての罪が深い。
「積極的平和主義」とは、「徹底した反戦の立ち場を貫いて、戦争のない平和な社会をつよく求める姿勢」かと一瞬誤解しかねない。実は、まったく逆で「戦力を増強し戦費を増やして、専守防衛に限定することなく、世界のどこででも戦争が出来るような国防軍をもつこと」なのだ。
核廃絶についても同様、口先と腹の中はまったく異なっているのだ。
今年の8月6日、安倍晋三は、「広島市原爆死没者慰霊式・平和祈念式」において、口先では何と言ったか。
「私たち日本人は、唯一の、戦争被爆国民であります。そのような者として、我々には、確実に、核兵器のない世界を実現していく責務があります。その非道を、後の世に、また世界に、伝え続ける務めがあります。‥核兵器の惨禍が再現されることのないよう、非核三原則を堅持しつつ、核兵器廃絶に、また、恒久平和の実現に、力を惜しまぬことをお誓いし、私のご挨拶といたします。」
ところが、この言葉はホンネではない。口先だけのタテマエに過ぎない。8月9日、長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典の「平和宣言」において、田上富久長崎市長は、参列した安倍晋三の面前で、政権のホンネを次のとおり批判した。
「日本政府に、被爆国としての原点に返ることを求めます。
今年4月、ジュネーブで開催された核不拡散条約(NPT)再検討会議準備委員会で提出された核兵器の非人道性を訴える共同声明に、80か国が賛同しました。南アフリカなどの提案国は、わが国にも賛同の署名を求めました。
しかし、日本政府は署名せず、世界の期待を裏切りました。人類はいかなる状況においても核兵器を使うべきではない、という文言が受け入れられないとすれば、核兵器の使用を状況によっては認めるという姿勢を日本政府は示したことになります。これは二度と、世界の誰にも被爆の経験をさせないという、被爆国としての原点に反します。」
鋭く突きつけられた問題は、「人類はいかなる状況においても核兵器を使うべきではない」という命題を受け容れるのか拒否するのか。曖昧な回答は許されない。中間の答はない。
共同声明署名の80か国は、「人類はいかなる状況においても核兵器を使うべきではない」を肯定した。しかし、安倍政権は否定した。「いかなる状況でも核兵器が二度と使われないことが人類存続の利益になる」との表現を問題視したというのだ。「核兵器の使用を完全排除した場合は米国の核抑止力に頼る政策と合わないと判断し、署名を見送った」と報じられた。これが、「唯一の被爆国」の政府の態度であり、「二度と、世界の誰にも被爆の経験をさせないという、被爆国としての原点に反します。」と言った人物の、2枚目の舌によるホンネである。
このことが、現在問題として再燃している。国連の有志国が準備している「核の不使用」共同声明に、日本も署名することについて、菅義偉官房長官と岸田外務大臣は、昨日(11日)相次いで記者会見に応じている。実はまだ、事態はよく分からない。「いかなる状況でも核兵器が二度と使われないことが人類存続の利益になる」との原案にあった表現が日本の意見を容れて削除されたのかどうか。削除の有無に関わらず、日本がこれに賛成を決めたのか、削除なければ前回同様賛成しないのか。
ハッキリしていることは、日本が提案有志国に対して、「いかなる状況でも核兵器が二度と使われないことが人類存続の利益になる」との原案を削除するよう求めていること、声明の内容が「日本の立場を縛ることはないことを確認した上でなら署名ができる」と明言していることである。
このことは、片言隻句の問題ではない。原則の問題であり、思想の問題だ。核の悲劇をもっともよく知る立ち場の日本国民とその政府に突きつけられた問題として、余りに大きい。
日本国民は、日本政府に問い質さなくてはならない。安倍政権は、「いかなる状況でも核兵器が二度と使われないことが人類存続の利益になる」という命題に、いかなる意味で賛同できないというのか。曖昧さを残さずに明確に回答を求めねばならない。
「いかなる状況でも核兵器が二度と使われないことが人類存続の利益になる」は、広島・長崎において被爆の惨禍に遭遇し、ビキニで水爆による放射線被曝の体験をした日本国民の一致した見解である。このことが核保有国を含む全世界人民の常識となるよう、働きかけることが日本国政府の務めではないか。
日本政府こそ、他国に率先して核廃絶を訴えなければならない。「いかなる状況でも核兵器が二度と使われないことが人類存続の利益になる」という文言のレベルは核廃絶より数段低い。その程度の文書について、他国から呼び掛けられて、「その文言を消してくれたらすんなり署名できるんだけど‥」と言っているのは、余りに情けない。
日本国民は、どうしてこんな人物や政党に政権を与えたのか。こんな政権の支持率がどうして限りなく低下しないのだ。国民は、いつの間にか、そんなに核兵器が好きになってしまったのだろうか。
