澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

「日本」の国号はいつから? 「天皇」号は?

先日、50年前のクラス仲間が集まった際に、上海在住で徐福伝説を研究しているS君が発問した。「日本という国号は正式にはいつから使われたのだろう」。誰も正確には答を出せない。

「日本書紀成立よりは以前ということだな」「もとは倭国、いつ日本になったんだろう」「国号だから、対外的な関係が意識されたときなんだろうね」「聖徳太子のときの、国書になかっただろうか」「もっと後、天武の時代だよ」「万葉集には、日本って出てこないのか」

調べてみた。正解はよく分からないが、確実なところでは701年の大宝律令で「日本」の国号を用いているそうだ。文武の時代。そして、対外的に「日本」の文字が表れるのは702(大宝2)年の秋のこと、粟田真人を主席とする遣唐使が楚州の海岸に着いた。この一行が、中国当局に「日本の使」と称したと記録されているとのこと。出典は中国の史書「旧唐書」らしい。

ちなみに、この遣唐使の一行の中に、山上憶良がいた。その帰路に詠んだ歌が、万葉集に出ている。
 いざ子ども 早く日本へ
 大伴の御津の浜松 待ち恋ぬらむ
ここでの「日本」は、万葉仮名の原文でも「日本」の文字が当てられている。これをヤマトと読むのが習わしのようだが、ニッポンあるいはニホンと読んでもおかしくはない。

面白いことに、日本書紀は「日本」を多用しているのに、古事記は「倭」で一貫し「日本」の語をまっく使っていないという。

701年より前には確実な資料がないようだが、おそらくは飛鳥浄御原令(689年)に日本の国号は使われていただろうという。天武の時代である。国号だけでなく、天皇号も同じ時期に制度として成立したものとするのが有力説だそうだ。そして、その由来を、唐の高宗(則天武后の夫)が、短期間ではあるが「皇帝」号を「天皇」号にあらためていることに倣った、との説があるそうだ。圧倒的な文化先進国の模倣に何の不自然さもない。

高校の歴史の時間に、「日本の元号は大宝に始まって現在に続いている」「大宝とは、日本で金が産出したことを祝っての命名」と習った。金が出たとされたのは対馬で、喜んだ朝廷は、関係者に莫大な褒美と位を授けた。ところが、文武期の朝廷を喜ばせた産金は、実は詐欺だった。続日本紀に「後に詐欺あらわれぬ」と記されているそうだ。日本の元号制度はその出発からケチがついている。

以上は、すべて吉田孝「日本の誕生」(岩波新書)の引用。同書は、「日本とは、国号なのか王朝名なのか」と問うてもいる。この知識の宝庫が古本屋でわずか100円。こんなに安い買い物はない。

歴史は正確に把握したい。誰かに気兼ねしたり、誰かの権威のために、都合良くも悪くも枉げてはならない。自民党改憲草案前文の冒頭が、「日本国は、長い歴史と固有の文化を持ち、国民統合の象徴である天皇を戴く国家であって」から始まるような、そんなご時世だから、なお。

本日も、新装開店記念サービスを。
  『古本のこと』
 本がどんどん殖えていく。足の踏み場がなくなって、そのうち寝る場所もなくなるかもしれない。困ったものだ。
 先日買った本。
 稲垣史生「武蔵武将伝」(歴史図書社・昭和55年) 1050円
 山本大二郎「奥多摩の花」(講談社・昭和57年) 400円
 本田靖春「不当逮捕」(岩波現代文庫・2000年) 600円
ご推察の通りみんな古本。神保町の古本屋さんや東京古書会館の古書展にちょくちょく行く。研究のための本を収集したり、何かのマニアだという大仰なことではない。自分で読んで楽しむために買う。誰かに頼まれた本も探す。宝探しの気分だ。手にとって装丁を見たり、挿絵や写真を見ながらページをめくって楽しみたいのだ。だから通販はあまり使わない。
 10年ぐらい前、欲しい植物図鑑を古本屋さんで格安で入手したのが始まり。どれくらい安いかというと正価の4分の1。この値段なら誰だって病みつきになると思う。時代の流れで、山岳本や植物本を欲しがる人が少なくなっていたのも幸運だった。
 だいたい場所をとって嵩張る本自体、買う人が減っているらしい。まして清潔を好む時代に古本を嫌う人がいても当然だ。でもよく考えてみれば、図書館の本を平気で借りているなら全く問題なしじゃないかしら。
 植物、動物、紀行、旅行、ドキュメンタリー、小説、古典、歴史関係等々。分野にこだわらず、何でも面白そうだと思ったら買う。読めば世界は広がり、時空を超えてわくわくするような冒険に出かけられる。面白い本に出会えば、苦労も悩みも雲散霧消してしまう。
 稀覯本とか書名入りとか初版本なんていうことには全く興味がない。だいたいは古本屋の店の前に出ている均一台の上に乗っている、いわゆるゾッキ本からお宝を発見するのが面白いのだ。だって、文庫本も新書もだいたい100円なんですから。皆さんびっくりするでしょう。持ちきれないほど買ってせいぜい2000円ということさえある。
 それにとどまらず、時には「どうぞお持ちください」と只でくれる本に行き当たることさえある。わたしは「世界歴史」(岩波講座・全31巻)や「現代医学の基礎」(岩波講座・全15巻)を拾ってきたことがある。いくら自転車とはいえ、坂の多い道を上ったり下りたりしながら、無事家に帰り着けるか心細くなったものだつた。古本と一緒に行き倒れになるのかと一瞬思いました。そこまでの困難はお奨めしませんが、古本探しは紙文化でそだった人の定年後には最適の暇つぶしだと思いますがね。
 その前に注意を一言。家族を説得できるかどうか、自信のない人はやめた方がいいかも。

