澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

これからは、遠慮なく安倍晋三を「軍国主義者」と呼ぶことにしよう

安倍晋三の「ハドソン研究所」(米の保守系シンクタンク)主催会合での演説要旨についての報道は、時事通信が詳しい。その中の一節が、以下のとおり。

「本年、わが政府は11年ぶりに防衛費を増額した。すぐそばの隣国に、軍事支出が少なくとも日本の2倍で、米国に次いで世界2位という国がある。毎年10%以上の伸びを20年以上続けている。私の政府が防衛予算をいくら増額したかというと、たったの0.8%にすぎない。従って、もし私を右翼の軍国主義者と呼びたいのであれば、どうぞ呼んでいただきたい」

「軍国主義」の定義については、広辞苑の記載がよく引用される。「国の政治・経済・法律・教育などの政策・組織を戦争のために準備し、軍備力による対外発展を重視し、戦争で国威を高めようとする立場。ミリタリズム」

言葉について、私的な定義をすることに意味はない。広辞苑の穏当な定義に拠って、大きな間違いはないだろう。とすれば、「軍国主義者」とは、「国の政治・経済・法律・教育などの政策・組織を戦争のために準備し、軍備力による対外発展を重視し、戦争で国威を高めようとする立場に立つ人。ミリタリスト」ということになる。まさしく、安倍晋三にぴったりではないか。

彼は、憲法9条の平和主義を目の仇としている。「自衛のための最小限の実力」の保持では満足せず、地球の裏側にいってまで武力行使のできる国防軍を渇望している。集団的自衛権の行使容認をたくらみ、先制的自衛権や殴り込み部隊である海兵隊機能を提案している。軍国神社靖国に公式参拝して祖父の盟友であった戦犯の霊に額ずくことを公約している。軍法会議の創設を提案している。戒厳令の復活を狙っている。さらに、武器輸出三原則を清算し、教育基本法を変え、歴史教科書を塗り替え、従軍慰安婦の存在を否定し、軍服をまとって戦車や軍用機に乗ってはしゃいで見せている。軍国主義者としての資格に欠けるところはない。

また彼は、国粋主義者であり、近隣への差別主義者であり、天皇崇拝者であって、要するに典型的な、ありふれた「右翼」でもある。

彼の頭の中では、「軍国主義者」の定義は、「防衛予算を増額した国の代表」をいうものであるごとくだが、そのような「独自の私的な定義」は無視して差し支えない。おそらく、彼一人に、予算の編成を任せれば、防衛予算は倍増し福祉予算は半減するだろう。安倍が軍国主義者であることと、防衛予算の増減は必ずしも連結しない。

とはいうものの、「軍国主義者」とは、口にするのに憚らざるをえない最大級の悪罵である。いかに、安倍が定義にピタリの軍国主義者であっても、名指しして「あなたは軍国主義者だ」ということには躊躇せざるをえない。

ところが、本人から「もし私を右翼の軍国主義者と呼びたいのであれば、どうぞ呼んでいただきたい」と、わざわざの申し出である。これに応えて、これからは、遠慮や躊躇を捨てて、安倍晋三を「右翼の軍国主義者」と呼ぶことにしよう。

ただ、悪口として投げつけるだけでは芸がない。彼のたくらみの一つ一つを吟味して、それが「右翼の軍国主義者」故の発想から出たものである所以を明らかにすることが大切だと思う。

論語にもある。「文質(ぶんしつ)彬彬(ひんひん)として然る後に君子なり」と。

これを翻訳すれば、「安倍を軍国主義者だと言葉だけで攻撃してもダメ。安倍の政策の一つ一つの軍国主義的性格を明確にして実質で批判しなさい。それが理性ある主権者国民の正しい安倍批判の在り方ですよ」。孔子もうまいことを言う。

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  「我が家の庭はレストラン」
ラジオで、「柿もぎをはじめました」というたよりが紹介されていた。ああもうそんな季節かと聞いていると、「ちょっと色づいた青柿です」といっている。柿渋をとるのかと思っていると、「サル対策で、他の作物を荒らしに出てこないように、柿が熟す前に落としてしまうんです」とのこと。たわわに実る柿の木の風景は山村ではもう見られない。

山村だけではない。静岡市の真ん中の静岡県庁にニホンザルが現れて、警察や職員を尻目にかけて、ベランダや庇を縦横に駆け巡って未だ捕まっていない。利口そうにこちらを伺うサルの写真を見れば、「ペンギンだって82日間逃げたんだからガンバレ」と無責任な声援を送りたくなる。山に食べるものが少ないのだろうか。

折り紙作家の布施知子さんの「ひまなし山暮らし」(筑摩書房 1996年)を紹介しよう。布施さんは長野県で「山暮らし」をしている。「オニヤンマが悠然と茶の間に入ってきて、ギロリとあたりを睨み、また悠然と出て行く。おおっ!オオスズメバチが軍艦のように入ってきた。ちょっと逃げていよう。壁に軽い頭突きを数度、ようやく出ていった。あっ、オシッコした。オシッコするとオオスズメバチは速度を急に早めて、ブーンと松林に消えた。」こんな羨ましい暮らしだ。

その中の「秋 柿の木」から。「凍みと凍みっ解けを何度もくりかえして白っぽくなった皮がたるんできた1月の中頃から、柿の木は賑わいをみせはじめる。主はひいさまー1羽のヒヨドリである。ひいさまの柿の実に対する執着は、けなげといっていいほどだ。じぶんがいるとき、なんぴとといえども相伴は許さない。翼をふるわせ、嘴を開き、あっちへ行け! さがれ!のポーズをする。小間鳥(カラ類、エナガ、コゲラ、メジロはよく一緒に団体で来るので、小間物屋にかけて小間鳥と呼んでいる)はなにしろ団体なので、ひいさまはご威光を知らしめ、警告を発するに大忙しとなる。小間鳥たちは警告に席を譲るものの、心底恐れ入ったようには見えない。うるさいのが来たからちょっとどいた、という感じである。そして2,3分、実や枝をつついていたかと思うと、来たときと同じように、団体でまたどこかへ行ってしまう。あっさりしたものだ。ひいさまはヤレヤレと食べはじめるが、落ち着かない様子でキョロキョロしている。いつもキョロキョロしている。因果なものだ」

うちの庭にもスモモの木があるが、実がなっていた頃は(昨年あたりから不思議なことにピタリと実がつかなくなってしまった)、同じ情景がくり広げられた。まず、さすがサルは来ないが、ハクビシンが夜ごと現れた。ピカリピカリと目を光らせて、器用に細い枝先まで登っていって、いちばん熟れたおいしいやつを選んで食べる。それもうまいところだけ一口。かわいくない。

朝になると、ヒヨドリのお出ましとなる。うちに来るのは「姫」じゃなくて、「野郎」。ピーピーと鳴きわめいて、メジロやシジュウカラを追い払う。そして、上品につついてひとつだけ、遠慮深くいただくということは、絶対しない。ヒヨドリのつつき回した後を、可愛らしく食べるメジロやシジュウカラがいとおしくなるのは人情。スモモとミカンの実がなくなる頃には、椿の花が咲き始める。鳥たちは椿の花粉の中に全身をうずめて、動くうぐいす餅のように粉まみれとなって遊ぶ。私もどんなにおいしいものかと舐めてみたが、花粉はただ苦いだけ。

こうして、我が家の小さな庭は、秋から冬の間、お客さんの絶えない賑やかなレストランとなる。ハクビシンはただの恩知らずだが、小鳥たちはお礼を残していく。春になるといろいろな実生が芽をだして、お楽しみクイズを提供してくれる。
(2013年9月27日)

「授業してたのに処分・事件」結審の法廷で

本日「授業してたのに処分」事件が結審した。同事件は、元福生高校教諭の福嶋常光さんが、再発防止研修の日程変更を認められず、やむなく予定のとおりの授業を平穏に行っていたところ、減給6月という重い処分を受けたというもの。

理科の先生だった福嶋さんは、真面目を画に描いたようなお人柄。教師像の一典型と言えそう。その福嶋さんが、「君が代・不起立」で懲戒処分を受けた。ここまでは石原教育行政下での450件のエピソードの一つ。福嶋さんは、これに追い打ちをかけた信じがたい懲戒処分を受けて、憤懣やるかたなく、たったひとりの原告となった裁判を起こした。

懲戒処分を受けると、服務事故再発防止研修の受講を強制される。研修したところで、思想が改造できるわけはないのだから、石原教育行政の嫌がらせ以外の何ものでもない。それでも、受講拒否はさらなる懲戒事由とされるのだから、福嶋さんも受講せざるを得ないと覚悟はしていた。福嶋さんが再発防止研修を命じられたのは今回が初めてではなく、これまでは、受講命令に従っていた。

ところが、この嫌がらせ研修として指定された日には、福嶋さんは5時間の授業をしなければならない日程となった。しかも、他の教師に授業を代わってもらうことも、授業計画を建て直すことも不可能。当然に、研修の日程を変更してもらわねばならない。研修予定日の2か月前には校長に、1か月前には直接教育委員会にその旨を申し出た。研修日の変更は明らかに可能だった。

しかし、都教委の返答は「ノー」というもの。「教員に服務事故再発防止研修の日程変更を申し出る権利はない」ということなのだ。

福嶋さんは考えた。自分は、公務員として都教委の指示に従って研修を受けるべきだろうか、それとも教師として生徒のために授業を行うべきだろうか。答えは自ずから明らかだった。「自分は教師である。教師の本分は生徒に授業を行うこと。生徒に寄り添う立場を貫くならば、授業を放棄するわけにはいかない。授業を行うことこそが正しい選択だ」。そう考えての実行が、「減給10分の1・6か月」というとんでもない処分となった。信じられるだろうか。都教委が福嶋さんの都合を聞いて、次の研修の日を設定しさえすれば済むことなのに、減給6か月。