(2013年10月12日)
本来行政とは、主権者への奉仕のシステムである。自治体であれば、主人である住民に仕えなければならない。ところが、世の中理念と現実は大違い。主客逆転して、筋の通らない行政が満ち満ちている。これを是正する方策として、政治ルートと司法ルートとが想定されている。もちろん、政治ルートが本筋である。
しかし、政治ルートの実効性は極めて低い。行政そのものが多数派支配の機関という宿命を帯びているからだ。筋の通らない行政の被害者の多くは少数派で、少数派であるが故の理不尽な迫害についての「政治ルートでの解決」、つまりは選挙を通じての多数派横暴の是正は画に描いた餅でしかない。
そこで、筋の通らない行政の是正のために司法ルートに期待がかかる。行政訴訟法はそれなりのメニューを取りそろえて、主権者国民の裁判所へのご来店を待ってくれてはいる。しかし、これも現実にはそう簡単なことではない。手間も暇も、金だってかかる。そのうえで、確実に勝訴できるとは限らない。
それでも、行政に腹の据えかねるときには、たった1人でも訴訟ができる。いくつものメニューの中で、もっとも使いやすいのは国家賠償の制度だが、これは国や自治体の責任を追及すること。これとは異なり、筋の通らない行政の責任者である自治体の公務員個人の責任を追及する手段が住民訴訟。然るべき立場の公務員個人の責任を問題とし、その個人の行為の違法性と自治体に与えた損害について攻撃防御を尽くす舞台を設定することで、住民個人と権力をもった公務員との対等性を実現することができる。もっともっと、住民訴訟の活用がはかられてよい。
住民訴訟は、本来は財務会計上の違法行為を是正し、違法行為の責任者個人への民事的責任追求を通じて自治体の損害を回復するという制度。使い勝手がよいのは、他の行政訴訟では常に問題となる、処分性だの、原告適格だの、訴えの利益だの、主張制限だのといった手続的な面倒がないこと。仮に自分とは無関係な問題についても、当該自治体の住民でさえあれば、原告適格が認められる。この訴訟では、公益を代表して、住民個人が原告となって、公務員の違法を是正する構造なのだ。
この訴訟の多くは、知事や市長の個人責任追及のために使われる。首長の判断の間違いから、自治体に損害が生じた場合が典型。まずは、監査委員会に監査請求をし、棄却の裁決を経て、住民訴訟の提起となる。いまは、いきなり当該公務員個人を被告とはできない制度だが、自治体に公務員個人に対する賠償請求を義務づける訴訟が先行して、これが確定すれば、自治体は当該公務員(知事や市長)に損害賠償請求をしなければならない。
東京都教育委員会の責任追及の手段として、監査請求から住民訴訟を提起してはどうだろうという提案が一部にあるという。住民訴訟をやろうというのは、東京都や行政機関の責任ではなく、教育委員個人の責任を追及しようという意図以外にはない。東京都教育委員一人ひとりに賠償義務、あるいは不当利得返還義務があるという主張となる。
何をもって、各教育委員が東京都に対して損害を与えているというか、あるいは各委員が不当利得返還債務を負担しているというか。参考判例として箕面忠魂碑2次訴訟の一審判決(大阪地裁・1983年3月1日)がある。
この判決は、「忠魂碑の宗教的性質を認め、市教育長の忠魂碑前での慰霊祭への参列は公務とはいえないとし、その時間分の給与は不当利得となって市に対して返還義務を負う」と判断している。もっとも、慰霊祭参列の宗教性の認定は上級審で覆されてはいる。しかし、「違法な式典に参列した時間に相当する給与の返還義務」までが否定されたわけではない。要は、公務員としての業務遂行をしてないのに、その対価として得たものは、本来自治体が支払うべきでないのだから、不当な利得として返還しなければならないということだ。
さて、都教委の諸君のことだ。委員会において、やるべきことをやらず、やってはならないことをやっておられる。たとえば、日の丸・君が代強制問題で、最高裁判決が実質において「思想転向強制システム」を違法と判断した。この重大事について検討しなければならないことをしていない。反面、実教出版社の「日本史」採択妨害など、してはならないことはきちんとしている。
都の教育委員の月例報酬分について、東京都から教育委員に損害賠償をせよ、あるいは時間相当の不当利得返還請求をせよ、などの提訴は十分に考えられるところ。まずは監査請求を行えば、その過程で、給与の額や支払い方法などは明瞭になる。
こんなことを考えざるを得ないのは、都教委事務局の鉄面皮ぶりに怒っているからだ。「東京君が代訴訟」の原告団で構成している「被処分者の会」が、9月9日付で、「請願書」を提出した。その趣旨は、「9月6日判決を中心とする一連の最高裁判決と、被処分者の見解を教育委員に報告して、十分な議論を尽くして欲しい。是非とも、最高裁の多くの補足意見が述べているとおり、事態打開のために話し合いの場の設定をお願いしたい」という内容である。