上野の山の八重桜

  『上野の山のこと』
 上野の山はソメイヨシノが散って、あの賑わいは夢のよう。天気荒れ模様の予報もあって、人出が少ない。中国語、スペイン語、英語、サッパリ解らない言葉が飛び交っている。ソメイヨシノは終わってしまったけれど、それ以上に存在感のある八重桜が満開になって、外国からのお客様を歓迎している。
 不忍池の周りには、濃い紅色の関山(カンザン)、クリーム色のポプコーンがはじけたような鬱金(ウコン)、枝の周りに薄いピンクの八重の花をびっしりつけたお掃除ブラシのような紅八重虎の尾(ベニヤエトラノオ)、ピンクの八重の花びらがバレー衣装のチュチュを思わせる紅華(コウカ)、薄ピンクの大きめの花びらの紅豊(ベニユタカ)などが咲いている。
 ソメイヨシノの散ったあとの葉桜だってなかなかのものだ。色とりどりの花綵で囲まれた不忍池はあまりの晴れがましさに戸惑っている。
 五條稲荷神社には、見上げるほどの大木の鬱金桜、目を見張るほど紅色が鮮やかな菊桃。 上野動物園の前には薄桃色の花かんざしで飾り立てたような一葉(イチヨウ)。
 清水寺には秋色桜と固有名詞がついた枝垂れ桜。浮世絵模様を再現して枝を輪に仕立てた松の木はグロテスクで嫌みだけど、清水の舞台から見る不忍池の眺めも一見の価値がある。
 鮮やかな黄色のヤマブキ、薄紫のシャガも花盛りだ。黄色から青にわたる若葉で煙っている新緑の美しさを表すぴったりした言葉を持たない自分の不勉強がじれったくなる。都会のど真ん中にこんな美しいところがあるのは奇跡のような気がする。今日はほんとうに出かけてきて良かった。
 おまけに、路上に水で絵と文字を書いて、サービスしてくれている人にも出会えた。地描(ちびょう)アーティストと称していた。お客さんの方から見て解るように、向かって上の左の方から書き始める。すっきりした線描は世界中のお客さんの鑑賞に十分堪えるものだった。
 最後に、「愛、命、夢」と書いて通じるものは「儚さ」とのこと。路上の水絵が跡形もなく蒸発するように、人と人が出会って別れるように、サクラや新緑の美しさのように。
 またお会いできたらいいですねという言葉に微塵の偽りもない、一期一会。

その「地描アーティスト」氏とやや長話をした。聞けば、元は近県で小中学校の美術の教員だったとのこと。子どもと向かいあったまま、子どもの目線で理解できるように、ノートに逆さまに絵や字を書けるよう練習をしたことが、「地描」の起源だそうだ。管理職になって早期退職をしたが、「子どもと向かいあう教師が少なくなった」と嘆いておいでになる。

話が弾んで、私が東京の「日の丸・君が代」強制の話をしたら、打てば響くように率直な感想が返ってきた。「それは我慢をしなければならないんじゃありませんか。契約によって宣誓までして公務員になった以上は、良いとこばかりとるわけにはいかない。給料をもらっているのですから、嫌なことも我慢をして上司の命令には従わなければならないと思いますがね。従えないなら、別の職を見つけなければ」

さすがに元管理職としての意見ではあるが、社会のマジョリティの考え方を簡潔に集約した意見でもある。常識的な意見とも言えるだろう。特に悪意あっての意見ではない。むしろ、公務員としての採用を、契約関係として捉えているのはセンスがよい証拠。しかし、契約の対価関係にあるそれぞれの義務について詰めて考えた形跡はない。公務員としての採用時の宣誓について「嫌なことも我慢をして引き受ける」確認とお考えのようだった。

公務員の身分を契約関係として捉えた場合、教員側の契約上の義務は、法と条例と内規と職務命令にしたがって労務を提供することである。これと対価関係に立つ学校設立者側の義務は、規定に従って賃金を支払うこと、法に従った公平な処遇をすること、そして教員としての労働環境を整えること、であろう。

契約とは法が強制力を認める制度であるから、法の理念に反する契約は認められない。憲法遵守義務を負う当事者の契約に、憲法違反の義務はありえない。法に従った労務の提供義務として、思想・良心の自由を蹂躙する違憲の義務は想定し得ない。公務員は採用される際に、憲法遵守の宣誓をする。憲法違反の職務命令を遵守する義務までは負担しない。

なによりも、教員の職責は、子どもの教育を受ける権利に奉仕すべきものとしてある。職責を「教育者の本分」といっても差し支えなかろう。戦前と同様に、国家を尊貴なものとし、国家の言いなりになる子どもを育てるのが本分か。それとも、国家も間違いうる、国旗国歌の強制に服してはならない、とすることを身をもって範とすべきが本分か。臣民を育てるのか、主権者を育てるべきなのか。

教育のあり方を真面目にとらえ、子どもに向かい合い、寄り添おうとする教員ほど、「日の丸・君が代」強制の問題を深刻に考えざるを得ない。このような人々を教壇から追ってしまえば、従順な教員だけが残り、従順なだけの国民が育成されることになりはしないか。

そんなことを辛抱強く聞いていただいた。さしたる違和感はなかったご様子。最後に、またいくつかの絵の逆さ書きを見せていただいて、強風の中八重桜満開の上野の山をあとにした。

司法の「メルトダウン」修復のために

同僚弁護士から勧められて、「原発と裁判官」という本を読んでいる。朝日新聞出版社の発行で、本年3月30日が発行の日付。副題が、「なぜ司法は『メルトダウン』を許したのか」というもの。司法自身の「メルトダウン」の分析でもある。

私がこの本を読む問題意識は、「司法は国策に切り込むことができるか」「どうしたら、裁判所から国策批判の判決を得ることができるか」ということ。

私にとって、この二つは弁護士志望以来の根源的なテーマである。私は、「裁判所とは所詮は国家機構の一端。だから司法が国策に切り込むことなどできるはずがない」と絶望してはいない。しかし、その困難さは、身に沁みている。困難であることを知りつつも、「どうしたら、裁判官を説得して、敢えて国策を批判した、憲法の理念に忠実な判決を勝ち取ることができるだろうか」と考えざるを得ない。原発訴訟からもそのヒントが欲しい。

新聞記者2名の執筆になる本書は、原発訴訟の判決を言い渡した裁判官6名への取材を骨格とする。住民側敗訴判決を言い渡した裁判官4名と、貴重な勝訴判決を言い渡した2名の裁判官。住民側敗訴判決を書いた裁判官の証言が問題を考える上でたいへん貴重で参考となる。そして、たった2件ではあるが、井戸謙一さん(志賀原発訴訟・一審裁判長)、川崎和夫さん(もんじゅ訴訟・控訴審裁判長)の勝訴判決は、司法の希望である。