以下は、本日の弁論終結に際しての、私の意見陳述の内容。

弁論終結に際して、原告代理人の澤藤から一言申し上げます。
裁判官の皆様には、是非とも教育という営みの重さについて、十分なご理解をいただきたい。そのうえでの本件にふさわしい判決をいただきたいのです。

教育とは、尊厳ある個人の人格を形成する営みです。明日の主権者を育て、社会の未来をつくる営みでもあります。憲法の理念の実現はひとえに、教育にかかっている、と言って過言でありません。その教育の在り方が、本件では極めて具体的に問われています。

原告は、形の上では原告自身の権利侵害についての救済を求めています。しかし本件訴訟の実質においては、侵害されている教育本来の姿の回復が求められています。教育という営みがないがしろにされ歪められていることを黙過し得ず、たった一人で提訴を決意した原告の心情を酌んでいただくとともに、憲法や教育基本法が想定している本来の教育とはいかなるものであるか、教育行政はこれにどうかかわるべきか、そのことに思いを致しての判決起案でなくてはなりません。

本件事案は、教育をこよなく大切に思う現場教員と、教育を重要なものとは思わない教育委員会の争いであることが一見明白です。いや、正確には、「争い」とはいえません。不真面目な教育委員会が、真面目な教員を、一方的に貶めているという図式と言うべきでありましょう。貶められ、侵害されているのは、原告の権利だけではなく、教育そのものでもあります。

原告は、生徒の教育を受ける権利を全うしようという姿勢を崩すことなく、一貫して真摯に授業に専念しました。

これに対して、被告都教委の姿勢はどうだったでしょうか。教育にも、授業の進行にも、生徒の履修の障害にも、まったく関心を寄せるところはありませんでした。都教委が関心をもったのは、ひとえに、教員に対する強権的統制の貫徹。もっと具体的に言えば、学校現場に「日の丸・君が代」強制が徹底される体制の整備、それが生徒の授業を受ける権利よりも重要なこととして強行されたのです。

都教委は、偏頗で強固なイデオロギーをもっています。職務命令や懲戒処分を濫発してまで、全教職員が一律に「日の丸・君が代」強制に服することが教育現場に望ましいとする、秩序偏重の国家主義的イデオロギーです。

このイデオロギーは、私たちが「転向強要システム」と呼んだ、累積加重の懲戒基準に顕著に顕れています。「日の丸・君が代」、あるいは「国旗・国歌」強制に服することができないとする教員は、どのような理由からであれ、やむなくこれを受容するに至るまで処分は限りなく繰り返され、しかも加重されます。屈辱的な再発防止研修の受講強制も繰り返されるのです。

既に、最高裁はこの懲戒量定の基準を違法と断じました。その意味では、本件の判決主文の帰趨は明らかなのですが、本件はこれまでの判例にあらわれた「日の丸・君が代」強制事案と同じものではありません。本件では、もっと具体的に、教育行政がどのように教育と接すべきかという問題を提起してます。そして、転向強要システムは、教育現場であればこその際立った違法といわなければなりません。

裁判官の皆様には、安易に最高裁判決をなぞるだけの判決に終始されることなく、教育の重みと教育条理とを踏まえ、教育行政の教育への関与の限界を十分に認識された、本件にふさわしい判決を言い渡されるよう期待いたします。

判決期日は本年12月19日13時10分と指定された。
(2013年9月26日)

秘密保護法案の秘密に迫ろう

今月3日に「概要」が公表された「秘密保護法」案(旧名は「秘密保全法」。フルネームは「特定秘密の保護に関する法律」)に対して、反対意見や声明が続々と発表されている。それぞれの立場からのもので、各団体や個人の個性がよく顕れており、民主々義はいまだ健在の感を強くしている。

私が目にした範囲だが、下記の4件を読むことで、問題点を網羅的に把握することができると思う。これで、秘密保護法の秘密に迫り、解き明かそう。そして、法案成立の阻止に力を貸していただきたい。
(1) 新聞労連機関紙・号外(2013/06/01)
http://nagoya.ombudsman.jp/himitsu/130601.pdf
(2) 日弁連・パブコメ意見(2013/09/12)
http://www.nichibenren.or.jp/library/ja/opinion/report/data/2013/opinion_130912.pdf
(3) 自由法曹団・パブコメ意見(2013/09/17)
http://www.jlaf.jp/iken/2013/130917_01.pdf
(4) 日本ペンクラブ声明(2013/09/17)
http://www.japanpen.or.jp/statement/2013/post_442.html

(5) ついでに、私の訴え(2013/09/21)も挙げておこう。

「特定秘密保護法 その危険性」についての街頭の訴え

上記(1)は、架空のニュース記事の形で、仮にこの法案がが成立したらこんなことになるという、記者の立ち場から警鐘を鳴らすもの。労働問題を追いかけていた記者が、取材の過程で「あたかも地雷を踏むがごとくに」秘密に触れて逮捕されるというリアリティに溢れた想定。逮捕にとどまらず、徹底した秘密の保持は、刑事弁護の活動にも支障を与えることになる。さすがにプロの技。読ませるし、考えさせられる。記者の立ち場からの問題提起だが、国民の知る権利を根こそぎ奪うということだ。新聞労連のホームページにアクセスしても、部外者にはこの記事に到達できないのがもったいない。

上記(2)は、A4・26頁のボリューム。最も体系的で詳細、法案がまとめられた経過もよく分かる。但し、日弁連意見という制約があって、政治的な背景事情や推進勢力の狙いなどについての叙述は薄い。反対理由の項目だけを確認しておきたい。
※ そもそも立法事実がない
(1) ボガチョンコフ事件によっても立法事実があるとはいえない
(2) 内閣情報調査室職員による情報漏洩事件から立法事実があるとはいえない
(3) 尖閣沖漁船衝突事件にかかる情報漏えい事案から立法事実があるとはいえない
(4) 国際テロ対策に係るデータのインターネット上の掲出事案からも立法事実があるとはいえない
※ 「特定秘密」の範囲が広範で定義が不明確である
(1) 「特定秘密」の範囲が広範にすぎる
(2) 「防衛」秘密の範囲が広範不明確である
(3) 「外交」情報が広範不明確である
(4) 「外国の利益を図る目的で行われる安全脅威活動の防止」に関する情報が広範不明確である
(5) 「テロ防止活動」に関する情報が広範不明確である
(6) 特定秘密の「表示」は限定と無関係であること
※ 人的管理について
(1) 適性評価制度についての立法事実の欠如と内容が不明である
(2) プライバシー権等が侵害される
(3) 差別的取扱いの危険がある
(4) 適正手続の保障が危ぶまれる
※ 罰則について
(1) 過失による漏えい行為処罰の不当性
(2) 未遂犯処罰の不当性
(3) 共謀行為・教唆及び煽動の不当性
(4) 特定秘密の取得行為の処罰が取材行為等を委縮させる
(5) 法定刑が重すぎる
(6) 曖昧で広範囲な処罰規定の目指すところ
※ 国会及び国会議員との関係
※ 裁判を受ける権利と秘密保全法制
※ 特定秘密保護に関する法律が憲法の保障する人権を侵害する
(1) 秘密保全法制が国民主権と矛盾する
(2) 違法秘密と擬似秘密まで保護されてしまう
※ いま必要なことは情報公開の推進である

上記(3)は、日弁連のような制約をもたない「戦う弁護士」集団の忌憚のない見解。この法案を単独でとらえることはせず、改憲・国家安全保障基本法・国家安全保障会議設置関連法の制定などと一体のものとして把握し、「日本の軍事・警察・治安国家化を目指すものである」という視点からの徹底した批判。
*国政に関するあらゆる重要情報を国民の目から隠蔽する目的
*秘密の範囲が広汎かつ不明確であること
*処罰の範囲が不当に広汎でありかつ法定刑が重すぎること
*立法権・司法権を侵害し、三権分立に反すること
*国民の憲法上の諸権利を侵害し、国のあり方を変質させる

上記(4)は、コンパクトによくまとまっている。キーワードは、権力から表現者に対する「威嚇効果」と、表現者の「萎縮効果」である。
項目を拾ってみると、
1.「特定秘密」に指定できる情報の範囲が過度に広範である
2. 市民の知る権利、取材・報道の自由が侵害される
3. 行政情報の情報公開の流れに逆行する
4.「適正評価制度」はプライバシー侵害である
5. このような法律を新たに作る理由(立法事実)がない

以上のとおり、秘密保護法は、国民主権原理・基本的人権・恒久平和主義に鋭く対立する。以上に挙げた各項目でほぼ問題点は尽きていると思われる。敢えて1点つけ加えるならば、この秘密保全法は戦争準備法として、軍拡と同じ効果をもつ。近隣諸国に、平和や緊張緩和のシグナルではなく、威嚇と警戒のシグナルを送ることになる。

この法律の制定が、「我々は、防衛秘密を厳重に取り締まることにする。近隣諸国のスパイ活動の危険に厳正に対処する」という宣言にほかならない。近隣諸国に対する挑発となり緊張関係をつくり出す。
そのような観点からも、反対をしたい。
(2013年9月25日)

安倍晋三よ、夢想や願望を事実として語ってはならない

人には信頼が大切だ。同じ発言が、信頼の有無で受けとられ方に雲泥の差となる。信頼ある人の発言なら、「舌足らずな表現だが、真意はこうだろう」と善意をもって理解してもらえる。信頼なければ、隠れた悪意を穿鑿されて、痛くもない腹を探られることになる。