この請願に対して10月10日付で形ばかりの回答がなされた。「教育委員会への報告は行わないこととなりました」というのである。理由は、「請願の処理は、(請願についての取扱要綱によれば)、当該事案について決定権限を有する者が処理するとされており、これに基づいて、教育委員会決定とされる特に重要な事項を選定し、教育委員会の会議に報告しています。」からという。
つまりは、「教育委員会決定とされる特に重要な事項」だけを教育委員に対する報告事項とし、それ以外は「事務局段階で握りつぶす」ことの広言なのだ。
都教委が行った、「10・23通達→校長への職務命令発令強制→懲戒処分」「機械的な累積過重懲戒システム」が、少なくとも一部については最高裁が違法と断罪し、30件(25人)の処分を違法であることを認めて取り消しの判決を言い渡し、これが確定したのだ。これ以上の「重要事項」などあろうはずがない。
最高裁が都教委違法と断定したのは、確かに日の丸・君が代強制行為のすべてではない。しかし、その本質部分と言って良い。しかも、最高裁の多数の裁判官が補足意見を書いている。「違憲違法との決め付けまではできないが、妥当であるかと言えば話は別」「権力的な強制は思わしくない。都教委の権力行使は謙抑的に」と言っているではないか。
教育委員の諸君よ、のうのうと報酬をもらっておられる事態ではない。あなたがその一員である教育委員会の処分が違法として取り消された。しかも、最高裁の判断として確定しているのだ。違法な処分を受けた関係者にどう謝罪するのか、違法処分の再発防止はどうするのか、責任者の処分をどうするのだ。最高裁から指摘があっても、自分の違法には頬被りなのか。それが、仮にも「教育」に携わる者の態度か。教育庁職員のやっていることに責任がないと開き直ってはならない。監督不行き届きなのだ。いじめや体罰問題を起こした当人だけの責任ではなく、学校の管理体制が問題だとあなた方は言っているではないか。自分のこととして考えていただきたい。
違法あれば、その是正に提訴が常に最善の手段というわけではない。しかし、このまま事態の打開ない場合には、社会と教育委員各自に、問題の深刻さを訴え、被処分者個人と権力をもった教育委員との、議論における対等性を実現する手段として、「報酬分の返還」を求める住民訴訟の提起は、まことに魅力的な提案ではある。
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『東北アジアにも、ASEANなみの諸国連合を』
連日「ASEAN(東南アジア諸国連合)プラス3」首脳会議の記事が新聞を賑わせている。ところが、恥ずかしいことに、首脳の顔になじみがない。遠いアメリカやヨーロッパの首相や大統領の顔なら、おおよそは判別できるのに、である。記念写真の整列の順列が大きな意味を持つようだが、残念、よく分からない。
1967年ベトナム戦争中のアメリカが、東南アジアの共産化を恐れて、後援して発足させたのがASEANの起こり。最初の構成国は、タイ、インドネシア、シンガポール、フィリピン、マレーシアの5カ国。その後、ブルネイ、ベトナム、ミャンマー、ラオス、カンボジアが加わって現在は10か国で構成されている。
1990年代にベトナムが加わった頃からは、反共イデオロギーを超えた東南アジア地域統合体として成長した。10か国の総人口は6億人、GDPは日本の4割弱である。インドネシアのジャカルタに本部を置き、世界の50カ国あまりがASEAN大使を常駐させている。
2007年にはASEAN憲章が制定され、加盟国によって順次批准されている。民主主義の促進、核兵器の否定、武力行使・威嚇の拒否、国際法の遵守、内政不干渉などの条項がふくまれる。
2009年にはASEANインフラ基金も創設されて、日本と中国が各384億ドル、韓国が192億ドルを出資している。2015年までに域内経済を一体化させる「ASEAN経済共同体」創設に向かってすすんでいる。
さて、10月9日、ブルネイの首都バンタルスリブガワンで開かれた首脳会議の一番の関心事は、中国とフィリピンやベトナムなどとの間の南シナ海の領有権問題であった。今回、立役者となるはずのオバマ大統領が国内経済問題にてこずって会議に出られなくなるという事態となり、代わって中国の李克強首相の存在感が大きくなったと報道されている。日本の安倍首相にはオバマ大統領に代わって、仲を取り持つ器量や貫禄はとうてい望めない。
これまで、領有権紛争解決のために、法的拘束力のある「行動規範」策定に向けて、話し合いが続けられてきており、中国は自らの行動を縛ることになる「規範策定」には消極的だった。ところが、この会議では風向きが変わった。「紛争は直接の当事国の間の協議と交渉を通じて解決すべきだ」という従来の主張を繰り返しながらも、「行動規範策定に向けてASEAN側と協議を続ける」との柔軟な態度を取り始めたということだ。「南シナ海には船舶航行の自由があり、南シナ海での航行の自由は保障されている」と言うようになってきている。