著者は、住民側敗訴判決を書いた裁判官の取材報告全体の章の標題を「葛藤する裁判官たち」とし、4人の各裁判官ごとに、?「科学技術論争の壁」、?「証拠の壁」、?「経営判断の壁」、?「心理的重圧の壁」と、副題を付している。そのいずれの裁判官も、けっして権力盲従者ではなく、むしろ常識人である。3・11の事態に、一様に「驚いた」「ぞっとした」と言い、「自分の判決は甘すぎた」「法律家として一生背負っていく問題」とすら言う。しかし、結果として、このような常識人が、国策に追随し、国策を補完する役割を演じて、福島原発のメルトダウンに自らの責任を感じざるを得ない判決を書いている。

4人の中で、もっとも率直に裁判官一般の心情を語っているのが、今は新潟大学大学院教授の西野喜一さん。「今の訴訟法が国策を争うようにはできていない」と言い、加えて「国策の推進という方針に添った判決を書くのは、心理的に楽ですよ。反対に、たとえ国策ではない事件でも、行政を負かせる判決はある程度のプレッシャーになります」。昇進や任地の人事権を上級に握られている官僚機構の中では、暗黙のうちに国策批判はタブーとなる。人事権の行使について、「最高裁は常に、『適材適所だ』と説明するだけです。明らかに左遷であっても、行政訴訟で国側を負かせたことが理由だ、などとは絶対に認めませんから」。

暗黙のお約束だけではなく、テーマを設定した「裁判官会同」という、担当裁判官を集めての「勉強会」で判決内容を統制する手法もあり、判事と訟務検事の「判検(人事)交流」という手法もある。

先年、日本民主法律家協会で、「最高裁は変わったか」と判例分析のシンポジウムを開催した。その基調報告は浦部法穂さん。この10年のほぼすべての判決を分析しての結論は、次のような簡潔なものだった。
「天下の形勢に影響のないテーマについては、以前より最高裁の合理的な判断が期待できるようになっている。しかし、こと政治的な色彩を帯び、天下の形勢に影響する課題の事案においては旧態依然である」

「天下の形勢に影響する、政治的色彩を帯びた課題」とは、「国策」と言い換えても良い。司法は国策に切り込めてはいないということだ。まったく同感なのだが、同感のままでは問題の解決にならない。もしかしたら「3・11の衝撃は、司法が国策を批判するきっかけとなりうる」のではないだろうか。少なくとも、原発の安全性の問題に限れば‥。

そして、なによりも問題の根源にある司法の官僚制機構に切り込まなければならない。個別の訴訟での工夫だけでなく、司法官僚制そのものを変えて、司法の行政や政治からの独立だけでなく、第一線裁判官の上司や最高裁事務総局からの独立を実現しなければならない。年来のテーマであるが、日民協ではそのための「法曹一元」制を提案している。すべての裁判官を、弁護士経験者から任命するこの制度、この書の中でも話題になっているが、本格的に追求したい。憲法こそが国策を凌駕する司法の準則であることを当然とする司法の実現のために。

新装開店記念サービスエッセイ第5弾。

  『泰山を鳴動させた一匹のネズミのこと』
 「2年前の3月11日のあの日をもう一度思い出してくださいよ」と言って一匹の健気なネズミが感電死した。ボロボロでヨロヨロになって、放射能まみれになったネズミの死骸は福島第一原発の姿そのものだ。
 3月18日夕刻、福島原発の使用済みの燃料プールの冷却ができなくなって、その原因を突き止めるために右往左往して、事故の公表を遅らせて、原因がわかったので「ネズミ捕りを設置します。」ということになつた。この顛末を見れば、東電の本質は2年前と変わらず、2年前の事故はまた起こりうると考えられて当然だ。
 放射能除染、瓦礫の処理も進まず、使用済み燃料の中間処理場の引き受け手もいない。放射能汚染水はどんどんたまり続けている。当然ながら最終処理場のことなど話題にものぼらない。トイレはどんどん詰まって満杯だ。
 放射能被害の賠償問題の解決も遅々として進まない。故郷に帰れないで避難生活をしている方が31万5000人もいる。気の毒なことに、そのなかには永久に帰れない人も数万人の単位でいるに違いない。
 生産農家の必死の努力にかかわらず、福島の野菜の取引は落ち込み続け、値崩れは止まらない。酪農などほかの農産物も同じである。ノリ養殖など漁業も壊滅状態だ。
 東電は農地を汚染しただけでは足りなくて、今度は海まで汚そうとしている。汚染水は貯まりに貯まって36万5000立方メートル、25メートルプール480杯分になっているそうだ。今でも毎日毎日増え続けている。それで困りはてた東電は海洋放出を計画している。「アルプス」という清々しい名前の浄化装置を使って放射性物質を取り除いて、汚染水を海に放出しようと、3月30日に試運転を始めたという。ただし、放射性トリチウムは除去できない。当然のことながら、過去にこっそりと汚染水を放出した前科のある東電への不信感から、地元漁協は大反対だ。地元だけでなく海はどこまでも繋がっているのだから、関東、東北の漁業全体の問題だ。それだけじゃない。消費者の問題でもある。私も大反対だ。
 落ち着いて考えれば、使えば使うほど、手に負えない放射性汚染物質が貯まって、ネズミ一匹でもシャットダウンしてしまう信頼の置けない装置など絶対運転すべきではない。地震、津波、火山爆発を引き金にどんな甚大な被害が出るやも知れない。南海トラフ巨大地震への備えはできているのか。事を荒立てる外交しかできない我が国のこと、原発を標的としたテロやミサイル攻撃の不安も拭えない。
 安倍内閣は、原発による発電がなかったら産業が壊滅する、国益が損なわれると大合唱して、原発を再稼働しようとしている。
 しかし、どう考えてもおかしい。
 電力会社は除染や賠償の費用、動いてもいない日本原子力発電への支払い、はたまた怪しい原子力委員関係のNPOへの支出までひっくるめて、電気料金に転嫁できる。発電所周辺地域に交付されているお金・電源開発促進税も電気料金に上乗せされて徴収されている。これは我々消費者・納税者が否応なしに、気がつかないうちに支払わされているのだ。
 原発による電力は安い安いと宣伝されてきたが、大島堅一立命館大教授の試算によれば、今まで計算に入れられていない部分の費用を発電コストにいれれば、原子力10.68円、火力9.9円、水力7.26円となって、原子力で発電される電気が一番高いということになる。それで終わりではない。これから福島処理のためにいったいどれだけ費用の負担をすることになるか誰も正確な数字は出せない。いずれ廃炉になる全国の原発の処理費は天井知らずだ。この費用を賄う方が、国家的大損失ではないか。