安倍晋三という人物。以前から極右の警戒すべき人物だとは思っていたが、嘘つきだとは思っていなかった。IOC総会での、「(福島原発事故の)状況はコントロールされている」「汚染水は完全にブロックされている」発言で、彼には、「平気で嘘をつく人」という烙印が押された。彼は「国民からの信頼」だけでなく、「世界からの信頼」を失ったのだ。誰もが、彼の言には眉に唾を付けて聞かねばならない。これは、6年前のみっともない政権投げ出しに続く、「二つ目の政治家としての致命傷」だ。

東京電力の山下和彦フェローが9月13日の民主党会合で、福島第1原発の汚染水漏れ問題について「今の状態はコントロールできているとは思わない」と、安倍批判となる認識を示したのは当然のこと。猪瀬都知事も同じ発言をしたが、さすがに「コントロールすることを世界に約束したのだ」と弁護した。

さらに、9月19日現地を視察した安倍首相が、状況を説明する東電幹部に、「0・3(平方キロ)は(どこか)」と尋ねていたことが話題となった。

彼は、東京五輪招致を決めた国際オリンピック委員会(IOC)総会で「汚染水の影響は港湾内0・3平方キロの範囲内で完全にブロックされている」と大見得を切った。しかし、実は、自分の言う「0・3平方キロの範囲」が、現地のどこを指しているのかよく分かってはいなかったのだ。東電も、おそらく安倍に誤解があるだろうと思っていた。

この間のやり取りは、共同通信の配信記事が詳細である。
「安倍首相は第1原発1、2号機東側の護岸を視察し、東電の小野明所長から放射性物質の海への流出や海中での拡散を防ぐ対策の説明を受けた。首相はこの際に『0・3は?』と質問。小野所長は港湾出口に灯台があることを示しながら広さを説明した。
 1?4号機東側の護岸では、地下を通じて海に流れ込む放射性物質が拡散しないように『シルトフェンス』という水中カーテンを設置している。水の流れを完全に遮断できるわけではなく、政府、東電とも放射性物質が港湾外に出ている可能性を否定していない。
 東電はこれまで、首相が『ブロックの範囲』をシルトフェンス内と誤解している可能性もあるとみて、首相発言への言及を極力避けてきた。今回の現地視察でようやく理解を得られた格好だ」

なお、東電の説明に対する安倍のコメントが、次のようなものであったという報道は‥一切ない。
「ああ、そうだったのか。ようやく少しわかったよ。教えられたとおり口にした0・3平方キロの範囲も知らなかったし、シルトフェンスで汚染水の拡散は完全にブロックされると思い込んでいたんだ。だけど、IOC総会では突っ込まれなくてよかった。よく知らないことも自信ありげに言ってみるもんだね。本当のことを知っていたらとてもあんな発言できなかったけどね」

その安倍晋三が、9月27日国連総会で演説するという。
「尖閣諸島や慰安婦問題、さらには集団的自衛権行使などをめぐって、国際社会に『右傾化政権』などとの偏見が生じていることを踏まえ、女性や人権問題を重視する『安倍外交』をアピールし、偏見を解くのに努める考えだ」と報じられている。

彼は出発に先立ち、羽田空港で記者団に、こう意気込みを語ったそうだ。
「国連総会の演説を通じて、国際社会における日本の存在感をしっかりアピールしていきたい。特に、シリア問題への貢献、21世紀の女性の役割の重要性に焦点を当て、日本政府の女性重視の姿勢を世界に向けて発信したい」

首相に信頼感あれば、「なるほど、さすがにもっともなことを言う」との感想になるのかも知れない。しかし、彼にそのような信頼感は望むべくもない。

私の感想は以下のとおりである。
「やはり、国際社会において日本の存在感がないことをよく自覚しているんだ」「シリア問題では、世界の世論に影響を与えるような何の発言もしてこなかったからな」「20世紀の女性の問題については語れないから、21世紀の女性の役割について語るんだな」「河野談話の再確認・再評価などしてみせる気はなさそうだ」「なによりも、また世界に嘘を喋るなよ」「少なくとも、現実と願望とを混同した発言はおよしなさい」「夢想や願望を、あたかも事実であるごとくに語ってはいけないね」

そして、ニューヨークで福島第1原発の汚染水問題を聞かれたら、嘘の上塗りをしてはならない。恥の上塗りになるからだ。正直こそ信頼回復の第一歩。「ほんとはボク、なんにも知らないんだ。説明はしてもらうんだけど、よく呑みこめない」とお言いなさい。そうすれば、信頼感の回復に繋がる望みが、少しは開かれるかもしれない。

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  急に「秋」
新聞に「木の葉食べつくすアメリカヒロシトリ」という記事が載っていた。猛暑で大発生しているらしい。それで思い当たった。窓の外で朝から晩まで「ポリポリカリカリ」という音がして、雨も降らないのにおかしいなと思っていた。やっぱり、椿の梢が丸坊主。下から見ると青空がよく見える。

こちらはアメリカヒロシトリではなくて、チャドクガ。毛虫のトゲが有毒で、刺さると痛がゆくて、ひどければ病院に行かなければならない。ありがたいことに、今までそんな目にあわずにすんできた。年に2回ほどはやける。6月にはやけた時は早く気がついて、幼虫が小さいうちに、高枝バサミで切り取って始末をした。しかし、とても全部捕り切れるものではない。悪運強く生き残った奴が、秋になって、2代目の生を謳歌している。こんなに急に気温が下がれば、放っておいてもすぐに蛹になってしまうのだと、毛虫退治はさぼることにする。本当は高枝バサミが重くて、肩はこるわ、首は回らなくなるわ、腰は痛くなるわで、年2回の戦いは出来ないというのが本音だ。

気力の衰えを見透かしているのはチャドクガだけではなさそう。ホトトギスが茎だけの丸坊主になっている。例年は秋から冬にかけて長い間楽しませてくれる、渋い花が今年は見られない。ホトトギスはルリタテハの食草だけれど、この辺りでは見たことがないので、犯人は嫌われ者の夜盗虫(ヨトウムシ)に違いない。名前どおり夜現れて食害し、昼間は地下に潜り込んでしまうので、これを退治するにはそうとうな根気と元気が必要だ。にっくき奴だが、夜盗虫も許してやるしかない。

そう思って窓の外を見ていたら、暑い間どこかへ避暑に行っていたシジュウカラが帰って来ていた。ムクゲの細い枝に器用につかまって、海苔巻きのように丸まった葉っぱをつついて、ハマキムシをくわえだして食べている。ありがたい害虫退治の援軍来たるである。

昼間からコオロギやカネタタキが賑やかに鳴いている。そのうちどこからともなく、キンモクセイの香りがしてきたら本物の秋である。
(2013年9月24日)

堺市長選における「政党間共闘」の在り方

堺市長選挙についての「赤旗」報道の力の入れようは相当なもの。あたかも、この一地方選挙が天下分け目の決戦でもあるかのごとき扱いぶり。本日は、一面トップだけではない。2面に「市田書記局長竹山事務所を訪問」の記事、4面の半分のスペースで「堺市長・市議補選市田書記局長の訴え」、さらに社会面にも「堺市長選 無党派宣伝 ザビエルも『都構想ハンタイ』」の報道。東京版でこれなのだから、地元ではさらにさぞかしと思わせる。

昨年末の東京都知事選などとは格段の差だ。あの選挙の出口調査(朝日)では、宇都宮候補に投票したのは共産党支持者の64%に過ぎなかった。信じがたいことだが、共産党支持者の3分の1以上が、石原後継の猪瀬や極端な新自由主義者松沢に投票したのだ。選挙運動に全力を尽くさずには、既得勢力の確保もできないという現実がある。

市田さんの訴えは、さすがに市長選の争点に具体的に切り込む切れ味鋭い内容となっている。たとえば次のように。

「竹山市長のモットーは「市民目線」「現場主義」です。市民とひざ詰めで対話を重ね、出された声を市政運営に生かすという政治姿勢を貫いています。18号台風による大雨で、大和川周辺に「避難勧告」がだされました(16日)。竹山市長はただちに選挙活動を中止し、現場に出向き、陣頭指揮をとりました。
対岸の大阪市はどうか。市政初の避難勧告が朝8時30分に発令されましたが、そのとき橋下徹大阪市長は自宅でツイッターをやっていました。9時32分に「久しぶりのツイッターだな?」とつぶやいたかと思うと、10時までの28分間に14回つぶやき、それが夕方まで延々と続きました。中身は、台風被害ではなく、竹山市長や共産党への悪口ばかりです。
どちらの候補者が市民のくらしや安全を守れるのかはっきりしたのではないでしょうか。」

争点に具体的に切り込む切れ味が鋭い反面、この選挙の全国的な、あるいは歴史的な意義について語るところが乏しい。堺の有権者に向けての選挙演説だからと言えばそれまでのことだが、共産党がこの選挙をかくも重要視しているかの理由を語る点に物足りなさが残る。なにゆえ、独自の候補を擁立せず、革新・リベラル連合でもなく、自民党とまで手を組んでの主敵が「維新」であり、再重要課題が「反維新」なのかを、もっと積極的に語ってもらいたいところ。

もっとも、維新の側にとっては、文字通り党の命運を懸けた背水の陣の選挙。橋下徹は堺に張り付き、平沼赳夫代表、松野頼久幹事長ら執行部が相次いで堺入りしている。それでも、あらゆる調査が維新の劣勢を報告している。自主投票公明支持層の6?7割が竹山支持となってもいる。とすれば、維新逆転の頼みの綱は、「反共攻撃」の一本槍である。しかし、反共攻撃は諸刃の剣、却って墓穴を掘ることになるかも知れない。維新が、政策論争のできる理性的な政党ではなく、感情に訴えるしか能のない反共政党としての本質を露わにすることになるからだ。