紛争相手国であるフィリピンは、1992年に一度は追い出したアメリカ軍を再び駐留させるという強硬政策をとってまで中国と対決する気だった。そのフィリピンのアキノ大統領も、協議の進展に評価の姿勢をしめし、「紛争を拡大させないため関係国は自制すべき」と態度を軟化させている。
ASEANの存在感なかなかのものであり、会議の進展は平和的なムードだ。ところが、日本の安倍首相だけが浮いている。憲法解釈を変更し集団的自衛権の行使を可能にするいきさつを説明するために、「積極的平和主義」をすすめると公言した。「平和主義」ではなく「積極的平和主義」。これが「武力の威嚇をもってする平和」の宣言にほかならないことは先刻承知のこと。こうした日本の言動が、太平洋戦争で侵略されて忘れることのできない記憶を抱いているアジア諸国に及ぼす懸念を認識しないのだろうか。こんなことで、近隣諸国の懸念を払拭して友好な関係を確立できると思っているのだろうか。
日本は尖閣列島を国有化し、首相の靖国参拝問題、慰安婦問題と中国・韓国の神経を刺激し続けている。竹島問題の行方も知れない。今回の会議においても、中国の李克強首相とはかすりもせず、韓国の朴槿恵大統領とは朝鮮料理の話ができたと喜んでいる情けない事態となっている。
近隣諸国間の対話と信頼の醸成の場の必要性は安倍首相も感じたはずだ。ASEANのような共同体を東北アジアにも作らなければならない。定期的に会議の場が設定され、イヤでも隣国の首脳同士が顔を合わせ、口を利かなくてはならない。そのような関係をつくることが重要ではないか。いくらアメリカだけを頼りにしても、日本の平和的安全保障は成立しない。
(2013年10月11日)
名著「敗北を抱きしめて」の著者、ジョン・ダワーの近著「忘却のしかた、記憶のしかた」(本年8月刊)が評判となっている。著者がこれまでに発表した11編の論文集だが、さすがによくできている。安倍自民党政権が、きな臭い雰囲気を漂わせている今、精読するに値する。
とりわけ、第2章の「二つの文化における 人種、言語、戦争ーアジアにおける第二次世界大戦」を興味深く読んだ。大戦中に、米日両国のそれぞれの国民が、どのように敵国人を憎悪する感情に支配されていたか、いかに敵国民を侮蔑する言動に及んでいたかを克明に叙述している。
「敵を非人間化することは、戦闘中の人間にとっては望ましいことだ。それは人を殺すことへの良心の呵責や迷いを消し去り、そう理由付けることによって自己保身にも寄与する。『つまるところ、敵は同時におまえを非人間化し、殺そうとしているのだ』」両国とも、そのように敵を非人間化した。
著者によれば、米英の側の「日本人への人種差別の認識」は五つのカテゴリーにまとめられるが、その第一が「日本人は人間以下」というものだったという。そして、「ほとんど例外なく、アメリカ人は日本人が比類ないほど邪悪であるという考えにとりつかれていた」。たとえば、「ピューリッツァー賞の歴史部門で2度受賞したアラン・ネヴィンスは、『おそらく、われわれの全歴史において、日本人ほど嫌われた敵はいなかった』と述べた」「ハリウッド映画はおきまりのように、ナチスと一緒に善良なドイツ人も描いたが、『善良な日本人』を描くことはほとんどなかった」などという。
このような米兵の認識が、日本兵を殺すことに抵抗感をなくした。彼らは、「まるで郷里で鹿狩りをするように、しゃがみ込むジャップに銃の照準器を合わせた。」
「日本人は害虫だった。もっと行きわたったイメージは、日本人が類人猿やサル、『黄疸になったヒヒ』というものだ。」「アジアにおける戦争は、振り返っていまだに衝撃を受けるほど非人間的な軽蔑語をひろめた」という。
但し、著者によれば、「戦争がそうした形容を大量にうんだのではない。こうした蔑視の言葉は深くヨーロッパ人、アメリカ人の意識に埋め込まれたもので、戦争は弾みを付けてそれを解きはなったに過ぎない」とされる。この点の指摘は重要である。
一方、日本人は、「米英の敵に言及するときには、鬼や悪魔に目を向けた」「『鬼畜米英』は白人の敵にたいするもっともなじんだ蔑称だった」「視覚芸術において、米英人の描写は、民話や民間信仰に登場する鬼や悪魔そっくりに描かれた」「戦時の日本人において、鬼は単なる『人間以下』や、『凶暴な獣類』のイメージではあらわせない敵の比喩としてはたらいた」
「決定的な局面でイメージと行為が結びつくと、鬼も猿も害虫も、同じように機能した。そうしたイメージのすべてが、敵を非人間化することによって、殺戮をたやすくさせた。」「米海兵隊員が、自らを『ネズミ駆除人』と呼んだ硫黄島は、日本の公式ニュース映画では、『米国の悪魔を畜殺するにふさわしい場所』と描写された」
両国民とも、正義は我が方にあり自国民は穏和で優れた存在とし、敵国民は侮蔑するに値するという。選民思想と差別感情とは対になって凄まじく、敵国民殲滅を正当化する論理にまで行きつく。