 それでも原発続けますか。「私が責任を持ちます。」と言って大飯原発を再稼働させた野田さん、今はどこにいるのか影も見えません。原発政策は、よってたかって甘い汁を吸ったあげく、誰も責任を持たない悪徳会社の詐欺のような気がしてならない。これでは感電死した健気なネズミも浮かばれまい。

服務事故再発防止研修という名の嫌がらせ

この3月の都立校卒業式において国歌斉唱時に不起立だったとして、6人の教員に懲戒処分が発令された。そのうちの5名が戒告、1名が減給(10分の1・1か月)である。

懲戒処分は、軽い方から戒告・減給・停職、そして極刑的な免職まで4段階ある。一昨年まで、都教委は処分量定を累積加重の取扱いとしていた。初回の不起立で直ちに戒告となる。2回目は減給(10分の1)1か月、3回目は減給6か月。4回目となると停職1か月、5回目停職3か月、6回目停職6か月。そして、おそらく7回目は免職を予定していた。

われわれは、都教委が発明したこの累積加重の処分方式を、「思想転向強要システム」と名付けた。不起立・不斉唱は思想・良心に基づく行為である。思想や良心を都教委の望む方向に変えない限り、処分は際限なく重くなり最後には教壇から追われることになる。

昨年1月16日の最高裁判決(第一小法廷)が、「10・23通達」と起立斉唱命令の違憲判断は避けつつも、さすがに「原則として減給以上は懲戒権の逸脱濫用に当たり違法」として処分を取り消した。結局処分量定の累積加重システムは崩壊し、戒告処分だけが残った。こうして、「10・23通達」による恫喝の脅威は半減したと言えよう。

この判決を承けて、2012年春の処分はすべて戒告だけとなった。当然今年も同様であろうと考えていたところ、不起立4回目の教員が減給となった。都教委は、敢えて、紛争拡大に踏み切ったのだ。この挑戦的な姿勢は、猪瀬選挙の大勝、安倍政権の成立、維新の会の得票増などの保守的空気を読んでのことであろう。最高裁も舐められている。

本日は、懲戒を受けた5名(1名は年度末で退職)について、服務事故再発防止研修が行われた。研修とは、懲戒を受けた者に非違行為の反省を促し、再発の防止に備えるためのもの。パワハラやセクハラ、あるいはイジメ・体罰を行った教員に対しては、反省を求めて研修を行うことには合理性があるだろう。しかし、自らの思想信条、あるいは教員としての良心に基づく行為については反省のしようがない。むしろ、反省をしなければならないのは都教委の方である。研修とは名ばかり。実は嫌がらせ以外の何ものでもない。嫌がらせの目的は、本人に対しては、「思想を曲げろ。次からは命令に従え。おとなしくしろ」とのアピールであり、他の教員に対しては、「言うことを聞かないとこんな目に遭うぞ」という見せしめである。

それでも、本日午前8時20分には、研修センターの入り口に80人を超す支援者が集結して都教委に申し入れと抗議をした。私は、責任者に口頭で申し入れをした。そして、抗議と激励のシュプレヒコールを背に、5人が研修センターの門を入った。

最高裁で累積加重システムを違法とされた都教委の巻き返し策の一つが、嫌がらせの程度をアップさせようという「研修強化」である。しかし、懲戒処分には「思想・良心に介入する再発防止研修が伴う」となれば、新たな処分の違憲理由が生じることになる。また、再発防止研修の態様によっては、懲戒処分とは切り離した法的手段の対象ともなりうる。そのことの強調が肝要であろう。

抗議集会参加者の発言が重い。猪瀬都知事の、「起立して口パクやっていればいいわけ。アホみたいな話だ」という発言の不真面目さに、怒りを込めた抗議の声があがった。

「知事には、教育の何たるかが分かっていない。教育に向き合う姿勢に真面目さがない。私たちは、真剣に生徒と向かいあっている」

思想・良心に対する攻撃に負けずに闘っている教員の真摯さに心を打たれるものがある。私は歴史の現場に立ち会っているのだ。

当ブログ新装開店サービス第5弾。「がんを詠む」
私は5年前に、肺がんの手術を受けた。そのときのことについて、東京弁護士会会報に既発表のものだが、エッセイのような歌のようなもの。

つゐにゆくみちとはかねてききしかと
きのふけふとはおもはさりしを

ご存じ,伊勢物語終章の一首。自分の死を「きのふけふ」と思うことはない。「患ひて心地死ぬべく覚えける」ことのない限りは‥。
昨年の春,「患ひ」の自覚はなかったが肺がんの宣告を受け,業平の如く「心地死ぬべく」の心境を味わった。
10年ほど前,吉川勇一さん(元・ベ平連事務局長)から「いい人はガンになる」という著書をいただいた。飄々たるご自身のガン体験の語り口が滅法面白い。
ガンになったいい人の列伝があって,「ガンにならない人は,ワルイやつ」との結論に至る。まったくの他人事として愉快に読んだ。その私が,唐突に「いい人」の仲間入りとなったのだ。タバコも酒もやらない私が,よりによって肺がんである。
なんの根拠もなく自分ががんになることなどあり得ないと信じ込み,がん検診を無視し続けてきた。のみならず,20 年近く健康診断というものを一切受けていなかった。
健康診断を拒否し続ける心の片隅に,「災難に逢ふ時には災難に逢ふがよく候。死ぬ時節には死ぬがよく候」との良寛の言葉があった。がんの宣告を受けることがあれば,それが我が身の「死ぬ時節」と思い切ればよい。潔さこそ美学ではないか。
ところがどうだ。がんであると分かってのこの私のうろたえようは。命が惜しい。少しでも生きながらえたい。生への執着心は,自分の想像をはるかに超えるものだった。美学なんぞは砕けて散った。
さいわい,私の肺がんは,右肺上葉切除・リンパ節郭清の標準治療で今のところはことなきを得ている。
病理検査で転移なしと聞かされたときの心からの安堵が忘れられない。以来,多少の心の余裕ができてきた。業平に倣って,歌のようなものをひねってみた。そのうちのいくつかを連ねてみることとする。