堺市長選での維新の敗北は、大阪都構想の破綻を意味する。おそらく、橋下は党の代表を降りることになるのだろう。そうなれば日本維新の会は存続しえない。野党右派の再編や糾合、新党構想にも打撃が生じる。安倍自民は、改憲策動のパートナーを失うことになる。このようなプラスのスパイラルが動き出す…かも知れない。

ところで、堺のような政党間共闘もあり得ることに注目したい。各政党が連携しつつ、独自に無所属候補の選挙運動をするというものだ。現実に、自・民・共・社の4党が連携している。謂わば「政党版勝手連方式」である。これに無党派市民も独自に応援する。

昨年の東京都知事選挙のように、市民団体が主導して、政党に「この指とまれ」と呼び掛ける、その方式だけが現実的な共闘の在り方ではない。堺市長選の共闘の在り方とその運営の実態について、選挙結果が出てからじっくりと学びたい。
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 「想像を絶する地下水?その2」 (9月19日付けブログの続き)
9月19日のブログに詳しく書いたとおり、福島第1原発は3・11の事故前、地下水の浮力を防ぐため、毎日850トンの地下水を汲み上げていたとのこと(元電力中央研究所主任研究員本島勲さんによる)。もともと福島原発の敷地は地下水のわきやすい場所で、造成自体が難工事であった。事故後の地下水と混ざり合った汚染水のコントロールはさらに想像を絶する難問で、安倍首相が言うように「ブロックされている」とか「コントロールされている」となどは到底いえない危機的状態にある。

本日(9月23日)のしんぶん赤旗には、元日本地下水学会会長藤縄克之さん(信州大学教授)の話が載っている。汚染水ブロックの困難さについて本島勲さんの意見を補強するものだが、専門家の説得力ある内容だけに、読後途方に暮れるような気分にならざるを得ない。それでも現実から目を背けることはできない。以下に藤縄克之さんの記事を要約する。

「地下水は陸側から海側に流れるという単純なものではない。海岸部の地下では、真水地下水と海水地下水とが交流している。重い海水が軽い真水の下を海側から陸側に向かってもぐりこむのが基本。海岸付近での真水地下水と塩水地下水の交流は半世紀以上前から研究され、大学では地下水学の初歩として教えられている。

このような場所(まさに原発事故現場)で真水地下水を抜くと必ず海水地下水が流入してくるので、水のコントロールは非常に難しい。もし、原発敷地の山側で真水地下水を汲み上げると、海側から海水地下水が原発敷地に逆流することになる。原発の事故現場では、海側に遮水壁が作られているというが、その壁の基部が透水性の低い泥岩層まできちんと入っていないと、その下の隙間や脇から海水が逆流して入り込んでくることになる。

だから、大きなプロジェクトでは必ず地下水についての予備調査が必須である。適切な場所に井戸を掘り、事前に、流路、流速、水位をきちんと調査しなければならない(原発建設時に、地下水学の水準を踏まえた適切な調査は行われたのであろうか。そうした資料は残っているのだろうか。今の泥縄の事故対策を見ていると甚だ疑問ではないか)。

原発の事故対策としては、加えて、放射性物質の水質成分調査、海水と真水の塩分濃度調査、メルトダウンした燃料の影響を知るために地下水の温度分布調査が必要となる。海水と真水の交流状態・放射性物質の移動・熱の移動、これら三位一体の調査をし、実効性のある対策を考える作業は、学会で人材を集めてやっても5年はかかる挑戦となる」

藤縄さんは凍土壁でブロックする計画については、確実性が低いとみている。その理由は凍土壁には、海側から平均18℃の海水が迫り、山側から平均13?14℃の地下水が流れ、内側ではメルトダウンした燃料と使用済み燃料の崩壊熱がかかる。それらの熱を除去して、マイナス40℃を保ち続けるのに、どのくらいの電力が必要で、それをどこから調達するのか。どのくらいの年月続けなければならないのか。ランニングコストはどのくらいかかるのか。確実なことは何も分かっていないからだ。

以上が藤縄さんの見通しである。真面目に考えれば考えるほど、絶望的な気分になる。安全神話に乗っかって、安易に原発の建設をしたツケがこの始末である。再稼働や原発輸出など絶対してはいけない。誰にも責任などとれることではない。この事態は、責任をとるつもりもない人間が寄ってたかって招いた、「我がなき後の洪水」なのだ。
(2013年9月23日)

葛西臨海公園の自然環境をオリンピックから守れ

本日は3連休の中日。天気は晴朗。家に籠もっているのは芸がない。ところが、どこに出掛けるかの算段が容易ではない。人混みは苦手だ。金のかかるところも敬遠。わざわざ外に出て、不愉快な思いをしたくない。で、思いついたのが、葛西臨海公園。オリンピックがらみで、もしかしたら何かあるのではないか…。

京葉線「葛西臨海公園駅」に初めて降りて園内を散策した。人混みに辟易しながら水族館を見学したあと、鳥類園に足を運んだ。こちらはまことに閑静。復元された自然ではあるが、そのたたずまいが好ましい。広い園内をうろうろしているうちにウォッチングセンターにたどりついて、まったく偶然に、しかもまことにタイミング良く、野鳥の会の人々の会合に出くわした。

毎月第4日曜日が定例の探鳥会だそうで、100人規模の探鳥会参加者が共同して本日このエリアで目視した野鳥の種類と個体数を確認しているところだった。相当の時間をかけて、本日の参加者が目にした野鳥は51種類と確認された。その作業が終わったあと、「葛西問題」(オリンピック会場「見直し」問題)についての特別報告がなされた。大要は以下のとおり。

「ご存じのとおり、『野鳥の会・東京』では、葛西臨海公園がカヌー・スラローム競技会場予定地となっていることに、異議を申し立ててきました。『会』としてはオリンピックそのものに反対はしていません。しかし、今や貴重な野鳥の棲息地となった葛西臨海公園を競技会場とすることには納得できません。東京都知事と招致委員会には、『環境保全と両立する東京オリンピックを』と要請し続けてきました。この3月、IOC委員が東京を視察に来たときにも、『会』は委員にアピールをして手応えがあったと考えています。一番の問題は、環境影響評価(アセスメント)にあります。招致委員会のアセスメントは、いまだに明確にされていませんし、IOCの納得を得るものになってはおらず、葛西のカヌー会場のアセスメントは再提出を求められています。

猪瀬知事は、先日『環境に影響あるプランではない。予定のとおりやる』と発言しています。会員の中にも、『もう、何を言ってもダメだね』と残念に思っている方もあるかも知れません。しかし、そんなに簡単に『予定のとおりにやれる』はずはありません。なによりも、IOCは既提出のアセスメントを了承していないのですから、このままでよいはずはありません。招致委員会とは、9月29日にこの問題で話し合うことになっています。全国5万人の『野鳥の会』の会員だけでなく、団体署名は120を超えています。必要になれば、個人署名をいただこうとも思っています。そして、IOCに直接の訴えもしています。『戦いはこれから』です。皆さん、よろしくお願いします。」

帰宅後に、ネットで調べて次のことを知った。
野鳥の会・東京によれば、オリンピック招致委員会がIOCに立候補ファイルと共に提出された環境影響評価書(葛西臨海公園に関する部分)について「委員会都事務局」は「野鳥の会・東京」の公表要求を拒み続けており、「会」は2013年9月8日付の要望書で次のとおり述べている。

「開催地が東京に決まった今こそ都事務局は提出済みの環境影響評価書を公表すべきであり、計画の中身を知らない地元住民や多くの都民に知らせる義務があると考えます。また、IOCが2013年6月に示した各立候補都市に関する評価書においてadditional commentsとして指摘したように、葛西臨海公園及びその周辺に関するより精密な環境影響評価を実施する必要があると考えます」「代替候補地の選定とそれに関する環境影響評価の実施を強く求めます。葛西臨海公園の見過ごすことのできない環境破壊を避ける抜本的な方法として、代替候補地数カ所の選定及び代替候補地に関する環境影響評価を速やかに実施し、新たな計画地の検討に着手することが何よりも重要であると私たちは考えます」

こんなところでも、「情報隠し」だ。隠すのは、多くの人の目を恐れているからにほかならない。規模の大小にかかわらず、権力にとって情報操作は不可欠の保身手段なのだ。

いま、「オリンピック・レガシー」という言葉が大はやりである。だが、負の遺産についての言及が少ない。環境を破壊し生態系を壊して、オリンピックを開催する意義はありえない。葛西臨海公園の鳥類園に足を踏み入れれば、関係者がいかにデリケートに、環境と生態系の保護に気を配っているかを実感することができる。ここには、オリンピックの喧噪は似合わない。野鳥を驚かす建築工事は無用に願いたい。まだ、7年も先のことではないか。十分なアセスメントを実行して、比較的環境への影響が小さくなる場所に変更したらよいだろう。そう、誰もが考えることを都知事や招致委員会はなぜ、見直そうとしないのだろう。

野鳥の会はオリンピック開催には反対しないという。私は反対だ。反対だが、IOCは2020年東京開催を決定した。決定したからには開催されることにはなろうが、できるだけ、デメリットの少ないものにしていただきたい。この点で野鳥の会に同調する。デメリット最小化の一つとして、カヌー競技を葛西臨海公園地域で行うことはやめていただきたい。本日、初めて現地を訪問して、そう確信した。