この論文が考えさせるところは、戦時だけに限定して問題を語っていないことである。戦後の、両国の思惑や軋轢に垣間見られる相互の不信や差別意識に言及して、問題が終わったものではなく、状況次第でいつでも繰り返されうることを示唆しているのだ。
1970年代に、アメリカが相対的に没落する一方日本が経済大国化したとき、「アメリカのレトリックにおいて、人間以下の類人猿は『肉食エコノミックアニマル』として復活し」、「日本人の方でもしばしばアメリカによる悪魔のような日本たたきを非難して、‥日本の達成は『大和民族』の同質性や純血のおかげだとした」
こうして、論文は、根源的な選民思想や差別感情について、「時の移ろいにつれ、慣用語は変わっていくが、完全に消滅することはない」と悲観的に結ばれている。
著者の姿勢の客観性が印象的である。とりわけ、米国民の敵国日本人にたいする差別意識と憎悪の凄まじさを徹底して暴き出している。東京大空襲も広島も長崎も、その差別と憎悪の延長上にあるのだ。そして、神話を根拠とする日本の選民思想や、アジア諸国にたいする差別意識の指摘においても容赦をしない。
人種差別表現の公然化は、その社会が戦争への発火点に近い危険領域にあることを物語っている。そして、国民・民族としての優越意識や、他民族・他人種への差別意識は、戦争終了とともに簡単になくなるものではない。社会に沈潜した澱となって、常に危険な存在となりうるのだ。常に意識し、常に警戒して、ナショナリステックな言動を抑え込まなければならない。
意識的にこれに火をつけようというのがヘイトスピーチである。あさはかなレイシストの言動ではあるが、明らかに彼らは、安倍政権の鼓舞と許容のメッセージに躍っている。昨年暮れの総選挙投票日の前日、自民党最後の打ち上げは秋葉原駅頭だった。駅前広場を埋めつくした、日章旗と旭日旗の林立には、肌に粟立つ思いを禁じ得なかった。安倍極右勢力の総選挙勝利は、レイシストたちに、「嫌中・嫌韓は時の流れ」「何をやっても大丈夫」というメッセージと認識されているのだ。
日米の交戦時に、お互い敵国民に対してどのような差別語で侮蔑しあったか。そのことを忘却してはならない。そして、その重い記憶を常に賢く活かさねばならない。日中も同様、日韓もだ。忘却は、あの忌まわしい体験を再来させかねない。再確認しよう。すべての人の尊厳を認めることが、平和の礎である。差別感情の扇動こそが、戦争の危険を招き寄せるのだ。
(2013年10月10日)
A「東京都教育委員会の『10・23通達』関連訴訟は合計23件を数える。そのうち、昨年1月16日処分取消1次訴訟判決、同年2月9日予防訴訟判決、そして先月6日の2次訴訟判決で、大規模事件の最高裁判決がある程度出揃って、最高裁の基本姿勢が見えてきた。3次訴訟が地裁段階に係属しており、いずれ4次訴訟も続くことになる。この時期に、今後の展望を切り開くための各自のご意見を聞きたい。」
B「『10・23通達』以来10年になろうとしている。10年闘って、獲得したもの、獲得し得ていないものを整理し、獲得したものをどう活用し維持発展させるか、獲得できていないものについてどう切り込むのか、明確にしなければならない。とりわけ、学校現場はどうなっているか。そのことが訴訟の各論にどう反映されているか。」
C「現場がどうなっているかを、もっと意識的に訴訟に反映させる努力が必要だ。これまでの判決が、都教委の暴走に十分な歯止めとなっているとは思えない。職員会議形骸化の実態は凄まじく、実教出版「日本史」教科書採択妨害という異常もあり、服務事故再発防止研修による嫌がらせ強化もある。大阪に飛び火して、口元チェックという信じられないような事態まで起きている。このような事態を的確に反映した訴訟活動でなくてはならない」
D「基本的に賛成だ。2次訴訟判決は、これまでの憲法19条論と処分権濫用論を確認する内容にとどまっている。19条論を捨てることはあり得ないが、同じ主張を繰り返しても裁判所の説得には限界がある。むしろ、26条の『教育を受ける権利』や23条の『教育の自由』をメインに、学校現場の荒廃状況から説き起こすことを考えなければならないのではないか」
E「これまで、思想・良心の自由(19条)と、教育の自由(26条・23条)を車の両輪と位置づけてきた。しかし、一度この『両輪論』の呪縛から脱して、混沌とした問題状況を全体的に見つめ直して、徹底的に事実を把握するところから、論理の再構成をしてみるべきではないだろうか。いろんな角度から、もっと自由な発想で事実を見つめなおし、新たな理論を語らねばならない」
F「これまでも、19条論だけを主張してきたわけではない。『日の丸・君が代』強制問題は、公権力による教育統制の象徴という位置づけで主張してきたつもりだ。しかし、裁判所にはこの位置づけを伝え切れていない。判決は、裁判所が関心をもつ限りでの19条論を投影した形に切りとった事実認定をして、その余の問題点は捨象してしまっている。これを是正して、どうしたら裁判所に丸ごとの事実をとらえ直させるか。」