がんの宣告受けたるその日
大地は鳴動せず日月も欠けず

神在りせば神を怨まん
なんぞかくも気まぐれなるかくも酷薄なる

身じろぎもせずうずくまる人影あり
がん病棟の未明のロビーに

手術前夜腕時計突然止まりぬ
ただそれだけのことにてはあれども

鏡にてつくづくとわが身を眺めいる
傷なきこの背を見おさむるの日

下手人は世に聞こえし手練れなり
逆袈裟一文字に傷は7寸

敢えて毀傷せり身体髪膚
咎むる父母の既に亡ければ

命拾うたと思いし朝
富士は輝やき筑波嶺はやさし

五臓六腑に染みいるモーツァルト
五臓の一は欠けてあれども

病床で読む「病牀六尺」
われに子規を憐れむ多少の余裕あり

嗄声(させい)とは医療訴訟で覚えし語彙
我が身のこととは思わざりしを

忠と孝とについて

長谷川伸といえば、股旅物のジャンルを確立し、義理と人情の世界を描いて一世を風靡した大衆作家。佐藤忠男の「長谷川伸論」(中公文庫)が面白い。

佐藤は、長谷川伸の描く「義理と人情」に関連して、「忠と孝」の考察に頁を割く。そして、天皇制について的確な論評をしている。

「日本近代史最大の思想的発明は、天皇は国民の親である、というテーゼであろう。ここから、ナショナリズムの日本独自のありかたが生れた」「親と子の関係は自然の関係である。ふつう、ごく自然に愛情が存在する。しかし、天皇と国民の関係は、自然の関係ではない。人為的につくられた関係である。近代の日本国家は、この人為的な関係を、親と子のような緊密な愛情で結ばれた関係とみなそうとし、そのために学校を通じて組織的な教育を行った。天皇は国民の親であり、国民はその赤子であるという考え方は強力に浸透した」

佐藤は、忠義とは「義理」の関係でしかないもの。これを、血肉化するためには、天皇を親と思え、という「人情」の関係として把握させる訓練が必要だという。しかし、義理と人情はなかなかに一致し得ない。天皇を親と思って戦場に赴いた兵士の戦後になっての葛藤が、長谷川伸のシナリオを通して語られる。

ところで佐藤は、その著で教育勅語の起案者である元田永孚の「幼学要綱」という書物(修身教科書)を紹介している。1882(明治15)年に天皇から全国の学校に下賜されたこの書の徳目筆頭に挙げられているのは「孝」であって、「忠」ではないそうだ。このことについて「私はこの順序を見たとき、一瞬、自分の目を疑った」という。おそらくは、士族層を除いては当時の国民全体の規範意識として、孝が忠に優先するものであったろう。それが、1890(明治23)年の教育勅語では、「我が臣民克(よ)く忠に、克(よ)く孝に」と、「忠孝の序列」となって確定する。以後は、忠と孝とが矛盾した場合には、忠が絶対優先するものとしてこの順序は狂わない。

浮き世の「義理」と、人間自然の「人情」とは、本来対立するものではあるが、大衆はその関係の一致を理想と考えてきた。そして、その一致がならないときの深刻な悲劇に涙した。佐藤はそう解説する。私は、その着眼点に敬意を表する。ここに陥穽があり、問題の本質があると思う。

誰も皆、人情を貫き通すだけでは生きていけないことを知っている。どこまで義理と折り合いをつけざるを得ないか、そのことを計りながら生きている。義理は強者の論理として押し付けられる。その押しつけは、「義理」と「人情」との円満な一致を求める大衆の心情に付け入ることによって成功する。

義理とは、典型的には「忠」である。封建的身分秩序における「君君たらざるとも、臣は臣たれ」という主君への無限定の忠義であり、「一旦緩急あれば義勇公に奉じ皇運を扶翼すべし」とする天皇に対する絶対忠誠でもある。この「忠」を支えるモデルが「孝」とされた。孝は人情の世界における自然の感情。これに付け入って、「天皇を親と考え、国民を子と考える強力な義理の観念が教育を通じて叩き込まれた」のである。

さらに、「義理」を社会規範、「人情」を個人の尊厳と理解すれば、権力機構や企業社会における個人の自律という問題ともなり、集団と個人との関係についての普遍にして永遠のテーマともなる。

義理と人情、忠と孝、社会規範と個人の尊厳。極めて今日的なテーマではないか。

新ブログ新装開店記念サービス第4弾のエッセイ
春のうららの本日にふさわしく
 『木の芽のこと』
 早蕨(さわらび) 白緑(びゃくろく) 蕗の薹(ふきのとう) 萌葱(もえぎ) 水浅葱(みずあさぎ) 茎立(くくたち) 檸檬(レモン) 鶸(ひわ) 鶯(うぐいす) 枝垂柳(しだれやなぎ) 裏葉柳(うらはやなぎ) 若竹(わかたけ) 
 これらはみんな日本の色の名前。それも若芽から若葉になっていく葉っぱの若緑の名前。弱々しくて、初々しいけれど、立ちはだかるものを押し破っていく力強さを秘めた希望の色。人間は繰り返される自然の営みに魅了され、その細部に目を奪われて、それに順化したいと願いながら生きてきたのだろう。これらの若緑が、風雨にさらされて強さと深みを増し、秋になると目も奪う錦に変わる。そして、その錦繍に恋々とすることなくあっさりと色失って大地に帰って行く。こうした葉の移り変わりゆく時々の色にもそれぞれ美しい名前がつけられている。そんな名前のついた色とりどりの衣装を身にまとって、あこがれの自然に同化したいと人々は願ったのだろうか。
 そこで若葉の話。桜が散ったからと言ってがっかりしている暇はない。ベランダでも公園でも、枯れ枝の先にいつの間にか小さな芽が出てきて、景色は遠目にも緑がかつてくる。早く見ないと、何回か冷たい雨が芽を潤しているうちに、芽はほどけて普通の葉っぱになってしまう。茶色の芽の先にぽっちり緑が見え、それがポップコーンのように膨らんで、やがて小さな葉っぱの形になる。冬の間しっかりと折りたたまれていたので、折り紙のようにヤマとタニの折り目がくっきりと残っている。たいてい裏と表の色が違う。裏は冬の寒さから身を守るために、ビロードのように滑らかな毛が生えていたり、小さな鱗片で覆われてメタリックな金属の作り物かと思うような若葉が多い。そこまで武装していないものも、不純なものはみな跳ね返してやるとばかりに、ガラス細工のようにピカピカまぶしく光っている。
 ハナミズキ、グミ、カエデ、アジサイ、これらは気の早いことに小さな葉の中に大事そうに花の蕾を抱いている。枝垂れ柳なんかは葉が見えるか見えないあいだに、きなこまぶしになった毛虫のような花をプラプラぶら下げて風に揺られている。ツタはちっちゃな掌のような葉をつけて、その手で壁をはい上っているようにみえておかしい。
 コナラやケヤキやイチョウの芽生えはちょっと遅い。だから今からでもまだまだ見るのに間に合う芽生えもある。
 クスノキやキンモクセイなどの常緑樹も盛大に若芽を出している。その若葉は鮮やかな黄色やオレンジ色をしているので、遠目には木全体に花が咲いたように見える。ツバキもピカピカしたとんがった若緑の巻き葉を出して花の終わりを告げている。
 食べられる若葉も忘れてはならない。サンショウはその代表。ベランダに鉢植えを一本置いておけば、佃煮にできるほどの量の葉っぱは採れなくても、若竹煮や冷や奴には大活躍をしてくれる。もしかしたら、アゲハチョウが卵を産んでくれる幸運があるかもしれない。この場合、大食らいの幼虫がサンショウの木を丸坊主にして人間様には葉っぱ一枚残してくれないという不幸も起こりうる。日当たりが悪くて使い道のない垣根にウコギを這わせておけば、クルミと味噌漬け大根のみじん切りを混ぜ合わせて熱々ご飯にのせたウコギ飯が2,3回は楽しめる。この頃はスーパーマーケットに行けば蕗の薹やコゴミやタラの芽も容易に入手できる。クマも冬眠から覚めると、まずこれら苦みのある春の芽を食べるという。このように若芽は生物史上お試し済みの健康食品なのだから、この春一食ぐらいは召し上がれ。