ではカヌー会場は、どこがよいだろうか。野鳥の会東京には、都内何か所かの腹案があるようだが、私は、東京を離れて福島を提案したい。福島市内ではない、福島第1原発の汚染水が洩れているとされるあの海域での開催。「汚染水による影響は福島第一原発の港湾内の0・3平方キロメートル範囲内で完全にブロックされている」のだから、その「0・3平方キロメートルの範囲」を外した、すぐ側の海域を競技場とすること。汚染水が完全にブロックされコントロールされており、それゆえ福島がいかに安全であるかを世界にアピールする絶好のチャンスではないか。政府の事故処理の自信と、「首相は嘘つきではない」ことのアピールとして、このくらい効果的な名案はなかろうと思う。

多数の観客には、原発事故処理の現場を案内するオプショナルツアーにも参加してもらう。現場作業の実体験イベントや、安倍首相の無責任発言糾弾決議を上げた浪江町町民との交流イベントも組み入れるなど工夫をしたい。せっかく、世界が日本の事故後の処理状況の真実を知ってもらえる最上のチャンスになると思うのだが。

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  「ペンギンは人に慣れる」らしい
ペンギンはおかしな生き物だ。鳥か魚か、哲学的な課題を提供する。
「鳥は飛ぶもの」とすれば、飛ぶことができないから鳥ではない。「魚は水の中に棲むもの」とすれば、陸に上がってよちよち歩けるから魚でもない。
水中では確かに飛んでいる。「だから魚である」ともいえるし、だから「鳥であるともいえる。そもそも、定義とは何か、鳥と魚との分類にいかなる意味があるのか。考え込まざるを得ない。

鱗はなくて、羽毛をもつ。鰓呼吸ではなく肺呼吸をする。固い殻の卵を産む。これらのことからは、鳥らしいとしぶしぶ納得するけど、また、お目にかかった時には、きっと考え込むことになる。

葛西臨海水族園に135羽ののフンボルトペンギンがいる。その中の1羽は、昨年、脱走して、82日間東京湾一周旅行で世間を騒がせたペンギンだ。認識番号3373なので、「さざなみ」と名付けられた。カラーリングの識別標がついてはいるが、到底見分けはつかない。

ペンギンたちの遊ぶ様子は上からも見ることができるが、ガラス越しに横からも見える。たくさんの子どもたちがガラスに取り付いている。差し出した手にペンギンが寄ってきて、じゃれるからだ。頭をこすりつけたり、身体をくねらせたり、流し目をくれたり、大サービスだ。大人もびっくりして目を離せない。ペンギンがこんなに人なつっこいなんて知らなかった。まるで猫のようだ。ずいぶん利口そうだし、これなら狭い世界には住み飽きるだろうし、脱走もするだろうと納得。

葛西臨海水族園は家族連れでいっぱいだ。入園料は700円(小学生以下無料、65歳以上350円)で、民間の水族館に較べればとても安い。そのうえ年間パスポート2800円で1年間入場自由だ。駐輪場には子どもイスがついた自転車がいっぱい駐めてある。まわりは広い公園で、江戸川と東京湾散策もできる。家族で楽しんでいるうちに、子どもは「お魚博士」になれる。そのうえ「鳥博士」にもなれる。

広々としたフィールドと屋内外の観察施設を備えた鳥類園では鳥ウオッチングが楽しめる。水辺には、今の季節でも50種類以上の鳥がいる。白く大きくて目立つサギ類、カモ類、シギ類、小さなカイツブリなど、鳥を知らない人でも充分楽しめる。これから冬鳥もふえて、鳥観察の絶好の季節になる。

この鳥類ウオッチングゾーンの環境は、関係者が大切に守り育てて、手塩に掛けて作りあげてきたことがよく解る。一度でもこの場に来て鳥たちを見た人は、この静かで美しい環境を壊してはならないと肌で感じるはず。「野鳥の会」ならずとも、絶対に守っていきたい「東京の宝」だ。

今の季節、花壇には白と黄色と真っ赤なヒガンバナの群落。石垣の間には、ひっそりと咲くいかにも自然感覚のヒガンバナ。まだまだ蕾もあって楽しめる。

以上、いいとこだらけの葛西臨海公園の宣伝でした。
(2013年9月22日)

「特定秘密保護法 その危険性」についての街頭の訴え

マリオン前をご通行中の皆様、しばらく耳をお貸しください。私は、人権擁護に携わる弁護士として、これから安倍内閣が国会に上程しようとしている法律の危険性について訴えます。その法律の名前は、特定秘密保護法案と言います。

私たちは、政府や行政がいったい何をしているのか、何をしようとしているのか。よく知りたいし、知らねばならないと考えます。

たとえば、原発について。
どうして原発がつくられのか。原発の技術と核兵器開発との関係はどう考えられてきたのか。誰がどのように安全神話を拵え、火力発電や水力発電よりも安価だという計算をしたのか。どうして事故が起こり、今どうなっているのか。汚染水は、本当にコントロールされ、ブロックされているのか。

たとえばTPPについて。
その交渉はいったいどうなっているのか。政府がどんなところを着地点と考えているのか。その結果、消費者や、生産者や、労働者に、どのような影響があるのか。

たとえばオスプレイについて。
どうして安全といえるのか。沖縄での訓練の計画はどうなっているのか。本土ではどこを訓練基地にして、いつどんなルートで飛行するのか。その騒音はどの程度ものとされているのか。

また、たとえば、東京から50キロの距離にある横須賀の原子炉について。
原子力空母ジョージ・ワシントンに積んである60万キロワットの原子炉2基の安全性はいったい誰がどのようにして確認しているのか。あの空母に核兵器は登載されていないのか。大地震大津波で、核は東京湾を汚染することにならないのか。

私たちは、主権者として、自分たちの国の方針に責任をもたなければなりません。そのためには、これらの大事なことを知らねばなりません。そうでなくては政治に参加することができません。国の政策にイエスかノーかの判断をすることもできません。国民には主権者として、国政の基礎となる情報について知る権利があります。行政の透明性と情報公開こそが大原則。政府を秘密の壁で守ることは、国民の知る権利を侵害し、民主々義をないがしろにすることです。

戦前は、国民の「知る権利」などありませんでした。政府や軍部は、国民に対して、知らせたいことだけを知らせ、知られたくないことは、機密・秘密としました。その秘密は、国防保安法、軍機保護法、陸軍刑法・海軍刑法などでバッチリ守られていました。その漏洩は最高刑として死刑の威嚇をもって禁圧されたのです。

ですから、戦時中は天気予報はありませんでした。気象情報は敵国に洩れてはならない軍事秘密だったからです。台風情報も台風による被害も秘密でした。地震が起きて大きな被害が起きたことも秘密でした。もちろん空襲の被害も秘密、太平洋の各地で戦況が不利なことも重大な秘密でした。国民には、大本営発表の嘘の情報しか与えられず、国民生活よりも政府の都合が優先されました。

もし、正確な戦況について、あるいは空襲被害の正確な情報が、国民に知らされていたら、無謀な戦争はもっと早く終わることができたでしょう。東京大空襲の10万の死者も、沖縄・広島・長崎の悲劇も救えたはずです。

しかし、政府は国民に真実を知らせたら、戦争を続けることができなくなると考えました。国民には政府が必要と考える情報だけを知らせればよい、それ以上に国民に真実を知らせることは有害だ。政府にとって不都合なことを国民に知らせることは犯罪として許さない。これが、秘密保護制度の基本の思想です。国民を操作するのに、こんなに便利な道具はない。国民の側から見ればこんなに危険なものはありません。

今また、「夢よもう一度」と、戦前と同じような秘密保護の法律が作られようとしています。それが、安倍内閣が10月の臨時国会に上程する予定の特定秘密保護法案。これが成立するようなことになればどうなるでしょうか。

思い出してください。1972年の沖縄返還の際には、表向きは核抜き本土並み、非核3原則が沖縄にも適用されるはずでした。しかしこれには、日米の間に核つき返還の密約があったのです。これは、最高の外交秘密であり、軍事秘密でもありました。

その密約の存在は、当時から噂されていました。気骨あるジャーナリストであれば、関係者に取材を試みるでしょう。有能で誠実なジャーナリストであれば、口を割らない当局者に、何度も執拗に、真実を語るよう要請し説得することでしょう。特定秘密保護法では、これが秘密保持者の特定秘密漏示を唆したという、教唆罪になります。普通は、教唆は唆された本犯の罪が成立しなければ教唆は未遂となって処罰されません。ところが、この恐ろしい法律は、たとえ秘密の取材が不成功に終わっても、教唆の未遂罪が罰せられるのです。最高刑は懲役10年。政府にとってはなんと都合のよい、国民と民主々義にとっては、なんと恐るべき法律ではありませんか。

そもそも安倍内閣が目指しているものは憲法改正です。改正の眼目は9条にあります。安倍晋三という人は、そして安倍を支える今の自民党内閣は、戦争を絶対に禁止した憲法9条の平和主義が大嫌いなのです。その改正をしたいけれども、憲法改正は難しい。それなら、憲法改正せずに、解釈を変更したり、憲法9条を空洞化してしまうような法律を作ってしまえ。幸いに、選挙では大勝して数の力で押し切ることができそうだ。これが、安倍内閣の考え方。そのような、9条無力化の法律の第1弾が、この秘密保護法なのです。

この法律で秘密として保護の対象になるのは、「我が国の安全保障に関する事項のうち特に秘匿することが必要なもの」です。それを?防衛、?外交、?スパイ活動防止、?テロ活動防止、の4分野について、行政機関の長が、「特定秘密」として指定し、その秘密を漏らしたり、不正に入手したものに重罰(最高刑懲役10年)を科すという内容です。