G「その点では、少数意見の中に、都教委の「日の丸・君が代」強制の意図を的確に把握して認定したものがある。抽象的に意図を語るのではなく、具体的な事実の積み上げの中から、都教委の教育介入の意図や教員の思想をあぶり出して排除しようという意図を浮き出させる努力が必要ではないか。この点は、違憲論だけでなく、懲戒権濫用論にも直結する」
H「本件では、これまで国際人権論については相当に手厚く主張してきたつもりだが判決に結実していない。先日の京都地裁のヘイトスピーチ判決が、自動執行力をもった国際条約活用のよき先例となっている。あきらめずに、この点についてもさらに主張を積み上げよう」
I「都教委暴走の真の被害者が教育そのものであることを再確認しよう。子どもや保護者のどのような利益が、具体的にどのように損なわれているのか。これを明確化することは、訴訟においてだけでなく、教育運動や保護者による支援運動の高揚にも有益だ。」
J「現場では、日々新たな問題が発生しているはず。10年前と同じ抽象的な主張を繰り返していたのでは著しく迫力に欠ける。とりわけ、1・16最高裁判決のあとも、都教委は何も反省せず、学校現場はさらに不正常になっていることを、具体的に突きつけることが最重要の課題だ。」
K「場合によっては、個別の異常事態に焦点を絞った新たな提訴も考慮する必要があるのではないか。『授業をしていたのに処分・訴訟』はそのような個別提訴の先例として有効だったと思う。『10・23通達による一連の日の丸・君が代強制の違法』が問題の根源だけでは裁判所を説得しきれない場合には具体的に考慮する必要があると思う」
A「議論は生煮えの段階だが、ご意見を今後に生かしたい。現場の実態把握の段取りと、関連領域の専門家を招いての研究会と、これからの主張の構想について、弁護団事務局で一度整理をしてみたい。そのうえで、再討議をお願いすることになる。」
(2013年10月9日)
横浜市鶴見区にお住まいのI・S様、本日の東京新聞「発言」欄に、あなたの「日本の歴史 元号が象徴」という元号使用に愛着のご意見を拝読いたしました。これに対する私なりの感想を述べさせていただきます。やや不躾になるかも知れませんが、ご寛容にお願いいたします。
貴見は、西暦表記への統一を求める投稿について「本欄9月21日付『併用は不便 元号廃止を』のご意見を拝読した。なかなか含蓄のある意見だが、全面的に賛同はできない」と、ご自分の立ち場を明瞭にしていらっしゃいます。
そのうえで、「私の思考経路は常に元号でなされているが、別に戸惑うこともなく不便でもない。」「西暦、元号の併用に特別問題はないと思う。」「ただ、ハッキリ言えるのは、元号は日本独自の歴史を象徴し、日本のアイデンティティーのよりどころだということである。」とされています。
お気持ちは良く理解できます。「大正生まれ」の私の父も、おそらく同様の意見だったと思います。また、「西暦使用は怪しからん」とはおっしゃらず、「西暦と元号の併用でよいではないか」あるいは、「時と場合で使い分ければよいではないか」という柔軟な姿勢には好もしさを感じます。
しかし、「元号は日本独自の歴史を象徴するもの」とのご認識と、「元号は日本のアイデンティティーのよりどころだ」というご意見には、私なりの違和感を禁じ得ません。
その違和感の根源のひとつは、ある特定の個人の死亡という偶然の事情によって、時代を画して表記するという不自然さにあります。天皇が死亡すると、次の天皇が直ちに即位します。「国王は死んだ。国王万歳」は君主政の常ですが、日本の場合その人間の死という偶然が、新しく元号を付された時代の初年となるのです。自分の生きている時代の歴年の数え方を、見ず知らずで私とは何の関係もない一人の自然人の死亡の時をもってすることを不自然と感じざるを得ないのです。
さらに、根源的には、自分の人生や家族、社会の歴史の数え方を、天皇の在位と結びつけられることへの違和感です。こちらは、違和感というよりは嫌悪感というのが正直なところ。仮に、元号使用を義務づけられ強制されたら、精神的な苦痛を感じざるを得ません。
私は、天皇制を価値あるものとは認めません。人が、家柄や生まれによって、貴賤の別があることを容認しません。唯一の例外としてであっても、天皇の高貴を絶対に認めません。そして、古代や中世、近世まではともかく、近代以降の天皇制は極めて有害なものと考えています。そして、そのような考えの持ち主である私もこの国、あるいはこの社会の一員として生きる資格があるものと信じて疑いません。
昔、「メブカドネザル大王の治世5年目」とか、「トトメス?世の在位3年目」という歴年の数え方がありました。このような権力者の名称を付した歴年の使用は、その権力者への服従を表しました。元号の使用は、現在なお「昭和天皇在位18年に私は生まれた」「今年は平成天皇治世25年目である」というのとまったく同じことです。これは、不自然であり滑稽だというだけでなく、国民に天皇制についての意識を刷り込むための、あわよくば天皇制への従順さをつくり出すための小道具として、有害だと思うのです。