排外主義の危険な芽を摘み取ろう

「特定アジア粉砕新大久保排害カーニバル」とは、何のことだかお分かりだろうか。「在特会(在日特権を許さない市民の会)東京支部」を中心とする、新大久保での排外デモを、彼らはこう自称している。
今年に入ってすでに5回。極端なヘイトスピーチが特徴と報告されている。日の丸や旭日旗を打ち振って、憎悪をむき出しの100人?200人の集団が絶叫する。「韓国は敵、よって殺せ」「良い韓国人も悪い韓国人もどちらも殺せ」「朝鮮人、首吊れ毒飲め飛び降りろ」という凄まじさ。新大久保だけではなく、大阪の鶴橋でも行われているという。

石原慎太郎が火をつけた尖閣問題、安倍政権の慰安婦問題が背景にあることは想像に難くない。煽動されたナショナリズムの恐さを実証する右派のデモ。排外主義の危険な芽をここに見ざるを得ない。大事に至らぬうちに、手を打ちたいもの。

「法律家として何とかしなければならない。警視庁に申し入れをしないか」と同期の梓澤弁護士から声をかけられた。急遽の呼びかけで12人の弁護士の呼吸が合い、3月31日5回目デモ直前の3月29日(金)に公安委員会・警視総監宛の申し入れ、東京弁護士会への人権救済申し立て、そして「声明」を携えての記者会見となった。

「声明」は以下のとおりである。
1 本日私たちは、本年2月9日以来4回にわたって東京都新宿区新大久保地域で行われてきた外国人排撃デモの実態に鑑みて、今後周辺地域に居住、勤務、営業する外国人の生命身体、財産、営業等の重大な法益侵害に発展する現実的危険性を憂慮し、警察当局に適切な行政警察活動を行うよう申し入れた。
2 外国人排撃のための「ヘイトスピーチ」といえども、公権力がこれに介入することに道を開いてはならないとの表現の自由擁護の立場からする立論があることは私たちも承知している。しかしながら、現実に行われている言動は、これに拱手傍観を許さない段階に達していると判断せざるを得ない。
このまま事態を放置すれば、現実に外国人の生命身体への攻撃に至るであろうことは、1980年代以降のヨーロッパの歴史に照らして明らかなところである。
3 また、ユダヤ人への憎悪と攻撃によって過剰なナショナリズムを扇動し、そのことにより民主主義の壊滅を招いたヒトラーとナチズムの経験からの重要な教訓を、この日本の現在の全体状況の中でも改めて想起すべきと考える。
4 以上のことから、私たちは当面の危害の防止のため緊急に行動に立ち上がるとともに、マスメディアや、人権や自由と民主主義の行く末を憂慮する全ての人々に関心を寄せていただくよう呼びかける。
5 また、上記の集団行進や周辺への宣伝活動において一般刑罰法規に明白に違反する犯罪行為を現認確認したときは、当該実行行為者を特定したうえ、当該行為者と背後にある者に対して、その責任追及のためのあらゆる法的手段に及ぶことを言明する。

記者会見での梓澤君の迫力はさすがのものだった。私のコメントは大要以下のとおり。

私たち12名は弁護士として事態を座視することができずに立ち上がった。弁護士とは、基本的人権擁護を使命とする職能である。基本的人権とは一人ひとりの人間の尊厳を意味するもので、国籍や人種や民族の如何に関わりのない普遍性をもっている。人権擁護の立場からは、特定の人種や民族に対する偏見や憎悪の言動を看過できない。その言動が、具体的な侮辱・名誉毀損となり、あるいは脅迫・業務の妨害に至れば、被害者の人権擁護の立場から、徹底した法的手段をとることを申し合わせている。

行動に名を連ねた12人の中には、これまでこの問題に関わり続けてきた複数の若手弁護士がいる。その行動力には感服のほかはない。しかし、オウムのときの坂本堤弁護士の悲劇が脳裏をよぎる。彼らを第一線に突出させてはならない。多くの弁護士が立ち上がらねばならない。

幸い、31日の「新大久保排外デモ」は、参加者の数も減り、「殺せ」のコールもなかったという。さらに、心強いことに、ヘイトスピーチをたしなめる市民のカウンターデモが人数でも勢いでも、圧倒したという。排外主義を許さない市民意識の健在に大いに胸をなでおろした。

新装開店記念のエッセイ第2弾
『サクラのこと』
今年、東京ではサクラ(ソメイヨシノ)の開花がはやいと騒がれた。しかし、よくしたもので開花してから急に寒い日が続いたので、散るまでの時間が長くかかって、3月末までお花見ができた。普段は気もつかない公園や校庭の一本桜や街路の桜並木が、手品でも使ったかのように華やいで、見慣れた町が別世界のようになる。毎年のことながら、冬の間ふさいでいた気分がパッと明るくなる。心とは単純にして不思議なものだ。

急に強い風が吹いて、花びらが雪吹雪のように舞い狂う場面に逢ったときなど、目も身体も魔術にかかったようにピタリと動かなくなって、このまま花嵐にさらわれてしまいたいと思う。この気持ちは子供の時から変わらないけれど、一度もさらわれることなく、老齢の域に入ってしまった。残念。