当然その中心は、軍事秘密の保護にあります。憲法9条を空洞化するとは戦争ができる国をつくるということ。同盟国であるアメリカの要請あれば、地球の裏側までも行って、ともに戦うことができる国にしておきたいということです。そのためには、軍事機密の保護が必要です。これはアメリカからの強い要請でもありますが、戦争をするためには軍事機密を保護する法律が必要なのです。

私は、弁護士として、「日の丸・君が代」強制に抵抗する裁判をこの10年続けています。石原慎太郎や猪瀬直樹の教育行政は、戦前の国家主義を思わせるものがありますが、特定秘密保護法が成立すれば、国家主義を通り越して、軍国主義の第一歩へと踏み出すものと考えざるを得ません。

「日の丸・君が代」強制反対の裁判の中で、良心的な教師の皆さんが、口を揃えて言います。「戦前、戦争は学校から始まった」。彼らは、再び子どもを戦場に送るような教育をしてはならないと決意しています。あるいは、「戦争は秘密から始まる」と言うこともできます。国民の知る権利の侵害から、軍国主義や現実の戦争が始まることも十分にあり得るのです。

皆さん、私たちと一緒に、是非この危険な法案の国会上程に反対の声を上げてください。国会上程される様なことがあれば、法案の成立に反対してください。平和な日本を守るために。心から訴えます。
(2013年9月21日)

「毎日」・「憲法9条解釈と集団的自衛権」解説に異議あり

昨日、「毎日」が第9面を全面使って、「憲法9条解釈と集団的自衛権」という解説記事を書いている。「論点整理」とされているが、かなりのボリュームで、詳細な内容となっている。しかし、この記事の姿勢には「異議あり」と言わざるを得ない。戦後史の中で9条の果たした積極的役割に理解がない。集団的自衛権の行使容認が何を狙い、その実現が近隣諸国にどうインパクトを与えるかに言及がない。これまでの政府解釈への理解が浅薄である。なによりも安倍の解釈改憲の姑息な「手口」や、安保法制懇のあり方自体に批判の言が皆無である。けっして「公正」でも「中立」でもない。

もっとも、同じレベルの記事を「産経」や「読売」が書いたところで、目くじら立てるほどのことではない。読み手の、「どうせひどいバイアスがかかっている」という正常な感覚が、記事の内容を較正して、正しく読むことができるからだ。

誰もが右偏向を矯正する眼鏡を掛けてから産経・読売の記事を読む。もちろん、その眼鏡の度の強さは、産経と読売とで異なっていることは当然として…。ところが、「毎日」や「東京」を読むときには、そのような眼鏡はかけない。偏向を矯正する必要がないと思っているのだから。だからこそ、「毎日」や「東京」の記事は丁寧に読みこんで、異議のあるときには声を上げなければならない。

この特集記事。見出しだけを拾ってみよう。
◇憲法9条と戦後日本「国際貢献 自衛隊に限界」「転機は1991年の湾岸戦争」
◇現行解釈何が問題?「『日米同盟に支障』指摘も」
◇安保法制懇と今後の焦点「離島防衛 サイバー対応 課題」
◇曲折重ねた集団的自衛権めぐる政府解釈

記事全体が、以上の見出をつなげた展開と言って大きくは間違っていない。
「戦後日本の歴史において、憲法9条は積極的に国際貢献を果たすべき自衛隊に限界を画すものである。そのような認識は1991年の湾岸戦争を転機として拡がった。さらに、現行の憲法9条解釈が集団的自衛権の行使を認めないために、日米同盟の維持に支障があると指摘もされている。そこで、安保法制懇が憲法9条解釈の見直しを既定方針として発足し、包括的に集団的自衛権の行使を認め、さらに離島防衛やサイバー対応をも課題としている。そもそも、集団的自衛権めぐる政府解釈は一貫したものではなく、これまで紆余曲折を重ねてきたものだ」

品よくまとめれば、以上のようなもの。もう少し明確に分かりやすく、「毎日」記事の言わんとするところを述べれば、次のとおりである。

「戦後日本の歴史において、憲法9条は出しゃばりすぎてきた。自衛隊は、もっと国際貢献を果たすべきなのに、9条がその足を引っ張ってきた。

1991年の湾岸戦争を転機として、9条が国際貢献に支障となることが国民共通の認識になった。その後も、せっかく、テロ対策特別措置法や、イラク特措法ができて、自衛隊活躍の国際舞台をつくったのに、9条の所為で一人前の軍隊として働くことができず、日本は国際的な責任を果たすことができていない。

加えて、憲法9条についての政府解釈が集団的自衛権の行使を認めないことで、日米間の軍事同盟の良好な関係維持に支障があると指摘もされている。中国が先島諸島を占領したことを想定して、その奪還のための軍事行動を日米合同で行うことも大っぴらにはできない。多国間訓練において、複数国共同の軍事行動訓練に参加もできない。

そこで、安倍首相の私的な懇談会である「安保法制懇」が憲法9条解釈の見直しを既定方針として発足した。第1次安保法制懇時代の「4類型」という個別問題にこだわらず、包括的に集団的自衛権の行使を認める方針が既に固まっている。さらに離島防衛やサイバー対応をも課題として検討している。

自民党の石破幹事長が言っているとおり、そもそも、集団的自衛権をめぐる政府解釈は一貫したものではなく、戦後5回も解釈を変更している。政府が現在の解釈を主張し始めるのは、1981年5月の政府答弁からでしかない」

要するに、「憲法9条が、日本の国際貢献と日米軍事同盟維持の足を引っ張っている。だから、9条の解釈を変更する動きが生じている」というもので、「解釈改憲容認」に紙一重だ。安倍政権の性急な解釈改憲策動に「国民の支持も広がっていない」としてはいるが、自らの批判の姿勢は感じられない。

全体の姿勢とは別に、気になるところをいくつか指摘しておきたい。
※まずは、「芦田修正」について、「毎日解説」は、当然のごとく芦田修正を意味あるものとする立ち場をとる。
「憲法9条は第1項で戦争と武力の行使について『国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する』と宣言。続く第2項で『陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない』とうたった。だが、憲法草案の審議段階で政府の憲法改正小委員会の芦田均委員長が、2項の冒頭に『前項の目的を達するため』という文言を挿入する修正を行い(芦田修正)、『自衛のための実力部隊』の創設に道を開くこととなる」

これは、二つの意味において不正確である。憲法改正小委員会の芦田均委員長が自衛のための実力部隊創設のために、「前項の目的を達するため」という文言を挿入する修正を行ったのではない。これは、ずっと後になって公表された委員会議事録で明らかとなっている。むしろ、彼は1946年8月24日の衆院本会議で、「改正憲法最大の特色は、大胆率直に戦争放棄を宣言した」と語っている。「自衛のための戦争を放棄したと」は言っていない。また、自衛戦争の放棄を「大胆率直な戦争放棄の宣言」と言うはずもない。芦田自身が言う「芦田修正」は、「後智恵」に過ぎず、立法者意思ではない。(杉原泰雄編「新版体系憲法事典」328頁・352頁など)

また、戦後の政府見解は、一度として芦田修正の立場に立ったことはない。文理解釈としては芦田修正の論理が可能だとしても、有権解釈としては芦田修正の立場はまったく無力である。これを麗々しく掲げる「毎日記事」には到底納得しがたい。

※「毎日記事」は、不見識にも、自民党幹事長の言を紹介する形で「政府が現在の『集団的自衛権を有しているが、必要最小限度の範囲を超えるので行使できない』との解釈を主張し出すのは81年5月の政府答弁書ごろからだ」としている。趣旨は、「それまでは紆余曲折を重ねた。今後も変更はあり得る」ということに読める。

自衛権をめぐる政府解釈の「変遷」や「紆余曲折」の内容を見なくてはならない。政府見解は最初の自衛権否認論から出発して、自衛権肯定論に「変節」はしている。しかし、自衛戦力合憲論(憲法9条は、自衛のための「戦力」保持を認める」)はとらずに踏みとどまっている。「自衛のための最小限度の実力は『戦力』ではない」という立場では一貫しているのだ。当然に、現在定式化されている集団的自衛権の行使が認められないことでも一貫している。

今のように、「集団的自衛権を有しているが、必要最小限度の範囲を超えるので行使できない」との政府解釈は「81年5月」ではなく、1972年10月14日の政府見解で確認できる。ここでは、「政府は従来から一貫して、わが国は国際法上いわゆる集団的自衛権を有しているとしても、国権の発動としてこれを行使することは、憲法の容認する自衛の措置の限界を超えるものであるとの立場にたっているが、これは次のような考え方に基づくものである」として、格調高く、平和的生存権や憲法13条を引用している(先日、山内敏弘氏を講師にお招きしての学習会で詳細に資料を示していただいた)。

以後40年余、82年からでも30年余り。この点に関しては、政府と内閣法制局の見解がぶれるところはまったく無い。これを政府解釈に一貫性なく、紆余曲折があったが如くに描き出そうとする与党の意図に無批判であってはならない。

問題は微妙であり、極めて重大である。「毎日」の姿勢には影響するところが大きい。是非とも、権力に対する批判の姿勢を堅持して、ジャーリズムの本領を発揮していただきたい。
(2013年9月20日)

大阪府教委もブラック官庁だ

この人の感覚は異常と評するしかない。憲法感覚において、社会感覚において、そして人間という存在の根源的な理解において。秩序感覚と権力志向のみが異様に発達して、他人の心情やプライドへの理解能力、共感能力が皆無である。基本的人権ということがまったく分かっていない。こんな人物が弁護士であることが理解できない。こういう人物に権力という玩具を与えてはならない。周りが迷惑することこの上ない。いや、橋下徹のことではない。その仲間の、中原徹のこと。