元号の制度は、歴史的には中国に始まり、中国文化圏の諸国がこれに倣って真似をしたものです。もともとは、天帝の子である天子が時を支配するという古代中国の宗教思想の表れとされています。元号は頻繁に改廃されましたが、明治維新後に「一世一元」とされました。以来、天皇の代替わりと元号の制定とがセットになりました。けっして古来の習俗でも、伝統でもなく、薩長閥政府が人民統治の道具として拵えあげた発明品に過ぎません。
明治維新から敗戦まで、あるいは大日本帝国憲法時代には、天皇は統治権の総覧者であり、現人神として天子でもありましたから、その権威をもって元号を制定することは当然とされました。また、臣民が、政治的には天皇に服属の証しとして、また宗教的な権威に服する立ち場から、天皇が定める元号を使用することに、大きな無理はなかったと思われます。
しかし、時代は変わりました。日本国憲法では国民が主権者です。厳格な政教分離の定めのとおり、天皇の宗教的権威は意識的に排除するのが憲法の基本的立ち場です。ですから、元号の存続には原理的に無理があると言わざるを得ません。慣習としてしばらくは生き残っても、国民の主権者意識の成熟とともに、消えゆくべき運命にあると考えられます。このことに、危機感を持った保守勢力が1979年に元号法を制定しました。もちろん、国民こぞっての立法とはなりませんでした。
ちなみに、現行元号法は、
第1項: 元号は、政令で定める。
第2項: 元号は、皇位の継承があつた場合に限り改める。
というだけの、もっとも条文が短い法律です。
昨年4月、自由民主党は「日本国憲法改正草案」を発表しました。その第4条に元号の定めがあって、「元号は法律の定めるところにより、皇位の継承があったときに制定する」となっています。元号を憲法事項にして、簡単に改廃できないようにしたい。それが、日本の右翼的な人々の考え方です。
その憲法改正草案は、日本を「天皇を戴く国家」として、天皇制と深く結びつく「日の丸・君が代」を国旗・国歌として国民にその尊重を義務づけるとともに、一世一元の元号も憲法事項とする、天皇中心の国家主義てんこ盛りの内容となっています。このような、右翼ないしは保守的な憲法改正案は、「元号は日本のアイデンティティー」とおっしゃる多くの人の感性に支えられてのものと言わねばなりません。
ところで、I・S様に伺いたいのです。「日本のアイデンティティー」とはいったい何でしょうか。天皇・「日の丸・君が代」・元号というのが、日本あるいは日本人のアイデンティティーなのでしょうか。これを受け入れがたいとする私のような者は、非国民でしょうか。
私自身は、「日本人としての」アイデンティティーをまったく必要としていません。個人としての自分を中心として、家族・地域社会・日本・アジア・世界と幾重にもひろがりをもつ社会の中で、日本という単位が特別に重要なものという思いはありません。
仮に、アイデンティティーを探すとしても、天皇制やこれに繋がるものを「日本のアイデンティティー」とするのは、あまりに偏狭で、余りに貧しくはないでしょうか。むしろ、日本の自然や風土、四季のうつろい、そしてこれを詠じた日本語や古典の数々。こんなところなら、異論はないのですが‥。
重要なことは、日本という社会の単位が、国家という権力機構を形成していることです。時の権力者にとって、天皇や「日の丸・君が代」、あるいは元号などを国民統合の手段とすることが、便利この上ないはずです。元号を日本国民のアイデンティティーと考えてくれる人々が多くいることが、時の権力者にとってありがたいことと言わねばなりません。このような多くの人の感性がどのように生まれてきたのか。そして、どのように利用される危険をもっているのか、十分に吟味しなければならないと思うのです。
いずれにせよ、忌憚のない意見を交換することが大切だと思います。失礼はお許しください。
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『死の灰のセールスマン 安倍首相』その2
「原子力協定」は核関連技術の平和利用や第三国への情報流出防止を約束する2国間協定で、これを結ばないと原発の輸出入はできない。日本はすでに13か国、1国際機関(欧州原子力共同体・EU27か国)、実質的に40か国と締結している。そして現在、安倍政権は経済発展著しいインドとの協定締結に躍起になっている。インドは2020年までに原発を18基建設予定で、総額9兆円の市場だからだ。それだけでなく、高速鉄道や地下鉄などの未整備インフラの宝の山でもある。
ところが、その宝の山インドには、世界各国の原発セールスマンが二の足を踏むような大きな障害が立ちはだかっている。