平安   久かたのひかりのどけき春の日にしずこころなく花のちるらん(紀友則)
勧酒   コノサカヅキヲ受ケテクレ
ドウゾナミナミツガシテオクレ
ハナニアラシノタトエモアルゾ
「サヨナラ」ダケガ人生ダ(于武陵「勘酒」井伏鱒二訳)
壮絶   後世は猶今生だにも願わざるわがふところにさくら来てちる
(山川登美子 鉄幹・晶子らと「明星」で活躍。29歳で早世)
奇跡   春ごとに花のさかりはありなめどあい見むことはいのちなりけり(古今和歌集よみびとしらず)
願望   ねがわくは はなのもとにて春しなむそのきさらぎの望月のころ(西行)

多分、これらに歌われたサクラはソメイヨシノではなくてヤマザクラだ。ソメイヨシノよりヤマザクラが好きだという人が多い。わたしも同じ。
ヤマザクラが100本ほど自生した山を持ちたいと思う。ヤマザクラは木によって若葉の色も花の色も少しづつ変異がある。若葉は赤みを帯びた黄緑色が基本だけれど様々で、それと一緒に咲く花の花色もほとんど真っ白から淡い紅色まで少しずつ変化があり、その組み合わせはいくら見ていても見飽きない。春の山を眺めると微妙に色の違った霞がかかったように見えるのはそのヤマザクラのせいなのだ。
そのわたしの持ち山は遠くからは人に見せてあげるけれど、ダレも山の中には入れない。歩かせない。触らせない。花好きは強欲。

10・23通達以来、10回目の卒業式

今春、都立校は、10・23通達発出以来10回目の卒業式を迎えた。もう一昔前となったあの頃を思い出す。

悪夢は石原慎太郎の再選から始まった。あの右翼に308万もの票を与えた都民の責任が大きい。この「都民の支持」を背景に、知事と右翼都議と、米長邦雄、鳥海厳らの石原取り巻きが都教委を私物化した。

あれから10年、事態は本質的には変わっていない。私たちは変わらないことに切歯扼腕しているが、都教委の側も同じ心情なのかも知れない。

本日、その卒業式で6名に懲戒処分(5名に戒告・1名に減給処分)が発令された。これで、「10・23通達」関連の処分者数累計は延べ447名を数えるに至った。

昨年の1月16日最高裁判決は、都教委の累積加重システムを違法とした。そして、多数の補足意見が、都教委に自制と問題解決への努力を期待することを表明した。
その結果、昨春の処分は、2回目以上の不起立等に対しても戒告処分としていたが、今回都教委は4回目の不起立者(1名)に対して減給処分の発令を強行した。都教委は、日の丸・君が代問題では、強気に出て良しと判断したのだ。

本日全水道会館で開催された処分発令に対する「抗議・支援総決起集会」では、怒りの渦が巻いた。日の丸・君が代を強制する10・23通達以後の学校現場が、命令と服従の場と化し、教職員がものも言えない状況に置かれており、この異常な事態を何とか変えていかねばならない、との切々たる訴えにも胸を打たれた。一方、自分の信念を貫く人々が、けっして現場で孤立してはいないことの報告に大きな拍手が湧いた。

訴訟と運動とが両輪とならねばならない。多くの人に、日の丸・君が代強制の不当と危険を訴え、支持を獲得しなければならない。精神的自由確立のために。教育を国民の手に取り戻すために。そして、過剰なナショナリズムの危険を防止するために。

10回目の卒業式で、あらためてそう思う。

拝啓 山口香様

山口香さん、東京都は元柔道選手のあなたを、東京都教育委員に起用する方針を固めたとのこと。瀬古利彦さんの後任で、議会が同意すれば4月1日付で就任する予定という。2020年東京オリンピック招致に向けての人事だとか。

山口さん、あなたには期待が大きい。オリンピック招致のことではない。あなたが管轄することになる都内公立校での「日の丸・君が代」強制という異常な事態を解決していただきたい。少なくとも、解決に向けての一石を投じていただきたい。

あなたは、暴力的体質にまみれた柔道界にあって、監督の暴力に抗議の声をあげた現役女子選手15人の側に立つことを躊躇しなかった。圧倒的な強者であるいじめる側にではなく、いじめられる弱者の側に寄り添うあなたの姿勢がすがすがしい。その意気や、おおいによし。そのすがすがしい心意気を、教育委員という職責においても貫いていただけないだろうか。

都内公立校の卒業式・入学式での「日の丸・君が代」の強制が始まってもうすぐ10年になろうとしている。これは、教育委員会による教員への、暴力・イジメにほかならない。教員の中には、「日の丸・君が代」大好き人間もいるだろう。しかし、自らの思想にかけて、あるいは教員としての良心を大切にする立場から、どうしても「日の丸・君が代」に敬意を表明することはできないという教員も少なくない。人間として、教員として、真面目にものを考える人ほど、こだわらざるを得ない問題となっていることを理解していただきたい。

あなたに質問したい。あなたは、スホーツ界で過ごしてきたその半生において、「日の丸・君が代」にまつわる問題を真剣に考えたことがあるだろうか。スポーツイベントや学校スホーツが、ナショナリズムの昂揚や国家主義に利用されていると考えたことはないだろうか。旧天皇制のもとで国家のシンボルとなった日の丸や君が代が、日本国憲法下の現在もなお、国旗国歌となっていることを奇妙と考えたことはないだろうか。少なくとも、「日の丸・君が代」の強制には服しがたいと考えている人の心情を理解しようとしたことがあるだろうか。

スポーツ会場は、理性ではなく激情が支配する空間だ。そこで日の丸を打ち振る人々の、他者に対する同調要求の圧力は凄まじい。同じことが学校現場に起きている。しかも学校現場では、社会的な同調要求圧力だけではなく、職務命令という公権力の発動までがなされている。

あなたは、日の丸を打ち振る観衆の声援を心地よいものと感じてきただろうと思う。しかし、教育委員として公権力の担い手となるからには、真剣にお考えいただきたい。社会的同調圧力の危険性について、また、公権力行使のあるべき限界について。「日の丸・君が代」への敬意の表明の強制、つまりは懲戒処分の恫喝のもとに起立・斉唱・伴奏を命じることの危うさについて。