民間人校長として大阪府立立和泉高校長となり、2012年3月の卒業式で、教頭らに指示して、教職員が国歌斉唱の際に斉唱しているかを確認する「口元チェック」を指示して世論の非難を浴びた。もちろん、秩序派・橋下徹は「素晴らしいマネジメント」と賞賛したが、当時の大阪府教育委員長までが、「そこまでやらなくてもいいのではないか」とたしなめている。

その中原が、今年の4月大阪府の教育長に就任した。そして、今月4日府立学校の校長宛てに、「入学式や卒業式の君が代斉唱の際に教職員が実際に歌ったかどうか、管理職が目視で確認するよう求める通知」を発したという。「目視で確認」とは、「口元チェック」のことだ。年度末の卒業式に向けて、改めて全府立校に通知を出す方針だと報じられている。

「口元チェック」となると、思想・良心や表現の自由侵害(憲法19条・21条)などという精神的自由権侵害レベルの問題ではないのではないか。こんなやり方で、こんなところまで、人を追い込みプライドを傷つけることは、世上の用語で「人権侵害」というにふさわしい。つまりは、人間の尊厳を根底から損なう公権力の発動として、憲法13条違反レベルの問題として把握すべきこととなろう。

都立高校で、10・23通達が発出された際に、「自分には思想的な『日の丸・君が代』への違和感はない。だから、これまで少数派の教師の一人として、式では起立し斉唱してきた。しかし、職務命令として起立・斉唱を命じられたら立てない。歌えない。自分の信念として教育に強制はなじまず、教師が生徒の前で、強制に屈してはならないと思うからだ」という教師にお目にかかることができた。まさに、尊敬に値する教育者ではないか。

中原教育長の通知文の中に、「公務に対する府民の信頼を維持することが目的」と記載されているという。何たることか。本気で、教育への府民の信頼が「口元チェック」で獲得できると考えているのだろうか。あまりに貧しい発想というほかはない。およそ教育の場で語られる言葉ではない。

教育とは、個性豊かな教師と生徒との人格的接触によって成立するものだ。信念を貫く教師がいなければならない。「権力などは屁のような存在」「誰がなんと言おうと我が信念を貫く」という教師がいてこそ、硬骨な子どもが育つ。学校をロボットがロボットを製造する工場にしてはならない。

「口元チェック」は、パワハラであり、イジメである。チェックをされる教職員だけでなく、チェックをするよう命じられる校長や教頭にとってもだ。多くの良心的な教職員が気持ちを暗くし、心を傷つけ、教場を去ることになるだろう。都教委を「ブラック官庁」と言ってきたが、大阪府教委はさらにひどい。東西両都市が、ブラック度を競い合っている。ブラックユーモアにもならない。

ところで、府立校の校長やら教頭やらに、聞いてみたい。「あなた、口元チェックやりますか」「ほんとに、チェックして報告を上げますか」「こんな馬鹿げたことが校長の役目だと思いますか」「あなたは教育者ですか。教育行政の下僕ですか」「あなたの視線は、子供に向いていますか。それとも人事権者に向いているのですか」

大阪府の有権者にも聞いてみたい。「こんなアホな教育長を抱えて、大阪の恥やおまへんか」「口元チェックの学校に、子どもをやれますか」「大阪人は、そんなに『日の丸・君が代』大好きですか」「個性や自由や硬骨や叛骨は、お嫌いなのですか」「いつまで、橋下や中原のような連中に好き勝手なことをやらせておくつもりですか」

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  『想像を絶する地下水の力』
上野駅(新幹線地下駅)はカウンターウエイト(重し)無しでは浮き上がってしまう。東京駅も浮き上がらないように駅舎下の地層に固定する「永久グラウンド・アンカー方式」で建設されている。91年10月には武蔵野線の新小平駅で地下部のプラットホームが浮き上がり、レールが隆起した。まれに見る降雨つづきで、地下水位が上昇したせいである。ことほどさように、地下水恐るべし。

その地下水が福島原発で手に負えない暴れ方をしている。ここでの地下水の流れは、事故以前から恐るべきものだった。それが、放射能汚染で、手の付けられないものになっている。「完全にコントロールされている」「ブロックされている」は、嘘も甚だしい。

福島第一原発の敷地は、元々海に面した海抜約30メートルの崖地であった。高波、津波、冷却水の取水、海からの資材搬入など考慮して、土地を削って海抜10メートルの平坦地を造成した。これをグランドレベルとして、圧力容器、格納容器を据え付けるために、建屋部分は14メートル掘り下げた。だから原子炉建屋の底面は海面より4メートル低い位置となった。

この敷地造成の工事において、海抜30メートルから27メートルまで掘り下げることには問題がなかったが、さてそこから10メートルレベルまで掘り下げるのは難工事だったという。常に地下水が湧出し、地盤がぬかるんで、地下水を汲み上げて排水路を作らなければならなかったからだ。10メートルレベルから、さらに14メートル掘り下げるときはもっとたいへんだったはず。

元電力中央研究所主任研究員本島勲さんによると「もともと福島第一原発1?4号機付近では、建屋に働く浮力を防止するために事故前から1日に850トンもの地下水をサブドレーンと呼ばれる井戸から汲み上げていました。」ということだ。事故後のことではない。事故前から地下水を汲み上げ続けなければならなかった。その量、毎日850トン。こうしなければ、上野駅同様、原子炉全体が浮き上がってしまうというのだ。

そして、恐るべき話しは続く。「サブドレーンは、津波やその後の建屋の爆発などで機能しなくなりました。その大量の地下水の一部が、(破損した)原子炉建屋などの地下階に流入し、溶融燃料を冷却した水と混ざり、汚染水を増大させています。」

事故前毎日850トン汲み上げていた地下水が、事故後は「コントロール不能」の状態となっている。地下水の相当部分がメルトダウンした燃料棒などに接触して、放射線汚染水となっているのだ。圧力容器、格納容器、建屋の底面がどうなっているのかは想像もつかないが、そんなたくさんの地下水が流れ込んでいるのなら、汲んでも汲んでも汲みきれない放射能まみれの水浸しになっているのだと考えても間違いではなかろう。東京電力の関係者が絶望的になるのはよく解る。しかし、この事態が起きることを、予測できなかったはずはない。みんなで口をつぐんでいたのか。「すべて制御できている」という安倍首相には誰もこの事態を説明しないのか。説明しても聞く耳持たないのか。

事故直後の11年4月2日には高濃度汚染水が海に流出していることが判明した。産業技術総合研究所(旧通産省工業技術院)の11年4月6日付の報告書「福島県の地下水環境」によると、福島原発施設の下の地層は、上から、砂・泥の混じった水を通しやすい表層(5メートル)、水を通しにくい泥質岩層(20メートル)、主要な帯水層である砂質岩層(200メートル)からなり、海に向かって傾斜している。汚染物質が表層に浸透すると地下水流として1日1センチメートルの速さで海に流れていくとしている。とすれば、汚染水が地下水として、この計算通り流れているとすれば、現在は原子炉建屋から10メートルほどのところを海に向かって進んでいるはずである。

報告書は、「水を通しにくい泥質岩層を透過して深部まで広がることは考えにくい」としている。しかし、岩盤内の地下水の動きはつかみにくいし、14メートル掘り下げて地層を傷つけているのだから、20メートルの泥質岩層を突き抜けて流れることは十分にあり得る。そうすれば、その汚染地下水は港湾の外、外海に湧出することになる。外洋への汚染水流出の危険性はけっして無視し得ることではない。

結局、海に至る汚染水は、3種類あることになる。
(1)地下水にならず地表を流れて海に注ぐ汚染水。
(2)表層に浸透して近くの海に流れて行きつつある汚染水。
(3) 深くしみこんで遠くの外海にいつか湧出する汚染水。

湾外に流れ出る汚染水にはシルトフェンスなど役に立たない。しみ込んだ汚染水を戻すすべなどない。とにかく一刻も早く、元を絶たなければならない。

本島勲さんは「地下水対策の基本は、『出口』ではなく『入り口』です」「より上流側で地下水の流入を防ぐ対策が必要です」「これまでの対症療法的対応ではなく、予防的対策に切り替えなければなりません」と言う。そして、科学的、技術的英知を結集し、研究所や大学などを動員した技術集団を結成することを求めている。それも急いで。

なお、本日の「ウイーンー共同」によれば、18日気象庁気象研究所の主任研究官は、IAEAの科学フォーラムで、「原発北側の放水口から、セシウム137とストロンチウム90が、毎日計600億ベクレル外洋に放出されている」と報告したという。もっとも、この線量でも「沖合では薄められ、漁業に影響しない」とのこと。本当だろうか。
(2013年9月19日)

「ぐるみ・金権」選挙の徹底取り締まりを

各紙の報道によれば、医療法人「徳洲会」グループをめぐる選挙違反疑惑で、東京地検特捜部は本日(17日)、公職選挙法違反(運動員買収)の疑いで東京都千代田区の徳洲会東京本部などに家宅捜索に入るなど強制捜査に着手した。

事案は、昨年12月総選挙で3度目の当選を果たした徳田毅・自民党衆院議員(鹿児島2区)の選挙を巡り、徳洲会グループが系列病院の職員を選挙区に送り込んで選挙運動をさせ、見返りに報酬を支払った疑い。選挙に動員された職員は100人以上の規模とされるが、「選挙期間中に派遣された職員は延べ数千人」との関係者証言を伝える報道もある。