まず、インドは核拡散防止条約(NPT)に未加盟のまま核実験を行い、100個もの核弾頭を保持している。日本が目の敵にしている北朝鮮と同じく、危険な核保有国だ。原発が稼働すれば、インドの核開発に手を貸すことになる。核軍縮や廃絶を願う立場からも、インドへの原発輸出は許されることではない。しかし、2007年に経済的政治的理由から、アメリカがインドと原子力協定を結んでしまったので、「我が日本も追随」という流れになっている。道義の問題にも、ダブルスタンダードとの批判にもほっかむりだ。
しかし、世界の原発企業が二の足を踏んでいる本当の理由は別のところにある。他の国とは異なりインドには原発事故の際には原発メーカーに賠償責任を負わせる法律があるからだ。
インドでは1984年にボパール化学工場で有毒ガスが漏出し、25000人もの死者を出した大惨事が起こった。経営主体のアメリカのカーバイト社の責任を問う裁判は未だに決着がついていない。これを教訓に「汚染者負担の原則」を採用して、原発事故が起これば、原子炉メーカーに責任を問える法律が成立した。
10月5日の各紙は「東芝傘下のアメリカ原子力大手ウェスチングハウス・エレクトリック社(WH)がインドでの原発新設の契約を結んだ」と報じている。皆の知りたいところは、インド原子力損害賠償法の扱いがどうなったかということ。地元メディアは「インド側が請求権を放棄するなど賠償法の運用を緩めて米国側と譲歩した」と報じたが、インド政府高官は「米国に対して何の譲歩もしていない」と言い、インド原発公社は「交渉は進行中で、コメントできない」と言っている。合意内容は闇の中だ。将来明らかになることはあるのだろうか。原発建設に反対している、インドの住民の不信や不安はいかばかりかと思う。
ここまでは将来起こりうる問題だが、三菱重工がサザン・カリフォルニア・エジソン社から受けている賠償請求は現実の問題で、注目を浴びている(本年7月24日の当ブログを参照されたい)。
昨年1月、エジソン社のサンオノフレ原発(米カリフォルニア州)3号機で蒸気発生器の配管が破損し、微量の放射性物質が漏出して、運転停止となった。米原子力規制委員会(NRC)はただちに稼働を禁止した。定期点検中の2号機の蒸気発生器にも15000カ所の摩耗が見つかり、こちらも稼働禁止になった。
(ここからはアメリカで取材を続けたジャーナリストの堀潤さんのブログからの引用)。
再稼働させようとする電力会社の労組、再稼働反対の住民運動があるなか、NRCは1年以上、再稼働申請を審査し、中立的な姿勢で公聴会を重ねた。公聴会には毎回1000人以上の人が参加し、活発な議論がなされた。NRCは神戸の三菱重工の事業所まで調査し、「三菱重工とエジソン社が設計上の不具合を事前に把握しながら、十分な改良をしなかった」という報告書を出した。それを受けて、エジソン社は今年6月2,3号機の廃炉を決定した。
エジソン社は蒸気発生器が適切に設計されていなかった、迅速な修理もなされなかったとして、メーカーの三菱重工に損害賠償請求した。三菱重工側は契約上の責任上限額1億3700万ドルは認めるが、それを超える代替燃料費や廃炉費用は争うとしている。損害額がどこまで膨らむかは、雲を掴むようで、話がまとまらなければ、地獄のような訴訟が続くことになる。
この推移は「欧米の先進国への原発輸出は契約がはっきりしていて、賠償の範囲もきちんと決められているはず」という常識は通用しないことを示している。とすれば、今回、三菱重工が契約したトルコではどうなるのだろうか。また、契約が闇の中で、免責の法律が存在するインドではどうなるのだろうか。安倍政権が後押しして成立させた「原発輸出」が大事故を起こしたとき、日本政府にまったく関係ないと知らんぷりできるとは到底考えられない。
フクシマ事故直後の、2011年5月27日、衆議院経済産業委員会で、日本共産党の吉井議員は、福島第1原発で事故を起こした原子炉製造メーカーの製造者としての責任について取り上げている。事故を起こした1号機は米ゼネラル・エレクトリック(GE)が作り、2号機以降もGEと東芝などが作ったことを指摘して、「東電とともにGEの製造者責任も問うべきだ」と迫った。それに対し、外務省の武藤義哉審議官は「88年の現協定では旧協定(アメリカの要求で米国側が提供した核燃料などの使用などによる損害については免責条項が含まれていた1958年発行の日米原子力協定)の免責規定は継続されていない」という答弁をした。であるならば、GEなどに対して免責規定はなく、フクシマの被害者は製造物責任を追及することができるはずである。
立場を変えれば、原発事故が起こった場合、トルコやインドの被害者から日本メーカーに対する製造者としての責任追及もあり得るということだ。そのときには、死の灰のセールスマン・安倍晋三の責任も免れない。首相としてのセールスの責任は、何らかの形で日本が負わざるを得ないことになろう。
(2013年10月8日)