柔道とは、柔道の修練とは、何を目指してなんのためにするものなのだろうか。柔道家が求める強さとはいったい何だろうか。一人ひとりが、全体に飲み込まれない個人としての強さを目指すものではないのだろうか。技も練習方法も個性を磨くためのものではないのだろうか。

自らの信念を貫いて、起立・斉唱・伴奏を拒否した教員は、この問題に真摯に向き合い、自らの怯懦と闘い、社会的圧力に抗し、最後は公権力の圧倒的な強制に立ち向かった、賞賛すべき勇者だと言えないだろうか。

少なくとも、必死で、自分と闘い、勇気をふるって社会と公権力に立ち向かっている人を辱め、嵩にかかっていじめる側にまわることは柔道家のよくするところではあるまい。いや、人としてそのような卑劣な振る舞いはできないとする感性を、あなたには期待したい。

残念ながら、この10年。そのような期待に応えていただける教育委員は1人もいなかった。もしこの期待に応えていただけるなら、日本の教育史の1ページにあなたの名が残ることになる。それに比べれば東京オリンピック招致の成否など、まことに小さな問題でしかない。

沖縄の怒りに心を寄せよう

沖縄には、41市町村があるという。その全首長と議会議長の連名とで、安倍晋三首相宛に作成したのが、今話題の「建白書」である。沖縄県民の総意の結集であり、県民の怒りのほとばしりと言ってよいだろう。
その全文は以下のとおり。

内閣総理大臣 安倍晋三殿 2013年1月28日
われわれは、2012年9月9日、日米両政府による垂直離着陸輸送機MV22オスプレイの強行配備に対し、怒りを込めて抗議し、その撤回を求めるため、10万余の県民が結集して「オスプレイ配備に反対する沖縄県民大会」を開催した。にもかかわらず、日米両政府は、沖縄県民の総意を踏みにじり、県民大会からわずかひと月もたたない10月1日、オスプレイを強行配備した。
沖縄は、米軍基地の存在ゆえに幾多の基地被害をこうむり、1972年の復帰後だけでも、米軍人等の刑法犯罪件数が6千件近くに上る。沖縄県民は、米軍による事件・事故、騒音被害が後を絶たない状況であることを機会あるごとに申し上げ、政府も熟知しているはずである。とくに米軍普天間飛行場は市街地の真ん中に居座り続け、県民の生命・財産を脅かしている世界一危険な飛行場であり、日米両政府もそのことを認識しているはずである。
このような危険な飛行場に、開発段階から事故を繰り返し、多数にのぼる死者をだしている危険なオスプレイを配備することは、沖縄県民に対する「差別」以外なにものでもない。現に米本国やハワイにおいては、騒音に対する住民への考慮などにより訓練が中止されている。
沖縄ではすでに、配備された10月から11月の2カ月間の県・市町村による監視において300件超の安全確保違反が目視されている。日米合意は早くも破綻していると言わざるを得ない。
その上、普天間基地に今年7月までに米軍計画による残り12機の配備を行い、さらには2014年から2016年にかけて米空軍嘉手納基地に特殊作戦用離着陸輸送機CV22オスプレイの配備が明らかになった。言語道断である。

オスプレイが沖縄に配備された昨年は、いみじくも祖国日本に復帰して40年目という節目の年であった。古来琉球から息づく歴史、文化を継承しつつも、また私たちは日本の一員としてこの国の発展を共に願ってもきた。
この復帰40年目の沖縄で、米軍はいまだ占領地でもあるかのごとく傍若無人に振る舞っている。国民主権国家日本のあり方が問われている。

安倍晋三内閣総理大臣殿。
沖縄の実情をいま一度見つめていただきたい。沖縄県民総意の米軍基地からの「負担軽減」を実行していただきたい。

 以下、オスプレイ配備に反対する沖縄県民大会実行委員会、沖縄県議会、沖縄県市町村関係4団体、市町村、市町村議会の連名において建白書を提出致します。

1.オスプレイの配備を直ちに撤回すること。および今年7月までに配備されるとしている12機の配備を中止すること。また嘉手納基地への特殊作戦用垂直離着陸輸送機CV22オスプレイの配備計画を直ちに撤回すること。
2.米軍普天間基地を閉鎖・撤去し、県内移設を断念すること。

この建白書をあざ笑うがごとく、安倍政権は、普天間飛行場の辺野古沖への移転のための、公有水面埋め立て承認申請書を県知事に提出した。公有水面埋立法という法律がある。河川・沿岸海域などの公共用水域を埋め立てて土地を造成する場合には、知事の免許が必要とされている。その手続きが始まったのだ。

本日の琉球新報社説では、「日米が民主主義の国であるのなら、『建白書』こそ最大限尊重すべきだ」と言っている。沖縄県民の総意を蹂躙して、アメリカに迎合するこの国のあり方を、国民は座視してよいのか。

学校におけるイジメと安倍政権

本日は日本民主法律家協会の2012年度第8回執行部会。課題山積の3時間の論議。そのうち、教育問題にかなりの時間が割かれた。

4月12日(金)に「何をめざすか?安倍政権の教育政策」という緊急シンポジウムを主催する。時刻は18時30分から、場所は日比谷公園内の日比谷図書文化館内「日比谷コンベンションホール」。そして、「法と民主主義」6月号を教育問題特集とする。

イジメ問題の位置づけについて若干の意見交換があり、渡辺治理事長の発言もあった。私が理解した限りで、大要以下のとおりの内容である。

現在の学校におけるイジメは、「昔からあった」というレベルの問題ではない。そして、そのことは安倍政権の政策とも深く結びついている。

社会的背景として、90年代以後の新自由主義政策による貧困化や中間層の没落がある。子どもを取り巻く環境が劣悪化し、子どもの精神の安定性に影響している。

そのような子どもたちを抱える学校には競争至上主義が蔓延している。しかも、評価主義が徹底していて低評価につながるイジメは潜在化せざるを得ない。また、教員は子どもに向き合う余裕がなく、教員集団による教育力が低下している。

このような要因で噴出しているイジメ問題について、安倍政権は彼なりのやり方による対策を政策の目玉の一つにしようとしている。社会的背景にメスを入れ学校の体質を改善しようというのではない。道徳教育の徹底や教育委員会制度の破壊という対応によってである。自らの新自由主義政策がイジメをつくり出しているのに、これを改めるのではなくむしろこれを利用して新保守主義的政策推進の口実にしようとしている。

なるほど。指摘されてみればそのとおり。このことだけでなく、啓発を受けることが多々ある会議だった。

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