全国各地から動員された病院職員は、衆院が解散した昨年11月16日の直後から投開票日前日の12月15日まで、鹿児島2区(鹿児島市など)に入り、戸別訪問や電話によって徳田候補への投票を訴えた。この選挙運動で職場を離れていた職員に、給料が支払われていたという。

いうまでもなく、選挙運動は金をもらってやるものではない。当たり前のことだが、勤務先から給料をもらいながらの選挙運動もあり得ない。公選法は、選挙運動に対する報酬の支払いを禁じている。支払った方も、支払いを受けた方も選挙違反として犯罪にあたる。だから、徳州会から派遣された各職員は、所属する病院に1週間?1か月程度の欠勤や有給休暇を届け出た上で選挙運動を行っていた。もちろん、純粋に無給のボランティア活動であれば犯罪とはならない。「有給休暇中のボランティア」とするのが、カムフラージュの常套手段だ。実際のところは、欠勤・休暇は形だけで、欠勤で減額された給与分は、同月の賞与に上乗せして補填され、実質的な選挙運動の報酬が支払われていたという。鹿児島までの交通費やホテルの宿泊費なども、同会側が負担したとのこと。

選挙運動の自由は最大限保障されなければならない。一方、選挙の公正が金の力でゆがめられてはならない。金がものを言うこの世の中で、買収・供応等の金権選挙・企業ぐるみ選挙を許してはならない。経済的な格差を投票結果に反映させてはならず、取り締るべきは当然のこと。

金にものを言わせる公選法上の買収には、「投票買収」と「運動(員)買収」との2種類がある。「投票買収」は金で票を買うという古典的な形態だが、いまどきそんな事案はほとんどない。摘発されているのは、もっぱら「運動買収」である。これは、人に金を渡して選挙運動をさせるということ。選挙運動員に金を渡せば、あるいは選挙運動に従事している労働者に職務提供のない期間の給料を支払えば、運動買収になって刑事罰を科せられる。

最高裁は今年1月、民主党の落選候補者に対して、自分が経営する会社の社員に選挙運動の報酬を支払う約束をした(約束だけで支払いはしていない)として公選法違反を認め、懲役2年執行猶予4年とする有罪判決を確定させている。

当不当の議論は別として、車上運動員(ウグイス嬢)・手話通訳者と、ポスター貼り・封筒の宛名書きなど純粋に単純労務を提供する者には、所定の日当を支払っても良いことになっている。この人たちの氏名と日当額とは事前に選管に届出ることになる。もし、この人たちが、単純労務の範囲を超えて、少しの時間でも実質的な選挙運動に携わっていれば、運動買収(日当買収ともいう)が成立して、日当を渡した選挙運動の総括主宰者も、日当をもらった選挙運動員も、ともに刑事罰の対象となる。

報道されている限りで、「徳州会」側の行為は、公選法221条1項1号の「当選を得しめる目的をもつて選挙運動者に対し金銭の供与をした」に当たり、買収罪として最高刑は懲役3年の犯罪となる。選挙運動の総括主宰者または出納責任者の実質がある者が行った場合は公選法221条1項1号(運動買収)・3項(加重要件)に該当して、最高刑は懲役4年の犯罪に当たる。多数回の行為があったとされれば、さらに加重されて5年となる(222条1項)。仮に、候補者自身が関与していれば同罪である。また、「徳州会」から派遣された病院職員らは、同条1項4号の「第1号の金銭の供与を受けた」にあたり、被買収罪として同じく最高刑は懲役3年となる。

派遣職員の人数が大きい、病院経営者の社会的責任が大きい、などが強調されているが、被派遣者がたった1人でも、勤務先が病院でなくても、犯罪は成立する。なお、「法律を知らなかった」は言い訳にならない。アルバイト募集に応募したところが選挙運動をさせられ、結局有罪になったという気の毒な実例もある。徳州会側のみならず、派遣された職員の有罪も動かしがたい。その意味では、徳州会や徳田議員の罪は大きいと言わねばならない。とはいえ、派遣された地方病院の事務責任者は「派遣の指示を拒んだりすれば徳田家に対する反逆と見なされる。従わざるを得なかった」と証言しており、強制的な動員だった疑いが強い。このような事情を勘案すれば、派遣された職員の起訴は事実上見送れることになるだろう。

もし、徳田候補の選挙陣営が徳州会側に選挙を手伝う社員を出すよう依頼をしたのであれば、依頼した側の人物に刑事責任が生じる。221条1項6号の「前各号に掲げる行為に関し周旋又は勧誘をしたとき」に当たるか、あるいは依頼行為が教唆罪(刑法61条1項)に当たるからである。徳田議員自身が「周旋又は勧誘をした」とされる場合には、候補者であるが故の加重要件に該当して最高刑は懲役4年となり、有罪の確定と同時に公民権の停止も行われて議員資格を失う。選挙運動の総括主宰者あるいは出納責任者が有罪になった場合にも、連座制の適用によって徳田議員の資格が剥奪される。

私はかつて、このブログで、東京3区石原宏高議員の運動買収が検挙されないことに関して、次のように嘆いた。
「投票日を同じくした都知事選の宇都宮陣営では、ビラ配布をしていた70歳が公団住宅の廊下で住居侵入として逮捕され、勾留請求却下まで3泊4日を留置所で過ごした。革新陣営に対する選挙運動の自由にはかくも厳しく、保守陣営の金権選挙にはかくも甘いのが、警察・検察の実態なのであろうか。」

今回の徳州会選挙違反摘発は当選した与党議員に対するものとして、よくやったと思う。是非とも、石原宏高選挙違反にも、厳重な取り締りを期待したい。

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  『サンマ苦いか塩っぱいか』
友人が岩手県大船渡からサンマを送ってくれた。くちばしの黄色いトレトレの脂ののりきった立派なサンマだ。今年は収穫が少ないそうで、貴重品である。

おいしくいただいてしまった後で、サンマ発送用のトロ箱の上に貼ってあった「安全確認済」と印刷されたレッテルに気がついた。そういえば、昨年は放射能汚染を気遣って海産物はお休みしていたことを思い出した。サンマは回遊魚なので、心配ないと聞いていたけれど、あんまり仰々しいラベルなので、かえって興味を引かれて、記載の水産会社に電話をしてみた。

すると、やっぱり歓迎はされなかった。あちこち電話を回された末に、「目視と細菌検査と放射能検査で問題はなかったということです」との素っ気ない返事。それ以上知りたければ、連絡先の電話を教えてくれという。しばらくすると、「週一回サンプルアップして、業者に検査委託している。放射能検査項目はヨウ素131、セシウム134、セシウム137、その他のセシウム類の4項目です。そして、その数値は検出できないほど低い数値なので、安全です」という答えが返ってきた。
こちらも勉強不足で、それ以上の質問はできず、「おいしかったのでOK」と安易にその場は納得してしまったが、自分はともかく、子どもに食べさせる場合はそうはいかないと反省した。

今年4月1日から食品に関する放射能の規制値は基準が低くなった。これも自動的にそうなったわけではなく、たくさんの人の運動があって、ようやく改められた。
1キログラム当たり、水が200ベクレルから10ベクレルに、牛乳が200ベクレルから50ベクレルに、野菜・穀類・肉・卵・魚などの食料品が500ベクレルから100ベクレルへと新基準は厳しくなった。ではいったい我々は、3・11以来2年間は何を食べていたのか?

この4月からの新基準は、1年間の摂取量を1ミリシーベルト以下に抑えるというコンセプトで設定されたそうだ。たとえばサンマを1回50グラム、1年間に延べ150回、計7.5キログラム食べるとする。それが基準値最高100ベクレルに汚染されているサンマでも、人体への影響換算係数0.000013を掛けて、0.00975ミリシーベルトにしかならないからご安心をという計算になるようだ。

50g(サンマ)×150(日)=7.5?
100ベクレル×0.000013(人体影響換算係数)=0.0013ミリシーベルト/?
7.5?×0.0013ミリシーベルト/?=0.00975ミリシーベルト

しかし、「人はサンマのみにて生きるに非ず」である。水も牛乳も飲む。野菜もご飯も食べる。レントゲン検査もうける。飛行機にも乗る。自然界からの放射能も避けられない。放射性物質を食べ物として食べれば、体内に放射性物質は蓄積されていく。いくら換算係数(これも納得出来ないといえば納得できない)を掛けても、放射能は自然に浴びているのだといわれても、それならなおさら、余分の放射能などいらないというのが、当たり前の考え方だろう。

今日の朝刊は台風18号の降雨の影響で、福島の原発の汚染水貯蔵タンク周辺の漏洩防止用の堰が決壊し、汚染水が漏れ出てしまったと報道している。汚染水は雨水や海水で薄められるので、垂れ流しても大丈夫といわれても、納得できない。そしてこの頃チラチラ出てきているのが、恐ろしいストロンチウム90だ。今日の漏水にストロンチウム90のベータ線が1リットル当たり37ベクレル含まれていたと書いてある。だいたい、食物検査にストロンチウムやプルトニウムは含まれていない。分析に時間がかかるからというのがその理由。

私は放射能はどんな味がするのか知らない。セシウムはセシウムの、ストロンチウムはストロンチウムの、プルトニウムはプルトニウムの味や臭いがするのだろうか。

あわれ、秋風よ
情あれば教えてよ
放射能は苦いか塩っぱいか

どんどん薄めて、
限りなく薄味にしたって
サンマも鯨もイヤイヤするでしょう

地球も海も
無限ではない
やがてはセシウムの苦みや
ストロンチウムの塩っぱさが
広い海原を満たすのでは
(2013年9月17日)

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